2011年3月16日水曜日

自由主義経済の中での社会政策・安全管理の意味

現代社会での安全管理(2)


三石博行


経営学的安全管理の有効領域 航空会社の例

市場経済的視点からみる安全管理は、一般に企業レベルの安全管理の理論の背景になる。しかし、その市場経済からの安全管理の理論はどこまで有効だろうか。航空事故の場合について考える。

当然、航空会社の安全対策も市場経済の視点からなされている。例えば、飛行機事故の例を考えてみる。航空会社で事故防止を考える場合、飛行機事故の損害費用とそれを防ぐための費用、例えば新しい飛行機の購入費など、その二つのバランスによって事故対策が講じられることは、前節の安全管理の経営学の理論から理解できるだろう。

しかし、よく事故を起こす航空会社の飛行機には誰でも乗りたくはないだろう。

また、運賃が非常に安い場合、乗る人々は落ちる確率の高さを安さと引き換えにして乗ることになるとしても、安い切符と引き換えに安全管理が疎かになる事実を航空会社は公言できるだろうか。しかも、事故で死亡した乗客への補償が非常に高くなると、安全対策を取らなければならないことも公言できるだろうか。これは航空会社の経営の論理からは当然の経営的選択の基準となるのではあるが、しかし、航空会社は声高にこの事実を社会には言えないだろう。

もし、この航空事故への安全管理の経営理論を示すなら、社会的な非難を覚悟しなければならない。事故の補償費とのバランスを前提にして安全対策が取られるという経営的な考え方を公言することは航空会社として致命的なスキャンダル発言となる。そして、この航空会社は存続することは出来ない。何故なら、航空事故が人命喪失に直結しており、人命尊重の立場から安全管理は航空会社の絶対的な義務であるからだ。

建前として人命を最優先している航空業界で、市場原理を前提とした安全管理の理論を公言することは出来ない。つまり、それは乗客の命の値段によって飛行機の安全対策を行っていると公言することになるからである。企業経営の視点からは、それは事実に違いない。しかし、安全対策が乗客の命の値段と関係していると堂々と公言する航空会社は、この業界では存続できないだろう。それが公言できない最も大きな理由に違いない。

つまり、航空機の安全管理も突き詰めれば市場経済的視点から行われている。その意味で、飛行機の安全を乗客は運賃で買わなければならないのである。格安チケットを買い求める消費者は自分の安全管理の値段を下げている事実に気付くべきなのかもしれない。


自由経済の中での労働基準法の意味

資本主義経済での企業の安全管理は基本的には市場経済の規則で決定されている。しかし、社会が安全管理を市場原理に任せることで大きな社会的問題が引き起こされる事になる。つまり、人命や健康に値段が付けられ、企業は出来るだけ安くそれを買おうとする。そうすることで、生産コストが削減でき、より市場に安い商品を提供でき、市場競争に打ち勝つことが出来るからである。

自由競争を原則とする経済社会では、企業のこの性質を変えることは不可能である。企業主がいかに人間主義を貫こうとしようとも、企業は経営体としての自己保存を最終的な目的として動いている。そのためには、企業利益を上げることが企業活動の目的になる。そうでない限り、働いた人々に賃金も払えないし、また原料を買う資金も得ることも出来ないのである。これが、企業体を維持する宿命的な活動原則である。その原則は健全経営と呼ばれる状態、つまり企業体の健康な状態を維持することによって可能となる。

企業にとって勤労者(社長を含む)の人命も健康も企業体の健康な状態を維持するための条件に過ぎない。企業が維持されるために、勤労者が健康であることが条件となっているのである。その企業の論理は企業体から観れば当然のことだが、そこで働いている人々(社長も含めて)からみれば、企業に使われている一人、組織の一員に過ぎないのである。

人命尊重や健康管理等々の企業の安全管理は企業にとっては目的ではない。すると自由競争社会での企業は安全管理を無視する、もしくは二次的なものとして取り扱う傾向を持つ。これが個人的企業の中での自然な安全管理の状況である。社長の人格に関係なく企業という組織生命体での自然発生的なその部品としての人間観が優先して行くのである。それが企業という組織生命体の姿である。

