三石博行
社会的存在としての人間に関する研究にとって、
1、人間の社会的行為を形成している精神構造
2、社会の人間的行為を規制する社会文化的構造
この二つの構造とそれらの関係を解明しなければならない。
2の法律や社会制度は、それを了解する社会構成員の倫理やモラル、つまり1によって成立している。
1の倫理やモラルによる内的な規範のない状態で、2の法律が機能することはない。しかし、だからと言って、法律の規定したものがモラルや倫理の内容にそのままなるわけではない。
2の法律や社会制度は人間社会が継続するために用意された外的世界に準備された道具である。と同時に、その道具を動かす技能が必要となる。それが内的世界に準備される道具としての1のモラルや倫理である。
現代の社会学、構造主義、現象学社会学や構築主義はこのことについて語ってきた。
哲学に於いて生活とはそのすべての思索の根拠である。言い換えると哲学は、生きる行為、生活の場が前提になって成立する一つの思惟の形態であり、哲学は生きるための方法であり、道具であり、戦略であり、理念であると言える。また、哲学の入り口は生活点検作業である。何故なら、日常生活では無神経さや自己欺瞞は自然発生的に生まれるため、日常性と呼ばれる思惟の惰性形態に対して、反省と呼ばれる遡行作業を哲学は提供する。方法的懐疑や現象学的還元も、日常性へ埋没した惰性的自我を点検する方法である。生活の場から哲学を考え、哲学から生活の改善を求める運動を、ここでは生活運動と思想運動の相互関係と呼ぶ。そして、他者と共感しない哲学は意味を持たない。そこで、私の哲学を点検するためにこのブログを書くことにした。 2011年1月5日 三石博行 (MITSUISHI Hiroyuki)
2010年5月20日木曜日
2010年5月18日火曜日
吉田民人研究のために1
三石博行
前期から始まった新しい三つの科目の教材作成に追われながら、吉田民人理論の研究に関して3つの課題を進めている。
1、Van Drom Eddy さんと吉田論文のフランス語訳や英語訳を進めている。フラン誤訳を終えて、吉田民人用語の説明をしなければならない。そのため、1990年以降の「プログラム概念」を形成していこうとする先生の論文の全てを読まなければならない。
2、綿引宣道さんと『情報と自己組織性の理論』を資料にして、吉田理論の研究会を始めようとしている。長岡先端科学技術大学院大学での公開ゼミとして綿引先生が企画されたもので、研究会の進め方を今検討している。
3、槇和男さんと一緒に「プログラム科学論研究会」を開いている。現在、槇博士は統計学の学習とその医学研究への応用に専念。多分、統計学の学習から得られた知識と思索がプログラム科学論研究に大切な役割を果たすことと信じている。
吉田民人論文の研究方法について理解したことは、先生の著書や論文は、物理学理論の説明のように書かれている(槇和男氏のことば)。だから、その勉強をするためには、物理学の学習のように進めなければならない。文章を一つひとつ、まるで数式の物理的意味を理解しなければならない。しかも、その一つひとつの文脈の流れを全体の科学思想の中で体系的に理解しなければならない。
多分、吉田民人の理論は、戦前の三木清、戦後の廣松渉に続く、人間社会学基礎論を確立した日本を代表する科学者であろう。
その理論に立ち向かうためには、こちらも何一つ妥協することを許されないのである。
それを覚悟しなければならない。
1、本文を、一つひとつの文脈をすべてこまなく正確に理解すること。
2、その理解を進めるために、必ず、演習問題として、自分のことばで自分が理解したことを具体的に記入し記録すること。
3、理解したと思ったことを具体的な例を用いて説明すること。
まるで、物理学の学習、演習問題をするよに。
以上3点の作業が必要である。
前期から始まった新しい三つの科目の教材作成に追われながら、吉田民人理論の研究に関して3つの課題を進めている。
1、Van Drom Eddy さんと吉田論文のフランス語訳や英語訳を進めている。フラン誤訳を終えて、吉田民人用語の説明をしなければならない。そのため、1990年以降の「プログラム概念」を形成していこうとする先生の論文の全てを読まなければならない。
2、綿引宣道さんと『情報と自己組織性の理論』を資料にして、吉田理論の研究会を始めようとしている。長岡先端科学技術大学院大学での公開ゼミとして綿引先生が企画されたもので、研究会の進め方を今検討している。
3、槇和男さんと一緒に「プログラム科学論研究会」を開いている。現在、槇博士は統計学の学習とその医学研究への応用に専念。多分、統計学の学習から得られた知識と思索がプログラム科学論研究に大切な役割を果たすことと信じている。
吉田民人論文の研究方法について理解したことは、先生の著書や論文は、物理学理論の説明のように書かれている(槇和男氏のことば)。だから、その勉強をするためには、物理学の学習のように進めなければならない。文章を一つひとつ、まるで数式の物理的意味を理解しなければならない。しかも、その一つひとつの文脈の流れを全体の科学思想の中で体系的に理解しなければならない。
多分、吉田民人の理論は、戦前の三木清、戦後の廣松渉に続く、人間社会学基礎論を確立した日本を代表する科学者であろう。
その理論に立ち向かうためには、こちらも何一つ妥協することを許されないのである。
それを覚悟しなければならない。
1、本文を、一つひとつの文脈をすべてこまなく正確に理解すること。
2、その理解を進めるために、必ず、演習問題として、自分のことばで自分が理解したことを具体的に記入し記録すること。
3、理解したと思ったことを具体的な例を用いて説明すること。
まるで、物理学の学習、演習問題をするよに。
以上3点の作業が必要である。
吉田民人先生を偲ぶ2
三石博行
私の自宅に吉田民人先生が着て下さって、何回か講義をして下さった。
その録音をまた聞きなおす。
懐かしい先生の声がMedia Player から流れてくる。
先生の講義を聴きなおしながら、新鮮な感動を感じる。
何一つ妥協のない論理展開
学生のような真剣な議論
学問への謙虚な姿勢。
そんな研究者の基本的姿勢を死ね直前まで貫かれた
思い出す度に、静かな感動と尊敬の念に襲われる。
私のへの講義に時間を割くよりも、最後の仕事を本にする時間に使えばよかったのに。
先生は、きっと「プログラム科学論」をまとめる時間が欲しかっただろう。
私の自宅に吉田民人先生が着て下さって、何回か講義をして下さった。
その録音をまた聞きなおす。
懐かしい先生の声がMedia Player から流れてくる。
先生の講義を聴きなおしながら、新鮮な感動を感じる。
何一つ妥協のない論理展開
学生のような真剣な議論
学問への謙虚な姿勢。
そんな研究者の基本的姿勢を死ね直前まで貫かれた
思い出す度に、静かな感動と尊敬の念に襲われる。
私のへの講義に時間を割くよりも、最後の仕事を本にする時間に使えばよかったのに。
先生は、きっと「プログラム科学論」をまとめる時間が欲しかっただろう。
2010年5月17日月曜日
今を維持する力を与えよ
三石博行
一
自分の人生は自分のもの。
だから、自分が納得して生きるしかない。
それが、自分らしいという自分の姿をつくる。
自分の姿は、将来のイメージにはない。
自分の姿は、自分の足跡によって作られたものだ。
自分らしいということは、自分の足跡への自分なりの納得にすぎない。
これから未来に、創ろうとしているものでなく、
今までつくられたものとして、自分が存在する。
二
全ての人に、それぞれの自分があるのは、それぞれの足跡があるからだろう。
予め(あらかじめ)用意された自分はない。
自分が昨日何をして、
その前の日に何をして、
そして一ヶ月前に何をしたのかということが自分なのだ。
だから、もっと自分に正直に生きるしかない。
だから、もっと自分の現実を受け止めるしかない。
そこに、納得という自分がつくられた自分に対する理解が生まれる。
三
そして、もし明日があれば、それは今日の自分の姿の現れ。
そして、もし未来があれば、それは今まで過去の生き方の方向。
だから、未来という自分を生み出すものは今という時間しかない。
自分を変える可能性を持つものは、今という時間でしかない。
過去はもう返らない時間のことだ。
過ぎ去った時間は、今の自分を作ってはいるが
明日の自分へとその過去をつなぎとめることは保障できない。
明日の自分へ過去の自分をつなぎとめるものは、唯一今の自分だけなのだ。
四
だから、今しかない。
今しか、自分は存在しない。
問われていることは、
今をどう生きるか、どう今に生きているか、
ということだけである。
明日は、今の自分によってしか創れないのだから。
未来に逃げることはできない。
過去に逃げることもできない。
だから、自分の現実を受け止め
だから、自分らしく生きることだ。
もう、未来に逃げることも過去に逃げることもできない。
だから、今の自分の志向性は昨日の自分から継続されたのか。
だから、今の自分の志向性は明日の自分へと継続されようとしているのか。
それのみが問われるのだ。
一
自分の人生は自分のもの。
だから、自分が納得して生きるしかない。
それが、自分らしいという自分の姿をつくる。
自分の姿は、将来のイメージにはない。
自分の姿は、自分の足跡によって作られたものだ。
自分らしいということは、自分の足跡への自分なりの納得にすぎない。
これから未来に、創ろうとしているものでなく、
今までつくられたものとして、自分が存在する。
二
全ての人に、それぞれの自分があるのは、それぞれの足跡があるからだろう。
予め(あらかじめ)用意された自分はない。
自分が昨日何をして、
その前の日に何をして、
そして一ヶ月前に何をしたのかということが自分なのだ。
だから、もっと自分に正直に生きるしかない。
だから、もっと自分の現実を受け止めるしかない。
そこに、納得という自分がつくられた自分に対する理解が生まれる。
三
そして、もし明日があれば、それは今日の自分の姿の現れ。
そして、もし未来があれば、それは今まで過去の生き方の方向。
だから、未来という自分を生み出すものは今という時間しかない。
自分を変える可能性を持つものは、今という時間でしかない。
過去はもう返らない時間のことだ。
過ぎ去った時間は、今の自分を作ってはいるが
明日の自分へとその過去をつなぎとめることは保障できない。
明日の自分へ過去の自分をつなぎとめるものは、唯一今の自分だけなのだ。
四
だから、今しかない。
今しか、自分は存在しない。
問われていることは、
今をどう生きるか、どう今に生きているか、
ということだけである。
明日は、今の自分によってしか創れないのだから。
未来に逃げることはできない。
過去に逃げることもできない。
だから、自分の現実を受け止め
だから、自分らしく生きることだ。
もう、未来に逃げることも過去に逃げることもできない。
だから、今の自分の志向性は昨日の自分から継続されたのか。
だから、今の自分の志向性は明日の自分へと継続されようとしているのか。
それのみが問われるのだ。
2010年5月13日木曜日
自己を罪びとと思っている義人と自己を義人と思っている罪びと
三石博行
何故、自分の失敗を認めることが大切なのだろうか。何故、失敗をしないために、失敗を否定するのでなく、それを受け止めることが自分に必要なのか。
逆説的に成立する人間性のあり方(真実)
▽ 理性と情欲の二つの異なるベクトルをもつ生命力、一方は快楽を満たそうとし、他方はそれを抑制しようとする力からなる人間性、それらの闘争状態として人間の生命や生活活動が展開される。
▽ その活動は、いずれにしても失敗、絶望、敗北、悪、違反、撹乱、錯乱、狂気等々の否定的精神状態と、成功、希望、勝利、正義、遵守、維持、安定、冷静等々の肯定的精神状態が明確に異なる境界線や境界領域を有しているのでなく、その否定側面と肯定的側面が相互に関連しながら、一方が他方の原因となり、また逆にその結果となるという現実を生み出すのである。
▽ 例えば、人は心の安定を求めながら、不安定さの要因を作る。その逆に不安定さを受入れながら精神を安定させることが出来る。
▽ また、成功を目指しながら失敗の原因を作る。その逆に失敗を受け入れることで成功の道筋を見つけ出すことも出来る。
▽ 勝利に酔いながら敗北の原因を作り、敗北を噛み締めることによって勝利への準備を整えることも出来る。
▽ うまく物事が運ぶとき、もっとも恐れなければならないのはその状況(うまくいっている)に安心する自分である。困難な道が現れたとき、それにひるむことなく進む自分がいるなら、その困難さは貴重な経験となるだろう。しかし順調な時には、その状況から学ぶことは少ない。何故なら、その順調な状況は、改革し改良し状況に立ち向かう機会を得ることがないからである。困難な状況こそ最も素晴らしい人生の教師であると良くいわれるのはそのためである。
▽ このような「人間的なそしてあまりにも人間的な」生命・精神・生活活動の現実を受け止めることが課題となる。そのことは、人間の理性や思惟の有限性を理解すること、人間が神のような完全な存在でもなく、またその逆のまったく自然や宇宙の法則に支配され、それを完全に受け入れる他の生命体のような存在でもないこと。その中間にある存在、つまり、不完全な理性や知性を持つ存在者であることを自覚する以外にない。
▽ 言い換えると、人間は、その生命が有限であり、必ず死という生命活動の終わりを持つ存在である。しかも、宇宙の中では微細な塵に等しい存在である。その人間の悲惨な存在形態(実存)を知ることが、人間に与えられた思惟活動(生命の進化によって異常に発達した脳による生命活動)の中で、最も偉大なことであると理解できるのである。
▽ つまり、人は自らその知性の活動において、自らの存在とそれを創った大自然・宇宙のあり方を理解できるのである。つまり、有限な肉体を持つ生命がその生命を形成した宇宙の存在を理解することが出来るのである。それは、他の生物には不可能な認識活動である。その無限の存在・宇宙と有限の存在・自分の理解が人間の知性の最高の結果といえよう。パスカルはこの了解(理解)を人の偉大である理由として挙げた。
