-脱成長社会経済政策「ポストアベノミックス」への準備がこれから必要だろう-
三石博行
巨額の負債を抱えながらの成長経済政策
多分、今、経済政策の中で問わなければならない課題は、脱成長社会経済政策ではないかと考えている。現在、政府がその政治生命を掛けて進めている「アベノミックス」が成功するにしろ、また失敗するにしろ、高度に経済成長している日本で、また、市民が消費生活を満喫している日本で、これ以上の消費活動を刺激し、無駄な消費をさせて、経済を成長されようと言うのは、実に、古い経済政策であると感じる。
高度経済成長以来、日本では経済成長政策を取り続けて来た。その結果、今日の経済レベルに社会を発展させてきたという側面と、同時に、1000兆円以上の国債を抱える国になっている。成長経済の肯定的な側面ばかりを観るのでなく、負の側面を理解しなければならない。
つまり、巨額の負債(若い世代への借金負担)、そして生活経済を圧迫するインフレ(その分、賃金を上げると言うのだが)の進行、一歩間違えば、この国の経済は破綻すると思われる危険な掛け、成長経済主義路線を強行しているようにも見える。
この成長経済路線の選択が多くの国民に現在支持されているのは、高度経済成長や世界第二の経済大国の時代に味わった過去の成功例があるからだ。そして、この成功例に拘ることによって、の呪縛に、現在の成長経済主義があるとも言える。従って、この成長経済主義の呪縛から解き放されるのは、多分、現在多くの国民が期待している「アベノミックス」の破綻後であると思われる。その意味で、ポスト経済成長主義とは何かを考え、準備しなければならないだろう。
ポスト成長経済政策の困難さ
好むと好まざるに拘わらず、これまで「成長」ということばは肯定的であり、この「成長」ということばに否定的なニュアンスを抱く人は少ない。しかし、これから、この常識が問われることになるだろう。そして、成長の終焉を自覚し、受け止め、その成長に代わる新しいことばを見つけなければならない。
つまり、成長の終焉とは、これまでの社会経済パラダイム転換に匹敵する重大な社会的価値観の転換を意味するのである。大量消費社会アメリカが、これからの日本の理想の社会モデルだと思う人は少なくなりつつあることは確かである。しかし、成長経済主義を批判するとは、それに代わる社会モデルを提示することである。そのことは、同時に、成長経済主義批判の課題の困難さを痛感するのである。
言い換えると、ここで私がテーマにしている「成長経済主義を越えて成熟循環型経済社会への転回」とは、現在、単なるスローガンでしかないのである。このスローガンを何とか、具体的な政策提案や社会思想として展開したいと思っている。
何から始めるのか
この後の課題として、二つのテーマがある。一つは、この「成長経済主義を越えて成熟循環型経済社会への転回」を多くの人々に呼びかけて、それらの人々と共に、社会運動として取り組み計画である。このことを現在、縮小社会研究会やNPO太陽光発電所ネットワークに参加しながら進めている。
勿論、専門的研究が必要である。それに関しては、現在私が所属する色々な学会で提案したいのだが、福島原発事故の後に、それらの学会は殆ど、自らの立場を明確にしなかった。その意味で、政治社会学会は別だった。反原発ということではなく、原発事故の議論を呼びかけた。私は、この学会が示した研究者としての社会的責任への問い掛けと、そして自らの使命に関して共感した。その意味で、この学会の会員・研究者に、学術的視点からの共同の研究活動を期待したいと思う。
もう一つの課題は、私自らの作業である。これまで、ブログで成長経済主義を超えるための課題に関する文章を書いてきた。それらの文章を纏めながら、今後、必要となる考察課題を整理したいと思った。そこで、これまでブログに書いた文章を、テーマに即して、必要と思われる流れを1章から3章まで仮定して、その中に当てはめてみた。すると、これらの展開に更に必要となる課題が具体化して行った。それらの課題を書き取りながら、それを章の節に当てはめてみる。
すべて、ここで書かれた題名に(仮称)と付いている題目は「絵にかいた餅」に過ぎないが、しかし、一応、考えられるテーマ名を書きいれることによって、少しだけテーマ全体のイメージが膨らんで行った。しかし、当然のことながら、このテーマが改めて莫大な研究調査作業を要請している事を再認識した。これは大変な作業になりそうだ。
2015年1月20日 フェイスブック記載
「成長経済主義を越えて成熟循環型経済社会への転回のために」 目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2015/01/blog-post_72.html
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