仮想敵国中国との軍事力競争の時代かそれとも東アジア平和的共存を目指す時代か問われる日本外交の選択
三石博行
安倍首相の靖国参拝の意味するもの
12月26日に安倍首相はA級戦犯が合祀(ごうし)されている靖国神社に参拝した。同時に、安倍首相は靖国神社の境内にある鎮霊社にも参拝した。この鎮霊社には、「靖国神社にまつられていないすべての戦場に倒れた人々、日本人だけではなくて、諸外国の人々も含めて全ての戦場で倒れた人々を慰霊のためのお社」(安倍首相の発言)である。この安倍首相の靖国参拝は小泉元首相が行って以来7年ぶりである。
この参拝を巡って今東アジアでの反日感情が再び盛り上がろうとしている。この参拝にアメリカが異例の「批判」を行った。日韓関係の改善はアメリカにとっても大切な課題であり、日ごろから歴史認識問題や竹島(韓国名独島)の領有権問題で日韓関係は悪化の一途を辿り、また日本が国有化した尖閣諸島や中国が突然設定した防空識別圏の問題等々、中国とも同じように日々厳しい対立関係が続く中、この参拝はアメリカも望む東アジアの日中韓関係の改善の道を塞ぐ結果になろうとしている。
さらに、麻生元首相の発言「ナチスがやったように平和憲法を廃棄すべきという」発言や今回の特定秘密保護法での自民党(自公与党)の強制採決、石破自民党幹事長の報道制限や報道人の処罰発言等々、この国が明らかに戦争のできる国に変貌しようとするための憲法9条の破棄に向けた動きが始まっていることは確かになってきた。この一連の政治的動向の背景についてより正確に分析する必要がある。
何故なら、その方向次第では、日本の今後に歴史に悔いを残す大きな選択を迫れられる未来に進む可能性があるからだ。これは、過去の軍国主義国家日本の失敗を再び犯す可能性を秘めているとも謂える。
米国支持の日本の再軍備化時代
安倍政権は1960年に祖父の故岸信介首相が故アイゼンハワー大統領との間で締結した集団的自衛権を前提とした新安保条約を実質的なものにしようとしている。その背景には、海洋大国をめざし台頭する中国の軍事力とそれによって引き起こされている近隣諸国との領有権紛争(その一つとしの尖閣諸島問題)がある。何故なら、日本が中国と軍事的衝突が可能になる条件として集団的自衛権が実質執行できる日米軍事同盟が必要であることは誰も疑わないからである。こうした時代的な背景を活かし自民党は2012年7月に国家安全保障基本法案を提出した。この法律の条件が特定秘密保護法を制定であった。つまりこの法律によって制定される国家安全保障会議の機密を保障するために特定秘密保護法が必要であった。
安倍政権が強固に推し進める強い国家日本の必要な条件、特定秘密保護法、国家安全保障基本法とそれに基づく内閣主導(官僚主導)型の国家安全保障会議の設定はすべて紛糾する国際情勢に対して日本の防衛力を強化する目的で進められていると言われている。仮想敵国は明らかに中国である。その中国と尖閣諸島近辺で起こる可能性のある軍事的衝突、さらにそれに起因する日中戦争を想定して日米同盟の強化、具体的には集団的自衛権を実質化しようとしているのである。
もし、20年前の東西冷戦時代であれば、米国はこの安倍政権の政治的選択を歓迎したと思える。しかし、現在のアメリカの対中外交は、仮想敵国としての中国ではなく、経済大国中国との関係であり、世界政治に責任を持つ米中関係の形成である。今後明らかに世界一の経済力を持つことになる東アジアで米国が影響力を維持するためには、中日韓関係が強化され東アジア共同体が米国の抜きに進むことは望んでいない。しかし、同時に、日中間での軍事的衝突が起こることも望んでいない。こうしたアメリカの東アジア外交、中国を緩やかに牽制しながらも、米中間の政治経済関係の発展も手に入れようとする外交も展開するだろう。
こうしたアメリカの対東アジア外交の変化に対して今後の我国の日米関係の在り方や日中、日韓関係の在り方が問われていることは事実である。自民党の中にアメリカに強制された憲法を改正し自国の独自の憲法を持つことを政治目標にしている勢力がある。これらの勢力は、「日本軍・国防軍」を持つことがまず国が持つべき当然の姿であるという信念の基に日本の軍備強化を主張してきた。
実際、再び日本が軍国主義国家となることを防ぐために、連合国(米国)は平和憲法の公布を推進した。しかし、その意図は米ソ間の軍事的対立、その代理戦争、朝鮮戦争の勃発によって脆くも崩壊することになる。朝鮮半島を共産主義から防衛するために米国軍隊を後方支援する部隊として1950年に警察予備隊創設された。この日本の軍事力所有の準備期間を経て、1954年に正式に日本の軍隊、つまり自衛隊とその自衛隊の行政機関である防衛庁が設置され国家としての軍事行政が復活する。195年からの自衛隊は航空自衛隊は拡張する第1次防衛力整備計画、1961年の第2次防衛力整備計画、1963年の第3次防衛力整備計画、1972年の第4次防衛力整備計画を経て強化された。
さらに戦闘機や各種装備の近代化が中期防衛力整備計画 の第1期から第2期によって図られてきた。その間、日米同盟は強化され1983年に対米武器技術供与決定、1992年 に防衛省は防衛庁へと所属替になり、防衛関連の「情報委員会」が設置され、また海外への平和部隊としての出兵を可能にした「国際平和協力法」「国際緊急援助隊法改正法」が設立し、カンボディア国際平和協力業務や国連イラク化学学者調査団に自衛官派遣された。
つまり、1950年に警察予備隊創設から現在の国際平和部隊に参加している自衛隊の形成、さらにはアメリカの軍事政策下でまで集団的自衛権を発揮できる自衛隊の発展的展開は米国が支持してきた日本の再軍備化過程であると理解できるだろう。
積極的平和主義から積極的軍事主義化への危険性
2011年軍事費ランキングから日本の軍事力を観ると、日本の軍事費は第6位(4兆3623億円)である。その1位はアメリカ(55兆1672億円)、2位は中国(10兆3417億円)、3位がロシア(5兆1298億円)、4位はフランス (4兆6595億円)で5位はイギリス(4兆6300億円)であると言われている。しかし、日本の軍事力の評価は世界で17位とされている。それに対して、中国が3位で韓国が8位と評価されている。勿論、アメリカの軍事力は1位でロシアが2位となっている。
つまり、軍事費から見ても、中国は日本の2倍以上の力を持ち、しかも中国は世界2位の軍事大国である。当然、この具体的な数値からして、日中間で軍事的な衝突が起こった場合、圧倒的に中国が優勢となることは確かである。このことから日本は中国との軍事衝突を避けることが現実的な政治の在り方であると理解するのが常識である。しかし、安倍政権はその現実とかけ離れた対中外交政策を取っている。その大きな理由が日米軍事同盟である。つまり、日米軍事同盟を背景にする限り、日本は中国との軍事衝突を恐れることはないと理解されている。
米国との軍事的同盟を背景にした対中外交を展開するのであれば、自民党政権は米国の対中外交を踏襲することになる。しかし、現在の安倍政権はアメリカ政府が非難する対中外交を展開しようとしているのである。今回の靖国神社参拝問題でアメリカが副大統領を中国に派遣して根回しして来た東アジア政策、対中、対韓外交の努力が水の泡となったと言えるだろう。
では、安倍政権はアメリカとの東アジア外交政策の路線を違えても、対中韓外交を緊迫刺激させなければならない理由があるのだろう。その理由とは何か、それが安倍政権の目指す政治的課題ではないだろうか。その課題を理解するために安倍政権が掲げて「積極的平和主義」を理解する必要がある。2013年9月26日、国連総会で安倍首相は「積極的平和主義」について演説を行った。つまり、PKOをはじめ、国連の集団安全保障措置に、より積極的に日本の自衛隊が参加することを積極的は平和主義活動であると述べている。そして、2013年12月22日、南スーダンの国連平和維持活動(PKO)に従事する韓国軍に弾薬1万発を無償譲渡した。つまり、積極的平和主義とは軍事力を背景にした平和活動を意味すると言えないか。
積極的平和主義を主張する安倍政権が目指すものとは軍事大国としの日本である。この路線はいずれアメリカが制御可能な範囲を超えるだろう。つまり米国の言いなりにならない真に独立した国家日本の形成のために平和憲法を破棄し強大な軍事力を保持し、いずれ核武装も視野に入れ、その力で対中外交を行うことを視野に入れていると思われる。
その為に、またその結果において、益々、中国を刺激し対中関係に軍事的緊張を作り出し、日本の軍事大国化の糸口をつかもうとするだろう。戦後生まれの民主主義教育を受けた安倍氏個人がその軍事大国化への未来を否定したとしても、この国際政治の大きな流れの中で、愛国主義化する中国との軍事的緊張は日本社会を同じように愛国主義化し、強固な軍備路線に導くことになる。そして、積極的平和主義が積極的軍事主義へと変貌し始めた時、日米関係は変化し、対中関係はますます悪化するだろう。
無責任文化国家・現代日本社会
何故、安倍政権を代表する日本の保守勢力は積極的軍事化を目指すのだろうか。その理由は安倍総理個人の問題でも自民党を代表する我国の保守勢力の問題だけでもなく、実に、我国の政治思想文化に根差したものがあると思われる。そして、同時にこの政治思想文化は国民の中に深く根ざしているがゆえに保守勢力が支持されている要因をなすとも言える。
では、その積極的軍事化を意図する政治思想文化とはなにか。歴史認識を問い掛ける中国や韓国に対して、内政干渉という保守勢力、例えば石原氏や橋下氏は国民の意識とかけ離れた主張をしている訳ではない。むしろ、彼らの発言はある意味で大半の国民的な意識でもある。そのことがここでは最も問題なのである。
このことは、日本の戦後処理を巡る課題に辿り着く。つまり、誰があの250万人の日本人、そして数千万と言われる中国や東アジア及び東南アジア、勿論米国の犠牲者に対する戦争の責任を取ったのだろうか。戦争に協力した報道、教育機関、自治体、国民運動、婦人会等々、その責任は不当な東京裁判に掛けられて高死刑台に散った戦犯と称する犠牲者によって帳消しにされたのだろうか。誰一人責任を取らない、取れない文化が始まったこの戦後の問題そこ日本史の中で未来語られる悲劇の始まりではないのか。
その事実から目をそらすために、多くの仕掛けを行った。それが靖国神社ではないか。いつの間にかA級戦犯者が合祀された。しかも、第二次世界大戦で戦死し遺族に引き渡すことができなかった遺骨を安置している千鳥ケ淵戦没者墓苑や、日本人だけではなくて、諸外国の人々も含め戦場に倒れた人々を慰霊した鎮霊社(靖国神社境内)に静かにお参りする儀式をこれまで政府(社会党連立や民主党政権も含めて)は積極的に行うことはなかった。
この甚だ信じがたい責任を取らない日本の文化は命がけで責任を取ることを習わしにした中・近世の武士の文化と異質のものであると言える。つまり、いつの間にか、日本人は責任を取ることを忘れた。
そして、太平洋戦争に突き進んだ軍部の無責任な判断、非現実的な戦争突入、非科学的な戦略と戦術、非合理な精神主義、そして、そこに戦後、原爆で被爆した人々への差別、水俣公害とその公害病への差別、こんどは原子力ムラの利権とその災害である福島原発事故とその被害者への無関心さ、こうした責任を取らない日本文化が始まった。
しかし、責任を取るとは腹を切って自害することではない。それはその失敗の原因を探求し、その失敗が起こらないための考え方、方法、技術、制度を確立することである。失敗を個人的に責め、そしてその個人を排除する思想と失敗を無責任に放置する思想は類似している。それらは失敗を経験として理解していない。失敗は個人の問題として解釈されている。そのため、失敗した人を排除するか、もしくは排除しないで認めるかを選択することになる。それに対して失敗を一つの経験として理解する考え方は、失敗を活かし、将来の人々や社会に役立てようとするのである。
こうした視点に立てば、日本文化に誇りを持ち日本の伝統を守ろうとする保守勢力が武士道を忘れた無責任な現代文化を支持していることは何とも皮肉な文化現象であると言えないか。実は、この皮肉な現実に日本の現代社会で進もとしている積極的軍事化と軍事大国化を進めたい精神構造がある。その精神構造を理解しなければならないだろう。
なぜ日本は中国を仮想敵国にし韓国を無視するのか
日本とまった逆の戦後処理を行った国がドイツである。つまりドイツは徹底して戦争犯罪への自己批判を行った。ナチスを賛美することも、またヒットラーを戦没者の墓に合祀することしなかった。
その大きな理由はドイツがフランスと共に戦後形成し続けてきたヨーロッパ社会の平和的共存のための活動にある。1951年パリ条約によって欧州石炭鉄鋼共同体の形成から始まる。それから欧州評議会、欧州経済共同体、欧州共同体と現在のヨーロッパ連合へと発展して行く過程で、ドイツは常に戦争犯罪を自己批判してきた。それがこの欧州連合をドイツが積極的に形成して行くための必要十分条件であった。
しかし、戦後の日本は自らの戦争責任に於いて、東アジアの平和的共存を政治課題に挙げていない。その大きな理由にこの国際地域の中心に東西冷戦構造がそのまま位置していたことが挙げられる。そのため韓国では軍事政権が1980年代まで続くことになる。そして中国の近代化も共産党政権によって進められ、東アジアの最大の国である中国の政治体制が今の一党独裁政権によって運営されている。その意味で資本主義民主国家の韓国や日本と政治システムが異なり、それらの国々が平和的に共存する政治的条件が整っていないとも言えるだろう。しかし、それに反論するようにして2015年のASEAN共同体構築を目指して様々な取り組みを加速しているASEAN(東南アジア諸国連合)がある。
言い換えると、日本は東アジアでの平和的共存を目指す東アジア共同体の形成のための指導的立場に立つことを国家の利益と考え、国の政治方針の中心に置いていないのである。そのために、EU連合を成功させたドイツと異なり、その逆に東アジアでの軍事的緊張を利用し、再軍備化を進めようとしているのである。
