大飯原発再稼働の政府方針を問う
三石博行
政府の大飯原発再稼働は正しいのか
今日のニュースで民主党政権は大飯原発再稼働を進めることを決めたらしい。まだ、福島原発事故の原因とその対策の政府見解も出されていない。福島での原発事故に対する国民の不安は大きい。
この国民の多くは、また原発事故が起ったら福島のように、住めない場所になるのではないかという不安を持っている。もし、福井県の大飯原発を再稼働させたいのなら、その不安を取り除く努力をすべきである。
もし、大飯原発で福島と同じような事故が起るなら、その被害は京都市や大阪府にも及ぶ。しかも、近畿の水がめと言われる琵琶湖が放射性物質に汚染される。
政府や関電は、今までのように「福島のような事故は起りません」と説明しているようだが、この説明の繰り返しによって東電福島第一原発で事故が発生したことを、もうすでに忘れているようである。もし、福井で原発事故が起ると、この国は再生不可能な状態になるだろう。
その危険性が百万分の一以下であっても、危険な再稼働をしてはならないのではないか。それが、国民の生活を守る立場にある人々の取るべき態度だと思うが。
つまり、国民の生活よりも、安定した電力供給が優先されるようである。それが最も国民の生活を守るものらしい。では、福島の放射能汚染はどうだろう。あの汚染された地域が失った経済基盤は、生活の場は、その失った経済力(DNP)を真面目に計算しただろうか。
石田紀郎さんからの緊急メールが来る
「1000万人署名・京都の会の皆さん
4月19日現在の署名集約数は42000筆です。
全国の集約数は631万筆に達したようです。1日も早く700万に。
昨日(4月18日)から、使い捨て時代を考える会が中心となって、関電京都支社前で
大飯原発再稼働阻止の座り込みが始まりました。槌田劭さんはハンストを実施中です。
5月5日までの、月曜日から金曜日まで、9時から16時まで座り込みを続けます。
10分でも1時間でも結構ですから、ぜひ一緒に座っていただけませんか。
1000万人署名活動も同時に実施しています。機材はすべてそろえていますので、
ぜひともご参加ください。
小生(石田紀郎氏)も、昨日今日と午前中だけですが一緒に座ってきました。
ぜひぜひ足を運んでください。お願いします。
追伸
座り込みは、関電の営業時間、9時から18時の間で行っています。
よろしくお願いします。
さようなら原発1000万人署名・京都の会
代表 石田紀郎 」
関電京都支社前で大飯原発再稼働阻止の座り込み
「使い捨てを考える会」や「バイバイ原発・京都」のメンバーによって、関電京都支社前で大飯原発再稼働阻止の座り込みが始まっている。「使い捨てを考える会」の代表 槌田劭さんがハンストを実施しているようである。
私も、このリレー座り込みに参加する予定である。今から、出かけることにしたい。年配なのに気持ちだけは若い槌田劭さんのことも心配だ。
YouTube情報
その他の新聞情報
京都民報Web 再稼働にハンストで抗議 関電京都支店前で「使い捨て時代を考える会」ら
京都新聞 関電京都支店前でハンストリレー座り込み始まる
朝日新聞 「再稼働NO」ハンスト 関電前
ばいばい原発京都 市民は再稼働を許さない
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関連ブログ文書集
三石博行 ブログ文書集「市民運動論」
三石博行 ブログ文書集「人権学試論」
三石博行 ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」
三石博行 ブログ文書集「福島原発事故から立ちあがる市民」
三石博行 ブログ文書集「持続可能なエネルギー生産社会を目指すために」
2012年4月19日 誤字修正
(120419c)
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哲学に於いて生活とはそのすべての思索の根拠である。言い換えると哲学は、生きる行為、生活の場が前提になって成立する一つの思惟の形態であり、哲学は生きるための方法であり、道具であり、戦略であり、理念であると言える。また、哲学の入り口は生活点検作業である。何故なら、日常生活では無神経さや自己欺瞞は自然発生的に生まれるため、日常性と呼ばれる思惟の惰性形態に対して、反省と呼ばれる遡行作業を哲学は提供する。方法的懐疑や現象学的還元も、日常性へ埋没した惰性的自我を点検する方法である。生活の場から哲学を考え、哲学から生活の改善を求める運動を、ここでは生活運動と思想運動の相互関係と呼ぶ。そして、他者と共感しない哲学は意味を持たない。そこで、私の哲学を点検するためにこのブログを書くことにした。 2011年1月5日 三石博行 (MITSUISHI Hiroyuki)