▽ つまり、それは、人が常に、宇宙の無限性と同時にその人間の知性や思惟の有限性を知ることを意味する。そして、それは、また人の理性が不完全なものであることを知ることを意味する。つまり、最高の理性とは、理性の限界を知る理性であるという結論に達するのである。
▽ 前節でのべた結論、「人間は理性的な存在(天使)でもないし、また欲望のみで生きている存在(禽獣)でもない」というパスカルの帰結は、逆説的に成立している人間性の現実に結びつくのである。人が偉大であることの理由は、人が自分の悪(罪)を知ること、自分の敗北を認めること、自分の失敗を知ることであるといえる。
▽ その理解は、前節でのべた「理性の限界を知る理性を確立」や「人間の悲惨さを理解する思惟」の理解こそ、我々が求める道徳や徳の基本であり、逆に人間の偉大さを示すものであるといえる。つまり、その知性と理性の活動が唯一残された不完全な人間の最も高度な理性的活動を意味するのである。
▽ そのことは、これから考える反省活動の限界を知ることが人の反省する最後の姿であるという意味に繋がる。
罪びと
▽ パスカルの「罪びと」の概念は、キリスト教の原罪の概念から来ている。キリスト教では人は生まれながらにして罪びととしての宿命を負っている。
▽ キリスト教における原罪は「神が人間に禁止していた善悪の知識の木の実(りんご)」を食べる禁断を破ったことを意味する。つまり、人が動物でなく神の知識、善悪の知識を持ったこと、裸でいることを恥ずかしいとも思わない動物から、裸(自然の姿)を恥ずかしいと感じる反自然的な感性を持つようになったことを意味する。
「そもそも原罪の概念は『創世記』のアダムとイヴの物語に由来している。『創世記』の1章から3章によれば、アダムとイブは日本語で主なる神と訳されるヤハウェ・エロヒム(エールの複数形)の近くで生きることが出来るという恵まれた状況に置かれ、自然との完璧な調和を保って生きていた。主なる神はアダムにエデンの園に実る全ての木の実を食べることを許したが、中央にある善悪の知識の木の実だけは食べることを禁じた。しかし、蛇は言葉巧みにイヴに近づき、木の実を食べさせることに成功した。アダムもイヴに従って木の実を食べた。二人は突然裸でいることが恥ずかしくなり、イチジクの葉をあわてて身にまとった。主なる神はこれを知って驚き、怒った。こうして蛇は地を這うよう定められ呪われた存在となった。」(Wikipedia)
「罪びと」(悪人)と「義人」(善人)の成立条件
▽ パスカルの「罪びと」は、人間本来の姿としての原罪を背負う人間の姿である。また、パスカルは、その原罪を受入れた人、その原罪への自覚を持つ人を「義人」と呼でいる。この考えはキリスト教の原罪論から来たものである。
▽ パスカルによれば、人間は本来原罪を背負う存在(罪びと)であり、またその原罪への自覚を持つことが出来る存在(義人)にもなり得る。従って、その二つのあり方が人間の存在の仕方であると考えた。そこでパスカルは「人間には二種類だけしかいない」と述べているのである。
▽ しかし、もし、罪びとである自覚をもって義人となることができれば、罪びとはすべてその罪を自覚することで義人になることが出来るだろう。この論理からは、キリスト教の教えにそって生きることで人々は救われそうである。しかし、ここで矛盾が生じる。つまり、キリスト教の教えに従って原罪を認め「自己を罪びとと思っている義人」となる。罪びとから救われた義人は、原罪から決定的に救われたのだろうか。もし、「自己を罪びとと思っている義人」として救われるなら、もはや「罪びと」はいない。その罪びととしての原罪も存在しえない。すると、原罪を自覚しない「義人」が登場する。このことから、この「義人」は原罪を自覚しえない人間、キリスト教の教義を理解していない人間として「義人」は変貌することになる。言換えると、「自分を義人と思っている罪びと」が登場するのである。
▽ 「自己を罪びとと思っている義人」は、永遠に自分を義人と思っていることでは成立しない逆説の論理が成立し続ける。もし、「自分を義人と思っている」なら「義人」は原罪を自覚しない「罪びと」になるのだ。
▽ この論理から成立している「義人」つまり善人は、「罪びと」の自覚を持ち続けることによって成り立っている。この考え方は、前節でのべた逆説的に成立している人間性の姿、つまり、「理性の限界を知る理性の確立」や「人間の悲惨さを理解する思惟」の理解こそが道徳や徳の基本であるという理論に繋がる。
▽ 人は生きている以上、何らかの誤りや失敗をし続けている。そのことは人の基本的な誤りではない。それは仕方のないこと、つまり、人間という不完全な理性をもつ存在者の宿命である。問題は、それに対する自分の理解とそれへの対応である。失敗を認め、それを直そうとする努力が、反省の姿である。反省は次回必ず失敗しないということを意味しない。それは何回も失敗を続けるであろうが、しかし、失敗をしないように前向きに生きる生き方を示している。不完全な自分に諦めずに向き合うことを「反省」していると呼んでいいのではないだろうか。
▽ このパスカルの原罪に関する解釈から、人の狂気や原罪が、人が本来持つ宿命的な姿である。何故なら、人は快楽を追い求める存在者であり、それゆえに理性を働かす存在であるからだ。そうした現実の自分(人間)への自覚を持ち続けることを、道徳や倫理の基本とした。つまり、つねに休むことなく、考え続けなければ、思考し続けなけなければ、倫理的な思惟は成立しないのである。
▽ 人(自分)は、必ず失敗を犯すものである。問題は、その現実を受け止め、理解することが問われている。その理解によって、致命的に失敗から身を滅ばされない可能性が生まれる。それが唯一の失敗への手立てではないか。
「人間には二種類だけしかいない。一は、自己を罪びとと思っている義人。他は自分を義人と思っている罪びと。」パスカル『パンセ』(534)
諦め(あきらめ)という最高の安定したこころの世界
▽ しかし、人は果たして、「その悲惨な宿命、有限の生命、一滴の水によって滅びる生命体である自分の姿」について、休むことなく思考し続けられるのだろうか。人は救われるのだろうか。否(いな)。パスカルの問い掛けは続く。
▽ 人間が日常生活を平穏に過ごすために用意したのが良識であり、倫理であり、道徳であり、徳であった。その徳は、休むことなく人間の本性としての原罪を点検し続けなければ得られないものだろうか。それに対するパスカルの答えは、「人間の徳」は「その人の平常によって測られなければならない」と言うことであった。
▽ 何故なら、「人は天使でもなく禽獣でもない」。人が天使になろうとすることに無理があり、それは不可能な望みである。何故なら、人間の理性は不完全であり、その不完全な理性によって、人間本来の生命力である快楽を求める欲望を抑制しなければならない。つまり、他人の要求には厳しい人も、自分の欲望には鈍感なのが我々の当たり前の姿である。そのため、他人からの親切をありがたいとも思わないが、他人へ施した親切は忘れることはない。人の理性にもその人の主観性が持ち込まれる。科学的思惟はそれを極力排除したのであるが、結果的には人類を滅ぼす技術を作り出した。
▽ 人間の不完全さを変えることは出来ない。それを受入れ、むしろそれを自覚する方法が必要である。過去の歴史を解釈することは現代社会の価値観で過去を勝手に位置づけることであると歴史学者が語るなら、歴史問題は、少しは解決するかもしれない。また、他の社会への理解は常に誤解から始まるのだと理解しているなら、異文化の衝突も少なくなるかもしれないし、自分達の社会の制度を異なる文化を持つ人々に押し付けることはない。つい最近でも、世界の最大の文明国の大統領が、人類社会の最高の到達点としてアメリカ民主主義を考え、それをイラクに押し付けるのである。
▽ 人間には理性と情欲の全く異なるベクトルをもった生命活動が同時に共存し、互いに争いながら、人間性を形作り、人間の営みを形成している。人の徳(善行)は、理想に向かい、目標を得るために努めることによって可能になるのでなく、むしろ、人間に与えられている現実(パスカルの言う悲惨さ)を受け入れて、可能になるのではないだろうか。
▽ その意味で、人(自分)は、必ず失敗を犯すものであり、失敗をまったく犯さないように努力することも不可な試みであることも同時に理解しなければならない。つまり、残された失敗を避けるための対策は、本来、失敗をしないためにあるのではなく、最低限、致命的な失敗から身を滅ぼされないためにあるともいえる。そうだとしても、致命的な失敗で身を滅ぼすかもしれない。その現実を受け入れる以外に手立てがないのである。そのことを理解する以外に失敗から身を守る道はないのかもしれない。
▽ 失敗しないように常に反省し努力することと共に、そのことを受け入れる(諦める)ことが問われる。そして、それによって、他の人々への優しさ(悲哀)は生まれるのではないだろうか。
「一人の人間の徳がどれほどのものであるかは、その人の努力によってではなく、その人の平常によって測られなければならない」パスカル『パンセ』(351)
参考文献
1、 パスカル著 松浪信三郎訳 『パンセ(抄)』旺文社文庫、1970年10月、442p
2、 野田又夫 『パスカル』 岩波新書143 1953年10月、217p
3、 三木清 『パスカルにおける人間の研究』 岩波文庫 1980、231p
4、 甲斐潔信 「パスカルの『パンセ』における「人間の不均等」概念の研究
http://members.ld.infoseek.co.jp/pascaliankk/r0hajimeni.htm
5、 後藤嘉宏 「 『パスカルにおける人間の研究』にみられる三木清の弁証法について」 図書館情報メディア研究第4巻2号 2006年 pp19-32
何故、自分の失敗を認めることが大切なのだろうか。何故、失敗をしないために、失敗を否定するのでなく、それを受け止めることが自分に必要なのか。
逆説的に成立する人間性のあり方(真実)
▽ 理性と情欲の二つの異なるベクトルをもつ生命力、一方は快楽を満たそうとし、他方はそれを抑制しようとする力からなる人間性、それらの闘争状態として人間の生命や生活活動が展開される。
▽ その活動は、いずれにしても失敗、絶望、敗北、悪、違反、撹乱、錯乱、狂気等々の否定的精神状態と、成功、希望、勝利、正義、遵守、維持、安定、冷静等々の肯定的精神状態が明確に異なる境界線や境界領域を有しているのでなく、その否定側面と肯定的側面が相互に関連しながら、一方が他方の原因となり、また逆にその結果となるという現実を生み出すのである。
▽ 例えば、人は心の安定を求めながら、不安定さの要因を作る。その逆に不安定さを受入れながら精神を安定させることが出来る。
▽ また、成功を目指しながら失敗の原因を作る。その逆に失敗を受け入れることで成功の道筋を見つけ出すことも出来る。
▽ 勝利に酔いながら敗北の原因を作り、敗北を噛み締めることによって勝利への準備を整えることも出来る。
▽ うまく物事が運ぶとき、もっとも恐れなければならないのはその状況(うまくいっている)に安心する自分である。困難な道が現れたとき、それにひるむことなく進む自分がいるなら、その困難さは貴重な経験となるだろう。しかし順調な時には、その状況から学ぶことは少ない。何故なら、その順調な状況は、改革し改良し状況に立ち向かう機会を得ることがないからである。困難な状況こそ最も素晴らしい人生の教師であると良くいわれるのはそのためである。
▽ このような「人間的なそしてあまりにも人間的な」生命・精神・生活活動の現実を受け止めることが課題となる。そのことは、人間の理性や思惟の有限性を理解すること、人間が神のような完全な存在でもなく、またその逆のまったく自然や宇宙の法則に支配され、それを完全に受け入れる他の生命体のような存在でもないこと。その中間にある存在、つまり、不完全な理性や知性を持つ存在者であることを自覚する以外にない。
▽ 言い換えると、人間は、その生命が有限であり、必ず死という生命活動の終わりを持つ存在である。しかも、宇宙の中では微細な塵に等しい存在である。その人間の悲惨な存在形態(実存)を知ることが、人間に与えられた思惟活動(生命の進化によって異常に発達した脳による生命活動)の中で、最も偉大なことであると理解できるのである。
▽ つまり、人は自らその知性の活動において、自らの存在とそれを創った大自然・宇宙のあり方を理解できるのである。つまり、有限な肉体を持つ生命がその生命を形成した宇宙の存在を理解することが出来るのである。それは、他の生物には不可能な認識活動である。その無限の存在・宇宙と有限の存在・自分の理解が人間の知性の最高の結果といえよう。パスカルはこの了解(理解)を人の偉大である理由として挙げた。
▽ つまり、それは、人が常に、宇宙の無限性と同時にその人間の知性や思惟の有限性を知ることを意味する。そして、それは、また人の理性が不完全なものであることを知ることを意味する。つまり、最高の理性とは、理性の限界を知る理性であるという結論に達するのである。
▽ 前節でのべた結論、「人間は理性的な存在(天使)でもないし、また欲望のみで生きている存在(禽獣)でもない」というパスカルの帰結は、逆説的に成立している人間性の現実に結びつくのである。人が偉大であることの理由は、人が自分の悪(罪)を知ること、自分の敗北を認めること、自分の失敗を知ることであるといえる。
▽ その理解は、前節でのべた「理性の限界を知る理性を確立」や「人間の悲惨さを理解する思惟」の理解こそ、我々が求める道徳や徳の基本であり、逆に人間の偉大さを示すものであるといえる。つまり、その知性と理性の活動が唯一残された不完全な人間の最も高度な理性的活動を意味するのである。
▽ そのことは、これから考える反省活動の限界を知ることが人の反省する最後の姿であるという意味に繋がる。
罪びと
▽ パスカルの「罪びと」の概念は、キリスト教の原罪の概念から来ている。キリスト教では人は生まれながらにして罪びととしての宿命を負っている。
▽ キリスト教における原罪は「神が人間に禁止していた善悪の知識の木の実(りんご)」を食べる禁断を破ったことを意味する。つまり、人が動物でなく神の知識、善悪の知識を持ったこと、裸でいることを恥ずかしいとも思わない動物から、裸(自然の姿)を恥ずかしいと感じる反自然的な感性を持つようになったことを意味する。
