政治社会学会(ASPOS)第3回研究大会、研究報告要旨
三石博行(千里金蘭大学)
2012年11月23日(金)から25日(日)にかけて、国際基督教大学で政治社会学会(ASPOS)の第3回総会及び研究大会が開催される。研究大会のテーマは「文理融合と人文・社会科学の再生(3)」である。
今回の研究大会からセッション「プログラム科学とは何か」を開設し、吉田民人先生が提案したプログラム科学が政治社会学の研究方法や理論として有効な科学的手段となるかを議論することになった。
私は、11月24日(土)16:30-19:00 セッション3「プログラム科学とは何か」の報告者として「プログラム科学(自己組織性の設計科学)の科学哲学的課題」について発表する予定である。この文章はそのために書いた要旨である。
プログラム科学とは何か
吉田民人(以後吉田と呼ぶ)は物理化学的物質・エネルギーの世界を構成している法則と生物人間社会の世界を構築している秩序の概念を峻別した。その峻別の方法として援用された理論が「自己組織性の情報科学」であった。つまり、宇宙上の物理現象が自ら進化することはないように、物理化学的世界ではその世界を自ら再編する法則は存在しない。しかし、生物の世界には進化という現象が起こる。この現象は生物の基本構造である遺伝子が、自らその構造を変更する性質を持つことで起こる。
自己組織性は生命現象の属性である。物質・エネルギーの世界を解明する物理学と生命の世界を解明する生物学では、科学性が異なると吉田は考えた。そして、前者を法則科学と呼び、後者をプログラム科学と呼んだ。
つまり、生命から社会までの世界を理解する科学を総じてプログラム科学と考え、遺伝子プログラムによって現象する生物の世界に関する科学を「シグナル性プログラム」科学、言語性プログラムによって現象する社会文化(精神)の世界に関する科学を「シンボル性プログラム」科学と吉田は呼んでいる。
プログラム科学理論は存在するか
シグナル性プログラム科学の基礎理論は遺伝子学であると考えられる。生物学は「シグナル性プログラム」科学であると現場の生物分野の研究者に説明したとしても、その新語法による生物学の解釈は、彼らには目新しい重要な意味をなんら与えることはないだろう。また、「シグナル性プログラム」科学理論の体系的構築は生命生物分野では全く展開されていない。
まったく同様のことが、「シンボル性プログラム」科学にも当てはまる。例えば、シンボル性プログラム科学の基礎理論は、言語活動を支配する脳神経生理学(感覚や知覚の神経生理学)、メタ心理学(無意識の心理学)や心理学(意識に関する心理学)だと人間社会科学分野の研究者に説明しても、彼らが今まで活用してきた伝統的な理論を捨てて、まだ確立していないシンボル性プログラム科学の理論を援用して人間社会経済文化現象を分析し解釈できるとは思われない。
つまり、プログラム科学は、その具体的な対象である生命・生物科学や人間社会科学の理論に於いても実践的研究に於いでも(研究の現場で)、論理的及び実践的な意味を持っていない。つまり、実際の科学理論として、プログラム科学は存在していないのである。
「自己組織性」の概念、人間社会科学における主体性に関する理論
自己組織性は生命作用である。自己組織性を前提にしない人間社会科学の理論は成立しない。この命題から、人間社会学の課題として「主体性」を語る科学理論が問題となっている。この問い掛けは若き吉田がパーソンズの社会システム論と格闘している時代から存在した。そして、「生活空間の構造-機能分析」で一つの方向を得た。
つまり、吉田は主体性を「自己と外界」という視点、言い換えると主体はあくまでも外界に対峙した存在として理解するのでなく、主体を共同主観的自己(パーソナリティ)として共同主観的世界(レファレンシャル)との関係に於いて分析的に、つまり構造‐機能的に解釈していた。当時の吉田は理論社会学における主体概念の哲学的命題を、廣松渉が現象世界と呼んだ対象的二要因と主体的二重性の相補的関係によって成立している認識の四肢的構造聯関の構図に求めようとしていた。
人間社会学における主体(パーソナリティ)とはその人間社会学の研究対象である社会現象(レファレンシャル)に含まれている。つまり、人間社会学はその研究主体を含む世界の認識や解釈を行なう学問である。その意味で研究対象に主体の入り込む余地のない物理学とは異なる。客観と主観の二元論的な科学的方法論では、人間社会学の研究は深化しないのである。つまり人間社会学における科学性には、常に歴史的観念構造(共同主観)性を含む解釈が潜在化し、その解釈を取り除くことは不可能である。
吉田は主体性の問題を展開するために理論社会学を研究した。つまり、主体性の理論社会学的展開として「パーソナリティ」の構造-機能分析があり、「情報」や「自己組織性」の概念があり、さらに「プログラム」の意味が語られ、プログラム科学論の提案があった。
理論社会学者にとって主体性とは、哲学者が表現する「セルフ・意識化された自己」でもなく、また精神分析者が語る「エゴ・他者としての自己」でもなく、それは社会的機能によって形成され、またそれを再生産し続ける(自己組織性)構造化されたパーソナリティであった。そのパーソナリティの形成と再形成過程(自己組織性)の理解が理論社会学における主体性の問題となっていた。つまり、生命現象が自己組織性を示す広義概念であり、主体性がその狭義概念であると言える。
資源・情報、資源・情報処理、プログラム概念の形成
世界を変革する主体と世界によって変革される主体、それが生きるという課題であり、そのことを理解するのが人間社会科学である。しかし、理論社会学における主体とは行為を生み出すパーソナリティの力動的構造である。1960年代の理論社会学の研究課題は、そのパーソナリティの力動的要因を見つけ出し、それらの機能-構造関係を明らかにすることであった。
人間社会学が対象とする世界は社会文化生活資源である。それらは生産されたものであり、所有されたものであり、価値化されたものである。資源はある物質的存在を背景に持ち、同時にその情報(パターン)を所有している。また資源は何かの資源にとっての資源であり、その資源はさらに何かの資源に転用変換される資源である。つまり、資源とは生産、消費、再生産の過程(処理と流通)を前提にして存在している人工物である。
吉田が定義した広義の情報とは「人間社会資源の空間的、時間的、定性的、定量的パターン」であると解釈できる。これらの人工物の情報は資源とその資源処理過程によって形成される。情報処理によって資源処理過程が生産され、そこに新たな情報が生まれる。つまり、情報処理と資源処理は相補的関係にある。人間社会現象では社会文化資源と社会文化観念の形成や崩壊は同時に起こる。この相互の関係を現象学社会学は語っている。その生産と再生産、形成と崩壊、変換と流通の過程を含めた動態的システムを語るために吉田はプログラム科学(論)を展開した。
吉田の定義する自己組織性は生物から社会までのシステムに特有のものとして理解される。自己のプログラムを変換する機能(種の進化や退化)を持つシステムを自己組織性と考え、そのシステムを動かすのがプログラムであった。プログラムは情報・資源処理のルールである。つまり、個体保存と種の保存をもつ全てのシステム(生命から社会まで)はプログラムによって機能しているというのが吉田の言う自己組織性の理論である。
科学史の中でのプログラム科学の位置づけ
当時(1990年代)、吉田は自己組織を物理的現象として解釈した理論との闘争をしなければならなかった。そのため、プログラム科学を科学哲学的に位置付ける作業を行なった。吉田はDNAの情報概念の発見と分子生物学の形成・発展を科学への「情報とプログラム」概念の導入と位置づけ、これまでの法則科学も対抗するプログラムと呼ばれる「秩序原理」が科学理論の土台に据えられたと述べた。
この法則科学に対するプログラム科学の形成を近代科学のパラダイム・シフト、つまり大文字の第2の科学革命と吉田は命名した。吉田は科学哲学の概念としてプログラム科学を位置付けたのである。
さらに吉田は秩序原理に基づく科学性を「新科学論」と名づけ、その科学哲学を土台とする科学を「21世紀の科学」と称した。この科学は認識科学に対して設計科学の立場を取り、法則科学に対してプログラム科学の立場を取る。秩序原理の理解とその実践的応用が課題となる。プログラム科学と設計学は同時に展開するのである。
科学史の中でのプログラム科学の位置づけ
当時(1990年代)、吉田は自己組織を物理的現象として解釈した理論との闘争をしなければならなかった。そのため、プログラム科学を科学哲学的に位置付ける作業を行なった。吉田はDNAの情報概念の発見と分子生物学の形成・発展を科学への「情報とプログラム」概念の導入と位置づけ、これまでの法則科学も対抗するプログラムと呼ばれる「秩序原理」が科学理論の土台に据えられたと述べた。
この法則科学に対するプログラム科学の形成を近代科学のパラダイム・シフト、つまり大文字の第2の科学革命と吉田は命名した。吉田は科学哲学の概念としてプログラム科学を位置付けたのである。
さらに吉田は秩序原理に基づく科学性を「新科学論」と名づけ、その科学哲学を土台とする科学を「21世紀の科学」と称した。この科学は認識科学に対して設計科学の立場を取り、法則科学に対してプログラム科学の立場を取る。秩序原理の理解とその実践的応用が課題となる。プログラム科学と設計学は同時に展開するのである。
存在論的構築主義と設計科学
生物からすべての人工物に至る世界(現象)をそれぞれの階層秩序によって構築された世界と理解するなら、この構築概念とプログラム概念は、それぞれの階層秩序を構成している要素とその要素間の関係(構造-機能関係)の総合的関係と解釈できる。
プログラム科学の課題は1、プログラムの解明(構造機能に関する理解)、2、プログラムの作動過程の解明(力動的機能に関する理解)、3、プログラムの作動結果の解明(作動評価)、4、プログラムのライフサイクル(生成、維持、変容、消滅)の解明(プログラム進化に関する理解と評価)の四つあると吉田は述べている。このプログラムの解明を行なうだけでなく、その作動過程や作動結果、さらには、そのプログラムの進化過程をも研究対象とするのが吉田の言うプログラム科学である。その意味で、現在の科学の問題点が指摘されている。例えば、原子力物理学理論の研究、その原子力発電技術への応用研究、原発の稼動による全ての結果(経済効果、環境問題、エネルギー問題、原発の安全性の問題、作業員の健康問題等々)の研究課題の全てが総合的に課題となる科学をプログラム科学と呼ぶと吉田は述べているのである。
つまり、人工物プログラムのライフサイクル(生成、維持、変容、消滅)を作り出す要素は人工物の認知構築や評価構築でなく、指令的構築であると吉田は述べている。認知・評価・指令の3モードを統合する構築論を吉田は「存在論的構築主義」と呼んだ。
基礎研究と応用研究、さらにその社会経済効果に関する総合的調査を前提にして発展しているのが工学、医学や農学である。工学分野では工場プラント設計のように物理・化学・生物工学のようなプログラム科学的技術学による工学設計が行なわれている。人間社会科学でも、経済・政治・文化政策学を代表とするプログラム科学的技術学が存在する。研究対象のプログラム解明とその変革を行なうことを目的としていることが、工学、人間社会科学の設計思想を持つプログラム科学の特徴であると述べている。
個別プログラム科学的技術学が持つ指令的構築によって、問題解決型の知的機能が引き出される。つまり、状況に適応した技術が提案、実践、検証、改良、さらに破棄されるのである。問題解決を目的とした総合的な知識が形成される。これを人工物設計科学と呼ぶ。問題解決を課題とする構築主義的な科学技術を吉田は「新科学論」から形成された「21世紀の科学」・設計科学と考えたのである。
プログラム科学(論)の目的
プログラム科学の理論は科学哲学的に存在する。しかし、その目的である世界を変革する知として問題解決の学としてプログラム科学は未だ成立していない。また、成立する見通しもない。何故なら、生物から社会までの秩序原理は一つのプログラムで表現されているのではなく、それぞれの現象を構築している具体的な要素によって表現されているからである。生物的秩序原理、生態的秩序原理、動物行動学的秩序原理、社会的秩序原理、経済的秩序原理、文化的秩序原理、人間行動学的秩序原理、等々。その多様な秩序原理を一つの秩序原理(統一プログラム)として語ることはできない。その意味で吉田のプログラム科学は哲学的にしか成立し得ないのである。
では、何故、プログラム科学が問題となるのだろうか。そこには、人類が今まで経験したことのない21世紀社会の姿がある。つまり、豊かな生活を求めて作り上げてきた人工物環境が、前の世紀から次第に巨大化し、遂には、人間はその人工物環境に疎外されるようになってしまった。具体的には、環境問題や原発事故などが挙げられるだろう。
つまり、科学技術文明社会では、人間環境の中に占める人工物の割合が大きくなる。それらの人工物環境は社会のイデオロギーを再生産し続ける。環境となった科学技術文明の観念構造は人間の精神構造を形成する基盤となる。社会文化観念形態の物象化された世界に社会的存在である人間は支配され続けることになる。
それらの人工物の世界(生態・社会・文化・生活環境)を人間の作り出した科学、技術、政治イデオロギー、法律や社会制度のプログラムとして理解することで、それらの環境に絶対的に支配されている人間が、そのプログラムの改善、新設や破棄を通じて、主体的に変革できる可能性を理解するのである。
つまり、人間社会環境を人工物システムとして理解し、それらのシステムを構築している要素(資源・情報要素)とその要素間の関係(プログラム)を解明し、そのプログラムの作動を理解し、そしてそのプログラムの変換に必要な理論や技術を開発する。それらは具体的には人間社会学の理論を土台とする政策学となる。
従って、実践的知識の寄せ集め、プラグマティズム的方法として伝統的科学論から軽視されがちな問題解決学に対して、その科学性の根拠を説明することがプログラム科学の目的であると言える。言い換えると、現実の世界では、問題解決に必要な知識を必要に応じて、色々な分野の科学や技術学から取り寄せ、そしてその取り寄せた実践的な知(道具)を一つの問題解決学として提起している。
プラグマティズム的な手段を用いる問題解決学は、学問研究の世界では、純粋科学研究に比べて科学的と評価されていない。その科学的という評価の基準を、論理的整合性、認識構築中心主義から、評価構築や指令構築を積極的に科学の目的として取り入れるために、生物人間社会学の対象をプログラムから構築されている世界と解釈したのである。取り分け、人間社会学の研究対象を人工物システムと理解し、そのシステムを構築しているプログラムの解明を目的とすると自覚的な科学研究の課題を一般化することで、諸領域に分断化された知を一つの領域(人工物システム)に集めることが可能となるのである。
吉田の展開したプログラム科学の目的は、領域分断化されている人間社会の認識構築を、「豊かな人間的生活をしたい」という生活主体の要求(指令構築)にそって、評価構築を行い、必要な認識構築を拾い出し、不足している認識構築を探求調査し、それを再度評価構築し直し、指令構築を満たす科学、つまり問題解決学を形成するためのものである。
プログラム科学(論)の課題
しかし、プログラム科学は完成していない。吉田民人という天才が、我々にその可能性を語ったに過ぎない。科学哲学として吉田はプログラム科学を提起した。しかし、その問題提起には、問題解決学としてのプログラム科学の形成を目指すことが示唆されている。
つまり、科学哲学としてのプログラム科学論が正しいと評価した段階で、我々は、この吉田の提起した「問題解決学(政策学)としてのプログラム科学」の形成に向かわなければならない立場に立たされているのである。
プログラム科学は成立しえないのでなく、いまだ成立していないのである。その成立のための研究が我々に残されている。現実的な問題解決に耐えられる理論と技術を前提にしながら、この新しい科学理論の形成に向かう必要がある。
参考文献と資料
廣松渉 『世界の共同主観的存在構造』岩波書店 廣松渉著作集1巻 1996.6
吉田民人「生活空間の構造一機能分析-人間的生の行動学的理論-」pp136-196、作田啓一編 現代社会学講座Ⅴ『人間形成の社会学』1964年、有斐閣
吉田民人「社会システム論における情報-資源処理パラダイムの構想」『現代社会学』01-1、pp7-27、1973年
吉田民人「近代科学のパラダイム・シフト-進化史的<情報>概念の構築と<プログラム科学>の提唱」学術研究総合調査報告書、1996年、pp253-282
吉田民人「21世紀科学のパラダイム・シフト : 情報諸科学とプログラム科学, そして社会情報学 」『社会・経済システム』(15),1996年10月19日、 pp13-19
吉田民人「大文字の第2次科学革命-<物質エネルギ-と法則>から<情報とプログラム>へ-」『学術の動向』(日本学術会議広報誌)1998年11月
吉田民人「特集 俯瞰型研究プロジェクト(2000年10月号)を受けて--俯瞰型研究の対象と方法:「大文字の第二次科学革命」の立場から」『学術の動向』2000年11月 pp36-45、
吉田民人「新科学論と存在論的構築主義:<秩序原理の進化>と<生物的・人間的存在の内部モデル>」『社会学評論』219号 2000年12月 pp260-280
「吉田民人論文・著書リスト」
三石博行ホームページ「研究哲学 プログラム科学論」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_01_03.html
政治社会学会(ASPOS)第3回総会及び研究大会
大会テーマ「文理融合と人文・社会科学の再生(3)」
大会日程 2012年11月23日(金)~25日(日)
会場 国際基督教大学 東ヶ崎潔記念ダイアログハウス国際会議室(2階)
政治社会学会(ASPOS)ホームページ
http://aspos.web.fc2.com/
総会及び研究会プログラム
総会及び研究会 発表要旨集
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哲学に於いて生活とはそのすべての思索の根拠である。言い換えると哲学は、生きる行為、生活の場が前提になって成立する一つの思惟の形態であり、哲学は生きるための方法であり、道具であり、戦略であり、理念であると言える。また、哲学の入り口は生活点検作業である。何故なら、日常生活では無神経さや自己欺瞞は自然発生的に生まれるため、日常性と呼ばれる思惟の惰性形態に対して、反省と呼ばれる遡行作業を哲学は提供する。方法的懐疑や現象学的還元も、日常性へ埋没した惰性的自我を点検する方法である。生活の場から哲学を考え、哲学から生活の改善を求める運動を、ここでは生活運動と思想運動の相互関係と呼ぶ。そして、他者と共感しない哲学は意味を持たない。そこで、私の哲学を点検するためにこのブログを書くことにした。 2011年1月5日 三石博行 (MITSUISHI Hiroyuki)
2012年11月22日木曜日
脱原発、地方分権と東アジア平和外交を選挙の争点としよう
国民的政策提案運動の形成(1)
三石博行
緑の党の選挙協力に関する協定案
「緑の党」および「緑の党と連携するみどり関西ネットワーク」の友人たちが、今、脱原発を訴える政党や議員に対して選挙協力のための「協定案」を作ろうとしている。結成したばかりの緑の党は今回の選挙で「第三極」と呼ばれる勢力には成長していない。しかし、脱原発を国民的政治イベントである選挙で訴えなければならない。
そこで全国組織である緑の党では、脱原発を掲げた政党、例えば共産党や社民党、緑の風、生活が第一等々と、政策協定を結ぶことを前提に選挙支援を行うことが話し合われている。この動きは「政策を無視して大同団結」を訴えている「日本維新の会」とまったく逆の政治行動である。
「緑の党」および「緑の党と連携するみどり関西ネットワーク」では最重要政策として脱原発と自然再生可能エネルギー政策を挙げた。つまり、脱原発を掲げた政党や立候補者に対して、緑の党の最重要政策・「いのちと子どもの未来を奪う原発は今すぐゼロへ向かう政策を実施すること-フクシマの悲劇を繰り返さず! 自然エネルギーへシフトする」に賛同する場合にのみ、選挙協力をする。
また、個別政策として、消費増税廃止、TPP交渉に不参加と非暴力・平和>憲法9条の堅持の三つの政策同意が得られる条件が、緑の党が他の政党や議員と選挙協力の協定を結ぶ副次条件となっている。
市民運動の中から、社会を変えるためには多くの限界にぶつかる。そのため、市民運動は政治運動と関係を持つことになる。市民運動は生活に根ざした運度であり、草の根の民主主義を求める活動である。そのため社会土着型の運動スタイルを取る。その意味で市民運動はある地域に限定され、その地域独特の運動スタイルを持つことになる。
福島原発事故は日本と世界を震撼させる大惨事であった。そのため、原発批判の運動は全国規模で起こり、各地の脱原発を訴える市民運動がその地域性を越えて全国的なネットワークを作った。市民運動のネットワーク化は社会や国家を変革する運動となり、脱原発市民運動が政治的な力を必要とした。こうした状況の中で「緑の党」は形成された。
しかし、生まれたばかりの緑の党が、衆議院選挙を迎えている。各地域の緑の党の組織では、立候補者を立てて、選挙戦に挑む力量はない。だからと言って、選挙に取り組まない訳にはいかない。何故なら、選挙は国民的な政治イベントである。選挙で「脱原発」を国民に訴える機会がある。そのため、緑の党では、脱原発と再生可能エネルギー社会という選挙スローガンを緑の党の最重要政策と位置づけ、それに賛同する政党や立候補者と選挙協力に関する協定を結ぼうとしているのである。
政党選挙公約不信から選挙公約確認へ
民主党政権は国民に選挙公約が意味を持たないことを教えた。つまり、これから国民は政党の選挙公約を信じることはできない。このことは、議会制民主主義の存立条件を危うくしているのであるが、だからと言って、今、議会制民主主義を否定することも、また直接民主主義制度を性急に要求することも、現実的には不可能である。今、置かれている現実から考えると、選挙という手段、それは間接民主主義社会で位置づけられている弱い国民の政治的権利ではあるが、この手段を最大限に活用しながら、日本の社会を変革する以外に道は残されていないのである。
また、国民が政党に政治改革を求める限り、この国の政治は変革しないことも、次第に明らかになっている。21世紀社会の日本を作るために、まず、私たち国民が、政治改革の主体であることを理解しなければならない。その政治改革を行う力を持つ国民が、その代表者として議会で仕事をする国民の代理人(議員)になってこそ、行政改革は可能になるのである。国を変えるために、私たちが、まず変わらなければならない。そして、私たちに与えられている唯一の政治的意見の表現手段である選挙に前向きに取り組むべきだと思う。
前向きに取り組まなかった今までの私たちの姿勢、つまり選挙に行かないこと、誰を選んでも同じだとあきらめること、それを変えなければならない。選挙によって選ばれた議員たちが国の法律を決める役割を担っている、これが現実の私たちの民主主義社会のルールである。そのルールに則り、まず、選挙に対する積極的な私たちの意見や活動を行う必要がある。
提案1、脱原発と再生可能エネルギー社会構築
まず、今回の選挙では、殆どの国民は政党が示す莫大な項目の選挙公約に対して見向きもしないだろう。そこで、政党の様々な選挙公約の羅列を無視し、この国の今後10年間の政治的課題で最も重要だと思われる項目を取り上げなければならない。
その一つが、エネルギー政策と脱原発である。この課題で、これまで政府が推進してきた原子力エネルギーを維持しようとしている政党とそうでない政党を峻別しなければならない。つまり、脱原発の政策を明示しているかどうか。これが政治公約の確認となる。もし、明示していないなら、脱原発を約束していないと理解すべきである。それらの政党に投票することは、福島原発事故を再び繰り返す社会に戻ることを意味する。
脱原発を進めるために、これまでの化石燃料に依存する政策を出す政党は、地球温暖化や日本のエネルギー自給率の向上に関する政策を持っていないと理解すべきである。エネルギーと食料の自給率を同時に上げるための政策を持たなければならないだろう。
例えば、国土の7割を占める森林を活用した木材の自給率の向上とバイオマスや自然災害防止、農産物食料や資源生産、観光開発、つまり新しい雇用創出がひとつの政策として展開できる。それ以外に、わが国は豊富な温泉地帯、豊かな海洋エネルギーや太陽熱や太陽光エネルギーがある。これらの自然エネルギー活用を総合的な視点で理解し、政策化する政党でなければならない。
提案2、地方分権化と選挙制度改革
現在の日本は人口の10分の1が東京都に住み、半分近くが政令指定都市と言われる大都市に集中している。その反面、地方の人口は年々減り、過疎化が急速に進んでいる。地方はますます経済的に疲弊している。この現状を何とかしなければならないだろう。そのためには、地方分権化を進めることである。その方法に関しては色々と具体的な意見の違いがあるが、しかし、少なくとも地方分権化の一歩として、道州制の導入が取り上げられる。
地方分権化社会の成立によって、大きな変化が生まれる。例えば、国会の役割が変る。衆議院の役割と参議院の役割が変化する。少なくとも参議院に関しては地方分権化された州を構成する自治体の首長が参議院議員を兼任できるようにすれば、議員定数を削減しながら、地方分権政府と中央政府の政策上の交流が可能になる。中央政府の役人は地方政府の首長の意見を聞く義務が生じるし、中央政府の内閣と地方政府の共同の政策が検討されることになる。
提案3、東北・東南アジア諸国との平和的共存関係の強化と北太平洋の安全と平和を形成する日米関係のあり方を検討する
今回、中国の海洋資源確保をめぐる政治的意図を消し去ることはできないにしても、石原前東京都知事の挑発的な行為(尖閣諸島を東京都が購入する)とそれに対する野田民主党政権の尖閣諸島をあの時期に国有化するという誤った外交によって日中関係は悪化した。その経済的打撃は、大きい。そして、今後も、さらに経済的に負の要因が展開することが予測される。
今、世界は大きく変化しようとしている。その代表例がEUである。欧州連合の成立は、20世紀の二つの世界戦争の激戦地ヨーロッパの国々や人々の念願であった。EUの形成によって地域国際的な平和的共存が可能になった。現在、その平和的共存のための政治経済制度の課題をめぐり、EUはさらに実験を進めようとしている。
このEUを代表する国際地域的な平和的共存関係の形成は、同じ形式ではないにしろ、今、東南アジアでも起ころうとしている。例えば、ASEANは、東南アジア経済共同体の形成に向けて動き出している。単に、経済的関係だけでなく、教育や技術開発も相互の資源を活用しながら発展させようとしている。文化的に共通する他民族国家が国際地域的な連合を形成し国家という枠に限定されている生態文化、社会産業資源を共有しながら、国際地域的な経済文化共同体を構築しようとしている。この国際地域連携が21世紀社会で起ころうとしているグローバリゼーションの流れであるといえる。
その意味で、日本の国際政治政策は前世紀、東西冷戦時代の古い考え方を踏襲しているといえる。今大切なことは、北太平洋地域の諸国の平和的関係の形成と経済的関係の強化であり、取り分け、アジア諸国との日本の平和的共存関係の形成である。これが、今後の日本の繁栄を導くのである。
そのためには、これまでのように、日米関係のみを重視する外交路線を変更し、日韓関係や東アジア諸国との関係は当然だが、日中関係をはじめ、日露関係の改善を行う必要がある。そして、インドをはじめ、中東諸国や豪州との外交関係を強化し、アジア外交をさらに盛り上げる必要がある。日本独自のアジア外交を前提として、日米関係の新しいあり方を提起すべきである。
アメリカは、これから中国やロシアを仮想敵国にしながらアジア外交を続けることは不可能である。寧ろ、中国やロシアとの友好な関係を構築し、北太平洋の安全を維持すべきである。そのためには、日本のアジア外交力が大きく貢献することは言うまでもないだろう。国際平和共存を憲法の基本としたわが国のこれまでの国際政治の実績を活かし、さらに積極的にアジア・北太平洋地帯の平和的共存のための外交を展開するべきではないだろうか。
参考資料
1、ブログ文書集「国民運動としての政治改革」目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_20.html
2、「緑」の京都・準備会
http://greens-kyoto.jimdo.com/
3、脱原発選挙
http://miraisenkyo.wordpress.com/
脱原発議員総覧
August 23, 2012 • by kaerunja
http://miraisenkyo.wordpress.com/2012/08/23/%E8%AA%B0%E3%81%AB%E6%8A%95%E7%A5%A8%E3%81%99%E3%82%8B%EF%BC%9F/
環境エネルギー政策研究所(ISEP:Institute for Sustainable Energy Policies)
「国会エネルギー調査会」設置に向けた 「国会エネルギー調査会準備会」(第14回)の開催について
http://www.isep.or.jp/news/3595/
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三石博行
緑の党の選挙協力に関する協定案
「緑の党」および「緑の党と連携するみどり関西ネットワーク」の友人たちが、今、脱原発を訴える政党や議員に対して選挙協力のための「協定案」を作ろうとしている。結成したばかりの緑の党は今回の選挙で「第三極」と呼ばれる勢力には成長していない。しかし、脱原発を国民的政治イベントである選挙で訴えなければならない。
そこで全国組織である緑の党では、脱原発を掲げた政党、例えば共産党や社民党、緑の風、生活が第一等々と、政策協定を結ぶことを前提に選挙支援を行うことが話し合われている。この動きは「政策を無視して大同団結」を訴えている「日本維新の会」とまったく逆の政治行動である。
「緑の党」および「緑の党と連携するみどり関西ネットワーク」では最重要政策として脱原発と自然再生可能エネルギー政策を挙げた。つまり、脱原発を掲げた政党や立候補者に対して、緑の党の最重要政策・「いのちと子どもの未来を奪う原発は今すぐゼロへ向かう政策を実施すること-フクシマの悲劇を繰り返さず! 自然エネルギーへシフトする」に賛同する場合にのみ、選挙協力をする。
また、個別政策として、消費増税廃止、TPP交渉に不参加と非暴力・平和>憲法9条の堅持の三つの政策同意が得られる条件が、緑の党が他の政党や議員と選挙協力の協定を結ぶ副次条件となっている。
市民運動の中から、社会を変えるためには多くの限界にぶつかる。そのため、市民運動は政治運動と関係を持つことになる。市民運動は生活に根ざした運度であり、草の根の民主主義を求める活動である。そのため社会土着型の運動スタイルを取る。その意味で市民運動はある地域に限定され、その地域独特の運動スタイルを持つことになる。
福島原発事故は日本と世界を震撼させる大惨事であった。そのため、原発批判の運動は全国規模で起こり、各地の脱原発を訴える市民運動がその地域性を越えて全国的なネットワークを作った。市民運動のネットワーク化は社会や国家を変革する運動となり、脱原発市民運動が政治的な力を必要とした。こうした状況の中で「緑の党」は形成された。
しかし、生まれたばかりの緑の党が、衆議院選挙を迎えている。各地域の緑の党の組織では、立候補者を立てて、選挙戦に挑む力量はない。だからと言って、選挙に取り組まない訳にはいかない。何故なら、選挙は国民的な政治イベントである。選挙で「脱原発」を国民に訴える機会がある。そのため、緑の党では、脱原発と再生可能エネルギー社会という選挙スローガンを緑の党の最重要政策と位置づけ、それに賛同する政党や立候補者と選挙協力に関する協定を結ぼうとしているのである。
政党選挙公約不信から選挙公約確認へ
民主党政権は国民に選挙公約が意味を持たないことを教えた。つまり、これから国民は政党の選挙公約を信じることはできない。このことは、議会制民主主義の存立条件を危うくしているのであるが、だからと言って、今、議会制民主主義を否定することも、また直接民主主義制度を性急に要求することも、現実的には不可能である。今、置かれている現実から考えると、選挙という手段、それは間接民主主義社会で位置づけられている弱い国民の政治的権利ではあるが、この手段を最大限に活用しながら、日本の社会を変革する以外に道は残されていないのである。
また、国民が政党に政治改革を求める限り、この国の政治は変革しないことも、次第に明らかになっている。21世紀社会の日本を作るために、まず、私たち国民が、政治改革の主体であることを理解しなければならない。その政治改革を行う力を持つ国民が、その代表者として議会で仕事をする国民の代理人(議員)になってこそ、行政改革は可能になるのである。国を変えるために、私たちが、まず変わらなければならない。そして、私たちに与えられている唯一の政治的意見の表現手段である選挙に前向きに取り組むべきだと思う。
前向きに取り組まなかった今までの私たちの姿勢、つまり選挙に行かないこと、誰を選んでも同じだとあきらめること、それを変えなければならない。選挙によって選ばれた議員たちが国の法律を決める役割を担っている、これが現実の私たちの民主主義社会のルールである。そのルールに則り、まず、選挙に対する積極的な私たちの意見や活動を行う必要がある。
提案1、脱原発と再生可能エネルギー社会構築
まず、今回の選挙では、殆どの国民は政党が示す莫大な項目の選挙公約に対して見向きもしないだろう。そこで、政党の様々な選挙公約の羅列を無視し、この国の今後10年間の政治的課題で最も重要だと思われる項目を取り上げなければならない。
その一つが、エネルギー政策と脱原発である。この課題で、これまで政府が推進してきた原子力エネルギーを維持しようとしている政党とそうでない政党を峻別しなければならない。つまり、脱原発の政策を明示しているかどうか。これが政治公約の確認となる。もし、明示していないなら、脱原発を約束していないと理解すべきである。それらの政党に投票することは、福島原発事故を再び繰り返す社会に戻ることを意味する。
脱原発を進めるために、これまでの化石燃料に依存する政策を出す政党は、地球温暖化や日本のエネルギー自給率の向上に関する政策を持っていないと理解すべきである。エネルギーと食料の自給率を同時に上げるための政策を持たなければならないだろう。
例えば、国土の7割を占める森林を活用した木材の自給率の向上とバイオマスや自然災害防止、農産物食料や資源生産、観光開発、つまり新しい雇用創出がひとつの政策として展開できる。それ以外に、わが国は豊富な温泉地帯、豊かな海洋エネルギーや太陽熱や太陽光エネルギーがある。これらの自然エネルギー活用を総合的な視点で理解し、政策化する政党でなければならない。
提案2、地方分権化と選挙制度改革
現在の日本は人口の10分の1が東京都に住み、半分近くが政令指定都市と言われる大都市に集中している。その反面、地方の人口は年々減り、過疎化が急速に進んでいる。地方はますます経済的に疲弊している。この現状を何とかしなければならないだろう。そのためには、地方分権化を進めることである。その方法に関しては色々と具体的な意見の違いがあるが、しかし、少なくとも地方分権化の一歩として、道州制の導入が取り上げられる。
地方分権化社会の成立によって、大きな変化が生まれる。例えば、国会の役割が変る。衆議院の役割と参議院の役割が変化する。少なくとも参議院に関しては地方分権化された州を構成する自治体の首長が参議院議員を兼任できるようにすれば、議員定数を削減しながら、地方分権政府と中央政府の政策上の交流が可能になる。中央政府の役人は地方政府の首長の意見を聞く義務が生じるし、中央政府の内閣と地方政府の共同の政策が検討されることになる。
提案3、東北・東南アジア諸国との平和的共存関係の強化と北太平洋の安全と平和を形成する日米関係のあり方を検討する
今回、中国の海洋資源確保をめぐる政治的意図を消し去ることはできないにしても、石原前東京都知事の挑発的な行為(尖閣諸島を東京都が購入する)とそれに対する野田民主党政権の尖閣諸島をあの時期に国有化するという誤った外交によって日中関係は悪化した。その経済的打撃は、大きい。そして、今後も、さらに経済的に負の要因が展開することが予測される。
今、世界は大きく変化しようとしている。その代表例がEUである。欧州連合の成立は、20世紀の二つの世界戦争の激戦地ヨーロッパの国々や人々の念願であった。EUの形成によって地域国際的な平和的共存が可能になった。現在、その平和的共存のための政治経済制度の課題をめぐり、EUはさらに実験を進めようとしている。
このEUを代表する国際地域的な平和的共存関係の形成は、同じ形式ではないにしろ、今、東南アジアでも起ころうとしている。例えば、ASEANは、東南アジア経済共同体の形成に向けて動き出している。単に、経済的関係だけでなく、教育や技術開発も相互の資源を活用しながら発展させようとしている。文化的に共通する他民族国家が国際地域的な連合を形成し国家という枠に限定されている生態文化、社会産業資源を共有しながら、国際地域的な経済文化共同体を構築しようとしている。この国際地域連携が21世紀社会で起ころうとしているグローバリゼーションの流れであるといえる。
その意味で、日本の国際政治政策は前世紀、東西冷戦時代の古い考え方を踏襲しているといえる。今大切なことは、北太平洋地域の諸国の平和的関係の形成と経済的関係の強化であり、取り分け、アジア諸国との日本の平和的共存関係の形成である。これが、今後の日本の繁栄を導くのである。
そのためには、これまでのように、日米関係のみを重視する外交路線を変更し、日韓関係や東アジア諸国との関係は当然だが、日中関係をはじめ、日露関係の改善を行う必要がある。そして、インドをはじめ、中東諸国や豪州との外交関係を強化し、アジア外交をさらに盛り上げる必要がある。日本独自のアジア外交を前提として、日米関係の新しいあり方を提起すべきである。
アメリカは、これから中国やロシアを仮想敵国にしながらアジア外交を続けることは不可能である。寧ろ、中国やロシアとの友好な関係を構築し、北太平洋の安全を維持すべきである。そのためには、日本のアジア外交力が大きく貢献することは言うまでもないだろう。国際平和共存を憲法の基本としたわが国のこれまでの国際政治の実績を活かし、さらに積極的にアジア・北太平洋地帯の平和的共存のための外交を展開するべきではないだろうか。
参考資料
1、ブログ文書集「国民運動としての政治改革」目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_20.html
2、「緑」の京都・準備会
http://greens-kyoto.jimdo.com/
3、脱原発選挙
http://miraisenkyo.wordpress.com/
脱原発議員総覧
August 23, 2012 • by kaerunja
http://miraisenkyo.wordpress.com/2012/08/23/%E8%AA%B0%E3%81%AB%E6%8A%95%E7%A5%A8%E3%81%99%E3%82%8B%EF%BC%9F/
環境エネルギー政策研究所(ISEP:Institute for Sustainable Energy Policies)
「国会エネルギー調査会」設置に向けた 「国会エネルギー調査会準備会」(第14回)の開催について
http://www.isep.or.jp/news/3595/
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2012年11月20日火曜日
ブログ文書集「国民運動としての政治改革」目次
三石博行
1. 政治は何のために
1-1、21世紀の課題、生活大国日本に向かって何をなすべきか
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/12/21.html
1-2、罹災者救済、国民と国家の将来のために働くことのみが政治家の課題である
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_07.html
1-3、原発問題は今後、我が国の政治の中心課題となるだろう
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_12.html
2. 国民運動としての政治改革
2-1、政局論争から政策論争へ、今日本が必要としている議会の課題
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/03/blog-post_07.html
2-2、国民による議会・立法機関の検証作業は可能か
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_14.html
2-3、国民による議員の選挙公約に関する検証機能の提案
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_3645.html
2-4、東日本大震災と福島第一原発事故を契機に起こる政治改革の課題
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_30.html
3. 官僚・行政機能と政治機能
3-1、明治以来の「官僚制度による国家安全神話」の崩壊
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/08/blog-post_29.html
3-2、専門的知識と俯瞰的視点をもつ政治家の必要性
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/08/1.html
3-3、国民を思うこころを持つ官僚育成が必要
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/08/2.html
3-4、政策政党の形成と市民民主主義の発展
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/08/blog-post_719.html
4、民主主義社会における政策決定、維持、変更過程と政党の役割
4-1、体制の保守、改革と破棄と呼ばれる政策の三つの形態 /strong>
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_7.html
4-2、社会変革のプログラムか政治集団の自己保存のプログラムか
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_16.html
4-3、行政改革を可能にする政治指導の在り方
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_15.html
4-4、立法機能を担う議員活動を支える制度の提案
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_752.html
4-5、選挙公約法、選挙公約点検サイトと公約実現実績情報公開制度の必要性
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/10/blog-post_25.html
4-6、政策作成過程の民営化と大衆化
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_6608.html
5、政策学を構成する理論
5-1、政治哲学から展開される政策学基礎論
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/01/blog-post_06.html
5-2、自己組織性の設計科学(プログラム科学)としての政策学
未完成
5-3、生態・社会資源の限界と国家の形態
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_5.html
