2015年12月9日水曜日

歴史問題を語るとは何か

三石博行

歴史を語る時、語る人々の時代感覚や社会理念が前提となっている。こう歴史に関して語ったのは「解釈学」という考え方であった。それまでは、歴史とは過去の事実として理解されていた。しかし、この歴史的事実という理解が、歴史解釈という認識に変わったのは、謂わば、観ている私の時代性や社会性を前提にしなければならない人文社会学研究上の観察者にとっては当然の帰結であると言える。

この考え方は、長年検証され批判されてきた世界観を背景にして成立している。世界は実在する客観的存在から、社会現象、社会的構造、社会的事象、さらには時代や社会的存在の解釈世界として理解されてきた経過の中で、歴史的事実もその認識論的な影響を受けた。つまり、認識される世界は認識する主体の側の認識、評価のプログラムの産物であるという解釈が成立する以上、歴史もその一部であると理解された。それが解釈学的な歴史理解の基本となっているのである。

しかし、歴史問題を語る主体の歴史的、文化的、社会的存在の自覚という哲学では当然の理解も、現実には殆ど応用されることはない。それが今の日韓関係の中で深刻になりつつある「歴史問題」の根底にある。従軍慰安婦問題という歴史を、政治的利害に結び付けることは危険である。つまり政治が歴史問題に立ち入ることは、最も避けなければならない。もし、立ち入るとすれば、歴史解釈ではなく、現実の被害者の救済問題である。その意味で、歴史的事実の解明ではなく、その政治的利用を行う日本政府や韓国政府も同じような大きな間違いを犯そうとしているようだ。

丁度、原発の安全性を、素人の政治家が議論するように、歴史問題をその厳密な調査方法も知らない素人の政治家が議論していることになる。彼らの関心は、専ら事実ではなく、その政治的利用に過ぎない。そうなれば、後戻りのできない失敗を行うことになる。それは、国際化する社会に逆行する閉鎖的で偏執独断的な民族主義を扇動することになる。この考え方によって暴力は正当化され、過去の国家間の紛争挑発という失敗を繰り返すことになる。つまり、無用な敵意を扇動し、両国民の間に自然に芽生える友好な感性を破壊し、それらの人々を暴力の応酬、そして最終的に悲惨な戦禍に放り入れようとしているのである。

国がある以上、それらの国の間ではそれぞれ歴史の解釈や観方が異なることは、解釈学の立場からして当然である。そうした人文社会学や哲学的に当然の歴史解釈の課題を、もう一度、人文社会学を研究している人々が、そのことの責任を自ら引き受けなければならない。それを、政治家に任してはならない。

勇気ある韓国の現代史研究家の発言に政治的弾圧を加えた政権にも、さらには「従軍慰安婦問題」を無視し続ける日本の政治家に歴史問題に関する発言をこれ以上許してはならない。そして、これ以上、この歴史問題を含め、東アジアに関する歴史や文化の課題に人文社会学の研究者は無関心であってはならないだろう。



0 件のコメント:

コメントを投稿