2010年7月14日水曜日

NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」 イムジンウェラン 文禄・慶長の役のテキスト批評

三石博行


豊臣秀吉の朝鮮侵略、東アジア国際戦争

司会 NHK 司会者  三宅民夫 
レポーター 女優  大桃美代子
ゲスト 
九州大学大学院教授    中野等
ソガン(西江)大学校教授 チョン・ドゥフイ


1、戦国時代と東アジア国際戦争の勃発

 日本では、1392年の南北朝の合体から1467年の応仁の乱から戦国時代が始まる。朝鮮半島では、1392年に高麗が滅亡し朝鮮が建国した。中国では1368年元が滅び、明が建国した。その明にたいして朝鮮は「朝貢(ちょうこう)関係 」を結ぶ。事実上、朝鮮は明の属国となっていた。

 1590年、豊臣秀吉が天下を統一し、長い戦乱の続いた戦国時代を終えた。そしてその2年後の1892年から1598年に豊臣秀吉は文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役、朝鮮征伐(朝鮮侵略)をおこなう。この文禄・慶長の役を朝鮮では壬辰倭乱(イムジンウェラン)と呼んでいる。

 このイムジンウェラン(文禄・慶長の役)は、日本(豊臣秀吉政権)と明および朝鮮との間で行われた国際戦争である。秀吉は小田原城の北条氏を降伏させ天下統一を成し遂げた1590年から2年後の1592年から1593年に朝鮮半島に兵を送った。これを文禄の役と呼んでいる。また、朝鮮半島との戦争を一時休戦し、再び1597年から1598年まで朝鮮へ出兵し戦争を行った。これを慶長の役と呼んでいる。一般に、この二つの戦争、朝鮮侵略を文禄・慶長の役と呼ぶ。豊臣秀吉が主導する日本の軍と李氏朝鮮王朝との戦いは明をも巻き込み東アジア全体に広がる国際戦争となった。


2、秀吉の朝鮮侵略の爪あと 今でも残るイムジュンウェランの遺跡

 1592年に肥前名護屋城(なごやじょう 現在の佐賀県唐津市にあった城で、豊臣秀吉が文禄・慶長の役に際して築城したもの)から15万人以上の兵士がプサン(釜山)に上陸し朝鮮半島に渡る。この戦いは日本と朝鮮半島の歴史に大きな傷跡を残すことになる。 

 1592年4月13日、秀吉の軍隊1万2千人がプサン城を襲う。僅か(わずか)半日の戦いでプサン城は陥落(かんらく)した。朝鮮側の死者はおよそ3千人と伝えられている。その後、秀吉はこの地域の行政の中心である東菜(トンネ)に兵を移動する。数千名が命を落としたといわれるトンネ城の戦いの絵巻物、イムジンウェランの遺跡や記録がプサン博物館に残っている。また、トンネ(東菜)一帯で地下鉄の工事が行われたとき、トンネ城の戦いの遺跡が発掘された。日本側の圧倒ぶりを示すかのように、発掘されたのはほとんどが敗れた朝鮮人の刀や甲冑(かっちゅう)であった。

 また、多くの人骨が発掘され、女性や子供までが戦争の犠牲になっていた。秀吉軍は残虐な行為をすることで倭軍の恐ろしさをアピールしたのではないかと言われている。また、トンネの街中にこの戦い(トンネ城の戦い)を弔う(とむらう)墓所(ぼしょ)が町のいたるところにある。つまり今でも、トンネ城の戦い、イムジンウェランはプサンの人々に日常的に語り継がれているのである。


3、秀吉の野望の背景と敗北した朝鮮の原因

 秀吉は唐入りの野望を語る。つまり、天皇を北京に移し、中国皇帝にする野望を持っていた。

 戦争が始まる一年前、1591年、九州を中心とする西国の大名に号令を掛け、肥前名護屋に城(名護屋城 17万平方メートル以上で大阪城に次ぐ規模を誇る)を築城させた。築城は5ヶ月ほどの猛スピードで行われた。城の周辺には諸大名の陣屋(じんや)も建てられていた。そして、町人なども集まり、人口20万人ほどの城下町が突然として現れた。

 秀吉はこの名護屋城を軍事拠点として彼の軍事目標を「唐入り」と称した。つまり、秀吉は中国、明の征服を目指していた。そのためには朝鮮半島を通る必要があり、秀吉の命を受けて対馬藩主は朝鮮王朝に明への軍隊を送るための道を開けること、仮道入明(かとにゅうみん)を要求した。しかし、朝鮮の国王から拒否される。そこで秀吉は朝鮮に兵を送ることを決断する。まず、朝鮮を征服し、そこを拠点にして明の征服を試みた。