「そもそも原罪の概念は『創世記』のアダムとイヴの物語に由来している。『創世記』の1章から3章によれば、アダムとイブは日本語で主なる神と訳されるヤハウェ・エロヒム(エールの複数形)の近くで生きることが出来るという恵まれた状況に置かれ、自然との完璧な調和を保って生きていた。主なる神はアダムにエデンの園に実る全ての木の実を食べることを許したが、中央にある善悪の知識の木の実だけは食べることを禁じた。しかし、蛇は言葉巧みにイヴに近づき、木の実を食べさせることに成功した。アダムもイヴに従って木の実を食べた。二人は突然裸でいることが恥ずかしくなり、イチジクの葉をあわてて身にまとった。主なる神はこれを知って驚き、怒った。こうして蛇は地を這うよう定められ呪われた存在となった。」(Wikipedia)
「罪びと」(悪人)と「義人」(善人)の成立条件
▽ パスカルの「罪びと」は、人間本来の姿としての原罪を背負う人間の姿である。また、パスカルは、その原罪を受入れた人、その原罪への自覚を持つ人を「義人」と呼でいる。この考えはキリスト教の原罪論から来たものである。
▽ パスカルによれば、人間は本来原罪を背負う存在(罪びと)であり、またその原罪への自覚を持つことが出来る存在(義人)にもなり得る。従って、その二つのあり方が人間の存在の仕方であると考えた。そこでパスカルは「人間には二種類だけしかいない」と述べているのである。
▽ しかし、もし、罪びとである自覚をもって義人となることができれば、罪びとはすべてその罪を自覚することで義人になることが出来るだろう。この論理からは、キリスト教の教えにそって生きることで人々は救われそうである。しかし、ここで矛盾が生じる。つまり、キリスト教の教えに従って原罪を認め「自己を罪びとと思っている義人」となる。罪びとから救われた義人は、原罪から決定的に救われたのだろうか。もし、「自己を罪びとと思っている義人」として救われるなら、もはや「罪びと」はいない。その罪びととしての原罪も存在しえない。すると、原罪を自覚しない「義人」が登場する。このことから、この「義人」は原罪を自覚しえない人間、キリスト教の教義を理解していない人間として「義人」は変貌することになる。言換えると、「自分を義人と思っている罪びと」が登場するのである。
▽ 「自己を罪びとと思っている義人」は、永遠に自分を義人と思っていることでは成立しない逆説の論理が成立し続ける。もし、「自分を義人と思っている」なら「義人」は原罪を自覚しない「罪びと」になるのだ。
▽ この論理から成立している「義人」つまり善人は、「罪びと」の自覚を持ち続けることによって成り立っている。この考え方は、前節でのべた逆説的に成立している人間性の姿、つまり、「理性の限界を知る理性の確立」や「人間の悲惨さを理解する思惟」の理解こそが道徳や徳の基本であるという理論に繋がる。
▽ 人は生きている以上、何らかの誤りや失敗をし続けている。そのことは人の基本的な誤りではない。それは仕方のないこと、つまり、人間という不完全な理性をもつ存在者の宿命である。問題は、それに対する自分の理解とそれへの対応である。失敗を認め、それを直そうとする努力が、反省の姿である。反省は次回必ず失敗しないということを意味しない。それは何回も失敗を続けるであろうが、しかし、失敗をしないように前向きに生きる生き方を示している。不完全な自分に諦めずに向き合うことを「反省」していると呼んでいいのではないだろうか。
▽ このパスカルの原罪に関する解釈から、人の狂気や原罪が、人が本来持つ宿命的な姿である。何故なら、人は快楽を追い求める存在者であり、それゆえに理性を働かす存在であるからだ。そうした現実の自分(人間)への自覚を持ち続けることを、道徳や倫理の基本とした。つまり、つねに休むことなく、考え続けなければ、思考し続けなけなければ、倫理的な思惟は成立しないのである。
▽ 人(自分)は、必ず失敗を犯すものである。問題は、その現実を受け止め、理解することが問われている。その理解によって、致命的に失敗から身を滅ばされない可能性が生まれる。それが唯一の失敗への手立てではないか。
「人間には二種類だけしかいない。一は、自己を罪びとと思っている義人。他は自分を義人と思っている罪びと。」パスカル『パンセ』(534)
諦め(あきらめ)という最高の安定したこころの世界
▽ しかし、人は果たして、「その悲惨な宿命、有限の生命、一滴の水によって滅びる生命体である自分の姿」について、休むことなく思考し続けられるのだろうか。人は救われるのだろうか。否(いな)。パスカルの問い掛けは続く。
▽ 人間が日常生活を平穏に過ごすために用意したのが良識であり、倫理であり、道徳であり、徳であった。その徳は、休むことなく人間の本性としての原罪を点検し続けなければ得られないものだろうか。それに対するパスカルの答えは、「人間の徳」は「その人の平常によって測られなければならない」と言うことであった。
▽ 何故なら、「人は天使でもなく禽獣でもない」。人が天使になろうとすることに無理があり、それは不可能な望みである。何故なら、人間の理性は不完全であり、その不完全な理性によって、人間本来の生命力である快楽を求める欲望を抑制しなければならない。つまり、他人の要求には厳しい人も、自分の欲望には鈍感なのが我々の当たり前の姿である。そのため、他人からの親切をありがたいとも思わないが、他人へ施した親切は忘れることはない。人の理性にもその人の主観性が持ち込まれる。科学的思惟はそれを極力排除したのであるが、結果的には人類を滅ぼす技術を作り出した。
▽ 人間の不完全さを変えることは出来ない。それを受入れ、むしろそれを自覚する方法が必要である。過去の歴史を解釈することは現代社会の価値観で過去を勝手に位置づけることであると歴史学者が語るなら、歴史問題は、少しは解決するかもしれない。また、他の社会への理解は常に誤解から始まるのだと理解しているなら、異文化の衝突も少なくなるかもしれないし、自分達の社会の制度を異なる文化を持つ人々に押し付けることはない。つい最近でも、世界の最大の文明国の大統領が、人類社会の最高の到達点としてアメリカ民主主義を考え、それをイラクに押し付けるのである。
▽ 人間には理性と情欲の全く異なるベクトルをもった生命活動が同時に共存し、互いに争いながら、人間性を形作り、人間の営みを形成している。人の徳(善行)は、理想に向かい、目標を得るために努めることによって可能になるのでなく、むしろ、人間に与えられている現実(パスカルの言う悲惨さ)を受け入れて、可能になるのではないだろうか。
▽ その意味で、人(自分)は、必ず失敗を犯すものであり、失敗をまったく犯さないように努力することも不可な試みであることも同時に理解しなければならない。つまり、残された失敗を避けるための対策は、本来、失敗をしないためにあるのではなく、最低限、致命的な失敗から身を滅ぼされないためにあるともいえる。そうだとしても、致命的な失敗で身を滅ぼすかもしれない。その現実を受け入れる以外に手立てがないのである。そのことを理解する以外に失敗から身を守る道はないのかもしれない。
▽ 失敗しないように常に反省し努力することと共に、そのことを受け入れる(諦める)ことが問われる。そして、それによって、他の人々への優しさ(悲哀)は生まれるのではないだろうか。
「一人の人間の徳がどれほどのものであるかは、その人の努力によってではなく、その人の平常によって測られなければならない」パスカル『パンセ』(351)
参考文献
1、 パスカル著 松浪信三郎訳 『パンセ(抄)』旺文社文庫、1970年10月、442p
2、 野田又夫 『パスカル』 岩波新書143 1953年10月、217p
3、 三木清 『パスカルにおける人間の研究』 岩波文庫 1980、231p
4、 甲斐潔信 「パスカルの『パンセ』における「人間の不均等」概念の研究
http://members.ld.infoseek.co.jp/pascaliankk/r0hajimeni.htm
5、 後藤嘉宏 「 『パスカルにおける人間の研究』にみられる三木清の弁証法について」 図書館情報メディア研究第4巻2号 2006年 pp19-32
理性と情念の両方を持つ人間の姿 パスカルから
三石博行
理性と情欲の間に生じる内的闘争(人間的な精神構造)
▽ パスカルは、人間の性は本来悪でもなければ善でもないと言っている。もし、人の悪の起源が欲望であるとするなら、欲望を持たない人間はいないので、全ての人が悪人となる。また、その逆に人の善の起源が理性であるとするなら、理性を持たない人はいないので、全ての人は善人となる。しかし、人は欲望と理性の両方をもつために、悪人であり善人でもある。人の性を本来悪とすることも、また逆に善とすることも、あまりにも単純な人間観であると言えないだろうか。
▽ しかし、その二つ、欲望と理性を持つことで、人はその二つの要求に引き裂かれ、その二つの力のぶつかり合いを日常生活の中で経験し続けなればならない存在になったとパスカルは言うのである。
▽ 前回の講義で、理性と情念「両方をもちあわせているので、人間は闘争なしではいられない」というパスカルの文章から、人間のあり方について考えた。今回、もう一度その課題に立ち返り、議論を深めたい。
「理性と情欲のあいだにおける人間の内的闘争。
もし人間が情欲をもたず、理性だけをもっていたとするなら…。
もし人間が理性をもたず、情欲だけをもっていたとするなら…。
だが、両方をもちあわせているので、人間は闘争なしではいられない。というのも、一方と闘わずには、他方と平和を得ることができないからである。かくして、人間はつねに分裂し、自己自身に反抗する。」パスカル『パンセ』(412)
快楽を追い求める力・欲望 とそれを抑制する力・理性
▽ 前回の学習を簡単に復習すると、以下のパスカルが述べた四つの人間に関する課題があった。一つ目は、人間の欲望に関する理解であるが、人は本来快楽を求めて生きているため、禁欲主義は非現実的であること。二つ目は、人間が宇宙の中で一滴の水で生命を落とす小さな悲惨な存在であること、人間がその「人間の悲惨さを理解できる知性」思惟を持っている存在であることが人間の偉大さであるとパスカルは考えた。三つ目は、「思惟(人間の偉大さの理由)」や「理性(人間が善人であるために必要なもの)」が在ったとしても、「人間が狂気(きょうき)じみていることは避けがたい」事実であると考えた。そして、四つ目は、人間の生(生命や生活)とは、理性(思惟によって形成された)と情念(欲望によって噴出している)の二つの避けがたい闘争状態であるとパスカルは帰結した。
「人間は自然のうちで最も弱い葦(あし)に過ぎない。しかしそれは考える葦である。これをおしつぶすのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくでも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれをおしつぶしたときにも、人間は、人間を殺すものよりいっそう高貴であるであろう。なぜなら、人間は、自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間の上に優越することを知っているからである。宇宙はそれについては何も知らない。
それゆえに、われわれのあらゆる尊厳は思考のうちに存する。われわれが立ち上がらなければならないのはそこからであって、われわれの満たすことのできない空間や時間からではない。それゆえに、われわれはよく考えるようにつとめよう。そこに道徳の根源がある。」(347)
▽ パスカルの一つ目の主張は、人が欲望を持ち、それを満たすために行動することは人の自然の姿であるということである。人間は快楽を求めながら生きている。快楽を満たそうとする生命力を欲望と呼んでいる。その欲望が理性(思惟)によって、一時的(刹那的)快楽から将来の人生の希望や夢へと昇華される。人はその欲望を実現するために努力をしている。その希望の実現することで得られるものが利益と呼ばれる高度な(社会的に認められた)快楽であることを知っている。例えば、人に尊敬される立派な人になりたいという名誉欲、お金持ちに成りたいという金銭欲、偉い人や強い人に成りたいという権力欲、ハンサムな男や美人と一緒になりたいという性欲等々、それらの欲望を満たすことによって快楽を手に入れることが出来るのである。
▽ その意味で、快楽を求めること、つまり欲望を悪と決めつけるのであるなら、人間本来の姿を無視することになる。よりよく生きようとする生命力を否定し、それを悪いこととして禁止することになる。愛することも、結婚し子育てをし、幸せな家族をつくることも、友達と楽しく過ごすことも、すべて禁止する極端な禁欲主義者になってしまう。人が快楽を求めて生きている、つまり人が情欲(欲望)を持っていることを否定することは出来ない。
▽ しかし、手段を選ばす(社会的決まりを無視して)快楽を求める行為をしたなら、社会や他者の非難に出会うだろう。自分の夢(社会が高く評価している理想的な姿)を実現するためには、社会の認める規則(法律や道徳)に従い、その夢を獲得しなければならない。欲望を満たす目的の為に手段を選ばない行為をすることは社会から認められない。もし、その手段を選ばないで欲望を満たす行為が社会で横行するなら、社会には犯罪が多発し、大混乱が発生するだろう。
▽ つまり、社会的ルールに即して欲望を満たすための人々が取る行為を「理性的行為」と呼んでいる。人間は本来快楽を追い求めて生きている。その人間の本性を理解し、それを社会の規則(法律や倫理)に即して強制・制御する力を理性と呼んでいる。パスカルは人が欲望だけの存在でないことを人が知っている。 つまり、人は本来快楽を求めて生きる存在であるが、その欲望が引き起こす結末を理解する知性や思惟(考える行為)が人に備わっていると主張した。それが二つ目の例である。
人は善的存在でもなければ悪的存在でもない、その両者が同時に共存している
▽ 人間は本来快楽を求める存在であること、また人間は思惟する能力を持つ存在であること、その二つの生命活動によって生じた、理性と情念の闘争状態を生活と呼んでいる。生きている限り、その二つの力、快楽を求める力と快楽を抑制する力が衝突し続ける。
