2010年4月27日火曜日

人間的な感性、思い込みから生まれた歴史の悲劇とその精神構造

三石博行

ユダヤ人虐殺や魔女狩り裁判の歴史

▽ ペスト大流行、疫病大災害によってキリスト教社会でおこるキリスト教義を逸脱した鞭説教(鞭を自分に打ちながら悪魔を追い払う行動を起こすカルト)が民衆の中に広まった。

▽ 町の人口の半数近くの死者を出したペストによる極端な人口減少によって、中世封建領主制の基本である領主と農奴の関係が壊れ、農民の賃労働(賃金をもらって働く)つまり小作農民が生まれる。また、賃金を払えない領主は小作農民へ土地を賃金の変わりに渡した。さらに、中世の医学(ギリシア医学・ピポクラテス主義やガレニズムの医学理論)の権威が失われ、中世大学(学問研究の中心)の人気もなくなった。

▽ 紀元1世紀にローマ帝国に滅ばされたユダヤ人たちが、長い流浪の果てにたどり着く中世ヨーロッパ社会で異教徒に対する弾圧や虐殺を受けることになるのだが、14世紀ヨーロッパでのペスト大流行は、その異教徒ユダヤ人の虐殺を助長し、300以上のユダヤ人社会が消滅したと言われている。

▽ ユダヤ人虐殺の引き金を引く「ユダヤ人が井戸に毒(ペストの原因となったもの)を入れた」という噂とそれを真に受けた告発、そして、その告発を受けて繰り広げられたユダヤ人狩り、拷問、死刑は、今から見れば、考えられない非人道的行為であるが、当時は一般の村民が、しかも良識ある人々が「自分達を悪魔(異教徒)から守るために行った」正義の行為と信じて行ったのである。


歴史の中で繰り返される史実・民族浄化と他民族虐殺

▽ 自称良識ある人々が繰り広げた虐殺の史実にこそ、私達が理解しておかなければならない問題が隠されている。歴史の中で繰り広げられる悲劇は、つねに、悪魔のような人々がいて、善良な人々を殺害するという、善悪の明確な事件ではない。それは、善良な人々が、繰り広げた恐ろしい(結果的には)事件である。この問題の本質を理解することが、この講義「現代社会と人権」の課題の一つである。

▽ つまり、こうした行為は、歴史の中で、何遍となく繰り返し行われてきた。また、これからも行われる可能性を持っている。そのことが重大な問題なのである。

▽ 身近で具体的な史実、例えば日本で起こった最近の出来事を挙げことが出来る。古いヨーロッパ社会でのユダヤ人虐殺と同じ行為が、今から87年前の日本でも起こっていた。1923年9月1日に起こった関東大震災では、「在日朝鮮人が暴徒化し」「井戸に毒を入れて、放火し回っている」というデマや噂が立って、6415名の人々(在日朝鮮人や在日中国人)が(当時の司法省は233名と発表したが)殺害された。この関東大震災時に起こった在日外国人の虐殺も、町内会の人々、いつもは在日外国人達と一緒に住んでいる町の人々、例えば働きに行っている勤め人、職人、お店の主人や町工場の経営者など、一般の庶民、良識ある生活を日常過ごしている人々であった。

▽ いつもは、共に生活している在日外国人が、災害時に危害を加える人々に変貌する妄想に取りつかれ、その恐怖のために、先に攻撃して殺したのである。この日常生活の中に潜む敵意や憎しみ、そして違和感や差別意識はどのようにして生まれたのかということを考えなければならないだろう。

▽ その後、戦争という非常事態の中で、ドイツナチスによるユダヤ人虐殺が起こる。優秀な民族としてのアーリア人(ドイツ民族)を保護し、劣等人種であるユダヤ人を虐殺する民族浄化(みんぞくじょうか)の思想が起こる。

▽ その民族浄化による第二世界大戦時のユダヤ人虐殺が人類史の汚点として批判され、多くの映像や文字として現代史の記録に刻み込まれたにもかかわらず、我々の歴史は、同じような民族大虐殺に終止符を打つことが出来ないまま、今日でもその忌わしい行為を繰り返し続けているのである。