2012年4月19日木曜日
詩的に表現することとは何か 詩に取って真実とは何か
三石博行
詩人と呼ばれる言葉の詐欺師について
本当のことばは人に言いたいから生まれるのではない。
自分に言いたいから、言わなければならないから生まれるのだ。
そもそも詩人なるものが、本当の言葉など語れるものか。
そう思った。
これは、全ての詩人への挑戦状のようなものだ。
詩など書くな。詩などで表現するな。詩などで人間の実存を語れると思うのか。
そう感じながら、そこに詩が存在した。
私は密かに思ったことがあった。それは、詩人は最も詩人のことばが嫌いなのではないかという疑惑である。
何故なら、詩に隠されたことばの陰謀を詩人であるために、良く知り尽くしているからである。
その意味で、詩人達はどうしてお互いの詩を評価し合っているのだろうか。
まるで、その事実から逃げているようだ。
詩人は、なんでもない鉄を金だと言いくるめる錬金術師に似ているのだ。
詩人は、偽札作りに長けたことばの詐欺師である。
だから、私の中から詩が、勝手に生まれることに、激しい嫌悪を感じるのだ。
詩的に表現するという闇に実存を葬る行為について
一
詩人は一言で世界を表現してしまう。
直観的に話される言葉の矢は、真実の的のど真ん中に、ザックリ刺さる。
それ以外に、別のことばを必要としない世界
それ以外は、沈黙の中に安住することを許される。
私は、その詩人達の恐るべき手法の裏に隠されている計算式を探そうとする。
私は、その詩人達の冷たい言葉の遊びに含まれる麻酔効果を暴こうとする。
だから、私は、詩人達のように書きたくないのだ。
この世界を。
それは、
表現するたびに、言葉の本心が消され
表現するたびに、沈黙の世界が騒音に乱される。
二
詩人は巧妙に言葉の音色や色彩を選ぶ
感性的に配列された言葉の行列式、こころの奥底に沈む貝を、掘り当てる。
それ以上の、青い文脈の糸が見つかるのだろうか。
それ以上の、静かな和音の網を探し出すことができるのか。
私は、その詩人達の並はずれた言語図式を解明する計算能力を知っている。
私は、その詩人達の論理化された主観性を装った言葉の配置を感じる。
だから、私は、詩人のように、書きたくなかった。
この私の実存を。
それは
表現するたびに、表現された言葉の中にしか見えない自己
表現するたびに、解離する表現された自己と表現する私
三
もう一つの詩が生まれる。
そして、その詩人はこう言うだろう。
お前は、何を、勇ましく、また巧妙に語ろうとしているのか。
今あるこの生活に、そのむなしいことばは必要なのか。
ただ、静かに注意深く今を見つめる必要はないのか。
昨日会った人々の群れのように、静かな歩きで今日を踏みしめたいとは思わないのか。
見よ。今ある本当の姿を。
降り注ぐ猛毒の汚染の中を
降り積もった猛毒の汚染の上を
歩く姿を、ただ、歩き続ける人々の群れを。
四
そして、私は、この歌に出会ったのだ。
「おまえは歌うな
おまえは赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな
風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな
すべてのひよわなもの
すべてのうそうそとしたもの
すべてのものうげなものを撥(はじ)き去れ
すべての風情を擯斥(ひんせき)せよ
もつぱら正直のところを
腹の足しになるところを
胸さきを突きあげてくるぎりぎりのところを歌え
たたかれることによつて弾ねかえる歌を
恥辱の底から勇気を汲み取る歌を
それらの歌々を
咽喉をふくらまして厳しい韻律に歌いあげよ
それらの歌々を
行く行く人びとの胸廓(きようかく)にたたきこめ 」
中野重治も「おまえは歌うな」と歌ってみせた。
それが詩人の姿なのか。
もう詩は書かない。二度と書かない。
2012年4月19日 誤字修正
(120419b)
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詩人と呼ばれる言葉の詐欺師について
本当のことばは人に言いたいから生まれるのではない。
