2012年4月10日火曜日

共同体秩序形成と破壊的暴力的行動の要因としての一次生活資源の欠乏状態

生活資源の欠乏の解決行動としての社会運動(1)


三石博行


生活資源の構造とその欠乏状況の解決行動

生活資源の欠乏要因の解決行為として集団で行う生活防衛行為であると定義すると、生活資源の概念(1)からその欠乏状態について述べなければならない。ここで、生活資源論から、生活資源を一次生活資源、二次生活資源と三次生活資源に分類し、それらの生活資源の特徴からその欠乏状況が意味する課題を考え、その解決を巡って人とその集団、共同体がどのように行動するかを考えてみる。


一次生活資源の欠乏状態を防ぐ手段としての共同体

生活資源論の中で、一次生活資源を「生命や生存するために必要な最低限の生活条件や生活環境を構成する生活素材や生活様式」と定義した。(2)一次生活資源に分類されるものは、生命を維持するために必要な衣食住環境や育児や健康を守るための生活環境・家族関係、生存を支える生産活動や外的から身を守るための防衛活動を保障する共同体等である。

この一次生活資源の欠乏によって、人々は直接的に生命を脅かされることになる。例えば、戦争、災害、犯罪、飢餓や疫病の流行等などは一次生活資源の欠乏状態を作り出し、こうした自然や社会的災害によって人々の生活は根本から破壊される。

突然の自然災害や外敵の攻撃によって共同体は危機を迎える場合が生じる。その時、共同体は解体し、共同体を構成していた人々は命を奪われるのである。つまり、共同体の安全対策が襲ってきた自然災害に対しても外敵に対しても有効でない場合には、共同体は存続の危機に襲われることになる。破壊された生産機能、防衛機能、社会制度、家族、言い換えると一次生活資源の欠乏とは文字通りそれに依拠した人々の死を意味する。

そのため、人類は長年、一次生活資源の自然的状態で発生する欠乏を防ぐための努力を積み重ねてきた。その対策として、家族、共同体や社会の秩序や制度が形成された。共同体の秩序や制度の目指した課題は、人類が存続可能な条件を獲得し続けることであった。つまり、一次生活資源の欠乏を防ぐことが共同体の形成の起源であるとも言えるだろう。

人類は、生き延びるために食糧の確保、その技術確保や改良を行い、共同体や社会の食料生産量の維持、増加、食料備蓄の技術改良に努めてきた。さらに自然災害への防災対策、外敵からの防衛、共同体内での秩序維持、防犯、公衆衛生等の対策を開発維持し続けてきた。その意味で、共同体の秩序は個人を徹底的に支配する存在理由を持っていた。人々は共同体の秩序や制度を維持することによって命を維持できたのである。

共同体の秩序が絶対的に個人を支配するのは、その共同体の秩序形成の存在理由によるものであり、言い方を変えるなら、それなしに個人は生き延びることの出来なかった非常に長い人類の歴史、有史以前の歴史の中で形成された人類の行動様式や社会様式を決定する在り方であるとも言える。つまり、社会的存在としての人間の在り方と呼ばれる人間性の土台に分厚く蓄積され、確りと刻み込まれた文化人類学的情報であると言えるだろう。

一次生活資源の確保を行うための長年の人類の努力こそが、人間の在り方を決める基本的要素を構築しているのである。この行動を今日の社会で言う「安全」の原型であると考えることも出来るだろう。


共同体を失った場合の一次生活資源欠乏状態の解決方法としての暴力

一次生活資源の欠乏状態が個人にとって直接死を意味するなら、人々はこの欠乏状態に対してどのような行動を取ることになるだろうか。

突然一次資源の欠乏した状況で人間が引き起こす行動とは命を守るために行う行動であると想像することができる。自分と家族の命を守るために行う行動、つまりそれらの行動はそれまで一次生活資源(生命を維持するために必要な生活資源)を確保するために共同体の秩序の中で、つまり日常的生活として行動していたものではなく、直接に個人や集団が命を守ろうとする行動である。共同体によって保障された一次生活資源確保の条件を奪われた人々には、もはや共同体の秩序を守る理由はない。直接に命を守らなければ命が奪われることになる。こうした状況で個人や集団は自分たちの命を守るために行動を選択するだろう。つまり、その行動基準は共同体の秩序維持のために取られるのでなく、個人や集団の延命のために選択決定されるのである。

つまり、個人や集団の延命のために選択する極限の行為とは、個人および集団が外敵から身を守るために外敵を殺害する行為、外敵から逃げる行為、食料を得るために他の競争相手を殺害する行為、他者の食糧を略奪する行為、等々である。いずれにしても暴力を伴う行為が自然発生的に生じることは避けられない。