5-4、社会資源史観からみる政治社会形態
未完成
5-5.近代化過程を決定する社会経済文化要因
未完成
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1. 政治は何のために
1-1、21世紀の課題、生活大国日本に向かって何をなすべきか
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/12/21.html
1-2、罹災者救済、国民と国家の将来のために働くことのみが政治家の課題である
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_07.html
1-3、原発問題は今後、我が国の政治の中心課題となるだろう
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_12.html
2. 国民運動としての政治改革
2-1、政局論争から政策論争へ、今日本が必要としている議会の課題
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/03/blog-post_07.html
2-2、国民による議会・立法機関の検証作業は可能か
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_14.html
2-3、国民による議員の選挙公約に関する検証機能の提案
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_3645.html
2-4、東日本大震災と福島第一原発事故を契機に起こる政治改革の課題
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_30.html
3. 官僚・行政機能と政治機能
3-1、明治以来の「官僚制度による国家安全神話」の崩壊
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/08/blog-post_29.html
3-2、専門的知識と俯瞰的視点をもつ政治家の必要性
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/08/1.html
3-3、国民を思うこころを持つ官僚育成が必要
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/08/2.html
3-4、政策政党の形成と市民民主主義の発展
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/08/blog-post_719.html
4、民主主義社会における政策決定、維持、変更過程と政党の役割
4-1、体制の保守、改革と破棄と呼ばれる政策の三つの形態 /strong>
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_7.html
4-2、社会変革のプログラムか政治集団の自己保存のプログラムか
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_16.html
4-3、行政改革を可能にする政治指導の在り方
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_15.html
4-4、立法機能を担う議員活動を支える制度の提案
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_752.html
4-5、選挙公約法、選挙公約点検サイトと公約実現実績情報公開制度の必要性
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/10/blog-post_25.html
4-6、政策作成過程の民営化と大衆化
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_6608.html
5、政策学を構成する理論
5-1、政治哲学から展開される政策学基礎論
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/01/blog-post_06.html
5-2、自己組織性の設計科学(プログラム科学)としての政策学
未完成
5-3、生態・社会資源の限界と国家の形態
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_5.html
5-4、社会資源史観からみる政治社会形態
未完成
5-5.近代化過程を決定する社会経済文化要因
未完成
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2012年11月16日金曜日
政策作成過程の民営化と大衆化
政治改革の課題(7)
三石博行
行政改革は政治家の仕事
本来、政策とは国家の機能を維持するために日常的に運営されているものである。すべての政策は法律的かつ制度的な前提条件をもって成立している。国家機能を維持するために、政府機関や官僚体制の持続的運営を支えるために政策は継続し維持される。これを政策の惰性態あるいは保守性と呼んだ。(1)
社会システムが恒常的に機能するためには、この政策の惰性態によって制度運営が堅持されていなければならない。この惰性態を破壊することによって、社会システムの基本機能が失われる。そのため、この社会システムの惰性態の保持に多く社会機能が用意されている。
日常の行政機能を無視することで、行政機能は混乱する。例えば、今回、文部科学大臣の田中真紀子氏が「大学設定審議会の制度的機能・大学や学部学科設置の認可機能」が果す通常業務に口を出したことがこの例に入る。(2)
しかし、行政システムの惰性態の上に成り立つ官僚制度は、そのシステムの自己保存を行なうために、行政機能の効率が落ちてもそれを自ら改善回復することは出来ない。行政機能の改善、つまり行政改革を行なうのは政治家である。(2)
自民党は有能な官僚出身の政治集団であった
政府機能は官僚と呼ばれる高度な専門家集団によって日常的に運営されている。優秀な官僚とは国家の優秀な資源である。その資源を国民のために有効に活用することが政治の課題の一つであり、その指導力が政治指導の意味の一部をなす。自民党とは有能な官僚出身者によって形成された党であり、官僚の力を政治に反映してきた党であるとも言える。
しかし、自民党議員の大衆化によって、議員達は有能な官僚にすべての政策立案を任せてきた。官僚制度は政策の惰性態を担う社会機能である以上、官僚が提案する政策案はすべて官僚体制の保存を前提にしている。つまり、官僚にとって都合の良い法律が次々に成立する。そのため行政機能が次第に国民の利益から離反し始める。これが、長年の自民党政権で慣習化されてきた。その結果、官僚と政治の癒着による税金の無駄遣いが行なわれた。
有能な官僚出身議員によって指導形成されてきた自民党にとって官僚指導型の国家運営を変革することは困難であった。その官僚主導型を変革するために、荒ぶる政治家として小泉純一郎氏は、「自民党をぶっ潰す」という政治スローガンを掲げて自民党総裁選に立候補した。自民党をぶっ潰すために総裁選に出て、自民党の人気を勝ち取ったのが小泉純一郎元総理大臣であった。考えてみればおかしな話である。
何故なら、行政の機能効率の低下によって日本経済や社会の活性化が低下していることを国民は理解していたが、同時に自民党のように安定した政党が国民には必要であった。そのため、自民党内から自民党の伝統的体質である官僚癒着型政治を変えてくれる政治家が欲しかったのである。
国民は、日本の社会を根本から変革すること、これまで有能に機能していた官僚制度を解体すること、革命を起こすことなど、まったく望んでいなかった。そこで、自民党内からの自民党の自己否定を叫んだ小泉純一郎氏への共感となった。自民党をぶっ潰すという政治スローガンを掲げた自民党総裁の率いる自民党を支持したのである。
政治指導を目指した民主党の挫折から学ぶことが民主主義社会の発展の糧となる
しかし、行政改革を徹底して行ないたかった当時の自民党議員は、それが不可能に近い作業であることを知った。そして、渡辺喜美氏らは、自民党を脱党して、行政改革を中心の政策課題に取り上げた政党「みんなの党」を結成した。
また、民主党は官僚指導型国家運営からの脱却、行政改革は自民党では出来ないと公言し続けていた。小泉政権で十分に達成できなかった行政改革への国民の不満と徹底した行政改革を訴えた民主党が2009年9月の衆議院選挙で、国民の支持を得て政権与党となった。
しかし、民主党が掲げた政治指導では、有能な官僚を排除して知識の乏しい政治家だけで、政策決定を行なうように理解されたと思う。民主党の政治指導は、そう単純なものでもなく、また簡単に官僚を排除したものでもなかったが、現実に、官僚からの反発やボイコットを受けた。
つまり、民主党は、政権に就いたとき、政治指導を政治家中心の政策決定方法と位置付けた。官庁の意思決定機能に大臣、副大臣と政務次官を置いて、政治家が中心にした政策決定過程を構築しようとした。事実上、これまで政策過程を担当してきた官僚の排除となった。そして、この民主党のやり方に、官庁は、無言の作業ボイコットを行なった。この激しい抵抗にあった民主党政権は、行政機能不全に陥った。そして、政権運営の基盤から機能麻痺を起こしてしまった。
民主党の政治指導型の行政運営や政策作成作業は見事に失敗した。鳩山政権が短命で終わり、菅政権が発足し、この政治指導型を修正しなければならなかった。今まで通りに官僚に政策決定権を任せた。その修正は野田政権でも更に進み、殆ど、自民党時代と変わらない政権政党と官僚の関係が復活した。
明治維新以来、日本を近代国家に導き、また戦後敗戦の焼け野原から経済大国に成長させた日本の優秀な官僚体制をそう簡単に変えることは出来ないだろう。その変革は、日本の国のあり方の根本に触れる。有能な官僚を排除して官僚主導型から政治主導型の国家運営を目指すという未熟な政策を民主党が取ったわけではないが、そう思われた民主党政権下での政治指導の試みと、その失敗の分析なくして、今後の日本の民主主義は発展形成することは出来ないだろう。その意味で、民主党政権は多くの政治課題を提供しているといえる。
政策作成過程の民営化と大衆化
民間専門家を入れた政策検討作業
その失敗の一つとして挙げられるのは、政策決定段階で専門家である官僚を排除してはいけないことと、同時に、民間の専門家を入れて官僚指導型から脱却する政策決定過程を構築する必要がある。
官僚にお任せにした政策検討作業では、官僚組織の自己保存プログラムが働くため、その作業目的であった行政改革の課題は頓挫する。だからと言って、政策検討作業過程に官僚を入れないことは不可能に近い。問題は官僚組織の自己保存プログラムを抑制させるための機能を政治が事前に準備しておかなければならないということに過ぎない。
つまり、政策作成過程に民間専門家を入れる。つまり、有能な官僚の参加と同時に民間人や大学研究者が参加して、委員会を作る。勿論、これまでも民間人の専門家が委員会に入っていた。しかし、その人選は全て官僚に任されていた。そこで、民間人専門家の人選を政党内にある各政策課題別の政策検討委員会(もしあると仮定して)が行なう。
専門的知識を持つ議員候補者の選択
それらの人選を行なうのが、政務次官や政務次官補佐である。そのためには、政党内での専門的知識をもった政治家が居なければならない。つまり、専門家が政治を行なうことが、この条件となる。
自民党や民主党が結果的に官僚に政策検討作業を任せたのは、専門的知識をもった人材(政治家)によって党が構成されていなかったからである。党は、政策作成・実行集団である以上、政策(政治過程プログラム)を作成し、その機能性を検証し、改良する能力を持つ人材によって運営されなければならない。
しかし、政党は選挙に勝つためにテレビでおなじみのタレントを採用する。タレントを採用する政党は、選挙を国民による政策選択の作業でなく、人気投票と位置付けているからである。専門的知識のない議員が、突然、専門的知識を要求される政策作成作業に参画できる訳がない。そこで彼らは国のシンクタンク(官庁)の専門家(官僚)に政策作成過程を丸投げするのである。これを止めなければならない。
勿論、最近ではマスコミも優秀な専門家をトーク番組に採用している。国民の意識や知識のレベルが上がることによって、マスコミが専門的知識を持つ人々を採用することになる。その結果、橋下徹大阪市長の例を取るまでもなく、専門的知識を持つ人々がタレントになる。それらのタレント専門家が選挙になると、これまでのお茶の間でのトーク実績を活かして当選する時代が到来している。
マスコミやインターネットによって情報が素早くあらゆる人々に拡散する情報化時代では、各政党は、専門的知識を持つタレントを選挙の立候補者としてリクルートすることが重要な課題となっているのである。
政策討論活動を行う政策検討委員会の形成
こうした政党の政策実現への取り組みは、政権政党になってから行なうのでは間に合わない。そこで政党は、野党与党を問わず積極的に政策検討活動を行なう必要がある。つまり、政党は専門知識を持つ人的資源を持つことで、政策政党としての機能を強化することが出来る。そこで党員以外にサポータなど、政党理念に共感する民間専門家(シンクタンク、大学、NPO、企業の専門家)を入れた政策検討会議を組織する必要がある。
また、政党は専門的知識を持つ政党サポータを入れた政策検討会議のみでなく、学会活動を行っている大学研究者や民間専門家が研究活動の成果を取り入れる必要がある。政党サポータでない専門家の意見は政党の政策案に関する政治的立場を越えた多様な視点に立つ評価を行うことが出来る。批判的に政党政策を検討する機能を保障する政策検討機能を持つ必要がある。(3)
政策として問題解決力の検証を無視した行為は、選挙公約に関する責任を持たない政治を続けることになる。その結果、毎回、選挙後に政党は選挙公約を破棄し続ける公約違反が続く。今回も民主党政権が今までの自民党と同じように選挙公約を無視した。この選挙公約破棄の慣例を政治の姿と理解する国民は議会制民主主義への深い失望感を持つことになる。選挙に行っても、政党のマニフェストに基づく立候補者を選んでも、結果的に、それは意味を持たない。国民は深刻な政治不信を持つことになる。その結果が、投票率低下と呼ばれる消極的選挙ボイコットを生み出すことになるのである。
つまり、実現性のない選挙公約を自ら検証する力を政党は開発しなければならない。こうした批判力を日常的に党機能として形成しない限り、現実的な政策を国民に提案し選挙で評価してもらうことも、また責任ある政権与党になって政策を実現することも出来ないのである。(4)
参考資料
1、三石博行 「体制の保守、改革と破棄と呼ばれる政策の三つの形態」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_7.html
2、三石博行 「行政改革を可能にする政治指導の在り方」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_15.html
3、三石博行 「立法機能を担う議員活動を支える制度の提案 」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_752.html
4、三石博行「選挙公約法、選挙公約点検サイトと公約実現実績情報公開制度の必要性」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/10/blog-post_25.html
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三石博行
行政改革は政治家の仕事
本来、政策とは国家の機能を維持するために日常的に運営されているものである。すべての政策は法律的かつ制度的な前提条件をもって成立している。国家機能を維持するために、政府機関や官僚体制の持続的運営を支えるために政策は継続し維持される。これを政策の惰性態あるいは保守性と呼んだ。(1)
社会システムが恒常的に機能するためには、この政策の惰性態によって制度運営が堅持されていなければならない。この惰性態を破壊することによって、社会システムの基本機能が失われる。そのため、この社会システムの惰性態の保持に多く社会機能が用意されている。
日常の行政機能を無視することで、行政機能は混乱する。例えば、今回、文部科学大臣の田中真紀子氏が「大学設定審議会の制度的機能・大学や学部学科設置の認可機能」が果す通常業務に口を出したことがこの例に入る。(2)
しかし、行政システムの惰性態の上に成り立つ官僚制度は、そのシステムの自己保存を行なうために、行政機能の効率が落ちてもそれを自ら改善回復することは出来ない。行政機能の改善、つまり行政改革を行なうのは政治家である。(2)
自民党は有能な官僚出身の政治集団であった
政府機能は官僚と呼ばれる高度な専門家集団によって日常的に運営されている。優秀な官僚とは国家の優秀な資源である。その資源を国民のために有効に活用することが政治の課題の一つであり、その指導力が政治指導の意味の一部をなす。自民党とは有能な官僚出身者によって形成された党であり、官僚の力を政治に反映してきた党であるとも言える。
しかし、自民党議員の大衆化によって、議員達は有能な官僚にすべての政策立案を任せてきた。官僚制度は政策の惰性態を担う社会機能である以上、官僚が提案する政策案はすべて官僚体制の保存を前提にしている。つまり、官僚にとって都合の良い法律が次々に成立する。そのため行政機能が次第に国民の利益から離反し始める。これが、長年の自民党政権で慣習化されてきた。その結果、官僚と政治の癒着による税金の無駄遣いが行なわれた。
有能な官僚出身議員によって指導形成されてきた自民党にとって官僚指導型の国家運営を変革することは困難であった。その官僚主導型を変革するために、荒ぶる政治家として小泉純一郎氏は、「自民党をぶっ潰す」という政治スローガンを掲げて自民党総裁選に立候補した。自民党をぶっ潰すために総裁選に出て、自民党の人気を勝ち取ったのが小泉純一郎元総理大臣であった。考えてみればおかしな話である。
何故なら、行政の機能効率の低下によって日本経済や社会の活性化が低下していることを国民は理解していたが、同時に自民党のように安定した政党が国民には必要であった。そのため、自民党内から自民党の伝統的体質である官僚癒着型政治を変えてくれる政治家が欲しかったのである。
国民は、日本の社会を根本から変革すること、これまで有能に機能していた官僚制度を解体すること、革命を起こすことなど、まったく望んでいなかった。そこで、自民党内からの自民党の自己否定を叫んだ小泉純一郎氏への共感となった。自民党をぶっ潰すという政治スローガンを掲げた自民党総裁の率いる自民党を支持したのである。
政治指導を目指した民主党の挫折から学ぶことが民主主義社会の発展の糧となる
しかし、行政改革を徹底して行ないたかった当時の自民党議員は、それが不可能に近い作業であることを知った。そして、渡辺喜美氏らは、自民党を脱党して、行政改革を中心の政策課題に取り上げた政党「みんなの党」を結成した。
また、民主党は官僚指導型国家運営からの脱却、行政改革は自民党では出来ないと公言し続けていた。小泉政権で十分に達成できなかった行政改革への国民の不満と徹底した行政改革を訴えた民主党が2009年9月の衆議院選挙で、国民の支持を得て政権与党となった。
しかし、民主党が掲げた政治指導では、有能な官僚を排除して知識の乏しい政治家だけで、政策決定を行なうように理解されたと思う。民主党の政治指導は、そう単純なものでもなく、また簡単に官僚を排除したものでもなかったが、現実に、官僚からの反発やボイコットを受けた。
つまり、民主党は、政権に就いたとき、政治指導を政治家中心の政策決定方法と位置付けた。官庁の意思決定機能に大臣、副大臣と政務次官を置いて、政治家が中心にした政策決定過程を構築しようとした。事実上、これまで政策過程を担当してきた官僚の排除となった。そして、この民主党のやり方に、官庁は、無言の作業ボイコットを行なった。この激しい抵抗にあった民主党政権は、行政機能不全に陥った。そして、政権運営の基盤から機能麻痺を起こしてしまった。
民主党の政治指導型の行政運営や政策作成作業は見事に失敗した。鳩山政権が短命で終わり、菅政権が発足し、この政治指導型を修正しなければならなかった。今まで通りに官僚に政策決定権を任せた。その修正は野田政権でも更に進み、殆ど、自民党時代と変わらない政権政党と官僚の関係が復活した。
明治維新以来、日本を近代国家に導き、また戦後敗戦の焼け野原から経済大国に成長させた日本の優秀な官僚体制をそう簡単に変えることは出来ないだろう。その変革は、日本の国のあり方の根本に触れる。有能な官僚を排除して官僚主導型から政治主導型の国家運営を目指すという未熟な政策を民主党が取ったわけではないが、そう思われた民主党政権下での政治指導の試みと、その失敗の分析なくして、今後の日本の民主主義は発展形成することは出来ないだろう。その意味で、民主党政権は多くの政治課題を提供しているといえる。
政策作成過程の民営化と大衆化
民間専門家を入れた政策検討作業
その失敗の一つとして挙げられるのは、政策決定段階で専門家である官僚を排除してはいけないことと、同時に、民間の専門家を入れて官僚指導型から脱却する政策決定過程を構築する必要がある。
官僚にお任せにした政策検討作業では、官僚組織の自己保存プログラムが働くため、その作業目的であった行政改革の課題は頓挫する。だからと言って、政策検討作業過程に官僚を入れないことは不可能に近い。問題は官僚組織の自己保存プログラムを抑制させるための機能を政治が事前に準備しておかなければならないということに過ぎない。
つまり、政策作成過程に民間専門家を入れる。つまり、有能な官僚の参加と同時に民間人や大学研究者が参加して、委員会を作る。勿論、これまでも民間人の専門家が委員会に入っていた。しかし、その人選は全て官僚に任されていた。そこで、民間人専門家の人選を政党内にある各政策課題別の政策検討委員会(もしあると仮定して)が行なう。
専門的知識を持つ議員候補者の選択
それらの人選を行なうのが、政務次官や政務次官補佐である。そのためには、政党内での専門的知識をもった政治家が居なければならない。つまり、専門家が政治を行なうことが、この条件となる。
自民党や民主党が結果的に官僚に政策検討作業を任せたのは、専門的知識をもった人材(政治家)によって党が構成されていなかったからである。党は、政策作成・実行集団である以上、政策(政治過程プログラム)を作成し、その機能性を検証し、改良する能力を持つ人材によって運営されなければならない。
しかし、政党は選挙に勝つためにテレビでおなじみのタレントを採用する。タレントを採用する政党は、選挙を国民による政策選択の作業でなく、人気投票と位置付けているからである。専門的知識のない議員が、突然、専門的知識を要求される政策作成作業に参画できる訳がない。そこで彼らは国のシンクタンク(官庁)の専門家(官僚)に政策作成過程を丸投げするのである。これを止めなければならない。
勿論、最近ではマスコミも優秀な専門家をトーク番組に採用している。国民の意識や知識のレベルが上がることによって、マスコミが専門的知識を持つ人々を採用することになる。その結果、橋下徹大阪市長の例を取るまでもなく、専門的知識を持つ人々がタレントになる。それらのタレント専門家が選挙になると、これまでのお茶の間でのトーク実績を活かして当選する時代が到来している。
マスコミやインターネットによって情報が素早くあらゆる人々に拡散する情報化時代では、各政党は、専門的知識を持つタレントを選挙の立候補者としてリクルートすることが重要な課題となっているのである。
政策討論活動を行う政策検討委員会の形成
こうした政党の政策実現への取り組みは、政権政党になってから行なうのでは間に合わない。そこで政党は、野党与党を問わず積極的に政策検討活動を行なう必要がある。つまり、政党は専門知識を持つ人的資源を持つことで、政策政党としての機能を強化することが出来る。そこで党員以外にサポータなど、政党理念に共感する民間専門家(シンクタンク、大学、NPO、企業の専門家)を入れた政策検討会議を組織する必要がある。
また、政党は専門的知識を持つ政党サポータを入れた政策検討会議のみでなく、学会活動を行っている大学研究者や民間専門家が研究活動の成果を取り入れる必要がある。政党サポータでない専門家の意見は政党の政策案に関する政治的立場を越えた多様な視点に立つ評価を行うことが出来る。批判的に政党政策を検討する機能を保障する政策検討機能を持つ必要がある。(3)
政策として問題解決力の検証を無視した行為は、選挙公約に関する責任を持たない政治を続けることになる。その結果、毎回、選挙後に政党は選挙公約を破棄し続ける公約違反が続く。今回も民主党政権が今までの自民党と同じように選挙公約を無視した。この選挙公約破棄の慣例を政治の姿と理解する国民は議会制民主主義への深い失望感を持つことになる。選挙に行っても、政党のマニフェストに基づく立候補者を選んでも、結果的に、それは意味を持たない。国民は深刻な政治不信を持つことになる。その結果が、投票率低下と呼ばれる消極的選挙ボイコットを生み出すことになるのである。
つまり、実現性のない選挙公約を自ら検証する力を政党は開発しなければならない。こうした批判力を日常的に党機能として形成しない限り、現実的な政策を国民に提案し選挙で評価してもらうことも、また責任ある政権与党になって政策を実現することも出来ないのである。(4)
参考資料
1、三石博行 「体制の保守、改革と破棄と呼ばれる政策の三つの形態」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_7.html
2、三石博行 「行政改革を可能にする政治指導の在り方」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_15.html
3、三石博行 「立法機能を担う議員活動を支える制度の提案 」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_752.html
4、三石博行「選挙公約法、選挙公約点検サイトと公約実現実績情報公開制度の必要性」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/10/blog-post_25.html
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社会変革のプログラムか政治集団の自己保存のプログラムか
政治改革の課題(6)
三石博行
政策とは政治理念を具体化するプログラムである
政策案とは政党の存在理由を具体的に示したものである。政治理念を持たない政党はないし、それを具体的に実現する道筋を示さない政党は信頼されない。つまり、政策を持つとは政党の政治的方針を具体的に示すことであり、その政策が実現可能なものかは、政策の具体性と現実的方法が検討されることになる。政策とは政治理念を実現化するためのプログラムである。
民主主義国家である以上、政策選択における国民主権が政治機能の基本にある。政党は政治理念を国民に示し、その政策を実現する具体的政策案を作成し、それを公開説明し、選挙でその政策案に関する評価を国民から受ける。これが議会制民主主義での政党活動の基本的なスタイルである。政策案(プログラム)を持たない政党は存在しない。政党は政策プログラムを提案し実行する社会機能である。
政策案とは、ある課題の政治的解決を実現可能な手続き(法的、制度的手段で)で説明したものである。政策案を選挙時に公開したものが選挙公約であり、議会制民主主義では選挙公約を表明しなければ、選挙を行なう意味を持たない。何故なら、国民が政党から提示された選挙公約に対して同意するか反対するかを決める行為を選挙と呼ぶからである。選挙とは国民が政党から提示されたプログラムを選択するための社会機能である。
つまり、政策(プログラム)を示さない政党は、国民主権国家の基本的な理念や制度を無視していると言えるだろう。
政党維持のための政治活動、政治集団の自己保存のプログラム
前東京都知事石原慎太郎氏は、自民党でもない民主党でもない第三の政治勢力を結集するために「太陽の党」を結成した。石原氏の判断は、政局的視点から見ると間違いではない。国民の多くは現在の野党自民党にも与党民主党にも程々愛想を尽かしていることは確かである。その意味で、石原氏の政治的な狙いは正しい。
しかし、異なる政策を持つ集団が一つになり、数として力を持てば、政権与党に参画する機会があったとしても、その後に起こる政治的混乱は、今まで、経験し続けてきた。そこで、橋下氏も渡辺氏も政策一致を原則とする政治を主張し続けてきた。その主張が、今、政局課題から、二次的なものと理解されるかどうか、瀬戸際に立たされている。
つまり、二つの異なる政治機能を動かす基本プログラム(政策)を持つ場合、その機能はうまく動かないことは明らかである。すると、これらの異なるプログラムをもつ政治機能は、近々の政策課題として「反自民・公明と反民主勢力としての第三勢力を国民に訴える」ことが選挙活動の主要なテーマとなる。そして、今回の選挙は、国民が真剣に考え続けてきたこれからの日本の問題、「エネルギー政策」「原発問題」「消費税問題」「社会保険問題」「TPP問題」等々は小さな政策課題となり、選挙の争点から除外されることになる。
前節で、政策とは政治理念を具体化するプログラムであると述べた。では、石原氏の政権獲得の政策は、同じように政党の政策であり、その意味で政党理念を具体化するプログラムであると言えるだろう。言い換えると「太陽の党」は政治理念とは「政権を取る」ことである。「第三勢力の大同団結」がその具体的な政策となる。
「太陽の党」は「政権を取る」ことを党の政治理念とし、大同団結がその政策(プログラム)となる。政党も社会組織である以上、その組織の自己保存のプログラムを持つ。「選挙で当選議員を出す」ことがなければ政党としての存在条件が消えることになる。そのため「選挙に勝つ」という党の基本政策(プログラム)が常に作動し、政党を組織として維持している。これは、どの組織にもある「自己保存のためのプログラム」である。
要約すると、石原氏は今回の選挙で存続の危機にある政党集団の「自己保存」のプログラムを集め、一つの「第三勢力」という自己保存のプログラムに仕立て上げたのである。そのプログラムが、そこに集まる政治集団の最大の課題であることは明らかである。
マスコミや評論家達は政策の異なる野合集団に対して、「異なる政策を持った政治集団が一つになって、本当にいいのですか」と疑問を投げかけている。その疑問は、政党が自己保存のためのプログラムを政策の中心に置く事は、選挙を通じて確立される「国民主権」、議会制民主主義の政治のあり方と基本的に相容れないものであると表現しているのである。政治家集団の自己保存のプログラムを全面的に前に出すことによって、選挙は国民の政治参加の唯一の機会から、政治集団の政治家職業の継続や維持のための道具になるのである。このことを国民もそして政党も、もっと明確に自覚すべきではないだろうか。
政党の自己保存プログラムが先行する社会的状況、議会制民主主義の崩壊
しかし、毎日、政局論争とマニフェスト違反を繰り返す政治にうんざりしている国民は、分かりやすい過激な政策、政治の停滞状況を打破するスローガンに関心を引かれる。そこで、政党集団や政治家の「自己保存」のプログラムに即して、国民感情を見事に捉えようとする政治集団や政治家が現れる。
国民は、行動力のある政治家の登場を待っている。その期待に応えた政治家として、東京都知事の石原慎太郎氏、自民党総裁の小泉純一郎氏、長野県知事の田中康夫氏、名古屋市長の河村たかし氏、大阪市長(前大阪府知事)の橋下徹氏、横浜市長の中田宏氏や宮崎県知事の東国原英夫氏 等々が今までに登場した。
それらの政治家は小泉純一郎元総理大臣を除いて、すべて地方自治体の首長として登場した。何故なら、首長は自治体行政の長であり、その管理と政策執行の権限を持っている。その意味で、立法機関に所属する議員とは立場が異なる。勿論、小泉純一郎氏は国家の行政府の長である総理大臣であった。その意味で、国の政策執行の権限を持っている最高の地位にある政治家である。
つまり、社会の流れを変える立場にある人々の政治スローガンなのか、それとも、その立場にない人たちのスローガンなのか。少なくとも、首長選挙では地方自治体の行政の在り方を変革する選挙スローガン(選挙公約)が出され、それが選挙の論点となっている。しかし、国会議員の選挙の場合、議員が当選し、その議員の所属する政党が政権与党になるという段階を経て、初めて、選挙スローガン(選挙公約)の実現可能性が生まれる。
今回の第三勢力の結集を呼びかけた勢力の政治スローガンは具体的に出されていない。出されているのは「自民・公明でも民主でもない政治勢力によって政治の流れを変える」という政治スローガンのみである。この政治公約(政治組織の自己保存プログラム)によって、政治に絶望した国民の票田をかき集めようとしている。これは政党間紛争課題に選挙が使われ始めたことを意味する。これは、丁度戦前、軍国主義を生み出した日本の政党政治の歴史の繰り返しではないだろうか。
この状況が意味するものとは議会制民主主義の危機なのである。国民主権の政治体制を構築していく流れに反し、政治は議員たちが行うもの、国民はそれらの政治の主役である議員を選べばいいという、民主主義社会文化の発展や進化と逆行する潮流であるというべきだろう。
しかし、現実の日本の議会制民主主義では、政策集団としての政党、政策案をもつ政党活動、政策案の国民的評価としての選挙、政策案への国民的評価結果としての選挙投票結果、政権政党の責任としての選挙公約の意味も理解されていない。政党の政策はスローガンになり、実現可能性の検証作業を無視し、その政策の選挙公約は選挙宣伝用に使われ、選挙に当選しても選挙公約は検証されることもない。これが現実の日本の議会制民主主義、政党政治、政権与党の姿である。
国民の生活から無縁の政局論争を繰り返す無責任な政治、東日本大震災で苦しむ人々の救済のための税金が官僚の匙加減(さじかげん)によって使われる官僚主導型政治、非現実的な政策を掲げた選挙運動や選挙公約した政策を検証しない政党の姿勢、最高(最低)40年以上の年月を費やす原発事故処理と失われた豊かな国土(汚染地帯)と原発棄民になろうとしている福島の人々の苦しみ等々が続く中で、国民の我慢は限界に達している。限界に達した国民の批判は過激な政治スローガンを掲げる政党に吸収される。そして、再び、日本が国際政治史に大きな禍根を残した過去の誤りを繰り返さないと誰が保障できるのだろうか。豊かな日本が貧しくなることで、日本の民主主義、議会制民主主義は根本から崩壊して行くのではないだろか。
私のように、政党の自己保存プログラムが先行する社会的状況は議会制民主主義の崩壊を導きかねないという危機感を持つのは、心配症の極みに過ぎないのだろうか?
議会制民主主義を守るために
1、 政党は選挙の時、選挙公約を明確にする。
2、 当選した議員は選挙時の選挙公約に対する履行義務を持つ。
3、 当選した議員は、毎年一回、選挙公約の実現を自己評価する義務がある。
4、 選挙公約を選挙民と被選挙民の社会契約として位置付ける選挙公約法を定め、選挙公約違反を行わない政治文化を作る必要がある。(1)
5、 国民は選挙公約違反行為を行う議員を摘発し警告するために、市民(国民)選挙公約監視運動を起こし、「選挙公約点検サイトと公約実現実績情報公開制度」と作る必要がある。(1)
参考資料
1、1、三石博行 「選挙公約法、選挙公約点検サイトと公約実現実績情報公開制度の必要性」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/10/blog-post_25.html
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三石博行
政策とは政治理念を具体化するプログラムである
政策案とは政党の存在理由を具体的に示したものである。政治理念を持たない政党はないし、それを具体的に実現する道筋を示さない政党は信頼されない。つまり、政策を持つとは政党の政治的方針を具体的に示すことであり、その政策が実現可能なものかは、政策の具体性と現実的方法が検討されることになる。政策とは政治理念を実現化するためのプログラムである。
民主主義国家である以上、政策選択における国民主権が政治機能の基本にある。政党は政治理念を国民に示し、その政策を実現する具体的政策案を作成し、それを公開説明し、選挙でその政策案に関する評価を国民から受ける。これが議会制民主主義での政党活動の基本的なスタイルである。政策案(プログラム)を持たない政党は存在しない。政党は政策プログラムを提案し実行する社会機能である。
政策案とは、ある課題の政治的解決を実現可能な手続き(法的、制度的手段で)で説明したものである。政策案を選挙時に公開したものが選挙公約であり、議会制民主主義では選挙公約を表明しなければ、選挙を行なう意味を持たない。何故なら、国民が政党から提示された選挙公約に対して同意するか反対するかを決める行為を選挙と呼ぶからである。選挙とは国民が政党から提示されたプログラムを選択するための社会機能である。
つまり、政策(プログラム)を示さない政党は、国民主権国家の基本的な理念や制度を無視していると言えるだろう。
政党維持のための政治活動、政治集団の自己保存のプログラム
前東京都知事石原慎太郎氏は、自民党でもない民主党でもない第三の政治勢力を結集するために「太陽の党」を結成した。石原氏の判断は、政局的視点から見ると間違いではない。国民の多くは現在の野党自民党にも与党民主党にも程々愛想を尽かしていることは確かである。その意味で、石原氏の政治的な狙いは正しい。
しかし、異なる政策を持つ集団が一つになり、数として力を持てば、政権与党に参画する機会があったとしても、その後に起こる政治的混乱は、今まで、経験し続けてきた。そこで、橋下氏も渡辺氏も政策一致を原則とする政治を主張し続けてきた。その主張が、今、政局課題から、二次的なものと理解されるかどうか、瀬戸際に立たされている。
つまり、二つの異なる政治機能を動かす基本プログラム(政策)を持つ場合、その機能はうまく動かないことは明らかである。すると、これらの異なるプログラムをもつ政治機能は、近々の政策課題として「反自民・公明と反民主勢力としての第三勢力を国民に訴える」ことが選挙活動の主要なテーマとなる。そして、今回の選挙は、国民が真剣に考え続けてきたこれからの日本の問題、「エネルギー政策」「原発問題」「消費税問題」「社会保険問題」「TPP問題」等々は小さな政策課題となり、選挙の争点から除外されることになる。
前節で、政策とは政治理念を具体化するプログラムであると述べた。では、石原氏の政権獲得の政策は、同じように政党の政策であり、その意味で政党理念を具体化するプログラムであると言えるだろう。言い換えると「太陽の党」は政治理念とは「政権を取る」ことである。「第三勢力の大同団結」がその具体的な政策となる。
「太陽の党」は「政権を取る」ことを党の政治理念とし、大同団結がその政策(プログラム)となる。政党も社会組織である以上、その組織の自己保存のプログラムを持つ。「選挙で当選議員を出す」ことがなければ政党としての存在条件が消えることになる。そのため「選挙に勝つ」という党の基本政策(プログラム)が常に作動し、政党を組織として維持している。これは、どの組織にもある「自己保存のためのプログラム」である。
要約すると、石原氏は今回の選挙で存続の危機にある政党集団の「自己保存」のプログラムを集め、一つの「第三勢力」という自己保存のプログラムに仕立て上げたのである。そのプログラムが、そこに集まる政治集団の最大の課題であることは明らかである。
マスコミや評論家達は政策の異なる野合集団に対して、「異なる政策を持った政治集団が一つになって、本当にいいのですか」と疑問を投げかけている。その疑問は、政党が自己保存のためのプログラムを政策の中心に置く事は、選挙を通じて確立される「国民主権」、議会制民主主義の政治のあり方と基本的に相容れないものであると表現しているのである。政治家集団の自己保存のプログラムを全面的に前に出すことによって、選挙は国民の政治参加の唯一の機会から、政治集団の政治家職業の継続や維持のための道具になるのである。このことを国民もそして政党も、もっと明確に自覚すべきではないだろうか。
政党の自己保存プログラムが先行する社会的状況、議会制民主主義の崩壊
しかし、毎日、政局論争とマニフェスト違反を繰り返す政治にうんざりしている国民は、分かりやすい過激な政策、政治の停滞状況を打破するスローガンに関心を引かれる。そこで、政党集団や政治家の「自己保存」のプログラムに即して、国民感情を見事に捉えようとする政治集団や政治家が現れる。
国民は、行動力のある政治家の登場を待っている。その期待に応えた政治家として、東京都知事の石原慎太郎氏、自民党総裁の小泉純一郎氏、長野県知事の田中康夫氏、名古屋市長の河村たかし氏、大阪市長(前大阪府知事)の橋下徹氏、横浜市長の中田宏氏や宮崎県知事の東国原英夫氏 等々が今までに登場した。
それらの政治家は小泉純一郎元総理大臣を除いて、すべて地方自治体の首長として登場した。何故なら、首長は自治体行政の長であり、その管理と政策執行の権限を持っている。その意味で、立法機関に所属する議員とは立場が異なる。勿論、小泉純一郎氏は国家の行政府の長である総理大臣であった。その意味で、国の政策執行の権限を持っている最高の地位にある政治家である。
つまり、社会の流れを変える立場にある人々の政治スローガンなのか、それとも、その立場にない人たちのスローガンなのか。少なくとも、首長選挙では地方自治体の行政の在り方を変革する選挙スローガン(選挙公約)が出され、それが選挙の論点となっている。しかし、国会議員の選挙の場合、議員が当選し、その議員の所属する政党が政権与党になるという段階を経て、初めて、選挙スローガン(選挙公約)の実現可能性が生まれる。
今回の第三勢力の結集を呼びかけた勢力の政治スローガンは具体的に出されていない。出されているのは「自民・公明でも民主でもない政治勢力によって政治の流れを変える」という政治スローガンのみである。この政治公約(政治組織の自己保存プログラム)によって、政治に絶望した国民の票田をかき集めようとしている。これは政党間紛争課題に選挙が使われ始めたことを意味する。これは、丁度戦前、軍国主義を生み出した日本の政党政治の歴史の繰り返しではないだろうか。
この状況が意味するものとは議会制民主主義の危機なのである。国民主権の政治体制を構築していく流れに反し、政治は議員たちが行うもの、国民はそれらの政治の主役である議員を選べばいいという、民主主義社会文化の発展や進化と逆行する潮流であるというべきだろう。
しかし、現実の日本の議会制民主主義では、政策集団としての政党、政策案をもつ政党活動、政策案の国民的評価としての選挙、政策案への国民的評価結果としての選挙投票結果、政権政党の責任としての選挙公約の意味も理解されていない。政党の政策はスローガンになり、実現可能性の検証作業を無視し、その政策の選挙公約は選挙宣伝用に使われ、選挙に当選しても選挙公約は検証されることもない。これが現実の日本の議会制民主主義、政党政治、政権与党の姿である。
国民の生活から無縁の政局論争を繰り返す無責任な政治、東日本大震災で苦しむ人々の救済のための税金が官僚の匙加減(さじかげん)によって使われる官僚主導型政治、非現実的な政策を掲げた選挙運動や選挙公約した政策を検証しない政党の姿勢、最高(最低)40年以上の年月を費やす原発事故処理と失われた豊かな国土(汚染地帯)と原発棄民になろうとしている福島の人々の苦しみ等々が続く中で、国民の我慢は限界に達している。限界に達した国民の批判は過激な政治スローガンを掲げる政党に吸収される。そして、再び、日本が国際政治史に大きな禍根を残した過去の誤りを繰り返さないと誰が保障できるのだろうか。豊かな日本が貧しくなることで、日本の民主主義、議会制民主主義は根本から崩壊して行くのではないだろか。
私のように、政党の自己保存プログラムが先行する社会的状況は議会制民主主義の崩壊を導きかねないという危機感を持つのは、心配症の極みに過ぎないのだろうか?
