民主主義と報道機能(1)
三石博行
野田政権が成立して、突然、多くの政府支持率や民主党支持率を獲得する状況をどう理解すべきだろうか。つまり、この支持率の変化は、野田民主党政権への評価と言うより、野田政権への期待であると言える。つまり、これまでの管政権への不満、政治への不信が、野田内閣が出来ることで、まるですべて解決したかのように思いたい国民の切ない気持ちだと思う。
現実の世界では、野田政権はまだ何もしていない。だから、本当は、国民は野田政権へプラスにもマイナスにも評価など下せるはずもない。ましては、つい昨日まで民主党政権を不支持であった国民が、政権を支持する筈もない。
つまり、このアンケート自体に何の意味もない。意味のないアンケートを新聞やマスコミは大々的に報道する。その意味のなさに関する説明は全くない。実は、ここにこそ、管政権の最悪のアンケート結果を書き続け、アンケート結果をまるで神様の声、世の中の正論として報道し続けてきた、マスコミの姿がある。
社会はその時その時のマスコミの報道に踊らされる。昨日まで原発推進だったマスコミが、こんどは原発反対を言い出す。昨日まで戦争に国民を借り出していたマスコミが、終戦と同時に民主主義を語り出す。マスコミと呼ばれる怪物に踊らされ、操作され、彼らの意図で世の中が動き出す、そうした間違った情報操作主義をマスコミに与えている原因は何か。
そろそろ、我々は、批判精神をもって世の中の動きを見るべきだろう。そろそろ、東電の支払う巨額の宣伝費に依存してきた私企業としてのマスコミの経営至上主義を見抜くべきだろう。そして、それがマスコミという企業の自然な姿である以上、そしてそれが企業マンとしてのジャーナリストである以上、いつまでも今までのようにマスコミ批判やジャーナリズム批判していて、基本的に民主主義社会の必要十分条件としての報道の自由と事実を報道するジャーナリズムの社会的機能(役割)の必要性を満たすことは出来ない。この問題解決には、マスコミという経営組織が必然的に持つ、企業としての定め・宿命を理解してあげなければならない。
つまり、マスコミ批判から自立した報道機能の形成へと課題を展開しなければならない。つまり、安全な食品を手に入れるように、利益追求型の食品企業にたよるのでなく、自分たちで安全な食べ物を作る運動を起こしたように、そろそろ、我々の自分の意見を発信する報道機能を持つべきだろう。持たなければ、我々の民主主義社会は作れない。
そのうち、もっとインターネット上で情報を発信する人々がウンカのように発生するだろう。そして、北アフリカや中東のように、その力を無視できない日が、この巨大マスコミ国家・情報管理国家・自主情報発信の後進国にも登場するだろう。
つまり、企業化した情報発信と社会や生活運動としての情報発信の在り方の違いについて市民が理解する日が遠くないような気がするのだ。
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東日本大震災関連ブログ文書集
1、ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_3562.html
2、ブログ文書集「東日本大震災の復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
3、ブログ文書集「日本の政治改革への提言」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_9428.html
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2011年10月4日誤字修正
哲学に於いて生活とはそのすべての思索の根拠である。言い換えると哲学は、生きる行為、生活の場が前提になって成立する一つの思惟の形態であり、哲学は生きるための方法であり、道具であり、戦略であり、理念であると言える。また、哲学の入り口は生活点検作業である。何故なら、日常生活では無神経さや自己欺瞞は自然発生的に生まれるため、日常性と呼ばれる思惟の惰性形態に対して、反省と呼ばれる遡行作業を哲学は提供する。方法的懐疑や現象学的還元も、日常性へ埋没した惰性的自我を点検する方法である。生活の場から哲学を考え、哲学から生活の改善を求める運動を、ここでは生活運動と思想運動の相互関係と呼ぶ。そして、他者と共感しない哲学は意味を持たない。そこで、私の哲学を点検するためにこのブログを書くことにした。 2011年1月5日 三石博行 (MITSUISHI Hiroyuki)
