三石博行
A-1、資料の出典紹介
NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」(6)「元寇蒙古襲来 三別抄(1)と鎌倉幕府」の映像 2009年に放映された資料
司会 三宅民夫
レポーター 笹部佳子(ささべ よしこ)
ゲスト 九州大学教授 佐伯弘次(さえき こうじ)
コンジュ(公州)大学校教授 ユン・ヨンピョク
A-2、資料の要約
2-1、世界を制覇した蒙古軍の日本襲来、元寇
1206年、フビライの祖父ジンギスカンがモンゴル(カラコルムが首都)を統一、その後、帝国は拡大しわずか60年間で、帝国は極東から中央アジア、ヨーロッパにいたる巨大な領土を手に入れる。その絶頂期にクビライはモンゴル帝国第五代皇帝となる。1268年、クビライは日本に国書を遣(よこ)し、南宋と友好関係にあった当時の日本の外交政策の転換を丁重に求めながらも、実質はモンゴル帝国の支配を受け属国になることを命じるものであった。(2)
日本は遣唐使以来、中国との国交の歴史はあったが、モンゴルとは誼(よしみ)を通じた歴史はなかった。武家政権鎌倉幕府は、クビライからの国書を日本への威嚇として受け止め、直ちに警備体制の強化を西国の守護や御家人に命じた。
クビライの命に従わない日本に対する攻撃が始まる。13世紀後半の蒙古襲来で、日本は、1274年には2万6千(元軍2万、高麗軍6千)の兵によって、1281年には元と高麗の連合軍4万と元と旧南宋の連合軍10万、合計14万の兵によって、二度にわたって襲撃を受けた。
長崎県松浦市にある鷹島(たかしま)は二度目の蒙古襲来、弘安の役の勝敗を決めた場所である。鷹島には700年経った今でも、その恐ろしさが庶民に伝っている。今でも、元軍の遺品が漁師の網に掛かる。水中調査で、兜や船の残骸の遺物が出てきた。元船の錨(いかり)は全長7mで、錨の重さは1トンで、それから推測して船の大きさは全長40m以上で、100人の人と馬を乗せていたとのではないかと言われている。
海底から元の火薬を使った最新兵器「てつはふ」が見つかっている。硝石のない日本では火薬は作れない。火薬を使った兵器、「てつはふ」は殺傷能力を上げるために火薬と一緒に陶器の破片や鉄片などが混ぜられていていた。「てつはふ」には殺傷を目的とする炸裂弾(3)が用いられていたのである。
2-2、蒙古に屈服した高麗王朝と蒙古と高麗からの国書の背景
1268年、クビライからの国書と同時に高麗からの国書も送られてきた。当時、高麗(朝鮮半島)は元の支配下にあった。その高麗の国書には蒙古が素晴らしい国であることや日本に蒙古と誼(よしみ)を結ぶことを勧め、日本も蒙古に使いを送ったらどうかと書かれていた。
936年に後百済を滅ぼし朝鮮半島を統一した建国された高麗(4)は、1268年、日本に国書を送る40年前から蒙古の激しい攻撃を受けていた。1231年、蒙古は朝鮮半島に侵攻した。蒙古軍団は瞬く(またたく)間に朝鮮半島各地を蹂躙(じゅうりん)し、高麗の首都である開城(ケジョン)に迫る。高麗史に、蒙古の攻撃への対抗策が記されている。蒙古侵入の翌年、1232年、高麗は開城(ケジョン)から南に20kmほど離れた島である江華島(カンファド)に遷都した。
本土と1キロほどの狭い水路で隔てられ、しかも9mの干満の水位が生じる海流の流れも複雑な江華島(カンファド)の地の利を活かして蒙古の騎馬軍団の攻撃を防いだ。その結果、蒙古軍は30年間もこの島に攻め込むことはできなかった。
江華島(カンファド)の高麗宮の遺跡から、当時のカンファドを理解する上で貴重な出土品が多数発掘された。
江華島(カンファド)は開城(ケジョン)への重要な入り口で、しかも、広い土地があり、自給自足が可能であった。高麗は安全な場所として江華島(カンファド)を新しい都とし、ケジョンの都と同じくらいの大きな宮殿や城を建てた。都(まち)を囲む城壁は全長13キロに及び、軍人、官僚や商人などが、新しい江華島(カンファド)の都に移り住んだ。ここで高麗王朝は30年間、蒙古に対して抵抗を続けたのである。