▽ 言い換えると、理性と情欲の二つの人間性の衝突によって、人間性は作り上げられている。その一方の存在を否定することは出来ない。それらの二つの要素、理性と情欲(欲望)が互いに反発し、互いにその存在理由(それがあることの意味)を見つけ出している。
▽ その意味で、人は単に理性的な存在でもなければ、情欲的な存在でもない。人が理性的な存在であろうと思うとき、その力は理性を生み出す情念によって支えられる。つまり、理性の背後には現実的に生きようとする欲望があるのである。
▽ また、人は欲望を満たすために色々な行動を模索する。その模索は、理性という手段によって可能になる。現実的な手段をもちいることによってしか、欲望を満たすことは出来ない。
▽ しかし、欲望や快楽を現実的に(合理的に)、つまり社会と衝突しないで(他人に迷惑を掛けないで)上手に抑制する力である筈の思惟や理性も決して完全なものではない、むしろ非常に不完全なものであるといえる。不完全な制御装置を装備し、欲望を燃やし続けながら動く生命機械である人間とは結果的には失敗(悪)を作り出す運命にある。その失敗を最小限に防ぐためには、より高い理性(社会制度を発展させ、刑罰を重くし、科学技術を発展させ人間の欲望を抑制する道具や装置を開発する)を求めること、もしくは欲望を最小限に押さえつけること(厳しい禁欲主義を貫き通すこと)では解決しないかもしれない。
▽ 残された道はなにか、それはその人間存在の宿命を受け入れること、つまり人間の悲惨さを理解する思惟を持つこと、また理性の限界を知る理性を確立することではないかとパスカルは問いかける。
▽ そして、完全な存在、悪を犯すことのない善人の存在(イエス・キリスト)を理性や思惟によって理解しながらも、悪を犯さざるを得ない存在者としての自分を理解することではないかとパスカルは考えた。
▽ 歴史を振り返ると人類は正義の名において戦争(悪)を行い、宗教の教義(神への信仰)の名において異なる宗教に属すという理由の基に異教徒とよばれる人々を迫害してきた。これらの史実から、その逆転劇(正義の名において殺害を行い、他の悪を駆逐した素晴らしい人間の歴史)の結末やその矛盾を批判し乗り越えるために、もう一度、善や道徳の概念を考えなければならないのである。つまり、「理性の限界を知る理性を確立」や「人間の悲惨さを理解する思惟」の理解こそ、我々が求める道徳や徳の基本であると考えたのである。
▽ 以上の議論から、人間は理性的な存在(天使)でもないし、また欲望のみで生きている存在(禽獣)でもないとパスカルは帰結したのである。
「人間は天使でもなければ禽獣(きんじゅう)でもない。天使になろうとするものが禽獣になるのは、不幸なことである。」パスカル「パンセ」(358)
人間的理性の限界を知ることそえが最後の理性の姿である
▽ 人を偉大にした思惟(知性)・理性について知らなければならないこと、それは理性の限界である。我々は無限の宇宙に対する有限な、そして悲惨な(水一滴で消滅する生命体である)人間を知る力(思惟)があったとしても、無限の宇宙を知ることは出来ない。その意味で、人間の思惟(知性)や理性は限界を持つものである。有限な人間である以上、有限な能力(思惟)しか持ち合わせていない。それを理解することが、理性の最後の姿、理性を超えることを知っている理性(もはや科学的知でなく、祈りにも近いもの、パスカルの信仰)のあり方が問われる。
▽ もし、人が自己の理性(科学的知)を知らなければ、自然に支配され、猛獣の脅威に慄き、生きるために逃げまとい、恐怖心から逃れるためにひたすら祈祷しつづける、今日の科学技術文明社会の住民から見れば卑屈な生き方になるだろう。しかし、もし人が自己の理性の限界を知らなければ、あらゆる問題、地球規模の気候変動すら人間の知識、科学技術によって完全に解決できると信じ、さらに新しい、そして強力な生産体制を確立し、多くのエネルギーを消耗し続けるかもしれない。この行動は、古代人から見れば、あまりにも自然の力を見くびった、その結果として人間が受けている災害に感じられるだろう。つまり、傲慢な知性の過信によって、人々は益々生態系を破壊し続けるかもしれない。
▽ つまり、理性と欲望の闘争、人間的思惟の作り出すその結果、人間社会は発展し続けてきた。豊かな生活をしたいという欲望を満たすために、人々は知的活動を行い、理性を磨き上げてきた。つまり、その結果、猛獣や自然の脅威に晒(さら)されていた時代を克服し、それらを逆に支配活用し、今日の科学技術文明社会を形成し、人間の偉大さを確立してきた。
▽ すなわち、人間は豊かさ(快楽)を追い求めて、それを可能にするために社会を発展させ、道具や装置を発明し改良してきた。人類は社会的分業を考え出し、専門的職業を形成し、社会制度を高度に発展させ、巨大な生産力を生み出し、科学技術を発展させ、合理的な生産ラインを作り出し、短時間労働で大量生産を可能にしてきた。
▽ 人類は、狩猟活動から、農耕活動、そして工業活動や高度な知的活動へと、次から次へと生産効率を上げながら社会経済制度を作り上げてきた。社会は、石器時代、土器時代、青銅器時代、鉄器時代、人工物素材時代へと文明構造を変化させてきた。より便利で効率の高い道具、生産手段を見つけ出しながら、社会制度や生活様式は変化してきた。つまり、より豊かに生活したいという人の欲望こそが歴史や社会を動かす原動力なのである。
▽ 考えること、思惟、つまり知性によって何十万年も支配され続けてきた猛獣達を駆逐し、自然を支配し、その自然の法則やエネルギーを逆に活用し、豊かな人間社会を構築し続けてきた。その豊かさは、人間がこの地球上の生命体の長であり、もっとも進化していることを自覚させた。それは逆に、人間が「水一滴によって滅びる悲惨な生命体」であること、つまり悲惨な人間の実存形態(姿)を忘れさせることになった。
▽ 言い換えると、人類は生活を豊かにするために努力し続けながら、一方で多くの人間を殺害する道具も開発し続けてきた。それが人類の現実の歴史である。豊かな生活をしたいという欲望によって個人の生活も豊かになる。人々が夢や理想とする世界に近づこうとする努力によって社会は豊かになる。そして、毒ガス、化学兵器、生物兵器、大陸弾道弾や核兵器が作られた。最近では、無人のロボット偵察機が敵(テロリスト)の根拠地を爆撃できるようになった。そのテロリスト撲滅のための新兵器開発は人類にとって進歩と呼ばれているのである。
▽ この人間の悲惨さを忘却することを「不完全な理性の証」と逆にパスカル考えた。「傲慢」さとは、本来人が持っている不完全な理性によって必然的に人に生じる自然な姿なのかもしれない。
「自己の悲惨さを知らずに神を知ることは、傲慢を生む。神を知らずに自己の悲惨さを知ることは、絶望を生む。イエス・キリストを知ることは中間をなす。というのも、われわれはそこに神とわれわれの悲惨さとを見いだすからである。」パスカル『パンセ』(527)
道徳とは人間の傲慢さへの戒め
▽ パスカルによると道徳の根源は人間の思考力にある。人が偉大なのは、その思考によって人が「人の悲惨さを知っている」ことが出来るからである。有限の存在者・人間が、無限の存在・宇宙、その運動法則、惑星運動などを知ることが出来る。この人間の知性を導く力、理性的な思惟こそ人間が最も偉大であることを示すものである。
▽ 人類は宇宙の運動を観測し、これらの知識は宇宙の法則である天体運動の法則を見つけ出し、力学の法則を打ち立て、それらはさらに物理学として発展し、現代の科学技術の知識の基礎を創った。そして、現代科学技術文明社会は人間の思考の勝利を意味する。
▽ だが、人間はその人間の悲惨さを知らない思考によって、傲慢になる。その結果、自ら開発した知識によって自らを崩壊させる。例えば、人類は自然の法則を解明した。そして質量の意味、エネルギーとの物理的関係を見つけ出す。光速の二条に質量を掛けることによって宇宙のエネルギー量を導き出すことが出来た。つまり、そのことが核分裂や核融合によって得られるエネルギーであることを発見した。その偉大な発見は、そのまま人類を滅ぼす核兵器を開発に繋がった。
▽ 言い換えると偉大なる人間の思考力、理性の勝利が人類の消滅の道具を作ったのである。科学的思惟によって人間を豊かにしたかった志は、人間の消滅の玩具(おもちゃ)を天使(無邪気な人間、自分に悪意がないことを良く知っている人間)に与えたのである。
▽ 人間がその知性を展開しなければ自然に支配される他の動物のように猛獣にそして川の流れにもおびえながら生きなければならないだろう。そして、人間は知性によってその恐怖を克服した。と同時に、人間は自ら手に入れた知性の限界を知らない。そのために、その知性によって、自ら滅びる道を選んでしまった。それは、その知性が宇宙の存在にくらべて有限なものであること、また人間という生命体が有限な存在であること、そして人間が悲惨な存在者(死という存在の終わりを持つもの)であることを忘れるためである。このことをパスカルは「傲慢」と呼んでいた。
人間的行為と呼ばれる狂気
▽ 傲慢さとは、人間の本来の姿である悲惨さを知らずに例えば神を知ることであるとパスカルは述べた。この意味は、人類が本来人間の救済のために考え出した宗教の名の下に戦争や殺戮(さつりく)を繰り広げた宗教戦争、知性の勝利とも言うべき科学研究によって人類消滅の技術を開発してしまった歴史を意味している。
▽ 人間の偉大さの象徴とも言うべき思惟(考えること)、そしてその結果得られる理性(知性)によって、人は最良の存在者(天使)になろうとしながら最悪の存在者(禽獣)になってしまっている。このことの原因は、人間の悲惨な状態を救うために考えられた知性、科学的思惟、その応用、技術が結果的にたどり着く「大量破壊兵器」や「地球温暖化」の現実を受け止めることで納得できるだろう。
▽ もし、人間の理性の限界を理解することが理性に問われる最後の闘いであるなら、科学的知に問われる最後の科学的知識は、その科学的知の限界を理解することではないだろうか。
▽ つまり、パスカルが求めた最も高度な科学的理解とは「傲慢さ」を作り出す科学的知識でなく、むしろ、「人間の悲惨さの理解」するための科学的知ではないだろうか。
▽ しかし、あらゆる世界を理解するために前進的に進む科学的知によって、人が人の知の限界を理解することは可能なのか。もし可能なら、すでに科学的知性と呼ばれるものでない異質の知のあり方が登場するかもしれない。科学的知は「力」である以上、必然的に人間の傲慢さを生み出すのだ。しかも、その傲慢さを自覚することもできないぐらい、危機的な状況に来ているのが科学技術文明社会と呼ばれる現代社会の一面の姿である。
▽ 地球規模の生態系の危機的状況や人類を破滅させる核兵器所有とは、人間の傲慢さによって作り出されたもの、それは征服したと勘違いしている自然の逆襲であるともいえる。人間を生み出した自然、地球の生態系を支配し、それを制御できると錯覚した人間の姿こそ、自らの開発した核兵器によってその存在の危機を迎える姿なのかもしれない。つまり、それが人間の悲惨な、ある意味で滑稽な姿なのだろう。
▽ 正義を行うために悪を滅ぼす戦いをする。正義の名において殺戮(さつりつ)が許される。一人を殺すことを殺人とよび、敵を撲滅することを英雄と呼ぶ。殺戮行為には、正当な理由と不当な理由が歴史社会の中では常につけられる。その荷札をつけた屍(しかばね)の山を歴史は聖戦と呼び、あるいは大虐殺とも呼んできた。
「人間が狂気じみているのは避けがたいことなので、狂気じみていないことも、別種の狂気からいえば、やはり狂気じみていることになるであろう。」パスカル『パンセ』(414)
人に道徳を守らすには社会の規則が必要である。そのため政治学が研究された。
▽ 人間のこうした狂気じみた行為は避けがたいものであるとパスカルは言う。
▽ それでは、この避けがたい狂気、人間性に含まれる狂気をこれ以上増幅させないために、我々はこの精神病院の規則を作らなければならなかった。それが政治学であり、国際紛争を解決するための安保理事会の規則や国連軍であった。
▽ しかも、狂気を抑えるために、狂気を用いなければならないのである。
▽ 例えば、イラクの核兵器開発や生物兵器など大量殺戮兵器の開発を阻止するために、より強大な大量殺戮兵器をもった連合国、特にアメリカの軍隊が活躍する。核戦争を抑制するために、核軍備を行う。
▽ これが現実の狂気としての人間性が暴走しないための、最も有効な方法である。人類は、狂気を狂気によって抑制する方法を見つけ出したのである。その抑制の規則、それは気の狂った人々が混乱を起こして自分達で自分達に危害を加えないようにと作られた精神病院の規則のようなものなのだ。
▽ 狂気は人間の宿命であり、その狂気による混乱を防ぐために、社会や国家が必要とされ、法律や規則が作られ、軍隊や警察が作られ、場合によっては核爆弾や死刑台まで用意されているのである。
「彼ら(プラトンやアリストテレス)が政治について書いたのは、いわば精神病院の規則を作るためである」パスカル『パンセ』(331)
参考文献
1、 パスカル著 松浪信三郎訳 『パンセ(抄)』旺文社文庫、1970年10月、442p
2、 野田又夫 『パスカル』 岩波新書143 1953年10月、217p
3、 三木清 『パスカルにおける人間の研究』 岩波文庫 1980、231p
4、 甲斐潔信 「パスカルの『パンセ』における「人間の不均等」概念の研究
http://members.ld.infoseek.co.jp/pascaliankk/r0hajimeni.htm
5、 後藤嘉宏 「 『パスカルにおける人間の研究』にみられる三木清の弁証法について」 図書館情報メディア研究第4巻2号 2006年 pp19-32
理性と情欲の間に生じる内的闘争(人間的な精神構造)
▽ パスカルは、人間の性は本来悪でもなければ善でもないと言っている。もし、人の悪の起源が欲望であるとするなら、欲望を持たない人間はいないので、全ての人が悪人となる。また、その逆に人の善の起源が理性であるとするなら、理性を持たない人はいないので、全ての人は善人となる。しかし、人は欲望と理性の両方をもつために、悪人であり善人でもある。人の性を本来悪とすることも、また逆に善とすることも、あまりにも単純な人間観であると言えないだろうか。
