三石博行
ムジャーヒディーン(mujāhidīn)とエチオピアのエリート船員
▽ その日、私は寝坊してしまった。朝早く立つバスに乗りそこなった。パキスタンの西部にあるクエッタの町は、砂漠の中にあるオアシスの町だ。アフガニスタンに近く、多くの人や物資がアフガニスタンからやってくる。パキスタンの鉄道にのってこの町まで来たが、これからは、バスにのって砂漠を越えて、イランに向かう予定だった。
▽ ホテルの人が、もう一台バスがイランの国境近くの町まで出ると教えてくれた。タクシーに乗って、そのバス停まで急いで行った。パキスタン人以外の旅行者は、英語の話せないスペイン人、二人のエチオピア人(二人とも外国航路の船員でバカンス旅行中)と私の四人だった。バスをまっていると、大きな体格の男達がたくさんやって来た。聞くとアフガニスタンから来たらしい。
▽ これからの予定を確認する。クエッタからバスで約36時間かけてかイランの国境まで行き、そこで別のバスに乗って、イランとパキスタンの国境の町へ向い、その町でさらに一泊してイランに入国する。そこからイランの国境の町ミルジャワに向かう。そのミルジャワからさらにザヘダンに別のバスに乗って行く。ザヘダンからテヘラン行きのバスが出るとのことだった。
▽ クエッタからのバスが出発した。おおよそ二日間バスに揺られ、砂漠をわたる。バスは木製の車体で、サイドの荷物入れにガソリンをドラム缶を二つ積み、がたがたの山道をすごいスピードで走る。すごいゆれで身体が浮き上がり、そして、そのまま落ちる。長くのっているとお腹がおかしくなる。運転手は、噛みタバコを口に入れ、時より、車の窓から褐色のつばきを吐きながらハンドルを握る。車内はすざましいボリュームの異国情緒のパキスタン音楽が鳴り響く。
▽ バスに同上したアフガニスタンの乗客は「ムジャーヒディーン」(侵略者と戦うイスラム義勇軍)の兵士だった。バスは時間が来ると止まり、男たちは外に出て、一定の方向を向いて座りお祈りをする。
▽ 当時、アフガニスタンのゲリラはソビエト連邦の侵略と戦っていた。それを軍事的にアメリカやヨーロッパの国々が支援していた。バスの中では、若いイスラム教徒のムジャーヒディーンの兵士がたどたどしい、ほとんど理解できない英語で話しかけてくる。
▽ 「日本人は友人だ。ドイツ人も友人だ。しかしソ連人は敵だ。」と言っていた。彼は政治の話を始めた。すると、二人のエチオピア人は社会主義者らしく、ソビエトを批判し社会主義を批判していたムジャーヒディーンの若者に反論しようとした。私は危機感を感じた。反射的に「その議論をすれば、殺されるかもしれないことが解らないのか」と早口の英語で彼らの口を塞いだ。
▽ もし、ソビエトと命を掛けて闘っている若いムジャーヒディーンの兵士が、我々の中の二人がソビエトの手先ではないかと疑ったとき、何がそこで起こるだろうか。そうした心配は、この無邪気なエチオピアの青年達には通じなかったか。それから、一切、政治の話をしなかった。いや、私が彼らにそれをさせなかったのだ。
▽ バスは春に起こる砂漠の嵐の中、雨が降り注ぎ、水が谷から流れる中を、猛スピードで走った。稲妻が横に走る。その壮絶な風景。多分、このバスに当たると、我々は、あのドラム缶に詰めたガソリンもろとも爆発して死ぬのだろうと思った。
▽ イラン国境の手前の小さいパキスタンの町でバスは止まった。その夜は、その町の小さな宿屋で一泊した。
アフガン難民とフランス人の女の子
▽ 朝早く、朝日を見ながらパキスタンの国境からイランの国境の町ミルジャワに向かった。三、四時間してイランの国境の町ミルジャワに着く。もうここはイランだ。インドからはるばる陸路でイランまで来た。イランに入ると立派なバスが待っていた。道路も舗装されていた。イランがバスパキスタンより随分豊かな国であることがすぐに感じられた。
▽ ミルジャワからザヘダン行きのバスに乗り換えることになった。ザヘダン行きのバス停には、すでに20名ぐらいの旅行者がいた。ヨーロッパから来た旅行者、オーストラリア人、ブラジル人と日本人の私だ。テヘラン行きのバスがやって来た。旅行者がバスに乗ろうとしたとき、少年のような体つきをした、そして顔だけが老け込んだバスの車掌が、バスの奥の椅子に座るように外国人の旅行者に命令した。かなり威圧的で一方的な命令だった。
