2011年2月1日火曜日

暴力の起源と原初的生存活動・一次ナルシシズム的形態

今村仁司氏の講演「暴力以前の力 暴力の起源」のテキスト批評


三石博行


はじめに

今村仁司氏(以後 今村とよぶ)は、死去2年半前の2004年12月24日に立命館大学人文科学研究所暴力論研究会の第6回講演で、「暴力以前の力 暴力の起源」(1)について語った。

長年、暴力論を展開した今村のたどり着いた暴力の起源に関する考察が、この講演で展開されたのではないだろうか。講演資料のテキスト批評を通じ、今村氏が提起した暴力論の起源について解釈と分析を試みる。

テキスト批評とは知的生産にとって一種の演習問題に近い作業である。暴力の起源について考えるとき、社会科学的アプローチと人間科学的アプローチの二つが想定されるのであるが、デリダや今村の暴力論は人間科学的立場からの研究である。テキスト批評を通じて、その課題をより深める。



1、分析資料と著者の紹介

活用文献
今村仁司 「暴力以前の力 暴力の根源」 立命館大学人文科学研究所暴力論研究会 第6回講演、 2004年12月24日、 6p.  文献コード名 (IMANhit 04a)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/bouryoku/index.html

著者紹介

今村仁司 (1942年2月26日-2007年5月5日) 日本の哲学者、社会経済思想家、特にフランス現代思想を日本に紹介し、日本の現代思想の潮流を形成する。多くの著書、翻訳をはじめとして、さらに『廣松渉著作集』を共編する等々、数々の業績を残している。
参考 Wikipedea 「今村仁司」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%9D%91%E4%BB%81%E5%8F%B8

2、文献の要約

2-1、「はじめに」(IMANhit 04a p1)

今村仁司氏(以後 今村と呼ぶ)は、講演の冒頭で「暴力現象は人間社会のなかで弁別できないほど多様に、また無数に出現する。」(IMANhit 04a p1)そしてそれらの暴力現象を示す用語も無数に生まれる。

そのような複雑な暴力現象を表現する用語や概念の密林に迷い込み、暴力的現象を明確に区別し理解することの出来なくなった現代社会に対して、今村は「この(暴力現象の)錯綜の森をどうして切り抜けていくことができるのだろうか。

以下では、暴力以前の力が何ごとであるかについて試論を提起してみたい。」(IMANhit 04a p1)と語りかけている。


2-2、「線を引くこと(根源分割)」(IMANhit 04a pp1-3)


根源分割とは

暴力の起源について語るとき、今村がまず引用したのがヘーゲルの「分割する(Scheiden)という行為は悟性の力と働き(Arbeit)であり、その悟性とはもっとも驚くべき、またもっとも大きい力、いやむしろ絶対的な力である。」(同上)という概念である。

つまり、今村は、「形なき空間に一本の線を引く」原初的線引きを「線引きは分割であり、分割は無形から有形を産出する。 原初の線引きすなわち根源分割があり、そこから形と姿をもつ「世界」が現れる」(同上)と述べた。 

この根源分割「原初の分割」を、ヘーゲルの主知主義の埒内での分割作用、つまり悟性(知性)的な概念形成等の知的思考作用・「人間的精神(思考するという意味での)の開始」として議論するのでなく、「人間的存在の開始」であると考える。従って、今村の言う「根源分割は「人間の」現実存在を生み出す」ものであり、その分割によって人間的なものは作り出されると考えた。(同上)

比喩的に述べると、「分割(分ける)とはまだ具体的形姿をもたない無限(の自然)のなかに一本の「線をひく」ことである。」(同上)その分けられたものとは、「自然としての自然のなかに存在しなかった」ものである。つまり分割するとは、反自然的存在「人間的なもの」を「具体的形姿をもたない無限(の自然)のなかに一本の「線をひく」ことであり、その行為によって「人間的なもの」が「出現させる」のであると今村は説明している。(同上)

この分割によって生じる「人間的なもの」の出現とは、まず「ことば」を意味する。「語り得ないもの(無限)のなかに線を引くこと(分割、切断の線)によって」(同上)、具体的な形相が生じる。その形相とは「有形の世界」を意味する。そしてこの形相を意味するもの、つまり、他方で、語り得ないものという「言葉」・「無限」を、出現させる。(同上) この今村の説明は難解である。