▽ しかし、その二つ、欲望と理性を持つことで、人はその二つの要求に引き裂かれ、その二つの力のぶつかり合いを日常生活の中で経験し続けなればならない存在になったとパスカルは言うのである。
▽ 前回の講義で、理性と情念「両方をもちあわせているので、人間は闘争なしではいられない」というパスカルの文章から、人間のあり方について考えた。今回、もう一度その課題に立ち返り、議論を深めたい。
「理性と情欲のあいだにおける人間の内的闘争。
もし人間が情欲をもたず、理性だけをもっていたとするなら…。
もし人間が理性をもたず、情欲だけをもっていたとするなら…。
だが、両方をもちあわせているので、人間は闘争なしではいられない。というのも、一方と闘わずには、他方と平和を得ることができないからである。かくして、人間はつねに分裂し、自己自身に反抗する。」パスカル『パンセ』(412)
快楽を追い求める力・欲望 とそれを抑制する力・理性
▽ 前回の学習を簡単に復習すると、以下のパスカルが述べた四つの人間に関する課題があった。一つ目は、人間の欲望に関する理解であるが、人は本来快楽を求めて生きているため、禁欲主義は非現実的であること。二つ目は、人間が宇宙の中で一滴の水で生命を落とす小さな悲惨な存在であること、人間がその「人間の悲惨さを理解できる知性」思惟を持っている存在であることが人間の偉大さであるとパスカルは考えた。三つ目は、「思惟(人間の偉大さの理由)」や「理性(人間が善人であるために必要なもの)」が在ったとしても、「人間が狂気(きょうき)じみていることは避けがたい」事実であると考えた。そして、四つ目は、人間の生(生命や生活)とは、理性(思惟によって形成された)と情念(欲望によって噴出している)の二つの避けがたい闘争状態であるとパスカルは帰結した。
「人間は自然のうちで最も弱い葦(あし)に過ぎない。しかしそれは考える葦である。これをおしつぶすのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくでも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれをおしつぶしたときにも、人間は、人間を殺すものよりいっそう高貴であるであろう。なぜなら、人間は、自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間の上に優越することを知っているからである。宇宙はそれについては何も知らない。
それゆえに、われわれのあらゆる尊厳は思考のうちに存する。われわれが立ち上がらなければならないのはそこからであって、われわれの満たすことのできない空間や時間からではない。それゆえに、われわれはよく考えるようにつとめよう。そこに道徳の根源がある。」(347)
▽ パスカルの一つ目の主張は、人が欲望を持ち、それを満たすために行動することは人の自然の姿であるということである。人間は快楽を求めながら生きている。快楽を満たそうとする生命力を欲望と呼んでいる。その欲望が理性(思惟)によって、一時的(刹那的)快楽から将来の人生の希望や夢へと昇華される。人はその欲望を実現するために努力をしている。その希望の実現することで得られるものが利益と呼ばれる高度な(社会的に認められた)快楽であることを知っている。例えば、人に尊敬される立派な人になりたいという名誉欲、お金持ちに成りたいという金銭欲、偉い人や強い人に成りたいという権力欲、ハンサムな男や美人と一緒になりたいという性欲等々、それらの欲望を満たすことによって快楽を手に入れることが出来るのである。
▽ その意味で、快楽を求めること、つまり欲望を悪と決めつけるのであるなら、人間本来の姿を無視することになる。よりよく生きようとする生命力を否定し、それを悪いこととして禁止することになる。愛することも、結婚し子育てをし、幸せな家族をつくることも、友達と楽しく過ごすことも、すべて禁止する極端な禁欲主義者になってしまう。人が快楽を求めて生きている、つまり人が情欲(欲望)を持っていることを否定することは出来ない。
▽ しかし、手段を選ばす(社会的決まりを無視して)快楽を求める行為をしたなら、社会や他者の非難に出会うだろう。自分の夢(社会が高く評価している理想的な姿)を実現するためには、社会の認める規則(法律や道徳)に従い、その夢を獲得しなければならない。欲望を満たす目的の為に手段を選ばない行為をすることは社会から認められない。もし、その手段を選ばないで欲望を満たす行為が社会で横行するなら、社会には犯罪が多発し、大混乱が発生するだろう。
▽ つまり、社会的ルールに即して欲望を満たすための人々が取る行為を「理性的行為」と呼んでいる。人間は本来快楽を追い求めて生きている。その人間の本性を理解し、それを社会の規則(法律や倫理)に即して強制・制御する力を理性と呼んでいる。パスカルは人が欲望だけの存在でないことを人が知っている。 つまり、人は本来快楽を求めて生きる存在であるが、その欲望が引き起こす結末を理解する知性や思惟(考える行為)が人に備わっていると主張した。それが二つ目の例である。
人は善的存在でもなければ悪的存在でもない、その両者が同時に共存している
▽ 人間は本来快楽を求める存在であること、また人間は思惟する能力を持つ存在であること、その二つの生命活動によって生じた、理性と情念の闘争状態を生活と呼んでいる。生きている限り、その二つの力、快楽を求める力と快楽を抑制する力が衝突し続ける。
▽ 言い換えると、理性と情欲の二つの人間性の衝突によって、人間性は作り上げられている。その一方の存在を否定することは出来ない。それらの二つの要素、理性と情欲(欲望)が互いに反発し、互いにその存在理由(それがあることの意味)を見つけ出している。
▽ その意味で、人は単に理性的な存在でもなければ、情欲的な存在でもない。人が理性的な存在であろうと思うとき、その力は理性を生み出す情念によって支えられる。つまり、理性の背後には現実的に生きようとする欲望があるのである。
▽ また、人は欲望を満たすために色々な行動を模索する。その模索は、理性という手段によって可能になる。現実的な手段をもちいることによってしか、欲望を満たすことは出来ない。
▽ しかし、欲望や快楽を現実的に(合理的に)、つまり社会と衝突しないで(他人に迷惑を掛けないで)上手に抑制する力である筈の思惟や理性も決して完全なものではない、むしろ非常に不完全なものであるといえる。不完全な制御装置を装備し、欲望を燃やし続けながら動く生命機械である人間とは結果的には失敗(悪)を作り出す運命にある。その失敗を最小限に防ぐためには、より高い理性(社会制度を発展させ、刑罰を重くし、科学技術を発展させ人間の欲望を抑制する道具や装置を開発する)を求めること、もしくは欲望を最小限に押さえつけること(厳しい禁欲主義を貫き通すこと)では解決しないかもしれない。
▽ 残された道はなにか、それはその人間存在の宿命を受け入れること、つまり人間の悲惨さを理解する思惟を持つこと、また理性の限界を知る理性を確立することではないかとパスカルは問いかける。
▽ そして、完全な存在、悪を犯すことのない善人の存在(イエス・キリスト)を理性や思惟によって理解しながらも、悪を犯さざるを得ない存在者としての自分を理解することではないかとパスカルは考えた。
▽ 歴史を振り返ると人類は正義の名において戦争(悪)を行い、宗教の教義(神への信仰)の名において異なる宗教に属すという理由の基に異教徒とよばれる人々を迫害してきた。これらの史実から、その逆転劇(正義の名において殺害を行い、他の悪を駆逐した素晴らしい人間の歴史)の結末やその矛盾を批判し乗り越えるために、もう一度、善や道徳の概念を考えなければならないのである。つまり、「理性の限界を知る理性を確立」や「人間の悲惨さを理解する思惟」の理解こそ、我々が求める道徳や徳の基本であると考えたのである。
▽ 以上の議論から、人間は理性的な存在(天使)でもないし、また欲望のみで生きている存在(禽獣)でもないとパスカルは帰結したのである。
「人間は天使でもなければ禽獣(きんじゅう)でもない。天使になろうとするものが禽獣になるのは、不幸なことである。」パスカル「パンセ」(358)
人間的理性の限界を知ることそえが最後の理性の姿である
▽ 人を偉大にした思惟(知性)・理性について知らなければならないこと、それは理性の限界である。我々は無限の宇宙に対する有限な、そして悲惨な(水一滴で消滅する生命体である)人間を知る力(思惟)があったとしても、無限の宇宙を知ることは出来ない。その意味で、人間の思惟(知性)や理性は限界を持つものである。有限な人間である以上、有限な能力(思惟)しか持ち合わせていない。それを理解することが、理性の最後の姿、理性を超えることを知っている理性(もはや科学的知でなく、祈りにも近いもの、パスカルの信仰)のあり方が問われる。
▽ もし、人が自己の理性(科学的知)を知らなければ、自然に支配され、猛獣の脅威に慄き、生きるために逃げまとい、恐怖心から逃れるためにひたすら祈祷しつづける、今日の科学技術文明社会の住民から見れば卑屈な生き方になるだろう。しかし、もし人が自己の理性の限界を知らなければ、あらゆる問題、地球規模の気候変動すら人間の知識、科学技術によって完全に解決できると信じ、さらに新しい、そして強力な生産体制を確立し、多くのエネルギーを消耗し続けるかもしれない。この行動は、古代人から見れば、あまりにも自然の力を見くびった、その結果として人間が受けている災害に感じられるだろう。つまり、傲慢な知性の過信によって、人々は益々生態系を破壊し続けるかもしれない。
▽ つまり、理性と欲望の闘争、人間的思惟の作り出すその結果、人間社会は発展し続けてきた。豊かな生活をしたいという欲望を満たすために、人々は知的活動を行い、理性を磨き上げてきた。つまり、その結果、猛獣や自然の脅威に晒(さら)されていた時代を克服し、それらを逆に支配活用し、今日の科学技術文明社会を形成し、人間の偉大さを確立してきた。
▽ すなわち、人間は豊かさ(快楽)を追い求めて、それを可能にするために社会を発展させ、道具や装置を発明し改良してきた。人類は社会的分業を考え出し、専門的職業を形成し、社会制度を高度に発展させ、巨大な生産力を生み出し、科学技術を発展させ、合理的な生産ラインを作り出し、短時間労働で大量生産を可能にしてきた。
▽ 人類は、狩猟活動から、農耕活動、そして工業活動や高度な知的活動へと、次から次へと生産効率を上げながら社会経済制度を作り上げてきた。社会は、石器時代、土器時代、青銅器時代、鉄器時代、人工物素材時代へと文明構造を変化させてきた。より便利で効率の高い道具、生産手段を見つけ出しながら、社会制度や生活様式は変化してきた。つまり、より豊かに生活したいという人の欲望こそが歴史や社会を動かす原動力なのである。
▽ 考えること、思惟、つまり知性によって何十万年も支配され続けてきた猛獣達を駆逐し、自然を支配し、その自然の法則やエネルギーを逆に活用し、豊かな人間社会を構築し続けてきた。その豊かさは、人間がこの地球上の生命体の長であり、もっとも進化していることを自覚させた。それは逆に、人間が「水一滴によって滅びる悲惨な生命体」であること、つまり悲惨な人間の実存形態(姿)を忘れさせることになった。
▽ 言い換えると、人類は生活を豊かにするために努力し続けながら、一方で多くの人間を殺害する道具も開発し続けてきた。それが人類の現実の歴史である。豊かな生活をしたいという欲望によって個人の生活も豊かになる。人々が夢や理想とする世界に近づこうとする努力によって社会は豊かになる。そして、毒ガス、化学兵器、生物兵器、大陸弾道弾や核兵器が作られた。最近では、無人のロボット偵察機が敵(テロリスト)の根拠地を爆撃できるようになった。そのテロリスト撲滅のための新兵器開発は人類にとって進歩と呼ばれているのである。
▽ この人間の悲惨さを忘却することを「不完全な理性の証」と逆にパスカル考えた。「傲慢」さとは、本来人が持っている不完全な理性によって必然的に人に生じる自然な姿なのかもしれない。
「自己の悲惨さを知らずに神を知ることは、傲慢を生む。神を知らずに自己の悲惨さを知ることは、絶望を生む。イエス・キリストを知ることは中間をなす。というのも、われわれはそこに神とわれわれの悲惨さとを見いだすからである。」パスカル『パンセ』(527)
道徳とは人間の傲慢さへの戒め
▽ パスカルによると道徳の根源は人間の思考力にある。人が偉大なのは、その思考によって人が「人の悲惨さを知っている」ことが出来るからである。有限の存在者・人間が、無限の存在・宇宙、その運動法則、惑星運動などを知ることが出来る。この人間の知性を導く力、理性的な思惟こそ人間が最も偉大であることを示すものである。
▽ 人類は宇宙の運動を観測し、これらの知識は宇宙の法則である天体運動の法則を見つけ出し、力学の法則を打ち立て、それらはさらに物理学として発展し、現代の科学技術の知識の基礎を創った。そして、現代科学技術文明社会は人間の思考の勝利を意味する。
▽ だが、人間はその人間の悲惨さを知らない思考によって、傲慢になる。その結果、自ら開発した知識によって自らを崩壊させる。例えば、人類は自然の法則を解明した。そして質量の意味、エネルギーとの物理的関係を見つけ出す。光速の二条に質量を掛けることによって宇宙のエネルギー量を導き出すことが出来た。つまり、そのことが核分裂や核融合によって得られるエネルギーであることを発見した。その偉大な発見は、そのまま人類を滅ぼす核兵器を開発に繋がった。
▽ 言い換えると偉大なる人間の思考力、理性の勝利が人類の消滅の道具を作ったのである。科学的思惟によって人間を豊かにしたかった志は、人間の消滅の玩具(おもちゃ)を天使(無邪気な人間、自分に悪意がないことを良く知っている人間)に与えたのである。
▽ 人間がその知性を展開しなければ自然に支配される他の動物のように猛獣にそして川の流れにもおびえながら生きなければならないだろう。そして、人間は知性によってその恐怖を克服した。と同時に、人間は自ら手に入れた知性の限界を知らない。そのために、その知性によって、自ら滅びる道を選んでしまった。それは、その知性が宇宙の存在にくらべて有限なものであること、また人間という生命体が有限な存在であること、そして人間が悲惨な存在者(死という存在の終わりを持つもの)であることを忘れるためである。このことをパスカルは「傲慢」と呼んでいた。
