三石博行
第1章 テキストの出典
畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』文藝春秋、文春文庫、2005年6月10日第1刷、258p、第一章「失敗学の基礎知識」pp17-63
テキストの文献記号は、(HATAyo05A )とする。
著者畑村洋太郎は1941年生まれ、東京出身、東京大学名誉教授、工学博士、創造的設計論、知能化加工学、ナノ・マイクロ加工学を研究。最近では、工学分野に留まらず、経営分野における失敗学などの研究を行っている。
畑村氏は、失敗学に関して、「失敗学のすすめ」「回復力 失敗からの復活」、「危険不可視社会」、「失敗学(図解雑学)」、「危機の経営」、「だから失敗が起こる」、「失敗を生かす仕事術」、「失敗学実践講義 だから失敗は繰り返される」等々、多くの著書を出版している。
第2章「失敗学の基礎知識」pp17-63の要約
2-0、「失敗学」における失敗の定義
著者は失敗学における失敗の定義を「人間が関わったひとつの行為の結果が、望ましくない、あるいは期待しないものとなる」(HATAyo05A p14)と述べている。つまり、失敗とは、ある行為の結果がその目標であった状態に対して望ましくない結果や期待はずれの状態も含むことを意味している。
2-1、「逆演算」で失敗の《からくり》がわかる
著者は、「初めて失敗学に触れる人たちのことを考え、第一章では、失敗学の基本的な考え方を」述べる。
「逆演算」で失敗の《からくり》がわかる
著者は「失敗を生かすための第一段階は」、失敗のからくりを理解することであると述べている。つまり、「どんな原因がどんな結果(失敗)をもたらしたか」を正しく理解することである。
失敗が起きたときに目に見えるものは、失敗したと評価されている「結果」の部分である。問題は、何故失敗したか、その原因は何かということであるが、「原因」は目に見えない。その目に見えない失敗の原因を辿っていくことを「失敗学では「逆演算」と呼」ぶ。(p19)「HATAta05Aを省略してページ数のみを表示する」
「失敗学では失敗の構造をより正確に把握するために、「原因」を《要因》と《からくり》の二つに分けて」(p19)考える。「つまり、失敗の構造を《要因》《からくり》《結果》の三要素から構成されていると考える」(p19)。そして、失敗学では、見える結果から見えない失敗の要因やからくりに逆に辿っていく手法が取られる。この手法(方法)を「失敗学における逆演算」と呼ぶ。つまり失敗の《結果》(目に見える状態)から「《要因》と《からくり》という見えない二つのものを逆に辿(たど)って探していく」(p20)のである。
雪印食品での失敗例
雪印食品の牛肉偽装・詐欺事件(2002年1月)は、単純に原因は「狂牛病問題のせい」で、結果は「詐欺事件が起きた」ことになる。つまり、雪印食品は狂牛病問題で困っていて、その結果、牛肉偽装の詐欺事件を起こしたという説明が成立する。
「しかし、狂牛病問題のせいで困っていた会社は雪印食品以外にもあり、それらの会社がすべて牛肉偽装・詐欺を働いたわけでは」(p20)ない。つまり、上記した原因(狂牛病問題)があっても、必ずしも結果(牛肉偽装)という結びつきは起こらない。
そこで、この雪印食品の失敗《結果》を《要因》と《からくり》に分けて分析する。すると《からくり》にはいんちきをしてでも、儲けたいという「雪印の企業体質」が挙げられる。つまり《狂牛病=要因》を、《雪印食品の企業体質=からくり》の中に入力したからこそ、《牛肉偽装・詐欺事件=結果》が出力されたのである。(p20)
この雪印食品の例から分かるように、《からくり》の正体を明らかにすることで、「本当の失敗の原因を究明できる」(p20)のである。
この例から、失敗を引き起こす《要因》は、社会問題や過去の事件(企業経営に関する)、個人の場合には失敗行動を起こす「動機」であったりする。また、失敗を引き起こす《からくり》は組織や個人の「特性」、つまり企業体質や理念、個人の考え方、行動規範や性質などが考えられる。(p21)
売れる営業マンと売れない営業マンの例
私たちが実際に失敗に遭遇した場合に、逆演算の方法を使って具体的に問題を解決していく例として、自動車販売会社の二人の社員、売れない営業マンAさんと売れる営業マンBさんの例をとって、逆演算のやり方の説明を行う。
第一段階 失敗の原因を知るために《要因》《からくり》を知る必要性がある。
売れない営業マンAさんから見えてくる現状は「自動車が売れない」という結果である。その結果からAさんは「不景気だから」とかAさんがたまたま運悪く、財布のひもの固い人々の多い車の売れない地域の担当になったからだと考える。(p21)
しかし、同僚のBさんは同じ条件下でも売り上げを伸ばしている。売れる営業マンBさんがいる以上、Aさんの考えた売れない原因は正しくないことになる。(p22)
そこで、Aさんは、失敗学の逆演算の方法を使って、売れないという《結果》に至る《要因》と《からくり》の二つの要素を探る必要が生じた。失敗の《結果》からその《要因》と《からくり》を探る必要性を感じるというのが失敗の原因を知るための第一段階である。
第二段階 《からくり》の正体を探す
第二段階は、失敗の《結果》を導く《からくり》の正体を探すことである。
そこでAさんは、同僚のBさんのセールスの方法と自分のそれとの違いを検討することになる。つまり、車が売れない《からくり》はセールスの方法の違いであると仮設(仮説)した。その仮説から車が売れないという《結果》を逆算した。(p22)
Aさんの車が売れないという《結果》に共通する部分は「Aさんが価格を安くしてセールスをしている」(p22)ことで、この共通部分に失敗の《からくり》の基本構造が隠されている。言い換えるとAさんは車を売るセールス方法は「安く売るやり方」だと考えていたことが理解できた。安ければ顧客は車を買うという考えがAさんのセールスを決めていたことになる。
第三段階《からくり》に架空の《要因》を入れてみる
第二段階で《からくり》の正体が明らかになったら、つぎにさまざまな《要因》を想定して、《からくり》の中に入れてみる。そして、それから導かれる架空の《結果》を推測する。
一つの架空の結果の推測として、例えば、お金があるので「乗り心地がよくて飽きのこない車がほしい」という架空の《要因》を入れて、Aさんのセールス方法の《からくり》である「価格が安ければ売れるだろう」から、「高くてもいいから、性能、デザインともに、もっと質の高い車がほしいから買わない」という《結果》が出てくる。
もう一つの架空の結果の推測として、例えば、「自動車にかけられる予算があまりないので、できるだけ長持ちする車がほしい」(p24)という《要因》にAさんの《からくり》を入れれば、安いが、すぐ故障する車は買わないという《結果》が導ける。(p24)
このように、可能な限り色々な《要因》を仮設して、見つけ出した失敗の《からくり》に入れてみる。そこから導かれる色々な《結果》を取り出す(計算する)。
第四段階 《要因》《からくり》《結果》の関係を一般化し、予測・類推につなげる
第三段階で思考実験した《要因》群と《結果》群から、《要因》《からくり》《結果》の関係が浮かび上がってくる。(p25)Aさんの場合、もし「値段以外のことを重視する客(要因)が来」たら、Aさんの安ければ売れるという方法(からくり)では、この客には車を売れないという《結果》が生じる。(p25)
つまり、Aさんのセールスの方法《からくり》が一つしかない場合、色々な顧客の要求(要因)に対応して車を売ることができないという《結果》が生まれる。そこで、Aさんは、セールスの方法(からくり)を見直し、顧客のニーズにあったセールス方法を見つけ出す必要が生じていることに気付く。
Aさんの車が売れない《からくり》を見つけ出し、その《からくり》を変更しない限り、つまり顧客のニーズに合わせてセールスの方法を変える《からくり》にしない限り、いつまでも車が売れない《結果》になることが予測できるのである。
うまいラーメン屋の逆演算とは
失敗の本当の原因を理解することは、失敗を克服するためである。そこで、失敗を克服する方法について考える。それは状況に合わせて対策を講じるというやり方である。そこで人気のある東京のあるラーメン屋の例を取って説明を行う。
ラーメン屋の主人は開業以来、百回を超える味変えをしている。なぜなら、人は最初はおいしいと思った味もじきに飽きるとこの店の主人は考え、「味をよくする努力を怠ってはいけない」し、また一年に一回から二回の割りであらゆる角度から味を見直す、よい味にする試作を重ねる。そして客の反応を見ながら、客がどんな味を欲しいのかを観察し続けている。(p26-28)
これは、よくはやっているラーメン屋という《結果》である。この結果を導く《要因》や《からくり》を理解するために、失敗学の逆演算を活用してみる。
すると、繁盛しているラーメン屋《結果》は、ただ味がうまいからではなく、…お客が求めているものを提供するという営業理念《からくり》がある。(p28)繁盛するラーメン屋になるためには、色々な《要因》を《からくり》入れて、その《結果》を演算するとよい。そして、最も大切なことは自分でうまいラーメン屋の主人となるための《からくり》を見つけ出すことである。(p28-29)
2-2、「失敗の脈絡」分析で失敗を予測せよ
異なる《要因》でも、同じ《からくり》から同じような失敗《結果》が予測される
「逆演算によって一般化した失敗の《要因》《からくり》《結果》の関係のことを、失敗学では「失敗の脈絡」と呼」ぶ。(p30)この失敗の脈絡を使った、失敗の《要因》と《からくり》を類推すれば、…どんな失敗がどういう経緯で起こるかを、予測できる」(p30)のである。
狂牛病騒動が日本で起こる三ヶ月前に新聞にEUが「狂牛病の拡大を防ぐために、EUの欧州委員会はもちろん、それ以外の国についても危険度の調査を行い警告を発してきた。日本について…感染リスクが高い国と評価される可能性があったのに、日本は調査を中止するように申し入れた」(p30-31)経過があった。
日本で起きた狂牛病騒動・農水省の失敗《結果》に関連する《要因》と《からくり》の関連、つまり失敗の脈絡は、まったく薬剤エイズ事件・厚生省(現在の厚生労働省)失敗の脈絡と同じである。(p31)
「厚生省はアメリカから非加熱製剤は危険だという情報を得ながら無視」したことが《要因》となり、官僚、お役所体質である事なかれ主義や特定の人物や業者との癒着しやすい体質《からくり》によって、薬剤エイズ事件の失敗《結果》が起こる。(p31)
つまり、狂牛病の場合にも、農水省は欧州委員会の調査で狂牛病の危険を知りながらも無視した事実が《要因》となり、お役所の事なかれ主義体質が《からくり》として働き、その《結果》が、狂牛病の感染が日本で見つかるということになった。(p31)
二つの失敗は、同じ《からくり》つまりお役所の事なかれ主義の体質によって引き起こされていることが理解できる。(p31)つまり、すでに、一つの失敗の脈絡を理解すれば、同じ《からくり》を見出すことで、別の失敗を予測することができるのである。
安全宣言は危険宣言
農水省は狂牛病の発見から「感染牛は一頭だけなので、牛肉を食べても安全」と早々と安全宣言を行った。しかし、著者(畑村洋太郎氏)は、その安全宣言を疑った。何故なら、それ以前に同じようなことがJR西日本山陽新幹線のトンネル内コンクリート剥落事故でもあったからだ。つまり、JR西日本は事故後詳しい調査もしないで応急処置をしただけで安全宣言を出した。その後二ヶ月でまた同じようなトンネル内のコンクリート剥落事故が発生した。
JR西日本のコンクリート剥落事故後の安全宣言と農水省の狂牛病発見後の安全宣言は、まったく別の分野の事故への対応(安全宣言)であるが、失敗の脈絡からみると、同じ《からくり》つまり原因究明の前に安全宣言を出すという企業・組織の体質を持っている以上、同じ結果が生じる。その意味で、JR西日本の事故への対応の失敗が、農水省の事故への対応に対する結果の予測が可能となるのである。(p32)
他の失敗から学ぶ、失敗の脈絡を理解する力
「失敗の脈絡」を理解するなら、「ある分野の「失敗の脈絡」を、別の分野に当てはめて失敗の各要素を類推すれば、失敗はかなり的確に予測すること」(p33)が可能になるし、「失敗を未然に防ぐことができる」。(p33) つまり、他の分野で起きた他人の「失敗の脈絡」を、自分、自分の所属する組織に当てはめて、失敗の各要素を類推し、結果を予測し、失敗につながらないような対策を講じることができる。(p33)
失敗学では、つねに身の回りで起こるさまざまな事象(失敗につながるような)に対して、その要因とからくりを考える習慣を身につける心がけを大切にしている。(p33)
2-3、失敗は確率現象である
ハインリッヒの法則と大失敗を防ぐ対処法
労働災害の発生確率に関する法則に1941年にアメリカのH.W.ハインリッヒが事故や災害の調査結果から導き出した結論、つまり1件の重大災害の裏には29件の軽微な災害があり、さらにその後ろにはヒヤリ、ハッとする事例が300件潜んでいるという「ハインリッヒの法則」がある。(p34)
そこで、少しでもヒヤリ、ハッとした経験をした場合には、その背景になる職場環境の要因が重大事故につながるという認識を持ち、十分な対策を行えば、重大災害を未然に防ぐことができる。(p34)
失敗ついて、ハインリッヒの法則が当てはまる。新聞沙汰になる大きな失敗があるなら、その背後に必ず顧客からのクレームなどの軽度の失敗が29件ほどある。そしてその背後に失敗とはいわないが、何らかのヒヤリ、ハッとする経験が300件ぐらいある。(p34)致命的な大失敗が起こる確率は300分の1(厳密には330分の1)である。
つまり、大きな失敗(重大災害)は常に300分の1で起こる確率として存在しているといえる。(p35)言い換えると失敗とは確率現象だといえる。(p36)「どんな小さなことでも「ヒヤリ」としたら失敗の予兆だと受け止めて、それを構成している要因をきちんとつきとめて、それがどういう危険性を持っているかを考え、適切な対処をすれば致命的な大失敗は必ず防げる」(p36)のである。
雪印乳業は三百倍以上のツケを払った
重大事故の前には何らかの予兆が必ずある。それに気づいたときに適切な対応をしていれば、事故は防げるのである。(p37)
2000年3月に発生した営団地下鉄日比谷線の脱線事故も、同様な事故が1992年12月にも起きていた。また、2000年6月に発生した雪印乳業の集団中毒事件も、同じ事故(集団中毒事件)が30年前にも同じ工場で起きていた。重大な失敗が起こる前兆は以前からあったが、それを見逃し、きちんと対処しなかったために、致命的な失敗を引き起こすことになった。(p37)
日頃起きている些細な事故や失敗を無視せず、それらの一つひとつの問題を日常的に解決していく真摯な姿勢が致命的な失敗を防ぐのである。(p37)
もし、そうした姿勢を失い重大事故や失敗を起こしてしまえば、その損害は甚大なものになり、一般にその被害は「三百倍のツケを払わなければならない」と言われている。(p39)
2-4、失敗は拡大再生産される
失敗の拡大再生産とは 動燃のビデオ隠しの例
失敗の《要因》と《からくり》を解明し、その失敗につながる《要因》《からくり》を変える対策を打たなければ、同じ《要因》が同じ《からくり》を通して、同じ失敗の《結果》が起こる。つまり、同じ「失敗の脈絡」で失敗が繰り返されることになる。そんを「失敗の拡大再生産」と呼ぶ。(p40)
この「失敗の拡大再生産」の典型的な例として、1995年5月10日に起きた高速増殖炉「もんじゅ」の事故での動燃(動力炉・核燃料開発事業団)の「ビデオ隠し事件」がある。事故翌日に事故現場のビデオを報道陣に公開した。その時、動燃は「撮影はカメラ1台で行い、これ以外の映像はない」と説明した。ところが、その後すぐに(2日後)県と市の原子力安全対策課が現場調査したところ、公開されたビデオにはない事故の悲惨さを目の当たりにした。それで、動燃の意図的なビデオ編集(事故を小さく見せようとした)が発覚した。動燃自身の調査によってビデオの意図的編集(「もんじゅ」の幹部が「刺激が強すぎるのでカットしたほうがよい」と指示したこと)が発覚した。(p40-41)
動燃は、一回目の報告を訂正して、ビデオ撮影は事故直後、二台のカメラで行ったと二回目の報告を行う。しかし、科学技術庁(現在の文部科学省)の調査で、この訂正報告にもウソがあったことがさらに発覚した。つまり、訂正した時間よりも早く、別のビデオを撮影していたことが判明した。このビデオでは、現場に白煙が立ち込め、配管から漏洩した多量のナトリウム化合物が下に堆積していた。(p41)
この情報隠しに関する調査は、社会調査を担当していた総務部次長の投身自殺で幕を閉じた。しかし、多くの国民はこの事件以来、動燃を信頼できないと感じている。
動燃の失敗の拡大再生産の《からくり》と失敗を防ぐ対策
動燃がビデオ隠しを繰り返し行った、つまり失敗の拡大再生産の《からくり》が動燃の「世の中には原子力に対する強い不信感がある。少しでもネガティブな印象を持たれたら『もんじゅ』は終わりだ」(p42)という強迫観念である。この思い《からくり》が3回のビデオ隠し(失敗の拡大再生産)を生み出したことになる。(p42)
この強迫観念《からくり》をぬぐい去って《からくり》を変えれば、同じ手口のごまかしという失敗の拡大再生産を途中でストップすることが可能だったかもしれない。(p42)
動燃の取るべき対応は「事故を起こした時点で、危険度はどれくらいなのか、今後、同様の事故が起こる可能性はあるのか否かなど事故の情報を正確に伝えること」(p43)であった。事故を起こした失敗を厳しく責められても、ウソ(情報を隠して)をついて「国民の信頼を決定的に失う」(p43)というもっと重大な失敗をすることは避けられた筈である。
「失敗から目を背け、隠そうと」(p43)することで同じ失敗を繰り返すか、また別の新しい失敗を生んでしまう。冷静に失敗の結果から失敗の要因とからくりを逆演算しながら見つけ出し、失敗の脈絡をつかむことが同じ失敗を繰り返さない対策となる。(p43)
2-5、千三つの法則
未知の分野への挑戦には失敗はつきもの
未知な分野に挑戦すると「99.7%は失敗」すると著者は述べている。(p45)つまり、新しいことをする場合に物事がうまくいく確率は「0.3%」である。そして、「日本では昔から“千三つ”(せんみつ・本来、千に三つしか真実はない常習的な嘘つきの意味)とうい言葉があって、現在では「何か賭けをしたとき、うまくいくのは千に三つぐらいしかない」という意味で使われている。新しい挑戦で成功する確率も、この“千三つ”(せんみつ)であると言える。(p45)
未知の分野に挑戦して成功する確率が千に三つぐらい低い状態、成功率の低さを考えて、新しいことに挑戦することをやめるなら、失敗学は始まらない。失敗学は失敗しないで安全で安らかな生活を求めるためにあるのではなく、成功確率の低さを十分に認識し、失敗に真正面から取り組む覚悟を持つこと、つまり失敗の多い未知な分野に挑戦し、そこで経験する失敗を生かすためにある。(p45)
新しい事業をゼロから起こす場合、その事業を立ち上げて運営展開するために少なくとも十個ぐらいの要素が必要である。例えば、「企画内容、技術、事業を興す本人の資質、設備、場所、人材、流行、社会の経済状況、人脈」(p45)である。これらの10の要因の一つひとつに関して「うまくいくか否か」の二分の一の成功確率を単純に掛け合わせていくと、1020分の1の確率で事業が成功するということが示される。これが客観的に示されるベンチャー企業等の新しい試みを行う事業の成功確率である。(p45-46)
つまり、新たな事業を興して成功する確率は、約千に一つである。そして、千三つ(せんみつ)の法則よりも厳しいといえる。(p46)
新しい事業に成功する確率を上げる方法・他者の失敗に学ぶ
どんな事業でも生き方でも新しいことに挑戦しなければならない。その場合の成功率は千分の一である。つまり、ほとんどの試みが失敗する可能性が大きい。それで、成功の確率を高める努力や知識が必要となる。(pp46-47)
著者は、「他の誰かがその分野で成功しているかもしれない。いや、失敗をしているかもしれない」と考え、そのことを調査し知ることは「もうけもの」であると提案している。今までの他人の失敗を手本とした「逆演算」と「類推」をすることで、失敗の道筋を学ぶことができる。(p47)
2-6、「課題設定」がすべての始まり
課題設定の習慣が失敗に直面したときの判断力を鍛える
「無駄な失敗を防ぎ、新しい創造の種を生み出すために」は「自分自身の中に課題(問題意識)を持つこと」である。「自分がいま何をすべきか」という行動を起す時の「課題設定」が、失敗に直面したときの判断力や新しいチャレンジへの企画力を鍛える。(p48)
それらの判断力と企画力を鍛えるには、まず、課題設定をして、それの解決方法や手段の提案力を鍛えること(pp48-49)
課題設定の訓練
自動車事故の例から、課題設定をする。例えば自動車が塀にぶつかって、前方がぐちゃぐちゃに潰れたという交通事故を仮定する。そして、この事故を防ぐためにはどのようにすればいいかという問題を立てる。(p48)
この問題提起、つまり問題に関する課題設定に対して、二つの回答が考えられる。つまり、一つは、「塀にぶつかっても人的被害が少ないようにする」と言うもの、事故は避けられないので、その事故が起こった後、人的被害をなるべく少なくするという考え方である。もう一つは、「自動車を塀にぶつからないようにする」と言うもので、衝突事故自体を起こさせないようにするという考え方である。(pp48-49)
前者の課題設定から、例えば「ぶつかった際に飛び出すエアバックなどの安全装置を自動車に取り付ける」(p49)という問題解決案が出され、さらにエアバックの出るタイミングや膨らみ方、さらにはエアバックの欠点やその改良案等々、前者の課題設定を展開する解決案が出される。
後者の問題設定から、例えば「塀にぶつかりそうになったら自動的に警告音が鳴るようなシステムを作る」(p49)とか「運転手の覚醒を促す音楽や匂いを流す…」(p49)という問題解決案が出され、同様に事故自体を起こさないための上記の提案を具体化するための案が検討され続けることになる。
共通の課題を持つ人を観察する
課題設定をする訓練によって、同じ課題を持つ他のケースの観察によって、他者の経験に学ぶことが可能になる。つまり、同じ課題を持つ人が、その課題を解決するために経験したこと、それが失敗であれ成功であれ、その試みに学ぶことが出来る。例えば、失敗ならその対処法や予防策を考えることができる。成功ならその道筋を学ぶことができる。
例えば、設計ミスから生じた事故が多発している自動車会社(三菱自動車のような)のリコール隠しを例に取り、設計部のAさんとBさんの対応例の違いを示す。
Aさんは会社のリコールを見過ごすように指示している上司や会社の不正を告発する。そのことによって、Aさんは社内で居場所を失い、退職した。
BさんはAさんの行動の結果、つまり正義感によって会社の不正を告発したが会社を辞めなければならなくなった結果(失敗)を観察し、その失敗に学ぶことで、「この会社は見込みがないから、希望退職を募集して、割増金をもらって辞める道を選択した。(pp50-51)
会社(三菱自動車)は、その後のリコール隠しの不正が社会に暴露され、関係者が逮捕され、マスコミや消費者から厳しい批判に遭い、結局、経営が危機的状況となり、外資系の自動車会社に売却された。
2-7、「仮想演習」がすべてを決める
共通の課題を持つ人を観察する
課題設定が済めば、その後に必要なものは「仮想演習」である。課題設定をいかに解決すればいいかを思考実験することを仮想演習と呼ぶ。この仮想演習・頭の中で失敗の状況を予測し、それに対する対策を検討する作業は失敗学においてはかなり重要な意味を持っている。(p52)
仮想演習は、起こりうる失敗を予想し、その対策を検討するばかりでなく、こうした状況の中で(自分の)上司は何をすべきかを想像する演習にも活用できる。つまり、ある失敗が起こった場合、自分のすぐ上の上司の行動を観察し、「もし自分が彼(上司)ならどう判断し、どう行動するか」を考える作業になる。(pp52-53)
この仮想演習によって自分の実際の経験の範囲を超えて(仮想状態ではあるが)経験できる範囲を広げることが可能になる。現実に自分が所属している部署以外に、他の部署にもこの仮想演習を適用することによって、自分の関心の守備範囲を広げることが出来るだろう。(p53)
仮想演習をしたベンチャー起業家の例と新しく起業するための条件
「仮想演習は人を五倍に成長させる」という考えの説明。(pp54-56)
しかし、人は歳を取るたびに能力が衰える。つまり、新しいことを吸収する力は5年ごとに半減する。すると、仮想演習をして人の5倍成長する能力をもっていても、その能力が5年ごとに半減するなら、その二つの関係から、新たに転職してベンチャーを起業する場合の年齢制限が予測できるだろうと著者は述べている。(pp56-57)
第3章「失敗学の基礎知識」に関する批評(批判的評価)
3-1、失敗は確率的に存在するという意味の理解
失敗とは期待値(目標)に達しないズレの値
著者は失敗学における失敗の定義を、「ある行為の結果がその目標であった状態に対して望ましくない結果や期待はずれの状態も含むことを意味している」と述べた。著者は、失敗という概念を希望していた結果に達しない割合が大きいか小さいかの量的判断を伴って表現したことになる。
言い換えると、畑村洋太郎氏の定義した失敗は期待値に達しないズレを意味する。そして失敗は、ただ単に失敗しなかったと失敗したという二つに区分された一方の概念でなく、目標への到達率が何%なのかという表現として語られる。つまり、目標をすべて達成した100%の成功率(0パーセントの失敗率)と目標をまったく達成できなかった0%の成功率(100%の失敗率)の間に、現実の失敗とよばれる結果は存在していることになる。
失敗を量的に判断(測定)することの意味
著者の失敗の概念を用いると、失敗(行為の結果)を反省するということは、結果がよかったかとか間違っていたかという点検をするのでなく、行為を起こすときに目標とした課題に、行為の結果がどれくらい達成したかを点検することになる。つまり、失敗学では、行為の結果の良し悪しの評価を問題にしているのではなく、また、完全に目標を達成できたかできないかでなく、行為の結果によって達成された課題を定量的に評価することになる。
そのことによって、あらゆる行為が、ある程度目標に近づくことを可能にしているので、その程度、つまりよく目標に近づくことが出来たか、あまり目標に近づけなかったか、とい評価の程度を示す基準(量的判断基準の一つ)を設けて、行為の結果を検証することになる。
失敗学であるので、あまり目標を達成することが出来なかったとまったく目標を達成できなかったという行為の結果に関しての分析が始まることになる。
失敗の評価基準は個人的(主観的)な判断によって決まる
もし、失敗を「ある行為の結果がその目標であった状態に対して望ましくない結果や期待はずれの状態も含むことを意味している」と定義づけた場合、「望ましくない結果や期待」とは個人的な(もしくはある集団での)判断基準を基にして、評価されたものであると解釈できる。
つまり、著者畑村氏の失敗の定義は、主観的(共同主観的)な評価基準を前提にして成立している概念であると言えるだろう。そのため、失敗の程度を定量的に測定することも、一般的な基準を設定して可能になる訳ではなく、個人的な評価基準によって(もしくはある集団の評価基準によって)行われるということを意味する。
日常的に行為を点検する場合、その行為の評価が個人によってかなり異なる場合が生じても不思議ではない。例えば、目標を高く持つ人は、一般的に言って、その高い目標に達することができない場合が多く生じる。その人(目標の高い人)は、失敗の確率が上がることになる。しかし、目標を小さく抑えれば、同じ行為の結果も失敗の確率が低くなる。
目標値(期待値)への達成度(達成確率)を、失敗として考える場合、失敗を少なくするためには、目標値を下げるという行為が働くことになる。
すると、誰も、失敗を恐れない、目標値の高い行動を計画することはないだろう。つまり、失敗確率を低く抑えるために、予め(あらかじめ)、難しい企画や行動目標を立てないということにならないだろうか。
著者は以上の疑問に答えるために、「失敗が確率現象である」という節を設けた。これに関しては、後で批評する。
3-2、失敗の構造、「結果」「要因」「からくり」と失敗の脈絡(三つの要素の構造的関係)
失敗の様式的原因要素(からくり)と環境的原因要素(要因)
著者は、「失敗(結果)は原因(失敗の)を持っている」という一般的な表現を、「失敗(結果)はその失敗を起こす要因とからくりからなる」と表現し直した。つまり、失敗の原因という表現は、失敗を分析する上であまり役に立たない表現であることを指摘し、失敗の原因という意味を「失敗を生み出す要因とからくり」という二つの分析可能で観察可能な概念に変換したのである。
著者の定義する「失敗のからくり」とは、失敗行為を行ってしまった人や組織(集団)の失敗行為を生み出す原因を意味する。つまり、それらの人々(個人)の考え方、技能、態度や、組織(集団、会社、社会や国家)の規則(決まり)、制度、習慣(文化)等々である。著者は失敗の「からくり」という表現を用いて、失敗行為主体の内的な原因を表現した。
また、著者が定義する「失敗の要因」とは、失敗(結果)を引き起こす外的な環境や条件として位置づけている。例えば、雪印食品が引き起こした牛肉偽造(失敗の結果)は、狂牛病(要因)や経営的な危機(要因)が会社の体質(からくり)に入力されて生じた現象であると考えた。食品会社を襲った狂牛病と会社が当時経営的不振になっていた二つの条件が、会社の消費者をごまかし儲け主義に走る体質(経営陣の考え方)に入力されて、食品偽装(詐欺)という結果が生まれたと、著者は説明した。言い換えると、著者が定義した失敗の要因とは、会社(個人)を取り巻く外的な環境や条件を意味している。
つまり、原因は、「からくり」と呼ばれる失敗を引き起こす様式的原因要素と、「要因」と呼ばれる環境的原因要素に分類される。
「逆演算」で失敗のからくり(行為決定の様式要素)を見つけるために問われる問題
失敗とはある行為の具体的な結果(目標であった状態に対して望ましくない結果)である。その期待はずれの結果が現れることで、失敗したことを理解するのである。その行為の結果や期待はずれの状態から、失敗の原因、ここではからくりと要因を見つけ出す作業が始まる。
つまり、失敗学はつねに失敗という明らかな結果を分析し、その原因である失敗の要因と失敗を引き起こしたからくりは目に見えない状態にある。その目に見えない失敗の原因(要因とからくり)を辿っていくことを失敗学では「逆演算」と呼のである。失敗の二つの原因である内的な要因(からくり)と外的な要因(条件や環境)を探り当てる逆演算の作業を通じてしか、失敗の原因究明は出来ないのである。
「逆演算」という方法を用いて、失敗の要因とからくりを発見(推定し、その推定を検証確認)する方法を著者は四つの段階を設定して述べる。まず、第一段階では、失敗の原因《要因》《からくり》を知る作業、その次の第二段階では、《からくり》の正体を探す作業、三つめの段階では探し当てた《からくり》に架空の《要因》を入れて、どのような結果が推定されるか仮想実験をしながら結果を導き出す。そして、最後の段階では、《要因》《からくり》《結果》の関係を一般化し、これららの失敗(結果)の予測や類推に活用する。つまり、からくりが正しく設定されると、色々な要因をそこに入れることで、現実の失敗結果はもちろんのことこれから起こる失敗も推測できる。
この逆演算は失敗学にとって大切な方法論である。失敗学が成立するためには、この逆演算が失敗事例に対して実際に行えるようにしなければならないだろう。その場合、要因を探り当てることはさほど困難ではない。つまり、個人や組織の失敗の条件となる生活や社会環境や状況が要因として仮定される。
しかし、失敗の「からくり」を見つけ出すことは失敗の要因(原因)追求の中で最も困難な作業であると言える。何故なら、失敗を引き起こす企業の体質や個人の性格、考え方や技能内容などは、失敗をしている当人や組織の姿である以上、その人々や組織が自分の欠点を自分で見つけ出す作業の困難さが付きまとう。言わば、自分では自分の姿が見えないという困難な立場に立っての作業を必要とされていることを意味する。
つまり、失敗の要因である「からくり」は、個人、集団や組織など行為主体がもつその行為決定に関連する要素である。つまり、からくりは行為を決める基準であり、行為決定に関係するなんらかの決まりであると言える。
そのために、著者の失敗のからくりを見つけるための「逆演算」は、単なる失敗発見の方法というよりも、つまり失敗経験を点検するための技術的な理解と共に、自らの方法や考え方を点検する方法が求められているのである。
失敗の脈略を活用した失敗の予測実験
失敗(結果)には、必ず、要因つまり外的な失敗の原因要素とからくりつまり内的な失敗の原因要素がある。これを失敗の脈絡と呼んだ。著者は結果から要因とからくりを逆演算して見つけ出し、その相互関連、失敗の脈略を見つけ出す。これが失敗学の失敗原因の探求の過程である。
それから、失敗学は、見つけ出したからくりに、仮定できる色々な要因を入力し、その結果生じる状況(失敗の)を思考実験する。つまり、まず、仮定した「からくり」が正しいかを検証し、その「からくり」が正しいなら、次に、色々な予測できる「要因」を「からくり」に入力することで、これから予測できる結果(失敗の)を示して行く。