 この朝鮮への進軍の理由は三つあったといわれている。一つ目は、君主織田信長の遺志を継いでという説、二つ目は戦国時代に武士や足軽の人数が過剰になり将来の内乱や反乱の要因になることを避けるためという説、三つ目は国内の統一戦争の延長として朝鮮半島を征服しにいったという説である。

 この侵略戦争の背景には、豊臣政権自体の問題があった。豊臣政権は、豊臣家臣の家禄(かろく)を増やすために新しい領土を広げなければならなかった課題を抱えていた。戦国時代の大名は、常に戦争をし、領地を拡大し、手柄のあった家臣(かしん)には給与として領地を与える知行(ちぎょう)という制度があった。そのため、つねに領地拡大のための戦争が必要であった。日本の国内を統一し家臣に領土を与える知行では不十分となってくる。そこで、戦争体制を外に向けることで、明を征服し、アジアを支配し、家臣たちに多くの知行地を与える(広い領地をあたえる)ことを考えた。

 それだけでなく、当時ヨーロッパの大航海時代の影響もあった。この大航海時代に影響され武器が変化した。つまり今までの武器に代わって鉄砲が用いられた。日本は戦国時代に鉄砲を自ら生産し、またそれを使った戦法を活用した。

 もう一つの理由は、世界観の変化にある。大航海時代の影響を受け、これまであった中国、インドと日本(三国)の世界観、中華世界観から、それ以外の世界が存在するという考え方が入ってくる。つまり、欧州勢力の出現によって中国の地位が相対的に弱体化した。

 秀吉は中国皇帝の出生伝説に習い自らを日輪の子(太陽の子)と称し、つまりアジア、大陸の覇者となることを宣言し、例えば高山国と呼ばれていた当時の台湾に日本への従属を求める書簡を送るなどして、周辺国家に従属を要求した。

 名護屋城から対馬が見える。その朝鮮侵略の拠点となる対馬から朝鮮半島までは僅か(わずか)50kmである。多くの日本兵が対馬を経由してプサンに渡った。プサンでの戦いから3週間後、一気に北上し朝鮮王朝の都、現在のソウルになる、ハンソン(漢城)を征服する。

 日本の勢力がハンソンに迫ると国王は都から脱出した。ハンソンの民衆は取り残され、絶望した。そして朝鮮は明に援軍を求めたが、明はわずか一ヶ月で日本が都まで攻め入るということを信じず、動かなかった。

 当時の朝鮮は建国から200年、平和が続いたため、官僚の腐敗も進み、軍事力は弱体化し日本への防衛も後手に回った。そして、朝鮮は戦国時代を経て日本が変化していった実態を把握していなかった。つまり戦国時代の日本は混沌とし、そのエネルギーが一旦朝鮮に向かうとどうなるか予想できなかった。

 1402年、朝鮮の支配者たちの作った地図からは、当時の朝鮮では、日本は殆ど無視、小さな国として理解されていた。つまり、中国を中心とする中華圏にも属さない国として扱っていた。つまり国として観ていなかった。

 秀吉の地図から、周辺の国王も戦国代大名のように扱っていた。例えば、対馬藩を通じて朝鮮王朝に対して、日本の朝廷に参内(さんだい 宮中に参上(さんじょう)すること)つまり日本の天皇に朝鮮の国王が訪問し頭を下げることを要求している。つまり、朝鮮国王に対して、国内の戦国大名に対するのと同じような要求を突きつけたのである。

 この戦争の影響は大きい。当時の儒教思想に土台をおく中国的世界秩序の崩壊が生じる。朝鮮半島は中国と許可なく外国との交渉はできなかったが、その後は、朝鮮は独自の外交が可能になった。それの例が朝鮮通信使であった。


4、朝鮮の反撃と明の参戦 秀吉の朝鮮侵略戦争の失敗

 ハンソンから日本勢はピョウンヤン(平壌)に侵攻する。しかし一方、朝鮮半島南部で反撃が始まる。1592年7月のオクポ(玉浦)沖の海戦で朝鮮水軍が藤堂高虎らの日本水軍を破る。

 韓国中部の町アサン(牙山)にオクポ(玉浦)沖の海戦で日本水軍を破った将軍 イ・スンシン(李舜臣 1545-98)の肖像がある。彼は、当時一地方の将軍であった。彼は亀甲船を作り、新しい戦法を考え、戦いを勝利に導いた。

 開戦から3ヵ月後、朝鮮と日本の戦局が逆転する戦いが、1592年7月7日のハンザンド(閉山島)沖での海戦、ハンザンド(閉山島)海戦が行われた。朝鮮水軍は侵攻する日本水軍を待ち伏せて、日本水軍を包囲し砲撃した。この戦いで日本水軍は60隻の軍艦を失い、壊滅的な打撃を受けて、制海権を失うことになる。