朝鮮半島本土では、侵入してきた蒙古軍に対して、民衆や僧兵(そうへい)達が戦っていた。処仁城(チョインソン)の戦いでは、身分の低い奴婢(ぬひ)階級の人々が先頭に立って戦った。朝鮮半島は凄惨(せいさん)な戦場となった。蒙古の侵入は、30年間で11回に及んだ。 高麗史には、約20万人の男女が蒙古軍の捕虜となったこと、殺戮された人数は数え切れないことが記されている。このたび重なる侵略によって、朝鮮半島は荒廃して行った。
そして、1259年、高麗は蒙古に降伏した。高麗の王子が蒙古に入城し、臣下の礼(蒙古の支配を受けることを認める儀式)を取った。1260年、兄弟間の相続争いに勝ったクビライが第五代モンゴル帝国皇帝に即位した。その四年後の1264年に、年号を中国風に「至元(しげん)」と定める。そしてモンゴル帝国の都を現在の北京、大都(だいと)と名称し、広大な宮城を持つ都を建てた。そこに典型的な中国様式の大明殿(だいめいでん)を造り、そこからさらに世界制覇に向けた活動を始める。
当時の世界通貨は銀であった。その銀を求めて元は交易を興し、富を世界から集めようとした。フビライは黄金の国と呼ばれた日本「ジパング」(5)にも交易を求めた。1267年、フビライの使者は、日本を望む朝鮮半島南部の巨済島(コジェド)まで来た。しかし、使者は日本への渡航が極めて困難であるため日本には渡らず、そのことをフビライに報告した。フビライはそれに激怒し、高麗国王に対して、日本にフビライの国書を届けるように命令した。それが、1268年、クビライの国書と一緒に送られてきた高麗の国書であった。
この国書の中で、高麗王は、蒙古の年号「至元(しげん)」を使っている。つまり、蒙古の攻撃に屈服させられた高麗から、フビライからと高麗からの二つの国書が送られてきたのである。
2-3、蒙古に反抗し続けた高麗軍、三別抄が送った国書の背景
蒙古襲来は朝鮮半島の歴史の中でも重要な事件として記録されている。人民の殺戮や国土の荒廃による飢饉などの被害が大きかった。そして、モンゴル帝国の支配によって、日本攻略の基地となり、そのため日本への軍艦製造や必要な食料等々、巨額の軍事費を使い、多くの兵を日本侵略のために派遣しなければならなかった。それまでの蒙古との戦争で荒廃した国家、高麗にとって、元寇に参加することは大変な負担であった。戦争の契機となるフビライの国書を日本に送るのは気が進まなかったと思われる。高麗は日本と戦争をしなければならない立場におかれることになった。
一方、鎌倉幕府は、蒙古からの国書を日本への脅しとして受け止め動揺した。また、高麗と日本はもともと良好な関係であったのに、蒙古と共に高麗が日本に国書を送ってきたので、そのことも鎌倉幕府を疑心暗鬼にさせた。
国土を蒙古に支配され、蒙古のためにさらに庶民を犠牲にすることになる日本攻略を進める高麗王国の中で、深刻な内部対立が生じる。
モンゴル帝国の国書と一緒に送られてきた高麗の国書が日本に届く1268年から、3年後の1271年に再び、高麗から日本に国書が届いた。当時の公家である吉田経長(よしだつねんなが 1274-1302)の日記「吉続記(きちぞくき)」によると、二回目の高麗から国書の内容は一回目とは内容がまったく反対のもので、蒙古に対決するために食料と軍隊の支援を要請するものであった。それは、さながら日本への救助支援(SOS)のようであった。
1970年代後半、この二つ目の国書の謎を解明する資料が発見された。この資料は、東京大学資料編纂所に眠っていた文書で、「高麗牒状不審条々(こうらいちょうじょうふしんじょうじょう)」である。これは、当時、二つ目の国書を読んだ人物が不審に思った点12箇所を列挙したメモであった。この資料の発見者、石井正敏中央大学教授は、当時勤務した東京大学で調査中にこの資料に偶然出会い、その重要性に気付いた。
「高麗牒状不審条々(こうらいちょうじょうふしんじょうじょう)」は、高麗から届いた二つの国書の内容の違いについて述べている。はじめの国書は蒙古の徳を褒(ほ)めていたが、二つ目は、蒙古兵の野蛮さを指摘している。その二つが矛盾することを指摘している。また、前の国書では蒙古の年号を使っていたが、新しい国書ではそれがないということも指摘されていた。つまり、後の国書は蒙古に従属していない勢力が送ったものであったことが明になる。
