三石博行
政治理論のない政策は、その政策を説明することが出来ない。
多分に、政策の説明が単純な集団や時代には、政治理論は、「誰々の利益のため」という簡単な文言で済んだかもしれない。
しかし、社会が複雑になり、国際化し、科学技術が進歩し、色々な階層が政治参加している時代には、これまあった大らかな村に政治理論は通用しなくなる。
専門的な知識を背景にして、政策を導き出さないとならない。
科学技術文明社会では、高度に専門化した分野によっての社会は機能する。
それらの専門的な社会分業の領域を理解し、横断的に融合化し、合理的で現実的な政策を検討実現できる職人としての政治家が必要となる。
政治理論とは、社会経済の発展に必要な現実的な政策を導くための知性と技能である。
哲学に於いて生活とはそのすべての思索の根拠である。言い換えると哲学は、生きる行為、生活の場が前提になって成立する一つの思惟の形態であり、哲学は生きるための方法であり、道具であり、戦略であり、理念であると言える。また、哲学の入り口は生活点検作業である。何故なら、日常生活では無神経さや自己欺瞞は自然発生的に生まれるため、日常性と呼ばれる思惟の惰性形態に対して、反省と呼ばれる遡行作業を哲学は提供する。方法的懐疑や現象学的還元も、日常性へ埋没した惰性的自我を点検する方法である。生活の場から哲学を考え、哲学から生活の改善を求める運動を、ここでは生活運動と思想運動の相互関係と呼ぶ。そして、他者と共感しない哲学は意味を持たない。そこで、私の哲学を点検するためにこのブログを書くことにした。 2011年1月5日 三石博行 (MITSUISHI Hiroyuki)
2010年7月15日木曜日
政治とは(3) 政治理念
三石博行
政治理念なき政治的策略は、私利私欲のために国民や国家の利益を食いつぶす政治行動を生み出す。
選挙で政策を語れない者は立候補すべきではない。
選挙で政治的職業意識とそのスキルを国民に提示できない者を候補者に選ぶべきではない。
国家や国民の利益でなく、自らの政治集団の利益、政治権力を確立が目的化された時、それらの集団はただ選挙に勝つに手段を選ばない行為をするだろう。
政治理念を持たない政党や政治家は、国民を犠牲にする政治行動と私利私欲の行動の峻別が不可なのだ。
彼らの謂う政治的行為はつねに、それが見事な政治的策略であったと自負しても、結局は国家と国民の財産を食いつぶす結果しか導かないだろう。
国民は、だから、よく彼らの態度や言動を観ておくべきである。
それにしても、あまりにも政治家の理念を理解する情報がない。
何故なら、彼らは「私は何をします」としか語らないからである。
何故なら、社会は彼らに「今まで何をしてきたのか」と問いかけないからである。
理念とは、未来への希望や夢を語ることではない。
理念とは、今まで実践してきた政治的言動を示すことである。
もし、社会が政治理念と点検する機能を持たないなら、この国は滅びるだろう。
もし、社会が政治理念を正しく認識する機能を持たないなら、能力ある人材に政治劇場の舞台に登用することは出来ないだろう。
政治理念なき政治的策略は、私利私欲のために国民や国家の利益を食いつぶす政治行動を生み出す。
選挙で政策を語れない者は立候補すべきではない。
選挙で政治的職業意識とそのスキルを国民に提示できない者を候補者に選ぶべきではない。
国家や国民の利益でなく、自らの政治集団の利益、政治権力を確立が目的化された時、それらの集団はただ選挙に勝つに手段を選ばない行為をするだろう。
政治理念を持たない政党や政治家は、国民を犠牲にする政治行動と私利私欲の行動の峻別が不可なのだ。
彼らの謂う政治的行為はつねに、それが見事な政治的策略であったと自負しても、結局は国家と国民の財産を食いつぶす結果しか導かないだろう。
国民は、だから、よく彼らの態度や言動を観ておくべきである。
それにしても、あまりにも政治家の理念を理解する情報がない。
何故なら、彼らは「私は何をします」としか語らないからである。
何故なら、社会は彼らに「今まで何をしてきたのか」と問いかけないからである。
理念とは、未来への希望や夢を語ることではない。
理念とは、今まで実践してきた政治的言動を示すことである。
もし、社会が政治理念と点検する機能を持たないなら、この国は滅びるだろう。
もし、社会が政治理念を正しく認識する機能を持たないなら、能力ある人材に政治劇場の舞台に登用することは出来ないだろう。
2010年7月14日水曜日
人間教育者、岩松弘先生
三石博行
教育者 私には、つねにこの言葉を考えさせ続けた人物がいる。
山川中学校の時の恩師、故岩松弘先生である。
私の生き方に大きな影響を与えた人物である。
先生のことを語らなければと思う。
それは、同時に、自分の教育について語ることになる。
それは、同時に、人間教育のあり方を語ることになる。
だから、岩松先生のことを語るには、もう少し、時間が掛かりそうだ。
岩松弘著 『貝がらの歌』高城書房 2002年1月 235p ISBN 9784887770218
教育者 私には、つねにこの言葉を考えさせ続けた人物がいる。
山川中学校の時の恩師、故岩松弘先生である。
私の生き方に大きな影響を与えた人物である。
先生のことを語らなければと思う。
それは、同時に、自分の教育について語ることになる。
それは、同時に、人間教育のあり方を語ることになる。
だから、岩松先生のことを語るには、もう少し、時間が掛かりそうだ。
岩松弘著 『貝がらの歌』高城書房 2002年1月 235p ISBN 9784887770218
政治とは(2) 大衆操作
三石博行
大衆と共にという言葉には落とし穴がある。
政治家は、大衆動員の多様な手法を理解しておかなければならない。
極論すると、大衆民主主義社会では、大衆操作かそれとも大衆運動かの二つの大衆動員がある。
大衆操作とは、大衆をとことんごまかすことに徹しなければならない。
大衆操作の最も便利な道具はマスコミである。
マスコミが騒げば、社会は動く。つまり、人々はその意見に同調し始める。
政治家はそのことの恐ろしさも便利さも知っている。
今日、ほとんどの大衆操作は、このマスコミの力で行われている。
情報化社会では、マスコミという巨大な権力が、官僚機構の次に、現れてきた。
これが、現代の大衆民主主義社会の一つの姿である。
しかし、いつまで、大衆をごまかし続けることが出来るだろうか。
いつまでも、ごまかせると信じる人々は、いつか大火傷をするだろう。
大衆と共にという言葉には落とし穴がある。
政治家は、大衆動員の多様な手法を理解しておかなければならない。
極論すると、大衆民主主義社会では、大衆操作かそれとも大衆運動かの二つの大衆動員がある。
大衆操作とは、大衆をとことんごまかすことに徹しなければならない。
大衆操作の最も便利な道具はマスコミである。
マスコミが騒げば、社会は動く。つまり、人々はその意見に同調し始める。
政治家はそのことの恐ろしさも便利さも知っている。
今日、ほとんどの大衆操作は、このマスコミの力で行われている。
情報化社会では、マスコミという巨大な権力が、官僚機構の次に、現れてきた。
これが、現代の大衆民主主義社会の一つの姿である。
しかし、いつまで、大衆をごまかし続けることが出来るだろうか。
いつまでも、ごまかせると信じる人々は、いつか大火傷をするだろう。
政治とは(1) 策略
三石博行
策略としての政治
策略として理解されている政治の意味を見事に示した例が、今回の選挙であった。
選挙戦に入る前に、管直人氏は見事に自民党の「消費税を上げなければ健全な財政を確保できない」という正論の策略に乗った。
その結果、みごとに選挙前の国民の評価を落とした。
管直人氏の言動にさぞかし小沢一郎氏は苛立ったことだろう。そして、その挑発にまんまとはまった管直人氏の子供じみた対応に小沢氏はなす術もない自分にも残念がったことだろう。
何しろ小沢一郎氏は選挙前に、民主党を勝利させようと、自ら身を引いたのだから。
しかし、これは私の憶測である。
策略を政治とすれば、民主党の若手や市民運動上がりの政治家など、自民党のたたき上げ、百戦錬磨の政治家の足元にも及ばないだろう
真面目すぎた管直人氏、確かに国債漬けの日本のこれからを考えるなら、彼の言い分は正しいのだ。
むしろ、この問題を避けて、選挙に臨みながら、選挙後に消費税値上げを既成事実のように語る自民党政治家などは、実に、見事に国民感情を逆なですることなく、目的を果たそうとしているのだから、卑怯なやり方といえるだろう。
しかし、その卑怯さは、策略という視点からは見事というしかない。
その意味で、管直人氏は、自民党政治家の爪の垢を煎じて飲まなければ、政治家にはなれないと、民主党、特に自民党を良く知る、自民党を脱党した政治家は思っただろう。
まさか自分たちが自民党を支持したはずはないのだが、結果的には自民党の勝利を導いた選挙結果に国民も驚いたかもしれない。
そして、その策略に乗った自分たちよりも、もっと手厳しくその策略を見ぬけなかった民主党党首に対して、不平をこぼし、「策略に乗るようでは、大した政治家ではない」と国民も思っているだろう。
今回の選挙は、純粋な民主党を代表する管直人氏が、強かな自民党を代表する谷垣禎一氏に一本取られた。
それは自民党が遥かに民主党よりも「策略としての政治」の実力をもつことを我々に教えてくれた。
策略としての政治
策略として理解されている政治の意味を見事に示した例が、今回の選挙であった。
選挙戦に入る前に、管直人氏は見事に自民党の「消費税を上げなければ健全な財政を確保できない」という正論の策略に乗った。
その結果、みごとに選挙前の国民の評価を落とした。
管直人氏の言動にさぞかし小沢一郎氏は苛立ったことだろう。そして、その挑発にまんまとはまった管直人氏の子供じみた対応に小沢氏はなす術もない自分にも残念がったことだろう。
何しろ小沢一郎氏は選挙前に、民主党を勝利させようと、自ら身を引いたのだから。
しかし、これは私の憶測である。
策略を政治とすれば、民主党の若手や市民運動上がりの政治家など、自民党のたたき上げ、百戦錬磨の政治家の足元にも及ばないだろう
真面目すぎた管直人氏、確かに国債漬けの日本のこれからを考えるなら、彼の言い分は正しいのだ。
むしろ、この問題を避けて、選挙に臨みながら、選挙後に消費税値上げを既成事実のように語る自民党政治家などは、実に、見事に国民感情を逆なですることなく、目的を果たそうとしているのだから、卑怯なやり方といえるだろう。
しかし、その卑怯さは、策略という視点からは見事というしかない。
その意味で、管直人氏は、自民党政治家の爪の垢を煎じて飲まなければ、政治家にはなれないと、民主党、特に自民党を良く知る、自民党を脱党した政治家は思っただろう。
まさか自分たちが自民党を支持したはずはないのだが、結果的には自民党の勝利を導いた選挙結果に国民も驚いたかもしれない。
そして、その策略に乗った自分たちよりも、もっと手厳しくその策略を見ぬけなかった民主党党首に対して、不平をこぼし、「策略に乗るようでは、大した政治家ではない」と国民も思っているだろう。
今回の選挙は、純粋な民主党を代表する管直人氏が、強かな自民党を代表する谷垣禎一氏に一本取られた。
それは自民党が遥かに民主党よりも「策略としての政治」の実力をもつことを我々に教えてくれた。
NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」 イムジンウェラン 文禄・慶長の役のテキスト批評
三石博行
豊臣秀吉の朝鮮侵略、東アジア国際戦争
司会 NHK 司会者 三宅民夫
レポーター 女優 大桃美代子
ゲスト
九州大学大学院教授 中野等
ソガン(西江)大学校教授 チョン・ドゥフイ
1、戦国時代と東アジア国際戦争の勃発
日本では、1392年の南北朝の合体から1467年の応仁の乱から戦国時代が始まる。朝鮮半島では、1392年に高麗が滅亡し朝鮮が建国した。中国では1368年元が滅び、明が建国した。その明にたいして朝鮮は「朝貢(ちょうこう)関係 」を結ぶ。事実上、朝鮮は明の属国となっていた。
1590年、豊臣秀吉が天下を統一し、長い戦乱の続いた戦国時代を終えた。そしてその2年後の1892年から1598年に豊臣秀吉は文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役、朝鮮征伐(朝鮮侵略)をおこなう。この文禄・慶長の役を朝鮮では壬辰倭乱(イムジンウェラン)と呼んでいる。
このイムジンウェラン(文禄・慶長の役)は、日本(豊臣秀吉政権)と明および朝鮮との間で行われた国際戦争である。秀吉は小田原城の北条氏を降伏させ天下統一を成し遂げた1590年から2年後の1592年から1593年に朝鮮半島に兵を送った。これを文禄の役と呼んでいる。また、朝鮮半島との戦争を一時休戦し、再び1597年から1598年まで朝鮮へ出兵し戦争を行った。これを慶長の役と呼んでいる。一般に、この二つの戦争、朝鮮侵略を文禄・慶長の役と呼ぶ。豊臣秀吉が主導する日本の軍と李氏朝鮮王朝との戦いは明をも巻き込み東アジア全体に広がる国際戦争となった。
2、秀吉の朝鮮侵略の爪あと 今でも残るイムジュンウェランの遺跡
1592年に肥前名護屋城(なごやじょう 現在の佐賀県唐津市にあった城で、豊臣秀吉が文禄・慶長の役に際して築城したもの)から15万人以上の兵士がプサン(釜山)に上陸し朝鮮半島に渡る。この戦いは日本と朝鮮半島の歴史に大きな傷跡を残すことになる。
1592年4月13日、秀吉の軍隊1万2千人がプサン城を襲う。僅か(わずか)半日の戦いでプサン城は陥落(かんらく)した。朝鮮側の死者はおよそ3千人と伝えられている。その後、秀吉はこの地域の行政の中心である東菜(トンネ)に兵を移動する。数千名が命を落としたといわれるトンネ城の戦いの絵巻物、イムジンウェランの遺跡や記録がプサン博物館に残っている。また、トンネ(東菜)一帯で地下鉄の工事が行われたとき、トンネ城の戦いの遺跡が発掘された。日本側の圧倒ぶりを示すかのように、発掘されたのはほとんどが敗れた朝鮮人の刀や甲冑(かっちゅう)であった。
また、多くの人骨が発掘され、女性や子供までが戦争の犠牲になっていた。秀吉軍は残虐な行為をすることで倭軍の恐ろしさをアピールしたのではないかと言われている。また、トンネの街中にこの戦い(トンネ城の戦い)を弔う(とむらう)墓所(ぼしょ)が町のいたるところにある。つまり今でも、トンネ城の戦い、イムジンウェランはプサンの人々に日常的に語り継がれているのである。
3、秀吉の野望の背景と敗北した朝鮮の原因
秀吉は唐入りの野望を語る。つまり、天皇を北京に移し、中国皇帝にする野望を持っていた。
戦争が始まる一年前、1591年、九州を中心とする西国の大名に号令を掛け、肥前名護屋に城(名護屋城 17万平方メートル以上で大阪城に次ぐ規模を誇る)を築城させた。築城は5ヶ月ほどの猛スピードで行われた。城の周辺には諸大名の陣屋(じんや)も建てられていた。そして、町人なども集まり、人口20万人ほどの城下町が突然として現れた。
秀吉はこの名護屋城を軍事拠点として彼の軍事目標を「唐入り」と称した。つまり、秀吉は中国、明の征服を目指していた。そのためには朝鮮半島を通る必要があり、秀吉の命を受けて対馬藩主は朝鮮王朝に明への軍隊を送るための道を開けること、仮道入明(かとにゅうみん)を要求した。しかし、朝鮮の国王から拒否される。そこで秀吉は朝鮮に兵を送ることを決断する。まず、朝鮮を征服し、そこを拠点にして明の征服を試みた。
この朝鮮への進軍の理由は三つあったといわれている。一つ目は、君主織田信長の遺志を継いでという説、二つ目は戦国時代に武士や足軽の人数が過剰になり将来の内乱や反乱の要因になることを避けるためという説、三つ目は国内の統一戦争の延長として朝鮮半島を征服しにいったという説である。
この侵略戦争の背景には、豊臣政権自体の問題があった。豊臣政権は、豊臣家臣の家禄(かろく)を増やすために新しい領土を広げなければならなかった課題を抱えていた。戦国時代の大名は、常に戦争をし、領地を拡大し、手柄のあった家臣(かしん)には給与として領地を与える知行(ちぎょう)という制度があった。そのため、つねに領地拡大のための戦争が必要であった。日本の国内を統一し家臣に領土を与える知行では不十分となってくる。そこで、戦争体制を外に向けることで、明を征服し、アジアを支配し、家臣たちに多くの知行地を与える(広い領地をあたえる)ことを考えた。
それだけでなく、当時ヨーロッパの大航海時代の影響もあった。この大航海時代に影響され武器が変化した。つまり今までの武器に代わって鉄砲が用いられた。日本は戦国時代に鉄砲を自ら生産し、またそれを使った戦法を活用した。
もう一つの理由は、世界観の変化にある。大航海時代の影響を受け、これまであった中国、インドと日本(三国)の世界観、中華世界観から、それ以外の世界が存在するという考え方が入ってくる。つまり、欧州勢力の出現によって中国の地位が相対的に弱体化した。
秀吉は中国皇帝の出生伝説に習い自らを日輪の子(太陽の子)と称し、つまりアジア、大陸の覇者となることを宣言し、例えば高山国と呼ばれていた当時の台湾に日本への従属を求める書簡を送るなどして、周辺国家に従属を要求した。
名護屋城から対馬が見える。その朝鮮侵略の拠点となる対馬から朝鮮半島までは僅か(わずか)50kmである。多くの日本兵が対馬を経由してプサンに渡った。プサンでの戦いから3週間後、一気に北上し朝鮮王朝の都、現在のソウルになる、ハンソン(漢城)を征服する。
日本の勢力がハンソンに迫ると国王は都から脱出した。ハンソンの民衆は取り残され、絶望した。そして朝鮮は明に援軍を求めたが、明はわずか一ヶ月で日本が都まで攻め入るということを信じず、動かなかった。
当時の朝鮮は建国から200年、平和が続いたため、官僚の腐敗も進み、軍事力は弱体化し日本への防衛も後手に回った。そして、朝鮮は戦国時代を経て日本が変化していった実態を把握していなかった。つまり戦国時代の日本は混沌とし、そのエネルギーが一旦朝鮮に向かうとどうなるか予想できなかった。
1402年、朝鮮の支配者たちの作った地図からは、当時の朝鮮では、日本は殆ど無視、小さな国として理解されていた。つまり、中国を中心とする中華圏にも属さない国として扱っていた。つまり国として観ていなかった。
秀吉の地図から、周辺の国王も戦国代大名のように扱っていた。例えば、対馬藩を通じて朝鮮王朝に対して、日本の朝廷に参内(さんだい 宮中に参上(さんじょう)すること)つまり日本の天皇に朝鮮の国王が訪問し頭を下げることを要求している。つまり、朝鮮国王に対して、国内の戦国大名に対するのと同じような要求を突きつけたのである。
この戦争の影響は大きい。当時の儒教思想に土台をおく中国的世界秩序の崩壊が生じる。朝鮮半島は中国と許可なく外国との交渉はできなかったが、その後は、朝鮮は独自の外交が可能になった。それの例が朝鮮通信使であった。
4、朝鮮の反撃と明の参戦 秀吉の朝鮮侵略戦争の失敗
ハンソンから日本勢はピョウンヤン(平壌)に侵攻する。しかし一方、朝鮮半島南部で反撃が始まる。1592年7月のオクポ(玉浦)沖の海戦で朝鮮水軍が藤堂高虎らの日本水軍を破る。
韓国中部の町アサン(牙山)にオクポ(玉浦)沖の海戦で日本水軍を破った将軍 イ・スンシン(李舜臣 1545-98)の肖像がある。彼は、当時一地方の将軍であった。彼は亀甲船を作り、新しい戦法を考え、戦いを勝利に導いた。
開戦から3ヵ月後、朝鮮と日本の戦局が逆転する戦いが、1592年7月7日のハンザンド(閉山島)沖での海戦、ハンザンド(閉山島)海戦が行われた。朝鮮水軍は侵攻する日本水軍を待ち伏せて、日本水軍を包囲し砲撃した。この戦いで日本水軍は60隻の軍艦を失い、壊滅的な打撃を受けて、制海権を失うことになる。
陸でも地方の勢力によって義兵闘争の反撃が始まる。クァク・ゼウ(郭再祐)は私財を投げ売って民兵を組織化した。多くの犠牲者を出しながらそれでも抵抗する戦いは全国に広がる。イ・スンシンとクァク・ゼウの戦いで、秀吉の軍隊が朝鮮半島随一の穀倉地帯である半島南部のチョルラド(全羅道)に進軍することを防いだ。現地で食料を調達していた日本勢は、この地域に入れなかったので徐々に食料不足になっていった。
明が参戦、日本勢が占拠していたピョンヤン城に攻撃をかける。明は4万の大軍を送り日本勢は不利に立つ。北部の朝鮮勢も参戦する。日本勢は敗走する。明は、抗倭援朝(つまり朝鮮を支援し日本勢と戦う)ために派兵した。しかし、本当の明の目的は、日本勢の明まで侵入を防ぐことであった。つまり明の参戦は自衛のための戦いであったと云える。
イ・スンシンの水軍、クァク・ゼウの義兵闘争と明の参戦で日本勢は敗北して行き、秀吉の唐入りの野望は砕かれる。
朝鮮全土に勢力を拡大した日本は朝鮮人民の反発を受けた。そして、明は自分たちの利益を守るために参戦した。換言すれば、朝鮮半島は中国にとって常に重要な戦略的な位置にあった。そして、朝鮮半島の国際戦略上の重要な位置をめぐって、中国と日本は再び日清戦争でも衝突するのである。つまり、朝鮮はつねに大国の狭間にあって、それら国が引き起こす覇権をめぐる戦争に巻き込まれる運命にあった。
日本に侵略された朝鮮を救うために戦ったイ・スンシン(李舜臣)は、今でも救国の英雄と云われ、韓国の人々の敬愛を集めている。このイ・スンシン(李舜臣)を描いた本があるが、それを北朝鮮拉致被害者の蓮池薫さんが翻訳している。彼は、イ・スンシンについて、非常に人間らしい人であり、常に大国に蹂躙された国を守った英雄のシンポルとして理解している。北朝鮮でもイ・スンシンは英雄であるが、韓国のように評価されていないと彼は語っている。
5、慶長の役(二回目の朝鮮侵略戦争)の勃発と耳塚
1593年5月、名護屋城に明の使節が訪れる。明は平壌での戦いで勝利を得た後、再びハンソンの北部で戦い、こんどは敗北した。明は日本との講和を求めていた。ピョンヤンを奪還(だっかん)した以上、日本が明本国まで侵入する可能性は低いと考え、また明は日本と最後まで戦い戦力を消耗するより、日本と講和を結び、朝鮮を分割する方がいいと考えていた。
講和に際し、秀吉は朝鮮の王子を人質として出すことなどの7つの条件を出した。秀吉は明の支配をあきらめ、朝鮮の南四道の支配を考えた。そして全国の大名に朝鮮半島に築城を命じる。韓国ではこの城を倭城(わじょう)とよんでいる。代表的なものとして加藤清正の出城(でじろ)が有名である。
明との講和交渉の最中でも、日本勢は倭城に駐留し続ける。交渉の場は日本から北京に移ったが、秀吉も明の皇帝万暦帝(まんれきてい)も相手が降伏して交渉を求めたという立場に立っていたので、交渉は進展しなかった。
膠着(こうちゃく)のまま3年を経過した1596年9月、明から使者が名護屋城に訪れた。明の使者は皇帝の勅令(ちょくれい)を携(たずさ)えていた。その皇帝の勅令(ちょくれい)には、秀吉の出した要求にはまったく答えず、秀吉を皇帝より格下の日本王に奉じる(ほうじる、君主が家臣に何かを与えること)と記されていた。また明は朝鮮に築いた城の取り壊しと兵の撤退を要求した。
そのため秀吉は激怒し、朝鮮に再び大軍を送ることを決意し、1597年、14万人の兵で朝鮮半島を再攻撃した。この二回目の朝鮮侵略戦争を慶長の役と呼んでいる。
この慶長の役の目的は、「唐入り」ではなく朝鮮の南四道の支配にあった。そのため、仮道入明(かとにゅうみん)と呼ばれる朝鮮半島を明への道と位置づけていた文禄の役とは異なり、秀吉軍は朝鮮を徹底的に荒廃に導き、人民を殺率する戦術を取った。朝鮮半島での日本兵の行動は非常に残虐なものとなった。それを代表するものが「鼻切(はなきり)」であった。京都東山の方広寺(ほうこじ)には朝鮮征伐で戦利品として持ち帰った2万人分の耳や鼻が埋葬されている。
6、イムジンウェランの影響、東アジアの政治体制の変遷
イ・スンシン(李舜臣)は慶長の役、二回目の朝鮮侵略の時も果敢に戦った。1597年9月、イ・スンシンはチョルラド(全羅道)の潮の流れが速いミョンリャン(鳴梁)で日本海軍と戦う。ミョンリャン海戦でイ・スンシンは勝利した。それを支えたのはこぎ手の役割であった。
こぎ手は海の民や日本の兵で朝鮮に投降した兵、降倭(こうわ)がいた。長期化する戦争に疑問を持った日本の兵士が朝鮮に投降し降倭(こうわ)となり朝鮮海軍のこぎ手になった。
ウルサン城の攻防戦、退路を立たれた日本勢の凄惨(せいさん)で悲惨な戦いが続く。
この戦いについて、秀吉は明が使節を送ってたきので、勝ち戦と思っており、領土と人質を求めることを条件に入れた勝ち戦のとしての講和を結ぼうとした。つまり、まったく秀吉は状況を理解していなかったのである。
