2011年2月9日水曜日

人権主義政策 構造的暴力の抑制機能

社会制度としての人権擁護機能形成とその政治思想

三石博行


格差や貧困の世代連鎖を生み出す構造的暴力

仲野誠氏(以後、仲野と呼ぶ)のヨハン・ガルトゥングの「構造的暴力」の説明を援用し、再度、ヨハン・ガルトゥングの「構造的暴力」の概念を説明する。つまり構造的暴力とは、平和学者ガルトゥングが「平和」の概念を「暴力のない状態」と定義することによって形成されたと説明されている。(1)

つまり、平和・暴力のない状態には二つの形態がある。一つは、殺人や傷害などの個人的(直接的)と呼び、その暴力のない状態・「消極的平和」ともう一つは、ある特定の個人によって行われる暴力でなく国家、社会や集団の規則やその機能によって生じる言論統制、価値観の強制、経済や社会的な格差や差別の強要、社会的権利の剥奪等々、社会的差別の強要を、つまり間接的な暴力を「構造的暴力」と呼び、その暴力のない状態を「積極的平和」と呼んだ。(1)

また仲野は、「構造的暴力」の概念を「可能性と現実との間の、つまり実現可能であったものと現実に生じた結果との間のギャップを生じさせた原因」(2)であり「潜在的可能性と現実との間の隔たりを増大させるものであり、この隔たりの減少に対する阻害要因」(2)というガルトゥングの有名な定義を使って、「つまりそれは個々人の生の可能性を狭めている/妨げているさまざまな社会構造であるといえる。」(1)とのべた。

我々は(主体)具体的な他の誰か(対象者)の「個人的暴力」によって具体的に加害を加えられる。この暴力が引き起こした結末、例えば殺人による死亡、傷害による後遺症や放火による財産消滅などは具体的に理解できる。そして、それらの暴力の結果に対して、刑事的、民事的、人道的な問題を起こした人物や団体に対して求めることが出来る。

しかし、ガルトゥングの定義する「構造的暴力」とは、具体的な対象が引き起こす目に見える暴力行為ではない、それは法律、規則、制度、習慣、風習という社会機能が潜在的に持つ、政治的抑圧、経済的搾取、社会文化的疎外であると池田光穂氏は述べている。(3)つまり、その疎外の結果、個人の持つ「潜在的可能性」は奪われる。

例えば、教育環境に恵まれないアメリカ社会の黒人や移民の子供たち、貧困生活を送る家族の子供たちは、勉学をする家庭環境は勿論、進学の機会すらない。これらの子供たちが、能力がなかったからでなく、その能力を伸ばせる機会を持たなかったために、彼らのこれからの人生は、貧困や差別を受ける社会環境から抜け出すことは出来ない。

つまり、貧困の連鎖が世代を超えて続くのである。この貧困の連鎖を起こしている社会構造、個人の潜在的可能性を奪う社会構造を「構造的暴力」と考えたのである。


民主化過程、国家の直接的暴力減少過程

構造的暴力が国家、社会や集団の規則やその機能によって生じる以上、「構造的暴力は社会制度の基本であり、その構造的暴力をもって社会は維持されていると考えられる。」(4)つまり「社会が存在するかぎり、そこに何らかの抑圧、搾取や疎外の形態が生じる。それらの形態を皆無にすることは、社会そのものをなくすること」(4)は出来ない。つまり、構造的暴力が消滅することは「国家という機能をなくすることを意味する」(4)のである。

前節(4)で、構造的暴力は社会システムを維持するための機能として理解された。つまり、構造的暴力を社会から取り除くことは不可能である。構造的暴力は社会自体の存続に付随する姿であり社会システムの在り方を意味することを述べた。(4)

さらに、直接的暴力の概念を使いながら、民主化過程に関して述べた。(4)つまり、民主主義と独裁政権の国家を比較しながら、歴史的に、民主化の遅れた国家では、直接的暴力が国家の体制維持のために使われて来た。そして、民主主義が確立し国民主権の政治が行われることで、直接的暴力を国家が使い国民の自由な発言を封じ込める暴挙(スキャンダル)はなくなることについて述べた。