議会制民主主義を守るために
1、 政党は選挙の時、選挙公約を明確にする。
2、 当選した議員は選挙時の選挙公約に対する履行義務を持つ。
3、 当選した議員は、毎年一回、選挙公約の実現を自己評価する義務がある。
4、 選挙公約を選挙民と被選挙民の社会契約として位置付ける選挙公約法を定め、選挙公約違反を行わない政治文化を作る必要がある。(1)
5、 国民は選挙公約違反行為を行う議員を摘発し警告するために、市民(国民)選挙公約監視運動を起こし、「選挙公約点検サイトと公約実現実績情報公開制度」と作る必要がある。(1)
参考資料
1、1、三石博行 「選挙公約法、選挙公約点検サイトと公約実現実績情報公開制度の必要性」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/10/blog-post_25.html
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2012年11月15日木曜日
立法機能を担う議員活動を支える制度の提案
政治改革の課題(5)
三石博行
政権与党にのみ蓄積される官僚との友好な関係
政党とは政治的理念を持ち、それに基づき政策を国民に示し、選挙を通じてそれらの政策への賛同を求める活動を行う集団である。
議会制民主主義では、選挙で多数の議席を確保する政権が政権与党となり、議院内閣制度に基づき内閣を作る。内閣とは国家の行政機能のトップであり、各省の大臣が内閣を構成する。大臣は政権が国民に選挙を通じて公約した政策を実行するための政治・政策活動を行うことになる。
議会制民主主義議と議院内閣制度では、政策を実行出来る政党は内閣を担う政権与党のみとなる。勿論、野党の議員も議員立法案の提出をすることは出来る。政権与党は政策提案を行う場合、政府機関の専門家集団(官僚)の助言や援助を得られる。その点で政権与党は政府機能を挙げて政策を提案できるのである。
政治指導を確立するためには政治家が政府機関の専門家(官僚)と十分に政策検討を出来る機会を多く作らなければならないだろう。与党の政治家は閣僚として行政のリーダーとなる。行政を運営する責任を議員は担うことになる。その意味で、行政機関の専門家(官僚)と共に行政運営をスムーズに行うことが求められる。そこで、政権与党の議員には政府機関の専門家集団の助言や援助の機会が与えられる。彼らが政策提案や法案を作成する場合には政府機関の専門家集団の力を十分活用することが出来る。
その意味で、長年政権の座にあった自民党は官僚機構との大きなパイプがあり、人的な交流も豊かで、しかも官僚との共同作業の経験も豊富にある。自民党が政権を取ることで、政治は官僚機能との有効で濃密な関係を維持することができる。また、自民党には官僚出身の議員も多く、以前の部署との人間関係や仕事上の経験を活かし、政策提案段階から官僚の有能な資源を十分活用できた(る)のである。
民主党が目指した政策決定における脱官僚指導型、政治指導型の挫折
しかし、長年野党時代を過ごした政治家には、官僚機構との人的交流もなければ、政策提案への官僚の協力関係もないのである。そのため、民主主義のルールとして政権交代が行われた時、長年与党時代を過ごした政党は国家の行政機能の資源を十分活用できない状態となる。
しかも今回、民主党政権は、政権交代を行った段階で、政治指導を確立するためにと、官僚を政策決定の中心から外した。そのために、官僚からの厳しい反発とボイコットを受けた。これまでの行政機能に関する経験や人脈のない民主党の政治家は官僚の協力なくしては、政権運営が出来ないことを思い知らされることになる。そうして、再び、官僚が政策決定に大きな影響力を発揮し、民主党の政治指導は完全に失敗した。
そこで、政治指導の路線を修正した民主党は、これまで自民党が続けてきた官僚の指導型の政策決定路線に戻った。その結果、コンクリートから人への政治は、再び人からコンクリートへと変更されたようである。また、官僚指導型による国民の税金から支払われた震災復興予算の不明な使い方が、報道機関に指摘され、行政の事業仕分け作業で人気を集めた民主党の行政機能点検機能がマヒしていることも明らかになった。あの事業仕分け作業は選挙のためのパフォーマンスであったかとも言われる始末である。
明らかに民主党政権は多くの失敗を行った。しかし、この失敗をどのようにして乗り越えるか。そこにこの国の民主主義の未来が掛かっているように思う。その課題の一つとして、行政機能と立法機能の相互連携について考えてみたい。
すべての議員に与えられた行政機能活用に関する権限
議会制民主主義で最も大切なことは、国民主権代理者である議員が立法作業仕事を行う環境を与えられていることである。法律案を作成するには、問題に関する現状の調査データ、法や制度上の問題に関する専門的な知識、解釈、分析等々、多くの事柄を理解しなければならない。
しかし、野党議員には政府専門機関を十分に活用できる環境がない。そのため野党議員が法案を作成する場合、政府専門機関からの支援や援助が十分受けられないことになる。野党議員は議員立法案を作成するために大変な作業をこなさなければならない。つまり、野党議員と与党議員はフェアーな立場に立って法案作成を行っていないと言える。
言い換えると、国民の代表としての議員に権限の不平等が生じていることになる。そのこと自体が国民主権国家の基本に反する状況であると言える。早急に、この問題を解決することが、政策政党による政治が成立する環境を作ることになる。それが政党政治の成立のための政策であるとも言える。
すべての議員は国民から選ばれた国民主権の代理人である。その意味で、国会議員の立場からすれば、すべての議員は平等に国民の代理人としての資格を持っていることになる。それが議会制民主主義の制度で成立している議員の位置づけである。与党や野党とはそれらの議員達の集団が多数を占めるかそうでないかということに過ぎない。議会制民主主義では与党に政権運営の権限を与えるのであるが、政府機能の活用を与党が独占する権限を与えてはいない。つまり、すべての議員が政府機能を平等に使えるのである。これが国民主権を前提にした議会制民主主義の制度の原則である。
従って、野党の議員にも与党の議員と同じように、官僚との交流、政策検討に関する助言や資料提供を受ける権限を与え、与党の議員と同じ情報や資料に基づいた政策検討が出来るようにしなければならない。
特に、数年毎に政権交代が行われる時代になる場合には、野党や与党を問わず、議員達が十分に政策検討を行えるように政府機関の専門家の活用を保障しなければならない。この制度が現在十分に機能していないなら、即刻、その制度の法的や制度的確立を急ぐべきである。
野党時代から官僚との関係を作れない日本の政治環境では、民主主義の基本である政権交代が行われる毎に政府機能が混乱することになる。政権与党は、国の専門機関の協力なしには、行政機能を運営管理し改革する力量を持ちえない。それが今回の民主党政権で明らかになった。この経験を今後は活かすべきである。
成熟した議会制民主主義のための議員への行政サービスや情報公開制度に関する提案
行政改革の課題として、立法機能を担う議員活動のために、すべての議員に平等に行政機能を活用できるための制度や法律を整備しなければならない。その目的は立法作業での政治指導(議員の力量)を確立するためには、野党時代でも議員は政策提案を行うために官僚を活用する権限を与える必要がある。
何故なら、民主主義社会では、常に政権交代が行われることを前提にして議員の政策提案力や行政改革力、官僚との関係を政権与党だけでなく、野党の時代から構築することを保障しなければならないからである。つまり、野党であろうと与党であろうと、政策提案が出来る能力を持つ必要がある。そのためには、野党議員にも官僚との関係、人的関係、情報提供、等々を保障しなければならない。
行政の機能を改善するためには、野党与党を問わず、その課題について同じような問題意識を持つ必要がある。その前提条件として、与党野党の全てに問題を理解するための情報の共有が必要であり、また共通する問題点の理解や解釈が必要となる。その意味で、行政機能は与野党議員に平等に情報やサポートを行うべきである。それが効率の高い立法機能を作る要素となるのである。
以下、そのための提案を記載する。
1、 すべての議員は国の行政機能が所有する情報(政府が機密と定めた軍事や外交に関する情報を除く)を知る権利を持つ。
2、 すべての議員は平等に、政策分析、法案や制度改革案の作成に必要な情報や助言及び必要なサポートを行政機関から受ける権利を持つ。
3、 すべての議員は、行政機関から得た情報や活用したサービスを国会に報告する義務がある。
4、 上記した行政サービス機能に関する法律を設定する。
5、 その法律に基づき行政機能がすべての議員に対して義務を果たしていることを点検するための監視委員会を第三者機関として設置する。
以上である。
参考資料
1、三石博行 ブログ文書集「国民運動としての政治改革」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_9428.html
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三石博行
政権与党にのみ蓄積される官僚との友好な関係
政党とは政治的理念を持ち、それに基づき政策を国民に示し、選挙を通じてそれらの政策への賛同を求める活動を行う集団である。
議会制民主主義では、選挙で多数の議席を確保する政権が政権与党となり、議院内閣制度に基づき内閣を作る。内閣とは国家の行政機能のトップであり、各省の大臣が内閣を構成する。大臣は政権が国民に選挙を通じて公約した政策を実行するための政治・政策活動を行うことになる。
議会制民主主義議と議院内閣制度では、政策を実行出来る政党は内閣を担う政権与党のみとなる。勿論、野党の議員も議員立法案の提出をすることは出来る。政権与党は政策提案を行う場合、政府機関の専門家集団(官僚)の助言や援助を得られる。その点で政権与党は政府機能を挙げて政策を提案できるのである。
政治指導を確立するためには政治家が政府機関の専門家(官僚)と十分に政策検討を出来る機会を多く作らなければならないだろう。与党の政治家は閣僚として行政のリーダーとなる。行政を運営する責任を議員は担うことになる。その意味で、行政機関の専門家(官僚)と共に行政運営をスムーズに行うことが求められる。そこで、政権与党の議員には政府機関の専門家集団の助言や援助の機会が与えられる。彼らが政策提案や法案を作成する場合には政府機関の専門家集団の力を十分活用することが出来る。
その意味で、長年政権の座にあった自民党は官僚機構との大きなパイプがあり、人的な交流も豊かで、しかも官僚との共同作業の経験も豊富にある。自民党が政権を取ることで、政治は官僚機能との有効で濃密な関係を維持することができる。また、自民党には官僚出身の議員も多く、以前の部署との人間関係や仕事上の経験を活かし、政策提案段階から官僚の有能な資源を十分活用できた(る)のである。
民主党が目指した政策決定における脱官僚指導型、政治指導型の挫折
しかし、長年野党時代を過ごした政治家には、官僚機構との人的交流もなければ、政策提案への官僚の協力関係もないのである。そのため、民主主義のルールとして政権交代が行われた時、長年与党時代を過ごした政党は国家の行政機能の資源を十分活用できない状態となる。
しかも今回、民主党政権は、政権交代を行った段階で、政治指導を確立するためにと、官僚を政策決定の中心から外した。そのために、官僚からの厳しい反発とボイコットを受けた。これまでの行政機能に関する経験や人脈のない民主党の政治家は官僚の協力なくしては、政権運営が出来ないことを思い知らされることになる。そうして、再び、官僚が政策決定に大きな影響力を発揮し、民主党の政治指導は完全に失敗した。
そこで、政治指導の路線を修正した民主党は、これまで自民党が続けてきた官僚の指導型の政策決定路線に戻った。その結果、コンクリートから人への政治は、再び人からコンクリートへと変更されたようである。また、官僚指導型による国民の税金から支払われた震災復興予算の不明な使い方が、報道機関に指摘され、行政の事業仕分け作業で人気を集めた民主党の行政機能点検機能がマヒしていることも明らかになった。あの事業仕分け作業は選挙のためのパフォーマンスであったかとも言われる始末である。
明らかに民主党政権は多くの失敗を行った。しかし、この失敗をどのようにして乗り越えるか。そこにこの国の民主主義の未来が掛かっているように思う。その課題の一つとして、行政機能と立法機能の相互連携について考えてみたい。
すべての議員に与えられた行政機能活用に関する権限
議会制民主主義で最も大切なことは、国民主権代理者である議員が立法作業仕事を行う環境を与えられていることである。法律案を作成するには、問題に関する現状の調査データ、法や制度上の問題に関する専門的な知識、解釈、分析等々、多くの事柄を理解しなければならない。
しかし、野党議員には政府専門機関を十分に活用できる環境がない。そのため野党議員が法案を作成する場合、政府専門機関からの支援や援助が十分受けられないことになる。野党議員は議員立法案を作成するために大変な作業をこなさなければならない。つまり、野党議員と与党議員はフェアーな立場に立って法案作成を行っていないと言える。
言い換えると、国民の代表としての議員に権限の不平等が生じていることになる。そのこと自体が国民主権国家の基本に反する状況であると言える。早急に、この問題を解決することが、政策政党による政治が成立する環境を作ることになる。それが政党政治の成立のための政策であるとも言える。
すべての議員は国民から選ばれた国民主権の代理人である。その意味で、国会議員の立場からすれば、すべての議員は平等に国民の代理人としての資格を持っていることになる。それが議会制民主主義の制度で成立している議員の位置づけである。与党や野党とはそれらの議員達の集団が多数を占めるかそうでないかということに過ぎない。議会制民主主義では与党に政権運営の権限を与えるのであるが、政府機能の活用を与党が独占する権限を与えてはいない。つまり、すべての議員が政府機能を平等に使えるのである。これが国民主権を前提にした議会制民主主義の制度の原則である。
従って、野党の議員にも与党の議員と同じように、官僚との交流、政策検討に関する助言や資料提供を受ける権限を与え、与党の議員と同じ情報や資料に基づいた政策検討が出来るようにしなければならない。
特に、数年毎に政権交代が行われる時代になる場合には、野党や与党を問わず、議員達が十分に政策検討を行えるように政府機関の専門家の活用を保障しなければならない。この制度が現在十分に機能していないなら、即刻、その制度の法的や制度的確立を急ぐべきである。
野党時代から官僚との関係を作れない日本の政治環境では、民主主義の基本である政権交代が行われる毎に政府機能が混乱することになる。政権与党は、国の専門機関の協力なしには、行政機能を運営管理し改革する力量を持ちえない。それが今回の民主党政権で明らかになった。この経験を今後は活かすべきである。
成熟した議会制民主主義のための議員への行政サービスや情報公開制度に関する提案
行政改革の課題として、立法機能を担う議員活動のために、すべての議員に平等に行政機能を活用できるための制度や法律を整備しなければならない。その目的は立法作業での政治指導(議員の力量)を確立するためには、野党時代でも議員は政策提案を行うために官僚を活用する権限を与える必要がある。
何故なら、民主主義社会では、常に政権交代が行われることを前提にして議員の政策提案力や行政改革力、官僚との関係を政権与党だけでなく、野党の時代から構築することを保障しなければならないからである。つまり、野党であろうと与党であろうと、政策提案が出来る能力を持つ必要がある。そのためには、野党議員にも官僚との関係、人的関係、情報提供、等々を保障しなければならない。
行政の機能を改善するためには、野党与党を問わず、その課題について同じような問題意識を持つ必要がある。その前提条件として、与党野党の全てに問題を理解するための情報の共有が必要であり、また共通する問題点の理解や解釈が必要となる。その意味で、行政機能は与野党議員に平等に情報やサポートを行うべきである。それが効率の高い立法機能を作る要素となるのである。
以下、そのための提案を記載する。
1、 すべての議員は国の行政機能が所有する情報(政府が機密と定めた軍事や外交に関する情報を除く)を知る権利を持つ。
2、 すべての議員は平等に、政策分析、法案や制度改革案の作成に必要な情報や助言及び必要なサポートを行政機関から受ける権利を持つ。
3、 すべての議員は、行政機関から得た情報や活用したサービスを国会に報告する義務がある。
4、 上記した行政サービス機能に関する法律を設定する。
5、 その法律に基づき行政機能がすべての議員に対して義務を果たしていることを点検するための監視委員会を第三者機関として設置する。
以上である。
参考資料
1、三石博行 ブログ文書集「国民運動としての政治改革」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_9428.html
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行政改革を可能にする政治指導の在り方
政治改革の課題(4)
三石博行
文部科学大臣には文部科学省の行政決定権はない
9月末に新しく内閣改造が行われた。文部科学大臣に田中真紀子氏が就任した。就任の挨拶に「役人と仲良く仕事をしますと田中氏は述べていた。しかし、その言葉とは裏腹に、文部科学大臣田中真紀子氏は、三つの大学の設置許可に関する大学審議会の審議結果に反して、大学設置許可を認定しないという発言した。そのため、文科省は混乱し、三つの大学法人から抗議が起り、又もや田中真紀子氏のとんでもない発言と、マスコミや野党から厳しい批判がなされ、その後、田中氏はそれら三つの大学の認可を認めることになった。
ここで明らかになった事実は、まず、法律上は文部科学大臣が文部行政の最高責任者であることであった。その最高責任者田中真紀子氏は文部行政の全ての意思決定に責任を持つことを示した。そこで、田中氏は、法律に即して、全ての文部科学省の行政上の決定を行った。法律上、行政機能の運営に関する全ての責任を大臣が持たなければならないのである。
何故なら、日本国憲法では、議会制民主主義議と議院内閣制度では政権与党によって内閣が構成され、すべての行政機関の長、つまり大臣が選ばれる。大臣は国民の意思を行政機能に反映させ、行政機能を運営しなければならない。これが国民主権による日本の国家の運営の姿なのである。
当然の権限を行使した田中真紀子氏は何故批判されたのか。つまり、文部行政の判断は文部科学大臣ではなく、官僚が行うことになっているのか。それを世論も認めていると言うことか。事実、官僚の判断に、これまでの殆どの大臣が異論を唱えることない。官僚が決めたことに反対すると官庁の機能がマヒするか、世論が大臣の横暴を批判するか、どちらかである。
今回の場合は、三つの大学法人はすでに大学審議会の審議結果を知り、まだ認可は出ていないものの、次の年度に向けて、大学説明会や入試を行っていた。そのため、認可されないとなると、入学を希望し入試を受けた生徒が被害を受けることになるという事態が生じていた。そのことが、世論が田中大臣の判断に対する批判となった。
考え方を変えると、審議会の結果は大臣が正式に認可する前に、官僚によって「認可されました」とすでに大学法人に連絡があり、大学側は、その報告を信頼し、大学説明会や入試を行っていた。こうしたことはこの三つの大学に限らず、殆ど、すべての大学の認可に共通する事例となっていた。その慣習が破られたということが田中大臣への批判となった。つまり、審議会に提出された大学認可の申請は殆ど自動的に通過する筈なのに、今回に限ってたまたま大臣が田中真紀子になったために、審議会の審査で許可が下りたのに、大臣が勝手に認可しないという暴挙に出たと言うことになった。
行政機能の基本構造、行政の惰性態と保守性
社会経済の安定と国民生活の保護を第一の課題にしている政府機能において最も大切な政策はすべての社会機能が安定して動くことである。言わば、政府機能とは政策の惰性態や保守性を基本として動いている。その機能が最も行政機能の重要な働きを占めている。
役所は融通が利かないとよく言われる。それは当然の事である。もし、役人が市民のためにと、規則を無視して、また法律を無視して、融通を利かせる行為をやり出したら、役所は混乱するだろう。役人の個人的感情や配慮で、行政的対応が異なることが当たり前になる。すると、ある人は、親切な役人に対応してもらって非常に得をしたが、その友人は、融通の利かない役人に対応されたので、何もして貰えなかったということが起る。それを防ぐために、強かな住民たちは、土産をもって役所に出向くようになる。そして、こんどは沢山土産を持ってくれば融通が利くということが常識化することにならないだろうか。
役所は平民を支配管理するために存在し、役人が人々の上に立っていた時代には、勇気ある役人が自分の首を掛けて、ある困った人を助けるという話もあるだろう。つまり、その規則違反をする役人は、その違反行為に対して自らの辞表を掛けての行為を勇断し、そして、困った人の命を救い、最後は、役所を去って行くことになるか、場合によっては、役所に反抗することにもなる。この役人の行為は美談として平民社会に伝え続けられるかも知れない。
しかし、それが許されることは殆どない。例えば、2010年9月7日の尖閣諸島近海での中国漁船衝突事件があったが、その時、中国漁船員の暴力的な挑発行為が巡視船の隊員によって撮影されていたのだが、公開されなかった。当時は、中国政府は、日本の海上保安庁が中国漁民を不当に逮捕したとして激しく国際世論に訴えて非難した。国会議員たちはこの映像を見ることができたが、国民は見ることはできなかった。そこで、ある海上保安庁の職員が辞表を覚悟で、その映像をインターネット上で公開した。勿論、政府からはその職員の処分を行うべきという意見がでた。職員は海上保安庁の命令(国家公務員法 第100条 第1項に定められている守秘義務)を破って、「機密情報」を公開したことになる。その違反行為を厳密に処分しないと、今後、また、こうした公務員の勝手な振る舞いが横行するという意見であった。しかし、世論はその職員の勇気を称え、政府民主党の弱腰外交を非難し、それに乗じて自民党は政府の中国外交を批判した。結果的には、機密漏洩を行った職員の処分(厳しくはなかったが)は行われ、その職員は辞職した。
つまり、行政機能を維持する役人は、その機能の持つ惰性態(日常的業務)を維持するために、良し悪しに関係なく公務員が自分の判断で制度上許されないこと、つまり勝手なことが出来ないようになっている。これが行政機能の基本的な構造である。日常的な業務を繰り返し行うように行政機能は作られている。これを行政の基本的な機能として「政策の惰性態」と呼んだ。(1)
言い方を変えると、行政改革を行政機能は出来ないように作られているのである。市民が、役所に行って、役所の制度を変えるように訴えても、役人にはその気持ちが解ったとしても、先頭を切って、役所の改革に取り掛かる権限は与えられていない。彼らに出来ることは、現行の制度内で、つまり行政上許された範囲内での対応を行うことのみである。良心的な役人たちは、こうして市民の要求に答え続けてきた。
しかし、制度自体を変え、市民の訴えに根本的に答えることは役人には基本的に出来ないようになっているのである。実際、その役人の出来る範囲内での対応の変化で、満足する市民は多いのであるが、それすら出来ないようになっているのである。つまり、日常的に繰り返されること以外に何かを特別にすることが大変なように習慣づけられているのが役所の仕事なのである。
行政機能の改革や改善作業、立法機関の課題と責任
では、官僚や役人は基本的に行政改革を行える立場にもないし、そうした権限を与えられていないとすれば、誰が、行政改革を行うのだろうか。つまり、役所の機能を社会の現実に合うように改革するのは誰だろうか。こんな疑問が発せられるのは、この国に定められている憲法をよく知らないからだろうと言われても仕方がない。
役所は決まりによって動く。その決まりを決めるのは議会である。つまり、議員達に役所の運営を変える権限と責任がある。もし、自治体の役所がうまく機能していないなら、その責任は基本的には首長にある。国なら内閣総理大臣にある。そして直接的には、自治体なら役所の責任者にあるし、国なら各庁の最高責任者・大臣にある。これが我が国日本の民主主義社会の行政機能の在り方、運営の仕方である。
自治体や国家の立法機関の機能とは、政策の惰性態(お役所や官庁の仕事)に関する点検や改善を行うことである。行政機能(お役所や官庁)は政策の惰性態を前提にして動く限り、その惰性態(日常的なルーチン業務)によって生じている行政の非効率や機能不全を自浄する機能を自ら備えていない。その行政機能の改善を行う機能として立法機能がある。何故なら、行政機能は法律によって動くように定められている。行政が効率よく動く法律を決めるのが立法である以上、行政改革とは立法上の改革から始まるのが民主主義国家での行政改革である。
つまり、役人を変えるのは、彼らの良心に訴えるのではなく、彼らが市民のために働けるように決まりを変え、制度を作る必要がある。それが出来るのは議員である。つまり、その改善を市民から選挙を通じて委託されている人々である。
立法機関は、政策の惰性態を見直し、その政策の機能を回復させるために、その政策の改善に必要な処置、つまり部分的変更、補足、もしくは全面的廃止と新たな政策提案を行うことである。行政機能は立法化された制度によって運営されている以上、行政機能のマヒの責任は立法機関にある。もし、行政機能が立法(法律)に反する行為を行った場合には、その責任は行政担当者に重く科せられている。それを公務員の国民に対する義務と呼んでいる。
行政改革を進める政治指導とは何か 田中真紀子大臣が起こした波紋とその課題
田中真紀子文部大臣は三つの大学認可に異議を唱えるに当たって「現在の日本の高等教育は、半数の大学が定員割れを起こし、大学教育の劣化、国際競争力の低下という重大な問題を起こしている」と指摘した。田中大臣は、その大きな原因として大学審議会がこれまで行ってきた認可行政を指摘した。
この田中氏の行為を最も評価する視点で語るなら、政治家である田中氏は、予め、三つの大学の許可に異議を挟むことで、文科省の官僚、世論、野党がどのように動くかを計算していたのかも知れないと言えそうだ。そして、事態は彼女の予測した通りに進み、世論が騒いでくれた。殆のマスコミが田中氏を批判した。しかし、その報道の1割ぐらいが、現在の大学教育の問題を取り上げた。その結果、大学改革を次の文部科学省の教育改革の課題に入れることに成功した。3ヵ月の大臣任期を前提にして、「こう(三大学設置認可拒否という常識では考えられない大臣の行動)でもしないと役所は動かない」と語る田中角栄の娘である真紀子氏が取った強かな政治であったとも解釈できる。
これが、田中真紀子大臣の行為を最大限に評価した解釈である。しかし、この解釈は多分、多くのマスコミでは、一笑に値すると言われるに違いない。そして彼女を「暴走オバサン」と呼び、日本の深刻な大学教育問題でなく、審議会の審査結果を無視し、三大学を困らせた非常識の大臣の問題として、今後は取り上げられるに違いない。
国会での問責決議と騒ぐ自民党は、まさに、日本の大学教育をここまでも荒廃させた責任を感じていないのだろうか。そして、これまで、民主党で文部科学大臣をやってきた政治家は、田中真紀子氏の行動をどう評価しているのだろうか。
田中真紀子大臣の行動に対して自民党幹事長の石破氏は「手続きを理解しない行動」であると批判した。この発言は田中氏の行動を批判する一つの理由となる。つまり、田中大臣は行政機関の最高責任者として、その行政機能の惰性態を理解し、そこで生じる問題を行政自体の問題として提起するのでなく、大学改革を行うための審議会や第三者委員会等々の制度・法律改革のための超党派での国会議員の活動、つまり立法機能がやるべき課題として提起すべきであったとも言える。
それは田中氏個人の問題でなく、民主党の教育行政に関する問題である。民主党は、政権当初から我が国の高等教育に対する方針を持っていなかった。そのため、極めて深刻な大学教育問題が放置され、半数近い大学が定員割れを起こし、中小大学の教育能力は劣化の一途を辿り、自民党政権の教育に自由競争を取り入れた政策上の問題が拡大しようとしているのである。(2) 勿論、大学教育機能に自由競争を取り入れることによって多くの高等教育の課題が前進したことは事実である。しかし、教育現場では、教育産業の熾烈な自由競争に打ち勝つために、企業化した大学間の厳しい経営戦争に生き残るための日常的な対応に追われているのである。今回の問題でも、三大学法人が慌てふためいた理由に、生き残りを掛けた大学法人の必死の大学改革の動きが背景にある。
大学教育の改革、21世紀社会に貢献する高等教育の在り方、国際競争力をもつ日本の大学等々の課題に、現在の大学法人が無関心である筈がない。こうした大きな教育改革への教育行政的課題は民主党や自民党の政治家よりも、文部科学省の役人や現場の大学教育者がひしひしと感じていることも事実である。大学改革を望んでいる教育現場や文部科学官僚の要請に応えられないのは立法機能の責任者達(政党や議員)であることは否定できないだろう。
この意味で、田中真紀子大臣の初めから解散を前提にして成立した新内閣の閣僚田中真紀子氏の思い切った「肉を切らせて骨を切る」勇気ある行動を称えたいと思う。しかし、同時に、行政改革のための地道な手続きを行う時間と手法の必要性も政治家として立法機能の不在を自己批判しながら、改革のための手続きを示す必要があったと痛感する。
しかし、現実の我が国の国会では、国の在り方を問うことが、具体的な政策を検討することでなく、政局を議論することになっているようだ。この政治環境では、永遠に行政改革を行うことは出来ないだろう。ましては、この政治家どもを正すための政治改革など夢のまた夢だろう。
高等教育改革を提案するための必要な手続きを仮定すると
今回、田中真紀子大臣に与えられた高等教育改革の政策提案と実現の時間は余りにも短いために、本来あるべき手続きを述べても、それは、寧ろ、田中大臣に「高等教育改革の提案は今回は無理」ということになる。そこで、田中大臣が、十分に時間を与えられているという仮定の上で、政治指導の路線で、高等教育改革を提案する場合を考えて、その手順と方法を検討してみよう。
1、 民主党のマニフェストの高等教育の改革提案が現実の問題に答えるものでない場合、田中真紀子議員は、それらのマニフェストを見直し分析し、問題点や不十分な箇所を修正変更し、自らの提案を加えて、民主党の教育政策委員会(存在すると仮定して)に提出する。
2、 文部大臣からの提案を受けて、民主党内では教育政策委員会のメンバーが検討会を開く。民主党教育政策委員会議員は、民主党の教育政策を具体的に検討し政策提案をサポートする専門家会議(存在すると仮定して)に、文部大臣からの提案の検討を依頼する。
3、 民主党教育政策委員会専門家会議はその提案を受け、専門的調査研究活動企画を委員会に提示し、専門家会議を行い、専門家会議としての答申を出す。
4、 教育政策委員会では、専門家会議の答申を受けて、専門家会議の委員若干名を入れて、委員会を開き、教育政策委員会としての「文部科学大臣からの政策課題提案に関する答申」を出す。
5、 文部大臣は民主党教育政策委員会からの答申を文部科学省内で検討するために、文部科学省内に「高等教育改革プロジェクト・会議」を組織し、この課題を検討するために必要な人材を集める。省内の専門家以外に、民主党教育政策委員会議員、他の省や民間団体、シンクタンク、教育機関から必要な人材を集めることが出来る。
6、 「高等教育改革プロジェクト・会議」は民主党教育政策会議から出された「文部科学大臣からの政策課題提案に関する答申」の具体的検討、分析、解釈を行い、その修正や補足をし、「文部科学大臣からの指示による高等教育改革案に関する答申」を作成する。
7、 それらの答申は、文部科学省の中にある各党の議員、官僚、専門家によって作られている「高等教育政策委員会」(在ると仮定して)に掛けられる。
8、 その「高等教育政策委員会」での議論を経て、「高等教育改革プロジェクト・会議」は具体的な法案作成を行う。
9、 「高等教育改革プロジェクト・会議」の具体的な法案や制度改革の提案を「高等教育政策委員会」が検討し、承認、訂正、補足を行い、「高等教育政策委員会」の最終的な提案を作る。
10、 文部科学大臣は「高等教育政策委員会」の最終的な提案を国会でさらに検討し、訂正、補足を行い、国の高等教育改革の政策として確立する。
以上である。
しかし、現実の政治家の関心は
しかし、この手続きを行うためには、政権は少なくとも4年は安定している必要があるし、大臣も最低4年間の任期が必要である。つまり、上記した手続きが出来る政治的環境にないことが、さらにこの国の政治を混乱させ、国を疲弊させつづけている。
そろそろ、国益のために、政局論争をやめて、政策論争と国家の在るべき姿を議論し、国民からの意見を聞くべきではないかと思う。しかし、今日も、「太陽の党」が発足し、原発事故、今後のエネルギー政策、東アジアンの平和的共存、赤字債権問題等々は、「大切な問題」かもしれないが、大同団結して自分たちの権力を取る課題に比べれば「些細な」ことであると言っているようである。
かっての若き憂国の士は「暴走老人」になったのか、それとも「ぼけて」しまったのか。
参考資料
1、三石博行 「体制の保守、改革と破棄と呼ばれる政策の三つの形態」2012年11月7日 http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_7.html
2、三石博行 ブログ文書集「大学教育改革論」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/04/blog-post_6795.html
3、三石博行 ブログ文書集「国民運動としての政治改革」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_9428.html
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三石博行
文部科学大臣には文部科学省の行政決定権はない
9月末に新しく内閣改造が行われた。文部科学大臣に田中真紀子氏が就任した。就任の挨拶に「役人と仲良く仕事をしますと田中氏は述べていた。しかし、その言葉とは裏腹に、文部科学大臣田中真紀子氏は、三つの大学の設置許可に関する大学審議会の審議結果に反して、大学設置許可を認定しないという発言した。そのため、文科省は混乱し、三つの大学法人から抗議が起り、又もや田中真紀子氏のとんでもない発言と、マスコミや野党から厳しい批判がなされ、その後、田中氏はそれら三つの大学の認可を認めることになった。
ここで明らかになった事実は、まず、法律上は文部科学大臣が文部行政の最高責任者であることであった。その最高責任者田中真紀子氏は文部行政の全ての意思決定に責任を持つことを示した。そこで、田中氏は、法律に即して、全ての文部科学省の行政上の決定を行った。法律上、行政機能の運営に関する全ての責任を大臣が持たなければならないのである。
何故なら、日本国憲法では、議会制民主主義議と議院内閣制度では政権与党によって内閣が構成され、すべての行政機関の長、つまり大臣が選ばれる。大臣は国民の意思を行政機能に反映させ、行政機能を運営しなければならない。これが国民主権による日本の国家の運営の姿なのである。
当然の権限を行使した田中真紀子氏は何故批判されたのか。つまり、文部行政の判断は文部科学大臣ではなく、官僚が行うことになっているのか。それを世論も認めていると言うことか。事実、官僚の判断に、これまでの殆どの大臣が異論を唱えることない。官僚が決めたことに反対すると官庁の機能がマヒするか、世論が大臣の横暴を批判するか、どちらかである。
今回の場合は、三つの大学法人はすでに大学審議会の審議結果を知り、まだ認可は出ていないものの、次の年度に向けて、大学説明会や入試を行っていた。そのため、認可されないとなると、入学を希望し入試を受けた生徒が被害を受けることになるという事態が生じていた。そのことが、世論が田中大臣の判断に対する批判となった。
考え方を変えると、審議会の結果は大臣が正式に認可する前に、官僚によって「認可されました」とすでに大学法人に連絡があり、大学側は、その報告を信頼し、大学説明会や入試を行っていた。こうしたことはこの三つの大学に限らず、殆ど、すべての大学の認可に共通する事例となっていた。その慣習が破られたということが田中大臣への批判となった。つまり、審議会に提出された大学認可の申請は殆ど自動的に通過する筈なのに、今回に限ってたまたま大臣が田中真紀子になったために、審議会の審査で許可が下りたのに、大臣が勝手に認可しないという暴挙に出たと言うことになった。
行政機能の基本構造、行政の惰性態と保守性
社会経済の安定と国民生活の保護を第一の課題にしている政府機能において最も大切な政策はすべての社会機能が安定して動くことである。言わば、政府機能とは政策の惰性態や保守性を基本として動いている。その機能が最も行政機能の重要な働きを占めている。
役所は融通が利かないとよく言われる。それは当然の事である。もし、役人が市民のためにと、規則を無視して、また法律を無視して、融通を利かせる行為をやり出したら、役所は混乱するだろう。役人の個人的感情や配慮で、行政的対応が異なることが当たり前になる。すると、ある人は、親切な役人に対応してもらって非常に得をしたが、その友人は、融通の利かない役人に対応されたので、何もして貰えなかったということが起る。それを防ぐために、強かな住民たちは、土産をもって役所に出向くようになる。そして、こんどは沢山土産を持ってくれば融通が利くということが常識化することにならないだろうか。
役所は平民を支配管理するために存在し、役人が人々の上に立っていた時代には、勇気ある役人が自分の首を掛けて、ある困った人を助けるという話もあるだろう。つまり、その規則違反をする役人は、その違反行為に対して自らの辞表を掛けての行為を勇断し、そして、困った人の命を救い、最後は、役所を去って行くことになるか、場合によっては、役所に反抗することにもなる。この役人の行為は美談として平民社会に伝え続けられるかも知れない。
しかし、それが許されることは殆どない。例えば、2010年9月7日の尖閣諸島近海での中国漁船衝突事件があったが、その時、中国漁船員の暴力的な挑発行為が巡視船の隊員によって撮影されていたのだが、公開されなかった。当時は、中国政府は、日本の海上保安庁が中国漁民を不当に逮捕したとして激しく国際世論に訴えて非難した。国会議員たちはこの映像を見ることができたが、国民は見ることはできなかった。そこで、ある海上保安庁の職員が辞表を覚悟で、その映像をインターネット上で公開した。勿論、政府からはその職員の処分を行うべきという意見がでた。職員は海上保安庁の命令(国家公務員法 第100条 第1項に定められている守秘義務)を破って、「機密情報」を公開したことになる。その違反行為を厳密に処分しないと、今後、また、こうした公務員の勝手な振る舞いが横行するという意見であった。しかし、世論はその職員の勇気を称え、政府民主党の弱腰外交を非難し、それに乗じて自民党は政府の中国外交を批判した。結果的には、機密漏洩を行った職員の処分(厳しくはなかったが)は行われ、その職員は辞職した。
つまり、行政機能を維持する役人は、その機能の持つ惰性態(日常的業務)を維持するために、良し悪しに関係なく公務員が自分の判断で制度上許されないこと、つまり勝手なことが出来ないようになっている。これが行政機能の基本的な構造である。日常的な業務を繰り返し行うように行政機能は作られている。これを行政の基本的な機能として「政策の惰性態」と呼んだ。(1)
言い方を変えると、行政改革を行政機能は出来ないように作られているのである。市民が、役所に行って、役所の制度を変えるように訴えても、役人にはその気持ちが解ったとしても、先頭を切って、役所の改革に取り掛かる権限は与えられていない。彼らに出来ることは、現行の制度内で、つまり行政上許された範囲内での対応を行うことのみである。良心的な役人たちは、こうして市民の要求に答え続けてきた。
しかし、制度自体を変え、市民の訴えに根本的に答えることは役人には基本的に出来ないようになっているのである。実際、その役人の出来る範囲内での対応の変化で、満足する市民は多いのであるが、それすら出来ないようになっているのである。つまり、日常的に繰り返されること以外に何かを特別にすることが大変なように習慣づけられているのが役所の仕事なのである。
行政機能の改革や改善作業、立法機関の課題と責任
では、官僚や役人は基本的に行政改革を行える立場にもないし、そうした権限を与えられていないとすれば、誰が、行政改革を行うのだろうか。つまり、役所の機能を社会の現実に合うように改革するのは誰だろうか。こんな疑問が発せられるのは、この国に定められている憲法をよく知らないからだろうと言われても仕方がない。
役所は決まりによって動く。その決まりを決めるのは議会である。つまり、議員達に役所の運営を変える権限と責任がある。もし、自治体の役所がうまく機能していないなら、その責任は基本的には首長にある。国なら内閣総理大臣にある。そして直接的には、自治体なら役所の責任者にあるし、国なら各庁の最高責任者・大臣にある。これが我が国日本の民主主義社会の行政機能の在り方、運営の仕方である。
自治体や国家の立法機関の機能とは、政策の惰性態(お役所や官庁の仕事)に関する点検や改善を行うことである。行政機能(お役所や官庁)は政策の惰性態を前提にして動く限り、その惰性態(日常的なルーチン業務)によって生じている行政の非効率や機能不全を自浄する機能を自ら備えていない。その行政機能の改善を行う機能として立法機能がある。何故なら、行政機能は法律によって動くように定められている。行政が効率よく動く法律を決めるのが立法である以上、行政改革とは立法上の改革から始まるのが民主主義国家での行政改革である。
つまり、役人を変えるのは、彼らの良心に訴えるのではなく、彼らが市民のために働けるように決まりを変え、制度を作る必要がある。それが出来るのは議員である。つまり、その改善を市民から選挙を通じて委託されている人々である。
立法機関は、政策の惰性態を見直し、その政策の機能を回復させるために、その政策の改善に必要な処置、つまり部分的変更、補足、もしくは全面的廃止と新たな政策提案を行うことである。行政機能は立法化された制度によって運営されている以上、行政機能のマヒの責任は立法機関にある。もし、行政機能が立法(法律)に反する行為を行った場合には、その責任は行政担当者に重く科せられている。それを公務員の国民に対する義務と呼んでいる。
行政改革を進める政治指導とは何か 田中真紀子大臣が起こした波紋とその課題
田中真紀子文部大臣は三つの大学認可に異議を唱えるに当たって「現在の日本の高等教育は、半数の大学が定員割れを起こし、大学教育の劣化、国際競争力の低下という重大な問題を起こしている」と指摘した。田中大臣は、その大きな原因として大学審議会がこれまで行ってきた認可行政を指摘した。
この田中氏の行為を最も評価する視点で語るなら、政治家である田中氏は、予め、三つの大学の許可に異議を挟むことで、文科省の官僚、世論、野党がどのように動くかを計算していたのかも知れないと言えそうだ。そして、事態は彼女の予測した通りに進み、世論が騒いでくれた。殆のマスコミが田中氏を批判した。しかし、その報道の1割ぐらいが、現在の大学教育の問題を取り上げた。その結果、大学改革を次の文部科学省の教育改革の課題に入れることに成功した。3ヵ月の大臣任期を前提にして、「こう(三大学設置認可拒否という常識では考えられない大臣の行動)でもしないと役所は動かない」と語る田中角栄の娘である真紀子氏が取った強かな政治であったとも解釈できる。
これが、田中真紀子大臣の行為を最大限に評価した解釈である。しかし、この解釈は多分、多くのマスコミでは、一笑に値すると言われるに違いない。そして彼女を「暴走オバサン」と呼び、日本の深刻な大学教育問題でなく、審議会の審査結果を無視し、三大学を困らせた非常識の大臣の問題として、今後は取り上げられるに違いない。
国会での問責決議と騒ぐ自民党は、まさに、日本の大学教育をここまでも荒廃させた責任を感じていないのだろうか。そして、これまで、民主党で文部科学大臣をやってきた政治家は、田中真紀子氏の行動をどう評価しているのだろうか。
田中真紀子大臣の行動に対して自民党幹事長の石破氏は「手続きを理解しない行動」であると批判した。この発言は田中氏の行動を批判する一つの理由となる。つまり、田中大臣は行政機関の最高責任者として、その行政機能の惰性態を理解し、そこで生じる問題を行政自体の問題として提起するのでなく、大学改革を行うための審議会や第三者委員会等々の制度・法律改革のための超党派での国会議員の活動、つまり立法機能がやるべき課題として提起すべきであったとも言える。
それは田中氏個人の問題でなく、民主党の教育行政に関する問題である。民主党は、政権当初から我が国の高等教育に対する方針を持っていなかった。そのため、極めて深刻な大学教育問題が放置され、半数近い大学が定員割れを起こし、中小大学の教育能力は劣化の一途を辿り、自民党政権の教育に自由競争を取り入れた政策上の問題が拡大しようとしているのである。(2) 勿論、大学教育機能に自由競争を取り入れることによって多くの高等教育の課題が前進したことは事実である。しかし、教育現場では、教育産業の熾烈な自由競争に打ち勝つために、企業化した大学間の厳しい経営戦争に生き残るための日常的な対応に追われているのである。今回の問題でも、三大学法人が慌てふためいた理由に、生き残りを掛けた大学法人の必死の大学改革の動きが背景にある。
大学教育の改革、21世紀社会に貢献する高等教育の在り方、国際競争力をもつ日本の大学等々の課題に、現在の大学法人が無関心である筈がない。こうした大きな教育改革への教育行政的課題は民主党や自民党の政治家よりも、文部科学省の役人や現場の大学教育者がひしひしと感じていることも事実である。大学改革を望んでいる教育現場や文部科学官僚の要請に応えられないのは立法機能の責任者達(政党や議員)であることは否定できないだろう。
この意味で、田中真紀子大臣の初めから解散を前提にして成立した新内閣の閣僚田中真紀子氏の思い切った「肉を切らせて骨を切る」勇気ある行動を称えたいと思う。しかし、同時に、行政改革のための地道な手続きを行う時間と手法の必要性も政治家として立法機能の不在を自己批判しながら、改革のための手続きを示す必要があったと痛感する。
しかし、現実の我が国の国会では、国の在り方を問うことが、具体的な政策を検討することでなく、政局を議論することになっているようだ。この政治環境では、永遠に行政改革を行うことは出来ないだろう。ましては、この政治家どもを正すための政治改革など夢のまた夢だろう。
高等教育改革を提案するための必要な手続きを仮定すると
今回、田中真紀子大臣に与えられた高等教育改革の政策提案と実現の時間は余りにも短いために、本来あるべき手続きを述べても、それは、寧ろ、田中大臣に「高等教育改革の提案は今回は無理」ということになる。そこで、田中大臣が、十分に時間を与えられているという仮定の上で、政治指導の路線で、高等教育改革を提案する場合を考えて、その手順と方法を検討してみよう。
1、 民主党のマニフェストの高等教育の改革提案が現実の問題に答えるものでない場合、田中真紀子議員は、それらのマニフェストを見直し分析し、問題点や不十分な箇所を修正変更し、自らの提案を加えて、民主党の教育政策委員会(存在すると仮定して)に提出する。
2、 文部大臣からの提案を受けて、民主党内では教育政策委員会のメンバーが検討会を開く。民主党教育政策委員会議員は、民主党の教育政策を具体的に検討し政策提案をサポートする専門家会議(存在すると仮定して)に、文部大臣からの提案の検討を依頼する。
3、 民主党教育政策委員会専門家会議はその提案を受け、専門的調査研究活動企画を委員会に提示し、専門家会議を行い、専門家会議としての答申を出す。
4、 教育政策委員会では、専門家会議の答申を受けて、専門家会議の委員若干名を入れて、委員会を開き、教育政策委員会としての「文部科学大臣からの政策課題提案に関する答申」を出す。
5、 文部大臣は民主党教育政策委員会からの答申を文部科学省内で検討するために、文部科学省内に「高等教育改革プロジェクト・会議」を組織し、この課題を検討するために必要な人材を集める。省内の専門家以外に、民主党教育政策委員会議員、他の省や民間団体、シンクタンク、教育機関から必要な人材を集めることが出来る。
6、 「高等教育改革プロジェクト・会議」は民主党教育政策会議から出された「文部科学大臣からの政策課題提案に関する答申」の具体的検討、分析、解釈を行い、その修正や補足をし、「文部科学大臣からの指示による高等教育改革案に関する答申」を作成する。
7、 それらの答申は、文部科学省の中にある各党の議員、官僚、専門家によって作られている「高等教育政策委員会」(在ると仮定して)に掛けられる。
8、 その「高等教育政策委員会」での議論を経て、「高等教育改革プロジェクト・会議」は具体的な法案作成を行う。
9、 「高等教育改革プロジェクト・会議」の具体的な法案や制度改革の提案を「高等教育政策委員会」が検討し、承認、訂正、補足を行い、「高等教育政策委員会」の最終的な提案を作る。
10、 文部科学大臣は「高等教育政策委員会」の最終的な提案を国会でさらに検討し、訂正、補足を行い、国の高等教育改革の政策として確立する。
以上である。
しかし、現実の政治家の関心は
しかし、この手続きを行うためには、政権は少なくとも4年は安定している必要があるし、大臣も最低4年間の任期が必要である。つまり、上記した手続きが出来る政治的環境にないことが、さらにこの国の政治を混乱させ、国を疲弊させつづけている。
そろそろ、国益のために、政局論争をやめて、政策論争と国家の在るべき姿を議論し、国民からの意見を聞くべきではないかと思う。しかし、今日も、「太陽の党」が発足し、原発事故、今後のエネルギー政策、東アジアンの平和的共存、赤字債権問題等々は、「大切な問題」かもしれないが、大同団結して自分たちの権力を取る課題に比べれば「些細な」ことであると言っているようである。
かっての若き憂国の士は「暴走老人」になったのか、それとも「ぼけて」しまったのか。
参考資料
1、三石博行 「体制の保守、改革と破棄と呼ばれる政策の三つの形態」2012年11月7日 http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_7.html
2、三石博行 ブログ文書集「大学教育改革論」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/04/blog-post_6795.html
3、三石博行 ブログ文書集「国民運動としての政治改革」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_9428.html