慶長の役は、南四道を支配するための戦いであったので、地域の指導者や民衆を虐殺した。そのため、耳きり鼻切を行った。それが朝鮮民衆の心の中に怨恨が入り込むことになる。このイムジンウェランの記憶は今日まで韓国、朝鮮民衆の心に残る。
その後、秀吉は死去する。日本勢は秀吉の死を隠して撤退を始めた。朝鮮軍と明軍は日本軍を追撃した。イ・スンシンはその戦いで戦死する。膨大な戦費と使ったことで豊臣政権は崩壊、戦場となった朝鮮は荒廃する。また多くの朝鮮人、特に高度な知識を持った人が拉致(強制的に日本に連れてこられる)された。これらの人々(被慮人 ひりょにん)の中には、儒学者などもいた。多くの被慮人は肉体労働をして日本で一生を終えた。
江戸時代になって、朝鮮王朝は日本(徳川幕府)と講和を結び、被慮人を連れ戻そうとして朝鮮通信使が派遣する。しかし、朝鮮王国はそれらの被慮人を帰国させはしたものの、彼らの面倒を見ることはなかった。イムジンウェランは5万から20万と云われる朝鮮の人々の人生を翻弄(ほんろう おもいのままもてあそぶこと)し、被慮人として異国の地で生涯を終える運命を与えた。
イムジンウェランで戦いに参加した明は国力を落とし、北方の満州族の後金の侵略を受け、満州族の後金が清王朝となり、明は1644年滅亡した。
また、日本では豊臣政権が崩壊、朝鮮では朝鮮王国が弱体し中国では明が崩壊し清が成立した。東アジア国際戦争に発展したイムジンウェランは東アジア全体の政治体制を変えることになったのであった。この戦いは、結局は莫大な被害を及ぼした勝者なき戦いであったと云われている。
つまり、イムジンウェランは日本の文化にも大きな影響を与えた。朝鮮半島から被慮人を連れてきたことで、新しい文化や技術が伝わった。例えば、有田焼や薩摩焼を含め、朝鮮半島から磁器の技術が伝わった。慣れない土地に連れてこられた朝鮮の陶工たちは、有田に磁器の焼きものできる土をみつけ、そして現代にまで続く有田焼の伝統陶芸を作ってきたのである。
参考資料
1、 南北朝とは、 1331年から1392年まで、天皇家が室町幕府・足利尊氏に支援された光明天皇北朝と鎌倉幕府の支援する光厳天皇(こうげんてんのう)の南朝(現在の京都以南にあった大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)に分裂した時代を意味する。
2、 朝貢(ちょうこう)とは、前近代の中国を中心とした貿易の形態で、中国の皇帝に対して周辺国の君主が進貢(しんこう 貢物を捧げること)し、これを皇帝は入貢し(にゅうこう 貢物を受け取ること)、その進貢(しんこう)に対して中国の皇帝側が恩賜(おんし)を与える形式を持って成立していた。(Wikipedea http://ja.wikipedia.org/wik )
3、 文禄・慶長の役 ( Wikipedea 資料参考 )
----------------------------------------------------------------------------------------------------
ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」
5. 日韓関係
5-1、NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」 イムジンウェラン 文禄・慶長の役のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6656.html
5-2、NHK 朝鮮半島と日本 「倭寇(わこう)の実像を探る 東シナ海の光と影」のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_2310.html
5-3、NHK EV特集 「元寇蒙古襲来 三別抄と鎌倉幕府」の映像資料のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6943.html
5-4、姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』プロローグのテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_29.html
5-5、東アジア共同体構想の展開を進める日韓関係の強化
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_12.html
豊臣秀吉の朝鮮侵略、東アジア国際戦争
司会 NHK 司会者 三宅民夫
レポーター 女優 大桃美代子
ゲスト
九州大学大学院教授 中野等
ソガン(西江)大学校教授 チョン・ドゥフイ
1、戦国時代と東アジア国際戦争の勃発
日本では、1392年の南北朝の合体から1467年の応仁の乱から戦国時代が始まる。朝鮮半島では、1392年に高麗が滅亡し朝鮮が建国した。中国では1368年元が滅び、明が建国した。その明にたいして朝鮮は「朝貢(ちょうこう)関係 」を結ぶ。事実上、朝鮮は明の属国となっていた。
1590年、豊臣秀吉が天下を統一し、長い戦乱の続いた戦国時代を終えた。そしてその2年後の1892年から1598年に豊臣秀吉は文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役、朝鮮征伐(朝鮮侵略)をおこなう。この文禄・慶長の役を朝鮮では壬辰倭乱(イムジンウェラン)と呼んでいる。
このイムジンウェラン(文禄・慶長の役)は、日本(豊臣秀吉政権)と明および朝鮮との間で行われた国際戦争である。秀吉は小田原城の北条氏を降伏させ天下統一を成し遂げた1590年から2年後の1592年から1593年に朝鮮半島に兵を送った。これを文禄の役と呼んでいる。また、朝鮮半島との戦争を一時休戦し、再び1597年から1598年まで朝鮮へ出兵し戦争を行った。これを慶長の役と呼んでいる。一般に、この二つの戦争、朝鮮侵略を文禄・慶長の役と呼ぶ。豊臣秀吉が主導する日本の軍と李氏朝鮮王朝との戦いは明をも巻き込み東アジア全体に広がる国際戦争となった。
2、秀吉の朝鮮侵略の爪あと 今でも残るイムジュンウェランの遺跡
1592年に肥前名護屋城(なごやじょう 現在の佐賀県唐津市にあった城で、豊臣秀吉が文禄・慶長の役に際して築城したもの)から15万人以上の兵士がプサン(釜山)に上陸し朝鮮半島に渡る。この戦いは日本と朝鮮半島の歴史に大きな傷跡を残すことになる。
1592年4月13日、秀吉の軍隊1万2千人がプサン城を襲う。僅か(わずか)半日の戦いでプサン城は陥落(かんらく)した。朝鮮側の死者はおよそ3千人と伝えられている。その後、秀吉はこの地域の行政の中心である東菜(トンネ)に兵を移動する。数千名が命を落としたといわれるトンネ城の戦いの絵巻物、イムジンウェランの遺跡や記録がプサン博物館に残っている。また、トンネ(東菜)一帯で地下鉄の工事が行われたとき、トンネ城の戦いの遺跡が発掘された。日本側の圧倒ぶりを示すかのように、発掘されたのはほとんどが敗れた朝鮮人の刀や甲冑(かっちゅう)であった。
また、多くの人骨が発掘され、女性や子供までが戦争の犠牲になっていた。秀吉軍は残虐な行為をすることで倭軍の恐ろしさをアピールしたのではないかと言われている。また、トンネの街中にこの戦い(トンネ城の戦い)を弔う(とむらう)墓所(ぼしょ)が町のいたるところにある。つまり今でも、トンネ城の戦い、イムジンウェランはプサンの人々に日常的に語り継がれているのである。
3、秀吉の野望の背景と敗北した朝鮮の原因
秀吉は唐入りの野望を語る。つまり、天皇を北京に移し、中国皇帝にする野望を持っていた。
戦争が始まる一年前、1591年、九州を中心とする西国の大名に号令を掛け、肥前名護屋に城(名護屋城 17万平方メートル以上で大阪城に次ぐ規模を誇る)を築城させた。築城は5ヶ月ほどの猛スピードで行われた。城の周辺には諸大名の陣屋(じんや)も建てられていた。そして、町人なども集まり、人口20万人ほどの城下町が突然として現れた。
秀吉はこの名護屋城を軍事拠点として彼の軍事目標を「唐入り」と称した。つまり、秀吉は中国、明の征服を目指していた。そのためには朝鮮半島を通る必要があり、秀吉の命を受けて対馬藩主は朝鮮王朝に明への軍隊を送るための道を開けること、仮道入明(かとにゅうみん)を要求した。しかし、朝鮮の国王から拒否される。そこで秀吉は朝鮮に兵を送ることを決断する。まず、朝鮮を征服し、そこを拠点にして明の征服を試みた。
この朝鮮への進軍の理由は三つあったといわれている。一つ目は、君主織田信長の遺志を継いでという説、二つ目は戦国時代に武士や足軽の人数が過剰になり将来の内乱や反乱の要因になることを避けるためという説、三つ目は国内の統一戦争の延長として朝鮮半島を征服しにいったという説である。
この侵略戦争の背景には、豊臣政権自体の問題があった。豊臣政権は、豊臣家臣の家禄(かろく)を増やすために新しい領土を広げなければならなかった課題を抱えていた。戦国時代の大名は、常に戦争をし、領地を拡大し、手柄のあった家臣(かしん)には給与として領地を与える知行(ちぎょう)という制度があった。そのため、つねに領地拡大のための戦争が必要であった。日本の国内を統一し家臣に領土を与える知行では不十分となってくる。そこで、戦争体制を外に向けることで、明を征服し、アジアを支配し、家臣たちに多くの知行地を与える(広い領地をあたえる)ことを考えた。
それだけでなく、当時ヨーロッパの大航海時代の影響もあった。この大航海時代に影響され武器が変化した。つまり今までの武器に代わって鉄砲が用いられた。日本は戦国時代に鉄砲を自ら生産し、またそれを使った戦法を活用した。
もう一つの理由は、世界観の変化にある。大航海時代の影響を受け、これまであった中国、インドと日本(三国)の世界観、中華世界観から、それ以外の世界が存在するという考え方が入ってくる。つまり、欧州勢力の出現によって中国の地位が相対的に弱体化した。
秀吉は中国皇帝の出生伝説に習い自らを日輪の子(太陽の子)と称し、つまりアジア、大陸の覇者となることを宣言し、例えば高山国と呼ばれていた当時の台湾に日本への従属を求める書簡を送るなどして、周辺国家に従属を要求した。
名護屋城から対馬が見える。その朝鮮侵略の拠点となる対馬から朝鮮半島までは僅か(わずか)50kmである。多くの日本兵が対馬を経由してプサンに渡った。プサンでの戦いから3週間後、一気に北上し朝鮮王朝の都、現在のソウルになる、ハンソン(漢城)を征服する。
日本の勢力がハンソンに迫ると国王は都から脱出した。ハンソンの民衆は取り残され、絶望した。そして朝鮮は明に援軍を求めたが、明はわずか一ヶ月で日本が都まで攻め入るということを信じず、動かなかった。
当時の朝鮮は建国から200年、平和が続いたため、官僚の腐敗も進み、軍事力は弱体化し日本への防衛も後手に回った。そして、朝鮮は戦国時代を経て日本が変化していった実態を把握していなかった。つまり戦国時代の日本は混沌とし、そのエネルギーが一旦朝鮮に向かうとどうなるか予想できなかった。
1402年、朝鮮の支配者たちの作った地図からは、当時の朝鮮では、日本は殆ど無視、小さな国として理解されていた。つまり、中国を中心とする中華圏にも属さない国として扱っていた。つまり国として観ていなかった。
秀吉の地図から、周辺の国王も戦国代大名のように扱っていた。例えば、対馬藩を通じて朝鮮王朝に対して、日本の朝廷に参内(さんだい 宮中に参上(さんじょう)すること)つまり日本の天皇に朝鮮の国王が訪問し頭を下げることを要求している。つまり、朝鮮国王に対して、国内の戦国大名に対するのと同じような要求を突きつけたのである。
この戦争の影響は大きい。当時の儒教思想に土台をおく中国的世界秩序の崩壊が生じる。朝鮮半島は中国と許可なく外国との交渉はできなかったが、その後は、朝鮮は独自の外交が可能になった。それの例が朝鮮通信使であった。
4、朝鮮の反撃と明の参戦 秀吉の朝鮮侵略戦争の失敗
ハンソンから日本勢はピョウンヤン(平壌)に侵攻する。しかし一方、朝鮮半島南部で反撃が始まる。1592年7月のオクポ(玉浦)沖の海戦で朝鮮水軍が藤堂高虎らの日本水軍を破る。
韓国中部の町アサン(牙山)にオクポ(玉浦)沖の海戦で日本水軍を破った将軍 イ・スンシン(李舜臣 1545-98)の肖像がある。彼は、当時一地方の将軍であった。彼は亀甲船を作り、新しい戦法を考え、戦いを勝利に導いた。
開戦から3ヵ月後、朝鮮と日本の戦局が逆転する戦いが、1592年7月7日のハンザンド(閉山島)沖での海戦、ハンザンド(閉山島)海戦が行われた。朝鮮水軍は侵攻する日本水軍を待ち伏せて、日本水軍を包囲し砲撃した。この戦いで日本水軍は60隻の軍艦を失い、壊滅的な打撃を受けて、制海権を失うことになる。
陸でも地方の勢力によって義兵闘争の反撃が始まる。クァク・ゼウ(郭再祐)は私財を投げ売って民兵を組織化した。多くの犠牲者を出しながらそれでも抵抗する戦いは全国に広がる。イ・スンシンとクァク・ゼウの戦いで、秀吉の軍隊が朝鮮半島随一の穀倉地帯である半島南部のチョルラド(全羅道)に進軍することを防いだ。現地で食料を調達していた日本勢は、この地域に入れなかったので徐々に食料不足になっていった。
明が参戦、日本勢が占拠していたピョンヤン城に攻撃をかける。明は4万の大軍を送り日本勢は不利に立つ。北部の朝鮮勢も参戦する。日本勢は敗走する。明は、抗倭援朝(つまり朝鮮を支援し日本勢と戦う)ために派兵した。しかし、本当の明の目的は、日本勢の明まで侵入を防ぐことであった。つまり明の参戦は自衛のための戦いであったと云える。
イ・スンシンの水軍、クァク・ゼウの義兵闘争と明の参戦で日本勢は敗北して行き、秀吉の唐入りの野望は砕かれる。
朝鮮全土に勢力を拡大した日本は朝鮮人民の反発を受けた。そして、明は自分たちの利益を守るために参戦した。換言すれば、朝鮮半島は中国にとって常に重要な戦略的な位置にあった。そして、朝鮮半島の国際戦略上の重要な位置をめぐって、中国と日本は再び日清戦争でも衝突するのである。つまり、朝鮮はつねに大国の狭間にあって、それら国が引き起こす覇権をめぐる戦争に巻き込まれる運命にあった。
日本に侵略された朝鮮を救うために戦ったイ・スンシン(李舜臣)は、今でも救国の英雄と云われ、韓国の人々の敬愛を集めている。このイ・スンシン(李舜臣)を描いた本があるが、それを北朝鮮拉致被害者の蓮池薫さんが翻訳している。彼は、イ・スンシンについて、非常に人間らしい人であり、常に大国に蹂躙された国を守った英雄のシンポルとして理解している。北朝鮮でもイ・スンシンは英雄であるが、韓国のように評価されていないと彼は語っている。
5、慶長の役(二回目の朝鮮侵略戦争)の勃発と耳塚
1593年5月、名護屋城に明の使節が訪れる。明は平壌での戦いで勝利を得た後、再びハンソンの北部で戦い、こんどは敗北した。明は日本との講和を求めていた。ピョンヤンを奪還(だっかん)した以上、日本が明本国まで侵入する可能性は低いと考え、また明は日本と最後まで戦い戦力を消耗するより、日本と講和を結び、朝鮮を分割する方がいいと考えていた。
講和に際し、秀吉は朝鮮の王子を人質として出すことなどの7つの条件を出した。秀吉は明の支配をあきらめ、朝鮮の南四道の支配を考えた。そして全国の大名に朝鮮半島に築城を命じる。韓国ではこの城を倭城(わじょう)とよんでいる。代表的なものとして加藤清正の出城(でじろ)が有名である。
明との講和交渉の最中でも、日本勢は倭城に駐留し続ける。交渉の場は日本から北京に移ったが、秀吉も明の皇帝万暦帝(まんれきてい)も相手が降伏して交渉を求めたという立場に立っていたので、交渉は進展しなかった。
膠着(こうちゃく)のまま3年を経過した1596年9月、明から使者が名護屋城に訪れた。明の使者は皇帝の勅令(ちょくれい)を携(たずさ)えていた。その皇帝の勅令(ちょくれい)には、秀吉の出した要求にはまったく答えず、秀吉を皇帝より格下の日本王に奉じる(ほうじる、君主が家臣に何かを与えること)と記されていた。また明は朝鮮に築いた城の取り壊しと兵の撤退を要求した。
そのため秀吉は激怒し、朝鮮に再び大軍を送ることを決意し、1597年、14万人の兵で朝鮮半島を再攻撃した。この二回目の朝鮮侵略戦争を慶長の役と呼んでいる。
この慶長の役の目的は、「唐入り」ではなく朝鮮の南四道の支配にあった。そのため、仮道入明(かとにゅうみん)と呼ばれる朝鮮半島を明への道と位置づけていた文禄の役とは異なり、秀吉軍は朝鮮を徹底的に荒廃に導き、人民を殺率する戦術を取った。朝鮮半島での日本兵の行動は非常に残虐なものとなった。それを代表するものが「鼻切(はなきり)」であった。京都東山の方広寺(ほうこじ)には朝鮮征伐で戦利品として持ち帰った2万人分の耳や鼻が埋葬されている。
6、イムジンウェランの影響、東アジアの政治体制の変遷
イ・スンシン(李舜臣)は慶長の役、二回目の朝鮮侵略の時も果敢に戦った。1597年9月、イ・スンシンはチョルラド(全羅道)の潮の流れが速いミョンリャン(鳴梁)で日本海軍と戦う。ミョンリャン海戦でイ・スンシンは勝利した。それを支えたのはこぎ手の役割であった。
こぎ手は海の民や日本の兵で朝鮮に投降した兵、降倭(こうわ)がいた。長期化する戦争に疑問を持った日本の兵士が朝鮮に投降し降倭(こうわ)となり朝鮮海軍のこぎ手になった。
ウルサン城の攻防戦、退路を立たれた日本勢の凄惨(せいさん)で悲惨な戦いが続く。
この戦いについて、秀吉は明が使節を送ってたきので、勝ち戦と思っており、領土と人質を求めることを条件に入れた勝ち戦のとしての講和を結ぼうとした。つまり、まったく秀吉は状況を理解していなかったのである。
慶長の役は、南四道を支配するための戦いであったので、地域の指導者や民衆を虐殺した。そのため、耳きり鼻切を行った。それが朝鮮民衆の心の中に怨恨が入り込むことになる。このイムジンウェランの記憶は今日まで韓国、朝鮮民衆の心に残る。
その後、秀吉は死去する。日本勢は秀吉の死を隠して撤退を始めた。朝鮮軍と明軍は日本軍を追撃した。イ・スンシンはその戦いで戦死する。膨大な戦費と使ったことで豊臣政権は崩壊、戦場となった朝鮮は荒廃する。また多くの朝鮮人、特に高度な知識を持った人が拉致(強制的に日本に連れてこられる)された。これらの人々(被慮人 ひりょにん)の中には、儒学者などもいた。多くの被慮人は肉体労働をして日本で一生を終えた。
江戸時代になって、朝鮮王朝は日本(徳川幕府)と講和を結び、被慮人を連れ戻そうとして朝鮮通信使が派遣する。しかし、朝鮮王国はそれらの被慮人を帰国させはしたものの、彼らの面倒を見ることはなかった。イムジンウェランは5万から20万と云われる朝鮮の人々の人生を翻弄(ほんろう おもいのままもてあそぶこと)し、被慮人として異国の地で生涯を終える運命を与えた。
イムジンウェランで戦いに参加した明は国力を落とし、北方の満州族の後金の侵略を受け、満州族の後金が清王朝となり、明は1644年滅亡した。
また、日本では豊臣政権が崩壊、朝鮮では朝鮮王国が弱体し中国では明が崩壊し清が成立した。東アジア国際戦争に発展したイムジンウェランは東アジア全体の政治体制を変えることになったのであった。この戦いは、結局は莫大な被害を及ぼした勝者なき戦いであったと云われている。
つまり、イムジンウェランは日本の文化にも大きな影響を与えた。朝鮮半島から被慮人を連れてきたことで、新しい文化や技術が伝わった。例えば、有田焼や薩摩焼を含め、朝鮮半島から磁器の技術が伝わった。慣れない土地に連れてこられた朝鮮の陶工たちは、有田に磁器の焼きものできる土をみつけ、そして現代にまで続く有田焼の伝統陶芸を作ってきたのである。
参考資料
1、 南北朝とは、 1331年から1392年まで、天皇家が室町幕府・足利尊氏に支援された光明天皇北朝と鎌倉幕府の支援する光厳天皇(こうげんてんのう)の南朝(現在の京都以南にあった大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)に分裂した時代を意味する。
2、 朝貢(ちょうこう)とは、前近代の中国を中心とした貿易の形態で、中国の皇帝に対して周辺国の君主が進貢(しんこう 貢物を捧げること)し、これを皇帝は入貢し(にゅうこう 貢物を受け取ること)、その進貢(しんこう)に対して中国の皇帝側が恩賜(おんし)を与える形式を持って成立していた。(Wikipedea http://ja.wikipedia.org/wik )
3、 文禄・慶長の役 ( Wikipedea 資料参考 )
----------------------------------------------------------------------------------------------------
ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」
5. 日韓関係
5-1、NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」 イムジンウェラン 文禄・慶長の役のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6656.html
5-2、NHK 朝鮮半島と日本 「倭寇(わこう)の実像を探る 東シナ海の光と影」のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_2310.html
5-3、NHK EV特集 「元寇蒙古襲来 三別抄と鎌倉幕府」の映像資料のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6943.html
5-4、姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』プロローグのテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_29.html
5-5、東アジア共同体構想の展開を進める日韓関係の強化
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_12.html
NHK 朝鮮半島と日本 「倭寇(わこう)の実像を探る 東シナ海の光と影」のテキスト批評
三石博行
資料
NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」(6)「倭寇(わこう)の実像を探る。東シナ海の光と影」の映像 2009年に放映された資料
司会 三宅民夫
レポーター ユンソナ
ゲスト 村井章介(しょうすけ) 東京大学教授
キム・ムンギョン スンシル(宗実)大学名誉教授
A 資料の要約
11世紀から14世紀の東アジアで盛んになる民間人の交易活動
新安沖の沈没船遺跡から見えて来た東アジアの交易活動
842年に遣唐使が停止して以来、日本は、明と国交を回復するまで約500年にわたって中国と国交を開いていなかった。その間、鎌倉時代に2度にわたって、蒙古(元)の襲来を受けた。一回目は1274年、二回目は1281年である。
日本と中国の間に正式な国交のない時代、そして二回に及ぶ蒙古襲来の時代に、日本、朝鮮と中国との間で民間人による盛んな貿易が行われていたことが、近年、解って来た。
韓国中西部に位置するテアン半島、そこの遺跡(沈没船)の発掘で、海底の泥の中から12世紀から13世紀の沈没船の遺物(青磁や白磁)が発掘される。韓国の国立海洋文化研究所のムン・ファンソク氏を中心として発掘が進んでいる。研究所のチームによって発掘された磁器は11世紀から17世紀のもので、朝鮮半島や宋、元、清の時代の中国で作られたものであった。そのことから、この地域が中国と朝鮮の貿易船の経由ルートであると判明した。
韓国南西部のモクポにある国立海洋文化財研究所に、新安沖で8年掛けて発掘した交易船の遺物が保管されている。この交易船は東シナ海で貿易を営んでいた商人たちが使っていたものである。全長34m幅8mを超える巨大な交易船は、14世紀の元の時代に中国で製造されたもので、遠洋航海に最適なV字型の船底をしていた。この船には磁器が2万3千点積まれていた。その中に素晴らしい磁器や青銅製品(青銅獅子形香炉)があった。
そしてまた、これらの荷物は慶元 (けいげん)現在の中国の寧波(ねんぱう、ねいは)から積まれたものであることが分かった。
さらに驚くことに、その中には、日本、京都の東福寺への荷物があった。1323年の木簡(もっかん、古代社会で使われていたもので、薄い木の板に文字が書かれている札)から船が出港した年も判明した。