無形の分割の結果としての登場する存在形態の二元化、存在(在るもの)・自己の現実存在と(在る)・対象的世界

つまり、今村は、根源分割によって生じるものは(結果は)「自己の「ある」こと」に対する「原初の存在における原初の存在感情」であると考えた。換言すると、「根源分割」とは、「自己の現実存在を感じる」こととして出現する「情感的受け取り」である。つまり、言語化された世界とは、世界そのものではなく、「分けられた片割れとしての世界」である。そしてその結果として自己(自己意識としての自己)も登場する。自己は対象世界の結果であり、同時に世界は自己の結果でもある。(同上)

そこで、今村は、「根源分割によって、無形の無限は「ある」(存在)に変貌し、それを感じるものは「在るもの」に変貌する。いわゆる存在と存在者の区別は、無形の無限の根源分割と原初感情の結果であって、その逆ではない。」(同上)と述べた。

我々は、根源分割という人間的な原初的生存活動の形態によって、創られたもの、我々に意識もその現象に過ぎない。我々の自我も精神も、その結果に過ぎない。つまり「エゴは、根源分割の結果として、無限のなかにあり、それと同時に世界のなかに内在する。」(同上) 精神活動があって、世界があるのではない。その意味で事象つまり、「人間的な物の出現とは根源分割である。」言い換えると「それに(事象の出現)よって、語る存在としての人間は、おのれ自身であるところの存在と区別される言葉「ある」を発することができる」と説明した。

つまり、もし「人間の「そこに=ある」を現=存在というなら」、ここで語られた「そこに=現に」という表現こそが、正しく今村の定義したかった「根源分割」の存在根拠であり、その根源分割という存在の原初的生存活動を通じて、世界との原初的関係、つまり「無形の何かに分断線を刻む」作業を行い続けるのである。「人間的現存在は、人間的存在とその人間存在のなかに存在する世界を区別しながら出現させる」ことになる。(同上)

事象化、つまり分節化しながら登場する世界(自己意識としての対象意識、内的世界内外的世界存在)とは、「分割作用の結果として「存在」に縮小変換されて、人間の言葉のなかに現れる」現象を言う。(同上) 言葉化されとは 縮小しつづける自然の存在形態「無限」を意味する。つまり、「人間化されること、分割されることによって、つまり「言葉「存在」の出現」によって、「存在と存在者(世界)への分節化」(同上)されることになる。そして、自然の存在形態(無限)は人間化され縮小し続けるのである。(同上)


しかし、「我々は無数の屈折が生じたとしても、人間が出現してきた原初の無形的なものは原初の感情によってつねに受け止めてられており、それは憧憬として感じられ続ける。ここから想像的妄想による彼岸思想も生まれることもあれば、それとは反対に存在の満足を自己の無限内存在の概念的で情感的な把握を通して獲得する道もまた用意される」(同上)とも今村は述べている。つまり、自然が分節化され人工化され無限を有限化し、つまりある概念に観念化したとしても、その自然に潜む無限(生を超えるもの・死=無)は、その有限(生)を覆うことになると今村は語っているようである。


発生論的な「存在・存在する」生存形態の概念

今村は根源分割の進化過程を三つの局面(段階)に分類した

第一局面とは「最初に、唯一の線が引かれる。無形無限は、切断線によって、二つの領域に分かたれる」ことを意味する。つまりその「分割する線とは、人間的存在そのものである。それは線分を引きつつ現実存在する。二つの領域のうちのひとつは「世界」であり、もうひとつは「存在」である。」(同上)と述べている。

第二局面とは、「無形無限が二分される瞬間に、無形無限は「存在」への変貌する、あるいは縮小する。純粋存在はまだ語り得ないものであるが、にもかかわらず存在者を通して暗示される。無形無限の変貌体である存在は存在者の蔭に隠れるとはいえ、言葉によって密かに温存される。ひとは特定のものについて語りながら、「何かがある」と言う。言葉「存在」は純粋存在を隠しつつ、暗示的に現す。」(同上)

