2010年6月22日火曜日

再生産するドグマ(固定観念)との終りない闘い

三石博行


近代合理主義から生まれた近代・現代科学技術

▽ デカルトが確立した近代合理主義、その思想によって開花し展開した古典物理学、古典物理学の形成によって近代科学は発展し、その科学の力によって新しい技術が形成され、生産道具から機械制生産様式が生み出され、その生産力の増大が資本主義文明を発展させる。強大な生産様式は工業生産に必要な資源の確保と大量生産物質の市場を求め動き出す。

▽ 資源確保のために資本主義生産様式を確立した国々は、未開の国々を征服し、植民地化していく、19世紀から20世紀前半に掛けて世界は列強(ヨーロッパ、アメリカとロシア)の植民地拡大政策の犠牲となってゆく。近代合理主義精神を土台にして形成された科学技術の力は、植民地確保のための武器となり、またユダヤ人の民族浄化のための道具(毒ガス)となって発展(?)し続けるのであった。

▽ もっとも近代科学の発達した国で民族浄化の毒ガスや核爆弾が開発され、正義のために使用されることになる。中世社会の話として忘れられていた「ユダヤ人が井戸に毒を入れた」という噂に挑発されたユダヤ人狩りと同じような行為が繰りかえされる。その「ユダヤ人狩り」を手伝ったのは、中世社会のケースと同じように一般の市民であった。彼らの民族愛や愛国精神の正義の行為が悲惨な虐殺の歴史を再び文明社会で繰り広げることになるのである。

▽ ユダヤ人虐殺や魔女狩り裁判で繰り広げられた中世末期の悲劇を繰りかえさないために15世紀のヨ
ーロッパでは中世の世界観への批判的検証がなされた。その一つにモンテーニュの人文主義運動があった。そのモンテーニュが展開する「懐疑論」は、中世の感覚主義的世界観を批判するものであった。この懐疑論は、その後、デカルトの方法的懐疑へと発展し、徹底的に感覚主義や素朴実在論の考え方は批判された。デカルトは方法的懐疑を通じ、近代合理主義を形成し、その近代合理主義は近代科学の形成の基礎となり、そこから古典物理学が形成され、科学は社会や経済の発展に寄与し、現代科学技術文明社会の形成の基礎が形成された。


現代科学技術文明の病理的側面

▽ そして、その現代科学技術文明の幕開けに化学工業の発展と化学兵器や物理学の進歩と核兵器が登場するのである。科学技術の発展は人類に豊かさをもたらしたという考え方と同時に一瞬にして人類を人類の力で破滅させる技術を開発したという考え方が生まれる。

▽ 魔女狩りやユダヤ人虐殺の背景にあった非科学的世界観は近代・現代科学の発展によって払拭された。しかし、ヒューマニズムを齎す(もたらす)とモンテーニュも信じたであろう科学的(合理的)な知識が、引き連れてきたのは人類を滅亡させる道具、核爆弾であった。確かに、科学の進歩は豊かな人類社会を実現したのであるが、同時に、核兵器と地球温暖化も作ってしまった。今、この科学技術文明社会の時代に起こった問題を解決するために何を考えるべきなのだろうか。

▽ デカルトは方法的に疑うことを教えてくれた。そのことで、日常生活で生じる色々な出来事、殆ど知覚的経験や感覚によって組み立てられている世界現象の核心に迫る知性の入り口、つまり、問題提起する力が身についたといえる。デカルトの業績は、日常生活で常に常識化している生活空間の構造や経験世界への疑問を方法的に組み立てることで、その世界の様相(ありさま)を本質的に理解しようとする力(知性)の入り口を教えたことである。


人間の全ての偏見(イドラ)の姿を理解するために ベーコンの四つのイドラとは

▽ しかし、デカルトの方法的懐疑だけでは、今日の問題に対応できないだろう。偏見や先入観は、感覚世界から齎される(もたらされる)だけでなく、科学的視点、社会的視点、文化的視点や人間的視点の中にも偏見や先入観は存在している。そこで、それらの偏見の姿を分析したフランシス・ベーコン(Francis Bacon, Baron、1561年-1626年)のイドラについて述べる。

▽ ベーコンは、「知は力なり」ということばで有名である。彼は16世紀から17世紀イギリスのキリスト教神学者、哲学者、法律家であり、「ノヴム・オルガヌム 新機関」(岩波文庫)という有名な書物を残した。この書物の中で、人間の偏見について4つのパターンを示した。その四つの姿をベーコンは4つのイドラ(イドラはアイドル(idol)の語源である)と呼んだ。

▽ 第一のイドラは「種族のイドラ」と呼ばれるもので、デカルトが方法的懐疑によって徹底的に点検した「感覚における錯覚」である。この種族のイドラは、一般に人間共通のものであり、すべての時代、社会、民族にわたって人々が持っている偏見や先入観である。

▽ 第二のイドラは「洞窟のイドラ」と呼ばれるもので、人は全て、その人の所属する家族、集団、共同体、社会、国家という狭い洞窟の中から世界を見ているようなものである。つまり、人は、その人が受けた社会の習慣や教育によって個性や性癖を持っている。知らず知らずのうちに、自分の所属する社会の常識や習慣による偏見や先入観を持つのである。

▽ 第三のイドラは「市場のイドラ」と呼ばれるものであり、「言葉が思考に及ぼす影響から生まれた偏見」である。つまり、口コミで伝わることば(口語)は、話し手の主観を抜きにして存在しないものである。語る人がいるので言葉が生まれる。その語り手がもつ主観的解釈が、伝えたい情報に混じることを防ぐことは出来ない。つまり、口頭で伝わる情報は情報発信者の解釈の混在を防ぐことが出来ない以上、それらの情報発信者のもっている主観的な偏見や先入観が必然的に情報に入り込むのである。

▽ 第四のイドラは「劇場のイドラ」と呼ばれるもので、知的生産を担う人々、現代社会なら知識人、ジャーナリスト、大学や研究機関(シンクタンク)の研究者たちである。これらの人々は、新しい学説、思想、理論を提案し、また評論を行う。社会の知的劇場の役者として、つねにある劇を演じているのである。その演じている劇の中で彼らが述べるセリフを庶民は聴いている。その台詞(せりふ)のシナリオを書く人と演じる人々とそれを聞く人々、聞く人々には彼らの台詞(せりふ)が世界の現実であり、新しい知識であると思われる。そして、ジャーナリズムに踊らされ、ベトナムやイラク爆撃を支援する市民が生まれる。彼らの偏見、場合によっては政治的先入観が市民の事実を見る判断を狂わせるのである。それが、大きな悲劇を生んできた。

▽ ベーコンの4つの先入観や偏見の原因に触れるまでもなく、魔術や占いの支配した中世社会ばかりでなく、科学技術の進歩した現代社会でも、多くの偏見が常に発生する余地がある。その偏見や先入観(思い込み)とどのようにして闘い続けるのかが、我々に問いかけられている問題であることに気付くのである。

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