▽ 1990年から起こるユーゴスラビア紛争中のセルビア人勢力によるクロアチア人の大虐殺、ルワンダ紛争中、1994年4月の誤ったラジオ放送によって起こったフツ族によるツチ族の虐殺では、フツ族の一般市民が参加し、ツチ族の女子供まで殺害した。その数なんと100万人と推察されている。

▽ これらの民族浄化と呼ばれる「大虐殺」は、戦争のように兵隊が敵の兵隊を殺害するのでなく、一般市民が「自分たちの生活や命を守るために」、それを脅かす人たちである異教徒や異民族を殺害する行為によって起こったである。

▽ つまり、この殺害は、関東大震災時の在日外国人の虐殺のように、社会がパニックになるとき、その非日常性に引きずられ、どこにでも起こり、だれでも起こす可能性を持っているのである。そして、なによりも重大なことは、簡単に、自分達もその殺害者にも殺害される側にもなりうるのである。つまり、常に我々はその二つの候補者なのである。

▽ 映画で映し出され、ニュースで報道される民族大虐殺の映像や報道は、まるで別の世界の話として、私達は聴いているし、観ている。しかし、どの虐殺も前提として「自分達の生活や命を脅かす人々から自分達の家族を守るために行った行為」であるという自己防衛(虐殺)に参加した人々の声がある。

▽ 実は、この自己防衛のために、殺すという行為を選んだ人々(私たち)の他民族に対する理由なき優越感と差別感、違和感と恐怖心、不寛容さと侮蔑心、どの国民も持っている自国への誇りや愛国心とその反作用とも言うべき他民族排他心、そしてどの人ももっている自我の形成に欠かせない自己確認とその自己確立の意識の反作用とも言うべき他者への差別意識、これらの人間本来のこころのありかたを問わない限り、この民族浄化と呼ばれる恐ろしい虐殺の基本構造は理解できないだろう。そして、なぜ普通の市民が虐殺に走ったのかを説明することも出来ないだろう。

▽ この問題は、「外国人と仲良くしましょう」という楽観的な平和共存主義だけでは解決しない重たい課題がひそんでいるように思える。そして、この重たい課題に、つまり自分の中にひそむ得体のしれない怪物たちと正面から向き合わない限り、これからも、必ずこの恐ろしい事件は起こるだろう。しかも、このおぞましい行為に、私達も参加する可能性を否定できないのである。


その行為のなにが問われているのか

▽ その原因は、実に身近に起こっている。つまり、うわさを聞いて、それを疑いもしないで思い込む。また、ある人の極端な意見をきいても、それを批判的に検証することはしないで、聞き流す。また、自分が受けた感じや感覚をそのまま信じて、疑いもしない。

▽ こうした残虐な行為は、例えば、フツ族の市民が放送を聞いて「ツチ族が殺害に来る」と思い込んだり、東京下町の町内会の人々が「在日朝鮮人が放火に来る」と思い込んだり、また「ユダヤ人が井戸に毒を入れた」という思い込みや誤解から生じる。

▽ しかも、誤解や思い込みは、私達が日常生活の中で自然に行っている人間的な行為なのだ。この私達の日常的な行為から「大虐殺」が生み出されているとすれば、それを防ぐには、どうしたらいいのだろうか。大変な課題が残される。

▽ 私達は、自分を中心にしてものを考える存在(主観的な存在)である。それだからこそ、自分という人間が生活し、生きることが出来る。そして、そのことが、他人と共存し、また張り合ったり、競争したりする。生きるということは、自分の世界を持つことである。しかし、そのことによって、自分の思いが生まれる。自分の思いを持たない人は居ない。ひとは全て、自分の思いを持っている。

▽ その自分の思い、自分でありたいと願う気持ち、自分で生きようとするこころ、そのこころと「思い込み」との境界はどこにあるのだろうか。思い込む力はひとが生きるために与えられたものではないか。自分の世界を持つ力が「思い込み」として現れる。

▽ 我々は、極めてぎりぎりの自分の主観的な世界、思い込みを起こす世界と、人を傷つける、極端な例として他の民族を虐殺する世界が表裏一体の姿であることに気付かないだろうか。

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