2011年3月15日火曜日

市場経済的視点からみる安全管理 大津波対策は可能か

現代社会での安全管理(1)


三石博行


安全管理と危機管理の違い

防災計画をより緻密に練り上げるためには、安全管理と危機管理の違いを明確に区別しておく必要がある。

まず、安全管理の考え方を述べる。安全管理とは、現状のシステムを災害から守るために工夫する対策である。つまり、災害で引き起こされる最悪の状況を想定し、それが生じないための対策を取ることが安全管理である。例えば、地震に対する建物の耐震強度の強化や洪水に対する堤防の強化などは体表的な例である。

それに対して危機管理とは安全管理のシステムが破壊された場合に打ち出される対策である。例えば、耐震強度を遥かに越える揺れによって建物が倒壊した場合に人命救助、二次災害の発生を防止するために取られる対策や堤防が決壊し街が浸水した場合に取られる対策であるといえる。


安全管理の経営学

安全管理は現状のシステムを強化することで可能となる。予測される災害、例えば、今回の東日本大震災(東北・関東大震災)の場合、三陸海岸で予測された最悪の津波の高さは10メートルであったとする。すると、この10メートルの津波が押し寄せた場合の防波堤の高さ、避難所の確保、避難警告の仕方、市役所などの公共施設のデータ保存、防災機能(警察、消防等)の設定場所、小中学校の場所等々。10メートの津波を仮定して、最小限に人的・物的被害を食い止める現状のシステム作りが安全管理の課題となる。

この課題は、必ず、それを設定するコストが問題となる。つまり、10メートルの津波を仮定して、11メートルの防波堤や4階建の町役場を建てたくても、その財源がなければ、予想される災害への対策、つまり可能な限りの安全管理を行うことが出来ないのである。


では、どのようにして安全管理は決定されるのだろうか。つまり、安全管理に掛けるコスト計算はどのようにして決定されるのだろうか。

企業の安全対策に掛けるコスト計算の例を用いると良く理解できる。例えば、A企業で労災事故が起こるとする。その事故でA企業が負担する補償費が200万円であるとして、その事故を防ぐために安全装置を設定する費用が年間1000万円必要になると仮定する。単純に考えて、年間5名の労災事故の補償費と安全装置の設置費は同額になる。A企業はその単純な計算に従うなら、4名から5名の労災事故が発生しても安全装置を設定しないことになる。何故なら、コスト的に労災補償費を支払っている方が安いからである。

もし、A企業が負担する一回の労災補償費が1000万円以上することになると、このA企業は安全装置を設定し、安全対策を行うだろう。何故なら、労災事故はA企業にとって、経営的損失となるからである。

安全管理のコストはこのようにして決定される。つまり、安全管理を行うために必要なコストと安全管理をしない状態で生じた場合の損失のコストのバランスによって、安全対策は決定される。企業が人道的立場から高額な安全装置を設置することはない。経営的に存続することが企業保存の大原則である以上、企業にとっての安全管理も経営的視点から決定されるのである。

但し、上に述べた仮説は、A企業が労災事故を起こすことによって生じる企業イメージ、つまり「A企業の経営者は人間を大切にする考えがないらしい」という社会的評価やイメージから来る経営的効果を全く計算していないことが前提になっている。今日、多くの企業が消費者からのイメージを大切にしている。その意味で、社会から悪いイメージ、例えば環境汚染をしているとか勤労者の健康を無視しているとかいう評判は企業にとっては命取りになる可能性があるため、その意味で企業は労災対策を行う場合も生じるのである。

つまり、安全管理に掛けるコストは、災害によって生じる企業(社会)の損失や負担費とその安全管理に掛かるコストとのバランスによって単純に決定されるのである。そのコストを決定しているのは、労働市場での労働力供給とその需要のバランスである。もし、労働者の賃金が安い、つまり労働市場で労働力の供給がその需要をはるかに上回り、低賃金で雇用可能な状態なら、労働災害に対する補償も相対的に下がることになる。そして、結果的に、安全管理は疎か(おろそか)になる。

賃金の安い国や社会では、労働現場の安全管理が悪くなるのは、労働市場で安価に労働者を雇用できる条件が成立しているからである。個別企業レベルの安全管理は、労働市場の需要と供給によって決定されている。当然、その市場経済論理の延長線上で、希少価値のある技術者の労働条件は単純労働に従事する労働者の労働条件よりも良くなることは理解できるだろう。


安全管理への公共事業費算出の基準

この安全管理を支配する市場経済の考え方をある町の津波対策に応用して考えてみる。もし、町の経済的生産力が低く、過疎化が進みつつある場合を仮定してみる。この町に、仮に10メートルの津波が来る確率が十年で70パーセントであると予測されるとしても、その津波を防ぐための防波堤の建設は行われるだろうか。まず、その決定を行う前に、行政(国土交通省や自治体)は防波堤建設コストを計算するだろう。そして、その費用とその町の経済生産力(経済的重要性)を何らかのかたちで計量的に比較することになる。

つまり、10メートルの津波発生による町の被害状況を予測し、その被害金額と復旧費用金額を計算することになる。当然、10メートルの防波堤を造る経済的意味を計算し、それによって防波堤の予算は大まかに算出されることになる。町の経済的重要性(現在の経済的価値)から、防波堤建設への予算額がはじき出される。これは当然の社会的常識と呼ばれる結論となる。言い換えれば、小さな町で大掛かりな防波堤を作る可能性は殆どないと謂える。もし、それを行えば、無駄な公共事業として批判されることになるだろう。

千年に一度と言われた大震災・東日本大震災(東北関東大震災)での大津波に対して、被害にあったすべての町のこれまでの津波対策は殆ど有効ではなかった。予想をはるかに超える大津波に町はのみ込まれた。その被害は甚大であった。

問題は、この教訓を今後の復旧活動にどのように活かすかと言う事である。安全管理の経営学やその公共事業費の算出基準の考え方からするなら、当然、これからも今回の大津波に対する防災対策は殆ど財政的に不可能であると謂える。つまり、これらの地域の社会経済的評価から、巨額の資金を出して非常に長く高い堤防を町の海岸全部に築く予算はないと結論付けられる可能性がある。

今後、この問題をどのように解決するかが問われる。


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ブログ文書集 タイトル「東日本大震災に立ち向かおう」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html

目次  現代社会での安全管理

1、市場経済的視点からみる安全管理 大津波対策は可能か
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_15.html

2、自由主義経済の中での社会政策・安全管理の意味
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_9774.html

3、社会政策としての安全管理 原発事故防止や大津波対策の可能性を求めて
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_2687.html
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修正(誤字)2011年3月15日






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