蒙古に従属しない高麗の勢力とは何か。そのことを解く鍵は、「高麗牒状不審条々(こうらいちょうじょうふしんじょうじょう)」の第三条に記されていた、江華島(カンファド)から半島最南部の珍島(チンド)に遷都したという記述に、隠されていた。
二度目の国書が届く1年前の1270年、江華島(カンファド)は大きく揺れていた。蒙古の支配を受けた高麗王朝では、高麗の都を江華島(カンファド)から元の都開城(ケジョン)に移るようにと蒙古から要請を受けていた。王とその周辺は蒙古のその要請に従おうとしたが、それに強く反対する勢力が現われことになった。その勢力とは、高麗王朝を守るために選別された軍事集団、右別抄と左別抄からなる夜別抄(よべつしょう)とモンゴルの捕虜になりながらも脱走して戦い続けた神義軍(しんぎぐん)の三つの先鋭部隊によって構成された三別抄と呼ばれる軍事集団であった。
高麗史によると、三別抄(さんべつしょう)の指導者は将軍裴仲孫(テ・ジュンソン)であった。彼は、「蒙古兵が押し寄せ人民を殺戮している」ことや「国を守らんとするものは結集せよ」と呼びかけていた。三別抄は、高麗王室に関係する人物を擁立し、江華島(カンファド)から珍島(チンド)に移った。
つまり、「高麗牒状不審条々(こうらいちょうじょうふしんじょうじょう)」で江華島(カンファド)から珍島(チンド)に遷都したという表現を使うのは三別抄以外にあり得ないのである。したがって、二つ目の国書「高麗牒状(こうらいちょうじょう)」の送り主は三別抄であったと考えられる。
高麗史では、裴仲孫(テ・ジュンソン)は反逆者として記載されている。何故なら、彼が高麗政府の資料、人民の名簿や土地の台帳を焼き払ったからであると謂(い)われている。彼のこの行為は高麗王朝を支えた身分制度や経済基盤を否定する重大な反逆行為であった。そのため、彼は高麗政府の敵となった。
三別抄は徹底的に蒙古に抵抗するために、新しい高麗王朝を珍島(チンド)につくろうとしていた。
珍島(チンド)と本土を隔てる水路は、年貢を運ぶ船が通る重要な場所であった。そこを三別抄は軍事的に押さえようとした。三別抄はチンドに高麗の都として建設した。このことを物語る龍蔵城(ヨンチャンソン)の遺跡がチンドにある。この遺跡は高麗の都ケソンの王宮マンウォルデと立地が似ていることがわかった。また、その後(1988年)の大掛かりな発掘調査で、王宮と思われる高級な青磁(王族などしか使わないと思われる)や宮殿に使われたと思われる蓮の花の瓦などの出土品が発掘された。このことから三別抄の拠点が龍蔵城(ヨンチャンソン)であったことが裏づけられた。また、龍蔵城(ヨンチャンソン)の山城の発掘調査から、この山城は全長14キロに及ぶ龍蔵城(ヨンチャンソン)の宮殿を囲む巨大なものであったことも分かった。
三別抄が日本に国書「高麗牒状(こうらいちょうじょう)」を送ったのはチンドからであった。その国書は朝鮮半島の正当な統治者であると自負したものあった。彼らは、来るべき蒙古との戦いに備えて、日本に食料と兵の援助を求めたのであった。
三別抄は民衆、奴婢などの低い階級の人々によって構成されていた。一方、蒙古の要請で都を江華島(カンファド)から開城(ケジョン)に移すことを同意した高麗国王の主流派は貴族を中心とした勢力で構成されていた。その二つの勢力は、基本的に異なる勢力によって構成されていたと謂える。言い換えると、蒙古に屈した高麗政権の主流派と蒙古に抵抗する三別抄の支持する新興の高麗政権の勢力という根本的な違いがあった。これまで朝鮮半島本土で蒙古と戦った人々は農民であった。その民衆は三別抄を支持して来たのである。
三別抄は高麗王朝と決別し、都をチンドに移すことで、蒙古と戦い続けよとした。そのため、彼らは蒙古と開城(ケジョン)にある傀儡政権(かいらいせいけん)の二つと戦わなければならなくなっていた。三別抄の立場は困難であった。そのため、新しい連帯の相手を見つけようとしていた。日本は次に蒙古に侵略される存在だったので、三別抄は日本と連帯しようとしたのだった。
