2008年1月31日木曜日

日常性を維持する力

日常生活の意識構造
- 生存するために人類が身につけた精神構造 -
三石博行

常識の意識構造

日常生活の中では、常識、慣習や決まりに従いながら判断を行う。それらの判断は、生きて生活するという行為にとって必要な選択の基準や方向を決めるためのものである。日常生活の判断基準をフロイトの精神分析学では現実則と呼ぶようだ。
現実則とは、現実の自我、生活している自分を生かすために用意された判断、行為選択の基準、決まりや規則である。もっとも代表的なものが常識である。常識は生活習慣を取り決めた決まりである。生活人にとって常識に反するという表現は厳しい非難になり、共同社会から排除される理由として使われる。
その意味で常識は明確に意識化された生活行為の抑制と刺激の方法であり、それをここでは現実則と呼んでいる。常識は、その意味で生活者個人の意識や生活行為の次元で理解される共同体の規則、意識構造を意味する。

慣習の意識構造

共同社会を維持するための社会の慣わし、習慣や慣習がある。これらの習慣や慣習は常識と同じように日常生活の生活様式を決定付けている。しかし、「人によって習慣が違う」とか「家族によって慣習が異なる」と言うように、常識ほど厳しくある一つの生活様式の概念に規格されていない。
しかし、習慣や慣習の異なる人々を生活文化の異なる人々と呼ぶ。それらの人々はお互いに異なる社会常識を持ち、お互いに日常的に交流することはない。つまり、習慣や慣習が異なると言うことが、生活文化に対する価値概念が異なることを意味する。
その意味で習慣や慣習はさほど明確に意識化されていない生活活動の抑制や刺激の方法であり、文化や生活環境の次元で理解される共同体の規則、文化を意味する。

タブーの意識構造

共同社会を維持するために社会的な価値観がある。否定的な価値観をタブーと呼び、肯定的価値観を崇拝と呼ぶ。人々はタブーを犯すことで社会から排除される。人々は崇拝を勝ち取ることで社会から歓迎される。その二つの社会的価値によって、生活は方向付けれれる。
多くの生活者が、否定的価値観に反せずに生きることも出来ず、また肯定的価値観に則して生きることも出来ない。つまり、それらはある理想の生活様式を意味する。現実の生活では、タブーも崇拝も神棚にしまい込まれた偶像のようなものであるが、その偶像を無くすことによって、生活習慣や常識は失われる。
その意味で、タブーや崇拝は無意識的な生活活動の抑制や刺激の方法であり、その方法を快感原則と呼んでいる。タブーや崇拝は、その意味で感覚や感性の次元で理解される共同体の規則、規範を意味する。

日常性を維持する精神機能

日常生活の意識構造、常識、習慣、慣習、タブーや崇拝は、ある個人が勝手に決めたものでない。それは言語のようにいつの間に、自分を作り、自分はそれによって創られているのである。それらによって生きることの出来る根拠は、それらの規則が、自分の身の回りにいる自分以外の人々によって日常的に信じられ、執り行われ、解釈了解されているという現実からである。
これらのすでに与えられている判断基準に従うことによって、簡単に生存することが出来るのである。それらの判断基準に則して、周りの人々と同じように認知し、解釈し、指示を出すことが出来る。そのことは共同行動が可能になったことを意味している。その判断基準の則して行動する限りに於いて、他人とのトラブルは頻繁に生じない。
トラブルを生じさせないという精神構造は共同体にとって、最も効率良い機能である。行為の目的を効率良く果たすために、目的の行為を行う以外に出来る限りエネルギーを消費しないように、全ての生命力を共同体維持のために使い切るための方法として常識や習慣などの日常生活の判断基準、現実則が必要とされるのである。
その意味で、常識は共同生活の歴史の中で生み出された生命や生活を守るための知識であり技術である。言い換えると、人類は長い間、厳しい自然の中で、食物を集め、狩をし、敵と戦い、子孫を残すために、共に支えあって生きてきた。その常識がなければ、人々は生き延びることは出来なかっただろう。

生命を維持するための手段

日常生活とは具体的な個人の生活を意味する。日常生活はある具体的な生活行動や生活空間で成立している。つまり、人々の生活は、常にある具体的な場所(空間)に限定される。人々の行動は、今という現在(時間)を越えて存在しようがない。日常生活は生きている現在に於いてのみ成立する具体的なある固有の人格の生活行為である。
言い換えると、日常生活にとってその連続は、それを構成する空間と時間の生存条件が存在し続けることを意味している。一時間の間、生存の場所を失うことで、日常生活は成立しなくなる。例えば、津波がある村を襲い、その村が波に飲み込まれ、一時間の間水浸しになったとすると、多分、多くの人の生命が奪われ、殆どの人の生活基盤が失われるであろう。
人は生存するために日常生活を維持しているのである。しかし、その日常性の条件を失うことで人は生存することが出来ない。人の生存は維持された日常性によって成立しているのである。例えば、食事をする、衛生的な生活環境を保持する、生命の危険から身を守る等々、命を守るために必要な環境を作り出し、その作り出された環境によって、生命を維持しているのである。
現実生活の社会秩序を守ることが常識の機能であると言うことは、それによって生存の条件を作りだそうとする人類の知恵であることに気付くのである。現実則は、他者との共存、社会的分業への参加、社会的機能の分担、共同生活等、それらの社会的行為を可能にするために身につけた方法、手段であり精神機能である。


にほんブログ村 哲学・思想ブログへ


0 件のコメント:

コメントを投稿