つまり、国民主権の国家は、主権者国民に対して直接的暴力を振ることで、その国家の理念を失う。また、国民主権国家が民主主義によって運営される以上、国家への批判を国民は選挙によって表明する。選挙の結果を受けて(国民の意思に従い)、政権交代が行われ、一つの政党が国民の意思に反して政治を執行し続けることは不可能である。また、国民によって選ばれた政府が、国民を警察や軍隊によって弾圧することはあり得ない。これが民主主義国家の姿である。その意味で、民主主義国家では国家による直接的暴力が国民に向けられることは無くなるのである。

しかし、独裁政権の国家では政権を非難する国民は直接的暴力によって弾圧される。そして、独裁政権から民主主義政権への変換が世界の社会政治史の流れであるなら、その過程、つまり民主化過程では、国家は人民に対して直接的暴力を振るう機会が少なくなる。換言すると、国家の引き起こす直接的暴力の執行の機会を失う段階が民主化過程と類似することが言える。

このことから、国民が起こす政権への批判にたいして国家の直接的暴力執行の度合いは、国や社会の民主化過程のバロメータ(基準評価)として理解できた。以上の展開は、著者がヨハン・ガルトゥングの直接的暴力概念を民主化過程に応用した前節の例であった。(4)


議会制民主主義国家での構造的暴力・多数派による少数派の権利剥奪・無視

また、構造的暴力は、独裁政権国家でも民主主義国家でも存在する。そして、民主主義国家が独裁政権国家よりも構造的暴力が少なくなったということではない。何故なら、構造的暴力とは、国家を維持するための国家のイデオロギー的機能であり、独裁政権国家も民衆主義国家もその機能を持っているからである。

構造的暴力が、国民主権国家と独裁政権国家において基本的に異なることはないという結論から、ここでは、特に、民主主義国家での構造的暴力の姿について議論する。平和学者ガルトゥングが構造的暴力(間接的暴力)を「構造的暴力」と呼び、その暴力のない状態を「積極的平和」と呼んだ意味を正確に理解するたには、国民主権を理念とする民主主義国家の秘めている暴力性を理解しなければならないからである。

民主主義、国民主権国家であったとしても、すべての国民の主義や権利を保障している訳ではない。つまり、議会制民主主義国家である以上、最大多数の勢力が国会での議決権を得る。そして少数派は、多数派に従わなければならない。これが、議会制民主主義の国家運営の決まりである。

議会制民主主義では、少数派の人々は常に権利を奪われ続けるのは仕方がないことであり、少数派は多数派に従うのが民主主義の決まりであると言えるのだろうかという疑問が生じる。つまり、この考え方では、最大多数の最大幸福、国家は多数者たちが最も国家から利益を受ける権利を持つ、ある意味で「国家の多数者の国家の多数者による国家の多数者のための政治」を議会制民主主義と呼ぶ。

つまり、民主主義は国家の多数者独裁主義と同義語であると言うのがこの考え方の基本である。しかも、事実、自称民主主義国家と呼ばれる国々(経済先進国も含む、例えば日本)で、社会は議会制民主主義を最大多数による国家運営として理解している。

この考え方から、民主主義国家でも、国家が持つ構造的暴力に関する自覚的理解は存在しないことになる。つまり、多数派の人々が議会制民主主義の制度の上で、少数派の人々の権利を奪うことも当然の多数派の権利として理解される。多数決の原理で横行する少数派の権利剥奪(典型的な構造的暴力の例)が無批判に社会で横行することになる。

つまり、国民主権(すべての国民の権利によって国家が運営される政治)は、多数決議会制民主主義だけでは不十分であると考える。つまり、国家の基理念に人権擁護や国際平和主義がなければならないのである。

つまり、国民の多数者による少数者への人権侵害を許すなら、過去、関東大震災時に自警団が在日外国人の虐殺、ナチスがユダヤ人虐殺、現在横行する民族浄化を肯定することになる。国民主権・民主主義とは逆に人権を守る手段であり、独裁者によって過去繰り返された人権弾圧に対する反省の上に成立した政治制度であると理解しなければならない。

人権擁護や平和維持が民主主義の目指す課題であると言える。そのためには、民主主義社会の構造的暴力について理解する必要がある。つまり、議会制民主主義国家で、もし無神経に多数派による少数派の権利剥奪・無視が行われるなら、この国家の民主主義とは「多数者によう独裁」を意味することになる。つまり、民主主義国家の構造的暴力を自覚的に理解する機能を持たない限り、民主主義と呼ばれる国家権力による暴力が生み出されるだろう。

