2012年3月22日木曜日

国民文化に根ざす報道の自由の意味と報道のモラル

山崎豊子著「運命の人」・TBSドラマの課題(2) 


三石博行


二つの報道の自由の主張

このドラマが問いかけた課題として報道の自由と報道のモラルの問題があった。二つの報道の自由、一つは弓成記者が主張した報道の自由、もう一つは弓成記者のスキャンダルを追いかけた二人の週刊誌聞記者鳥井と松中の主張した報道の自由である。

政府の密約を報道する大手新聞記者弓成の報道の自由は、国民を欺く国家に対して社会正義を背景に主張されたものであった。それに対して週刊誌記者鳥井の報道の自由は情報という商品を自由に国民に売ることを前提とした報道の自由であった。さらに同じく週刊誌記者松中も鳥井と同じ立場にあるが隠されている事実を報道しようという姿勢をもって商品としての情報を提供する自由であった。

この三人を通じて理解される報道の自由の意味の中には二つの立場が存在している。その二つの立場に共通するものは企業体、新聞社と週刊雑誌社という情報商品を売買する企業であることだ。そしてその二つの違いは、双方の記者にある主観的な情報提供の意味である。ひとつは、社会に正しい情報を伝えるという立場、もう一つは社会の必要としている情報を伝えるという立場である。新聞記者はジャーナリストの精神、つまり正しい社会報道に対する責任を持つことを自覚的に理解しようとしている。もう一つの週刊誌記者は市民の興味、欲望を満たそうとする社会報道に対して報道の焦点を当てることになる。


商業活動としての報道

つまり、週刊誌記者にとって週刊誌が売れることが記事の評価となる以上、大衆の要求を満たす記事を書くことになる。市民にとって、男と女の情事やスキャンダルが沖縄返還にまつわる密約問題よりも興味深いテーマなら、週刊誌記者の報道活動は、密約問題ではなく、弓成と三木がどのホテルで密会していたかという課題となる。

記事とう商品が売れなければ週刊誌社の企業活動は成立しないために、週刊誌は大衆の知りたい情報、知りたい課題、欲望にもっとも敏感に反応し続けることになる。これが週刊誌社の情報商業活動としての宿命である。そこに、ジャーナリズムのモラルという空論は存在していない。「書いて何ぼのもん」という算盤がつねに動く世界で記事を作る(造る)ことになる。

さすがに、大手新聞社の記者には、この手の泥臭いそして企業利益を最優先する週刊誌社の記者のような図太さはない。やはりジャーナリストの使命という建前が彼らの報道活動の視点やあり方を決定している。しかし、大手新聞社も究極のところでは、情報商品を生産する企業体であることには変わりはない。その限り、弓成の所属していた毎朝新聞社も弓成を解雇(形式的には辞職)することになる。つまり、弓成を解雇しない限り、弓成が三木事務官への性的関係を口実にした情報強要の手口、新聞記者としてあったはならない反社会的行為(週刊誌が書き立てた記事による)を認めることになるという論理(口実)が成立していた。実際、毎朝新聞社は不買運動によって倒産の危機に追いやられるのである。


幻想としての報道の自由や報道のモラル

民主主義を守るためには報道の自由が前提であるというのは、弓成の主観的な信念であったのだろうか。民主主義の主人公である国民は、沖縄返還に伴う密約問題、核の持込よりも、弓成記者と三木事務官の情事に、そして弓成がどのようにして三木事務官から情報を入手したかということに関心を持っていたのではないだろうか。

言い換えると、弓成が思い描いていた民主主義の基本原則、報道の自由は当時1970年代の日本国民の大半にとってはどうでもいいことであり、それよりも、男と女の話しを面白く、しかも興味深く書く週刊誌の記事の方が大切であったのではないだろうか。報道の自由は弓成の幻想だったのだろうか。そして、その打ち破られた幻想の果てに、今の原発事故や官僚たちの不正行為、被災者をそっちのけで政局を論じる国会議員たちが存続できる国の姿となっているのではないだろうか。

