2012年4月12日木曜日

二次生活資源欠乏に対する解決行為の三つのパターンとその時代的社会的要因

生活資源の欠乏問題の解決行動としての社会運動(3)

三石博行


市民の社会経済制度の参画度合いによって生じる異なる問題解決のパターン化


豊かさを失いつつある社会での生活者(庶民や市民)がその状況を解決するために取る行動は、それらの生活者の社会的立場によって異なると言える。つまり、生活者の問題解決行為が社会システムの中でどのように位置するかということによって、行動パターンは大きく変化する。ここでは典型的な三つの例を挙げる。

一つ目は個人的行動によって、貧困状態にある生活環境の解決を模索する場合である。二つ目は、集団的行動によって問題解決を模索する行動様式である。そして、最後の三つ目は、市民が経済運営や立法・行政制度に積極的に参加することで、社会経済機能の刷新行う方法である。

この三つの社会経済の貧困状態、生活資源の欠乏問題を解決する方法の違いを決定づけている要素は、国民の社会経済意志決定機能への参画度である。つまり、市民の参加の形態によって歴史的にまた社会的に異なる生活貧困問題の解決パターンが生まれてきたと言えるのではないだろうか。


社会的そして反社会的な個人的防衛行動

一つ目の個人的行動によって解決を見出そうとする場合であるが、このケースに当てはまる人々は、多くの場合、社会的にこの状況を解決する手段を持たない。これらの人々は、個人的に問題を解決しなければならない。まず、生活貧困の犠牲にならないように個人的な努力をする。つまり、今まで以上に働く。残業をし、副業をするだろう。そして一円でも多く収入を得ようとするだろう。この行動は、社会的了解を前提にして成立している個人的防衛行為であると謂える。

しかし、働いて生活の糧を得る機会すら持たない場合は、労働以外の手段によって生き延びるしかない。つまり、周囲の豊かな人々や豊かな生活必需品の置かれている場所から無断で奪い取るだろう。つまり、万引きや盗みを働くことになる。こうした反社会的行動を行っても、豊かな生活を求めるだろう。

終戦直後の闇市に買い出しに出て行った大半の日本人達は、少しでも栄養のある食糧をわが子に食べさせかったのである。反社会的行動をしても、わが子を飢餓や栄養失調から守ることを選んだのである。こうした人々の個人的行動選択が二次生活資源の欠乏に対して選択される直接的行動である。この行動は、社会的了解を前提にしない個人的防衛行為、つまり法律に違反しているが生活を防衛するために取った行為であると謂える。

個人的行動によってとられる生活の貧困に対する解決行為は、社会的規範やモラルを尊守する行動とそれを無視する行動とに分類された。しかし、その二つの行動の原因は共に個人的に生活の貧困から自分や家族を守ろうとする行為であると言える。


一次生活資源欠乏要因となる二次生活資源欠乏が引き起こす暴力的集団的防衛行動

しかし、個人的行動によって社会的要因によって生じている生活貧困化を解決することには限界がある。生活貧困状態を前にして、全ての人々は個人的努力による解決の困難さを経験している。そして、集団によって問題解決することがより有効な方法であることを知っている。何故なら、それが人の社会的存在の姿の自然な在り方であるからだ。つまり、人間が家族や血縁関係によって成立した共同体を形成した太古の時代から形成された社会的存在としての人間性の在り方に、その行動も規定されているのである。

共同体(社会)ではコミュニケーションが成立している。家族、共同体では生産活動、防災、防衛、防犯、育児、教育、等々の全ての生活活動が共同体全体の協力によって行われている。貧困問題を個人や一家族の問題として解決するようなことは基本的に起らない。例えば、不況、飢饉、災害等の原因で生じる生活貧困問題に対して、集落では力を合わせて、そこで生じる問題の解決にあたるのである。

例えば、重い年貢に苦しむ封建社会の農民達は、まず農業生産性を高めるために現共同体の機能によった可能な全ての努力を行うだろう。その解決に体制の側の協力がある程度は得られるだろう。