これが、将来起こる失敗の予測となる。失敗学の目的は、将来の失敗を予測し、失敗の確率を出来るだけ小さく押さえることに結びつくのである。
3-3、失敗学は失敗の確率を下げるための技術論である
ハインリッヒの法則から、失敗を防ぐ方法としての職場の取り組みとは
労働災害の発生確率を調査研究から割り出したハインリッヒの法則は、そのまま失敗学でも活用できる。つまり、1件の重大事故には29件の軽微の事故が潜み、300のヒヤリとする出来事が潜んでいる。逆に辿れば、1件のヒヤリとする出来事の約30分の1の割合で軽微の事故が潜み、また300分の1の割合で重大事故が潜んでいる。さらに1件の軽微の事故には、30分の1の重大事故が潜んでいるということになる。
重大事故を防ぐには、ヒヤリとした出来事を日々に点検する「ヒヤリハット」の手法が取り入れられている。特に生命に直接関わる職場、医療や食品関係の職場では、ヒヤリハットは日々の作業の中で行われている。
この考え方は、失敗は人間の行為に付随した必然的な現象であり、ある確率で生じる現象であるという考え方にたっている。つまり、決意やがんばりでは失敗を避けることが出来ないため、失敗を避けるための技術が必要となる。それが失敗学であり、ヒヤリハットである。
問題は、職場で失敗を防ぐために、どのような教育や訓練がなされ、また日常的に業務の中で失敗を防ぐ手段や方法が検討されているかが最も大きな課題となる。
失敗学が教える失敗を恐れない仕事の仕方、失敗は成功の母
ハインリッヒの法則は、失敗は確率現象であると説明している。つまり、どのような行為にも失敗は生じる。そして人が何かをすることと失敗は不可分の関係にある。つまり、失敗を避けては何事も出来ないことを意味する。
失敗を恐れ、失敗しないように慎重に物事を行うことは必要であるが、失敗を恐れ、新しいことに挑戦することを止めてしまえば、新しい事業も発見も生まれないだろう。
失敗学は失敗を避けるためにある学問ではあるが、失敗を避けるために、新しい挑戦まで控えることを勧める理論ではない。むしろ逆で、失敗が多く発生するベンチャー起業で、出来るだけ成功率をあげるための技術を研究し教えるのが失敗学の課題である。
失敗の確率を下げるための努力、まず失敗をしたら、その経験を活かし、失敗の要因とからくりを見つける。そして、見つけ出したからくりが正しいかどうか、仮定できる要因をからくに入れて結果を導く、思考実験を繰り返す。
失敗学・他人の失敗に学ぶ技術
さらに、他人の失敗の例を研究し、同じように、それらの失敗事例から、その失敗のからくりを予測し、仮定できる限り多くの要因をそのからくりに入力して、結果を計算する。もし、その計算で、予測した要因から生じた失敗事例が出力できるなら、そのからくりは正しい、言い換えるとからくりの仮説は有効であると判断できる。
こうして、考えられる限りの色々な要因をからくりに入力し、何回となく計算結果を取り出し、特に今後の予測可能な結果を推察する。つまり、失敗学は、将来起こるだろう失敗の可能性を少なくするための方法となる。
3-4、失敗学を学ぶことの意味
人生という失敗だらけの航海のために
生きている以上、つねに新しいことに出会う。そして新しきことに挑戦しなければならない。大学を卒業し、社会に出る。就職して仕事をする。結婚して、家庭を持つ。子供を育てる。自治会など地域社会の活動に参加する。インターネット等で新しい友達を作る。起業する。海外に出張する。放送大学に登録して新しい分野の勉強に挑戦する等々。人生とは、限りなく新しい生き方の局面を乗り越える航海のようなものである。今までの経験しなかった局面を乗り越えて生きていかなければならない。
その中で、新しいことを始める時、また新しい局面で生きていく場合、失敗学は役に立つ知識とこころを教えるだろう。
つまり、失敗学が教える人生という失敗だらけの航海に必要な考え方「強く生きるからくり」を見つけ出すことである。これが、失敗学が提起する「失敗を恐れない」、「失敗に学ぶ」、そして「他人の失敗にも学ぶ」たくましい生き方の方法・倫理ではないだろうか。
参考
三石博行 「東電原発事故 国は徹底した情報開示と対策を取るべきである ‐畑村洋太郎 失敗学の基礎知識に学ぶ-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_16.html
Tweet
哲学に於いて生活とはそのすべての思索の根拠である。言い換えると哲学は、生きる行為、生活の場が前提になって成立する一つの思惟の形態であり、哲学は生きるための方法であり、道具であり、戦略であり、理念であると言える。また、哲学の入り口は生活点検作業である。何故なら、日常生活では無神経さや自己欺瞞は自然発生的に生まれるため、日常性と呼ばれる思惟の惰性形態に対して、反省と呼ばれる遡行作業を哲学は提供する。方法的懐疑や現象学的還元も、日常性へ埋没した惰性的自我を点検する方法である。生活の場から哲学を考え、哲学から生活の改善を求める運動を、ここでは生活運動と思想運動の相互関係と呼ぶ。そして、他者と共感しない哲学は意味を持たない。そこで、私の哲学を点検するためにこのブログを書くことにした。 2011年1月5日 三石博行 (MITSUISHI Hiroyuki)
2010年11月29日月曜日
姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』プロローグのテキスト批評
三石博行
A テキスト批評の書き方
第1章は、テキスト批評に使う資料の出典を書くこと
つまり、テキスト批評するのはどの本の、またどの資料のどの部分に関するものかを書く。
出典に関する情報を明確に示すことが大切で、何に関して解釈、批評や分析をしているかが不明瞭であれば、文献や資料分析の記録資料として意味をなさないからである。
例えば、今回のテキスト批評で活用している資料、つまり、姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』、集英社文庫、2008年1月、254p、「プロローグ」pp11-21を第1章に書く。
第2章は、テキストの文章を使いながら、テキストの要点をまとめる
資料、つまり姜尚中著『在日』の「プロローグ」を読みながら、自分が大切なところと思った箇所に鉛筆で線を入れる。入れた順番に番号を書く。これで、テキスト批評の第2章を書くための材料が完成する。
その材料を使いながら、テキストの番号のついた線の文章を簡単に要約する。その場合、本文(線の入った箇所の文章)を活用しながら箇条書きに要点を書く。
これらの箇条書きの要約文章をつなぎながら、「プロローグ」pp11-21に関するテキスト要約をまとめる。テキスト要約がテキスト批評の第2章を構成することになる。
テキスト批評の第2章はテキストには「何が書かれてあったか」という内容になる。
第3章は、第2章のテキスト要約文に関する自分の意見を書くこと
テキスト批評のために必要な資料(要点が箇条書きにした文書)を基にしながら、その内容を批評する。つまり、自分の批判や評価を書く。
テキスト批評の第2章「この文章の要約」に即して、自分の解釈、評価や批判等を書く。それがテキスト批評の第3章となる。
参考資料を書くこと
姜尚中著『在日』、「プロローグ」のテキスト批評を行う際に、インターネットや図書館で調べた論文、資料や本などを書いておく。
B、テキスト批評の例 姜尚中著『在日』「プロローグ」
第1章 テキストの出典
姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』、集英社文庫、2008年1月、254p 「プロローグ」pp11-21
第2章 「プロローグ」pp11-21の要約
在日コンプレックスとしての「精神的な脆弱さと不逞の精神の分裂質的性格」
姜尚中氏(著者)は「自分の写真をみるのがきらい」(p11)であった。そのため、彼は「高校生のとき、…一度も写真を撮ってもらった記憶」(p12)はない。その理由について「自分が、「在日」であり、いかにも「在日韓国・朝鮮系」をしていると思い込み、」…「自分の顔を避けたい気持ちにつながり、いつしか(自分の顔が)写真に撮られることを忌み嫌うようになった」(p12)と彼は述べている。
彼(姜尚中さん)の在日コンプレックスは、他者(日本人)の眼差しを避ける気持ち、在日であることを隠すことによって、それはますます、増幅される。そして、彼の「精神的な脆弱さの原因となっていた」(p12)。しかし、「内にこもるナイーブな性格とは裏腹に…どこか大胆で、ふてぶてしいような図太さ…物事の仔細にこだわらない鈍感…不逞の精神」が二重に存在している」(p13)ことを彼は感じていた。
その二つの性格の「どちらが本当の姿なのか、(彼自身)にもよくわからなかった」。「このような分裂質的な…性格が、父母と(彼)を取り巻く「在日」の環境から何らかの影響を受けていると」(p13)考えた。
また、自分の原点にあった母(オムニ)にも、「あふれるような母性愛と繊細さ」(p13)、そして突然爆発する癇癪(かんしゃく)の、自分と同じような分裂質的な性格があった。母がそうなったのは、先天的な要因というよりも、やはり「在日」という境遇の影響が大きい」(p13)と彼は考えた。
母に性格に具現化した在日の厳しい境遇の歴史
母の生涯、祖母に大事に育てられた時代、「幼いころの母は…疑うことを知らない無垢な少女」であった。「住み慣れた故郷から海を越えて日本に渡り、そこで想像を絶するような艱難辛苦(かんなんしんく)の日々を(父とともに)生き抜いていかざるをえなかった」。(p14)過酷で悪意に満ちた日本社会での在日の置かれた生活環境の中で、母が朝鮮民族の誇りや伝統文化や精神など内に秘めた自分の世界を守り続けるために、激しい'性格の人へと脱皮してきた。
しかも、母は「在日」であると同時に文盲(もんもう)(日本語が読めなかったのではないか)でもあった。
著者の母はかたくなに旧暦(韓国の伝統の暦)に拘(こだわ)り続けていた。彼女を支配していた身体的な時間は、土俗的(韓国の)習俗(しゅうぞく)の循環によって維持されていたと姜尚中氏は顧(かえり)みる。どんなときでも、すべての先祖崇拝や土俗的な祭儀(さいぎ)や法事(ほうじ)をやってのけた。彼女は日本の常識からすれば迷信のような儀式や習俗を守り続けた。
彼は、「母の神経症的といもいえる故郷の風俗や祭儀(さいぎ)への執着が…あまりにも不合理に思えて仕方がなかった。」(p15)「先祖崇拝と土俗的なシャーマニズムの世界は、…迷信以外のなにものでもなかった」し、「その世界が「在日」であることの不名誉のしるしのように思えてならなかった。」(p14)
しかし彼は、その彼の考えの浅さに気づくことになる。母は幼くして亡くなった長男「晴男」の法事を数十年も続け、そのとき準備した赤ん坊の下着を焼きながら、その死児の歳をずっと数えながら生きていた。そのあふれるような母性愛こそ「母が必死に守り続けてきた世界」であった。
「戦争の時代、そして戦後の時代、そのすざましい変化にもかかわらず、母は、異国の地で根こそぎもぎとられた記憶に生命を吹き込むことで、かろうじて自分がだれであるかを確かめながら生きていたのである。」つまり「近代とでも呼びたくなるような時間…の習俗を守り続けることで、母は無意識のうちに日本の中にどっぷりとつかることのない異質な時間を見つけ出していた」のである。(p16)
日本と朝鮮半島の歴史、その歴史に翻弄(ほんろう)されてきた在日の人生。日本によってもたらされた朝鮮半島への強引な近代化、その近代化へのささやかの抵抗としての、旧暦への拘(こだわ)りが彼女の生活時間の習慣を作っていた。
文盲であった母にとっては、日本社会での「言語という回路が途絶(とぜつ)していたのである」。しかし、その閉塞感や孤立感はどれほど想像を超えたものであろうと、生きるために零細な家業の担い手として、その孤独な世界に閉じこもっていることなどが許されなかった。「文盲のハンディで何度も騙(だま)されたり、見下げられたりし」母のプライドはずたずたにされていたが、生活のために絶えず外の世界と交渉をもたなければならなかった。その差し迫った強制のはざまで、「母はいつしか神経症的な性格を形作っていったのではないか」(p18)と著者は述べている。
そんな「母もまた、メランコリーの中に打ち沈んでいるときが多かった。」そして「ため息のように漏れる母の涙声の歌は、…心悲しい哀愁に満ちていた。」(p18)しかし、その静かな時にも、「しばしば激しい「動」の時間とコントラストをなしえいた」し、癇癪(かんしゃく)が爆発したときはだれも手がつけられなかった。
「名前すら書けないわが身の無知を、母はどんなに恨んだことだろうか。文字を知らない不幸をこぼす母の口調にはくやしさとやるせなさの感情がにじんでいた。」(p18)
私はその(在日たちの生きた世界の)記憶をとどめていきたい
その母も喜寿(きじゅ)を過ぎ、激しい「動・癇癪の爆発」の時間とメランコリーの中に打ち沈んだ時間のコントラストも亡くなり、往時(おうじ 過ぎ去った昔)を懐かしむようになった。恩讐(おんしゅう)を忘れ、自分だけの世界にまどろんでいるように見えた。
著者が還暦(60歳)を迎えたとき、母はこの世を去った。それは、在日1世の殆どがこの日本社会から逝く時代、つまり在日にとって戦後という時代が終わりを意味することでもあった。その時代の終わりに、これからの新しい時代に、在日1世たちの生きていた歴史的事実を残さなければならないと思った。それは「文盲」であった母から文字を知っている彼(姜尚中さん)へ課せられた儀式のようにも思えた。
姜尚中氏は、彼が若い時代に、「悲壮な決意で「永野鉄男」から「姜尚中」に変わった頃のことが遠いむかしのように」なつかしく思えた。そして、彼は在日の遠い記憶を呼び寄せ、それを現代日本の社会の記憶に留めようとしたい気持ちになった。それは、単なる懐旧(かいきゅう)でなく、戦中・戦後を生きた在日の人々の記憶を残すための在日二世である自分たちに課せられた大切な儀式のように思えるし、文字を知らない世界で生きていた在日一世たちから文字(日本語)を知っている在日二世に託された遺言のように思えた。
遠い記憶を呼び寄せ、その記憶の中に書き込んでおけば、いつかみんなでその記憶を分かちあえる時がくるに違いないと著者は書いている。そして、過去に向かって前進すれば、きっと文字をしらなかった在日一世の人々に会えるのだからと著者は述べている。
第3章 「プロローグ」に関する批評
プロローグの文章を私は大きく三つに分けたが、姜尚中(著者)のテーマは一つであった。
つまり、このプロローグは姜尚中(著者)がこの本『在日』を書かなければならなかった彼のこれまでの「在日韓国人」としての生い立ち、その生い立ちに深く関係した人々、特に著者の母の姿を通して、1910年8月から1945年8月(終戦)まで続く朝鮮合併(日韓合併)、つまり大日本帝国が大韓帝国を合併するという朝鮮植民地の時代から戦後、現代まで続く在日韓国人の歴史の中に存在した現実、それらの人々の生きていた姿を記録することであった。
例えば政治的事件に関する資料、経済的動向の資料等々、歴史的事実と呼ばれる社会経済の動向から、その当時の時代や社会のマクロな姿は理解できるだろう。しかし、歴史を学ぶことは、その社会に生きていた人々の姿を、生活を理解し、彼らの行動を彼らのもつ精神構造やそれを作り出している彼らの時代や社会文化環境を理解することからはじめなければならない。
姜尚中(著者)は、マックスウエーバーの社会学を学んできた研究者であるために、個人の心象や行動に発現する精神現象、つまり社会文化の現象を、在日の個人史的な記述から堀探ろうとしているように思える。
プロローグは、その彼の社会学的方法論を叙述的に記載したかのようである。
確かに、単純に日本人であった私にとって、姜尚中氏の突きつけた課題は重い。何故なら、同じ現代の日本という時代と社会に姜尚中(著者)と共に生きていた私は、在日の何ものも理解しえる土台も知識も気持ちもなかったのである。
在日朝鮮人や中国人と我々の国、日本と隣接した韓国朝鮮の歴史を教科書で、また書物で呼んだとしても、彼の個人史からにじみ出た在日の姿のように、ありありと彼らのコンプレックスや悲惨で悲哀に満ちた生活、楽観的でお人よしの生活、臆病で強かな(したたかな)生き方を読み取ることは出来なかっただろう。
このプロローグは、日本社会で日本人になりすましていた永野鉄男が本当の自分、つまり在日韓国人としての姜尚中になる闘いの記録の序文であり、また同時に、姜尚中として在日としての自分を強調しながら自らの存在認識を成し遂げた彼方から、自己確信の認識(自信をもって生きている自分への認識)を終えた姜尚中が、やはりその姜尚中の一部であった永野鉄男を懐かしく思うという課題に展開していくことを、長く異国の地日本で生活をし、そしてそこで生涯を終えようとする母の最後の姿に重ねながら予告しているように思えた。
----------------------------------------------------------------------------------------------------
ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」
5. 日韓関係
5-1、NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」 イムジンウェラン 文禄・慶長の役のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6656.html
5-2、NHK 朝鮮半島と日本 「倭寇(わこう)の実像を探る 東シナ海の光と影」のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_2310.html
5-3、NHK EV特集 「元寇蒙古襲来 三別抄と鎌倉幕府」の映像資料のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6943.html
5-4、姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』プロローグのテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_29.html
5-5、東アジア共同体構想の展開を進める日韓関係の強化
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_12.html
Tweet
A テキスト批評の書き方
第1章は、テキスト批評に使う資料の出典を書くこと
つまり、テキスト批評するのはどの本の、またどの資料のどの部分に関するものかを書く。
出典に関する情報を明確に示すことが大切で、何に関して解釈、批評や分析をしているかが不明瞭であれば、文献や資料分析の記録資料として意味をなさないからである。
例えば、今回のテキスト批評で活用している資料、つまり、姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』、集英社文庫、2008年1月、254p、「プロローグ」pp11-21を第1章に書く。
第2章は、テキストの文章を使いながら、テキストの要点をまとめる
資料、つまり姜尚中著『在日』の「プロローグ」を読みながら、自分が大切なところと思った箇所に鉛筆で線を入れる。入れた順番に番号を書く。これで、テキスト批評の第2章を書くための材料が完成する。
その材料を使いながら、テキストの番号のついた線の文章を簡単に要約する。その場合、本文(線の入った箇所の文章)を活用しながら箇条書きに要点を書く。
これらの箇条書きの要約文章をつなぎながら、「プロローグ」pp11-21に関するテキスト要約をまとめる。テキスト要約がテキスト批評の第2章を構成することになる。
テキスト批評の第2章はテキストには「何が書かれてあったか」という内容になる。
第3章は、第2章のテキスト要約文に関する自分の意見を書くこと
テキスト批評のために必要な資料(要点が箇条書きにした文書)を基にしながら、その内容を批評する。つまり、自分の批判や評価を書く。
テキスト批評の第2章「この文章の要約」に即して、自分の解釈、評価や批判等を書く。それがテキスト批評の第3章となる。
参考資料を書くこと
姜尚中著『在日』、「プロローグ」のテキスト批評を行う際に、インターネットや図書館で調べた論文、資料や本などを書いておく。
B、テキスト批評の例 姜尚中著『在日』「プロローグ」
第1章 テキストの出典
姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』、集英社文庫、2008年1月、254p 「プロローグ」pp11-21
第2章 「プロローグ」pp11-21の要約
在日コンプレックスとしての「精神的な脆弱さと不逞の精神の分裂質的性格」
姜尚中氏(著者)は「自分の写真をみるのがきらい」(p11)であった。そのため、彼は「高校生のとき、…一度も写真を撮ってもらった記憶」(p12)はない。その理由について「自分が、「在日」であり、いかにも「在日韓国・朝鮮系」をしていると思い込み、」…「自分の顔を避けたい気持ちにつながり、いつしか(自分の顔が)写真に撮られることを忌み嫌うようになった」(p12)と彼は述べている。
彼(姜尚中さん)の在日コンプレックスは、他者(日本人)の眼差しを避ける気持ち、在日であることを隠すことによって、それはますます、増幅される。そして、彼の「精神的な脆弱さの原因となっていた」(p12)。しかし、「内にこもるナイーブな性格とは裏腹に…どこか大胆で、ふてぶてしいような図太さ…物事の仔細にこだわらない鈍感…不逞の精神」が二重に存在している」(p13)ことを彼は感じていた。
その二つの性格の「どちらが本当の姿なのか、(彼自身)にもよくわからなかった」。「このような分裂質的な…性格が、父母と(彼)を取り巻く「在日」の環境から何らかの影響を受けていると」(p13)考えた。
また、自分の原点にあった母(オムニ)にも、「あふれるような母性愛と繊細さ」(p13)、そして突然爆発する癇癪(かんしゃく)の、自分と同じような分裂質的な性格があった。母がそうなったのは、先天的な要因というよりも、やはり「在日」という境遇の影響が大きい」(p13)と彼は考えた。
母に性格に具現化した在日の厳しい境遇の歴史
母の生涯、祖母に大事に育てられた時代、「幼いころの母は…疑うことを知らない無垢な少女」であった。「住み慣れた故郷から海を越えて日本に渡り、そこで想像を絶するような艱難辛苦(かんなんしんく)の日々を(父とともに)生き抜いていかざるをえなかった」。(p14)過酷で悪意に満ちた日本社会での在日の置かれた生活環境の中で、母が朝鮮民族の誇りや伝統文化や精神など内に秘めた自分の世界を守り続けるために、激しい'性格の人へと脱皮してきた。
しかも、母は「在日」であると同時に文盲(もんもう)(日本語が読めなかったのではないか)でもあった。
著者の母はかたくなに旧暦(韓国の伝統の暦)に拘(こだわ)り続けていた。彼女を支配していた身体的な時間は、土俗的(韓国の)習俗(しゅうぞく)の循環によって維持されていたと姜尚中氏は顧(かえり)みる。どんなときでも、すべての先祖崇拝や土俗的な祭儀(さいぎ)や法事(ほうじ)をやってのけた。彼女は日本の常識からすれば迷信のような儀式や習俗を守り続けた。
彼は、「母の神経症的といもいえる故郷の風俗や祭儀(さいぎ)への執着が…あまりにも不合理に思えて仕方がなかった。」(p15)「先祖崇拝と土俗的なシャーマニズムの世界は、…迷信以外のなにものでもなかった」し、「その世界が「在日」であることの不名誉のしるしのように思えてならなかった。」(p14)
しかし彼は、その彼の考えの浅さに気づくことになる。母は幼くして亡くなった長男「晴男」の法事を数十年も続け、そのとき準備した赤ん坊の下着を焼きながら、その死児の歳をずっと数えながら生きていた。そのあふれるような母性愛こそ「母が必死に守り続けてきた世界」であった。
「戦争の時代、そして戦後の時代、そのすざましい変化にもかかわらず、母は、異国の地で根こそぎもぎとられた記憶に生命を吹き込むことで、かろうじて自分がだれであるかを確かめながら生きていたのである。」つまり「近代とでも呼びたくなるような時間…の習俗を守り続けることで、母は無意識のうちに日本の中にどっぷりとつかることのない異質な時間を見つけ出していた」のである。(p16)
日本と朝鮮半島の歴史、その歴史に翻弄(ほんろう)されてきた在日の人生。日本によってもたらされた朝鮮半島への強引な近代化、その近代化へのささやかの抵抗としての、旧暦への拘(こだわ)りが彼女の生活時間の習慣を作っていた。
文盲であった母にとっては、日本社会での「言語という回路が途絶(とぜつ)していたのである」。しかし、その閉塞感や孤立感はどれほど想像を超えたものであろうと、生きるために零細な家業の担い手として、その孤独な世界に閉じこもっていることなどが許されなかった。「文盲のハンディで何度も騙(だま)されたり、見下げられたりし」母のプライドはずたずたにされていたが、生活のために絶えず外の世界と交渉をもたなければならなかった。その差し迫った強制のはざまで、「母はいつしか神経症的な性格を形作っていったのではないか」(p18)と著者は述べている。
そんな「母もまた、メランコリーの中に打ち沈んでいるときが多かった。」そして「ため息のように漏れる母の涙声の歌は、…心悲しい哀愁に満ちていた。」(p18)しかし、その静かな時にも、「しばしば激しい「動」の時間とコントラストをなしえいた」し、癇癪(かんしゃく)が爆発したときはだれも手がつけられなかった。
「名前すら書けないわが身の無知を、母はどんなに恨んだことだろうか。文字を知らない不幸をこぼす母の口調にはくやしさとやるせなさの感情がにじんでいた。」(p18)
私はその(在日たちの生きた世界の)記憶をとどめていきたい
その母も喜寿(きじゅ)を過ぎ、激しい「動・癇癪の爆発」の時間とメランコリーの中に打ち沈んだ時間のコントラストも亡くなり、往時(おうじ 過ぎ去った昔)を懐かしむようになった。恩讐(おんしゅう)を忘れ、自分だけの世界にまどろんでいるように見えた。
著者が還暦(60歳)を迎えたとき、母はこの世を去った。それは、在日1世の殆どがこの日本社会から逝く時代、つまり在日にとって戦後という時代が終わりを意味することでもあった。その時代の終わりに、これからの新しい時代に、在日1世たちの生きていた歴史的事実を残さなければならないと思った。それは「文盲」であった母から文字を知っている彼(姜尚中さん)へ課せられた儀式のようにも思えた。
姜尚中氏は、彼が若い時代に、「悲壮な決意で「永野鉄男」から「姜尚中」に変わった頃のことが遠いむかしのように」なつかしく思えた。そして、彼は在日の遠い記憶を呼び寄せ、それを現代日本の社会の記憶に留めようとしたい気持ちになった。それは、単なる懐旧(かいきゅう)でなく、戦中・戦後を生きた在日の人々の記憶を残すための在日二世である自分たちに課せられた大切な儀式のように思えるし、文字を知らない世界で生きていた在日一世たちから文字(日本語)を知っている在日二世に託された遺言のように思えた。
遠い記憶を呼び寄せ、その記憶の中に書き込んでおけば、いつかみんなでその記憶を分かちあえる時がくるに違いないと著者は書いている。そして、過去に向かって前進すれば、きっと文字をしらなかった在日一世の人々に会えるのだからと著者は述べている。
第3章 「プロローグ」に関する批評
プロローグの文章を私は大きく三つに分けたが、姜尚中(著者)のテーマは一つであった。
つまり、このプロローグは姜尚中(著者)がこの本『在日』を書かなければならなかった彼のこれまでの「在日韓国人」としての生い立ち、その生い立ちに深く関係した人々、特に著者の母の姿を通して、1910年8月から1945年8月(終戦)まで続く朝鮮合併(日韓合併)、つまり大日本帝国が大韓帝国を合併するという朝鮮植民地の時代から戦後、現代まで続く在日韓国人の歴史の中に存在した現実、それらの人々の生きていた姿を記録することであった。
例えば政治的事件に関する資料、経済的動向の資料等々、歴史的事実と呼ばれる社会経済の動向から、その当時の時代や社会のマクロな姿は理解できるだろう。しかし、歴史を学ぶことは、その社会に生きていた人々の姿を、生活を理解し、彼らの行動を彼らのもつ精神構造やそれを作り出している彼らの時代や社会文化環境を理解することからはじめなければならない。
姜尚中(著者)は、マックスウエーバーの社会学を学んできた研究者であるために、個人の心象や行動に発現する精神現象、つまり社会文化の現象を、在日の個人史的な記述から堀探ろうとしているように思える。
プロローグは、その彼の社会学的方法論を叙述的に記載したかのようである。
確かに、単純に日本人であった私にとって、姜尚中氏の突きつけた課題は重い。何故なら、同じ現代の日本という時代と社会に姜尚中(著者)と共に生きていた私は、在日の何ものも理解しえる土台も知識も気持ちもなかったのである。
在日朝鮮人や中国人と我々の国、日本と隣接した韓国朝鮮の歴史を教科書で、また書物で呼んだとしても、彼の個人史からにじみ出た在日の姿のように、ありありと彼らのコンプレックスや悲惨で悲哀に満ちた生活、楽観的でお人よしの生活、臆病で強かな(したたかな)生き方を読み取ることは出来なかっただろう。
このプロローグは、日本社会で日本人になりすましていた永野鉄男が本当の自分、つまり在日韓国人としての姜尚中になる闘いの記録の序文であり、また同時に、姜尚中として在日としての自分を強調しながら自らの存在認識を成し遂げた彼方から、自己確信の認識(自信をもって生きている自分への認識)を終えた姜尚中が、やはりその姜尚中の一部であった永野鉄男を懐かしく思うという課題に展開していくことを、長く異国の地日本で生活をし、そしてそこで生涯を終えようとする母の最後の姿に重ねながら予告しているように思えた。
----------------------------------------------------------------------------------------------------
ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」
5. 日韓関係
5-1、NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」 イムジンウェラン 文禄・慶長の役のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6656.html
5-2、NHK 朝鮮半島と日本 「倭寇(わこう)の実像を探る 東シナ海の光と影」のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_2310.html
5-3、NHK EV特集 「元寇蒙古襲来 三別抄と鎌倉幕府」の映像資料のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6943.html
5-4、姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』プロローグのテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_29.html
5-5、東アジア共同体構想の展開を進める日韓関係の強化
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_12.html
Tweet
2010年11月25日木曜日
菊田幸一著『日本の刑務所』第一章「受刑者はどのような存在か」のテキスト批評
三石博行
テキストの出典
菊田幸一著『日本の刑務所』岩波新書794、205p、2002.7、「はじめに」、第一章「受刑者はどのような存在か」pp1‐46、
テキストの文献記号は、(KIKUKo02A )とする。
菊田幸一氏は、1934年12月生まれ、出身は滋賀県長浜市、弁護士、中央大学法学部卒、明治大学法学部大学院博士課程卒、明治大学名誉教授、法学博士(明治大学)、死刑廃止論者、被疑者及び囚人の法的権利を重視する学説を唱える。終身刑の導入を主張、犯罪被害者の救済と加害者の和解を推進している。(Wikipedia)
第一章「はじめに」、第一章「受刑者はどのような存在か」pp1‐46、の要約
現在の日本の刑務所の問題点とは何か
日本の刑務所収容者の三つの特色
日本の刑務所収容者の特色は以下の三つである。
一つ目は、累犯者(るいはんしゃ)が多いことである。頻回入所歴(ひんかいにゅうしょれき)を有する者は、男子の全収容者のうち52.5%(2000年の統計)である。中でも5度以上の入所歴を有する者は、頻回収容者の三割を占める。(pⅰ)
二つ目は、受刑者の高齢化である。六十歳以上の高齢受刑者は1984年に2%、1989年に4.3%であったが、2000年末では9.3%でと、10年近くで倍増している。
三つ目は、受刑者の全体の四分の一が覚せい剤事犯、さらに全体の四分の一が暴力団関係者で、矯正効果を期待するのが難しいケースが多い。
こうした受刑者は、仮に更生意欲を持って刑務所を出ても出所後の経済的不安、健康、前科、住居等のあらゆる生きるすべについての障害によって、半分以上が再び刑務所に戻ってくる。
受刑者の社会復帰のための行刑の課題
受刑者は自らの犯した犯罪(反社会的行為)に対する当然の結果として、受刑者の自由を拘束すること(自由刑)は当然である。その刑は基本的に受刑者の社会復帰を目指した矯正教育の場として刑務所は位置づけられているが、現実は、そうなっていない。
そして、受刑者の社会復帰を支援することが、結果的に社会の利益に繋がるという考え方が、刑罰思想の課題となっている。