自分に言いたいから、言わなければならないから生まれるのだ。
そもそも詩人なるものが、本当の言葉など語れるものか。
そう思った。
これは、全ての詩人への挑戦状のようなものだ。
詩など書くな。詩などで表現するな。詩などで人間の実存を語れると思うのか。
そう感じながら、そこに詩が存在した。
私は密かに思ったことがあった。それは、詩人は最も詩人のことばが嫌いなのではないかという疑惑である。
何故なら、詩に隠されたことばの陰謀を詩人であるために、良く知り尽くしているからである。
その意味で、詩人達はどうしてお互いの詩を評価し合っているのだろうか。
まるで、その事実から逃げているようだ。
詩人は、なんでもない鉄を金だと言いくるめる錬金術師に似ているのだ。
詩人は、偽札作りに長けたことばの詐欺師である。
だから、私の中から詩が、勝手に生まれることに、激しい嫌悪を感じるのだ。
詩的に表現するという闇に実存を葬る行為について
一
詩人は一言で世界を表現してしまう。
直観的に話される言葉の矢は、真実の的のど真ん中に、ザックリ刺さる。
それ以外に、別のことばを必要としない世界
それ以外は、沈黙の中に安住することを許される。
私は、その詩人達の恐るべき手法の裏に隠されている計算式を探そうとする。
私は、その詩人達の冷たい言葉の遊びに含まれる麻酔効果を暴こうとする。
だから、私は、詩人達のように書きたくないのだ。
この世界を。
それは、
表現するたびに、言葉の本心が消され
表現するたびに、沈黙の世界が騒音に乱される。
二
詩人は巧妙に言葉の音色や色彩を選ぶ
感性的に配列された言葉の行列式、こころの奥底に沈む貝を、掘り当てる。
それ以上の、青い文脈の糸が見つかるのだろうか。
それ以上の、静かな和音の網を探し出すことができるのか。
私は、その詩人達の並はずれた言語図式を解明する計算能力を知っている。
私は、その詩人達の論理化された主観性を装った言葉の配置を感じる。
だから、私は、詩人のように、書きたくなかった。
この私の実存を。
それは
表現するたびに、表現された言葉の中にしか見えない自己
表現するたびに、解離する表現された自己と表現する私
三
もう一つの詩が生まれる。
そして、その詩人はこう言うだろう。
お前は、何を、勇ましく、また巧妙に語ろうとしているのか。
今あるこの生活に、そのむなしいことばは必要なのか。
ただ、静かに注意深く今を見つめる必要はないのか。
昨日会った人々の群れのように、静かな歩きで今日を踏みしめたいとは思わないのか。
見よ。今ある本当の姿を。
降り注ぐ猛毒の汚染の中を
降り積もった猛毒の汚染の上を
歩く姿を、ただ、歩き続ける人々の群れを。
四
そして、私は、この歌に出会ったのだ。
「おまえは歌うな
おまえは赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな
風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな
すべてのひよわなもの
すべてのうそうそとしたもの
すべてのものうげなものを撥(はじ)き去れ
すべての風情を擯斥(ひんせき)せよ
もつぱら正直のところを
腹の足しになるところを
胸さきを突きあげてくるぎりぎりのところを歌え
たたかれることによつて弾ねかえる歌を
恥辱の底から勇気を汲み取る歌を
それらの歌々を
咽喉をふくらまして厳しい韻律に歌いあげよ
それらの歌々を
行く行く人びとの胸廓(きようかく)にたたきこめ 」
中野重治も「おまえは歌うな」と歌ってみせた。
それが詩人の姿なのか。
もう詩は書かない。二度と書かない。
2012年4月19日 誤字修正
(120419b)
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直近の衆参両議院選挙で多数を占めた政党の党首を首相とする制度を提案する
立法機能改革のために
三石博行
今日も、二人の閣僚に問責決議案が提出された
今日の朝のニュース、二人の閣僚の問責決議案が参議院に出されるとのこと。
国民の反応は、色々と言うニュース。その通りだろうと思う。
明らかなことの一つとして、国会では常にこうした問責決議が提出されると言うこと。
北朝鮮のミサイル発射情報が遅れたと言えば、防衛大臣の問責決議、すぐに発表してそれに一つでも間違いがあったなら、これまた問責決議、一言一句の間違いも、即時判断の時間も、すべてが大臣の首を掛けた作業だとすると、この国では、毎日大臣をかえなければならない。