 陸でも地方の勢力によって義兵闘争の反撃が始まる。クァク・ゼウ(郭再祐)は私財を投げ売って民兵を組織化した。多くの犠牲者を出しながらそれでも抵抗する戦いは全国に広がる。イ・スンシンとクァク・ゼウの戦いで、秀吉の軍隊が朝鮮半島随一の穀倉地帯である半島南部のチョルラド(全羅道)に進軍することを防いだ。現地で食料を調達していた日本勢は、この地域に入れなかったので徐々に食料不足になっていった。

 明が参戦、日本勢が占拠していたピョンヤン城に攻撃をかける。明は4万の大軍を送り日本勢は不利に立つ。北部の朝鮮勢も参戦する。日本勢は敗走する。明は、抗倭援朝(つまり朝鮮を支援し日本勢と戦う)ために派兵した。しかし、本当の明の目的は、日本勢の明まで侵入を防ぐことであった。つまり明の参戦は自衛のための戦いであったと云える。

 イ・スンシンの水軍、クァク・ゼウの義兵闘争と明の参戦で日本勢は敗北して行き、秀吉の唐入りの野望は砕かれる。

 朝鮮全土に勢力を拡大した日本は朝鮮人民の反発を受けた。そして、明は自分たちの利益を守るために参戦した。換言すれば、朝鮮半島は中国にとって常に重要な戦略的な位置にあった。そして、朝鮮半島の国際戦略上の重要な位置をめぐって、中国と日本は再び日清戦争でも衝突するのである。つまり、朝鮮はつねに大国の狭間にあって、それら国が引き起こす覇権をめぐる戦争に巻き込まれる運命にあった。

 日本に侵略された朝鮮を救うために戦ったイ・スンシン(李舜臣)は、今でも救国の英雄と云われ、韓国の人々の敬愛を集めている。このイ・スンシン(李舜臣)を描いた本があるが、それを北朝鮮拉致被害者の蓮池薫さんが翻訳している。彼は、イ・スンシンについて、非常に人間らしい人であり、常に大国に蹂躙された国を守った英雄のシンポルとして理解している。北朝鮮でもイ・スンシンは英雄であるが、韓国のように評価されていないと彼は語っている。


5、慶長の役(二回目の朝鮮侵略戦争)の勃発と耳塚

 1593年5月、名護屋城に明の使節が訪れる。明は平壌での戦いで勝利を得た後、再びハンソンの北部で戦い、こんどは敗北した。明は日本との講和を求めていた。ピョンヤンを奪還(だっかん)した以上、日本が明本国まで侵入する可能性は低いと考え、また明は日本と最後まで戦い戦力を消耗するより、日本と講和を結び、朝鮮を分割する方がいいと考えていた。

 講和に際し、秀吉は朝鮮の王子を人質として出すことなどの7つの条件を出した。秀吉は明の支配をあきらめ、朝鮮の南四道の支配を考えた。そして全国の大名に朝鮮半島に築城を命じる。韓国ではこの城を倭城(わじょう)とよんでいる。代表的なものとして加藤清正の出城(でじろ)が有名である。

 明との講和交渉の最中でも、日本勢は倭城に駐留し続ける。交渉の場は日本から北京に移ったが、秀吉も明の皇帝万暦帝(まんれきてい)も相手が降伏して交渉を求めたという立場に立っていたので、交渉は進展しなかった。

 膠着(こうちゃく)のまま3年を経過した1596年9月、明から使者が名護屋城に訪れた。明の使者は皇帝の勅令(ちょくれい)を携(たずさ)えていた。その皇帝の勅令(ちょくれい)には、秀吉の出した要求にはまったく答えず、秀吉を皇帝より格下の日本王に奉じる(ほうじる、君主が家臣に何かを与えること)と記されていた。また明は朝鮮に築いた城の取り壊しと兵の撤退を要求した。

 そのため秀吉は激怒し、朝鮮に再び大軍を送ることを決意し、1597年、14万人の兵で朝鮮半島を再攻撃した。この二回目の朝鮮侵略戦争を慶長の役と呼んでいる。

 この慶長の役の目的は、「唐入り」ではなく朝鮮の南四道の支配にあった。そのため、仮道入明(かとにゅうみん)と呼ばれる朝鮮半島を明への道と位置づけていた文禄の役とは異なり、秀吉軍は朝鮮を徹底的に荒廃に導き、人民を殺率する戦術を取った。朝鮮半島での日本兵の行動は非常に残虐なものとなった。それを代表するものが「鼻切(はなきり)」であった。京都東山の方広寺(ほうこじ)には朝鮮征伐で戦利品として持ち帰った2万人分の耳や鼻が埋葬されている。