従って、誇り高き日本とはアジアで初めて近代化に成功し、列強として認められた日本帝国であると言える。その国家的イメージを再現すること、つまり美しい日本とは誇り高い近代国家日本のイメージなのだろうか。そのイメージは常に欧米コンプレックスとアジア蔑視の上に成立している。それはアメリカへの卑屈な限りの外交路線であり、同時に傲慢なアジア外交に繋がる。今や日本を超える経済力と軍事力を持つ中国を「シナ」と呼ぶ人々、それには計り知れないアジアへの差別と偏見がある。その差別や偏見は近代日本が培った歪な欧米模倣主義とその反動であるとも言えないだろうか。
問題は多くの日本人が欧米模倣主義とその反動的な精神構造を持ちながら、アジア蔑視と欧米反発の感情を持っていることを自覚しないことである。つまり、我々は日本文化への誇りを言いながらも、実際にはその確信が得られないのである。どこが日本的なのか、そんなものがどこかに行ったのでないかと思っている。例えば、もう畳の生活もないし、また和食文化もない。それなのに和食が世界文化遺産になる。つまり、我々日本人は、皮肉なことに日本の伝統を守りたい言いながら、便利な洋式のトイレ、システムキッチンとよばれる台所、寝室のベッ等々、ありとあらゆる洋式尽くめの生活の中にドップリト浸かっていることは確かである。それでも、保守勢力は欧米模倣主義を毛嫌いしながら日本主義、伝統主義に憧れているのである。
ある意味で本当の日本の伝統的文化を語るなら、そこには朝鮮半島や中国との長い歴史的関係があり、それに影響され、そしてそこを土台とした日本文化がある。つまり我々の文化のルーツを語るなら東アジア、中国や韓国との文化的共同体を無視しては成立しない日本的伝統文化があることに気付くに違いない。その意味で、東アジアの文化的共同体を無視する思想は極めて新しい社会思想であると言えないか。それらは近代日本で生まれ、そして成長した欧米模倣主義から生まれた思想であると言えないだろうか。
この精神構造(文化構造)が生み出す政治思想からは大東亜共栄圏の発想は生まれても、東アジア共同体の発想は生まれないことは確かだ。この我々の精神構造から生まれたものが、我々の仮想敵国としての中国であり、韓国無視の政治姿勢ではないだろうか。
政治の原点に返る
ここまで、中国や韓国との外交上の問題を引き起こすことを敢えて行う政治家、安倍氏の靖国参拝という政治的行為の深層は単に彼がそう願っていたと言う単純な理由では説明されないことを述べてきた。しかし、この日本人の近代化の過程で形成されたトラウマの構造に言及し、そして、安倍氏個人を代表する日本人の欧米模倣主義を生み出す精神構造について話したとしても、政治家安倍氏の責任問題が問われるのである。
つまり、もう一度、政治とは何か。この疑問の原点に返り、靖国神社参拝の意味を深く理解しなければならないだろう。その行為が引き起こす政治的リアクションに対する責任問題と彼が抱えた英霊と称する戦死者(A級戦犯者を含めた)への尊崇の念とそれを表すための参拝行為の持つ政治的意味をここでは明確にしておかねばならないだろう。行きたかったから行きましたでは政治家としてあまりにもお粗末な説明と言えるだろう。
もし、そうした個人的感情でなく、多くの日本国民の希望として首相として戦争に身をささげた英霊(A級戦犯者を含めた)への尊崇の念を示すために靖国神社を参拝したとなると、それを希望する国民がどれぐらいいるのかを知っているべきだろう。その上で、大半の国民の意志を代表して行く行為を選んだと言えるだろう。
もし仮に、この行為が中国や韓国に批判されることによって生じる感情、つまり靖国参拝は内政干渉であるという考えがあるとすれば、それを批判する東アジアの国々の立場や戦争犠牲者の感情に対する配慮も同時に問われることになるだろう。そして、これらの批判に対して政策として答えることが政治家の役割である。首相が国(日本帝国)のために戦死した英霊(A級戦犯者を含めた)への尊崇の念をその犠牲者となったアジアの国々の人々に説明しても理解されないことは当たり前である。こちら(我々日本人)が加害者であり、向こうはその被害者である。例えば、酔っ払い運転の自動車事故で子供を殺した運転手が、仮に同じように彼もその事故で死んだとして、それは確かに彼は事故の犠牲者ではあったが、酔っ払いという重大な交通違反(侵略と言う重大な国際法違反)を犯している。その罪を認めない限り、彼は一人の犠牲者として被害を受けた人々から認めてもらえないだろう。それと同じ論理なのである。
靖国参拝の前に、日本の政治家は責任をもって、歴史的反省に基づき、考えてみる必要がある。何故なら、国の面子を語りそのために軍事的衝突も辞さないということが本当に政治家の取るべき外交なのだろうか。国民の生活や平和を犠牲にして守らなければならない面子とは何か。考えるべきである。
前の戦争でも軍国主義はそうした無謀な愛国心を掻き立てながら、国民を戦争に駆り立てた。そして協力しない国民委は非国民というレッテルまで準備した。戦争を勝手に起こしておいて、そしてそれに協力しない人々を脅迫し逮捕し拷問に掛けた。あの悲惨な歴史を忘れてはならない。戦争ほど大きな犯罪はない。人々を何の理由もなく殺し、家や財産を焼き払い、人々に憎しみの歴史を作る。これ以上の犯罪があるだろうか。その犯罪を国家の正義として語る。そしてその歴史を反省するのでなく賛美する。あってはならない政治家の行動である。
何が政治にとって重要なのか。国の面子か、それとも国民の人権や平和的生活か、それすら疑わなければならないことが今、日本の民主主義社会の中で、平然として行われようとしている。すでに長い歳月、国民主権(民主主義)、人権主義、平和主義の憲法を基にして培った社会の中で 我々はそう容易く軍国主義化を許さないだろう。そして、今、昨年安倍政権を支持たいた多くの国民も理解し始め、その結果は次の選挙に現われるだろう。私は、この国の人々の良識を信じる。
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関連ブログ文書集
日中の軍事衝突を避けるために何をなすべきか
1、問われる日本外交の姿
2、軍事衝突を回避するための外交政策を展開するために
3、日本の危険な対東アジア外交を生み出す日本社会の精神構造
http://mitsuishi.blogspot.jp/2013/12/blog-post_2621.html
ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2012/03/blog-post.html
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哲学に於いて生活とはそのすべての思索の根拠である。言い換えると哲学は、生きる行為、生活の場が前提になって成立する一つの思惟の形態であり、哲学は生きるための方法であり、道具であり、戦略であり、理念であると言える。また、哲学の入り口は生活点検作業である。何故なら、日常生活では無神経さや自己欺瞞は自然発生的に生まれるため、日常性と呼ばれる思惟の惰性形態に対して、反省と呼ばれる遡行作業を哲学は提供する。方法的懐疑や現象学的還元も、日常性へ埋没した惰性的自我を点検する方法である。生活の場から哲学を考え、哲学から生活の改善を求める運動を、ここでは生活運動と思想運動の相互関係と呼ぶ。そして、他者と共感しない哲学は意味を持たない。そこで、私の哲学を点検するためにこのブログを書くことにした。 2011年1月5日 三石博行 (MITSUISHI Hiroyuki)
2013年12月28日土曜日
2013年12月17日火曜日
日中の軍事衝突を避けるために何をなすべきか
目次
三石博行
はじめに 日中関係の改善は東アジアの平和的共存にとって最重要課題である
この間の東アジアでの日中、日韓間の外交的な緊張関係の発生の一つの大きな要因として、中国の経済大国化と韓国の先進国化を挙げることができた。中国や韓国の経済大国化は同じ東アジアの国として日本は歓迎すべきである。
何故なら、中国、韓国、台湾と日本を中心とする東アジアは世界一の経済力を持つことで、我国はその経済発展の恩恵を受けるからだ。そして、経済力世界一の国際地域に成ろうとしている東アジアの一員として高度経済成長を終えた日本には、さらには多くの経済利益をもたらす大きな要因であるからだ。
しかしながら、この外交上の緊張関係の縺(もつ)れを解決できないなら、つまりそこに軍事的な緊張関係が発生することになったなら、日中、日韓の関係は修復不可能な打撃を受けることとなる。
そこで、そうした軍事的緊張関係が発生しないようにこれまでの外交政策を点検し、そのための政策を提案しなければならない。この課題は極めて緊急を要する。何故なら、尖閣諸島の領有権問題が、それに触れる中国の新しい防空識別圏の決定に展開し、さらに険悪な日中間の関係を引き出そうとしているからである。
日本政府は元より、日本の報道機関も、第二世界大戦を引き起こした国民の戦争参加の意識を煽った過去の歴史を封印しながら、今回も先の戦争に国民を駆り立てた同じ過ちを繰り返そうとしている。このように現在の日本には太平洋戦争や日中戦争の戦禍の中に飛び込んだ危険な政治的状況に類似する事態が発生し始めている。その可能性を最小限にする努力を国民一人ひとりの作業として自覚しなければならないかもしれない。
1、問われる日本外交の姿
1A、問われる日本のアジア(東アジア)外交政策
1B、日本政府の対東アジア政策はアメリカに支持されるだろうか
http://mitsuishi.blogspot.jp/2013/12/1.html
2、軍事衝突を回避するための外交政策を展開するために
2A、資源問題を解決する二つの国際政治路線、領有権をめぐる戦争かそれとも資源共同体の形成か
2B、日本を中国化させてはならない
2C、今後の日本の対中及び対外交への提案
http://mitsuishi.blogspot.jp/2013/12/2_15.html
3、日本の危険な対東アジア外交を生み出す日本社会の精神構造
ー仮想敵国中国との軍事力競争の時代かそれとも東アジア平和的共存を目指す時代か問われる日本外交の選択ー
3A、安倍首相の靖国参拝の意味するもの
3B、米国支持の日本の再軍備化時代
3C、積極的平和主義から積極的軍事主義化への危険性
3D、無責任文化国家・現代日本社会
3E、なぜ我々は中国を仮想敵国にし韓国を無視するのか
3F、政治の原点に返る
http://mitsuishi.blogspot.com/2013/12/blog-post_28.html
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三石博行
はじめに 日中関係の改善は東アジアの平和的共存にとって最重要課題である
この間の東アジアでの日中、日韓間の外交的な緊張関係の発生の一つの大きな要因として、中国の経済大国化と韓国の先進国化を挙げることができた。中国や韓国の経済大国化は同じ東アジアの国として日本は歓迎すべきである。
何故なら、中国、韓国、台湾と日本を中心とする東アジアは世界一の経済力を持つことで、我国はその経済発展の恩恵を受けるからだ。そして、経済力世界一の国際地域に成ろうとしている東アジアの一員として高度経済成長を終えた日本には、さらには多くの経済利益をもたらす大きな要因であるからだ。
しかしながら、この外交上の緊張関係の縺(もつ)れを解決できないなら、つまりそこに軍事的な緊張関係が発生することになったなら、日中、日韓の関係は修復不可能な打撃を受けることとなる。
そこで、そうした軍事的緊張関係が発生しないようにこれまでの外交政策を点検し、そのための政策を提案しなければならない。この課題は極めて緊急を要する。何故なら、尖閣諸島の領有権問題が、それに触れる中国の新しい防空識別圏の決定に展開し、さらに険悪な日中間の関係を引き出そうとしているからである。
日本政府は元より、日本の報道機関も、第二世界大戦を引き起こした国民の戦争参加の意識を煽った過去の歴史を封印しながら、今回も先の戦争に国民を駆り立てた同じ過ちを繰り返そうとしている。このように現在の日本には太平洋戦争や日中戦争の戦禍の中に飛び込んだ危険な政治的状況に類似する事態が発生し始めている。その可能性を最小限にする努力を国民一人ひとりの作業として自覚しなければならないかもしれない。
1、問われる日本外交の姿
1A、問われる日本のアジア(東アジア)外交政策
1B、日本政府の対東アジア政策はアメリカに支持されるだろうか
http://mitsuishi.blogspot.jp/2013/12/1.html
2、軍事衝突を回避するための外交政策を展開するために
2A、資源問題を解決する二つの国際政治路線、領有権をめぐる戦争かそれとも資源共同体の形成か
2B、日本を中国化させてはならない
2C、今後の日本の対中及び対外交への提案
http://mitsuishi.blogspot.jp/2013/12/2_15.html
3、日本の危険な対東アジア外交を生み出す日本社会の精神構造
ー仮想敵国中国との軍事力競争の時代かそれとも東アジア平和的共存を目指す時代か問われる日本外交の選択ー
3A、安倍首相の靖国参拝の意味するもの
3B、米国支持の日本の再軍備化時代
3C、積極的平和主義から積極的軍事主義化への危険性
3D、無責任文化国家・現代日本社会
3E、なぜ我々は中国を仮想敵国にし韓国を無視するのか
3F、政治の原点に返る
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現在、我国で問われている政治改革の課題
国民主権の政治改革を目指す
三石博行
はじめに 問われている国民の政治参加に関する責任
今、日本の政治文化は危機に瀕していると言える。その大きな原因は国民の政治に対する無責任さにある。例えば、国政や地方議会や首長選挙には行かない。政党の無責任はマニフェスト違反を簡単に見過ごしそれに対して批判をしない。政党への不満を口に出すだけで、そうした政治文化になっている自分たちの政治参画を自己批判しない。それらの無責任な我々の政治に対する姿勢を正さなければ、今後我々は未来に大きな禍根を残すだろう。現在、我々が問われている政治改革の課題、特に我国の現在の小選挙区制度での議会制民主主義の成熟に関する課題を分析してみる。
1、小選挙区制度は現在の日本社会の政治文化に適しているか
