2008年1月25日金曜日

いじめるという行為

「いじめない」ことの困難さ

三石博行

いじめるという行為の文化性

いじめるということに鈍感である日本社会で、いじめるという行為がこれ程までに問題にされた歴史はないかもしれない。その意味で、いじめを問題にしたことは、ある古い文化が問題にされ、ある新しい文化が台頭しようとしていると理解していい。
では、どのような文化が批判されようとしているのだろうか。そして、どのような文化によって批判されているのだろうか。そのことを問題にしてみよう。

いじめとは暴力のあり方を示した表現である。いじめるという行為が他者を傷つけるという行為であることを日常的ないじめという行為で表現しているのであるが、それは肉体的な暴力と言われないのは、その行為が明らかに暴力でありながら、顕著な肉体的暴力の形態をとらない状態も含めているからである。
つまり、ことばによる暴力、態度での暴力、まなざしによる暴力等々、極めて顕著に、しかも、分かりやすく第三者に理解される暴力の形態を取っていないことが多いのである。「嫁をいじめる」とか「新入社員をいじめる」とかいじめは、いびること、陰湿に振舞われる暴力のニュアンスがある。
その意味で、ある文化的価値観(男らしさのモラル)から見れば恥ずかしい行為でもある。
しかし、もしその価値観から見ても恥ずかしくない態度でいじめが横行したなら、つまり、今のいじめも、軍国主義の時代のように新兵を暴力的に古参兵がいじめるように、陰湿なことばのいびりでなく、激しい暴力であれば、その行為によってつくられたあざや傷、怪我などで、その暴力は明らかに顕在化するだろう。そうなると、「男らしく」いじめた人はすぐにその暴力が発覚し、その結果、その行為は刑事的に問題にされ、結果的に刑務所か損害賠償金を取れれることになるだろう。
しかし、いじめる人間は、そこまでのリスクを掛けていじめる対象に「真剣に」向かい合っているわけではない。彼らは(我々は)社会的に問題にされるぎりぎりの境界線で振るわれる暴力の形を選択しながら、いじめるのである。この行為こそ、実に、現代社会のある精神構造、つまり今の日本の文化のあり方を示すもんではないだろうか。
いじめという行為の蔓延が現代日本の文化構造を意味するなら、その文化構造とは自我のあり方を意味すると謂える。つまり、その構造は私を作る精神世界の姿だと言うことになる。

いじめを語る我々は、弱いものをいじめる人は正しいことの好きな自分とは無縁の人であると思うだろう。そして、いじめをするひとを隔離し、どこか正しい空間から離し、間違った空間に閉じ込めてしまうのである。
もっと極端に言えば、いじめる人々、いじめっ子を捕まえて、それに厳しい制裁を加えることがいじめをなくする最も手っ取り早い解決策であると信じている大人、偉い教育者たちがいるのである。この意識構造こそ、いじめの基本的な精神構造、文化ではないかと思うのであるが、まじめに、教育者と呼ばれる人々がいじめっ子をいじめる対策を考える姿を見るとき、そこに今の日本の文化としてのいじめをみるのである。
いじめるという行為を対自化することが求められている文化(自我)である。そして、いじめるという行為を無自覚のまま放置できた文化(自我)が、今、問われているのかもしれない。

いじめるという行為、自我のあり方
入学して来た学生達に、「いじめられたことがあるか」というアンケートを取ると、殆どの学生が「ある」と答える。その逆の「いじめたことがあるか」という質問に「ある」と答える学生は少ない。そこで、いじめたことがないということばを「人を傷つけたことがあるか」と問いかけると「ある」という答えになる。「いじめる」と「ひとを傷つける」とは、そのニュアンスの違いは、暴力の程度なのか、それとも自己の行為への罪悪感なのか。
多くの人々が、ひとを傷つけてしまったという罪悪感(良心)を持っている。特に自分の愛する人に対してこの感情を持つ。この感情が愛なのだろう。ひどいいじめを受けてトラムウマになっている人に「あなたも誰かを傷つけたでしょう」と言うと、殆どの人が(学生が)自分の母だと言う。それは、その学生が母への愛という哀しみを持つからだろう。

学生に向って、パスカルが言てるんだけど、「人間には二種類の人間がいて、一人は自分を罪人だという善人と、もう一人は善人だという罪人」らしい。。。と話してから、このパルカルのことばから「自分を善人とも悪人とも」断定できない人間の姿が観えると話す。
何故なら、断定は必ず、その確信の逆の意味へ自分を導くからである。これほど、よく、人間の自己規定の姿を的確に表現したものはないだろう。また、これほと、反省の困難な姿を明快な一言で言い表した表現はないだろう。