矯正教育の旗印のもとに、実施されている諸施策(しょしさく)も、現実的には自由刑の目的を越えて非人道的な扱いを正当化する傾向がある。積極行刑(きょうけい)である再教育が必ずしも受刑者の社会復帰にとって効果的でないことが、主にアメリカにおいて反省されている。国際的にも、積極行刑が見直され自由刑に限定した行刑(刑の執行)である消極行刑が評価され、それに移行している。(pⅲ-ⅳ)
累犯者・刑務所への、頻回収容者を減少するための課題
なぜ刑罰を受けても犯罪を繰り返すのかという疑問が提起される。そこで、頻回収容者は「人間は自由の拘束が耐え難いが故に犯罪を留まるということに疑問が投げかれられている。つまり、自由刑では累犯・頻回入所を防ぐことが出来ないのではないかという指摘もある。(pⅳ)
著者はその指摘に対して、「刑務所生活に(受刑者が)慣らされなければ(受刑者たちは)受刑生活に耐えることが出来ない」現実の刑務所のあり方を問題にしている。つまり、刑務所生活に慣らされ、逆に一般社会に出ることに不安を抱く人間(受刑者)を育てているのが、現在の日本の刑務所の実態ではないかと指摘している。(pⅳ)
本書では、ワイマール憲法(1919年制定)に沿って、受刑者といえども「人たるに値する存在:であるという観点から、アメリカの刑務所での受刑者の人権擁護の状況を例に取りながら、日本のそれを分析しる。アメリカの刑務所がはるかに日本の刑務所よりも受刑者の人権は守られている。
しかし、アメリカは日本の数倍の犯罪が発生している。例えば、1998年の統計からも、日本では10万人あたり1.0人の殺人が起こっているのに比較して、アメリカでは6.3人である。つまり、日本は世界的にも犯罪の極めて少ない国であるが、その日本でも近年、受刑者数は増加の傾向にある。そして、刑務所では過剰拘禁(こうきん)の状態であると報道されている。
日本の刑務所での過剰拘禁状態の原因は、犯罪の増加のみでなく、重刑罰傾向と仮釈放率の低下もその原因である。
著者は、日本での累犯者・頻回入所者を減少されるために、以下の三つの提案を行った。
つまり、第一点目は、受刑者の生活環境の改善(食事、作業等々)について考えること、第二点目は他律的で受動的な生活スタイルの改善、つまり自己責任を常に意識し主体性を育てる受刑生活スタイルを考えること、第三点目は刑務所を外部との隔離社会でなく、外部と交流のある場にしながら、受刑者の社会復帰の心を育てることである。
著者のこの提案の基本には、社会から犯罪を少なくするための目的がある。その目的を実現するために、著者は、受刑者を人として扱うこと、つまり、受刑者の人権を考える日本社会の人権文化、その結果として刑務所が受刑者の人間復活と社会復帰を可能にする施設になることが述べられている。
受刑者の扱い
日本の刑務所と受刑者の現状
2001年には、日本には59の刑務所、8の少年刑務所と7の拘置所があり、一日平均40,768人の裁判が確定し懲役(ちょうえき)、禁錮(きんこ)及び拘留(こうりゅう)をされた既決囚(きけつしゅう)が収容されていた。また、一万人の未決囚(みけつしゅう)が拘置所にいる。既決囚の収容定員は48,393人であることを考えれば、ほぼ定員いっぱいの状態であると言える。
新受刑者は、刑の重さ、犯罪傾向の進行、性別、刑名、障害によって収容分類級が付けられる。また、処遇分類級に区分され、それらの級別に応じた刑務所に送られる。
新受刑者の約12%が凶悪犯罪者(殺人罪、強盗罪や傷害罪)で、窃盗、覚せい剤犯、詐欺、道路交通法違反が男子新受刑者の約53パーセントである。また、女子受刑者は、近年漸増(ぜんぞう)傾向にある。
刑務所ごとに受刑環境は異なる。例えば、北海道の東北地方より北の北海道以外には暖房はない。食事の質にも施設によって大差がある。
受刑者の人権について、入所時の検査、制限された人権、人間の尊厳とは何か
刑務所への押送(おうそう)は、護送車で行われるが、遠方の場合、刑務官が付き添って、手錠を掛けられ、二人以上の場合は体を数珠状(じゅずじょう)に繋(つな)がれて列車で運ばれる。一人がトイレで用を足すときは、他のものは繋がれたままホームで待たされる。手錠を見られないように一般の乗客に隠されているものの、その不自然な姿に屈辱(くつじょく)を味わう。
刑務所に着くと、新人調質(しんじんちょうしつ)に入れられ、本人確認がなされる。そして、入所時の身体検査が行われる。その時から、人権を無視された軍隊式の扱いが始まる。
刑務所は受刑者の自由を拘束するためにある。しかし、世界人権宣言や日本国憲法に謳われているように、受刑者といえども人間である以上、彼らに拷問や屈辱的で非人道的な取り扱いをしてはならない。また、生命の尊厳を考えるなら死刑は廃止すべきであると著者は述べている。
また、受刑者の人権の扱われ方が、「その国における人権感覚の国民一般のレベルを計るバロメータでもある」と著者は述べている。そして、日本の刑務所での受刑者の扱いが紹介されている。
日本型行刑
日本の刑務所での受刑者と刑務官の関係は刑務官がおやじ(父親)であり受刑者は息子の関係が成立し行刑(ぎょうけい)がなされている。刑務所では受刑者は刑務官を「おやじさん」と呼んでいる。この日本型行刑(受刑者は刑務官に絶対的に服従する関係)によって、日本では刑務所で暴動が起こることはない。
しかし、受刑者が何らかの理由で懲罰審査会にかけられた場合など、行政裁判の証人として親である刑務官が子である受刑者の味方になってくれることはなく、結局は、受刑者は刑務官への不信感を持つことになる。刑務官への敬愛は憎悪の念となって残ることになる。
監獄法の変遷
現行の監獄法は、大日本帝国憲法下で制定されたもの、つまり100年前のものである。言い換えると、監獄法は、基本的人権尊重を謳う日本国憲法の法の精神に基づき制定されたものではない。ここに現行監獄法の基本的問題がある。
日本で最初の監獄法令は、1872年(明治5年)から1873年までの「監獄則並図式」(かんごくそくならびずしき)である。1880年(明治13年)に旧刑法、1881年に第一次監獄則(フランス・ベルギーの行刑制度に習った)、1889年に第二次監獄則(ドイツ方式)、1908年現行監獄法が制定される。(p17)
小河滋次郎(おがわしげじろう)が現行監獄法を起草した。現行監獄法の特徴は、懲罰の法律化、処遇の個別化、独居拘禁制(どっきょこうきんせい)の採用で、当時としては監獄法の国際基準から優れたものであった。今日、この法律が存続しているのは、それなりに監獄法の国際基準を満たしていたからである。(p17)
しかし、小河が起草した当時の理念が空洞化している。例えば、同法第15条にある独居拘禁制は受刑者の人権を守るという趣旨でなく、むしろ、その逆に昼夜にわたる厳正独居(げんせいどっきょ)という懲罰の手段として使われている。(p18)
成績評価と累進処遇
1932年に施行された「行刑累進処遇令」(ぎょうけいるいしんしょうぐうれい)は、監獄法に基づかない単なる命令であるが、この命令が実際の受刑生活のすみずみにまで及び、事実上、刑務官の一方的な査定に受刑者の処遇が任されている。
行刑累進処遇令によって受刑者の成績(受刑生活態度への評価成績)の向上に応じ、第1級から第4級までに区分された階級段階を順次昇進させる。上級になるにつれて漸進的(ぜんしんてき)に拘束条件を緩和する措置が取られる。この判断の全てが刑務官に任されている。
つまり、近代法の精神である、実質的な権利と義務の関係の法的規制ではなく、刑務所の刑務官の判断で受刑者の扱いを決定することが出来るようになっている。
日本の行刑の100年
小川太郎は日本の行刑の歴史を五段階に区分した。まず、最初の段階が日本の行刑は明治新政府の設立から10年間で監獄制度が目まぐるしく変化した混乱の時代である。すぐ後、次の第二段階で、ドイツ方式を取り入れた厳格な刑罰の時代・懲戒主義時代が来る。
そのあと監獄法が制定までを管理主義時代と呼ばれる第三段階が訪れ、その次の第四段階は、戦時中に受刑者を勤労奉仕に参加させた人道的処遇時代(本当に人道主義があったのではなく、戦中の人手不足の解消のために受刑者を使用した)である。
最後の第五段階は戦後から現在までの期間で、科学的処遇時代である。
受刑者の権利保障に関わるものは、法律以下の政令、省令、通達と呼ばれるもの、刑務所長の達示(たっし)であり、刑務官の現場での指示である。現場に最も近い刑務官の指示が受刑者の人権に直接かかわる日常生活に規制を加えるものになっているのが日本の行刑の現状である。
行刑の密行主義
日本の行刑の基本原則の一つに「行刑密行主義(ぎょうけいみっこうしゅぎ)」がある。
もともと、この密行主義の原則は「国民の健全な良心を傷つけない」ことが目的であった。刑務所の実態をひろく社会に知らせることが、受刑者の「良心を傷つける」ことになるなら、まさに「臭いものに蓋(ふた)をする」類(たぐい)のものである。
近代行刑においては、受刑者の再教育と改善を行刑目的とし、秩序維持を図りつつも、開放施設や受刑者の社会復帰を促進する実務工夫が求められている。
刑務所は一般社会に可能な限り密着する必要があり、施設の運営の許す限り一般に公開される必要がある。行刑密行主義優先の時代は終わった。刑務所の情報公開と受刑者とその家族の結びつき、地域社会との連携のもとに刑務所を社会化するための工夫が必要である。
開かれた刑務所を目指しつつ行刑の専門化が追求されなければならない。(p21)
受刑者処遇の責任者
刑務所や少年院等を管轄する法務省矯正局の最高責任者は形式的には法務大臣であり、行政的には矯正局長である。しかし、現実は矯正実務の経験のない検察官の専権(せんけん)ポストとなっている。矯正局の総務課長などの重要職も、ほとんどすべて検察官で占められている。
出世したほんの僅かな定年間近(ていねんまじか)矯正実務畑出身者が、矯正管区の管区長になる。その管区内の各刑務所の所長がいる。この刑務所長が事実上の実務責任者となる。しかし、彼らも2、3年で転勤する。
従って、受刑者と現実に接触しているのは、転勤のほとんどない長年看守として勤め上げた現場の人たちである。彼らも刑務作業の成績を上げなければならない。刑務所の規律と秩序優先の管理をしなければ自らの保身は出来ない。
つまり、刑政は極めて官僚的に執り行われている。これまで、矯正界(刑務行政)の改革を呼びかけた人々もいたが、現実は、省令や通達にいたる法令すら外部に公開することを禁じるよう状態である。
規律中心主義はなぜ続くか
日本の刑務所は、悪い意味での密行主義に年々傾いている。その批判すら許されない。そのため受刑者処遇は規律による管理主義が優先されている。何故なら、刑務所内での刑務官の管理し易い方向で、刑務所の行刑実務が行われているためである。
孫斗八(そん・とうはち)死刑囚がはじめて刑務所を提訴した。このはじめての1958年の大阪地裁での行政裁判で孫氏は部分的に勝訴したが、全体としては敗訴した。その後も多くの訴訟が受刑者によって提起されている。そのほとんどは負けている。何故なら、受刑者にとって国を相手の裁判提起にかかわる条件が、不利であるからだ。
刑務所の管理者は受刑者の告訴に備えて万事怠りない対策を準備し、その後、受刑者への締め付けが強化され、受刑者の人権意識への自覚に逆行して、行刑実務者の人権意識は薄くなっている。
市民としての権利の制限
選挙権および被選挙権
公職選挙法によって受刑者(禁固刑以上の刑に処されている者)は選挙権および被選挙権を持てない。仮釈放後も刑の執行期間が終了するまでは上記と同じ条件となる。(p27)
また、同法によって未決勾留中(みけつこうりゅうちゅう)の被告人、勾留執行中、婦人補導院収容中の者、つまり自由刑でも、三十日未満の勾留刑の者は不在者投票を認めているが、禁錮以上の受刑者には(被)選挙権はない。(p28)
選挙権の剥奪によって、刑の執行状況等が市町村役場に通知され、戸籍を所管する市町村での犯罪人名簿への登録が行われ、選挙人名簿の調整によって選挙権の喪失が確認される。つまり、基本権の一つである選挙権が刑務所収容によって自動的に剥奪されることになる。その剥奪は、自由の拘束(自由刑)に加えて付加刑(ふかけい)として受刑者への社会制裁を認めることを意味しないかと著者は述べている。(p28)
ヨーロッパやアメリカでは、基本的に受刑者の選挙権を認めている。刑務所内での不在者投票が行われている。選挙にかかわる罪を犯した受刑者に選挙権や被選挙権を停止することは理解できるが、一般受刑者にその権利を奪うかについての明白な根拠が見出せない。(p28-29)
選挙権は憲法上の基本権である。またすべての市民が選挙権や被選挙権をもつとする自由人権規約第25条にも違反する。自由刑(身体の自由を奪う刑)として刑務所に収容された以上、住居制限を受けることは避けられないが、しかし選挙権(被選挙権)の停止は自由刑の目的を超えた思想や良心への侵害であるという認識も問われるべきであると著者は述べている。(p29)
住民票
受刑によって刑務所への住居移転は生じるが、刑務所は法的に住居ではないため、住居移転手続きは成立しない。しかし、受刑者の場合、長期不在が明らかになれば、住民基本台帳第3条により、住民票から抹消されることになる。取り分け、受刑者の場合、家族のない者、刑務所入所後に離婚した者が少なくないため、市町村からの公的通知書が宛先不在となり返却されるために、不在の確認がなされれば、住民票を市町村は抹消せざるを得ない。だが、長期不在者が必ずしも住民票から自動的に抹消されている訳ではない、例えば長期海外生活や入院する者は、生活の根拠があるために、自動的に住民票を抹消されない。(p29-30)
日本社会では住民票が無い場合、多くの不利益や基本権を失う。例えば、健康保険の資格の放棄、ただし日雇労働者は日雇労働保険手帳がある。これがあれば国民健康保険に以前は加入できたが、最近では住民票がなければ加入できなくなっている。(p30)
住民票をなくした受刑者は、出所後、改めて住民票を取得しなければならない。出所後、多くのものが家族と無縁になっている場合、ホームレスになっていく。出所後、身元引受人のもとに帰住(きじゅう)するか、厚生保護施設での宿泊措置を受けることで、一時的に住所を確保し、住民票を取ることは可能である。それをあえてしない「自助の精神」の欠けた者は自ら社会福祉を受ける権利を放棄した者と看做す(みなす)ことも出来るだろうが、長期の刑務所収容の結果として住民票を失うこと自体が、自由刑の目的をはるかに越えた、受刑者の社会復帰を阻害している現実を理解すべきである。(p31)
海外、例えばアメリカでは、日本のような住民票や国民健康保険制度がないために、少なくとも住民票を失うことによる障害は生じないため、住民票を失うことによって生じる社会復帰の障害も同時に生じない。(p32)
医療保険 健康保険法の問題点
法的には刑務所に入所したからと言って社会保険、国民健康保険の資格を失うわけでないが、実際的には、それらの資格を失う。社会保険は逮捕や有罪判決の出た時点で解雇されるのが普通なので、そこで事実上資格を失う。国民健康保険も収監(しゅうかん)されてから保険料の納付が事実上不可能になるので、資格を喪失する。(p32)
刑務所での医療給付は健康保険法第62条によって適用されていない。同様に国民健康保険法第59条と船員保険法第53条でも受刑者へは支払いされない。老人保健法でも同様である。受刑者は、これまで支払ってきた医療保険に関する一切の医療補助の権利を失い、医療費適用されていないことになる。(pp32-33)
受刑者の健康管理は国と行刑実務機関(矯正行政・刑務所)が行うことになる。刑務所には医療体制がある。しかし、それは極めて粗末なもので、これまでの医療と同じ質のものを受けたい場合には、自費治療となる。金のないものは、例えば入れ歯の治療(前歯ではほぼ20万円)すら受けられないことになる。人工透析、糖尿病治療なでの治療が出来る刑務所は限られている。(p33)
1996年に未決拘禁者(みけつこうきんしゃ)が国民健康保険法第59条(刑務所に入所した場合、保険適用者から削除される)は憲法違反であると山口県弁護士会人権擁護委員会に訴えた。同委員会は「59条は合理性に疑いがある」と判断した。その結果、歯科治療が受けられた。一般に、半年以上の未決拘禁者には通常、この59条が適用され、自費医療が原則化しているのが現実である。(pp33-34)
犯罪者は健康保険により治療する身分でないという考え方が支配している。この考え方は戦前の救護法にある。戦後、生活保護法も同じ考え方を持っていたが、1950年に改正され「素行不良な者」でも平等に適用されるようになった。(p34)
国際規約である自由人権規約第10条では「刑行の制度は、非拘禁者の矯正及び社会復帰を基本的目的とする処遇を含む」ことを保障している。この規約を批准したわが国の刑務所の医療のあり方は国際準則からみても問題があると言える。(pp34-35)
労災保険
監獄内の刑務作業中の災害には労働者災害補償保険法の適用はない。受刑者の災害補償は1985年に出された「死傷病手当金給与規定の運用について」(依命通達)の規定がある。手当金の基準は労働基準法や労働者災害補償保険法を参酌(さんしゃく、参考)して積算(せきさん)されていると言われているが、2000年度の積算額をみると、一般労働者の補償額の四分の一となっている。(pp35-36)
刑務所作業は労働ではなく刑行(強制的な労働)でるということが、一般労働者の補償額の四分の一に受刑者への支払金額がなる根拠とされている。しかし、受刑者の強制労働中の災害に対して、「死傷病手当金給与規定の運用について」の規定をもうけ労働基準法や労働者災害補償保険法を参酌(さんしゃく、参考)した基準を定めたという以上、この依命通達でも、刑務所での強制労働を労働として認めたことを意味しないだろうかと著者は述べている。(pp36-37)
年金保険
国民年金法の障害基礎年金は拘禁されたときはその支給を停止することになっている。停止であるから、在監中(ざいかんちょう)は、保険料の納付免除を申請し、出所後に免除期間の保険料を払うことは可能である。(p37)
その他の厚生年金保険法で定められている年金の支給停止はない。しかし、本人が申請しなければならないため、在監中、家族や施設の協力が必要である。(p37)
問題は、年金を支払うためには、住民票の存在が前提であるため、刑務所収容に伴い受刑者は住民票を消除されるので、実際は年金受給資格を持つ者も、年金の支払いを受けられない場合が多く発生する。受刑者には形式的には年金受給の権利を与え、事実上は不支給や失格にしている。(pp37-38)
ヨーロッパ評議会の理事会が1981年に採択した「被拘束者の社会的身分に関する勧告914号」では、社会保障資格は受刑者の社会復帰にとって基本的な要素の一つであるため、その権利を市民と平等な状態に近づけるべきであると勧告している。(p38)
雇用保険
雇用保険法で定める失業の定義が受刑者には適用されないため、失業保険の適用は監獄収容者には適用されない。
失業保険の給付期間は一年であるから、多くの場合、逮捕や刑務所収容と同時に解雇となる場合が多いため、この要件を満たすは困難であり、受刑者が失業保険を受給することはできない。もし、刑務所作業を労働として認めれば、雇用保険の継続は可能であるが、懲役は労働として認められていないために、失業保険の適用はないし、また、労働者の理由で辞める場合には、失業保険の受給資格を得られないため、受刑者はその点でも受給の可能性を失う。(pp38-39)
しかし、ヨーロッパでは、原因がどうであれ受刑者も失業したのであるから、受給資格を持つと考えれば、失業保険の対象としている。(p39)
国際的視野から見る
刑務所収容と「法の支配」
行刑に関する国際準則は、条約、採択、決議の段階がある。条約を批准(ひじゅん)しているかどうか。法的拘束力の有無、解釈の相違がある。日本人・日本としての条件が付いている場合もある。(p39)
著者は、人権は普遍的なものであるから、国や社会、地域性によって人権感覚が捉えられてはならないし、国は国際基準を無視してはならいと述べている。(pp39-40)
この国際準則の批准に関して留意すべき第一点目は、まず法律によって規定された関係として刑務所収容に関する国家と受刑者の関係を位置づけていることである。つまり、国家と受刑者の権利義務関係に法的規制を与えることを意味する。これは法治国家の基本理念に基づき行刑が行われることを意味する。つまり、自由人権規約を批准した国は、この規約において認められた権利実現するために必要な立法措置を取ることを約束したことになる。(p40)
第二点目は、法の支配は有効でなくてはならないことである。例えば、受刑者の不服申立制度があったとしても、受刑者が不服を正当に申し立てることが出来なければ、受刑者の人権は尊守されていないことになる。その場合、受刑者は国際機関(国際人権裁判所等)に不服申立てが可能であることが実質的な課題となる。(pp40-41)
国際条約と日本
行刑に関する不服申立制度について日本は制度として存在している。しかし、その制度は実質機能していない。さらに国際機関への不服申立てはきわめて困難である。つまり、日本は自由人権規約を批准しながら、その内容を果たしていないことになる。(p42)
国際条約を形式的に批准しながら、実質的に批准を回避していることで、国際社会から「人権において日本は発展途上国である」と言われている。国際機関への不服申立に関する国際基準を満たす制度を日本が拒否している限り、日本の受刑者の人権が国際基準から見ても容認されるレベルにないと評価される。(p43)
最低基準規定と自由人権規約の現状
1995年の犯罪予防及び犯罪者処遇に関する第九回国連会議で「非拘禁者処遇最低基準規則の実践履行に関する決議」が採択された。この決議の主な5点に関する決議内容の実施を加盟国に要請した。
この1995年の決議は、1955年に決議された非拘禁者処遇の最低基準規則の実践履行に関する決議であった。しかし、日本政府は、報告書で「各国制度の特殊性に対する十分な配慮を欠いているがために活用されないままになっている基準・規則については、これを多くの国で実施しやすいように修正することが検討されるべきである」と述べた。つまり、1955年の最低基準を引き下げることを提示したのである。これが日本政府のもつ国際的人権感覚ではないかと著者は述べている。
日本の裁判所(司法でも)自由人権規約の最適基準に適合するように国内法の整備をする必要があるために、例えば、受刑者の接見交通権に関して、国際条約を優先する判決が1999年高松地裁で出たが、2000年、高等裁判所はこの高松判決を破棄した。
1998年10月に開かれた第四回規約人権委員会では、日本の刑務所の処遇問題に関してつぎの6点を指摘した。(p45)
一点目は、受刑者の自由な親交の権利とプライバシーの権利等を含む基本的な権利を制限する苛酷な所内規定がある。
二点目は、厳正独居頻繁な使用を含む苛酷な懲罰手段
三点目は、公正な規則違反者への懲罰決定の手続きの欠如
四点目は、刑務官の報復行為に対して、受刑者の不服申立ての不十分な保護
五点目は、信頼できる受刑者の不服申立て調査システムの欠如
六点目は、残虐非人道的取り扱いとなる皮手錠のような保護手段の多用
日本弁護士連合会(日弁連)は1999年2月に、「国際人権(自由権)規約委員会の勧告を実施する応急措置法案要綱」を発表し、第四回規約人権委員会の日本の刑務所の処遇問題点の改善、受刑者の処遇改善を提示している。(pp45-46)
第一章「受刑者はどのような存在か」に関する批評
累犯者が非常に多い日本社会
インターネットの検索エンジンで「犯罪加害者」と「人権」の二つのキーワードを入力すると、ほとんどのサイトで「犯罪加害者には人権はない」という内容の文章に出会う。もし、彼らに人権がないなら彼らは日本国民ではないと言っていることになる。何故なら、わが国の憲法によってすべての国民が基本的人権を擁護されているからである。
犯罪被害者が犯罪加害者に対する憎しみや怒りの感情は理解できる。しかも、第三者がその犯罪被害者の気持ちを痛感し、また自分が犯罪被害者になることへの恐怖から、犯罪加害者への批判や憎しみの感情があるのは理解できるし、そうした社会的反応が起ることも不思議ではない。
犯罪学の専門家として有名な菊田幸一氏の著書によると、累犯者(るいはんしゃ 繰り返し犯罪を犯す人々)は、男子の場合2000年の統計では刑務所の全収容者の52.5%に及んでいる。つまり、刑務所の「初入者より再入者が多い」ことになっている。(KIKUko02A p.i )
刑務所の社会的機能 受刑者の社会復帰
この事実から、二つの仮説が立てられる。一つは、最犯罪率が高いのは日本の犯罪者の特徴ではなく、犯罪者とはつねに犯罪を再び繰り返す傾向にあると言える。この仮説は世界の犯罪者の再犯率を調べることで検証できる。二つ目の仮説は、本来刑務所は受刑者の犯罪行為を反省させ、再び罪を犯さないように教育矯正する社会的機能を担っているが、日本の刑務所はその社会的役割を十分発揮していないというものである。この事も、前記した仮説と同様に世界の先進国の再犯罪率の統計を見ることで検証可能である。
犯罪加害者という名称を与えることで犯罪者が生涯償えない加害者としての履歴を背負うことになる。彼らが刑務所で刑の執行を受けたとしても、元犯罪者という呼び方は彼らに生涯、刑務所での刑罰に服し、被拘束生活と刑務作業を続けたとしても、一旦、罪を犯したものは再び社会が許すことはないという烙印(らくいん)を意味する。
この烙印は、江戸時代、窃盗などの犯罪者に入れ墨を入れ、三回入れ墨が入る死罪となる制度と似ている。中世社会までは、犯罪者が生れないようにするのでなく、犯罪者を社会から排除することが社会の犯罪対策として取られていた方法であった。しかし、現代の人権擁護を基本する憲法を持つ社会で、罪を犯した者を社会から徹底的に排除することは、人権問題となると言える。
人権の守られている社会とは、人々の生命と生活を守ることが出来る社会を維持するために、犯罪が発生しないように機能している社会である。そのために、犯罪者を逮捕し、裁判にかけ、刑務所に入れ、再び犯罪を繰り返さないよう矯正教育を行い、そして彼らの社会復帰を助けることが社会の大切な治安機能の一つである。防犯とは犯罪を未然に防ぐことであると同時に、犯罪者を出さないような社会を作ることを意味する。
市民の人権擁護・防犯と受刑者の人権擁護・社会復帰
また人権問題を考える以上、刑に服している人々を「犯罪者」と呼ぶのでなく「受刑者」と呼ぶことにする。受刑者が再び罪を犯し、累犯者となることを防ぐにはどうすべきか、それが、この社会の安全対策につながる。人権擁護と防犯は矛盾するとは思われない。もし矛盾するなら私たちの社会は人権擁護の思想を破棄し、江戸時代のように、罪を犯した人々を徹底的に社会から排除し、また死罪にして、抹殺し続けなければならない。
現代社会でも中国のように、麻薬を持っていたという理由で死刑になる国もある。その国では年間数千名の人々が死刑になっていると謂(い)われている。刑罰を強化しながら中国政府は国の治安を維持している。インターネットでも中国で行われていた公開の銃殺刑の写真が出回り、人権感覚のない国として悪評を買っている。
人権擁護を掲げる先進国では、受刑者の人権を考える法律や社会制度が存在している。つまり人権を守る社会では、極刑をもって犯罪者を抹殺するのでなく、犯罪者を出さない、累犯者にさせない社会のあり方を市民が積極的に考えなければならない。そのきっかけを裁判員制度は与えるだろう。市民生活の安全を守るために犯罪を防ぎ、犯罪者の社会復帰を助け、累犯者を出さない社会を構築していくために、もう一度、受刑者の人権問題を考えてみよう。
参考資料
江戸時代の刑罰 http://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/zidai/keibatu.htm
刑罰の一覧 Wikipedea http://ja.wikipedia.org/wiki/
三石博行 教材「レポート材料の作り方について」 A4、8p
三石博行 教材「河野哲也著書を活用したテキスト批評の書き方実例紹介」A4、10p
Tweet
テキストの出典
菊田幸一著『日本の刑務所』岩波新書794、205p、2002.7、「はじめに」、第一章「受刑者はどのような存在か」pp1‐46、
テキストの文献記号は、(KIKUKo02A )とする。
菊田幸一氏は、1934年12月生まれ、出身は滋賀県長浜市、弁護士、中央大学法学部卒、明治大学法学部大学院博士課程卒、明治大学名誉教授、法学博士(明治大学)、死刑廃止論者、被疑者及び囚人の法的権利を重視する学説を唱える。終身刑の導入を主張、犯罪被害者の救済と加害者の和解を推進している。(Wikipedia)
第一章「はじめに」、第一章「受刑者はどのような存在か」pp1‐46、の要約
現在の日本の刑務所の問題点とは何か
日本の刑務所収容者の三つの特色
日本の刑務所収容者の特色は以下の三つである。
一つ目は、累犯者(るいはんしゃ)が多いことである。頻回入所歴(ひんかいにゅうしょれき)を有する者は、男子の全収容者のうち52.5%(2000年の統計)である。中でも5度以上の入所歴を有する者は、頻回収容者の三割を占める。(pⅰ)
二つ目は、受刑者の高齢化である。六十歳以上の高齢受刑者は1984年に2%、1989年に4.3%であったが、2000年末では9.3%でと、10年近くで倍増している。
三つ目は、受刑者の全体の四分の一が覚せい剤事犯、さらに全体の四分の一が暴力団関係者で、矯正効果を期待するのが難しいケースが多い。
こうした受刑者は、仮に更生意欲を持って刑務所を出ても出所後の経済的不安、健康、前科、住居等のあらゆる生きるすべについての障害によって、半分以上が再び刑務所に戻ってくる。
受刑者の社会復帰のための行刑の課題
受刑者は自らの犯した犯罪(反社会的行為)に対する当然の結果として、受刑者の自由を拘束すること(自由刑)は当然である。その刑は基本的に受刑者の社会復帰を目指した矯正教育の場として刑務所は位置づけられているが、現実は、そうなっていない。
そして、受刑者の社会復帰を支援することが、結果的に社会の利益に繋がるという考え方が、刑罰思想の課題となっている。
矯正教育の旗印のもとに、実施されている諸施策(しょしさく)も、現実的には自由刑の目的を越えて非人道的な扱いを正当化する傾向がある。積極行刑(きょうけい)である再教育が必ずしも受刑者の社会復帰にとって効果的でないことが、主にアメリカにおいて反省されている。国際的にも、積極行刑が見直され自由刑に限定した行刑(刑の執行)である消極行刑が評価され、それに移行している。(pⅲ-ⅳ)
累犯者・刑務所への、頻回収容者を減少するための課題
なぜ刑罰を受けても犯罪を繰り返すのかという疑問が提起される。そこで、頻回収容者は「人間は自由の拘束が耐え難いが故に犯罪を留まるということに疑問が投げかれられている。つまり、自由刑では累犯・頻回入所を防ぐことが出来ないのではないかという指摘もある。(pⅳ)
著者はその指摘に対して、「刑務所生活に(受刑者が)慣らされなければ(受刑者たちは)受刑生活に耐えることが出来ない」現実の刑務所のあり方を問題にしている。つまり、刑務所生活に慣らされ、逆に一般社会に出ることに不安を抱く人間(受刑者)を育てているのが、現在の日本の刑務所の実態ではないかと指摘している。(pⅳ)
本書では、ワイマール憲法(1919年制定)に沿って、受刑者といえども「人たるに値する存在:であるという観点から、アメリカの刑務所での受刑者の人権擁護の状況を例に取りながら、日本のそれを分析しる。アメリカの刑務所がはるかに日本の刑務所よりも受刑者の人権は守られている。
しかし、アメリカは日本の数倍の犯罪が発生している。例えば、1998年の統計からも、日本では10万人あたり1.0人の殺人が起こっているのに比較して、アメリカでは6.3人である。つまり、日本は世界的にも犯罪の極めて少ない国であるが、その日本でも近年、受刑者数は増加の傾向にある。そして、刑務所では過剰拘禁(こうきん)の状態であると報道されている。
日本の刑務所での過剰拘禁状態の原因は、犯罪の増加のみでなく、重刑罰傾向と仮釈放率の低下もその原因である。
著者は、日本での累犯者・頻回入所者を減少されるために、以下の三つの提案を行った。
つまり、第一点目は、受刑者の生活環境の改善(食事、作業等々)について考えること、第二点目は他律的で受動的な生活スタイルの改善、つまり自己責任を常に意識し主体性を育てる受刑生活スタイルを考えること、第三点目は刑務所を外部との隔離社会でなく、外部と交流のある場にしながら、受刑者の社会復帰の心を育てることである。
著者のこの提案の基本には、社会から犯罪を少なくするための目的がある。その目的を実現するために、著者は、受刑者を人として扱うこと、つまり、受刑者の人権を考える日本社会の人権文化、その結果として刑務所が受刑者の人間復活と社会復帰を可能にする施設になることが述べられている。
受刑者の扱い
日本の刑務所と受刑者の現状
2001年には、日本には59の刑務所、8の少年刑務所と7の拘置所があり、一日平均40,768人の裁判が確定し懲役(ちょうえき)、禁錮(きんこ)及び拘留(こうりゅう)をされた既決囚(きけつしゅう)が収容されていた。また、一万人の未決囚(みけつしゅう)が拘置所にいる。既決囚の収容定員は48,393人であることを考えれば、ほぼ定員いっぱいの状態であると言える。
新受刑者は、刑の重さ、犯罪傾向の進行、性別、刑名、障害によって収容分類級が付けられる。また、処遇分類級に区分され、それらの級別に応じた刑務所に送られる。
新受刑者の約12%が凶悪犯罪者(殺人罪、強盗罪や傷害罪)で、窃盗、覚せい剤犯、詐欺、道路交通法違反が男子新受刑者の約53パーセントである。また、女子受刑者は、近年漸増(ぜんぞう)傾向にある。
