畑村洋太郎の失敗学の基礎知識に学ぶ
三石博行
危機的状況を前にして、何が東電にとって問題か
3月14日23時のNHKニュースで東電福島第一原子力発電所(以後、福島第一原発と呼ぶ)の3号機で進行していた事故の説明を東電の社員が行っていた。一体何を話しているか不明であった。NHKのニュースでは解説者がそれを翻訳していた。つまり、原子炉内の燃料棒が完全に冷却水から露出したと言うことらしい。
重大な事故を起し、さらにその事態が深刻化しつつある現実の中で、東電の取った対応に絶望感と怒りが込み上げてきた。東電が問題にしていることと国民が問題にしていることのずれが余りにも大きいのだ。つまり、東電は事故の実態を出来るだけ小さく報道したい、出来たら何も発表したくないという考え方で、記者会見の場でも実態が分からないように説明するという態度を取った。
国民はともかく何が起こっているか知りたい。そして早く危険な事態を回避したいと考えている。そして、政府と東電に何が起こったかの説明を求めているのである。
それに対して東電は、国民に説明しても専門的なことは理解できないだろうし、また説明している時間はないと考えているのだろうか。これは、かなり善意な解釈だ。もし、仮に東電がそう考えて、説明する時間を惜しんで、事実を簡潔に話さなかったのだとしたら、それでも、大きな問題が指摘されるだろう。
つまり、東電はこの事故は自分たちの問題であり、自分たちが解決すると思っているようである。しかし、もし重大事故に発展するならこれは日本社会にとどまらず世界の問題となる。その重大さが理解されているなら、「説明している時間はない」という考えも態度も出てくるはずはないだろう。
東電の態度に隠されているものは何か。それを知る必要がある。
畑村失敗学の思想
畑村洋太郎東大名誉教授(以後、畑村と呼ぶ)は『失敗学の法則 決定版』の第1章「失敗学の基礎知識」の中で、失敗結果を分析する方法とそれに対する対応(解決方法)について述べている。
失敗とは主観的(共同主観的・社会的)に期待値から低く評価された結果である。言い換えると、高い期待値を持つ(完璧な結果を望む)人々にとって、失敗は行為の結果として必然的に付随する評価であるとも言える。
失敗に関する考え方を変えなければならない。我々が問題にしたいことは、失敗しないのでなく、失敗を活かす技術を身につけるという発想に立つこと、これが失敗学を始める基本姿勢である。つまり、失敗を行為に付随した確率(期待値からのずれの割合)として理解し、それを修正改善する考え方と技術を体系化したのが畑村洋太郎の失敗学である。
失敗を分析する方法として、畑村は徹底した帰納法的思考を展開する。つまり、失敗という現象から失敗の原因は理解されないということ、言い換えると失敗の原因は全く誰にも見えないという現実を意味する。そのことを畑村は「逆演算法」と呼んでいる。つまり、失敗の分析をする場合に失敗の原因とは何かと考える発想を止めて、結果(失敗)の現実を帰納法(逆演算法)敵に分析する方法を学ばなければならない。
畑村は、失敗の原因は「要因」と「からくり」から成り立っていると説明している。要因とは、失敗(行為の結果)を導く状況を意味する。つまり、社会、経済、環境等々の要素を含むものである。からくりとは失敗行為を生み出す側の行為様式を意味する。つまり、考え方、性格、体質、習慣、判断基準等々を意味する。
そして失敗学では、常にシミュレーションが大切にされる。所謂、理工系の研究室で行われている計算機実験である。その方程式は「からくり」という関数(プログラム)に要因という係数を入れて、その係数の数値を変化させてゆく。そのことで関数からはじき出される現象を観測するという方法である。
もし、現実の現象(失敗結果)が、仮定した関数(からくり)と仮定した係数(要因)によって計算された値に近いなら、その二つの仮定によって失敗の脈絡が説明される。
失敗学は、限りなく統計学的方法を前提とする。失敗も行為に付随する確率現象であり、その評価、つまり失敗の原因説明も、観測者(失敗学で失敗を分析する人)が、仮定した失敗の「からくり」と「要因」の関係式から生じた値に対する検定結果として、失敗の脈絡(生じる理由)を分析評価するという方法を取る。そのため、失敗学は絶対的な判断や固定した考え方を避ける。つまり畑村の失敗学での失敗概念は状況によって異なる事象(脈略)であると理解されているのである。
東電に対応を任せるな
今回の東電の問題に対して、畑村は『失敗学の法則 決定版』第1章「失敗学の基礎知識」の「④失敗が拡大再生産する」の中で、1995年の動燃・核燃料開発事業団(現在 核燃料サイクル開発機構)の高速増殖炉「もんじゅ」で発生した事故の例で明確に説明している。
畑村は失敗の脈略が理解されない限り、同じ失敗を繰り返すことになると述べている。言い換えると、同じ失敗を繰り返している状態は、失敗の脈略を理解していないと言うことである。1995年のもんじゅでのナトリウム漏れ事故では、動燃はデータを隠すという失敗を繰り返した。何故なら、情報公開をしたくないという動燃の企業体質(からくり)を自覚し変えようとしなかったからである。