人間的行為と呼ばれる狂気
▽ 傲慢さとは、人間の本来の姿である悲惨さを知らずに例えば神を知ることであるとパスカルは述べた。この意味は、人類が本来人間の救済のために考え出した宗教の名の下に戦争や殺戮(さつりく)を繰り広げた宗教戦争、知性の勝利とも言うべき科学研究によって人類消滅の技術を開発してしまった歴史を意味している。
▽ 人間の偉大さの象徴とも言うべき思惟(考えること)、そしてその結果得られる理性(知性)によって、人は最良の存在者(天使)になろうとしながら最悪の存在者(禽獣)になってしまっている。このことの原因は、人間の悲惨な状態を救うために考えられた知性、科学的思惟、その応用、技術が結果的にたどり着く「大量破壊兵器」や「地球温暖化」の現実を受け止めることで納得できるだろう。
▽ もし、人間の理性の限界を理解することが理性に問われる最後の闘いであるなら、科学的知に問われる最後の科学的知識は、その科学的知の限界を理解することではないだろうか。
▽ つまり、パスカルが求めた最も高度な科学的理解とは「傲慢さ」を作り出す科学的知識でなく、むしろ、「人間の悲惨さの理解」するための科学的知ではないだろうか。
▽ しかし、あらゆる世界を理解するために前進的に進む科学的知によって、人が人の知の限界を理解することは可能なのか。もし可能なら、すでに科学的知性と呼ばれるものでない異質の知のあり方が登場するかもしれない。科学的知は「力」である以上、必然的に人間の傲慢さを生み出すのだ。しかも、その傲慢さを自覚することもできないぐらい、危機的な状況に来ているのが科学技術文明社会と呼ばれる現代社会の一面の姿である。
▽ 地球規模の生態系の危機的状況や人類を破滅させる核兵器所有とは、人間の傲慢さによって作り出されたもの、それは征服したと勘違いしている自然の逆襲であるともいえる。人間を生み出した自然、地球の生態系を支配し、それを制御できると錯覚した人間の姿こそ、自らの開発した核兵器によってその存在の危機を迎える姿なのかもしれない。つまり、それが人間の悲惨な、ある意味で滑稽な姿なのだろう。
▽ 正義を行うために悪を滅ぼす戦いをする。正義の名において殺戮(さつりつ)が許される。一人を殺すことを殺人とよび、敵を撲滅することを英雄と呼ぶ。殺戮行為には、正当な理由と不当な理由が歴史社会の中では常につけられる。その荷札をつけた屍(しかばね)の山を歴史は聖戦と呼び、あるいは大虐殺とも呼んできた。
「人間が狂気じみているのは避けがたいことなので、狂気じみていないことも、別種の狂気からいえば、やはり狂気じみていることになるであろう。」パスカル『パンセ』(414)
人に道徳を守らすには社会の規則が必要である。そのため政治学が研究された。
▽ 人間のこうした狂気じみた行為は避けがたいものであるとパスカルは言う。
▽ それでは、この避けがたい狂気、人間性に含まれる狂気をこれ以上増幅させないために、我々はこの精神病院の規則を作らなければならなかった。それが政治学であり、国際紛争を解決するための安保理事会の規則や国連軍であった。
▽ しかも、狂気を抑えるために、狂気を用いなければならないのである。
▽ 例えば、イラクの核兵器開発や生物兵器など大量殺戮兵器の開発を阻止するために、より強大な大量殺戮兵器をもった連合国、特にアメリカの軍隊が活躍する。核戦争を抑制するために、核軍備を行う。
▽ これが現実の狂気としての人間性が暴走しないための、最も有効な方法である。人類は、狂気を狂気によって抑制する方法を見つけ出したのである。その抑制の規則、それは気の狂った人々が混乱を起こして自分達で自分達に危害を加えないようにと作られた精神病院の規則のようなものなのだ。
▽ 狂気は人間の宿命であり、その狂気による混乱を防ぐために、社会や国家が必要とされ、法律や規則が作られ、軍隊や警察が作られ、場合によっては核爆弾や死刑台まで用意されているのである。
「彼ら(プラトンやアリストテレス)が政治について書いたのは、いわば精神病院の規則を作るためである」パスカル『パンセ』(331)
参考文献
1、 パスカル著 松浪信三郎訳 『パンセ(抄)』旺文社文庫、1970年10月、442p
2、 野田又夫 『パスカル』 岩波新書143 1953年10月、217p
3、 三木清 『パスカルにおける人間の研究』 岩波文庫 1980、231p
4、 甲斐潔信 「パスカルの『パンセ』における「人間の不均等」概念の研究
http://members.ld.infoseek.co.jp/pascaliankk/r0hajimeni.htm
5、 後藤嘉宏 「 『パスカルにおける人間の研究』にみられる三木清の弁証法について」 図書館情報メディア研究第4巻2号 2006年 pp19-32
中世社会の世界観の崩壊 ケプラーの地動説の影響
三石博行
中世的世界観から近代的世界観の転換 天動説からケプラーの地動説へ
▽ 中世西洋社会の人々は魔女や魔術を信じ、また人のうわさを批判的に検討する知性を持っていなかったのだろうかという問いに答えるために、逆に、魔女や魔術などの迷信を信じない、また不確かなうわさを聞いてもすぐにそれを信じない現代の我々の意識がどのようにして形成されたか、つまり、迷信を信じ、うわさを鵜呑みにしていた中世社会の人々の意識から、どのようにして脱皮してきたのかということに考えてみる。
▽ 現代社会から中世社会の人々の考え方や意識を観(み)ると、中世の人々が「魔女狩り裁判」をまじめに行っていたことが理解できない。そこで、この問題を考えるために、逆に当時の人々の世界観や社会常識に立って考えることにする。当時の人々の世界観について考えてみよう。
▽ 中世までの世界観の中で代表的な「天動説」について考えてみる。天動説はすべての天体が地球の周りを公転しているという説で、古代ギリシャのエウドクソス(紀元前4世紀)やアリストテレス(紀元前384年-322年)によって宇宙の中心に地球を置き、その周りを天体が同心円上に公転しているという説である。アリストテレスは「天体は永遠に運動している」という考えをもっていた。そして、その後天動説は、紀元後2世紀にクラウディウス・プトレマイオスによって体系化されたのである。アリストテレスに影響される中世ヨーロッパ社会の学問(スコラ学)では、天動説が採用されることになる。
▽ この天動説に対して古代ギリシャのピタゴラスは地球が自転し、太陽の周りを公転しているという宇宙観である地動説を提案していた。このピタゴラスの地動説は15世紀にキリスト教神学者であるコペルニクス(1473年から1543年)によって復活する。コペルニクスの地動説は、確かに現代の天文学の理論である太陽を中心にその周りを地球を含めた惑星が公転しているという説であったが、地球を含めた諸惑星は太陽の回りで完全な円運動をしており、現在の理論(地動説)とは異なるものであった。つまり、コペルニクスの地動説も、アリストテレスの自然学における自然運動(同心円運動)と同じ考え方に立っていたので。
▽ コペルニクスの地動説はジョルダーノ・ブルーノによってその後継承される。ブルーノはイタリアの哲学者、宗教家・神学者である。彼はヨーロッパを放浪しながら、フランスのパリのソルボンヌ大学や当ルーズ大学、オックスフード大学で教鞭を取る。ブルーノはスコラ学派(中世ヨーロッパ社会でキリスト教神学者・哲学者によって確立し、当時の大学で教えられていた文献学と弁証法的討論を方法とする学問)の権威たるアリストテレスの自然学を批判し120のテーゼを書いた。そのことが問題となり裁判に巻き込まれ、最後はローマで7年間もの獄中生活を送ることになる。そして最後は、彼は地動説を唱えたことで異端審問に掛けられ1600年に火あぶりの刑に処せられた。
▽ コペルニクスやブルーノの地動説は太陽の回りを地球や他の惑星が同心円運動をしているというもので、今日の天体運動と異なるものであり、精密なものではなかった。その後、ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラー(1571年-1630年)は天体望遠鏡による観測と惑星運動の数学的裏付けを行いながらケプラーの法則を打ち立て、ガリレオやニュートンを経て成立する古典物理学の基本を提唱した。ケプラーによって、今日の惑星運動、つまり楕円軌道をえがく惑星運動の説明(地動説)が確立した。
▽ 2世紀にクラウディウス・プトレマイオスによって唱えられた天動説は1609年に「新天文学」の中でケプラーが唱えた「ケプラーの法則」によって、体系的に乗り越えられる。中世ヨーロッパ社会の基本的な世界観であった天動説(地球を中心とした天体運動、キリスト教スコラ哲学の世界観)が崩壊するのである。現代の地動説の理論は緻密な天体観測に基づいてケプラーによって唱えられたものである。この天動説からケプラーの地動説への変換の意味は新しい天文学理論の形成という意味以上に世界観の変化を意味する。つまり、科学史の中で語られる「パラダイム変換」を意味する。天動説からケプラーの地動説の変換によって、中世の科学(スコラ学)が崩壊し、アリストテレスの世界観が終焉し、その世界観を基にして出来上がっていた中世社会の支配構造が崩壊していったことを意味するのである。
▽ 例えば、感覚的に星や太陽が東から昇り西に沈む天体の運動を観ているなら、素朴に太陽が東から昇り西の空に沈むと言っている。その限り、人々は朝日や夕日を見ながら「地球が動いている」と感じることはない。感覚的には「太陽が動いている」と思い、「星が動いている」と感じているのである。
▽ アリストテレスの自然哲学(自然観)を簡単に説明するなら、現象として我々の感覚に見える、感じる世界(形相)があって、その世界の存在は物質(質料)によって出来ている。つまり、世界の存在は感じられるものである。感じられるように世界は存在している。そのため、肉眼で感じる世界、天体の存在が天体の本質的な姿を示している。知覚観測によって存在している世界のあり方が理解される。言い換えると、太陽が動いていると感じる以上、太陽は我々の地球(大地)の上を動いていることになる。その視点が天動説の根拠になる。誰も、太陽や星の観測をしながら「今日も地球は動いている」と感じる人はいない。天動説は素朴な人間的感覚を土台にした最も分かりやすい天体運動の理論(説明)なのである。
▽ 現代の社会で、太陽が西の沈む光景を誰が見ても、「地球が動いている」と感じる人は一人もいないだろうが、しかし、義務教育を受けた人なら、誰一人として、太陽が地球の周りを回っていると説明する人もいない。しかし、小中学で太陽系の学習をして地動説を理解していても、我々は、夕日を眺めながら「日が沈む」と確かに言っているのである。では、どうして「日が沈む」と言いながら、頭の中で「地球は自転している」と理解するのだろうか。
▽ ケプラーは望遠鏡(肉眼)で観測して得られた情報(データ)を数学的に整理する手法で、天体運動の理論をまとめた。つまり、それまでも望遠鏡で感覚的に観測しているのであるからケプラーの観測方法とそう変わらないのである。しかし、ケプラー以前は、天体観測のデータを数学的に整理することはしなかったのである。ケプラーは数学という論理の世界で観測データを整理してみた。何故なら、ばらばらの惑星運動を一つの法則で説明するために(神の法則は一つである以上、一つの法則が宇宙を支配している筈であると信じていたので)、人間的な感覚の入る余地のない厳密な計量的方法、数学的方法によって整理したのである。その視点が、それまでの天体観測の方法と基本的に異なることになる。
▽ つまり、自然観測から得られたデータを、数学という道具を用いて再度解釈する、現代科学の基本がそれによって確立するのである。アリストテレスの世界観、人間的感覚を中止とした世界から、それを超越した世界(イデアの世界)を理解する方法として神のことば(数学)を用いることで、宇宙の法則(神の法則)を見つけ出そうとしたのであった。コペルニクスやブルーの物理神学の思想を継承しながら、観測データの数学的解釈という新たな世界を切り開いたのである。ケプラーの法則は、ガリレオの落下の法則と共に、その後、デカルト、パスカル、ニュートンやライプニッツへと大きな影響を与え、近代科学の形成の土台を創ったのである。
▽ アリストテレスの自然学を基礎付けた感覚世界(感覚的経験主義)が根本から否定され、論理(数学)的経験主義へと変化したのが、天動説から地動説への世界観の変化、つまり、中世社会の世界観から新しい近代合理主義社会の世界観の変化を意味するのである。
中世的世界観から近代的世界観の転換 天動説からケプラーの地動説へ
▽ 中世西洋社会の人々は魔女や魔術を信じ、また人のうわさを批判的に検討する知性を持っていなかったのだろうかという問いに答えるために、逆に、魔女や魔術などの迷信を信じない、また不確かなうわさを聞いてもすぐにそれを信じない現代の我々の意識がどのようにして形成されたか、つまり、迷信を信じ、うわさを鵜呑みにしていた中世社会の人々の意識から、どのようにして脱皮してきたのかということに考えてみる。
▽ 現代社会から中世社会の人々の考え方や意識を観(み)ると、中世の人々が「魔女狩り裁判」をまじめに行っていたことが理解できない。そこで、この問題を考えるために、逆に当時の人々の世界観や社会常識に立って考えることにする。当時の人々の世界観について考えてみよう。
▽ 中世までの世界観の中で代表的な「天動説」について考えてみる。天動説はすべての天体が地球の周りを公転しているという説で、古代ギリシャのエウドクソス(紀元前4世紀)やアリストテレス(紀元前384年-322年)によって宇宙の中心に地球を置き、その周りを天体が同心円上に公転しているという説である。アリストテレスは「天体は永遠に運動している」という考えをもっていた。そして、その後天動説は、紀元後2世紀にクラウディウス・プトレマイオスによって体系化されたのである。アリストテレスに影響される中世ヨーロッパ社会の学問(スコラ学)では、天動説が採用されることになる。