こうした状態を正常と呼んでいるのが現在の国会議員達の常識らしい。
国のことはどうなるのか。震災の対策は十分なのか。もう、国民は何も言わないぐらい絶望しているかもしれない。それでも、やっぱり、国会は政局論争の場であり、政党政治である以上、それを最も優先しているのは当然だと言うのかもしれない。
よくよく考えれば、二人の閣僚は、本当にその行政機関のトップ、大臣として適材であったのか。民主党政権の中でも、今までと同じように、国のためと言うよりも、別の理由で閣僚のポストが決まる仕組みが続いているのだろうかと我々は疑っている。
こうした考え方に対して、大臣のポストは名誉職なのだから、党内派閥の力関係によって、また、現政権を成立させた人々へのご褒美に与えられて当然でしょうという意見が聞こえてくるようだ。しかし、この習慣的な大臣ポスト決定の取り決めに対して、今の日本にはご褒美を与えるほどの余裕はないのではと言いたくなる。
問責決議の真の意味は、野田政権が進める消費税法を阻止するためのものであるのか。それとも、ともかく、解散しろと言っているのか。ますます、国会でのやり取りが不明で不可解なものになろうとしている。国会ほど国民生活からかけ離れた所に立っているものはない、それが、今の、日本の民主主義社会の姿である。
両院制の意味、55年体制の中での社会混乱の防止機能
新憲法に両院制が導入された経過について、「松本国務大臣が…、一院制では選挙で多数党が変わる度に前政権が作った法律をすべて変更し政情が安定しないことを指摘し、二院制の検討をホイットニー准将に約束させている」(Wikipedia)と説明してあった。
両院制を導入した理由については、「たとえ、1回の選挙で勝利し1院で過半数を取ったとしても、第二院があるため法改正を自由に行えない、法改正を自由に行うためには2回続けて選挙に勝利しなければならないという仕組みは、法律の改革の迅速性を犠牲にしながらも、間接民主主義の問題点である多数党が民意を離れて暴走することを防ぐのに有効であり、1回の選挙で勝ったからと言って暴走すれば2回連続では選挙に勝つことはできず、国民は多数党の行動を見ながら真に立法権を託せるか時を置いて第2院の選挙で決することができる。」(Wikipedia)と説明してあった。
そして、衆参両院制は戦後日本社会の安定性に寄与したと評価している。つまり、戦後55年体制の中での資本主義経済成長を推進する保守政党とそれに批判的で社会主義政策を導入しようとする革新政党との二極対立状態が生じる。その結果、一回の選挙結果によって政権交代が起り、そのため、今までの政策や法律が大きく変更される可能性が生じる。これらの制度的な変更によって社会的混乱が生じる可能性がある。その社会的混乱を両院制は防いだと評価しているのである。
両院議会制民主主義文化を創ること
経済や社会混乱を防ぎ民主主義(資本主義)社会を発展させ、安定した社会を創ることは敗戦で経済力や社会インフラを失った国家・日本の最優先課題であった。豊かな社会を建設するために、国民は敗戦の焼け野原から立ち上がった。そうして、多くの社会的矛盾や沖縄の人々や貧しい人々の犠牲の上に、豊かな社会を作り上げてきた。丁度、70年代後半に始まった中国の改革開放政策と同じように、50年代の日本でも、社会のコンセンサスの一つとして、豊かになれる人が先に豊かになることで、結果的に社会全体が豊かになれると信念があった。
その信念に支えられてきたものの一つが長期自民党政権であった。まるで、一党独裁の社会主義の国家のように日本では戦後60年間近く保守政権が続いた。この保守政権の一党独裁の歴史が終焉しようとしたのは1993年8月9日に成立した細川内閣である。しかし、その後、また自民党政権が復活し、2009年9月16日の連立政権(民主党、社民党と国民新党)の発足まで続いた。
言換えると日本の戦後民主主義社会では2回の政権交代の歴史しかないのである。現在の政治的混乱は、日本の民主主義社会の履歴から生まれている。民主主義システムを維持する政治文化が余りにも貧困なのだ。
政権を取ると言うことが、まるで権力を取るというイメージで受け取られている。そのため、政権与党が政権野党になると、それ以後の全ての政治生命が断たれたと思っているのかもしれない。野党になることの政治的役割と政治機能に関する考え方は、政権与党を長年続けていた自民党には存在しない。と同時に、政権与党になった民主党も、一回政権を取るとすべての政治権力を持てると信じているようだ。