東福寺の開山忌(かいざんき 寺を開いた僧侶たちの供養)の時にだけ開示される什宝(じゅうほう 家の宝として秘蔵されている器物 )の「八卦の香炉」(はっけのこうろ)と呼ばれる青磁がある。この八卦の香炉は中国元の時代に作られたもので、新安沖(しんあんおき)で引き上げられた遺跡とそのデザインはよく似ている。
この事実から、1319年、沈没船が就航した四年前、東福寺は火災に遭い、その再建費用を賄(まかな)う為(ため)に、中国で品物を仕入れて、日本で売ろうとしていたということが分かった。
また、当時日本人しか履かない下駄や日本人の遊び道具であった将棋の駒が、この沈没船から発見されている。つまり、日本人がこの船に乗っていて、日本に荷物を運んでいたことが判明した。
さらに、28トンもの中国の銅銭が積まれており、当時の日本では、これらの中国の銅銭が貨幣として使われており、経済の根幹を支えていた。つまり、この難破船は中国から日本に荷物を運ぶために運行されていたのではないかと推察されている。
交易活動で活躍していた人々の姿
11世紀以降、中国(宋、元)、朝鮮半島(高麗)と日本では多様な航海航路が開発され、交易が盛んに行われていた。日本の玄関口になったのは博多であった。福岡市埋蔵文化財センターには、博多で発掘された中国から運ばれた遺物が多数保管されている。出土品の中には元のものもあり、二度の蒙古襲来があり、元との外交関係が中断したにもかかわらず、民間人の間で盛んに交易が行われていたことを物語っている。
また、博多でも韓国のテアン半島で発見された遺物と同じものが2千点以上発掘されている。つまり、東シナ海を股に掛けて中国(元)、朝鮮半島(高麗)、そして日本で交易を行っていた国際的な商人も居たことを示している。つまり、倭寇が出没するようになった以前の東シナ海は民間貿易の盛んに行われていた地域であった。
この時代、海のシルクロードと呼ばれる航海航路が日本、朝鮮半島、中国、さらにはインドシナ半島を経て、インドからアラビア半島まで続いていたと謂(い)われていた。この航路は陶磁器が主要な商品であったことからセラミックロードとも呼ばれていた。
村井章介教授の解釈によると、当時、11世紀から14世紀、日本は主に砂金、水銀や武具(鎧や刀)を輸出し、主に陶磁器と銭を輸入していた。中国との大規模な交易は中国と日本を直行便で結び、小規模な交易では朝鮮半島を経由して行われていたといわれている。
高麗と日本との交易航路は、都、ケギョン(開京)に近い港から、朝鮮半島の西海岸を南に下り、朝鮮半島の南を回り、プサン(釜山)を出て、対馬を経て、九州に渡るルートが一般的だったと考えられている。
9世紀のはじめ朝鮮ではチャンボゴという有名な交易商人がいた。この時代活躍した交易商人は、もともと商売をしていた人でなく、平民や被差別民で新たに商人になった人々も居た。チャンボゴも被差別民階級の出身者であった。彼らは中国や日本と交易しながら莫大な富を蓄積し、中国に進出してきたイスラム商人たちとも交易をしていた。
日本では、当時使っていた船の様式が中国式で中国南部の木材を材料として使っていたので、船の所有者は中国人であったと解釈されている。船には日本人の乗組員がいた。交易でやってきた中国船に博多で雇われた日本人が乗り込んでいたと考えられる。
倭寇の起源とその正体
倭寇の出没によって疲弊する高麗
民間人による交易が盛んになる一方で、その影の部分とも言える倭寇(倭の国の盗賊という意味)が生れていく。倭寇の出現を示す最初の記録は「高麗史」の1223年の資料に倭寇が朝鮮半島の南部(金州)を襲い、船を200隻ほど焼き、女性を略奪したという記載がなされている。その後、倭寇は高麗を頻繁に襲撃し略奪を行っていた。
明を襲った倭寇の姿を中国人が書き残した倭寇図巻(わこうずかん)の資料から、倭寇は海賊として描かれていた。船で襲い、陸に上陸し、民家を襲い放火し、食料、財宝や婦女を略奪していることが描かれている。
九州北部や瀬戸内海からやって来た倭寇は、東シナ海を荒らしまわり、朝鮮半島を頻繁に襲った。時には数百隻の船団で高麗の沿岸部を襲撃した記録もある。倭寇に襲われた高麗の被害の例として、幾度も倭寇に襲われた韓国西海岸に位置する港町のチャンハンでは、海に面した小高い場所に城壁を築き、倭寇の侵略に備えていた。この城壁は倭寇の襲来が頻繁であった高麗末期に造られた。
当時(高麗末期)、高麗はすべての租税は、朝鮮半島の南から西海岸線を通って北の首都に運ばれていた。高麗政府は租税(米)を全国13箇所に集めて、それを北の首都ケジョンに船で運搬していたので、倭寇はその輸送路を狙って出没していた。頻繁な倭寇の略奪のために、沿岸部の農民たちは農地を放棄せざる得ない状態になっていた。山村部に農民が移住し、人々は流浪し、食料が不足し、飢餓が起こり、高麗政府は租税の収入を減らし、そのため高麗政府は疲弊して行った。
南北朝の戦乱と倭寇の出現
高麗の各地に爪あとを残した倭寇、彼らは九州の各地からやって来たと言われている。高麗を襲っていた倭寇の根拠地である長崎県対馬は韓国まで僅か50キロメートルの距離にある島である。九割が山地で、リアス式海岸に囲まれて、複雑に入り組んだ入り江をもつ対馬の地形は、海賊のアジトとしては絶好の場所であった。鎌倉時代、対馬は壱岐や松浦と共に倭寇の本拠地の一つであった。対馬では米の自給自足は不可能であり、食料の多くを島の外に依存していた。
倭寇の首領の子孫、早田(そうだ)さんの家には代々伝わる鎧冑(よろいかぶと)や日本刀が残されていた。倭寇は略奪行為のみをしていた海賊であったというだけでなく、水軍と貿易商人の面もあった。水崎(みずさき)遺跡から、倭寇が使っていた建物の跡が見つかり、その遺跡から数々の遺物が発掘され、高麗青磁や李朝の白磁等が大量に見つかった。
出土品の多くは14世紀から15世紀のものである。それらは非常に広いアジアの地域、例えばベトナム、タイなどの東南アジアで作られたもの、朝鮮半島で装身具として使われていた宝石、モンゴル帝国の文字の刻まれた銅銭(大元通宝)が発掘された。この膨大な遺物は、対馬の民がアジア全域と交易をしていたことの証である。またそのことから、彼らの活動範囲、活動力のすごさが理解できるのである。
対馬で最も大きな入り江、浅茅湾(あそうわん)は朝鮮半島を向いて開いている。この湾を出ると、すごい勢いで対馬海流が流れている。その流れを使って、倭寇たちは朝鮮半島、中国沿岸から東南アジアに向かった。
対馬の民たちはもともと交易を行っていたが、ある時期を経て倭寇としての活動が急激に増えた。高麗の資料から調べると、朝鮮半島を襲った倭寇は1350年から急激に増えたことが判明した。この時期の日本の歴史を振り返ってみる。1350年の日本は南北朝時代の真最中で、60年近い騒乱が続いており、日本が政治的軍事的に混乱した時代であった。南北朝の動乱で国が乱れた時代と倭寇が活発化する時期は一致する。特に九州では戦乱が多かった。
戦乱が起きることで、すぐに武力に訴える行為が安易に生じ、日本国内に武力紛争が頻発し、食料の供給ルートが絶たれ食料不足が起こり、庶民は生活の糧を失った。戦乱と食糧危機は常に密接な関係にある。対馬のように食料を外部に頼っていた人々は戦乱の結果、即食糧危機に襲われることになる。それらの人々が倭寇となり、目と鼻の先にある食料の倉庫、朝鮮半島に目を付けて襲うことになる。
境界人としての対馬の民、交易商人としての倭寇の姿
倭寇は略奪をしていた人々という側面だけでなく、交易商人や水軍の側面があった。このことから、対馬の人々を単純に倭寇、つまり倭(日本)の寇(盗賊)と意味する呼び方だけでなく、「境界人」と呼ぶことはできないかと村井教授は指摘する。つまり、対馬の人々は日本と朝鮮半島の狭間(はざま)に住んでいる。その狭間、その空間を生きる人々として様々な生活様式を持っていた。例えば魚を取って、それを両方の国に持っていって売るとか、品物のやり取り、交易をするなどの二つの国の境界領域の空間で生きていた。対馬の人々は朝鮮とも日本とも交易を行っていた。
しかし、ある条件で交易をしていた人々が、略奪に走ることも生じる。例えば、朝鮮半島に交易に行っていても十分な利益を得られない状態になる場合など、この境界人たちが通常の生活で生きることが出来なくなった場合に、彼らが倭寇化する場合が生じるとも言える。つまり、対馬の民が高麗と今までのような交易が出来なくなった場合に、彼らが倭寇に変身していったということが言える。
当時の高麗の国内事情は、北からモンゴル帝国の侵略を受け、政治的にその支配化にあった。また、モンゴルによる二度の日本出兵、元寇によって高麗は多くの出費をし、国は非常に疲弊していた。高麗は、沿岸の人々を内陸に移し、また島から村民を移し無人島化したこともあったが、積極的に有効な倭寇対策を打てなかった。
国際化した倭寇軍団と高麗の崩壊
倭寇は、次第に勢力を伸ばし、海賊集団として括(くく)れないほど大きな力を持つことになる。高麗史には500隻の大集団で朝鮮半島の西海岸を襲撃した倭寇の記録が残っている。彼らは1600頭の馬を連れていた騎馬軍団であった。彼らは沿岸部から内陸部深くまで侵入した。西海岸からおよそ100km内部の町ナンオン(南原)まで倭寇の侵入が続いた。そこで倭寇と高麗との最大の戦い、上陸後騎馬軍団に姿を変えた倭寇とそれと戦うために高麗政府から送られた将軍イ・ソンゲ率いる高麗軍の激戦があった。その跡が血の岩として残っている。その時の倭寇の将軍は若いモンゴルの兵士であったと思われる。
騎馬軍団を率いる倭寇とは、対馬などの海で活動する人々では組織不可能である。ここから済州島(チェジュド)でのモンゴル帝国支配の歴史が倭寇に与えた影響が浮かび上がる。高麗は100年間モンゴル帝国(元)の支配を受けていた。済州島(チェジュド)にはモンゴル帝国によって軍馬を育てる牧場があった。馬の面倒を見るために多くのモンゴル人が済州島(チェジュド)に移住していた。彼らは牧子(ぼっこ)とよばれ、モンゴル帝国が済州島(チェジュド)から撤退した後も島に残り、そこを拠点に高麗政府に抵抗していた。牧子(ぼっこ)は倭寇と連合して高麗政府と戦った可能性がある。
しかし、日本では元寇の記憶が生々しい時代に日本人とモンゴル人が連合できたのかと疑問が起こる。しかし、海の世界に生きる(移動する)人々は国境、民族は大きな格差ではない。つまり、対馬などの境界人にとっては、そうした元寇に関する平均的な日本人の持つ感覚はない。ある条件が整えれば、それらの境界人たちは違う立場の人々と容易に結びあうことができる。例えば高麗と敵対しているという相互の利益が合致するなら、その利益を求めて対馬の境界人は、済州島のモンゴル人と連合(結託)し高麗と戦うことが出来た。この対馬の民とモンゴル人牧子が倭寇として、朝鮮半島を略奪した可能性は十分あると思われる。
馬を巧みに操るモンゴル人と航海に長けた倭寇の連合軍と戦ったのがイ・ソンゲ将軍であった。激戦の末、イ・ソンゲは戦いに勝つ。そして、イ・ソンゲは倭寇対策を考え、弱体化した高麗を滅ぼし、新たな国・朝鮮を建国した。
倭寇と境界人(境界領域空間の人々)の世界
朝鮮半島の西南部の沿岸地域は潮の干満差が世界的にも大きく、その地形を日本から来た倭寇のみで自由に航行できたは思われない。つまり、それが可能だったのは、朝鮮半島沿岸部の人々、朝鮮半島の沿岸の漁民、つまり高麗人も倭寇に加わり協力していたのではないかと村井教授は指摘する。
しかし、それに対して、キム・ムンギョン スンシル(宗実)大学名誉教授は反論した。例えば、ナンオン(南原)まで侵入した騎馬軍団はモンゴル人でなく、九州の豪族などの兵力だと思われる。また、高麗人が倭寇に協力するとすれば、倭寇に捕らえられ協力させられていたと考えられる。そして、倭寇が内陸部まで侵略できたのは、朝鮮半島の情報を収拾していたためではないかと指摘した。
倭寇を考えるとき、現在の国家観で見ると間違う。つまり、現在の対馬の人は日本人で済州島(チェジュド)の人は韓国人という見方は、近代以降の国家観に基づいて言われることである。当時の生活の実態、言葉、身なり服装など、対馬人と済州島(チェジュド)人は、現代の日本や韓国と比較するなら、多くの共通の要素があったのではと思われる。
対馬人も済州島(チェジュド)人も、日本と高麗という二つの国にも所属さない境界人として存在していたのではないか。現在の我々が思うほどの違いはこの二つの島の人々には存在していなかったのではないだろうかと村井教授は指摘する。そして、境界領域の住人という共通要素で、異なる境界領域の人々が共同して海賊行為を行っていたのではないかという見方も可能である。
また、倭寇に対する現在の歴史解釈では韓国と日本ではかなり異なる。倭寇に襲われていた立場である韓国と倭寇であった側日本では歴史の捉え方が基本的に変わるのは当然である。
そして、大軍事集団となった倭寇によって朝鮮半島は変わっていった。倭寇による被害で高麗は滅びた。倭寇から国を守るために軍事勢力が生まれ、そこでイ・ソンゲは高麗を滅ぼし朝鮮王国を建国することになる。倭寇の影響を朝鮮半島は深刻に受けた。その理解、つまり倭寇として襲った立場と、倭寇によって襲われた立場では、倭寇に関する歴史の観かたが違うのではないかとキム・ムンギョン教授は述べた。
倭寇を生み、倭寇によって影響された東アジアンの政治
倭寇を防ぐための政治協定や方策
1368年に元が滅びて明が中国に誕生する。1392年に日本では南北朝が統一された。室町幕府の第三代将軍足利義満と明の洪武帝(こうぶてい)は国交を結び交易を始める。光武帝は日本、室町幕府との交易を求め、足利義満は倭寇の取締りを明に約束した。
また、日本で南北朝が統一された1392年に高麗が滅び、朝鮮王朝が成立した。初代国王のイ・ソンゲは日本との交流や交易を進めながら、倭寇の対策に力を注ぐ。イ・ソンゲは室町幕府や九州や対馬の領主に倭寇の取締りを強く要請した。倭寇の本拠地対馬でも倭寇の取り締まりが行われ、1418年までその効果があった。しかし、倭寇取り締まりに積極的だった宗貞茂(むねさだしげ)の死後、再び倭寇の被害が朝鮮半島で起こり始めた。そこで、朝鮮王国第四代国王 世宋大王(せじょんだいおう)による対馬征伐が行われた。朝鮮は1万7千の兵を対馬に送り、倭寇の撲滅を図った。朝鮮軍は倭寇の首領早田氏の根拠地を集中攻撃した。
しかし、その一方で、朝鮮王朝は倭寇に対する懐柔策もとった。それが、倭寇対策として効果を発揮した。つまり、朝鮮王朝は早田氏に国身と呼ばれる辞令書を出し、早田氏に将軍の官職を与え、正式な交易を認めた。その朝鮮王朝の懐柔策によって、早田氏は倭寇の活動から遠ざかっていった。倭寇の朝鮮半島の襲撃は急速に減って行った。正式な交易権を得た対馬の民は再び東シナ海での交易事業を始める。1431年に朝鮮王朝を訪ねた早田六郎次郎は商いの船に琉球国の使節まで乗せていた。琉球から対馬、朝鮮半島につながる広大な東アジア交易ルート、そこで、対馬の民は朝鮮と日本と交易の仲介者としての役割を果たすのである。
font size="4" color=#00008b">政治的軍事的不安定が生み出した倭寇と現代社会
倭寇問題を解決することが東アジアの国際関係にとって最大の課題であった。特に、明はその問題を解決しなければならなかった。明と日本の関係の中で、倭寇の問題は極めて重大な課題であったと村井教授は指摘した。
キム教授は、政治が安定したことで倭寇対策が出来たと述べた。倭寇はアジアにおいて深刻な問題であった。倭寇が与えた重要な役割は、政治的安定ということをアジア諸国の課題にさせたことであった。政治の混乱が海の民に大きな影響を与え、倭寇をつくり、それがまた大きな政治的混乱を生み出した。つまり、日本の国内政治の混乱、高麗の国内政治の混乱が平和に交易をしていた人々に大きな影響を与えた。それが大勢の倭寇を生み出した。
このことは現代の社会に共通する課題を問いかけている。政治的不安定さが大きな問題を引き起こしている。例えば、現代国際社会で複雑だと思われている中東問題やアフガニスタンのような状況を観ると、政治の安定の重要さがわかるとキム教授は述べた。
国際紛争を解決する方法としての境界領域の復権や境界を接する双方の国の努力
同時に、当時の境界人、現代の国境を境にして出来上がっている民族と異なる集団、二つの国の間の境界領域空間で生活している人々、という考え方から、当時は現代と違い、境界領域空間があり、どちらの国にも属さない人々がいた。しかし、近代になり境界は広がりをもった空間から線になり、二つの国のどちらかに属さなければならない状態になっている。そのことを考えてみようと村井教授は述べる。
そこで、二つの領域が境界地の所有をめぐって紛争している場合、近代以降はその解決方法は戦争であった。勝った国がその領域を所有するという選択しかなかった。しかし、これから先、それで紛争が最終的に収まり、問題が解決するだろうかと考えてみる。つまり、これからの時代、国際紛争によって核戦争が誘発される時代に、領土問題を解決しる手段として戦争が現実的な方法であるかを考える必要がある。
そこで、境界人や境界領域空間に関する考え方や、昔の境界を復権できないかということも考えられる。どちらにも属することのない空間、逆に言うとどちらにも属する空間を復権することで、問題を解決できないかと考える。そうすることで、境界を挟んだ両側が色々な事業を興し、双方が結果的に大きな利益が得られるのではないかと村井教授は述べている。
日本と韓国の境界を接する二つの国で考えるべき大切な課題がある。それは、倭寇の問題を平和的に解決しようとした人々が居たことは事実出である。境界を接する人々にとって大切なことは、まず倭寇による被害を受けた人々がいること、また、厳しい貧困によって倭寇が生まれたこと、つまり倭寇にならなければならなかった貧困に苦しんだ人々も居たこと、この両方を含めて方策を考える必要がある。立場の異なる双方で、安定化のための問題解決に挑む必要があるとキム教授は述べた。
テキスト批評(三石):境界人倭寇と東アジア圏の成立(自国に連動する他国の内政問題)
被害を受けた側と被害を与えた側の歴史解釈の違いの相互理解
ETV特集「日本と朝鮮半島」では、毎回、日本と韓国の専門家を呼んで、議論を挟みながら番組を進める。今回も、村井章介東京大学教授とキム・ムンギョン スンシル(宗実)大学名誉教授が番組に招待され、議論を展開した。
二人の専門家の話しから、同じ事件でも韓国と日本では理解の仕方が異なるという印象を受けた。この印象は、今までのこの番組の中でも感じられたのであったが、今回は、村井教授とキム教授の解釈の違いを鮮明に感じた。
前回の「元寇」も、日本側から見た場合と東アジアの他の国々の歴史も入れて解釈した場合では、大きな解釈の違いを感じたが、同様に、倭寇についても「倭寇の被害を受けた国の側」(キム教授の発言)と倭寇として周辺諸国(ここでは特に韓国)を襲った側からみた場合では、倭寇に関する解釈が異なった。
例えば、高麗史に記載してある500隻の大集団で西海岸を襲い、約100km内部のナンオン(南原)まで侵入した倭寇が将軍イ・ソンゲ率いる高麗軍との激戦を行った史実に関する解釈に関して、井村教授は、倭寇は当時高麗と戦っているモンゴル人等と倭人の多国籍軍であったのではと解釈したのに対して、キム教授は、騎馬軍団は九州の豪族であったのではないかと解釈している。
帝国主義の時代、1910年から始まった韓国併合(日韓併合)によって、朝鮮半島は事実上日本の植民地となった。1945年の第二世界大戦の終了まで、朝鮮半島での教育は日本語で行われた。植民地時代を知るキム教授にとって、倭寇の歴史も韓国併合時代と重なるのではないだろうか。
また、近年、前の戦争での戦争犯罪者を戦争犠牲者と共に合祀(ごうし)されている靖国神社で、日本には過去の戦争責任はないという集まりがなされた。また小泉総理大臣が率いる政府閣僚たちの8月15日の参拝に対して、韓国や中国は敏感に対応し、各地で反日デモが起こった。
この反日デモは経済的繋がりがますます深まる中国や韓国と日本との関係にまったく逆行するものであった。そこで、相互の歴史の共同研究に関する企画が提案された。
このNHKの「日本と朝鮮半島」はその企画を生かした番組であったといえる。当然、日本から解釈した東アジアの歴史と韓国からのその解釈は異なる。その違いを明確にしながら、史実を再度掘り返し、解釈し直す作業が行われることになる。そして、今回のように、倭寇に関する解釈の違いが生じることになる。その違いを相互に理解しながら、東アジアの中の日本、朝鮮半島の歴史研究が進むことが、相互理解の第一歩となる。
font size="4" color=#00008b">倭寇を生んだ社会情勢、国際社会の不安定さと境界人たち
元寇は13世紀の東アジアの最大の国際事件であった。海を越え大陸から日本を襲った二回の元寇が物語ることは、モンゴル帝国の発達した兵器、造船技術や航海術であった。それ以来、東アジアの沿岸には、これらの造船技術や航海術が定着したと思われる。そして、東アジアの海を舞台にして交易する人々が生まれたことは、一回目3万と二回目14万とも言われる大海軍を動かした元寇の歴史と切り離して考えるのは不可能である。
朝鮮半島と日本を考えるうえで、五島列島、壱岐、対馬、済州島や韓国沿岸の多くの島々で暮らす人々が、漁業以外に交易や水軍として活躍したことは推測できる。境界人の出現は、彼らがその海の孤島に住んで居たということではない。彼らがその島を根拠地として東アジアの海を舞台にして活躍していたと言う事である。その条件として、彼ら境界人と呼ばれる人々は、航海の技術と船舶を持っていた。航海能力を持ったが故に、境界人となったとも言える。
村井教授は、当時の国と国の間にあった境界領域やそこで暮らす境界人を現在の国家感覚から推測してはならないと述べている。国民国家、つまり国語と憲法をもって成立している近代国家と、封建領主時代の国は、基本的にそのあり方が異なる。対馬の民が日常的にプサン(釜山)に出かけ、交易をしていたとしても、彼らが現在の日本国民と同じような国家意識を持っていたとは思われない。
境界人たちの生活基盤は交易であった。もし、国が乱れ、交易活動が不可能になったなら、もともと食料や生活物資の生産力の少ない島では、飢饉や貧困が急速に進むだろう。そのことは境界人たちが倭寇に変身する契機となる。倭寇の襲撃を頻繁に朝鮮半島が受けた時期、特に1350年から倭寇は急激に増えたが、その年は日本では南北朝時代の真最中で、60年近い騒乱が続いており、日本が政治的軍事的に混乱した時代であった。
キム教授は、この1350年の東アジアでの出来事は現在の国際社会でも共通することで、一般に隣国の政治が乱れる場合、同時にその影響を隣国も受けると述べた。実際、中東、南アジアの例を引くまでもない。このことから、取り分け隣国の政治的不安をよその世界の出来事のように観ることは今の国際社会の関係から不可能である。北朝鮮と韓国の緊張は、そのまま日本や中国の安全の問題となる。そのために、隣国の国際紛争の解決に協力することは、自国の安全にとって大切な課題であると言える。
また、現在のような近代国家の傘の下で守られていない当時の境界人にとって、彼らの生活領域を守り、また彼らの生存を守るためには、境界人間の関係から成立する連合が出来上がっても不思議ではないと村井教授は推測する。倭寇は勢力を伸ばし、巨大の海賊集団となり、朝鮮半島内陸部に騎馬軍団で侵入したのは、当時、済州島で高句麗政府に抵抗していたモンゴル人との連合が可能であったからではないかと村井教授は述べた。
その上で、現代の日本を取り巻く近隣の国々との国境紛争問題、例えば、尖閣列島、竹島問題や北方領土を前提にしながら、国際紛争の解決手段として、以前あった境界領域とそこに住む境界人を現代の社会にも積極的に認める必要があるのではと提案している。国境問題で紛争が起こっている地域に積極的に二つの政府が共同で管理する境界領域を作ることで、現代の国際問題の解決の糸口を見つけられるのではと述べている。この考え方には、大きな可能性があると思われる。つまり、核をはじめとして大量破壊兵器や巨大な破壊力を持つ軍事力によって起こされる戦争を予測して、両方の国が領有権問題を争って失う利益とその領有権を共に管理する(半分の利益しか得られない)ことによって得る利益との比較をする必要がある。
倭寇の歴史を、キム教授も村井教授も、現代の日本と朝鮮半島の国際政治の課題として展開していた。歴史を学ぶということは、史実解釈を現代社会の課題解決の道具として活用することをその究極の課題にする事であるとも言える。
緊迫する東アジアの政治課題、東アジア連合案の展開と国際地域紛争の解決方法
2010年になって、韓国と北朝鮮の間で頻繁に軍事的衝突が発生している。2010年3月26日、黄海上で北朝鮮の魚雷によって韓国軍の哨戒艦「天安」が撃沈され、2010年11月23日に北朝鮮軍による韓国の延坪島(ヨンピョンド)に170発の砲撃がなされ、住宅地域に着弾し民間人2名を含む4名の犠牲者が出た。
