哲学に於いて生活とはそのすべての思索の根拠である。言い換えると哲学は、生きる行為、生活の場が前提になって成立する一つの思惟の形態であり、哲学は生きるための方法であり、道具であり、戦略であり、理念であると言える。また、哲学の入り口は生活点検作業である。何故なら、日常生活では無神経さや自己欺瞞は自然発生的に生まれるため、日常性と呼ばれる思惟の惰性形態に対して、反省と呼ばれる遡行作業を哲学は提供する。方法的懐疑や現象学的還元も、日常性へ埋没した惰性的自我を点検する方法である。生活の場から哲学を考え、哲学から生活の改善を求める運動を、ここでは生活運動と思想運動の相互関係と呼ぶ。そして、他者と共感しない哲学は意味を持たない。そこで、私の哲学を点検するためにこのブログを書くことにした。 2011年1月5日 三石博行 (MITSUISHI Hiroyuki)
ブログを書きながら、ブログでは表現できないものをホームページを使って表現してみようと思います。
ホームページの名前 「日常性と思想性の相補運動」にするか考えている採集です。取り合えず、進めてみます。
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/index.html
共同主観性って、純粋な「主観」が定立するという前提に立っての用語ですよね。しかし、人間があくまで間主観的な存在であるとしたら、そもそもそういう「透明な自我」っものは成り立たないわけです。「主観」の存在自体を疑ってみるというのはどーかな?オリジナルな「自己」なんて、錯覚では?
共同主観性って、純粋な「主観」が定立するという前提に立っての用語ですよね。しかし、人間があくまで間主観的な存在であるとしたら、そもそもそういう「透明な自我」っものは成り立たないわけです。「主観」の存在自体を疑ってみるというのはどーかな?オリジナルな「自己」なんて、錯覚では?
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