2011年9月5日月曜日
2011年9月1日木曜日
現代社会のニーズに答えるための市民運動のNPO化
NPO市民運動の課題(1)
三石博行
PO(企業)化する21世紀の市民運動
私は二つのNPO活動に参画している。一つは国際文化交流運動を事業活動とするNPO京都・奈良EU協会であり、もう一つは太陽光発電所のネットワーク形成と太陽光発電所の維持管理を事業活動としているNPO太陽光発電所ネットワーク(PV-Net)である。
これらの二つの組織は、NPOの本来の姿、つまり社会貢献度の高い企業活動を行っていると言うよりもむしろこれまでの市民運動的な活動スタイルを維持したままで運営されている。NPOという組織形態が、市民運動的な活動も保障しているからこそ、それが可能になっている訳である。
そのことは、この二つのNPOの事業団体としての在り方が問われていることを意味する。何故なら、この二つのNPOは、NPO本来の経営事業体としての機能を十分に活かしきれていないからである。NPOとは営利を目的にしない企業である。その意味で、株式会社や有限会社などの企業と同じように定款で定められた企業活動を行っている。理事会(役員会)がNPO法人の経営責任を持ち事業を行う。NPOは利益を上げることを企業活動の第一の目的としない。しかし、その事業や組織、そしてその運営は株式会社と同じである。
それでは、この二つの市民運動が敢えてNPOでなければならない理由はどこにあるのだろうかという疑問に答えなければならない。何故なら、NPOにしなくてもそれらの国際文化交流団体や太陽光発電所ネットワーク組織は、それぞれに十分に社会貢献を果たす活動が出来るからだ。
しかも、市民運動を経営組織にすることに多くの反対もあった。何故なら、1990年代の市民運動の中では、市民運動体が経済的活動を企画することは到底考えられなかった。また市民運動が会社化すること自体、否定的に理解されていた。市民運動とは、人々が手弁当で創りだす社会活動であると理解されていた。その運動を通じて利益を得る経営活動をすることは不純なこと、許されないことであると考えられていた。
伝統的に(これまで一般的に行われていた)市民運動の組織運営は会員制である。つまり、運動の意義に同意する人々が会費を集め、その会費で会の運営を行う。これがこれまでの市民運動の在り方であった。その意味で、会員制の市民運動体が営業活動を行うことは出来ない。営業活動とは組織が金銭的利益を目的にした活動であるために、利益(収益)とその利益配分という、会員制の市民運動組織体の目的に不具合を生み出すことになる。
しかし、2000年以降は、手弁当での市民運動論から持続可能な社会貢献活動を担保するためにNPOとして活動する市民運動的組織が生まれてきた。その流れに乗って私も国際文化交流運動をNPOとして組織した。そして環境問題を考えるライフスタイルや活動を太陽光発電所ネットワークというNPOに参加して展開しようと考えている。この私個人に現象している市民運動のNPO化にはそれなりの時代的社会的な意味が存在しているのではないかと思う。何故なら、市民運動のNPO化は近年非常に一般化しつつあるからだ。
そこで、その(市民運動のNPO化)の意味を敢えてここで問いかけたいと思う。何故なら、この問いかけに21世紀の企業や社会活動の意味を考える契機が潜んでいると思うからである。
NPO化する市民運動の原因
経営的基盤を持たない限り市民運動を持続することは出来ない。私自身の個人的経験、1970年代に京都大学安全センター運動が市民社会の中に入り込み、労働組合や市民と共に関西労働者安全センター事務局を創った経験からも、持続可能な市民運動を創りだすためには大変な労力が必要であると理解している。
多くの組織がその萌芽期において、運動体的性格を持ち、ボランティアによって組織が運営されている。そして、その運動体の事務局を担う人々は自己犠牲的な貢献を要求される。それらの人々の生活を犠牲にした働きによって、運動体は持続し、また広がり、市民権を得る。つまり、次第に会員(会費)が集り、組織はその資金で運営される。言いかえると、市民運動とは市民の必要性が無い限りその組織を維持することは出来ない。資金が生まれない市民運動の組織とは、市民からのその存在意義を認められていない組織であると言うことにほかならない。その意味で、資金が集まる(会員が集まる)ことがその運動に対する社会(市民)の評価のバロメータであると言える。