http://mitsuishi.blogspot.jp/2013/12/blog-post.html
2、国民主体の政治改革の基本課題としての「市民の議員活動監視システムと情報公開制度の形成」
2A、 始まった野党連合形成への動き
2B、 市民の政党監視機能をシステムの必要性
http://mitsuishi.blogspot.jp/2013/12/blog-post_17.html
何が二大政党政治文化の成立条件とその基準となるか
3A、 二大政党政治の成立基準とは何か
3B、 旧来の二大政党政治時代の終焉の意味、 階級社会から市民社会への変化
3C、 二大政党政治の成立する政治文化の条件
http://mitsuishi.blogspot.jp/2013/12/blog-post_5459.html
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三石博行
はじめに 問われている国民の政治参加に関する責任
今、日本の政治文化は危機に瀕していると言える。その大きな原因は国民の政治に対する無責任さにある。例えば、国政や地方議会や首長選挙には行かない。政党の無責任はマニフェスト違反を簡単に見過ごしそれに対して批判をしない。政党への不満を口に出すだけで、そうした政治文化になっている自分たちの政治参画を自己批判しない。それらの無責任な我々の政治に対する姿勢を正さなければ、今後我々は未来に大きな禍根を残すだろう。現在、我々が問われている政治改革の課題、特に我国の現在の小選挙区制度での議会制民主主義の成熟に関する課題を分析してみる。
1、小選挙区制度は現在の日本社会の政治文化に適しているか
http://mitsuishi.blogspot.jp/2013/12/blog-post.html
2、国民主体の政治改革の基本課題としての「市民の議員活動監視システムと情報公開制度の形成」
2A、 始まった野党連合形成への動き
2B、 市民の政党監視機能をシステムの必要性
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何が二大政党政治文化の成立条件とその基準となるか
3A、 二大政党政治の成立基準とは何か
3B、 旧来の二大政党政治時代の終焉の意味、 階級社会から市民社会への変化
3C、 二大政党政治の成立する政治文化の条件
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何が二大政党政治文化の成立条件とその基準となるか
問われる政治改革の課題(3)
三石博行
二大政党政治の成立基準とは何か
国民主権の社会を形成維持して行くために、市民の政治運営に関する監視機能システムを作ることが早急にできない現状で、まず、我々市民国民は地方から国政にわたるすべての選挙に対してどう行動すべきなのだろうか。つまり、どのような段階を経て、国民主権主義の社会、民主主義社会を発展させることができるのかという具体的な市民民主主義社会化の政策を考える必要がある。
政策の具体的提案である政策提案(マニフェスト)とは、政党の政治理念を前提に提案されたものである。その意味で政党の政治理念がまずそれらの政党行動の基本となる。現在の日本の政党はそれぞれの政治的理念を持っている。その理念に共感する多様な市民が存在することで政党の存在理由が生まれている。
各個人は色々な生き方や社会に関する価値観を持っている。それらの価値概念によって、政治的側面が政党の理念を理解し、評価し、批判している。私個人のその価値概念を前提にしないで、それらの多様な価値概念のすべて述べることは幾分困難である。がしかし、できる限りそれらの多様な価値概念の全てを理解する主観的な努力をしなければならない。何故なら、それが民主主義文化を認め発展さそうとする基本的な姿勢であるからだ。
世間一般に言われる政治的立場の大きな分類用語として「保守」と「革新」という用語がある。一般的な保守や革新の概念はない。伝統的な社会制度を維持することを保守と呼び、それを変革することを革新と呼ぶなら、憲法改正は革新となり護憲は保守と言うことになる。またこれまでのエネルギー政策を維持することは保守であり、それを変革することが革新となる。保守と革新ということはイデオロギー的にも同じことが言える。中国では社会主義思想とその体制を維持する勢力は保守勢力であり、資本主義化や自由主義を持ち込もうとする勢力は革新勢力と言われる。つまり、保守と革新という用語では政治的立場を相対的に比較することは出来ても、政策に関する評価を行うことは出来ない。
良い例が、安倍政権がいう「積極的平和主義」という政策用語である。積極的と消極的という二つの対立概念を用いるなら、軍事力を背景にして力による国際平和を維持する政策は積極的平和主義であり、軍縮によって軍事力を削減縮小しながら平和共存を求める政策は消極的平和主義と言えるだろう。核武装による核戦争の可能性や危険性を高めることによる危機感を逆手に取って、その核戦争の可能性を封じ込めることは、核武装をしないで核戦争の可能性を防ぐことに対して、積極的平和主義と呼ぶこともできる。つまり、軍事力を持つことで平和を維持することが「積極的平和主義」の考え方である。
政策を保守や革新または消極的や積極的という抽象的な用語によって表現しようとするのは政策の本質を暈(ぼか)したい意図があるからである。政策とは市民国民がその具体的な課題や方法をよく理解できるものとして存在している。何故なら、それらは生活に直結する政治的方針であり政策であるからだ。従って、政党の政治理念も同じように抽象的でな用語でなく、具体的に市民が理解できる概念で表現されるべきだと思う。
旧来の二大政党政治時代の終焉の意味、 階級社会から市民社会への変化
政治思想の立場から考えると、市民民主主義社会の成熟と国家主義社会の形成の二つを挙げることにする。北朝鮮を代表とする一党独裁の社会主義思想や戦前の天皇制社会は国家主義的思想であり、欧米型資本主義社会は市民民主主義思想を代表する。その意味で、日本の戦前戦中の社会は国家主義社会思想を基本とし、戦後社会は市民民主主義社会を目指していたと言える。その視点に立って、日本の政党を観ると、自由民主党をはじめ他の全ての政党に於いても、それらの政党の理念が市民民主主義社会思想と国家主義社会思想に分かれている訳ではない。自民党の中にも、二つの社会思想を持つ党員や議員が存在している。また他の政党にしても、例えば日本共産党の中にも古い社会主義国家を理想としている国家主義思想の持ち主がいるだろう。
その意味で現在の日本の政党は実に分かりにくい。分かりやすい政党は自民党と共産党の二つである。それ以外の政党は、伝統主義(保守)と社会革新主義、国際主義と国粋主義、アジア重視型か欧米重視型、護憲と改憲、原発推進と脱原発、軍拡と軍縮、資本主義と社会主義という概念からも分類し難い。もし、二大政党化を目指すなら、国民が理解できるわかりやすい政党政策の棲み分け分離が必要だ。政策の違いで政党が成立するなら、高度に発達した社会では多様な政治的課題が多くなり、それの伴い異なる政党が多く存在することになる。以上述べて二つの対立概念のそれぞれの組み合わせで異なる政党ができるなら、主要政策数の二乗倍の勢いで政党ができることになるのである。
この政党の多極化は、これまでの政党政治の概念が高度に発達した科学技術文明・市民民主主義社会では通用しないと言うことなのだろうか。そうだとすると、二大政党政治を前提として導入されている現在の小選挙区制度を変える必要がある。しかし、小選挙区制度を廃止する選挙改革がすぐに可能でないなら、二大政党化に向けた対自民党を掲げる政党連合が必要である。しかし、そのための何らかの視点が必要となる。その視点は反自民という立場だけでは成立不可能である。
現在の自民党政権に対して、つまり1、伝統主義(保守)の自民党主流派と政治改革や行政改革等の社会革新を目指す潮流、2、国家主義に対する国民主権主義、3、アメリカ重視主義に対する東アジア重視主義、4、改憲に対する護憲、4、原発推進政策に対する脱原発・再生エネルギー重視政策、5、軍拡主義に対する軍縮志向、6、官僚指導型社会に対する民間指導型社会、7、中央集権型社会に対する地方分権型社会化等々の具体的な政策によって現在の野党政党勢力群の分離と連合を進める必要がある。
その視点に立てば、みんなの党が分裂したように日本維新の会は東西に分裂することになる。民主党でも原発推進派の仙石氏や野田氏、また親米主義の前原氏と脱原発派の管氏の分裂は避けられないだろう。自民党を中心とする野党の親自民党人脈が集まり、またその逆に自民党と上記した7つの主な政治路線を巡る判断基準を基にした政党再編が必要となるだろう。これらの視点から二つの政治勢力が形成される。
しかし、この二つの政治勢力に組み込まれない政治勢力が存在している。それらの勢力は左派を称する政治勢力で、元々政権与党を目指して活動していない政党である。そのため政策提案活動を政治活動の中心に据えない。もっぱら批判政党として機能している。例えば、共産党や社民党がその代表例である。そして日本緑の党もその中に含まれるだろう。これらの左翼反対派政党は、それなりに反対派少数者の支持を得て存続し続ける。
これまでの言及を簡単にまとめるなら、日本では欧米型の二大政党政治は成立し難いと言える。その主な理由は、国民主権主義文化の発達していない日本の民主主義社会文化の未熟さにある。現在の日本社会では、政党活動が古い階級社会思想を土台にていた形態から脱却できていない。つまり、労働組合、農協、医師会、商工会議所等々の利益団体に支えられた政治活動が主流で、多様な利害関係が複雑に入り組んだ現代社会の市民を前提にした政治活動の文化が形成されていない。そのために選挙活動となると既得権益を守る人々の活動が活発化してしまうのである。
二大政党政治の成立する政治文化の条件
その意味で、我々の社会は21世紀型市民社会の様相にあった新しい政治文化の在り方を模索しているとも言える。新しい市民社会に適した市民政党文化は成熟していない。その中で、既成政党活動の限界が民主党政権が生まれる前の自民党の分裂、民主党政権の成立であり、また同時に第一次民主党政権の限界と破綻でもあった。
つまり、第一次民主党政権の破綻(失敗)を真摯に学ぶことによってしか第二次民主党政権(反自民政権)の形成の可能性はない。しかし残念なことに現在の民主党政権はそのことに気づいていない。何故、議会制民主主義の基本であるマニフェスト選挙を確立しながら、それを裏切ったのかということを真摯に反省すらしていない民主党現執行部から、これから進む反自民政治勢力を担う力量もまた信頼も生まれないことは確かである。その真剣な反省を受け止めない限り民主党は今後影響力を持つ政党になることはない。
つまり、言い換えると政治思想なくして二大政党政治は実現しない。二大政党とは二つの政治勢力の形成によって生み出されるのではない。また異なる政策のぶつかり合いによって形成されるのでもない。その前に、二つの政策提案勢力が豊かな国民生活を形成するために必要であるという政治思想を持って成立するのである。この二大政党の在り方を巡る政治的立場について、以下、四つの課題を簡単に述べる。
1、政権交代を前提にした政策政党であり、政党を豊かな社会や国民生活の実現の道具(機関)として位置づけ、その社会的機能を充実することに特化すること。
2、つまり、政党とは政策提案集団である。変革を進める有効な政策は一つの政治行動の選択によって生み出される。その意味で必然的にその政策実現によって、それを補完すべき他の政策が必要となる。しかし、その補完的政策をすべて準備することは不可能となる。それを可能にするのが政権交代である。何故なら多様な市民社会ではすべての市民の利益を同時に満たすことは不可能である。そのためにある政策決定によって生じる社会矛盾を緩和する補完的な政策を他方に準備するだけでなく、まったく異なる利害関係から新しい政策を提案する必要がある。それが可能になるのは政権交代による政策提案のみである。
3、二大政党政治の基本に、反対政党の持つ国民生活を豊かにするための役割の理解がある。それは自らの政党の政策に対する過信を歴史的に反省する力、政治思想が必要となる。反対政党の存在によって活かされる自らの政党の政策効力を理解しなければならない。それは自らの政党のもつ政策限界を俯瞰的に歴史的に理解する知性や思想が必要となる。
4、自らの政党の政策を批判し補完する勢力として反対政党を位置づけるなら、政権確立のために民主党や自民党が行った政局闘争、つまり政権を取るために国会の機能不全を顧みず、国民生活に必要な政策決定を犠牲にして、単に反対のための反対や国会運営妨害活動を行うことは避けなければならない。
二大政党政治を支えるのは政治思想である
つまり、二大政党政治を実現するためには、政権交代の意味を権力闘争として理解するのではなく、国民生活の向上のための政権代謝活動として位置づける政治思想が問われる。そして、野党化することの政治的意義を自党の立場から観るのだけでなく、国民全体の立場(俯瞰的視点)、または歴史的立場(時間的視点)から理解する政治思想を持たなければならない。言い換えると、政権交代によって野党化することを一つの好機として理解できて初めて二大政党を支える政治勢力を構成する政治思想が生まれるのである。
その上で、二大政党を構成する立場は、反対政党が示す政策と自党の政策のそれぞれの有効性を前提にして国民生活全体が豊かになること、つまり多様な利害関係を前提にして成立している市民社会のそれぞれの異なる利害的な立場の全てを同時に満たすことができない限り、それらのバランスを形成するために取られる政治的新陳代謝、多様な利害的な政策実現として政権交代を理解することである。政権交代はある意味で利害的立場の役割交代に過ぎない。それらの交代がスムースに行くことによって多様な利害関係にある高度に発達した市民社会に取って必要なシステムであると理解すべきである。
