2010年4月29日木曜日

人間と倫理2 「人は天使でもなければ禽獣でもない」(パスカル)

三石博行


1、もっとも単純な人間観、性善説と性悪説

▽ 孟子は人の性(人間の性格)は、本来、善きものである。全ての人は生まれながらにして善き性格を平等に与えられている。しかし、その善き人の性は社会の環境によって汚され、不善(よくないもの)になると主張した。この考え方を性善説と呼んだ。

▽ この性善説を荀子は批判し、それと逆の説である性悪説を主張した。つまり、人の性を悪と考え、その本来悪としてある人間の性格を人々は努力し善へと変えていく。その努力が学習であり反省である。社会は、人々が正しく生きること、善行を行うために制度を作っているのである。

▽ 性善説と性悪説という二つの極端な人間性に関する評価を基にして、それらの説から導かれる社会倫理の姿を想像してみた。二つの説から考えられる「学級崩壊のクラス」と「生産地偽造問題を起こした会社での社員の対応」の二つの具体的な課題を考えた。

▽ 例えば、演習1で取り組んだ「学級崩壊」のクラスと騒いでいる生徒への対応であるが、性悪説に従うなら、学級崩壊を起こしているクラスの生徒たちに対しては、騒いでいる生徒を隔離(クラスに入れない)し、懲罰を与え、授業時間に騒ぐことが「悪」であることを教える方法を取ることになる。その逆に性善説に従うなら、騒いでいる生徒を説得する。それでも騒ぎが収まらないなら、騒いでいる生徒を隔離して別のクラスで授業を受けさせる。つまり、性悪説のように懲罰のために隔離するのでなく、その生徒の本来備わっている善き性格を導くために、外部と遮断する方法を選んだ。

▽ 例えば、演習2で取り組んだ「生産地表示偽造問題を起こしている会社」で働く社員の取るべき姿勢を課題にした。社員は自分の雇用が危機に晒(さら)されても、会社幹部の不正を社内で問題にするべきであるという考え方である。この姿勢は、会社で働く以上、そこで生産される商品への責任の一角を一人の社員として持っている。その責任を果たすことが社会的倫理であるという考え方に支えられている。もし、会社がその不正を隠蔽し、また会社内部の批判、点検活動の呼びかけを抹殺する場合、極端な場合、批判した社員を解雇した場合、社員は会社の不正を内部告白する必要があると考えるだろう。

▽ つまり、この演習2の場合には、会社の不正を批判する社員が、性悪説を信じているなら、会社幹部への社会的懲罰を求めることになる。もし、性善説を信じるなら、会社幹部と話をし、彼らが本来持っている人間性の善の姿を引き出し、会社の不正を反省させる行為に出るかもしれない。

▽ 以上、前回2回に亘って、問題を起こしている人々への対応に関する考え方を検討してみた。


2、「両方(理性と情念)をもちあわせているので、人間は闘争なしではいられない」パスカル 『パンセ』(412)

▽ 実際の社会問題や人間的問題は、性善説や性悪説の二つの立場から解決できるだろうか。性善説や性悪説は、極端な二つの見解であり、人の性は本来悪でもなければ善でもない。人の悪の起源を欲望とするなら、欲望を持たない人間はいない。そして逆に人の善が理性であるなら、理性だけで生きている人もいない。つまり、人間は理性と欲望を同時にもった存在である。


「理性と情欲のあいだにおける人間の内的闘争。
もし人間が情欲をもたず、理性だけをもっていたとするなら…。
もし人間が理性をもたず、情欲だけをもっていたとするなら…。
だが、両方をもちあわせているので、人間は闘争なしではいられない。というのも、一方と闘わずには、他方と平和を得ることができないからである。かくして、人間はつねに分裂し、自己自身に反抗する。」パスカル「パンセ」(412)


「もし人間が情欲をもたず、理性だけをもっていたとするなら…。」パスカル『パンセ』(412)