こうした政権運営と野党運営の政党政治の文化の貧困さが、ねじれ国会が生じた場合に露出したのだと思う。今、最も大切な国会議員の活動の一つとして、両院議会制民主主義文化を創ることを挙げたい。そして、政局論争から、国民のための国会運営論争に視点を変えてはどうだろうか。そのために、全ての議員達は、もう一度(選挙の日のように)、誰のために政治があるのか、手を胸に当てて、確りと自問する必要がある。
国会は、ねじれ国会対策に真剣に取り組むべきである
直近の両院選挙で多数を取った政党の党首が首相となり、内閣を組織する
すでに以前、ブログでねじれ国会対策に対する提案、「直近の衆参両議院選挙のどちらかで多数を占めた政党の党首を内閣総理大臣とする提案」をしたのであるが、もう一度、その提案の意味を述べることにする。
例えば、2007年の参議院選挙で民主党が多数を占めた時、自民党政権は仮に衆議院で多数の議席数を持っていても、内閣を民主党に引き継ぐ。すると、民主党は参議院多数政党であるが、衆議院では少数である。簡単に衆議院によって内閣は解散を命じられる。そのため、民主党は自民党との連立政権を作るか、それとも他の政党との連立政権をつくり、政局の安定を計るしかない。
そして、2011年の参議院選挙で自民党が多数を占めた場合にも、同様なことを行う。つまり、自民党が内閣を組織する。自民党は衆議院で多数を占める民主党と連立政権を模索するか、それとも、他の政党、例えば共産党まで入れて、反民主党勢力の大連合をつくり政局を安定させるのか、選択をしなければならない。
この制度は、現在の法律で十分実行できる。小泉元首相や橋下大阪市長が提案している首相公選制度は憲法改正を伴う作業となる。首相公選制度は丁度大統領選挙と同じ、大統領は国家の長である。地方自治体では首長選挙が行われ、首長は国会によって行政機能の長として選ばれる。首相は国会が任命した行政機能の長であり、国家元首ではない。その意味で、首相公選制度を大統領選挙のように行うことには無理があるのではないだろうか。首相公選を実現するには、現在の両院議会制を取っている立法制度から検討しなければならない。
日本国憲法で定められた立法機関の制度上の問題として、首相公選制度が導入される実現性は低くなる。しかし、現在の国会の現状を解決するためには、何らかの改革が必要である。そのため、橋下氏は提案をしている。その提案の目的を高く評価しながら、出来るならもっと今の日本の政治制度の中で、もっと現実的な方法はないかと思った。その結論として、上記した決まり、つまり、議会での慣習を創ることを提案しているのである。
この提案は、当然、法的な手続きも必要である。つまり、「両議院選挙結果における内閣総理大臣の任命に関する取り決め」を成文化し、議会法の中に、入れるべきだと思う。
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関連ブログ文書集
三石博行 ブログ文書集「国民運動としての政治改革」
三石博行 ブログ文書集「わが国の民主主義文化を発展させるための課題について」
2012年4月19日 誤字修正
(120419a)
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三石博行
今日も、二人の閣僚に問責決議案が提出された
今日の朝のニュース、二人の閣僚の問責決議案が参議院に出されるとのこと。
国民の反応は、色々と言うニュース。その通りだろうと思う。
明らかなことの一つとして、国会では常にこうした問責決議が提出されると言うこと。
北朝鮮のミサイル発射情報が遅れたと言えば、防衛大臣の問責決議、すぐに発表してそれに一つでも間違いがあったなら、これまた問責決議、一言一句の間違いも、即時判断の時間も、すべてが大臣の首を掛けた作業だとすると、この国では、毎日大臣をかえなければならない。
こうした状態を正常と呼んでいるのが現在の国会議員達の常識らしい。
国のことはどうなるのか。震災の対策は十分なのか。もう、国民は何も言わないぐらい絶望しているかもしれない。それでも、やっぱり、国会は政局論争の場であり、政党政治である以上、それを最も優先しているのは当然だと言うのかもしれない。