刑務所ごとに受刑環境は異なる。例えば、北海道の東北地方より北の北海道以外には暖房はない。食事の質にも施設によって大差がある。
受刑者の人権について、入所時の検査、制限された人権、人間の尊厳とは何か
刑務所への押送(おうそう)は、護送車で行われるが、遠方の場合、刑務官が付き添って、手錠を掛けられ、二人以上の場合は体を数珠状(じゅずじょう)に繋(つな)がれて列車で運ばれる。一人がトイレで用を足すときは、他のものは繋がれたままホームで待たされる。手錠を見られないように一般の乗客に隠されているものの、その不自然な姿に屈辱(くつじょく)を味わう。
刑務所に着くと、新人調質(しんじんちょうしつ)に入れられ、本人確認がなされる。そして、入所時の身体検査が行われる。その時から、人権を無視された軍隊式の扱いが始まる。
刑務所は受刑者の自由を拘束するためにある。しかし、世界人権宣言や日本国憲法に謳われているように、受刑者といえども人間である以上、彼らに拷問や屈辱的で非人道的な取り扱いをしてはならない。また、生命の尊厳を考えるなら死刑は廃止すべきであると著者は述べている。
また、受刑者の人権の扱われ方が、「その国における人権感覚の国民一般のレベルを計るバロメータでもある」と著者は述べている。そして、日本の刑務所での受刑者の扱いが紹介されている。
日本型行刑
日本の刑務所での受刑者と刑務官の関係は刑務官がおやじ(父親)であり受刑者は息子の関係が成立し行刑(ぎょうけい)がなされている。刑務所では受刑者は刑務官を「おやじさん」と呼んでいる。この日本型行刑(受刑者は刑務官に絶対的に服従する関係)によって、日本では刑務所で暴動が起こることはない。
しかし、受刑者が何らかの理由で懲罰審査会にかけられた場合など、行政裁判の証人として親である刑務官が子である受刑者の味方になってくれることはなく、結局は、受刑者は刑務官への不信感を持つことになる。刑務官への敬愛は憎悪の念となって残ることになる。
監獄法の変遷
現行の監獄法は、大日本帝国憲法下で制定されたもの、つまり100年前のものである。言い換えると、監獄法は、基本的人権尊重を謳う日本国憲法の法の精神に基づき制定されたものではない。ここに現行監獄法の基本的問題がある。
日本で最初の監獄法令は、1872年(明治5年)から1873年までの「監獄則並図式」(かんごくそくならびずしき)である。1880年(明治13年)に旧刑法、1881年に第一次監獄則(フランス・ベルギーの行刑制度に習った)、1889年に第二次監獄則(ドイツ方式)、1908年現行監獄法が制定される。(p17)
小河滋次郎(おがわしげじろう)が現行監獄法を起草した。現行監獄法の特徴は、懲罰の法律化、処遇の個別化、独居拘禁制(どっきょこうきんせい)の採用で、当時としては監獄法の国際基準から優れたものであった。今日、この法律が存続しているのは、それなりに監獄法の国際基準を満たしていたからである。(p17)
しかし、小河が起草した当時の理念が空洞化している。例えば、同法第15条にある独居拘禁制は受刑者の人権を守るという趣旨でなく、むしろ、その逆に昼夜にわたる厳正独居(げんせいどっきょ)という懲罰の手段として使われている。(p18)
成績評価と累進処遇
1932年に施行された「行刑累進処遇令」(ぎょうけいるいしんしょうぐうれい)は、監獄法に基づかない単なる命令であるが、この命令が実際の受刑生活のすみずみにまで及び、事実上、刑務官の一方的な査定に受刑者の処遇が任されている。
行刑累進処遇令によって受刑者の成績(受刑生活態度への評価成績)の向上に応じ、第1級から第4級までに区分された階級段階を順次昇進させる。上級になるにつれて漸進的(ぜんしんてき)に拘束条件を緩和する措置が取られる。この判断の全てが刑務官に任されている。
つまり、近代法の精神である、実質的な権利と義務の関係の法的規制ではなく、刑務所の刑務官の判断で受刑者の扱いを決定することが出来るようになっている。
日本の行刑の100年
小川太郎は日本の行刑の歴史を五段階に区分した。まず、最初の段階が日本の行刑は明治新政府の設立から10年間で監獄制度が目まぐるしく変化した混乱の時代である。すぐ後、次の第二段階で、ドイツ方式を取り入れた厳格な刑罰の時代・懲戒主義時代が来る。
そのあと監獄法が制定までを管理主義時代と呼ばれる第三段階が訪れ、その次の第四段階は、戦時中に受刑者を勤労奉仕に参加させた人道的処遇時代(本当に人道主義があったのではなく、戦中の人手不足の解消のために受刑者を使用した)である。
最後の第五段階は戦後から現在までの期間で、科学的処遇時代である。
受刑者の権利保障に関わるものは、法律以下の政令、省令、通達と呼ばれるもの、刑務所長の達示(たっし)であり、刑務官の現場での指示である。現場に最も近い刑務官の指示が受刑者の人権に直接かかわる日常生活に規制を加えるものになっているのが日本の行刑の現状である。
行刑の密行主義
日本の行刑の基本原則の一つに「行刑密行主義(ぎょうけいみっこうしゅぎ)」がある。
もともと、この密行主義の原則は「国民の健全な良心を傷つけない」ことが目的であった。刑務所の実態をひろく社会に知らせることが、受刑者の「良心を傷つける」ことになるなら、まさに「臭いものに蓋(ふた)をする」類(たぐい)のものである。
近代行刑においては、受刑者の再教育と改善を行刑目的とし、秩序維持を図りつつも、開放施設や受刑者の社会復帰を促進する実務工夫が求められている。
刑務所は一般社会に可能な限り密着する必要があり、施設の運営の許す限り一般に公開される必要がある。行刑密行主義優先の時代は終わった。刑務所の情報公開と受刑者とその家族の結びつき、地域社会との連携のもとに刑務所を社会化するための工夫が必要である。
開かれた刑務所を目指しつつ行刑の専門化が追求されなければならない。(p21)
受刑者処遇の責任者
刑務所や少年院等を管轄する法務省矯正局の最高責任者は形式的には法務大臣であり、行政的には矯正局長である。しかし、現実は矯正実務の経験のない検察官の専権(せんけん)ポストとなっている。矯正局の総務課長などの重要職も、ほとんどすべて検察官で占められている。
出世したほんの僅かな定年間近(ていねんまじか)矯正実務畑出身者が、矯正管区の管区長になる。その管区内の各刑務所の所長がいる。この刑務所長が事実上の実務責任者となる。しかし、彼らも2、3年で転勤する。
従って、受刑者と現実に接触しているのは、転勤のほとんどない長年看守として勤め上げた現場の人たちである。彼らも刑務作業の成績を上げなければならない。刑務所の規律と秩序優先の管理をしなければ自らの保身は出来ない。
つまり、刑政は極めて官僚的に執り行われている。これまで、矯正界(刑務行政)の改革を呼びかけた人々もいたが、現実は、省令や通達にいたる法令すら外部に公開することを禁じるよう状態である。
規律中心主義はなぜ続くか
日本の刑務所は、悪い意味での密行主義に年々傾いている。その批判すら許されない。そのため受刑者処遇は規律による管理主義が優先されている。何故なら、刑務所内での刑務官の管理し易い方向で、刑務所の行刑実務が行われているためである。
孫斗八(そん・とうはち)死刑囚がはじめて刑務所を提訴した。このはじめての1958年の大阪地裁での行政裁判で孫氏は部分的に勝訴したが、全体としては敗訴した。その後も多くの訴訟が受刑者によって提起されている。そのほとんどは負けている。何故なら、受刑者にとって国を相手の裁判提起にかかわる条件が、不利であるからだ。
刑務所の管理者は受刑者の告訴に備えて万事怠りない対策を準備し、その後、受刑者への締め付けが強化され、受刑者の人権意識への自覚に逆行して、行刑実務者の人権意識は薄くなっている。
市民としての権利の制限
選挙権および被選挙権
公職選挙法によって受刑者(禁固刑以上の刑に処されている者)は選挙権および被選挙権を持てない。仮釈放後も刑の執行期間が終了するまでは上記と同じ条件となる。(p27)
また、同法によって未決勾留中(みけつこうりゅうちゅう)の被告人、勾留執行中、婦人補導院収容中の者、つまり自由刑でも、三十日未満の勾留刑の者は不在者投票を認めているが、禁錮以上の受刑者には(被)選挙権はない。(p28)
選挙権の剥奪によって、刑の執行状況等が市町村役場に通知され、戸籍を所管する市町村での犯罪人名簿への登録が行われ、選挙人名簿の調整によって選挙権の喪失が確認される。つまり、基本権の一つである選挙権が刑務所収容によって自動的に剥奪されることになる。その剥奪は、自由の拘束(自由刑)に加えて付加刑(ふかけい)として受刑者への社会制裁を認めることを意味しないかと著者は述べている。(p28)
ヨーロッパやアメリカでは、基本的に受刑者の選挙権を認めている。刑務所内での不在者投票が行われている。選挙にかかわる罪を犯した受刑者に選挙権や被選挙権を停止することは理解できるが、一般受刑者にその権利を奪うかについての明白な根拠が見出せない。(p28-29)
選挙権は憲法上の基本権である。またすべての市民が選挙権や被選挙権をもつとする自由人権規約第25条にも違反する。自由刑(身体の自由を奪う刑)として刑務所に収容された以上、住居制限を受けることは避けられないが、しかし選挙権(被選挙権)の停止は自由刑の目的を超えた思想や良心への侵害であるという認識も問われるべきであると著者は述べている。(p29)
住民票
受刑によって刑務所への住居移転は生じるが、刑務所は法的に住居ではないため、住居移転手続きは成立しない。しかし、受刑者の場合、長期不在が明らかになれば、住民基本台帳第3条により、住民票から抹消されることになる。取り分け、受刑者の場合、家族のない者、刑務所入所後に離婚した者が少なくないため、市町村からの公的通知書が宛先不在となり返却されるために、不在の確認がなされれば、住民票を市町村は抹消せざるを得ない。だが、長期不在者が必ずしも住民票から自動的に抹消されている訳ではない、例えば長期海外生活や入院する者は、生活の根拠があるために、自動的に住民票を抹消されない。(p29-30)
日本社会では住民票が無い場合、多くの不利益や基本権を失う。例えば、健康保険の資格の放棄、ただし日雇労働者は日雇労働保険手帳がある。これがあれば国民健康保険に以前は加入できたが、最近では住民票がなければ加入できなくなっている。(p30)
住民票をなくした受刑者は、出所後、改めて住民票を取得しなければならない。出所後、多くのものが家族と無縁になっている場合、ホームレスになっていく。出所後、身元引受人のもとに帰住(きじゅう)するか、厚生保護施設での宿泊措置を受けることで、一時的に住所を確保し、住民票を取ることは可能である。それをあえてしない「自助の精神」の欠けた者は自ら社会福祉を受ける権利を放棄した者と看做す(みなす)ことも出来るだろうが、長期の刑務所収容の結果として住民票を失うこと自体が、自由刑の目的をはるかに越えた、受刑者の社会復帰を阻害している現実を理解すべきである。(p31)
海外、例えばアメリカでは、日本のような住民票や国民健康保険制度がないために、少なくとも住民票を失うことによる障害は生じないため、住民票を失うことによって生じる社会復帰の障害も同時に生じない。(p32)
医療保険 健康保険法の問題点
法的には刑務所に入所したからと言って社会保険、国民健康保険の資格を失うわけでないが、実際的には、それらの資格を失う。社会保険は逮捕や有罪判決の出た時点で解雇されるのが普通なので、そこで事実上資格を失う。国民健康保険も収監(しゅうかん)されてから保険料の納付が事実上不可能になるので、資格を喪失する。(p32)
刑務所での医療給付は健康保険法第62条によって適用されていない。同様に国民健康保険法第59条と船員保険法第53条でも受刑者へは支払いされない。老人保健法でも同様である。受刑者は、これまで支払ってきた医療保険に関する一切の医療補助の権利を失い、医療費適用されていないことになる。(pp32-33)
受刑者の健康管理は国と行刑実務機関(矯正行政・刑務所)が行うことになる。刑務所には医療体制がある。しかし、それは極めて粗末なもので、これまでの医療と同じ質のものを受けたい場合には、自費治療となる。金のないものは、例えば入れ歯の治療(前歯ではほぼ20万円)すら受けられないことになる。人工透析、糖尿病治療なでの治療が出来る刑務所は限られている。(p33)
1996年に未決拘禁者(みけつこうきんしゃ)が国民健康保険法第59条(刑務所に入所した場合、保険適用者から削除される)は憲法違反であると山口県弁護士会人権擁護委員会に訴えた。同委員会は「59条は合理性に疑いがある」と判断した。その結果、歯科治療が受けられた。一般に、半年以上の未決拘禁者には通常、この59条が適用され、自費医療が原則化しているのが現実である。(pp33-34)
犯罪者は健康保険により治療する身分でないという考え方が支配している。この考え方は戦前の救護法にある。戦後、生活保護法も同じ考え方を持っていたが、1950年に改正され「素行不良な者」でも平等に適用されるようになった。(p34)
国際規約である自由人権規約第10条では「刑行の制度は、非拘禁者の矯正及び社会復帰を基本的目的とする処遇を含む」ことを保障している。この規約を批准したわが国の刑務所の医療のあり方は国際準則からみても問題があると言える。(pp34-35)
労災保険
監獄内の刑務作業中の災害には労働者災害補償保険法の適用はない。受刑者の災害補償は1985年に出された「死傷病手当金給与規定の運用について」(依命通達)の規定がある。手当金の基準は労働基準法や労働者災害補償保険法を参酌(さんしゃく、参考)して積算(せきさん)されていると言われているが、2000年度の積算額をみると、一般労働者の補償額の四分の一となっている。(pp35-36)
刑務所作業は労働ではなく刑行(強制的な労働)でるということが、一般労働者の補償額の四分の一に受刑者への支払金額がなる根拠とされている。しかし、受刑者の強制労働中の災害に対して、「死傷病手当金給与規定の運用について」の規定をもうけ労働基準法や労働者災害補償保険法を参酌(さんしゃく、参考)した基準を定めたという以上、この依命通達でも、刑務所での強制労働を労働として認めたことを意味しないだろうかと著者は述べている。(pp36-37)
年金保険
国民年金法の障害基礎年金は拘禁されたときはその支給を停止することになっている。停止であるから、在監中(ざいかんちょう)は、保険料の納付免除を申請し、出所後に免除期間の保険料を払うことは可能である。(p37)
その他の厚生年金保険法で定められている年金の支給停止はない。しかし、本人が申請しなければならないため、在監中、家族や施設の協力が必要である。(p37)
問題は、年金を支払うためには、住民票の存在が前提であるため、刑務所収容に伴い受刑者は住民票を消除されるので、実際は年金受給資格を持つ者も、年金の支払いを受けられない場合が多く発生する。受刑者には形式的には年金受給の権利を与え、事実上は不支給や失格にしている。(pp37-38)
ヨーロッパ評議会の理事会が1981年に採択した「被拘束者の社会的身分に関する勧告914号」では、社会保障資格は受刑者の社会復帰にとって基本的な要素の一つであるため、その権利を市民と平等な状態に近づけるべきであると勧告している。(p38)
雇用保険
雇用保険法で定める失業の定義が受刑者には適用されないため、失業保険の適用は監獄収容者には適用されない。
失業保険の給付期間は一年であるから、多くの場合、逮捕や刑務所収容と同時に解雇となる場合が多いため、この要件を満たすは困難であり、受刑者が失業保険を受給することはできない。もし、刑務所作業を労働として認めれば、雇用保険の継続は可能であるが、懲役は労働として認められていないために、失業保険の適用はないし、また、労働者の理由で辞める場合には、失業保険の受給資格を得られないため、受刑者はその点でも受給の可能性を失う。(pp38-39)
しかし、ヨーロッパでは、原因がどうであれ受刑者も失業したのであるから、受給資格を持つと考えれば、失業保険の対象としている。(p39)
国際的視野から見る
刑務所収容と「法の支配」
行刑に関する国際準則は、条約、採択、決議の段階がある。条約を批准(ひじゅん)しているかどうか。法的拘束力の有無、解釈の相違がある。日本人・日本としての条件が付いている場合もある。(p39)
著者は、人権は普遍的なものであるから、国や社会、地域性によって人権感覚が捉えられてはならないし、国は国際基準を無視してはならいと述べている。(pp39-40)
この国際準則の批准に関して留意すべき第一点目は、まず法律によって規定された関係として刑務所収容に関する国家と受刑者の関係を位置づけていることである。つまり、国家と受刑者の権利義務関係に法的規制を与えることを意味する。これは法治国家の基本理念に基づき行刑が行われることを意味する。つまり、自由人権規約を批准した国は、この規約において認められた権利実現するために必要な立法措置を取ることを約束したことになる。(p40)
第二点目は、法の支配は有効でなくてはならないことである。例えば、受刑者の不服申立制度があったとしても、受刑者が不服を正当に申し立てることが出来なければ、受刑者の人権は尊守されていないことになる。その場合、受刑者は国際機関(国際人権裁判所等)に不服申立てが可能であることが実質的な課題となる。(pp40-41)
国際条約と日本
行刑に関する不服申立制度について日本は制度として存在している。しかし、その制度は実質機能していない。さらに国際機関への不服申立てはきわめて困難である。つまり、日本は自由人権規約を批准しながら、その内容を果たしていないことになる。(p42)
国際条約を形式的に批准しながら、実質的に批准を回避していることで、国際社会から「人権において日本は発展途上国である」と言われている。国際機関への不服申立に関する国際基準を満たす制度を日本が拒否している限り、日本の受刑者の人権が国際基準から見ても容認されるレベルにないと評価される。(p43)
最低基準規定と自由人権規約の現状
1995年の犯罪予防及び犯罪者処遇に関する第九回国連会議で「非拘禁者処遇最低基準規則の実践履行に関する決議」が採択された。この決議の主な5点に関する決議内容の実施を加盟国に要請した。
この1995年の決議は、1955年に決議された非拘禁者処遇の最低基準規則の実践履行に関する決議であった。しかし、日本政府は、報告書で「各国制度の特殊性に対する十分な配慮を欠いているがために活用されないままになっている基準・規則については、これを多くの国で実施しやすいように修正することが検討されるべきである」と述べた。つまり、1955年の最低基準を引き下げることを提示したのである。これが日本政府のもつ国際的人権感覚ではないかと著者は述べている。
日本の裁判所(司法でも)自由人権規約の最適基準に適合するように国内法の整備をする必要があるために、例えば、受刑者の接見交通権に関して、国際条約を優先する判決が1999年高松地裁で出たが、2000年、高等裁判所はこの高松判決を破棄した。
1998年10月に開かれた第四回規約人権委員会では、日本の刑務所の処遇問題に関してつぎの6点を指摘した。(p45)
一点目は、受刑者の自由な親交の権利とプライバシーの権利等を含む基本的な権利を制限する苛酷な所内規定がある。
二点目は、厳正独居頻繁な使用を含む苛酷な懲罰手段
三点目は、公正な規則違反者への懲罰決定の手続きの欠如
四点目は、刑務官の報復行為に対して、受刑者の不服申立ての不十分な保護
五点目は、信頼できる受刑者の不服申立て調査システムの欠如
六点目は、残虐非人道的取り扱いとなる皮手錠のような保護手段の多用
日本弁護士連合会(日弁連)は1999年2月に、「国際人権(自由権)規約委員会の勧告を実施する応急措置法案要綱」を発表し、第四回規約人権委員会の日本の刑務所の処遇問題点の改善、受刑者の処遇改善を提示している。(pp45-46)
第一章「受刑者はどのような存在か」に関する批評
累犯者が非常に多い日本社会
インターネットの検索エンジンで「犯罪加害者」と「人権」の二つのキーワードを入力すると、ほとんどのサイトで「犯罪加害者には人権はない」という内容の文章に出会う。もし、彼らに人権がないなら彼らは日本国民ではないと言っていることになる。何故なら、わが国の憲法によってすべての国民が基本的人権を擁護されているからである。
犯罪被害者が犯罪加害者に対する憎しみや怒りの感情は理解できる。しかも、第三者がその犯罪被害者の気持ちを痛感し、また自分が犯罪被害者になることへの恐怖から、犯罪加害者への批判や憎しみの感情があるのは理解できるし、そうした社会的反応が起ることも不思議ではない。
犯罪学の専門家として有名な菊田幸一氏の著書によると、累犯者(るいはんしゃ 繰り返し犯罪を犯す人々)は、男子の場合2000年の統計では刑務所の全収容者の52.5%に及んでいる。つまり、刑務所の「初入者より再入者が多い」ことになっている。(KIKUko02A p.i )
刑務所の社会的機能 受刑者の社会復帰
この事実から、二つの仮説が立てられる。一つは、最犯罪率が高いのは日本の犯罪者の特徴ではなく、犯罪者とはつねに犯罪を再び繰り返す傾向にあると言える。この仮説は世界の犯罪者の再犯率を調べることで検証できる。二つ目の仮説は、本来刑務所は受刑者の犯罪行為を反省させ、再び罪を犯さないように教育矯正する社会的機能を担っているが、日本の刑務所はその社会的役割を十分発揮していないというものである。この事も、前記した仮説と同様に世界の先進国の再犯罪率の統計を見ることで検証可能である。
犯罪加害者という名称を与えることで犯罪者が生涯償えない加害者としての履歴を背負うことになる。彼らが刑務所で刑の執行を受けたとしても、元犯罪者という呼び方は彼らに生涯、刑務所での刑罰に服し、被拘束生活と刑務作業を続けたとしても、一旦、罪を犯したものは再び社会が許すことはないという烙印(らくいん)を意味する。
この烙印は、江戸時代、窃盗などの犯罪者に入れ墨を入れ、三回入れ墨が入る死罪となる制度と似ている。中世社会までは、犯罪者が生れないようにするのでなく、犯罪者を社会から排除することが社会の犯罪対策として取られていた方法であった。しかし、現代の人権擁護を基本する憲法を持つ社会で、罪を犯した者を社会から徹底的に排除することは、人権問題となると言える。
人権の守られている社会とは、人々の生命と生活を守ることが出来る社会を維持するために、犯罪が発生しないように機能している社会である。そのために、犯罪者を逮捕し、裁判にかけ、刑務所に入れ、再び犯罪を繰り返さないよう矯正教育を行い、そして彼らの社会復帰を助けることが社会の大切な治安機能の一つである。防犯とは犯罪を未然に防ぐことであると同時に、犯罪者を出さないような社会を作ることを意味する。
市民の人権擁護・防犯と受刑者の人権擁護・社会復帰
また人権問題を考える以上、刑に服している人々を「犯罪者」と呼ぶのでなく「受刑者」と呼ぶことにする。受刑者が再び罪を犯し、累犯者となることを防ぐにはどうすべきか、それが、この社会の安全対策につながる。人権擁護と防犯は矛盾するとは思われない。もし矛盾するなら私たちの社会は人権擁護の思想を破棄し、江戸時代のように、罪を犯した人々を徹底的に社会から排除し、また死罪にして、抹殺し続けなければならない。
現代社会でも中国のように、麻薬を持っていたという理由で死刑になる国もある。その国では年間数千名の人々が死刑になっていると謂(い)われている。刑罰を強化しながら中国政府は国の治安を維持している。インターネットでも中国で行われていた公開の銃殺刑の写真が出回り、人権感覚のない国として悪評を買っている。
人権擁護を掲げる先進国では、受刑者の人権を考える法律や社会制度が存在している。つまり人権を守る社会では、極刑をもって犯罪者を抹殺するのでなく、犯罪者を出さない、累犯者にさせない社会のあり方を市民が積極的に考えなければならない。そのきっかけを裁判員制度は与えるだろう。市民生活の安全を守るために犯罪を防ぎ、犯罪者の社会復帰を助け、累犯者を出さない社会を構築していくために、もう一度、受刑者の人権問題を考えてみよう。
参考資料
江戸時代の刑罰 http://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/zidai/keibatu.htm
刑罰の一覧 Wikipedea http://ja.wikipedia.org/wiki/
三石博行 教材「レポート材料の作り方について」 A4、8p
三石博行 教材「河野哲也著書を活用したテキスト批評の書き方実例紹介」A4、10p
Tweet
2010年11月24日水曜日
大学でのノートの作り方(2)
三石博行
3、調査資料の収集や問題分析の道具としてのノート
講義ノートの取り方
講義ではシラバスに示されたように、その都度(一回の講義毎に)具体的な講義課題(学習目標)が与えられる。それについて講師は、教材を提供し、講義を進める。これが一般的な大学での講義のあり方である。
講義を受ける学生諸君は、以下の課題について理解をしておく必要がある。
1、講義で提供される知識(情報)を、講義中に記録する技術が必要となる。
2、板書で書かれた情報以外に、口頭で述べられる情報を記録するテクニックとスキルを磨く必要がある。
3、それらの講義時間に記録した情報(講義内容)と、講義後にまとめ、不明な用語や知識に関する情報を図書館やインターネットを活用しながら調べ、その調査情報を記録するための技術が必要である。
4、 講義情報と調査情報を一元的に管理する技術が必要である。例えば、ある課題について講義で学んだ。それについてさらに図書館で調べた。その講義で得た知識と図書館で調べた知識をばらばらにファイルするのでなく、一つのノートに管理する方法
5、科目によっては講義課題に関する、もしくはその応用問題として「レポート提出」が要求されることがある。レポートを書くために、講義で得た情報と図書館やインターネットで調べた情報を一元的に管理できるノート作成の技術が必要となる。
講義ノート作りを楽しく工夫する方法
調査し、考え方を纏め、分析するための道具(手段)としてのノートは、各自、自分のノートの書き方がある。よりよいノートの作り方を模索する時間が、大学では講義の時間に与えられている。そして、多くの学生が同じ講義で自分なりのノートを工夫している。
友達のノートのとり方を見ることが出来る。より合理的なノートのとり方を見つけ、また友達と大学でのノートの作り方の工夫をすることも出来る。そして、自分のノートの様式やノートの作り方を獲得できれば素晴らしい。
大学卒業後に役立つノート作りを目指す
知識の半減期という言葉がある。自然科学の知識、例えば古典物理学のニュートン力学法則に関する知識は、100年後も変化しないだろう。しかし、科学の進歩によって常に新しい知識が付け加わる。
特に、人間社会科学の知識は、古い知識が否定され新しい知識が登場する場合がある。大学で学んだその当時先端の知識も、時代が進むにつれて、古い知識になる。その知識の有効期限を示す言葉に「知識の半減期」という表現が使われている。
つねに、知識は刷新され、あたらし知識が登場し、大学で科目として提供された学問の内容(知識・知的情報)の変更、修正、追加が要求される。この要求に答えられるノート(知的情報の収集記録帳)の作り方を学ばなければならない。
つまり、社会に出てからも使えるノートを作るにはどうすればいいのかを今から、この講義を記録する中で、一回生の前期から考えよう。
学問的知識(知的情報)の姿、体系の中にある知識
大学で学ぶ知識は、その知識が形成された学問的背景を持って成立している。それらの知識は、過去にすでに成立した学問として評価されているものである。そして、それぞれの知識は、専門的な知識の一部をなしているものである。
例えば、環境学で地球温暖化の原因である二酸化炭素について講義で話されたとする。温暖化原因が二酸化炭素であると述べられる。それが何故、地球温暖化の原因になるのかは説明されない。そこで図書館で調べることになる。
つまり、二酸化炭素が地球から放出される長い波長の光(遠赤外線光)を吸収するからであると説明される。では、何故二酸化炭素がその光を吸収するのかという疑問に出合う。その説明を可能にするには化学の知識が必要となる。
二酸化炭素の化学分子構造、炭素と酸素の二重結合が吸収する赤外線領域の波長(エネルギー)によって生じていることによる。ガス状態の二酸化炭素が地球温暖化の原因となるという知識は、有機構造化学や有機物理化学の知識が背景にして理解可能になる。
つまり、大学で学ぶ知識は、体系的に整理されている知識の一部から取り出されたものである。そのため、講義で提供される知識(情報)をよく理解するために、さらに、その知識の背景になる知識が必要となる。体系的に成立している知識を前提にしながら、要約、理解に辿り着くのが大学で得る知識の姿である。
調査情報を入力できる形式の講義ノート作り
後から調べた情報が付け加えられるノートの形式は、一つ一つの課題を分類可能な形式で記録するノートを意味する。概念を分類可能に記録するノートには、少なくとも講義の中で取り上げられる課題に関して、それらの課題の個別のテーマ、またその中で述べられた個別の概念を、それぞれ別のページに書くことによって、概念を分類可能な状態で記述することができるようになる。
つまり、講義の中で取り上げられる色々な課題を、そのまま続けて書くと、異なる概念や課題が一つのノートに記述されてしまう。ノートをそれぞれのテーマの記述されている部分ごとに分けるには、ページを切る以外にない。それはできないことである。
そこで、ひとつの課題、ひとつの概念について、もったいなくても1枚のノートを使う。課題が移れば、新しいノートに書くことにする。テーマに即して、テーマ毎にノートを分けて、課題別のカード式のノートを作る。
講義を記録してから、講義で述べられた情報を後で調べ、調査から得た情報をノートに付け加える。その時、カード式ノートは、新しい情報を簡単に付け加えることが出来なくなるのである。
4、カード式ノートの作り方の技法
講義内容(情報)を記録するノート
大学での講義をノートに記録するために、カード式ノートの作り方の例を図1に示す。
カード式ノートのページは、大きく三つの異なる情報入力箇所がある。
Aの左端縦の余白は、講義の内容を書くためにあるのでなく、あとで調査したり復習したりするときに、Bに書いた情報を簡単にまとめるためにある。
Bは講義中に情報を記録する箇所である。綺麗に書くと言うよりも、より多くの情報を入力する技術を身につける必要がある。
Cは講義の課題(テーマ)を書くところである。また、調査を行う場合には、ノートを別にして調査の課題を書く。
図1 カード式ノートの作り方の例
(ブログでは表や図が表示できません。後日、ホームページで、pdfファイルで資料を提供します。また、Excel形式で作った三石式ノートを提供します。)
C.例えば今日の講義のテーマ(課題)を書く。しかし、講義の課題が別のテーマに変わったら、新しいノートに書く。贅沢なようだが、一つひとつの課題別にノートを作ることで、あとでその課題に関して図書館やインターネットを通じて調査した場合に、このノートの続きにそれらの調査資料を付け足すことが可能になる。
課題別分類ノート(集めた情報を分類し整理できる表紙)の書き方
大学での講義内容は、体系的な知識を援用し(活用し)提供されている。つまり、ある概念が社会学から導かれるなら、その概念をつかって新しいことを説明するのに化学の領域に関する課題について説明することはない。必ず、社会学の学問領域内で説明を行う。
そして、その概念が他の領域に広がる場合には、必ず広がっていく領域での社会学の概念に解釈を行ってから、境界領域(社会学に隣接する学問領域)へ拡大解釈を行う。この手法が一般的である。
一つひとつの課題に関して情報を分類するために、課題名を書いた表紙ノートの作り方を説明する。
図2 課題別分類ノート(表紙用ノート)
(ブログでは表や図が表示できません。後日、ホームページで、pdfファイルで資料を提供します。また、Excel形式で作った三石式ノートを提供します。)
1の情報コードボックスの二段目は、章や節など課題に与えられた分類コード番号を入れる箱として活用する。
2の課題名のコーナーに、講義の課題を書く。例えば、現代社会学の講義で何回かにわたって「現代社会の特徴としての科学技術文明」講義課題を書く。
3は課題の展開項目の情報を入力する。例えば、「現代社会の特徴としての科学技術文明」について講義課題に興味を持っていたので、図書館で調べ、インターネットで調べて、色々な情報を入手した。それらの集めた情報を分類し、分類した情報を課題別に書く。
表紙を構成している箱の役割と名前
1、分類コード記入ボックス
図3、分類コード記入ボックス
(ブログでは表や図が表示できません。後日、ホームページで、pdfファイルで資料を提供します。また、Excel形式で作った三石式ノートを提供します。)
1の分類コード記入ボックスは、集めた情報が講義課題の展開の中で占める部分に関する情報を記入する場所である。つまり、情報コードボックスの三段の、一段目が講義課題のコード番号、二段目や三段目は、章や節など課題に与えられた分類コード番号を入力できる。勿論、その使い方は自由である。この分類コード記入ボックスをつかって、集めた情報の集まり(課題別情報)が全体の課題の中で占める位置を表現できれば良い。
2、タイトル名記入コーナー
課題「科学技術文明社会の意味」を書く
図4、タイトル名記入コーナー
2のタイトル名記入コーナーは、講義課題の展開の中で集めた情報集団(あつテーマや概念に関する情報)に関するタイトルを記入する場所である
3、収集した情報の項目名(2の課題で収集した色々な情報に関する情報)