近年、イラク戦争で明らかになったように、我々先進民主主義国家では「独裁政権下で苦しむ国民を解放すると民主主義政治イデオロギーによる戦争や侵略」が当然のように語られる。そして、民主国家の独裁政権国家への軍事的な介入は正義の戦いであると賞賛される。その結果、どれだけ多くの国民が戦禍を受け、命や生活を奪われるかという問題は別の問題とされるのである。これが最も民主主義の進んだアメリカで、そして民主主義(国民主権主義)政治として、その国民に圧倒的に支持されて登場した歴史的事実をどう理解したらいいのか、これが現在の政治思想(哲学)の重要な問題の一つでないのは実に不思議なことである。


民主主義国家での構造的暴力の自覚的点検機能・積極的平和

民主主義社会の最後の戦い、それはその民主主義国家の理念である民主主義とよばれる制度に潜む間接的な暴力「構造的暴力」をその民主主義制度の中で抑止していく社会政治的機能を創ることではないだろうか。この構造的暴力を自覚的に抑制する政治過程をガルトゥングが「積極的平和」と呼んだのではないだろうか。

岡本三夫氏(以後、岡本と呼ぶ)は、ガルトゥングの言う「積極的平和概念の内実は、経済的・政治的安定、基本的人権の尊重、公正な法の執行、政治的自由と政治プロセスへの参加、快適で安全な環境、社会的な調和と秩序、民主的な人間関係、福祉の充実、生き甲斐などであるが、このような平和指標は弾力的である。消極的平和はもっとも狭義に定義された固定的・静的平和概念であり、積極的平和は広義に定義された発展的・動的平和概念だということもできる」(5)と述べている。(6)

国家や社会がそのシステムを維持するために必然的に設定している「構造的暴力」はもっとも強固なものであり、もっとも排除しにくいものである。その暴力装置が引き起こす「人権侵害」の要素を出来るだけ取り除くことが、国際化し多様な民族が共存する現代の民主主義社会の課題となる。

しかし、国家の基本的な機能である「構造的暴力」をその機能から完全に取り除くことは出来ない。では、積極的平和を生み出すためには、社会はその構造的暴力装置に対してその装置が自動的に機能しないよういする対策が必要なのではないだろうか。つまり、社会身体の無意識な暴力的行為を、自覚的(反省的)に理解する社会的機能が必要となる。

民主主義社会では三権分立によって、行政(官僚機構)、立法(国会機能)と司法(裁判機能)の三つの権力を分離し、相互に監視する制度を導入してきた。従って、構造的暴力を抑制するための社会機能を考える際に、これまで民主主義社会の制度の基本であった三権分立制度の在り方、その機能の不十分点や問題点に関する議論が求められる。

つまり、この三権分立制度で、民主主義社会の構造的暴力を抑制するにはどの部分に修正が必要か、さらに、三権分立以外に民主主義社会制度を維持しながらも構造的暴力の横暴を阻止する制度があるのか。現在の民主主義制度の基本構造、三権分立機能のあり方を再点検する作業が求められている。しかし、ここで、この壮大な課題に関する議論展開は出来ない。それは、今後の課題に残すことにしたい。

この節で、述べる課題は、現状の三権分立の民主主義制度の中で可能な構造的暴力装置の自覚的制御機能の課題について述べる。

1、 行政機能、立法機能や司法機能の情報公開 オンブスマン制度支援

2、 市民による国家や行政の事業仕分け参加制度

3、 司法制度の民主化 裁判員制度や検察審議会制度の充実と点検

4、 国民生活センターの充実化、消費者運動支援

5、 国や地方自治体の政策審議過程の情報公開と国民・市民参加制度

6、 国家の外交政策の情報公開(許される範囲での)、市民参加(国際平和活動への)

7、 社会的少数派の政治参加を積極的に進める。例えば、在日外国人の帰化をすすめるために、長期滞在者の地方政治への選挙権・被選挙権(参政権)を与えたる。

8、 社会的弱者の社会活動を積極的に支援する。例えば、障害者、高齢者の社会参加を支援する。女性の出産や産育児支援活動、敗者復活戦を教育機能や就職支援機能に積極的に取り入れる。