戦争や飢餓が引き起こす異常な人間の行動も、個人の生命を守るために機能している共同体の制度や秩序の存在を無条件に前提にしている日常的生活環境から観た場合の異常さであって、その状況の中ではもっとも人間的な行為だとも言えるだろう。だからと言って暴力や殺戮を認めるわけではないが、共同体を失った個人や集団が自力でそれらの命を守ろうとする場合には、共同体の秩序的な視点から逸脱した行動が生まれることが生じると言える。

つまり、この暴力は共同体を失った状態の、社会的存在として生きてきた人間の条件を失った状態、最も悲惨な人間の姿であると言えるのである。この状態は人が個人としてその命を守るために他の人に対して闘争状態となっている世界を意味する。この状態の中で、人や集団が生きることはそれ以外の他者や集団との闘争関係に於いて成立していると言える。


秩序の脱構築過程、一次生活資源の欠乏要因の解決方法としての暴力的行動

個人や集団の破壊や暴力行動がそれらの人々の延命行為であるなら、この延命行為は共同体の秩序に依存しない状態で繰り広げられることになる。つまり、この行動は共同体の秩序に対する破壊を前提にして成立し、共同体の秩序でなく、個人的な行動によって、ここでは暴力的な行動によって生き延びようとしている。ここで選択された行為はある個人や集団のみが生きることを目的にしているものである。それ以外の人々や集団は別の集団の延命行為によって殺されることになる。つまり、この行為の行きつく地点では、生き延びるために戦い勝った人や集団以外はすべて駆逐され、滅びることになる。

しかし、この行為によって、生き延びた個人や集団も、生き延びた同族同士の血縁関係によってしか子孫を残せないなら、結果的に近い将来、生物的に滅びさることになる。この極論は、一次生活資源の欠乏が生み出す暴力的行為によっては個人としての延命は可能になるが、人としての延命は不可能になるという結論である。一次資源を得るために競争相手となる他者を抹殺することは短期的には成功しても長期的には失敗になる非現実的な行動であると想像できるのである。

では、一次生活資源の欠乏によって生じる暴力的行為の意味は何か。言換えると、この非常時の人間の暴力的行動は何を目的にして生じているのかを考えてみよう。何故なら、命に関わる一次生活資源の欠乏に対する暴力的な行動の勃発は歴史の中に革命、一揆や暴動として現れてきた。それらの暴力行為がまったくその存在理由を持たないということはあり得ない。この秩序や制度にとって「危機」の行動様式の意味を検討しなければならない。

つまり、安全の考え方の基礎となる共同体秩序の構築強化は、その社会秩序によって他者との共存が可能になるからであり、その受入れによってしか人類が存続できないからであった。現在の人類は、発生以来、精神構造上も理性とよばれる社会秩序の規則性を受け入れたこころ(現実則)を作りだし、共存することによって生き延びようとすることを人間性の基本情報としてきたのである。人は生き延びるために、個人の生命を支配し強制する力を共同体に与え、個人の欲望の充足行為よりも社会共同体の維持とその秩序を優先することを受け入れたのであった。

一次生活資源の欠乏の原因は共同体の生活環境を破壊する自然災害や外敵の攻撃だけではない。つまり、共同体の秩序や日常生活の慣習を通じて出来あがった災害防止措置や防衛上の問題によって共同体構成員の生命が脅かされるとは限らない。場合によっては共同体の構造によって、防衛や防災対応に不備が生じる場合もある。共同体の意思決定機能のマヒ、無能な幹部による対策の不備や想定外と判断される災害予測、つまり不十分な安全対策よって生じる被害拡大、これらは自然災害や外敵の攻撃と異なり、共同体の内部で生じる共同体の危機的要因である。そして結果的に可能な災害予防措置の欠如によって一次生活資源の欠乏が起ることになる。これを社会的要因によって生じる一次生活資源の欠乏問題として不可避的な自然災害によって生じる一次生活資源の欠乏状態と区別することにする。

例えば、この状態の典型として今回の東日本大震災の津波被害と原発事故被害の二つを挙げることが出来るだろう。

二つの場合に対する人々の対応は異なる。一つは、自然災害等の不可避的災害に対して、人々は共同体の再建として動き出す。しかし、社会構造的要因によって生じた災害に対して、人々は、その原因となる社会構造の変革に挑戦する。そのために、強固に存続を希望し続ける災害の要因となった社会秩序や体制に対して厳しくその秩序を壊す行動が生まれる。革命はその代表的な事例である。革命によって庶民は古い体制秩序を崩壊させ、新しい社会秩序を構築しようとする。その目的は、共同体で生活する人々の持続可能な生活様式を獲得するためである。