3の収集した情報の項目表では、講義ノート、図書館で調査したノートや資料、インターネットで調べた資料など、2の課題に関する色々な情報のタイトルを記入する。この表紙に記入された情報によって、どのような情報が集まっているかを一目瞭然に理解できる。
図5、収集した情報の項目
1 評価の仕方、ノートの作り方
講義科目の章や節の展開、その題名を記入する
大学での講義は体系的な知識を前提にして提供されている。
図6、表紙の作り方
1分類コード記入ボックスには講義課目のコード番号を記入する。
2のタイトル名記入コーナーには講義課題名を入力する。
3には、講義課題の展開、つまり、章に分けた課題名、もしくは節に分けた課題名を記入する。
図7、具体的な例
例えば、科学技術史の講義ノートの表紙は以下のように作ることができる。
科目「科学技術史」の中の第一章「科学技術の歴史とは何か」
第1章 科学技術の歴史とは何か
1,歴史とは何か、何故人は歴史を学ぶか
2,現代生活のかなでの科学技術
3,科学技術の歴史をなぜ学ぶのか
つまり、科目名が「科学技術史」であれば、科目の表紙のタイトルは「科学技術史」と書く
この授業で、展開していく大きな課題
例えば
第一課題が「科学技術の歴史とは何か」であれば、次の表紙形式のノートのタイトルは
「科学技術の歴史とは何か」と書く。その「科学技術の歴史とは何か」に関する課題を1章として書く。
さらにこの第1章がさらに細かく幾つかの課題から出来ていて、そのはじめの課題が「歴史とは何か、何故人は歴史を学ぶのか」というテーマを第1章1節として書く。
続けて、2節が「現代生活のかなでの科学技術」という課題であれば、その課題名を書く。
まとめ
つまり、カード式ノートは
1、 学習過程で得た情報をすべて保存することが出来る。
2、 それらの情報を課題展開に即して分類し、配列することが出来る。
3、 その分類配列した情報から、学習科目の全体的な課題を理解することが出来る。
4、 その理解に即して、新しい情報を調べ、調べた情報を更に入力(分類配列)することが出来る。
5、 そしてそれらの情報を活用して、レポートを書くことに利用できる。
お断り
上記しましたように、ブログでは表や図が表示できません。後日、ホームページで、pdfファイルで資料を提供します。また、Excel形式で作った三石式ノートを提供します。
ダウンロードの方法
「三石博行のホームページ」の「教育・講義」の「知的生産の技術」のページにある「ノートの作り方」の中に「教材提供」のコーナーがあります。そこの「カード式ノートの提供」をクリックしてください。
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kyoiku_03_01.html
1、ノートの作りかた 「三石式ノート」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kyoiku_03_01.html
1、ノートの作りかた 「三石式ノート」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kyoiku_03_01.html
変更 2011年1月27日
Tweet
3、調査資料の収集や問題分析の道具としてのノート
講義ノートの取り方
講義ではシラバスに示されたように、その都度(一回の講義毎に)具体的な講義課題(学習目標)が与えられる。それについて講師は、教材を提供し、講義を進める。これが一般的な大学での講義のあり方である。
講義を受ける学生諸君は、以下の課題について理解をしておく必要がある。
1、講義で提供される知識(情報)を、講義中に記録する技術が必要となる。
2、板書で書かれた情報以外に、口頭で述べられる情報を記録するテクニックとスキルを磨く必要がある。
3、それらの講義時間に記録した情報(講義内容)と、講義後にまとめ、不明な用語や知識に関する情報を図書館やインターネットを活用しながら調べ、その調査情報を記録するための技術が必要である。
4、 講義情報と調査情報を一元的に管理する技術が必要である。例えば、ある課題について講義で学んだ。それについてさらに図書館で調べた。その講義で得た知識と図書館で調べた知識をばらばらにファイルするのでなく、一つのノートに管理する方法
5、科目によっては講義課題に関する、もしくはその応用問題として「レポート提出」が要求されることがある。レポートを書くために、講義で得た情報と図書館やインターネットで調べた情報を一元的に管理できるノート作成の技術が必要となる。
講義ノート作りを楽しく工夫する方法
調査し、考え方を纏め、分析するための道具(手段)としてのノートは、各自、自分のノートの書き方がある。よりよいノートの作り方を模索する時間が、大学では講義の時間に与えられている。そして、多くの学生が同じ講義で自分なりのノートを工夫している。
友達のノートのとり方を見ることが出来る。より合理的なノートのとり方を見つけ、また友達と大学でのノートの作り方の工夫をすることも出来る。そして、自分のノートの様式やノートの作り方を獲得できれば素晴らしい。
大学卒業後に役立つノート作りを目指す
知識の半減期という言葉がある。自然科学の知識、例えば古典物理学のニュートン力学法則に関する知識は、100年後も変化しないだろう。しかし、科学の進歩によって常に新しい知識が付け加わる。
特に、人間社会科学の知識は、古い知識が否定され新しい知識が登場する場合がある。大学で学んだその当時先端の知識も、時代が進むにつれて、古い知識になる。その知識の有効期限を示す言葉に「知識の半減期」という表現が使われている。
つねに、知識は刷新され、あたらし知識が登場し、大学で科目として提供された学問の内容(知識・知的情報)の変更、修正、追加が要求される。この要求に答えられるノート(知的情報の収集記録帳)の作り方を学ばなければならない。
つまり、社会に出てからも使えるノートを作るにはどうすればいいのかを今から、この講義を記録する中で、一回生の前期から考えよう。
学問的知識(知的情報)の姿、体系の中にある知識
大学で学ぶ知識は、その知識が形成された学問的背景を持って成立している。それらの知識は、過去にすでに成立した学問として評価されているものである。そして、それぞれの知識は、専門的な知識の一部をなしているものである。
例えば、環境学で地球温暖化の原因である二酸化炭素について講義で話されたとする。温暖化原因が二酸化炭素であると述べられる。それが何故、地球温暖化の原因になるのかは説明されない。そこで図書館で調べることになる。
つまり、二酸化炭素が地球から放出される長い波長の光(遠赤外線光)を吸収するからであると説明される。では、何故二酸化炭素がその光を吸収するのかという疑問に出合う。その説明を可能にするには化学の知識が必要となる。
二酸化炭素の化学分子構造、炭素と酸素の二重結合が吸収する赤外線領域の波長(エネルギー)によって生じていることによる。ガス状態の二酸化炭素が地球温暖化の原因となるという知識は、有機構造化学や有機物理化学の知識が背景にして理解可能になる。
つまり、大学で学ぶ知識は、体系的に整理されている知識の一部から取り出されたものである。そのため、講義で提供される知識(情報)をよく理解するために、さらに、その知識の背景になる知識が必要となる。体系的に成立している知識を前提にしながら、要約、理解に辿り着くのが大学で得る知識の姿である。
調査情報を入力できる形式の講義ノート作り
後から調べた情報が付け加えられるノートの形式は、一つ一つの課題を分類可能な形式で記録するノートを意味する。概念を分類可能に記録するノートには、少なくとも講義の中で取り上げられる課題に関して、それらの課題の個別のテーマ、またその中で述べられた個別の概念を、それぞれ別のページに書くことによって、概念を分類可能な状態で記述することができるようになる。
つまり、講義の中で取り上げられる色々な課題を、そのまま続けて書くと、異なる概念や課題が一つのノートに記述されてしまう。ノートをそれぞれのテーマの記述されている部分ごとに分けるには、ページを切る以外にない。それはできないことである。
そこで、ひとつの課題、ひとつの概念について、もったいなくても1枚のノートを使う。課題が移れば、新しいノートに書くことにする。テーマに即して、テーマ毎にノートを分けて、課題別のカード式のノートを作る。
講義を記録してから、講義で述べられた情報を後で調べ、調査から得た情報をノートに付け加える。その時、カード式ノートは、新しい情報を簡単に付け加えることが出来なくなるのである。
4、カード式ノートの作り方の技法
講義内容(情報)を記録するノート
大学での講義をノートに記録するために、カード式ノートの作り方の例を図1に示す。
カード式ノートのページは、大きく三つの異なる情報入力箇所がある。
Aの左端縦の余白は、講義の内容を書くためにあるのでなく、あとで調査したり復習したりするときに、Bに書いた情報を簡単にまとめるためにある。
Bは講義中に情報を記録する箇所である。綺麗に書くと言うよりも、より多くの情報を入力する技術を身につける必要がある。
Cは講義の課題(テーマ)を書くところである。また、調査を行う場合には、ノートを別にして調査の課題を書く。
図1 カード式ノートの作り方の例
(ブログでは表や図が表示できません。後日、ホームページで、pdfファイルで資料を提供します。また、Excel形式で作った三石式ノートを提供します。)
C.例えば今日の講義のテーマ(課題)を書く。しかし、講義の課題が別のテーマに変わったら、新しいノートに書く。贅沢なようだが、一つひとつの課題別にノートを作ることで、あとでその課題に関して図書館やインターネットを通じて調査した場合に、このノートの続きにそれらの調査資料を付け足すことが可能になる。
課題別分類ノート(集めた情報を分類し整理できる表紙)の書き方
大学での講義内容は、体系的な知識を援用し(活用し)提供されている。つまり、ある概念が社会学から導かれるなら、その概念をつかって新しいことを説明するのに化学の領域に関する課題について説明することはない。必ず、社会学の学問領域内で説明を行う。
そして、その概念が他の領域に広がる場合には、必ず広がっていく領域での社会学の概念に解釈を行ってから、境界領域(社会学に隣接する学問領域)へ拡大解釈を行う。この手法が一般的である。
一つひとつの課題に関して情報を分類するために、課題名を書いた表紙ノートの作り方を説明する。
図2 課題別分類ノート(表紙用ノート)
(ブログでは表や図が表示できません。後日、ホームページで、pdfファイルで資料を提供します。また、Excel形式で作った三石式ノートを提供します。)
1の情報コードボックスの二段目は、章や節など課題に与えられた分類コード番号を入れる箱として活用する。
2の課題名のコーナーに、講義の課題を書く。例えば、現代社会学の講義で何回かにわたって「現代社会の特徴としての科学技術文明」講義課題を書く。
3は課題の展開項目の情報を入力する。例えば、「現代社会の特徴としての科学技術文明」について講義課題に興味を持っていたので、図書館で調べ、インターネットで調べて、色々な情報を入手した。それらの集めた情報を分類し、分類した情報を課題別に書く。
表紙を構成している箱の役割と名前
1、分類コード記入ボックス
図3、分類コード記入ボックス
(ブログでは表や図が表示できません。後日、ホームページで、pdfファイルで資料を提供します。また、Excel形式で作った三石式ノートを提供します。)
1の分類コード記入ボックスは、集めた情報が講義課題の展開の中で占める部分に関する情報を記入する場所である。つまり、情報コードボックスの三段の、一段目が講義課題のコード番号、二段目や三段目は、章や節など課題に与えられた分類コード番号を入力できる。勿論、その使い方は自由である。この分類コード記入ボックスをつかって、集めた情報の集まり(課題別情報)が全体の課題の中で占める位置を表現できれば良い。
2、タイトル名記入コーナー
課題「科学技術文明社会の意味」を書く
図4、タイトル名記入コーナー
2のタイトル名記入コーナーは、講義課題の展開の中で集めた情報集団(あつテーマや概念に関する情報)に関するタイトルを記入する場所である
3、収集した情報の項目名(2の課題で収集した色々な情報に関する情報)
3の収集した情報の項目表では、講義ノート、図書館で調査したノートや資料、インターネットで調べた資料など、2の課題に関する色々な情報のタイトルを記入する。この表紙に記入された情報によって、どのような情報が集まっているかを一目瞭然に理解できる。
図5、収集した情報の項目
1 評価の仕方、ノートの作り方
講義科目の章や節の展開、その題名を記入する
大学での講義は体系的な知識を前提にして提供されている。
図6、表紙の作り方
1分類コード記入ボックスには講義課目のコード番号を記入する。
2のタイトル名記入コーナーには講義課題名を入力する。
3には、講義課題の展開、つまり、章に分けた課題名、もしくは節に分けた課題名を記入する。
図7、具体的な例
例えば、科学技術史の講義ノートの表紙は以下のように作ることができる。
科目「科学技術史」の中の第一章「科学技術の歴史とは何か」
第1章 科学技術の歴史とは何か
1,歴史とは何か、何故人は歴史を学ぶか
2,現代生活のかなでの科学技術
3,科学技術の歴史をなぜ学ぶのか
つまり、科目名が「科学技術史」であれば、科目の表紙のタイトルは「科学技術史」と書く
この授業で、展開していく大きな課題
例えば
第一課題が「科学技術の歴史とは何か」であれば、次の表紙形式のノートのタイトルは
「科学技術の歴史とは何か」と書く。その「科学技術の歴史とは何か」に関する課題を1章として書く。
さらにこの第1章がさらに細かく幾つかの課題から出来ていて、そのはじめの課題が「歴史とは何か、何故人は歴史を学ぶのか」というテーマを第1章1節として書く。
続けて、2節が「現代生活のかなでの科学技術」という課題であれば、その課題名を書く。
まとめ
つまり、カード式ノートは
1、 学習過程で得た情報をすべて保存することが出来る。
2、 それらの情報を課題展開に即して分類し、配列することが出来る。
3、 その分類配列した情報から、学習科目の全体的な課題を理解することが出来る。
4、 その理解に即して、新しい情報を調べ、調べた情報を更に入力(分類配列)することが出来る。
5、 そしてそれらの情報を活用して、レポートを書くことに利用できる。
お断り
上記しましたように、ブログでは表や図が表示できません。後日、ホームページで、pdfファイルで資料を提供します。また、Excel形式で作った三石式ノートを提供します。
ダウンロードの方法
「三石博行のホームページ」の「教育・講義」の「知的生産の技術」のページにある「ノートの作り方」の中に「教材提供」のコーナーがあります。そこの「カード式ノートの提供」をクリックしてください。
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kyoiku_03_01.html
1、ノートの作りかた 「三石式ノート」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kyoiku_03_01.html
1、ノートの作りかた 「三石式ノート」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kyoiku_03_01.html
ブログ文書集「知的生産の技術 基礎編」 8章 「議論や討論の仕方、纏め方や文書化」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/03/blog-post_19.html
変更 2011年1月27日
Tweet
大学でのノートの作り方(1)
三石博行
1、学習の前に、何故ノートの取り方を問題にするのか
大学の教育で最も大切なことは、あるテーマに関して、それを自分で考え、その課題を解決し解明するために、調査し、分析しながら資料を作成し、それらの資料を整理し、分類し、そして説明するためにまとめ、他の人々に分かりやすく、論理的に、説得力をもって表現し、発表する力である。
これらの調査、分析、纏め(まとめ)、表現と発表の過程の基本作業は、資料の作り方から始まる。資料の作り方を身に付けるために最も基礎的技術として大学でのノートの取り方やノートの作り方がある。大学の講義ノートの取り方を通じて、上記した資料作りの最も基礎的技術を身につける学習を行う。
つまり、ノートを取ることは、単に講義内容を理解するだけでなく、レポートや論文を書くための基礎的作業を身につけることである。例えば、レポート材料の一つであるテキスト分析や評価の資料を作る場合にもノートのとり方の技術は必要とされる。そして、フィールド活動を行いながら、現場で取材や調査を記録しながら作る資料を作る場合でもノートのとり方の技術が基本となる。さらに、グループ学習に参加し、ある課題について議論しながら討論のやり取りを記録する場合でもノートのとり方の技術が必要とされる。
ノートの取り方は、知的生産を行う場合の最も基本的な活動の一つである。つまり、情報入力の技術であり、出来るだけ多くの情報を無駄なく、しかも多くの労力を費やさないで要領良く入力する技術を身につけるための技術である。
知的生産を行う場合に最も基本的な作業とし、ノートの作り方の技術を身につけることが課題になっていることを理解しなければならない。
記録する目的によってノートの取り方は変る
書くことは学びの基本
書くことによって私たちは情報を収集、整理しまとめ、また自分の考えをまとめ、分かりやすく表現することが出来る。書くという行為によって、過去の自分や自分の周りの姿(心象や社会現象)を記憶しておくことができる。書く行為を人類が見つけ出したこと(文字を発見したこと)によって、社会は大きく発展した。
書く行為を身に付けることによって、人々は社会での仕事や活躍の場を与えられてきた。古い時代から、人々は読み書きを学び、よりよい(仕事)社会的地位を得る努力をしてきた。学ぶことの第一歩が読むこと書くこと計算することであることは、古い時代から現代まで共通しており、それが学習の基本であった。
目的に合わしてノートの形式が決まる
大学生活、つまり大学で行われる講義、演習(語学、技術習得や実験等)、ゼミナール、卒業研究に対応したノート、また日常生活を維持するために自分の生活記録、家計簿や行動予定を書くノート、そして友人と意見を交換するために書くメールやブログのためにスッケチノート等々、目的にそってノートを作ることになる。
それらの目的に合して書く行為の形式や様式(ノートのスタイル)は決定する。以下、幾つかの異なる書く行為目的とそれに合った様式を書いてくる。
1、知識を覚えるため (高校までのノート、大学でも語学や演習用のノート)
2、情報を収集し、整理し、まとめるため(フィールドや調査用のノート)
3、会議や人との会話の記録のため(会社、社会活動をするとき必要なノート)
4、アイデアをまとめるため(研究や論文を書くとき必要なノート)
5、自分の気持ちを書くため(日記など)
情報収集、分類の道具としての講義用ノート
今回、特に上記した2の課題、つまり講義用ノートの書き方について述べる。
大学の講義用ノートは、高校時代までのノートと違う。その違いは上記した1と2の違いである。つまり、高校までは、大学入試のために、多くの知識を暗記しなければならなかった。そのため、暗記しやすいノートの形式を小学校から学んできた。暗記は学習の基本である。学習を続ける限り暗記する作業は常に続くのであるが、高等教育では、暗記以外に「考える」作業を大切にする。
そこで、上記した2の形式、つまり、情報を収集し、整理し、まとめるためのノートの作り方を学ばなければならない。
大学の講義の特徴は、講師が教材を作ってくることである。高校までは、指定されていた科目には文部科学省の認可した教材が活用され、教師は科目ごとに学習指導要領が与えられ、その指導要領に即して教えなければならない。何故なら、それらの知識は基本的な知識であり、最低限理解しなければならない基準を持っているからである。
しかし、大学では、それらの高校までの教育レベルを前提にして、高等教育が行われる。大学の教師は教育者であると同時に研究者としての側面を持っている。つまり、それぞれの教員は自分の専門分野の研究課題を抱え高等教育を担当している。そのため、学習指導要領はない。
講義課題は文部科学省が認可推薦したものであるが、その講義内容は講師に任されている。そのため、講師は講義の前に「シラバス」で講義内容を公開する義務を負っている。
つまり、大学での講義は、講義を受ける学生からすると、教育課題(科目)について、与えられた講義環境(講師と彼が提供する講義内容)で得る知識である。それらの知識は、科目として示される学習課題の一部に過ぎないことを理解しなければならない。
言い換えると、同じ講義課目でも講師によって提供する知識(情報)はまったく異なることが生じるのである。そのため、学生は、より自分に適した、また自分に役立つ講義を受けたいと願うのであるが、時間割等々の都合で、それも十分満たされることはない。
そこで、まず、大学の講義を受ける前に、ノートの取り方を工夫することで、より多くの知識(情報)を獲得し、いろいろな側面から解釈される一つの概念を入力し(記録し)、それらの情報を整理するノートの作り方について学ぶ必要がある。
課題
1、情報収集のために便利なノート
2、集めた情報を分類・整理するのに便利なノート
3、分類整理した情報(ノート)を使って、課題ごとにまとめる作業をするのに便利なノート
4、大学時代の受講や調査資料が社会に出てからも活用できるノート
以上、4つの課題を満たすための大学での講義ノートの作り方を学んでみよう。
つづき
「大学でのノートの作り方(2)」
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/2.html
また、
三石式ノートをダウンロードできます。
ダウンロードの方法
「三石博行のホームページ」の「教育・講義」の「知的生産の技術」のページにある「ノートの作り方」の中に「教材提供」のコーナーがあります。そこの「カード式ノートの提供」をクリックしてください。
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kyoiku_03_01.html
1、ノートの作りかた 「三石式ノート」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kyoiku_03_01.html
変更 2011年1月27日
Tweet
1、学習の前に、何故ノートの取り方を問題にするのか
大学の教育で最も大切なことは、あるテーマに関して、それを自分で考え、その課題を解決し解明するために、調査し、分析しながら資料を作成し、それらの資料を整理し、分類し、そして説明するためにまとめ、他の人々に分かりやすく、論理的に、説得力をもって表現し、発表する力である。
これらの調査、分析、纏め(まとめ)、表現と発表の過程の基本作業は、資料の作り方から始まる。資料の作り方を身に付けるために最も基礎的技術として大学でのノートの取り方やノートの作り方がある。大学の講義ノートの取り方を通じて、上記した資料作りの最も基礎的技術を身につける学習を行う。
つまり、ノートを取ることは、単に講義内容を理解するだけでなく、レポートや論文を書くための基礎的作業を身につけることである。例えば、レポート材料の一つであるテキスト分析や評価の資料を作る場合にもノートのとり方の技術は必要とされる。そして、フィールド活動を行いながら、現場で取材や調査を記録しながら作る資料を作る場合でもノートのとり方の技術が基本となる。さらに、グループ学習に参加し、ある課題について議論しながら討論のやり取りを記録する場合でもノートのとり方の技術が必要とされる。
ノートの取り方は、知的生産を行う場合の最も基本的な活動の一つである。つまり、情報入力の技術であり、出来るだけ多くの情報を無駄なく、しかも多くの労力を費やさないで要領良く入力する技術を身につけるための技術である。
知的生産を行う場合に最も基本的な作業とし、ノートの作り方の技術を身につけることが課題になっていることを理解しなければならない。
記録する目的によってノートの取り方は変る
書くことは学びの基本
書くことによって私たちは情報を収集、整理しまとめ、また自分の考えをまとめ、分かりやすく表現することが出来る。書くという行為によって、過去の自分や自分の周りの姿(心象や社会現象)を記憶しておくことができる。書く行為を人類が見つけ出したこと(文字を発見したこと)によって、社会は大きく発展した。
書く行為を身に付けることによって、人々は社会での仕事や活躍の場を与えられてきた。古い時代から、人々は読み書きを学び、よりよい(仕事)社会的地位を得る努力をしてきた。学ぶことの第一歩が読むこと書くこと計算することであることは、古い時代から現代まで共通しており、それが学習の基本であった。
目的に合わしてノートの形式が決まる
大学生活、つまり大学で行われる講義、演習(語学、技術習得や実験等)、ゼミナール、卒業研究に対応したノート、また日常生活を維持するために自分の生活記録、家計簿や行動予定を書くノート、そして友人と意見を交換するために書くメールやブログのためにスッケチノート等々、目的にそってノートを作ることになる。
それらの目的に合して書く行為の形式や様式(ノートのスタイル)は決定する。以下、幾つかの異なる書く行為目的とそれに合った様式を書いてくる。
1、知識を覚えるため (高校までのノート、大学でも語学や演習用のノート)
2、情報を収集し、整理し、まとめるため(フィールドや調査用のノート)
3、会議や人との会話の記録のため(会社、社会活動をするとき必要なノート)
4、アイデアをまとめるため(研究や論文を書くとき必要なノート)
5、自分の気持ちを書くため(日記など)
情報収集、分類の道具としての講義用ノート
今回、特に上記した2の課題、つまり講義用ノートの書き方について述べる。
大学の講義用ノートは、高校時代までのノートと違う。その違いは上記した1と2の違いである。つまり、高校までは、大学入試のために、多くの知識を暗記しなければならなかった。そのため、暗記しやすいノートの形式を小学校から学んできた。暗記は学習の基本である。学習を続ける限り暗記する作業は常に続くのであるが、高等教育では、暗記以外に「考える」作業を大切にする。
そこで、上記した2の形式、つまり、情報を収集し、整理し、まとめるためのノートの作り方を学ばなければならない。
大学の講義の特徴は、講師が教材を作ってくることである。高校までは、指定されていた科目には文部科学省の認可した教材が活用され、教師は科目ごとに学習指導要領が与えられ、その指導要領に即して教えなければならない。何故なら、それらの知識は基本的な知識であり、最低限理解しなければならない基準を持っているからである。
しかし、大学では、それらの高校までの教育レベルを前提にして、高等教育が行われる。大学の教師は教育者であると同時に研究者としての側面を持っている。つまり、それぞれの教員は自分の専門分野の研究課題を抱え高等教育を担当している。そのため、学習指導要領はない。
講義課題は文部科学省が認可推薦したものであるが、その講義内容は講師に任されている。そのため、講師は講義の前に「シラバス」で講義内容を公開する義務を負っている。
つまり、大学での講義は、講義を受ける学生からすると、教育課題(科目)について、与えられた講義環境(講師と彼が提供する講義内容)で得る知識である。それらの知識は、科目として示される学習課題の一部に過ぎないことを理解しなければならない。
言い換えると、同じ講義課目でも講師によって提供する知識(情報)はまったく異なることが生じるのである。そのため、学生は、より自分に適した、また自分に役立つ講義を受けたいと願うのであるが、時間割等々の都合で、それも十分満たされることはない。
そこで、まず、大学の講義を受ける前に、ノートの取り方を工夫することで、より多くの知識(情報)を獲得し、いろいろな側面から解釈される一つの概念を入力し(記録し)、それらの情報を整理するノートの作り方について学ぶ必要がある。
課題
1、情報収集のために便利なノート
2、集めた情報を分類・整理するのに便利なノート
3、分類整理した情報(ノート)を使って、課題ごとにまとめる作業をするのに便利なノート
4、大学時代の受講や調査資料が社会に出てからも活用できるノート
以上、4つの課題を満たすための大学での講義ノートの作り方を学んでみよう。
つづき
「大学でのノートの作り方(2)」
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/2.html
また、
三石式ノートをダウンロードできます。
ダウンロードの方法
「三石博行のホームページ」の「教育・講義」の「知的生産の技術」のページにある「ノートの作り方」の中に「教材提供」のコーナーがあります。そこの「カード式ノートの提供」をクリックしてください。
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kyoiku_03_01.html
1、ノートの作りかた 「三石式ノート」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kyoiku_03_01.html
ブログ文書集「知的生産の技術 基礎編」 8章 「議論や討論の仕方、纏め方や文書化」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/03/blog-post_19.html
変更 2011年1月27日
Tweet
2010年11月11日木曜日
生きること知ること
三石博行
知ることは変わること
サルトルは「知ることは変わることだ」と言った。思想的理解によって、これまでの生活を変え、新しい生き方をした人々、維新、社会改革運動、革命運動に身を投じた学生や知識人たち、その殆どが、貧しさや生きる困難さから運動を起こした農民や労働者階級の人々とちがい、書物の上で、正義や友愛について学び、考えさせられて上で、これまでの生活を変え、新しい生き方を選んだのだった。
思想は生活スタイルを変える力を持つ。その思想を自己の理念とするとき、思想が生る方向を決定させ、その後の生活を変えさせる。つまり、その考えを本当に知ることによって、人は人生を変わること出来るのである。
自我に目覚めた我々は何らかの「理想の自我」を持っている。それはあこがれ、未来、ゆめ、希望、目標と呼ばれているものである。ひとが希望を持ち、その彼方に向かおうと努力するのは、自我の自然の姿である。言い方を変えれば、全ての人に、希望という心は平等に与えられている。希望を持っているということは人のあるべき自然の姿に過ぎない。
つまり、意識的な自己存在(自我)とは、現実にある自己でなく、希望された自己である。その希望(幻想)に向かって生きることが、自我の自然の姿である。
思想は、その意味で、自我にとって、自我の目標(幻想)を語る具体的なテキスト「自我の理想」である。つまり、新しい思想を必要とするとは、過去の思想を不要としていることを意味する。
まるで、恋人(自我の理想)に出会ったように、新しい思想は登場する。そして、今までの自我のテキスト(目標)、理想の自我は、新たに登場した思想(自我の理想)によって書き換えられてします。その瞬間を「(自我の理想の存在を)知ることは(古い理想の自我が)変わること」だと呼んだ。
つまり、新しい「自我の理想」、それは恋人のように恋の対象として登場するように、学習活動(読まなければいられない本のような)として登場し、書物から飛び出てくる一言一句を、釘付けになり、感銘し、震えながら受け止める。その瞬間に、自我の理想は、これまでの理想の自我のテキスト、自己の物語性を書き換える。それはまったく恋人に出会った瞬間のように、そしてその恋人のことを寝ても覚めても思い焦がれるように、恋い焦がれる激しい感情を通じて、新しい「理想の自我」が確立する。
そして、過去の理想(過去のテキスト)は丁度、古い恋人の手紙や写真ように、机の奥に仕舞い込まれる。
生きることは知ること
新しい人生の目標に向かって生活が始まる。多くの人々が経験したように、以前の生活(仕事や学業)を辞めて、新しい生活(仕事や勉強)を始めることになる。新しい生活環境や学習課題に挑戦する毎日が続く。その途(みち)は決して容易い訳ではない。新しい仕事や学習への挑戦には、必ず多くの失敗が伴う。失敗(躓き)を繰り返しながら、前に進むしか、もう途(みち)は残されていない。
ある希望を実現するために、新しい課題に挑戦して生きている時、失敗をしたとしても、それを反省し、分析し、失敗の原因(失敗の原因となる誤った考え方などの「からくり」と失敗の原因となった条件や外的な「要因」)を解明する作業が続く。つまり、我々は、目標を持ち、それを成し遂げようと努力している限り、失敗の経験に学ぶことが出来るし、また他人の経験も参考にしている。希望をもって生きることよって、多くことを学ぶことになる。
挑戦することによって、新しい経験データを得ることが出来る。それらのデータから最も効率のよい技能、行為、操作や判断が抽出され、経験則や経験知として保存される。それらの知識群によって、現実的で実践的な知が形成される。
生きること、問題を解決すること、挑戦することこそ、新しい知識を獲得しなければならない必要性の源となる。知る必要性に迫られた内容が、人によって、人の生活環境によって、人の時代文化によって、異なるであろうが、いずれにしろ、人は生きている限り、何かを知り続けなければならないことは避けられない。
