2010年10月30日土曜日

インターネット公開議論の可能性

三石博行



インターネット上での公開討論会の風景

私は、最近、あるサイトを使って、インターネットで不特定多数の人々と共にある特定の課題について議論する遊びに熱中している。

この遊びで感じることは、

1、参加者が非常にまじめに話をしていること

2、色々な意見があり、テーマに則した話を展開していくことは、話題提供者と参加者の協力によって成立する以外に方法がないこと

3、テーマ提供者の想像もしなかった意見、それが時には峻烈な批判として、またある時は辛口の皮肉として、出される。その意見に多くのことを学び、また気づかされる。

多分、インターネット上での公開討論会には、不特定多数の人々が参加しているだろう。その数は、一回限りの参加者を含めると相当数になるだろう。そして、その中の一部の人々が討論の流れをフォローしている。つまり、公開討論に参加している。そして、さらにその一部の人が、討論に参加している。その数を予測するなら、討論会に足を運んだ観客数の、千分の一にも満たないだろう。

まず、テーマを見て、そのテーマ(題名と問題提起)が面白そうか、興味を感じるかで、会場に足を入れる。そして、テーマの議論に参加している人々、つまり公開討論会の会場で言えば、発言者の意見が面白いかを観ている。さらに、司会者(テーマ提案者)がそれら多くの意見を上手にまとめ、展開しているかを観ている。


討論会運営に関する司会者の課題

この討論の場合、良くも悪くも仮面舞踏会のように皆さんが面白い名前(仮面)を付けているので、自由に(多分勝手に)好きなことを言える。そのため、中には、発現された意見に感情的や攻撃的に、過剰な批判のことばで、個人的なことばつかいまでも批判したり指摘したりすることがよくある。そうした流れを上手に本題に戻す役割を司会者(課題提供者)はしなければならないだろう。

インターネット上で友人とメールを取り交わすことから始まり、公開討論会のような不特定多数の人々と意見交換や議論をすることまで、現代のコミュニケーションのあり方は変化し続けている。


友達とのメールのやり取りは、相手の顔が見えるコミュニケーションで、日常生活の中でのやり取りの延長線上にある。会って伝えたいこと、電話で話したいことをメールで伝え、相手のメールを待っているという行為である。メールは電話よりも安価で、しかも手紙より迅速で簡単に(安価に)情報を伝えることができる。メールの普及によって、電話をしたり手紙を書いたりすることも少なくなり、そして、以前よりも非常に頻繁に連絡を取るようにもなった。


しかし、サイバー上の公開討論会では、相手の顔が見えない。それで自分の意見を話すことになる。相手が誰で、その人が以前の自分の発言にたいしてどのような表情をしながら聴いていたかという情報を持たない状況で、意見を語ることになる。そのため、相手の言っていることをなるべく正確に理解する努力が必要となる。また、相手への意見とまったくかみ合わない状況も生じる。


それらの結果として、上記したように、公開討論会場で感情的な発言が生じる。このことを避けることはできない。その場合に、激しい二人の批判の応酬に対して、司会者は本題に返すための努力をしなければならないだろう。

まったく以前に存在しなかったインターネット上での公開討論会の今後の行方は、これに参加している人々、特に議論提供者(司会者)の運営の仕方が、その参加してゆく作風、モラル、規則を作り出してゆくのだと思う。


サーバー公開討論会の秘める可能性

そして、この努力や行為実験の蓄積が、サイバー上でのコミュニケーション文化の土壌を少しずつ作り出して行くのだろう。それが21世紀のコミュニケーションのあり方、また、それを活用した社会、政治や経済活動の新しいスタイルを作り出す可能性を秘めている。


例えば、大学での講義も、その内容によってインターネット上の公開討論会で具体的な課題を提案することが出来そうだ。時間や場所に限定された講義なある課題をネットワーク上で議論することで、想像や予測を超えた、面白い、そして豊かな内容を講師も学生も手に入れることができるかもしれない。

講義は場所と時間や受講者の条件(例えば大学、学部、時間割り、その科目等々を受講できる履修条件)を満たしてなければならない。しかし、インターネット上での公開討論への参加は、それらの全ての制限条件がない。

しかし、大学での講義とインターネット上での公開討論会の明らかな違いは、前者は講義の受講生であり、受講後に講義課題提供者より講義内容の理解度を評価される。つまり受講者は講義の受講修了(単位習得)を証明するための試験(評価)を受けなければならない。

しかし、この公開討論会に参加する人々は参加したいために参加している。だから、討論内容度を評価されることもなければ、あえて自分の意見を書く必要もない。つまり、書きたければ書けばいいし、書いたことの結果を評価されることもない。その意味で、このサーバー上の公開討論会は、現実の公開討論会に比べて参加しやすいし、発言しやすいことになる。

仮にこの討論会で自分の意見を書いたとしても、参加者はみんな仮面をかぶった仮面討論会のため、本当の名前も職業も住所も知られることはない。その意味で、20歳の、いやもっと若い人が、50歳の参加者と対等に、場合によっては優位に議論を展開することも、さらには厳しき批判することも許される。そうした参加者の絶対的平等性が、サーバー上の仮面討論会のよさとなる。

その意味で、この討論会は私にとっては新鮮な新しい可能性をもたらすコミュニケーションのあり方を示していると思われる。その可能性こそ、そこで確立してゆく、人と人との関係こそ、これからの日本の社会文化のあり方を決定するかもしれない。大衆民主主義文化が確立してゆく手段となるかもしれない。


そうした幻想と期待を膨らましながら、私は、この遊びに嵌(はま)りつつある。それは、面白い遊びをするための、これまた私の理屈ぽい自己弁護かもしれないと思いつつ。





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