2022年11月18日金曜日

人を大切にする考え方が民主主主義の根底に流れている

日本での民主主義文化の構築に向けて




三石博行




1、アジア資本主義の歴史を踏まえ私たちの文化に根差した民主主義社会の形成



日本の民主主義は欧米に比べて未熟である。その理由の一つに、日本の近代化の歴史がある。欧米列強と不平等条約を提携し、日本の植民地化を防ぐために、国家指導の近代化政策が行われた。その結果、アジア型資本主義(国家資本主義)によって(と共に)形成されてきた日本の民主主義の歴史があるためだ。私たちは、現在の民主主義文化の遅れた日本社会を考える時、過去の日本の近代化(資本主義化・西洋化)の歴史を前提にしながら、理解する必要がある。

そして、この日本社会の民主主義文化を発展させるためには、欧米型の民主主義を移植することではない。もちろん、海外の素晴らしい制度を学び参考にすべきであるが、同時に、民主主義が文化であり人格であるとすれば、それは先人が日本型の近代化を行ったように、私たちは日本の風土の馴染んだ民主主義を創造する必要があるだろう。

日本型の民主主義文化の形成とは、日本の伝統や風土として存在している「人を大切にするこころ」を確りと再確認し、それを現在の社会制度の中に再構築することだと思う。しかし、そのための方法は見つかってはいない。そのため、ここでは民主主義の原則について述べる。この原則に従い、私たちの生活様式、コミュニケーションの方法、社会的コンセンサス形成の手段を点検しながら、他者との協働活動の実践を積み重ねるしかない。

民主主義とは、今、そこに生きる人々が、その生活空間に対して責任を持ち、それを構成する人々と共に、よりよくするための考え方である。つまり、私たちの社会を構成する多様な人々が、それぞれ多様な姿で生活することを認められ、それらの人々がそれら独自のやり方で自分たちの社会に責任をもって参加する市民参画型の社会文化である。その意味で、民主主義は、構成される市民の社会性、文化性、歴史性によって多様な姿をもつと言える。


人権思想の上に成立する自由と平等



人権、自由と平等は民主主義の三大要素である。しかし自由が絶対的に優先することはない。もし、人権を伴わない自由を認めるなら、人は何をやっても許されることになる。つまり、公共性を無視した個人の意のままの行動を自由と考える風潮が生まれる。

人権思想が未熟な状態での民主主義社会では、自由は公共性(他者の自由と衝突を避け、他者と共存できる自分の自由な行動の範囲を自覚する考え方)と対立することになる。個人が好き勝手に何でもできることを自由だと考え、自由を尊重するなら公共性(公共の利益)を無視してもよいと考えることになる。

また、民主主義の未熟な段階では平等も個々人の多様性を認めない平等主義となる。その結果、同調圧力に屈し他人に同じ意見や行動を強制することも、他人との違いを恐れ、自分らしさを表現しない悪平等主義が生まれることになる。

人権の中で最も平等を重視したのが「社会主義」である。中世的な君主制の下での不平等を正すためにすべての人々が社会的に平等であると考えた。しかし、自由という人権思想を伴わない平等主義は、経済的不平等が生まれる生産手段や土地の所有まで否定することになる。その極端な形態が、すべての人々を未熟な平等主義を強要する一党独裁政権の姿である。そして、自由という人権を無視した平等は多様な立場や考え方・信条をもつ国民を認めず、国家が唱える考え方を一方的に押し付けることになる。

こうした人権思想のない平等主義の社会を支えるのも、その社会を構成する人々である。彼らは個々人の多様性を認めない。みんなが同じでなければならない同調圧力で機能する社会をつくりだす。そして無言にうちに世間と同じ意見や行動を他人に強制する。また、社会的常識、多数者と違う少数者を排除する。もし人々が自分らしさを表現するなら、それを嫌い、すべて同じような考え、行動、服装をしなければいけないように強制する。

未熟な民主主義文化では自由と平等は対立概念になるだろう。何故なら、その二つの社会思想の土台に人権思想がないからなのだ。自由も平等も人権思想の上に成り立たない限り、それらは成立しない。


多様な民主主義文化の存在:その社会独自の市民参加型社会



民主主義は文化であり人格である。その意味で、伝統や歴史、その社会文化、政治経済的状況の異なるそれぞれの社会に多様な民主主義文化の形態が存在しているとも言える。言い換えるなら、民主主義文化は多様な在り方をしている。これが民主主義のもう一つの特徴でもある。

そのため、民主主義を考える時、自分たちの社会、国の歴史、伝統、文化を確りと見つめ、その上に矛盾なく成立している人権(自分や他人の命や生活を大切にする考え方)を見直し、点検し、最も自分たち独自の社会文化に適した制度が民主主義文化の基本になる。

それぞれの社会はその社会の歴史や文化を背景にしえ独自のスタイルで存在している。独自の社会文化をもつ集団(日本)を前提にするなら、この社会での民主主義文化の形成とは、まったく違い社会、例えば西洋社会の様式をそのまま取り込むことではない。このやり方が近代化と呼ばれていたが、民主主義社会は近代化ではないといえる。それはそれを目指し形成する人々(日本の社会の人々)の自覚的(主体的)な、それらの人々にとっての自由や平等の在り方を摸索する社会の構築である。

多様な人々(国民・市民)が多様な個人の自由と社会的平等を維持するための提携した社会契約の制度を模索しなければならない。民主主義の基本にある社会契約とは、その社会をよりよく維持するために構築するための考え方であり制度である。まず、この社会契約の考え方が国民に理解されていなければ民主主義は形成不可能である。

そのため、国や社会は「民主主義教育」を行う。人々は小中学校から民主主義について学び、異なる信条、思想や意見を持つ人々とのコミュニケーションの取り方、また共存の仕方を学ぶ必要がある。そのための制度や社会的機能が必要となる。

例えば、正しい情報の共有の仕方、間違った情報への対応の仕方も学ぶ。国を挙げて(社会全体で)、最も大切な教養(社会的常識)として、民主主義を教育する制度なしには、民主主義は醸成されない。しかも、その醸成は20年単位の時間が必要だと理解すべきである。その意味で、日本の民主主義教育の後れは、日本が民主主義後進国になっている原因の一つであると言えるだろう。

それ以外に多くの社会機能(民主主義を醸成するための道具)が必要だろう。それも、社会を構成する人々が議論し構築し、またそれを点検し、新たな制度を見つけ出すために脱構築していくのだろう。民主主義社会では、その過程がもっとも大切なのだから。


フェイスブック記載 2022年11月17日

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