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2012年11月7日水曜日
体制の保守、改革と破棄と呼ばれる政策の三つの形態
政治改革の課題(3)
三石博行
政治的な問題解決手段としての政策
コトバンク(世界大百科事典 第2版の解説)によると、政策とは「一定の意図を実現するために用意される行動案もしくは活動方針を広く政策というが,文脈に応じてかなり多義的に用いられる」と説明されている。政策は英語では、Policyという単語である。この意味は「政党や会社あるいはその他の組織である一つの集団が決定を行う一つの行動計画や目標のセット、あるいは決定や行動が準拠する一つの原則や一組の原則」(Wikipedia)であると説明されている。
コトバンク(世界大百科事典 第2版の解説)によると、政策とは「一定の意図を実現するために用意される行動案もしくは活動方針を広く政策というが,文脈に応じてかなり多義的に用いられる」と説明されている。政策は英語では、Policyという単語である。この意味は「政党や会社あるいはその他の組織である一つの集団が決定を行う一つの行動計画や目標のセット、あるいは決定や行動が準拠する一つの原則や一組の原則」(Wikipedia)であると説明されている。
問題解決の手段や行為を表す一般的な用語として「対策」と言う用語がつかわれている。では、政策と対策の違いとは何か。前者が政府や自治体等の公共体が行う政治的な問題解決手段や行為を意味し、後者は問題解決の手段や行為一般を意味していると言える。問題解決に対する行為を一般的に対策とすれば、その対策という行為が政治的課題に限定されることで政策という概念となる。つまり、政策とは政治的な問題解決策という意味である。
政策の惰性態と保守性
一般的な政策は存在しない。政策とは特定の何かに対する政策である。つまり、ある具体的な政治的目標を持つ。しかも、その具体的な政治目標である以上、ある具体的な政治体制に於いて生じている課題である。政策とはある具体的政治体制上の法的、組織的課題を改革修正し、ある具体的な制度上の持続、修正や廃止に必要な立法上及び行政上の作業である。
政治的目標を持たない政策はない。仮に、長年続けられている政策があるとしても、その政策は持続しているということに政治的意味を持っている。その意味で、ある具体的な政治的目標を実現するために計画的に維持、修正、廃止される政治的行為を政策と呼ぶ。
政府や政権与党に対して「政策を持たない」とか「無策」という批判が起こる。その場合の「政策を持たない」という表現は、「現在ある政策は有効性を持たないのに、その政策の修正は廃止、もしくは、新しい政策を出さない」という意味である。つまり、政治体制とは政策行為主体であるかぎり、すべての行政機能は政策行為として動いている。政策がないというのは、ある具体的な社会政治文化問題の解決やそれらの課題の合理的運営を行うために必要な社会政治制度、つまり立法や行政機能が存在していないという意味である。
政策とは、ある具体的で日常的な行政的行為である。そのことは、政策の保守性を意味する。つまり、政策はその政策を常に維持しようとする傾向を持つ。それを政策の惰性態と呼ぶことにする。何故なら、政策に不都合がないのに、その政策を変更することは、変更された政策によってシステムの損害のリスクが生じることを意味する。システムに損害を与えない政策は維持し保存することが最もシステムが消費するエネルギーを少なくすることになる。これが、政策の保守性や惰性態に関する「限界資源活用経済合理性」理論(仮説)からの説明となる。
政策の刷新と変更
政策が有効に機能しないことを行政や社会システムの機能麻痺状態と呼ぶ。行政の日常的業務に支障が生じている状態を行政の機能不全と呼ぶ。つまり、政策の問題処理能力が低下するために、社会システムの運営に支障を来たしている状態が起る。それを解決するには政策の修正、破棄、更新が必要となる。
政治的行為とはその政策の有効性を検証し、その維持、修正、破棄、更新を決定することを意味する。政策は常に日常的に行政や立法機関の機能として取り行われる判断や施行基準である。
例えば、伝統的で慣習的な政策が機能麻痺を起こすとき、社会システムの中で慣例的に機能していた社会構造の運営効率が落ちていく。社会運営に費やす資源が多くなることで、その社会システムの運営に巨額の費用が必要となる。その浪費的システムによって国力は衰え、人々は貧困生活に喘ぐことになる。
つまり、政策とは国家がその制度を維持するために、所有し活用できる資源をより有効に活用する形態を意味している。国家権力中枢によってそれらの資源が乱用され、国家機能が麻痺するまでにその乱用が放置される時、そこに制度内部での改革が生まれる。しかし、国家機能が麻痺しないまでも、国家権力中枢を占める特権者たちはその資源を自分達のものとして利用するだろう。これが、国家を構成する社会制度や権力構造とその国家の資源運用のあり方の「限界資源活用経済合理性」理論(仮説)からの説明となる。
体制崩壊としての政策体系の変更(政策のパラダイムチェンジ)
しかし、政策の刷新を繰り返し行っても、システムが機能不全から脱却できない状態にある場合には、そのシステム自体の制度改革が必要となる。その場合、これまでの政策に貫かれた社会思想と制度理念の全体の変革が求められる。この制度自体の変更を革命と呼ぶのだが、例えば、社会史の中で、最も典型的な革命は市民革命である。古い封建制度が新興階級(市民階級)の生産様式を疎外するとき、二つの利害の異なる階級が衝突することになる。社会がより合理的な経済制度を選ぶことによってその衝突の決着が付けられる。つまり、より生産力や社会資源力を生み出す階級が勝利し、その階級が最も都合よく運営できる国家制度が生まれる。それを革命と呼んでいる。
しかし、世界で進む近代化や資本主義社会の形成や発展の過程は、18世紀以降の欧米社会のそれらの歴史の繰り返しではない。つまり、欧米型の資本主義社会形成過程が世界の全ての近代化や工業化の普遍的な形態ではない。近代化過程や資本主義化は国によって異なるのである。例えば、列強の植民地支配から国家を守るために、近代国家大日本帝国では、天皇制による絶対君主制下で資本主義政策を推進した。欧米の社会史から観ると近代国家日本には、民主主義以前の絶対君主制と資本主義社会が同時に存在している状態であった。つまり、大日本帝国という絶対君主制国家が近代化と呼ばれる資本主義生産体制形成の先頭に立っていた。
天皇制と資本主義生産様式の強化は、西洋の社会からは矛盾した社会制度に見えるのだが、日本の歴史からは、この二つをもって国力を発展させるのが最も合理的な選択であった。つまり、「限界資源活用経済合理性」理論(仮説)からの日本の近代化過程に関する説明例である。
同様の説明は近代化のために社会主義経済を選んだロシアや中国にも当てはまるのである(2)。例えば、社会主義体制化で進む自由主義経済は国家政策として産業や国家企業による世界市場での競争力を得ることで、急激に発展することになる。しかし、その体制を更に発展させるためには、国内の産業制度を自由主義経済体制によって強化しなければならない。その自由主義経済の発展は、それを進めた社会主義権力構造自体を破壊することになる。
つまり、政策とはその政策を生み出す社会システムの一部である。政策の基本的な目的はその社会制度を維持するためにある。つまり政策は制度保存のために執り行われる政治的行為であると言える。このことを政策の惰性態や政策の刷新という概念で述べた。しかし、それらの政策を生み出す社会システムがその政策の刷新や変革をもっても機能不全を繰り返す時に、社会システム(国家)はその制度自体を根本から変えることを迫られる。
国家の政治制度が根本的に変わることを革命と呼んでいる。例えば、絶対君主制社会から国民主権国家へと革命によって政策の根本理念が変化する。つまり政策パラダイムチェンジを意味する。過去の政策理念は破壊され、新しい政策理念が創り出される。それの新しい政策理念によって、新しい国家(社会システム)は維持され、発展して行くのである。
つまり、「ある国家制度やその機能が麻痺(機能不全状態)している場合、しかも、その制度内での改革では機能不全状態を解消できない場合には、国家制度の抜本的変革が行なわれる。つまり、ある国家形態(社会生物個体)の保存の限界は、その社会生物個体の死を以って、その母体(社会生物種・人類)を保存しなければならない。個体保存よりも種の保存が優先されるのが生物の世界の掟である。そのように、社会生物世界でも、この掟は守られる。社会生物体が、その社会生物個体の死をもって種(人類)の保存を行なうことを革命と呼んでいる。」(1)、これが、「限界資源活用経済合理性」理論(仮説)からの、革命による政策パラダイム変換の解釈である。
参考資料
1、三石博行 「生態・社会資源の限界と国家の形態 -政治改革の課題(2)-」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_5.html
2、三石博行 「中国の近代化・民主化過程を理解しよう 」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/12/blog-post_1850.html
3、三石博行 「ブログ文書集 国民運動としての政治改革」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_9428.html
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三石博行
政治的な問題解決手段としての政策
コトバンク(世界大百科事典 第2版の解説)によると、政策とは「一定の意図を実現するために用意される行動案もしくは活動方針を広く政策というが,文脈に応じてかなり多義的に用いられる」と説明されている。政策は英語では、Policyという単語である。この意味は「政党や会社あるいはその他の組織である一つの集団が決定を行う一つの行動計画や目標のセット、あるいは決定や行動が準拠する一つの原則や一組の原則」(Wikipedia)であると説明されている。
コトバンク(世界大百科事典 第2版の解説)によると、政策とは「一定の意図を実現するために用意される行動案もしくは活動方針を広く政策というが,文脈に応じてかなり多義的に用いられる」と説明されている。政策は英語では、Policyという単語である。この意味は「政党や会社あるいはその他の組織である一つの集団が決定を行う一つの行動計画や目標のセット、あるいは決定や行動が準拠する一つの原則や一組の原則」(Wikipedia)であると説明されている。
問題解決の手段や行為を表す一般的な用語として「対策」と言う用語がつかわれている。では、政策と対策の違いとは何か。前者が政府や自治体等の公共体が行う政治的な問題解決手段や行為を意味し、後者は問題解決の手段や行為一般を意味していると言える。問題解決に対する行為を一般的に対策とすれば、その対策という行為が政治的課題に限定されることで政策という概念となる。つまり、政策とは政治的な問題解決策という意味である。
政策の惰性態と保守性
一般的な政策は存在しない。政策とは特定の何かに対する政策である。つまり、ある具体的な政治的目標を持つ。しかも、その具体的な政治目標である以上、ある具体的な政治体制に於いて生じている課題である。政策とはある具体的政治体制上の法的、組織的課題を改革修正し、ある具体的な制度上の持続、修正や廃止に必要な立法上及び行政上の作業である。
政治的目標を持たない政策はない。仮に、長年続けられている政策があるとしても、その政策は持続しているということに政治的意味を持っている。その意味で、ある具体的な政治的目標を実現するために計画的に維持、修正、廃止される政治的行為を政策と呼ぶ。
政府や政権与党に対して「政策を持たない」とか「無策」という批判が起こる。その場合の「政策を持たない」という表現は、「現在ある政策は有効性を持たないのに、その政策の修正は廃止、もしくは、新しい政策を出さない」という意味である。つまり、政治体制とは政策行為主体であるかぎり、すべての行政機能は政策行為として動いている。政策がないというのは、ある具体的な社会政治文化問題の解決やそれらの課題の合理的運営を行うために必要な社会政治制度、つまり立法や行政機能が存在していないという意味である。
政策とは、ある具体的で日常的な行政的行為である。そのことは、政策の保守性を意味する。つまり、政策はその政策を常に維持しようとする傾向を持つ。それを政策の惰性態と呼ぶことにする。何故なら、政策に不都合がないのに、その政策を変更することは、変更された政策によってシステムの損害のリスクが生じることを意味する。システムに損害を与えない政策は維持し保存することが最もシステムが消費するエネルギーを少なくすることになる。これが、政策の保守性や惰性態に関する「限界資源活用経済合理性」理論(仮説)からの説明となる。
政策の刷新と変更
政策が有効に機能しないことを行政や社会システムの機能麻痺状態と呼ぶ。行政の日常的業務に支障が生じている状態を行政の機能不全と呼ぶ。つまり、政策の問題処理能力が低下するために、社会システムの運営に支障を来たしている状態が起る。それを解決するには政策の修正、破棄、更新が必要となる。
政治的行為とはその政策の有効性を検証し、その維持、修正、破棄、更新を決定することを意味する。政策は常に日常的に行政や立法機関の機能として取り行われる判断や施行基準である。
例えば、伝統的で慣習的な政策が機能麻痺を起こすとき、社会システムの中で慣例的に機能していた社会構造の運営効率が落ちていく。社会運営に費やす資源が多くなることで、その社会システムの運営に巨額の費用が必要となる。その浪費的システムによって国力は衰え、人々は貧困生活に喘ぐことになる。
つまり、政策とは国家がその制度を維持するために、所有し活用できる資源をより有効に活用する形態を意味している。国家権力中枢によってそれらの資源が乱用され、国家機能が麻痺するまでにその乱用が放置される時、そこに制度内部での改革が生まれる。しかし、国家機能が麻痺しないまでも、国家権力中枢を占める特権者たちはその資源を自分達のものとして利用するだろう。これが、国家を構成する社会制度や権力構造とその国家の資源運用のあり方の「限界資源活用経済合理性」理論(仮説)からの説明となる。
体制崩壊としての政策体系の変更(政策のパラダイムチェンジ)
しかし、政策の刷新を繰り返し行っても、システムが機能不全から脱却できない状態にある場合には、そのシステム自体の制度改革が必要となる。その場合、これまでの政策に貫かれた社会思想と制度理念の全体の変革が求められる。この制度自体の変更を革命と呼ぶのだが、例えば、社会史の中で、最も典型的な革命は市民革命である。古い封建制度が新興階級(市民階級)の生産様式を疎外するとき、二つの利害の異なる階級が衝突することになる。社会がより合理的な経済制度を選ぶことによってその衝突の決着が付けられる。つまり、より生産力や社会資源力を生み出す階級が勝利し、その階級が最も都合よく運営できる国家制度が生まれる。それを革命と呼んでいる。
しかし、世界で進む近代化や資本主義社会の形成や発展の過程は、18世紀以降の欧米社会のそれらの歴史の繰り返しではない。つまり、欧米型の資本主義社会形成過程が世界の全ての近代化や工業化の普遍的な形態ではない。近代化過程や資本主義化は国によって異なるのである。例えば、列強の植民地支配から国家を守るために、近代国家大日本帝国では、天皇制による絶対君主制下で資本主義政策を推進した。欧米の社会史から観ると近代国家日本には、民主主義以前の絶対君主制と資本主義社会が同時に存在している状態であった。つまり、大日本帝国という絶対君主制国家が近代化と呼ばれる資本主義生産体制形成の先頭に立っていた。
天皇制と資本主義生産様式の強化は、西洋の社会からは矛盾した社会制度に見えるのだが、日本の歴史からは、この二つをもって国力を発展させるのが最も合理的な選択であった。つまり、「限界資源活用経済合理性」理論(仮説)からの日本の近代化過程に関する説明例である。
同様の説明は近代化のために社会主義経済を選んだロシアや中国にも当てはまるのである(2)。例えば、社会主義体制化で進む自由主義経済は国家政策として産業や国家企業による世界市場での競争力を得ることで、急激に発展することになる。しかし、その体制を更に発展させるためには、国内の産業制度を自由主義経済体制によって強化しなければならない。その自由主義経済の発展は、それを進めた社会主義権力構造自体を破壊することになる。
つまり、政策とはその政策を生み出す社会システムの一部である。政策の基本的な目的はその社会制度を維持するためにある。つまり政策は制度保存のために執り行われる政治的行為であると言える。このことを政策の惰性態や政策の刷新という概念で述べた。しかし、それらの政策を生み出す社会システムがその政策の刷新や変革をもっても機能不全を繰り返す時に、社会システム(国家)はその制度自体を根本から変えることを迫られる。
国家の政治制度が根本的に変わることを革命と呼んでいる。例えば、絶対君主制社会から国民主権国家へと革命によって政策の根本理念が変化する。つまり政策パラダイムチェンジを意味する。過去の政策理念は破壊され、新しい政策理念が創り出される。それの新しい政策理念によって、新しい国家(社会システム)は維持され、発展して行くのである。
つまり、「ある国家制度やその機能が麻痺(機能不全状態)している場合、しかも、その制度内での改革では機能不全状態を解消できない場合には、国家制度の抜本的変革が行なわれる。つまり、ある国家形態(社会生物個体)の保存の限界は、その社会生物個体の死を以って、その母体(社会生物種・人類)を保存しなければならない。個体保存よりも種の保存が優先されるのが生物の世界の掟である。そのように、社会生物世界でも、この掟は守られる。社会生物体が、その社会生物個体の死をもって種(人類)の保存を行なうことを革命と呼んでいる。」(1)、これが、「限界資源活用経済合理性」理論(仮説)からの、革命による政策パラダイム変換の解釈である。
参考資料
1、三石博行 「生態・社会資源の限界と国家の形態 -政治改革の課題(2)-」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_5.html
2、三石博行 「中国の近代化・民主化過程を理解しよう 」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/12/blog-post_1850.html
3、三石博行 「ブログ文書集 国民運動としての政治改革」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_9428.html
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2012年11月5日月曜日
生態・社会資源の限界と国家の形態
政治改革の課題(2)
三石博行
幻想としての唯一の民主主義社会と現実としての多様な民主主義国家
民主主義社会は国民の政治参加が無ければ構築できない。国民の政治への意識の高さがその国の民主主義のバロメータとなる。国民の政治意識の高さや政治への参加活動によって国家が利益を得ている社会を民主国家と言う。つまり、国民の積極的な政治参加によって国家が運営されている状態が国民主権社会である。
言い方を換えると、民主主義社会では、国民の社会や国家に対する責任と義務が問われていることになる。国家や自治体の運営状況について国民一人ひとりが、それを運営しているという自覚、そしてその責任を理解し、果そうとしない限り、民主主義社会は形成発展しないのである。
民主主義社会は、その意味で、個人的な生活への関心と同じくらい社会運営への関心を要求する社会でもある。この考え方は民主主義の理念と呼ばれているものである。現実は、世界のどの国を見ても、民主主義の理念を満たしている国はない。これが、現実の民主主義国家の姿である。つまり、世界には色々な民主主義国家がある。それが21世紀社会の民主主義国家群の現実である。
多様な民主主義国家運営の現実とそれに対する民主主義の理念の闘いはどうして生まれるのだろうか。つまり、理念や理想は常にある現実に対する否定的批判的駆動性を発揮している。理念が無い限り、現実を変える動機は生まれない。あるプログラム化された社会理念(観念)は、現実の社会形態をその観念形態のもっとも理想的な姿に変革しようとする。これが社会文化のある意味で生きた姿であるとも言える。
言換えると、民主主義の理念は、現実の民主主義国家のすべてにその理念に即し、「真の民主主義」に成るように要請、脅迫しているかのうようである。果たして、欧米を真の民主主義社会と呼び、そうでない社会を民主主義国家ではないと言えるだろうか。つまり、そこには欧米中心主義社会思想があり、欧米の社会史や社会制度から周辺諸国のそれを評価している。そうした考え方の極論として、アメリカ民主主義を他の世界に押し付ける考え方が生まれているといえる。
現実の国家の形態を規定する「限界資源活用経済合理性」
見方を変えれば、国家のかたちは、その理念によってではなく、その経済合理性によって最も現実的な形態を取っていると言える。世界に色々な民主主義があるのは、それなりにその形態が、その国の現実で、今一番、合理的(経済的)であるからとも言える。
イラクを民主主義国家に発展させるためには、アメリカは独裁者サダム・フセインを打倒すべきだと主張した。しかし、それはアメリカの国益上、イラクのサダム・フセイン政権が邪魔になったという理由に過ぎなかった。イラクから独裁者サダムが居なくなっても、イラクばアメリカの望むアメリカ的な民主主義国家にはならなかった。この事実からも、民主主義とは一つではなく、また民主主義は他の国家権力によって移植され、強制されて形成発展することはない社会制度であることを知るべきである。
こうした考え方の背景には、国家の形態を生活資源生産力の状態とその最も合理的経済的な消費形態に求める考え方がある。この考え方は生活資源から人類史を解釈した生活資源史観(1)を援用し展開したものである。
例えば、国民に国家運営の能力がないと判断していた時代では、こうした複雑多様で専門的な国家や自治体運営を官僚や職業的政治家と呼ばれる専門家に任せてきた。この委任によって、国家や自治体は合理的且つ経済的に運営されていた。
特に、封建君主制度や絶対王政では、国の運営を担う専門家を育てるために、ある特定の家族(王族)に対して、その義務と権限を与え、最も合理的に、つまり、幼児から帝王学を教え、国家の管理や運営の現場(官僚行政制度の中)で徹底して学習と経験を積ませ、君主や皇帝など権力中枢を担う専門家に育て上げてきた。
人間や家畜の労働力に依存し、農林漁業を中心とした産業社会、つまり人的、物質エネルギー的資源の少ない時代、機械制工業生産以前の社会では、少ない資源力を最も有効に活用し、封建社会制度、国家運営の形態を創ってきたと解釈できる。この考え方を「限界資源活用経済合理性」と呼ぶことにする。限界ある資源を最も経済的に活用する社会的形態を意味する。社会は最も経済的かつ現実的にその資源を活用するように働くという意味である。しかし、現実の社会形態がすべて最も合理的であると言う意味ではない。寧ろ、この「限界資源活用経済合理性」の意味は、経済的で合理的な資源利用に向かって社会形態は常に運動しているという意味である。
人類は、種(民族国家)を維持し、かつ人間個体の生命を維持するために、その時代や社会環境、言い換えると、生活資源の生産力に応じて、最も経済的な制度を編み出してきたと言える。生態系の資源環境に規定された社会文化(文明)の形態を人類史的に解釈したのが、梅棹忠男の「文明の生態史観」(1)であったと言えるだろう。
つまり、「限界資源活用経済合理性」の仮説には、国家の形態は、その国家の生産する生活経済資源量やその質によって決定されているという考え方が背景にある。また、生活資源から歴史を理解する考え方を生活資源史観(2)(3)(4)(5)と呼んだが、その生活資源史観によって社会文化形態を理解しようという試みでもある。
すべての政治社会形態はその存在合理性がまずある。その存在合理性の背景となるのが、与えられている生活経済資源の最も合理的で経済的な利用形態である。その利用形態に最も合理的な国家の運営方法や運営形態が選択される。これが「限界資源活用経済合理性」に基づき歴史的に生態環境的に選択された社会や文化とその歴史的進化形態を生活資源史観と呼ぶのである。
多様な資本主義(民主主義)国家の存在理由を理解する政治社会文化人類学的視点
資本主義生産様式によって導かれる民主主義社会も「限界資源活用経済合理性」を前提にして成立している。それらの民主主義社会は多様な歴史的背景、社会、文化や生態環境に影響され一つの国に一つの民主主義社会文化が存在していると言えるほど、多様な姿をしている。それが現実の民主主義社会の姿である。
言換えると、その国の政治形態は、その国固有の歴史、文化、経済、生活、生態環境の現実から生まれている。それの在り方を決定しているのが限界資源活用経済合理性である。一般的に国家の運営形態は、その国家が持つ資源の最も合理的経済的利用形態によって規定されると言うことになる。限界資源活用経済合理性によるとすべての社会にはその社会が存在する理由があり、社会形態を選択した経済的合理性が在ると述べていることになる。
この限界資源活用経済合理性の考え方は、今ある国家の存在理由を絶対的に肯定するように思われるだろう。つまり、ナチスドイツ、ファシズムイタリアも大日本帝国も、それなりにその国の在り方が歴史的に選択された合理的理由があると述べていることになる。その国家を現在の人々が否定したとしても、その社会が過去のドイツ、イタリアや日本の歴史的経過の中で、存在していた合理的理由があると言うことになる。
この限界資源活用経済合理性の考え方による社会分析では、現実にあるものを否定することよりも、その現実にあるものの存在理由を問い掛けることが課題となる。認めようと認めまいと、共産党一党独裁国家、イスラム国家、ユダヤ国家等々、民主主義の思想とは相いれない政治体制を持つ国家は存在している。その国家の存在を否定することでなく、その存在理由を歴史的、文化的、そして社会経済的に理解する視点として限界資源活用経済合理性の考え方がある。
この限界資源活用経済合理性の理論、生活資源史観等は、これまでの経済主義的な社会歴史観とは異なる。その基盤には社会経済の発展を生活資源の視点から観ているということに尽きる。つまり、限界資源活用経済合理性の理論は正統派の政治経済史の方法ではなく、文化人類学的な視点から、社会進化を見ていると言える。政治社会文化人類学的に多様な資本主義(民主主義)社会の存在理由を理解することが、限界資源活用経済合理性の意味である。
「限界資源活用経済合理性」仮説の理論的背景としての生物社会学とその限界
「限界資源活用経済合理性」の理論的仮説を使って、国家のあり方(かたち)を文明社会史的視点に立って解釈した。政治経済社会の進化の歴史的形態を生態文化的且つ生活資源史観的な視点で分析した。国家の存在理由をマクロ的視点に立って観た場合、全ての国家がその存在理由を持つという考え方に立っていることになる。この仮説(限界資源活用経済合理性の理論)は歴史的に存在した国家形態の存在理由を理解し、存在した国家の意味付けを行なったにすぎない。
つまり、この「限界資源活用経済合理性」の理論は生物学的な視点から社会形態を解釈している。社会を一つの生物体として理解し、その生物体は種の保存と個体保存の規則性に規定され存在していると解釈する。社会形態での種の保存とは、社会生物体の母体である「人類種の保存」を意味する。また社会生物体での個体保存とは個別社会形態の保存を意味する。つまり、社会はその社会形態を保存するために機能している。例えば、封建社会は封建制度を維持するために機能しているし、民主主義社会は民主主義の制度を維持するために機能していると解釈したのである。
言い換えると、「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である」と言う有名なヘーゲルのことばを持ち出すまでもなく、「存在しているものは、何らかの存在合理性を背景に存在している」という哲学的な解釈がこの「限界資源活用経済合理性」理論(仮説)の背景にある。つまり、この国家観からは国家の保守性は理解できる。しかし、この仮説から政治改革や政権交代、さらには革命と呼ばれる国家形態の構造変換も「限界資源活用経済合理性」理論(仮説)から理解することができるだろうか。
国家機能の伝統、慣習、改革やその革命的な機能転換の解釈
国家機能や社会制度は、その機能と制度と呼ばれる運動によって維持されている。古代国家から絶対君主制度までは、政(まつりごと) を担う官僚制度、軍隊(国防や治安)、財務管理や王族(王室)の管理等々が国家の機能として営まれていた。それらの機能はその時代の権力構造を維持していた。言い換えると、権力の維持がその機能の目的であった
その目的を遂行するために、機能や制度が維持される。例年繰り返し同じ制度や機能が維持され続けている状態を「国家機能の惰性態」と呼ぶことにする。つまり、国家機能の惰性態では、制度改革は生じない。つねに、伝統的な習慣に基づく政(まつりごと)が例年、定期的に繰り返される。この習慣的な繰り返しによって、国家は最も合理的な資源活用の政治経済体制を維持し続けるのである。それが、「限界資源活用経済合理性」仮説からの、慣習的な政策実行に関する説明である。
同じように、その権力構造を維持するために、政策執行機能や制度の変革が行なわれる。言換えると、国家制度やその機能の変革(改革)もその国家権力構造の維持のために行なわれている。国家機能や制度を変革しその基本構造を維持し続ける状態を「国家機能の改革態」と呼ぶことにする。この制度改革によって、国家は最も合理的な資源活用の政治経済体制を構築し続ける。それが、「限界資源活用経済合理性」仮説からの、国家体制内での制度改革に関する理解となる。
もし、ある国家制度やその機能が麻痺(機能不全状態)している場合、しかも、その制度内での改革では機能不全状態を解消できない場合には、国家制度の抜本的変革が行なわれる。つまり、ある国家形態(社会生物個体)の保存の限界は、その社会生物個体の死を以って、その母体(社会生物種・人類)を保存しなければならない。個体保存よりも種の保存が優先されるのが生物の世界の掟である。そのように、社会生物世界でも、この掟は守られる。社会生物体が、その社会生物個体の死をもって種(人類)の保存を行なうことを革命と呼んでいる。
つまり、革命によって、人類は最も合理的な資源活用の政治経済体制を再構築し、存続し続けようとする。それが、「限界資源活用経済合理性」仮説からの、国家体制そのものを変革する革命と呼ばれる制度変更に関する解釈となる。
「成長経済主義を越えて成熟循環型経済社会への転回のために」 目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2015/01/blog-post_72.html
参考資料
1、梅棹忠夫 『文明の生態史観 』(中公文庫)
2、三石博行 『生活資源論』
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_02.html
「阪神淡路大震災時に必要とされた生活情報の調査活動から展開された「生活情報論」、つまり、生活情報を生存条件に必要な生活資源に関する情報(一次生活情報)、生活環境を豊かにするたに必要な生活資源に関する情報(二次生活情報)と欲望を満たすために必要な生活資源に関する情報(三次生活情報)の三つの生活情報の構造から分類し、それらの情報の量的変化から観た人類史観を「生活情報史観」と呼んだ。」
3、三石博行「設計科学としての生活学の構築−プログラム科学としての生活学の構図に向けて−」2002.12 金蘭短期大学研究誌第33号 pp21-60
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_02/cMITShir02d.pdf
4、三石博行 『生活情報論』
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_03.html
5、三石博行 「生活構造論から考察される生活情報構造と生活情報史観の概念について」
1999.11、情報文化学会誌 第6巻1号
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_03/cMITShir99h.pdf
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三石博行
幻想としての唯一の民主主義社会と現実としての多様な民主主義国家
民主主義社会は国民の政治参加が無ければ構築できない。国民の政治への意識の高さがその国の民主主義のバロメータとなる。国民の政治意識の高さや政治への参加活動によって国家が利益を得ている社会を民主国家と言う。つまり、国民の積極的な政治参加によって国家が運営されている状態が国民主権社会である。
言い方を換えると、民主主義社会では、国民の社会や国家に対する責任と義務が問われていることになる。国家や自治体の運営状況について国民一人ひとりが、それを運営しているという自覚、そしてその責任を理解し、果そうとしない限り、民主主義社会は形成発展しないのである。
民主主義社会は、その意味で、個人的な生活への関心と同じくらい社会運営への関心を要求する社会でもある。この考え方は民主主義の理念と呼ばれているものである。現実は、世界のどの国を見ても、民主主義の理念を満たしている国はない。これが、現実の民主主義国家の姿である。つまり、世界には色々な民主主義国家がある。それが21世紀社会の民主主義国家群の現実である。
多様な民主主義国家運営の現実とそれに対する民主主義の理念の闘いはどうして生まれるのだろうか。つまり、理念や理想は常にある現実に対する否定的批判的駆動性を発揮している。理念が無い限り、現実を変える動機は生まれない。あるプログラム化された社会理念(観念)は、現実の社会形態をその観念形態のもっとも理想的な姿に変革しようとする。これが社会文化のある意味で生きた姿であるとも言える。
言換えると、民主主義の理念は、現実の民主主義国家のすべてにその理念に即し、「真の民主主義」に成るように要請、脅迫しているかのうようである。果たして、欧米を真の民主主義社会と呼び、そうでない社会を民主主義国家ではないと言えるだろうか。つまり、そこには欧米中心主義社会思想があり、欧米の社会史や社会制度から周辺諸国のそれを評価している。そうした考え方の極論として、アメリカ民主主義を他の世界に押し付ける考え方が生まれているといえる。
現実の国家の形態を規定する「限界資源活用経済合理性」
見方を変えれば、国家のかたちは、その理念によってではなく、その経済合理性によって最も現実的な形態を取っていると言える。世界に色々な民主主義があるのは、それなりにその形態が、その国の現実で、今一番、合理的(経済的)であるからとも言える。
イラクを民主主義国家に発展させるためには、アメリカは独裁者サダム・フセインを打倒すべきだと主張した。しかし、それはアメリカの国益上、イラクのサダム・フセイン政権が邪魔になったという理由に過ぎなかった。イラクから独裁者サダムが居なくなっても、イラクばアメリカの望むアメリカ的な民主主義国家にはならなかった。この事実からも、民主主義とは一つではなく、また民主主義は他の国家権力によって移植され、強制されて形成発展することはない社会制度であることを知るべきである。
こうした考え方の背景には、国家の形態を生活資源生産力の状態とその最も合理的経済的な消費形態に求める考え方がある。この考え方は生活資源から人類史を解釈した生活資源史観(1)を援用し展開したものである。
例えば、国民に国家運営の能力がないと判断していた時代では、こうした複雑多様で専門的な国家や自治体運営を官僚や職業的政治家と呼ばれる専門家に任せてきた。この委任によって、国家や自治体は合理的且つ経済的に運営されていた。
特に、封建君主制度や絶対王政では、国の運営を担う専門家を育てるために、ある特定の家族(王族)に対して、その義務と権限を与え、最も合理的に、つまり、幼児から帝王学を教え、国家の管理や運営の現場(官僚行政制度の中)で徹底して学習と経験を積ませ、君主や皇帝など権力中枢を担う専門家に育て上げてきた。
人間や家畜の労働力に依存し、農林漁業を中心とした産業社会、つまり人的、物質エネルギー的資源の少ない時代、機械制工業生産以前の社会では、少ない資源力を最も有効に活用し、封建社会制度、国家運営の形態を創ってきたと解釈できる。この考え方を「限界資源活用経済合理性」と呼ぶことにする。限界ある資源を最も経済的に活用する社会的形態を意味する。社会は最も経済的かつ現実的にその資源を活用するように働くという意味である。しかし、現実の社会形態がすべて最も合理的であると言う意味ではない。寧ろ、この「限界資源活用経済合理性」の意味は、経済的で合理的な資源利用に向かって社会形態は常に運動しているという意味である。
人類は、種(民族国家)を維持し、かつ人間個体の生命を維持するために、その時代や社会環境、言い換えると、生活資源の生産力に応じて、最も経済的な制度を編み出してきたと言える。生態系の資源環境に規定された社会文化(文明)の形態を人類史的に解釈したのが、梅棹忠男の「文明の生態史観」(1)であったと言えるだろう。
つまり、「限界資源活用経済合理性」の仮説には、国家の形態は、その国家の生産する生活経済資源量やその質によって決定されているという考え方が背景にある。また、生活資源から歴史を理解する考え方を生活資源史観(2)(3)(4)(5)と呼んだが、その生活資源史観によって社会文化形態を理解しようという試みでもある。
すべての政治社会形態はその存在合理性がまずある。その存在合理性の背景となるのが、与えられている生活経済資源の最も合理的で経済的な利用形態である。その利用形態に最も合理的な国家の運営方法や運営形態が選択される。これが「限界資源活用経済合理性」に基づき歴史的に生態環境的に選択された社会や文化とその歴史的進化形態を生活資源史観と呼ぶのである。
多様な資本主義(民主主義)国家の存在理由を理解する政治社会文化人類学的視点
資本主義生産様式によって導かれる民主主義社会も「限界資源活用経済合理性」を前提にして成立している。それらの民主主義社会は多様な歴史的背景、社会、文化や生態環境に影響され一つの国に一つの民主主義社会文化が存在していると言えるほど、多様な姿をしている。それが現実の民主主義社会の姿である。
言換えると、その国の政治形態は、その国固有の歴史、文化、経済、生活、生態環境の現実から生まれている。それの在り方を決定しているのが限界資源活用経済合理性である。一般的に国家の運営形態は、その国家が持つ資源の最も合理的経済的利用形態によって規定されると言うことになる。限界資源活用経済合理性によるとすべての社会にはその社会が存在する理由があり、社会形態を選択した経済的合理性が在ると述べていることになる。
この限界資源活用経済合理性の考え方は、今ある国家の存在理由を絶対的に肯定するように思われるだろう。つまり、ナチスドイツ、ファシズムイタリアも大日本帝国も、それなりにその国の在り方が歴史的に選択された合理的理由があると述べていることになる。その国家を現在の人々が否定したとしても、その社会が過去のドイツ、イタリアや日本の歴史的経過の中で、存在していた合理的理由があると言うことになる。
この限界資源活用経済合理性の考え方による社会分析では、現実にあるものを否定することよりも、その現実にあるものの存在理由を問い掛けることが課題となる。認めようと認めまいと、共産党一党独裁国家、イスラム国家、ユダヤ国家等々、民主主義の思想とは相いれない政治体制を持つ国家は存在している。その国家の存在を否定することでなく、その存在理由を歴史的、文化的、そして社会経済的に理解する視点として限界資源活用経済合理性の考え方がある。
この限界資源活用経済合理性の理論、生活資源史観等は、これまでの経済主義的な社会歴史観とは異なる。その基盤には社会経済の発展を生活資源の視点から観ているということに尽きる。つまり、限界資源活用経済合理性の理論は正統派の政治経済史の方法ではなく、文化人類学的な視点から、社会進化を見ていると言える。政治社会文化人類学的に多様な資本主義(民主主義)社会の存在理由を理解することが、限界資源活用経済合理性の意味である。
「限界資源活用経済合理性」仮説の理論的背景としての生物社会学とその限界
「限界資源活用経済合理性」の理論的仮説を使って、国家のあり方(かたち)を文明社会史的視点に立って解釈した。政治経済社会の進化の歴史的形態を生態文化的且つ生活資源史観的な視点で分析した。国家の存在理由をマクロ的視点に立って観た場合、全ての国家がその存在理由を持つという考え方に立っていることになる。この仮説(限界資源活用経済合理性の理論)は歴史的に存在した国家形態の存在理由を理解し、存在した国家の意味付けを行なったにすぎない。
つまり、この「限界資源活用経済合理性」の理論は生物学的な視点から社会形態を解釈している。社会を一つの生物体として理解し、その生物体は種の保存と個体保存の規則性に規定され存在していると解釈する。社会形態での種の保存とは、社会生物体の母体である「人類種の保存」を意味する。また社会生物体での個体保存とは個別社会形態の保存を意味する。つまり、社会はその社会形態を保存するために機能している。例えば、封建社会は封建制度を維持するために機能しているし、民主主義社会は民主主義の制度を維持するために機能していると解釈したのである。
言い換えると、「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である」と言う有名なヘーゲルのことばを持ち出すまでもなく、「存在しているものは、何らかの存在合理性を背景に存在している」という哲学的な解釈がこの「限界資源活用経済合理性」理論(仮説)の背景にある。つまり、この国家観からは国家の保守性は理解できる。しかし、この仮説から政治改革や政権交代、さらには革命と呼ばれる国家形態の構造変換も「限界資源活用経済合理性」理論(仮説)から理解することができるだろうか。
国家機能の伝統、慣習、改革やその革命的な機能転換の解釈
国家機能や社会制度は、その機能と制度と呼ばれる運動によって維持されている。古代国家から絶対君主制度までは、政(まつりごと) を担う官僚制度、軍隊(国防や治安)、財務管理や王族(王室)の管理等々が国家の機能として営まれていた。それらの機能はその時代の権力構造を維持していた。言い換えると、権力の維持がその機能の目的であった
その目的を遂行するために、機能や制度が維持される。例年繰り返し同じ制度や機能が維持され続けている状態を「国家機能の惰性態」と呼ぶことにする。つまり、国家機能の惰性態では、制度改革は生じない。つねに、伝統的な習慣に基づく政(まつりごと)が例年、定期的に繰り返される。この習慣的な繰り返しによって、国家は最も合理的な資源活用の政治経済体制を維持し続けるのである。それが、「限界資源活用経済合理性」仮説からの、慣習的な政策実行に関する説明である。
同じように、その権力構造を維持するために、政策執行機能や制度の変革が行なわれる。言換えると、国家制度やその機能の変革(改革)もその国家権力構造の維持のために行なわれている。国家機能や制度を変革しその基本構造を維持し続ける状態を「国家機能の改革態」と呼ぶことにする。この制度改革によって、国家は最も合理的な資源活用の政治経済体制を構築し続ける。それが、「限界資源活用経済合理性」仮説からの、国家体制内での制度改革に関する理解となる。
もし、ある国家制度やその機能が麻痺(機能不全状態)している場合、しかも、その制度内での改革では機能不全状態を解消できない場合には、国家制度の抜本的変革が行なわれる。つまり、ある国家形態(社会生物個体)の保存の限界は、その社会生物個体の死を以って、その母体(社会生物種・人類)を保存しなければならない。個体保存よりも種の保存が優先されるのが生物の世界の掟である。そのように、社会生物世界でも、この掟は守られる。社会生物体が、その社会生物個体の死をもって種(人類)の保存を行なうことを革命と呼んでいる。
つまり、革命によって、人類は最も合理的な資源活用の政治経済体制を再構築し、存続し続けようとする。それが、「限界資源活用経済合理性」仮説からの、国家体制そのものを変革する革命と呼ばれる制度変更に関する解釈となる。
「成長経済主義を越えて成熟循環型経済社会への転回のために」 目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2015/01/blog-post_72.html
参考資料
1、梅棹忠夫 『文明の生態史観 』(中公文庫)
2、三石博行 『生活資源論』
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_02.html
「阪神淡路大震災時に必要とされた生活情報の調査活動から展開された「生活情報論」、つまり、生活情報を生存条件に必要な生活資源に関する情報(一次生活情報)、生活環境を豊かにするたに必要な生活資源に関する情報(二次生活情報)と欲望を満たすために必要な生活資源に関する情報(三次生活情報)の三つの生活情報の構造から分類し、それらの情報の量的変化から観た人類史観を「生活情報史観」と呼んだ。」
3、三石博行「設計科学としての生活学の構築−プログラム科学としての生活学の構図に向けて−」2002.12 金蘭短期大学研究誌第33号 pp21-60
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_02/cMITShir02d.pdf
4、三石博行 『生活情報論』
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_03.html
5、三石博行 「生活構造論から考察される生活情報構造と生活情報史観の概念について」
1999.11、情報文化学会誌 第6巻1号
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_03/cMITShir99h.pdf
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2012年11月2日金曜日
東アジアの領有権対立を越えて平和的共存関係を創りだそう
シンポジューム「東アジア共同体への道」(日韓同時通訳付き)
三石博行
危機に瀕した東アジア共同体構想
2012年11月26日月曜日の14時30分から17時30分(受付14時から)、京都大学 百周年時計台記念館 百周年記念ホールで、5つの国際交流団体(京都・奈良EU協会)と学術団体(政治社会学会(ASPOS) & 関西政治社会学会 同志社大学人文科学研究所第8研究、東京外国語大学国際関係研究所 龍谷大学アフラシア多文化研究センター)が共催して、シンポジューム「東アジア共同体への道」を開催することになりました。
シンポジューム「東アジア共同体への道」を開催する目的は、目覚しい経済成長を遂げた中国、台湾、韓国、ロシア極東地域を含む東(北東)アジア地域の今後の平和的共存関係を維持し発展するためのものです。この経済的協力を推進する平和的共存関係は東アジア共同体構想として発展してきました。
しかし、現在、尖閣諸島(魚釣島)や竹島(独島)の領有権問題によって、日韓中の東アジアの主要国間に外交上の大きな障害が立ち塞がっています。この障害は、単に日韓中の三国のこれまでの経済文化交流を阻害するに止まりません。領土問題が国家間の武力的衝突に発展してきた歴史を考えると、最悪の場合、日中間の軍事的衝突が生じる可能性もあります。
これまで、培ってきた経済関係や市民間の交流が、お互いに妥協できない領土問題を前面に出すことによって、崩壊する危機に晒されていると言えるのです。そして、東アジア共同体構想も消滅し、その目的である東(北東)アジアの平和的共存の可能性も大きく後退したことになります
国家の論理で領有権問題を争う次元からは、この東アジアの国際地域的な利益を見出すことは出来ないと思います。そこで、政府間レベルや外交上の問題として東(北東)アジアの課題を語るのではなく、これまで日韓中台露の間で進んだ企業、市民や研究者間の親密な交流を今まで以上に活発にしながら、民間の力でこれまでの交流の歴史を繋ぎとめる必要があります。
世界一の経済力の可能性をもつ東アジアの形成かあるいはその破壊か
この国際地域的な危機は、これまでの日中、日韓の関係の変化と理解することが出来るでしょう。今までのように、アジアの唯一の先進国日本と発展途上国中国や韓国の関係が変化し、経済力では中国は日本を追い越し、企業力では韓国のトップ企業が日本メーカよりも強い競争力を持つに至っています。
企業間の中国、台湾、韓国、ロシア極東地域での共同事業は進んでいます。その力が、東(北東)アジア共同体の基盤になっています。経済大国2位の中国と3位の日本、進展する韓国や台湾、そして発展するロシア極東部の経済力が集まるこの国際地域が21世紀の世界経済の中心になることは確かです。
つまり、この危機は見方を変えると、東アジア全体が経済競争力を付け、世界経済の中心になろうとしている一段階であると理解することも出来るのです。その意味で、この領有権問題として表面化した国家間の力関係の変化の基本構造を正しく理解することで、この紛争の解決が、寧ろ、次の東アジアの経済や文化交流の可能性を切り開く方向を与えると考えることも出来るのです。
こうした可能性を見出すためには、領有権問題を先送りにしてきた先人達の知恵を活かし、領有権問題があることを認めながらも、そのことよりも大きな利益、つまり経済発展によってもたらされる利益を共有することを優先すべきではないかと考えます。
今、東(北東)アジアで起ろうとしている地域国際紛争は、この地域が世界の中心となる可能性を持つ未来への道を破壊しようとしているのです。
政府に任せるだけでは問題は解決しない
民間人には国家間の紛争を直接解決する力はないでしょう。国家間の紛争は政府・外務省の外交官の努力によって解決されるでしょう。
しかし、これまで民間人によって、経済や文化の交流が続けられてきました。その交流によって出来上がった人的関係、相互の信頼や理解は、この紛争の解決に対しても、大きな力と知恵を提供するでしょう。
東アジアの平和的共存関係を考える時、今すぐに解決不可能な領有権問題を前面に出してしまうことは、国家間の武力紛争による決着の道しか残さない方法を選ぶことになるでしょう。つまり、今、領土問題解決のみを優先する外交は、未来の東アジアの可能性を破壊する行為に近いとも言えます。反日デモを過大に報道し、民族感情を扇動する世論や風潮に対しても警告を行なう必要があります。今、冷静で長期的な視点を持ってこの事態に対応する姿勢が求められているのです。