沖縄での米兵による少女暴行事件にしても、「本土の記者・報道機関」は少女の家に押しかけ、また過去の事件を調査し、被害者たちの身元を調べ、実名入りで記事を書く。なぜなら、国民はその少女の名前を知りたがっているからだ。その少女の家族、住所を知りたがっているからだと記者たちは信じて疑わないのである。しかし、弓成は現地沖縄の新聞社、新聞記者たちの少女の人権に配慮した取材や記事を知った。そして、報道人、ジャーナリストのモラルとは何かを問いかけた。

人権を考えれば、読者の欲望を満たす刺激的な記事は書けない。少女が男たちに強姦され、どんな姿になっていたか。少女は今どうしているか。少女の人権という言葉に阻止されて、少女の年齢は、容貌は、親は、家族は、学校は、住所は、家柄は等々、尽きない読者の欲望を掻き立てる記事は生まれないのである。経営的にみればこの人権は企業にとっては大きな損失を生み出す要因以外の何者でもないということだ。


国民文化としての報道の自由とモラル


2011年11月の行われた大阪市長選挙で、大阪府知事から大阪市長に立候補した橋下徹氏に対して週刊誌の誹謗中傷の記事が連日記載された。親がヤクザだったとか、部落出身者であるとか、親戚に犯罪者が居るとか、これでもかこれでもかと書き連ねた。

しかし、橋下氏はそうした記事に動揺することなく、大阪都市構想や経済復興の政策案を出し、相手の候補を誹謗することなく、選挙戦を戦った。大阪市民の反応は、むしろそうした橋下氏への支持に大きく傾いていった。「家族がそんな状況でも、彼は早稲田に入学して学生時代に司法試験に合格し、立派に家族を守っているではないか」と人々は橋下氏の健闘を祝福した。そして、彼は見事に市長選挙に勝った。

つまり、大阪市民は、1970年代の日本国民のように週刊誌の書くスキャンダル記事に動揺することは一切なかった。そして、大阪の町を繁栄させるためには橋下氏の主張が正しいと判断した。多分、殆どの大阪市民は週刊誌の記事の内容を知っていただろう。しかし、その内容に対して、大多数の人々が批判的に受けとめたとしても、大切なことは立候補者の政策ビジョンであることを理解していた。これが、橋下氏が当選したという結果を超えて、大阪市民の選挙に対する姿勢という民主主義風土の勝利であったと言えないだろうか。

この大阪市長選挙と沖縄返還密約文書(弓成スキャンダル事件)の二つの時代を通じて、日本の民主主義文化が成長したことを理解できると思う。つまり、週刊誌が橋下氏を誹謗しようと、弓成氏の情事をスキャンダルラスに描こうと、それを報道の自由と呼ぼうと、市民はそれが週刊誌社の商品であり、それを面白がる人々へのサービスとして理解し、どんな企業でも消費者のニーズにあわせて商品を提供するように、週刊誌社も橋下氏の悪口を読みたい人の需要にあった商品(記事)を書いて、商売をしているぐらいに理解したのだろう。

橋下氏は、ロス疑惑でありとあらゆることを週刊誌に書きたてられた故三浦和義氏とは違って週刊誌を名誉毀損で告訴したとは聞いていない。だからと言って、週刊誌が書きたてた誹謗を認めた訳でもない。それはすでに市民が選挙を通じて判断を示したと理解しているのではないだろうか。

もし、週刊誌社や新聞社の記者にジャーナリストとしてのモラルがあるなら、この大阪市長選挙での週刊誌報道と市長選挙での市民の反応を自らの職業精神に基づき検証する必要があるかもしれない。そして、民主主義文化が成長した社会で市民が必要とする情報、情報ニーズをもっと正しく理解する契機になるかもしれない。これが報道機能機能のモラルに対して問題提起する唯一の手段ではないだろうか。


つづき

三石博行 「沖縄と本土の二つの立場、敗戦国日本の戦後と現代に連なる課題として 」


引用、参考資料

1、TBS 日曜劇場 「運命の人」
http://www.tbs.co.jp/unmeinohito/cast/

2、Wikipedia ロス疑惑事件

3、三石博行 沖縄の現実を直視できない我々日本人とは何か 2012年3月22日


つづき

三石博行 「沖縄と本土の二つの立場、敗戦国日本の戦後と現代に連なる課題として 」



2012年3月23日誤字修正
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関連文書集

1、ブログ文書集「民主主義社会の発展のための報道機能のありかた」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/12/blog-post_03.html



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