2011年2月11日金曜日

根源分割、生命力(エロス)、ナルシシズムと呼ばれる暴力性

人間論から解釈される暴力の概念(1)

三石博行


根源分割の痕跡・欲望の対象、記号、主体(自我)

前節で、人間論的視点から暴力の起源に関して、これまで今村仁司氏(以後、今村と呼ぶ)のJ.ソレル(Sorel)の解釈やデリダの解釈を基にしながら議論してきた。取り分け、今井の暴力の起源としての根源分割の意味について再度検討する。

今村は「根源分割」を暴力の起源においた(1)。認識論的視点から解釈すると今村の「根源分割」とは自己の世界の登場を意味する。つまり、この本源分割、対象が認識の風景に登場する過程(対象と非対象の間に線を引く過程)であり、その分割の結果の痕跡として表象が生じる。つまり根源分割は表象形成過程・対象認識過程と解釈することが出来る。

また、今井の「根源分割」は、精神分析の視点から解釈すると主体の形成過程を意味する。まず、自己と非自己の間に亀裂(線が引かれ)が生じ、主体に対する対象世界が生まれる。それらの対象世界は主体の精神活動の結果であるとも言える。(2)

さらに、この「根源分割」は、言語学的視点から観れば、対象世界の命名であり、その対象世界との能動的関係性(文法化)である。言語的規則性(構造化)によって主体は動く、つまり文化的秩序によって自我の精神運動が形成される。社会文化的存在者としての人間が生まれるのである。その出発は、根源分割機能を持ってしか作れない言語的記号によって可能となるとも言える。

つまり、人間学的な暴力の起源としての今井の「根源分割」は、欲望の対象とその記号、欲望の主体(自我)の三つの概念が生み出される過程を意味し、その痕跡として対象、記号や主体が存在すると解釈できる。


暴力としての生命力

前節での解釈、つまり本源分割を起源として、人間的暴力の要素として「欲望の対象とその記号、欲望する主体(自我)の三つの概念」に関して述べる。これらの三つの概念の形成過程と暴力性との関係について考える。

前節で述べた今村のソレルの6つ暴力の概念の分類は(3)、暴力とは生命力を意味するものであり、その生命力によって生み出される意志、観念、創造力、モラル、労働や徳が自我の姿であると解釈されている。

生の躍動とは、苦難に立ち向かい、降りかかる困難と闘い「人生を激しく充実して生きようとする意志」(3)であり、生命力である。その意味で、激しい命の闘いを「暴力性」に含めることが出来る。この場合、「暴力」とは他者を傷つけ破壊する行為というネガティブなイメージに「生命力」というポジチィブなイメージが馴染まないという批判が生まれる。

しかし、ある生命体は他の生命体を食し、侵略し、破壊する力である。個体を維持する強烈な生命力とは他の生命体を食べつくす力である。その二つの側面、個体を維持することと他を破壊することは生命力、つまり「生きようとする力」に関する同義語となる。

その生命力を前提にしなければ、無から有が生み出された歴史を説明することが出来ない。つまり、社会や国家の原型の形成史を物語る時、破壊と創造の物語の基盤に、原初的な荒ぶる力、生命力を置かなければならないのである。

また、社会が発展していく力、創造力、自己犠牲力、指導力、変革力、持続力の人間の生命力によって社会機能の成立しているのである。

そしてまた、暴力と生命力を同義的に置くことで、革命という秩序転換のメカニズムで生じる既成概念の崩壊と新しい秩序形成の過程が、社会的悪から社会的善への価値観の変換過程が、理解でいるのである。今村は、この法的秩序の崩壊や社会規範の変動は、暴力によって生じるある神話の崩壊と再生のドラマであると述べている。(1)


暴力としてのナルシシズム

以上述べた暴力概念は、人間の生物的生命力、精神的生命力、社会的生命力を意味する。それを生の哲学が「生の躍動」と語り、またフロイトはその生命力をエロスと呼び、その精神エネルギーをリビドーと呼んだ。

フロイトのリビドー(人間的な性欲)とは、人間は種の保存のエネルギー(動物的性欲)を個体保存のために使うと人間独自の性欲の在り方を意味している。種の保存のために個体は存在する。これが動物界の厳しい掟である。その掟に従って生きることを本能と呼んでいる。つまり、人間はその掟に従わず、性欲を自分のために使う。鏡を見てニッコリする猫も猿もいないのだが、人間だけは毎日鏡を見たい。川面に映った自分の姿に恋するナルシスとは、本能の狂った動物・人間の典型的な行為であると言える。

自分への性欲エネルギーの投資(自分の理想・幻想に向かって努力すること)によって、人は人間界で評価・「目標をもって生きる」人間であると尊敬される。理想を持つこと、目標に向かって生きること、そのすべてが性欲を自分のために使う本能が狂った行為、人間的行為によって生み出されている。

理想のために生きなくても、人は自分の飾り立て、綺麗な服装とお化粧をし、立派な時計を腕にまき、高級車に乗り、贅沢な生活に憧れる。そして、どれほどみすぼらしい生活をしていても、その質素な生活に人知れず誇りを持ち、それを自慢する。人から、プライドや自慢を取り除くことは、人間稼業を辞めよと言うのと等しい。それくらい、人は自分を褒めたい衝動と要求を常にもっているのである。これが、人間的な姿である。そして、その極端に、その自分の理想、夢、幻想ために自分の命さえ失うことを惜しまないという人にもなれるのである。

人間的行為の典型であるナルシシズムは、他者への無関心や排除を生み出す(4)。つまりナルシシズムとは人間的暴力性を秘めた生命力である。そこで、本来ナルシストである人間は、自然に自分と異なる他者を受け入れない。例えば、日本人であることへの誇りやプライドはそのまま在日外国人への排除心の基盤となる。

しかし、日本人としてのアイデンティティーを持たないで生きている日本人は居ないように、何かの国家、民族、社会や集団に所属する人間、これを社会的文化的存在と呼んでいる。民族としての自己のアイデンティティーを持たない人間はいない。

つまり、ナルシシズムやアイデンティティーは、精神活動の構造的暴力と理解できる。それらのエネルギー(暴力)が存在することで、精神構造は安定している。しかし、そのエネルギーは同時に、他者の排除を行う気持ちや感情のエネルギーとなっている。我々はナルシズムによって自分を未来に向けて努力させ向上さすことができる。そして、同時にそのナルシシズムによって他者を排除する暴力と破局にも自分を導くこともできるのである。


参考資料

(1)今村仁司 「暴力以前の力 暴力の根源」 立命館大学人文科学研究所暴力論研究会 第6回講演、 2004年12月24日、 6p.
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/bouryoku/index.html

(2)三石博行 「暴力の起源と原初的生存活動・一次ナルシシズム的形態 -今村仁司氏の講演「暴力以前の力 暴力の起源」のテキスト批評-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post.html

(3)塚原史 「暴力論の系譜 –今村仁司とジュルジュ・ソレル-」 東京経大学会誌 経済学 (259), 83-94, 2008年3月、pp.83-94 
    http://www.tku.ac.jp/kiyou/contents/economics/259/083_tukahara.pdf


(4)三石博行「いじめるという行為 -「いじめない」ことの困難さ-」 
http://mitsuishi.blogspot.com/2008/01/blog-post_9938.html


2011年2月14日 誤字修正






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