2010年10月21日木曜日

梅棹忠夫先生を偲ぶ

三石博行


2010年10月20日 梅棹忠夫先生をしのぶ会に参加

2010年7月7日の新聞報道で梅棹忠夫先生が死去されたことを知った。梅棹先生は偉大な学者であり、学術文化事業の企画者であり、戦後日本の国際学術文化交流を牽引された人であり、多くの人々を育てた教育者であった。


早速、民族博物館の梅棹研究室に電話した。秘書のMさんにお願いして、先生の追悼会に参加させて貰える様にお願いした。

2010年10月20日、午後1時30分から国立民族博物館で「梅棹忠夫先生をしのぶ会」が開催された。私は12時30分に会場に着き、「梅棹忠夫の足跡」という展示を観た。民族博物館の展示場全体に梅棹先生の関係した場所と当時の日記が展示されていた。時間の許す限り、展示場の先生の足跡を観て回った。

梅棹先生がアンコールワットの調査に行った時の写真


朝鮮半島 白頭山の頂上での写真
国立民族博物館の至る所に「先生の足跡」が展示されている。

1時30分から献花式が始まった。しのぶ会は会の司会者も先生を偲ぶスピーチをする人も居なかった。ただ、集まり、白い菊の花を先生の写真の前にある献花台に、献花の順番もなく、自然にみんなが思うように献花していた。「梅棹先生らしい自由さ」を残したしのぶ会の進行であった。

献花台に白い菊を置いて先生を偲ぶ人々

早めに献花を終えた私は、「梅棹忠夫とみんぱく」という記録映像を「講堂」で観た。講堂の入り口にあった。梅棹先生の死去の知らせを書いた新聞記事をみた。そこに、先生が1988年フランスから「パルム・アカデミー勲章コマンドウール章」を受章したときの写真を載せた木村重信大阪大学名誉教授の追悼文の記事があった。 

フランスの「パルム・アカデミー勲章コマンドウール章」を受章

京大式カードの改良と学位論文作成

私が梅棹先生を知ったのは1972年ごろ京都大学で流行っていた「京大式カード」と「知的生産の技術」という書物からだった。京都大学理学部の研究室では当時九州大学理学部の助手になられた西山賢一氏から、京大式カードを教えてもらった。また研究室にも京大式カードが置いてあって、自由に使えた。しかし、私は京大式カードを活用することはなかった。

フランスのストラスブール大学で哲学の研究を始めたころ、文献や自分の考察の記録を課題別にファイルする研究システムを考えながら、研究活動をした。そこで研究課題や文献資料のコード番号化や、引用文献のページ記入の方法などのカード情報の作り方を考え、また、それらのカード情報がテーマごとに集合化していることで、集合化したカードを集めるためのタイトルカードを幾つかの段階に分けて考案した。しかも、これらのカード情報の集合が、テーマの進展によって再編成、配列位置の移動を可能にする、カード情報の管理を行う情報管理カードボックスを作った。このことで、一回使ったカードが、また別の研究に活用できるようになったし、過去のカード情報の管理も可能になった。

こうして、私は哲学博士論文を書いた。

1993年、フランスから帰国して、「知的生産の技術研究会」に入会した。研究会の機関紙『知的生産の技術』を編集していたY.T氏とお会いして、京大式カードの改良の話をした。八木哲郎氏の推薦で、関西知的生産の研究会創立10周年記念で梅棹忠夫先生と二人で講演することになった。
その講演の後に、先生に京大式カードを改良した私のカードシステムを見せた。と言っても、先生は目が不自由だったので、カードを手に渡しながら説明をした。梅棹先生は面白そうに聞いて下さったことを思い出す。
http://tiken-kansai.org/TS97/S97-04K.html


日欧学術教育文化交流活動への助言と協力

京都日仏協会の事務局長をしていた時代、アルザスヨーロッパ日本学研究所のクライン所長を招待して、ヨーロッパ連合への運動が始まった50周年を記念し、奈良と京都で講演会を開催した。

その時、アンドレ・クライン氏から成城大学アルザス中学校高等学校の跡地利用に関する相談があり、当時、京都日仏教会の会長であった岸田綱太郎先生(当時、京都府立医科大学名誉教授、ルイ・パストゥール医学研究センター理事長(創設者))に相談して、アルザスヨーロッパ日本学研究所との話し合いを持つことになった。

故岸田綱太郎先生が呼びかけ人となり、「日欧学術教育文化交流活動」のための会が準備された。その会を準備するために、梅棹先生に連絡、相談すると、非常に心安く「呼びかけ人」になることを承諾して下さった。

アルザス日本学研究所は大変喜んだ。と言うのも梅棹先生はフランスの日本学研究の権威ジャン ジャック オリガス教授(初代アルザス日本学研究所所長)の知人だったからである。

民族博物館の梅棹先生の研究室に行き、「日欧学術教育文化交流活動委員会」の呼びかけ人をお願いした時、先生は「フランスには色々とお世話になっているので、その恩返しも兼ねて、どうぞ名前を使って下さい」と言って下さった。

その後、代表者の岸田綱太郎先生を亡くし、会は活動を停止した状態になった。そして、今度は、梅棹先生を亡くした。無念である。しかし、先生のヨーロッパやフランスへの気持ちを受け止めるなら、どうしても会を再建しなければならないと思う。





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