Tweet
知ることは変わること
サルトルは「知ることは変わることだ」と言った。思想的理解によって、これまでの生活を変え、新しい生き方をした人々、維新、社会改革運動、革命運動に身を投じた学生や知識人たち、その殆どが、貧しさや生きる困難さから運動を起こした農民や労働者階級の人々とちがい、書物の上で、正義や友愛について学び、考えさせられて上で、これまでの生活を変え、新しい生き方を選んだのだった。
思想は生活スタイルを変える力を持つ。その思想を自己の理念とするとき、思想が生る方向を決定させ、その後の生活を変えさせる。つまり、その考えを本当に知ることによって、人は人生を変わること出来るのである。
自我に目覚めた我々は何らかの「理想の自我」を持っている。それはあこがれ、未来、ゆめ、希望、目標と呼ばれているものである。ひとが希望を持ち、その彼方に向かおうと努力するのは、自我の自然の姿である。言い方を変えれば、全ての人に、希望という心は平等に与えられている。希望を持っているということは人のあるべき自然の姿に過ぎない。
つまり、意識的な自己存在(自我)とは、現実にある自己でなく、希望された自己である。その希望(幻想)に向かって生きることが、自我の自然の姿である。
思想は、その意味で、自我にとって、自我の目標(幻想)を語る具体的なテキスト「自我の理想」である。つまり、新しい思想を必要とするとは、過去の思想を不要としていることを意味する。
まるで、恋人(自我の理想)に出会ったように、新しい思想は登場する。そして、今までの自我のテキスト(目標)、理想の自我は、新たに登場した思想(自我の理想)によって書き換えられてします。その瞬間を「(自我の理想の存在を)知ることは(古い理想の自我が)変わること」だと呼んだ。
つまり、新しい「自我の理想」、それは恋人のように恋の対象として登場するように、学習活動(読まなければいられない本のような)として登場し、書物から飛び出てくる一言一句を、釘付けになり、感銘し、震えながら受け止める。その瞬間に、自我の理想は、これまでの理想の自我のテキスト、自己の物語性を書き換える。それはまったく恋人に出会った瞬間のように、そしてその恋人のことを寝ても覚めても思い焦がれるように、恋い焦がれる激しい感情を通じて、新しい「理想の自我」が確立する。
そして、過去の理想(過去のテキスト)は丁度、古い恋人の手紙や写真ように、机の奥に仕舞い込まれる。
生きることは知ること
新しい人生の目標に向かって生活が始まる。多くの人々が経験したように、以前の生活(仕事や学業)を辞めて、新しい生活(仕事や勉強)を始めることになる。新しい生活環境や学習課題に挑戦する毎日が続く。その途(みち)は決して容易い訳ではない。新しい仕事や学習への挑戦には、必ず多くの失敗が伴う。失敗(躓き)を繰り返しながら、前に進むしか、もう途(みち)は残されていない。
ある希望を実現するために、新しい課題に挑戦して生きている時、失敗をしたとしても、それを反省し、分析し、失敗の原因(失敗の原因となる誤った考え方などの「からくり」と失敗の原因となった条件や外的な「要因」)を解明する作業が続く。つまり、我々は、目標を持ち、それを成し遂げようと努力している限り、失敗の経験に学ぶことが出来るし、また他人の経験も参考にしている。希望をもって生きることよって、多くことを学ぶことになる。
挑戦することによって、新しい経験データを得ることが出来る。それらのデータから最も効率のよい技能、行為、操作や判断が抽出され、経験則や経験知として保存される。それらの知識群によって、現実的で実践的な知が形成される。
生きること、問題を解決すること、挑戦することこそ、新しい知識を獲得しなければならない必要性の源となる。知る必要性に迫られた内容が、人によって、人の生活環境によって、人の時代文化によって、異なるであろうが、いずれにしろ、人は生きている限り、何かを知り続けなければならないことは避けられない。
Tweet
2010年11月10日水曜日
仮面を被った討論参加者に囲まれて
三石博行
インターネット仮面討論会の意義
現在、あるグループ討論サイトで、毎日のように議論に参加している。私も自分のニックネームがあるが、プロフィールで、自分のホームページやブログを紹介しているので、私のニックネームは形だけのものということになる。
多分、世の中ではニックネームで参加する討論会は、無責任な発言を助長することを抑制できないため、意味がないと言われるだろう。その発言にも一理あることは事実だろう。しかし、仮面を被って発言できることによって生み出されるプラス面を観る必要がある。
考え方によっては、年齢、職業などを明らかにしてしまうと、そうした社会的仮面が個人の意見評価に反映され、20代の学生の意見が面白い内容であっても、50代の社会人の社会的仮面に対する偏見にさらされることになるとも言える。したがって、この種の討論会では逆にニックネーム参加の意義があると言える。
つまり、発言内容よりも社会的仮面の種類が発言の正当性を要求する一般社会のあり方から隔絶するために、一応すべての人が仮面を被る(ニックネームを使う)ことになる。
この仮面討論会は、しかもインターネットで行われるので、発言者の素性も発言当時の態度すら見えてこない。見えるのは発言者の書き込み内容のみである。その意味で、発言者の発言内容のみが存在することになる。現実の社会では、社会的立場や年齢など、意見内容に関係ない要素で討論の中身に色を付けられる心配は起こらない。
仮面をしていない私の立場
仮面を形だけ被った私は、仮面を確り被った人々の中で、少し緊張することになる。何故なら、彼らは私の正体を知っているが、私は彼らの正体を知らない。そのため、議論の相手が、自分の身近なところに潜んでいる可能性もある。
私の現実の生活スタイルを私の身近に潜んだ仮面正体は、観察することが出来る。もし、私の書いた内容と私の生活スタイル、つまり大学教員として、私の仕事、教育研究への私の日々の態度を観察されている以上、私は真剣に書かなければならない。そしえ書いたことに責任を持たなければならない。
つまり、仮面を被った周りの論客と仮面を脱いだ私、彼らは思い切って何でも言えそうだ。私は自分の年齢は立場を考えながら発言しなければならない。これは明らかに不平等な立場なのだが、むしろ私はこの不平等さを楽しんでいるようだ。
仮面学生の参加した授業はどうなるか
仮に、私の講義で、学生がみんな仮面を被り、私が一人素顔で講義したらどうなるだろうかと考えてみた。まず、仮面を被った学生たちは教師が仮面の中の正体を知らないので随分安心して、厳しい要求や批判、質問を、直接、教師に投げかけるかもしれない。教師の心証を損なっても、教師は発言者の名前が分らないし、発言者は勿論のこと仮面講義に参加した学生の出欠すら出来ないのである。むしろ、教師はこの授業に出席簿を持って来たこと事態がミスであると理解するだろう。
こうした仮面討論会のような「仮面学生を相手にした」授業があったら面白いかもしれない。
最近、学生アンケートを授業科目終了時に取っている。匿名で出すアンケートであるので、丁度、仮面を被った状態と同じで、学生は言いたいことをアンケートに書くことができる。その分、正直な意見が出される。
私は、15年間も、毎回の講義終了時に、任意で5分間テスト用紙の最後に付け加えたアンケートで、講義の評価、つまり、講義が理解できたか、講義に興味をもったか、講義内容が役に立ったかの三点についてアンケートをとり続けてきた。
しかし、この15年間を振り返ると、殆どの学生がアンケートの記入をしない。そこで「私へのプレゼントを忘れないで」とアンケートをお願いする。親切な学生たちがお願いを聞き入れて書いてくれる。
書かれたアンケートの内容は、大方、評価するに傾いている。それもその筈で、実名入りで、しかも、授業評価のアンケート質問はテスト用紙の中に書かれていうのであるから、思い切った批判は出来ないのが当然だろう。こうしたアンケートは余り意味を持たないといえる。
仮面授業を企画することは意味があるかもしれない。この考えを基にして、私の講義を検討する機会を作ろうと思う。
Tweet
インターネット仮面討論会の意義
現在、あるグループ討論サイトで、毎日のように議論に参加している。私も自分のニックネームがあるが、プロフィールで、自分のホームページやブログを紹介しているので、私のニックネームは形だけのものということになる。
多分、世の中ではニックネームで参加する討論会は、無責任な発言を助長することを抑制できないため、意味がないと言われるだろう。その発言にも一理あることは事実だろう。しかし、仮面を被って発言できることによって生み出されるプラス面を観る必要がある。
考え方によっては、年齢、職業などを明らかにしてしまうと、そうした社会的仮面が個人の意見評価に反映され、20代の学生の意見が面白い内容であっても、50代の社会人の社会的仮面に対する偏見にさらされることになるとも言える。したがって、この種の討論会では逆にニックネーム参加の意義があると言える。
つまり、発言内容よりも社会的仮面の種類が発言の正当性を要求する一般社会のあり方から隔絶するために、一応すべての人が仮面を被る(ニックネームを使う)ことになる。
この仮面討論会は、しかもインターネットで行われるので、発言者の素性も発言当時の態度すら見えてこない。見えるのは発言者の書き込み内容のみである。その意味で、発言者の発言内容のみが存在することになる。現実の社会では、社会的立場や年齢など、意見内容に関係ない要素で討論の中身に色を付けられる心配は起こらない。
仮面をしていない私の立場
仮面を形だけ被った私は、仮面を確り被った人々の中で、少し緊張することになる。何故なら、彼らは私の正体を知っているが、私は彼らの正体を知らない。そのため、議論の相手が、自分の身近なところに潜んでいる可能性もある。
私の現実の生活スタイルを私の身近に潜んだ仮面正体は、観察することが出来る。もし、私の書いた内容と私の生活スタイル、つまり大学教員として、私の仕事、教育研究への私の日々の態度を観察されている以上、私は真剣に書かなければならない。そしえ書いたことに責任を持たなければならない。
つまり、仮面を被った周りの論客と仮面を脱いだ私、彼らは思い切って何でも言えそうだ。私は自分の年齢は立場を考えながら発言しなければならない。これは明らかに不平等な立場なのだが、むしろ私はこの不平等さを楽しんでいるようだ。
仮面学生の参加した授業はどうなるか
仮に、私の講義で、学生がみんな仮面を被り、私が一人素顔で講義したらどうなるだろうかと考えてみた。まず、仮面を被った学生たちは教師が仮面の中の正体を知らないので随分安心して、厳しい要求や批判、質問を、直接、教師に投げかけるかもしれない。教師の心証を損なっても、教師は発言者の名前が分らないし、発言者は勿論のこと仮面講義に参加した学生の出欠すら出来ないのである。むしろ、教師はこの授業に出席簿を持って来たこと事態がミスであると理解するだろう。
こうした仮面討論会のような「仮面学生を相手にした」授業があったら面白いかもしれない。
最近、学生アンケートを授業科目終了時に取っている。匿名で出すアンケートであるので、丁度、仮面を被った状態と同じで、学生は言いたいことをアンケートに書くことができる。その分、正直な意見が出される。
私は、15年間も、毎回の講義終了時に、任意で5分間テスト用紙の最後に付け加えたアンケートで、講義の評価、つまり、講義が理解できたか、講義に興味をもったか、講義内容が役に立ったかの三点についてアンケートをとり続けてきた。
しかし、この15年間を振り返ると、殆どの学生がアンケートの記入をしない。そこで「私へのプレゼントを忘れないで」とアンケートをお願いする。親切な学生たちがお願いを聞き入れて書いてくれる。
書かれたアンケートの内容は、大方、評価するに傾いている。それもその筈で、実名入りで、しかも、授業評価のアンケート質問はテスト用紙の中に書かれていうのであるから、思い切った批判は出来ないのが当然だろう。こうしたアンケートは余り意味を持たないといえる。
仮面授業を企画することは意味があるかもしれない。この考えを基にして、私の講義を検討する機会を作ろうと思う。
Tweet
買うという行為の経済文化的変化(1)
三石博行
経済共同体を維持するための行為・義理買の消滅
我が国日本で、人々が、品物が安いという理由だけで買うことを決めるようになったのはそう昔のことではない。田舎では、つい最近まで、付き合いとしてお互いに品物を買いあっていた。共同社会が存続する場合、そこで暮らす人々は、買う行為を通じて、その社会の経済共同体を作っていた。
しかし、資本主義経済システムの成熟、生活世界の市場経済化によって、村落共同体が崩壊していくことになる。田舎にも大型店舗が進出し、町の商店街が消滅して行くことになる。自家用車所有率が上がり、地方の少子高齢化が進むことで、公共交通機関、取り分け公共バスが廃止され、田舎生活の移動は、もっぱら自家用車になる。型店舗にとっては、自動車で移動する現代の地域社会は、好都合であり立地条件がよい。大型店舗が土地の安価な条件を巧みに活用して、進出して行く。これが2000年代の日本の田園風景を変えたといえるだろう。
つまり、地域社会では急速に伝統的な経済共同体が崩壊し、商店街は消えて行った。その傾向は、都市近郊の町にも現れている。1980年代から地域社会(地方)で起こった少子高齢化、人口減少、地域産業の衰退等々が、今や都市近郊でも起こり、日本全体の社会問題になろうとしている。そして、日本の田舎では地域社会が消滅しつつある。
この地域社会の消滅は、共同社会が存続のために買うという行為(文化)の消滅を意味している。そして、買う基準は、すべて市場経済の決まりによって決定されていることになる。
品物が安いということが売れるという条件を導く唯一の基準となる。生産者側は、いかに安く供給するかが最も重要な課題となる。安売りの競争が、競合する大型店舗間で起こり、それらの競争は日常化し、客は少しでも安い品ものを提供してくれる店舗めがけて日々に移動する。
市場経済化の流れを止めることはできない。また、それ以前の村落共同体の経済機構を支えていた伝統的な行動、「義理で買う」行為を呼び戻すことも不可能である。義理買い(ぎりがい)は村落共同体が存続していた時の人々の買う行為を決定していた要素であった。伝統的な共同社会の消滅によって、その義理買いも消滅し、それに換わって、市場原理に基づく購買行為が登場した。
この購買行為の変化は、日本社会経済の歴史から見れば当然の結果である。つまり、資本主義経済化が全国津々浦々まで行き渡り、古い社会経済制度や風習を完全に駆逐しからである。
多様な商品の購買条件の選択枝と市場原理
市場経済で動く購買要素の「安価」が問われることになったのは、2008年の中国餃子事件であった。それ以前から中国国内では食の安全性が問題になる事件が多発していた。例えば、2003年には中国産ウナギ加工人品から合成抗菌剤が検出、2004年4月には偽造ミルク事件では多数の幼児の死亡事故発生、2005年には以前使用禁止となっていた発ガン性物質のスーダンレッドを使用した食品の発見、2007年には病死した豚肉を使った肉まんの売買、等々。(Wikipedia)こうした事件を切掛けにして、日本の消費者は、これまで多量に日本に輸入されていたすべての中国製食品の安全性まで疑うことになる。急激に安価を売り物にした中国製食品は人気を落として行った。
換言すると、市場原理は働くために、食の安全性を欠いた食品は市場から駆逐される。安けりゃ買うという消費者に食の安全性を無視しても安ければ買うだろうと帰結した企業、例えば牛肉偽装事件を起こした雪印食品などは悉く(ことごとく)経営に失敗した。
最近では、地球温暖化防止への協力、障害者への支援、緑化運動、飢餓対策、スポーツ支援等々、社会貢献を謳い文句にした商品(少し割り高だが)を消費者が買う。逆に、その謳い文句があると消費者が書くことを見越して、企業は社会貢献度の商標マージにした商品を販売する。
これまでのファッション性、便宜性や環境主義だけでなく、人道主義、平和主義までもが商品の付加価値として評価される時代を向かえている。つまり、多様な商品へニーズの意味するものは、多様な市民の生活スタイル(個性を尊重する社会生活様式)の出現を意味するのである。
高度情報化社会での購買方法、電子マネー化を進める経済文化の課題
市場原理が働き、商品に関する情報やその評価情報がインターネットで公開なされている今日の社会では、消費者の購買選択が市場を決定する。具体的例としてテレビによる通信販売がある。また番組が取り上げたグルメ食品の爆発的な購買やレストランへのお客の殺到例のその一つである。つまり、インターネット時代の消費者の購買動向は情報によって大きく左右されるのである。
資本主義経済の成熟によって、商品情報伝達と市場原理が購買者の行動を規定することになる。言い換えると、伝統的な共同体での義理買いの習慣に換る新しい購買文化が生まれた。その当たらし新しい共同体とはインターネット社会でつながった共同体であり、そこで新しい購買文化が形成されようとしている。
さらに、情報化社会の落とし子、電子マネーの出現によって、商品交換過程に大きな変化が生じていることに注意しなければならない。歴史的に商品の交換過程を支えている貨幣は、まず金本位制時代の貨幣(硬貨)、そして信用経済で成立する貨幣(紙幣)から、今回、情報社会で生まれた電子マネーと変化して来た。この電子マネーが、情報化社会によって生み出されたものであり、それがこれから更に新しい経済文化を生み出すことは言うまでもない。
買うという行為は生活行為の中で「交換する」行為の代表者であり、社会システムの運営に多きい位置を占めている。人々は買うという行為を通じて、社会参加しているのである。したがって、買うという行為の変化の意味するものは、社会文化の基本的構造、観念形態(イデオロギー)が変化していることを意味することになる。
交換価値の保証、貨幣素材の価値から国家の財政活動への共同主観的信用性へ
つまり、貨幣は消費財のような生活世界で消費されるための使用条件を持たないものである。マルクスはそのことを「使用価値を持たない特殊な商品」として貨幣の商品としての特殊性を位置づけた。
金本位制の貨幣は、それでも金という素材の価値を前提にした交換価値を貨幣に与えていた。
しかし、紙幣になると、それが金と交換できるという条件を与えることで、紙幣への金本位制での信用を維持していた。保障を紙幣が無くした場合に、貨幣の価値はそれを活用している国の経済状況に応じて変動することになる。例えば、その国の物価指数が上がることによって、その国の紙幣の価値は相対的に低く評価される。
紙幣は貨幣の素材に含まれる交換価値を喪失させ、その代用として「信用」という貨幣への信頼を意味する共同主観性を前提に成立している貨幣である。つまり、その共同主観性が崩壊することによって、紙幣はただの紙切れに変貌するのである。
例えば、デノミネーションはその一例である。貨幣価値が暴落することで、これまでの貨幣の交換価値を切り下げる。例えば戦前の日本では円の下に銭という貨幣単位があった。100銭を1円として換算していたが、銭を廃止することで、1銭の貨幣価値を1円に繰り上げる。つまり、1円の貨幣を1銭の貨幣価値に下げる行為をデノミネーション(デノミ)と呼んでいる。
このデノミを起こして国の財政を立てなおすことが出来るのは、金本位制度を廃止し、貨幣を紙幣に変え、信用が貨幣の交換価値の前提になっているからである。紙幣の信用を奪うことで、紙幣の価値はどうでも変化させることが出来る。これが貨幣経済のマジックの結果であり、国が巨額の負債を抱えた場合にその最終的解決手段として取る手でもある。
電子マネーは、実物紙幣の信用上に成立している新たな形態の貨幣である。勿論、すでに銀行で支払いを済まさなければ電子マネーが購入できないのである限り、電子マネーは貨幣価値の情報のみで成立している。したがって、その情報を失うことで、電子マネーの貨幣価値は簡単に消滅する。つまり、電子マネーはデノミのような大掛かりな貨幣信頼喪失の演出は必要なく、日常的に貨幣の価値を失う一人芝による茶番劇が起こるだろう。
貨幣の形態の変化こそ、買うという行為を中心とした経済活動のあり方の変遷を意味する。そして、電子マネーという新しい怪物の正体がまだ明確にされていない事に大きな不安を隠せない。しかし、この新しい怪物は、ますます大きく成長しようとしている。
Tweet
経済共同体を維持するための行為・義理買の消滅
我が国日本で、人々が、品物が安いという理由だけで買うことを決めるようになったのはそう昔のことではない。田舎では、つい最近まで、付き合いとしてお互いに品物を買いあっていた。共同社会が存続する場合、そこで暮らす人々は、買う行為を通じて、その社会の経済共同体を作っていた。
しかし、資本主義経済システムの成熟、生活世界の市場経済化によって、村落共同体が崩壊していくことになる。田舎にも大型店舗が進出し、町の商店街が消滅して行くことになる。自家用車所有率が上がり、地方の少子高齢化が進むことで、公共交通機関、取り分け公共バスが廃止され、田舎生活の移動は、もっぱら自家用車になる。型店舗にとっては、自動車で移動する現代の地域社会は、好都合であり立地条件がよい。大型店舗が土地の安価な条件を巧みに活用して、進出して行く。これが2000年代の日本の田園風景を変えたといえるだろう。
つまり、地域社会では急速に伝統的な経済共同体が崩壊し、商店街は消えて行った。その傾向は、都市近郊の町にも現れている。1980年代から地域社会(地方)で起こった少子高齢化、人口減少、地域産業の衰退等々が、今や都市近郊でも起こり、日本全体の社会問題になろうとしている。そして、日本の田舎では地域社会が消滅しつつある。
この地域社会の消滅は、共同社会が存続のために買うという行為(文化)の消滅を意味している。そして、買う基準は、すべて市場経済の決まりによって決定されていることになる。
品物が安いということが売れるという条件を導く唯一の基準となる。生産者側は、いかに安く供給するかが最も重要な課題となる。安売りの競争が、競合する大型店舗間で起こり、それらの競争は日常化し、客は少しでも安い品ものを提供してくれる店舗めがけて日々に移動する。
市場経済化の流れを止めることはできない。また、それ以前の村落共同体の経済機構を支えていた伝統的な行動、「義理で買う」行為を呼び戻すことも不可能である。義理買い(ぎりがい)は村落共同体が存続していた時の人々の買う行為を決定していた要素であった。伝統的な共同社会の消滅によって、その義理買いも消滅し、それに換わって、市場原理に基づく購買行為が登場した。
この購買行為の変化は、日本社会経済の歴史から見れば当然の結果である。つまり、資本主義経済化が全国津々浦々まで行き渡り、古い社会経済制度や風習を完全に駆逐しからである。
多様な商品の購買条件の選択枝と市場原理
市場経済で動く購買要素の「安価」が問われることになったのは、2008年の中国餃子事件であった。それ以前から中国国内では食の安全性が問題になる事件が多発していた。例えば、2003年には中国産ウナギ加工人品から合成抗菌剤が検出、2004年4月には偽造ミルク事件では多数の幼児の死亡事故発生、2005年には以前使用禁止となっていた発ガン性物質のスーダンレッドを使用した食品の発見、2007年には病死した豚肉を使った肉まんの売買、等々。(Wikipedia)こうした事件を切掛けにして、日本の消費者は、これまで多量に日本に輸入されていたすべての中国製食品の安全性まで疑うことになる。急激に安価を売り物にした中国製食品は人気を落として行った。
換言すると、市場原理は働くために、食の安全性を欠いた食品は市場から駆逐される。安けりゃ買うという消費者に食の安全性を無視しても安ければ買うだろうと帰結した企業、例えば牛肉偽装事件を起こした雪印食品などは悉く(ことごとく)経営に失敗した。
最近では、地球温暖化防止への協力、障害者への支援、緑化運動、飢餓対策、スポーツ支援等々、社会貢献を謳い文句にした商品(少し割り高だが)を消費者が買う。逆に、その謳い文句があると消費者が書くことを見越して、企業は社会貢献度の商標マージにした商品を販売する。
これまでのファッション性、便宜性や環境主義だけでなく、人道主義、平和主義までもが商品の付加価値として評価される時代を向かえている。つまり、多様な商品へニーズの意味するものは、多様な市民の生活スタイル(個性を尊重する社会生活様式)の出現を意味するのである。
高度情報化社会での購買方法、電子マネー化を進める経済文化の課題
市場原理が働き、商品に関する情報やその評価情報がインターネットで公開なされている今日の社会では、消費者の購買選択が市場を決定する。具体的例としてテレビによる通信販売がある。また番組が取り上げたグルメ食品の爆発的な購買やレストランへのお客の殺到例のその一つである。つまり、インターネット時代の消費者の購買動向は情報によって大きく左右されるのである。
資本主義経済の成熟によって、商品情報伝達と市場原理が購買者の行動を規定することになる。言い換えると、伝統的な共同体での義理買いの習慣に換る新しい購買文化が生まれた。その当たらし新しい共同体とはインターネット社会でつながった共同体であり、そこで新しい購買文化が形成されようとしている。
さらに、情報化社会の落とし子、電子マネーの出現によって、商品交換過程に大きな変化が生じていることに注意しなければならない。歴史的に商品の交換過程を支えている貨幣は、まず金本位制時代の貨幣(硬貨)、そして信用経済で成立する貨幣(紙幣)から、今回、情報社会で生まれた電子マネーと変化して来た。この電子マネーが、情報化社会によって生み出されたものであり、それがこれから更に新しい経済文化を生み出すことは言うまでもない。
買うという行為は生活行為の中で「交換する」行為の代表者であり、社会システムの運営に多きい位置を占めている。人々は買うという行為を通じて、社会参加しているのである。したがって、買うという行為の変化の意味するものは、社会文化の基本的構造、観念形態(イデオロギー)が変化していることを意味することになる。
交換価値の保証、貨幣素材の価値から国家の財政活動への共同主観的信用性へ
つまり、貨幣は消費財のような生活世界で消費されるための使用条件を持たないものである。マルクスはそのことを「使用価値を持たない特殊な商品」として貨幣の商品としての特殊性を位置づけた。
金本位制の貨幣は、それでも金という素材の価値を前提にした交換価値を貨幣に与えていた。
しかし、紙幣になると、それが金と交換できるという条件を与えることで、紙幣への金本位制での信用を維持していた。保障を紙幣が無くした場合に、貨幣の価値はそれを活用している国の経済状況に応じて変動することになる。例えば、その国の物価指数が上がることによって、その国の紙幣の価値は相対的に低く評価される。
紙幣は貨幣の素材に含まれる交換価値を喪失させ、その代用として「信用」という貨幣への信頼を意味する共同主観性を前提に成立している貨幣である。つまり、その共同主観性が崩壊することによって、紙幣はただの紙切れに変貌するのである。
例えば、デノミネーションはその一例である。貨幣価値が暴落することで、これまでの貨幣の交換価値を切り下げる。例えば戦前の日本では円の下に銭という貨幣単位があった。100銭を1円として換算していたが、銭を廃止することで、1銭の貨幣価値を1円に繰り上げる。つまり、1円の貨幣を1銭の貨幣価値に下げる行為をデノミネーション(デノミ)と呼んでいる。
このデノミを起こして国の財政を立てなおすことが出来るのは、金本位制度を廃止し、貨幣を紙幣に変え、信用が貨幣の交換価値の前提になっているからである。紙幣の信用を奪うことで、紙幣の価値はどうでも変化させることが出来る。これが貨幣経済のマジックの結果であり、国が巨額の負債を抱えた場合にその最終的解決手段として取る手でもある。
電子マネーは、実物紙幣の信用上に成立している新たな形態の貨幣である。勿論、すでに銀行で支払いを済まさなければ電子マネーが購入できないのである限り、電子マネーは貨幣価値の情報のみで成立している。したがって、その情報を失うことで、電子マネーの貨幣価値は簡単に消滅する。つまり、電子マネーはデノミのような大掛かりな貨幣信頼喪失の演出は必要なく、日常的に貨幣の価値を失う一人芝による茶番劇が起こるだろう。
貨幣の形態の変化こそ、買うという行為を中心とした経済活動のあり方の変遷を意味する。そして、電子マネーという新しい怪物の正体がまだ明確にされていない事に大きな不安を隠せない。しかし、この新しい怪物は、ますます大きく成長しようとしている。
Tweet
現実則で機能する社会契約型の自由・民主主義社会の行動ルール
人間の本来の姿「万人の万人に対する闘争」状態
自由とは、ホッブスの展開した「万人の万人に対する闘争」状態の理解から、自己や社会を安全に維持するために生み出された考え方と制度であると言える。言い換えると、闘争状態のエゴ丸出しで自分の欲望を満たそうとするフロイト的に言うと快感原則での自由から、社会契約上で成立する現実則での自由がある。社会的規範を守ることで与えられる自由が民主主義社会で定義される自由という概念となる。
人の精神活動の基本は欲望で動いている。その欲望の力で生命を原始的に維持している。そのため、人は自己中心的存在から逃れることはできない。もし自己中心的でないと自称したとしても、また別の視点からそれも自己中心的なのである。
換言すると、人は本来エゴイストでありナルシストである。そのエゴイズムとナルシズムの精神エネルギーを使いながら生きている。つまり、自己を表現するために、自己であろうとするために、エゴイズムやナルシズム的に行動することは避けられない。
自己表現と呼ばれる自由さをもつことで人は人としての在り方(個性)を獲得しているのである。個性のない人がいないように、そのエゴイズムやナルシズムを完全に断って生きることも生活することも行動することも出来ないのである。その意味で、エゴイズムやナルシズムを全面に肯定した人間の自由を快感原則 的自由と呼ぶことが出来るだろう。
しかし、この快感原則的自由を求めて行動することは、「万人の万人に対する闘争」状態を生み出すことになる。つまり、人々は自分の自由を得るために他の人々と抗争し、場合によっては殺しあわなければならなくなる。
「人間が狂気じみているのは避けがたいことなので、狂気じみていないことも、別種の狂気からいえば、やはり狂気じみていることになるであろう。」パスカル『パンセ』(414)
結果的不利益を導く「万人の万人に対する闘争」結果
そのため、自分の自由を認めてもらえる方法(現実則)で、自己主張する技術を身につけることになる。その方法の一つに、他人の自己主張を聴いてやって、その後で、自分の言い分を話すというやり方である。
つまり、自己のエゴ(自我や欲望)を認めてもらう明確な目的(戦略)を持って、戦術的に他人のエゴを認める。その場合、自分のエゴがあくまでも抹殺されない範囲を指定しておかなければならない。
もし、相手の言い分をすべて聴いてしまい、自分の言い分を何一つ聴いてもらえなかった場合には、明らかに相手の言い分を聴くという最初の戦略(目的)が達成できない状態になり、相手の言い分を聴くこと(戦術)は失敗したと言えるだろう。それでは、次に、相手の言い分を聴くという戦術を取ることが否定され、真正面に相手とやり合って、相手を力でねじ伏せても自分の言い分を通すという手段に出るしかなくなる。
つまり、二人がお互いの力関係によって、それぞれのエゴを認めある交渉を続けるなら、そのために二人が必要とする労力や時間は大変なものになる。それは、値段の決まっていない品物を市場で売り手と買い手が一つ一つ話し合い(時には怒鳴りあい)をしながら売買する光景に近い。商売している側から言えば、一人ひとりに売るたに必要な時間を考えていたら、商売にならないと判断し、その市場に行くって品物を並べるのを止めるだろう。
すると、市場に行って品物を買っていた相手もその日その日の生活に必要なものが手に入らないので、結果的には困ってしまうことになる。
現実則で機能する自由行為「社会契約に従った万人の万人に対する闘争」ルール
そこで利害の対立した両者のエゴ間の闘争(対立)を緩和する制度が社会に必要となる。そうでないと両者とも不利益を蒙る(こうむる)事態になる。何故なら、社会で生きる人々は、社会という制度の中でお互いそれぞれの役割を持ち、自分の役割を果たすことで他者が果たしてくれる役割の恩恵に与る(あずかる)ことが出来るからである。
快感原則で機能する自由行動では、目先の利害の対立を生み出す。そこで、現実則で機能する自由行動を考え出した。つまり、お互いのエゴを調整する取り決めを個人的な関係でなく、社会的関係として成立させる。その取り決め(社会契約や社会規則)に即して、二人の間であろうと数人の間であろうとお互いに行動する。その取り決めを守る以上、致命的な対立が生まれない。
もし、致命的な対立、つまり双方が譲れない状態になった場合にも、社会的規則と制度によって、双方の言い分を聴き、判断する法律と制度(司法制度)を作ることになる。社会契約とは、人間の行動に現実則で機能する自由の枠組みを与えるために創られたものである。
つまり、万人と同じように自己も万人に対してつねに闘争状態である存在であることが人間の自然の姿である。その自己のエゴを自覚すること、他者のエゴと共存する手段(社会規範)を受け入れ、無秩序で危険な闘争状態を避けて、安全でルールに従った闘争状態(市場経済や自由競争)に参加する。そのことによって、結果的に、より安全に、そして自分の主張を相手に解りやすい手段で納得させる方法が獲得できる。そして、競合している他者と共存することも可能になるのである。
