コルカタ
三十年ぶりのコルカタ。
昔のリキシャはタクシーに代わって、すごい排気ガスを出しながら走っている。
必死になってその日を生きている人々。
明日という幻想でなく、これから1時間後に生きていられるという幻想を痛いほど理解さす街。
それでも、人々は激しい喧騒の呼びかけ合いの中に、私の理解をはるかに超えたやさしさをもっていた。
それは理解を超えた文法と意味からなるクラクションのメロディーだった。
生きることに執着することは美しいのだとドロだらけのアスファルトから、
もうもうと湯煙を上げて、壊れた陶器のかけらが騒ぐ。
これは限界の世界だ。
これは狂気の世界だ。
それでも、人々の生はあまりにも軽く湯煙のように散っていく。
もし、明日があれば、それは奇跡だ。
もし、君と明日出会えれば、それも奇跡だ。
それは、寛容の世界だ。
それは、了解の世界だ。
しかし、もう私は眠い。
通りをたくさんの車や人が行き交い、街の喧騒と、色の氾濫とがらくたやそれに近い物のある景色が浮かんで来ました。
返信削除それらは、決して無口ではなく、たくさんのエネルギーを発散しながら存在し、生きている事を主張しているのかもしれないと思います。
見なれたように思う景色の中にも、何かが見つかるかもしれないと、ちょっと目をこすって、外を眺めてみる事にしたいと思います。