2-4、日本への蒙古襲来に対する三別抄の役割と鎌倉幕府の反応
もっぱら中国(南宋)との貿易に興味を持っていた鎌倉政府は、朝鮮半島の動きに関心を持っていなかった。そため、三別抄の動きや高麗の情報を鎌倉幕府は知らなかった。そんな中、二つの国書が高麗から届いた。そして、それを分析したのが、「高麗牒状不審条々(こうらいちょうじょうふしんじょうじょう)」であった。この資料によると、当時の鎌倉幕府は三別抄の評価を正確に行わなかった。そのため、1271年、三別抄が必死の覚悟で日本に送った国書に対して鎌倉幕府は何の反応も示さなかったのである。
平安時代には外交は朝廷が取り仕切っていた。鎌倉時代になると外交文書に関する取り扱いは朝廷だけでなく幕府も参画するようになる。時の執権北条時宗は、南宋の僧侶から蒙古の野蛮さを聞き及んでいたので、蒙古からの国書や蒙古に下った高麗にも一切の返書を出さなかった。朝廷も高麗王朝の分裂を把握することが出来ず、当時の資料では朝廷の中で意見が分かれたと記されている。そして、高麗の分裂を察知する者もいたが、しかし、朝廷は、鎌倉幕府と同様に、それらの意見を取りまとめることもせず、届いた国書に返書を出すこともしなかった。
つまり、日本における東アジアの国際政治状況の不理解と情報不足、そして朝廷と幕府の外交の二重システムによる外交決定能力の低下によって、当時の日本は三別抄の支援要請を無視し、これから蒙古の攻撃を受けるにも関わらず、当時蒙古と戦い続けていた三別抄と連帯することも出来なかったのである。
三別抄が送った救援要請は、鎌倉幕府からも朝廷からも無視され、そして日本の援助を得られなかった三別抄は苦戦し、島の東部に追いやられ、三別抄の指導者、将軍裴仲孫(テ・ジュンソン)の記録はここで消える。チンドで高麗再建を試みた三別抄は、済州島(チェジュド)に逃げる。
高麗王朝時代そしてその後、三別抄は長く反逆者とされた。しかし、チンド(クルポ村)では裴仲孫(テ・ジュンソン)は英雄として扱われている。村人はこれまで将軍を大切に祀ってきた。村人は今でも裴仲孫(テ・ジュンソン)を親しく「おじさん」「おじいさん」とよんでいる。
1271年、宋を制圧し中国北部を支配したクビライは国名を「大元」と制定し、中国と朝鮮を中心とし、インド、そしてアフリカをも含む海洋航路のネットワークを拡大しようとしていた。そして『黄金の国』日本を力ずくでも、このネットワークの中に組み込もうとしたのである。
クビライは日本侵攻に備え、高麗に造船を命じ、韓国南部の天然の良港、合浦(ハッポ)で日本攻略のための造船工事が行われていた。
しかし、当時の鎌倉幕府は同族同士の争いに明け暮れていた。1272年の二月騒動で、執権北条時宗は兄時輔を殺害し、蒙古の襲来に備える余裕は無かった。
元の軍隊は、すぐに日本に攻め入ることは出来なかった。何故なら、三別抄(タンベルチョウ)の一部がチェジュドで激しく抵抗し続けていたからであった。チェジュドでの三別抄の拠点となったハンパドゥリ城の砦は全長6kmの及び、また、環海長城(かんかいちょうじょう)とよばれる海に面した側にも300里(約1176km?)の防壁(6)がつくられていた。粘り強く抵抗する三別抄にフビライは業を煮やし、日本攻略のために準備していた軍船団をチェジュドに向けるように命令した。
三別抄はチェジュドから半島各地で攻撃を仕掛けていた。合浦(ハッポ)など三ヶ所の造船現場をことごとくゲリラ的に襲撃し、建造中の軍艦を焼いた。そして、1273年、チェジュドの三別抄に蒙古・高麗連合軍が総攻撃を掛けた。激しい戦闘の末、三別抄の首領が死亡し、足掛け三年に及ぶ三別抄の抵抗運動は終わりを告げた。こうして、フビライは三別抄を駆逐するために時間と戦力を費やすことになったのであった。そのため、第一回の日本への遠征計画は変更を余儀なくされたのであった。
結果的に、鎌倉幕府にとって蒙古襲来の時期が遅れたのは幸いであった。二月騒動も収まり、御家人に西国警備の指令を発することが出来た。