9、 経済的弱者の生活活動を積極的に支援する。例えば、失業者の就職支援活動、派遣労働者の雇用条件向上政策、林業、農業や漁業従事者(後継者)の事業支援政策等々

等々

以上、ここに記載したのは数限りない具体的な課題の一部である。そして、社会文化や時代によって、多様で具体的な構造的暴力装置の自覚的制御機能に関する提案がなされるだろう。


社会政策から人権主義政策へ

民主主義社会での「構造的暴力」を抑制する機能を獲得するための政治思想(哲学)について議論する。この議論を行う前に、構造的暴力装置の自覚的制御機能の概念について考える。

現代社会の民主主義社会を推進・展開してきたのは資本主義経済制度であり、その経済制度を支えた社会思想、つまり個人主義と自由思想である。資本主義経済は経済活動の自由、つまり市場経済活動が保障されて成立することは今更述べる必要もない。

資本主義経済を基本とする国家は、資本主義経済によって生じた社会的矛盾、例えば労働者階級と資本家階級の形成、企業の利益追求、勤労者の長時間労働や劣悪な労働条件による労働者階級の貧困化問題等々、機械制大工業が発展した19世紀のヨーロッパ社会では、若年労働者、労働災害や職業病が蔓延した。この労働者の搾取によって企業は莫大な利益をあげ、そして大きく成長し、国家はその企業の経済活動を支援し、他国での市場を開発するための植民地政策を繰り広げ、帝国主義とよばれる侵略型の資本主義経済を形成した。

この時代、長時間、劣悪労働条件によって生じた労働者階級の救済を国家が取り組んだ。その理由は、企業のよる労働者収奪によって労働者の生活や健康が破壊されることは、国家として損失となるからである。つまり、軍隊には健康な男子が必要で、人口を増やすためにも健康な女子が必要であった。(7)そのため、国家は工場法(ビスマルク)や社会保障制度、失業保険や年金制度を作ったのである。

資本主義経済の横暴、つまり資本家階級の利益追求から生じる社会的矛盾を緩和する政策が社会政策であった。社会政策は民主主義社会が成熟していない、初期の資本主義社会で生まれた「構造的暴力」に対する抑制機能である。この機能は資本主義国家の維持のために必要とされた勤労者階級の健康維持であり生活条件の維持であった。

ここで議論しようとしている成熟期の民主主義社会での構造的暴力の自覚的制御機能とは、政策論的には上記した社会政策の延長線上にありながらも、質の異なる課題を提供している。つまり、前者は発展期の資本主義社会での国家の富国強兵の目的で必要とされた健康な男女・国民(国家の資源)の確保を国家中心的な社会政策の課題にしていのであったのが、後者は成熟した資本主義社会での、国民生活の質的向上、人権主義を基本とする社会政策(人権主義政策)が課題となる。

人権主義政策で取られる国内政策は、社会保障制度、弱者救済政策、福祉政策や社会的格差是正政策である。また国外政策は、平和外交、人道支援、環境対策や技術援助等である。

民主主義国家での構造的暴力の自覚的点検抑制する機能は、当然、岡本が述べたように、国家が国外での直接的暴力、つまり軍隊による海外での活動や戦争行為を極力抑制することが前提条件となる。何故なら、直接的暴力を施行する自国民(兵士)の暴力への鈍感な感性によって、国内の直接的暴力の広がりへ連動するからである。その連動によって、アメリカ社会で見られるように、帰国した兵隊による銃乱射事件、社会精神的病理現象を防ぐことは出来ない。その上で、人権主義に基づく国内政策が可能となる。


人権主義政策の政治思想

国家がある以上、構造的暴力は消滅しない。その意味で自由な経済活動を前提としている資本主義、個人主義と民主主義社会では、勤労者の雇用問題、労働条件問題、経済格差問題、消費者問題、家族問題、等々の社会問題は当然生じる。その問題自体が、構造的暴力の一面であり、それによって引き起こされる問題であるとも言える。

例えば、格差問題を考えるとき、格差を是正するために平等主義を持ち込む。しかし、自由を社会の理念にする限り、平等主義と自由主義は必ずしも民主主義の社会では両立しない。自由を制限することで、社会的平等を維持しようとする。すると、その社会は競争力を失うことになる。