▽ この天動説に対して古代ギリシャのピタゴラスは地球が自転し、太陽の周りを公転しているという宇宙観である地動説を提案していた。このピタゴラスの地動説は15世紀にキリスト教神学者であるコペルニクス(1473年から1543年)によって復活する。コペルニクスの地動説は、確かに現代の天文学の理論である太陽を中心にその周りを地球を含めた惑星が公転しているという説であったが、地球を含めた諸惑星は太陽の回りで完全な円運動をしており、現在の理論(地動説)とは異なるものであった。つまり、コペルニクスの地動説も、アリストテレスの自然学における自然運動(同心円運動)と同じ考え方に立っていたので。
▽ コペルニクスの地動説はジョルダーノ・ブルーノによってその後継承される。ブルーノはイタリアの哲学者、宗教家・神学者である。彼はヨーロッパを放浪しながら、フランスのパリのソルボンヌ大学や当ルーズ大学、オックスフード大学で教鞭を取る。ブルーノはスコラ学派(中世ヨーロッパ社会でキリスト教神学者・哲学者によって確立し、当時の大学で教えられていた文献学と弁証法的討論を方法とする学問)の権威たるアリストテレスの自然学を批判し120のテーゼを書いた。そのことが問題となり裁判に巻き込まれ、最後はローマで7年間もの獄中生活を送ることになる。そして最後は、彼は地動説を唱えたことで異端審問に掛けられ1600年に火あぶりの刑に処せられた。
▽ コペルニクスやブルーノの地動説は太陽の回りを地球や他の惑星が同心円運動をしているというもので、今日の天体運動と異なるものであり、精密なものではなかった。その後、ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラー(1571年-1630年)は天体望遠鏡による観測と惑星運動の数学的裏付けを行いながらケプラーの法則を打ち立て、ガリレオやニュートンを経て成立する古典物理学の基本を提唱した。ケプラーによって、今日の惑星運動、つまり楕円軌道をえがく惑星運動の説明(地動説)が確立した。
▽ 2世紀にクラウディウス・プトレマイオスによって唱えられた天動説は1609年に「新天文学」の中でケプラーが唱えた「ケプラーの法則」によって、体系的に乗り越えられる。中世ヨーロッパ社会の基本的な世界観であった天動説(地球を中心とした天体運動、キリスト教スコラ哲学の世界観)が崩壊するのである。現代の地動説の理論は緻密な天体観測に基づいてケプラーによって唱えられたものである。この天動説からケプラーの地動説への変換の意味は新しい天文学理論の形成という意味以上に世界観の変化を意味する。つまり、科学史の中で語られる「パラダイム変換」を意味する。天動説からケプラーの地動説の変換によって、中世の科学(スコラ学)が崩壊し、アリストテレスの世界観が終焉し、その世界観を基にして出来上がっていた中世社会の支配構造が崩壊していったことを意味するのである。
▽ 例えば、感覚的に星や太陽が東から昇り西に沈む天体の運動を観ているなら、素朴に太陽が東から昇り西の空に沈むと言っている。その限り、人々は朝日や夕日を見ながら「地球が動いている」と感じることはない。感覚的には「太陽が動いている」と思い、「星が動いている」と感じているのである。
▽ アリストテレスの自然哲学(自然観)を簡単に説明するなら、現象として我々の感覚に見える、感じる世界(形相)があって、その世界の存在は物質(質料)によって出来ている。つまり、世界の存在は感じられるものである。感じられるように世界は存在している。そのため、肉眼で感じる世界、天体の存在が天体の本質的な姿を示している。知覚観測によって存在している世界のあり方が理解される。言い換えると、太陽が動いていると感じる以上、太陽は我々の地球(大地)の上を動いていることになる。その視点が天動説の根拠になる。誰も、太陽や星の観測をしながら「今日も地球は動いている」と感じる人はいない。天動説は素朴な人間的感覚を土台にした最も分かりやすい天体運動の理論(説明)なのである。
▽ 現代の社会で、太陽が西の沈む光景を誰が見ても、「地球が動いている」と感じる人は一人もいないだろうが、しかし、義務教育を受けた人なら、誰一人として、太陽が地球の周りを回っていると説明する人もいない。しかし、小中学で太陽系の学習をして地動説を理解していても、我々は、夕日を眺めながら「日が沈む」と確かに言っているのである。では、どうして「日が沈む」と言いながら、頭の中で「地球は自転している」と理解するのだろうか。
▽ ケプラーは望遠鏡(肉眼)で観測して得られた情報(データ)を数学的に整理する手法で、天体運動の理論をまとめた。つまり、それまでも望遠鏡で感覚的に観測しているのであるからケプラーの観測方法とそう変わらないのである。しかし、ケプラー以前は、天体観測のデータを数学的に整理することはしなかったのである。ケプラーは数学という論理の世界で観測データを整理してみた。何故なら、ばらばらの惑星運動を一つの法則で説明するために(神の法則は一つである以上、一つの法則が宇宙を支配している筈であると信じていたので)、人間的な感覚の入る余地のない厳密な計量的方法、数学的方法によって整理したのである。その視点が、それまでの天体観測の方法と基本的に異なることになる。
▽ つまり、自然観測から得られたデータを、数学という道具を用いて再度解釈する、現代科学の基本がそれによって確立するのである。アリストテレスの世界観、人間的感覚を中止とした世界から、それを超越した世界(イデアの世界)を理解する方法として神のことば(数学)を用いることで、宇宙の法則(神の法則)を見つけ出そうとしたのであった。コペルニクスやブルーの物理神学の思想を継承しながら、観測データの数学的解釈という新たな世界を切り開いたのである。ケプラーの法則は、ガリレオの落下の法則と共に、その後、デカルト、パスカル、ニュートンやライプニッツへと大きな影響を与え、近代科学の形成の土台を創ったのである。
▽ アリストテレスの自然学を基礎付けた感覚世界(感覚的経験主義)が根本から否定され、論理(数学)的経験主義へと変化したのが、天動説から地動説への世界観の変化、つまり、中世社会の世界観から新しい近代合理主義社会の世界観の変化を意味するのである。
魔女狩り裁判を引き起こす世界観
三石博行
思い込みを生み出す人間と社会の思想的背景
▽ 我々人類が歴史の中で繰り返される虐殺行為、ユダヤ人虐殺、魔女狩り、民族浄化、在日朝鮮人虐殺、クロアチア人虐殺、ツチ族虐殺等々、戦争行為以外に、多くの人々が犠牲になってきた。これらの虐殺を、私達は自分の日常生活と無縁の世界で行われた蛮行(ばんこう)であると考えた。
▽ しかし、現実は私たちの日常生活の中で発生している普通の人々が繰り広げた行為なのである。戦争という極限状態の中で繰り広げられる殺戮と違い、自分達の生活を守るため、それを破壊する者を取り締まり、未然に被害を防ぐために行った(人間的な)行為なのである。それだからこそ、これらの虐殺は過去の歴史や他国の話ではなく、いつでも将来、我々の社会に起こる現実なのである。そのことを理解しなければならない。
▽ 前回、こうした虐殺の背景と日常生活の中で生じる「いじめ」や「排除」が、その被害の規模は違っても、共通する原因によるものであると考えた。つまり、我々が「うわさ」や「他人への間違った思い込み」によって、他人に対して間違った行動を取ることがある。その間違った判断や行動の原因を徹底的に理解し、それを防ぐ対策(生きたかの技術)を身に付けなければならないことが課題となっている。
▽ 今回は、中世社会の世界観に深く関係している「魔女狩り裁判」を引き起こす社会観念(社会全体に共通して存在している意識)について考え、その考え方の何が「魔女狩り」の引き金になったのかを考える。そして、その考え方を批判し、点検するために、西洋社会では何が行われたのか。それは、現代どのように継承されているかを考える。
魔女狩り裁判の起こった中世ヨーロッパ社会の人々の意識(迷信と思い込みの起源)
▽ 「魔女狩り裁判」を引き起こす社会での人々の意識とはどのようなものなのか考えてみよう。「あの人は魔女だ」という「うわさ」を信じるためには、「魔女が存在する」ということと、人のうわさを疑わないという二つの要素が挙げられる。
▽ まず、「ひとのうわさを(簡単に)信じる」意識であるが、その意識は、今の時代でも、今の日本でも、つまり我々が日常的に何の疑いもなくよくやっている行為である。つまり、我々は日常生活の中でいつの間にかそう思い込んでいる。そう思い込んでいる根拠は「誰かがそう言っていた」とか「何となくそう思っていた」という主観と呼ばれる意識である。この思い込みを起こす主観的な意識は何も特別な意識ではなく誰でも持っている。どこの社会でも人々は自然にこの意識を持っている。つまり、そう思っているという主観的な意識は、全ての人々の生活の中に自然に存在している人間的な意識であると言える。
▽ しかし、現代の科学技術の発達している私達の社会で、もしある人が誰を「魔女だ」と言っても、誰もその人の言っていることを信じないだろう。何故なら、「魔女が現実に存在する」とまじめに信じる人は殆どいないからである。「魔術」もそれを使う「魔女」も非現実的な世界の話であり、迷信だと受け止められるだろう。そもそもこの社会では「魔女がいる」とか「魔術をつかって病気を流行らしている」ということはあり得ないこと、成立しない出来事である。私達の社会では、まじめに「魔女」の存在を信じる人がいない以上、「魔女狩り」は起こらないのである。
▽ 魔術を使い、ほうきに乗って空を飛ぶなどというのは「魔女の宅急便」(宮崎駿の漫画、1989年7月に東映で上映された。)や家庭の主婦として優しいご主人を助けるために魔法を使う可愛い奥様の話し「奥様は魔女」(1942年アメリカで上映された映画、1964年から1972年テレビドラマのシリーズでアメリカや日本で上映される。2004年にTBSで日本版のテレビドラマが放送される。)のように漫画や映画の話として存在する。
▽ 現代社会で、魔女が存在しないと我々が確信しているのは、魔女が使う超能力が「科学的な根拠」を持たないからである。つまり、現代人は「魔術」という非科学的な考え方を信じていないことになる。そして、魔女狩りをしていた中世の人々は「魔術」を信じていたことになる。その意味で、ヨーロッパ中世社会で行われた「魔女狩り裁判」は、現代社会では起こりようのない話となる。
▽ 従って、西洋中世社会での「魔女狩り」と同じような誰かを「魔女だと信じて」危害を加える歴史は、さすがに現代社会では起こらないのであるが、もう一つの原因である「うわさを信じてしまう」ことによって起こる虐殺行為は、前回説明したように、ユダヤ人虐殺、在日朝鮮人虐殺、クロアチア人虐殺、ツチ族虐殺等々と、魔女狩り裁判以降も、我々の社会の歴史の中で繰り返される。
▽ しかし、仮に現在、つい60年前に行われたナチスドイツのユダヤ人虐殺と同じような民族浄化がバルカン半島(クロアチア人虐殺)やアフリカ(ツチ族虐殺)で起こるなら、国際社会は「うわさを流し民族浄化をおこなう」蛮行(ばんこう)を許さないだろう。その意味で、21世紀の我々の社会は、魔女狩り裁判を行い多くの無実の人々を殺害した時代、異教徒や異民族を虐殺した時代とは異なるのである。そして、意図されて流れる「うわさ」や悪意をもった「うわさ」に対して、批判的に対応できる社会となっている。
▽ 例えば、前回説明した今から87年前の1923年9月1日におこった関東大震災時の在日朝鮮人(韓国人)虐殺事件、「在日朝鮮人が暴徒化し」「井戸に毒を入れて、放火し回っている」というデマや噂が立って、6415名の人々(在日朝鮮人や在日中国人)が(当時の司法省は233名と発表したが)殺害された事件のような在日外国人への迫害事件は、1995年1月14日の阪神淡路大震災時では起こらなかった。確かに、阪神淡路大震災直後に「在日外国人が反倒壊した家に侵入して窃盗を働いている」といううわさが立った。しかし、そのうわさを新聞は批判した。1923年から72年を経て、民主主義国家に成長した日本社会の良識ある市民が得た人権思想がその蛮行(ばんこう)を食い止めることが出来たのである。
▽ 「迷信を信じない科学的精神」と「噂などのような不確かな情報を簡単に信じないで、それを検証する批判精神」の二つが、魔女狩りとそれに類する悲惨な歴史を繰り返さないための力となっていることを理解できる。
中世社会の人々の意識 感覚中心の世界と魔女の存在
▽ 中世社会の世界観、古代社会から自然災害に対する恐怖、その対応を祈祷によって行っていた時代、占いや祈祷が政務として存在した時代、日本でも古代社会は祈祷師である卑弥呼が国を治め、また平安時代にも陰陽師(おんみょうじ)が政務(古代日本の律令制の下で中務省に陰陽寮(おんみょうりょう)という国の業務を司る官職)が大きな役割を果たしていた。
▽ 科学技術の進歩した現代社会から見れば、自然災害、例えば地震の原因もプレートの移動によって生じる現象であると理解され、その予知も研究されている。また台風の原因もその到来の予知も気象衛星によって正確に可能になっている。
▽ つまり、科学技術が進歩した社会では、ペストの原因はペスト菌であり、その感染経路はねずみと蚤であることや、旱魃(かんばつ)やエルニーニョ現象(南方振動とも呼ばれ、インドネシア付近と南太平洋東部では大気圧が異なることによって、赤道太平洋の海面水温や海流が変動しそれが気象へ影響を与える現象、日本では梅雨が長引き冷夏(れいか)と暖冬(だんとう)傾向になる気象現象で異常気象ではない)も科学的に解明されている。
▽ しかし、「現在でもアジア・アフリカ・南北アメリカの近代化の遅れた社会、例えばインディオやインディアンやニューギニアの原住民社会では祈祷や占いが重要な社会的役割を持ち、部族長や酋長と呼ばれる人々の多くは祈祷師である場合も多い。日本を始め先進国でも、伝統行事として五穀豊穣(ごこくほうじょう)や大漁追福(たいりょうついふく 大漁を願って仏事を営むこと)から天候や個人の吉凶(きっきょう)を占う事や、「払い清め」や呪術(じゅじゅつ)が社会に残っている。」(Wikipedia) これらの神事、占いや祈祷は古代社会からの名残であり、科学技術の進歩した社会でも、市民は縁起を担ぐために活用している。しかし、古代や中世社会では、この行事が国の政務として執(と)り行われていた。