チェジュド攻めの翌年、1274年10月、蒙古・高麗連合軍は九州北部を襲撃した。この第一回の蒙古襲来を文永の役と呼んでいる。戦法の違い、強烈な兵器(毒弓や火薬をつかった砲弾)によって蒙古軍は一日にして圧勝し、箱崎や博多の町も戦火で消滅した。しかし、翌日、蒙古・高麗連合軍団は突然として姿を消した。その理由について、軍が整わず矢も尽きたと記されている。
世界最新の武器を使った蒙古・高麗連合軍に対して、三別抄は足掛け三年も戦い続けた。そのために、日本への元寇襲来は遅くなった。このことが、日本にとっては災いを免れた点があったと思われる。つまり、1270年から1271年までのチンドでの戦い、そして1271年から1273年までのチェジュドでの戦い、三別抄の戦いが蒙古の日本襲来のタイミングを後ろ(1274年)にずらしたことになる。そのことが、日本への元寇の衝撃を緩和したのではないかと考えられている。
本来、元は1274年5月に日本侵攻を考えていた。しかし、準備に時間が掛かり、また、1274年6月に高麗王、元宗が死亡したため、元の攻撃が遅れ、結果的に10月になった。そこで、元は日本への攻撃を行って、すぐに撤退することになったと考えられる。
また、文永の役当時、元は南宋の勢力と対立していた。元は南宋の拠点、揚子江を越えた襄陽(じょうよう)にある難攻不落と謂われた襄陽城を攻めていた。そこでは、クビライは最新式の兵器で攻撃し、ついに襄陽城を攻め落とし、南宋を滅ぼしたのである。そうして、フビライはユーラシア大陸全域に及ぶ大帝国を完成させた。
他方、文永の役以後、蒙古の再襲来に備えて、日本では急ピッチで、防塁(ぼうるい)の建設が進んでいた。高い所で3mからなる防塁は博多湾岸全域、20kmにわたって、造られた。この防塁工事は、わずか半年の突貫工事であった。この防塁を造るために、九州各地から御家人が集められた。
1281年、フビライは、ついに日本への第二次遠征計画を実行した。再び海の彼方から現れた海の船団は兵力14万であった。これを弘安の役と呼んでいる。博多湾岸全域に造られた防塁の効果もあり、鎌倉武士は蒙古勢に対して奮闘した。そして、台風と思われる突然の暴風によって船団は壊滅したのであった。
蒙古襲来に翻弄され続けた34年の生涯を終え、1284年、北条時宗は他界する。
2-5、日本への第三次蒙古襲来に対する大越国の対蒙古戦争の役割
クビライは日本への野望をあきらめず、第三次の日本遠征の機会を窺(うかが)っていた。南宋を破りそれを元に接収したフビライの目は、日本と東南アジアの攻略に向けられていた。フビライは第二次日本攻略のわずか五ヶ月後の1279年7月に日本とベトナム北部の侵攻のために戦艦の造船を命じていた。
ベトナム遠征は直ちに実行される。1288年のバクダン川の決戦、これは今のベトナム北部の大越国が民族の独立を掲げて戦った戦闘である。戦力で優る蒙古に対して大越軍は地の利を活かした戦いを展開した。潮の干満を利用し、川底に杭で仕掛けを作り、満潮を利用し侵入してきた敵の戦艦を身動きできないようにし、反撃し撃退した。大越軍はこの戦いで勝利を治めた。この戦いによって、蒙古軍は大きな痛手を受けた。蒙古軍のベトナム北部での2回の敗北を知ったフビライは激怒した。彼は、ベトナムに戦力を動員するために、日本に渡る予定であった軍勢をベトナム北部に呼び返した。その結果、第三次日本遠征はそのため中止されたと謂われている。
大越の対蒙古戦の勝利は、13世紀の国際社会を考えるとき、大きな意味を持っている。つまり、日本の遥か南、ベトナム北部での戦いが、世界最強の帝国、モンゴル帝国の第三次対日本進攻を中止させるきっかけの一つになったのである。
巨大帝国の夢を追いかけたクビライは日本を征服できないまま、1294年、80歳で生涯を閉じた。
2-6、元寇を世界史の中で理解することの意味
元寇襲来とは、当時の小国日本が世界で最強のモンゴル帝国(後の元)と行った戦争を意味していた。この蒙古襲来は、日本にとってモンゴル帝国がそれまでに支配した国々と同じように、つまり、隣国朝鮮半島の高麗と同じように、帝国に支配される運命の瀬戸際(危機的状況)にあったと謂える。蒙古襲来という当時のモンゴル帝国がユーラシア大陸を支配下に置くための世界戦争の真っ只中に、同時の鎌倉幕府は投げ込まれることになったのである。