政権交代を政局闘争として理解することは古い階級社会から残存してきた政治思想である。新しい市民社会では政権交代は異なる政策政党によって補完される社会的機能として理解されることになる。そうした政治思想が形成されることによって細かく分裂している政党から主な異なる政策集団化が可能になる。何故なら豊かな社会や国民生活の形成には、一つの政策実現を補完する他の政策実現が必要とされているからである。しかも、それらの政策群は相互に矛盾し、その意味で補完可能であるからだ。それをすべて一つの政党が担うようりも異なる政党に任すことが政策実現上の効率や合理性が担保されるために、政策提案を分担する集団として二つの主な政党が相互成立する。それが二大政党政治の成立条件となる。この成立条件の社会思想を理解しない限り、二大政党政治は日本社会に根付くことはない。
その意味で民主党政権の失敗は二大政党政治を成立させるためにも大きな政治的実践史の財産なのだ。その意味を自民党の現政権や自民党政権から分裂した政治家たちが理解し、自覚しなければならないのである。
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三石博行
二大政党政治の成立基準とは何か
国民主権の社会を形成維持して行くために、市民の政治運営に関する監視機能システムを作ることが早急にできない現状で、まず、我々市民国民は地方から国政にわたるすべての選挙に対してどう行動すべきなのだろうか。つまり、どのような段階を経て、国民主権主義の社会、民主主義社会を発展させることができるのかという具体的な市民民主主義社会化の政策を考える必要がある。
政策の具体的提案である政策提案(マニフェスト)とは、政党の政治理念を前提に提案されたものである。その意味で政党の政治理念がまずそれらの政党行動の基本となる。現在の日本の政党はそれぞれの政治的理念を持っている。その理念に共感する多様な市民が存在することで政党の存在理由が生まれている。
各個人は色々な生き方や社会に関する価値観を持っている。それらの価値概念によって、政治的側面が政党の理念を理解し、評価し、批判している。私個人のその価値概念を前提にしないで、それらの多様な価値概念のすべて述べることは幾分困難である。がしかし、できる限りそれらの多様な価値概念の全てを理解する主観的な努力をしなければならない。何故なら、それが民主主義文化を認め発展さそうとする基本的な姿勢であるからだ。
世間一般に言われる政治的立場の大きな分類用語として「保守」と「革新」という用語がある。一般的な保守や革新の概念はない。伝統的な社会制度を維持することを保守と呼び、それを変革することを革新と呼ぶなら、憲法改正は革新となり護憲は保守と言うことになる。またこれまでのエネルギー政策を維持することは保守であり、それを変革することが革新となる。保守と革新ということはイデオロギー的にも同じことが言える。中国では社会主義思想とその体制を維持する勢力は保守勢力であり、資本主義化や自由主義を持ち込もうとする勢力は革新勢力と言われる。つまり、保守と革新という用語では政治的立場を相対的に比較することは出来ても、政策に関する評価を行うことは出来ない。
良い例が、安倍政権がいう「積極的平和主義」という政策用語である。積極的と消極的という二つの対立概念を用いるなら、軍事力を背景にして力による国際平和を維持する政策は積極的平和主義であり、軍縮によって軍事力を削減縮小しながら平和共存を求める政策は消極的平和主義と言えるだろう。核武装による核戦争の可能性や危険性を高めることによる危機感を逆手に取って、その核戦争の可能性を封じ込めることは、核武装をしないで核戦争の可能性を防ぐことに対して、積極的平和主義と呼ぶこともできる。つまり、軍事力を持つことで平和を維持することが「積極的平和主義」の考え方である。
政策を保守や革新または消極的や積極的という抽象的な用語によって表現しようとするのは政策の本質を暈(ぼか)したい意図があるからである。政策とは市民国民がその具体的な課題や方法をよく理解できるものとして存在している。何故なら、それらは生活に直結する政治的方針であり政策であるからだ。従って、政党の政治理念も同じように抽象的でな用語でなく、具体的に市民が理解できる概念で表現されるべきだと思う。
旧来の二大政党政治時代の終焉の意味、 階級社会から市民社会への変化
政治思想の立場から考えると、市民民主主義社会の成熟と国家主義社会の形成の二つを挙げることにする。北朝鮮を代表とする一党独裁の社会主義思想や戦前の天皇制社会は国家主義的思想であり、欧米型資本主義社会は市民民主主義思想を代表する。その意味で、日本の戦前戦中の社会は国家主義社会思想を基本とし、戦後社会は市民民主主義社会を目指していたと言える。その視点に立って、日本の政党を観ると、自由民主党をはじめ他の全ての政党に於いても、それらの政党の理念が市民民主主義社会思想と国家主義社会思想に分かれている訳ではない。自民党の中にも、二つの社会思想を持つ党員や議員が存在している。また他の政党にしても、例えば日本共産党の中にも古い社会主義国家を理想としている国家主義思想の持ち主がいるだろう。
その意味で現在の日本の政党は実に分かりにくい。分かりやすい政党は自民党と共産党の二つである。それ以外の政党は、伝統主義(保守)と社会革新主義、国際主義と国粋主義、アジア重視型か欧米重視型、護憲と改憲、原発推進と脱原発、軍拡と軍縮、資本主義と社会主義という概念からも分類し難い。もし、二大政党化を目指すなら、国民が理解できるわかりやすい政党政策の棲み分け分離が必要だ。政策の違いで政党が成立するなら、高度に発達した社会では多様な政治的課題が多くなり、それの伴い異なる政党が多く存在することになる。以上述べて二つの対立概念のそれぞれの組み合わせで異なる政党ができるなら、主要政策数の二乗倍の勢いで政党ができることになるのである。
この政党の多極化は、これまでの政党政治の概念が高度に発達した科学技術文明・市民民主主義社会では通用しないと言うことなのだろうか。そうだとすると、二大政党政治を前提として導入されている現在の小選挙区制度を変える必要がある。しかし、小選挙区制度を廃止する選挙改革がすぐに可能でないなら、二大政党化に向けた対自民党を掲げる政党連合が必要である。しかし、そのための何らかの視点が必要となる。その視点は反自民という立場だけでは成立不可能である。
現在の自民党政権に対して、つまり1、伝統主義(保守)の自民党主流派と政治改革や行政改革等の社会革新を目指す潮流、2、国家主義に対する国民主権主義、3、アメリカ重視主義に対する東アジア重視主義、4、改憲に対する護憲、4、原発推進政策に対する脱原発・再生エネルギー重視政策、5、軍拡主義に対する軍縮志向、6、官僚指導型社会に対する民間指導型社会、7、中央集権型社会に対する地方分権型社会化等々の具体的な政策によって現在の野党政党勢力群の分離と連合を進める必要がある。
その視点に立てば、みんなの党が分裂したように日本維新の会は東西に分裂することになる。民主党でも原発推進派の仙石氏や野田氏、また親米主義の前原氏と脱原発派の管氏の分裂は避けられないだろう。自民党を中心とする野党の親自民党人脈が集まり、またその逆に自民党と上記した7つの主な政治路線を巡る判断基準を基にした政党再編が必要となるだろう。これらの視点から二つの政治勢力が形成される。
しかし、この二つの政治勢力に組み込まれない政治勢力が存在している。それらの勢力は左派を称する政治勢力で、元々政権与党を目指して活動していない政党である。そのため政策提案活動を政治活動の中心に据えない。もっぱら批判政党として機能している。例えば、共産党や社民党がその代表例である。そして日本緑の党もその中に含まれるだろう。これらの左翼反対派政党は、それなりに反対派少数者の支持を得て存続し続ける。
これまでの言及を簡単にまとめるなら、日本では欧米型の二大政党政治は成立し難いと言える。その主な理由は、国民主権主義文化の発達していない日本の民主主義社会文化の未熟さにある。現在の日本社会では、政党活動が古い階級社会思想を土台にていた形態から脱却できていない。つまり、労働組合、農協、医師会、商工会議所等々の利益団体に支えられた政治活動が主流で、多様な利害関係が複雑に入り組んだ現代社会の市民を前提にした政治活動の文化が形成されていない。そのために選挙活動となると既得権益を守る人々の活動が活発化してしまうのである。
二大政党政治の成立する政治文化の条件
その意味で、我々の社会は21世紀型市民社会の様相にあった新しい政治文化の在り方を模索しているとも言える。新しい市民社会に適した市民政党文化は成熟していない。その中で、既成政党活動の限界が民主党政権が生まれる前の自民党の分裂、民主党政権の成立であり、また同時に第一次民主党政権の限界と破綻でもあった。
つまり、第一次民主党政権の破綻(失敗)を真摯に学ぶことによってしか第二次民主党政権(反自民政権)の形成の可能性はない。しかし残念なことに現在の民主党政権はそのことに気づいていない。何故、議会制民主主義の基本であるマニフェスト選挙を確立しながら、それを裏切ったのかということを真摯に反省すらしていない民主党現執行部から、これから進む反自民政治勢力を担う力量もまた信頼も生まれないことは確かである。その真剣な反省を受け止めない限り民主党は今後影響力を持つ政党になることはない。
つまり、言い換えると政治思想なくして二大政党政治は実現しない。二大政党とは二つの政治勢力の形成によって生み出されるのではない。また異なる政策のぶつかり合いによって形成されるのでもない。その前に、二つの政策提案勢力が豊かな国民生活を形成するために必要であるという政治思想を持って成立するのである。この二大政党の在り方を巡る政治的立場について、以下、四つの課題を簡単に述べる。
1、政権交代を前提にした政策政党であり、政党を豊かな社会や国民生活の実現の道具(機関)として位置づけ、その社会的機能を充実することに特化すること。
2、つまり、政党とは政策提案集団である。変革を進める有効な政策は一つの政治行動の選択によって生み出される。その意味で必然的にその政策実現によって、それを補完すべき他の政策が必要となる。しかし、その補完的政策をすべて準備することは不可能となる。それを可能にするのが政権交代である。何故なら多様な市民社会ではすべての市民の利益を同時に満たすことは不可能である。そのためにある政策決定によって生じる社会矛盾を緩和する補完的な政策を他方に準備するだけでなく、まったく異なる利害関係から新しい政策を提案する必要がある。それが可能になるのは政権交代による政策提案のみである。
3、二大政党政治の基本に、反対政党の持つ国民生活を豊かにするための役割の理解がある。それは自らの政党の政策に対する過信を歴史的に反省する力、政治思想が必要となる。反対政党の存在によって活かされる自らの政党の政策効力を理解しなければならない。それは自らの政党のもつ政策限界を俯瞰的に歴史的に理解する知性や思想が必要となる。
4、自らの政党の政策を批判し補完する勢力として反対政党を位置づけるなら、政権確立のために民主党や自民党が行った政局闘争、つまり政権を取るために国会の機能不全を顧みず、国民生活に必要な政策決定を犠牲にして、単に反対のための反対や国会運営妨害活動を行うことは避けなければならない。
二大政党政治を支えるのは政治思想である
つまり、二大政党政治を実現するためには、政権交代の意味を権力闘争として理解するのではなく、国民生活の向上のための政権代謝活動として位置づける政治思想が問われる。そして、野党化することの政治的意義を自党の立場から観るのだけでなく、国民全体の立場(俯瞰的視点)、または歴史的立場(時間的視点)から理解する政治思想を持たなければならない。言い換えると、政権交代によって野党化することを一つの好機として理解できて初めて二大政党を支える政治勢力を構成する政治思想が生まれるのである。
その上で、二大政党を構成する立場は、反対政党が示す政策と自党の政策のそれぞれの有効性を前提にして国民生活全体が豊かになること、つまり多様な利害関係を前提にして成立している市民社会のそれぞれの異なる利害的な立場の全てを同時に満たすことができない限り、それらのバランスを形成するために取られる政治的新陳代謝、多様な利害的な政策実現として政権交代を理解することである。政権交代はある意味で利害的立場の役割交代に過ぎない。それらの交代がスムースに行くことによって多様な利害関係にある高度に発達した市民社会に取って必要なシステムであると理解すべきである。
政権交代を政局闘争として理解することは古い階級社会から残存してきた政治思想である。新しい市民社会では政権交代は異なる政策政党によって補完される社会的機能として理解されることになる。そうした政治思想が形成されることによって細かく分裂している政党から主な異なる政策集団化が可能になる。何故なら豊かな社会や国民生活の形成には、一つの政策実現を補完する他の政策実現が必要とされているからである。しかも、それらの政策群は相互に矛盾し、その意味で補完可能であるからだ。それをすべて一つの政党が担うようりも異なる政党に任すことが政策実現上の効率や合理性が担保されるために、政策提案を分担する集団として二つの主な政党が相互成立する。それが二大政党政治の成立条件となる。この成立条件の社会思想を理解しない限り、二大政党政治は日本社会に根付くことはない。
その意味で民主党政権の失敗は二大政党政治を成立させるためにも大きな政治的実践史の財産なのだ。その意味を自民党の現政権や自民党政権から分裂した政治家たちが理解し、自覚しなければならないのである。
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国民主体の政治改革の基本課題としての「市民の議員活動監視システムと情報公開制度の形成」
問われる政治改革の課題(2)
三石博行
始まった野党連合形成への動き
自民党に対抗しうる野党勢力を結集し、野党連合を視野に入れた政党再編のために、みんなの党の江田憲司前幹事長をはじめ15名のみんなの党の議員が今月初め(2013年12月)に離党届を提出した。そして、日本維新の会の東国原英夫衆院議員(比例近畿)も離党した。みんなの党と日本維新の会で起こっている事態が同じ政治的目的に因るものでないにしろ、このことは野党勢力の大きな再編が始まったと理解すべきである。