▽ すると、フランスから来ていた女の子が、その命令に反して、自分の好きな席に座った。車掌男は、彼女に命令を繰り返した。その女の子は二人と男の子と一緒に旅行をしていた。連れの二人も、その女の子の行動をやめさせようとしていなかった。
▽ 車掌は激怒し、彼女につかみかかった。そして殴りかかった。二人の男子はそれを止める様子もない。私は反射的に、車掌に向かって行った。危険な場面であった。私が登場したことで、車掌はフランスから来た女の子に手を振り下ろすことはしなかった。しかし、私と彼女に出て行けと叫んでいた。イランのペルシャ語が理解できないので、車掌が正確に何を言ったのか理解できなかったが、出て行けというすごい剣幕の身振りから、これは大変なことになったと理解できた。
▽ 砂漠の町ミルジャワからの町から今出られなければ、多分、明日のバスを待つしかない。一日、旅が長くなる。予定が変更される。これは大変だと思った。そして、とっさに「君は、ここがどこだと思っているのか。ここはフランスではないイランなのだ。そのことが理解できないで、この国を旅行するな!」と大声でフランス人の女の子に怒鳴った。その私の態度を車掌は見ていた。そして、私が女の子を叱ったと思い、私たちを許し、外に追い出さずに、席に戻るように命令した。
▽ 女の子は不満そうな態度だった。彼女は恐怖に慄いていたが、それでもどこか、まだ強気な表情を残していた。私が演技でもフランス人の女の子を怒鳴ることで、車掌は許してくれたのだ。私は、その場を、何とか切り抜け、砂漠の町に置いてきぼりにされる状況から逃れることが出来た。安心した私もフランスの女の子もバスの後ろに座席に大人しく座った。
▽ 「君は何を考えているのだ。ここは一歩誤ると命すら保障されていない情況を抱えた国なのだ。 君はそのことを本当に理解しているのか。」と、もう一度彼女にゆっくりとした口調で話す。しかし、彼女は私に「ありがとう」の一言も言わなかった。ただ不愉快そうな視線を送っていた。そして、また自分の危険な状態を見て見ぬ振りをした二人のフランス人の男達の横に座った。「君達は、本当になんという人々なのだ」と私は彼らにいった。彼らから何もことばは返ってこなかった。それから、私は彼らとは一言も話しをしなかった。そして、「このバスから降りたら、生涯、彼らに会うこともないのだ」と思った。
▽ バスはミルジャワのバス停で少し待った。すると我々のザヘダン行きのバスに三、四十名のチャドルを着た女性と子供がバスに乗り込んできた。うわさによるとアフガニスタンからの難民だと言うことだった。彼女らがバスの前方に座り終わると、バスはザヘダンに向かって出発した。
旅をして異文化を理解すること
▽ 当時(1980年)、イランやアフガニスタンは政治的に非常に緊張していた。アフガニスタンはソビエトと戦争をしていた。国は内戦状態だった。アフガニスタンの周辺国、パキスタンやイランはアメリカの要請を受けて、アフガニスタンのイスラム義勇軍(ムジャーヒディーン)がゲリラ活動をしていた。
▽ イランは16世紀以来続いたイラン王国がイラン・イスラム革命によって1979年に崩壊し、イラン国内も不安定な状況であった。 新しいイラン・イスラム共和国はこれまでの親米路線を変更し、反米的な政治姿勢を打ち出していた。
▽ 一人の旅行者にとって激動する国際政治事件は関心のない出来事であろうが、ひとたび、その現場に居ると、好むと好まざるに係わらず、その政治的な事件から生み出される状況に呑み込まれるのである。その恐ろしい状況は、一人の人間の努力で乗り越えられるものではない。
▽ その時、政治的に不安定な地域をめぐる旅は命がけになる。異国の社会や文化的な状況を正しく理解しなければならない。あのフランスの女の子のように、自分の国の常識や考え方を、旅先の国に当てはめることによって、とんでもない事件に巻き込まれるのである。
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