それに対して、企業は市民に商品を提供して企業体を維持している。企業にとって商品が売れないことは、社会からその企業活動の存在意義がないことを意味する。そのため、企業は消費者が必要な商品開発を行い続ける。また株式会社は、自社株を売り会社の利益を株主に配当することで社会から広く資金を集めることが出来る。また優秀会社の株価は上がることになる。しかし企業は原則として生産活動によって得られる利益によって組織を維持しているのである。
NPO化する市民運動とは、上記した会員制の市民運動をやめて企業的な要素、つまり組織が提供するサービスで市民運動的な理念を持つ活動と組織を維持しよとしているのである。企業活動と市民活動は基本的に相いれないものがあるにも関わらず、何故、市民運動がNPO化しようとしているのだろうか。その理由を以下にのべる。
1、 これまでと違い質の高いサービスが市民運動に求められている。つまり市民運動へのプロフェショナルな仕事内容が社会的ニーズとして発生している。そして、今までのようにボランティア的な活動やサポートでは市民運動の社会的意味が失われつつある。市民運動体はその市民のニーズにこたえるために、専門的な組織になろうとしている。
2、 持続して事務局を担う人々を維持するために運動体は会費以外の収入を創らなければならない。その原因の一つが少子化による若い世代の減少によってボランティアで事務局を担う若い世代が少なくなったことである。そして、そのことによって、生じる課題がその二つ目の理由となる。つまり、市民運動体はその運動を支えるボランティアを集めるためのプロフェショナルな知識や組織運営のスキルを持つ人々が必要となっている。それらの人々を確保するための財源が問題となる。その財源を見つけ出せない組織は衰退していくことになる。
以上の二つの原因は、一つ目が組織外部の社会的な状況によって生じているものであり、二つ目が組織内部の運営の課題によって生じているものであると言える。
NPO化する市民運動の社会文化的背景
研究開発によって形成される産業(第四次産業)によって牽引される21世紀の社会、つまり科学技術文明社会の形成が市民運動のNPO化の背景にある。高度に発展した知的社会は、高学歴、知的生産に従事する人口の増加、科学技術情報(知識)の大衆化、高度情報化社会、国際化社会が進む。市民は進歩しつづける科学技術社会によって変化し続ける生活や社会環境に順応していくためにより高度な知識を必要とする。
そのニーズに答えるための新しい産業が登場する。例えば教育産業などはその一つである。本来教育活動は学校(法人)の社会的活動である。しかし、質の高い教材を学校法人が作成したとしても、それを社会に商品として売買することはしない。教育産業では先端的な教育技術が開発され、商品化される。そして、それらの商品が市場に登場する。具体的な例として、英語などの語学学習サービス(商品)を提供する企業が、語学学習用の音声教材(商品)を市場に提供している。その教材を活用し、英語学習が市民の日常的な生活風景の中に入り込んでいる。国際化する社会で必要とされる英語学習の需要にヒットした新しい産業・語学教育サービス業が成立するのである。
1970年代までの日本社会では海外旅行や海外生活する人々は少なかった。この時代までの国際文化交流は海外文化の紹介が中心となる。特に欧米社会文化について知りたいと希望する人々は多く、それらの人々のニーズに答えて文化交流活動のイベントが組まれ、欧米文化の紹介や学習が市民の国際交流運動の主な課題となった。
しかし、1980年代以降、多くの日本人が海外に出かけ、大学では短期留学制度を設け、観光産業は観光ツアーを企画し、多くの日本人たちが海外に出かけた。海外、特くに人気の高い欧米社会文化と市民の多くが直接接する機会が生じたのである。海外文化交流の大衆化によってこれまでの海外文化紹介イベントを中心とした国際交流運動の存在意義は希薄化することになる。当然、マスコミを通じて日常的にお茶の間に登場するようになった海外の社会文化の紹介によって、さらに海外文化紹介型国際交流運動の存在理由は失われていったのである。
