2012年8月13日月曜日

なぜ、いじめが放置されるのか、そこに日本社会の構造がある

『人権学とは何か』
5章 いじめの構造とその対応


三石博行


社会文化の構造としてのいじめ

いじめの実態を隠すことがいじめ対策であった

滋賀県大津市の中学校で起こったいじめ(生徒の集団暴行)による生徒の自殺問題は、その地域や中学校における特別な事例ではないだろう。つまり、この現実は、これまで長年問題にされてきた「いじめ」を日本の教育制度やそれに関係している人々の力ではいじめ問題は解決できていないという事実に他ならない。

青森の私立高等学校でのいじめ問題は、さらに日本社会に衝撃を与えた。何故なら、教育者達がいじめられた被害者を退学勧奨していたからである。教育者達にとって、いじめ問題で騒ぐことは学校の秩序を壊す行為でしかなかった。そのため、いじめの現実をいち早く隠ぺいすることが、彼らのいじめ対策となった。世の中は、この学校の取った対応に驚いた。

被害の実態を隠し続けてきた国

しかし、よく見ると、その学校の対応に、実は、この国がこれまで行ってきた被害者の人権に対する対応のすべての構造が隠されていることに気付くのである。

例えば、広島や長崎に原爆が落とされ被爆した市民の救済に際して、爆心から半径2kmの同心円内の地域にいた人のみを被爆対象者として国は被爆者認定を行ってきた。現実は、それ以外の地域におおくの被爆者が発生していた。近年、「黒い雨」から落ちてきた放射性物質に被曝した人々の被曝問題が取り上げられているが、これまで半世紀以上も、被爆者はその事実を訴えてきた。しかし、国は被曝による病気という現実よりも、爆心地かの距離による被爆者認定基準を重視し続けてきたのである。

さらに、水俣病でも同じであった。やはりチッソ水俣工場からの距離が水俣病の認定基準となっていた。有明海の西側、天草の対岸は、水俣工場からの距離が遠いとして、水俣病を発病している被害者への認定を却下してきた。そして、認定申請は先月打ち切られた。

こうした現実、これは福島原発事故でも繰り返されることになるだろう国の対応、つまり、現実の被害者を救済することが、国民の権利を守ることが、国の役割ではなく、被害の現実にふたをし、その現実を国民全体に明らかにしない。被害は少なかったと言うことが、国民を安心させると考え、被害実態を隠ぺいし続けてきたのである。

学校は国のやり方に従っただけだった

こうした構造を思い起こせば、青森の私立高等学校で学校側がいじめにあった生徒に対して取った態度は、これまでの日本政府が戦争(原爆のみではないと思わる)や公害の被害者に取ってきた対応と同じであることに気付く。その意味で、学校側からすれば、何を世間や社会が騒ぐのだろうかと不思議な感じに襲われたかもしれない。

まったく、青森の高校だけでなく大津の中学でも、学校側が選んだ対応は、これまで国が選択した判断や行動の基準に即していただけに、彼らの方が、世の中の反応に驚いたに違いない。これが、日本の問題であると思える。学校は今まで国がやってきたやり方、被害の実態を隠す行為をしただけだった。それで、なぜ、いまさら自分たちが社会から騒がれるのか、多分、理解できない状態だろう。

実は、ここに、いじめが放置され、隠ぺいされ、対策をとれないまま、すでにこの問題が社会で取り上げられても、解決策を文科省も国も見つけられず、また、現場でも放置され続けてきた、基本的な構造が存在していると理解すべきである。

日本社会の在り方として受け止めない限り、いじめ問題の解決の道は見つけられない

いじめ問題を、いじめっ子といじめられっ子の問題にする評論家もいる。昔は、みんないじめられてきた。私も小学校のころいじめららて、強くなった。そして、こんどは私をいじめた連中をいじめ返した。そうして、弱いものをいじめることへ憤りも感じ、いじめるなと言っていじめた。

そうして昔の、良き時代のいじめ物語を、現在の子供たち、つまり、地域社会の共同体意識が崩壊し、核家族化した家族環境で成長してきた子供たちに説教することは、あまりにも、現在のいじめ問題の本質を理解していないと言えないだろうか。

真剣になって、自分の身になって、いじめをこども社会の問題でなく、日本社会全体の構造、つまり、これまで多くの被害者の人権を無視し続けてきた社会の一員として受け止めなければ、この問題を基本的に解決することはできない。

そして、いじめによって失われた命、また傷ついた人々の人生、さらには、いじめたことによって命を奪ってしまった自分を生涯抱えて生きる人々の、人間としての犠牲を無駄にしてはならない。

今後の課題

いじめの問題を「人権」に関する講義の中で取り上げながら、またソーシャルネットワーク(mixi)で、議論しながら、まとめた文章集「いじめの構造とその対応」がある。この文書を「人権学試論」の第五章にした。

その後、この課題から少し遠のいた研究活動を行ってきた。今一度、私自身、このいじめ問題に関しての議論を思い起こす必要がある。問題は何一つ解決されておらず、そればかりか、問題は深刻化しているのである。


引用、参考資料

ブログ文書集「人権学試論」目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/03/blog-post_22.html

1. 人権学とは何か
2. 暴力論
3. 人権擁護のための社会思想の課題
4. 現代社会の人権問題
5. いじめの構造とその対応
6. 人権問題としての「罪と罰」


5. いじめの構造とその対応
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/03/blog-post_22.html

5-1、いじめないこころを育てる教育(1) -暴力の理解-

5-2、いじめないこころを育てる教育は可能か(2)-人間教育教材としての「いじめ」-

5-3、こどものいじめと人権教育の課題

5-4、いじめを生み出す文化的構造

5-5、いじめるという行為 -「いじめない」ことの困難さ-

5-6、人権を守り維持する力・権力と文化


2012年8月15日 誤字修正
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