つまり、大衆や民衆の暴力的な行動とは、機能不全となった社会秩序の急激な変更を求める行為、生命維持に直結した一次生活資源の安定的供給を可能にする制度を構築するために、古い制度を脱構築する行為であると理解できるのである。


一次生活資源の欠乏要因の解決方法の三つの形態

生命維持に直結した生活資源、一次生活資源の欠乏問題を解決する手段として、以下に列挙した三つの行動パターンが生じる。
1、共同体の構築(生産活動への参加)
2、暴力行為による個人的延命行為(生産活動からの遊離)
3、暴力行為による共同体秩序の解体(生産活動様式や秩序の破壊と再建)
この三つの行動パターンは一見して異なるように見えるのだが、
西城戸誠氏が多様な社会運動を分類するために援用した社会運動の分類に関する理論(Kreiesi)(3)に示されていた「運動主体の参画度合い」と「運動成果の組織還元度合い」の二つの要素によって分析できる。「ボランティアから反戦デモまで社会運動の目標と組織形態(西城戸誠)」(OOHhi 04A pp77-93)

生産活動への参加を通じての共同体の構築とは、共同体構成員が共同体の制度に参加し、生産活動、防衛や防災活動から行事に至るすべての活動を担っている。その意味で、「運動主体の参画度合い」は非常に高い。そして共同体の利益のために共同体構成員は活動しているので、「運動成果の組織還元度合い」は活動を担う集団でなく共同体全体、つまり社会全体であると理解できる。

それに対して、暴力行為による個人的延命行為は共同体の生産活動様式や秩序の破壊と再建行為として解釈された。つまり、「運動主体の参画度合い」と「運動成果の組織還元度合い」の二つの要素に関して言うなら、個人として行動するこの行為では「運動主体の参画度合い」は殆どないと解釈できる。さらに、この個人の行動は個人の利益のみを考えて行われているために、「運動成果の組織還元度合い」も殆どないと解釈できる。

さらに、生産活動様式や秩序の破壊と再建を目的にした共同体の個人や集団の暴力行為による共同体秩序の解体行為であるが、共同体構成員は古い秩序を解体するために個人的抗議行動より集団的行動を組織する。その方が目的を達成できるからである。つまり、この抗議行動では「運動主体の参画度合い」が上記した二つ場合の中間に位置することになる。日常生活に属する生産活動のように共同体全員の参加とまでは行かないが、しかし、暴力行為による個人的延命行為のようにまったく個人的行動ではない。より多くの人々の参加を得ようとする活動が企画される。そして、この活動は運動に参加した人々の意識によって、「運動成果の組織還元度合い」が変化する。つまり、行動を担う人々に利益を還元する形態から共同体全体に利益を還元しようとする形態までが生まれる。その意味で、上記した二つの場合の中間に属すると言える。

このように、一次生活資源論の欠乏問題解決という切り口から社会運動の起源を考え、その中で生じる共同体構成員の三つの異なる行動様式を、社会運動の分類方法で用いられるKreiesiの理論の二つの要素分析を用いて説明することが出来た。

一次生活資源の欠乏問題を解決する行動として社会運動の原始的形態が形成され、その基本構造として共同体の構築や秩序形成があることが理解できた。さらに、革命や暴動、一揆などの暴力的な社会運動の起源も一次生活資源の視点から解釈できることも理解できた。それらのまったく異なる民衆行動、つまり暴力性(改革性)と共同体秩序維持(保守性)は、共に同じ共同体維持によって個体保存を行う社会的存在である人間性、つまり社会行動要素から生じていることも理解できたのである。

そして、この一次生活資源の欠乏状態を人間の生存権の侵害として理解することで、広義の人権概念を提案したのである。(4)


引用、参考資料

(1)三石博行 「設計科学としての生活学の構築 -人工物プログラム科学としての生活学の構図に向けて」 金蘭短期大学 研究誌33号 2002年12月 pp21-60
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_02/cMITShir02d.pdf

(2) 三石博行 「生活資源論」 
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_02.html

(3)  Kriesi,H. 1996 “The Organizational Struture of New Social Movements in a Political Context” D.McCarthy and M.N.Zald eds. Comparative Pespectives on Social Movements : Political Opportunities , Mobilizing Strucures, and Cultural Framings, Cambridge : Cambridge University Press.

(4) 三石博行 「人権学 -三つの人権概念の定義-」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/11/blog-post_2567.html


(OOHhi 04A) 大畑裕嗣(おおはたひろし)、成元哲(そんうおんちょる)、道場親信(みちばちかのぶ)、樋口直人編 『社会運動の社会学』有斐閣選書 2004年4月30日、311p


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2012年4月11日、12日 誤字修正 
(B120410b)
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