社会契約上成立する自由行動とは、現実則で機能する自由行為である。それは、丁度、剣を竹刀に変えて、闘うルールを見つけ、お互いの剣の強さを事前に理解することで、真剣での無謀な切り合いを避けている武士社会のスポーツ化した戦場ルールのようなものである。
社会的な混乱を避け、自己が他者の自由を認め、他者にも自己の自由を認めさせるための第三者機関による基準作り(社会契約)を行い、その基準内での自由を自他ともに承認しあることで、民主主義社会は成立している。
「彼ら(プラトンやアリストテレス)が政治について書いたのは、いわば精神病院の規則を作るためである」パスカル『パンセ』(331)
Tweet
自由とは、ホッブスの展開した「万人の万人に対する闘争」状態の理解から、自己や社会を安全に維持するために生み出された考え方と制度であると言える。言い換えると、闘争状態のエゴ丸出しで自分の欲望を満たそうとするフロイト的に言うと快感原則での自由から、社会契約上で成立する現実則での自由がある。社会的規範を守ることで与えられる自由が民主主義社会で定義される自由という概念となる。
人の精神活動の基本は欲望で動いている。その欲望の力で生命を原始的に維持している。そのため、人は自己中心的存在から逃れることはできない。もし自己中心的でないと自称したとしても、また別の視点からそれも自己中心的なのである。
換言すると、人は本来エゴイストでありナルシストである。そのエゴイズムとナルシズムの精神エネルギーを使いながら生きている。つまり、自己を表現するために、自己であろうとするために、エゴイズムやナルシズム的に行動することは避けられない。
自己表現と呼ばれる自由さをもつことで人は人としての在り方(個性)を獲得しているのである。個性のない人がいないように、そのエゴイズムやナルシズムを完全に断って生きることも生活することも行動することも出来ないのである。その意味で、エゴイズムやナルシズムを全面に肯定した人間の自由を快感原則 的自由と呼ぶことが出来るだろう。
しかし、この快感原則的自由を求めて行動することは、「万人の万人に対する闘争」状態を生み出すことになる。つまり、人々は自分の自由を得るために他の人々と抗争し、場合によっては殺しあわなければならなくなる。
「人間が狂気じみているのは避けがたいことなので、狂気じみていないことも、別種の狂気からいえば、やはり狂気じみていることになるであろう。」パスカル『パンセ』(414)
結果的不利益を導く「万人の万人に対する闘争」結果
そのため、自分の自由を認めてもらえる方法(現実則)で、自己主張する技術を身につけることになる。その方法の一つに、他人の自己主張を聴いてやって、その後で、自分の言い分を話すというやり方である。
つまり、自己のエゴ(自我や欲望)を認めてもらう明確な目的(戦略)を持って、戦術的に他人のエゴを認める。その場合、自分のエゴがあくまでも抹殺されない範囲を指定しておかなければならない。
もし、相手の言い分をすべて聴いてしまい、自分の言い分を何一つ聴いてもらえなかった場合には、明らかに相手の言い分を聴くという最初の戦略(目的)が達成できない状態になり、相手の言い分を聴くこと(戦術)は失敗したと言えるだろう。それでは、次に、相手の言い分を聴くという戦術を取ることが否定され、真正面に相手とやり合って、相手を力でねじ伏せても自分の言い分を通すという手段に出るしかなくなる。
つまり、二人がお互いの力関係によって、それぞれのエゴを認めある交渉を続けるなら、そのために二人が必要とする労力や時間は大変なものになる。それは、値段の決まっていない品物を市場で売り手と買い手が一つ一つ話し合い(時には怒鳴りあい)をしながら売買する光景に近い。商売している側から言えば、一人ひとりに売るたに必要な時間を考えていたら、商売にならないと判断し、その市場に行くって品物を並べるのを止めるだろう。
すると、市場に行って品物を買っていた相手もその日その日の生活に必要なものが手に入らないので、結果的には困ってしまうことになる。
現実則で機能する自由行為「社会契約に従った万人の万人に対する闘争」ルール
そこで利害の対立した両者のエゴ間の闘争(対立)を緩和する制度が社会に必要となる。そうでないと両者とも不利益を蒙る(こうむる)事態になる。何故なら、社会で生きる人々は、社会という制度の中でお互いそれぞれの役割を持ち、自分の役割を果たすことで他者が果たしてくれる役割の恩恵に与る(あずかる)ことが出来るからである。
快感原則で機能する自由行動では、目先の利害の対立を生み出す。そこで、現実則で機能する自由行動を考え出した。つまり、お互いのエゴを調整する取り決めを個人的な関係でなく、社会的関係として成立させる。その取り決め(社会契約や社会規則)に即して、二人の間であろうと数人の間であろうとお互いに行動する。その取り決めを守る以上、致命的な対立が生まれない。
もし、致命的な対立、つまり双方が譲れない状態になった場合にも、社会的規則と制度によって、双方の言い分を聴き、判断する法律と制度(司法制度)を作ることになる。社会契約とは、人間の行動に現実則で機能する自由の枠組みを与えるために創られたものである。
つまり、万人と同じように自己も万人に対してつねに闘争状態である存在であることが人間の自然の姿である。その自己のエゴを自覚すること、他者のエゴと共存する手段(社会規範)を受け入れ、無秩序で危険な闘争状態を避けて、安全でルールに従った闘争状態(市場経済や自由競争)に参加する。そのことによって、結果的に、より安全に、そして自分の主張を相手に解りやすい手段で納得させる方法が獲得できる。そして、競合している他者と共存することも可能になるのである。
社会契約上成立する自由行動とは、現実則で機能する自由行為である。それは、丁度、剣を竹刀に変えて、闘うルールを見つけ、お互いの剣の強さを事前に理解することで、真剣での無謀な切り合いを避けている武士社会のスポーツ化した戦場ルールのようなものである。
社会的な混乱を避け、自己が他者の自由を認め、他者にも自己の自由を認めさせるための第三者機関による基準作り(社会契約)を行い、その基準内での自由を自他ともに承認しあることで、民主主義社会は成立している。
「彼ら(プラトンやアリストテレス)が政治について書いたのは、いわば精神病院の規則を作るためである」パスカル『パンセ』(331)
Tweet
買うという行為の起源(1)
使用価値をもつ条件
品物が生活のために必要でなければ買うという行為は生じない。例えば、衣食住に関する生活の基本的条件を満たす品物を買う人は、それを誰かに売るという行為以外には、それを生活のするために使うという条件で買っている。つまりそれらを使うために買うのである。仮に、品物を売買する人々が間に何人入ったとしても最終的には、その品物は生活空間で消費される運命にある。
つまり、品物を買うことは使用行為が前提条件となっている。物(もの)は使われる(消費される)目的をもって存在している。その目的を完了するためにものは買われる。言い換えると品物に使用行為を満たす条件があり、その満たす条件を評価したものを古典派経済学では使用価値と呼んでいる。
使用価値を持たないものは買う対象にならない。つまり、商品となるための必要十分条件が人々の使用行為を満たす条件を品物が持っていることである。言い換えると、そのものの価値を買い手が評価している状態(使用価値を所有する状態)にあることが買う対象となる。
使用価値のないものは商品の対象にはならない。使用価値はものが売買行為の対象となる絶対的に必要な条件である。使用価値をもってはじめて商品の条件を満たす。すなわち使用価値とは商品の第一条件と言える。
使用価値を持つとは、売買の対象・品物が生活世界の中で人々にとって必要なもの、なくてはならないものであることを意味する。つまり、その売買の対象は人が生きるために、家族を維持するために、社会が成立し発展するために使われるものであり、人々の生存、生活、文化、趣味、快楽の条件を満たすために人によって作り出されたものであるである。
労働過程・交換行為の形成
人が他の人が生活世界で使用するものを作る。それを労働と呼ぶ。最も原始的な労働は、自然物を生活物に変える行為である。例えば海や川で生息する魚貝を食料と呼ばれる生活物に変える行為は最も原始的な労働の形態である。
労働の原始的形態とは、自分以外の人々の生存、生活、文化、趣味、快楽の対象を自然物から得る行為を意味する。自分のために魚を捕ることは、単に生きるための行為と言えるだろうが、他者のために行う行為は、そこの他者との共存を前提にした行為を意味し、自分のために動くことと質的に異なる事態を引き起こしているのである。
この質的な違いの発生は、他者と共存するために動くという社会的行為の起源を意味し、それを一般に交換行為と呼んでいる。つまり、交換行為の第一歩とは他者からの行為の授与を期待し、自らの行為を他者のために行うこと、行為の投資が為される。その行為が他者に認められることによって、他者からの評価を得られる。評価とは、他者も自分の生存や生活ための行為を行うことを意味する。他者の行為を受けることで、他者と自己の行為の交換が成立する。
言語の形成・交換行為の形成
交換の最も基本的な形態が会話と呼ばれる言語活動である。ことばを生み出す行為を相互に行いながら生きている。そのことばの生産活動とその交換関係、つまり自己の生産したあることばが他者の別のことばとなって生産・再生産し続ける関係を前提にしながら社会共同体が運営されている。
人間のことばの起源と労働の起源は同次元にあると考えると、他の動物たちのことばと人間のことばの違いが見える。つまり、人は空気の振動を生み出す作用のみでなく、手の運動を中心とした生産物によって他者との交換過程を形成している。それが、他の動物と決定的にことなる。鯨も音波を使った交信をするだろうが、その交信の記号を手(身体運動)から作りだれるものとの関係を生み出すことは出来ないだろう。
自然物から人工物と呼ばれる加工過程は、二つの記号化過程を生み出している。一つは空気の振動を音声とよばれる記号に加工すること、もう一つは例えば魚という自然物を食料という人工物に加工することである。
言語過程は、つねに自然物である空気の振動を他者と交換可能な人工物・音声に加工する作業過程から形成される。その意味で、自然物を交換可能な人工物に加工する一次産業での労働過程と同じ構造をもっている。
トランデック・タオが「言語と労働の起源について」述べた労働過程の形成と言語過程の形成は同時に進み、それこそが人間を生み出した起源であると言えるだろう。
交換価値をもつ条件
使用価値をもつもの、つまり商品は、他の商品(貨幣)と交換されながら、流通する。生産する人と消費する人が必ずしも同一でなく、また必ずしも同じ場所にいない、高度に分業化した社会では、交換という行為がなければ生産されたものが使用(消費)されない。
言い換えると、使用価値を持つと言うことが交換行為を形成することを前提にして成立している。交換行為が成立していない状態で生産された品物は、その潜在的使用価値を持ちながらも、現実的には生産者とその近辺の人々が使用する以外は不要なものになるだろう。
例えば、漁民がいくら多くの魚を取ってきても、それが食卓で料理される材料として使われない限り、その魚は海から取り上げた魚にすぎない。つまり商品としての、売りものとしての魚は売られる条件を与えられたものである。それ以外は、子供が取った魚とそう大きな違いのない、たまたま漁民が取った魚(自然物)に過ぎない。
生活世界での消費財(もの)に関していえば、使用価値を与えられなければ、交換価値をもつ条件は成立しないのである。しかし、これが最も基本的な商品の形態である。
Tweet
品物が生活のために必要でなければ買うという行為は生じない。例えば、衣食住に関する生活の基本的条件を満たす品物を買う人は、それを誰かに売るという行為以外には、それを生活のするために使うという条件で買っている。つまりそれらを使うために買うのである。仮に、品物を売買する人々が間に何人入ったとしても最終的には、その品物は生活空間で消費される運命にある。
つまり、品物を買うことは使用行為が前提条件となっている。物(もの)は使われる(消費される)目的をもって存在している。その目的を完了するためにものは買われる。言い換えると品物に使用行為を満たす条件があり、その満たす条件を評価したものを古典派経済学では使用価値と呼んでいる。
使用価値を持たないものは買う対象にならない。つまり、商品となるための必要十分条件が人々の使用行為を満たす条件を品物が持っていることである。言い換えると、そのものの価値を買い手が評価している状態(使用価値を所有する状態)にあることが買う対象となる。
使用価値のないものは商品の対象にはならない。使用価値はものが売買行為の対象となる絶対的に必要な条件である。使用価値をもってはじめて商品の条件を満たす。すなわち使用価値とは商品の第一条件と言える。
使用価値を持つとは、売買の対象・品物が生活世界の中で人々にとって必要なもの、なくてはならないものであることを意味する。つまり、その売買の対象は人が生きるために、家族を維持するために、社会が成立し発展するために使われるものであり、人々の生存、生活、文化、趣味、快楽の条件を満たすために人によって作り出されたものであるである。
労働過程・交換行為の形成
人が他の人が生活世界で使用するものを作る。それを労働と呼ぶ。最も原始的な労働は、自然物を生活物に変える行為である。例えば海や川で生息する魚貝を食料と呼ばれる生活物に変える行為は最も原始的な労働の形態である。
労働の原始的形態とは、自分以外の人々の生存、生活、文化、趣味、快楽の対象を自然物から得る行為を意味する。自分のために魚を捕ることは、単に生きるための行為と言えるだろうが、他者のために行う行為は、そこの他者との共存を前提にした行為を意味し、自分のために動くことと質的に異なる事態を引き起こしているのである。
この質的な違いの発生は、他者と共存するために動くという社会的行為の起源を意味し、それを一般に交換行為と呼んでいる。つまり、交換行為の第一歩とは他者からの行為の授与を期待し、自らの行為を他者のために行うこと、行為の投資が為される。その行為が他者に認められることによって、他者からの評価を得られる。評価とは、他者も自分の生存や生活ための行為を行うことを意味する。他者の行為を受けることで、他者と自己の行為の交換が成立する。
言語の形成・交換行為の形成
交換の最も基本的な形態が会話と呼ばれる言語活動である。ことばを生み出す行為を相互に行いながら生きている。そのことばの生産活動とその交換関係、つまり自己の生産したあることばが他者の別のことばとなって生産・再生産し続ける関係を前提にしながら社会共同体が運営されている。
人間のことばの起源と労働の起源は同次元にあると考えると、他の動物たちのことばと人間のことばの違いが見える。つまり、人は空気の振動を生み出す作用のみでなく、手の運動を中心とした生産物によって他者との交換過程を形成している。それが、他の動物と決定的にことなる。鯨も音波を使った交信をするだろうが、その交信の記号を手(身体運動)から作りだれるものとの関係を生み出すことは出来ないだろう。
自然物から人工物と呼ばれる加工過程は、二つの記号化過程を生み出している。一つは空気の振動を音声とよばれる記号に加工すること、もう一つは例えば魚という自然物を食料という人工物に加工することである。
言語過程は、つねに自然物である空気の振動を他者と交換可能な人工物・音声に加工する作業過程から形成される。その意味で、自然物を交換可能な人工物に加工する一次産業での労働過程と同じ構造をもっている。
トランデック・タオが「言語と労働の起源について」述べた労働過程の形成と言語過程の形成は同時に進み、それこそが人間を生み出した起源であると言えるだろう。
交換価値をもつ条件
使用価値をもつもの、つまり商品は、他の商品(貨幣)と交換されながら、流通する。生産する人と消費する人が必ずしも同一でなく、また必ずしも同じ場所にいない、高度に分業化した社会では、交換という行為がなければ生産されたものが使用(消費)されない。
言い換えると、使用価値を持つと言うことが交換行為を形成することを前提にして成立している。交換行為が成立していない状態で生産された品物は、その潜在的使用価値を持ちながらも、現実的には生産者とその近辺の人々が使用する以外は不要なものになるだろう。
例えば、漁民がいくら多くの魚を取ってきても、それが食卓で料理される材料として使われない限り、その魚は海から取り上げた魚にすぎない。つまり商品としての、売りものとしての魚は売られる条件を与えられたものである。それ以外は、子供が取った魚とそう大きな違いのない、たまたま漁民が取った魚(自然物)に過ぎない。
生活世界での消費財(もの)に関していえば、使用価値を与えられなければ、交換価値をもつ条件は成立しないのである。しかし、これが最も基本的な商品の形態である。
Tweet
2010年11月4日木曜日
人権学 -三つの人権概念の定義-
三石博行
人権問題とは生活資源の困窮喪失状態である
広義の人権概念を定義することで、人権を扱う研究「人権学」が、これまでの人間社会科学の守備範囲内に位置づけられた。
そこで、さらに進んで人権の概念を、人間社会科学の先行研究を、人権学の成立の条件に組み込むために、これまでの人間社会科学が取り上げてきた概念の中で位置づけてみよう。ここで、タルゴッと・パーソンズの「社会行為の構造」から展開した青木和夫、松原治郎や副田義也の「生活構造論」やパーソンズの社会行為論を批判しフロイト理論を社会学に取り入れながら吉田民人が展開した「生活空間論」の先行研究を踏まえた生活情報論と生活資源論での生活行為、生活資源と生活情報の分類概念を活用する。
生活資源の構造分析で、生活資源を。個体や種族の生命と最低限の生存条件となる一次生活資源、豊かな生活を満たすための生活や社会環境の条件となる二次生活資源、個人の欲望(希望や欲慟)をみたすために必要となる三次生活資源の三つの概念に分類した。
この生活資源が困窮喪失した状態で生じる生活状態が人権問題として語られる。つまり、個人の生命と家族の生存に必要な生活資源・一次生活資源の喪失や困窮によって、一次人権環境が疎外される。豊かな生活環境を形成するために必要な生活資源・二次生活資源の喪失や困窮は二次人権環境の貧困を意味する。そして、人々の自由な行動要求(欲望)を充たすために必要な生活資源・三次生活資源の貧困状態によって、三次人権環境の不足が生まれる。
一次人権課題とは
生命や生存するために必要な最低限の生活条件や生活環境の課題を一次人権課題と呼ぶ。
例えば、戦争、災害、犯罪、飢餓、生活崩壊、疫病による病気死の危機等々は、一次人権課題である。つまり、一次人権課題に触れる事件は、生命の危機に直接関係する重要な人権問題である。そのため、一次人権課題の解決は常に急務な対策を要求される。
二次人権課題
豊かな生活や社会環境を作り個人や集団の生活の質(QOL)を高めることを二次人権課題と呼ぶ。
例えば、福祉、教育、地域社会の生活環境、就労、学歴、障害、出身地、人種、宗教や民族等々への差別、またハラスメントやいじめ等々は二次人権課題に触れる問題が挙げられる。
三次人権課題
個人の自由な精神生活、ゆめ(希望)や欲望(他の人々の迷惑にならない範囲で)を満たし、こころや精神活動をより豊かにすることを三次人権課題と呼ぶ。
個人のプライバシー侵害、精神的ストレス、ことばの暴力、信仰や信条の自由の剥奪などは三次人権課題に触れる問題であると言える。
時代や社会文化環境と共に変化する人権課題の重要度
一次、二次、三次の人権課題の分類は、生活資源の豊かさという条件に付随する。つまり、猛獣の脅威に慄きながら生きていた太古の人々にとって、一次生活資源を得るために殆どすべての生活時間を費やしていたと考えれば、一次人権課題をクリアーするために個人の生活行動が選択され、生活時間が費やされていたと考えるのが自然である。その場合、二次人権課題の占める割合は相対的に小さいし、三次人権課題は殆ど問われることがなかったのではないだろうか。
つまり、生活情報史観で述べるように、三つの生活資源を得るための生活行為や生活時間占める割合に生活経済の状によって、つまり生活経済の発展によって、相対的に変化したと考えるなら、三つの異なる人権課題も社会経済の発展進化によってその社会文化的重要性が変化したと考えるべきである。
つまり、重要性の順番が、必ずしも、一次人権課題、二次人権課題と三次人権課題というように、どの時代でもどの社会でもすべて同じように決まっているのではなく、時代や社会の、つまり経済的環境の変化によって、その重要性は変化するのである。
例えば、石器時代のある集団で、一年間を通じて、信仰や信条、表現の自由に関する主張と、飢餓や外敵から命を守る主張が起こった件数を想像すると、多分、後者の飢餓や外敵から集団を守ることが課題になった回数の方が、前者よりもはるかに多いと想像される。
しかし、その状況を、1960年代の日本ある町の中で当てはめると、多分、逆の結論になるだろう。つまり、前者の同じ信仰や信条、表現の自由に関する主張を行った件数が後者よりも多いのではないかと想像できる。
人権問題は、常に時代や社会の状況と関連して取り上げられる。そこに、時代や社会に規定された生活主体の生活重視の考え方が人権問題に直接関係するのである。つまり、その意味で、現代日本人が近世日本社会の出来事(今からみれば人権問題であるという)を、当時の社会では人権問題として考えることができないという現象が起こるのである。
つまり、人権課題は生活資源への評価課題を含み、そこには歴史や社会を超えた絶対的な価値概念を規定することは困難となる。
そこに、多様な現代社会での人権問題の理解の鍵が潜んでいるのであると言えるだろう。
参考資料
三石博行 「生活資源論」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_02.html
「設計科学としての生活学の構築…」 で一次生活資源、二次生活情報と三次生活資源の概念を説明する。
三石博行「設計科学としての生活学の構築 -人工物プログラム科学としての生活学の構図に向けて」 金蘭短期大学 研究誌33号 2002年12月 pp21-60
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_02/cMITShir02d.pdf
三石博行 「生活情報論」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_03.html
一次生活情報、二次生活情報と三次生活情報の分類概念に興味ある方は
「生活情報の構造とその文化形態」2001.10、 pp62-73、 片方善治監修 『 -情報文化学会創立10年記念出版- 情報文化学ハンドブック』、森北出版株式会社
Tweet
人権問題とは生活資源の困窮喪失状態である
広義の人権概念を定義することで、人権を扱う研究「人権学」が、これまでの人間社会科学の守備範囲内に位置づけられた。
そこで、さらに進んで人権の概念を、人間社会科学の先行研究を、人権学の成立の条件に組み込むために、これまでの人間社会科学が取り上げてきた概念の中で位置づけてみよう。ここで、タルゴッと・パーソンズの「社会行為の構造」から展開した青木和夫、松原治郎や副田義也の「生活構造論」やパーソンズの社会行為論を批判しフロイト理論を社会学に取り入れながら吉田民人が展開した「生活空間論」の先行研究を踏まえた生活情報論と生活資源論での生活行為、生活資源と生活情報の分類概念を活用する。
生活資源の構造分析で、生活資源を。個体や種族の生命と最低限の生存条件となる一次生活資源、豊かな生活を満たすための生活や社会環境の条件となる二次生活資源、個人の欲望(希望や欲慟)をみたすために必要となる三次生活資源の三つの概念に分類した。
この生活資源が困窮喪失した状態で生じる生活状態が人権問題として語られる。つまり、個人の生命と家族の生存に必要な生活資源・一次生活資源の喪失や困窮によって、一次人権環境が疎外される。豊かな生活環境を形成するために必要な生活資源・二次生活資源の喪失や困窮は二次人権環境の貧困を意味する。そして、人々の自由な行動要求(欲望)を充たすために必要な生活資源・三次生活資源の貧困状態によって、三次人権環境の不足が生まれる。
一次人権課題とは
生命や生存するために必要な最低限の生活条件や生活環境の課題を一次人権課題と呼ぶ。
例えば、戦争、災害、犯罪、飢餓、生活崩壊、疫病による病気死の危機等々は、一次人権課題である。つまり、一次人権課題に触れる事件は、生命の危機に直接関係する重要な人権問題である。そのため、一次人権課題の解決は常に急務な対策を要求される。
二次人権課題
豊かな生活や社会環境を作り個人や集団の生活の質(QOL)を高めることを二次人権課題と呼ぶ。
例えば、福祉、教育、地域社会の生活環境、就労、学歴、障害、出身地、人種、宗教や民族等々への差別、またハラスメントやいじめ等々は二次人権課題に触れる問題が挙げられる。
三次人権課題
個人の自由な精神生活、ゆめ(希望)や欲望(他の人々の迷惑にならない範囲で)を満たし、こころや精神活動をより豊かにすることを三次人権課題と呼ぶ。
個人のプライバシー侵害、精神的ストレス、ことばの暴力、信仰や信条の自由の剥奪などは三次人権課題に触れる問題であると言える。
時代や社会文化環境と共に変化する人権課題の重要度
一次、二次、三次の人権課題の分類は、生活資源の豊かさという条件に付随する。つまり、猛獣の脅威に慄きながら生きていた太古の人々にとって、一次生活資源を得るために殆どすべての生活時間を費やしていたと考えれば、一次人権課題をクリアーするために個人の生活行動が選択され、生活時間が費やされていたと考えるのが自然である。その場合、二次人権課題の占める割合は相対的に小さいし、三次人権課題は殆ど問われることがなかったのではないだろうか。
つまり、生活情報史観で述べるように、三つの生活資源を得るための生活行為や生活時間占める割合に生活経済の状によって、つまり生活経済の発展によって、相対的に変化したと考えるなら、三つの異なる人権課題も社会経済の発展進化によってその社会文化的重要性が変化したと考えるべきである。
つまり、重要性の順番が、必ずしも、一次人権課題、二次人権課題と三次人権課題というように、どの時代でもどの社会でもすべて同じように決まっているのではなく、時代や社会の、つまり経済的環境の変化によって、その重要性は変化するのである。
例えば、石器時代のある集団で、一年間を通じて、信仰や信条、表現の自由に関する主張と、飢餓や外敵から命を守る主張が起こった件数を想像すると、多分、後者の飢餓や外敵から集団を守ることが課題になった回数の方が、前者よりもはるかに多いと想像される。
しかし、その状況を、1960年代の日本ある町の中で当てはめると、多分、逆の結論になるだろう。つまり、前者の同じ信仰や信条、表現の自由に関する主張を行った件数が後者よりも多いのではないかと想像できる。
人権問題は、常に時代や社会の状況と関連して取り上げられる。そこに、時代や社会に規定された生活主体の生活重視の考え方が人権問題に直接関係するのである。つまり、その意味で、現代日本人が近世日本社会の出来事(今からみれば人権問題であるという)を、当時の社会では人権問題として考えることができないという現象が起こるのである。
つまり、人権課題は生活資源への評価課題を含み、そこには歴史や社会を超えた絶対的な価値概念を規定することは困難となる。
そこに、多様な現代社会での人権問題の理解の鍵が潜んでいるのであると言えるだろう。
参考資料
三石博行 「生活資源論」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_02.html
「設計科学としての生活学の構築…」 で一次生活資源、二次生活情報と三次生活資源の概念を説明する。
三石博行「設計科学としての生活学の構築 -人工物プログラム科学としての生活学の構図に向けて」 金蘭短期大学 研究誌33号 2002年12月 pp21-60
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_02/cMITShir02d.pdf
三石博行 「生活情報論」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_03.html
一次生活情報、二次生活情報と三次生活情報の分類概念に興味ある方は
「生活情報の構造とその文化形態」2001.10、 pp62-73、 片方善治監修 『 -情報文化学会創立10年記念出版- 情報文化学ハンドブック』、森北出版株式会社
Tweet
広義の人権の概念・人間社会科学での人権概念
三石博行
人間の命と生活の基本的権利が人権のもっとも一般的な概念(広義の概念)である。すなわち、広義の人権擁護とは人間の生命や生活を守るという意味となる。
もっとも最悪な人権侵害とは、人が人を殺害すること(殺人)、戦争や内戦による犠牲、経済的危機、政治的混乱やその他の理由による犠牲、飢餓や疫病による犠牲である。また、個人的暴力、集団的暴力、国家的暴力によって人々が生きていくために最低限必要な基本的な生活環境を奪われることである。
さらに、深刻な人権侵害として市民生活の環境を奪われることが挙げられる。市民生活の条件を奪い市民生活を破壊することが市民権侵害と呼ばれる人権侵害である。 例えば家族の破壊、個人財産の破壊や盗難、身体的傷害、身体および精神的自由の束縛、社会的個人的な物理的および精神的生活環境の破壊や侵害、等々を挙げることが出来る。
人権という概念は、個人の幸福な生き方を疎外し妨害することも含まれる。教育を受ける権利、病気を治療する権利(健康な生活を送る権利)、失業した場合の生活保障を受ける権利、不当に解雇されない権利、職場でのハラスメント(パワハラやセクハラ)から身を守る権利、退職後や老後の生活を維持する権利、公共サービスを受ける権利、出身地や職種によって差別されない権利などがある。
つまり、人権を語る場合、これまで人間社会科学の中で議論してきた社会、生活環境や精神や身体環境がすべて人権に関連することになる。例えば、生態や社会生活環境の破壊、家庭生活破壊、非人間的環境、精神的肉体的健康破戒等々の問題を解決するために研究調査されてきたもの、また 生命重視、生活重視、人間重視の思想とそれを実現するための研究開発された技術など、これまでの人間社会科学の具体的な研究課題とリンクしている。
Tweet
人間の命と生活の基本的権利が人権のもっとも一般的な概念(広義の概念)である。すなわち、広義の人権擁護とは人間の生命や生活を守るという意味となる。
もっとも最悪な人権侵害とは、人が人を殺害すること(殺人)、戦争や内戦による犠牲、経済的危機、政治的混乱やその他の理由による犠牲、飢餓や疫病による犠牲である。また、個人的暴力、集団的暴力、国家的暴力によって人々が生きていくために最低限必要な基本的な生活環境を奪われることである。
さらに、深刻な人権侵害として市民生活の環境を奪われることが挙げられる。市民生活の条件を奪い市民生活を破壊することが市民権侵害と呼ばれる人権侵害である。 例えば家族の破壊、個人財産の破壊や盗難、身体的傷害、身体および精神的自由の束縛、社会的個人的な物理的および精神的生活環境の破壊や侵害、等々を挙げることが出来る。
人権という概念は、個人の幸福な生き方を疎外し妨害することも含まれる。教育を受ける権利、病気を治療する権利(健康な生活を送る権利)、失業した場合の生活保障を受ける権利、不当に解雇されない権利、職場でのハラスメント(パワハラやセクハラ)から身を守る権利、退職後や老後の生活を維持する権利、公共サービスを受ける権利、出身地や職種によって差別されない権利などがある。
つまり、人権を語る場合、これまで人間社会科学の中で議論してきた社会、生活環境や精神や身体環境がすべて人権に関連することになる。例えば、生態や社会生活環境の破壊、家庭生活破壊、非人間的環境、精神的肉体的健康破戒等々の問題を解決するために研究調査されてきたもの、また 生命重視、生活重視、人間重視の思想とそれを実現するための研究開発された技術など、これまでの人間社会科学の具体的な研究課題とリンクしている。
Tweet
多様化する国際社会での問われる人権問題
三石博行
グローバリゼーションによって生じている社会、政治、経済、文化的に異なる環境(社会)間の相互関係(経済的政治的関係)が、さらに現代の人権問題の理解と解決の複雑さや困難さを生み出している。今、人権問題を語るとき、その問題が抱えている現状を理解する必要がある。
人権擁護には、人権思想(民主主義思想)をもつ社会文化の土壌がなければならない。そして、その思想を具現化する制度、つまり立法(法律)と行政(社会制度)が必要である。人権思想は、民主主義思想の基本である。人権思想は伝統的にもヨーロッパ社会の歴史的発展と不可分な関係にある。そのため、人権思想や人権擁護の活動が、欧米社会制度化を前提として語られることになる。この前提は現状では否定できないし、事実、欧米の社会制度が最も進んだ人権擁護を行っている。
しかし、多様な伝統文化を持つ社会が近代化過程(経済的には資本主義、社会制度的には民主主義という制度改革過程)で起こしている事件やその事件への解決(それが先進国からは人権問題と呼ばれる場合がある)の課題。この場合、民主主義社会化の過程が多様化していることを理解しなければならない。
つまり、西洋民主主義社会の歴史モデルでは語れない色々な民主化過程が存在していることを理解する必要がある。民主主義化の過程は、それまでのあった制度からの近代化の過程である。
それまでにあった制度(伝統文化や社会システム)が引き継がれ、その制度に残存する西洋人道主義に反する行為、例えばイスラム国家での石投げによる公開死刑など非常に野蛮な行為もその国では伝統として続いたものである。それを中止するには、イスラム国家の存立を問われる課題も含まれるだろう。