よくよく考えれば、二人の閣僚は、本当にその行政機関のトップ、大臣として適材であったのか。民主党政権の中でも、今までと同じように、国のためと言うよりも、別の理由で閣僚のポストが決まる仕組みが続いているのだろうかと我々は疑っている。
こうした考え方に対して、大臣のポストは名誉職なのだから、党内派閥の力関係によって、また、現政権を成立させた人々へのご褒美に与えられて当然でしょうという意見が聞こえてくるようだ。しかし、この習慣的な大臣ポスト決定の取り決めに対して、今の日本にはご褒美を与えるほどの余裕はないのではと言いたくなる。
問責決議の真の意味は、野田政権が進める消費税法を阻止するためのものであるのか。それとも、ともかく、解散しろと言っているのか。ますます、国会でのやり取りが不明で不可解なものになろうとしている。国会ほど国民生活からかけ離れた所に立っているものはない、それが、今の、日本の民主主義社会の姿である。
両院制の意味、55年体制の中での社会混乱の防止機能
新憲法に両院制が導入された経過について、「松本国務大臣が…、一院制では選挙で多数党が変わる度に前政権が作った法律をすべて変更し政情が安定しないことを指摘し、二院制の検討をホイットニー准将に約束させている」(Wikipedia)と説明してあった。
両院制を導入した理由については、「たとえ、1回の選挙で勝利し1院で過半数を取ったとしても、第二院があるため法改正を自由に行えない、法改正を自由に行うためには2回続けて選挙に勝利しなければならないという仕組みは、法律の改革の迅速性を犠牲にしながらも、間接民主主義の問題点である多数党が民意を離れて暴走することを防ぐのに有効であり、1回の選挙で勝ったからと言って暴走すれば2回連続では選挙に勝つことはできず、国民は多数党の行動を見ながら真に立法権を託せるか時を置いて第2院の選挙で決することができる。」(Wikipedia)と説明してあった。
そして、衆参両院制は戦後日本社会の安定性に寄与したと評価している。つまり、戦後55年体制の中での資本主義経済成長を推進する保守政党とそれに批判的で社会主義政策を導入しようとする革新政党との二極対立状態が生じる。その結果、一回の選挙結果によって政権交代が起り、そのため、今までの政策や法律が大きく変更される可能性が生じる。これらの制度的な変更によって社会的混乱が生じる可能性がある。その社会的混乱を両院制は防いだと評価しているのである。
両院議会制民主主義文化を創ること
経済や社会混乱を防ぎ民主主義(資本主義)社会を発展させ、安定した社会を創ることは敗戦で経済力や社会インフラを失った国家・日本の最優先課題であった。豊かな社会を建設するために、国民は敗戦の焼け野原から立ち上がった。そうして、多くの社会的矛盾や沖縄の人々や貧しい人々の犠牲の上に、豊かな社会を作り上げてきた。丁度、70年代後半に始まった中国の改革開放政策と同じように、50年代の日本でも、社会のコンセンサスの一つとして、豊かになれる人が先に豊かになることで、結果的に社会全体が豊かになれると信念があった。
その信念に支えられてきたものの一つが長期自民党政権であった。まるで、一党独裁の社会主義の国家のように日本では戦後60年間近く保守政権が続いた。この保守政権の一党独裁の歴史が終焉しようとしたのは1993年8月9日に成立した細川内閣である。しかし、その後、また自民党政権が復活し、2009年9月16日の連立政権(民主党、社民党と国民新党)の発足まで続いた。
言換えると日本の戦後民主主義社会では2回の政権交代の歴史しかないのである。現在の政治的混乱は、日本の民主主義社会の履歴から生まれている。民主主義システムを維持する政治文化が余りにも貧困なのだ。
政権を取ると言うことが、まるで権力を取るというイメージで受け取られている。そのため、政権与党が政権野党になると、それ以後の全ての政治生命が断たれたと思っているのかもしれない。野党になることの政治的役割と政治機能に関する考え方は、政権与党を長年続けていた自民党には存在しない。と同時に、政権与党になった民主党も、一回政権を取るとすべての政治権力を持てると信じているようだ。
こうした政権運営と野党運営の政党政治の文化の貧困さが、ねじれ国会が生じた場合に露出したのだと思う。今、最も大切な国会議員の活動の一つとして、両院議会制民主主義文化を創ることを挙げたい。そして、政局論争から、国民のための国会運営論争に視点を変えてはどうだろうか。そのために、全ての議員達は、もう一度(選挙の日のように)、誰のために政治があるのか、手を胸に当てて、確りと自問する必要がある。