6、イムジンウェランの影響、東アジアの政治体制の変遷

 イ・スンシン(李舜臣)は慶長の役、二回目の朝鮮侵略の時も果敢に戦った。1597年9月、イ・スンシンはチョルラド(全羅道)の潮の流れが速いミョンリャン(鳴梁)で日本海軍と戦う。ミョンリャン海戦でイ・スンシンは勝利した。それを支えたのはこぎ手の役割であった。

 こぎ手は海の民や日本の兵で朝鮮に投降した兵、降倭(こうわ)がいた。長期化する戦争に疑問を持った日本の兵士が朝鮮に投降し降倭(こうわ)となり朝鮮海軍のこぎ手になった。

 ウルサン城の攻防戦、退路を立たれた日本勢の凄惨(せいさん)で悲惨な戦いが続く。

 この戦いについて、秀吉は明が使節を送ってたきので、勝ち戦と思っており、領土と人質を求めることを条件に入れた勝ち戦のとしての講和を結ぼうとした。つまり、まったく秀吉は状況を理解していなかったのである。

 慶長の役は、南四道を支配するための戦いであったので、地域の指導者や民衆を虐殺した。そのため、耳きり鼻切を行った。それが朝鮮民衆の心の中に怨恨が入り込むことになる。このイムジンウェランの記憶は今日まで韓国、朝鮮民衆の心に残る。

 その後、秀吉は死去する。日本勢は秀吉の死を隠して撤退を始めた。朝鮮軍と明軍は日本軍を追撃した。イ・スンシンはその戦いで戦死する。膨大な戦費と使ったことで豊臣政権は崩壊、戦場となった朝鮮は荒廃する。また多くの朝鮮人、特に高度な知識を持った人が拉致(強制的に日本に連れてこられる)された。これらの人々(被慮人 ひりょにん)の中には、儒学者などもいた。多くの被慮人は肉体労働をして日本で一生を終えた。

 江戸時代になって、朝鮮王朝は日本(徳川幕府)と講和を結び、被慮人を連れ戻そうとして朝鮮通信使が派遣する。しかし、朝鮮王国はそれらの被慮人を帰国させはしたものの、彼らの面倒を見ることはなかった。イムジンウェランは5万から20万と云われる朝鮮の人々の人生を翻弄(ほんろう おもいのままもてあそぶこと)し、被慮人として異国の地で生涯を終える運命を与えた。

 イムジンウェランで戦いに参加した明は国力を落とし、北方の満州族の後金の侵略を受け、満州族の後金が清王朝となり、明は1644年滅亡した。

 また、日本では豊臣政権が崩壊、朝鮮では朝鮮王国が弱体し中国では明が崩壊し清が成立した。東アジア国際戦争に発展したイムジンウェランは東アジア全体の政治体制を変えることになったのであった。この戦いは、結局は莫大な被害を及ぼした勝者なき戦いであったと云われている。

 つまり、イムジンウェランは日本の文化にも大きな影響を与えた。朝鮮半島から被慮人を連れてきたことで、新しい文化や技術が伝わった。例えば、有田焼や薩摩焼を含め、朝鮮半島から磁器の技術が伝わった。慣れない土地に連れてこられた朝鮮の陶工たちは、有田に磁器の焼きものできる土をみつけ、そして現代にまで続く有田焼の伝統陶芸を作ってきたのである。


参考資料

1、 南北朝とは、 1331年から1392年まで、天皇家が室町幕府・足利尊氏に支援された光明天皇北朝と鎌倉幕府の支援する光厳天皇(こうげんてんのう)の南朝(現在の京都以南にあった大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)に分裂した時代を意味する。

2、 朝貢(ちょうこう)とは、前近代の中国を中心とした貿易の形態で、中国の皇帝に対して周辺国の君主が進貢(しんこう 貢物を捧げること)し、これを皇帝は入貢し(にゅうこう 貢物を受け取ること)、その進貢(しんこう)に対して中国の皇帝側が恩賜(おんし)を与える形式を持って成立していた。(Wikipedea http://ja.wikipedia.org/wik )

3、 文禄・慶長の役 ( Wikipedea 資料参考 )

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ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」

5. 日韓関係

5-1、NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」 イムジンウェラン 文禄・慶長の役のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6656.html

5-2、NHK 朝鮮半島と日本 「倭寇(わこう)の実像を探る  東シナ海の光と影」のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_2310.html

5-3、NHK EV特集 「元寇蒙古襲来 三別抄と鎌倉幕府」の映像資料のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6943.html

5-4、姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』プロローグのテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_29.html

5-5、東アジア共同体構想の展開を進める日韓関係の強化
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_12.html



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