パウル・ツェランの詩「息の折り返し」が問い掛けた「詩的に表現することとは何か 詩に取って真実とは何か」と2015年1月2日公開された岩本拓郎氏2枚の絵について
- 水上勉氏とのフェイブック会話を通じて-
三石博行
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2015年1月2日に岩本拓郎氏がフェイスブックに記載した2枚の絵を巡て、水沢勉氏、岩本拓郎氏と私の三人は会話を始めた。
まず、水沢勉氏が この岩本氏の2枚の絵に「なぜかツェランの詩が浮かぶ・・・「氷河の部屋」・・・」とコメントした。しかし、私は、ツェランの詩氷河の部屋」を知らなかった。その意味も解らなかった。
このパウル・ツェランは現在はウクライナに属するブコビナ地方チェルニウツィー出身のドイツ系ユダヤ人であった。彼はユダヤ系の本名パウル・アンチェル(Paul Antschel)を隠すためにパウル・ツェラン( Paul Ancel) と名乗っていた。日本でも、非常に難しいドイツ語で書かれているパウル・ツェランの研究や紹介がなされている。彼の詩の紹介は例えば、「ツェラン特集、ユリイカ」、1992年1月号、青土社、のように、近年になって行われたと言える。
水沢氏は2008年7月に 横浜美術館レクチャールーム2008年7月に横浜美術館協力会の主催で開かれた横浜美術館レクチャールームの講演会の総合ディレクターであった。この講演会で「パウル・ツェラン」の詩の紹介があったので、当然、パウル・ツェランについて詳しい。
私は、このフェイスブックでの会話を通じて、初めてパウル・ツェランを知った。そこで、パウル・ツェランに関する情報をWebでさがす。「横浜トリエンナーレ2008・タイムクレバスの概要について」のブログで、水沢勉氏の言う「氷河の部屋」の詩に出会えた。この邦訳は講演者の井筒俊彦氏が訳したものであろうと言われている。それを紹介する。
パウル・ツェラン「息の折り返し」1967年
「腐食させ、剥ぎ取る
汝が語る、光に射抜かれた言葉の疾風が
浅はかな体験の色とりどりのおしゃべりを
---- 私の百枚舌の
詩、非-詩を
旋風に吹きさらわれ
視界の開けた
道を ひとのすがたをした雪
贖罪者の氷柱 なかを歩み
もてなしの準備万端整った
氷河の部屋へ入り、氷河のテーブルにつく
深く
時間のクレヴァスのなか ( ZeitenSchrunde )
気泡だらけの氷のそば
息の結晶
汝のゆるぎなき証人
それが私を待っている」
「横浜トリエンナーレ2008・タイムクレバスの概要について」から引用
だから、私は水沢勉氏がパウル・ツェランの詩、「深く 時間のクレヴァスのなか 気泡だらけの氷のそば 息の結晶 汝のゆるぎなき証人 それが私を待っている」が思い浮かぶのだと思った。
確かに、岩本氏のこの絵の中の横に広がる色彩空間の流れは、ツェランの詩「息の折り返し」で表現されている死と生との境界(二つの時間、動き続ける時間と止まった時間)の示すクレヴァス(
crack)のように観えると水沢氏は解釈したのだと思った。しかし、私には、その時間のクレヴァスの中から、ツェランの詩から伝わる悲壮な叫びではなく、澄み切った明るく悲しいメロディーが岩本氏の絵から聞こえてくるのである。
パウル・ツェランの詩に詳しい水沢氏は、ツェランの詩の「気泡だらけの氷」 の表現は、ドイツ語の原文では Wabeneins で、直訳すると「蜂の巣氷」の意味になると指摘してくれた。つまり、Wabeneins(蜂の巣氷)は井筒俊彦氏によって「気泡だらけの氷」と意訳されたのである。
思想家井筒俊彦氏が、Wabeneins を「蜂の巣氷」と訳さずに「気泡だらけの氷」と意訳したのは何故なのか。私はそのことにむしろ興味を持ってしまった。そして、水沢氏が「蜂の巣氷」のイメージをサイトから探し出して敢えて見せてくれたその意味も理解したかった。