国会は、ねじれ国会対策に真剣に取り組むべきである
直近の両院選挙で多数を取った政党の党首が首相となり、内閣を組織する
すでに以前、ブログでねじれ国会対策に対する提案、「直近の衆参両議院選挙のどちらかで多数を占めた政党の党首を内閣総理大臣とする提案」をしたのであるが、もう一度、その提案の意味を述べることにする。
例えば、2007年の参議院選挙で民主党が多数を占めた時、自民党政権は仮に衆議院で多数の議席数を持っていても、内閣を民主党に引き継ぐ。すると、民主党は参議院多数政党であるが、衆議院では少数である。簡単に衆議院によって内閣は解散を命じられる。そのため、民主党は自民党との連立政権を作るか、それとも他の政党との連立政権をつくり、政局の安定を計るしかない。
そして、2011年の参議院選挙で自民党が多数を占めた場合にも、同様なことを行う。つまり、自民党が内閣を組織する。自民党は衆議院で多数を占める民主党と連立政権を模索するか、それとも、他の政党、例えば共産党まで入れて、反民主党勢力の大連合をつくり政局を安定させるのか、選択をしなければならない。
この制度は、現在の法律で十分実行できる。小泉元首相や橋下大阪市長が提案している首相公選制度は憲法改正を伴う作業となる。首相公選制度は丁度大統領選挙と同じ、大統領は国家の長である。地方自治体では首長選挙が行われ、首長は国会によって行政機能の長として選ばれる。首相は国会が任命した行政機能の長であり、国家元首ではない。その意味で、首相公選制度を大統領選挙のように行うことには無理があるのではないだろうか。首相公選を実現するには、現在の両院議会制を取っている立法制度から検討しなければならない。
日本国憲法で定められた立法機関の制度上の問題として、首相公選制度が導入される実現性は低くなる。しかし、現在の国会の現状を解決するためには、何らかの改革が必要である。そのため、橋下氏は提案をしている。その提案の目的を高く評価しながら、出来るならもっと今の日本の政治制度の中で、もっと現実的な方法はないかと思った。その結論として、上記した決まり、つまり、議会での慣習を創ることを提案しているのである。
この提案は、当然、法的な手続きも必要である。つまり、「両議院選挙結果における内閣総理大臣の任命に関する取り決め」を成文化し、議会法の中に、入れるべきだと思う。
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関連ブログ文書集
三石博行 ブログ文書集「国民運動としての政治改革」
三石博行 ブログ文書集「わが国の民主主義文化を発展させるための課題について」
2012年4月19日 誤字修正
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2012年4月18日水曜日
ブログ文書削除のお断り
政治運動化した日本の労働運動の歴史(戦前戦中から1960年代)の削除とその理由
三石博行
日記形式のブログとは
我々は、言いたいことがあるから文章を書くのだ。
もし、書くべき主張がなければ、あえて書くことはない。
自分のために書く作業を日記と呼ぶ。これは、他人には絶対に見せたくないものだ。
つまり、書くという行為に意味がある。書きながらこころをまとめ、整理し、癒しているのである。だから、これは見せるために書いてはいない。
ブログで日記を公開しているが、それは本当の意味で、日記ではない。
それは、見せたいものがあり、他人に伝えたいものがあるために、書かれている文章である。
多分、毎日、書き続けるので「日記」と呼ぶことにしているのだ。
その意味で、私のブログも日記である。
論文作成作業では表現できない直感中心の文書化作業
論文を書くように、資料を収集し、それを全て分析し、自分の仮説に従って、再度、資料分析を配列しなおし、また、それを分析する。論文を書くには、当たり前のことだが、大変な労力が必要である。
私は、そうした研究作業を続けながらも、ブログのように、すでに直感的にはっきりしている結論を、出来るだけ素早く書く方法が欲しかった。それが、このブログになっている。
だから、毎日、出来るだけ書くようにしている。
調査や実証なくして論説は出来ない