そして、何よりも、反日運動が中国や韓国で起こる意味を確りと日本国民は理解する理性をもたなければなりません。つまり、日本が過去に行った中国侵略、朝鮮植民地化、日中戦争と太平洋戦争での中国や韓国・朝鮮の国民の受けた甚大な被害を思い起こし、その戦争責任を受けとめる力を持たなければならないのです。戦争は日本国民にも甚大な被害を与えました。民間人の立場から、共に国家が起こした間違いを思い起こし、再び、この地域が国家の利害によって生じる戦禍にまみれることのないように努力すべきです。
しかし、こうした意見に対して、領土問題は絶対に譲れない問題であるとある政治家は言い、何よりもこの領土問題に東アジア諸国の国家間の外交課題を集中させようとする民族主義が台頭しようとしています。その背景には、各国の排他的な民族主義があります。それを報道も政治も助長させようとしているのが現状です。
この危険な状況に対して、長い東アジアの共存の道を切り開くための交流が提案されなければなりません。このシンポジュームはその一つです。私達は、市民、研究者や企業人の交流をさらに積極的に進めるために、このシンポジュームを呼びかけました。
政治社会学会は発足当時から、韓国の政治社会学会と共に研究活動を行い、韓国の著名な研究者も日本の学会に参加し、共に活動を続けてきました。同じように他の学会でも、東アジア間での研究交流を積極的に行っています。こうした伝統を今後も展開するために、この国際地域の研究者や市民は、さらに共同研究活動を展開する必要があります。
文化相互理解の果たす政治的影響力 第一回シンポジュームの課題
今回、第一回目のシンポジューム「東アジア共同体への道」では、一般財団法人ワンアジア財団(One Asia Foundation)の佐藤洋治理事長が基調講演を行います。一般財団法人ワンアジア財団は長年、一つのアジア、アジアの平和的共存を目指し教育研究文化活動を支援してきました。特に、アジアの平和に寄与するアジアの大学研究教育に多額の支援を行い続けています。最近は、ロシア極東地域の大学への教育研究支援活動にも取り組んでいます。
シンポジュウムの司会は政治社会学会理事長である荒木義修武蔵野大学教授が行う予定です。シンポジュームでの報告者は2名で、一人目のHyun-Chin Limソウル国立大学アジアセンター所長が「なぜ東アジア共同体を構築するのか- ナショナル・アイデンティティーを超えて-」と題する講演を行います。そして、二人目のHongik Chung(ソウル国立大学行政大学院名誉教授)が「Hallyu- 韓流とアジア-」と題する講演を行う予定です。
討論者として三名の日本の研究者が参加します。一人目は、清水耕介先生龍谷大学アフラシア多文化研究センター長です。二人目は大西広先生慶応義塾大学経済学部教授(京都大学名誉教授)です。三人目は渡辺啓貴先生(東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授)です。それぞれの視点から、二名の報告者に対してのコメントを行なう予定です。
今回のこのシンポジュームは、今、政治的課題になっている領土問題の解決について、真正面から討論するテーマのみを取り上げていません。寧ろ、国民文化の基盤となる民族文化とその国際的な交流活動をテーマにしています。政治的課題の解決を政治的方法に求める正攻法のみでなく、民族文化的課題の分析やその展開の可能性を語ること、さらにはアジアの平和的共存を目指す教育研究活動の支援の意味を語ることによって、長い視点から、問題を解決する姿勢を示そうとしていると思います。
「東アジア共同体への道」を語り合う機会は他にもたくさん作るべきだと思います。そして、その課題は多様で、まったく異なる意見が出されて然るべきであると思います。
今回、5つの団体、京都・奈良EU協会、政治社会学会(ASPOS) & 関西政治社会学会 同志社大学人文科学研究所第8研究、東京外国語大学国際関係研究所 龍谷大学アフラシア多文化研究センターの共催で行われるシンポジューム「東アジア共同体への道」もその一つです。
今、こうした時代に、私たちは、市民、研究者や企業人を中心とした分厚い層の民間人による、東(北東アジア)の民間人のための「東アジア共同体への道」について考え、意見交換をしたいと願っているのです。
是非とも、参加し、意見を述べてくださるようにお願いします。そして、このシンポジュームの後に行なわれる懇親会にも参加して、異なる国の研究者との交流を楽しんでください。
シンポジジューム「東アジア共同体への道」プログラム
日時:2012年11月26日(月曜日)14時30分から17時30分(受付14時00分)
会場:京都大学 百周年時計台記念館 百周年記念ホール
アクセス
【総合司会】
大賀 哲(九州大学大学院法学研究院・准教授/政治社会学会国際交流委員長)
【開会の辞】
三石博行(千里金蘭大学共通教育機構・ 教授/京都奈良EU協会・副理事長)
【基調講演】
佐藤洋治(ワンアジア財団理事長)
「アジア共同体の創生に向けて」
【シンポジューム】
司 会:
荒木義修(武蔵野大学政治経済学部・教授/政治社会学会・理事長)
報告1:「なぜ東アジア共同体を構築するのか- ナショナル・アイデンティティーを超えて-」
Hyun-Chin Lim(ソウル国立大学アジアセンター所長/ソウル国立大学社会科学部・学部長/韓国政治社会学会・会長)
報告2:「Hallyu- 韓流とアジア-」
Hongik Chung(ソウル国立大学行政大学院・名誉教授)
討論者 清水耕介(龍谷大学アフラシア多文化社会研究センター長)
大西 広(慶應義塾大学経済学部・教授/京都大学名誉教授)
渡辺啓貴(東京外国語大学大学院総合国際学研究院・教授)
懇親会
時間:18時30分から20時30分
場 所 :京都大学吉田キャンパス正門横「カンフォーラ」
参加費:2000円
連絡先
千里金蘭大学共通教育機構 三石研究室
〒565-0873 吹田市藤白台5-25-1
TEL:06-6872-7467 FAX:06-6872-7784
懇親会申込Email : labo.mitsuishi@gmail.com
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2012年11月3日 誤字訂正 2012年11月5日 文書追加
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三石博行
危機に瀕した東アジア共同体構想
2012年11月26日月曜日の14時30分から17時30分(受付14時から)、京都大学 百周年時計台記念館 百周年記念ホールで、5つの国際交流団体(京都・奈良EU協会)と学術団体(政治社会学会(ASPOS) & 関西政治社会学会 同志社大学人文科学研究所第8研究、東京外国語大学国際関係研究所 龍谷大学アフラシア多文化研究センター)が共催して、シンポジューム「東アジア共同体への道」を開催することになりました。
シンポジューム「東アジア共同体への道」を開催する目的は、目覚しい経済成長を遂げた中国、台湾、韓国、ロシア極東地域を含む東(北東)アジア地域の今後の平和的共存関係を維持し発展するためのものです。この経済的協力を推進する平和的共存関係は東アジア共同体構想として発展してきました。
しかし、現在、尖閣諸島(魚釣島)や竹島(独島)の領有権問題によって、日韓中の東アジアの主要国間に外交上の大きな障害が立ち塞がっています。この障害は、単に日韓中の三国のこれまでの経済文化交流を阻害するに止まりません。領土問題が国家間の武力的衝突に発展してきた歴史を考えると、最悪の場合、日中間の軍事的衝突が生じる可能性もあります。
これまで、培ってきた経済関係や市民間の交流が、お互いに妥協できない領土問題を前面に出すことによって、崩壊する危機に晒されていると言えるのです。そして、東アジア共同体構想も消滅し、その目的である東(北東)アジアの平和的共存の可能性も大きく後退したことになります
国家の論理で領有権問題を争う次元からは、この東アジアの国際地域的な利益を見出すことは出来ないと思います。そこで、政府間レベルや外交上の問題として東(北東)アジアの課題を語るのではなく、これまで日韓中台露の間で進んだ企業、市民や研究者間の親密な交流を今まで以上に活発にしながら、民間の力でこれまでの交流の歴史を繋ぎとめる必要があります。
世界一の経済力の可能性をもつ東アジアの形成かあるいはその破壊か
この国際地域的な危機は、これまでの日中、日韓の関係の変化と理解することが出来るでしょう。今までのように、アジアの唯一の先進国日本と発展途上国中国や韓国の関係が変化し、経済力では中国は日本を追い越し、企業力では韓国のトップ企業が日本メーカよりも強い競争力を持つに至っています。
企業間の中国、台湾、韓国、ロシア極東地域での共同事業は進んでいます。その力が、東(北東)アジア共同体の基盤になっています。経済大国2位の中国と3位の日本、進展する韓国や台湾、そして発展するロシア極東部の経済力が集まるこの国際地域が21世紀の世界経済の中心になることは確かです。
つまり、この危機は見方を変えると、東アジア全体が経済競争力を付け、世界経済の中心になろうとしている一段階であると理解することも出来るのです。その意味で、この領有権問題として表面化した国家間の力関係の変化の基本構造を正しく理解することで、この紛争の解決が、寧ろ、次の東アジアの経済や文化交流の可能性を切り開く方向を与えると考えることも出来るのです。
こうした可能性を見出すためには、領有権問題を先送りにしてきた先人達の知恵を活かし、領有権問題があることを認めながらも、そのことよりも大きな利益、つまり経済発展によってもたらされる利益を共有することを優先すべきではないかと考えます。
今、東(北東)アジアで起ろうとしている地域国際紛争は、この地域が世界の中心となる可能性を持つ未来への道を破壊しようとしているのです。
政府に任せるだけでは問題は解決しない
民間人には国家間の紛争を直接解決する力はないでしょう。国家間の紛争は政府・外務省の外交官の努力によって解決されるでしょう。
しかし、これまで民間人によって、経済や文化の交流が続けられてきました。その交流によって出来上がった人的関係、相互の信頼や理解は、この紛争の解決に対しても、大きな力と知恵を提供するでしょう。
東アジアの平和的共存関係を考える時、今すぐに解決不可能な領有権問題を前面に出してしまうことは、国家間の武力紛争による決着の道しか残さない方法を選ぶことになるでしょう。つまり、今、領土問題解決のみを優先する外交は、未来の東アジアの可能性を破壊する行為に近いとも言えます。反日デモを過大に報道し、民族感情を扇動する世論や風潮に対しても警告を行なう必要があります。今、冷静で長期的な視点を持ってこの事態に対応する姿勢が求められているのです。
そして、何よりも、反日運動が中国や韓国で起こる意味を確りと日本国民は理解する理性をもたなければなりません。つまり、日本が過去に行った中国侵略、朝鮮植民地化、日中戦争と太平洋戦争での中国や韓国・朝鮮の国民の受けた甚大な被害を思い起こし、その戦争責任を受けとめる力を持たなければならないのです。戦争は日本国民にも甚大な被害を与えました。民間人の立場から、共に国家が起こした間違いを思い起こし、再び、この地域が国家の利害によって生じる戦禍にまみれることのないように努力すべきです。
しかし、こうした意見に対して、領土問題は絶対に譲れない問題であるとある政治家は言い、何よりもこの領土問題に東アジア諸国の国家間の外交課題を集中させようとする民族主義が台頭しようとしています。その背景には、各国の排他的な民族主義があります。それを報道も政治も助長させようとしているのが現状です。
この危険な状況に対して、長い東アジアの共存の道を切り開くための交流が提案されなければなりません。このシンポジュームはその一つです。私達は、市民、研究者や企業人の交流をさらに積極的に進めるために、このシンポジュームを呼びかけました。
政治社会学会は発足当時から、韓国の政治社会学会と共に研究活動を行い、韓国の著名な研究者も日本の学会に参加し、共に活動を続けてきました。同じように他の学会でも、東アジア間での研究交流を積極的に行っています。こうした伝統を今後も展開するために、この国際地域の研究者や市民は、さらに共同研究活動を展開する必要があります。
文化相互理解の果たす政治的影響力 第一回シンポジュームの課題
今回、第一回目のシンポジューム「東アジア共同体への道」では、一般財団法人ワンアジア財団(One Asia Foundation)の佐藤洋治理事長が基調講演を行います。一般財団法人ワンアジア財団は長年、一つのアジア、アジアの平和的共存を目指し教育研究文化活動を支援してきました。特に、アジアの平和に寄与するアジアの大学研究教育に多額の支援を行い続けています。最近は、ロシア極東地域の大学への教育研究支援活動にも取り組んでいます。
シンポジュウムの司会は政治社会学会理事長である荒木義修武蔵野大学教授が行う予定です。シンポジュームでの報告者は2名で、一人目のHyun-Chin Limソウル国立大学アジアセンター所長が「なぜ東アジア共同体を構築するのか- ナショナル・アイデンティティーを超えて-」と題する講演を行います。そして、二人目のHongik Chung(ソウル国立大学行政大学院名誉教授)が「Hallyu- 韓流とアジア-」と題する講演を行う予定です。
討論者として三名の日本の研究者が参加します。一人目は、清水耕介先生龍谷大学アフラシア多文化研究センター長です。二人目は大西広先生慶応義塾大学経済学部教授(京都大学名誉教授)です。三人目は渡辺啓貴先生(東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授)です。それぞれの視点から、二名の報告者に対してのコメントを行なう予定です。
今回のこのシンポジュームは、今、政治的課題になっている領土問題の解決について、真正面から討論するテーマのみを取り上げていません。寧ろ、国民文化の基盤となる民族文化とその国際的な交流活動をテーマにしています。政治的課題の解決を政治的方法に求める正攻法のみでなく、民族文化的課題の分析やその展開の可能性を語ること、さらにはアジアの平和的共存を目指す教育研究活動の支援の意味を語ることによって、長い視点から、問題を解決する姿勢を示そうとしていると思います。
「東アジア共同体への道」を語り合う機会は他にもたくさん作るべきだと思います。そして、その課題は多様で、まったく異なる意見が出されて然るべきであると思います。
今回、5つの団体、京都・奈良EU協会、政治社会学会(ASPOS) & 関西政治社会学会 同志社大学人文科学研究所第8研究、東京外国語大学国際関係研究所 龍谷大学アフラシア多文化研究センターの共催で行われるシンポジューム「東アジア共同体への道」もその一つです。
今、こうした時代に、私たちは、市民、研究者や企業人を中心とした分厚い層の民間人による、東(北東アジア)の民間人のための「東アジア共同体への道」について考え、意見交換をしたいと願っているのです。
是非とも、参加し、意見を述べてくださるようにお願いします。そして、このシンポジュームの後に行なわれる懇親会にも参加して、異なる国の研究者との交流を楽しんでください。
シンポジジューム「東アジア共同体への道」プログラム
日時:2012年11月26日(月曜日)14時30分から17時30分(受付14時00分)
会場:京都大学 百周年時計台記念館 百周年記念ホール
アクセス
【総合司会】
大賀 哲(九州大学大学院法学研究院・准教授/政治社会学会国際交流委員長)
【開会の辞】
三石博行(千里金蘭大学共通教育機構・ 教授/京都奈良EU協会・副理事長)
【基調講演】
佐藤洋治(ワンアジア財団理事長)
「アジア共同体の創生に向けて」
【シンポジューム】
司 会:
荒木義修(武蔵野大学政治経済学部・教授/政治社会学会・理事長)
報告1:「なぜ東アジア共同体を構築するのか- ナショナル・アイデンティティーを超えて-」
Hyun-Chin Lim(ソウル国立大学アジアセンター所長/ソウル国立大学社会科学部・学部長/韓国政治社会学会・会長)
報告2:「Hallyu- 韓流とアジア-」
Hongik Chung(ソウル国立大学行政大学院・名誉教授)
討論者 清水耕介(龍谷大学アフラシア多文化社会研究センター長)
大西 広(慶應義塾大学経済学部・教授/京都大学名誉教授)
渡辺啓貴(東京外国語大学大学院総合国際学研究院・教授)
懇親会
時間:18時30分から20時30分
場 所 :京都大学吉田キャンパス正門横「カンフォーラ」
参加費:2000円
連絡先
千里金蘭大学共通教育機構 三石研究室
〒565-0873 吹田市藤白台5-25-1
TEL:06-6872-7467 FAX:06-6872-7784
懇親会申込Email : labo.mitsuishi@gmail.com
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2012年11月3日 誤字訂正 2012年11月5日 文書追加
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2012年10月25日木曜日
選挙公約法、選挙公約点検サイトと公約実現実績情報公開制度の必要性
政治改革の課題(1)
三石博行
政治への国民の絶望
国民がこれほど政治に絶望したことが今まであっただろうか。その理由は、現在の政治が今までの政治よりも最悪な状態であるというだけでない。現在の民主党政権の成立に国民が期待していたということが、もう一つの理由にあると思う。
小泉内閣の成立時も、小泉純一朗氏は「自民党をぶっ潰す」と言って、選挙を戦った。その結果、自民党は政権与党を持続した。自民党が自民党をぶっ潰すと言って選挙に勝つのだ。その背景には、長年続いた自民党政権への国民の絶望があった。そして、その後、民主党は自民党では徹底した行政改革も政治改革も出来ないと言って、政権与党となることができた。つまり、国民はすでに長い間、この国を何とかして欲しいと願い続けて来たのである。それが、小泉内閣成立であり、民主党政権の成立であった。
多くの国民は、現在の日本の財政は危機的状況であることを知っている。このまま、赤字財政を続け、さらに赤字国債を発行することは出来ないと思っている。そして、昨年以来、EU財政危機の現実を見て来た。このまま赤字国債を出し、財政改革をしなければ、日本もギリシャやポルトガのようになると思っている。
増税に反対する声もある。それらの声は、日本の財政危機を知らないで発せられているからではない。十分、国民はその危機感を持っている。しかし、増税する前に、確り行政改革や政治改革を行なうことを要求しているのだ。また、増税することによって、それらの財源が、再び、無駄な公共事業、間違ったエネルギー政策(原発建設)、天下り官僚の懐を潤すこと等に使われることを拒否しているのである。
こうした増税反対を叫ぶ国民の不安は、今回、東日本大震災への復興支援として国民に課税される復興基金の不明な(不当な)使い方で明らかになった。こうした不祥事を繰り返すなら、誰も、税金は払いたいとは思わないだろう。この責任すら明らかにされていない。そればかりか、国会は今不当に使われようとしている復興基金の差し押さえさえ出来ない状態なのだ。
それで、国民の政治不信が起こらない国は、世界のどこにあるだろうか。中世社会に帰るなら別だが、国会議員たちは、この事実が民主主義国家の面子に係わる問題だと思わないのだろうか。
国民主権国家を冒涜する行為・選挙公約破棄
今回の民主党の消費増税法案の成立への動きは、今後の日本の政治の在り方をめぐる問題として重大な課題を投げかけた。それは「民主主義政治の崩壊」である。その点で、野田民主党政権の犯した政治的誤りは、これからの世代に続くことになる。つまり、このことで、政党は選挙公約をしても、選挙に当選すれば、破ることが出来ることを明らかにした。そして、国民は、選挙公約に何の意味のないことを理解した。これは、重大な民主主義政治、特に議会制民主主義政治の危機であると理解しないだろうか。
政党は選挙で政策を公約する。その政策を国民は選ぶ。多数の選挙民に支持された立候補者が議員に選ばれる。この政党は選挙公約をし、国民がそれを選挙で選ぶ。これが議会制民主主義の原則である。この原則を破ることは選挙という手段でしか政治に参加できない国民の唯一の権利を奪うことなる。現在の財政問題を考えると、消費税増税が必要であると考えているのは当然である。そう思う国民は多くる。しかし、もし選挙公約に増税を言わないなら、それを選挙後にやっては行けない。もし、財政破綻を防ぐために増税が必要なら、そう訴えて、選挙をすべきなのです。
民主党はこの原則を壊してしまった。つまり、これは、議会制民主主義に対する国民の絶望という政党政治の基本を揺るがしかねない事態に発展する可能性、議会制民主主義の危機への扉を開いたことに対する重大な責任がある。
勿論、民主党内には、私の意見に反対の人もいると思う。「今まで、自民党も(選挙公約違反は)繰り返しやっていることで、民主党がその自民党と同じことをやったからと言って、民主党だけ批判されるのはおかしい」と私の考えに反論されるだろう。しかし、2009年の衆議院選挙は、こうした自民党指導型の政治(官僚依存型政治や公約無視政治)への絶望とそこから脱却することを願う国民の願いが掛けられた選挙であったとおもえる。国民主権の政治を目指すために、国民が民主党に政権運営を委託したのだと思う。
政治家の役割と責任を真剣に考えるなら、選挙公約を破る行為は、議会制民主主義社会制度を崩壊させる行為であり、決してやっては行けないことであると自覚すべきである。今回の野田民主党政権のやったことは、これまでの政権が「マニフェストを実現する力がない」という批判に留まらず、「マニフェストに反する行為をすることができる」ことを国民に伝えたことになる。この政治的責任の重さを感じる議員達はすでに民主党を去っている。そして、残った民主党議員達は、その重さを受け止める力すらないかもしれない。
選挙公約破棄の意味
国民は、選挙公約を勝手に破り、それと反対のことをする政党や議員達に何も出来ないのだろうか。ただ、次の選挙まで待って、1票を入れないという行為しか出来ないのだろうか。議会制民主主義では、これほど、国民は無力な状態に置かれているのか。すると、この議会制民主主義に頼らない気持ちが湧くのはないか。つまり、それがデモとなり、最悪の場合には革命と呼ばれる暴力的な訴え、政界要人を暗殺するテロにまで進展する可能性が生まれないだろうか。
社会の平和や安全、そして国民主権を守るためには、民主主義社会を運営するルール作り、それを守るための努力をすべきである。こんな当然の要求は、市民には求められている。まず、人のものを盗まない、人に暴力を振るわない、迷惑を掛けない、人権を無視しない、約束を破棄しない等々。しかし、国や自治体の決まり(法律や条令)を作る政治家には、こうした民主主義のルールは適用される必要はないようだ。その一つが、政党のマニフェスト違反だ。国民と選挙で約束(契約)したことを無視し、破棄し、最悪の場合には反対のことをした政治家や政党に対して、国民は警察にも裁判所にも訴えることが出来ないのである。
もし、約束違反の政党や政治家がいたら、次の選挙で落とせばいいと言われるだろう。そのことが認められるなら、例えば、商品に書いてあることと違うものを売る約束違反の企業が居たら、「次はその商品を買わないようにしなさい」と言われるだろう。また契約書に違反した工事した業者に遭ったら、「次に家を建てるときはその業者に任さなかったらいいでしょう」と言われることになる。政治家達は国民に「それは当たり前ですよ」と言っているのだろう。
国民主権の民主主義社会であるなら、政治家は選挙のときに約束した公約に関して国民(選挙民)に対して、それを守る義務がある。選挙公約の実現度を点検しそれを公開することは最低限の義務である。しかし、現在の選挙法にも、公約の自己点検に関しては条項がない。つまり、法的には選挙公約は無視し、破棄してもいいと事になっている。選挙時に行なった選挙民との契約を守ることは政治家には義務ではない。これが、民主国家と称するわが国の現実である。
良心というレベルで、選挙公約を点検した議員や政治家がいた。滋賀県の嘉田知事は就任後1年目に公約の自己点検を行い、毎年それを続けている。また大阪府知事時代の橋下徹知事もそれに近いことをした。そうした真摯な姿勢を国民は見ているのだ。その他、市民運動、市民活動に支えられている自治体の議員達や首長達が、そうした真摯な態度で市民に向き合っている。それらは、民主主義制度を発展させている人々の努力であると言える。
選挙公約の遵守と点検の法的義務付け
選挙公約に対する国民への責任が政治家の良心に委ねられているなら、殆どの政治家は選挙公約を破り続けるだろう。選挙の度に、国民に受けのいい政策を語り、選挙が終わると、それら一切を破棄し、最悪の場合には、まったく約束したことと反対のことをする。こんなことを繰り返していると、わが国では、議会制民主主義は育たない。絶望している国民は選挙にも行かない。現実にどの選挙でも投票率が40%を切る事態となっている。政治的無関心が蔓延し、有権者の3分の1弱の投票率によって選挙が地方自治体の議会や首長選挙、国会議員が選ばれている。こうした選挙への国民的な無関心状態は、民主主義国家の危機であり、ゆくゆくは民主主義制度自体が崩壊する危険性を意味しないだろうか。
その意味で、議員達には、選挙公約に対して自己点検し、それを情報公開することを義務付ける法律が必要となる。そして、同時に、国民は選挙に行く義務を持たなければならない。税金は国民の国家財政に対する義務であるように、選挙は国民主権を維持するための義務である。国の財源を維持している納税行為と同じく、国の立法機能に責任を持ち、国民のための行政機能を運営させるために投票を行うのである。
こうした国民の投票義務と同じように議員の選挙公約違反は厳しく点検されなければならない。実現できない公約をすること自体が政治的犯罪なのだ。それは、実現できない工事企画案を出して、消費者から契約を取り付ける行為と同じであると自覚すべきである。
もし、実現できない契約をしたなら、二つに一つを選ぶべきだ。一つは議員を辞める。もう一つは実現できない理由を国民(選挙民)に説明し、さらに、その説明に対する意見を聴き、そして、実現可能な公約内容を示すべきである。公約違反の責任として議員辞職しないなら、二つ目の選択、つまり、実現できなかった理由の説明と実現可能な政策提案を示す義務を負うべきである。それが、最低限の議会制民主主義制度を尊守する立場である。言い換えると、議会制民主主義では、国民の代理人(議員)は、常に、その契約内容に関する情報を契約者に公開する義務がある。
つまり、議会制民主主義とは、国民と議員との厳しい契約(選挙公約)によって成立している社会である。その厳しい契約を守れる人材に、国民は自分達の生活、経済、社会、文化、環境に関する法律を作り政策を決定することを委託できる。現実的で有効な法案作成や政策案を作ることの出来る人材が、議員として働くことによって、議会制民主主義は合理的に機能するのである。その有能さを評価して貰うために、むしろ議員は、積極的に公約実現率を情報公開するのである。
投票率低下と呼ばれる消極的選挙ボイコットが生み出す無責任国会議員たち
しかし、多分今の国会では、自らの身を切る改革から逃亡し続けている国会議員たちに(仮称)選挙公約法を決めてくれとお願いしても、絶対に決めることはないだろう。つまり、この選挙公約法は実現できそうもない架空の法律であるといえる。
その法律が出来ないから、議員たちは選挙公約を守らない。選挙公約を守らないから「選挙公約法に賛成ですか、反対ですか」と選挙前に聞いても、それは意味がない。意味がないから、選挙ではデタラメな公約を並べて、選挙公約詐欺行為を防ぐことが出来ない。詐欺行為が防げないから、議員達はますますデタラメなマニフェストを書き、そのマニフェストを選挙後すぐに破棄する。
いつまで経っても、この国では、議会制民主主義の文化や社会システムは成長しない。毎回選挙で嘘をつかれる国民は選挙に飽き飽きし、投票に行かなくなる。低い投票率とは無言の選挙ボイコットである。
しかし、選挙ボイコットによって得た有利な条件を守る人々によって、選挙公約違反の状態は野放しにされる。つまり、国民が選挙に行くことによって、無党派層(固定した政党支持者でない人々)と呼ばれる人々の投票率が上がることによって、困る人々が居るのだ。それは明らかに利権集団化した人々に支えられている立候補者なのだ。
利権を優遇し続けることが議員の役割である以上、政治家は法案を書くことも政策を提案することもしない。役所や官庁への陳情を助けることで十分なのだ。つまり、国会は利権集団に依拠する政治家が多くを占める。彼らの多くは、国会での仕事、立法作業や政策企画力が不足している。そうした人物は議員としての仕事をすることは出来ない。
つまり、わが国では、政策を決定し、それを制度化する法律を作るのは官僚である。今回、東日本大震災復興予算が罹災者に関係のないところに使われている。その事実に社会は驚きながら、しかし、国会は、その不当な予算決定を破棄することも、修正することも出来ない。この事実、つまり、国会は何もできない。国家によって国が運営されるのでなく、官庁の官僚によって国は運営されている。この事実を目の前に突きつけられても、国会議員たちは政局論争を続けているのである。
言い換えると、この無責任国会議員たちを野放しにしておくことで、今後も益々、国民や住民の利益を無視した国会や議会運営が行なわれる。そして、国民の税金は官僚たちの采配で好きなように使われ続ける。その大きな責任は選挙で無責任な議員を選んだ国民にある。その無責任な議員によって、益々、国民は選挙に絶望する。政治への絶望は投票率の低下を生み出し、投票率の低下は無責任な国会運営に繋がる。
そして今、日本は、この国民の政治への絶望と政治家の無責任さの繰り返しによって、絶望社会へのスパイラルを起こしている。このままだと、社会は力を失い、いずれ国は衰退していくだろう。貧しくなった日本がその次に選ぶのは議会制民主主義社会でないとすれば、その社会の姿は何か、それは明らかに深刻な危機感を持って対応しなければならない事態だと言えないか。
政治家に政治改革をお願いすることはできない
選挙公約の遵守と点検の法的義務付けから逃げる利権集団化した議員達と消極的選挙ボイコットを行なう国民によって、選挙の投票率が低下する現象が生じ、それは次第に深刻な事態、政治への絶望社会と無責任国会運営という最悪のスパイラルが生じることを防ぐにはどうすべきなのか。
まず、政治改革を議員たちにお願いすることが間違いであると気付くべきである。政治改革で痛い目を見るに違いない議員たちが率先して政治改革をすることはない。政治家に政治改革をお願いするのは、官僚に官僚制度の改革をお願いするように、また生産者に生産者に直接負担となる課題を要求するように、利害関係の存在を前提にしないで、損害を与える側に損害を与えることを規制する法案を作るように要請しているのだと理解するべきである。政治改革は政治家が自ら出来る改革ではないことを理解することが正常であると言える。
では、政治改革が議員達には出来ないなら、それを可能にする手段はあるのだろうか。その実験として「日本維新の会」は「現在の議員定数を半分にする」というマニフェストを掲げた。つまり、選挙公約として議員削減を具体的に提示した。当選した議員はこの公約を実現しなければ選挙公約違反となる。また、河村たかし名古屋市長は議員給与の見直しを訴えて選挙を行った。こうした、試みの結果を見守る必要があるだろう。しかし、議員定数の削減や議員報酬の見直しを掲げたマニフェストも、マニフェストに対する政治家の履行義務が法的に決められていない限り、今までのように、無視されるに違いない。
政党が選挙公約をして選挙を行なった場合には、政党の選挙公約の実現状態、つまり実現されたこと、されていないことを明らかにすべきである。常に、政党は、マニフェストの実現状態を情報公開しなければならない。しかし、このことも、政党や政治家が自ら行うことはないだろう。現実は、この公約実現状態に関する選挙民への情報公開や説明も、議員のモラルの問題として語られている。モラルの問題である限り、マニフェスト履行説明責任を果たす議員はいないだろう。政党も不利な選挙公約の実情を公開はしないだろう。
国民運動としての選挙公約の情報公開制度
選挙公約に対する説明責任を果してもらうために、国民的な運動を起こす必要がある。それは、全政党、全議員に対して、マニフェスト(議員個人の選挙公約も含め)の実現状態を監視し、その情報を公開する制度である。この情報公開の制度は市民の「マニフェスト実現点検サイト」と呼ぶこともできる。市民運動の一つとして行なわれるものである。例えば、定期的(半年に一回)に、政党や議員にマニフェスト実現状況に関する調査アンケートを出し、回答して貰う。回答しない議員や政党もある。その無回答も回答としてサイトに記載する。その情報を公開し続ける。国民が選挙の時に見るか見ないかは、国民一人ひとりの判断に任されている。
例えば、最もいい例を挙げるなら、原発に対するこれまでの政策に関する具体的なアンケートを出すことだろう。その内容を公開する。それだけでも、大きな影響力を持つのではないだろうか。
色々な政策案や政治姿勢に関するアンケートは勿論のこと、例えば、国会議員の定員削減や選挙公約法の設定に関するアンケートを取ることもできる。継続的にアンケートを取り続けることによって、選挙公約実現の自己点検結果やアンケート回答が累積し、その経過を集めることで、自ずと、政治家が何を言ったと言うことでなく、何をしたかが結果的に集計されることになる。選挙民は、その何をしたかを知る情報機能として、「マニフェスト実現点検サイト」を使うようになる。
つまり、何を言っているかでなく、何を成したかが選挙民の判断基準になる事で、政治に絶望している社会かの脱却の糸口を見つけ出し、無責任な国会運営を行ない続ける議員たちを落選させることが出来るかもしれない。言い換えると、腐敗した政治や利権集団と闘う市民の力こそが、国家や社会の力を喪失させる最悪のスパイラルを断ち切ることが出来るのである。
選挙公約点検に関する市民運動を起こそう
国民的な選挙公約に関する実現実情を監視し、選挙公約を守らせる国民運動を展開するための運動を起こす必要がある。その運動の見本はすでにある。つまり、行政の国民的監視運動を展開したオンブズマン運動である。このオンブズマンの活動やその運営経験が国会議員や地方自治体の首長や議会議員の選挙公約への監視運動やその組織運営のための参考となる。
以下、試案(私案)であるが、選挙公約を点検する市民運動の組織を「選挙公約点検市民運動委員会」と仮称し、その委員会の運営規約案を作成した。もちろん、この案は未熟である。この委員会の組織運営やそれを公に約束するための規約を作ることから市民運動として始めるべきである。
しかも、この運動は市民が独自に行う運動であるので、全国に別々に出来てもいいと思う。それらの運動間で、交流を深めながら、例えば、仮称「京都市選挙公約点検市民運動委員会」が有志によって組織され、また、山口市選挙公約点検市民運動が起こり、全国に自主的に起こる運動の中から、例えば、全国市民オンブズマン連絡会議のような連係が生み出され、そして仮称「全国選挙公約点検市民運動連絡会議」が形成されればいいのではないだろうか。
しかし、それらの運動は、ある意味で、その目的を果たすための原則的なルールを前提にしない限り、その後、連帯し連係することは出来ないと思う。そのために、この運動の最低限のルールを提案したい。
仮称「選挙公約点検市民運動委員会」規約案
目的
1、市民の「マニフェスト実現点検サイト」を作り選挙公約内容とその実現状態に関する情報公開運動を起こす。
運営
2、全国市民オンブズマン連絡会議のように、「選挙公約点検市民運動」を運営する会議は、自主的な市民の運動であり、それの運動を担う運営委員会は絶対に政治的立場を取ってはならない。つまり、「選挙公約点検市民運動」はある特定の政党の立場を取ってはならないことが原則とされる。
3、「選挙公約点検市民運動」のある特定の政治的立場を取らないことを保障するために、ある特定の政治団体に所属しない人々によって構成される「選挙公約点検市民運動」運営委員会とその運営委員会を監視する「選挙公約点検市民運動」評価委員会を組織する。但し、評価委員と運営委員を同時に兼任することはできない。
4、国政選挙と各地方選挙区にそれぞれ第2項に定めた「選挙公約点検市民運動」運営委員会と「選挙公約点検市民運動」評価委員会を設置する。
5、すべての「選挙公約点検市民運動」運営委員会とその評価委委員会の委員のプロフィールを公開し、委員はある特定の政党員やサポータでないことを情報公開する義務を負う。
活動1、 選挙公約実現状態に関するアンケート調査とその公開責任
6. 「マニフェスト実現点検サイト」では、すべての議会、首長、国会議員の当選者に選挙公約に関するアンケート調査を実施し、それを公開する。それらの情報公開の様式はすべて統一され、すべての情報公開の条件に違いがあってはならない。
7、アンケート調査は毎年行う。無回答の場合には、無回答として情報公開する。
活動2、国民的議論課題に関するアンケート調査とその公開責任
8、毎回のアンケート調査では、国民的議論課題に関するアンケート調査項目を入れることが出来る。
9、国民的議論課題に関するアンケート調査項目に関しては、運営委員会が独自に選択するのではなく、「マニフェスト実現点検サイト」を通じて、国民から広く募集し、募集された調査項目を情報公開した上で、委員会が決定する。委員会は調査項目の決定に対して、説明責任を持つ。
活動3、「選挙公約点検市民運動」に関するアンケート調査とその公開責任
10、「選挙公約点検市民運動」を健全な国民的運動にするためには、「選挙公約点検市民運動」運営委員会と評価委員会の活動内容を情報公開し、その評価をすべての国民から受ける制度を設けなければならない。いかなる批判的意見も公開することを義務とする。
引用、参考資料
1、オンブズマン(Wikpedia) ttp://ja.wikipedia.org/wiki/
2、全国市民オンブズマン連絡会議
http://www.ombudsman.jp/
http://www.ombudsman.jp/
3、三石博行 ブログ文書集「日本の政治改革への提言」
2012年10月28日 誤字修正、文書追加
2012年10月31日 誤字修正
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三石博行
政治への国民の絶望
国民がこれほど政治に絶望したことが今まであっただろうか。その理由は、現在の政治が今までの政治よりも最悪な状態であるというだけでない。現在の民主党政権の成立に国民が期待していたということが、もう一つの理由にあると思う。
小泉内閣の成立時も、小泉純一朗氏は「自民党をぶっ潰す」と言って、選挙を戦った。その結果、自民党は政権与党を持続した。自民党が自民党をぶっ潰すと言って選挙に勝つのだ。その背景には、長年続いた自民党政権への国民の絶望があった。そして、その後、民主党は自民党では徹底した行政改革も政治改革も出来ないと言って、政権与党となることができた。つまり、国民はすでに長い間、この国を何とかして欲しいと願い続けて来たのである。それが、小泉内閣成立であり、民主党政権の成立であった。
多くの国民は、現在の日本の財政は危機的状況であることを知っている。このまま、赤字財政を続け、さらに赤字国債を発行することは出来ないと思っている。そして、昨年以来、EU財政危機の現実を見て来た。このまま赤字国債を出し、財政改革をしなければ、日本もギリシャやポルトガのようになると思っている。
増税に反対する声もある。それらの声は、日本の財政危機を知らないで発せられているからではない。十分、国民はその危機感を持っている。しかし、増税する前に、確り行政改革や政治改革を行なうことを要求しているのだ。また、増税することによって、それらの財源が、再び、無駄な公共事業、間違ったエネルギー政策(原発建設)、天下り官僚の懐を潤すこと等に使われることを拒否しているのである。
こうした増税反対を叫ぶ国民の不安は、今回、東日本大震災への復興支援として国民に課税される復興基金の不明な(不当な)使い方で明らかになった。こうした不祥事を繰り返すなら、誰も、税金は払いたいとは思わないだろう。この責任すら明らかにされていない。そればかりか、国会は今不当に使われようとしている復興基金の差し押さえさえ出来ない状態なのだ。
それで、国民の政治不信が起こらない国は、世界のどこにあるだろうか。中世社会に帰るなら別だが、国会議員たちは、この事実が民主主義国家の面子に係わる問題だと思わないのだろうか。
国民主権国家を冒涜する行為・選挙公約破棄
今回の民主党の消費増税法案の成立への動きは、今後の日本の政治の在り方をめぐる問題として重大な課題を投げかけた。それは「民主主義政治の崩壊」である。その点で、野田民主党政権の犯した政治的誤りは、これからの世代に続くことになる。つまり、このことで、政党は選挙公約をしても、選挙に当選すれば、破ることが出来ることを明らかにした。そして、国民は、選挙公約に何の意味のないことを理解した。これは、重大な民主主義政治、特に議会制民主主義政治の危機であると理解しないだろうか。
政党は選挙で政策を公約する。その政策を国民は選ぶ。多数の選挙民に支持された立候補者が議員に選ばれる。この政党は選挙公約をし、国民がそれを選挙で選ぶ。これが議会制民主主義の原則である。この原則を破ることは選挙という手段でしか政治に参加できない国民の唯一の権利を奪うことなる。現在の財政問題を考えると、消費税増税が必要であると考えているのは当然である。そう思う国民は多くる。しかし、もし選挙公約に増税を言わないなら、それを選挙後にやっては行けない。もし、財政破綻を防ぐために増税が必要なら、そう訴えて、選挙をすべきなのです。
民主党はこの原則を壊してしまった。つまり、これは、議会制民主主義に対する国民の絶望という政党政治の基本を揺るがしかねない事態に発展する可能性、議会制民主主義の危機への扉を開いたことに対する重大な責任がある。
勿論、民主党内には、私の意見に反対の人もいると思う。「今まで、自民党も(選挙公約違反は)繰り返しやっていることで、民主党がその自民党と同じことをやったからと言って、民主党だけ批判されるのはおかしい」と私の考えに反論されるだろう。しかし、2009年の衆議院選挙は、こうした自民党指導型の政治(官僚依存型政治や公約無視政治)への絶望とそこから脱却することを願う国民の願いが掛けられた選挙であったとおもえる。国民主権の政治を目指すために、国民が民主党に政権運営を委託したのだと思う。
政治家の役割と責任を真剣に考えるなら、選挙公約を破る行為は、議会制民主主義社会制度を崩壊させる行為であり、決してやっては行けないことであると自覚すべきである。今回の野田民主党政権のやったことは、これまでの政権が「マニフェストを実現する力がない」という批判に留まらず、「マニフェストに反する行為をすることができる」ことを国民に伝えたことになる。この政治的責任の重さを感じる議員達はすでに民主党を去っている。そして、残った民主党議員達は、その重さを受け止める力すらないかもしれない。
選挙公約破棄の意味
国民は、選挙公約を勝手に破り、それと反対のことをする政党や議員達に何も出来ないのだろうか。ただ、次の選挙まで待って、1票を入れないという行為しか出来ないのだろうか。議会制民主主義では、これほど、国民は無力な状態に置かれているのか。すると、この議会制民主主義に頼らない気持ちが湧くのはないか。つまり、それがデモとなり、最悪の場合には革命と呼ばれる暴力的な訴え、政界要人を暗殺するテロにまで進展する可能性が生まれないだろうか。
社会の平和や安全、そして国民主権を守るためには、民主主義社会を運営するルール作り、それを守るための努力をすべきである。こんな当然の要求は、市民には求められている。まず、人のものを盗まない、人に暴力を振るわない、迷惑を掛けない、人権を無視しない、約束を破棄しない等々。しかし、国や自治体の決まり(法律や条令)を作る政治家には、こうした民主主義のルールは適用される必要はないようだ。その一つが、政党のマニフェスト違反だ。国民と選挙で約束(契約)したことを無視し、破棄し、最悪の場合には反対のことをした政治家や政党に対して、国民は警察にも裁判所にも訴えることが出来ないのである。
もし、約束違反の政党や政治家がいたら、次の選挙で落とせばいいと言われるだろう。そのことが認められるなら、例えば、商品に書いてあることと違うものを売る約束違反の企業が居たら、「次はその商品を買わないようにしなさい」と言われるだろう。また契約書に違反した工事した業者に遭ったら、「次に家を建てるときはその業者に任さなかったらいいでしょう」と言われることになる。政治家達は国民に「それは当たり前ですよ」と言っているのだろう。
国民主権の民主主義社会であるなら、政治家は選挙のときに約束した公約に関して国民(選挙民)に対して、それを守る義務がある。選挙公約の実現度を点検しそれを公開することは最低限の義務である。しかし、現在の選挙法にも、公約の自己点検に関しては条項がない。つまり、法的には選挙公約は無視し、破棄してもいいと事になっている。選挙時に行なった選挙民との契約を守ることは政治家には義務ではない。これが、民主国家と称するわが国の現実である。
良心というレベルで、選挙公約を点検した議員や政治家がいた。滋賀県の嘉田知事は就任後1年目に公約の自己点検を行い、毎年それを続けている。また大阪府知事時代の橋下徹知事もそれに近いことをした。そうした真摯な姿勢を国民は見ているのだ。その他、市民運動、市民活動に支えられている自治体の議員達や首長達が、そうした真摯な態度で市民に向き合っている。それらは、民主主義制度を発展させている人々の努力であると言える。
選挙公約の遵守と点検の法的義務付け
選挙公約に対する国民への責任が政治家の良心に委ねられているなら、殆どの政治家は選挙公約を破り続けるだろう。選挙の度に、国民に受けのいい政策を語り、選挙が終わると、それら一切を破棄し、最悪の場合には、まったく約束したことと反対のことをする。こんなことを繰り返していると、わが国では、議会制民主主義は育たない。絶望している国民は選挙にも行かない。現実にどの選挙でも投票率が40%を切る事態となっている。政治的無関心が蔓延し、有権者の3分の1弱の投票率によって選挙が地方自治体の議会や首長選挙、国会議員が選ばれている。こうした選挙への国民的な無関心状態は、民主主義国家の危機であり、ゆくゆくは民主主義制度自体が崩壊する危険性を意味しないだろうか。
その意味で、議員達には、選挙公約に対して自己点検し、それを情報公開することを義務付ける法律が必要となる。そして、同時に、国民は選挙に行く義務を持たなければならない。税金は国民の国家財政に対する義務であるように、選挙は国民主権を維持するための義務である。国の財源を維持している納税行為と同じく、国の立法機能に責任を持ち、国民のための行政機能を運営させるために投票を行うのである。
こうした国民の投票義務と同じように議員の選挙公約違反は厳しく点検されなければならない。実現できない公約をすること自体が政治的犯罪なのだ。それは、実現できない工事企画案を出して、消費者から契約を取り付ける行為と同じであると自覚すべきである。
もし、実現できない契約をしたなら、二つに一つを選ぶべきだ。一つは議員を辞める。もう一つは実現できない理由を国民(選挙民)に説明し、さらに、その説明に対する意見を聴き、そして、実現可能な公約内容を示すべきである。公約違反の責任として議員辞職しないなら、二つ目の選択、つまり、実現できなかった理由の説明と実現可能な政策提案を示す義務を負うべきである。それが、最低限の議会制民主主義制度を尊守する立場である。言い換えると、議会制民主主義では、国民の代理人(議員)は、常に、その契約内容に関する情報を契約者に公開する義務がある。
つまり、議会制民主主義とは、国民と議員との厳しい契約(選挙公約)によって成立している社会である。その厳しい契約を守れる人材に、国民は自分達の生活、経済、社会、文化、環境に関する法律を作り政策を決定することを委託できる。現実的で有効な法案作成や政策案を作ることの出来る人材が、議員として働くことによって、議会制民主主義は合理的に機能するのである。その有能さを評価して貰うために、むしろ議員は、積極的に公約実現率を情報公開するのである。
投票率低下と呼ばれる消極的選挙ボイコットが生み出す無責任国会議員たち
しかし、多分今の国会では、自らの身を切る改革から逃亡し続けている国会議員たちに(仮称)選挙公約法を決めてくれとお願いしても、絶対に決めることはないだろう。つまり、この選挙公約法は実現できそうもない架空の法律であるといえる。
その法律が出来ないから、議員たちは選挙公約を守らない。選挙公約を守らないから「選挙公約法に賛成ですか、反対ですか」と選挙前に聞いても、それは意味がない。意味がないから、選挙ではデタラメな公約を並べて、選挙公約詐欺行為を防ぐことが出来ない。詐欺行為が防げないから、議員達はますますデタラメなマニフェストを書き、そのマニフェストを選挙後すぐに破棄する。
いつまで経っても、この国では、議会制民主主義の文化や社会システムは成長しない。毎回選挙で嘘をつかれる国民は選挙に飽き飽きし、投票に行かなくなる。低い投票率とは無言の選挙ボイコットである。
しかし、選挙ボイコットによって得た有利な条件を守る人々によって、選挙公約違反の状態は野放しにされる。つまり、国民が選挙に行くことによって、無党派層(固定した政党支持者でない人々)と呼ばれる人々の投票率が上がることによって、困る人々が居るのだ。それは明らかに利権集団化した人々に支えられている立候補者なのだ。
利権を優遇し続けることが議員の役割である以上、政治家は法案を書くことも政策を提案することもしない。役所や官庁への陳情を助けることで十分なのだ。つまり、国会は利権集団に依拠する政治家が多くを占める。彼らの多くは、国会での仕事、立法作業や政策企画力が不足している。そうした人物は議員としての仕事をすることは出来ない。
つまり、わが国では、政策を決定し、それを制度化する法律を作るのは官僚である。今回、東日本大震災復興予算が罹災者に関係のないところに使われている。その事実に社会は驚きながら、しかし、国会は、その不当な予算決定を破棄することも、修正することも出来ない。この事実、つまり、国会は何もできない。国家によって国が運営されるのでなく、官庁の官僚によって国は運営されている。この事実を目の前に突きつけられても、国会議員たちは政局論争を続けているのである。
言い換えると、この無責任国会議員たちを野放しにしておくことで、今後も益々、国民や住民の利益を無視した国会や議会運営が行なわれる。そして、国民の税金は官僚たちの采配で好きなように使われ続ける。その大きな責任は選挙で無責任な議員を選んだ国民にある。その無責任な議員によって、益々、国民は選挙に絶望する。政治への絶望は投票率の低下を生み出し、投票率の低下は無責任な国会運営に繋がる。
そして今、日本は、この国民の政治への絶望と政治家の無責任さの繰り返しによって、絶望社会へのスパイラルを起こしている。このままだと、社会は力を失い、いずれ国は衰退していくだろう。貧しくなった日本がその次に選ぶのは議会制民主主義社会でないとすれば、その社会の姿は何か、それは明らかに深刻な危機感を持って対応しなければならない事態だと言えないか。
政治家に政治改革をお願いすることはできない