▽ もし、人が何か(立派な人、お金持ちの人,偉い人や強い人)を夢みてそれに成りたいと思わなければ、人は努力をすることはないだろう。人が努力をするのは、欲望があるからだ。

▽ しかし、欲望を悪とする考え方は、人間本来の姿を無視した、「生きることを欲することなく生きる」「愛することを求めることなく結婚し、家族をつくり、子育てをし、家族や友達と過ごす」という不可能な要求を突きつけることになるだろ。

▽ つまり、「欲望を捨てて生きる」という不可能な目標は、すべての場合、失敗すると思われる行動を要求することになる。極端な禁欲主義は、自然な人間の行為を無視し、拒絶し、批判することになる。

▽ もし、人間の欲望を抑えることに成功した社会があったとすれば、その社会では、人々は働く力も、家族をもつ努力も、立派な家を建てる気持ちも、レストランで美味しい食事をする気持ちも、美術館で美しい絵や彫刻を鑑賞する気持ちも、そして学校で勉強する気持ちも失うだろう。

▽ もし、欲望(情欲)を完全に捨て去ることができれば、人を愛することも、逆に人から愛されたいと思うこともないだろう。家族をつくり、子供を育て、家庭を守り、友人や近所の人々と楽しく過ごす喜びを求めることもないだろう。



「もし人間が理性をもたず、情欲だけをもっていたとするなら…。」パスカル『パンセ』(412)

▽ しかし、もし人が自分の夢(社会が高く評価している理想的な姿)を実現するために手段を選ばない行為をしたら、社会に大混乱が生まれるだろう。

▽ 例えば、大学の講義で使うための教材を購入するのにお金が欲しいと思う。教材を手に入れる行為は大学で学ぶために必要な行為であり、社会はその行為を評価している。同じ千円でも、アダルトヴィデオを買うより、「大学の授業で使う教材を買う」ことを社会は評価する。何故なら、「教材を買う」ことで、有意義なお金の使い方をしたという評価が生まれるからである。

▽ しかし、もし、そのためにお金をどこかで盗んできたら、例えば、買い物帰りの主婦のバックの中の財布からお金を盗んだなら、その盗んだお金で「教材を買って」いたら、それは犯罪となる。お金を盗む行為は、仮により豊かな知識を学ぶために必要とする材料(教材)を買うためであろうと、許される行為ではないことは誰でも知っているのである。

▽ 自分の欲望を、仮にそれが高い夢や理想であっても、間違った手段、社会が認めない行為によって、それを実現しようとするなら、それらの行為は非難される。社会は、その行為の目的だけなく、その行為そのものを認めていないのである。自分の欲望を満たすことが悪なのではなく、そのために社会で許されていない行為を選択したことが悪として評価され、非難されるのである。

▽ すべての人は自分の欲望を満たすことが許されている。しかし、その場合には、欲望を満たすための行為が、社会の規則や社会の習慣に違反してはならない。もし、人々は自分の欲望(情欲)を満たすために、社会の規則に従わないなら、その社会は混乱し、日常的に犯罪や殺人が社会の中に蔓延(まんえん)するだろう。

▽ そして、結果的に、人々はそうした無秩序の混乱に巻き込まれ、犠牲になるのである。自分の欲望を満たすために許した行為が、自分の生命を奪い、生活を破壊する結果に繋がるのである。



「だが、両方(理性と情欲)をもちあわせているので、人間は闘争なしではいられない。というのも、一方と闘わずには、他方と平和を得ることができないからである。かくして、人間はつねに分裂し、自己自身に反抗する。」パスカル 『パンセ』(412)

▽ 情欲を満たすには理性に即して行動しなければならない。欲望を満たすためには社会で認められた手順を踏まなければならない。例えば、お腹がすいた人は、空腹を満たすためには、お金を払って「サンドイッチ」を買わなければならない。もし、コンビ二エンスストアーで「サンドイッチ」を盗んだら、それは犯罪となる。