中国や韓国の経済的発展と東アジア経済圏の世界的な位置の向上、それによって中国、韓国と日本は共に利益を得ている。良好で緊密な経済的関係が、韓国と北朝鮮の軍事的衝突や日本と中国の領海権問題によって危機に晒されようとしている。この時、私たちは元寇や倭寇の歴史を思い出し、それらの教訓を現在の課題に活かすことが必要になっている。
キム教授の提案、隣国の政治安定のための協力に関しては、日本は日米同盟の立場から韓米同盟への間接的支援を行うことを今回韓米軍事演習で確認し、また韓国も日米軍事演習にオブザーバー参加して相互に日米韓の軍事同盟の連携を図った。しかし、その反面、中国沿岸に接する黄海での軍事訓練や尖閣列島での有事を想定した軍事訓練に対して、中国は不快感を示した。今後の課題は、中国、韓国と日本が共に共同して、東アジアの政治的安定を作り出す努力がさらに検討されなければならないことである。
先ず、中国を必要以上に仮想敵国にしてはならない。つまり、日韓米は中国の政治的立場を理解することが必要である。北朝鮮は中国と外交的に深い関係があり、北朝鮮は中国の援助なくしては今後の国家の運営自体が危機的状況に陥るという状況は否定できない。そのため、中国が北朝鮮との関係を維持することは大切なことであり、北朝鮮で急激な政治的危機が生じることによる東アジアでの政治経済的リスクを計算して、中国の北朝鮮外交を支持しなければならないだろう。その上で、中国と共に北朝鮮の暴走を食い止める政治的交渉が必要となっている。
そこで問題となるのが、日中間の尖閣列島に関する領有権問題である。領有権問題の解決は非常に長い時間が必要となる。その領土上の明らかな解決策は、例えば1982年に勃発したフォークランド島の領土を巡るイギリスとアルゼンチンの戦争のような、局地戦争である。あるインターネットのニュース情報によると、世論調査によると現在の中国人の36パーセントの人が、尖閣列島問題は武力によって解決すべきだと答え、また話し合いによって解決すべきと答えたのが52パーセントであったと言う。これは、尖閣列島問題の展開次第では、予想もできないような日中間の武力紛争に発展する可能性を秘めていると言える。
村井教授の提案は、現実可能かどうか問題だといわれるかもしれないが、領土問題で紛争している二国間に紛争地域を新しく境界領域として位置づけ、双方の国が管理し、国際交易自由地域や関税の自由化を行い、さらに東アジアの経済発展に活用することは出来ないだろうか。例えば、ヨーロッパ連合の形成の段階で紛争地帯であったバスク、コルシカ、北アイルランド、アルザス等々の境界領域をヨーロッパという一つの国の地域として、二つの大きな紛争相手国に対して位置づけることで、問題解決の糸口を見つけたように、東アジア連合という大きな国際地域連合を目指すなら、村井教授の提案は、決して現実不可能なものではないと思われる。
コメント
2010年12月に文章を変更する。
----------------------------------------------------------------------------------------------------
ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」
5. 日韓関係
5-1、NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」 イムジンウェラン 文禄・慶長の役のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6656.html
5-2、NHK 朝鮮半島と日本 「倭寇(わこう)の実像を探る 東シナ海の光と影」のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_2310.html
5-3、NHK EV特集 「元寇蒙古襲来 三別抄と鎌倉幕府」の映像資料のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6943.html
5-4、姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』プロローグのテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_29.html
5-5、東アジア共同体構想の展開を進める日韓関係の強化
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_12.html
資料
NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」(6)「倭寇(わこう)の実像を探る。東シナ海の光と影」の映像 2009年に放映された資料
司会 三宅民夫
レポーター ユンソナ
ゲスト 村井章介(しょうすけ) 東京大学教授
キム・ムンギョン スンシル(宗実)大学名誉教授
A 資料の要約
11世紀から14世紀の東アジアで盛んになる民間人の交易活動
新安沖の沈没船遺跡から見えて来た東アジアの交易活動
842年に遣唐使が停止して以来、日本は、明と国交を回復するまで約500年にわたって中国と国交を開いていなかった。その間、鎌倉時代に2度にわたって、蒙古(元)の襲来を受けた。一回目は1274年、二回目は1281年である。
日本と中国の間に正式な国交のない時代、そして二回に及ぶ蒙古襲来の時代に、日本、朝鮮と中国との間で民間人による盛んな貿易が行われていたことが、近年、解って来た。
韓国中西部に位置するテアン半島、そこの遺跡(沈没船)の発掘で、海底の泥の中から12世紀から13世紀の沈没船の遺物(青磁や白磁)が発掘される。韓国の国立海洋文化研究所のムン・ファンソク氏を中心として発掘が進んでいる。研究所のチームによって発掘された磁器は11世紀から17世紀のもので、朝鮮半島や宋、元、清の時代の中国で作られたものであった。そのことから、この地域が中国と朝鮮の貿易船の経由ルートであると判明した。
韓国南西部のモクポにある国立海洋文化財研究所に、新安沖で8年掛けて発掘した交易船の遺物が保管されている。この交易船は東シナ海で貿易を営んでいた商人たちが使っていたものである。全長34m幅8mを超える巨大な交易船は、14世紀の元の時代に中国で製造されたもので、遠洋航海に最適なV字型の船底をしていた。この船には磁器が2万3千点積まれていた。その中に素晴らしい磁器や青銅製品(青銅獅子形香炉)があった。
そしてまた、これらの荷物は慶元 (けいげん)現在の中国の寧波(ねんぱう、ねいは)から積まれたものであることが分かった。
さらに驚くことに、その中には、日本、京都の東福寺への荷物があった。1323年の木簡(もっかん、古代社会で使われていたもので、薄い木の板に文字が書かれている札)から船が出港した年も判明した。
東福寺の開山忌(かいざんき 寺を開いた僧侶たちの供養)の時にだけ開示される什宝(じゅうほう 家の宝として秘蔵されている器物 )の「八卦の香炉」(はっけのこうろ)と呼ばれる青磁がある。この八卦の香炉は中国元の時代に作られたもので、新安沖(しんあんおき)で引き上げられた遺跡とそのデザインはよく似ている。
この事実から、1319年、沈没船が就航した四年前、東福寺は火災に遭い、その再建費用を賄(まかな)う為(ため)に、中国で品物を仕入れて、日本で売ろうとしていたということが分かった。
また、当時日本人しか履かない下駄や日本人の遊び道具であった将棋の駒が、この沈没船から発見されている。つまり、日本人がこの船に乗っていて、日本に荷物を運んでいたことが判明した。
さらに、28トンもの中国の銅銭が積まれており、当時の日本では、これらの中国の銅銭が貨幣として使われており、経済の根幹を支えていた。つまり、この難破船は中国から日本に荷物を運ぶために運行されていたのではないかと推察されている。
交易活動で活躍していた人々の姿
11世紀以降、中国(宋、元)、朝鮮半島(高麗)と日本では多様な航海航路が開発され、交易が盛んに行われていた。日本の玄関口になったのは博多であった。福岡市埋蔵文化財センターには、博多で発掘された中国から運ばれた遺物が多数保管されている。出土品の中には元のものもあり、二度の蒙古襲来があり、元との外交関係が中断したにもかかわらず、民間人の間で盛んに交易が行われていたことを物語っている。
また、博多でも韓国のテアン半島で発見された遺物と同じものが2千点以上発掘されている。つまり、東シナ海を股に掛けて中国(元)、朝鮮半島(高麗)、そして日本で交易を行っていた国際的な商人も居たことを示している。つまり、倭寇が出没するようになった以前の東シナ海は民間貿易の盛んに行われていた地域であった。
この時代、海のシルクロードと呼ばれる航海航路が日本、朝鮮半島、中国、さらにはインドシナ半島を経て、インドからアラビア半島まで続いていたと謂(い)われていた。この航路は陶磁器が主要な商品であったことからセラミックロードとも呼ばれていた。
村井章介教授の解釈によると、当時、11世紀から14世紀、日本は主に砂金、水銀や武具(鎧や刀)を輸出し、主に陶磁器と銭を輸入していた。中国との大規模な交易は中国と日本を直行便で結び、小規模な交易では朝鮮半島を経由して行われていたといわれている。
高麗と日本との交易航路は、都、ケギョン(開京)に近い港から、朝鮮半島の西海岸を南に下り、朝鮮半島の南を回り、プサン(釜山)を出て、対馬を経て、九州に渡るルートが一般的だったと考えられている。
9世紀のはじめ朝鮮ではチャンボゴという有名な交易商人がいた。この時代活躍した交易商人は、もともと商売をしていた人でなく、平民や被差別民で新たに商人になった人々も居た。チャンボゴも被差別民階級の出身者であった。彼らは中国や日本と交易しながら莫大な富を蓄積し、中国に進出してきたイスラム商人たちとも交易をしていた。
日本では、当時使っていた船の様式が中国式で中国南部の木材を材料として使っていたので、船の所有者は中国人であったと解釈されている。船には日本人の乗組員がいた。交易でやってきた中国船に博多で雇われた日本人が乗り込んでいたと考えられる。
倭寇の起源とその正体
倭寇の出没によって疲弊する高麗
民間人による交易が盛んになる一方で、その影の部分とも言える倭寇(倭の国の盗賊という意味)が生れていく。倭寇の出現を示す最初の記録は「高麗史」の1223年の資料に倭寇が朝鮮半島の南部(金州)を襲い、船を200隻ほど焼き、女性を略奪したという記載がなされている。その後、倭寇は高麗を頻繁に襲撃し略奪を行っていた。
明を襲った倭寇の姿を中国人が書き残した倭寇図巻(わこうずかん)の資料から、倭寇は海賊として描かれていた。船で襲い、陸に上陸し、民家を襲い放火し、食料、財宝や婦女を略奪していることが描かれている。
九州北部や瀬戸内海からやって来た倭寇は、東シナ海を荒らしまわり、朝鮮半島を頻繁に襲った。時には数百隻の船団で高麗の沿岸部を襲撃した記録もある。倭寇に襲われた高麗の被害の例として、幾度も倭寇に襲われた韓国西海岸に位置する港町のチャンハンでは、海に面した小高い場所に城壁を築き、倭寇の侵略に備えていた。この城壁は倭寇の襲来が頻繁であった高麗末期に造られた。
当時(高麗末期)、高麗はすべての租税は、朝鮮半島の南から西海岸線を通って北の首都に運ばれていた。高麗政府は租税(米)を全国13箇所に集めて、それを北の首都ケジョンに船で運搬していたので、倭寇はその輸送路を狙って出没していた。頻繁な倭寇の略奪のために、沿岸部の農民たちは農地を放棄せざる得ない状態になっていた。山村部に農民が移住し、人々は流浪し、食料が不足し、飢餓が起こり、高麗政府は租税の収入を減らし、そのため高麗政府は疲弊して行った。
南北朝の戦乱と倭寇の出現
高麗の各地に爪あとを残した倭寇、彼らは九州の各地からやって来たと言われている。高麗を襲っていた倭寇の根拠地である長崎県対馬は韓国まで僅か50キロメートルの距離にある島である。九割が山地で、リアス式海岸に囲まれて、複雑に入り組んだ入り江をもつ対馬の地形は、海賊のアジトとしては絶好の場所であった。鎌倉時代、対馬は壱岐や松浦と共に倭寇の本拠地の一つであった。対馬では米の自給自足は不可能であり、食料の多くを島の外に依存していた。
倭寇の首領の子孫、早田(そうだ)さんの家には代々伝わる鎧冑(よろいかぶと)や日本刀が残されていた。倭寇は略奪行為のみをしていた海賊であったというだけでなく、水軍と貿易商人の面もあった。水崎(みずさき)遺跡から、倭寇が使っていた建物の跡が見つかり、その遺跡から数々の遺物が発掘され、高麗青磁や李朝の白磁等が大量に見つかった。
出土品の多くは14世紀から15世紀のものである。それらは非常に広いアジアの地域、例えばベトナム、タイなどの東南アジアで作られたもの、朝鮮半島で装身具として使われていた宝石、モンゴル帝国の文字の刻まれた銅銭(大元通宝)が発掘された。この膨大な遺物は、対馬の民がアジア全域と交易をしていたことの証である。またそのことから、彼らの活動範囲、活動力のすごさが理解できるのである。
対馬で最も大きな入り江、浅茅湾(あそうわん)は朝鮮半島を向いて開いている。この湾を出ると、すごい勢いで対馬海流が流れている。その流れを使って、倭寇たちは朝鮮半島、中国沿岸から東南アジアに向かった。
対馬の民たちはもともと交易を行っていたが、ある時期を経て倭寇としての活動が急激に増えた。高麗の資料から調べると、朝鮮半島を襲った倭寇は1350年から急激に増えたことが判明した。この時期の日本の歴史を振り返ってみる。1350年の日本は南北朝時代の真最中で、60年近い騒乱が続いており、日本が政治的軍事的に混乱した時代であった。南北朝の動乱で国が乱れた時代と倭寇が活発化する時期は一致する。特に九州では戦乱が多かった。
戦乱が起きることで、すぐに武力に訴える行為が安易に生じ、日本国内に武力紛争が頻発し、食料の供給ルートが絶たれ食料不足が起こり、庶民は生活の糧を失った。戦乱と食糧危機は常に密接な関係にある。対馬のように食料を外部に頼っていた人々は戦乱の結果、即食糧危機に襲われることになる。それらの人々が倭寇となり、目と鼻の先にある食料の倉庫、朝鮮半島に目を付けて襲うことになる。
境界人としての対馬の民、交易商人としての倭寇の姿
倭寇は略奪をしていた人々という側面だけでなく、交易商人や水軍の側面があった。このことから、対馬の人々を単純に倭寇、つまり倭(日本)の寇(盗賊)と意味する呼び方だけでなく、「境界人」と呼ぶことはできないかと村井教授は指摘する。つまり、対馬の人々は日本と朝鮮半島の狭間(はざま)に住んでいる。その狭間、その空間を生きる人々として様々な生活様式を持っていた。例えば魚を取って、それを両方の国に持っていって売るとか、品物のやり取り、交易をするなどの二つの国の境界領域の空間で生きていた。対馬の人々は朝鮮とも日本とも交易を行っていた。
しかし、ある条件で交易をしていた人々が、略奪に走ることも生じる。例えば、朝鮮半島に交易に行っていても十分な利益を得られない状態になる場合など、この境界人たちが通常の生活で生きることが出来なくなった場合に、彼らが倭寇化する場合が生じるとも言える。つまり、対馬の民が高麗と今までのような交易が出来なくなった場合に、彼らが倭寇に変身していったということが言える。
当時の高麗の国内事情は、北からモンゴル帝国の侵略を受け、政治的にその支配化にあった。また、モンゴルによる二度の日本出兵、元寇によって高麗は多くの出費をし、国は非常に疲弊していた。高麗は、沿岸の人々を内陸に移し、また島から村民を移し無人島化したこともあったが、積極的に有効な倭寇対策を打てなかった。
国際化した倭寇軍団と高麗の崩壊
倭寇は、次第に勢力を伸ばし、海賊集団として括(くく)れないほど大きな力を持つことになる。高麗史には500隻の大集団で朝鮮半島の西海岸を襲撃した倭寇の記録が残っている。彼らは1600頭の馬を連れていた騎馬軍団であった。彼らは沿岸部から内陸部深くまで侵入した。西海岸からおよそ100km内部の町ナンオン(南原)まで倭寇の侵入が続いた。そこで倭寇と高麗との最大の戦い、上陸後騎馬軍団に姿を変えた倭寇とそれと戦うために高麗政府から送られた将軍イ・ソンゲ率いる高麗軍の激戦があった。その跡が血の岩として残っている。その時の倭寇の将軍は若いモンゴルの兵士であったと思われる。
騎馬軍団を率いる倭寇とは、対馬などの海で活動する人々では組織不可能である。ここから済州島(チェジュド)でのモンゴル帝国支配の歴史が倭寇に与えた影響が浮かび上がる。高麗は100年間モンゴル帝国(元)の支配を受けていた。済州島(チェジュド)にはモンゴル帝国によって軍馬を育てる牧場があった。馬の面倒を見るために多くのモンゴル人が済州島(チェジュド)に移住していた。彼らは牧子(ぼっこ)とよばれ、モンゴル帝国が済州島(チェジュド)から撤退した後も島に残り、そこを拠点に高麗政府に抵抗していた。牧子(ぼっこ)は倭寇と連合して高麗政府と戦った可能性がある。
しかし、日本では元寇の記憶が生々しい時代に日本人とモンゴル人が連合できたのかと疑問が起こる。しかし、海の世界に生きる(移動する)人々は国境、民族は大きな格差ではない。つまり、対馬などの境界人にとっては、そうした元寇に関する平均的な日本人の持つ感覚はない。ある条件が整えれば、それらの境界人たちは違う立場の人々と容易に結びあうことができる。例えば高麗と敵対しているという相互の利益が合致するなら、その利益を求めて対馬の境界人は、済州島のモンゴル人と連合(結託)し高麗と戦うことが出来た。この対馬の民とモンゴル人牧子が倭寇として、朝鮮半島を略奪した可能性は十分あると思われる。
馬を巧みに操るモンゴル人と航海に長けた倭寇の連合軍と戦ったのがイ・ソンゲ将軍であった。激戦の末、イ・ソンゲは戦いに勝つ。そして、イ・ソンゲは倭寇対策を考え、弱体化した高麗を滅ぼし、新たな国・朝鮮を建国した。
倭寇と境界人(境界領域空間の人々)の世界
朝鮮半島の西南部の沿岸地域は潮の干満差が世界的にも大きく、その地形を日本から来た倭寇のみで自由に航行できたは思われない。つまり、それが可能だったのは、朝鮮半島沿岸部の人々、朝鮮半島の沿岸の漁民、つまり高麗人も倭寇に加わり協力していたのではないかと村井教授は指摘する。
しかし、それに対して、キム・ムンギョン スンシル(宗実)大学名誉教授は反論した。例えば、ナンオン(南原)まで侵入した騎馬軍団はモンゴル人でなく、九州の豪族などの兵力だと思われる。また、高麗人が倭寇に協力するとすれば、倭寇に捕らえられ協力させられていたと考えられる。そして、倭寇が内陸部まで侵略できたのは、朝鮮半島の情報を収拾していたためではないかと指摘した。
倭寇を考えるとき、現在の国家観で見ると間違う。つまり、現在の対馬の人は日本人で済州島(チェジュド)の人は韓国人という見方は、近代以降の国家観に基づいて言われることである。当時の生活の実態、言葉、身なり服装など、対馬人と済州島(チェジュド)人は、現代の日本や韓国と比較するなら、多くの共通の要素があったのではと思われる。
対馬人も済州島(チェジュド)人も、日本と高麗という二つの国にも所属さない境界人として存在していたのではないか。現在の我々が思うほどの違いはこの二つの島の人々には存在していなかったのではないだろうかと村井教授は指摘する。そして、境界領域の住人という共通要素で、異なる境界領域の人々が共同して海賊行為を行っていたのではないかという見方も可能である。
また、倭寇に対する現在の歴史解釈では韓国と日本ではかなり異なる。倭寇に襲われていた立場である韓国と倭寇であった側日本では歴史の捉え方が基本的に変わるのは当然である。
そして、大軍事集団となった倭寇によって朝鮮半島は変わっていった。倭寇による被害で高麗は滅びた。倭寇から国を守るために軍事勢力が生まれ、そこでイ・ソンゲは高麗を滅ぼし朝鮮王国を建国することになる。倭寇の影響を朝鮮半島は深刻に受けた。その理解、つまり倭寇として襲った立場と、倭寇によって襲われた立場では、倭寇に関する歴史の観かたが違うのではないかとキム・ムンギョン教授は述べた。
倭寇を生み、倭寇によって影響された東アジアンの政治
倭寇を防ぐための政治協定や方策
1368年に元が滅びて明が中国に誕生する。1392年に日本では南北朝が統一された。室町幕府の第三代将軍足利義満と明の洪武帝(こうぶてい)は国交を結び交易を始める。光武帝は日本、室町幕府との交易を求め、足利義満は倭寇の取締りを明に約束した。
また、日本で南北朝が統一された1392年に高麗が滅び、朝鮮王朝が成立した。初代国王のイ・ソンゲは日本との交流や交易を進めながら、倭寇の対策に力を注ぐ。イ・ソンゲは室町幕府や九州や対馬の領主に倭寇の取締りを強く要請した。倭寇の本拠地対馬でも倭寇の取り締まりが行われ、1418年までその効果があった。しかし、倭寇取り締まりに積極的だった宗貞茂(むねさだしげ)の死後、再び倭寇の被害が朝鮮半島で起こり始めた。そこで、朝鮮王国第四代国王 世宋大王(せじょんだいおう)による対馬征伐が行われた。朝鮮は1万7千の兵を対馬に送り、倭寇の撲滅を図った。朝鮮軍は倭寇の首領早田氏の根拠地を集中攻撃した。
しかし、その一方で、朝鮮王朝は倭寇に対する懐柔策もとった。それが、倭寇対策として効果を発揮した。つまり、朝鮮王朝は早田氏に国身と呼ばれる辞令書を出し、早田氏に将軍の官職を与え、正式な交易を認めた。その朝鮮王朝の懐柔策によって、早田氏は倭寇の活動から遠ざかっていった。倭寇の朝鮮半島の襲撃は急速に減って行った。正式な交易権を得た対馬の民は再び東シナ海での交易事業を始める。1431年に朝鮮王朝を訪ねた早田六郎次郎は商いの船に琉球国の使節まで乗せていた。琉球から対馬、朝鮮半島につながる広大な東アジア交易ルート、そこで、対馬の民は朝鮮と日本と交易の仲介者としての役割を果たすのである。
font size="4" color=#00008b">政治的軍事的不安定が生み出した倭寇と現代社会
倭寇問題を解決することが東アジアの国際関係にとって最大の課題であった。特に、明はその問題を解決しなければならなかった。明と日本の関係の中で、倭寇の問題は極めて重大な課題であったと村井教授は指摘した。
キム教授は、政治が安定したことで倭寇対策が出来たと述べた。倭寇はアジアにおいて深刻な問題であった。倭寇が与えた重要な役割は、政治的安定ということをアジア諸国の課題にさせたことであった。政治の混乱が海の民に大きな影響を与え、倭寇をつくり、それがまた大きな政治的混乱を生み出した。つまり、日本の国内政治の混乱、高麗の国内政治の混乱が平和に交易をしていた人々に大きな影響を与えた。それが大勢の倭寇を生み出した。
このことは現代の社会に共通する課題を問いかけている。政治的不安定さが大きな問題を引き起こしている。例えば、現代国際社会で複雑だと思われている中東問題やアフガニスタンのような状況を観ると、政治の安定の重要さがわかるとキム教授は述べた。
国際紛争を解決する方法としての境界領域の復権や境界を接する双方の国の努力
同時に、当時の境界人、現代の国境を境にして出来上がっている民族と異なる集団、二つの国の間の境界領域空間で生活している人々、という考え方から、当時は現代と違い、境界領域空間があり、どちらの国にも属さない人々がいた。しかし、近代になり境界は広がりをもった空間から線になり、二つの国のどちらかに属さなければならない状態になっている。そのことを考えてみようと村井教授は述べる。
そこで、二つの領域が境界地の所有をめぐって紛争している場合、近代以降はその解決方法は戦争であった。勝った国がその領域を所有するという選択しかなかった。しかし、これから先、それで紛争が最終的に収まり、問題が解決するだろうかと考えてみる。つまり、これからの時代、国際紛争によって核戦争が誘発される時代に、領土問題を解決しる手段として戦争が現実的な方法であるかを考える必要がある。
そこで、境界人や境界領域空間に関する考え方や、昔の境界を復権できないかということも考えられる。どちらにも属することのない空間、逆に言うとどちらにも属する空間を復権することで、問題を解決できないかと考える。そうすることで、境界を挟んだ両側が色々な事業を興し、双方が結果的に大きな利益が得られるのではないかと村井教授は述べている。
日本と韓国の境界を接する二つの国で考えるべき大切な課題がある。それは、倭寇の問題を平和的に解決しようとした人々が居たことは事実出である。境界を接する人々にとって大切なことは、まず倭寇による被害を受けた人々がいること、また、厳しい貧困によって倭寇が生まれたこと、つまり倭寇にならなければならなかった貧困に苦しんだ人々も居たこと、この両方を含めて方策を考える必要がある。立場の異なる双方で、安定化のための問題解決に挑む必要があるとキム教授は述べた。