選挙公約の遵守と点検の法的義務付けから逃げる利権集団化した議員達と消極的選挙ボイコットを行なう国民によって、選挙の投票率が低下する現象が生じ、それは次第に深刻な事態、政治への絶望社会と無責任国会運営という最悪のスパイラルが生じることを防ぐにはどうすべきなのか。
まず、政治改革を議員たちにお願いすることが間違いであると気付くべきである。政治改革で痛い目を見るに違いない議員たちが率先して政治改革をすることはない。政治家に政治改革をお願いするのは、官僚に官僚制度の改革をお願いするように、また生産者に生産者に直接負担となる課題を要求するように、利害関係の存在を前提にしないで、損害を与える側に損害を与えることを規制する法案を作るように要請しているのだと理解するべきである。政治改革は政治家が自ら出来る改革ではないことを理解することが正常であると言える。
では、政治改革が議員達には出来ないなら、それを可能にする手段はあるのだろうか。その実験として「日本維新の会」は「現在の議員定数を半分にする」というマニフェストを掲げた。つまり、選挙公約として議員削減を具体的に提示した。当選した議員はこの公約を実現しなければ選挙公約違反となる。また、河村たかし名古屋市長は議員給与の見直しを訴えて選挙を行った。こうした、試みの結果を見守る必要があるだろう。しかし、議員定数の削減や議員報酬の見直しを掲げたマニフェストも、マニフェストに対する政治家の履行義務が法的に決められていない限り、今までのように、無視されるに違いない。
政党が選挙公約をして選挙を行なった場合には、政党の選挙公約の実現状態、つまり実現されたこと、されていないことを明らかにすべきである。常に、政党は、マニフェストの実現状態を情報公開しなければならない。しかし、このことも、政党や政治家が自ら行うことはないだろう。現実は、この公約実現状態に関する選挙民への情報公開や説明も、議員のモラルの問題として語られている。モラルの問題である限り、マニフェスト履行説明責任を果たす議員はいないだろう。政党も不利な選挙公約の実情を公開はしないだろう。
国民運動としての選挙公約の情報公開制度
選挙公約に対する説明責任を果してもらうために、国民的な運動を起こす必要がある。それは、全政党、全議員に対して、マニフェスト(議員個人の選挙公約も含め)の実現状態を監視し、その情報を公開する制度である。この情報公開の制度は市民の「マニフェスト実現点検サイト」と呼ぶこともできる。市民運動の一つとして行なわれるものである。例えば、定期的(半年に一回)に、政党や議員にマニフェスト実現状況に関する調査アンケートを出し、回答して貰う。回答しない議員や政党もある。その無回答も回答としてサイトに記載する。その情報を公開し続ける。国民が選挙の時に見るか見ないかは、国民一人ひとりの判断に任されている。
例えば、最もいい例を挙げるなら、原発に対するこれまでの政策に関する具体的なアンケートを出すことだろう。その内容を公開する。それだけでも、大きな影響力を持つのではないだろうか。
色々な政策案や政治姿勢に関するアンケートは勿論のこと、例えば、国会議員の定員削減や選挙公約法の設定に関するアンケートを取ることもできる。継続的にアンケートを取り続けることによって、選挙公約実現の自己点検結果やアンケート回答が累積し、その経過を集めることで、自ずと、政治家が何を言ったと言うことでなく、何をしたかが結果的に集計されることになる。選挙民は、その何をしたかを知る情報機能として、「マニフェスト実現点検サイト」を使うようになる。
つまり、何を言っているかでなく、何を成したかが選挙民の判断基準になる事で、政治に絶望している社会かの脱却の糸口を見つけ出し、無責任な国会運営を行ない続ける議員たちを落選させることが出来るかもしれない。言い換えると、腐敗した政治や利権集団と闘う市民の力こそが、国家や社会の力を喪失させる最悪のスパイラルを断ち切ることが出来るのである。
選挙公約点検に関する市民運動を起こそう
国民的な選挙公約に関する実現実情を監視し、選挙公約を守らせる国民運動を展開するための運動を起こす必要がある。その運動の見本はすでにある。つまり、行政の国民的監視運動を展開したオンブズマン運動である。このオンブズマンの活動やその運営経験が国会議員や地方自治体の首長や議会議員の選挙公約への監視運動やその組織運営のための参考となる。
以下、試案(私案)であるが、選挙公約を点検する市民運動の組織を「選挙公約点検市民運動委員会」と仮称し、その委員会の運営規約案を作成した。もちろん、この案は未熟である。この委員会の組織運営やそれを公に約束するための規約を作ることから市民運動として始めるべきである。
しかも、この運動は市民が独自に行う運動であるので、全国に別々に出来てもいいと思う。それらの運動間で、交流を深めながら、例えば、仮称「京都市選挙公約点検市民運動委員会」が有志によって組織され、また、山口市選挙公約点検市民運動が起こり、全国に自主的に起こる運動の中から、例えば、全国市民オンブズマン連絡会議のような連係が生み出され、そして仮称「全国選挙公約点検市民運動連絡会議」が形成されればいいのではないだろうか。
しかし、それらの運動は、ある意味で、その目的を果たすための原則的なルールを前提にしない限り、その後、連帯し連係することは出来ないと思う。そのために、この運動の最低限のルールを提案したい。
仮称「選挙公約点検市民運動委員会」規約案
目的
1、市民の「マニフェスト実現点検サイト」を作り選挙公約内容とその実現状態に関する情報公開運動を起こす。
運営
2、全国市民オンブズマン連絡会議のように、「選挙公約点検市民運動」を運営する会議は、自主的な市民の運動であり、それの運動を担う運営委員会は絶対に政治的立場を取ってはならない。つまり、「選挙公約点検市民運動」はある特定の政党の立場を取ってはならないことが原則とされる。
3、「選挙公約点検市民運動」のある特定の政治的立場を取らないことを保障するために、ある特定の政治団体に所属しない人々によって構成される「選挙公約点検市民運動」運営委員会とその運営委員会を監視する「選挙公約点検市民運動」評価委員会を組織する。但し、評価委員と運営委員を同時に兼任することはできない。
4、国政選挙と各地方選挙区にそれぞれ第2項に定めた「選挙公約点検市民運動」運営委員会と「選挙公約点検市民運動」評価委員会を設置する。
5、すべての「選挙公約点検市民運動」運営委員会とその評価委委員会の委員のプロフィールを公開し、委員はある特定の政党員やサポータでないことを情報公開する義務を負う。
活動1、 選挙公約実現状態に関するアンケート調査とその公開責任
6. 「マニフェスト実現点検サイト」では、すべての議会、首長、国会議員の当選者に選挙公約に関するアンケート調査を実施し、それを公開する。それらの情報公開の様式はすべて統一され、すべての情報公開の条件に違いがあってはならない。
7、アンケート調査は毎年行う。無回答の場合には、無回答として情報公開する。
活動2、国民的議論課題に関するアンケート調査とその公開責任
8、毎回のアンケート調査では、国民的議論課題に関するアンケート調査項目を入れることが出来る。
9、国民的議論課題に関するアンケート調査項目に関しては、運営委員会が独自に選択するのではなく、「マニフェスト実現点検サイト」を通じて、国民から広く募集し、募集された調査項目を情報公開した上で、委員会が決定する。委員会は調査項目の決定に対して、説明責任を持つ。
活動3、「選挙公約点検市民運動」に関するアンケート調査とその公開責任
10、「選挙公約点検市民運動」を健全な国民的運動にするためには、「選挙公約点検市民運動」運営委員会と評価委員会の活動内容を情報公開し、その評価をすべての国民から受ける制度を設けなければならない。いかなる批判的意見も公開することを義務とする。
引用、参考資料
1、オンブズマン(Wikpedia) ttp://ja.wikipedia.org/wiki/
2、全国市民オンブズマン連絡会議
http://www.ombudsman.jp/
http://www.ombudsman.jp/
3、三石博行 ブログ文書集「日本の政治改革への提言」
2012年10月28日 誤字修正、文書追加
2012年10月31日 誤字修正
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2012年10月18日木曜日
太陽光発電システムは未来社会のエネルギー生産を担えるか
2-2、再生可能エネルギー社会の形成に向けて
第11回縮小社会研究会(9月30日、京都大学吉田キャンパス)での研究報告
三石博行
未来社会からみた太陽光発電システムの課題
9月30日、京都大学で第11回縮小社会研究会が開かれた。今回の研究会で「太陽光発電システムは縮小社会のエネルギー生産を担えるだろうか」というテーマで発表した。この発表で配布した資料「太陽光発電の将来性と問題点」は四つのテーマから成り立っている。
1章、エネルギー消費量からみた現代社会の課題
2章、市場からみた太陽光発電システムの課題
3章、社会経済システムからみた太陽光発電システムの課題
4章、未来社会からみた太陽光発電システムの課題
この資料の1章から3章までのテーマは2011年12月18日に神戸市の神戸市勤労会館で開催された太陽光発電フォーラム(太陽光発電相談センター((財)ひょうご環境創造協会)NPO法人 太陽光発電所ネットワーク共催)での基調講演「再生可能エネルギー社会に進む中での太陽光発電の可能性と問題点」で報告したものである。
また、4章のテーマは2012年8月26日大阪市で開催された第二回PV-Net関西地域交流報告会「8月26日 太陽光発電交流集会 ますます活躍する太陽光発電」でおこなった報告「市民の声・市民の力・市民のエネルギー」で使われたものである。
今回の第11回縮小社会研究会での「太陽光発電システムは縮小社会のエネルギー生産を担えるだろうか」の発表に合わせて、第4章のテーマ「未来社会からみた太陽光発電システムの課題」をさらにすこし詳しく検討した。以下、今回の発表の要点を述べて見る。
3.11以後、市民の省エネ努力の成果は市民の底力を証明した
再生可能エネルギー生産技術開発よりも大量エネルギー消費社会を止めることが第一の課題である意見が出された。実際、今年夏に原発再稼働の理由となった電力不足に対して、市民は節電を行った。その結果、電力会社や政府の見解や予測を大幅に下回る節電効果を上げた。
3.11福島原発事故から1年目を経て日本のすべての原発はストップした。危険な原発に頼らない社会を目指すために、市民は節電に努めた。特に、夏の暑い時期に、節電することを要請された。しかし、政府は節電によっては、電力不足を解決できないとして、今年の夏前6月に、特に厳しい状況にある関西電力会社や関西経済連合会等の経営者組織の要請を受けて、活断層問題の解決していない大飯原発の再稼働を認めた。
実際、今年夏に原発再稼働の理由となった電力不足に対して、市民は節電を行った。その結果、猛暑による電力不足の発生、大停電の危険性を訴えていた電力会社や政府の見解や予測を大幅に下回る消費電力量を示した。現在、最も多い夏場の消費電力量は、当時予測されていた電力不足量を越えることはなく、つまり大飯原発を稼働させる必要のない状態であったことが判明している。
他方、気象データから夏の猛暑で温度が上がるごとに死亡者(熱中症による)が増えるという報告がなされている。確かに、震災以前の2010年には、熱中症によって救急搬送された件数がそれ以前よりも多くなっている(4)。しかも、熱中症によって死亡するケースは高齢者が高い確率を占めている。また、2011年7から9月までの3カ月間に、「熱中症で救急搬送された人は全国で約4万人であった。このうち重症患者の60%は室内で熱中症になり、44%が65歳以上の高齢者(総務省消防庁の資料)であったと報告されている。
省エネや節電によって、弱者がその被害を受けることは避けられない事実である。節電への努力が弱者切り捨てになることは避けなければならない。高齢者の熱中症を予防する試みと節電の試みの両立は可能なのか。そこに縮小社会研究会のテーマが存在している。高齢者の熱中症の原因の一つが、一人暮らしの高齢者人口の増加や、自宅とじ込もりの生活スタイル、高い電気代を惜しむ経済的理由にあると考えられている。その原因を解決すること、つまり、家に閉じこもりがちな高齢者が、涼しい共同施設で一緒に暑い夏を過ごす地域社会の取組を提案することで、節電と高齢者支援の二つの対策を両立できる。
縮小社会研究会の調査研究テーマは、この例に示したように、節電や省エネルギー、節約やリサイクルの課題を、一見、関係のない社会問題、少子高齢社会、教育、地域経済の活性化等々の現在の社会で問われている問題に関連して、解決策を提案することである。
固定価格買い取り制度によって暫定的に進む再生可能エネルギー生産(太陽光発電)とその課題
福島原発事故以来、日本社会(世界)で、原発に依存しないエネルギー政策が検討され始めている。原発の代わりに大量の化石燃料を使用している。しかし、地球温暖化現象を考えるなら(大気中の二酸化炭素量の増加は温暖化現象に関係ないという意見もあるが)はその解答に成りえないことも明らかである。原発や巨大火力発電システムが未来社会のエネルギー生産様式ではないという結論を得た現在、それに代わるエネルギーとは再生可能エネルギー以外にないということになる。
更に、再生可能エネルギー生産のためのシステムがその目的である化石燃料や原発によるエネルギー生産価格よりも高く、またそれらのシステムは技術的に貧弱であり頻発する故障等のトラブルによって、生み出すゴミ(再生可能エネルギーシステムの廃棄物)処理のコスト計算が正確に出されていないという批判もある。
そうした批判の最も集中している太陽光発電システムについて今回はその技術レベルの現状、システムの普及状況に関して取り上げる。最近の日経新聞の記事によれば(、7月から始まった再生エネルギーによる電力の固定価格買い取り制度によって、今年の7月と8月に登録された住宅用パネルの電力容量は30.6万kw、メガソーラー発電(非住宅用)は72.5万kw、つまり102.5万Kwの電力を太陽光発電システムで生産可能になった。政府・経済産業省は2012年度末まで、住宅用パネルの電力容量は150万kwとメガソーラー発電は50万kw、つまり合計して200万Kwの電力供給を試算していたが、その半分を2カ月間で達成した。つまり、6ヶ月間の計画の半分を2カ月間で達成したのである。
このことは、日本での太陽光発電システムが急激に普及することを意味している。この調子で太陽光発電システムが普及するなら、2012年度末には、太陽光発電システムだけで300万kwの電力を生産することになる。つまり原発3基分の電力が6ヶ月間で生産可能となるのである。もし、原発50基分の電力を太陽光発電によって生産しようとするなら、8年弱の年数で可能になる。
しかも、固定価格買い取り制度によって7月から8月の2カ月間で生産された再生可能エネルギー量は130万kwとなっている。つまり、2か月間で生産された再生可能エネルギー量は原発の1基分を越えるものである。この調子で生産が進めば、1年間に780万kwを生産することになる。つまり、原発1基の発電を100万kwとして計算して、原発50基分の電力(5000万kw)を、再生可能エネルギー生産システムの建設期間6年3カ月弱で、生産することになるのである。
再生可能エネルギー生産が進むことで、原発のみならず化石燃料による発電施設の必要性は無くなるだろう。火力発電所で必要とする化石燃料の輸入コスト年間約2兆円分が不要となる。つまり、国家の資金2兆円が海外に流出しなくなる。
しかし、原発不要の事態をもっとも恐れる人々は原子力ムラの人々である。これらの人々の反撃をかわすためにも、敢えて、再生可能エネルギー社会の可能性を検討し、そこに潜む大きな落とし穴や誤解を見つけ出す必要がある。原子力ムラの人々だけでなく、環境問題を考える人々をも含める人々からも投げかけられている疑問に答え、批判に耐えられる再生可能エネルギー社会形成の企画案が問われている。
それらの疑問や批判を抱えながらも、固定価格買い取り制度に便乗し(後押しされて)再生可能エネルギー生産が始まろうとしている。この後押しに依存しているだけでは、今後の再生可能エネルギー社会の形成や方向を確立することはできない。そこで、敢えて再生可能エネルギー社会の在り方を疑う必要があるのである。
特に太陽光発電システムはその疑問の中にあると言える。そこで、このシステムの技術や生産コストの現状を報告しながら、太陽光発電システムは未来社会のエネルギー生産の中心技術に成り得るか課題を検討する必要がある。
再生可能エネルギー社会形成のために問われる課題
世界のエネルギー消費量を太陽光発電システムで賄うことは可能か
エネルギー問題を語る時に常にその立場が問われる。何故なら、エネルギー問題ほど世界経済の現状、先進国と発展途上国の生活格差を反映しているものはないからである。殆どのエネルギー消費を先進国が独占している。また、あらゆる政治的手段を用いて先進国はエネルギーの独占を維持している。
そこで再生可能エネルギー社会の課題を、そのシステム建設が進む先進国(我が国もその一員)に限定せず、世界全体の人々が必要とするエネルギーを賄うための技術やエネルギー生産システムとして考える。世界全体で必要なエネルギーを再生可能エネルギーによって賄うことができるのかという疑問を前提にして、太陽光発電システムの技術やコストに関する議論の視点を立てることにした。
そして、現在のパネルの発電効率や実際の発電量から試算できる世界の一次エネルギー消費量を生産するために必要なパネル面積や設置費用を具体的に計算する。それらの仮説によって試算された数字の実現可能性をさらに検討する。
太陽光発電システムを普及させるために必要な市場原理とその課題
固定価格買い取り制度の導入によって、現在の太陽光発電システムのコストは、投資した分を回収し利益を上げることが可能であると市場は理解した。その結果が上記した今年7月と8月の2か月間の住宅用パネルとメガソーラーによる102.5万Kwの太陽光発電による電力生産であった。これらの電力生産量の増加は政策によって導かれたものである。
しかし、固定価格買い取り制度によって高く設定された再生可能エネルギーによる電力料金負担は電力消費者(国民)が担うことになる。つまり、この制度では、コスト的に高い再生可能エネルギーを生産することによって、国民は高い電気料金を負担することになる。つまり、固定価格買い取り制度によって、パネルを持たない人々はパネルを設置した人々がつくる高い電気を買うための負担を強いられることになる。そのことは、この制度自体が持続可能な制度でないことを意味する。
再生可能エネルギー社会を創るためにはその社会制度が持続可能な形で運営されることが必要となる。現在は 新しいシステムを社会化するために政府が政策として推進することは必要であるとしても、その制度によって負担する人々が増えるために、いずれその制度への批判が起ることは避けられない。そのためには、以下に示す市場原理の導入による、市民の自主的な選択行為としての再生可能エネルギーによる電力の購入制度が必要となる。
市民の自主的な選択行為とは、再生可能エネルギーによる電力料金の負担を自覚的に市民が受け入れる行為である。その行為が可能になる制度が必要である。例えば、すでに北欧で実施されているのだが、生産方法の違いによって電力料金が異なる制度、太陽光発電による電気料金、風力発電による電気料金、火力発電による電気料金や原発による電気料金が明記される。その上で、市民はどの電力を買うかを選択することが出来る制度である。この制度の導入によって、市場で人気のある電気が決まる。その電気の需要によって、その電気の供給も決まることになる。つまり、市場原理を導入して、それぞれの電気生産による料金制度を導入し、市場の判断によって、生産調整を行う制度である。
つまり、国家の介入による固定価格買い取り制度に依存し続けることでは、健康な再生可能エネルギー社会の建設の在り方は望めない。そこで市場原理を導入し、生産者間のペア-な競争によって生じるパネル価格の廉価化が生まれる。さらに、市場原理によって進む生産者の消費者への敏感な感覚の育成、例えば、消費者が生産者へのクレームを通じて生じる消費者による技術や製品の改良アドバイスが生まれる。そのクレームは助言を受ける生産者が消費者のニーズを取り入れることで新しい商品開発が促進されるのである。
また、現在の独占企業としての電力会社を少なくとも市場原理で運営される企業へと変革する必要がある。すでに政府もそのための政策を打ち出している。その一つが民間企業の電力産業への自由参加であり、発電と送電部門の分離(発送電分離)である。電力会社も一般の企業と同じような市場原理で運営されるべきだろう。そうでない限り、健全な企業経営を確立することは困難であると言える。
スマートグリッド(次世代送電網)によって総エネルギー消費量は増えないか
もともと、停電が頻発するアメリカで、中規模地域の送電を調整する機能として開発されたスマートグリッドは、風力や太陽光のように気象条件に左右されやすい不安定な電力と、至って安定した電力供給が可能な小型水力発電、バイオマス、海流発電や地熱発電等を組み合わせ、その上に火力発電によって需要の殺到する時間帯の電力をその需要量の変動に合わせて電力量を調整する、謂わば、電気供給制御システムを持つ送電網を意味する。
発電が集中型の巨大生産システムから分散型の小規模生産システムへと変化する再生可能エネルギーを活用する社会では、安定した電力供給が大きな問題となる。その解決策として脚光を浴びているシステム「スマートグリッド」とは、地産地消型の分散型エネルギーシステムを創り出す技術である。
不足電力のみならず、過剰電力の調整を行うことによってエネルギー効率を上げることが出来る。過剰時には火力発電による調整だけでなく、蓄電施設への余剰電力の蓄積を行い。不足時にはそれらの蓄電装置からの放電によって、不足電力の補充を行う。そのことによって、火力発電に必要な化石燃料の使用を最も経済的な値に近付けることが可能になる。スマートグリッド区域の蓄電効果を高めるために電気自動車用のバッテリーを活用する提案が出ている。つまり、スマートグリッドは再生可能エネルギー社会の実現には不可欠の社会システムの一つであると言える。
しかし、その必要条件が根本から問われている。それは、スマートグリッドを行うための巨大な情報処理機能の必要性であり、その情報処理機能を維持するために必要とされる電力である。現在の情報社会では、情報処理機器が消費する電力は莫大なものになりつつある。スマートグリッドは電力調整のための無数の情報処理機器を必要とする。その無数のCPUを動かすためにどれだけの電力が必要とされるのか、その総消費量は不明である。
つまり、夢のようなスマートグリッドの発想は、巨大科学技術システムやエネルギーや資源の大量消費を前提とし成立している技術システムであると言える。この制度自体がエネルギー消費量を出来るだけ少なくしようという発想を受け入れていない。そのため、スマートグリッドを地産地消型の再生可能エネルギー社会に導入することは困難であると言えるかもしれない。
もし、分散型エネルギーシステムでは制御機能が重大な役割を果たすと考えるなら(それしか道はないと思うなら)、スマートグリッドの徹底した省エネルギー技術の開発が必要となるだろう。
生産者として位置付けられていない住宅用パネル設置者の立場
住宅用発電所と非住宅用発電所の違いは、電力生産者が個人用住宅の屋根にパネルを設定しその電気を住宅用に利用しながら売電しているか、発電した電力を個人用に一切利用せず全て売電しているかの違いであると言える。またもう一つの分類として10kw以下の発電規模かそれ以上の発電規模かによっても分類されている。
これまでの太陽光発電は住宅用発電所が圧倒的に多く、その世帯数は今年の8月で100万世帯を越えた。しかし、固定価格買い取り制度によって、太陽光発電を事業とする企業が生まれ、今年の7月と8月に登録されたメガソーラー発電(非住宅用)は72.5万kwで住宅用パネルの電力容量は30.6万kwの約2.4倍となっている。つまり、固定価格買い取り制度の続く条件下では、この2カ月間の傾向が今後も続くと予測される。その意味で今後はメガソーラー発電が太陽光発電の主流を占める可能性が大きくなるだろう。
しかし、いずれにしても、固定価格買い取り制度がある限り住宅用発電によって生産される電力も今後も増えつづけることは明らかである。2か月間で30.6万kwの住宅用パネルの電力が増えるなら、一年間にその6倍、つまり184万kwの電力(原発約2基分)を増産し続けることになる。その発電機能は無視できないし、社会資本として高く評価しなければならない。
しかし、住宅用のパネル設置者はパネルの消費者として企業や社会から位置付けられているだけで、電力生産者としての位置付けが明確にされていない。例えば、住宅用の発電は余剰電力、つまり家庭で使用された電気を除いた分の電力のみが「買い取り」の対象となっている。
仮に、住宅用の発電所は家庭で電気を使うのだから、その余剰分のみを買い取りの対象とすることを認めたとしても、今年度の非住宅用パネルの設置者に対して42円の買い取り価格の設定が20年とされているのに対して、住宅用では10年とされている。つまり、非住宅用の半分の年数しか設定されていないのである。
このことは、住宅用パネルが社会資本として評価されていないことを意味するのである。そのことが、今後、以下に列挙する住宅用発電所の抱える問題に発展することになる。
1、住宅用パネルの事故や故障の問題解決
2、住宅用パネルの発電効率の低下、パネルの劣化問題に対する企業の補修や保障問題
3、自然災害時の住宅用パネルによる二次災害を防ぐための対策の遅れ
求められる生産者生協運動(再生可能エネルギー生産者市民運動)と市民参画型民主主義
アメリカのように、降水量が少なく日照時間の長い、しかも誰も使っていない広大な砂漠のような土地のない日本では、企業活動として太陽光パネル事業に参加するためには、土地問題を解決しなければならない。最も日本に相応しいパネル設置場所は屋根である。問題は、個人や企業、もしくは公共施設の屋根を有効利用するためのアイデアや方法が問われる。
一つの考え方はNPO法人PV-Netが進めている「市民ファンドサポートセンター」である。市民が自分たちの生活区域で出資者を集め基金団体(ファンド)を作り、その地区で利用出来るスペースに100kw以内のパネルを設置する運動である。また、ファンドに参加するメンバーの中には、自宅の屋根にファンドが出資するパネルを設置することも可能となる。自宅の屋根に設置したパネルはファンドのメンバーである屋根の所有者が日常的に管理する。勿論、その管理は無償のボランティア運動で支えるばかりでなく、そこに住む会員(屋根の所有者)の仕事となる。ファンドはボランティア運動と自分の実益を満たすものでなければならない。
市民ファンドに参加し、パネルを設置する人も、またファンドへの資金提供のみを行う人も、これら市民がエネルギー生産者であることが、自宅のパネルだけでなく共同出資のパネルも生産者として市民ファンドとして活動している。
この活動はこれまでの生活様式と異なり、エネルギー生産者の組合のようなイメージを持つことになる。つまり市民がエネルギー資源を生産する社会では、再生可能エネルギー生産者市民運動が形成され、エネルギー消費者であり生産者である市民の新しい運動が生まれるだろう。この再生可能エネルギー生産者の運動では、参画型の市民民主主義文化が基礎にない限り発展しないのである。
生き延びるために総力を結集すること
これからの社会は資源枯渇問題を抱え、また先進国では人口減少が進む時代である。その中で、現在のすべての力、技術開発、社会経済政策、市民運動、企業力等々、考えられるすべての力を動員し総力戦で、太陽光発電システム開発に取り組まなければ、このシステムが一次エネルギーの供給源となる未来はない。
結論から言うと、現在の太陽光発電システムの技術や生産コストから考えると、太陽光発電システムで将来の人類のすべての一次エネルギーを賄うことは不可能である。現在、固定価格買い取り制度によって、高く買われている太陽光発電を、健全な市場競争の中で、他の電力に負けないものとするための努力が必要である。
「成長経済主義を越えて成熟循環型経済社会への転回のために」 目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2015/01/blog-post_72.html
講演資料 第11回縮小社会研究会 研究発表
(資料をダウロードする場合には以下の論文タイトルをクリックする)
三石博行「太陽光発電システムは縮小社会のエネルギー生産を担えるだろうか」2012年9月30日 京都大学 (PDFファイルにリンク)
参考資料
1、縮小社会研究会 http://vibration.jp/shrink/ 10月14日、毎日新聞 朝刊 面 書評「松久寛編著 縮小社会への道」が記載される。 松久寛 『縮小社会への道 ―原発も経済成長もいらない幸福な社会を目指して―』日刊工業新聞社 2012年4月 220p
2、PV-Net関西地域交流会HP
http://kansai.greenenergy.jp/2012.9.5osakashinbun.pdf
3、小野雅司 環境健康研究領域総合影響評価研究室 「救急搬送データから見る熱中症患者の増加」『環境儀 No32 APRIL 2009 』 国立環境研究所の研究情報誌 ISSN 1346-776X http://www.nies.go.jp/kanko/kankyogi/32/32.pdfX
4、本川 裕『社会実情データ図鑑』 「熱中症死亡者数の推移」 http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1962.html
5、厚生労働省『厚生労働省ホームーページ』「平成22年の熱中症による死亡者数について ~全死亡者数の約8割(79.3%)が65歳以上~」 http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000001g7ag.html
6、株式会社インターネットインフィニティー 『介護専門職員サイト』「ケアマネジメントオンライン」 http://www.caremanagement.jp/?action_contents_season=true&page=summer2012
7、日本経済新聞夕刊 2面 9月26日発行
8、NPO法人PV-Net HP 「市民ファンドサポートセンター」 http://www.greenenergy.jp/citizen_plant/index.html
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第11回縮小社会研究会(9月30日、京都大学吉田キャンパス)での研究報告
三石博行
未来社会からみた太陽光発電システムの課題
9月30日、京都大学で第11回縮小社会研究会が開かれた。今回の研究会で「太陽光発電システムは縮小社会のエネルギー生産を担えるだろうか」というテーマで発表した。この発表で配布した資料「太陽光発電の将来性と問題点」は四つのテーマから成り立っている。
1章、エネルギー消費量からみた現代社会の課題
2章、市場からみた太陽光発電システムの課題
3章、社会経済システムからみた太陽光発電システムの課題
4章、未来社会からみた太陽光発電システムの課題
この資料の1章から3章までのテーマは2011年12月18日に神戸市の神戸市勤労会館で開催された太陽光発電フォーラム(太陽光発電相談センター((財)ひょうご環境創造協会)NPO法人 太陽光発電所ネットワーク共催)での基調講演「再生可能エネルギー社会に進む中での太陽光発電の可能性と問題点」で報告したものである。
また、4章のテーマは2012年8月26日大阪市で開催された第二回PV-Net関西地域交流報告会「8月26日 太陽光発電交流集会 ますます活躍する太陽光発電」でおこなった報告「市民の声・市民の力・市民のエネルギー」で使われたものである。
今回の第11回縮小社会研究会での「太陽光発電システムは縮小社会のエネルギー生産を担えるだろうか」の発表に合わせて、第4章のテーマ「未来社会からみた太陽光発電システムの課題」をさらにすこし詳しく検討した。以下、今回の発表の要点を述べて見る。
3.11以後、市民の省エネ努力の成果は市民の底力を証明した
再生可能エネルギー生産技術開発よりも大量エネルギー消費社会を止めることが第一の課題である意見が出された。実際、今年夏に原発再稼働の理由となった電力不足に対して、市民は節電を行った。その結果、電力会社や政府の見解や予測を大幅に下回る節電効果を上げた。
3.11福島原発事故から1年目を経て日本のすべての原発はストップした。危険な原発に頼らない社会を目指すために、市民は節電に努めた。特に、夏の暑い時期に、節電することを要請された。しかし、政府は節電によっては、電力不足を解決できないとして、今年の夏前6月に、特に厳しい状況にある関西電力会社や関西経済連合会等の経営者組織の要請を受けて、活断層問題の解決していない大飯原発の再稼働を認めた。
実際、今年夏に原発再稼働の理由となった電力不足に対して、市民は節電を行った。その結果、猛暑による電力不足の発生、大停電の危険性を訴えていた電力会社や政府の見解や予測を大幅に下回る消費電力量を示した。現在、最も多い夏場の消費電力量は、当時予測されていた電力不足量を越えることはなく、つまり大飯原発を稼働させる必要のない状態であったことが判明している。
他方、気象データから夏の猛暑で温度が上がるごとに死亡者(熱中症による)が増えるという報告がなされている。確かに、震災以前の2010年には、熱中症によって救急搬送された件数がそれ以前よりも多くなっている(4)。しかも、熱中症によって死亡するケースは高齢者が高い確率を占めている。また、2011年7から9月までの3カ月間に、「熱中症で救急搬送された人は全国で約4万人であった。このうち重症患者の60%は室内で熱中症になり、44%が65歳以上の高齢者(総務省消防庁の資料)であったと報告されている。
省エネや節電によって、弱者がその被害を受けることは避けられない事実である。節電への努力が弱者切り捨てになることは避けなければならない。高齢者の熱中症を予防する試みと節電の試みの両立は可能なのか。そこに縮小社会研究会のテーマが存在している。高齢者の熱中症の原因の一つが、一人暮らしの高齢者人口の増加や、自宅とじ込もりの生活スタイル、高い電気代を惜しむ経済的理由にあると考えられている。その原因を解決すること、つまり、家に閉じこもりがちな高齢者が、涼しい共同施設で一緒に暑い夏を過ごす地域社会の取組を提案することで、節電と高齢者支援の二つの対策を両立できる。
縮小社会研究会の調査研究テーマは、この例に示したように、節電や省エネルギー、節約やリサイクルの課題を、一見、関係のない社会問題、少子高齢社会、教育、地域経済の活性化等々の現在の社会で問われている問題に関連して、解決策を提案することである。
固定価格買い取り制度によって暫定的に進む再生可能エネルギー生産(太陽光発電)とその課題
福島原発事故以来、日本社会(世界)で、原発に依存しないエネルギー政策が検討され始めている。原発の代わりに大量の化石燃料を使用している。しかし、地球温暖化現象を考えるなら(大気中の二酸化炭素量の増加は温暖化現象に関係ないという意見もあるが)はその解答に成りえないことも明らかである。原発や巨大火力発電システムが未来社会のエネルギー生産様式ではないという結論を得た現在、それに代わるエネルギーとは再生可能エネルギー以外にないということになる。
更に、再生可能エネルギー生産のためのシステムがその目的である化石燃料や原発によるエネルギー生産価格よりも高く、またそれらのシステムは技術的に貧弱であり頻発する故障等のトラブルによって、生み出すゴミ(再生可能エネルギーシステムの廃棄物)処理のコスト計算が正確に出されていないという批判もある。
そうした批判の最も集中している太陽光発電システムについて今回はその技術レベルの現状、システムの普及状況に関して取り上げる。最近の日経新聞の記事によれば(、7月から始まった再生エネルギーによる電力の固定価格買い取り制度によって、今年の7月と8月に登録された住宅用パネルの電力容量は30.6万kw、メガソーラー発電(非住宅用)は72.5万kw、つまり102.5万Kwの電力を太陽光発電システムで生産可能になった。政府・経済産業省は2012年度末まで、住宅用パネルの電力容量は150万kwとメガソーラー発電は50万kw、つまり合計して200万Kwの電力供給を試算していたが、その半分を2カ月間で達成した。つまり、6ヶ月間の計画の半分を2カ月間で達成したのである。
このことは、日本での太陽光発電システムが急激に普及することを意味している。この調子で太陽光発電システムが普及するなら、2012年度末には、太陽光発電システムだけで300万kwの電力を生産することになる。つまり原発3基分の電力が6ヶ月間で生産可能となるのである。もし、原発50基分の電力を太陽光発電によって生産しようとするなら、8年弱の年数で可能になる。
しかも、固定価格買い取り制度によって7月から8月の2カ月間で生産された再生可能エネルギー量は130万kwとなっている。つまり、2か月間で生産された再生可能エネルギー量は原発の1基分を越えるものである。この調子で生産が進めば、1年間に780万kwを生産することになる。つまり、原発1基の発電を100万kwとして計算して、原発50基分の電力(5000万kw)を、再生可能エネルギー生産システムの建設期間6年3カ月弱で、生産することになるのである。
再生可能エネルギー生産が進むことで、原発のみならず化石燃料による発電施設の必要性は無くなるだろう。火力発電所で必要とする化石燃料の輸入コスト年間約2兆円分が不要となる。つまり、国家の資金2兆円が海外に流出しなくなる。
しかし、原発不要の事態をもっとも恐れる人々は原子力ムラの人々である。これらの人々の反撃をかわすためにも、敢えて、再生可能エネルギー社会の可能性を検討し、そこに潜む大きな落とし穴や誤解を見つけ出す必要がある。原子力ムラの人々だけでなく、環境問題を考える人々をも含める人々からも投げかけられている疑問に答え、批判に耐えられる再生可能エネルギー社会形成の企画案が問われている。
それらの疑問や批判を抱えながらも、固定価格買い取り制度に便乗し(後押しされて)再生可能エネルギー生産が始まろうとしている。この後押しに依存しているだけでは、今後の再生可能エネルギー社会の形成や方向を確立することはできない。そこで、敢えて再生可能エネルギー社会の在り方を疑う必要があるのである。
特に太陽光発電システムはその疑問の中にあると言える。そこで、このシステムの技術や生産コストの現状を報告しながら、太陽光発電システムは未来社会のエネルギー生産の中心技術に成り得るか課題を検討する必要がある。
再生可能エネルギー社会形成のために問われる課題
世界のエネルギー消費量を太陽光発電システムで賄うことは可能か
エネルギー問題を語る時に常にその立場が問われる。何故なら、エネルギー問題ほど世界経済の現状、先進国と発展途上国の生活格差を反映しているものはないからである。殆どのエネルギー消費を先進国が独占している。また、あらゆる政治的手段を用いて先進国はエネルギーの独占を維持している。
そこで再生可能エネルギー社会の課題を、そのシステム建設が進む先進国(我が国もその一員)に限定せず、世界全体の人々が必要とするエネルギーを賄うための技術やエネルギー生産システムとして考える。世界全体で必要なエネルギーを再生可能エネルギーによって賄うことができるのかという疑問を前提にして、太陽光発電システムの技術やコストに関する議論の視点を立てることにした。
そして、現在のパネルの発電効率や実際の発電量から試算できる世界の一次エネルギー消費量を生産するために必要なパネル面積や設置費用を具体的に計算する。それらの仮説によって試算された数字の実現可能性をさらに検討する。
太陽光発電システムを普及させるために必要な市場原理とその課題
固定価格買い取り制度の導入によって、現在の太陽光発電システムのコストは、投資した分を回収し利益を上げることが可能であると市場は理解した。その結果が上記した今年7月と8月の2か月間の住宅用パネルとメガソーラーによる102.5万Kwの太陽光発電による電力生産であった。これらの電力生産量の増加は政策によって導かれたものである。
しかし、固定価格買い取り制度によって高く設定された再生可能エネルギーによる電力料金負担は電力消費者(国民)が担うことになる。つまり、この制度では、コスト的に高い再生可能エネルギーを生産することによって、国民は高い電気料金を負担することになる。つまり、固定価格買い取り制度によって、パネルを持たない人々はパネルを設置した人々がつくる高い電気を買うための負担を強いられることになる。そのことは、この制度自体が持続可能な制度でないことを意味する。
再生可能エネルギー社会を創るためにはその社会制度が持続可能な形で運営されることが必要となる。現在は 新しいシステムを社会化するために政府が政策として推進することは必要であるとしても、その制度によって負担する人々が増えるために、いずれその制度への批判が起ることは避けられない。そのためには、以下に示す市場原理の導入による、市民の自主的な選択行為としての再生可能エネルギーによる電力の購入制度が必要となる。
市民の自主的な選択行為とは、再生可能エネルギーによる電力料金の負担を自覚的に市民が受け入れる行為である。その行為が可能になる制度が必要である。例えば、すでに北欧で実施されているのだが、生産方法の違いによって電力料金が異なる制度、太陽光発電による電気料金、風力発電による電気料金、火力発電による電気料金や原発による電気料金が明記される。その上で、市民はどの電力を買うかを選択することが出来る制度である。この制度の導入によって、市場で人気のある電気が決まる。その電気の需要によって、その電気の供給も決まることになる。つまり、市場原理を導入して、それぞれの電気生産による料金制度を導入し、市場の判断によって、生産調整を行う制度である。
つまり、国家の介入による固定価格買い取り制度に依存し続けることでは、健康な再生可能エネルギー社会の建設の在り方は望めない。そこで市場原理を導入し、生産者間のペア-な競争によって生じるパネル価格の廉価化が生まれる。さらに、市場原理によって進む生産者の消費者への敏感な感覚の育成、例えば、消費者が生産者へのクレームを通じて生じる消費者による技術や製品の改良アドバイスが生まれる。そのクレームは助言を受ける生産者が消費者のニーズを取り入れることで新しい商品開発が促進されるのである。
また、現在の独占企業としての電力会社を少なくとも市場原理で運営される企業へと変革する必要がある。すでに政府もそのための政策を打ち出している。その一つが民間企業の電力産業への自由参加であり、発電と送電部門の分離(発送電分離)である。電力会社も一般の企業と同じような市場原理で運営されるべきだろう。そうでない限り、健全な企業経営を確立することは困難であると言える。
スマートグリッド(次世代送電網)によって総エネルギー消費量は増えないか
もともと、停電が頻発するアメリカで、中規模地域の送電を調整する機能として開発されたスマートグリッドは、風力や太陽光のように気象条件に左右されやすい不安定な電力と、至って安定した電力供給が可能な小型水力発電、バイオマス、海流発電や地熱発電等を組み合わせ、その上に火力発電によって需要の殺到する時間帯の電力をその需要量の変動に合わせて電力量を調整する、謂わば、電気供給制御システムを持つ送電網を意味する。
発電が集中型の巨大生産システムから分散型の小規模生産システムへと変化する再生可能エネルギーを活用する社会では、安定した電力供給が大きな問題となる。その解決策として脚光を浴びているシステム「スマートグリッド」とは、地産地消型の分散型エネルギーシステムを創り出す技術である。
不足電力のみならず、過剰電力の調整を行うことによってエネルギー効率を上げることが出来る。過剰時には火力発電による調整だけでなく、蓄電施設への余剰電力の蓄積を行い。不足時にはそれらの蓄電装置からの放電によって、不足電力の補充を行う。そのことによって、火力発電に必要な化石燃料の使用を最も経済的な値に近付けることが可能になる。スマートグリッド区域の蓄電効果を高めるために電気自動車用のバッテリーを活用する提案が出ている。つまり、スマートグリッドは再生可能エネルギー社会の実現には不可欠の社会システムの一つであると言える。
しかし、その必要条件が根本から問われている。それは、スマートグリッドを行うための巨大な情報処理機能の必要性であり、その情報処理機能を維持するために必要とされる電力である。現在の情報社会では、情報処理機器が消費する電力は莫大なものになりつつある。スマートグリッドは電力調整のための無数の情報処理機器を必要とする。その無数のCPUを動かすためにどれだけの電力が必要とされるのか、その総消費量は不明である。
つまり、夢のようなスマートグリッドの発想は、巨大科学技術システムやエネルギーや資源の大量消費を前提とし成立している技術システムであると言える。この制度自体がエネルギー消費量を出来るだけ少なくしようという発想を受け入れていない。そのため、スマートグリッドを地産地消型の再生可能エネルギー社会に導入することは困難であると言えるかもしれない。
もし、分散型エネルギーシステムでは制御機能が重大な役割を果たすと考えるなら(それしか道はないと思うなら)、スマートグリッドの徹底した省エネルギー技術の開発が必要となるだろう。
生産者として位置付けられていない住宅用パネル設置者の立場
住宅用発電所と非住宅用発電所の違いは、電力生産者が個人用住宅の屋根にパネルを設定しその電気を住宅用に利用しながら売電しているか、発電した電力を個人用に一切利用せず全て売電しているかの違いであると言える。またもう一つの分類として10kw以下の発電規模かそれ以上の発電規模かによっても分類されている。
これまでの太陽光発電は住宅用発電所が圧倒的に多く、その世帯数は今年の8月で100万世帯を越えた。しかし、固定価格買い取り制度によって、太陽光発電を事業とする企業が生まれ、今年の7月と8月に登録されたメガソーラー発電(非住宅用)は72.5万kwで住宅用パネルの電力容量は30.6万kwの約2.4倍となっている。つまり、固定価格買い取り制度の続く条件下では、この2カ月間の傾向が今後も続くと予測される。その意味で今後はメガソーラー発電が太陽光発電の主流を占める可能性が大きくなるだろう。
しかし、いずれにしても、固定価格買い取り制度がある限り住宅用発電によって生産される電力も今後も増えつづけることは明らかである。2か月間で30.6万kwの住宅用パネルの電力が増えるなら、一年間にその6倍、つまり184万kwの電力(原発約2基分)を増産し続けることになる。その発電機能は無視できないし、社会資本として高く評価しなければならない。
しかし、住宅用のパネル設置者はパネルの消費者として企業や社会から位置付けられているだけで、電力生産者としての位置付けが明確にされていない。例えば、住宅用の発電は余剰電力、つまり家庭で使用された電気を除いた分の電力のみが「買い取り」の対象となっている。
仮に、住宅用の発電所は家庭で電気を使うのだから、その余剰分のみを買い取りの対象とすることを認めたとしても、今年度の非住宅用パネルの設置者に対して42円の買い取り価格の設定が20年とされているのに対して、住宅用では10年とされている。つまり、非住宅用の半分の年数しか設定されていないのである。
このことは、住宅用パネルが社会資本として評価されていないことを意味するのである。そのことが、今後、以下に列挙する住宅用発電所の抱える問題に発展することになる。
1、住宅用パネルの事故や故障の問題解決
2、住宅用パネルの発電効率の低下、パネルの劣化問題に対する企業の補修や保障問題
3、自然災害時の住宅用パネルによる二次災害を防ぐための対策の遅れ
求められる生産者生協運動(再生可能エネルギー生産者市民運動)と市民参画型民主主義
アメリカのように、降水量が少なく日照時間の長い、しかも誰も使っていない広大な砂漠のような土地のない日本では、企業活動として太陽光パネル事業に参加するためには、土地問題を解決しなければならない。最も日本に相応しいパネル設置場所は屋根である。問題は、個人や企業、もしくは公共施設の屋根を有効利用するためのアイデアや方法が問われる。
一つの考え方はNPO法人PV-Netが進めている「市民ファンドサポートセンター」である。市民が自分たちの生活区域で出資者を集め基金団体(ファンド)を作り、その地区で利用出来るスペースに100kw以内のパネルを設置する運動である。また、ファンドに参加するメンバーの中には、自宅の屋根にファンドが出資するパネルを設置することも可能となる。自宅の屋根に設置したパネルはファンドのメンバーである屋根の所有者が日常的に管理する。勿論、その管理は無償のボランティア運動で支えるばかりでなく、そこに住む会員(屋根の所有者)の仕事となる。ファンドはボランティア運動と自分の実益を満たすものでなければならない。
市民ファンドに参加し、パネルを設置する人も、またファンドへの資金提供のみを行う人も、これら市民がエネルギー生産者であることが、自宅のパネルだけでなく共同出資のパネルも生産者として市民ファンドとして活動している。
この活動はこれまでの生活様式と異なり、エネルギー生産者の組合のようなイメージを持つことになる。つまり市民がエネルギー資源を生産する社会では、再生可能エネルギー生産者市民運動が形成され、エネルギー消費者であり生産者である市民の新しい運動が生まれるだろう。この再生可能エネルギー生産者の運動では、参画型の市民民主主義文化が基礎にない限り発展しないのである。
生き延びるために総力を結集すること
これからの社会は資源枯渇問題を抱え、また先進国では人口減少が進む時代である。その中で、現在のすべての力、技術開発、社会経済政策、市民運動、企業力等々、考えられるすべての力を動員し総力戦で、太陽光発電システム開発に取り組まなければ、このシステムが一次エネルギーの供給源となる未来はない。
結論から言うと、現在の太陽光発電システムの技術や生産コストから考えると、太陽光発電システムで将来の人類のすべての一次エネルギーを賄うことは不可能である。現在、固定価格買い取り制度によって、高く買われている太陽光発電を、健全な市場競争の中で、他の電力に負けないものとするための努力が必要である。
「成長経済主義を越えて成熟循環型経済社会への転回のために」 目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2015/01/blog-post_72.html
講演資料 第11回縮小社会研究会 研究発表
(資料をダウロードする場合には以下の論文タイトルをクリックする)
三石博行「太陽光発電システムは縮小社会のエネルギー生産を担えるだろうか」2012年9月30日 京都大学 (PDFファイルにリンク)
参考資料
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2、PV-Net関西地域交流会HP