人が生きること、よくよく考えなくても、お弁当にはいている肉は、ついこの前まで、豚小屋でかわいらしく歩いていた子豚であった。海の中を颯爽と泳いでいた魚であった。それをこうして食うことになる。
捕鯨反対の動物愛護、鯨を守る人々が、日本の捕鯨船に乱入したという話で、評論家達がテレビで議論していた。殆どが、経済の課題になる。しかし、あの乱入した人は、鯨を食わないことは理解できたのだが、牛を食っているのかなと疑問に思った。一回、彼に何を食っているのか聞いてみたかった。きっと、彼は菜食主義者かもしれない。それなら、よく分かる。きっと、そうに違いないと信じたい。
私は、菜食主義者ではない。昔、トサツ所で殺される子豚達を見たことがあった。あの悲鳴が今でも耳に残るが、それでも豚肉を食べている。それが私という人間である。

学生たちに「私は昔、番長みたいなことをいてね。ずいぶん人をいじめたと思うよ」と語る。すると、いじめられている学生のうつむいた目からは激しい敵意や嫌悪の靄(もや)が立ち込める。
「いまでも悔やんでいることがあってね。藤坂君という好きだった友達にひどいことを言ったんだ。それを今でも悔やんでいるのだよ。あれは中学一年生だったから、もう45年も経つんだけどね。いじめた奴も、こうしてそのことを一生悔やんだり、恥ずかしがったりしているんじゃやないか」と言うと、その靄(もや)のような嫌悪や敵意が引いていくのを感じた。

「いや、これは居直りでない。しかし、事実なのだ。人は弱いから人をいじめるのだ。なぜなら、いじめたいという欲望は最も人間的な欲望で、人と違う、自分が人より偉い、人に自分の優越性を見せ付けたい、等々。
普通の人は、自然にそう思うんだ。その証拠に、皆話し始めたら、自分の自慢話、子供の自慢話、兄弟の自慢、友達の自慢、恋人の自慢、になるだろう。」と言う。自慢話ほど聞いていられない話はないが、その聞きたくない人の話と同じことを本当は人にしたいと思っているのが我々である。

ここで、飛躍をしないように、まず、以下のことを理解しておきたい。つまり、一点目は、いじめるという概念を「人を傷つける」から「ひとにいやな思いをさせる」と拡張するなら、この聴いていられない自慢話もいじめの精神構造と少し類似することになる。
その上で、何が、問題かということである。問題は、それは自分と関係のない人々の慣わしであると思うか、自分の最も基本的な精神構造にその慣わしが住み着いていると思うかの違いになる。

したがって、いじめるという行為は、自己を中心としてみているしかない人間にとって、自然に、殆ど無意識的に、行われる行為のように思える。

いじめないという行為へ
「いじめない」ということを考えるとき、中学2年だったころの思い出が浮かぶ。それは、白石三郎先生のことばだった。中学の周りに生えていた松の木が春になると、すっと細長い小枝を伸ばす。その小枝は柔らかく、棒で叩くと、まるで刀にすっぱりと切られた枝のように簡単に折れる。その快感を味わいながら、パクパクとようやく待ち望んだ春に力いっぱい伸びる松の枝を切っていた。担任の白石先生が「君、その枝はまっすぐと伸びようとしているではないか。何故、そんな可哀そうなことをするのだ」と私に注意した。
その時、はじめて松が必死になって生きようとしている生命であることに気付いた。想像力のなさ。子供であるということを一言でいうと、想像力のなさだろう。そして無邪気な残酷さだろう。

いじめとはその無邪気な残酷さ、想像力のない子供じみた行為のように思える。いじめないということは、その無邪気で残酷な子供らしさから抜け出て、大人になること、想像力を持つこと、によって獲得される人間性ではないだろうか。

他者への共感は、自己にある他者という共通する存在を自覚した経験を前提にして生まれる。もっと高く伸びたかった白石先生には、まっすぐと高く伸びようとする松の若芽が美しく見えたのだ。その伸びようとする生命を残酷に切り落とす私の行為を見過ごすことは出来なかったのだろう。

いじめないという行為の困難さを教える。否、共に自覚しあうことが、いじめに対して大人が子供に語らなければならない作業かもしれない。

今は、あの白石三郎先生のように、諭す大人や教師がいないのだろうか。それとも、大人もこともと同じくらい陰湿ないじめにあっているのだろうか。


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