与党国会議員数の力で強制採決された「特定秘密保護法」とそれに対する野党の対応に対して、党内からの批判が生じた。昨年12月の衆議院選挙から1年を経て、みんなの党の江田憲司前幹事長はこの政治の危機的状況を打開するために、みんなの党を離党したのである。
しかし、同時に、離党したみんなの党の13名の議員が比例区で選出されたことは問題となった。つまり、比例区での選出はその議員の個人票ではなく、政党名で投じられた票を基に議席を得ている、つまり政党が獲得した票によって選ばれた議員である。その意味で、彼らは議員を辞職し、みんなの党が比例区で推薦していた他の立候補者に議席を返すべきだという渡辺喜美代表の意見は間違いではない。
一方、近畿比例区で当選した東国原氏は離党と同時に議員辞職を行った。多分、猪瀬氏の辞職後に行われる東京都知事選挙へ立候補するために東国原氏は議員辞職を行いきれいに日本維新の会を辞めたのだろう。
いずれにしろ、与党の数の力による国会運営、比例区で選出された議員の議席保持の離党、東京都知事選挙へ立候補するため離党と議員辞職、マニフェスト違反等々、現在の国会では国民不在の議会政治が横行している。そして、マスコミも国民も国会劇場で繰り広げられる国会議員の一人芝居を観て「演技が良いとか、悪いとか」言っているに過ぎない。
つまり、我国の政治(間接民主主義政治)では、国民の代理人としての議員達が代理人の意味をはき違えてはいないだろうか。勿論、彼らも選挙の時は、国民の代理人であると言ったのであるが、当選後は、議員の資格は個人のものであると思っているのではないだろか。
とは言え、自民党に対抗しうる政治勢力を形成するために江田憲司氏を中心にして立ち上がった15名の前みんなの党の議員達の政治的活動の機会を奪うことは、大きな視点から考えると得策でないことは確かである。その意味で、彼らの議員辞職を迫る論理が自民党やその周辺を旋回する保守衛星諸党を利する政治的意図によって形成されていることは確かである。正論を言いながらその隠された意図を見抜けないことも危険である。
市民の政党監視機能をシステムの必要性
では、この事態に対して私たちはどうすべきなのだろうか。その回答は議会制民主主義が正しく運営されるために、市民とその代理人(議員)が相互に行うべき国や社会を運営するために必要な社会的責任の在り方を明記しなければならない。以下、簡単に、四つの課題を述べる。
1、現在の議会制民主主義社会では、選挙が唯一の国民の政治参加の機会である。その意味で、国民が投票する権利を破棄しないための国民による国民自身の自覚と選挙活動が問われる。そのためには、生活の場、地域社会で投票権(同時に社会的責任)を明確にする市民憲章を創り、お互いに選挙に参加したかを自己点検する社会文化を形成すべきである。選挙活動はどの政党を支持したかだけでなく、投票したか、社会運営に関する責任を果たしたかを点検する活動でもあると相互に市民が自覚し点検する活動を行うべきだはないだろうか。
2、もし、市民(国民)が、地域社会で投票権(同時に社会的責任)を明確にする市民憲章の形成を行うなら、市民の代表者としての政党や立候補者は、市民への選挙時の契約(マニフェスト)が必要となる。何故なら、その契約に即して市民は立候補者を選択(投票)するからである。もし、選挙時の政策提案(マニフェスト)を提案しない立候補者がいるなら、それらの立候補者は立候補権を持たないと社会や市民は判断すべきである。その意味で選挙公約(マニフェスト)は選挙活動に於いて極めて重要な市民との契約条件である。
3、当選した議員は、選挙時の政策提案(マニフェスト)に対して、毎年、市民に対して自己点検を義務としなければならない。どの政策提案が何パーセント実現したかしなかったか。また、その理由は何であるかを、公開しなければならいだろう。全く、その自己点検の公開義務を怠る議員に対して社会は契約違反のクレームを出すべきだろう。
4、国民・市民は議員の政治活動の評価を行い、その情報をインターネット上で公開する活動を行う必要がある。そのために、政党の利害を超えたマニフェスト評価を行う第三者機関(NPO)を形成する必要がある。勿論、その評価を正しく行うために、議員から業績申告を受け、それらも公開する必要がある。議員が市民国民と取り結んだ契約に関して、日常的に評価点検する市民活動が存在することで代理人に対して国民主権の民主主義運営を理解させることができるのである。
市民の政治運営に関する監視機能をシステムを作る以外に、議会制民主主義での国民主権の立場に立った政党運営や議員活動を期待することはできないのである。つまり、すべてのこれまでの政党や議員の身勝手は我々国民の政治参画文化の未熟さによって生じているのであると国民市民が自覚しなければならない。
その自覚と努力によって、小選挙区制度によって生まれた政権は国民の政治的意思を前提にした議会運営(立法活動)を行うことになる。この課題を考え解決することが最も根本的である。その中で、日本の政治文化に対して小選挙区制度が良いのかどうかを検討すべきであり、選挙制度改革や政治改革はおのずと前進することになるだろう。
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三石博行
始まった野党連合形成への動き
自民党に対抗しうる野党勢力を結集し、野党連合を視野に入れた政党再編のために、みんなの党の江田憲司前幹事長をはじめ15名のみんなの党の議員が今月初め(2013年12月)に離党届を提出した。そして、日本維新の会の東国原英夫衆院議員(比例近畿)も離党した。みんなの党と日本維新の会で起こっている事態が同じ政治的目的に因るものでないにしろ、このことは野党勢力の大きな再編が始まったと理解すべきである。
与党国会議員数の力で強制採決された「特定秘密保護法」とそれに対する野党の対応に対して、党内からの批判が生じた。昨年12月の衆議院選挙から1年を経て、みんなの党の江田憲司前幹事長はこの政治の危機的状況を打開するために、みんなの党を離党したのである。
しかし、同時に、離党したみんなの党の13名の議員が比例区で選出されたことは問題となった。つまり、比例区での選出はその議員の個人票ではなく、政党名で投じられた票を基に議席を得ている、つまり政党が獲得した票によって選ばれた議員である。その意味で、彼らは議員を辞職し、みんなの党が比例区で推薦していた他の立候補者に議席を返すべきだという渡辺喜美代表の意見は間違いではない。
一方、近畿比例区で当選した東国原氏は離党と同時に議員辞職を行った。多分、猪瀬氏の辞職後に行われる東京都知事選挙へ立候補するために東国原氏は議員辞職を行いきれいに日本維新の会を辞めたのだろう。
いずれにしろ、与党の数の力による国会運営、比例区で選出された議員の議席保持の離党、東京都知事選挙へ立候補するため離党と議員辞職、マニフェスト違反等々、現在の国会では国民不在の議会政治が横行している。そして、マスコミも国民も国会劇場で繰り広げられる国会議員の一人芝居を観て「演技が良いとか、悪いとか」言っているに過ぎない。
つまり、我国の政治(間接民主主義政治)では、国民の代理人としての議員達が代理人の意味をはき違えてはいないだろうか。勿論、彼らも選挙の時は、国民の代理人であると言ったのであるが、当選後は、議員の資格は個人のものであると思っているのではないだろか。
とは言え、自民党に対抗しうる政治勢力を形成するために江田憲司氏を中心にして立ち上がった15名の前みんなの党の議員達の政治的活動の機会を奪うことは、大きな視点から考えると得策でないことは確かである。その意味で、彼らの議員辞職を迫る論理が自民党やその周辺を旋回する保守衛星諸党を利する政治的意図によって形成されていることは確かである。正論を言いながらその隠された意図を見抜けないことも危険である。
市民の政党監視機能をシステムの必要性
では、この事態に対して私たちはどうすべきなのだろうか。その回答は議会制民主主義が正しく運営されるために、市民とその代理人(議員)が相互に行うべき国や社会を運営するために必要な社会的責任の在り方を明記しなければならない。以下、簡単に、四つの課題を述べる。
1、現在の議会制民主主義社会では、選挙が唯一の国民の政治参加の機会である。その意味で、国民が投票する権利を破棄しないための国民による国民自身の自覚と選挙活動が問われる。そのためには、生活の場、地域社会で投票権(同時に社会的責任)を明確にする市民憲章を創り、お互いに選挙に参加したかを自己点検する社会文化を形成すべきである。選挙活動はどの政党を支持したかだけでなく、投票したか、社会運営に関する責任を果たしたかを点検する活動でもあると相互に市民が自覚し点検する活動を行うべきだはないだろうか。
2、もし、市民(国民)が、地域社会で投票権(同時に社会的責任)を明確にする市民憲章の形成を行うなら、市民の代表者としての政党や立候補者は、市民への選挙時の契約(マニフェスト)が必要となる。何故なら、その契約に即して市民は立候補者を選択(投票)するからである。もし、選挙時の政策提案(マニフェスト)を提案しない立候補者がいるなら、それらの立候補者は立候補権を持たないと社会や市民は判断すべきである。その意味で選挙公約(マニフェスト)は選挙活動に於いて極めて重要な市民との契約条件である。
3、当選した議員は、選挙時の政策提案(マニフェスト)に対して、毎年、市民に対して自己点検を義務としなければならない。どの政策提案が何パーセント実現したかしなかったか。また、その理由は何であるかを、公開しなければならいだろう。全く、その自己点検の公開義務を怠る議員に対して社会は契約違反のクレームを出すべきだろう。
4、国民・市民は議員の政治活動の評価を行い、その情報をインターネット上で公開する活動を行う必要がある。そのために、政党の利害を超えたマニフェスト評価を行う第三者機関(NPO)を形成する必要がある。勿論、その評価を正しく行うために、議員から業績申告を受け、それらも公開する必要がある。議員が市民国民と取り結んだ契約に関して、日常的に評価点検する市民活動が存在することで代理人に対して国民主権の民主主義運営を理解させることができるのである。
市民の政治運営に関する監視機能をシステムを作る以外に、議会制民主主義での国民主権の立場に立った政党運営や議員活動を期待することはできないのである。つまり、すべてのこれまでの政党や議員の身勝手は我々国民の政治参画文化の未熟さによって生じているのであると国民市民が自覚しなければならない。
その自覚と努力によって、小選挙区制度によって生まれた政権は国民の政治的意思を前提にした議会運営(立法活動)を行うことになる。この課題を考え解決することが最も根本的である。その中で、日本の政治文化に対して小選挙区制度が良いのかどうかを検討すべきであり、選挙制度改革や政治改革はおのずと前進することになるだろう。
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2013年12月16日月曜日
小選挙区制度は現在の日本社会の政治文化に適しているか
問われる政治改革の課題(1)
三石博行
投票者の半数の意見が破棄される可能性はないか
昨年12月(2012年12月)の衆議院選挙で自民党は圧勝した。しかし、有権者の30%以下が自民党に投票した。つまり、国民の圧倒的支持があってできた政権ではない。議席数の上で自民党が圧勝できたのは、小選挙区制と分裂した野党勢力の二つの条件が整っていたからである。もし、野党と与党の二大政党政治下での選挙であれば自民党は過半数の議席を取ることはできなかった。このことは2009年の民主党が圧勝した衆議院選挙でも同じことが言えた。つまり、小選挙制度では最悪の場合、半数以下の投票が活かされない結果を生むのである。
2009年と2012年の衆議院選挙で圧勝した民主党政権も自民党政権も現在の小選挙区制度を変更することは「政治改革」の課題に挙がっていない。その理由は二つある。一つは小選挙区制度の狙いである二大政党政治を実現するためにこの制度を続けると言うもの、もう一つはこの制度によって圧勝できたことで、次回の選挙でも同じく圧勝できるという期待があること。いずれにしても、この小選挙区制度の見直しを呼びかける与党はいない。
この選挙区制度を変革しないという前提に立って考えるなら、二大政党政治の実現を課題にする以外に国民主権の政治運営は不可能である。そこで、昨年の選挙の後、野党勢力を纏める努力を野党間で真剣に議論されて来た。今回の「みんなの党」の内部で起こった分裂、江田前幹事長を含め15名の国会議員の離党問題はその結果であると言えるだろう。有権者の半数近い政治的立場が完全に国政に反映されてない主な責任を野党になった議員が真剣に問い掛けることは当然のことである。
つまり、投票した有権者の半数の政治的立場が無視され、また国民の半数が投票しないことに対しする現在の政党政治の責任を受け止めるなら、野党間の連立や二大政党政治を実現するための努力が、少なくとも(小選挙区制度を変えないというなら)、野党の有志ではなく、野党全体で取り組むべき課題であったと言える。
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三石博行
投票者の半数の意見が破棄される可能性はないか
昨年12月(2012年12月)の衆議院選挙で自民党は圧勝した。しかし、有権者の30%以下が自民党に投票した。つまり、国民の圧倒的支持があってできた政権ではない。議席数の上で自民党が圧勝できたのは、小選挙区制と分裂した野党勢力の二つの条件が整っていたからである。もし、野党と与党の二大政党政治下での選挙であれば自民党は過半数の議席を取ることはできなかった。このことは2009年の民主党が圧勝した衆議院選挙でも同じことが言えた。つまり、小選挙制度では最悪の場合、半数以下の投票が活かされない結果を生むのである。
2009年と2012年の衆議院選挙で圧勝した民主党政権も自民党政権も現在の小選挙区制度を変更することは「政治改革」の課題に挙がっていない。その理由は二つある。一つは小選挙区制度の狙いである二大政党政治を実現するためにこの制度を続けると言うもの、もう一つはこの制度によって圧勝できたことで、次回の選挙でも同じく圧勝できるという期待があること。いずれにしても、この小選挙区制度の見直しを呼びかける与党はいない。