1980年代から1990年代にかけて、異文化を学ぶことでなく、異文化に触れること、さらに異文化交流を行うことにと、国際理解は講義型学習から旅行などの訪問型学習へと異文化理解の学習スタイルは進化して行った。さらに2000年に入り、学習することから交流することにと異文化理解の在り方がさらに進化してきた。国内には多くの海外からの留学や仕事で滞在している外国人が生活している。それらの外国人との交流を通じて異文化理解を進める市民運動が形成されてきた。文化会館や講演会場、市民センターの学習教室から市民の生活の現場に国際文化交流の活動の舞台が移動しようとしている。その具体的な姿として英語喫茶やレストランで食事しながらの異文化交流会等々である。
大衆化する異文化交流を支える市民の国際文化交流活動の在り方が大きく変化する中で、今までの国際交流活動の在り方も問われている。会員が国際文化交流の主体となり国際文化交流に参画する運動が問われる。NPO京都・奈良EU協会の奈良での英語クラブやフランス語クラブは、その意味で、語学学習の場ではなく、地域の外国人達と海外文化に興味を持つ人々の交流の場を創っている。この場の提供というサービスの商品価値を売り、組織の運営を行うために市民運動体・京都奈良EU協会はNPO法人となった。つまり、会費によって組織運営を行うのでなく、市民が必要とするイベントの提供によって財源を確保すると決意したからである。
英会話やフランス語会話を学びたい市民人口は増え続けているだろう。それらの人々は、語学教育産業の売り出している英語会話学習教材を購入しているだろう。しかし、市民の要求は英語を話せるようになりたい理由があった。それは英語を使って海外の人々と交流したいのである。その要求を語学教育産業は満たすことは出来ない。そこにNPO市民運動の役割が発生するのである。つまり、語学の実践的な学習(海外に人々とのコミュニケーション)の場の設定こそが、NPO市民運動の売りであり、商品なのである。
高度知識社会によって進行する科学技術文明化(情報化社会、高学歴社会等々)や国際化(海外の社会文化情報や生産物の日常化、増加する地域社会での外国人居住者等々)によって、これまでの市民生活環境や生活様式(ライフスタイル)は変化していく。地域社会では異文化共生のための行政サポートが生まれ、学校では自分たちの地域社会での異文化理解に関する教育活動が取り組まれる。そして、市民社会では街角の異文化交流イベントが日常的に開かれる。市民運動組織はそれらの市民の日常生活で求められている要求や需要をくみ取り、それを市民参画型の商品として提供することを求められている。その作業はヒットする商品(イベント)を企画できる専門的な知識を持つ人々(事務局)によって可能になる。その意味で市民運動を専門的にリードするスタッフが必要となっている。それを保障するために市民運動のNPO化が進むのである。
参考資料
三石博行 「生活運動としての国際交流運動」 2007年12月14日
http://mitsuishi.blogspot.com/2007/12/blog-post_14.html
三石博行 「文化経済学的視点に立った国際交流活動」2007年12月26日
http://mitsuishi.blogspot.com/2007/12/blog-post_26.html
三石博行 「新しい国際交流活動のあり方を模索して」2009年6月29日
http://mitsuishi.blogspot.com/2009/06/blog-post.html
三石博行 「街に生れるイングリシュカフェ文化の意味」2010年8月21日
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/08/it-21-1-2-3-70.html
三石博行 「第三期国際交流運動を展開した歴史」2010年8月23日
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/08/blog-post_23.html
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東日本大震災関連ブログ文書集
1、ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_3562.html
2、ブログ文書集「東日本大震災の復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
3、ブログ文書集「日本の政治改革への提言」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_9428.html
