2010年9月1日水曜日

教育としての哲学の課題

三石博行


人気を失う大学哲学専門教育

哲学が知の体系でありえないという議論に最も困惑しているのは大学の哲学研究者達ではないだろうか。つまり、他の人文科学と同じ専門分野の一つとして、その教育課程を前提に成立している学科で、哲学が知の体系でないと言う事になれば、どのようにして哲学という専門教育を行うのか混乱するだろう。

しかし、すべての哲学科では、そうした混乱は生じていない。大学に哲学科が設定されて以来、極めてハードな講義科目群が構成されており、長年、変わることなく哲学の講義は続いてきたからである。

西洋哲学は、ギリシャ哲学から始まり中世スコラ哲学、そして近代合理主義哲学、経験主義哲学、実証主義、ドイツ観念論、カント哲学、新カント哲学、ヘーゲル現象学、等々、現代西洋哲学に至まで、多くの学習課題が存在していて、何不足なく哲学科の講義は準備されることになる。それは50年前も今もそう大して変化のないカリキュラム内容であり、変化したと言えば、現代科学技術文明社会に関する哲学的問題、例えば情報化社会での倫理問題等。また20世紀後半の新しい哲学課題などが選択科目として提供されるだろう。

問題は、これらの科目が、学生にとって興味ある科目かそれとも現代社会にとってそれらの知識が有用なものであると評価できるかという課題が残る。前者は受講する学生が判断し、選択科目であれば、それらの科目を選択しなくなり他の科目を選んで哲学科卒業と謂えども、哲学だけでない他の領域、就職活動に有利な科目、例えば情報処理科目や社会統計学を選ぶ可能性もある。

何れにしても、哲学研究者になることを目指す学生以外は、伝統的な哲学科のカリキュラムをすべて選択する学生は益々少なくなることは明らかである。


変革に立ち上がったフランスの1990年代の大学哲学部

私が所属していたストラスブール第二大学(人文科学大学)哲学部は毎年約500名近い学生が入学してくる。フランスでは哲学は非常に重要な学問であるので「哲学部」として成立している。その点、日本の場合のように文学部哲学科として哲学を専攻する学生数から見ても規模が違うので、日本の場合と比較することは出来ない。

1985年から哲学部で教育改革が行われた。哲学部に哲学専攻、情報科学専攻、言語学専攻の三つ専攻分野を置き、学部名も哲学、情報科学と言語学部と改名した。文字通り、情報学や言語学の教育研究も行われた。人工頭脳の研究を行う情報学系の専門教員、情報処理演習質とその演習室を切り盛りする技官などが入った。私は、哲学専攻であったが、情報系の研究室に机を置いていた。

ストラスブール第二大学の哲学部の改革は、その後パリ第四大学(ソルボンヌ大学)でも同様の改革が行われた。
つまり、哲学教育を重視し、哲学部に多くの学生が入学するフランスであるからこそ、哲学部卒業生にも社会的ニーズに合わせた教育を行うことが課題になったのだろう。情報処理などの教育が人文科学大学としても必要であり、それを哲学部に設置したことが、日本では考えられないことなのかもしれない。

しかし、哲学教育という意味では、フランス1990年代の学部教育改革は日本の哲学教育にも同様な課題を提供しているように思われる。つまり、大衆化していく大学教育において、これまでの一握りの哲学研究者を育成するための哲学科の教育が維持できるだろうかという疑問である。


科学技術文明社会に於ける哲学教育の意味とは

この課題は、科学技術文明によって形成されている現代社会にとって哲学とは何かを同時に問題にしているのである。現代社会で有効な知識の代表となった問題解決型の知識、それは工学系、農学水産学系、生物生態学系、医学薬学系、経済社会学系、生活科学系、経営学系、情報学系、言語学系、設計学系等々、すべての知識は問題解決を前提にした自然、社会、人間科学とその技術技能学である。そこに哲学はどのようにその知の有効性を主張し、対等な扱いを社会から受けようとしているのだろうか。