しかし、日本、鎌倉幕府には、こうしたモンゴル帝国の世界制覇やモンゴル帝国に関する情報はなかった。そして、当時の鎌倉幕府は内紛に明け暮れていた。また、国家の外交も、天皇を中心とするこれまでの制度と鎌倉幕府の介入による新しい制度構築によって、混乱を来たし、高麗からの貴重な情報、例えば元に屈服した高麗王朝に反旗を翻(ひるがえ)した高麗軍、三別抄からの日本への支援要請を正確に分析し、対応することが出来なかった。
皮肉なことに、日本は支援しなかった三別抄が行った対蒙古戦争で元寇の時期を遅らせたことによって、結果的に三別抄に助けられることになった。
また、第三次日本遠征を断念させる契機をつくる遥か南の大越国の対蒙古戦の戦いの勝利によって、助けられるのである。
このように、日本の元寇史を国内の社会や歴史のみで観るのでなく、国外の歴史との関係から観る事で、立体的に元寇が見えるのである。
しかし、それと裏腹に、日本では、元寇から日本は神国であり、国家の危機的状況を救うために神風が吹くという神話が定着していくのである。それが第二次世界大戦まで続き、精神主義で戦局を乗り越える考え方や神風特攻機を生み出す風土を培っていくのである。太平洋戦争で悲惨な国民の犠牲と敗戦を導いた精神主義の起源は、元寇を日本の内部からのみで観ることによって、生まれたと言えよう。
元寇を国際的視点から見ることによって、元が日本攻略に失敗した国際的要因を加味して理解しなければならないのである。
3、資料の評価
3-1、世界史と東アジア史の中での元寇
この番組が示した課題は、日本史の史実を東アジアの視点から見ることであった。日本史の中で元寇とは、単に蒙古が日本を襲撃したという側面で理解されている。しかし、東アジアの視点では、朝鮮半島がまず蒙古(元)に襲われた。そして、朝鮮半島を支配したモンゴル帝国が、高麗王朝を使って日本を襲うのである。それが日本から見た元寇となる。
モンゴル帝国は建国以来、領土の拡大を目的にした侵略戦争を続けてきた。日本への元寇の前に、遠くて中央アジア、スラブ諸国、近くてインドまで侵攻を続けていた。世界史から見ると、それら朝鮮半島や日本への元寇も世界制覇のためのモンゴル帝国の侵攻の一部に過ぎなかった。つまり、蒙古にとっては、朝鮮半島や日本への元寇は、モンゴル大帝国の構築の過程に過ぎなかったのである。
3-2、東アジア隣国の侵略に使われた神風神話と朝鮮半島での戦いで防げた日本への元寇の被害
日本の神風神話は元寇に対する戦いの中で生れた。世界最強の帝国が日本を襲来しても、日本は神風によって守られるという神話が生まれ、それが太平洋戦争まで続くことになる。
東アジアの歴史から、朝鮮半島での高麗の30年に及ぶ抵抗、さらに高麗屈服から3年におよぶ三別抄の抵抗運動が無ければ、日本への元寇の攻撃の時期は早く、内紛によって混乱していた鎌倉幕府は到底、元寇から日本を防衛することは不可能であったに違いない。つまり、高麗と三別抄の長年の蒙古への戦いがあった、日本は元寇から守られていたのである。
蒙古軍は多分に日本への攻撃を5月にしたかったのは、日本の気象を理解していたからだろう。元寇にそれが出来なかったのは、やはり、高麗の都合によるものである。その意味で、蒙古の攻撃は、日本に台風が来る時期になってしまった。このことが、元寇の命取りになった。
しかし、台風によって、2回も蒙古軍は壊滅することになる。そのことが神風神話の背景となる。皮肉なことにこの神風神話に乗せられて、20世紀初期の日本は東アジアに侵攻していくのである。そして、無謀な太平洋戦争を引き起こすのである。
仮に、20世紀初頭の日本の歴史学研究が、東アジアの歴史、取り分け朝鮮半島の歴史学研究をその範疇に入れ、東アジア歴史学共同研究の中で、取り組まれていたなら、神風神話の間違いを指摘できただろう。
また、ベトナム北部の大越が元寇と戦った歴史を知ることで、日本への第三次元寇が中止になる事実も理解できただろう。その歴史認識があれば、20世紀の東アジアへの日本の侵略戦争を引き起こした日本帝国主義イデオロギーを防ぐことが可能となったのではなかろうか。