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2011年10月4日誤字修正
三石博行
PO(企業)化する21世紀の市民運動
私は二つのNPO活動に参画している。一つは国際文化交流運動を事業活動とするNPO京都・奈良EU協会であり、もう一つは太陽光発電所のネットワーク形成と太陽光発電所の維持管理を事業活動としているNPO太陽光発電所ネットワーク(PV-Net)である。
これらの二つの組織は、NPOの本来の姿、つまり社会貢献度の高い企業活動を行っていると言うよりもむしろこれまでの市民運動的な活動スタイルを維持したままで運営されている。NPOという組織形態が、市民運動的な活動も保障しているからこそ、それが可能になっている訳である。
そのことは、この二つのNPOの事業団体としての在り方が問われていることを意味する。何故なら、この二つのNPOは、NPO本来の経営事業体としての機能を十分に活かしきれていないからである。NPOとは営利を目的にしない企業である。その意味で、株式会社や有限会社などの企業と同じように定款で定められた企業活動を行っている。理事会(役員会)がNPO法人の経営責任を持ち事業を行う。NPOは利益を上げることを企業活動の第一の目的としない。しかし、その事業や組織、そしてその運営は株式会社と同じである。
それでは、この二つの市民運動が敢えてNPOでなければならない理由はどこにあるのだろうかという疑問に答えなければならない。何故なら、NPOにしなくてもそれらの国際文化交流団体や太陽光発電所ネットワーク組織は、それぞれに十分に社会貢献を果たす活動が出来るからだ。
しかも、市民運動を経営組織にすることに多くの反対もあった。何故なら、1990年代の市民運動の中では、市民運動体が経済的活動を企画することは到底考えられなかった。また市民運動が会社化すること自体、否定的に理解されていた。市民運動とは、人々が手弁当で創りだす社会活動であると理解されていた。その運動を通じて利益を得る経営活動をすることは不純なこと、許されないことであると考えられていた。
伝統的に(これまで一般的に行われていた)市民運動の組織運営は会員制である。つまり、運動の意義に同意する人々が会費を集め、その会費で会の運営を行う。これがこれまでの市民運動の在り方であった。その意味で、会員制の市民運動体が営業活動を行うことは出来ない。営業活動とは組織が金銭的利益を目的にした活動であるために、利益(収益)とその利益配分という、会員制の市民運動組織体の目的に不具合を生み出すことになる。
しかし、2000年以降は、手弁当での市民運動論から持続可能な社会貢献活動を担保するためにNPOとして活動する市民運動的組織が生まれてきた。その流れに乗って私も国際文化交流運動をNPOとして組織した。そして環境問題を考えるライフスタイルや活動を太陽光発電所ネットワークというNPOに参加して展開しようと考えている。この私個人に現象している市民運動のNPO化にはそれなりの時代的社会的な意味が存在しているのではないかと思う。何故なら、市民運動のNPO化は近年非常に一般化しつつあるからだ。
そこで、その(市民運動のNPO化)の意味を敢えてここで問いかけたいと思う。何故なら、この問いかけに21世紀の企業や社会活動の意味を考える契機が潜んでいると思うからである。
NPO化する市民運動の原因
経営的基盤を持たない限り市民運動を持続することは出来ない。私自身の個人的経験、1970年代に京都大学安全センター運動が市民社会の中に入り込み、労働組合や市民と共に関西労働者安全センター事務局を創った経験からも、持続可能な市民運動を創りだすためには大変な労力が必要であると理解している。
多くの組織がその萌芽期において、運動体的性格を持ち、ボランティアによって組織が運営されている。そして、その運動体の事務局を担う人々は自己犠牲的な貢献を要求される。それらの人々の生活を犠牲にした働きによって、運動体は持続し、また広がり、市民権を得る。つまり、次第に会員(会費)が集り、組織はその資金で運営される。言いかえると、市民運動とは市民の必要性が無い限りその組織を維持することは出来ない。資金が生まれない市民運動の組織とは、市民からのその存在意義を認められていない組織であると言うことにほかならない。その意味で、資金が集まる(会員が集まる)ことがその運動に対する社会(市民)の評価のバロメータであると言える。