テキスト批評(三石):境界人倭寇と東アジア圏の成立(自国に連動する他国の内政問題)
被害を受けた側と被害を与えた側の歴史解釈の違いの相互理解
ETV特集「日本と朝鮮半島」では、毎回、日本と韓国の専門家を呼んで、議論を挟みながら番組を進める。今回も、村井章介東京大学教授とキム・ムンギョン スンシル(宗実)大学名誉教授が番組に招待され、議論を展開した。
二人の専門家の話しから、同じ事件でも韓国と日本では理解の仕方が異なるという印象を受けた。この印象は、今までのこの番組の中でも感じられたのであったが、今回は、村井教授とキム教授の解釈の違いを鮮明に感じた。
前回の「元寇」も、日本側から見た場合と東アジアの他の国々の歴史も入れて解釈した場合では、大きな解釈の違いを感じたが、同様に、倭寇についても「倭寇の被害を受けた国の側」(キム教授の発言)と倭寇として周辺諸国(ここでは特に韓国)を襲った側からみた場合では、倭寇に関する解釈が異なった。
例えば、高麗史に記載してある500隻の大集団で西海岸を襲い、約100km内部のナンオン(南原)まで侵入した倭寇が将軍イ・ソンゲ率いる高麗軍との激戦を行った史実に関する解釈に関して、井村教授は、倭寇は当時高麗と戦っているモンゴル人等と倭人の多国籍軍であったのではと解釈したのに対して、キム教授は、騎馬軍団は九州の豪族であったのではないかと解釈している。
帝国主義の時代、1910年から始まった韓国併合(日韓併合)によって、朝鮮半島は事実上日本の植民地となった。1945年の第二世界大戦の終了まで、朝鮮半島での教育は日本語で行われた。植民地時代を知るキム教授にとって、倭寇の歴史も韓国併合時代と重なるのではないだろうか。
また、近年、前の戦争での戦争犯罪者を戦争犠牲者と共に合祀(ごうし)されている靖国神社で、日本には過去の戦争責任はないという集まりがなされた。また小泉総理大臣が率いる政府閣僚たちの8月15日の参拝に対して、韓国や中国は敏感に対応し、各地で反日デモが起こった。
この反日デモは経済的繋がりがますます深まる中国や韓国と日本との関係にまったく逆行するものであった。そこで、相互の歴史の共同研究に関する企画が提案された。
このNHKの「日本と朝鮮半島」はその企画を生かした番組であったといえる。当然、日本から解釈した東アジアの歴史と韓国からのその解釈は異なる。その違いを明確にしながら、史実を再度掘り返し、解釈し直す作業が行われることになる。そして、今回のように、倭寇に関する解釈の違いが生じることになる。その違いを相互に理解しながら、東アジアの中の日本、朝鮮半島の歴史研究が進むことが、相互理解の第一歩となる。
font size="4" color=#00008b">倭寇を生んだ社会情勢、国際社会の不安定さと境界人たち
元寇は13世紀の東アジアの最大の国際事件であった。海を越え大陸から日本を襲った二回の元寇が物語ることは、モンゴル帝国の発達した兵器、造船技術や航海術であった。それ以来、東アジアの沿岸には、これらの造船技術や航海術が定着したと思われる。そして、東アジアの海を舞台にして交易する人々が生まれたことは、一回目3万と二回目14万とも言われる大海軍を動かした元寇の歴史と切り離して考えるのは不可能である。
朝鮮半島と日本を考えるうえで、五島列島、壱岐、対馬、済州島や韓国沿岸の多くの島々で暮らす人々が、漁業以外に交易や水軍として活躍したことは推測できる。境界人の出現は、彼らがその海の孤島に住んで居たということではない。彼らがその島を根拠地として東アジアの海を舞台にして活躍していたと言う事である。その条件として、彼ら境界人と呼ばれる人々は、航海の技術と船舶を持っていた。航海能力を持ったが故に、境界人となったとも言える。
村井教授は、当時の国と国の間にあった境界領域やそこで暮らす境界人を現在の国家感覚から推測してはならないと述べている。国民国家、つまり国語と憲法をもって成立している近代国家と、封建領主時代の国は、基本的にそのあり方が異なる。対馬の民が日常的にプサン(釜山)に出かけ、交易をしていたとしても、彼らが現在の日本国民と同じような国家意識を持っていたとは思われない。
境界人たちの生活基盤は交易であった。もし、国が乱れ、交易活動が不可能になったなら、もともと食料や生活物資の生産力の少ない島では、飢饉や貧困が急速に進むだろう。そのことは境界人たちが倭寇に変身する契機となる。倭寇の襲撃を頻繁に朝鮮半島が受けた時期、特に1350年から倭寇は急激に増えたが、その年は日本では南北朝時代の真最中で、60年近い騒乱が続いており、日本が政治的軍事的に混乱した時代であった。
キム教授は、この1350年の東アジアでの出来事は現在の国際社会でも共通することで、一般に隣国の政治が乱れる場合、同時にその影響を隣国も受けると述べた。実際、中東、南アジアの例を引くまでもない。このことから、取り分け隣国の政治的不安をよその世界の出来事のように観ることは今の国際社会の関係から不可能である。北朝鮮と韓国の緊張は、そのまま日本や中国の安全の問題となる。そのために、隣国の国際紛争の解決に協力することは、自国の安全にとって大切な課題であると言える。
また、現在のような近代国家の傘の下で守られていない当時の境界人にとって、彼らの生活領域を守り、また彼らの生存を守るためには、境界人間の関係から成立する連合が出来上がっても不思議ではないと村井教授は推測する。倭寇は勢力を伸ばし、巨大の海賊集団となり、朝鮮半島内陸部に騎馬軍団で侵入したのは、当時、済州島で高句麗政府に抵抗していたモンゴル人との連合が可能であったからではないかと村井教授は述べた。
その上で、現代の日本を取り巻く近隣の国々との国境紛争問題、例えば、尖閣列島、竹島問題や北方領土を前提にしながら、国際紛争の解決手段として、以前あった境界領域とそこに住む境界人を現代の社会にも積極的に認める必要があるのではと提案している。国境問題で紛争が起こっている地域に積極的に二つの政府が共同で管理する境界領域を作ることで、現代の国際問題の解決の糸口を見つけられるのではと述べている。この考え方には、大きな可能性があると思われる。つまり、核をはじめとして大量破壊兵器や巨大な破壊力を持つ軍事力によって起こされる戦争を予測して、両方の国が領有権問題を争って失う利益とその領有権を共に管理する(半分の利益しか得られない)ことによって得る利益との比較をする必要がある。
倭寇の歴史を、キム教授も村井教授も、現代の日本と朝鮮半島の国際政治の課題として展開していた。歴史を学ぶということは、史実解釈を現代社会の課題解決の道具として活用することをその究極の課題にする事であるとも言える。
緊迫する東アジアの政治課題、東アジア連合案の展開と国際地域紛争の解決方法
2010年になって、韓国と北朝鮮の間で頻繁に軍事的衝突が発生している。2010年3月26日、黄海上で北朝鮮の魚雷によって韓国軍の哨戒艦「天安」が撃沈され、2010年11月23日に北朝鮮軍による韓国の延坪島(ヨンピョンド)に170発の砲撃がなされ、住宅地域に着弾し民間人2名を含む4名の犠牲者が出た。
中国や韓国の経済的発展と東アジア経済圏の世界的な位置の向上、それによって中国、韓国と日本は共に利益を得ている。良好で緊密な経済的関係が、韓国と北朝鮮の軍事的衝突や日本と中国の領海権問題によって危機に晒されようとしている。この時、私たちは元寇や倭寇の歴史を思い出し、それらの教訓を現在の課題に活かすことが必要になっている。
キム教授の提案、隣国の政治安定のための協力に関しては、日本は日米同盟の立場から韓米同盟への間接的支援を行うことを今回韓米軍事演習で確認し、また韓国も日米軍事演習にオブザーバー参加して相互に日米韓の軍事同盟の連携を図った。しかし、その反面、中国沿岸に接する黄海での軍事訓練や尖閣列島での有事を想定した軍事訓練に対して、中国は不快感を示した。今後の課題は、中国、韓国と日本が共に共同して、東アジアの政治的安定を作り出す努力がさらに検討されなければならないことである。
先ず、中国を必要以上に仮想敵国にしてはならない。つまり、日韓米は中国の政治的立場を理解することが必要である。北朝鮮は中国と外交的に深い関係があり、北朝鮮は中国の援助なくしては今後の国家の運営自体が危機的状況に陥るという状況は否定できない。そのため、中国が北朝鮮との関係を維持することは大切なことであり、北朝鮮で急激な政治的危機が生じることによる東アジアでの政治経済的リスクを計算して、中国の北朝鮮外交を支持しなければならないだろう。その上で、中国と共に北朝鮮の暴走を食い止める政治的交渉が必要となっている。
そこで問題となるのが、日中間の尖閣列島に関する領有権問題である。領有権問題の解決は非常に長い時間が必要となる。その領土上の明らかな解決策は、例えば1982年に勃発したフォークランド島の領土を巡るイギリスとアルゼンチンの戦争のような、局地戦争である。あるインターネットのニュース情報によると、世論調査によると現在の中国人の36パーセントの人が、尖閣列島問題は武力によって解決すべきだと答え、また話し合いによって解決すべきと答えたのが52パーセントであったと言う。これは、尖閣列島問題の展開次第では、予想もできないような日中間の武力紛争に発展する可能性を秘めていると言える。
村井教授の提案は、現実可能かどうか問題だといわれるかもしれないが、領土問題で紛争している二国間に紛争地域を新しく境界領域として位置づけ、双方の国が管理し、国際交易自由地域や関税の自由化を行い、さらに東アジアの経済発展に活用することは出来ないだろうか。例えば、ヨーロッパ連合の形成の段階で紛争地帯であったバスク、コルシカ、北アイルランド、アルザス等々の境界領域をヨーロッパという一つの国の地域として、二つの大きな紛争相手国に対して位置づけることで、問題解決の糸口を見つけたように、東アジア連合という大きな国際地域連合を目指すなら、村井教授の提案は、決して現実不可能なものではないと思われる。
コメント
2010年12月に文章を変更する。
----------------------------------------------------------------------------------------------------
ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」
5. 日韓関係
5-1、NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」 イムジンウェラン 文禄・慶長の役のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6656.html
5-2、NHK 朝鮮半島と日本 「倭寇(わこう)の実像を探る 東シナ海の光と影」のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_2310.html
5-3、NHK EV特集 「元寇蒙古襲来 三別抄と鎌倉幕府」の映像資料のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6943.html
5-4、姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』プロローグのテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_29.html
5-5、東アジア共同体構想の展開を進める日韓関係の強化
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_12.html
受刑者の人権問題を考える
三石博行
1、累犯者が非常に多い日本社会
インターネットの検索エンジンで「犯罪加害者」と「人権」の二つのキーワードを入力すると、ほとんどのサイトで「犯罪加害者には人権はない」という内容の文章に出会う。もし、彼らに人権がないなら彼らは日本国民ではないと言っていることになる。何故なら、わが国の憲法によってすべての国民が基本的人権を擁護されているからである。
犯罪被害者が犯罪加害者に対する憎しみや怒りの感情は理解できる。しかも、第三者がその犯罪被害者の気持ちを痛感し、また自分が犯罪被害者になることへの恐怖から、犯罪加害者への批判や憎しみの感情があるのは理解できるし、そうした社会的反応が起ることも不思議ではない。
犯罪学の専門家として有名な菊田幸一氏の著書によると、累犯者(るいはんしゃ 繰り返し犯罪を犯す人々)は、男子の場合2000年の統計では刑務所の全収容者の52.5%に及んでいる。つまり、刑務所の「初入者より再入者が多い」ことになっている。(KIKUko02A p.i )
2、刑務所の社会的機能 受刑者の社会復帰
この事実から、二つの仮説が立てられる。一つは、最犯罪率が高いのは日本の犯罪者の特徴ではなく、犯罪者とはつねに犯罪を再び繰り返す傾向にあると言える。この仮説は世界の犯罪者の再犯率を調べることで検証できる。二つ目の仮説は、本来刑務所は受刑者の犯罪行為を反省させ、再び罪を犯さないように教育矯正する社会的機能を担っているが、日本の刑務所はその社会的役割を十分発揮していないというものである。この事も、前記した仮説と同様に世界の先進国の再犯罪率の統計を見ることで検証可能である。
犯罪加害者という名称を与えることで犯罪者が生涯償えない加害者としての履歴を背負うことになる。彼らが刑務所で刑の執行を受けたとしても、元犯罪者という呼び方は彼らに生涯、刑務所での刑罰に服し、被拘束生活と刑務作業を続けたとしても、一旦、罪を犯したものは再び社会が許すことはないという烙印(らくいん)を意味する。
この烙印は、江戸時代、窃盗などの犯罪者に入れ墨を入れ、三回入れ墨が入る死罪となる制度と似ている。中世社会までは、犯罪者が生れないようにするのでなく、犯罪者を社会から排除することが社会の犯罪対策として取られていた方法であった。しかし、現代の人権擁護を基本する憲法を持つ社会で、罪を犯した者を社会から徹底的に排除することは、人権問題となると言える。
人権の守られている社会とは、人々の生命と生活を守ることが出来る社会を維持するために、犯罪が発生しないように機能している社会である。そのために、犯罪者を逮捕し、裁判にかけ、刑務所に入れ、再び犯罪を繰り返さないよう矯正教育を行い、そして彼らの社会復帰を助けることが社会の大切な治安機能の一つである。防犯とは犯罪を未然に防ぐことであると同時に、犯罪者を出さないような社会を作ることを意味する。
3、市民の人権擁護・防犯と受刑者の人権擁護・社会復帰
また人権問題を考える以上、刑に服している人々を「犯罪者」と呼ぶのでなく「受刑者」と呼ぶことにする。受刑者が再び罪を犯し、累犯者となることを防ぐにはどうすべきか、それが、この社会の安全対策につながる。人権擁護と防犯は矛盾するとは思われない。もし矛盾するなら私たちの社会は人権擁護の思想を破棄し、江戸時代のように、罪を犯した人々を徹底的に社会から排除し、また死罪にして、抹殺し続けなければならない。
現代社会でも中国のように、麻薬を持っていたという理由で死刑になる国もある。その国では年間数千名の人々が死刑になっていると謂(い)われている。刑罰を強化しながら中国政府は国の治安を維持している。インターネットでも中国で行われていた公開の銃殺刑の写真が出回り、人権感覚のない国として悪評を買っている。
人権擁護を掲げる先進国では、受刑者の人権を考える法律や社会制度が存在している。つまり人権を守る社会では、極刑をもって犯罪者を抹殺するのでなく、犯罪者を出さない、累犯者にさせない社会のあり方を市民が積極的に考えなければならない。そのきっかけを裁判員制度は与えるだろう。市民生活の安全を守るために犯罪を防ぎ、犯罪者の社会復帰を助け、累犯者を出さない社会を構築していくために、もう一度、受刑者の人権問題を考えてみよう。
参考資料
(KIKUko02A)菊田幸一著『日本の刑務所』岩波新書794 2002年7月19日第1刷発行 205p
1、累犯者が非常に多い日本社会
インターネットの検索エンジンで「犯罪加害者」と「人権」の二つのキーワードを入力すると、ほとんどのサイトで「犯罪加害者には人権はない」という内容の文章に出会う。もし、彼らに人権がないなら彼らは日本国民ではないと言っていることになる。何故なら、わが国の憲法によってすべての国民が基本的人権を擁護されているからである。
犯罪被害者が犯罪加害者に対する憎しみや怒りの感情は理解できる。しかも、第三者がその犯罪被害者の気持ちを痛感し、また自分が犯罪被害者になることへの恐怖から、犯罪加害者への批判や憎しみの感情があるのは理解できるし、そうした社会的反応が起ることも不思議ではない。
犯罪学の専門家として有名な菊田幸一氏の著書によると、累犯者(るいはんしゃ 繰り返し犯罪を犯す人々)は、男子の場合2000年の統計では刑務所の全収容者の52.5%に及んでいる。つまり、刑務所の「初入者より再入者が多い」ことになっている。(KIKUko02A p.i )
2、刑務所の社会的機能 受刑者の社会復帰
この事実から、二つの仮説が立てられる。一つは、最犯罪率が高いのは日本の犯罪者の特徴ではなく、犯罪者とはつねに犯罪を再び繰り返す傾向にあると言える。この仮説は世界の犯罪者の再犯率を調べることで検証できる。二つ目の仮説は、本来刑務所は受刑者の犯罪行為を反省させ、再び罪を犯さないように教育矯正する社会的機能を担っているが、日本の刑務所はその社会的役割を十分発揮していないというものである。この事も、前記した仮説と同様に世界の先進国の再犯罪率の統計を見ることで検証可能である。
犯罪加害者という名称を与えることで犯罪者が生涯償えない加害者としての履歴を背負うことになる。彼らが刑務所で刑の執行を受けたとしても、元犯罪者という呼び方は彼らに生涯、刑務所での刑罰に服し、被拘束生活と刑務作業を続けたとしても、一旦、罪を犯したものは再び社会が許すことはないという烙印(らくいん)を意味する。
この烙印は、江戸時代、窃盗などの犯罪者に入れ墨を入れ、三回入れ墨が入る死罪となる制度と似ている。中世社会までは、犯罪者が生れないようにするのでなく、犯罪者を社会から排除することが社会の犯罪対策として取られていた方法であった。しかし、現代の人権擁護を基本する憲法を持つ社会で、罪を犯した者を社会から徹底的に排除することは、人権問題となると言える。
人権の守られている社会とは、人々の生命と生活を守ることが出来る社会を維持するために、犯罪が発生しないように機能している社会である。そのために、犯罪者を逮捕し、裁判にかけ、刑務所に入れ、再び犯罪を繰り返さないよう矯正教育を行い、そして彼らの社会復帰を助けることが社会の大切な治安機能の一つである。防犯とは犯罪を未然に防ぐことであると同時に、犯罪者を出さないような社会を作ることを意味する。
3、市民の人権擁護・防犯と受刑者の人権擁護・社会復帰
また人権問題を考える以上、刑に服している人々を「犯罪者」と呼ぶのでなく「受刑者」と呼ぶことにする。受刑者が再び罪を犯し、累犯者となることを防ぐにはどうすべきか、それが、この社会の安全対策につながる。人権擁護と防犯は矛盾するとは思われない。もし矛盾するなら私たちの社会は人権擁護の思想を破棄し、江戸時代のように、罪を犯した人々を徹底的に社会から排除し、また死罪にして、抹殺し続けなければならない。
現代社会でも中国のように、麻薬を持っていたという理由で死刑になる国もある。その国では年間数千名の人々が死刑になっていると謂(い)われている。刑罰を強化しながら中国政府は国の治安を維持している。インターネットでも中国で行われていた公開の銃殺刑の写真が出回り、人権感覚のない国として悪評を買っている。
人権擁護を掲げる先進国では、受刑者の人権を考える法律や社会制度が存在している。つまり人権を守る社会では、極刑をもって犯罪者を抹殺するのでなく、犯罪者を出さない、累犯者にさせない社会のあり方を市民が積極的に考えなければならない。そのきっかけを裁判員制度は与えるだろう。市民生活の安全を守るために犯罪を防ぎ、犯罪者の社会復帰を助け、累犯者を出さない社会を構築していくために、もう一度、受刑者の人権問題を考えてみよう。
参考資料
(KIKUko02A)菊田幸一著『日本の刑務所』岩波新書794 2002年7月19日第1刷発行 205p
NHK EV特集 「元寇蒙古襲来 三別抄と鎌倉幕府」の映像資料のテキスト批評
三石博行
A-1、資料の出典紹介
NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」(6)「元寇蒙古襲来 三別抄(1)と鎌倉幕府」の映像 2009年に放映された資料
司会 三宅民夫
レポーター 笹部佳子(ささべ よしこ)
ゲスト 九州大学教授 佐伯弘次(さえき こうじ)
コンジュ(公州)大学校教授 ユン・ヨンピョク
A-2、資料の要約
2-1、世界を制覇した蒙古軍の日本襲来、元寇
1206年、フビライの祖父ジンギスカンがモンゴル(カラコルムが首都)を統一、その後、帝国は拡大しわずか60年間で、帝国は極東から中央アジア、ヨーロッパにいたる巨大な領土を手に入れる。その絶頂期にクビライはモンゴル帝国第五代皇帝となる。1268年、クビライは日本に国書を遣(よこ)し、南宋と友好関係にあった当時の日本の外交政策の転換を丁重に求めながらも、実質はモンゴル帝国の支配を受け属国になることを命じるものであった。(2)
日本は遣唐使以来、中国との国交の歴史はあったが、モンゴルとは誼(よしみ)を通じた歴史はなかった。武家政権鎌倉幕府は、クビライからの国書を日本への威嚇として受け止め、直ちに警備体制の強化を西国の守護や御家人に命じた。
クビライの命に従わない日本に対する攻撃が始まる。13世紀後半の蒙古襲来で、日本は、1274年には2万6千(元軍2万、高麗軍6千)の兵によって、1281年には元と高麗の連合軍4万と元と旧南宋の連合軍10万、合計14万の兵によって、二度にわたって襲撃を受けた。
長崎県松浦市にある鷹島(たかしま)は二度目の蒙古襲来、弘安の役の勝敗を決めた場所である。鷹島には700年経った今でも、その恐ろしさが庶民に伝っている。今でも、元軍の遺品が漁師の網に掛かる。水中調査で、兜や船の残骸の遺物が出てきた。元船の錨(いかり)は全長7mで、錨の重さは1トンで、それから推測して船の大きさは全長40m以上で、100人の人と馬を乗せていたとのではないかと言われている。
海底から元の火薬を使った最新兵器「てつはふ」が見つかっている。硝石のない日本では火薬は作れない。火薬を使った兵器、「てつはふ」は殺傷能力を上げるために火薬と一緒に陶器の破片や鉄片などが混ぜられていていた。「てつはふ」には殺傷を目的とする炸裂弾(3)が用いられていたのである。
2-2、蒙古に屈服した高麗王朝と蒙古と高麗からの国書の背景
1268年、クビライからの国書と同時に高麗からの国書も送られてきた。当時、高麗(朝鮮半島)は元の支配下にあった。その高麗の国書には蒙古が素晴らしい国であることや日本に蒙古と誼(よしみ)を結ぶことを勧め、日本も蒙古に使いを送ったらどうかと書かれていた。
936年に後百済を滅ぼし朝鮮半島を統一した建国された高麗(4)は、1268年、日本に国書を送る40年前から蒙古の激しい攻撃を受けていた。1231年、蒙古は朝鮮半島に侵攻した。蒙古軍団は瞬く(またたく)間に朝鮮半島各地を蹂躙(じゅうりん)し、高麗の首都である開城(ケジョン)に迫る。高麗史に、蒙古の攻撃への対抗策が記されている。蒙古侵入の翌年、1232年、高麗は開城(ケジョン)から南に20kmほど離れた島である江華島(カンファド)に遷都した。
本土と1キロほどの狭い水路で隔てられ、しかも9mの干満の水位が生じる海流の流れも複雑な江華島(カンファド)の地の利を活かして蒙古の騎馬軍団の攻撃を防いだ。その結果、蒙古軍は30年間もこの島に攻め込むことはできなかった。
江華島(カンファド)の高麗宮の遺跡から、当時のカンファドを理解する上で貴重な出土品が多数発掘された。
江華島(カンファド)は開城(ケジョン)への重要な入り口で、しかも、広い土地があり、自給自足が可能であった。高麗は安全な場所として江華島(カンファド)を新しい都とし、ケジョンの都と同じくらいの大きな宮殿や城を建てた。都(まち)を囲む城壁は全長13キロに及び、軍人、官僚や商人などが、新しい江華島(カンファド)の都に移り住んだ。ここで高麗王朝は30年間、蒙古に対して抵抗を続けたのである。