▽ 自分の理想や夢を実現するために、人々は社会が認めた手段、社会の決まりにそって、行動しなければならない。そうすることによって情欲と理性は共に共存することが出来た。だが、その共存は相互に闘いあいながらのことなる二つのベクトルをもった生命活動の共生である。

▽ その結果、欲望は人間社会を発展させてきた。豊かな生活をしたいという欲望を満たすために、社会的分業が生まれ、専門的職業が発生し、社会制度は高度に発展し、巨大な生産力を社会は備え、科学技術は発展し、合理的な生産ラインを作り、人々は短い労働時間で多くの生産物を生み出すことが出来るようになった。人類は、狩猟活動から、農耕活動、そして工業活動や高度な知的活動へと、次から次へと生産効率を上げながら社会経済制度を作り上げてきた。

▽ 社会は、人間達が作り出した人工物の素材によって、石器時代、土器時代、青銅時代、鉄器時代、人工物素材時代へと文明を変化させてきた。より便利で効率の高い道具、生産手段を見つけ出しながら、社会制度や生活様式は変化してきた。つまり、より豊かに生活したいという人の欲望こそが歴史や社会を動かす原動力なのである。

▽ だが、人類は生活を豊かにするために努力し続けながら、一方で多くの人間を殺害する道具も開発し続けてきた。それが人類の現実の歴史である。豊かな生活をしたいという欲望によって個人の生活も豊かになる。人々が夢や理想とする世界に近づこうとする努力によって社会は豊かになる。そして、毒ガス、化学兵器、生物兵器、大陸弾道弾や核兵器が作られた。最近では、無人のロボット偵察機が敵(テロリスト)の根拠地を爆撃できるようになった。そのテロリスト撲滅のための新兵器開発は人類にとって進歩と呼ばれているのである。

「人間が狂気じみているのは避けがたいことなので、狂気じみていないことも、別種の狂気からいえば、やはり狂気じみていることになるであろう。」パスカル『パンセ』(414)



3、「人間は天使でもなければ禽獣(きんじゅう)でもない。天使になろうとするものが禽獣になるのは、不幸なことである。」パスカル「パンセ」(358)

「人間は天使でもなければ禽獣(きんじゅう)でもない。」パスカル『パンセ』(358)

▽ 理性と情欲の二つの人間性の二律背反運動(異なる二つの要素が互いに作用しあう運動)によって、人間性は作り上げられている。その一方の存在を否定することは出来ない。それらの二つの要素、理性と情欲(欲望)が互いに反発し、互いにその存在理由(それがあることの意味)を見つけ出している。

▽ その意味で、人は単に理性的な存在でもなければ、情欲的な存在でもない。人が理性的な存在であろうと思うとき、その力は理性を生み出す情念によって支えられる。つまり、理性の背後には現実的に生きようとする欲望があるのである。

▽ また、人は欲望を満たすために色々な行動を模索する。その模索は、理性という手段によって可能になる。現実的な手段をもちいることによってしか、欲望を満たすことは出来ない。

▽ 以上の議論から、人間は理性的な存在(天使)でもないし、また欲望のみで生きている存在(禽獣)でもないとパスカルは帰結した。


「天使になろうとするものが禽獣になるのは、不幸なことである。」パスカル『パンセ』(358)


「人間は自然のうちで最も弱い葦(あし)に過ぎない。しかしそれは考える葦である。これをおしつぶすのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくでも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれをおしつぶしたときにも、人間は、人間を殺すものよりいっそう高貴であるであろう。なぜなら、人間は、自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間の上に優越することを知っているからである。宇宙はそれについては何も知らない。
それゆえに、われわれのあらゆる尊厳は思考のうちに存する。われわれが立ち上がらなければならないのはそこからであって、われわれの満たすことのできない空間や時間からではない。それゆえに、われわれはよく考えるようにつとめよう。そこに道徳の根源がある。」パスカル『パンセ』(347)


▽ パスカルによると道徳の根源は人間の思考力にある。人が偉大なのは、その思考によって人が「人の悲惨さを知っている」ことが出来るからである。有限の存在者・人間が、無限の存在・宇宙、その運動法則、惑星運動などを知ることが出来る。この人間の知性を導く力、理性的な思惟こそ人間が最も偉大であることを示すものである。