http://kansai.greenenergy.jp/2012.9.5osakashinbun.pdf
3、小野雅司 環境健康研究領域総合影響評価研究室 「救急搬送データから見る熱中症患者の増加」『環境儀 No32 APRIL 2009 』 国立環境研究所の研究情報誌 ISSN 1346-776X http://www.nies.go.jp/kanko/kankyogi/32/32.pdfX
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7、日本経済新聞夕刊 2面 9月26日発行
8、NPO法人PV-Net HP 「市民ファンドサポートセンター」 http://www.greenenergy.jp/citizen_plant/index.html
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2012年10月5日金曜日
未来社会からみた太陽光発電システムの課題
太陽光発電の将来性と問題点
三石博行
4-1、省エネ・創エネによる経済成長の可能性
現代科学技術文明構造の変革・「高度農工文明」への道(佐藤進氏の提案から)
我々は、経済成長は多量のエネルギーや資源の消費を必要とすると考えている。事実、資本主義社会は多量のエネルギーと資源を消費できる生産様式を作り出し、生産力を向上させ、安価の商品を大量生産しながら、発展して来た。
19世紀中期の機械制工場生産の導入、20世紀の機械制大工業や重化学工業の形成によって人類がこれまで経験したことのない生産能力を獲得し、また同時に多量のエネルギーと資源を消費しながら、現在まで、豊かな経済社会を創り出してきたのである。
言い換えると、エネルギーや資源の消費を減らすための条件として、経済成長は止まり、後退することは避けられないと考えるのが一般的である。そして、我々は、今まで繰り返してきたように、枯渇する資源エネルギーを巡る将来に起こる紛争(現実にイラクやリビアで欧米先進諸国によって、自由と民主主義の名のもとに、独裁政権の軍事的攻撃と政権転覆が起っているし、また、竹島(独島)や尖閣諸島(魚釣島)での日韓、日中の領有権問題が地域国際社会の平和的共存を脅かす事件として発展しつつある)を、今後も避けることができないと感じている。
21世紀の世界の平和を脅かす資源エネルギー占有を巡る紛争や戦争を回避するために、資源(食糧を含む)、エネルギーの各国の自給率を上げることが課題となるだろう。つまり、人類が末長く生き延び、今後も豊かな生活環境を持続するため、資源エネルギー自給、再生可能なエネルギー生産、省エネルギー・エネルギー効率の高い生産様式や資源リサイクル等々の社会経済技術と生活文化環境の構築が必要となるだろう。
1佐藤進先生(以後、佐藤氏と称す)は、すでに1970年代から、第四次産業(情報産業)の後にくる新しい産業、高度ソフト農工産業を提案していた。佐藤氏によると、この社会経済システムは、再生可能な自然エネルギー(水力、潮力、地熱や太陽エネルギー)を活用し、分散型小規模生産様式によって運営される。現在の再生可能エネルギー社会の課題を佐藤氏は1970年代当時から理解しのである。
つまり、再生可能エネルギー社会の成立は根本的に大量生産様式の社会と相反する新しい社会経済制度や科学技術が求められていると佐藤氏は述べている。この新しい社会制度はエコロジー思想に基づくものである。それらの未来社会を「高度ソフト農工文明」や「高度農工文明」と佐藤氏は呼だ。
佐藤氏が提案したポスト情報社会としての「高度農工文明」社会は、今、21世紀になって、真剣に議論され、社会経済制度や技術的可能性が研究されつつある。太陽光発電システムが一般化することによって、そのエネルギー生産の特性である分散型の生産によって、エネルギーの地産地消が行われえることになる。それらの地産地消型の生産消費文化は、すでに、1970年代から続けられてきた安全食品を求める市民運動が先駆的に切り開いてきたものであった。
資源エネルギーの大量消費こそ経済成長の条件であると信じて疑わなかった高度経済成長に酔いしれた日本社会の中で、リサイクル市民運動、例えば「使い捨てを考える会」や農産物の地産地消を運動してきた市民運動の地道な蓄積こそが、資源エネルギーの消費抑制と豊かな生活文化の両立の道を示す可能性を持っていると言えないだろうか。
それは、これまで日本の太陽電池や太陽光発電システムの産業化に貢献し続けてきたNEDO(政府の国家戦略)に対して、その役割と戦略方針、さらには機構の機能性をも問われることになるだろう。これまでの公共研究機関としてのNEDO指導力によって、今後の状況を切り開いていくためには、この問いかけを敏感に検証点検する機能性が社会経済システムの中に必要となるだろう。
技術革新よる経済成長と省エネの両立
1970代の日本社会で、「経済成長は資源エネルギーの大量消費によって可能になる」という資本主義社会の命題から逸脱した経済現象が起った。第一次から第二次オイルショックと呼ばれた原油の高騰によって日本経済は厳しい状況を迫られた。高騰した原油価格による経済的打撃を、使用原料の節約、つまり省エネルギー・資源対策で乗り切ろうとした。省エネ対策は、燃料や電気の使用上の工夫による節約や技術革新による生産システムの省エネルギー・資源のための技術開発が進んだ。国を挙げての省エネ技術の開発によって、高効率の生産システムを創り上げた。エネルギー・資源の消費量の逓減と生産性の向上が拮抗することなく実現したのである。
この経済・技術革新による国民経済への現象は、国内の一次エネルギー需要の変化に対する経済成長率(GDP増加率)の関係から観察することが出来る。この定量的関係を「エネルギーのGDP弾性値」と呼んでいる。以下、その関係式(2)を示す。
エネルギーのGDP弾性値 = エネルギーの需要の伸び率 / GDPの伸び率(式2)
省エネルギー技術の開発によって、エネルギーのGDP弾性値は変化することになる。「経済成長は資源エネルギーの大量消費によって可能になる」(命題1)というこれまでの資本主義経済の命題に対して、「経済成長は技術開発によって可能になる」(命題2)と「資源エネルギー利用の効率を上げる技術開発によって、一定資源エネルギー使用量に対する生産効率を高める」(命題3)という二つの命題を準備しなければならない。
命題2は、これまで技術革新と生産効率との関係として述べられてきた。この命題2を前提にして、資源エネルギー利用効率を上げる技術開発を行うことが、生産性の向上と矛盾しないということが論理的に帰結できる。つまり、命題3は、命題2から論理的に導くことが可能な命題であると言える。 この命題が成立するためには、エネルギーのGDP弾性値は1以下を示す観測値(データ)が必要となる。
つまり、 年間のGDPの伸び率をその期間の一次エネルギーの需要の伸び率から割ることよって算出される値をエネルギーの所得弾性値と呼ぶ。この GDP弾性値を使って、使ってエネルギー消費量と国民経済の成長の関係の推移を分析する方法が取られる。
図表15に1965年から2009年までの日本のGDP(各産業別と全体の)と一次エネルギー供給量の推移を示した。第一次石油危機(1974年)と第二次石油危機(1979年)がその期間に起こった。そのため、日本では省エネ対策を国家プロジェクトとして取り組んだ。GDPは右肩上がりを続けながらも1973年から1987年まで一次エネルギーの供給量は横ばいとなる。しかし、この間GDPは約230兆円から約380兆円へと増加している。つまり、国家プロジェクトの省エネ対策の結果、一次エネルギー供給量(消費量)の増加を抑えながらGDPを増やすことが出来たのである。
図表15 GDPと一次エネルギー供給の推移(国内 1965年から2009年)
引用 財団法人日本エネルギー研究所計量分析ユニット編『図解 エネルギー・経済データの読み方入門』p7
図表16に、1890年から2009年までの日本のエネルギー消費とGDPの伸び率から計算されるGDP弾性値(式2で示した)のデータを示した。1885年から2009年までのエネルギー消費量の年間増減率とエネルギーのGNP弾性値を図表16に示した。この図表16から、エネルギーのGDP弾性値が1以下を示す期間は、1950年から1960年の間が0.83、1970年から1975年の間が0.44、1975年から1980年の間が0.60、1980年から1985年の間が0.09、1985年から1990年の間が0.70、である。
この図表からも、1970年代から1980年代の20年間、日本ではGDPは成長しながらも、エネルギーのGNP弾性値は1以下を示している。つまり、省エネと経済成長が共に進んでいることが示されている。
図表16 エネルギー消費のGNP弾性値 (日本、1890年から2009年まで)
引用 財団法人日本エネルギー研究所計量分析ユニット編『図解 エネルギー・経済データの読み方入門』p9
言い換えると、1970年代から1980年代の20年間の時代、自動車産業では省エネエンジンの開発やロボット技術を駆使した生産性の効率化が進んだ時代であった。つまり、この時代に限って言えば、産業構造の省エネ化や省エネ製品の開発によって一次エネルギー消費量を抑えながら経済成長を可能にしていたのである。
脱化石燃料・脱原発エネルギー利用と再生可能エネルギー普及を可能にする条件 現在の一次エネルギー需要量の殆どを化石燃料が占めている。省エネとは化石燃料の消費を抑えるという別名でもある。特に、100%に近い化石燃料を海外から輸入している我が国での省エネ政策とは、エネルギー資源の海外依存度を減らすということを意味し、省エネルギー政策は国防政策と関連することになる。また、高騰する原油価格は一次的な現象でなく、化石燃料埋蔵量の減少つまり資源の希少化による価格高騰の現象であり、今後も高騰し続けるだろうという意見もある。
また、化石燃料使用によって生じた廃棄物・二酸化炭素や排熱による環境負荷と気象等環境変化が引き起こす経済効果も評価(4章2節(再生可能エネルギー生産コストの相対的評価で述べるが)しなければならない。
そこで日本政府は、原子力発電所の建設を進め、一次エネルギーの自給率を高め、脱化石燃料依存率を低下させるエネルギー政策を取ってきた。しかし、その政策が福島原発事故によって根本的に見直されようとしている。現在まで最も安価な電力として評価されてきた原子力発電による電力価格は、福島原発事故で発生した全ての被害額を算定し、それらのリスクを設置された全ての原発の経費や放射性廃棄物の処分と数万年以上の管理費用を予測計算するなら、おそらく高額になるだろうと言われている。
つまり、原油の高騰や原発事故による原子力エネルギー利用による発電のリスクが存在する以上、再生可能エネルギー資源の利用を進めるべきであるという考え方と高価なエネルギー利用によって日本経済は国際競争力を失うという考え方がある。とは言え、「エネルギーは100年の計」と言われるように、長期的視点に立ってエネルギー問題は考えなければならない。
現在、確かに再生可能エネルギーの生産コストが化石燃料や原子力燃料よりも高く評価されている。しかし、今後の資源枯渇や事故のリスク等々のエネルギー価格の高騰要因を長期的視点に立って考慮しなければならない。その上で、今後、再生可能エネルギー資源価格は相対的に低くなると予測できる。しかし、これは幾つかの仮定を入れての予測に過ぎない。
現在、国家の政策として再生可能エネルギー利用が進んでいる。つまり、国民の税金を使い、高い再生可能エネルギーを無理に使っているとも言える。国家の政策に再生可能エネルギー社会の建設を依存する限り、その実現は困難である。健全な市場の力で、つまり市民の自発的な経済活動として再生可能エネルギー資源の活用を進める必要がある。
市場の判断基準とは、一言で言えば、再生可能エネルギーの生産コストが化石燃料や原子力燃料でのその生産コストよりも低い条件を意味する。再生可能エネルギーの生産コストを低くする条件や課題については既に2章で議論した。その条件を改善する環境として、技術革新や生産規模の拡大がある。そのために政府の前提的な支援政策が必要となる。
すでに第2章で議論したが、一般に再生可能エネルギー資源の利用では、初期投資及びその破棄に関する費用以外に、システム稼働に必要な燃料費は不要であると考えられている。そこで、太陽光発電システムの製造と破棄・リサイクルの経費が少なく、システムのエネルギー生産効率が高く、しかも稼働年数が長く、故障が少ないという条件が得られるなら、太陽光発電システムによるエネルギー生産コストは下がる。
以下、簡単にその条件を列挙した。
1、再生可能エネルギー生産設備の生産とリサイクルに必要なエネルギー使用量とその生産システムが生み出すエネルギー量との関係から導かれるエネルギー回収年数が短いこと。
2、システム設置と維持管理コストが一定年度間のエネルギー生産コストより低いこと。
3、エネルギーの質(時間的地理的に変動し続けるエネルギー需要の特性に対応しえる供給側のエネルギーの特性)が高いこと。
4、市民による再生可能エネルギーシステム管理が可能であり、エネルギー生産者の大衆化が進むこと。
再生可能エネルギー生産による経済成長
持続可能な社会経済システムを構築するために再生可能な自然資源を活用したエネルギー生産(創エネ)が課題となっている。この再生可能エネルギーの生産は新しい技術開発によって可能となる。言うまでもなく、省エネと創エネを組み合わせることで、積極的に一次エネルギー需要に占める化石燃料量を少なくすることが出来る。
現在、国内で消費される一次エネルギーの殆どを化石燃料と原子力燃料に依存している。再生可能エネルギーの占める割合は4%で、その殆どが水力発電である。その数字がそのまま日本のエネルギー自給率を示している。今後、太陽光発電をはじめ再生可能エネルギーの生産が増加していくことでエネルギー自給率は向上する。そのことは国内でのエネルギー生産量としてGDPを押し上げることを意味する。それと同時に、一次エネルギー資源を国外から輸入する量が減少する。
例えば、国内での一次エネルギー消費量から再生可能エネルギーによって生産された分を差し引くことによって得られる値は、海外から輸入された化石燃料や原子力燃料等と考えることが出来る。この値を非再生可能エネルギー消費量と呼ぶことにする。
(2)式を応用して、この非再生可能エネルギーの年間消費量の伸び率とGDPの伸び率の関係から、非再生可能エネルギーのGDP弾性値を仮定してみる。この関係式を(3)式に示す。
非再生可能エネルギーのGDP弾性値 = 非再生可能エネルギーの需要の伸び率 / GDPの伸び率)(式3)
この(3)式は、再生可能エネルギー生産が普及する社会、例えばその割合が10%以上になる社会の場合には、(2)式で導いたエネルギーのGDP弾性値に相当すると考えられる。従って、その値が1以下を示す社会では、化石燃料等を中心とする一次エネルギー消費量を抑制もしくは減少させながら経済成長を維持もしくは発展していると解釈できる。
再生可能エネルギー生産システム(太陽光発電システム)の普及によって国内エネルギー生産量は増加し、そのシステムが積極的に経済成長に寄与していることを意味する。また同時に、非再生可能エネルギーGDP弾性値を1以下に抑えることで化石燃料等の省エネ技術や社会システムが発展していることを意味する。再生可能エネルギー生産によって積極的に経済発展を進めながら、省エネによって再生可能エネルギーの高効率利用を更に可能にすることになる。
太陽光発電によって太陽光パネルを生産する社会・再生可能エネルギー社会
現在の再生可能エネルギー生産システムは化石燃料や原子力発電を活用して生産している。太陽光発電システムを大量に生産するためにはより多くの化石燃料や原子力エネルギーを必要とする。言わば、地球温暖化ガスを多量に排出しながら太陽光パネルを生産し、原発で生産する電気を使いながら風力発電を作るという状態が、再生可能エネルギー社会を創りだすための過渡的な段階で起る。
もし、太陽光発電システム等を作るために必要なエネルギーを、限りなく今後も、化石燃料や原子力エネルギーに依存しなければならないとすると、再生可能エネルギー社会を作るために余分なエネルギーが必要となる。それでは、再生可能エネルギー社会を目指すという目的に反した、再生可能エネルギーシステムを作るという、本末転倒の事態が生じる。つまり、再生可能エネルギーシステムの形成を行うために、いつまでも化石燃料や原子力エネルギーに依存する必要があるなら、再生エネルギー社会の建設自体がその目的と異なる間違がったエネルギー政策である。
ここで言う再生可能エネルギー社会とは一次エネルギー消費量の大半を再生可能エネルギー生産によって賄うことが出来る社会であり、再生可能エネルギーによって、再生可能エネルギー生産システムを生産することが出来ることがその成立条件となる。
例えば、太陽電池の生産によって、太陽光発電を行うことが出来る。その発電によって、さらに太陽電池の生産を可能にする。再生可能エネルギー生産システムの自己組織性が形成されて成立する社会である。自然エネルギー生産と消費による自然エネルギー生産システムの増殖過程を持つ、自己組織性の自然エネルギー生産システム社会を、再生可能エネルギー社会と呼ぶことにする。
再生可能エネルギーの生産による再生可能エネルギー施設の生産が可能になることで、太陽電池とそれによる太陽エネルギー生産は相互にループしながら、経済を発展させるのではないだろうか。この経済システムを山崎養世氏は「太陽経済」と呼んだ。そして、山崎養世氏は「太陽からのエネルギーを活用し、資源とエネルギーを節約し、水と食糧を確保して、人類は自らを救い、人間性を守ること」を課題にした太陽経済を広める活動「太陽経済の会」を行っている。
経済成長と省エネルギーが共存する条件として、省エネと創エネの技術革新が課題となっている。太陽光や太陽熱の利用技術のみでなく、他の再生可能エネルギー生産技術や省エネルギー技術の向上とその技術導入、社会経済インフラの再整備によって経済成長は保障され、同時に化石燃料依存度は確実に低下するだろう。また同時にそれらの新しい再生可能エネルギー産業の形成によって雇用が生まれることも確かである。雇用の創出によって消費は開発されるだろう。当然のことながら、新しい産業、再生可能エネルギー産業の形成によって経済活動は活発化することになる。
4-2、太陽光発電で全世界のエネルギーを賄うことが出来るか
日本の年間総発電量を賄うパネルの広さは琵琶湖の15倍(理論値)、12倍(現実値)となる
産業総合技術研究所の作田宏一氏は、日本の年間総発電量を1.000.000GWh(10億万KWh)とする場合、等価稼働時間を1時間で10%の発電効率をもつ太陽光発電システムの必要容量は1.000GW(0.1億万KW)として、約10.000 K㎡(1万平方キロメートル)の面積が必要であると報告している( )。縦横100㎞の正方形の面積である。この面積は、琵琶湖の面積が約670平方キロメートルであるから、琵琶湖の約15倍の面積が必要となる。
例えば、実際、筆者が観測し集計してきた住宅用の太陽光発電システムの発電量のデータを活用して、上記の課題、世界のすべての消費エネルギーを太陽光発電で賄う条件を計算してみる。図表17に示すように、シャープNE-132型のモジュール(発電効率10-12%)40枚(38.48平方メートル)の太陽光発電システム(2004年設置)で設置から2011年までの発電量の年間平均値は4665KWh/年となる。
図表17 シャープNE-132型のモジュール40枚の面積と価格(2004年)
筆者の太陽光システムと地理的条件が異なることをここでは無視して、この太陽光システムを使って10億万KWh/年間の発電を行うためには、0.825万平方キロメートルのパネルが必要となる。作田宏一氏が理論的に導いたパネル面積の0.825倍の面積となる。つまり、筆者の自宅のシャープNE-132型のモジュールを使って日本の年間総発電量を満たすパネル面積は琵琶湖の12倍の面積となるのである。またそのパネルを設置するために必要な資金は約750兆円に相当する。現在のパネル価格は2004年時点よりも安くなっている。現在では上記のパネル面積に相当する価格は約200万円であると言われている。仮に、価格が半分になったとしても、約325兆円の資金が必要となる。
また、2008年度の日本の一次エネルギー消費量は約58億トンTOEである。1TOEは1.1628万kwhに相当するので、年間6.74億万kwhの電力量となる。つまり、この年間の日本のエネルギー消費量を満たすために必要なパネル面積は55,660平方キロメートルで琵琶湖の約83倍、九州と四国を合わせた面積に相当する。 このことから、日本の一次エネルギー年間消費量を発電効率10-12%の多結晶太陽光発電システムで補うことは非現実的であると言えるだろう。
変換効率約10%のパネルで世界の1次エネルギー消費を賄うパネルの広さは 桑野幸徳氏は1989年に「ジェネシス計画」と称する太陽光発電による世界規模のエネルギー自給システムを提案した。2010年の世界の1次エネルギー消費は、原油換算で年間140億キロリットルとなると1989年に桑野氏は予測した。
現在では変換効率はよくなったが、当時、桑野氏は変換効率10%の太陽電池で、2010年に必要となる世界の一次エネルギー量を140億Kリットルと仮定し、そのエネルギーをエネルギー変換率10%の太陽光発電システムで生産するとして、その電気エネルギーを生産するために必要な太陽光発電システムの面積が800Km×800Km(640,000平方Km)と換算している。
つまり、東京と広島間の距離を二辺とする正方形の面積(世界の全ての砂漠の4%)で、原油140億リットルの一次エネルギーを太陽光発電で生産できると仮定した。しかも、アフリカの砂漠に巨大な太陽光発電システムを造り、その電気を直流電力融通幹線網で世界中に送電するGENESIS (Global Energy Network Equipped with Solar cells and International Superconductor grids)を桑野氏は提案している。
実際、桑野氏の予測に近い値、2010年のBP Statistical Review of World Energy の資料によると120億トン(石油換算トン)である。図表17に示すように、2010年度の世界の1次エネルギー消費量は120億TOE、つまり135.5兆KWhの電力量となる(1TOEは電気量に換算して1.1628万KWhであるので、120億TOEは139.5兆KWhとなる)。また、2035年には168.4億TOE、つまり195.8兆KWhの1次エネルギーの消費量が予測されている。25年間で増加する1次エネルギー消費量は56.3兆KWhと仮定されている。
図表18 世界の1次エネルギー消費量増加率(2035年)
例えば、筆者が実際観測し集計してきた住宅用の太陽光発電システム(シャープNE-132型のモジュール(発電効率10-12%)40枚、38.48平方メートル)の発電量の図表17に示したデータを活用して、上記した日本の年間総電力量と一次エネルギー消費量を賄うために必要な面積と金額を予測してみる。
2010年度の世界の一次エネルギー消費量を賄うために必要な太陽光パネルの面積は約115万平方キロメートとなった。シャープNE-132型のモジュール40枚38.48平方メートルを設置し屋根が299億軒数必要となる。つまり、このモジュール(発電効率10-12%)を使って世界の年間総発電量を賄うために必要な太陽光パネルの総面積は琵琶湖の1716倍の面積、日本の国土の約3倍の面積が必要となるのである。
さらに、この発電システムの設置に350万円が必要であったとすれば、115万平方キロメートルのパネルを設置するためには、これだけのパネルを設置するシステム価格は10.4京円(104,689兆円)必要となる。現在の日本の国家予算(80兆円)の約1309倍である。 2035年度の世界の1次エネルギー消費予測量は168.4億TOCであると仮定すると、2010年度の約140.3%の増加となる。すると、391.1億軒数の同じタイプの太陽光発電システム(シャープNE-132型のモジュール40枚38.48平方メートル)を載せている家が必要で、約162万平方キロのパネルが必要となる。つまり、1000Km×1620Km(1620,000平方Km)、日本の面積が約37.8万平方キロであるから、その4.3倍の広さの太陽光パネルが必要となる。
また、上記と同じ条件でそのパネル設置に必要な予算は約14.7京円となる。つまり、今後20年から25年間掛けて、世界が12京円の予算つまり(年間平均7300兆円から5800兆円)の予算を太陽光発電システムに費やすなら、2035年には、世界の1次エネルギーを太陽光発電で賄うことができる。
図表19 図表16の条件で世界の1次エネルギー量を生産するために必要な面積と財源
しかし、2010年度の世界のGDPは約629.1兆ドルで、1ドル100円として換算すれば6291兆円となる。2035年までに世界の1次エネルギーをすべて太陽光発電システムで賄うために必要となる太陽光発電システムへの年間投資金額は7300兆円から5800兆円であるから、世界のGDPに匹敵する太陽光発電システムへの投資が必要となることが理解できる。
以上の議論から、2035年までに世界のすべての1次エネルギーを太陽光発電システムで賄うことは、現状の太陽光発電システムのシステム価格、電源コスト、発電効率の状態では非常に困難であることが理解できるだろう。
また、現在のシステムの耐久性を考慮するなら、10年間で発電効率が仮に20%低下し、20年間の試用期間中に必要となるパネルの補修費用を考えると、現状の太陽光発電システムで世界の1次エネルギーを賄うことは夢のまた夢であると言える。
今後の技術革新によってどこまで太陽エネルギー利用は改良可能か 第3章3-1の図表13の「PV2030+による太陽光発電技術開発シナリオ」で示したように、発電効率はNDDOの計画に従い、2020年までにモジュール変換率20%に、2030年でモジュール変換率25%に改良され、また発電コストやシステム価格も逓減するなら、上記した条件は大きく変わることになる。単純に計算しても、1KWhの発電に必要な太陽光パネル面積は2020年には2010年の半分、2030年にはさらに少なくなる。仮に、2035年では現在の発電効率の3倍の電気を生産できると仮定するなら、図表18に示すように、2035年に必要な太陽光システムの面積は日本列島の約1.4倍の広さとなる。
図表20 図表16の3倍の条件で世界の1次エネルギー量を生産するために必要な面積と財源
2012年1月16日の環境ビジネスのニュースによると「物質・材料研究機構の深田直樹グループリーダーは、現在主流となっているシリコン太陽電池において、シリコンナノ構造体を機能的に複合化させることで、接合面積を100倍以上にできる新構造の太陽電池材料を開発した。シリコン材料の削減による低コスト化と変換効率向上を両立させる、これまでにない新しい太陽電池材料として、5年後に実用化する予定」であると報道されている。
この報道記事の通り、同一面積で現在の太陽発電量の100倍の電気を発電することが可能になり、また発電コストが非常に安くなるならば、世界のすべての1次エネルギーを太陽光発電によって賄うという計画は決して不可能だとは言えないだろう。 しかし、それらの革命的な技術を使った太陽光発電パネルの生産はまだ実現してはいない。殆どと言っていいほど現状では実現不可能に近く、その計画の可能性を楽観的には予測できないことは事実である。そして、21世紀の半ばまでに太陽光発電システムのみで人類が必要とするエネルギーを賄うことは可能であるとは言えない。
また、すべての再生可能エネルギーを活用して人類が消費する1次エネルギーの生産が可能になるとは言えない。そして、予測を上回る勢いで世界の1次エネルギー消費量が増え続ける可能性も否定できない。そう考えるなら、再生可能エネルギーによって世界のすべての1次エネルギーを賄うことは殆ど可能性のないほど困難であるとしか言えないのである。
4-3、太陽光発電システムの普及を進めるための課題
再生可能エネルギー生産コストの相対的評価
上記の議論から太陽光発電システムを使って現在の消費エネルギーを賄うことが非常に困難であることに気付くのである。しかし、このことは、即、原子力発電や化石燃料発電を維持推進することを意味するわけではない。
これまでの原子力発電による電力料金の計算方法に大きな欠陥がある。例えば研究開発費等々の政府補助金(国民の税金)や福島原発事故処理費(これも税金)は含まれていない。その上で政府試算の原発の発電原価は5.9円となっていた。
しかし、これまで初期トラブル、老朽化によるトラブル、さらに頻発する事故による停止は、今までも頻繁に起っている。その上、原発の過剰電力を捨てる「揚水発電所」の建設費、原発依存が招く過剰設備、原発立地対策費を支払っている。今回の福島原発事故処理の経費(被害者救済、放射能除染、事故処理、廃炉、高放射性物質の処理等々に必要な費用)が必要となる。その意味で、原発の経済的な再評価を行う必要性を訴える指摘を否定することはできない。
もし、これらのすべての費用を原発の発電原価に組み込むなら、予想をはるかに超える電気料金になることは避けられない。その意味で原子力エネルギーによる発電原価は、今後、再生可能エネルギーの原価より安いと言うことにはならないのである。しかし、そこには再生可能エネルギーのコストが今以上に安くなるという条件を満たすことが前提となっている。
また、化石燃料の使用による大気中の二酸化炭素の増加とそれによる地球温暖化現象が問題にされてきた。地球の温暖化現象への二酸化炭素の影響に関しては異論も出されている。しかし、現実の地球の温暖化はこの半世紀に進んだ。そして同時に大気中の二酸化炭素量も増加した。仮に、その二つの要因が温暖化に関係がないとしても、大気中の二酸化炭素量を増やすことは、これまでの地球規模の生態系にとって大きな変化があることには違いない。その生態系の変化がもたらす気象へのリスク、温暖化現象をまったく否定することは出来ないという立場も成立する。
この仮定に立って、二酸化炭素の排出の経済効果を考える。つまり、気象や生態環境の変動がもたらす災害、例えば都市のヒートランド現象等によるゲリラ豪雨、集中豪雨、雷雨、竜巻の発生による洪水、深層崩壊、土砂崩れ等の災害の発生、さらには北極、南極や高山地帯の氷河溶解による海面上昇と高潮の危険性等々の自然災害の増加による経済的被害を試算する必要がある。世界規模の自然災害の増加と大気中に排出された二酸化炭素量との関係を精密に求めることは難しい。しかし、その相関関係から導かれる二酸化炭素排出量の価格を仮定することは可能である。
その意味で、化石燃料を使ったエネルギー生産(熱や発電)は出来るだけ低く抑えるべきであるという意見が出されてきた。当然、この意見に便乗して原子力発電(原発)の建設が提案されてきた。しかし、原発の熱効率は悪く、例えば沸騰水型の原子炉では33%であると評価されている。つまり、この原子炉では三分の二の熱を捨てながら発電を行なっているのである。 以上の議論から、原子力発電コストや化石燃料発電コスト試算の中に放射能汚染や温暖化という環境破壊の被害コストを計算する必要がある。
社会資本としての太陽光発電システムの位置付け パネルの消費者かエネルギーの生産者か
2012年7月1日から固定価格買い取り制度が始まった。その2ヶ月後の9月に住宅用パネルの設置件数は100万世帯を超えた。この制度が存在する前から日本の太陽光発電の主流は住宅用パネルである。つまり、日本では高額の資金を出して太陽光発電を設置する人々が他の国々に比べて相対的に多くいるといえる。それは日本人の環境意識の高さであるとも評価できるだろう。
日経新聞によると、今年(2012年)の7月と8月の2ヶ月間で認定を受けた住宅用パネルの電力容量は30.6万kwであり、メガソーラー発電(非住宅用)は72.5万kw、風力発電は26.2万kw、等々、再生可能エネルギー全体で130万kwとなっている。政府・経済産業省は2012年度末まで、住宅用パネルの電力容量は150万kw、メガソーラー発電は50万kw、風力発電は38万kw、等々、再生可能エネルギー全体で250万kwの導入を予測していたが、その予測の半分をすでに2ヶ月間で達成した( )。 この数値が示す意味は、固定価格買い取り制度は再生可能エネルギーの普及に大きく貢献していること、また、住宅用や非住宅用(メガソーラー)の太陽光発電パネルの設置は今後も急速に進むことを意味する。
今年度の1kwhの買い取り価格は住宅用太陽光発電と非住宅用(メガソーラー)太陽光発電では42円と設定されている。この価格で住宅用太陽光発電は10年間、非住宅用(メガソーラー)太陽光発電は20年間買い取り価格を保障される。そのために、多くの市民や企業が売電による利益を目的にしてパネルを設置している。買い取り価格が高めに設定されている限り、今後もパネル設置は進む。
この固定価格買い取り制度によって再生可能エネルギーによる電力の生産が進む。つまり、原子力発電所や火力発電所のような50万kw以上の大型の発電施設に代わって、1万kwクラスのメガソーラーや10kw以下の住宅用太陽光発電所が至るところに設置される。それらの小規模発電所は電気を生産する施設である。また、原発などの大型発電所と異なりこれらの小規模発電所は電力消費地に設置されている。その意味で、送電時の電力ロスが少ないのである。
しかし、同時に、太陽光発電の普及はそのシステムが抱える幾つかの重大な問題を提起している。その一つが太陽光パネルの劣化問題である。産業技術研究所の太陽光発電工学研究センターの加藤和彦博士らが運営するボランティア団体「PVRessQ!」はこれまでの483件の住宅用パネル(10年以内の発電システム)の調査のデータを公開している。そのデータによると、運転開始からで483件中100件(全体の21%)の発電所がパワーコンディションの修理・交換を行なった。そして、483件中78件(全体の16%)が太陽電池モジュール1枚以上の交換を行なったと報告されている。
太陽電池モジュールの交換に至るパネルの故障の主な原因は、モジュールの素材である半導体の故障というよりも、モジュール間やパネル間を接合する部分の劣化による電気抵抗の発生と発熱によってモジュールが壊れるケースが多いとの報告があった。
京セラが1983年に国内で初めて、太陽光発電システムを商品化した。それからシャープが2000年から大量生産を行なった。つまり、太陽光発電システムが市場に出てから約12年の歳月しか経っていない。その意味で、このシステムの持久性を検証するデータは多くないのである。それにも拘わらず、2000年以降のパネルの保障期間は10年となっていた。また現在では20年と言われている。
2000年代当時1kwあたり80万以上した高額な設備である住宅用太陽光発電システムの10年間の保障期間中に、製造業者にはその保守点検を行なう義務はない。例えば、トヨタ自動車を初め、日本の自動車メーカーで新車を買った場合、少なくとも1、2年の間、無料の保守点検がサービスとして付いている。しかし、車と同じ位、いやそれ以上の高額な太陽光発電システムに対して、販売業者の保守点検の義務もなければ、勿論、サービスもないのである。
10年以内の太陽光発電システムの21%がパワーコンディションの修理・交換を行ない、またその16%が太陽電池モジュールの交換(一枚以上)をしたという調査結果からすれば、現在、100万世帯に普及した住宅用太陽光発電システムや非住宅用メガソーラーのシステムの故障が大きな社会問題となることは明らかである。そして、この社会問題を正しく解決することが出来なければ、太陽光発電システムの設定に投資しようとする市民や企業の数は激減することは明らかである。
パネル製造企業や政府は、太陽光発電システムの劣化、故障の問題を解決する方法を早急に見つけ出さなければならないだろう。特に、安価な中国・台湾製や韓国製が市場を席巻しようとしている。それらの20年保障を謳うパネルを設置した市民や企業が、今後、10年以内、もしくは10年後に果たして故障したパネルを無料で修理して貰えるのかが深刻に問われているともいえるだろう。
言い換えると、政府も企業も住宅用パネル設置者を高額な電気製品の消費者としてしか位置付けていないことが問われていると言える。太陽光発電システムを導入する市民は、パネル業者から観れば消費者である。しかし、同時に、社会からみれば電気の生産者である。太陽光発電の経済的で社会的な効果を評価するために、固定価格買い取り制度が作られたのである。その意味で、エネルギー生産を行なう社会資本として住宅用の太陽光発電所を位置付けるには、価格の買い取り制度のみでなく、太陽光発電所の保守と修理に関する制度が必要となると言える。
太陽光システムの危機管理と生産技術の開発
東日本大震災時に太陽光発電システムの被害状態に関する現地調査を、NPO法人太陽光発電所ネットワークは東京工業大学ソリューション研究機構 黒川浩助特任教授と共同で進めた。この調査によって東日本大震災時の住宅用パネルの被害状況が判明した。その報告書の中から、特記すべき課題を以下に述べる。
一つ目の課題は、パネルを設置することによって屋根の強度が確保され、その結果地震による屋根の被害がパネル設置家屋は相対的に少なかったという調査結果であった。
二つ目の課題は、地震によって壊れない強固なパネルによって、その後も発電を続けるために、しかも接続箱にある回線切断用設備が活用されていないので、その部分に発電によって生じた熱が発生する。その熱によって結果的に電線が燃えて、さらにその火災によって電気がショートし電線が炭化したのである。この事故を予防するためには、災害時には回線を切断しておく必要がある。そうしなければ、太陽光発電による家屋の火災が発生する可能性が起こるのである。
さらに三つ目の課題は、災害時には太陽光発電システムの自立機能を使い、停電時でも電気を供給できることも証明された。しかし、中規模の住宅用太陽光発電システムには自立運転機能がない場合もあり、パワーコンの自立分電盤機能を追加する必要が求められた。
こうした調査結果は太陽光発電システムの安全管理や危機管理機能を向上させるために評価できる。政府や業者が、今回調査を行なったNPO法人(PV-Net や再生可能エネルギー協会)と大学研究機関と協力し、太陽光発電システムの改良を進める必要がある。
4-4再生可能エネルギー生産管理システムの普及化を促進する新しい文化、社会のあり方
これまで太陽光発電システムの技術的課題に関して議論してきた。これまでの議論から、太陽光発電システムの限界もその可能性も、このシステムの技術的改良に委ねられているという結論が出てくる。しかし、「4-2、太陽光発電で全世界のエネルギーを賄うことが出来るか」で議論したように、発電効率を上げることや、生産価格を下げることなどの太陽光発電システムの生産に関する技術的な議論の限界を理解しておく必要がある。
つまり、太陽光発電システムによって世界や日本の一次エネルギー消費量の大半を生産することが不可能に近い計画であるなら、他の再生可能エネルギーを導入し、また省エネ技術を駆使して、再生可能エネルギー社会の構築という困難な課題に取り組むべきである。つまり、太陽光以外の再生可能エネルギー(太陽熱、バイオマス、風力、潮力、地熱、排熱、水力等々)の活用と電力生産や省エネルギーの技術開発を急ぐべきである。 しかし、再生可能エネルギー社会を構築するためには、技術的な課題だけでなく、社会文化や生活文化の課題が問われている。
集中型生産様式から分散型生産様式へ 再生可能エネルギー生産の特徴は、生産能力が大規模化できないことである。原子力発電や大型火力発電と違い、小規模の発電能力しかもっていない。例えば、10万kwのメガソーラー発電所を建設するには広い敷地が必要となる。固定買い取り制度を活かして、多くの企業がメガソーラー発電所の建設にビジネスチャンスを感じている。休耕作地、日照条件のよい山林、空き地等々の利用を考えている。しかし、殺到するメガソーラーの建設の需要で、こうした土地は高騰しつつある。設置場所の借地金が高騰すると発電から得られる利益は落ちることになる。つまり、経済的なメガソーラーの設置は、格安の借地でなければ、自治体が提供する公共地か自己所有地となるだろう。
広大な砂漠を活用して太陽光発電システムが出来る国々の事情と異なり、平野面積の狭く、人口の多い我が国では、狭い平野に太陽光発電や風力発電を立てることは困難である。パネルの設置場所に休耕田や家屋の屋根利用が計画されている。食糧自給率が30%以下である我が国の食料資源の自給問題を考えると、休耕田を利用することは困難になる。我が国の地理的や文化的事情に適した太陽光発電所の条件を見つけ出す必要がある。
この我が国の地理的条件や発電資源の特性から、太陽光発電に限らず、風力発電、小規模水力発電、地熱利用、潮流発電等々の再生可能エネルギー生産の規模が限定される。設置価格の安い中小規模発電所を効率よく配置連係させるネットワーク設計とその経済的環境条件を確立する技術開発が求められている。
この技術開発の課題の一つが、地域電力調整制御システムの開発である。風力や太陽光による発電は、気象や時間によって発電量が変動する。そのため、質の悪い電気と評価されている。つまり安定供給が出来ないのである。この弱点を克服するために、一つはスマートグリッド、コミュニティグリッドと呼ばれるネットワーク型のエネルギーの供給需要と制御調整機能が必要となる。このネットワーク型のエネルギー需要供給システムを、別名、エネルギーの地産地消型と呼ぶことができる。
言い換えると、再生可能エネルギー社会は、これまでの生産様式である集中型、大量生産と流通方式と異なる産業構造や社会制度の構築、つまり分散型の生産システム、分権型の社会システムが形成されることになる。この分散型社会が集中型社会よりも経済的であり、生産やコミュニケーションの効率がよいということが前提となる。
この前提を受けて社会経済システムが確立するための条件は、資源の有限性やその枯渇問題が顕在化していることにある。つまり、これまでの大量生産制度を支えていた要因の一つは、化石燃料資源を代表として天然資源は無限にあるという考え方であった。しかし、資源の枯渇問題は年々深刻化しつつあり、資源のリサイクル等による再利用によって、持続可能な資源利用リサイクルを創らなければならない。その循環型サイクルを維持するために小規模化の技術と生産システムが再評価されることになる。
資源の枯渇問題を抱えた21世紀の社会経済は、必然的に分散型社会へと変化していくことになると言える。しかし、現実は先進国の優位な経済力を背景に資源の独占化を維持しようとしている。だが、力を増す発展途上国や新興国の台頭によって、資源の独占的な支配構造もそう長くは続かないだろう。その意味で、先進国は分散型生産様式を取り入れ、いち早く持続可能な社会経済システムの構築を目指す必要があるだろう。すでにヨーロッパ社会が先行して持続可能な社会のための実験を進めている。
地産地消型エネルギー生産と地方分権化と国際地域共同化
エネルギーの安定供給化を可能にするためには、地方分権化と国際地域共同化が必要となる。地方分権化とは地域共同体の役割を重視する社会制度である。つまり、地方分権によって広域地域自治体の形成が可能になり、エネルギー生産に関連する社会資源の共同利用を可能にすることができる。 広域地域自治体(市民参加を前提にした地域社会運営)を土台とした国のかたちから逆算して考えるなら、地域国際共同体の形成が課題となる。言い換えると、地方分権化による広域地方自治体の形成によって地方の多様性が生まれる。その社会の多様性が日本社会の国際化を進めるのである。中央集権的な国家から地方文化の多様性が失われる。その分、国際化に必要な要件を失うことになるのである。
言い換えると、分散型社会の経済合理性は、ネットワーク型社会によって生まれる。つまり、分散型社会は地方分権化を要求する。そして、地方分権化は社会の多様性を生み出す。その結果、社会の多様性によって分散型社会は地域国際社会での経済文化競争力を獲得することになるのである。 同じように、分散型エネルギー社会の多様なエネルギー生産活動によって広域地域自治体の安定した経済活動が保障され、エネルギーの需要と供給のネットワークを地域国際共同体に広げることも可能となる。具体的にはEUのエネルギーネットワークを模範にしながら、東アジア共同体のエネルギーネットワークを構想することも可能となる。
市民参画社会によって発展する再生可能エネルギー社会システム
エネルギーの地産地消型によって分散型エネルギー生産システムは有効に機能する。その機能を支えるのは、単にスマートグリッドの情報処理や制御技術だけではない。分散型生産システムに必要なきめ細かい生産地と消費地のコミュニケーション力であり、そのコミュニケーション力を維持発展する力は市民参画型社会によって形成される。
生産者であり消費者である市民によって、資源の有効活用を生み出す生活文化が形成され、それをリサイクル文化と呼ぶこともできるが、大量消費生活への反省や環境保全を生活文化とするライフスタイルの形成が行なわれ、人々の豊かさの評価尺度が、消費財の価格評価から、生活の質(QOL)を重視した生活文化やライフスタイルへ移行することになる。
人権や平和、共存やコミュニケーションが社会文化の評価の基準となり、社会サービス業務への市民参加(ボランティアやNPOの役割)が国民総生産の一要因として評価され、こころを持つと呼ばれる良質の福祉環境が形成され、また生態環境が生活の豊かさの一要因となるだろう。 このように、大量消費文化を支えていた経済主義から脱却していくとき、経済の分散型社会の経済効率は向上するといえる。その意味は、これまで経済主義の評価していた資源概念が大きく変化し、産業生産に有用な資源のみでなく、家庭生活に必要なあらゆる資源(愛、思いやりや協力)を含めて経済活動として評価されることになるだろう。
市民参画社会とは、生活重視の考え方に立った人々によって創られる社会を意味する。それらの社会生産力とは、豊かで多様な生活資源の生産を意味する。その生産に有用なシステムを経済効率の高い制度として評価することになる。つまり、資源の無駄遣いから、平和や人権主義によって生み出される生活の豊かさの形成と向上を経済活動として捉える社会形成が市民参画社会の究極の課題となるのである。
例えば、欧米や日本ではエネルギー自給率の向上を目指すために固定価格買い取り制度が確立した。その制度は、ドイツの例にみられるように、市場原理を取り入れながら、システム価格の逓減に即して順次固定価格を見直す必要がある。日本では、その見直し制度が再生可能エネルギー経済や社会政策の専門家で作る委員会によって行われる。こうした再生可能エネルギー社会を発展維持する政府の活動(専門委員会の議事録や答申内容)の情報を市民に公開し、市民参加の意見聴取会を開く必要がある。
分散型エネルギー生産社会では、市民がエネルギーの生産者となる。市民参画型社会を形成しない限り分散型エネルギーシステムの経済合理性は確保されない。その経済合理性の基本要因は市民がエネルギー生産に参加することで成立している。つまり、この生産様式が成立するには、市民民主主義文化の形成発展が条件となる。
言い換えると、市民民主主義文化によってエネルギー問題のみでなく、社会福祉、健康、子育て環境、社会の危機管理や安全管理、教育や文化、環境保護、人権、国際交流、平和活動等々、今、集中型社会が抱える経済負担の大きな社会要因を市民が参画しやすい社会規模にすることによって、分散型社会でのエネルギー生産力は向上するのである。
メガソーラー発電所と家庭発電所の違いから来る課題
現在、二つの太陽光発電所スタイルがある。一つは非住宅用のメガソーラー発電所であり、もう一つは住宅用の発電所である。その二つの太陽光発電所は分散型エネルギーシステムを担い、また他の発電所とのネットワークによってより安定した電力を地域社会に提供できる。
しかし、メガソーラー型はこれまでの集中生産型により近く、現在の産業システムから最も期待される太陽光発電所である。それに比べて、家庭発電所は殆ど現代の日本の産業システムから期待されないだろう。そのため、政府が家庭用太陽光発電所を重視するというのは、殆ど、その発電機能に関する期待からでなく、パネル製造業者の需要先としての役割が主な理由となるだろう。 言い換えると、家庭用発電所ネットワークであるNPO法人太陽光発電所ネットワーク(PV-Net)の今後の社会的役割やその活動の在り方が問題となると言える。以下、その問題を検討するために、二つの課題を列挙する。
一つは、家庭用発電所の意味をエネルギー政策上、社会や政府、産業界に理解させること。二つ目は、PV-Net運動の意味を再度確認し、家庭用発電所の発展と維持のために活動の在り方を検討すること。以上の二つの課題を展開するための、議論をはじめる必要がある。
とりわけ、住宅用の太陽光発電システムの普及によって多様なサポート企業やNPOが生まれる。これらの企業や団体は太陽光発電所の管理者となった市民、もしくは管理者になろうとする市民のニーズによって発展する。
これらのニーズを満たすために、NPO的な企業が形成され、市民参画型社会の経済構造の大きな要素を作り上げてゆく。つまり社会貢献度の高さを企業活動の目標に掲げる企業文化が生まれるのである。この企業文化は分散型社会の構築に貢献するのである。
消費者・生産者(プロシュマー)の組合運動
1960年代、市民社会の発達とともに形成された日本の消費者運動、その始まりは安い商品による生活支援活動であった。1970年代になると、この消費者運動は安全な商品の提供による生活支援運動に展開した。
太陽光発電所ネットワークは、その意味で、全く新しい運動である。何故なら、環境保全や再生可能エネルギー社会に貢献するために高額の太陽光発電システムを購入した消費者であり、また同時に、そこで生産した電気を電力会社に売る生産者でもある。つまり、消費者・生産者運動(プロシュマー運動、プロシュマーとはアメリカの経済学者トフラーの用語)である。
この新しい運動の形成は21世紀の市民の在り方を意味している。20世紀後半は消費者や勤労者として市民は位置づけられていた。しかし、21世紀は、生産者としての市民の役割が大きく評価されつつある。それは、商売や中小企業の経営者という市民のみでなく、太陽光パネルを始め、他の再生可能エネルギー生産に投資する市民、また、環境保全や自然エネルギー生産のNPO活動に投資する市民としての、言い換えると、社会や経済活動に参画する市民という、概念を意味する。この新しい市民のイメージが太陽光発電所ネットワークの中で語らなければならないものである。
そこで、この運動は、以下の二つの課題が具体的に検討されなければならない。一つは、消費者運動としての在りかた。つまり、太陽光発電システム購入者の利益を擁護する活動の在り方が問われる。さらに、もう一つは生産者運動としての在り方、つまり、買電に関する利益を擁護する活動が問われる。
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論文「社会経済システムからみた太陽光発電システムの課題
-太陽光発電の将来性と問題点- 」のダウンロード
クリックしてください
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_03_04/MITShir12b.pdf
