可哀想な赤穂浪士と愚かな浅野内匠頭
一
元禄赤穂事件とは、1703年1月30日(元禄16年12月14日から15日) に元禄太平の世を驚かした仇討ちである。
この事件は、1701年4月21日(元禄14年3月14日)に江戸城の松之大廊下で赤穂藩主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が高家旗本吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に対して遺恨ありとして切りつけ負傷を負わせた事件であるから始まる。この事件によって、浅野内匠頭は切腹、筆頭家老大石内蔵助は、浅野家再興の望みを掛けて赤穂城を開け渡した。
「事件後はさまざまな劇化が試みられ、討入りから45年後の寛延元年8月(1748年8月)人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が初演され、同年12月(1749年1月)には歌舞伎として上演された。同作は多くの観客を呼び、事件を元にした作品群の代表的存在となっている。」( フリー百科事典『ウィキペディア( Wikipedia )』 )
江戸時代から現代まで、「忠臣蔵」は大衆娯楽番組として、歌舞伎、映画、テレビドラマと何遍となく演じられてきた。
二
この事件を現代風に解釈すると、以下のようになる。
つまり、常々嫌がらせを受けていた赤穂会社の浅野社長が、霞ヶ関旗本庁に勤務している吉良上野介事務次官を、国会議事堂の中で襲った。浅野社長はピストルを抜いて一発撃った。弾は吉良事務次官の額をかすめて、軽症で終わった。この事件で、浅野長矩は即逮捕された。
あまりにも衝撃的な事件で、赤穂会社は大騒動となり、経営不振に陥り、倒産した。しかも、浅野長矩は殺人容疑で刑事告訴された。また、吉良事務次官はうその診断書を書いて、重傷を装った。そのため、浅野長矩は殺人容疑事件での刑は重く無期懲役になる。
重役の大石内匠頭は、会社倒産処理、社員の再就職問題などの業務に明け暮れる。それらの業務処理を終えた後で、元社員と共に、不当に罰せられた愛すべき社長、浅野長矩の仇打ちを考えた。
大石らは、裁判の判決から3年後に、吉良事務次官の目白にある自宅を夜襲撃して、彼に重症を負わした。その襲撃のあと、大石ら数人は最寄の警察署に自首した。
大体、現代風に赤穂浪士の結末を語れば、こんな話ではないのか。
この現代風に解釈した話からは、大石は単なるテロリストになる。また浅野は、私憤のために会社を潰し、社員とその家族を路頭に迷わした馬鹿な社長となる。
三
何故、浅はかな馬鹿社長の破壊的行為から始まる話が、江戸時代から現代まで、日本の大衆市民のお茶の間に毎年登場し続け、また、全国に至る所に赤穂浪士に纏わる(まつわる)イベントが毎年繰り返し行われるのだろうか。
まともに考えれば、浅野長矩の一会社を預かる社長としてはあまりにも無責任な行為が批判されず、むしろ美化され、可哀想な社長になり、その仇を討つ元社員の行為(テロ行為)が美化されることになるのであるから、狂っているとしか言いようのないのである。しかも、それを美化する社会の神経を疑いたくなるだろう。
これが、江戸時代のお話で、現代社会とはまったく関係のない、御伽噺(おとぎ)話のような世界である。実際、仇討ちも、演じられた歌舞伎舞台の上での話しであり、また、映画の場面である。元禄時代の忠臣蔵は、まったく現実社会では起こりようもないという前提をもって登場している。
その意味で、この話は、赤穂事件の真相、現代風に言うと刑事事件ではなく、単に「主君への忠義」の話として、つまり「忠臣蔵」として語られることに意味があるのだ。
日本では、「主君への忠義」の話し、「忠臣蔵」が江戸時代から昭和の終わりまで、殆ど毎年、どこかで演じられている。このことが、むしろ大学の社会学や文化人類学研究者にとって、実に興味深い社会文化現象であったと言えるだろう。
四
終身雇用制が壊れ、社長が社員の生活を最後まで見なければならないし、また社員は生涯一つの会社に勤務しなければならない時代が終わった時、赤穂浪士の「忠臣蔵」は昔のよき時代の会社の姿、つまり社員が一つの会社へ忠誠精神をもって奉仕していた時代の社会のあり方として語られるだろう。
終身雇用制が壊れた社会では、忠臣蔵はもう上映されない。もし、上映されれば、きっと観客は「馬鹿な社長のために可哀想な社員の話し」かと、上映された劇や映画の感想を語るのではないか。
映画館の中では、仇討ちをとって意気揚々と吉良邸から帰る赤穂浪士に、白けた雰囲気と皮肉な視線が向けられるだろう。映画が終わったら、テロリスト化した浪士たちへの同情の念がわくかもしれない。
【悩んだときには名言集を】
返信削除コメント、ありがとうございます!
本当に過去の偉人の言葉で日々、元気をもらっています!
また、訪問させて頂きます!
(リンク、貼っときます)