3-3、世界史の中での日本史の史実解釈
今回の番組での元寇に関する理解から、元寇だけでなく、日本史の史実を東アジアの視点から見ることで、見えない歴史的な背景が理解できる。日本史の正しい理解とは、日本を東アジアの中で理解し、また世界の中で理解しようとすることである。
今までの日本史の史実を東アジアの視点では、朝鮮半島の歴史と関連付けて理解する作業が、日本史の学習の中で必要となるだろう。
注
(1) 三別抄、日本語ではさん「さんべつしょう」と発音し、ハングルでは「タンベルチョウ」と呼ぶ。高麗王朝の軍事組織で、「別抄」とは精鋭部隊を意味する。地方の反乱鎮圧のために臨時編成された軍事組織が、崔(チェ)氏政権の私兵軍団から、高麗の正規軍に発展した。高麗正規軍は「夜別抄(やべつしょう)」には「右別抄(うべつしょう)」と「左別抄(さべつしょう)」の2部隊があり、それに、モンゴルの捕虜から脱走した「神義軍(しんぎぐん)」の三つの軍事集団によって構成された蒙古軍への国内の抵抗組織を三別抄と呼ぶ。
(2)「蒙古国國牒状」東大寺所蔵 Wikipedea 「元寇と高麗」
(3)弾丸の中に火薬を入れ、着弾と同時に弾丸が炸裂する。また、さらに殺傷能力を上げるために、火薬と共に鉄片を混ぜる、ベトナム戦争で使用されたボール爆弾やパイナップル爆弾が有名である。
(4)朝鮮半島では、6世紀以来、高句麗、新羅、百済と長く続いた三国時代を、8世紀、新羅が朝鮮半島南部を統一し、統一新羅を建国し、北の渤海とで南北国時代を迎えた。その後、朝鮮半島は、後百済、新羅、後高句麗と渤海の四つの勢力に分断される。後高句麗の将軍であった王建が918年に高麗を興し、936年に後百済を滅ぼし朝鮮半島を統一した。 Wikipedea の「高麗」を参照
(5)マルコポーロの『東方見聞録』に、ジパングは、中国大陸の東の海上1500マイルにある島国で、莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金で出来ていると説明されていた。Wikipedea 参照
(6)チェジュドは火山島で、面積が1,845km2である。その面積から考えて、島周囲が300里、つまり、1176kmあるというのは不思議である。これは多分、間違いであろうか。
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ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」
5. 日韓関係
5-1、NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」 イムジンウェラン 文禄・慶長の役のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6656.html
5-2、NHK 朝鮮半島と日本 「倭寇(わこう)の実像を探る 東シナ海の光と影」のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_2310.html
5-3、NHK EV特集 「元寇蒙古襲来 三別抄と鎌倉幕府」の映像資料のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6943.html
5-4、姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』プロローグのテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_29.html
5-5、東アジア共同体構想の展開を進める日韓関係の強化
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_12.html
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