自由経済、民主主義、人権制度のグローバリゼーションの中で多様化する人権擁護のあり方を一つの国の、もしくは欧米型の尺度で判断することは困難になる。
その典型が、イラク戦争でアメリカが使った口実、つまりイラクには民主主義も人権もないので、そこに民主主義と人権を伝えるために、独裁者フセインを倒す。もちろん、この口実は、大量破壊兵器をもっているという最初の口実を失ったために、その後にアメリカが継ぎ足した口実であったのだが、まことしなやかにアメリカでは(アメリカ兵も)その口実の正統性を信じられたのだ。そして、アメリカを中心とした連合国は、巨大な軍事力で一国の政権を倒した。
結果は、市民生活の崩壊という悲惨な人権侵害であった。つまり、これから、ある人権擁護の考え方やある視点からの人権理念が、結果的に人権蹂躙を引き起こすことになる。このカラクリを理解しなければ、人権問題に取り組む活動は、つねに受身の、つまり、被害を受けた後の活動になる。
近代化を進めている国々の、経済の開発に協力すること、教育や文化の発展に協力すること、それが人権擁護運動であることは確かである。積極的な人権擁護、つまり、生活を豊かにする活動として、人権問題を展開したいのである。
そのためには、人権問題の課題の一つとして、イラク戦争やアフガニスタン戦争でのアメリカや連合国の、テロ対策や独裁者国家の打倒政策を検討しなければならないだろう。
Tweet
グローバリゼーションによって生じている社会、政治、経済、文化的に異なる環境(社会)間の相互関係(経済的政治的関係)が、さらに現代の人権問題の理解と解決の複雑さや困難さを生み出している。今、人権問題を語るとき、その問題が抱えている現状を理解する必要がある。
人権擁護には、人権思想(民主主義思想)をもつ社会文化の土壌がなければならない。そして、その思想を具現化する制度、つまり立法(法律)と行政(社会制度)が必要である。人権思想は、民主主義思想の基本である。人権思想は伝統的にもヨーロッパ社会の歴史的発展と不可分な関係にある。そのため、人権思想や人権擁護の活動が、欧米社会制度化を前提として語られることになる。この前提は現状では否定できないし、事実、欧米の社会制度が最も進んだ人権擁護を行っている。
しかし、多様な伝統文化を持つ社会が近代化過程(経済的には資本主義、社会制度的には民主主義という制度改革過程)で起こしている事件やその事件への解決(それが先進国からは人権問題と呼ばれる場合がある)の課題。この場合、民主主義社会化の過程が多様化していることを理解しなければならない。
つまり、西洋民主主義社会の歴史モデルでは語れない色々な民主化過程が存在していることを理解する必要がある。民主主義化の過程は、それまでのあった制度からの近代化の過程である。
それまでにあった制度(伝統文化や社会システム)が引き継がれ、その制度に残存する西洋人道主義に反する行為、例えばイスラム国家での石投げによる公開死刑など非常に野蛮な行為もその国では伝統として続いたものである。それを中止するには、イスラム国家の存立を問われる課題も含まれるだろう。
自由経済、民主主義、人権制度のグローバリゼーションの中で多様化する人権擁護のあり方を一つの国の、もしくは欧米型の尺度で判断することは困難になる。
その典型が、イラク戦争でアメリカが使った口実、つまりイラクには民主主義も人権もないので、そこに民主主義と人権を伝えるために、独裁者フセインを倒す。もちろん、この口実は、大量破壊兵器をもっているという最初の口実を失ったために、その後にアメリカが継ぎ足した口実であったのだが、まことしなやかにアメリカでは(アメリカ兵も)その口実の正統性を信じられたのだ。そして、アメリカを中心とした連合国は、巨大な軍事力で一国の政権を倒した。
結果は、市民生活の崩壊という悲惨な人権侵害であった。つまり、これから、ある人権擁護の考え方やある視点からの人権理念が、結果的に人権蹂躙を引き起こすことになる。このカラクリを理解しなければ、人権問題に取り組む活動は、つねに受身の、つまり、被害を受けた後の活動になる。
近代化を進めている国々の、経済の開発に協力すること、教育や文化の発展に協力すること、それが人権擁護運動であることは確かである。積極的な人権擁護、つまり、生活を豊かにする活動として、人権問題を展開したいのである。
そのためには、人権問題の課題の一つとして、イラク戦争やアフガニスタン戦争でのアメリカや連合国の、テロ対策や独裁者国家の打倒政策を検討しなければならないだろう。
Tweet
2010年11月3日水曜日
中国の人権問題で思うこと
三石博行
中国の民主運動家、人権活動家の劉暁波氏がノーベル平和賞授与してもう一ヶ月近く時間がたった。当時は彼のノーベル賞受賞に慌てて、中国政府は劉暁波氏へのノーベル平和賞授与を批判した。このみっともない振る舞いをした中国政府のニュースが日本では報道されていた。尖閣列島問題で、約1000名の日本人招待学生の招待を突如として取りやめただけに、その大人気ない中国政府の対応と相まって、今夏にノーベル平和賞への対応も、中国政府の失態として後々の人々に語られるであろう。
劉暁波氏が中国国内で中国の民主化を訴え、一党独裁体制を批判したことは、勇気ある行為として評価できるだろう。また彼が民主主義社会の規則を提案したことなどで、11年の実刑判決を受けて刑務所に投獄されていることも、このノーベル平和賞の受賞によって明らかになったので、国際社会から人権活動家の劉暁波氏への弾圧に批判的注目を集めている。今回のノーベル平和賞の意味は、その辺にあるのかもしれない。
しかし、歴史を振り返ると、中国を植民地化した列強及び大日本帝国との侵略戦争と戦い、植民地支配から中国を開放し、貧困と飢え、奴隷当然の扱いを受けていた中国人民を救ったのは毛沢東率いる中国共産党である。そして、毛沢東の大躍進や文革の国内大混乱を収拾し、改革開放路線を展開し、今日の豊かな国に向かう中国が誕生させたのも周恩来を尊敬していた鄧小平率いる中国共産党の力である。こうして現在、世界第二の経済大国が成立し、多くの中国人観光客が日本にやってくるのである。
そして、さらに中国共産党は、国を豊かさにし、経済を発展させようとしている。
2010年ノーベル平和賞授与者劉暁波氏は、まさしく、豊かになった中国が生んだ次の世代への掛け渡し人のように思える。
そして彼へのノーベル平和賞は、新しい中国の国の形を予告する課題のように思える。つまり、彼も中国を愛する一人であり、多分、毛沢東や周恩来と同じぐらい愛国者の一人なのかもしれない。
だから、人権侵害の国、中国というイメージでなく、人権侵害を訴える人民を持つ中国という観点から、政治指導者の動向でなく、人民中国の姿を理解したいと思った。
経済的豊かさは人々の自由な活動によって生み出される。経済的豊かさが、次の政治的民主主義を実現する基礎となると思える。
今回の人権問題を一面的に観るのでなく、中国の歴史の流れのなかでトータルに理解し、日本の社会常識から判断するのでなく、中国の社会、そしてその中での人権活動家の劉暁波氏の理解と、中国政府の人権迫害の一面だけでなく、貧困と飢餓から救われた人民の生活問題(これも人権問題の一つである以上)も含めて考えなければならないだろう。
勿論、劉暁波氏への人権侵害は国際社会から批判されるべきであるし、中国政府は速やかに劉暁波氏を釈放すべきであろう。国内法によって裁かれた人物がノーベル平和賞授与されたことを受け止めるべきだろう。
もし、そのことが出来なければ、大国中国の国際的信頼をそこなうだろう。そして大人気ない現在の中国政府の対応は顰蹙(ひんしゅく)をかうだろう。それは、あまり得策ではないように思う。
参考
三石博行「中国の近代化、民主化過程を理解しよう」
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_1850.html
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------
2、日中関係
2-1、「日中友好に未来あり」)
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post.html
2-2、中国の人権問題で思うこと
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_03.html
2-3、経済的発展か軍事的衝突か 問われる東アジアの政治的方向性
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_13.html
2-4、中国の近代化・民主化過程を理解しよう
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_1850.html
2-5、中国との経済的協力関係の展開と中国への軍事的脅威への対応の二重路線外交を進めよ
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post.html
2-6、米中関係の進展は東アジアの平和に役立つ
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_5428.html
2-7、中国共産党による中国の民主化過程の可能性
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_3865.html
ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」から
Tweet
中国の民主運動家、人権活動家の劉暁波氏がノーベル平和賞授与してもう一ヶ月近く時間がたった。当時は彼のノーベル賞受賞に慌てて、中国政府は劉暁波氏へのノーベル平和賞授与を批判した。このみっともない振る舞いをした中国政府のニュースが日本では報道されていた。尖閣列島問題で、約1000名の日本人招待学生の招待を突如として取りやめただけに、その大人気ない中国政府の対応と相まって、今夏にノーベル平和賞への対応も、中国政府の失態として後々の人々に語られるであろう。
劉暁波氏が中国国内で中国の民主化を訴え、一党独裁体制を批判したことは、勇気ある行為として評価できるだろう。また彼が民主主義社会の規則を提案したことなどで、11年の実刑判決を受けて刑務所に投獄されていることも、このノーベル平和賞の受賞によって明らかになったので、国際社会から人権活動家の劉暁波氏への弾圧に批判的注目を集めている。今回のノーベル平和賞の意味は、その辺にあるのかもしれない。
しかし、歴史を振り返ると、中国を植民地化した列強及び大日本帝国との侵略戦争と戦い、植民地支配から中国を開放し、貧困と飢え、奴隷当然の扱いを受けていた中国人民を救ったのは毛沢東率いる中国共産党である。そして、毛沢東の大躍進や文革の国内大混乱を収拾し、改革開放路線を展開し、今日の豊かな国に向かう中国が誕生させたのも周恩来を尊敬していた鄧小平率いる中国共産党の力である。こうして現在、世界第二の経済大国が成立し、多くの中国人観光客が日本にやってくるのである。
そして、さらに中国共産党は、国を豊かさにし、経済を発展させようとしている。
2010年ノーベル平和賞授与者劉暁波氏は、まさしく、豊かになった中国が生んだ次の世代への掛け渡し人のように思える。
そして彼へのノーベル平和賞は、新しい中国の国の形を予告する課題のように思える。つまり、彼も中国を愛する一人であり、多分、毛沢東や周恩来と同じぐらい愛国者の一人なのかもしれない。
だから、人権侵害の国、中国というイメージでなく、人権侵害を訴える人民を持つ中国という観点から、政治指導者の動向でなく、人民中国の姿を理解したいと思った。
経済的豊かさは人々の自由な活動によって生み出される。経済的豊かさが、次の政治的民主主義を実現する基礎となると思える。
今回の人権問題を一面的に観るのでなく、中国の歴史の流れのなかでトータルに理解し、日本の社会常識から判断するのでなく、中国の社会、そしてその中での人権活動家の劉暁波氏の理解と、中国政府の人権迫害の一面だけでなく、貧困と飢餓から救われた人民の生活問題(これも人権問題の一つである以上)も含めて考えなければならないだろう。
勿論、劉暁波氏への人権侵害は国際社会から批判されるべきであるし、中国政府は速やかに劉暁波氏を釈放すべきであろう。国内法によって裁かれた人物がノーベル平和賞授与されたことを受け止めるべきだろう。
もし、そのことが出来なければ、大国中国の国際的信頼をそこなうだろう。そして大人気ない現在の中国政府の対応は顰蹙(ひんしゅく)をかうだろう。それは、あまり得策ではないように思う。
参考
三石博行「中国の近代化、民主化過程を理解しよう」
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_1850.html
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------
2、日中関係
2-1、「日中友好に未来あり」)
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post.html
2-2、中国の人権問題で思うこと
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_03.html
2-3、経済的発展か軍事的衝突か 問われる東アジアの政治的方向性
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_13.html
2-4、中国の近代化・民主化過程を理解しよう
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_1850.html
2-5、中国との経済的協力関係の展開と中国への軍事的脅威への対応の二重路線外交を進めよ
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post.html
2-6、米中関係の進展は東アジアの平和に役立つ
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_5428.html
2-7、中国共産党による中国の民主化過程の可能性
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_3865.html
ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」から
Tweet
日中友好に未来あり
三石博行
日中友好運動と反日反中運動
尖閣列島での中国漁船衝突事故があって世論が大騒ぎしている最中、10月2日から3日まで、吹田市日中友好協会と西日本中国留学生学友会が主催し、吹田市、吹田市国際交流協会が協賛して、「留学生との交流会」が吹田市自然体験交流センターで開催された。私は、友人の吹田市日中友好協会理事であるE氏から、私の所属している大学への協力要請を受け、学長や副学長に相談して、学生の参加を呼びかけた。
当日、10月2日、私も交流会の会場に行ってみた。大阪大学を始めとして吹田市にある大学のクラブ、京都芸術大学の演奏クラブ、地域のボランティア団体が中国からの留学生を中心とした吹田市の大学に留学している約130名の学生の前で音楽やダンスなどを披露した。中国の留学生も歌や楽器で参加した日本の学生や市民に答えた。
尖閣列島問題で両国が厳しい状況にある中でこそ、市民の草の根の国際交流運動の意味があるのだと感じた。つまり、国が国土問題でもめたところで、それは長い時間をかけて解決してゆく外交上の課題である。しかし、両国の友好関係は、それよりも長い歴史の上に成立しており、また、それよりも日常的な生活の場で実現しているものである。その友好の流れを誰も止めることは出来ない。
縮まる日中文化格差・若ものたちの世界
このイベントに参加していた中国の学生の横に座り、共にイベントを楽しみながら、1973年に確か大阪の生野区で日中友好協会が主催した訪日団歓迎集会に、日中友好協会運度をしていたI氏に誘われて参加したことを思い出していた。あの当時、中国の人々はみんな人民服だった。女の人の髪型もみんなオカッパスタイルだった。男性もみんな短く髪の毛を刈り上げていた。見るからにストイックなイメージだった。
このイベント会場の中国留学生達は、殆ど日本の学生と変わらない服装や髪型をしていた。当時の人民服の訪日団の労働者たちとまったくちがう雰囲気、そして歌う音楽も日本と若者が歌っているような音楽と変わらない。あれから30年の時間が流れの中で、中国の人々の姿は大きく変化した。彼らの自由な服装とヘアースタイルをした彼らに、あの当時の人民服を着せることは不可能だろう。
改革開放は、中国国内の経済を活発にし、資本主義化し、多くの人々が豊かさを手に入れ、若者の多くが大学で学び、多くの学生が国外留学し、日本にも来て、結果的に日本との文化的格差を縮めた。
豊かな生活を獲得することが解決の糸口
現在、中国の各地で広がる反日運動、その主役が学生であると言う。
考えてみれば、その中国各地で学生が行う反日運動、日本での尖閣列島中国漁船衝突事故を巡る中国政府の対応への反発と反中国運動、吹田市での中国留学生歓迎イベント、そして多分中国での日本人との家族的な付き合い等々、この地平から本当の日中友好関係が生まれるのだと思う。
今までは、中国からの友好活動は、官製型だったともいえる。日中戦争当時の旧日本軍(大日本帝国)による侵略戦争と国土分断(満州国)による中国人の莫大な被害。その戦争の後に、捕虜となった日本兵への寛大な対応、それはあの偉い周恩来がトップにたって、つまり中国共産党の指導の下で行われた官製型の日中友好活動ではなかったか。
周恩来の非常に理想的な、そして戦略的な日中友好のための捕虜政策、その立派過ぎる模範をまるで中国の典型とした我々日本人の大きな誤解が、今日の反日運動を理解できなくしているのかもしれない。
何しろ、戦中時代、日中戦争のときに、どれだけ多くの中国人が犠牲になったか。今でも、日本人を許すことが出来ない人がいても不思議ではないだろうか。
しかし、日本人で今、アメリカをうらんでいる人がどれだけいるだろうか。東京空襲や広島と長崎の原爆投下を例にとっても無差別爆撃で多くの日本人を殺害した歴史は消えないし、それはアメリカが行った戦争犯罪であることは否定できないだろう。
だが、戦後の日本人が手にした豊かさ、そしてその豊かさを実現できた自信が、多分、あの憎しみを超える力を与えているのだと思う。日本人の殆どがアメリカの協力で、今日の日本の豊かだがあることを知っているのだ。そのことが、戦時中の悲惨な出来事をいい続ける意味を失わせていることは確かである。
この我々の経験から、中国国民の生活が豊かになることによってしか、日中戦争の悲惨な歴史を中国の国民がのり超える方法を見つけ出すことが出来きると考える。中国の経済的発展と国民の豊かな生活に日本が寄与することが、日本が行った過去の戦争の傷跡を癒す方法となる。
すでに、これまで日本は中国の経済発展に貢献してきた。そして、これからは中国と共に豊かな東アジア経済共同体を創る努力を続けることであろう。それが中国(韓国も含めて)日本がこれから出来る、過去へのもっとも有効な謝罪方法である。今まで、日本政府はそれを(中国の経済発展の支援を)し続けてきた。その路線を、経済発展する中国とさらに相互の国が繁栄する方向で、展開する必要があるだろう。ここで、私が言うまでもなく、すでに日本政府はその方向で外交の舵を取っているのである。
日本人の国際理解力を鍛えよう
世界中、どこでも国家というものは常に、領土問題を抱えている。国とはそんな存在だ。双方の国が双方の領土をつねに主張しあうのは国というものがあるためだ。尖閣列島問題で国民は驚くことはない。またやっているというぐらいでいいのだろう。これは、そんなに簡単に解決しないだろうし、長い時間が必要だ。
つまり、この領土問題が外交の入り口なのだ。領土問題から本当の国と国の関係が始まるのである。尖閣列島も竹島も、北方領土も日本は堂々と自分の領土だと主張し続ければいいし、それで、中国、韓国やロシアと外交の始まりに過ぎない。
人権問題も、日本の立場、つまり日本は一応日本国憲法で国民主権、基本的人権尊重、民主主義国家を原則にしている。中国は共産党一党国家である。その二つの政治体制に良いも悪いもない、それは歴史的に確立した制度で、現在の制度で、永遠未来につながりもしないし、永遠過去からにもつながらない。その違いを認め合って、現在の日中両国の外交が生まれ、行われる。
中国の民を貧困と大日本帝国の植民地支配から開放したのは毛沢東を先頭にした中国共産党である。中国共産党がなければ、現代の中国はない。そして、現代の中国の経済発展を導いたのも鄧小平を中心とする中国共産党である。中国の共産党一党支配を批判する前に、その長く苦しい中国人民の歴史を知らなければならない。それが事実で、そこから全てが始まるからである。
つまり、国が異なれるということは、国の成り立ちの歴史も制度も違うのであるから、それを相互に認め合って外交は成立する。つまり、他の国の内政に対して良いとか悪いとかという問題でなく、どうその異なる制度や法律をもつ国と共存するかということが問題となる。
そして、もし日本人がその国で仕事をするなら、まず日本人を守ること、それが日本が中国と取り決めなければならないことである。多く日本企業が中国に進出し、多くの日本人が働いている。その現状で、日本人の安全を中国政府に求めることがまず問われる。今回、中国側は、フジタ建設の現地社員を逮捕した。その行為は、中国にとって大きな誤りを犯したことを意味するだろう。国際的な視点からしても、中国側の主張は受け入れられないだろう。
日本政府は堂々と国際的視点から、自ら主張を言い続ければいい。そして、同時に関係を続ける努力を払うことだろう。どの点を、お互いを認め合うか、どう利害関係(当然存在している)に折り合いをつけるかという議論にすべきだろう。現実に日本政府はそれを実行している。
一方から他方への、解釈を前提にすると、多分、違いばかりが気になる無毛な議論になる可能性があることを双方、日本政府も中国政府の理解している。
今後、我々が真剣に問題にすべきことは、日本人の国際理解力ではないだろうか。つまり、国境問題など、どこでもある問題をまるで致命的問題が発生したかのように考える我々の国際的視野を問題にしなければならないだろう。
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------
2、日中関係
2-1、「日中友好に未来あり」)
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post.html
2-2、中国の人権問題で思うこと
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_03.html
2-3、経済的発展か軍事的衝突か 問われる東アジアの政治的方向性
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_13.html
2-4、中国の近代化・民主化過程を理解しよう
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_1850.html
2-5、中国との経済的協力関係の展開と中国への軍事的脅威への対応の二重路線外交を進めよ
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post.html
2-6、米中関係の進展は東アジアの平和に役立つ
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_5428.html
2-7、中国共産党による中国の民主化過程の可能性
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_3865.html
ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」から
Tweet
日中友好運動と反日反中運動
尖閣列島での中国漁船衝突事故があって世論が大騒ぎしている最中、10月2日から3日まで、吹田市日中友好協会と西日本中国留学生学友会が主催し、吹田市、吹田市国際交流協会が協賛して、「留学生との交流会」が吹田市自然体験交流センターで開催された。私は、友人の吹田市日中友好協会理事であるE氏から、私の所属している大学への協力要請を受け、学長や副学長に相談して、学生の参加を呼びかけた。
当日、10月2日、私も交流会の会場に行ってみた。大阪大学を始めとして吹田市にある大学のクラブ、京都芸術大学の演奏クラブ、地域のボランティア団体が中国からの留学生を中心とした吹田市の大学に留学している約130名の学生の前で音楽やダンスなどを披露した。中国の留学生も歌や楽器で参加した日本の学生や市民に答えた。
尖閣列島問題で両国が厳しい状況にある中でこそ、市民の草の根の国際交流運動の意味があるのだと感じた。つまり、国が国土問題でもめたところで、それは長い時間をかけて解決してゆく外交上の課題である。しかし、両国の友好関係は、それよりも長い歴史の上に成立しており、また、それよりも日常的な生活の場で実現しているものである。その友好の流れを誰も止めることは出来ない。
縮まる日中文化格差・若ものたちの世界
このイベントに参加していた中国の学生の横に座り、共にイベントを楽しみながら、1973年に確か大阪の生野区で日中友好協会が主催した訪日団歓迎集会に、日中友好協会運度をしていたI氏に誘われて参加したことを思い出していた。あの当時、中国の人々はみんな人民服だった。女の人の髪型もみんなオカッパスタイルだった。男性もみんな短く髪の毛を刈り上げていた。見るからにストイックなイメージだった。
このイベント会場の中国留学生達は、殆ど日本の学生と変わらない服装や髪型をしていた。当時の人民服の訪日団の労働者たちとまったくちがう雰囲気、そして歌う音楽も日本と若者が歌っているような音楽と変わらない。あれから30年の時間が流れの中で、中国の人々の姿は大きく変化した。彼らの自由な服装とヘアースタイルをした彼らに、あの当時の人民服を着せることは不可能だろう。
改革開放は、中国国内の経済を活発にし、資本主義化し、多くの人々が豊かさを手に入れ、若者の多くが大学で学び、多くの学生が国外留学し、日本にも来て、結果的に日本との文化的格差を縮めた。
豊かな生活を獲得することが解決の糸口
現在、中国の各地で広がる反日運動、その主役が学生であると言う。
考えてみれば、その中国各地で学生が行う反日運動、日本での尖閣列島中国漁船衝突事故を巡る中国政府の対応への反発と反中国運動、吹田市での中国留学生歓迎イベント、そして多分中国での日本人との家族的な付き合い等々、この地平から本当の日中友好関係が生まれるのだと思う。
今までは、中国からの友好活動は、官製型だったともいえる。日中戦争当時の旧日本軍(大日本帝国)による侵略戦争と国土分断(満州国)による中国人の莫大な被害。その戦争の後に、捕虜となった日本兵への寛大な対応、それはあの偉い周恩来がトップにたって、つまり中国共産党の指導の下で行われた官製型の日中友好活動ではなかったか。
周恩来の非常に理想的な、そして戦略的な日中友好のための捕虜政策、その立派過ぎる模範をまるで中国の典型とした我々日本人の大きな誤解が、今日の反日運動を理解できなくしているのかもしれない。
何しろ、戦中時代、日中戦争のときに、どれだけ多くの中国人が犠牲になったか。今でも、日本人を許すことが出来ない人がいても不思議ではないだろうか。
しかし、日本人で今、アメリカをうらんでいる人がどれだけいるだろうか。東京空襲や広島と長崎の原爆投下を例にとっても無差別爆撃で多くの日本人を殺害した歴史は消えないし、それはアメリカが行った戦争犯罪であることは否定できないだろう。
だが、戦後の日本人が手にした豊かさ、そしてその豊かさを実現できた自信が、多分、あの憎しみを超える力を与えているのだと思う。日本人の殆どがアメリカの協力で、今日の日本の豊かだがあることを知っているのだ。そのことが、戦時中の悲惨な出来事をいい続ける意味を失わせていることは確かである。
この我々の経験から、中国国民の生活が豊かになることによってしか、日中戦争の悲惨な歴史を中国の国民がのり超える方法を見つけ出すことが出来きると考える。中国の経済的発展と国民の豊かな生活に日本が寄与することが、日本が行った過去の戦争の傷跡を癒す方法となる。
すでに、これまで日本は中国の経済発展に貢献してきた。そして、これからは中国と共に豊かな東アジア経済共同体を創る努力を続けることであろう。それが中国(韓国も含めて)日本がこれから出来る、過去へのもっとも有効な謝罪方法である。今まで、日本政府はそれを(中国の経済発展の支援を)し続けてきた。その路線を、経済発展する中国とさらに相互の国が繁栄する方向で、展開する必要があるだろう。ここで、私が言うまでもなく、すでに日本政府はその方向で外交の舵を取っているのである。
日本人の国際理解力を鍛えよう
世界中、どこでも国家というものは常に、領土問題を抱えている。国とはそんな存在だ。双方の国が双方の領土をつねに主張しあうのは国というものがあるためだ。尖閣列島問題で国民は驚くことはない。またやっているというぐらいでいいのだろう。これは、そんなに簡単に解決しないだろうし、長い時間が必要だ。
つまり、この領土問題が外交の入り口なのだ。領土問題から本当の国と国の関係が始まるのである。尖閣列島も竹島も、北方領土も日本は堂々と自分の領土だと主張し続ければいいし、それで、中国、韓国やロシアと外交の始まりに過ぎない。
人権問題も、日本の立場、つまり日本は一応日本国憲法で国民主権、基本的人権尊重、民主主義国家を原則にしている。中国は共産党一党国家である。その二つの政治体制に良いも悪いもない、それは歴史的に確立した制度で、現在の制度で、永遠未来につながりもしないし、永遠過去からにもつながらない。その違いを認め合って、現在の日中両国の外交が生まれ、行われる。
中国の民を貧困と大日本帝国の植民地支配から開放したのは毛沢東を先頭にした中国共産党である。中国共産党がなければ、現代の中国はない。そして、現代の中国の経済発展を導いたのも鄧小平を中心とする中国共産党である。中国の共産党一党支配を批判する前に、その長く苦しい中国人民の歴史を知らなければならない。それが事実で、そこから全てが始まるからである。
つまり、国が異なれるということは、国の成り立ちの歴史も制度も違うのであるから、それを相互に認め合って外交は成立する。つまり、他の国の内政に対して良いとか悪いとかという問題でなく、どうその異なる制度や法律をもつ国と共存するかということが問題となる。
そして、もし日本人がその国で仕事をするなら、まず日本人を守ること、それが日本が中国と取り決めなければならないことである。多く日本企業が中国に進出し、多くの日本人が働いている。その現状で、日本人の安全を中国政府に求めることがまず問われる。今回、中国側は、フジタ建設の現地社員を逮捕した。その行為は、中国にとって大きな誤りを犯したことを意味するだろう。国際的な視点からしても、中国側の主張は受け入れられないだろう。
日本政府は堂々と国際的視点から、自ら主張を言い続ければいい。そして、同時に関係を続ける努力を払うことだろう。どの点を、お互いを認め合うか、どう利害関係(当然存在している)に折り合いをつけるかという議論にすべきだろう。現実に日本政府はそれを実行している。
一方から他方への、解釈を前提にすると、多分、違いばかりが気になる無毛な議論になる可能性があることを双方、日本政府も中国政府の理解している。
今後、我々が真剣に問題にすべきことは、日本人の国際理解力ではないだろうか。つまり、国境問題など、どこでもある問題をまるで致命的問題が発生したかのように考える我々の国際的視野を問題にしなければならないだろう。
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------
2、日中関係
2-1、「日中友好に未来あり」)
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post.html
2-2、中国の人権問題で思うこと
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_03.html
2-3、経済的発展か軍事的衝突か 問われる東アジアの政治的方向性
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_13.html
2-4、中国の近代化・民主化過程を理解しよう
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_1850.html
2-5、中国との経済的協力関係の展開と中国への軍事的脅威への対応の二重路線外交を進めよ
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post.html
2-6、米中関係の進展は東アジアの平和に役立つ
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_5428.html
2-7、中国共産党による中国の民主化過程の可能性
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_3865.html
ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」から
Tweet