それに対して、企業は市民に商品を提供して企業体を維持している。企業にとって商品が売れないことは、社会からその企業活動の存在意義がないことを意味する。そのため、企業は消費者が必要な商品開発を行い続ける。また株式会社は、自社株を売り会社の利益を株主に配当することで社会から広く資金を集めることが出来る。また優秀会社の株価は上がることになる。しかし企業は原則として生産活動によって得られる利益によって組織を維持しているのである。
NPO化する市民運動とは、上記した会員制の市民運動をやめて企業的な要素、つまり組織が提供するサービスで市民運動的な理念を持つ活動と組織を維持しよとしているのである。企業活動と市民活動は基本的に相いれないものがあるにも関わらず、何故、市民運動がNPO化しようとしているのだろうか。その理由を以下にのべる。
1、 これまでと違い質の高いサービスが市民運動に求められている。つまり市民運動へのプロフェショナルな仕事内容が社会的ニーズとして発生している。そして、今までのようにボランティア的な活動やサポートでは市民運動の社会的意味が失われつつある。市民運動体はその市民のニーズにこたえるために、専門的な組織になろうとしている。
2、 持続して事務局を担う人々を維持するために運動体は会費以外の収入を創らなければならない。その原因の一つが少子化による若い世代の減少によってボランティアで事務局を担う若い世代が少なくなったことである。そして、そのことによって、生じる課題がその二つ目の理由となる。つまり、市民運動体はその運動を支えるボランティアを集めるためのプロフェショナルな知識や組織運営のスキルを持つ人々が必要となっている。それらの人々を確保するための財源が問題となる。その財源を見つけ出せない組織は衰退していくことになる。
以上の二つの原因は、一つ目が組織外部の社会的な状況によって生じているものであり、二つ目が組織内部の運営の課題によって生じているものであると言える。
NPO化する市民運動の社会文化的背景
研究開発によって形成される産業(第四次産業)によって牽引される21世紀の社会、つまり科学技術文明社会の形成が市民運動のNPO化の背景にある。高度に発展した知的社会は、高学歴、知的生産に従事する人口の増加、科学技術情報(知識)の大衆化、高度情報化社会、国際化社会が進む。市民は進歩しつづける科学技術社会によって変化し続ける生活や社会環境に順応していくためにより高度な知識を必要とする。
そのニーズに答えるための新しい産業が登場する。例えば教育産業などはその一つである。本来教育活動は学校(法人)の社会的活動である。しかし、質の高い教材を学校法人が作成したとしても、それを社会に商品として売買することはしない。教育産業では先端的な教育技術が開発され、商品化される。そして、それらの商品が市場に登場する。具体的な例として、英語などの語学学習サービス(商品)を提供する企業が、語学学習用の音声教材(商品)を市場に提供している。その教材を活用し、英語学習が市民の日常的な生活風景の中に入り込んでいる。国際化する社会で必要とされる英語学習の需要にヒットした新しい産業・語学教育サービス業が成立するのである。
1970年代までの日本社会では海外旅行や海外生活する人々は少なかった。この時代までの国際文化交流は海外文化の紹介が中心となる。特に欧米社会文化について知りたいと希望する人々は多く、それらの人々のニーズに答えて文化交流活動のイベントが組まれ、欧米文化の紹介や学習が市民の国際交流運動の主な課題となった。
しかし、1980年代以降、多くの日本人が海外に出かけ、大学では短期留学制度を設け、観光産業は観光ツアーを企画し、多くの日本人たちが海外に出かけた。海外、特くに人気の高い欧米社会文化と市民の多くが直接接する機会が生じたのである。海外文化交流の大衆化によってこれまでの海外文化紹介イベントを中心とした国際交流運動の存在意義は希薄化することになる。当然、マスコミを通じて日常的にお茶の間に登場するようになった海外の社会文化の紹介によって、さらに海外文化紹介型国際交流運動の存在理由は失われていったのである。
1980年代から1990年代にかけて、異文化を学ぶことでなく、異文化に触れること、さらに異文化交流を行うことにと、国際理解は講義型学習から旅行などの訪問型学習へと異文化理解の学習スタイルは進化して行った。さらに2000年に入り、学習することから交流することにと異文化理解の在り方がさらに進化してきた。国内には多くの海外からの留学や仕事で滞在している外国人が生活している。それらの外国人との交流を通じて異文化理解を進める市民運動が形成されてきた。文化会館や講演会場、市民センターの学習教室から市民の生活の現場に国際文化交流の活動の舞台が移動しようとしている。その具体的な姿として英語喫茶やレストランで食事しながらの異文化交流会等々である。