この選挙区制度を変革しないという前提に立って考えるなら、二大政党政治の実現を課題にする以外に国民主権の政治運営は不可能である。そこで、昨年の選挙の後、野党勢力を纏める努力を野党間で真剣に議論されて来た。今回の「みんなの党」の内部で起こった分裂、江田前幹事長を含め15名の国会議員の離党問題はその結果であると言えるだろう。有権者の半数近い政治的立場が完全に国政に反映されてない主な責任を野党になった議員が真剣に問い掛けることは当然のことである。
つまり、投票した有権者の半数の政治的立場が無視され、また国民の半数が投票しないことに対しする現在の政党政治の責任を受け止めるなら、野党間の連立や二大政党政治を実現するための努力が、少なくとも(小選挙区制度を変えないというなら)、野党の有志ではなく、野党全体で取り組むべき課題であったと言える。
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2013年12月15日日曜日
日中の軍事的衝突は避けるために何をなすべきか(2)
軍事衝突を回避するための外交政策を展開するために
三石博行
資源問題を解決する二つの国際政治路線、領有権をめぐる戦争かそれとも資源共同体の形成か
これまでの日本の対中外交と中国の対日外交の単純な延長線上に登場するのは「避けられない軍事衝突」である。そのことを前提にした政治的発言が自民党の幹部から行われている。そのための準備を放棄しろと言うのは間違いであるが、同時に、そのことを前提にした防衛政策を中心にすることも、同じように間違いである。
何故なら、政治家である以上、国民の命と平和な生活環境を守ることがその使命の第一の課題である。そのために領土問題がある。尖閣諸島や竹島(独島)に日本人が居住している状態で起こる領有権問題ではない。もし人の生活がある島で領有権問題が生じているなら、そこに住む人々の生活を守るために外国の侵略を防ぐこと国家として当然の行為である。しかし、無人島をめぐる領有権問題で人の住む地帯を戦禍の危機に陥れることが正しい政治であると言えるのかと疑うべきではないだろうか。とすれば、国民の住んでいる領土で起こっている領有権問題ではないこの領有権問題の解決に軍事的衝突を前提とした解決を持ち込むことをもう一度冷静に点検する必要がある。
尖閣諸島の近海は海底ガス田地帯があると言われて以上、この問題の本質は一般的な領土問題では語れない。この問題は海洋資源をめぐる領有権をめぐるものである。ここで言う海洋資源とは、漁業資源だけでなく海底資源も含まれることは言うまでもない。
この領有権問題の背景には資源問題がある。何故なら莫大なエネルギー消費を前提にして成立している経済産業活動、その活動に支えられている現代社会に取って資源枯渇問題とはそのまま社会経済システムの危機を意味する。資源を確保するために危険な原子力エネルギーを使わなければならないし、また高コストの地下資源(シェールガスやオイルサンド)を開発しなければならないのである。
前世期に起こった二つの世界大戦は資源領有権をめぐる戦争であった。そのため、戦後ヨーロッパで取り組まれた和平政策として、1951年にフランス,西ドイツ,イタリア,オランダ,ベルギー,ルクセンブルクの6ヵ国の間で成立し1952年に発足した「ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体・ECSC(European Coal and Steel Community)」である。独仏間で繰り広げられた戦争、石炭や鉄鋼石の産地ルザスローレヌ地方の領有をめぐる紛争を根本的に終わらせるためにヨーロッパ石炭鉄鋼共同体を発足させた。つまり、この共同体の目的は欧州での資源争奪戦争の終結にある。
つまり、資源問題を前提にした国際紛争は「戦争によって解決するか」それとも「資源共同体の構築によって解決するか」の二つの外交路線が歴史的に存在し、今後も、その二つに一つを選択する以外に道はないと思われる。現在の日本と中国の政権は明らかに戦争によってこの問題の解決を行う方向に進もうとしている。
日本を中国化させてはならない
日中韓がそれぞれ領有権を主張している地帯に一体どれだけの海底資源が存在しているのだろうか。それらは採掘可能か。これの資源の開発と活用に必要なコストを冷静に計量する必要がある。
言い換えると、戦争(防衛軍事費や戦争被害)による支出と海底資源から得られる収入の収支計算を行う必要がある。もし、資源獲得による収入が戦争に費やす経費より巨大であると理解される場合には、戦争を行うことも政治の選択肢であると言える。しかし、現実は日中間でおこる戦争による被害、直接戦争に費やされた費用(戦死者補償費を含め戦争被害の経費)のみでなくその後日中間での経済的関係の破綻による被害を含める被害金額が、領有権をめぐる地帯の資源から得られる利益金額よりも微々たるものであると言えるかどうかを検討しなければならない。
しかし、現在の政府の立場は客観的なコスト計算ではなく、「国土を守る」ということが大前提となっている。当然のように「国家の使命として国土を守ること」が語られている。そして、国民の住んでいない国土を守ることによって国民が戦禍を被ることは止むなしと考える風潮が生み出されているのではないだろうか。
この風潮は、国家の屈辱を晴らすために国民は命を捨てることが美徳とされている「忠臣蔵神話」を思い起こすのである。死をもって主君の恨みを晴らことを美化してきた文化を理解する必要はないだろうか。例えば、「忠臣蔵」、「白虎隊」、そして「特攻隊」が常に小説、演劇、ドラマとなり庶民の中で語り継がれてきた我が国の美しき「忠義と死」の文化を冷たく理解しなければならない。その延長線上に「領有権を侵害された日本国家のために死をもって戦うこと」が美化されないかと私は危惧するのである。
国民主権国家、つまり民主主義国日本の政治の基本とは「国民による国民のための国民の政治」を実現するための政治思想であることは言うまでもない。そのために、「国民は国家に奉仕すべきである」という時代錯誤の考え方を正さなければならない。いつの間にか民主主義文化を「美しき忠義の精神文化」が食いつぶし、国家のための国民、人権に優先する国家立場が登場していくのではないかと危惧する。
こうした日本の国家主義化とは現在中国が行っている愛国主義教育と同質のものであり、二つの愛国主義国家が行き着く先が戦争であることは今までの歴史が教えている。中国の愛国主義教育への危惧と同じく日本の愛国主義教育に対しても警告を出す必要がある。中国の中国共産党による官僚主義を批判することと同時に日本の官僚主義を批判しなければならないだろう。
つまり、二つ国家、日本と中国は資本主義と社会主義という政治体制の違いがあると言っても、非常に共通する社会制度、官僚主義国家の体制を持っている。それらの制度によって急速な近代化を可能にしたことは確かである。今後、これら二つの国で近代化を推進した官僚制度がいつまで必要であるかは、それぞれの国の事情によって異なる。しかし日本の場合にはこれまでの官僚制度が機能しなくなっていることは明らかである。そして、有能なこれまでの官僚制度に代わるより有能は行政制度を模索していることも確かである。
これらの問題の根底には国益とは何かという課題が横たわっている。現在の愛国主義教育を行い中国共産党の官僚制度によって国家を運営している中国に対して国民主権や脱官僚主義を呼びかけることは不可能かもしれない。しかし、民主主義国家としての発展できる基本構造を持つ日本が中国化することによって、中国に対して力を持つことが危険であると言わなければならない。その政治路線は日中間の武力衝突、戦争への道に向かうしかないと言えるのである。
今後の日本の対中及び対外交への提案
2013年12月、尖閣諸島の領有権問題を拗らせ、さらに中国が主張する防空識別圏に対する両国の力による対応が続く限り、今後、日中間での軍事的衝突は避けられない緊迫した情勢に突入した時代の幕開けになるか、今後の両国の政府の国際政治能力が試されている。
こうした緊迫した課題を解決するためには、目の前の問題に足を取られない長期的な外交路線を日本が持たなければならない。つめり、アジア(東アジア)での民主主義先進国日本の外交はどうあるべきかを考えなければならない。その目的はこの国際地域の平和的共存社会の形成である。その彼方にある課題は狭域的には中韓日を中心とする東アジア経済共同体の構築であり、やや広域的にはASEAN諸国を入れた東南北アジア経済共同体の形成である。
勿論、東アジア諸国の共同体化と言っても、そこには政治体制の違いがあり、一党独裁政治で国家が運営されている社会と選挙によって代表者を選び国家を運営している間接民主主義の社会が一つの地域に共存している国際地域社会・東アジアと民主主義社会のみで成立しているEU(国際地域社会政治共同体)を同列に議論することは不可能である。その意味でEUモデルが日中韓を中心とする東アジア地域の共同体にそのまま適応されことがないと言える。
言い換えると、ヨーロッパ連合をモデルとする政治経済共同体の形成を目指しながらも、その形成過程はヨーロッパ連合の形成史をそのまま参考とすることはできない。ASEANモデルのように多様な政治体制を容認しながら参加国がそれぞれの特徴を活かせる共同体を模索する必要がある。
現在の日中、日韓の領土・領有権問題を解決する方向として、多様な政治制度を相互に認め合う経済共同体の在り方を模索することが前提となる。長期的視点に立つなら、現在の尖閣諸島や竹島(独島)の領有権を巡る国家の面子、国土を守れない国家ではないと言う国家的プライドを巡る紛争でなく、よりそれらの国家の現実的な利害や利益に直結する解決策の方が良い。
日中、日韓の領土・領有権問題の現実的な解決のために以下の課題に取り組まなければならないだろう。また、日本は韓国が主張した韓国の防空識別圏を認めたように、中国が主張している防空識別圏に対して拒否することでなく、協議し合うべきである。中国の主張する防空識別圏と尖閣諸島の領有権問題を分離し、話し合いを続けるべきである。
1、最悪の事態を想定し、安易な軍事衝突を避けるために、現在安倍政権が提案しているように、特に日中間での政府トップ間のホットラインを設置すべきである。もし、中国がその国際地域安全に関する危機管理体制の話合にすぐに乗らなくても、粘り強く誠意ある交渉を日本政府は続けなければならない
2、領土・領有権問題を資源問題として相互理解し合い、その解決の第一歩として、それらの資源状態を日中、日韓の共同プロジェクトで調査すること。また、その資源開発を共同管理し生産する資源共同体構想を企画すること
3、日本が歴史認識問題で韓国や中国から批判されていることを真剣に受け止め、日本の犯した戦争犯罪を認め、真摯に謝罪すること。その謝罪とは、現在でも存在する戦争被災者への謝罪であり、具体的な被害への償いである。そして韓国や中国の行う愛国主義教育に日本の戦争犯罪が利用されることを防ぐ外交的努力を行うこと。そのために日韓中の歴史学者中心とする第三者委員会を設け、この委員会で歴史学的見地から日本、韓国と中国の歴史的関係を古代から現代まで研究調査し、各国の政治的意図を排除した学問的見解を纏める作業を行うこと。
4、広く日本、韓国と中国の民間文化交流を推進し、日本での韓流や中国文化ブーム、中国や韓国での日本文化ブームを支援推進すること。
5、日韓中を中心に東南アジアや南アジアを含みアジア圏内での公害、自然災害、特に原発事故に対する日韓中の安全管理や危機管理体制を構築し、災害救援活動の支援(軍隊を緊急派遣し支援団体を送り込む体制の検討と構築を行う政府間交渉、自治体、民間企業やNPO等を入れたフォーラムを組織する
以上、大まかではあるが5つの提案を行う。
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関連文書
日中の軍事衝突を避けるために何をなすべきか
1、問われる日本外交の姿
2、軍事衝突を回避するための外交政策を展開するために
3、日本の危険な対東アジア外交を生み出す日本社会の精神構造
http://mitsuishi.blogspot.jp/2013/12/blog-post_2621.html
ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2012/03/blog-post.html
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三石博行
資源問題を解決する二つの国際政治路線、領有権をめぐる戦争かそれとも資源共同体の形成か
これまでの日本の対中外交と中国の対日外交の単純な延長線上に登場するのは「避けられない軍事衝突」である。そのことを前提にした政治的発言が自民党の幹部から行われている。そのための準備を放棄しろと言うのは間違いであるが、同時に、そのことを前提にした防衛政策を中心にすることも、同じように間違いである。
何故なら、政治家である以上、国民の命と平和な生活環境を守ることがその使命の第一の課題である。そのために領土問題がある。尖閣諸島や竹島(独島)に日本人が居住している状態で起こる領有権問題ではない。もし人の生活がある島で領有権問題が生じているなら、そこに住む人々の生活を守るために外国の侵略を防ぐこと国家として当然の行為である。しかし、無人島をめぐる領有権問題で人の住む地帯を戦禍の危機に陥れることが正しい政治であると言えるのかと疑うべきではないだろうか。とすれば、国民の住んでいる領土で起こっている領有権問題ではないこの領有権問題の解決に軍事的衝突を前提とした解決を持ち込むことをもう一度冷静に点検する必要がある。
尖閣諸島の近海は海底ガス田地帯があると言われて以上、この問題の本質は一般的な領土問題では語れない。この問題は海洋資源をめぐる領有権をめぐるものである。ここで言う海洋資源とは、漁業資源だけでなく海底資源も含まれることは言うまでもない。
