哲学に於いて生活とはそのすべての思索の根拠である。言い換えると哲学は、生きる行為、生活の場が前提になって成立する一つの思惟の形態であり、哲学は生きるための方法であり、道具であり、戦略であり、理念であると言える。また、哲学の入り口は生活点検作業である。何故なら、日常生活では無神経さや自己欺瞞は自然発生的に生まれるため、日常性と呼ばれる思惟の惰性形態に対して、反省と呼ばれる遡行作業を哲学は提供する。方法的懐疑や現象学的還元も、日常性へ埋没した惰性的自我を点検する方法である。生活の場から哲学を考え、哲学から生活の改善を求める運動を、ここでは生活運動と思想運動の相互関係と呼ぶ。そして、他者と共感しない哲学は意味を持たない。そこで、私の哲学を点検するためにこのブログを書くことにした。 2011年1月5日 三石博行 (MITSUISHI Hiroyuki)
2021年6月11日金曜日
現代科学哲学の課題としての「人間社会科学基礎論」の研究
三石博行
1980年代、私はフランスに留学し、当時ストラスブール第二大学(現在のストラスブール大学)の哲学部の科学哲学専攻ゼミ(大学院)で勉強をしていた。そのゼミは4つの大学共通ゼミ(ストラスブール第一大学から第三大学とパリ第4大学・ソルボンヌ)であった。指導教官として、世界的に著名な研究者(例えば、フランシスコ ヴァレラ、エドガール・モラン、メルロポンティ(息子)、等)もいた。彼らの講演も聞いた。また、他の大学の大学院の研究者とも交流が出来た。それで、夏休みはパリで過ごした。
当時のフランスでの科学哲学の課題の一つに、人間社会学基礎論があった。私もそれを中心にして研究していた。勿論、量子論等の科学認識論を研究する仲間のいたが、それらの自然科学系の科学基礎論が中心ではなかった。私は、色々な課題(デカルト、環境問題、認知科学等々)に手を出したあげく、ポスト構造主義からシステム認識論への試論を試み、フロイトのメタ心理学を対象にして分析を行った。フランスでの研究生活で、多くの研究者と交流した。特に、当時、大学の助教授であったA.R氏、心理学を研究していた元アルジェリア大学教員のAH氏、コートジボワールから来ていたD.K氏等々、彼らとの議論は尽きなかったが、彼らも科学哲学の課題を、人間社会学基礎論として位置づけていた。
1993年に帰国し、科学基礎論学会に参加した。その時、日本では科学哲学の主流は現代物理学(量子論や相対性理論等)への認識論的なテーマだと知った。しかし、科学基礎論学会の中に、現象学や心理学を研究する仲間(渡辺恒夫氏や村田純一氏)がいて、彼らと「心の科学基礎論研究会」を立ち上げ、それに参加した。現在は、幽霊会員になっている。送ってくる研究大会のテーマを見ても、私が探求したかった人間社会学基礎論に関する課題があまり見当たらない。日本の哲学研究の中で、私と同じテーマに興味を持つ研究者は少数派のようだ。
しかし、21世紀の高度科学技術文明社会へ突き進もうとしている社会文化の流れの中で、この文化の基本インフラ(資源)で「科学や技術」に対して、それらの合理性を分析する「科学哲学」の必要性と同時に、この21世紀の社会の方向を問いかける哲学、そしてその哲学を基盤とする新しい科学への課題をイメージした時、人間社会科学基礎論が必要だとあたてめて思う。
17世紀以来形成発展してきた科学的合理主義、科学主義、物理主義から、21世紀社会の課題(地球規模の環境汚染、パンデミック、巨大化し国際化する情報社会、世界規模の資本主義経済システム等々)に対して、有効な回答が得られるだろうか。私は、疑問視し続けて来た。そして、新しい科学性を構築しなければならないと思った。それこそが、現代の科学哲学の課題であると思って来た。しかし、この課題は、余りにもおおきすぎ、私がそれらの答えを見つけ出すことが出来るとは到底思えない。ただ、今、何が問われているかを示すべきだと思っている。
2021年6月11日ファイスブック記載
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