今回の東電福島一号原発事故でも全く同じことが生じている。つまり、「大丈夫です」と言った瞬間から重大事故が連続的に発生し続けている。東電に情報を隠す体質(からくり)がある以上、今後も同じ失敗を繰り返すことは予測できる。
この東電の情報隠しの企業体質は以前から社会的に批判されていた。例えば、花岡尚之氏は2002年に東電が原発の定期検査記録を偽造していた事実を研究し、東電は重大な事故を起すのではないかと警告している。それからすでに時間が経過したが、花岡氏の調査研究と警告は活かされないまま、今日に至った。そして、花岡氏の指摘が不幸にも的中したのである。残念なことである。
国の取るべき3つの対応
今すぐに、東電の体質を変えることはできない。そして、今すぐに事故への対応を急がないと重大事故になることは避けられない。そこで、国は以下の対応を早急に行うべきである。
1、 すでに15日朝、国は対応を東電に任せずに国も一体になった対策本部を創った。この対策本部に専門家を入れる。特に、動燃の事故を経験した専門家、外国の専門家なども入れる。例えば、畑村洋太郎氏のような失敗学の専門家も入れる必要があるのではないだろうか。
2、 対策は二つに分けて同時並行して進めるべきである。つまり、二つの専門チームを作り対応する。一つは安全管理、つまり、今の原発事故を最小限に食い止める作業、もう一つは危機管理、つまり最悪の事態を予測し、住民の避難、核汚染への対応、近隣諸国との交渉、核事故への救援体制等々
3、 情報を徹底して公開すること。そして、報道公開には専門報道官を置き、政府幹部、特に枝野官房長官が報道行為に時間と労力を割かないための報道対応を早急に行うこと。
以上である。
参考資料
日本経済新聞 2011年3月16日朝刊「社説 原子力事故の拡大阻止に総力をあげよ」
畑村洋太郎 『失敗学の法則 決定版』文芸文庫2005年6月
花岡尚之 「東電虚偽記載事件にみる原子力発電の社会的な受容」日本福祉大学情報社会学論集 第10巻 2008.11、pp41-52
http://www.n-fukushi.ac.jp/kenken/jron/kiyou/no10/hanaoka.pdf
三石博行 「畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』第一章「失敗学の基礎知識」のテキスト批評」
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_6897.html
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ブログ文書集 「東日本大震災に立ち向かおう」の目次
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1、今、何が問われているか
1-1、日本国民全ての力を集めて震災罹災者を救援しよう ‐東日本大震災への救援・二次防災活動を担う機動部隊の構築‐
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1-2、東電原発事故 国は徹底した情報開示と対策を取るべきである ‐畑村洋太郎 失敗学の基礎知識に学ぶ-
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_16.html
1-3、災害に強い社会を作るための主な三つの課題‐今までの震災への対応を検証し、即、それを活かそう‐
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_8089.html
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修正(誤字 文書追加)2011年3月17日
1 件のコメント:
コメントをいただきました。匿名さんのコメントを公開させて頂きます。(三石)
「匿名で申し訳ございません。国民のとるべき対応は、どうするべきなのでしょうか?事故が起こる前の平穏だった日本は崩れたにも関わらず、今私達はどこかその現実を受け入れないまま時間が解決してくれるのを待っている気がしてなりません。このまま我々国民は、政府という飼い主に守られながら、ただこの現実に怯え震える羊のままでいいのでしょうか?また、震え危機感を持っているならいいですが、今回の事故を全く別世界のことのように現実を受け入られないまま過ごしている人もいます。私もその1人であり、現実であることは認識出来ていても、皆今まで通りの様な生活をし(被災者の方には大変申し訳ない)、まるで今回の出来事は我が身ではなく「現実ではあるが自分とは遠い所の出来事」と認識しているように思います。このまま我々国民は事態が終息する事を願い、待つべきなのでしょうか?行動せずとも我々国民に、光はあるのでしょうか?どうも長々と申し訳ございませんでした。」
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