この領有権問題の背景には資源問題がある。何故なら莫大なエネルギー消費を前提にして成立している経済産業活動、その活動に支えられている現代社会に取って資源枯渇問題とはそのまま社会経済システムの危機を意味する。資源を確保するために危険な原子力エネルギーを使わなければならないし、また高コストの地下資源(シェールガスやオイルサンド)を開発しなければならないのである。
前世期に起こった二つの世界大戦は資源領有権をめぐる戦争であった。そのため、戦後ヨーロッパで取り組まれた和平政策として、1951年にフランス,西ドイツ,イタリア,オランダ,ベルギー,ルクセンブルクの6ヵ国の間で成立し1952年に発足した「ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体・ECSC(European Coal and Steel Community)」である。独仏間で繰り広げられた戦争、石炭や鉄鋼石の産地ルザスローレヌ地方の領有をめぐる紛争を根本的に終わらせるためにヨーロッパ石炭鉄鋼共同体を発足させた。つまり、この共同体の目的は欧州での資源争奪戦争の終結にある。
つまり、資源問題を前提にした国際紛争は「戦争によって解決するか」それとも「資源共同体の構築によって解決するか」の二つの外交路線が歴史的に存在し、今後も、その二つに一つを選択する以外に道はないと思われる。現在の日本と中国の政権は明らかに戦争によってこの問題の解決を行う方向に進もうとしている。
日本を中国化させてはならない
日中韓がそれぞれ領有権を主張している地帯に一体どれだけの海底資源が存在しているのだろうか。それらは採掘可能か。これの資源の開発と活用に必要なコストを冷静に計量する必要がある。
言い換えると、戦争(防衛軍事費や戦争被害)による支出と海底資源から得られる収入の収支計算を行う必要がある。もし、資源獲得による収入が戦争に費やす経費より巨大であると理解される場合には、戦争を行うことも政治の選択肢であると言える。しかし、現実は日中間でおこる戦争による被害、直接戦争に費やされた費用(戦死者補償費を含め戦争被害の経費)のみでなくその後日中間での経済的関係の破綻による被害を含める被害金額が、領有権をめぐる地帯の資源から得られる利益金額よりも微々たるものであると言えるかどうかを検討しなければならない。
しかし、現在の政府の立場は客観的なコスト計算ではなく、「国土を守る」ということが大前提となっている。当然のように「国家の使命として国土を守ること」が語られている。そして、国民の住んでいない国土を守ることによって国民が戦禍を被ることは止むなしと考える風潮が生み出されているのではないだろうか。
この風潮は、国家の屈辱を晴らすために国民は命を捨てることが美徳とされている「忠臣蔵神話」を思い起こすのである。死をもって主君の恨みを晴らことを美化してきた文化を理解する必要はないだろうか。例えば、「忠臣蔵」、「白虎隊」、そして「特攻隊」が常に小説、演劇、ドラマとなり庶民の中で語り継がれてきた我が国の美しき「忠義と死」の文化を冷たく理解しなければならない。その延長線上に「領有権を侵害された日本国家のために死をもって戦うこと」が美化されないかと私は危惧するのである。
国民主権国家、つまり民主主義国日本の政治の基本とは「国民による国民のための国民の政治」を実現するための政治思想であることは言うまでもない。そのために、「国民は国家に奉仕すべきである」という時代錯誤の考え方を正さなければならない。いつの間にか民主主義文化を「美しき忠義の精神文化」が食いつぶし、国家のための国民、人権に優先する国家立場が登場していくのではないかと危惧する。
こうした日本の国家主義化とは現在中国が行っている愛国主義教育と同質のものであり、二つの愛国主義国家が行き着く先が戦争であることは今までの歴史が教えている。中国の愛国主義教育への危惧と同じく日本の愛国主義教育に対しても警告を出す必要がある。中国の中国共産党による官僚主義を批判することと同時に日本の官僚主義を批判しなければならないだろう。
つまり、二つ国家、日本と中国は資本主義と社会主義という政治体制の違いがあると言っても、非常に共通する社会制度、官僚主義国家の体制を持っている。それらの制度によって急速な近代化を可能にしたことは確かである。今後、これら二つの国で近代化を推進した官僚制度がいつまで必要であるかは、それぞれの国の事情によって異なる。しかし日本の場合にはこれまでの官僚制度が機能しなくなっていることは明らかである。そして、有能なこれまでの官僚制度に代わるより有能は行政制度を模索していることも確かである。
これらの問題の根底には国益とは何かという課題が横たわっている。現在の愛国主義教育を行い中国共産党の官僚制度によって国家を運営している中国に対して国民主権や脱官僚主義を呼びかけることは不可能かもしれない。しかし、民主主義国家としての発展できる基本構造を持つ日本が中国化することによって、中国に対して力を持つことが危険であると言わなければならない。その政治路線は日中間の武力衝突、戦争への道に向かうしかないと言えるのである。
今後の日本の対中及び対外交への提案
2013年12月、尖閣諸島の領有権問題を拗らせ、さらに中国が主張する防空識別圏に対する両国の力による対応が続く限り、今後、日中間での軍事的衝突は避けられない緊迫した情勢に突入した時代の幕開けになるか、今後の両国の政府の国際政治能力が試されている。
こうした緊迫した課題を解決するためには、目の前の問題に足を取られない長期的な外交路線を日本が持たなければならない。つめり、アジア(東アジア)での民主主義先進国日本の外交はどうあるべきかを考えなければならない。その目的はこの国際地域の平和的共存社会の形成である。その彼方にある課題は狭域的には中韓日を中心とする東アジア経済共同体の構築であり、やや広域的にはASEAN諸国を入れた東南北アジア経済共同体の形成である。
勿論、東アジア諸国の共同体化と言っても、そこには政治体制の違いがあり、一党独裁政治で国家が運営されている社会と選挙によって代表者を選び国家を運営している間接民主主義の社会が一つの地域に共存している国際地域社会・東アジアと民主主義社会のみで成立しているEU(国際地域社会政治共同体)を同列に議論することは不可能である。その意味でEUモデルが日中韓を中心とする東アジア地域の共同体にそのまま適応されことがないと言える。
言い換えると、ヨーロッパ連合をモデルとする政治経済共同体の形成を目指しながらも、その形成過程はヨーロッパ連合の形成史をそのまま参考とすることはできない。ASEANモデルのように多様な政治体制を容認しながら参加国がそれぞれの特徴を活かせる共同体を模索する必要がある。
現在の日中、日韓の領土・領有権問題を解決する方向として、多様な政治制度を相互に認め合う経済共同体の在り方を模索することが前提となる。長期的視点に立つなら、現在の尖閣諸島や竹島(独島)の領有権を巡る国家の面子、国土を守れない国家ではないと言う国家的プライドを巡る紛争でなく、よりそれらの国家の現実的な利害や利益に直結する解決策の方が良い。
日中、日韓の領土・領有権問題の現実的な解決のために以下の課題に取り組まなければならないだろう。また、日本は韓国が主張した韓国の防空識別圏を認めたように、中国が主張している防空識別圏に対して拒否することでなく、協議し合うべきである。中国の主張する防空識別圏と尖閣諸島の領有権問題を分離し、話し合いを続けるべきである。
1、最悪の事態を想定し、安易な軍事衝突を避けるために、現在安倍政権が提案しているように、特に日中間での政府トップ間のホットラインを設置すべきである。もし、中国がその国際地域安全に関する危機管理体制の話合にすぐに乗らなくても、粘り強く誠意ある交渉を日本政府は続けなければならない
2、領土・領有権問題を資源問題として相互理解し合い、その解決の第一歩として、それらの資源状態を日中、日韓の共同プロジェクトで調査すること。また、その資源開発を共同管理し生産する資源共同体構想を企画すること
3、日本が歴史認識問題で韓国や中国から批判されていることを真剣に受け止め、日本の犯した戦争犯罪を認め、真摯に謝罪すること。その謝罪とは、現在でも存在する戦争被災者への謝罪であり、具体的な被害への償いである。そして韓国や中国の行う愛国主義教育に日本の戦争犯罪が利用されることを防ぐ外交的努力を行うこと。そのために日韓中の歴史学者中心とする第三者委員会を設け、この委員会で歴史学的見地から日本、韓国と中国の歴史的関係を古代から現代まで研究調査し、各国の政治的意図を排除した学問的見解を纏める作業を行うこと。
4、広く日本、韓国と中国の民間文化交流を推進し、日本での韓流や中国文化ブーム、中国や韓国での日本文化ブームを支援推進すること。
5、日韓中を中心に東南アジアや南アジアを含みアジア圏内での公害、自然災害、特に原発事故に対する日韓中の安全管理や危機管理体制を構築し、災害救援活動の支援(軍隊を緊急派遣し支援団体を送り込む体制の検討と構築を行う政府間交渉、自治体、民間企業やNPO等を入れたフォーラムを組織する
以上、大まかではあるが5つの提案を行う。
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関連文書
日中の軍事衝突を避けるために何をなすべきか
1、問われる日本外交の姿
2、軍事衝突を回避するための外交政策を展開するために
3、日本の危険な対東アジア外交を生み出す日本社会の精神構造
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ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」
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2013年12月14日土曜日
日中の軍事的衝突は避けるために何をなすべきか(1)
問われる日本外交
三石博行
問われる日本のアジア(東アジア)外交政策
中国が宣言した防空識別圏の設定によって、一挙に日中間の外交上の緊張が高まった。日本の防空識別圏は1955年に当時アメリカが設定していたものを引き継いだ形で設定されたものである。当時は日中国交どころか米中間では朝鮮戦争直後の軍事的緊張が存在していた。その意味で、アメリカの設定した日本の防空識別圏は東西冷戦時代を象徴する軍事的な意味合いの強いものであると言える。
それから半世紀以上の時代を経て、米中国交や日中国交が成立し、ソ連の崩壊と東西冷戦時代が終焉し、さらに中国の経済躍進時代が到来し、今日の世界第二の経済大国中国が成立した。そして日本も1960年代からの高度成長時代を経て1970年代後半には世界第二の経済大国となり、2000年に入り成熟した資本主義社会を迎えている。こうした時代的な変遷を前提にするなら、今回の中国の尖閣諸島の領土問題を代表する「海洋大国」の主張は少なくとも大国化した国家中華人民共和国のたどり着く歴史的必然の形態であるとも解釈できるだろう。
我国が問い掛けなければならない問題は、こうした大国中国の外交政策の変化に対するコメントではない。そのことに対する我国の外交政策の内容である。同じ外交上の課題は中国だけではなく先進国になった韓国に対しても同質の課題が存在していると言える。つまり、日本はアジアの唯一の大国でも、また東アジア一の経済大国でもない。この現実を受け止めた日本の外交政策が行われているかを問い掛ける必要がある。
これまでと同じ対中及び対韓外交政策を続ける限り、日本は東アジアでの国際政治的立場を失い、またその結果として経済的な損害を受けることは明確である。このより緊迫した外交上の問題を解決するために、取り組まなければならない課題はアジアに対する日本外交の姿勢である。アジア(東アジア)の諸国と共に、この国際地域の平和的共存、経済発展や文化交流や教育交流の発展を確立するために、それらの国々の一員として、共に考え行動する国際政策を提案し実行することである。日本がその指導的立場を取るという自国重心主義を超えて、この国際地域全体が平等に利益を受けるという立場を鮮明に宣言し、実行する政策を提案すべきである。
21世紀社会、つまり国際化した社会では、20世紀までの力の外交の時代に教訓化した負の財産(戦争という悲惨な外交上の失敗の経験)を活かし、新たな国際平和のための共存を目指す外交が問われている。特に、19世紀後半から20世紀に掛けて近代化の嵐が吹き荒れ急速な資本主義化(富国強兵化)を迫られ戦禍と植民地化に苦しんだ東アジアの歴史は同じく二つの悲惨な戦禍に破壊しつくされたヨーロッパとも共通する。その意味で、東アジアの今後を示唆する課題としてEU形成の歴史、その経験は大きな財産であると言えないだろうか。
日本の東アジア外交の方向、その基本路線を問い掛ける歴史的試練として、日韓中で繰り広げられている領有権問題へ真剣に対応すべきではないだろうか。この課題の解決の方向に、軍事的衝突か経済的発展かの二つの大きな未来の東アジアの外交結果が見えてこないだろうか。もし、軍事的衝突も避けられないと三国の国民(それに選ばれた政府)や国家の行政機能を動かす高官が思うなら、必ず、軍事的衝突が起こるだろう。もし、逆に何とかして軍事的衝突を避けたいと願うなら、この機会は今後の東アジアの共存のための試練石となるだろう。今、問われているのは日本外交の質であと言える。
日本政府の対東アジア政策はアメリカに支持されるだろうか
現在の自公政権(及び外務官僚)の対中外交政策、取り分け尖閣諸島領有権問題や今回の中国の宣言した防空識別圏に対する外交政策は、日米同盟による中国側への軍事的圧力政策である。当然、この政策は韓国が新たに設定した防空識別圏による日本政府との外交樹の摩擦問題の浮上によって、矛盾を抱えることになる。アメリカは対中関係に於いては原則として東アジアの最大の同盟国日本の立場に立つだろうが、緊密な経済的関係を持つ中国(米国債の最大の購入国)を徹底的に敵に回すことは不可能である。ましては、日本と同じ東アジアの軍事同盟国韓国に対しても日本の主張を一方的に押し付けることはできない。アメリカにとって東アジアが強烈に連携することも、また反対に強烈に敵対することも望んではいない。アメリカの真の狙いは世界一の経済力を持とうとしている国際地域での影響力を保持したいのである。