朝鮮半島本土では、侵入してきた蒙古軍に対して、民衆や僧兵(そうへい)達が戦っていた。処仁城(チョインソン)の戦いでは、身分の低い奴婢(ぬひ)階級の人々が先頭に立って戦った。朝鮮半島は凄惨(せいさん)な戦場となった。蒙古の侵入は、30年間で11回に及んだ。 高麗史には、約20万人の男女が蒙古軍の捕虜となったこと、殺戮された人数は数え切れないことが記されている。このたび重なる侵略によって、朝鮮半島は荒廃して行った。
そして、1259年、高麗は蒙古に降伏した。高麗の王子が蒙古に入城し、臣下の礼(蒙古の支配を受けることを認める儀式)を取った。1260年、兄弟間の相続争いに勝ったクビライが第五代モンゴル帝国皇帝に即位した。その四年後の1264年に、年号を中国風に「至元(しげん)」と定める。そしてモンゴル帝国の都を現在の北京、大都(だいと)と名称し、広大な宮城を持つ都を建てた。そこに典型的な中国様式の大明殿(だいめいでん)を造り、そこからさらに世界制覇に向けた活動を始める。
当時の世界通貨は銀であった。その銀を求めて元は交易を興し、富を世界から集めようとした。フビライは黄金の国と呼ばれた日本「ジパング」(5)にも交易を求めた。1267年、フビライの使者は、日本を望む朝鮮半島南部の巨済島(コジェド)まで来た。しかし、使者は日本への渡航が極めて困難であるため日本には渡らず、そのことをフビライに報告した。フビライはそれに激怒し、高麗国王に対して、日本にフビライの国書を届けるように命令した。それが、1268年、クビライの国書と一緒に送られてきた高麗の国書であった。
この国書の中で、高麗王は、蒙古の年号「至元(しげん)」を使っている。つまり、蒙古の攻撃に屈服させられた高麗から、フビライからと高麗からの二つの国書が送られてきたのである。
2-3、蒙古に反抗し続けた高麗軍、三別抄が送った国書の背景
蒙古襲来は朝鮮半島の歴史の中でも重要な事件として記録されている。人民の殺戮や国土の荒廃による飢饉などの被害が大きかった。そして、モンゴル帝国の支配によって、日本攻略の基地となり、そのため日本への軍艦製造や必要な食料等々、巨額の軍事費を使い、多くの兵を日本侵略のために派遣しなければならなかった。それまでの蒙古との戦争で荒廃した国家、高麗にとって、元寇に参加することは大変な負担であった。戦争の契機となるフビライの国書を日本に送るのは気が進まなかったと思われる。高麗は日本と戦争をしなければならない立場におかれることになった。
一方、鎌倉幕府は、蒙古からの国書を日本への脅しとして受け止め動揺した。また、高麗と日本はもともと良好な関係であったのに、蒙古と共に高麗が日本に国書を送ってきたので、そのことも鎌倉幕府を疑心暗鬼にさせた。
国土を蒙古に支配され、蒙古のためにさらに庶民を犠牲にすることになる日本攻略を進める高麗王国の中で、深刻な内部対立が生じる。
モンゴル帝国の国書と一緒に送られてきた高麗の国書が日本に届く1268年から、3年後の1271年に再び、高麗から日本に国書が届いた。当時の公家である吉田経長(よしだつねんなが 1274-1302)の日記「吉続記(きちぞくき)」によると、二回目の高麗から国書の内容は一回目とは内容がまったく反対のもので、蒙古に対決するために食料と軍隊の支援を要請するものであった。それは、さながら日本への救助支援(SOS)のようであった。
1970年代後半、この二つ目の国書の謎を解明する資料が発見された。この資料は、東京大学資料編纂所に眠っていた文書で、「高麗牒状不審条々(こうらいちょうじょうふしんじょうじょう)」である。これは、当時、二つ目の国書を読んだ人物が不審に思った点12箇所を列挙したメモであった。この資料の発見者、石井正敏中央大学教授は、当時勤務した東京大学で調査中にこの資料に偶然出会い、その重要性に気付いた。
「高麗牒状不審条々(こうらいちょうじょうふしんじょうじょう)」は、高麗から届いた二つの国書の内容の違いについて述べている。はじめの国書は蒙古の徳を褒(ほ)めていたが、二つ目は、蒙古兵の野蛮さを指摘している。その二つが矛盾することを指摘している。また、前の国書では蒙古の年号を使っていたが、新しい国書ではそれがないということも指摘されていた。つまり、後の国書は蒙古に従属していない勢力が送ったものであったことが明になる。
蒙古に従属しない高麗の勢力とは何か。そのことを解く鍵は、「高麗牒状不審条々(こうらいちょうじょうふしんじょうじょう)」の第三条に記されていた、江華島(カンファド)から半島最南部の珍島(チンド)に遷都したという記述に、隠されていた。
二度目の国書が届く1年前の1270年、江華島(カンファド)は大きく揺れていた。蒙古の支配を受けた高麗王朝では、高麗の都を江華島(カンファド)から元の都開城(ケジョン)に移るようにと蒙古から要請を受けていた。王とその周辺は蒙古のその要請に従おうとしたが、それに強く反対する勢力が現われことになった。その勢力とは、高麗王朝を守るために選別された軍事集団、右別抄と左別抄からなる夜別抄(よべつしょう)とモンゴルの捕虜になりながらも脱走して戦い続けた神義軍(しんぎぐん)の三つの先鋭部隊によって構成された三別抄と呼ばれる軍事集団であった。
高麗史によると、三別抄(さんべつしょう)の指導者は将軍裴仲孫(テ・ジュンソン)であった。彼は、「蒙古兵が押し寄せ人民を殺戮している」ことや「国を守らんとするものは結集せよ」と呼びかけていた。三別抄は、高麗王室に関係する人物を擁立し、江華島(カンファド)から珍島(チンド)に移った。
つまり、「高麗牒状不審条々(こうらいちょうじょうふしんじょうじょう)」で江華島(カンファド)から珍島(チンド)に遷都したという表現を使うのは三別抄以外にあり得ないのである。したがって、二つ目の国書「高麗牒状(こうらいちょうじょう)」の送り主は三別抄であったと考えられる。
高麗史では、裴仲孫(テ・ジュンソン)は反逆者として記載されている。何故なら、彼が高麗政府の資料、人民の名簿や土地の台帳を焼き払ったからであると謂(い)われている。彼のこの行為は高麗王朝を支えた身分制度や経済基盤を否定する重大な反逆行為であった。そのため、彼は高麗政府の敵となった。
三別抄は徹底的に蒙古に抵抗するために、新しい高麗王朝を珍島(チンド)につくろうとしていた。
珍島(チンド)と本土を隔てる水路は、年貢を運ぶ船が通る重要な場所であった。そこを三別抄は軍事的に押さえようとした。三別抄はチンドに高麗の都として建設した。このことを物語る龍蔵城(ヨンチャンソン)の遺跡がチンドにある。この遺跡は高麗の都ケソンの王宮マンウォルデと立地が似ていることがわかった。また、その後(1988年)の大掛かりな発掘調査で、王宮と思われる高級な青磁(王族などしか使わないと思われる)や宮殿に使われたと思われる蓮の花の瓦などの出土品が発掘された。このことから三別抄の拠点が龍蔵城(ヨンチャンソン)であったことが裏づけられた。また、龍蔵城(ヨンチャンソン)の山城の発掘調査から、この山城は全長14キロに及ぶ龍蔵城(ヨンチャンソン)の宮殿を囲む巨大なものであったことも分かった。
三別抄が日本に国書「高麗牒状(こうらいちょうじょう)」を送ったのはチンドからであった。その国書は朝鮮半島の正当な統治者であると自負したものあった。彼らは、来るべき蒙古との戦いに備えて、日本に食料と兵の援助を求めたのであった。
三別抄は民衆、奴婢などの低い階級の人々によって構成されていた。一方、蒙古の要請で都を江華島(カンファド)から開城(ケジョン)に移すことを同意した高麗国王の主流派は貴族を中心とした勢力で構成されていた。その二つの勢力は、基本的に異なる勢力によって構成されていたと謂える。言い換えると、蒙古に屈した高麗政権の主流派と蒙古に抵抗する三別抄の支持する新興の高麗政権の勢力という根本的な違いがあった。これまで朝鮮半島本土で蒙古と戦った人々は農民であった。その民衆は三別抄を支持して来たのである。
三別抄は高麗王朝と決別し、都をチンドに移すことで、蒙古と戦い続けよとした。そのため、彼らは蒙古と開城(ケジョン)にある傀儡政権(かいらいせいけん)の二つと戦わなければならなくなっていた。三別抄の立場は困難であった。そのため、新しい連帯の相手を見つけようとしていた。日本は次に蒙古に侵略される存在だったので、三別抄は日本と連帯しようとしたのだった。
2-4、日本への蒙古襲来に対する三別抄の役割と鎌倉幕府の反応
もっぱら中国(南宋)との貿易に興味を持っていた鎌倉政府は、朝鮮半島の動きに関心を持っていなかった。そため、三別抄の動きや高麗の情報を鎌倉幕府は知らなかった。そんな中、二つの国書が高麗から届いた。そして、それを分析したのが、「高麗牒状不審条々(こうらいちょうじょうふしんじょうじょう)」であった。この資料によると、当時の鎌倉幕府は三別抄の評価を正確に行わなかった。そのため、1271年、三別抄が必死の覚悟で日本に送った国書に対して鎌倉幕府は何の反応も示さなかったのである。
平安時代には外交は朝廷が取り仕切っていた。鎌倉時代になると外交文書に関する取り扱いは朝廷だけでなく幕府も参画するようになる。時の執権北条時宗は、南宋の僧侶から蒙古の野蛮さを聞き及んでいたので、蒙古からの国書や蒙古に下った高麗にも一切の返書を出さなかった。朝廷も高麗王朝の分裂を把握することが出来ず、当時の資料では朝廷の中で意見が分かれたと記されている。そして、高麗の分裂を察知する者もいたが、しかし、朝廷は、鎌倉幕府と同様に、それらの意見を取りまとめることもせず、届いた国書に返書を出すこともしなかった。
つまり、日本における東アジアの国際政治状況の不理解と情報不足、そして朝廷と幕府の外交の二重システムによる外交決定能力の低下によって、当時の日本は三別抄の支援要請を無視し、これから蒙古の攻撃を受けるにも関わらず、当時蒙古と戦い続けていた三別抄と連帯することも出来なかったのである。
三別抄が送った救援要請は、鎌倉幕府からも朝廷からも無視され、そして日本の援助を得られなかった三別抄は苦戦し、島の東部に追いやられ、三別抄の指導者、将軍裴仲孫(テ・ジュンソン)の記録はここで消える。チンドで高麗再建を試みた三別抄は、済州島(チェジュド)に逃げる。
高麗王朝時代そしてその後、三別抄は長く反逆者とされた。しかし、チンド(クルポ村)では裴仲孫(テ・ジュンソン)は英雄として扱われている。村人はこれまで将軍を大切に祀ってきた。村人は今でも裴仲孫(テ・ジュンソン)を親しく「おじさん」「おじいさん」とよんでいる。
1271年、宋を制圧し中国北部を支配したクビライは国名を「大元」と制定し、中国と朝鮮を中心とし、インド、そしてアフリカをも含む海洋航路のネットワークを拡大しようとしていた。そして『黄金の国』日本を力ずくでも、このネットワークの中に組み込もうとしたのである。
クビライは日本侵攻に備え、高麗に造船を命じ、韓国南部の天然の良港、合浦(ハッポ)で日本攻略のための造船工事が行われていた。
しかし、当時の鎌倉幕府は同族同士の争いに明け暮れていた。1272年の二月騒動で、執権北条時宗は兄時輔を殺害し、蒙古の襲来に備える余裕は無かった。
元の軍隊は、すぐに日本に攻め入ることは出来なかった。何故なら、三別抄(タンベルチョウ)の一部がチェジュドで激しく抵抗し続けていたからであった。チェジュドでの三別抄の拠点となったハンパドゥリ城の砦は全長6kmの及び、また、環海長城(かんかいちょうじょう)とよばれる海に面した側にも300里(約1176km?)の防壁(6)がつくられていた。粘り強く抵抗する三別抄にフビライは業を煮やし、日本攻略のために準備していた軍船団をチェジュドに向けるように命令した。
三別抄はチェジュドから半島各地で攻撃を仕掛けていた。合浦(ハッポ)など三ヶ所の造船現場をことごとくゲリラ的に襲撃し、建造中の軍艦を焼いた。そして、1273年、チェジュドの三別抄に蒙古・高麗連合軍が総攻撃を掛けた。激しい戦闘の末、三別抄の首領が死亡し、足掛け三年に及ぶ三別抄の抵抗運動は終わりを告げた。こうして、フビライは三別抄を駆逐するために時間と戦力を費やすことになったのであった。そのため、第一回の日本への遠征計画は変更を余儀なくされたのであった。
結果的に、鎌倉幕府にとって蒙古襲来の時期が遅れたのは幸いであった。二月騒動も収まり、御家人に西国警備の指令を発することが出来た。
チェジュド攻めの翌年、1274年10月、蒙古・高麗連合軍は九州北部を襲撃した。この第一回の蒙古襲来を文永の役と呼んでいる。戦法の違い、強烈な兵器(毒弓や火薬をつかった砲弾)によって蒙古軍は一日にして圧勝し、箱崎や博多の町も戦火で消滅した。しかし、翌日、蒙古・高麗連合軍団は突然として姿を消した。その理由について、軍が整わず矢も尽きたと記されている。
世界最新の武器を使った蒙古・高麗連合軍に対して、三別抄は足掛け三年も戦い続けた。そのために、日本への元寇襲来は遅くなった。このことが、日本にとっては災いを免れた点があったと思われる。つまり、1270年から1271年までのチンドでの戦い、そして1271年から1273年までのチェジュドでの戦い、三別抄の戦いが蒙古の日本襲来のタイミングを後ろ(1274年)にずらしたことになる。そのことが、日本への元寇の衝撃を緩和したのではないかと考えられている。
本来、元は1274年5月に日本侵攻を考えていた。しかし、準備に時間が掛かり、また、1274年6月に高麗王、元宗が死亡したため、元の攻撃が遅れ、結果的に10月になった。そこで、元は日本への攻撃を行って、すぐに撤退することになったと考えられる。
また、文永の役当時、元は南宋の勢力と対立していた。元は南宋の拠点、揚子江を越えた襄陽(じょうよう)にある難攻不落と謂われた襄陽城を攻めていた。そこでは、クビライは最新式の兵器で攻撃し、ついに襄陽城を攻め落とし、南宋を滅ぼしたのである。そうして、フビライはユーラシア大陸全域に及ぶ大帝国を完成させた。
他方、文永の役以後、蒙古の再襲来に備えて、日本では急ピッチで、防塁(ぼうるい)の建設が進んでいた。高い所で3mからなる防塁は博多湾岸全域、20kmにわたって、造られた。この防塁工事は、わずか半年の突貫工事であった。この防塁を造るために、九州各地から御家人が集められた。
1281年、フビライは、ついに日本への第二次遠征計画を実行した。再び海の彼方から現れた海の船団は兵力14万であった。これを弘安の役と呼んでいる。博多湾岸全域に造られた防塁の効果もあり、鎌倉武士は蒙古勢に対して奮闘した。そして、台風と思われる突然の暴風によって船団は壊滅したのであった。
蒙古襲来に翻弄され続けた34年の生涯を終え、1284年、北条時宗は他界する。
2-5、日本への第三次蒙古襲来に対する大越国の対蒙古戦争の役割
クビライは日本への野望をあきらめず、第三次の日本遠征の機会を窺(うかが)っていた。南宋を破りそれを元に接収したフビライの目は、日本と東南アジアの攻略に向けられていた。フビライは第二次日本攻略のわずか五ヶ月後の1279年7月に日本とベトナム北部の侵攻のために戦艦の造船を命じていた。
ベトナム遠征は直ちに実行される。1288年のバクダン川の決戦、これは今のベトナム北部の大越国が民族の独立を掲げて戦った戦闘である。戦力で優る蒙古に対して大越軍は地の利を活かした戦いを展開した。潮の干満を利用し、川底に杭で仕掛けを作り、満潮を利用し侵入してきた敵の戦艦を身動きできないようにし、反撃し撃退した。大越軍はこの戦いで勝利を治めた。この戦いによって、蒙古軍は大きな痛手を受けた。蒙古軍のベトナム北部での2回の敗北を知ったフビライは激怒した。彼は、ベトナムに戦力を動員するために、日本に渡る予定であった軍勢をベトナム北部に呼び返した。その結果、第三次日本遠征はそのため中止されたと謂われている。
大越の対蒙古戦の勝利は、13世紀の国際社会を考えるとき、大きな意味を持っている。つまり、日本の遥か南、ベトナム北部での戦いが、世界最強の帝国、モンゴル帝国の第三次対日本進攻を中止させるきっかけの一つになったのである。
巨大帝国の夢を追いかけたクビライは日本を征服できないまま、1294年、80歳で生涯を閉じた。
2-6、元寇を世界史の中で理解することの意味
元寇襲来とは、当時の小国日本が世界で最強のモンゴル帝国(後の元)と行った戦争を意味していた。この蒙古襲来は、日本にとってモンゴル帝国がそれまでに支配した国々と同じように、つまり、隣国朝鮮半島の高麗と同じように、帝国に支配される運命の瀬戸際(危機的状況)にあったと謂える。蒙古襲来という当時のモンゴル帝国がユーラシア大陸を支配下に置くための世界戦争の真っ只中に、同時の鎌倉幕府は投げ込まれることになったのである。
しかし、日本、鎌倉幕府には、こうしたモンゴル帝国の世界制覇やモンゴル帝国に関する情報はなかった。そして、当時の鎌倉幕府は内紛に明け暮れていた。また、国家の外交も、天皇を中心とするこれまでの制度と鎌倉幕府の介入による新しい制度構築によって、混乱を来たし、高麗からの貴重な情報、例えば元に屈服した高麗王朝に反旗を翻(ひるがえ)した高麗軍、三別抄からの日本への支援要請を正確に分析し、対応することが出来なかった。
皮肉なことに、日本は支援しなかった三別抄が行った対蒙古戦争で元寇の時期を遅らせたことによって、結果的に三別抄に助けられることになった。
また、第三次日本遠征を断念させる契機をつくる遥か南の大越国の対蒙古戦の戦いの勝利によって、助けられるのである。
このように、日本の元寇史を国内の社会や歴史のみで観るのでなく、国外の歴史との関係から観る事で、立体的に元寇が見えるのである。
しかし、それと裏腹に、日本では、元寇から日本は神国であり、国家の危機的状況を救うために神風が吹くという神話が定着していくのである。それが第二次世界大戦まで続き、精神主義で戦局を乗り越える考え方や神風特攻機を生み出す風土を培っていくのである。太平洋戦争で悲惨な国民の犠牲と敗戦を導いた精神主義の起源は、元寇を日本の内部からのみで観ることによって、生まれたと言えよう。
元寇を国際的視点から見ることによって、元が日本攻略に失敗した国際的要因を加味して理解しなければならないのである。
3、資料の評価
3-1、世界史と東アジア史の中での元寇
この番組が示した課題は、日本史の史実を東アジアの視点から見ることであった。日本史の中で元寇とは、単に蒙古が日本を襲撃したという側面で理解されている。しかし、東アジアの視点では、朝鮮半島がまず蒙古(元)に襲われた。そして、朝鮮半島を支配したモンゴル帝国が、高麗王朝を使って日本を襲うのである。それが日本から見た元寇となる。
モンゴル帝国は建国以来、領土の拡大を目的にした侵略戦争を続けてきた。日本への元寇の前に、遠くて中央アジア、スラブ諸国、近くてインドまで侵攻を続けていた。世界史から見ると、それら朝鮮半島や日本への元寇も世界制覇のためのモンゴル帝国の侵攻の一部に過ぎなかった。つまり、蒙古にとっては、朝鮮半島や日本への元寇は、モンゴル大帝国の構築の過程に過ぎなかったのである。
3-2、東アジア隣国の侵略に使われた神風神話と朝鮮半島での戦いで防げた日本への元寇の被害
日本の神風神話は元寇に対する戦いの中で生れた。世界最強の帝国が日本を襲来しても、日本は神風によって守られるという神話が生まれ、それが太平洋戦争まで続くことになる。
東アジアの歴史から、朝鮮半島での高麗の30年に及ぶ抵抗、さらに高麗屈服から3年におよぶ三別抄の抵抗運動が無ければ、日本への元寇の攻撃の時期は早く、内紛によって混乱していた鎌倉幕府は到底、元寇から日本を防衛することは不可能であったに違いない。つまり、高麗と三別抄の長年の蒙古への戦いがあった、日本は元寇から守られていたのである。
蒙古軍は多分に日本への攻撃を5月にしたかったのは、日本の気象を理解していたからだろう。元寇にそれが出来なかったのは、やはり、高麗の都合によるものである。その意味で、蒙古の攻撃は、日本に台風が来る時期になってしまった。このことが、元寇の命取りになった。
しかし、台風によって、2回も蒙古軍は壊滅することになる。そのことが神風神話の背景となる。皮肉なことにこの神風神話に乗せられて、20世紀初期の日本は東アジアに侵攻していくのである。そして、無謀な太平洋戦争を引き起こすのである。
仮に、20世紀初頭の日本の歴史学研究が、東アジアの歴史、取り分け朝鮮半島の歴史学研究をその範疇に入れ、東アジア歴史学共同研究の中で、取り組まれていたなら、神風神話の間違いを指摘できただろう。
また、ベトナム北部の大越が元寇と戦った歴史を知ることで、日本への第三次元寇が中止になる事実も理解できただろう。その歴史認識があれば、20世紀の東アジアへの日本の侵略戦争を引き起こした日本帝国主義イデオロギーを防ぐことが可能となったのではなかろうか。
3-3、世界史の中での日本史の史実解釈
今回の番組での元寇に関する理解から、元寇だけでなく、日本史の史実を東アジアの視点から見ることで、見えない歴史的な背景が理解できる。日本史の正しい理解とは、日本を東アジアの中で理解し、また世界の中で理解しようとすることである。
今までの日本史の史実を東アジアの視点では、朝鮮半島の歴史と関連付けて理解する作業が、日本史の学習の中で必要となるだろう。
注
(1) 三別抄、日本語ではさん「さんべつしょう」と発音し、ハングルでは「タンベルチョウ」と呼ぶ。高麗王朝の軍事組織で、「別抄」とは精鋭部隊を意味する。地方の反乱鎮圧のために臨時編成された軍事組織が、崔(チェ)氏政権の私兵軍団から、高麗の正規軍に発展した。高麗正規軍は「夜別抄(やべつしょう)」には「右別抄(うべつしょう)」と「左別抄(さべつしょう)」の2部隊があり、それに、モンゴルの捕虜から脱走した「神義軍(しんぎぐん)」の三つの軍事集団によって構成された蒙古軍への国内の抵抗組織を三別抄と呼ぶ。
(2)「蒙古国國牒状」東大寺所蔵 Wikipedea 「元寇と高麗」
(3)弾丸の中に火薬を入れ、着弾と同時に弾丸が炸裂する。また、さらに殺傷能力を上げるために、火薬と共に鉄片を混ぜる、ベトナム戦争で使用されたボール爆弾やパイナップル爆弾が有名である。
(4)朝鮮半島では、6世紀以来、高句麗、新羅、百済と長く続いた三国時代を、8世紀、新羅が朝鮮半島南部を統一し、統一新羅を建国し、北の渤海とで南北国時代を迎えた。その後、朝鮮半島は、後百済、新羅、後高句麗と渤海の四つの勢力に分断される。後高句麗の将軍であった王建が918年に高麗を興し、936年に後百済を滅ぼし朝鮮半島を統一した。 Wikipedea の「高麗」を参照
(5)マルコポーロの『東方見聞録』に、ジパングは、中国大陸の東の海上1500マイルにある島国で、莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金で出来ていると説明されていた。Wikipedea 参照
(6)チェジュドは火山島で、面積が1,845km2である。その面積から考えて、島周囲が300里、つまり、1176kmあるというのは不思議である。これは多分、間違いであろうか。
----------------------------------------------------------------------------------------------------
ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」
5. 日韓関係
5-1、NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」 イムジンウェラン 文禄・慶長の役のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6656.html
5-2、NHK 朝鮮半島と日本 「倭寇(わこう)の実像を探る 東シナ海の光と影」のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_2310.html
5-3、NHK EV特集 「元寇蒙古襲来 三別抄と鎌倉幕府」の映像資料のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6943.html
5-4、姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』プロローグのテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_29.html
5-5、東アジア共同体構想の展開を進める日韓関係の強化
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_12.html
A-1、資料の出典紹介
NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」(6)「元寇蒙古襲来 三別抄(1)と鎌倉幕府」の映像 2009年に放映された資料
司会 三宅民夫
レポーター 笹部佳子(ささべ よしこ)
ゲスト 九州大学教授 佐伯弘次(さえき こうじ)
コンジュ(公州)大学校教授 ユン・ヨンピョク
A-2、資料の要約
2-1、世界を制覇した蒙古軍の日本襲来、元寇
1206年、フビライの祖父ジンギスカンがモンゴル(カラコルムが首都)を統一、その後、帝国は拡大しわずか60年間で、帝国は極東から中央アジア、ヨーロッパにいたる巨大な領土を手に入れる。その絶頂期にクビライはモンゴル帝国第五代皇帝となる。1268年、クビライは日本に国書を遣(よこ)し、南宋と友好関係にあった当時の日本の外交政策の転換を丁重に求めながらも、実質はモンゴル帝国の支配を受け属国になることを命じるものであった。(2)
日本は遣唐使以来、中国との国交の歴史はあったが、モンゴルとは誼(よしみ)を通じた歴史はなかった。武家政権鎌倉幕府は、クビライからの国書を日本への威嚇として受け止め、直ちに警備体制の強化を西国の守護や御家人に命じた。
クビライの命に従わない日本に対する攻撃が始まる。13世紀後半の蒙古襲来で、日本は、1274年には2万6千(元軍2万、高麗軍6千)の兵によって、1281年には元と高麗の連合軍4万と元と旧南宋の連合軍10万、合計14万の兵によって、二度にわたって襲撃を受けた。
長崎県松浦市にある鷹島(たかしま)は二度目の蒙古襲来、弘安の役の勝敗を決めた場所である。鷹島には700年経った今でも、その恐ろしさが庶民に伝っている。今でも、元軍の遺品が漁師の網に掛かる。水中調査で、兜や船の残骸の遺物が出てきた。元船の錨(いかり)は全長7mで、錨の重さは1トンで、それから推測して船の大きさは全長40m以上で、100人の人と馬を乗せていたとのではないかと言われている。
海底から元の火薬を使った最新兵器「てつはふ」が見つかっている。硝石のない日本では火薬は作れない。火薬を使った兵器、「てつはふ」は殺傷能力を上げるために火薬と一緒に陶器の破片や鉄片などが混ぜられていていた。「てつはふ」には殺傷を目的とする炸裂弾(3)が用いられていたのである。
2-2、蒙古に屈服した高麗王朝と蒙古と高麗からの国書の背景
1268年、クビライからの国書と同時に高麗からの国書も送られてきた。当時、高麗(朝鮮半島)は元の支配下にあった。その高麗の国書には蒙古が素晴らしい国であることや日本に蒙古と誼(よしみ)を結ぶことを勧め、日本も蒙古に使いを送ったらどうかと書かれていた。
936年に後百済を滅ぼし朝鮮半島を統一した建国された高麗(4)は、1268年、日本に国書を送る40年前から蒙古の激しい攻撃を受けていた。1231年、蒙古は朝鮮半島に侵攻した。蒙古軍団は瞬く(またたく)間に朝鮮半島各地を蹂躙(じゅうりん)し、高麗の首都である開城(ケジョン)に迫る。高麗史に、蒙古の攻撃への対抗策が記されている。蒙古侵入の翌年、1232年、高麗は開城(ケジョン)から南に20kmほど離れた島である江華島(カンファド)に遷都した。
本土と1キロほどの狭い水路で隔てられ、しかも9mの干満の水位が生じる海流の流れも複雑な江華島(カンファド)の地の利を活かして蒙古の騎馬軍団の攻撃を防いだ。その結果、蒙古軍は30年間もこの島に攻め込むことはできなかった。
江華島(カンファド)の高麗宮の遺跡から、当時のカンファドを理解する上で貴重な出土品が多数発掘された。
江華島(カンファド)は開城(ケジョン)への重要な入り口で、しかも、広い土地があり、自給自足が可能であった。高麗は安全な場所として江華島(カンファド)を新しい都とし、ケジョンの都と同じくらいの大きな宮殿や城を建てた。都(まち)を囲む城壁は全長13キロに及び、軍人、官僚や商人などが、新しい江華島(カンファド)の都に移り住んだ。ここで高麗王朝は30年間、蒙古に対して抵抗を続けたのである。
朝鮮半島本土では、侵入してきた蒙古軍に対して、民衆や僧兵(そうへい)達が戦っていた。処仁城(チョインソン)の戦いでは、身分の低い奴婢(ぬひ)階級の人々が先頭に立って戦った。朝鮮半島は凄惨(せいさん)な戦場となった。蒙古の侵入は、30年間で11回に及んだ。 高麗史には、約20万人の男女が蒙古軍の捕虜となったこと、殺戮された人数は数え切れないことが記されている。このたび重なる侵略によって、朝鮮半島は荒廃して行った。
そして、1259年、高麗は蒙古に降伏した。高麗の王子が蒙古に入城し、臣下の礼(蒙古の支配を受けることを認める儀式)を取った。1260年、兄弟間の相続争いに勝ったクビライが第五代モンゴル帝国皇帝に即位した。その四年後の1264年に、年号を中国風に「至元(しげん)」と定める。そしてモンゴル帝国の都を現在の北京、大都(だいと)と名称し、広大な宮城を持つ都を建てた。そこに典型的な中国様式の大明殿(だいめいでん)を造り、そこからさらに世界制覇に向けた活動を始める。
当時の世界通貨は銀であった。その銀を求めて元は交易を興し、富を世界から集めようとした。フビライは黄金の国と呼ばれた日本「ジパング」(5)にも交易を求めた。1267年、フビライの使者は、日本を望む朝鮮半島南部の巨済島(コジェド)まで来た。しかし、使者は日本への渡航が極めて困難であるため日本には渡らず、そのことをフビライに報告した。フビライはそれに激怒し、高麗国王に対して、日本にフビライの国書を届けるように命令した。それが、1268年、クビライの国書と一緒に送られてきた高麗の国書であった。
この国書の中で、高麗王は、蒙古の年号「至元(しげん)」を使っている。つまり、蒙古の攻撃に屈服させられた高麗から、フビライからと高麗からの二つの国書が送られてきたのである。
2-3、蒙古に反抗し続けた高麗軍、三別抄が送った国書の背景
蒙古襲来は朝鮮半島の歴史の中でも重要な事件として記録されている。人民の殺戮や国土の荒廃による飢饉などの被害が大きかった。そして、モンゴル帝国の支配によって、日本攻略の基地となり、そのため日本への軍艦製造や必要な食料等々、巨額の軍事費を使い、多くの兵を日本侵略のために派遣しなければならなかった。それまでの蒙古との戦争で荒廃した国家、高麗にとって、元寇に参加することは大変な負担であった。戦争の契機となるフビライの国書を日本に送るのは気が進まなかったと思われる。高麗は日本と戦争をしなければならない立場におかれることになった。
一方、鎌倉幕府は、蒙古からの国書を日本への脅しとして受け止め動揺した。また、高麗と日本はもともと良好な関係であったのに、蒙古と共に高麗が日本に国書を送ってきたので、そのことも鎌倉幕府を疑心暗鬼にさせた。
国土を蒙古に支配され、蒙古のためにさらに庶民を犠牲にすることになる日本攻略を進める高麗王国の中で、深刻な内部対立が生じる。
モンゴル帝国の国書と一緒に送られてきた高麗の国書が日本に届く1268年から、3年後の1271年に再び、高麗から日本に国書が届いた。当時の公家である吉田経長(よしだつねんなが 1274-1302)の日記「吉続記(きちぞくき)」によると、二回目の高麗から国書の内容は一回目とは内容がまったく反対のもので、蒙古に対決するために食料と軍隊の支援を要請するものであった。それは、さながら日本への救助支援(SOS)のようであった。
1970年代後半、この二つ目の国書の謎を解明する資料が発見された。この資料は、東京大学資料編纂所に眠っていた文書で、「高麗牒状不審条々(こうらいちょうじょうふしんじょうじょう)」である。これは、当時、二つ目の国書を読んだ人物が不審に思った点12箇所を列挙したメモであった。この資料の発見者、石井正敏中央大学教授は、当時勤務した東京大学で調査中にこの資料に偶然出会い、その重要性に気付いた。
「高麗牒状不審条々(こうらいちょうじょうふしんじょうじょう)」は、高麗から届いた二つの国書の内容の違いについて述べている。はじめの国書は蒙古の徳を褒(ほ)めていたが、二つ目は、蒙古兵の野蛮さを指摘している。その二つが矛盾することを指摘している。また、前の国書では蒙古の年号を使っていたが、新しい国書ではそれがないということも指摘されていた。つまり、後の国書は蒙古に従属していない勢力が送ったものであったことが明になる。
蒙古に従属しない高麗の勢力とは何か。そのことを解く鍵は、「高麗牒状不審条々(こうらいちょうじょうふしんじょうじょう)」の第三条に記されていた、江華島(カンファド)から半島最南部の珍島(チンド)に遷都したという記述に、隠されていた。
二度目の国書が届く1年前の1270年、江華島(カンファド)は大きく揺れていた。蒙古の支配を受けた高麗王朝では、高麗の都を江華島(カンファド)から元の都開城(ケジョン)に移るようにと蒙古から要請を受けていた。王とその周辺は蒙古のその要請に従おうとしたが、それに強く反対する勢力が現われことになった。その勢力とは、高麗王朝を守るために選別された軍事集団、右別抄と左別抄からなる夜別抄(よべつしょう)とモンゴルの捕虜になりながらも脱走して戦い続けた神義軍(しんぎぐん)の三つの先鋭部隊によって構成された三別抄と呼ばれる軍事集団であった。
高麗史によると、三別抄(さんべつしょう)の指導者は将軍裴仲孫(テ・ジュンソン)であった。彼は、「蒙古兵が押し寄せ人民を殺戮している」ことや「国を守らんとするものは結集せよ」と呼びかけていた。三別抄は、高麗王室に関係する人物を擁立し、江華島(カンファド)から珍島(チンド)に移った。
つまり、「高麗牒状不審条々(こうらいちょうじょうふしんじょうじょう)」で江華島(カンファド)から珍島(チンド)に遷都したという表現を使うのは三別抄以外にあり得ないのである。したがって、二つ目の国書「高麗牒状(こうらいちょうじょう)」の送り主は三別抄であったと考えられる。
高麗史では、裴仲孫(テ・ジュンソン)は反逆者として記載されている。何故なら、彼が高麗政府の資料、人民の名簿や土地の台帳を焼き払ったからであると謂(い)われている。彼のこの行為は高麗王朝を支えた身分制度や経済基盤を否定する重大な反逆行為であった。そのため、彼は高麗政府の敵となった。
三別抄は徹底的に蒙古に抵抗するために、新しい高麗王朝を珍島(チンド)につくろうとしていた。
珍島(チンド)と本土を隔てる水路は、年貢を運ぶ船が通る重要な場所であった。そこを三別抄は軍事的に押さえようとした。三別抄はチンドに高麗の都として建設した。このことを物語る龍蔵城(ヨンチャンソン)の遺跡がチンドにある。この遺跡は高麗の都ケソンの王宮マンウォルデと立地が似ていることがわかった。また、その後(1988年)の大掛かりな発掘調査で、王宮と思われる高級な青磁(王族などしか使わないと思われる)や宮殿に使われたと思われる蓮の花の瓦などの出土品が発掘された。このことから三別抄の拠点が龍蔵城(ヨンチャンソン)であったことが裏づけられた。また、龍蔵城(ヨンチャンソン)の山城の発掘調査から、この山城は全長14キロに及ぶ龍蔵城(ヨンチャンソン)の宮殿を囲む巨大なものであったことも分かった。
三別抄が日本に国書「高麗牒状(こうらいちょうじょう)」を送ったのはチンドからであった。その国書は朝鮮半島の正当な統治者であると自負したものあった。彼らは、来るべき蒙古との戦いに備えて、日本に食料と兵の援助を求めたのであった。
三別抄は民衆、奴婢などの低い階級の人々によって構成されていた。一方、蒙古の要請で都を江華島(カンファド)から開城(ケジョン)に移すことを同意した高麗国王の主流派は貴族を中心とした勢力で構成されていた。その二つの勢力は、基本的に異なる勢力によって構成されていたと謂える。言い換えると、蒙古に屈した高麗政権の主流派と蒙古に抵抗する三別抄の支持する新興の高麗政権の勢力という根本的な違いがあった。これまで朝鮮半島本土で蒙古と戦った人々は農民であった。その民衆は三別抄を支持して来たのである。
三別抄は高麗王朝と決別し、都をチンドに移すことで、蒙古と戦い続けよとした。そのため、彼らは蒙古と開城(ケジョン)にある傀儡政権(かいらいせいけん)の二つと戦わなければならなくなっていた。三別抄の立場は困難であった。そのため、新しい連帯の相手を見つけようとしていた。日本は次に蒙古に侵略される存在だったので、三別抄は日本と連帯しようとしたのだった。
2-4、日本への蒙古襲来に対する三別抄の役割と鎌倉幕府の反応
もっぱら中国(南宋)との貿易に興味を持っていた鎌倉政府は、朝鮮半島の動きに関心を持っていなかった。そため、三別抄の動きや高麗の情報を鎌倉幕府は知らなかった。そんな中、二つの国書が高麗から届いた。そして、それを分析したのが、「高麗牒状不審条々(こうらいちょうじょうふしんじょうじょう)」であった。この資料によると、当時の鎌倉幕府は三別抄の評価を正確に行わなかった。そのため、1271年、三別抄が必死の覚悟で日本に送った国書に対して鎌倉幕府は何の反応も示さなかったのである。
平安時代には外交は朝廷が取り仕切っていた。鎌倉時代になると外交文書に関する取り扱いは朝廷だけでなく幕府も参画するようになる。時の執権北条時宗は、南宋の僧侶から蒙古の野蛮さを聞き及んでいたので、蒙古からの国書や蒙古に下った高麗にも一切の返書を出さなかった。朝廷も高麗王朝の分裂を把握することが出来ず、当時の資料では朝廷の中で意見が分かれたと記されている。そして、高麗の分裂を察知する者もいたが、しかし、朝廷は、鎌倉幕府と同様に、それらの意見を取りまとめることもせず、届いた国書に返書を出すこともしなかった。
つまり、日本における東アジアの国際政治状況の不理解と情報不足、そして朝廷と幕府の外交の二重システムによる外交決定能力の低下によって、当時の日本は三別抄の支援要請を無視し、これから蒙古の攻撃を受けるにも関わらず、当時蒙古と戦い続けていた三別抄と連帯することも出来なかったのである。
三別抄が送った救援要請は、鎌倉幕府からも朝廷からも無視され、そして日本の援助を得られなかった三別抄は苦戦し、島の東部に追いやられ、三別抄の指導者、将軍裴仲孫(テ・ジュンソン)の記録はここで消える。チンドで高麗再建を試みた三別抄は、済州島(チェジュド)に逃げる。
高麗王朝時代そしてその後、三別抄は長く反逆者とされた。しかし、チンド(クルポ村)では裴仲孫(テ・ジュンソン)は英雄として扱われている。村人はこれまで将軍を大切に祀ってきた。村人は今でも裴仲孫(テ・ジュンソン)を親しく「おじさん」「おじいさん」とよんでいる。
1271年、宋を制圧し中国北部を支配したクビライは国名を「大元」と制定し、中国と朝鮮を中心とし、インド、そしてアフリカをも含む海洋航路のネットワークを拡大しようとしていた。そして『黄金の国』日本を力ずくでも、このネットワークの中に組み込もうとしたのである。
クビライは日本侵攻に備え、高麗に造船を命じ、韓国南部の天然の良港、合浦(ハッポ)で日本攻略のための造船工事が行われていた。
しかし、当時の鎌倉幕府は同族同士の争いに明け暮れていた。1272年の二月騒動で、執権北条時宗は兄時輔を殺害し、蒙古の襲来に備える余裕は無かった。
元の軍隊は、すぐに日本に攻め入ることは出来なかった。何故なら、三別抄(タンベルチョウ)の一部がチェジュドで激しく抵抗し続けていたからであった。チェジュドでの三別抄の拠点となったハンパドゥリ城の砦は全長6kmの及び、また、環海長城(かんかいちょうじょう)とよばれる海に面した側にも300里(約1176km?)の防壁(6)がつくられていた。粘り強く抵抗する三別抄にフビライは業を煮やし、日本攻略のために準備していた軍船団をチェジュドに向けるように命令した。
三別抄はチェジュドから半島各地で攻撃を仕掛けていた。合浦(ハッポ)など三ヶ所の造船現場をことごとくゲリラ的に襲撃し、建造中の軍艦を焼いた。そして、1273年、チェジュドの三別抄に蒙古・高麗連合軍が総攻撃を掛けた。激しい戦闘の末、三別抄の首領が死亡し、足掛け三年に及ぶ三別抄の抵抗運動は終わりを告げた。こうして、フビライは三別抄を駆逐するために時間と戦力を費やすことになったのであった。そのため、第一回の日本への遠征計画は変更を余儀なくされたのであった。
結果的に、鎌倉幕府にとって蒙古襲来の時期が遅れたのは幸いであった。二月騒動も収まり、御家人に西国警備の指令を発することが出来た。
チェジュド攻めの翌年、1274年10月、蒙古・高麗連合軍は九州北部を襲撃した。この第一回の蒙古襲来を文永の役と呼んでいる。戦法の違い、強烈な兵器(毒弓や火薬をつかった砲弾)によって蒙古軍は一日にして圧勝し、箱崎や博多の町も戦火で消滅した。しかし、翌日、蒙古・高麗連合軍団は突然として姿を消した。その理由について、軍が整わず矢も尽きたと記されている。
世界最新の武器を使った蒙古・高麗連合軍に対して、三別抄は足掛け三年も戦い続けた。そのために、日本への元寇襲来は遅くなった。このことが、日本にとっては災いを免れた点があったと思われる。つまり、1270年から1271年までのチンドでの戦い、そして1271年から1273年までのチェジュドでの戦い、三別抄の戦いが蒙古の日本襲来のタイミングを後ろ(1274年)にずらしたことになる。そのことが、日本への元寇の衝撃を緩和したのではないかと考えられている。
本来、元は1274年5月に日本侵攻を考えていた。しかし、準備に時間が掛かり、また、1274年6月に高麗王、元宗が死亡したため、元の攻撃が遅れ、結果的に10月になった。そこで、元は日本への攻撃を行って、すぐに撤退することになったと考えられる。
また、文永の役当時、元は南宋の勢力と対立していた。元は南宋の拠点、揚子江を越えた襄陽(じょうよう)にある難攻不落と謂われた襄陽城を攻めていた。そこでは、クビライは最新式の兵器で攻撃し、ついに襄陽城を攻め落とし、南宋を滅ぼしたのである。そうして、フビライはユーラシア大陸全域に及ぶ大帝国を完成させた。
他方、文永の役以後、蒙古の再襲来に備えて、日本では急ピッチで、防塁(ぼうるい)の建設が進んでいた。高い所で3mからなる防塁は博多湾岸全域、20kmにわたって、造られた。この防塁工事は、わずか半年の突貫工事であった。この防塁を造るために、九州各地から御家人が集められた。
1281年、フビライは、ついに日本への第二次遠征計画を実行した。再び海の彼方から現れた海の船団は兵力14万であった。これを弘安の役と呼んでいる。博多湾岸全域に造られた防塁の効果もあり、鎌倉武士は蒙古勢に対して奮闘した。そして、台風と思われる突然の暴風によって船団は壊滅したのであった。
蒙古襲来に翻弄され続けた34年の生涯を終え、1284年、北条時宗は他界する。
2-5、日本への第三次蒙古襲来に対する大越国の対蒙古戦争の役割
クビライは日本への野望をあきらめず、第三次の日本遠征の機会を窺(うかが)っていた。南宋を破りそれを元に接収したフビライの目は、日本と東南アジアの攻略に向けられていた。フビライは第二次日本攻略のわずか五ヶ月後の1279年7月に日本とベトナム北部の侵攻のために戦艦の造船を命じていた。
ベトナム遠征は直ちに実行される。1288年のバクダン川の決戦、これは今のベトナム北部の大越国が民族の独立を掲げて戦った戦闘である。戦力で優る蒙古に対して大越軍は地の利を活かした戦いを展開した。潮の干満を利用し、川底に杭で仕掛けを作り、満潮を利用し侵入してきた敵の戦艦を身動きできないようにし、反撃し撃退した。大越軍はこの戦いで勝利を治めた。この戦いによって、蒙古軍は大きな痛手を受けた。蒙古軍のベトナム北部での2回の敗北を知ったフビライは激怒した。彼は、ベトナムに戦力を動員するために、日本に渡る予定であった軍勢をベトナム北部に呼び返した。その結果、第三次日本遠征はそのため中止されたと謂われている。
大越の対蒙古戦の勝利は、13世紀の国際社会を考えるとき、大きな意味を持っている。つまり、日本の遥か南、ベトナム北部での戦いが、世界最強の帝国、モンゴル帝国の第三次対日本進攻を中止させるきっかけの一つになったのである。
巨大帝国の夢を追いかけたクビライは日本を征服できないまま、1294年、80歳で生涯を閉じた。
2-6、元寇を世界史の中で理解することの意味
元寇襲来とは、当時の小国日本が世界で最強のモンゴル帝国(後の元)と行った戦争を意味していた。この蒙古襲来は、日本にとってモンゴル帝国がそれまでに支配した国々と同じように、つまり、隣国朝鮮半島の高麗と同じように、帝国に支配される運命の瀬戸際(危機的状況)にあったと謂える。蒙古襲来という当時のモンゴル帝国がユーラシア大陸を支配下に置くための世界戦争の真っ只中に、同時の鎌倉幕府は投げ込まれることになったのである。
しかし、日本、鎌倉幕府には、こうしたモンゴル帝国の世界制覇やモンゴル帝国に関する情報はなかった。そして、当時の鎌倉幕府は内紛に明け暮れていた。また、国家の外交も、天皇を中心とするこれまでの制度と鎌倉幕府の介入による新しい制度構築によって、混乱を来たし、高麗からの貴重な情報、例えば元に屈服した高麗王朝に反旗を翻(ひるがえ)した高麗軍、三別抄からの日本への支援要請を正確に分析し、対応することが出来なかった。
皮肉なことに、日本は支援しなかった三別抄が行った対蒙古戦争で元寇の時期を遅らせたことによって、結果的に三別抄に助けられることになった。
また、第三次日本遠征を断念させる契機をつくる遥か南の大越国の対蒙古戦の戦いの勝利によって、助けられるのである。
このように、日本の元寇史を国内の社会や歴史のみで観るのでなく、国外の歴史との関係から観る事で、立体的に元寇が見えるのである。
しかし、それと裏腹に、日本では、元寇から日本は神国であり、国家の危機的状況を救うために神風が吹くという神話が定着していくのである。それが第二次世界大戦まで続き、精神主義で戦局を乗り越える考え方や神風特攻機を生み出す風土を培っていくのである。太平洋戦争で悲惨な国民の犠牲と敗戦を導いた精神主義の起源は、元寇を日本の内部からのみで観ることによって、生まれたと言えよう。
元寇を国際的視点から見ることによって、元が日本攻略に失敗した国際的要因を加味して理解しなければならないのである。
3、資料の評価
3-1、世界史と東アジア史の中での元寇
この番組が示した課題は、日本史の史実を東アジアの視点から見ることであった。日本史の中で元寇とは、単に蒙古が日本を襲撃したという側面で理解されている。しかし、東アジアの視点では、朝鮮半島がまず蒙古(元)に襲われた。そして、朝鮮半島を支配したモンゴル帝国が、高麗王朝を使って日本を襲うのである。それが日本から見た元寇となる。
モンゴル帝国は建国以来、領土の拡大を目的にした侵略戦争を続けてきた。日本への元寇の前に、遠くて中央アジア、スラブ諸国、近くてインドまで侵攻を続けていた。世界史から見ると、それら朝鮮半島や日本への元寇も世界制覇のためのモンゴル帝国の侵攻の一部に過ぎなかった。つまり、蒙古にとっては、朝鮮半島や日本への元寇は、モンゴル大帝国の構築の過程に過ぎなかったのである。
3-2、東アジア隣国の侵略に使われた神風神話と朝鮮半島での戦いで防げた日本への元寇の被害
日本の神風神話は元寇に対する戦いの中で生れた。世界最強の帝国が日本を襲来しても、日本は神風によって守られるという神話が生まれ、それが太平洋戦争まで続くことになる。
東アジアの歴史から、朝鮮半島での高麗の30年に及ぶ抵抗、さらに高麗屈服から3年におよぶ三別抄の抵抗運動が無ければ、日本への元寇の攻撃の時期は早く、内紛によって混乱していた鎌倉幕府は到底、元寇から日本を防衛することは不可能であったに違いない。つまり、高麗と三別抄の長年の蒙古への戦いがあった、日本は元寇から守られていたのである。
蒙古軍は多分に日本への攻撃を5月にしたかったのは、日本の気象を理解していたからだろう。元寇にそれが出来なかったのは、やはり、高麗の都合によるものである。その意味で、蒙古の攻撃は、日本に台風が来る時期になってしまった。このことが、元寇の命取りになった。
しかし、台風によって、2回も蒙古軍は壊滅することになる。そのことが神風神話の背景となる。皮肉なことにこの神風神話に乗せられて、20世紀初期の日本は東アジアに侵攻していくのである。そして、無謀な太平洋戦争を引き起こすのである。
仮に、20世紀初頭の日本の歴史学研究が、東アジアの歴史、取り分け朝鮮半島の歴史学研究をその範疇に入れ、東アジア歴史学共同研究の中で、取り組まれていたなら、神風神話の間違いを指摘できただろう。
また、ベトナム北部の大越が元寇と戦った歴史を知ることで、日本への第三次元寇が中止になる事実も理解できただろう。その歴史認識があれば、20世紀の東アジアへの日本の侵略戦争を引き起こした日本帝国主義イデオロギーを防ぐことが可能となったのではなかろうか。