第三局面とは「存在者に吸収され、しかも言葉「存在」によって隠される純粋存在、すなわち存在としての存在は、分割以後ではもはや無形無限ではない。それは無形無限の末裔であり、変貌形態であり、そのかぎりで無形無限とのかすかなつながりを保存している。根源分割の働きであるかぎりでの人間は、分割によって生じた「世界」のなかに存在すると同時に、無限の縮小である純粋存在を媒介にして無限のなかに存在する。人間は世界内人間であり、同時に無限内存在である。」(同上)


2-3.分割の瞬間と出来事(IMANhit 04a pp3-4)

人間的認識の転倒 「表象する存在の活動」よって「表象されている世界が存在する」 

今村は「根源分割の後でのみ、ひとは語り言う(すなわち知る)ことができる。」と述べている。つまり、「分割以前のことは語り得ないし、分割の瞬間(イマノトキとしての現在)についても語ることはできない。」(同上) 人が自己意識を持つとは、その人が語ることによって、その語りを聞くこと、つまり語る対象が聞く対象と同時化されることによって、人は自己意識を持つ。もし、「語ることができない」なら、人は自己を「知ることができない状況」にあるともいえる。(同上)

語ることを通じて、語る自己の外に「出来事が出現する」。その出来事の出現の瞬間とは、出来事としての語る自己の意識に中に生じた精神現象であり、その精神現象(つまり対象認識とよばれる意識現象)を根拠にして成立している自己意識である。このことを今村は「原初の場面でいえば、この出来事は人間的現実存在である。人間的現実存在は、それ自身が根源分割の働きであり、同時にこの分割作用としての原因の結果である。」と述べている。(同上)

この「在るもの・存在」と「在るという」意識の現象は、言い換えれば、「人間の存在は、その分割する作用に世って「世界」と「存在」を構成するものでありながら、構成された二つの領分の構成要素であるからである。」 つまり「人間という出来事は、そのなかに逆説を含んでいる」と今村は指摘する。何故なら、「根源分割としての人間存在は、原因でありながら、あたかも結果であるかのようにみえる」からであり、「根源分割は原因でありながら、「知る(認識する)」の側からみれば、結果として知られる」からである。(同上)


「我考えるゆえに、我あり」・転倒したゴギトから根源分割的コギト・「我ゆえに考える」

精神現象的に見れば、表象する世界と表象される世界の関係は、「事柄の順序からいえば、転倒しているのだが」、表象するものがあって表象されるものがあるように思う。つまり表象は表象を映し出す人間的欲望、生理的反応、生存活動、生命活動の結果であるのだが、表象を認知した人間からはそれはすでにあったものとして理解される。

言い換えると「人間的思考は」転倒的に構成され、結果であるものが原因として認知、理解される。さらに言うなら、自ら発した疑によって、疑っている自己を疑えないと帰結し辿りついた自己存在の確信問題の解であるゴギトは、正しく、人間的思考の転倒的構成を物語る代表であるといえる。

つまり、語る自分いて、その語る自分を疑えないのは、語る自分の結果である。言い換えると、「コギトは自身が結果でありながら、あたかも自身を原因であるかのように考え」ているのである。(同上)それゆえに(疑い考えるゆえに)自分が存在しているのではなく、存在していることによって「疑い考える」ことが成立しているのである。

「根源分割とその結果に関わるパラドクスは、人間的事象のすべてに貫徹する。「非知のなかでのみ、出来事の出来事性が構成される。」(Derrida, Force de loi,p.88.強調は引用)(同上)と今村はデリダのコギト解釈を展開した。


革命(暴力的瞬間)が暴露した転倒的存在物 超越的存在者を演じる法律と制度の本質

今村は、表象や意識として現れた世界は根源分割活動の結果であるため、一般的な日常言語表現で言われる「現在」と語る(言う)ことは、厳密には不可能であると述べている。つまり、 「瞬間としての現在は「知る」ことができない」し、「瞬間は非知であるから、それを語り知るためには比喩をもってするしかない」と今村は説明する。(同上)

例えば、デリダの考察に従いながら「政治的切断としての「革命的」危機あるいは暴力的瞬間を例に」とって考える。すると「革命的危機のときには、ひとはその危機の瞬間も、そのなかにいる「われわれのいま」も、知ることはできない、というパラドクスを含む」ことになると説明している。(同上)