▽ 人類は宇宙の運動を観測し、これらの知識は宇宙の法則である天体運動の法則を見つけ出し、力学の法則を打ち立て、それらはさらに物理学として発展し、現代の科学技術の知識の基礎を創った。そして、現代科学技術文明社会は人間の思考の勝利を意味する。

▽ だが、同時に人類は人類を滅ぼす核兵器を開発した。偉大なる人間の思考力、理性の勝利が人類の消滅の道具を作ったのである。科学的思惟によって人間を豊かにしたかった志は、人間の消滅の玩具(おもちゃ)を天使(無邪気な人間、自分に悪意がないことを良く知っている人間)に与えたのである。


「彼ら(プラトンやアリストテレス)が政治について書いたのは、いわば精神病院の規則を作るためである」パスカル『パンセ』(331)

▽ 天使になろうとして禽獣になる人間の姿。理性と欲望(情欲)の二つの本性をもって存在していている人間。その一方を否定したとき、否定された他の一方から復讐される運命。それが人間の姿なのだ。

▽ 正義を行うために悪を滅ぼす戦いをする。正義の名において殺戮が許される。一人を殺すことを殺人とよび、敵を殺害することを英雄と呼ぶ。殺戮(さつりつ)行為には、正当な理由と不当な理由が歴史の中では常に付けられる。その荷札をつけた屍(しかばね)の山を歴史は聖戦と呼び、あるいは大虐殺と呼んできた。


「人間が狂気じみているのは避けがたいことなので、狂気じみていないことも、別種の狂気からいえば、やはり狂気じみていることになるであろう。」パスカル『パンセ』(414)


▽ 人間のこうした狂気じみた行為は避けがたいものであるとパスカルは言う。

▽ それでは、この避けがたい狂気、人間性に含まれる狂気をこれ以上増幅させないために、我々はこの精神病院の規則を作らなければならなかった。それが政治学であり、国際紛争を解決するための安保理事会の規則や国連軍であった。

▽ しかも、狂気を抑えるために、狂気を用いなければならないのである。

▽ 例えば、イラクの核兵器開発や生物兵器など大量殺戮(さつりく)兵器の開発を阻止するために、より強大な大量殺戮兵器をもった連合国、特にアメリカの軍隊が活躍する。核戦争を抑制するために、核軍備を行う。

▽ これが現実の狂気としての人間性が暴走しないための、最も有効な方法である。人類は、狂気を狂気によって抑制する方法を見つけ出したのである。その抑制の規則、それは気の狂った人々が混乱を起こして自分達で自分達に危害を加えないようにと作られた精神病院の規則のようなものなのだ。

▽ 狂気は人間の宿命であり、その狂気による混乱を防ぐために、社会や国家が必要とされ、法律や規則が作られ、軍隊や警察が作られ、場合によっては核爆弾や死刑台まで用意されているのである。



4、「人間には二種類だけしかいない。一は、自己を罪びとと思っている義人。他は自分を義人と思っている罪びと。」パスカル『パンセ』(534)

▽ 理性と情欲の二つの本性からなる人間性、狂気として人間性の理解を前提にするとき、人は、どのようにしてそれを受入れ、それと向き合えばいいのだろうか。

▽ パスカルの「罪びと」の概念は、キリスト教の原罪の概念から来ている。キリスト教では人は生まれながらにして罪びととしての宿命を負っている。

▽ キリスト教における原罪は「神が人間に禁止していた善悪の知識の木の実(りんご)」を食べる禁断を破ったことを意味する。つまり、人が動物でなく神の知識、善悪の知識を持ったこと、裸でいることを恥ずかしいとも思わない動物から、裸(自然の姿)を恥ずかしいと感じる反自然的な感性を持つようになったことを意味する。


