2010年10月19日火曜日

善悪の確率的彼岸とは何か

三石博行


善と悪の回帰運動

善を深く知るものは悪を知っている。そして、悪を深く知るものは善を知っている。その両者を深く知るものは人間を知っている。

「人間は天使でもなければ禽獣(きんじゅう)でもない。天使になろうとするものが禽獣になるのは、不幸なことである。」パスカル「パンセ」(358)

悪への自覚は善への入り口を作り、善からの判断は悪への入り口を作る。なんと皮肉なことか。キリストの原罪思想も親鸞の悪人正機説も、ソクラテスの無知の知のように、逆説的に理解することによって、あまり大きな過ちを犯さない処方を教えているようだ。

つまり、我々が身を滅ぼすほどの大きな過ちを犯さないために、悪を知るということが存在しているようにも思える。

「人間には二種類だけしかいない。一は、自己を罪びとと思っている義人。他は自分を義人と思っている罪びと。」パスカル『パンセ』(534)

そして、悪は善を理解するためにあり、善は悪を理解するためにある。つまり、悪と善はつねに相互を決定するために用意されているようだ。

最も、問題にすべきは、悪として自覚できない悪の存在である。それは主観的には、まったく悪ではないものとして理解されていることである。多分、私にも、他者から見れば悪として理解されながら、自分の中では、悪として自覚できないものがあるかもしれない。


善となろうとするものが悪になるのは自然なことだ

国家権力の中心にいる人々、例えば政治家や高級官僚などの犯罪を摘発する特捜(検察庁特別捜査部)として国民の圧倒的支持を得て、またロッキード事件などを解決してきたその組織が、今逆に、意識的に市民を冤罪被害者にする犯罪が指摘されている。

先月、2010年9月、大阪地検特捜部のM主任検事が厚生労働省の村木厚子元局長らの犯罪を裏付けるために押収したフロッピーディスクのデータを書き換えたことが明らかになり、前田主任検事は逮捕された事件。

正義の使者「特捜検事」のエリート、M主任検事。きっと、彼は悪の巣窟、官僚と政治家(小沢さんみたいな人)を「正したかった」のだと思う。そして、彼の正義を貫くためには、手段を選ばなくてもよかったと堅く信じていたのだ。

悪い奴をヤッケルのだから、世の中の悪を退治するのだから、証拠のフロッピー日付の書き換えなどはそう大いしたことはないと信じていたのではかろうか。

悪と闘い続けてきたM主任検事が、田中角栄元総理のような怪物と闘うために、彼は田中角栄氏よりもより強大な権力者となる必要があった。そして、M主任検事が、強大な権力と闘う以上、M主任検事も強大な権力者となったのである。これは実に自然なことだはないか。

今、世間では、昨日の悪玉(官僚)が無罪となり、正義の使者(特捜検事)が有罪となろうとしている。

この問題は、M主任検事の個人的な資質の問題ではない。特捜の星M主任検事を創ったのは検察組織、民主主義国家国日本、そしてマスコミ。M主任検事を語るとき、我々の社会的評価や価値観などは無傷でいられるのであろうか。怪物M主任検事の誕生を騒ぐ前に、まず自分に潜む怪物を点検するべきだろう。

またもや、M主任検事を悪としM労働厚生省元局長を善として、社会が作り出す善悪物語がマスコミに登場する。その面白く分かりやすい話(ストーリー)を聴くたびに私は常に不安を感じる。

評価の悪い確率が80%以上の状態 悪と評される可能性が高い

悪とは何かを考えるとき、善に対する悪という二元論から、評価の非常に最高に悪いと言われるものという表現がある。

この考えは、失敗学を創設した畑村洋太郎氏の定義した「失敗」の概念に近い。つまり、彼は「失敗学における失敗の定義」を「人間が関わったひとつの行為の結果が、望ましくない、あるいは期待しないものになること」と書いてくる。言い換えると、行為の結果は主観的な評価基準によって失敗と感じることも、そうでないこともあると言える。その評価は極めて主観的である。
するとそれらの主観的評価(個人的評価)が集まり、ある評価集合を作ったとすれば、その平均値がそれらの主観的評価の平均値、つまり共同主観的評価となる。そして、ある行為結果に対して、統計的な解釈を導入すると、悪という評価は、まずいという評価から始まる程度の順序の最高値であると気付くのである。

つまり、まずいから悪への順序は以下のようになる。

1、あまりよくないといわれること
2、まずいといわれること
3、大変まずいといわれること
4、悪として評価されたもの
5、最悪といわれるもの


この評価段階表を基にすれが、悪(犯罪行為)という評価に至るまでに、すでに他者からの批判的評価を受けていたと思いますね。問題は、それらの批判的評価を受け入れられない自分、またはそれを過小評価している自分の問題が浮き彫りになる。

つまり、失敗と同じで、つねにある確率で選択した行為に対しては同じ評価集合内の他者の批判が生じる。ましては、何かに挑戦する場合には、その批判の起こる確率は非常に高い。そして、それらの批判をどのように処理していくか。

特捜の組織の中では、こうした批判的評価に対して、それを受け入れてはならないという組織的文化があるのではないか。つまり、その背景に、世論が係わっている。今までの特捜が行った政治家や官僚への厳しい闘いを我々は支持してきたのだ。その上で、彼らは、彼ら独特の捜査手法の落とし穴を検証する機会がなかったのかもしれない。

他者からの批判的評価を無視する、理解しない、拒絶するという過程を経ながら、大きな落とし穴(犯罪行為)に落ちるのだと思う。

社会が悪(犯罪行為として評価された状態)と断定するまでに、多分、社会は軽度から重度の批判的評価を下し続けたと思われる。ですから、善か悪かの整数値を行為評価に与えるのでなく、批判的評価関数の平均値からのズレを問題にする発想が必要だと思う。

その意味で絶対的な悪も絶対的な善も存在すると考えることは、不可能に近い悪と善の姿をイメージしていることになると思う。

問題は、M主任検事でなく、M主任検事の思想です。M主任検事の司法や捜査に対する考え方の問題だと思う。

彼は、その意味で自らがもつ権力の恐ろしさを忘れていたのだと思います。
しかし、自らの持つ権力の恐ろしさを忘れるのは、M主任検事だけではないでしょう。小さな企業でも、家族でも、学校でも、どこでも起こるような人間的現象のように思える。


参考資料
畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』文芸春秋社、文春文庫、2005年6月10日 第1刷、268頁


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