しかし、こうした生産活動の改善によっても重たい年貢の取り立てに苦しむ農民達は年貢の取り立てを延期や免除を領主に懇願しなければならないだろう。そうした懇願のための手続きが存在する場合にはその方法を用いて懇願行為は行われることになる。例えば庄屋との話合い、庄屋に代弁して取り立ての延期を打診してもらうだろう。また、年貢取り立てを行う人々に農業生産の状態を理解してもらうための活動もなされるだろう。ありとあらゆる方法によって、村落共同体の人々が飢餓に苦しまないように努力するだろう。

しかし、こうした努力が全て水の泡となり、年貢を強制的に取り立てられ、そのことによって村人の生活が崩壊する危機に立つ時、農民達は生死を掛けて決起することになる。この一揆を代表する中世の農民達の集団的暴力行為の起源に関しては、一次生活資源の欠乏状態の解決行動の中で説明した。

言換えると一揆は、庶民が生活資源の欠乏状態を自らの力で解決する機能が社会システムに無いために生じると考えられる。二次生活資源の貧困状態を防ぐための社会運営に参画できない人々が、不条理な年貢取り立てによって、生活資源の欠乏によって生じる社会問題の責任の全てを取らされる状態に対して、その制度自体に異議申し立てを行う行動が謂わば一揆である。

二次生活資源の欠乏状況に対する制度化された異議申し立てによる解決を得られない時に、その制度化された異議申し立ての制度を越えた異議申し立てが試みられる。それが一揆である。一揆とは、制度的に解決を見ない飢餓対策に対して、農民達が社会秩序や制度の外にはみ出して、生き残るための行動を起こすことを意味する。

特に、二次生活資源の欠乏によって直接的に一次生活資源の欠乏状況が生じる中世社会、農業生産によって成立する社会の場合には、生活者の異議申し立て行動が前記した一次生活資源の欠乏に対して自然発生的に生じる暴力的な行動となる可能性は大きいのである。


社会政策の形成と合法的集団の体制的抗議行動

それに対して、資本主義経済や民主主義政治制度で運営される近代国家では、国民主権が憲法によって認められる。市民革命やその後の社会運動の中で獲得した生活者の社会システムの執行機能への参画権によって、前記した暴力的な異議申し立て行為は行われなくなる。

例えば、労働者の生活権が組合法によって守られることによって、利害関係の対立する雇用主に対して、社会制度化された異議申し立て行動を行うことになる。社会は暴力的な労働争議によって社会秩序の崩壊や混乱が生じるよりも、労使の利害関係を前提にして、労働者側の異議申し立て行動を社会制度化し、その制度の中で、問題を解決することがより合理的(経済的)だと理解するのである。

何故なら、労働者のいう労働力の供給部隊を一方的に疲弊させることが結果的に社会全体の生産力評価から考えて不利であることを知っているからである。この考え方によって成立している制度を社会政策と呼んできた。

つまり、社会政策の形成や発展によって、個別労使間の利害対決を社会全体で調整し、紛争の暴力化、つまり非社会化を防ごうとする。異議申し立て行動を反体制的活動に流さないように、それらの活動を資本主義の制度内で調整できる活動にするために、組合法を作り労働運動を資本主義社会の合法的運動とし、組合をその社会の合法的集団とした。そのことによって労働者の抗議行動を体制化することが出来たのである。


市民参加型の社会的制度改革による生活環境の貧困化対策

生産する人と消費する人が分離していた時代から、生産する人が消費する人であると定義され直された時代では、資本家に支配され続ける労働者のイメージが大きく変化したのは、有能な社員が企業運営する企業文化が生み出される20世紀後半の時代からである。特に先進国では、雇用形態は大きく変化し続けてきた。

有能な人々が新しい事業を起業する時代になって、固定的な労使関係図式が完全に破棄されようとしている。誰でも社長になれ、誰でも経営者になれる時代が到来している。社会機能における支配と被支配の関係は社会的に固定された関係でなく、社会機能的に選択された役割関係であると言われようとしている。