「そもそも原罪の概念は『創世記』のアダムとイヴの物語に由来している。『創世記』の1章から3章によれば、アダムとイブは日本語で主なる神と訳されるヤハウェ・エロヒム(エールの複数形)の近くで生きることが出来るという恵まれた状況に置かれ、自然との完璧な調和を保って生きていた。主なる神はアダムにエデンの園になる(実る)全ての木の実を食べることを許したが、中央にある善悪の知識の木(の実)だけは食べることを禁じた。しかし、蛇は言葉巧みにイヴに近づき、木の実を食べさせることに成功した。アダムもイヴに従って木の実を食べた。二人は突然裸でいることが恥ずかしくなり、イチジクの葉をあわてて身にまとった。主なる神はこれを知って驚き、怒った。こうして蛇は地を這うよう定められ、呪われた存在となった。」(Wikipedia)

▽ パスカルの「罪びと」は、人間本来の姿としての原罪を背負う人間の姿である。また、パスカルは、その原罪を受入れた人、その原罪への自覚を持つ人を「義人」と呼んだ。

▽ パスカルによれば、人間は本来原罪を背負う存在(罪びと)であり、またその原罪への自覚を持つことが出来る存在(義人)にもなり得る。従って、その二つのあり方が人間の存在の仕方であると考えた。そこでパスカルは「人間には二種類だけしかいない」と述べているのである。

▽ しかし、もし、罪びとである自覚をもって義人となることができれば、罪びとはすべてその罪を自覚することで義人になることが出来るだろう。この論理からは、キリスト教の教えにそって生きることで人々は救われそうである。しかし、ここで矛盾が生じる。つまり、キリスト教の教えに従って原罪を認め「自己を罪びとと思っている義人」となる。罪びとから救われた義人は、原罪から決定的に救われたのだろうか。もし、「自己を罪びとと思っている義人」として救われるなら、もはや「罪びと」はいない。その罪びととしての原罪も存在しえない。すると、原罪を自覚しない「義人」が登場する。このことから、この「義人」は原罪を自覚しえない人間、キリスト教の教義を理解していない人間として「義人」は変貌することになる。言換えると、「自分を義人と思っている罪びと」が登場するのである。

▽ 「自己を罪びとと思っている義人」は、永遠に自分を義人と思っていることでは成立しない逆説の論理が成立し続ける。もし、「自分を義人と思っている」なら「義人」は原罪を自覚しない「罪びと」になるのだ。

▽ このパスカルの原罪に関する解釈は極めて興味深い。それは、人が宿命的にその人の狂気や原罪を自覚しつづけるには、つねに休むことなく、思考し続けなけなければならないという結論を導くのである。
 
▽ 休むことなく思考し続けて人はその悲惨な宿命、有限の生命、一滴の水によって滅びる生命から救われるのだろうか。否(いな)。パスカルの問い掛けは続く。


「一人の人間の徳がどれほどのものであるかは、その人の努力によってではなく、その人の平常によって測られなければならない」パスカル『パンセ』(351)

▽ 人間が日常生活を平穏に過ごすために用意したのが良識であり、倫理であり、道徳であり、徳であった。その徳は、休むことなく人間の本性としての原罪を点検し続けなければ得られないものだろうか。それに対するパスカルの答えは、「人間の徳」は「その人の平常によって測られなければならない」と言うことであった。

▽ 何故なら、「人は天使でもなく禽獣でもない」。人が天使になろうとすることに無理があり、それは不可能な望みである。

▽ 何故なら、人間には理性と情欲の全く異なるベクトルをもった生命活動が同時に共存し、互いに争いながら、人間性を形作り、人間の営みを形成しているからである。

▽ 人の徳(善行)は、理想に向かい、目標を得るために努めることによって可能になるのでなく、むしろ、人間に与えられている現実(パスカルの言う悲惨さ)を受け入れて、可能になるのではないだろうか。


参考文献
1、 パスカル著 松浪信三郎訳 『パンセ(抄)』旺文社文庫、1970年10月、442p
2、 野田又夫 『パスカル』 岩波新書143 1953年10月、217p

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