つまり、歴史学、文化人類学と同様に哲学は教養学として位置づけられようとしているのだろか。例えば、古代ギリシャや古代中国の思想、中世西洋社会のキリスト教神学、17世紀近代ヨーロッパのデカルトやパスカルの思想を思想史の中で学ぶ歴史学の一部、哲学史として、哲学は現代社会人にとって豊かな教養の一部として、存続することが許されるのだろうか。

しかし、例えばデカルトやパスカルの書を読んで、現代社会に通じる有効な生き方や考え方を示唆する文章に出会う。それらの学習は、古典の勉強として位置づけられるだろう。つまり、古典と呼ばれる古い時代に書かれたが現代社会にも有効な知として位置づけられることになる。すると、デカルトの書いたすべてではない。彼の書いた一部の文章や本がそれに相当する。そこで、これまでのように、哲学科の学生以外は、デカルト研究に精を出すほど時間はないかもしれない。

やはり、大学の哲学科で行われる哲学研究は、古い思想の歴史を研究する課題が中心となるだろう。すると、多くの人々にとって、さほど、関心をもたれるものでなく、また、社会が哲学科の教員達に現実の問題解決のために共同研究や委託研究を要請する(産学共同のスタイル)ことはないだろう。

大学は社会が即座に必要としない基礎的研究を行う所でもあるため、産学共同の進まない文学部哲学科の姿を一方的に否定したり批判したりすることは間違いである。しかし、もし、哲学科の教育研究が現代社会のニーズからかけ離れるなら、それらの教育研究に関する批判はないものの、最も危険な批判的態度である無関心が生み出されないだろうか。

こうした批判を最も深刻に受け止め、最も苦悶しているのは他ならぬ大学哲学科の教員達である。自分たちの教室で真剣に研究される課題、哲学が社会的評価を受け、社会文化の発展に寄与して欲しいと願っているのである。その意味で、我々(私もその一人なので)は、真剣に問われる哲学教育の意味、つまり科学技術文明社会に於ける哲学教育の意味」に関する答えを出さなければならないだろう。


今問われる哲学教育のあり方

具体的提案を示すことで、その提案が仮に間違っているとか、基本的課題からずれていることがあったとしても。具体的であればあるほど、多くの人々がその意見に対して評価し、批判し、そして提案することが可能となる。

そこで、具体的な提案をしようと思う。まず、二つの質的に異なる提案が考えられる。一つは教育内容の問題である。もう一つは教育制度の問題である。

まず第一点目の教育内容の問題を述べると
1、 現代科学技術文明社会が問いかける科学技術思想、社会思想や生活思想に関する研究。例えば、生態環境の思想、生活世界を豊かにする科学技術思想に関する教育
2、 現代社会を創る国際化、情報化によって生じる人間学的課題や倫理的問題に関する教育
3、 急激な社会経済発展によって生じる富の不均等蓄積、格差国際地域社会を解決するための政治経済思想に関する教育

第二点目の教育制度の問題を述べると
1、 哲学科の学生は、他の学部学科教育を同時に受ける義務、つまりダブルメジャー・ジョウイントプログラム形式にする。その場合、どの学部でもよい。
2、 または、他の学部学科の学生に哲学科の講義を自由に受講できるようにする。取得単位数によって、哲学科卒業資格、ダブルメジャーを与えてもよい。
3、 もしくは、哲学科の入学資格は、卒業生、社会人のすべてに与え、通信教育制度から夜間教育まで、哲学科は担い、出来るだけ多くの人々が、受講できるようにする。つまり、哲学科は大学教育の中で、最も社会に開かれ、誰でも何処でも受講できるように学科の教育制度を変える。

以上、二つの視点から哲学科の教育改革を提案したが、最も大切なことは、哲学が学問の基礎であるという古い概念から、哲学は学問と自分の生き方を融合するための技術であるという現代的な学問論や哲学教育論を、まず検討することから始めなければならないことは確かである。




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