岩本氏は、2014年12月27日から「ガラス窓氷結」シリーズを記載してきた。つまり、岩本氏は、この「ガラス窓氷結」シリーズの写真画を発表すうる意図について、以前、私に「氷結が半分解けて濡れたガラスの向こうに外の景色が見える」「運動の時間性、まさに。そしてボクの絵も絶えず動いているストロークの重なり、その間、アワイから見えてくるものであり、そこには時間性を孕んだ溶解と結晶化が渾然と絡み合っていると思っています。そんなアリアリとしたものをつくりたい。」と書いていた。
つまり、岩本氏は毎日の「ガラス窓氷結」の観察、写真「 窓の氷結シリーズ」
に記載した日々多様に変化する 「氷結」 の姿、それらは更に時間的に変化する姿、自然の造形美とは時間と共にあること、氷の結晶が解け、新たな模様が生まれる過程、構造化されていたものが融解していく状態、氷の結晶がもつ対称性が失われる運動過程(時間性)の中に生きた世界があること、自然のアリアリと続く世界を形象に含まれた時間を、形象化して失われる時間を、色彩空間へ解釈することによって、描きだそうとしていると、私は思った。
岩本拓郎氏作 2015年1月2日
岩本拓郎氏作 2015年1月2日
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私の関心は寧ろ、水沢勉氏がコメントした「なぜかツェランの詩が浮かぶ・・・「氷河の部屋」・・・」に向かっていた。井筒俊彦氏が訳した思われるパウル・ツェラン「息の折り返し」に私のこころは奪われていた。
あの不思議なことば、そして、こころにいつまでも残る余韻。
「腐食させ、剥ぎ取る
汝が語る、光に射抜かれた言葉の疾風が
浅はかな体験の色とりどりのおしゃべりを
---- 私の百枚舌の
詩、非-詩を
旋風に吹きさらわれ
視界の開けた
道を ひとのすがたをした雪
贖罪者の氷柱 なかを歩み
もてなしの準備万端整った
氷河の部屋へ入り、氷河のテーブルにつく」
私は以前(2012年4月19日)ブログ「生活運動から思想運動へ」に「詩的に表現することとは何か 詩に取って真実とは何か」と言う詩を書いた。この詩は、「詩人と呼ばれる言葉の詐欺師」と「詩的に表現するという闇に実存を葬る行為」の二つの節からなっていた。
パウル・ツェラン(翻訳した井筒俊彦氏が意訳した)「汝が語る、光に射抜かれた言葉の疾風が 浅はかな体験の色とりどりのおしゃべりを」語るのは、詩人パウル・ツェラン自身であり、その自分の「(私の)百枚舌の 詩、非-詩」を 自ら「旋風に吹きさらわれ 視界の開けた道を」求めるのも自分であった。
彼(パウル・ツェラン)は何故、ここまで、つまり、詩人が語ることばの虚像を否定しなければならなかったのか。詩にとって真実とは何かを問い掛け、そして詩人の欺瞞性を見破ろうとしなければならかかったのか。詩的に表現することによって葬り去られる現実の実存の在り方を救いたかったのか。
彼の出会った「ひとのすがたをした雪 贖罪者の氷柱 なかを歩み もてなしの準備万端整った」とは何か。つまり、彼は、詩を一つの救いとして、詩を書くことは、彼には十字架を背負うと同じであったのか。まるで、最後の晩餐を連想させるように、彼は「氷河の部屋へ入り、氷河のテーブルにつく」のである。
岩本拓郎氏作 2015年1月2日
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なぜ、水沢氏は、岩本氏の2枚の絵画にツェランの詩が浮かんだのだろうか。まだ、私の疑問は続いている。
2015年1月2日に岩本拓郎氏がフェイスブックに記載した「外が明るくなってまた違う表情に。」の写真を発表した。その写真に対して、再び三人のコメント会話が始まった。
岩本氏から「FMでグルダとウイーンフィルのモーツアルトピアノ協奏曲20番が流れています。1976年。とても好きな演奏。なんかこの氷結に相応しい。」と「外が明るくなってまた違う表情に」と題する写真へのコメントが書き込まれる。
私は、「綺麗ですね。拓郎さんのアトリエは自然の美術館で、毎日、空気や水たちが、そして木々や小鳥たちが、楽しく作品制作をして、「拓郎さん、今日の作品、どうおもいますか」と言っているようですね」とコメントした。