そこでは、「新しい法体系はまだない。それは宙づりの空位期であり、暴力的瞬間が」起こる。つまり革命とは、「危機的で暴力的な瞬間、法の空位期である。それは歴史の流れの切断であり、法体系(社会的秩序)の連続性の根源分割である」(同上)。そして「分割し切断する暴力(根源的暴力)は、社会の秩序を宙づりにし、法の体系を無効にする。善悪の判断基準を宙づりにするが故に、切断の瞬間においては、この瞬間自身を解読することはできない。」(同上)その革命的暴力によって、つまり現存する秩序を「切断の力は、既存の秩序を解体し、それ以外の物を現象させるが、それ自身では現象しない。それは「与える力」でありえても、与えられるもの(現れるもの)ではない。根源的な分割力は、世界を作る力であり、また世界を解体する力でもある。」(同上)

そして、「暴力は既存の法を中断し、別の法を作ろうとする。この宙づりの瞬間、このエポケー、法を創設したり革命したりするこの瞬間は、法のなかにあって非=法の審級である。しかしこれは法の全歴史でもある。」つまり、革命の瞬間、人は法を到来するものとして暴力の中で創設してゆく。つまり、法律という制度は、そのときもっとも人の近くに存在している。その神学的な超越的な法律の演出し続けてきたベールがはぎ落とされる。(同上)

以下、解釈が極めて困難であり、そのため、箇条書きにしながら、文脈をまとめる。

1、 法的秩序の崩壊 その社会規範の変動が、「あらゆる「主体」はあらかじめこのアポリア的構造のなかに囚われている」ために、つまり「ひとがひとであるかぎり回避できない原初の構造の効果」を導くことになる。この文で、社会的変動(法的秩序)の崩壊によって、人々は、その基盤にしていた社会観念の崩壊、つまりは、自己の価値観の崩壊を経験するという意味なのか。

2、 その法秩序の崩壊によって引き起こされる「原初の構造の効果」とは「人間的現実存在はそれ自身で根源分割である。だからデリダが言うように、分割と切断の瞬間はいつでも生起しているが、しかし現前の相では生起しないのである。根源分割は「与える働き」そのものであるから、与えられたもの(結果)からしか接近できない。それは語り得ないものであるから、因果の連結を超えるものであり、したがって与えられたものから出発して、所与存在がいわば原因であるかのごとく、与えるものをあたかも結果であるかのようにとらえるほかはない。与えるはたらきである根源分割は本来「作用原因」であるのだが、それ自身が生産したものによって結果として「与えられる」ことになる。」(同上)つまり、その社会的価値観・個人の価値観の解体から新たな価値観の再構築過程を経験することで、新しい法(社会秩序)を作る作業を経験することになる。その作業が新しい価値を与える働き・根源分割を身近に体現させる。 

3、 つまり、結果として「与えられたものから見れば、与える働きは現実存在に内在的でありながらも、すでに超越的にみえるという「神学的」構造もまた、根源分割の構造に刻まれていた。通常の神学=宗教的な、あるいは神話的思考は、根源分割の構造を誤認しつつ、ある種の真実を反映していることも、おのずと明らかになる。」(同上)

4、 以上の根源分割が表層化する現象、多くの場合革命などの社会的価値観の大転換期において、「デリダの用語法に近づけて言えば、彼の言うところのdifférance(差延)は、われわれの言う根源分割として解釈し改作することもできるだろう。それは言語的差異体系の成立以前の原初的な「分ける」働きであるからである。デリダはそれをarchi-violence(原初の暴力)とよぶ。われわれは原初の線引きを根源分割とよぶ。根源分割は、主体と客体、時間と空間が出現する以前の、それらを結果として産出する力である。」


2-4.tracer (線引き)と trace(痕跡)(IMANhit 04a pp4-6)