3-3、世界史の中での日本史の史実解釈
今回の番組での元寇に関する理解から、元寇だけでなく、日本史の史実を東アジアの視点から見ることで、見えない歴史的な背景が理解できる。日本史の正しい理解とは、日本を東アジアの中で理解し、また世界の中で理解しようとすることである。
今までの日本史の史実を東アジアの視点では、朝鮮半島の歴史と関連付けて理解する作業が、日本史の学習の中で必要となるだろう。
注
(1) 三別抄、日本語ではさん「さんべつしょう」と発音し、ハングルでは「タンベルチョウ」と呼ぶ。高麗王朝の軍事組織で、「別抄」とは精鋭部隊を意味する。地方の反乱鎮圧のために臨時編成された軍事組織が、崔(チェ)氏政権の私兵軍団から、高麗の正規軍に発展した。高麗正規軍は「夜別抄(やべつしょう)」には「右別抄(うべつしょう)」と「左別抄(さべつしょう)」の2部隊があり、それに、モンゴルの捕虜から脱走した「神義軍(しんぎぐん)」の三つの軍事集団によって構成された蒙古軍への国内の抵抗組織を三別抄と呼ぶ。
(2)「蒙古国國牒状」東大寺所蔵 Wikipedea 「元寇と高麗」
(3)弾丸の中に火薬を入れ、着弾と同時に弾丸が炸裂する。また、さらに殺傷能力を上げるために、火薬と共に鉄片を混ぜる、ベトナム戦争で使用されたボール爆弾やパイナップル爆弾が有名である。
(4)朝鮮半島では、6世紀以来、高句麗、新羅、百済と長く続いた三国時代を、8世紀、新羅が朝鮮半島南部を統一し、統一新羅を建国し、北の渤海とで南北国時代を迎えた。その後、朝鮮半島は、後百済、新羅、後高句麗と渤海の四つの勢力に分断される。後高句麗の将軍であった王建が918年に高麗を興し、936年に後百済を滅ぼし朝鮮半島を統一した。 Wikipedea の「高麗」を参照
(5)マルコポーロの『東方見聞録』に、ジパングは、中国大陸の東の海上1500マイルにある島国で、莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金で出来ていると説明されていた。Wikipedea 参照
(6)チェジュドは火山島で、面積が1,845km2である。その面積から考えて、島周囲が300里、つまり、1176kmあるというのは不思議である。これは多分、間違いであろうか。
----------------------------------------------------------------------------------------------------
ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」
5. 日韓関係
5-1、NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」 イムジンウェラン 文禄・慶長の役のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6656.html
5-2、NHK 朝鮮半島と日本 「倭寇(わこう)の実像を探る 東シナ海の光と影」のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_2310.html
5-3、NHK EV特集 「元寇蒙古襲来 三別抄と鎌倉幕府」の映像資料のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6943.html
5-4、姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』プロローグのテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_29.html
5-5、東アジア共同体構想の展開を進める日韓関係の強化
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_12.html
大学の大衆化と問われる大学の社会的機能
三石博行
大学の大衆化によって、多様な目的や要求をもった学生が入学し、学生も学部専門教育を終了したからと言って、必ずしもそれらの知識を直接活用できる企業や組織の就職できる訳ではないのが現実である。
大学の大衆化によって、学部教育は教養専門教育過程として位置づけられてい。大学への入学人口の増加により学生の大学教育への期待や希望も多様化している。大学もそれらの学生の多様な要求にあった教育環境を作ってきた。多種の専門教養科目の履修可能性、情報処理教育の充実、国際感覚を養うための海外提携校への留学、英語での教養や専門科目教育、インターンシップ等々、それらの教育課題を充たすカリキュラムが準備された。そして、これらの具体的な教育内容の変化によって、従来の大学教育の評価方法も大きく変化してきたのである。
大学は高等教育機関としての社会的機能を充たすために、国の制度、高等教育に関する法律に規定され、また文部科学省の高等教育局の管轄の基に運営されている。大きくは、進学基準や卒業要件で、習得科目やそれらの単位数がこと細かく決められている。それに即して、大学は学生にカリキュラムを提供している。同時に、科目担当者は、教育計画内容等を学生に示し、厳密に学生の評価を行い、その科目修了認可を与える。その認可は社会的に認められている。
もし、大学が社会に対して卒業して行く学生の学力に対して責任をもって保障するという立場を持つなら、科目習得条件から試験を取り除くことは出来ない。その場合の大学側の評価内容は学生の「知識の習得」と「技能の習得」に関するものである。つまり、それらの大学での単位認定が、社会的に評価され通用される基準でなければならない。もし、「統計学入門」のシラバスにそって、その単位を修得した学生が企業に就職して、「統計基本量の算出」が分からないということになれば、その企業は学生が卒業した大学に「統計学入門」科目の単位認定の基準に関してクレームを付けてもいいだろう。しかし、日本の社会ははじめから大学にその企業で必要とする知識や技能の教育を期待していなかった歴史的な経過があるために、大学にクレームをかける企業はない。
つまり、それだけ社会は現在の大学教育に期待をしていないと言える。しかし、それだけに、これまで多くの有名な大企業では、大学教育内容を評価するのでなく、大学入試の偏差値を評価して採用する傾向にあった。
しかし、最近、企業の雇用形態が変化し、終身雇用制度が廃止され、企業内での長期的視点に立った人材教育の余裕がなくなり、即戦力のある人材を、手っ取り早く人材派遣会社に委託してかき集める時代になった時、大学は、むしろ、社会からその教育内容に関する正当な評価の機会を得る可能性があるとも言える。
--------------------------------------------------------------------------------
ブログ文書集 タイトル「大学教育改革への提案」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_6795.html
--------------------------------------------------------------------------------
大学の大衆化によって、多様な目的や要求をもった学生が入学し、学生も学部専門教育を終了したからと言って、必ずしもそれらの知識を直接活用できる企業や組織の就職できる訳ではないのが現実である。
大学の大衆化によって、学部教育は教養専門教育過程として位置づけられてい。大学への入学人口の増加により学生の大学教育への期待や希望も多様化している。大学もそれらの学生の多様な要求にあった教育環境を作ってきた。多種の専門教養科目の履修可能性、情報処理教育の充実、国際感覚を養うための海外提携校への留学、英語での教養や専門科目教育、インターンシップ等々、それらの教育課題を充たすカリキュラムが準備された。そして、これらの具体的な教育内容の変化によって、従来の大学教育の評価方法も大きく変化してきたのである。
大学は高等教育機関としての社会的機能を充たすために、国の制度、高等教育に関する法律に規定され、また文部科学省の高等教育局の管轄の基に運営されている。大きくは、進学基準や卒業要件で、習得科目やそれらの単位数がこと細かく決められている。それに即して、大学は学生にカリキュラムを提供している。同時に、科目担当者は、教育計画内容等を学生に示し、厳密に学生の評価を行い、その科目修了認可を与える。その認可は社会的に認められている。
もし、大学が社会に対して卒業して行く学生の学力に対して責任をもって保障するという立場を持つなら、科目習得条件から試験を取り除くことは出来ない。その場合の大学側の評価内容は学生の「知識の習得」と「技能の習得」に関するものである。つまり、それらの大学での単位認定が、社会的に評価され通用される基準でなければならない。もし、「統計学入門」のシラバスにそって、その単位を修得した学生が企業に就職して、「統計基本量の算出」が分からないということになれば、その企業は学生が卒業した大学に「統計学入門」科目の単位認定の基準に関してクレームを付けてもいいだろう。しかし、日本の社会ははじめから大学にその企業で必要とする知識や技能の教育を期待していなかった歴史的な経過があるために、大学にクレームをかける企業はない。
つまり、それだけ社会は現在の大学教育に期待をしていないと言える。しかし、それだけに、これまで多くの有名な大企業では、大学教育内容を評価するのでなく、大学入試の偏差値を評価して採用する傾向にあった。
しかし、最近、企業の雇用形態が変化し、終身雇用制度が廃止され、企業内での長期的視点に立った人材教育の余裕がなくなり、即戦力のある人材を、手っ取り早く人材派遣会社に委託してかき集める時代になった時、大学は、むしろ、社会からその教育内容に関する正当な評価の機会を得る可能性があるとも言える。
--------------------------------------------------------------------------------
ブログ文書集 タイトル「大学教育改革への提案」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_6795.html
--------------------------------------------------------------------------------
現在の三つの大学教育課題
三石博行
現在、日本の大学は、知識の修得、技能のスキルアップと積極的な学習姿勢を身に付ける、という三つの教育課題に取り組んでいる。
一つ目の課題、知識の習得は、これまで大学教育の課題として取り上げられてきたものである。
二つ目の「技能の習得」については、これまで理工系、応用科学系で重視されていた演習科目課題で取り上げられてきた。しかし、我々の社会機能や生活様式が、科学技術技能の大衆化や情報化社会によって、大きく変化してきた。つまり、国民の大半が日常的に情報機器や先端技術機器を活用している。この時代や社会の要請を受けて、すでに1980年代から人文社会科学系の学部でも表計算ソフトや情報処理技能の演習科目やプログラム入門の科目が取り入れられ、伝統的な理工学部の技能教育が全学部共通教育の課題になっている。
三つ目の「学ぶ姿勢の習得」は、上記した二つ目の「大学の大衆化」によって生じてきた課題である。1989年の我が国の高等教育機関(大学24.7%、短大11.7%、高専0.5%、専修学校16.0%)への進学率は高校卒業者の約52.9%であった。2004年では高等教育機関(大学42.4%、短大7.5%、高専0.8%、専修学校23.8%)への進学率は高校卒業者の74.5%になった。(Wikipedia) つまり、学校基本調査の資料から、2004年には3分の2の若者が高等教育を受けているのである。
高等教育が社会のエリート育成を目的にしていた時代、まじめに大学で「学ぶ姿勢」に関して問題にすることは、大学入学資格を得る以前の問題であると考えられていた。つまり、この初歩的な姿勢を持たない人間が社会のリーダーとなるはずがないので、「学ぶ姿勢の習得」に関しては、大学教育の課題として考えるというのでなく、個人的な学習意欲の問題という学生個人の大学生活に対する責任問題して語られてきた。
--------------------------------------------------------------------------------
ブログ文書集 タイトル「大学教育改革への提案」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_6795.html
--------------------------------------------------------------------------------
現在、日本の大学は、知識の修得、技能のスキルアップと積極的な学習姿勢を身に付ける、という三つの教育課題に取り組んでいる。
一つ目の課題、知識の習得は、これまで大学教育の課題として取り上げられてきたものである。
二つ目の「技能の習得」については、これまで理工系、応用科学系で重視されていた演習科目課題で取り上げられてきた。しかし、我々の社会機能や生活様式が、科学技術技能の大衆化や情報化社会によって、大きく変化してきた。つまり、国民の大半が日常的に情報機器や先端技術機器を活用している。この時代や社会の要請を受けて、すでに1980年代から人文社会科学系の学部でも表計算ソフトや情報処理技能の演習科目やプログラム入門の科目が取り入れられ、伝統的な理工学部の技能教育が全学部共通教育の課題になっている。
三つ目の「学ぶ姿勢の習得」は、上記した二つ目の「大学の大衆化」によって生じてきた課題である。1989年の我が国の高等教育機関(大学24.7%、短大11.7%、高専0.5%、専修学校16.0%)への進学率は高校卒業者の約52.9%であった。2004年では高等教育機関(大学42.4%、短大7.5%、高専0.8%、専修学校23.8%)への進学率は高校卒業者の74.5%になった。(Wikipedia) つまり、学校基本調査の資料から、2004年には3分の2の若者が高等教育を受けているのである。
高等教育が社会のエリート育成を目的にしていた時代、まじめに大学で「学ぶ姿勢」に関して問題にすることは、大学入学資格を得る以前の問題であると考えられていた。つまり、この初歩的な姿勢を持たない人間が社会のリーダーとなるはずがないので、「学ぶ姿勢の習得」に関しては、大学教育の課題として考えるというのでなく、個人的な学習意欲の問題という学生個人の大学生活に対する責任問題して語られてきた。
--------------------------------------------------------------------------------
ブログ文書集 タイトル「大学教育改革への提案」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_6795.html
--------------------------------------------------------------------------------
構想日本への期待
三石博行
構想日本が出来てから、一般向けメールマガジンを送って頂いた。すでにあれから長い時間が経ている。
構想日本は、政党を超えて、政策議論を続けてきた。
政治の原則である政策の実現のための本来の活動を守るために、政党という組織のもつ、もう一つの一面、つまり、組織維持のために動き出す組織体の法則に政治が絡め取られないようにするために、純粋に政策研究を課題にした、超党派、すべての人々に門を開いた組織、政策研究機関の設定を構想日本は創り出して来た。
政策に政党が付属する時代には、よりよい政策(ある集団に取って)を実現させるために、政党支持を行うのである。そこで、よい政策を提案する政党への支援行為が、無条件な政党支持行為に置換される危険性を感じながらも、そのことを主観的に過小評価しながら、そして政党支持を行うことになる。
政治と金の問題が発生したとき、「昭和維新を実現しようとする民主党を絶対的に支援しなければならいあから」という理由から、政治と金の問題への民主党批判を我々は避けたと思う。
こうした考えが、結局は、民主党という組織への間違った評価を与えていた。そして、世界と国を救う政策への真摯な取り組みへの願望が、民主党支持という考え方に置き換わるとき、私の思想の弱さを知ったのであった。
問題は、政党支持ではなく、持続可能な社会を形成するための政策(政治プログラム)を造ることではないか。
何故なら、今、日本や世界の政治経済、エネルギーや生態環境問題のすべてをみながら、急激な変動期に入っている。その中で、党利党略を前提にした政党支持の政治運動を行う余裕はない。変革が急がれているのである。もし、自民党がいい政策を出すならそれは歓迎すげきである。もし、社民党がよい政策を示すなら、それは賛成すべきである。問題は、この社会をよりよくするための現実的な政策(政治プログラム)を作り出すことだけである。
政局のあめに政策を犠牲にする。選挙に勝つために、大切な法案の成立を後回しにする。そうした政党は信頼できないのである。しかし、政党というものはそうした組織拡大と政局のために動く自然な組織形態である。
これからの政治に大きな変化を生み出したいなら、塘路党略の政党活動を超える、政策提案の政治運動を展開することだろう。それが新しい日本、世界の政治活動のスタイルをつくっていく。
何故なら、高度情報化社会、高度知識社会によって高度に進歩した民主主義社会での政治を考えるとき、政治のあり方が大きく変化しようとしているかれでる。
政治を行う力は、組織体としての政党でなく、政策の選択運動としての新しい集団、知識人たちに委ねられる。一つの政治課題を解決するために、国のすべての資源、官僚、大学研究者、シンクタンク、企業の専門家、市民活動家、ありとあらゆうる人々が参加し、その課題の解決に向けて、意見を交換し、調整し、最も実現可能な制度の提案、法案を検討する。
科学技術文明社会での高度に情報化した大衆民主主義は、一部の利益のために政治が動くことを益々許すことは無い。そして、益々、情報を公開することを要求し、政策検討過程を公開することを進めるだろう。
それが、これからの社会の姿である。
それが、これからの政治活動、つまり大衆的政治行動の基準になる。
その意味で、構想日本はすでにこれからの時代を予測し、このようなインターネットでの公開討論の場を提供し、構築してきた。
政治思想の貧困を超えれるための道具、大衆的検討機関を作ってきた。
政治を政党の利益を土台にして考える方法はこれから通用しない。
国民や市民の利益をそっちのけにして、政党(小さい組織)の犠牲にしてしまうことを許すなら、国は荒廃する。
地方自治体の政治は地域住民のためにあり、国政は国民のためにあり、国際政治は世界の平和と人類のためにあるのでしょう。その本来の意味を考えるとき、政党はその道具であり、政党政略はその技術である。
もっとも役立ちそうな道具を国民が選ぶ、それが選挙である。
だとすれば、その道具のあり方が、政党という集団でなく、もっとも有効な政策という、道具の使い方として理解されるなら、政治の効率はもっとよくなるのではないか。
最も大切なこと、それは政治が平和の維持や豊かな生活文化を作り出し、人々が安全、基本的人権を守れ、困窮することのない生活を得るためにあるという考え方だ。
問題は、最も有効な政策を提案する力である。それを官僚の方々にのみ依存するだけでなく、国民がそれぞれの知識と経験を活かしながら提案することが、政策中心主義の政治の土台となる。
高度知識社会の日本では、大衆的に政策議論を行うことが可能になるのだと思う。
その意味で、構想日本は、日本にこれからの日本での政治活動のあり方を示した。
構想日本が出来てから、一般向けメールマガジンを送って頂いた。すでにあれから長い時間が経ている。
構想日本は、政党を超えて、政策議論を続けてきた。
政治の原則である政策の実現のための本来の活動を守るために、政党という組織のもつ、もう一つの一面、つまり、組織維持のために動き出す組織体の法則に政治が絡め取られないようにするために、純粋に政策研究を課題にした、超党派、すべての人々に門を開いた組織、政策研究機関の設定を構想日本は創り出して来た。
政策に政党が付属する時代には、よりよい政策(ある集団に取って)を実現させるために、政党支持を行うのである。そこで、よい政策を提案する政党への支援行為が、無条件な政党支持行為に置換される危険性を感じながらも、そのことを主観的に過小評価しながら、そして政党支持を行うことになる。
政治と金の問題が発生したとき、「昭和維新を実現しようとする民主党を絶対的に支援しなければならいあから」という理由から、政治と金の問題への民主党批判を我々は避けたと思う。
こうした考えが、結局は、民主党という組織への間違った評価を与えていた。そして、世界と国を救う政策への真摯な取り組みへの願望が、民主党支持という考え方に置き換わるとき、私の思想の弱さを知ったのであった。
問題は、政党支持ではなく、持続可能な社会を形成するための政策(政治プログラム)を造ることではないか。
何故なら、今、日本や世界の政治経済、エネルギーや生態環境問題のすべてをみながら、急激な変動期に入っている。その中で、党利党略を前提にした政党支持の政治運動を行う余裕はない。変革が急がれているのである。もし、自民党がいい政策を出すならそれは歓迎すげきである。もし、社民党がよい政策を示すなら、それは賛成すべきである。問題は、この社会をよりよくするための現実的な政策(政治プログラム)を作り出すことだけである。
政局のあめに政策を犠牲にする。選挙に勝つために、大切な法案の成立を後回しにする。そうした政党は信頼できないのである。しかし、政党というものはそうした組織拡大と政局のために動く自然な組織形態である。
これからの政治に大きな変化を生み出したいなら、塘路党略の政党活動を超える、政策提案の政治運動を展開することだろう。それが新しい日本、世界の政治活動のスタイルをつくっていく。
何故なら、高度情報化社会、高度知識社会によって高度に進歩した民主主義社会での政治を考えるとき、政治のあり方が大きく変化しようとしているかれでる。
政治を行う力は、組織体としての政党でなく、政策の選択運動としての新しい集団、知識人たちに委ねられる。一つの政治課題を解決するために、国のすべての資源、官僚、大学研究者、シンクタンク、企業の専門家、市民活動家、ありとあらゆうる人々が参加し、その課題の解決に向けて、意見を交換し、調整し、最も実現可能な制度の提案、法案を検討する。
科学技術文明社会での高度に情報化した大衆民主主義は、一部の利益のために政治が動くことを益々許すことは無い。そして、益々、情報を公開することを要求し、政策検討過程を公開することを進めるだろう。
それが、これからの社会の姿である。
それが、これからの政治活動、つまり大衆的政治行動の基準になる。
その意味で、構想日本はすでにこれからの時代を予測し、このようなインターネットでの公開討論の場を提供し、構築してきた。
政治思想の貧困を超えれるための道具、大衆的検討機関を作ってきた。
政治を政党の利益を土台にして考える方法はこれから通用しない。
国民や市民の利益をそっちのけにして、政党(小さい組織)の犠牲にしてしまうことを許すなら、国は荒廃する。
地方自治体の政治は地域住民のためにあり、国政は国民のためにあり、国際政治は世界の平和と人類のためにあるのでしょう。その本来の意味を考えるとき、政党はその道具であり、政党政略はその技術である。
もっとも役立ちそうな道具を国民が選ぶ、それが選挙である。
だとすれば、その道具のあり方が、政党という集団でなく、もっとも有効な政策という、道具の使い方として理解されるなら、政治の効率はもっとよくなるのではないか。
最も大切なこと、それは政治が平和の維持や豊かな生活文化を作り出し、人々が安全、基本的人権を守れ、困窮することのない生活を得るためにあるという考え方だ。
問題は、最も有効な政策を提案する力である。それを官僚の方々にのみ依存するだけでなく、国民がそれぞれの知識と経験を活かしながら提案することが、政策中心主義の政治の土台となる。
高度知識社会の日本では、大衆的に政策議論を行うことが可能になるのだと思う。
その意味で、構想日本は、日本にこれからの日本での政治活動のあり方を示した。