しかし、水沢氏は「「氷河の部屋」で待っている「息の結晶」。やはり、ツェランがお似合いです。それが作画にも響いている・・・向こう側に風景がわすかに透けて見えるのが対位法的です。あくまでツェラン・フリークのコメントですが」とすぐさまコメントを書いてきた。
ツェランの詩のことばを使った水沢氏の岩本氏の写真へのコメント「 「氷河の部屋」で待っている「息の結晶」 」は、そのことばが独自に引き起こすイメージによって、私の想像力は掻き立てられていた。「氷河の部屋」がイメージする厳しく過酷な世界、そして「息の結晶」から想像される突然の死の訪れ。
私はこの水沢氏の「 「氷河の部屋」で待っている「息の結晶」 」の表現に対して、人は、生きていたその時間を「息」として残す。そして、それは厳しい人生の中で、氷河の部屋で、死を迎え「結晶」となる。冷たい結晶となるというイメージを想像した。
そして、岩本氏の絵は、ツェランの詩の世界とは少し違う穏やかなもののようにも思えた。ツェランは迫害を受けたドイツ系ユダヤ人の運命を背負って出来ている。岩本氏もパウル・ツェランと同じくらい厳しい芸術家としての人生があるが、ツェラン的な時代性や世界は無い。
「氷河の部屋」のように寒気が襲うアトリエで、その日の創作活動に打ち込んだ生命力は、アトリエの作品として結晶する。それはある意味で芸術家にとって生きた時間(通時的時間)から死んだ時間(共時的時間)への変換を意味する。「息の結晶」が作品として形成する。それは作者にとって、喜ばしい瞬間であり、そして過去から現在への時間の不連続点を意味することになる。
だが、岩本氏は、二つの絵の誕生を喜んでいるに違いない。そこには自分のすべてがある。それは絵の中に入り込んだ自己の姿であり、氷となった自分息である。その「息の結晶」は美しく、悲しく、澄んだメロディーのように、他者化した自分の作品から聴こえてくるのではないだろうか。
「人は、生きていたその時間を「息」として残す。そして、それは厳しい人生の中で、氷河の部屋で、死を迎え「結晶」となる。冷たい結晶となる。だが、その結晶は美しく、悲しく、澄んだメロディーに共鳴している。多分、拓郎さんは、この窓ガラスの氷結の姿を
ツェラン の詩の中にあった「氷河の部屋の息の結晶」、つまり 「深く 時間のクレヴァスのなか 気泡だらけの氷のそば 息の結晶 汝のゆるぎなき証人 それが私を待っている」
という詩の一節に通じる、 モーツアルトピアノ協奏曲20番 の悲しいが澄んだメロディーが、流れて来たのかも知れませんね。」
だが、私の中では、ツェランの詩が言いたかった「氷河の部屋」で待っている「息の結晶」の意味は、まだ不明なのだ。
「深く
時間のクレヴァスのなか ( ZeitenSchrunde )
気泡だらけの氷のそば
息の結晶
汝のゆるぎなき証人
それが私を待っている」
このツェランの詩の中に、果たして、私は「息の結晶」としての「汝のゆるぎなき証人」を見出すことが出来るのか。そしてツェランのように「それが私を待っている」と確信することができるのか。
参考資料
「横浜トリエンナーレ2008・タイムクレバスの概要について」
水沢勉氏のフェイスブック
岩本拓郎氏のフェイスブック
三石博行のフェイスブック
三石博行「詩的に表現することとは何か 詩に取って真実とは何か」
パウル・ツェラン Wikipedia
詩空間 2014年2月 河津聖恵のブログ 「それを通してすべてが消え去る輝き──」(M.ブランショ)
http://reliance.blog.eonet.jp/default/2014/02/芸術評論文集「芸術評論落書き帳」目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2015/01/blog-post_1.html
2015年1月2日
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