当然、その企業を野放しにしておけば、16歳未満の少年達が長時間労働を強いられ、そして女工哀史は繰り返される。自由主義経済によって必然的に生じる勤労者(社長も含む)人命や健康管理上の無視は避けられない。その結果、社会は大きな損失を被る。戦前の日本社会では、病弱な若年労働者は、例えば男子では兵役に使えない、また女子であれば健康な出産も出来ない。そこで国家は1916年に工場法を作り、12歳以下の最低就業年齢、12時間以上の長時間労働の禁止、15歳未満の女子深夜労働の禁止等を決めた。(1)

戦後、基本的人権を謳う日本国憲法によって、労働基準法、労働安全衛生法等々、企業は勤労者の人権や生活権を守らなければならない。社会政策として企業に勤労者の安全管理を義務付けることで、勤労者の使い捨てを禁止し、生活条件を改善した。その分、長期的視点に立って勤労者の労働の質を守り、個別企業も結果的には勤労者の良質な労働力を得ることが出来るだけでなく、彼らの消費文化に支えられ企業活動が可能になっている。


資本主義社会での社会政策の意味

つまり、市場経済原理で機能している企業に原則として安全管理を任せることは出来ないのである。そこで、歴史的に、つまりイギリスの工場法制定以来、勤労者の命と健康を守るための労働力安全管理は社会政策として行われてきた。

労働者の生活環境の維持を個々の企業努力に頼らず社会保障制度によって可能にすることで、企業の資本力、種類、経営条件に関係なく、健全な労働環境や生活環境を維持することが出来る。そのため、長期的な視点から、労働力の再生産過程が可能になる。つまり、家庭での子育て、社会での学校教育によって将来の労働力を維持することが可能となる。

社会政策は国家レベルの安全管理である。その目的は長期的に社会を維持することである。そのため、短期的に労働力を消耗する傾向にある企業活動に対して、労働力の維持に必要な社会的負担を与えることになる。労働環境の安全管理では、最低賃金、労働安全衛生基準、労働時間、十分な休養付与、出産や育児休暇、介護休暇、労働条件の改善、福利厚生、育児環境整備、労災医療制度、健康医療制度、医療費負担、年金制度、失業保険制度、再雇用のための研修教育制度等々が挙げられる。

他方で、企業は労働基準法や労働安全衛生法を守るために出費を余儀なくされる。企業にとってはその分経費が掛かる。つまり、勤労者を雇用する条件である給与の支払いに付随する出費として、社会保険料、労災保険金、失業保険金、介護保険金を支払わなければならないのである。

直接的にはこうした社会保障への支出は企業にとっては負担となる。しかし、長期的な視点に立つと、この制度によって安定した労働市場を確立することが出来る。

その結果、健康で良質な労働力を企業は手に入れることが出来る。つまり、企業活動を維持する条件である健全な労働力を確保する対策、労働力安全管理は国家が行う以外に不可能であると言える。自由経済を発展させるためには、より進んだ社会政策が必要となる。

何故なら、市場原理を尊重することで企業活動は活性化する。が同時に、労働市場は荒廃する可能性を持つ。健康で豊かな労働市場を失うことで資本主義経済は弱体化する。そのために国家は、社会政策を整え、勤労者の命、生活を守り、豊かにする労働力安全管理を強化しなければならない。

これが自由主義経済を支える社会機能である。そして、そのために、企業は国家の事業を支援する意味で納税の義務を持つのである。納税とは企業にとって、経営が国家の社会政策に支えられていることの理解を意味するのである。


参考資料

(1) 工場法 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A5%E5%A0%B4%E6%B3%95


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ブログ文書集 タイトル「東日本大震災に立ち向かおう」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html


目次  現代社会での安全管理

1、市場経済的視点からみる安全管理 大津波対策は可能か
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_15.html

2、自由主義経済の中での社会政策・安全管理の意味
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_9774.html

3、社会政策としての安全管理 原発事故防止や大津波対策の可能性を求めて
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_2687.html
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修正(誤字 文書挿入) 2011年3月16日






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