2016年8月23日火曜日

向き合うことについて

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向き合うこと


私は私に真剣に向き合ったことがあったか。
私は君に真剣に向き合ったことがあったか。
私は社会に真剣に向き合ったことがあったか。

向き合うということは、受け止めることだ。
向き合うということは、理解しようとすることだ。
向き合うということは、共に生きようと努めることだ。

どんなに苦しくとも、受け止めなければならない現実がある。
どんなに嫌でも、聴いてやらねばならない意見がある。
どんなに苦手でも、共に生きなければならない人々がいる。

向き合うことを勇気と呼ぶ。
向き合うことを愛情と言う。
向き合うことを優しさと理解する。

どんな時でも向き合う姿があれば、いつか、分かり合える。
どんな時でも向き合う姿があれば、いつか、乗り越えられる。
どんな時でも向き合う姿があれば、いつか、喜びがやってくる。

しかし、向き合うことは、
簡単なことが、出来ないのだ。
単純なことが、難しいのだ。
基本的なことが、理解されないのだ。


詩集『心象色彩の館』 目次


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向き合うこととは何か



当たり前のことだが、誰でも、不都合なことを避けたいと思う。それは、自分に不利になるし、厄介なことに巻き込まれるし、ややこしい後始末が待っているし、ともかく、自分に不都合に近づかないのが賢明な人々の生き方なのだ。子供の頃から、不都合なことを避けるようにと教えられ、不都合なことを敢えて頭を突っ込むのは「バカ、キチガイ、ヘンジン」と言われた。賢い人とは、自分に不都合なことから上手に逃げる技を持ち、自分の身を守る人だと教えられた。 だから、不都合な現実から人は、自然に逃げるように出来ているのだ。

しかし、その不都合なことが、自分の現実であり、または、家族や親しい友人たち、自分の所蔵する会社、町は社会、そして国の現実であったら、それからも逃げることが「賢い生き方」だと言えるだろうか。と言うのも、これらの不都合な現実は、結局、自分を含む社会、集団、家族の不利益を導くことになる。それらの不都合な現実に向き合わないことによって、いつか、自分は不利益、被害を受けることになるだろうと察するも出来る。


だから、多分、人は、それらの将来予測される災難にあわないために、今ある不都合な現実を受け止め、それを解決しようとする。言い換えると、私たちが不都合な現実に向き合うのは、何も、その不都合な現実に向き合いたいから、向き合っているのではない。これからのより良い生活や生き方のために、その不都合さに向き合わなければならないからこそ、向き合っているに過ぎない。言い換えると、不都合な現実に向き合う必要がなければ、誰も、嫌で苦しい思いをしてまでも、不都合な現実に向き合うことはないのだ。


不都合な現実と呼ばれる多くの課題、例えば、自分の、家族の、こどもの、社会の問題、それらの問題は、殆どの場合、即座に答えが用意されてもいない。それらの不都合な現実の課題には、一つの回答も、唯一の解決策も、永遠に有効な答えもない。

殆どの場合、不都合な現実と呼ばれる多くの課題の答えとは、答える過程にしか用意していないし、答える過程を通じて無限に用意されている。つまり、それは、生きていいる私たちが、つねに不都合さを生み続ける現実と呼ばれる未知の世界を歩き続けているからこそ、新たに生み出され続ける不都合な現実という課題に過ぎない。だから、答えは、そこに在って、そしてそこにたどり着くことで、またそこから消えていく。やっとたどり着いた答えの中から、新たな不都合が見つかる。生きていいる現実は、限りない疑問の中に、生きている私を留め続ける。それが不都合な現実の正体なのだ。

だから、得られた答えに、求めるものは、得られた意味よりも、得ようとしたこころしかない。
だから、得ようとした人に、求められるものは、その人の横にいた得ようとした人でしかない。
それが、不都合な世界のなかで、向き合うということの、意味になり、
それが、不都合な世界のなかで、向き合うことから得られた、答えになる。

向き合うことは、異なる文化の人々、立場の違い、意見の相違と呼ばれる、不都合な現実の在り方に対して、共存の可能性を照らす、唯一つの手段なのだ。だからと言って、答えが見つかった訳ではないが、不都合な現実が引きここしている問題の半分が、すでに解決されている。



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