例えば、現在の日本社会では、労働者の意見や提案を積極的に取り入れて職場環境の改善のみならず、生産性の向上を行う職場が生まれている。また,労使協議会によって労働条件の改善を行う職場が増えている。このことは、前記した社会政策としての労働運動の体制化という社会戦略より積極的に労働運動体を社会システムに組み込もうとする姿勢が見える。

つまり、知的資源に恵まれ高度に発達した社会、科学技術文明社会では、労使関係の境界線を「専門的知識を持つ人々」と「単純労働を行う人々」に区切ることは不可能に近い。豊富な人的資源が労働市場に溢れた社会では、それらの高度な労働力を集め、その良質な労働を組織し、生産力の向上に活用する能力を持つ人々こそ、経営者としての役割を果たすのである。そのことを端的に証明した人の一人としてスティブ・ジョブズを挙げることができよう。

つまり、二次生活資源の欠乏状態が発生している場合、労働者が生産管理システムに、また市民が社会システムの執行機能に参画することが出来ているなら、参加した労働者も市民も、生産や社会システムの改革活動に積極的に取り組むだろう。この社会システムへの市民参画型の関係構図は、初期の共同体で存在していた共同体構成の参加によって共同体運営が行われている状態に極めて類似していると言えるだろう。

成熟した民主主義社会では、市民は社会システムを運営する代表者、議員を選び、彼らに全ての社会運営権を委託することはない。つまり、市民の積極的な政治参加を制度化しようとしている。そのために、情報公開や事業仕分け、オンブスマンの市民活動が活発に行われている。言い換えると、間接民主主義制度の基本構造として議員(市民の代理人)になれる能力のある人と、議員に政治を代理してもらう一般市民という差別化の制度化を打破しようとしているようだ。間接民主主義では、必然的に政治活動を職業(家業)とした政治家達によって国会が運営される。議員職の世襲化は選挙民の意思決定が政策上の判断でなく、古いコネ社会にある利権主義の残存によって生じている。

民主主義の発達は、市民の社会経済制度運営への参加意欲と責任感を育てる。そして市民は単に選挙によって自分の代理人を選ぶだけでなく、積極的に社会参加する活動を始めるだろう。もし、こうした市民参加の可能な社会で生活環境の貧困化が問題となるなら、市民は積極的にその原因を調べ、それを解決するための政治、経済、技術、文化的対策を検討し、それらの対策を実現するための規則や法規の制定や行政機能の設定や改革等が試みられるのではないだろうか。

そして、市民達が積極的に社会制度の改革刷新に関係することで、社会はより現実的で、柔軟な対応を素早く可能にするのではないだろうか。つまり、民主主義を維持するには経済コストが掛かるという考え方は、現在の意思決定の遅い国会運営において指摘されるだろう。震災対策や原発事故対策の遅れがこの国の経済に大きな悪影響を与えていることを考えると、日本社会で今求められているのは、市民参加型の民主主義制度の確立であると言えるだろう。


引用、参考資料

(1)三石博行 「設計科学としての生活学の構築 -人工物プログラム科学としての生活学の構図に向けて」 金蘭短期大学 研究誌33号 2002年12月 pp21-60
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_02/cMITShir02d.pdf

(2) 三石博行 「生活資源論」 
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_02.html

(3) 三石博行 「人権学 -三つの人権概念の定義-」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/11/blog-post_2567.html

(4)三石博行 「共同体秩序の脱構築・構築集団行動としての社会運動」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/04/blog-post_05.html

(5)三石博行 「共同体秩序形成と破壊的暴力的行動の要因としての一次生活資源の欠乏状態」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/04/blog-post_10.html

(6)三石博行 「生産様式の発展と二次生活資源の欠乏状態」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/04/blog-post_12.htm


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2012年4月16日 誤字修正
(120412b)
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