線を引く動きの出現とその消滅 「痕跡」

今村は、根源分割の結果として痕跡(軌道)が生じると考え、その痕跡を生み出した「線を引きの動き」を仮定する。当然、線引きの動きは結果としての痕跡の中に姿を消すことになる。つまり、線を引く動きは動きの結果である痕跡と区別できない。換言すれば、「人間の現実存在に即していえば、それは線を引くこと(根源分割)であり、同時に運動の痕跡である。」(同上)

つまり、「分割する線引きの特徴は、それの出現が同時にその消滅であるという点にある。」そして、根源分割現象で生じる分割する動き・線引きの動きの「出現」とその結果としての痕跡は同時に存在する。言い方を変えれば線引きの動きの「消滅」が同時に痕跡の「出現」を意味する。つまり、線引きの動きとその痕跡の関係は分割の「出現」とその分割の「消滅」による分割された痕跡の「出現」である。「同じ事態の異なる側面で」あり、「あるいは消滅することが出現の条件である。」そして「存在が無であるという矛盾した事態」をしめものである。

この消滅と出現の弁証法的運動は、「日常的経験のなかで意識する(できる)ことではなく、現実存在の原初条件を概念的に語ることから出てくることである。」(同上)


一次的痕跡(音波)と二次的痕跡(聴覚)

つまり、「痕跡は不可視である。質料的な実物を結果として残す働きが痕跡であり、より正しくは痕跡と同じ線引きである。線を引く動きにして効果である痕跡は、けっして可視的でない。」そして、「不可視の線(痕跡)が運動として可視的なものを、人間的存在とそれのおいてある場所を結果として残す。これを図式的に言えば、次のようになる。」(同上)

1、 「一次的痕跡(トラース)。分割線を引く働きがあり、同時に軌跡がのこり、その軌跡が痕跡として別の実物的な結果を残す。分割する働きは効果を「もの」のなかに刻み、それ自身は消失する。」つまり、この一次的痕跡を根源分割と仮定し、この根源分割によって、副次的に非知覚的な現象、例えば神経生理的反応等々が生じると今村はさらに仮定する。

2、 「二次的痕跡。根源分割の効果から生じるものが二次的な痕跡である。可視的な、したがって姿を現す(現象する)結果は二次的な派生体である。現世内のすべての「現象」や事物は例外なく二次的な痕跡であり、現象する結果である。人間の存在や人間的思考もまた二次的結果である。人間自身が二次的痕跡(トラース)であるのだから、それについて語る行為としての言説は痕跡の痕跡となる。言説の組織は、二次的痕跡(結果)から始まるのだから、痕跡を生み出した一次的な原初の線引き(tracer)は言説によってとらえることはできない。根源分割は言説が開始するとき、すでに姿を消してしまっている。)つまり、この二次的痕跡は、一時的痕跡(根源分割)によって生じるもので、この結果として知覚的現象や事象が生じると今村は仮定する。

この一次的痕跡と二次的痕跡の事例として、今村は物理的音波「音」と脳神経的反応を経て知覚化された「聴くこと」を区別して説明している。

つまり、「われわれが自分の言うことを聴く場合、「音」と「聴くこと」が区別されているし、またこの区別がなければ聴くこともできない。音を聴く(または聞く)とき、すでにそこには根源的トラース(原初の分割)が働いている。音を聴く行為は、根源的トラースの効果を生きることであり、効果(結果)を経験することが形を与えられることである。音という感覚的ヒュレー(マチエール)と聴くというフォルムは区別されると同時に不可分一体である。この事態は二次的トラース(痕跡)であり、それはさらに別の二次的派生態を際限なく産出する。二次的痕跡だけが経験できるが、根源的トラースはそれらによって隠され消去されるから、感覚的な経験の意味で経験されることはできない。しかし根源的(一次的)トラースなしには、現実存在するものもありえない。くりかえすが、根源的分割は二次的痕跡のなかに不在的に内在(現前)しているのであって、現実世界の「彼岸」に超越しているのではない。それは内在的であるがゆえに、効果をもつことができる。」(同上)


