2011年8月29日月曜日

明治以来の「官僚制度による国家安全神話」の崩壊

政治的危機とは何か(1)


三石博行


有能な官僚制度と無能な政党政治

東日本大震災や東電福島第一原発の被災地で今でも多くの人々が苦しい生活環境の中にいる。それでも、東京永田町の政治家にとってはどこかよその国の話に思えるのだろうか、今日も、政局ごっこを一日中やっている。今日も首相の首を誰にするかのみが話し合われている。

そして、3.11の原発事故処理を間違えて、国民に重大な放射能被曝被害を与えてしまった政府の対応、あの記者会見と同じように、今、毎日のように、国民に対しては、「こうした無益な政局論争を続けていても、今、さしあたり大きな被害が国民生活に出るわけではありません」と報道陣の前で話し続けているようだ。

そもそも、確りとした官僚達が、政治家の政局ごっこの遊びの傍らで、国の基本的な運営を行っている以上、国家は大きな被害を受けないとこの国では言い伝えられてきた。つまり、明治以来、この国では東京永田町で政治家たちが政治ごっこしても、大丈夫だという神話(官僚制度による国家安全神話)が信じられてきた。その神話の上で、安心して政治家たちは国を官僚に任せ、大臣と首相の席を取るための駆け引き、話し合い、陰謀策略を繰返してきたのである。

日本は首相が1年毎に交代しても、毎日政局論争に明け暮れていても、国家の将来を考えるための政策を遅らせていても、明治以来の確りとした官僚制度がある以上、国家が致命的な混乱を起こすことはないと言われてきた。この国家安全神話によって、政治家自身、「自分達が何もしなくても、今現在の日本社会や経済は、致命的な打撃を受けることがない」と信じているのである。


官僚国家安全神話の形成と政治家の甘えの構造

官僚主導による国家運営を前提とした国家安全神話が成立したのは、富国強兵政策を進めてきた近代日本の歴史(長い国家建設の経過・過程)にある。その政策によって、欧米列強に強要された不平等条約を撤回させ、隣国を植民地化し、強烈な軍事力と経済力を短期間のうちに確立し、列強の一員にのしあがることが出来た。

つまり、日本の「官僚制度による国家安全神話」は根拠なくして成立したのではなく、アジアの奇跡と呼ばれて日本の近代化政策を実現したことによって20世紀に実証されてきたのである。また、その神話を最も正しく受け継いだ国が現在の中国であることは疑いもない。中国共産党の強烈な官僚機構によって国家安全神話はさらに21世紀のアジアの奇跡を隣国に再現しようとしている。「官僚制度による国家安全神話」はそれだけに否定しがたい、強固な確信となっているのである。

言い換えると、この国家安全神話が健全に機能している以上、国政を司るのは政治家でなく官僚の役割である。官僚制度が確りと機能し有能な官僚が居る限り国家運営に支障が生じることはない。国家にとって官僚制度が重要であり、その制度は国家の安定、発展のための最も重要な要素であると考えられてきた。つまり、この神話によって、政治家の社会的役割は低く評価され、短期間に国を運営する責任者(総理大臣、大臣、つまり内閣)が交代しても、国が瀕死の危機に陥ることはないとも信じられている。

そこで、戦後最大の国家的危機と言われる3.11以後の社会状況の中でも、強固な官僚制度による国家運営の国家安全神話が存在し続ける限り、その安全神話によって生み出される安心(幻想)によって、政治家たちは無邪気に政局ごっこすることが許される。また、社会も暗黙の内にその政治家の政治活動放棄を許容する。何故なら、社会にその安全神話が浸透しているからである。

言い換えると、社会全体に染込んだ官僚制度による国の発展(官僚依存型の国家安全神話)を前提にし、その社会的常識を再生産するマスコミの情報に支えられながら、政治家の甘えの構造(無責任な行動)は成立しているのである。


国家の危機とはなにか

国民救済の責務を果たすことが優先されると思っている政治家が殆どいないのは、彼らが深刻な現実の問題を解決しなくても、官僚がそれを解決してくれると信じているからだ。

つまり、3.11以後、日本の政治家たちは状況に問われた。一つの傾向は、被災地に身を運び、国民と共に復旧活動に専念し、罹災者救援のために身を粉にして法律を検討し、復旧活動のためのより効率の高い制度を作り、復興のための新しい法律やシステムを検討してきた政治家である。もう一つの傾向が、永田町で政局ごっこに血道をあげて一日中走り回っている政治家である。

この国難への解決のために奮闘する人々と政局ごっこに血道をあげる人々。主流与野党政治家は、3.11の大震災被害者救済、原発事故処理、復興対策、将来の日本のための政治的働きよりも、政権を取る為の政局論争、政治闘争が重大な課題となっている。政党の利害を超えて大同団結して国家の危機に立ち向かう政治家は居ない。目先の利益、最終的には自分達の政党の利益、つまり自分の利益、例えば権力を取る、大臣になる、首相になるということが主な政治活動の課題となってしまった。そして、首相の首を据え替える議論が政策を検討する議論よりも重要視される異常な政治的風潮を生み出してきた。それを恥とも思わない無邪気な「ごっこ」が国会で堂々と語られてきた。

そのことによって東日本大震災で被災した人々の生活や産業活動の復旧や復興が遅れる。さらに、東電福島第一原発事故の収拾は遅れ、被曝被害がさらに深刻化し続けてゆく。これは、戦後民主主義の中でも、重大な政治的危機の状況であるといえないだろうか。そして、国民の間に広がる政治不信と政党政治離れが、日本の戦前(過去)にもあった最悪のシナリオを持ち出さないとは誰も保証できないだろう。

戦前の日本の歴史を紐解くなら、国民の政治不信はさらに大きな国家の危機の入り口であることを文化人やジャーナリストはいち早く警告を鳴らしても遅くはないのだと思う。


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東日本大震災関連ブログ文書集

1、ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_3562.html

2、ブログ文書集「東日本大震災の復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html

3、ブログ文書集「日本の政治改革への提言」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_9428.html

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2011年10月4日 誤字修正

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