「成長経済主義を越えて成熟循環型経済社会への転回のために」 目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2015/01/blog-post_72.html
2012年10月17日 誤字、文書修正
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三石博行
4-1、省エネ・創エネによる経済成長の可能性
現代科学技術文明構造の変革・「高度農工文明」への道(佐藤進氏の提案から)
我々は、経済成長は多量のエネルギーや資源の消費を必要とすると考えている。事実、資本主義社会は多量のエネルギーと資源を消費できる生産様式を作り出し、生産力を向上させ、安価の商品を大量生産しながら、発展して来た。
19世紀中期の機械制工場生産の導入、20世紀の機械制大工業や重化学工業の形成によって人類がこれまで経験したことのない生産能力を獲得し、また同時に多量のエネルギーと資源を消費しながら、現在まで、豊かな経済社会を創り出してきたのである。
言い換えると、エネルギーや資源の消費を減らすための条件として、経済成長は止まり、後退することは避けられないと考えるのが一般的である。そして、我々は、今まで繰り返してきたように、枯渇する資源エネルギーを巡る将来に起こる紛争(現実にイラクやリビアで欧米先進諸国によって、自由と民主主義の名のもとに、独裁政権の軍事的攻撃と政権転覆が起っているし、また、竹島(独島)や尖閣諸島(魚釣島)での日韓、日中の領有権問題が地域国際社会の平和的共存を脅かす事件として発展しつつある)を、今後も避けることができないと感じている。
21世紀の世界の平和を脅かす資源エネルギー占有を巡る紛争や戦争を回避するために、資源(食糧を含む)、エネルギーの各国の自給率を上げることが課題となるだろう。つまり、人類が末長く生き延び、今後も豊かな生活環境を持続するため、資源エネルギー自給、再生可能なエネルギー生産、省エネルギー・エネルギー効率の高い生産様式や資源リサイクル等々の社会経済技術と生活文化環境の構築が必要となるだろう。
1佐藤進先生(以後、佐藤氏と称す)は、すでに1970年代から、第四次産業(情報産業)の後にくる新しい産業、高度ソフト農工産業を提案していた。佐藤氏によると、この社会経済システムは、再生可能な自然エネルギー(水力、潮力、地熱や太陽エネルギー)を活用し、分散型小規模生産様式によって運営される。現在の再生可能エネルギー社会の課題を佐藤氏は1970年代当時から理解しのである。
つまり、再生可能エネルギー社会の成立は根本的に大量生産様式の社会と相反する新しい社会経済制度や科学技術が求められていると佐藤氏は述べている。この新しい社会制度はエコロジー思想に基づくものである。それらの未来社会を「高度ソフト農工文明」や「高度農工文明」と佐藤氏は呼だ。
佐藤氏が提案したポスト情報社会としての「高度農工文明」社会は、今、21世紀になって、真剣に議論され、社会経済制度や技術的可能性が研究されつつある。太陽光発電システムが一般化することによって、そのエネルギー生産の特性である分散型の生産によって、エネルギーの地産地消が行われえることになる。それらの地産地消型の生産消費文化は、すでに、1970年代から続けられてきた安全食品を求める市民運動が先駆的に切り開いてきたものであった。
資源エネルギーの大量消費こそ経済成長の条件であると信じて疑わなかった高度経済成長に酔いしれた日本社会の中で、リサイクル市民運動、例えば「使い捨てを考える会」や農産物の地産地消を運動してきた市民運動の地道な蓄積こそが、資源エネルギーの消費抑制と豊かな生活文化の両立の道を示す可能性を持っていると言えないだろうか。
それは、これまで日本の太陽電池や太陽光発電システムの産業化に貢献し続けてきたNEDO(政府の国家戦略)に対して、その役割と戦略方針、さらには機構の機能性をも問われることになるだろう。これまでの公共研究機関としてのNEDO指導力によって、今後の状況を切り開いていくためには、この問いかけを敏感に検証点検する機能性が社会経済システムの中に必要となるだろう。
技術革新よる経済成長と省エネの両立
1970代の日本社会で、「経済成長は資源エネルギーの大量消費によって可能になる」という資本主義社会の命題から逸脱した経済現象が起った。第一次から第二次オイルショックと呼ばれた原油の高騰によって日本経済は厳しい状況を迫られた。高騰した原油価格による経済的打撃を、使用原料の節約、つまり省エネルギー・資源対策で乗り切ろうとした。省エネ対策は、燃料や電気の使用上の工夫による節約や技術革新による生産システムの省エネルギー・資源のための技術開発が進んだ。国を挙げての省エネ技術の開発によって、高効率の生産システムを創り上げた。エネルギー・資源の消費量の逓減と生産性の向上が拮抗することなく実現したのである。
この経済・技術革新による国民経済への現象は、国内の一次エネルギー需要の変化に対する経済成長率(GDP増加率)の関係から観察することが出来る。この定量的関係を「エネルギーのGDP弾性値」と呼んでいる。以下、その関係式(2)を示す。
エネルギーのGDP弾性値 = エネルギーの需要の伸び率 / GDPの伸び率(式2)
省エネルギー技術の開発によって、エネルギーのGDP弾性値は変化することになる。「経済成長は資源エネルギーの大量消費によって可能になる」(命題1)というこれまでの資本主義経済の命題に対して、「経済成長は技術開発によって可能になる」(命題2)と「資源エネルギー利用の効率を上げる技術開発によって、一定資源エネルギー使用量に対する生産効率を高める」(命題3)という二つの命題を準備しなければならない。
命題2は、これまで技術革新と生産効率との関係として述べられてきた。この命題2を前提にして、資源エネルギー利用効率を上げる技術開発を行うことが、生産性の向上と矛盾しないということが論理的に帰結できる。つまり、命題3は、命題2から論理的に導くことが可能な命題であると言える。 この命題が成立するためには、エネルギーのGDP弾性値は1以下を示す観測値(データ)が必要となる。
つまり、 年間のGDPの伸び率をその期間の一次エネルギーの需要の伸び率から割ることよって算出される値をエネルギーの所得弾性値と呼ぶ。この GDP弾性値を使って、使ってエネルギー消費量と国民経済の成長の関係の推移を分析する方法が取られる。
図表15に1965年から2009年までの日本のGDP(各産業別と全体の)と一次エネルギー供給量の推移を示した。第一次石油危機(1974年)と第二次石油危機(1979年)がその期間に起こった。そのため、日本では省エネ対策を国家プロジェクトとして取り組んだ。GDPは右肩上がりを続けながらも1973年から1987年まで一次エネルギーの供給量は横ばいとなる。しかし、この間GDPは約230兆円から約380兆円へと増加している。つまり、国家プロジェクトの省エネ対策の結果、一次エネルギー供給量(消費量)の増加を抑えながらGDPを増やすことが出来たのである。
図表15 GDPと一次エネルギー供給の推移(国内 1965年から2009年)
引用 財団法人日本エネルギー研究所計量分析ユニット編『図解 エネルギー・経済データの読み方入門』p7
図表16に、1890年から2009年までの日本のエネルギー消費とGDPの伸び率から計算されるGDP弾性値(式2で示した)のデータを示した。1885年から2009年までのエネルギー消費量の年間増減率とエネルギーのGNP弾性値を図表16に示した。この図表16から、エネルギーのGDP弾性値が1以下を示す期間は、1950年から1960年の間が0.83、1970年から1975年の間が0.44、1975年から1980年の間が0.60、1980年から1985年の間が0.09、1985年から1990年の間が0.70、である。
この図表からも、1970年代から1980年代の20年間、日本ではGDPは成長しながらも、エネルギーのGNP弾性値は1以下を示している。つまり、省エネと経済成長が共に進んでいることが示されている。
図表16 エネルギー消費のGNP弾性値 (日本、1890年から2009年まで)
引用 財団法人日本エネルギー研究所計量分析ユニット編『図解 エネルギー・経済データの読み方入門』p9
言い換えると、1970年代から1980年代の20年間の時代、自動車産業では省エネエンジンの開発やロボット技術を駆使した生産性の効率化が進んだ時代であった。つまり、この時代に限って言えば、産業構造の省エネ化や省エネ製品の開発によって一次エネルギー消費量を抑えながら経済成長を可能にしていたのである。
脱化石燃料・脱原発エネルギー利用と再生可能エネルギー普及を可能にする条件 現在の一次エネルギー需要量の殆どを化石燃料が占めている。省エネとは化石燃料の消費を抑えるという別名でもある。特に、100%に近い化石燃料を海外から輸入している我が国での省エネ政策とは、エネルギー資源の海外依存度を減らすということを意味し、省エネルギー政策は国防政策と関連することになる。また、高騰する原油価格は一次的な現象でなく、化石燃料埋蔵量の減少つまり資源の希少化による価格高騰の現象であり、今後も高騰し続けるだろうという意見もある。
また、化石燃料使用によって生じた廃棄物・二酸化炭素や排熱による環境負荷と気象等環境変化が引き起こす経済効果も評価(4章2節(再生可能エネルギー生産コストの相対的評価で述べるが)しなければならない。
そこで日本政府は、原子力発電所の建設を進め、一次エネルギーの自給率を高め、脱化石燃料依存率を低下させるエネルギー政策を取ってきた。しかし、その政策が福島原発事故によって根本的に見直されようとしている。現在まで最も安価な電力として評価されてきた原子力発電による電力価格は、福島原発事故で発生した全ての被害額を算定し、それらのリスクを設置された全ての原発の経費や放射性廃棄物の処分と数万年以上の管理費用を予測計算するなら、おそらく高額になるだろうと言われている。
つまり、原油の高騰や原発事故による原子力エネルギー利用による発電のリスクが存在する以上、再生可能エネルギー資源の利用を進めるべきであるという考え方と高価なエネルギー利用によって日本経済は国際競争力を失うという考え方がある。とは言え、「エネルギーは100年の計」と言われるように、長期的視点に立ってエネルギー問題は考えなければならない。
現在、確かに再生可能エネルギーの生産コストが化石燃料や原子力燃料よりも高く評価されている。しかし、今後の資源枯渇や事故のリスク等々のエネルギー価格の高騰要因を長期的視点に立って考慮しなければならない。その上で、今後、再生可能エネルギー資源価格は相対的に低くなると予測できる。しかし、これは幾つかの仮定を入れての予測に過ぎない。
現在、国家の政策として再生可能エネルギー利用が進んでいる。つまり、国民の税金を使い、高い再生可能エネルギーを無理に使っているとも言える。国家の政策に再生可能エネルギー社会の建設を依存する限り、その実現は困難である。健全な市場の力で、つまり市民の自発的な経済活動として再生可能エネルギー資源の活用を進める必要がある。
市場の判断基準とは、一言で言えば、再生可能エネルギーの生産コストが化石燃料や原子力燃料でのその生産コストよりも低い条件を意味する。再生可能エネルギーの生産コストを低くする条件や課題については既に2章で議論した。その条件を改善する環境として、技術革新や生産規模の拡大がある。そのために政府の前提的な支援政策が必要となる。
すでに第2章で議論したが、一般に再生可能エネルギー資源の利用では、初期投資及びその破棄に関する費用以外に、システム稼働に必要な燃料費は不要であると考えられている。そこで、太陽光発電システムの製造と破棄・リサイクルの経費が少なく、システムのエネルギー生産効率が高く、しかも稼働年数が長く、故障が少ないという条件が得られるなら、太陽光発電システムによるエネルギー生産コストは下がる。
以下、簡単にその条件を列挙した。
1、再生可能エネルギー生産設備の生産とリサイクルに必要なエネルギー使用量とその生産システムが生み出すエネルギー量との関係から導かれるエネルギー回収年数が短いこと。
2、システム設置と維持管理コストが一定年度間のエネルギー生産コストより低いこと。
3、エネルギーの質(時間的地理的に変動し続けるエネルギー需要の特性に対応しえる供給側のエネルギーの特性)が高いこと。
4、市民による再生可能エネルギーシステム管理が可能であり、エネルギー生産者の大衆化が進むこと。
再生可能エネルギー生産による経済成長
持続可能な社会経済システムを構築するために再生可能な自然資源を活用したエネルギー生産(創エネ)が課題となっている。この再生可能エネルギーの生産は新しい技術開発によって可能となる。言うまでもなく、省エネと創エネを組み合わせることで、積極的に一次エネルギー需要に占める化石燃料量を少なくすることが出来る。
現在、国内で消費される一次エネルギーの殆どを化石燃料と原子力燃料に依存している。再生可能エネルギーの占める割合は4%で、その殆どが水力発電である。その数字がそのまま日本のエネルギー自給率を示している。今後、太陽光発電をはじめ再生可能エネルギーの生産が増加していくことでエネルギー自給率は向上する。そのことは国内でのエネルギー生産量としてGDPを押し上げることを意味する。それと同時に、一次エネルギー資源を国外から輸入する量が減少する。
例えば、国内での一次エネルギー消費量から再生可能エネルギーによって生産された分を差し引くことによって得られる値は、海外から輸入された化石燃料や原子力燃料等と考えることが出来る。この値を非再生可能エネルギー消費量と呼ぶことにする。
(2)式を応用して、この非再生可能エネルギーの年間消費量の伸び率とGDPの伸び率の関係から、非再生可能エネルギーのGDP弾性値を仮定してみる。この関係式を(3)式に示す。
非再生可能エネルギーのGDP弾性値 = 非再生可能エネルギーの需要の伸び率 / GDPの伸び率)(式3)
この(3)式は、再生可能エネルギー生産が普及する社会、例えばその割合が10%以上になる社会の場合には、(2)式で導いたエネルギーのGDP弾性値に相当すると考えられる。従って、その値が1以下を示す社会では、化石燃料等を中心とする一次エネルギー消費量を抑制もしくは減少させながら経済成長を維持もしくは発展していると解釈できる。
再生可能エネルギー生産システム(太陽光発電システム)の普及によって国内エネルギー生産量は増加し、そのシステムが積極的に経済成長に寄与していることを意味する。また同時に、非再生可能エネルギーGDP弾性値を1以下に抑えることで化石燃料等の省エネ技術や社会システムが発展していることを意味する。再生可能エネルギー生産によって積極的に経済発展を進めながら、省エネによって再生可能エネルギーの高効率利用を更に可能にすることになる。
太陽光発電によって太陽光パネルを生産する社会・再生可能エネルギー社会
現在の再生可能エネルギー生産システムは化石燃料や原子力発電を活用して生産している。太陽光発電システムを大量に生産するためにはより多くの化石燃料や原子力エネルギーを必要とする。言わば、地球温暖化ガスを多量に排出しながら太陽光パネルを生産し、原発で生産する電気を使いながら風力発電を作るという状態が、再生可能エネルギー社会を創りだすための過渡的な段階で起る。
もし、太陽光発電システム等を作るために必要なエネルギーを、限りなく今後も、化石燃料や原子力エネルギーに依存しなければならないとすると、再生可能エネルギー社会を作るために余分なエネルギーが必要となる。それでは、再生可能エネルギー社会を目指すという目的に反した、再生可能エネルギーシステムを作るという、本末転倒の事態が生じる。つまり、再生可能エネルギーシステムの形成を行うために、いつまでも化石燃料や原子力エネルギーに依存する必要があるなら、再生エネルギー社会の建設自体がその目的と異なる間違がったエネルギー政策である。
ここで言う再生可能エネルギー社会とは一次エネルギー消費量の大半を再生可能エネルギー生産によって賄うことが出来る社会であり、再生可能エネルギーによって、再生可能エネルギー生産システムを生産することが出来ることがその成立条件となる。
例えば、太陽電池の生産によって、太陽光発電を行うことが出来る。その発電によって、さらに太陽電池の生産を可能にする。再生可能エネルギー生産システムの自己組織性が形成されて成立する社会である。自然エネルギー生産と消費による自然エネルギー生産システムの増殖過程を持つ、自己組織性の自然エネルギー生産システム社会を、再生可能エネルギー社会と呼ぶことにする。
再生可能エネルギーの生産による再生可能エネルギー施設の生産が可能になることで、太陽電池とそれによる太陽エネルギー生産は相互にループしながら、経済を発展させるのではないだろうか。この経済システムを山崎養世氏は「太陽経済」と呼んだ。そして、山崎養世氏は「太陽からのエネルギーを活用し、資源とエネルギーを節約し、水と食糧を確保して、人類は自らを救い、人間性を守ること」を課題にした太陽経済を広める活動「太陽経済の会」を行っている。
経済成長と省エネルギーが共存する条件として、省エネと創エネの技術革新が課題となっている。太陽光や太陽熱の利用技術のみでなく、他の再生可能エネルギー生産技術や省エネルギー技術の向上とその技術導入、社会経済インフラの再整備によって経済成長は保障され、同時に化石燃料依存度は確実に低下するだろう。また同時にそれらの新しい再生可能エネルギー産業の形成によって雇用が生まれることも確かである。雇用の創出によって消費は開発されるだろう。当然のことながら、新しい産業、再生可能エネルギー産業の形成によって経済活動は活発化することになる。
4-2、太陽光発電で全世界のエネルギーを賄うことが出来るか
日本の年間総発電量を賄うパネルの広さは琵琶湖の15倍(理論値)、12倍(現実値)となる
産業総合技術研究所の作田宏一氏は、日本の年間総発電量を1.000.000GWh(10億万KWh)とする場合、等価稼働時間を1時間で10%の発電効率をもつ太陽光発電システムの必要容量は1.000GW(0.1億万KW)として、約10.000 K㎡(1万平方キロメートル)の面積が必要であると報告している( )。縦横100㎞の正方形の面積である。この面積は、琵琶湖の面積が約670平方キロメートルであるから、琵琶湖の約15倍の面積が必要となる。
例えば、実際、筆者が観測し集計してきた住宅用の太陽光発電システムの発電量のデータを活用して、上記の課題、世界のすべての消費エネルギーを太陽光発電で賄う条件を計算してみる。図表17に示すように、シャープNE-132型のモジュール(発電効率10-12%)40枚(38.48平方メートル)の太陽光発電システム(2004年設置)で設置から2011年までの発電量の年間平均値は4665KWh/年となる。
図表17 シャープNE-132型のモジュール40枚の面積と価格(2004年)
筆者の太陽光システムと地理的条件が異なることをここでは無視して、この太陽光システムを使って10億万KWh/年間の発電を行うためには、0.825万平方キロメートルのパネルが必要となる。作田宏一氏が理論的に導いたパネル面積の0.825倍の面積となる。つまり、筆者の自宅のシャープNE-132型のモジュールを使って日本の年間総発電量を満たすパネル面積は琵琶湖の12倍の面積となるのである。またそのパネルを設置するために必要な資金は約750兆円に相当する。現在のパネル価格は2004年時点よりも安くなっている。現在では上記のパネル面積に相当する価格は約200万円であると言われている。仮に、価格が半分になったとしても、約325兆円の資金が必要となる。
また、2008年度の日本の一次エネルギー消費量は約58億トンTOEである。1TOEは1.1628万kwhに相当するので、年間6.74億万kwhの電力量となる。つまり、この年間の日本のエネルギー消費量を満たすために必要なパネル面積は55,660平方キロメートルで琵琶湖の約83倍、九州と四国を合わせた面積に相当する。 このことから、日本の一次エネルギー年間消費量を発電効率10-12%の多結晶太陽光発電システムで補うことは非現実的であると言えるだろう。
変換効率約10%のパネルで世界の1次エネルギー消費を賄うパネルの広さは 桑野幸徳氏は1989年に「ジェネシス計画」と称する太陽光発電による世界規模のエネルギー自給システムを提案した。2010年の世界の1次エネルギー消費は、原油換算で年間140億キロリットルとなると1989年に桑野氏は予測した。
現在では変換効率はよくなったが、当時、桑野氏は変換効率10%の太陽電池で、2010年に必要となる世界の一次エネルギー量を140億Kリットルと仮定し、そのエネルギーをエネルギー変換率10%の太陽光発電システムで生産するとして、その電気エネルギーを生産するために必要な太陽光発電システムの面積が800Km×800Km(640,000平方Km)と換算している。
つまり、東京と広島間の距離を二辺とする正方形の面積(世界の全ての砂漠の4%)で、原油140億リットルの一次エネルギーを太陽光発電で生産できると仮定した。しかも、アフリカの砂漠に巨大な太陽光発電システムを造り、その電気を直流電力融通幹線網で世界中に送電するGENESIS (Global Energy Network Equipped with Solar cells and International Superconductor grids)を桑野氏は提案している。
実際、桑野氏の予測に近い値、2010年のBP Statistical Review of World Energy の資料によると120億トン(石油換算トン)である。図表17に示すように、2010年度の世界の1次エネルギー消費量は120億TOE、つまり135.5兆KWhの電力量となる(1TOEは電気量に換算して1.1628万KWhであるので、120億TOEは139.5兆KWhとなる)。また、2035年には168.4億TOE、つまり195.8兆KWhの1次エネルギーの消費量が予測されている。25年間で増加する1次エネルギー消費量は56.3兆KWhと仮定されている。
図表18 世界の1次エネルギー消費量増加率(2035年)
例えば、筆者が実際観測し集計してきた住宅用の太陽光発電システム(シャープNE-132型のモジュール(発電効率10-12%)40枚、38.48平方メートル)の発電量の図表17に示したデータを活用して、上記した日本の年間総電力量と一次エネルギー消費量を賄うために必要な面積と金額を予測してみる。
2010年度の世界の一次エネルギー消費量を賄うために必要な太陽光パネルの面積は約115万平方キロメートとなった。シャープNE-132型のモジュール40枚38.48平方メートルを設置し屋根が299億軒数必要となる。つまり、このモジュール(発電効率10-12%)を使って世界の年間総発電量を賄うために必要な太陽光パネルの総面積は琵琶湖の1716倍の面積、日本の国土の約3倍の面積が必要となるのである。
さらに、この発電システムの設置に350万円が必要であったとすれば、115万平方キロメートルのパネルを設置するためには、これだけのパネルを設置するシステム価格は10.4京円(104,689兆円)必要となる。現在の日本の国家予算(80兆円)の約1309倍である。 2035年度の世界の1次エネルギー消費予測量は168.4億TOCであると仮定すると、2010年度の約140.3%の増加となる。すると、391.1億軒数の同じタイプの太陽光発電システム(シャープNE-132型のモジュール40枚38.48平方メートル)を載せている家が必要で、約162万平方キロのパネルが必要となる。つまり、1000Km×1620Km(1620,000平方Km)、日本の面積が約37.8万平方キロであるから、その4.3倍の広さの太陽光パネルが必要となる。
また、上記と同じ条件でそのパネル設置に必要な予算は約14.7京円となる。つまり、今後20年から25年間掛けて、世界が12京円の予算つまり(年間平均7300兆円から5800兆円)の予算を太陽光発電システムに費やすなら、2035年には、世界の1次エネルギーを太陽光発電で賄うことができる。
図表19 図表16の条件で世界の1次エネルギー量を生産するために必要な面積と財源
しかし、2010年度の世界のGDPは約629.1兆ドルで、1ドル100円として換算すれば6291兆円となる。2035年までに世界の1次エネルギーをすべて太陽光発電システムで賄うために必要となる太陽光発電システムへの年間投資金額は7300兆円から5800兆円であるから、世界のGDPに匹敵する太陽光発電システムへの投資が必要となることが理解できる。
以上の議論から、2035年までに世界のすべての1次エネルギーを太陽光発電システムで賄うことは、現状の太陽光発電システムのシステム価格、電源コスト、発電効率の状態では非常に困難であることが理解できるだろう。
また、現在のシステムの耐久性を考慮するなら、10年間で発電効率が仮に20%低下し、20年間の試用期間中に必要となるパネルの補修費用を考えると、現状の太陽光発電システムで世界の1次エネルギーを賄うことは夢のまた夢であると言える。
今後の技術革新によってどこまで太陽エネルギー利用は改良可能か 第3章3-1の図表13の「PV2030+による太陽光発電技術開発シナリオ」で示したように、発電効率はNDDOの計画に従い、2020年までにモジュール変換率20%に、2030年でモジュール変換率25%に改良され、また発電コストやシステム価格も逓減するなら、上記した条件は大きく変わることになる。単純に計算しても、1KWhの発電に必要な太陽光パネル面積は2020年には2010年の半分、2030年にはさらに少なくなる。仮に、2035年では現在の発電効率の3倍の電気を生産できると仮定するなら、図表18に示すように、2035年に必要な太陽光システムの面積は日本列島の約1.4倍の広さとなる。
図表20 図表16の3倍の条件で世界の1次エネルギー量を生産するために必要な面積と財源
2012年1月16日の環境ビジネスのニュースによると「物質・材料研究機構の深田直樹グループリーダーは、現在主流となっているシリコン太陽電池において、シリコンナノ構造体を機能的に複合化させることで、接合面積を100倍以上にできる新構造の太陽電池材料を開発した。シリコン材料の削減による低コスト化と変換効率向上を両立させる、これまでにない新しい太陽電池材料として、5年後に実用化する予定」であると報道されている。
この報道記事の通り、同一面積で現在の太陽発電量の100倍の電気を発電することが可能になり、また発電コストが非常に安くなるならば、世界のすべての1次エネルギーを太陽光発電によって賄うという計画は決して不可能だとは言えないだろう。 しかし、それらの革命的な技術を使った太陽光発電パネルの生産はまだ実現してはいない。殆どと言っていいほど現状では実現不可能に近く、その計画の可能性を楽観的には予測できないことは事実である。そして、21世紀の半ばまでに太陽光発電システムのみで人類が必要とするエネルギーを賄うことは可能であるとは言えない。
また、すべての再生可能エネルギーを活用して人類が消費する1次エネルギーの生産が可能になるとは言えない。そして、予測を上回る勢いで世界の1次エネルギー消費量が増え続ける可能性も否定できない。そう考えるなら、再生可能エネルギーによって世界のすべての1次エネルギーを賄うことは殆ど可能性のないほど困難であるとしか言えないのである。
4-3、太陽光発電システムの普及を進めるための課題
再生可能エネルギー生産コストの相対的評価
上記の議論から太陽光発電システムを使って現在の消費エネルギーを賄うことが非常に困難であることに気付くのである。しかし、このことは、即、原子力発電や化石燃料発電を維持推進することを意味するわけではない。
これまでの原子力発電による電力料金の計算方法に大きな欠陥がある。例えば研究開発費等々の政府補助金(国民の税金)や福島原発事故処理費(これも税金)は含まれていない。その上で政府試算の原発の発電原価は5.9円となっていた。
しかし、これまで初期トラブル、老朽化によるトラブル、さらに頻発する事故による停止は、今までも頻繁に起っている。その上、原発の過剰電力を捨てる「揚水発電所」の建設費、原発依存が招く過剰設備、原発立地対策費を支払っている。今回の福島原発事故処理の経費(被害者救済、放射能除染、事故処理、廃炉、高放射性物質の処理等々に必要な費用)が必要となる。その意味で、原発の経済的な再評価を行う必要性を訴える指摘を否定することはできない。
もし、これらのすべての費用を原発の発電原価に組み込むなら、予想をはるかに超える電気料金になることは避けられない。その意味で原子力エネルギーによる発電原価は、今後、再生可能エネルギーの原価より安いと言うことにはならないのである。しかし、そこには再生可能エネルギーのコストが今以上に安くなるという条件を満たすことが前提となっている。
また、化石燃料の使用による大気中の二酸化炭素の増加とそれによる地球温暖化現象が問題にされてきた。地球の温暖化現象への二酸化炭素の影響に関しては異論も出されている。しかし、現実の地球の温暖化はこの半世紀に進んだ。そして同時に大気中の二酸化炭素量も増加した。仮に、その二つの要因が温暖化に関係がないとしても、大気中の二酸化炭素量を増やすことは、これまでの地球規模の生態系にとって大きな変化があることには違いない。その生態系の変化がもたらす気象へのリスク、温暖化現象をまったく否定することは出来ないという立場も成立する。
この仮定に立って、二酸化炭素の排出の経済効果を考える。つまり、気象や生態環境の変動がもたらす災害、例えば都市のヒートランド現象等によるゲリラ豪雨、集中豪雨、雷雨、竜巻の発生による洪水、深層崩壊、土砂崩れ等の災害の発生、さらには北極、南極や高山地帯の氷河溶解による海面上昇と高潮の危険性等々の自然災害の増加による経済的被害を試算する必要がある。世界規模の自然災害の増加と大気中に排出された二酸化炭素量との関係を精密に求めることは難しい。しかし、その相関関係から導かれる二酸化炭素排出量の価格を仮定することは可能である。
その意味で、化石燃料を使ったエネルギー生産(熱や発電)は出来るだけ低く抑えるべきであるという意見が出されてきた。当然、この意見に便乗して原子力発電(原発)の建設が提案されてきた。しかし、原発の熱効率は悪く、例えば沸騰水型の原子炉では33%であると評価されている。つまり、この原子炉では三分の二の熱を捨てながら発電を行なっているのである。 以上の議論から、原子力発電コストや化石燃料発電コスト試算の中に放射能汚染や温暖化という環境破壊の被害コストを計算する必要がある。
社会資本としての太陽光発電システムの位置付け パネルの消費者かエネルギーの生産者か
2012年7月1日から固定価格買い取り制度が始まった。その2ヶ月後の9月に住宅用パネルの設置件数は100万世帯を超えた。この制度が存在する前から日本の太陽光発電の主流は住宅用パネルである。つまり、日本では高額の資金を出して太陽光発電を設置する人々が他の国々に比べて相対的に多くいるといえる。それは日本人の環境意識の高さであるとも評価できるだろう。
日経新聞によると、今年(2012年)の7月と8月の2ヶ月間で認定を受けた住宅用パネルの電力容量は30.6万kwであり、メガソーラー発電(非住宅用)は72.5万kw、風力発電は26.2万kw、等々、再生可能エネルギー全体で130万kwとなっている。政府・経済産業省は2012年度末まで、住宅用パネルの電力容量は150万kw、メガソーラー発電は50万kw、風力発電は38万kw、等々、再生可能エネルギー全体で250万kwの導入を予測していたが、その予測の半分をすでに2ヶ月間で達成した( )。 この数値が示す意味は、固定価格買い取り制度は再生可能エネルギーの普及に大きく貢献していること、また、住宅用や非住宅用(メガソーラー)の太陽光発電パネルの設置は今後も急速に進むことを意味する。
今年度の1kwhの買い取り価格は住宅用太陽光発電と非住宅用(メガソーラー)太陽光発電では42円と設定されている。この価格で住宅用太陽光発電は10年間、非住宅用(メガソーラー)太陽光発電は20年間買い取り価格を保障される。そのために、多くの市民や企業が売電による利益を目的にしてパネルを設置している。買い取り価格が高めに設定されている限り、今後もパネル設置は進む。
この固定価格買い取り制度によって再生可能エネルギーによる電力の生産が進む。つまり、原子力発電所や火力発電所のような50万kw以上の大型の発電施設に代わって、1万kwクラスのメガソーラーや10kw以下の住宅用太陽光発電所が至るところに設置される。それらの小規模発電所は電気を生産する施設である。また、原発などの大型発電所と異なりこれらの小規模発電所は電力消費地に設置されている。その意味で、送電時の電力ロスが少ないのである。
しかし、同時に、太陽光発電の普及はそのシステムが抱える幾つかの重大な問題を提起している。その一つが太陽光パネルの劣化問題である。産業技術研究所の太陽光発電工学研究センターの加藤和彦博士らが運営するボランティア団体「PVRessQ!」はこれまでの483件の住宅用パネル(10年以内の発電システム)の調査のデータを公開している。そのデータによると、運転開始からで483件中100件(全体の21%)の発電所がパワーコンディションの修理・交換を行なった。そして、483件中78件(全体の16%)が太陽電池モジュール1枚以上の交換を行なったと報告されている。
太陽電池モジュールの交換に至るパネルの故障の主な原因は、モジュールの素材である半導体の故障というよりも、モジュール間やパネル間を接合する部分の劣化による電気抵抗の発生と発熱によってモジュールが壊れるケースが多いとの報告があった。
京セラが1983年に国内で初めて、太陽光発電システムを商品化した。それからシャープが2000年から大量生産を行なった。つまり、太陽光発電システムが市場に出てから約12年の歳月しか経っていない。その意味で、このシステムの持久性を検証するデータは多くないのである。それにも拘わらず、2000年以降のパネルの保障期間は10年となっていた。また現在では20年と言われている。
2000年代当時1kwあたり80万以上した高額な設備である住宅用太陽光発電システムの10年間の保障期間中に、製造業者にはその保守点検を行なう義務はない。例えば、トヨタ自動車を初め、日本の自動車メーカーで新車を買った場合、少なくとも1、2年の間、無料の保守点検がサービスとして付いている。しかし、車と同じ位、いやそれ以上の高額な太陽光発電システムに対して、販売業者の保守点検の義務もなければ、勿論、サービスもないのである。
10年以内の太陽光発電システムの21%がパワーコンディションの修理・交換を行ない、またその16%が太陽電池モジュールの交換(一枚以上)をしたという調査結果からすれば、現在、100万世帯に普及した住宅用太陽光発電システムや非住宅用メガソーラーのシステムの故障が大きな社会問題となることは明らかである。そして、この社会問題を正しく解決することが出来なければ、太陽光発電システムの設定に投資しようとする市民や企業の数は激減することは明らかである。
パネル製造企業や政府は、太陽光発電システムの劣化、故障の問題を解決する方法を早急に見つけ出さなければならないだろう。特に、安価な中国・台湾製や韓国製が市場を席巻しようとしている。それらの20年保障を謳うパネルを設置した市民や企業が、今後、10年以内、もしくは10年後に果たして故障したパネルを無料で修理して貰えるのかが深刻に問われているともいえるだろう。
言い換えると、政府も企業も住宅用パネル設置者を高額な電気製品の消費者としてしか位置付けていないことが問われていると言える。太陽光発電システムを導入する市民は、パネル業者から観れば消費者である。しかし、同時に、社会からみれば電気の生産者である。太陽光発電の経済的で社会的な効果を評価するために、固定価格買い取り制度が作られたのである。その意味で、エネルギー生産を行なう社会資本として住宅用の太陽光発電所を位置付けるには、価格の買い取り制度のみでなく、太陽光発電所の保守と修理に関する制度が必要となると言える。
太陽光システムの危機管理と生産技術の開発
東日本大震災時に太陽光発電システムの被害状態に関する現地調査を、NPO法人太陽光発電所ネットワークは東京工業大学ソリューション研究機構 黒川浩助特任教授と共同で進めた。この調査によって東日本大震災時の住宅用パネルの被害状況が判明した。その報告書の中から、特記すべき課題を以下に述べる。
一つ目の課題は、パネルを設置することによって屋根の強度が確保され、その結果地震による屋根の被害がパネル設置家屋は相対的に少なかったという調査結果であった。
二つ目の課題は、地震によって壊れない強固なパネルによって、その後も発電を続けるために、しかも接続箱にある回線切断用設備が活用されていないので、その部分に発電によって生じた熱が発生する。その熱によって結果的に電線が燃えて、さらにその火災によって電気がショートし電線が炭化したのである。この事故を予防するためには、災害時には回線を切断しておく必要がある。そうしなければ、太陽光発電による家屋の火災が発生する可能性が起こるのである。
さらに三つ目の課題は、災害時には太陽光発電システムの自立機能を使い、停電時でも電気を供給できることも証明された。しかし、中規模の住宅用太陽光発電システムには自立運転機能がない場合もあり、パワーコンの自立分電盤機能を追加する必要が求められた。
こうした調査結果は太陽光発電システムの安全管理や危機管理機能を向上させるために評価できる。政府や業者が、今回調査を行なったNPO法人(PV-Net や再生可能エネルギー協会)と大学研究機関と協力し、太陽光発電システムの改良を進める必要がある。
4-4再生可能エネルギー生産管理システムの普及化を促進する新しい文化、社会のあり方
これまで太陽光発電システムの技術的課題に関して議論してきた。これまでの議論から、太陽光発電システムの限界もその可能性も、このシステムの技術的改良に委ねられているという結論が出てくる。しかし、「4-2、太陽光発電で全世界のエネルギーを賄うことが出来るか」で議論したように、発電効率を上げることや、生産価格を下げることなどの太陽光発電システムの生産に関する技術的な議論の限界を理解しておく必要がある。
つまり、太陽光発電システムによって世界や日本の一次エネルギー消費量の大半を生産することが不可能に近い計画であるなら、他の再生可能エネルギーを導入し、また省エネ技術を駆使して、再生可能エネルギー社会の構築という困難な課題に取り組むべきである。つまり、太陽光以外の再生可能エネルギー(太陽熱、バイオマス、風力、潮力、地熱、排熱、水力等々)の活用と電力生産や省エネルギーの技術開発を急ぐべきである。 しかし、再生可能エネルギー社会を構築するためには、技術的な課題だけでなく、社会文化や生活文化の課題が問われている。
集中型生産様式から分散型生産様式へ 再生可能エネルギー生産の特徴は、生産能力が大規模化できないことである。原子力発電や大型火力発電と違い、小規模の発電能力しかもっていない。例えば、10万kwのメガソーラー発電所を建設するには広い敷地が必要となる。固定買い取り制度を活かして、多くの企業がメガソーラー発電所の建設にビジネスチャンスを感じている。休耕作地、日照条件のよい山林、空き地等々の利用を考えている。しかし、殺到するメガソーラーの建設の需要で、こうした土地は高騰しつつある。設置場所の借地金が高騰すると発電から得られる利益は落ちることになる。つまり、経済的なメガソーラーの設置は、格安の借地でなければ、自治体が提供する公共地か自己所有地となるだろう。
広大な砂漠を活用して太陽光発電システムが出来る国々の事情と異なり、平野面積の狭く、人口の多い我が国では、狭い平野に太陽光発電や風力発電を立てることは困難である。パネルの設置場所に休耕田や家屋の屋根利用が計画されている。食糧自給率が30%以下である我が国の食料資源の自給問題を考えると、休耕田を利用することは困難になる。我が国の地理的や文化的事情に適した太陽光発電所の条件を見つけ出す必要がある。
この我が国の地理的条件や発電資源の特性から、太陽光発電に限らず、風力発電、小規模水力発電、地熱利用、潮流発電等々の再生可能エネルギー生産の規模が限定される。設置価格の安い中小規模発電所を効率よく配置連係させるネットワーク設計とその経済的環境条件を確立する技術開発が求められている。
この技術開発の課題の一つが、地域電力調整制御システムの開発である。風力や太陽光による発電は、気象や時間によって発電量が変動する。そのため、質の悪い電気と評価されている。つまり安定供給が出来ないのである。この弱点を克服するために、一つはスマートグリッド、コミュニティグリッドと呼ばれるネットワーク型のエネルギーの供給需要と制御調整機能が必要となる。このネットワーク型のエネルギー需要供給システムを、別名、エネルギーの地産地消型と呼ぶことができる。
言い換えると、再生可能エネルギー社会は、これまでの生産様式である集中型、大量生産と流通方式と異なる産業構造や社会制度の構築、つまり分散型の生産システム、分権型の社会システムが形成されることになる。この分散型社会が集中型社会よりも経済的であり、生産やコミュニケーションの効率がよいということが前提となる。
この前提を受けて社会経済システムが確立するための条件は、資源の有限性やその枯渇問題が顕在化していることにある。つまり、これまでの大量生産制度を支えていた要因の一つは、化石燃料資源を代表として天然資源は無限にあるという考え方であった。しかし、資源の枯渇問題は年々深刻化しつつあり、資源のリサイクル等による再利用によって、持続可能な資源利用リサイクルを創らなければならない。その循環型サイクルを維持するために小規模化の技術と生産システムが再評価されることになる。
資源の枯渇問題を抱えた21世紀の社会経済は、必然的に分散型社会へと変化していくことになると言える。しかし、現実は先進国の優位な経済力を背景に資源の独占化を維持しようとしている。だが、力を増す発展途上国や新興国の台頭によって、資源の独占的な支配構造もそう長くは続かないだろう。その意味で、先進国は分散型生産様式を取り入れ、いち早く持続可能な社会経済システムの構築を目指す必要があるだろう。すでにヨーロッパ社会が先行して持続可能な社会のための実験を進めている。
地産地消型エネルギー生産と地方分権化と国際地域共同化
エネルギーの安定供給化を可能にするためには、地方分権化と国際地域共同化が必要となる。地方分権化とは地域共同体の役割を重視する社会制度である。つまり、地方分権によって広域地域自治体の形成が可能になり、エネルギー生産に関連する社会資源の共同利用を可能にすることができる。 広域地域自治体(市民参加を前提にした地域社会運営)を土台とした国のかたちから逆算して考えるなら、地域国際共同体の形成が課題となる。言い換えると、地方分権化による広域地方自治体の形成によって地方の多様性が生まれる。その社会の多様性が日本社会の国際化を進めるのである。中央集権的な国家から地方文化の多様性が失われる。その分、国際化に必要な要件を失うことになるのである。
言い換えると、分散型社会の経済合理性は、ネットワーク型社会によって生まれる。つまり、分散型社会は地方分権化を要求する。そして、地方分権化は社会の多様性を生み出す。その結果、社会の多様性によって分散型社会は地域国際社会での経済文化競争力を獲得することになるのである。 同じように、分散型エネルギー社会の多様なエネルギー生産活動によって広域地域自治体の安定した経済活動が保障され、エネルギーの需要と供給のネットワークを地域国際共同体に広げることも可能となる。具体的にはEUのエネルギーネットワークを模範にしながら、東アジア共同体のエネルギーネットワークを構想することも可能となる。
市民参画社会によって発展する再生可能エネルギー社会システム
エネルギーの地産地消型によって分散型エネルギー生産システムは有効に機能する。その機能を支えるのは、単にスマートグリッドの情報処理や制御技術だけではない。分散型生産システムに必要なきめ細かい生産地と消費地のコミュニケーション力であり、そのコミュニケーション力を維持発展する力は市民参画型社会によって形成される。
生産者であり消費者である市民によって、資源の有効活用を生み出す生活文化が形成され、それをリサイクル文化と呼ぶこともできるが、大量消費生活への反省や環境保全を生活文化とするライフスタイルの形成が行なわれ、人々の豊かさの評価尺度が、消費財の価格評価から、生活の質(QOL)を重視した生活文化やライフスタイルへ移行することになる。
人権や平和、共存やコミュニケーションが社会文化の評価の基準となり、社会サービス業務への市民参加(ボランティアやNPOの役割)が国民総生産の一要因として評価され、こころを持つと呼ばれる良質の福祉環境が形成され、また生態環境が生活の豊かさの一要因となるだろう。 このように、大量消費文化を支えていた経済主義から脱却していくとき、経済の分散型社会の経済効率は向上するといえる。その意味は、これまで経済主義の評価していた資源概念が大きく変化し、産業生産に有用な資源のみでなく、家庭生活に必要なあらゆる資源(愛、思いやりや協力)を含めて経済活動として評価されることになるだろう。
市民参画社会とは、生活重視の考え方に立った人々によって創られる社会を意味する。それらの社会生産力とは、豊かで多様な生活資源の生産を意味する。その生産に有用なシステムを経済効率の高い制度として評価することになる。つまり、資源の無駄遣いから、平和や人権主義によって生み出される生活の豊かさの形成と向上を経済活動として捉える社会形成が市民参画社会の究極の課題となるのである。
例えば、欧米や日本ではエネルギー自給率の向上を目指すために固定価格買い取り制度が確立した。その制度は、ドイツの例にみられるように、市場原理を取り入れながら、システム価格の逓減に即して順次固定価格を見直す必要がある。日本では、その見直し制度が再生可能エネルギー経済や社会政策の専門家で作る委員会によって行われる。こうした再生可能エネルギー社会を発展維持する政府の活動(専門委員会の議事録や答申内容)の情報を市民に公開し、市民参加の意見聴取会を開く必要がある。
分散型エネルギー生産社会では、市民がエネルギーの生産者となる。市民参画型社会を形成しない限り分散型エネルギーシステムの経済合理性は確保されない。その経済合理性の基本要因は市民がエネルギー生産に参加することで成立している。つまり、この生産様式が成立するには、市民民主主義文化の形成発展が条件となる。
言い換えると、市民民主主義文化によってエネルギー問題のみでなく、社会福祉、健康、子育て環境、社会の危機管理や安全管理、教育や文化、環境保護、人権、国際交流、平和活動等々、今、集中型社会が抱える経済負担の大きな社会要因を市民が参画しやすい社会規模にすることによって、分散型社会でのエネルギー生産力は向上するのである。
メガソーラー発電所と家庭発電所の違いから来る課題
現在、二つの太陽光発電所スタイルがある。一つは非住宅用のメガソーラー発電所であり、もう一つは住宅用の発電所である。その二つの太陽光発電所は分散型エネルギーシステムを担い、また他の発電所とのネットワークによってより安定した電力を地域社会に提供できる。
しかし、メガソーラー型はこれまでの集中生産型により近く、現在の産業システムから最も期待される太陽光発電所である。それに比べて、家庭発電所は殆ど現代の日本の産業システムから期待されないだろう。そのため、政府が家庭用太陽光発電所を重視するというのは、殆ど、その発電機能に関する期待からでなく、パネル製造業者の需要先としての役割が主な理由となるだろう。 言い換えると、家庭用発電所ネットワークであるNPO法人太陽光発電所ネットワーク(PV-Net)の今後の社会的役割やその活動の在り方が問題となると言える。以下、その問題を検討するために、二つの課題を列挙する。
一つは、家庭用発電所の意味をエネルギー政策上、社会や政府、産業界に理解させること。二つ目は、PV-Net運動の意味を再度確認し、家庭用発電所の発展と維持のために活動の在り方を検討すること。以上の二つの課題を展開するための、議論をはじめる必要がある。
とりわけ、住宅用の太陽光発電システムの普及によって多様なサポート企業やNPOが生まれる。これらの企業や団体は太陽光発電所の管理者となった市民、もしくは管理者になろうとする市民のニーズによって発展する。
これらのニーズを満たすために、NPO的な企業が形成され、市民参画型社会の経済構造の大きな要素を作り上げてゆく。つまり社会貢献度の高さを企業活動の目標に掲げる企業文化が生まれるのである。この企業文化は分散型社会の構築に貢献するのである。
消費者・生産者(プロシュマー)の組合運動
1960年代、市民社会の発達とともに形成された日本の消費者運動、その始まりは安い商品による生活支援活動であった。1970年代になると、この消費者運動は安全な商品の提供による生活支援運動に展開した。
太陽光発電所ネットワークは、その意味で、全く新しい運動である。何故なら、環境保全や再生可能エネルギー社会に貢献するために高額の太陽光発電システムを購入した消費者であり、また同時に、そこで生産した電気を電力会社に売る生産者でもある。つまり、消費者・生産者運動(プロシュマー運動、プロシュマーとはアメリカの経済学者トフラーの用語)である。
この新しい運動の形成は21世紀の市民の在り方を意味している。20世紀後半は消費者や勤労者として市民は位置づけられていた。しかし、21世紀は、生産者としての市民の役割が大きく評価されつつある。それは、商売や中小企業の経営者という市民のみでなく、太陽光パネルを始め、他の再生可能エネルギー生産に投資する市民、また、環境保全や自然エネルギー生産のNPO活動に投資する市民としての、言い換えると、社会や経済活動に参画する市民という、概念を意味する。この新しい市民のイメージが太陽光発電所ネットワークの中で語らなければならないものである。
そこで、この運動は、以下の二つの課題が具体的に検討されなければならない。一つは、消費者運動としての在りかた。つまり、太陽光発電システム購入者の利益を擁護する活動の在り方が問われる。さらに、もう一つは生産者運動としての在り方、つまり、買電に関する利益を擁護する活動が問われる。
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論文「社会経済システムからみた太陽光発電システムの課題
-太陽光発電の将来性と問題点- 」のダウンロード
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http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_03_04/MITShir12b.pdf
「成長経済主義を越えて成熟循環型経済社会への転回のために」 目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2015/01/blog-post_72.html
2012年10月17日 誤字、文書修正
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