一次的痕跡としての生きている労働と二次的痕跡としての過去の労働の概念

そして「二次派生態は絶対的過去〔根源分割〕の働きの結果であるから、けっしてこの過去に追いつくことはできない。」その二次的派生態の結果である「事物の経験は」過去の働きに結果として出来ている。「それは存在論的宿命である。」つまり、「二次的世界の事物は派生の派生という歴史的時間を凝縮している(過去的経験を含んでいる)が、それらが派生体であるかぎりは、けっして純粋過去としての根源的な「与える」には追いつけない。しかし少なくとも人間のなかには絶対過去性である根源分割そのものを示す働きがある。最も遠くて最も近い根源的で原初的なもの、それが生きて働くことである(lebendige Arbeit)。」と今村は考えた。 (同上)

この考え方から「労働」の概念を展開する。つまり「人間的労働は生きているかぎりで(単なる物体、たんなる死体のごとき物でないかぎりで)無形の無限のなかに「一本の線を引く」ことである。生きている労働は根源的分割であり、それは二次的・派生的な具体的生産行為とも違っている。生きている労働なしには具体的(特定の用途をもつ)生産活動はありえない。生きていることにアクセントをもつ人間的労働は、過去の死んだ労働の無際限の蓄積(生産素材や生産手段の中に凝縮した過去労働)を、生きて働くそのつどに「一挙に」に蘇生させて、死せる過去労働を生ける労働のなかに組み入れる」のである。(同上)


3、三石によるテキスト批評(批判的解釈)


暴力の起源としての生命力

今村は、この講演で「暴力の起源」を「根源分割」、つまりデリダの言語的差異体系の成立以前の原初的な「線を引く動き」に置いた。例えば、人間が生きるために世界に働きかける行為、原初的生存活動を「根源分割」と考えることが出来る。その根源分割は、乳児の行動で言えば、母からオッパイをもらい生理的に個体保存をするために生き続けようする活動であると解釈できる。

オッパイを吸うこと、オッパイが生理的要求の対象であること、オッパイを母の身体から分割し、それを自分の生理的要求の対象にする。この作業を今村は「根源分割」を行う、つまり母の身体とオッパイに線を引き、その結果、自分の生理的要求「オッパイを吸う」という行為に直結した「痕跡」、つまり、まだ「オッパイ」という名称を与えられないものが登場することになる。

オッパイを吸うという行為は、空腹から来る生理的要求や触覚的快感を求める生理的要求を満たす行為、その行為の痕跡(生理的反応に対する記憶・一次的痕跡)によって、つねに生理的要求が生じるたびに同じ行為が導かれ、それらは母と乳児の関係という痕跡・二次的痕跡として沈着する。

今村の根源分割の概念を通じて、乳児の生理的要求の対象である「オッパ」とそれを獲得する行為、その行為の習慣化によって生じる乳児とオッパイ(母の部分)の関係が理解できる。しかし、この根源分割がなぜ暴力の起源となるかという説明は明確ではない。今村の理論から、赤ちゃんのオッパイをしゃぶる行為が暴力の起源となると解釈できる。この場合の暴力の概念を定義しなければならない。つまり、今村は生命力を暴力の起源と考えたのだろうか。

言語的差異体系の成立以前の原初的なオッパイを母の身体から「分ける」、つまり、オッパを「線を引く」という動き、この動きをデリダはそれを暴力以前の力、暴力の起源と考えた。そして、今村も、このデリダの暴力概念を前提にして、「線引き」「根源分割」、暴力の起源と考えた。


ホスト構造主義が依拠する精神分析的説明仮説の有効性

デリダや今村が、暴力概念を導くために活用した「根源分割」、「線引き」や「痕跡」の考え方は、メタレベルの精神世界の構造や現象仮説である。この概念を導くために援用した科学的根拠は何もない。つまら、この説明は、根拠無い説明仮説であると言える。

敢えて、その根拠を求められるなら、メタレベルの意識世界の精神現象の説明モデルとして、精神分析の説明仮説が援用されていると考えられる。しかし、ここでは、今村は暴力の起源に援用したであろう精神分析の説明仮説を活用するための権利問題が厳密に吟味されていない。


参考資料

「非自己としての身体性の発見 一次ナルシシズム的世界の亀裂現象」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/1_27.html

「非自己としての空間の発見と場所的空間の形成」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/2_27.html

「生理的感覚空間の形成から社会的関係空間の形成の前哨段階へ 欲望の形成」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_31.html


訂正(誤字) 2011年2月8日




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