大衆化する異文化交流を支える市民の国際文化交流活動の在り方が大きく変化する中で、今までの国際交流活動の在り方も問われている。会員が国際文化交流の主体となり国際文化交流に参画する運動が問われる。NPO京都・奈良EU協会の奈良での英語クラブやフランス語クラブは、その意味で、語学学習の場ではなく、地域の外国人達と海外文化に興味を持つ人々の交流の場を創っている。この場の提供というサービスの商品価値を売り、組織の運営を行うために市民運動体・京都奈良EU協会はNPO法人となった。つまり、会費によって組織運営を行うのでなく、市民が必要とするイベントの提供によって財源を確保すると決意したからである。
英会話やフランス語会話を学びたい市民人口は増え続けているだろう。それらの人々は、語学教育産業の売り出している英語会話学習教材を購入しているだろう。しかし、市民の要求は英語を話せるようになりたい理由があった。それは英語を使って海外の人々と交流したいのである。その要求を語学教育産業は満たすことは出来ない。そこにNPO市民運動の役割が発生するのである。つまり、語学の実践的な学習(海外に人々とのコミュニケーション)の場の設定こそが、NPO市民運動の売りであり、商品なのである。
高度知識社会によって進行する科学技術文明化(情報化社会、高学歴社会等々)や国際化(海外の社会文化情報や生産物の日常化、増加する地域社会での外国人居住者等々)によって、これまでの市民生活環境や生活様式(ライフスタイル)は変化していく。地域社会では異文化共生のための行政サポートが生まれ、学校では自分たちの地域社会での異文化理解に関する教育活動が取り組まれる。そして、市民社会では街角の異文化交流イベントが日常的に開かれる。市民運動組織はそれらの市民の日常生活で求められている要求や需要をくみ取り、それを市民参画型の商品として提供することを求められている。その作業はヒットする商品(イベント)を企画できる専門的な知識を持つ人々(事務局)によって可能になる。その意味で市民運動を専門的にリードするスタッフが必要となっている。それを保障するために市民運動のNPO化が進むのである。
参考資料
三石博行 「生活運動としての国際交流運動」 2007年12月14日
http://mitsuishi.blogspot.com/2007/12/blog-post_14.html
三石博行 「文化経済学的視点に立った国際交流活動」2007年12月26日
http://mitsuishi.blogspot.com/2007/12/blog-post_26.html
三石博行 「新しい国際交流活動のあり方を模索して」2009年6月29日
http://mitsuishi.blogspot.com/2009/06/blog-post.html
三石博行 「街に生れるイングリシュカフェ文化の意味」2010年8月21日
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/08/it-21-1-2-3-70.html
三石博行 「第三期国際交流運動を展開した歴史」2010年8月23日
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/08/blog-post_23.html
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東日本大震災関連ブログ文書集
1、ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_3562.html
2、ブログ文書集「東日本大震災の復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html
3、ブログ文書集「日本の政治改革への提言」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_9428.html
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