保護貿易主義を取れた経済社会では、平等主義を使って国民の経済格差を是正することが出来た。日本の義務教育では徹底した平等主義がある。ヨーロッパの小中学校のように学力の差によって学年編成をしない。年齢によって学年が自動的に決まる。そのため学年教科内容を理解していなくても進級するし、また早くそれを終えても飛び級することはない。そのため、特殊な能力のある子供を育てることは出来ない。

また、これまでの日本社会では賃金格差は殆どなく、社長が社員の賃金の100倍以上の報酬を得ることはなかった。何故なら、高額所得者への税負担は非情に大きかった。それによって、高い給与を得るための努力をしなくなる。

格差社会は、社会に競争力を付けることが出来る。能力に応じて賃金の格差が生じないなら、能力を磨き上げようとする努力は生まれない。資本主義を活性化させるためには、終身雇用制度を廃止し労働市場に自由な競争を取り入れる必要がある。

21世紀の世界の資本主義経済の流れの本流は、市場主義と自由主義である。それによって世界経済は活発化している。この流れを止めることは出来ない。つまり、この流れの中では、現代の民主主義社会での構造的暴力を抑制する機能は十分に働かないだろう。そして人権主義政策も十分評価され、発展するとは思われない。

つまり、ここで課題になる資本主義社会の構造的暴力を抑制する社会機能は、例えば格差を社会的に認め競争力を付けながらも、その格差によって生じる社会矛盾を解決する別の社会的機能を装置する必要がある。賃金格差をなくするのでなく、賃金格差によって生じた社会矛盾にたいして解決する機能、例えば社会福祉制度の充実を作り出す。

また、学力格差によって生じる矛盾に対する解決機能、例えば、アメリカのコミュニティーカレッジのように落第生の社会的な敗者復活戦を準備し、フランスのVAE(社会での経験を学位単位として認める制度)を創り、社会に出てから、仕事しながら、生涯を通じて学ぶことを評価する制度を作る必要がある。

資本主義社会の自然発生的現象、つまり能力による格差の増大は防ぐことが出来ない。それなら、その格差によって生じた矛盾を若干解消する政策、または挑戦し格差是正を自助努力で克服することを奨励する制度を至る所に設定する必要がある。それ以外に、資本主義社会の中で、その社会が根本的に生み出す構造的暴力を解決する手段は見つからないのである。



参考資料

(1)仲野誠 「構造的暴力と平和」 2005年4月18日 鳥取大学 地域学部 地域政策科
http://www.geocities.jp/peace_atsushi/kouzoutekibouryokutoheiwa.htm

岡本三夫「構造的暴力」
平和学のリーダである岡本三夫氏は構造的暴力の概念を「現実における身体的・精神的(自己)実現が、その潜在的実現以下であるような影響を受けているならば、そこには暴力が存在する」と述べている。
http://www.okamotomitsuo.com/jpeacestudies/essays/022meiji2.html


(2)J.ガルトゥング『構造的暴力と平和』高柳先男、塩屋保、酒井由美子訳 中央大学出版部、1991年

(3)池田光穂 「構造的暴力」
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/09violencia_estructura.html
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/100228violencia.html

(4)三石博行「民主化過程と暴力装置機能の変化  社会文化機能としての暴力装置・構造的暴力(2)」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/2.html

(5)岡村三夫 「積極的平和」
http://www.okamotomitsuo.com/jpeacestudies/essays/021meiji1.html

岡本三夫 『平和学その軌跡と展望』、法律文化社、1999年12月


(6)平和学を研究する岡本三夫氏によると、ガルトゥングの言う「積極的平和」概念は「消極的平和」概念を前提に成立しているとも解釈できる。つまり、積極的平和も消極的平和として語られる直接的暴力が起こらない状態、典型的な例として戦争であるが、積極的平和は、戦争がない(消極的平和)を前提にし、それなくしては積極的平和自体の実現が不可能である。つまり、戦争のない状態自体が平和にとって基本的で「積極的な価値」である。暴力を考える上で、最も基本となる課題は平和であり、「戦争の廃絶は依然として人類社会の理想であり続ける」(5)ことは疑いないのである。

(7)風早八十二 『日本社会政策史』 日本評論社、1937年






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