言い方を換えると、当然のことであるが、アメリカの東アジア外交の狙いは自国の利益を優先したものである。勿論、この論理は韓国、中国や日本も同様である。国家の利益を前提にしない外交政策はない。では何が国家の利益なのか。歴史的にこの回答は変化してきた。その回答は極めて単純に帰結されてきた。イギリスとアルゼンチンンが戦ったフォークランド島の領有権をはじめ、イラクのクエート侵略に対する国際社会の軍事介入にしろ、これまで、軍事力を持っても領土を守ることということが常識とされている。つまり、国家は領土に侵略する敵から国を守るという常識は誰一人として否定しないだろう。
この常識がある以上、尖閣諸島は竹島(独島)のような「国際境界領域」に属する島を巡り、紛争が繰り広げられることになる。そして今現在の、日本、韓国と中国のそれぞれの政府の外交方針の延長戦上には「軍事的諸突は避けられない」という同じ方向に進んでいると言える。つまり、この問題は必ずいつかまず日中間で軍事的衝突が発生すると両国の政治家や官僚達は理解している。そのために、中国では空海軍力の軍拡が進み、日本でも同じ方向の軍事力強化政策が進んでいる。
日本の場合には日米軍事同盟の強化という方向で、この事態を乗り越えようとしている。その日本の外交政策を同盟国のアメリカは否定することはできない。しかし、上記したように東アジアでの政治経済的に優位な立場を保持したいアメリカは東アジアでの小競り合いは歓迎するかもすれないが、本格的な軍事衝突は望んではいない。その証拠にアメリカは、弾道ミサイルをアメリカめがけて太平洋に打ち込み、核開発を続け、また自国の国民を拉致した北朝鮮(朝鮮人民民主主義共和国)に対して強硬な軍事介入しないのである。それは石油がないからという理由だけでなく、この地域ではすでの朝鮮戦争による国際紛争を経験し、中国やロシア(旧ソ連)を含め極めて地域紛争化することによって生じる国際地域的軍事的バランスの崩壊のもたらす外交上の損失を深くアメリカは理解しているからである。
アメリカにとって、経済大国化した中国や先進国となった韓国との関係は日米関係と同じように重要である。そのアメリカに対して、日本が求めている軍事同盟上の支援は、迷惑なものだと理解できないだろうか。もし、日本の政府や官僚がこのアメリカの国益を前提とした外交政策を正しく理解していないとすれば、今後の東アジアでの日本外交は大きく失敗することになるだろう。つまり、現実のアメリカの外交政策を理解し、その上で、日本の国益に合ったアメリカとの軍事同盟関係や経済関係を模索する必要がある。
最近の安倍政権の外交政策で評価できることの一つとしてロシアとの外交関係の改善をめぐる動きがある。北方領土問題を抱える両国の敵対的な関係を改善する動きは、領土問題を棚上げしてでも、両国の経済関係を強化する方向に進んでいると言える。もし、日本政府(政治家や外務官僚)によって積極的にロシアとの外交政策の転換がなされているなら、その転換の試みに今後の日本外交の未来を託したいと思う。領土問題を優先する外交政策から地域国際的共存を優先する外交の在り方が、今後の日本の将来に必要であると思うからである。
このロシアとの外交路線の選択をアメリカはどう見ているだろうか。もし、東西冷戦時代であればアメリカはこのロシア外交に口を挟んでいただろう。当時のアメリカが自国に敵対する国に同盟国である日本が外交上に緊密な関係を許したくはないと考えるのはまず国益を優先するアメリカにとって当然のことである。しかし、現在は、アメリカとロシアは東西冷戦時代のような軍事的緊張関係はない。また二つの勢力に国際社会が分断され、合争う国際関係もない。その意味で、日本のロシア外交に対してアメリカは20世紀と異なる政策的な立場に立っているのである。
こうした国際情勢の大きな変化、東西冷戦の終結、中国を中心とする世界一の東アジア経済圏の形成等々に対するアメリカ外交の変化を理解するなら、日中間の軍事的衝突に向けた日米軍事同盟への日本側の期待は時代錯誤であると気付くべきである。日中間の軍事衝突を避けるために日米軍事同盟の力を活用するなら、もう一段階質的に高度な外交政策を打ち出すべきである。
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関連文書
日中の軍事衝突を避けるために何をなすべきか
1、問われる日本外交の姿
2、軍事衝突を回避するための外交政策を展開するために
3、日本の危険な対東アジア外交を生み出す日本社会の精神構造
http://mitsuishi.blogspot.jp/2013/12/blog-post_2621.html
ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2012/03/blog-post.html
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三石博行
問われる日本のアジア(東アジア)外交政策
中国が宣言した防空識別圏の設定によって、一挙に日中間の外交上の緊張が高まった。日本の防空識別圏は1955年に当時アメリカが設定していたものを引き継いだ形で設定されたものである。当時は日中国交どころか米中間では朝鮮戦争直後の軍事的緊張が存在していた。その意味で、アメリカの設定した日本の防空識別圏は東西冷戦時代を象徴する軍事的な意味合いの強いものであると言える。
それから半世紀以上の時代を経て、米中国交や日中国交が成立し、ソ連の崩壊と東西冷戦時代が終焉し、さらに中国の経済躍進時代が到来し、今日の世界第二の経済大国中国が成立した。そして日本も1960年代からの高度成長時代を経て1970年代後半には世界第二の経済大国となり、2000年に入り成熟した資本主義社会を迎えている。こうした時代的な変遷を前提にするなら、今回の中国の尖閣諸島の領土問題を代表する「海洋大国」の主張は少なくとも大国化した国家中華人民共和国のたどり着く歴史的必然の形態であるとも解釈できるだろう。
我国が問い掛けなければならない問題は、こうした大国中国の外交政策の変化に対するコメントではない。そのことに対する我国の外交政策の内容である。同じ外交上の課題は中国だけではなく先進国になった韓国に対しても同質の課題が存在していると言える。つまり、日本はアジアの唯一の大国でも、また東アジア一の経済大国でもない。この現実を受け止めた日本の外交政策が行われているかを問い掛ける必要がある。
これまでと同じ対中及び対韓外交政策を続ける限り、日本は東アジアでの国際政治的立場を失い、またその結果として経済的な損害を受けることは明確である。このより緊迫した外交上の問題を解決するために、取り組まなければならない課題はアジアに対する日本外交の姿勢である。アジア(東アジア)の諸国と共に、この国際地域の平和的共存、経済発展や文化交流や教育交流の発展を確立するために、それらの国々の一員として、共に考え行動する国際政策を提案し実行することである。日本がその指導的立場を取るという自国重心主義を超えて、この国際地域全体が平等に利益を受けるという立場を鮮明に宣言し、実行する政策を提案すべきである。
21世紀社会、つまり国際化した社会では、20世紀までの力の外交の時代に教訓化した負の財産(戦争という悲惨な外交上の失敗の経験)を活かし、新たな国際平和のための共存を目指す外交が問われている。特に、19世紀後半から20世紀に掛けて近代化の嵐が吹き荒れ急速な資本主義化(富国強兵化)を迫られ戦禍と植民地化に苦しんだ東アジアの歴史は同じく二つの悲惨な戦禍に破壊しつくされたヨーロッパとも共通する。その意味で、東アジアの今後を示唆する課題としてEU形成の歴史、その経験は大きな財産であると言えないだろうか。
日本の東アジア外交の方向、その基本路線を問い掛ける歴史的試練として、日韓中で繰り広げられている領有権問題へ真剣に対応すべきではないだろうか。この課題の解決の方向に、軍事的衝突か経済的発展かの二つの大きな未来の東アジアの外交結果が見えてこないだろうか。もし、軍事的衝突も避けられないと三国の国民(それに選ばれた政府)や国家の行政機能を動かす高官が思うなら、必ず、軍事的衝突が起こるだろう。もし、逆に何とかして軍事的衝突を避けたいと願うなら、この機会は今後の東アジアの共存のための試練石となるだろう。今、問われているのは日本外交の質であと言える。
日本政府の対東アジア政策はアメリカに支持されるだろうか
現在の自公政権(及び外務官僚)の対中外交政策、取り分け尖閣諸島領有権問題や今回の中国の宣言した防空識別圏に対する外交政策は、日米同盟による中国側への軍事的圧力政策である。当然、この政策は韓国が新たに設定した防空識別圏による日本政府との外交樹の摩擦問題の浮上によって、矛盾を抱えることになる。アメリカは対中関係に於いては原則として東アジアの最大の同盟国日本の立場に立つだろうが、緊密な経済的関係を持つ中国(米国債の最大の購入国)を徹底的に敵に回すことは不可能である。ましては、日本と同じ東アジアの軍事同盟国韓国に対しても日本の主張を一方的に押し付けることはできない。アメリカにとって東アジアが強烈に連携することも、また反対に強烈に敵対することも望んではいない。アメリカの真の狙いは世界一の経済力を持とうとしている国際地域での影響力を保持したいのである。
言い方を換えると、当然のことであるが、アメリカの東アジア外交の狙いは自国の利益を優先したものである。勿論、この論理は韓国、中国や日本も同様である。国家の利益を前提にしない外交政策はない。では何が国家の利益なのか。歴史的にこの回答は変化してきた。その回答は極めて単純に帰結されてきた。イギリスとアルゼンチンンが戦ったフォークランド島の領有権をはじめ、イラクのクエート侵略に対する国際社会の軍事介入にしろ、これまで、軍事力を持っても領土を守ることということが常識とされている。つまり、国家は領土に侵略する敵から国を守るという常識は誰一人として否定しないだろう。
この常識がある以上、尖閣諸島は竹島(独島)のような「国際境界領域」に属する島を巡り、紛争が繰り広げられることになる。そして今現在の、日本、韓国と中国のそれぞれの政府の外交方針の延長戦上には「軍事的諸突は避けられない」という同じ方向に進んでいると言える。つまり、この問題は必ずいつかまず日中間で軍事的衝突が発生すると両国の政治家や官僚達は理解している。そのために、中国では空海軍力の軍拡が進み、日本でも同じ方向の軍事力強化政策が進んでいる。
日本の場合には日米軍事同盟の強化という方向で、この事態を乗り越えようとしている。その日本の外交政策を同盟国のアメリカは否定することはできない。しかし、上記したように東アジアでの政治経済的に優位な立場を保持したいアメリカは東アジアでの小競り合いは歓迎するかもすれないが、本格的な軍事衝突は望んではいない。その証拠にアメリカは、弾道ミサイルをアメリカめがけて太平洋に打ち込み、核開発を続け、また自国の国民を拉致した北朝鮮(朝鮮人民民主主義共和国)に対して強硬な軍事介入しないのである。それは石油がないからという理由だけでなく、この地域ではすでの朝鮮戦争による国際紛争を経験し、中国やロシア(旧ソ連)を含め極めて地域紛争化することによって生じる国際地域的軍事的バランスの崩壊のもたらす外交上の損失を深くアメリカは理解しているからである。
アメリカにとって、経済大国化した中国や先進国となった韓国との関係は日米関係と同じように重要である。そのアメリカに対して、日本が求めている軍事同盟上の支援は、迷惑なものだと理解できないだろうか。もし、日本の政府や官僚がこのアメリカの国益を前提とした外交政策を正しく理解していないとすれば、今後の東アジアでの日本外交は大きく失敗することになるだろう。つまり、現実のアメリカの外交政策を理解し、その上で、日本の国益に合ったアメリカとの軍事同盟関係や経済関係を模索する必要がある。
最近の安倍政権の外交政策で評価できることの一つとしてロシアとの外交関係の改善をめぐる動きがある。北方領土問題を抱える両国の敵対的な関係を改善する動きは、領土問題を棚上げしてでも、両国の経済関係を強化する方向に進んでいると言える。もし、日本政府(政治家や外務官僚)によって積極的にロシアとの外交政策の転換がなされているなら、その転換の試みに今後の日本外交の未来を託したいと思う。領土問題を優先する外交政策から地域国際的共存を優先する外交の在り方が、今後の日本の将来に必要であると思うからである。
このロシアとの外交路線の選択をアメリカはどう見ているだろうか。もし、東西冷戦時代であればアメリカはこのロシア外交に口を挟んでいただろう。当時のアメリカが自国に敵対する国に同盟国である日本が外交上に緊密な関係を許したくはないと考えるのはまず国益を優先するアメリカにとって当然のことである。しかし、現在は、アメリカとロシアは東西冷戦時代のような軍事的緊張関係はない。また二つの勢力に国際社会が分断され、合争う国際関係もない。その意味で、日本のロシア外交に対してアメリカは20世紀と異なる政策的な立場に立っているのである。
こうした国際情勢の大きな変化、東西冷戦の終結、中国を中心とする世界一の東アジア経済圏の形成等々に対するアメリカ外交の変化を理解するなら、日中間の軍事的衝突に向けた日米軍事同盟への日本側の期待は時代錯誤であると気付くべきである。日中間の軍事衝突を避けるために日米軍事同盟の力を活用するなら、もう一段階質的に高度な外交政策を打ち出すべきである。
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関連文書
日中の軍事衝突を避けるために何をなすべきか
1、問われる日本外交の姿
2、軍事衝突を回避するための外交政策を展開するために
3、日本の危険な対東アジア外交を生み出す日本社会の精神構造
http://mitsuishi.blogspot.jp/2013/12/blog-post_2621.html
ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2012/03/blog-post.html
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