▽ 祈祷や占いが社会で大きな影響力をもっていた社会では、魔術が信じられ、恐れられていた。そのため、「あの女は夜に魔女と話をしていた」という噂もありえる事実となる。「その女が、魔女から渡された毒を井戸に入れた」ので「ペストが流行った」という話もその時代の人々の意識からは決してあり得ない話ではなかった。
▽ 魔術や占いを信じる世界は、一言で言えば、科学的な考え方や理論がないのであるが、そもそも、我々の語る科学的な考え方も17世紀に西洋社会で芽生え、18世紀にヨーロッパで発展し、19世紀に生産制度に応用され社会化し、20世紀に巨大な産業システムを作ることで社会制度の中心となったのである。つまり、科学的な考え方がこの人類の歴史に登場したのは、精々(せいぜい)400年間未満なのである。それまでの社会は占いや祈祷によって社会が動いていたのであった。
▽ 近代・現代社会以前の社会での人々の意識では、世界の理解は、現在のように科学的機器があったわけでなく、直接人が観たもの、感じたものが世界であった。その意味で天動説が成立していた。現在のように、X線解析で物質の構造を調べ、スペクトル分析で分子構造を調べ、またクロマトグラフィーで分子を判明することもできないのである。
▽ 人間の直接見えるものが世界であった。見えるもの(形相)をもとにしてものの本質(存在)を理解する、謂わば(いわば)直接観察が中世までの科学(神学や哲学)の世界を知る方法であった。そのために中世では天体観測用の望遠鏡や占星術(せんせいじゅつ)用の道具が開発された。
▽ 世界を見ている感覚を前提にして成立している自然学が中世までの自然科学の姿であった。そのため、感覚を疑うことはなかった。つまり、感覚を疑うことは、自然観測を唯一の手段を疑うことになるのである。
▽ 感覚した世界を絶対条件に成立している世界、中世までの世界観では、幻覚や妄想も感覚された世界である以上、その存在を否定することは出来ない。つまり、「あの女が魔女と夜に話をしているのを聞いた」という妄想も、その本人にとってはリアルな出来事(妄想の多くがリアルである)である以上、現実の出来事として理解されるのである。その社会では、この妄想も、魔女の存在を信じている以上、「魔女と女が話をしていた」ということも実際に起きてもおかしくない話となる。そこで「あの女は魔女と密会をし、魔女から毒を貰っていた」ことが現実の話になっていくのである。
▽ つまり、中世社会での魔女狩り裁判は起こるべきして起こる社会現象であった。科学的知識や世界観が存在していなかった。人間の感覚しか世界を了解(理解)するすべを持たなかった。そのため、幻想や幻覚であれ見えるものは全て存在しえた。
▽ 例えば、皆さんが子供のころ、闇が怖くなかったかを考えてみよう。あの闇の中から登場する恐ろしい化け物や幽霊(ゆうれい)は、自分の持っているイメージであるにもかかわらず、子供はそれを怖がっていた。彼らの意識は、中世社会の人々の意識と同じなのかもしれない。
思い込みを生み出す人間と社会の思想的背景
▽ 我々人類が歴史の中で繰り返される虐殺行為、ユダヤ人虐殺、魔女狩り、民族浄化、在日朝鮮人虐殺、クロアチア人虐殺、ツチ族虐殺等々、戦争行為以外に、多くの人々が犠牲になってきた。これらの虐殺を、私達は自分の日常生活と無縁の世界で行われた蛮行(ばんこう)であると考えた。
▽ しかし、現実は私たちの日常生活の中で発生している普通の人々が繰り広げた行為なのである。戦争という極限状態の中で繰り広げられる殺戮と違い、自分達の生活を守るため、それを破壊する者を取り締まり、未然に被害を防ぐために行った(人間的な)行為なのである。それだからこそ、これらの虐殺は過去の歴史や他国の話ではなく、いつでも将来、我々の社会に起こる現実なのである。そのことを理解しなければならない。
▽ 前回、こうした虐殺の背景と日常生活の中で生じる「いじめ」や「排除」が、その被害の規模は違っても、共通する原因によるものであると考えた。つまり、我々が「うわさ」や「他人への間違った思い込み」によって、他人に対して間違った行動を取ることがある。その間違った判断や行動の原因を徹底的に理解し、それを防ぐ対策(生きたかの技術)を身に付けなければならないことが課題となっている。
▽ 今回は、中世社会の世界観に深く関係している「魔女狩り裁判」を引き起こす社会観念(社会全体に共通して存在している意識)について考え、その考え方の何が「魔女狩り」の引き金になったのかを考える。そして、その考え方を批判し、点検するために、西洋社会では何が行われたのか。それは、現代どのように継承されているかを考える。
魔女狩り裁判の起こった中世ヨーロッパ社会の人々の意識(迷信と思い込みの起源)
▽ 「魔女狩り裁判」を引き起こす社会での人々の意識とはどのようなものなのか考えてみよう。「あの人は魔女だ」という「うわさ」を信じるためには、「魔女が存在する」ということと、人のうわさを疑わないという二つの要素が挙げられる。
▽ まず、「ひとのうわさを(簡単に)信じる」意識であるが、その意識は、今の時代でも、今の日本でも、つまり我々が日常的に何の疑いもなくよくやっている行為である。つまり、我々は日常生活の中でいつの間にかそう思い込んでいる。そう思い込んでいる根拠は「誰かがそう言っていた」とか「何となくそう思っていた」という主観と呼ばれる意識である。この思い込みを起こす主観的な意識は何も特別な意識ではなく誰でも持っている。どこの社会でも人々は自然にこの意識を持っている。つまり、そう思っているという主観的な意識は、全ての人々の生活の中に自然に存在している人間的な意識であると言える。
▽ しかし、現代の科学技術の発達している私達の社会で、もしある人が誰を「魔女だ」と言っても、誰もその人の言っていることを信じないだろう。何故なら、「魔女が現実に存在する」とまじめに信じる人は殆どいないからである。「魔術」もそれを使う「魔女」も非現実的な世界の話であり、迷信だと受け止められるだろう。そもそもこの社会では「魔女がいる」とか「魔術をつかって病気を流行らしている」ということはあり得ないこと、成立しない出来事である。私達の社会では、まじめに「魔女」の存在を信じる人がいない以上、「魔女狩り」は起こらないのである。
▽ 魔術を使い、ほうきに乗って空を飛ぶなどというのは「魔女の宅急便」(宮崎駿の漫画、1989年7月に東映で上映された。)や家庭の主婦として優しいご主人を助けるために魔法を使う可愛い奥様の話し「奥様は魔女」(1942年アメリカで上映された映画、1964年から1972年テレビドラマのシリーズでアメリカや日本で上映される。2004年にTBSで日本版のテレビドラマが放送される。)のように漫画や映画の話として存在する。
▽ 現代社会で、魔女が存在しないと我々が確信しているのは、魔女が使う超能力が「科学的な根拠」を持たないからである。つまり、現代人は「魔術」という非科学的な考え方を信じていないことになる。そして、魔女狩りをしていた中世の人々は「魔術」を信じていたことになる。その意味で、ヨーロッパ中世社会で行われた「魔女狩り裁判」は、現代社会では起こりようのない話となる。
▽ 従って、西洋中世社会での「魔女狩り」と同じような誰かを「魔女だと信じて」危害を加える歴史は、さすがに現代社会では起こらないのであるが、もう一つの原因である「うわさを信じてしまう」ことによって起こる虐殺行為は、前回説明したように、ユダヤ人虐殺、在日朝鮮人虐殺、クロアチア人虐殺、ツチ族虐殺等々と、魔女狩り裁判以降も、我々の社会の歴史の中で繰り返される。
▽ しかし、仮に現在、つい60年前に行われたナチスドイツのユダヤ人虐殺と同じような民族浄化がバルカン半島(クロアチア人虐殺)やアフリカ(ツチ族虐殺)で起こるなら、国際社会は「うわさを流し民族浄化をおこなう」蛮行(ばんこう)を許さないだろう。その意味で、21世紀の我々の社会は、魔女狩り裁判を行い多くの無実の人々を殺害した時代、異教徒や異民族を虐殺した時代とは異なるのである。そして、意図されて流れる「うわさ」や悪意をもった「うわさ」に対して、批判的に対応できる社会となっている。
▽ 例えば、前回説明した今から87年前の1923年9月1日におこった関東大震災時の在日朝鮮人(韓国人)虐殺事件、「在日朝鮮人が暴徒化し」「井戸に毒を入れて、放火し回っている」というデマや噂が立って、6415名の人々(在日朝鮮人や在日中国人)が(当時の司法省は233名と発表したが)殺害された事件のような在日外国人への迫害事件は、1995年1月14日の阪神淡路大震災時では起こらなかった。確かに、阪神淡路大震災直後に「在日外国人が反倒壊した家に侵入して窃盗を働いている」といううわさが立った。しかし、そのうわさを新聞は批判した。1923年から72年を経て、民主主義国家に成長した日本社会の良識ある市民が得た人権思想がその蛮行(ばんこう)を食い止めることが出来たのである。
▽ 「迷信を信じない科学的精神」と「噂などのような不確かな情報を簡単に信じないで、それを検証する批判精神」の二つが、魔女狩りとそれに類する悲惨な歴史を繰り返さないための力となっていることを理解できる。
中世社会の人々の意識 感覚中心の世界と魔女の存在
▽ 中世社会の世界観、古代社会から自然災害に対する恐怖、その対応を祈祷によって行っていた時代、占いや祈祷が政務として存在した時代、日本でも古代社会は祈祷師である卑弥呼が国を治め、また平安時代にも陰陽師(おんみょうじ)が政務(古代日本の律令制の下で中務省に陰陽寮(おんみょうりょう)という国の業務を司る官職)が大きな役割を果たしていた。
▽ 科学技術の進歩した現代社会から見れば、自然災害、例えば地震の原因もプレートの移動によって生じる現象であると理解され、その予知も研究されている。また台風の原因もその到来の予知も気象衛星によって正確に可能になっている。
▽ つまり、科学技術が進歩した社会では、ペストの原因はペスト菌であり、その感染経路はねずみと蚤であることや、旱魃(かんばつ)やエルニーニョ現象(南方振動とも呼ばれ、インドネシア付近と南太平洋東部では大気圧が異なることによって、赤道太平洋の海面水温や海流が変動しそれが気象へ影響を与える現象、日本では梅雨が長引き冷夏(れいか)と暖冬(だんとう)傾向になる気象現象で異常気象ではない)も科学的に解明されている。
▽ しかし、「現在でもアジア・アフリカ・南北アメリカの近代化の遅れた社会、例えばインディオやインディアンやニューギニアの原住民社会では祈祷や占いが重要な社会的役割を持ち、部族長や酋長と呼ばれる人々の多くは祈祷師である場合も多い。日本を始め先進国でも、伝統行事として五穀豊穣(ごこくほうじょう)や大漁追福(たいりょうついふく 大漁を願って仏事を営むこと)から天候や個人の吉凶(きっきょう)を占う事や、「払い清め」や呪術(じゅじゅつ)が社会に残っている。」(Wikipedia) これらの神事、占いや祈祷は古代社会からの名残であり、科学技術の進歩した社会でも、市民は縁起を担ぐために活用している。しかし、古代や中世社会では、この行事が国の政務として執(と)り行われていた。
▽ 祈祷や占いが社会で大きな影響力をもっていた社会では、魔術が信じられ、恐れられていた。そのため、「あの女は夜に魔女と話をしていた」という噂もありえる事実となる。「その女が、魔女から渡された毒を井戸に入れた」ので「ペストが流行った」という話もその時代の人々の意識からは決してあり得ない話ではなかった。
▽ 魔術や占いを信じる世界は、一言で言えば、科学的な考え方や理論がないのであるが、そもそも、我々の語る科学的な考え方も17世紀に西洋社会で芽生え、18世紀にヨーロッパで発展し、19世紀に生産制度に応用され社会化し、20世紀に巨大な産業システムを作ることで社会制度の中心となったのである。つまり、科学的な考え方がこの人類の歴史に登場したのは、精々(せいぜい)400年間未満なのである。それまでの社会は占いや祈祷によって社会が動いていたのであった。
▽ 近代・現代社会以前の社会での人々の意識では、世界の理解は、現在のように科学的機器があったわけでなく、直接人が観たもの、感じたものが世界であった。その意味で天動説が成立していた。現在のように、X線解析で物質の構造を調べ、スペクトル分析で分子構造を調べ、またクロマトグラフィーで分子を判明することもできないのである。
▽ 人間の直接見えるものが世界であった。見えるもの(形相)をもとにしてものの本質(存在)を理解する、謂わば(いわば)直接観察が中世までの科学(神学や哲学)の世界を知る方法であった。そのために中世では天体観測用の望遠鏡や占星術(せんせいじゅつ)用の道具が開発された。
▽ 世界を見ている感覚を前提にして成立している自然学が中世までの自然科学の姿であった。そのため、感覚を疑うことはなかった。つまり、感覚を疑うことは、自然観測を唯一の手段を疑うことになるのである。
▽ 感覚した世界を絶対条件に成立している世界、中世までの世界観では、幻覚や妄想も感覚された世界である以上、その存在を否定することは出来ない。つまり、「あの女が魔女と夜に話をしているのを聞いた」という妄想も、その本人にとってはリアルな出来事(妄想の多くがリアルである)である以上、現実の出来事として理解されるのである。その社会では、この妄想も、魔女の存在を信じている以上、「魔女と女が話をしていた」ということも実際に起きてもおかしくない話となる。そこで「あの女は魔女と密会をし、魔女から毒を貰っていた」ことが現実の話になっていくのである。
▽ つまり、中世社会での魔女狩り裁判は起こるべきして起こる社会現象であった。科学的知識や世界観が存在していなかった。人間の感覚しか世界を了解(理解)するすべを持たなかった。そのため、幻想や幻覚であれ見えるものは全て存在しえた。
▽ 例えば、皆さんが子供のころ、闇が怖くなかったかを考えてみよう。あの闇の中から登場する恐ろしい化け物や幽霊(ゆうれい)は、自分の持っているイメージであるにもかかわらず、子供はそれを怖がっていた。彼らの意識は、中世社会の人々の意識と同じなのかもしれない。