しかし、場合によっては、よく調べなければ書けない課題が生じる。「裏を取る」というジャーナリストがよく使うことばと同じように、文書を書くためには、裏を取らなければならない。実証できない仮説を言うことは、意味のないことを長々と話していることになるので、読む人に迷惑な話である。そんな話は、インターネットという公共資源を使わないで、自分勝手に、日記のように書けばよいのである。
もし、インターネットを使って書くなら、それは伝えたいことなのである。つまり、社会的に役に立つと主観的に思うから、ブログで公開しているのである。自分なりの主張を持っているから長々と書いているのである。
その意味で、今回は、社会運動の形態を生活資源論から説明する課題を選んでいる最中である。この仮説が正しいかを実証する必要がある。どこかで、生活資源論で社会運動の全ての運動や組織形態は構造的に説明できると直感的(楽観的に)に感じるのである。
しかし、つねにすべての予測に付きものではあるが、直観的に導かれる結論は必ずその楽観的な帰結による落とし穴を持っている。厳密な論証では、常に「そうは問屋が卸さない」のである。
つまり、直感的な結論に執着することは論証や実証を行うために書かれる論文形式の文書では危険なことになる。それで、今、労働運動に関する分析作業が足踏み状態になっている。しかし、同時に、スランプと呼ばれる、この神様の与えてくれた思索活動の貴重な休息日を十分に満喫してもいいのだと思う。
生活資源論は社会運動を説明する理論に成り得るか
そこで、生活資源論を使って、歴史的な民衆運動(社会運動)の発生とその形態を説明してみる。生活資源論(仮説)が正しいなら、民衆運動、社会運動、市民運動と歴史的も現代社会でも呼ばれる大衆運動のすべての形態がその仮説によって説明可能である。もし、説明不可能なら、その仮説は間違いっていることになる。
例えば、中世封建社会で頻繁に生じた百姓一揆であるが、その理由は明確である。そして、それらの運動の形態、暴力性や組織性、非政治化などの運動態の属性を仮説から説明できるだろうか。また、日本の近代国家形成初期に起る労働者の反乱、そしてその後に形成される労働運動の歴史。戦前の労働運動が政治化する現象と戦後初期の労働運動と政党政治との関係、さらに現代の非政治化する労働運動の発生等々、全く異なる運動や組織の在り方を、一つの理論・生活資源論から説明できるだろうかという課題である。
この仮説の検証作業を行うのは、今日の社会運動の方向を理解するためである。この仮説から、近未来と21世紀にわたる社会運動の果たすべき役割、つまり成熟した民主主義文化と社会システムの形成に果たす市民の活動や運動について理解したいのである。それが、この仮説検証の最終的な目的であり、目標でもある。
今現在の課題は、今日の労働運動を始めとして、多様化する市民活動、ボランティア運動の社会的機能(役割)を理解し、それらの運動や組織に対しる有効な社会政策を提案することである。市民活動が社会システムを形成するための社会資源となることを理解するためには、これらの運動組織や形態に引き継がれている反体制運動の遺伝子を解明し、その社会的意味付けを与えることである。これが生活資源論から説明しよとする試みの意図である。そして、それにはさらに私の主観的な希望が潜んでいる。つまり、それによって、市民運動の原動力である体制批判性は、未来社会のために活用される豊富な社会文化資源となると信じたいのである。その意味で、この仮説には私の主観(哲学)が潜んでいて、それを排除できない。
この主観的願望に近い理論的説明の有効性を問わなければならない。これが詩人と科学者の違いである。私が詩人であるなら、この主観的願望に満ちた仮説を極限まで表現し、直観的に示された言葉の力によって、説明作業を終了できるのである。しかし、科学者としては、詩人性を徹底的に排除し、詩的表現の一片をも許すことなく、冷たく分析的な表現によって、言葉の色彩や音色を取り除かねばならない。
そのために、科学者は詩的な言葉をすべて音や色のない言葉(専門用語)や数字にして考えることにした。それは人間科学者の気持ちに反する作業であったとしても、この作業を抜きにしては美しさに潜む欺瞞に目を奪われることの恐ろしさ(被害)を知り尽くしているからである。そこで、近代科学としての社会学研究は社会調査によって社会現象の実態を理解する作業を前提にしているのである。
それと同時に、近代科学の伝統を汲む社会科学には、現象するそれらの社会実態を構造的に説明する作業も求められる。その作業を理論と呼ぶ。理論は現実を理解するための道具である。理論社会学は社会調査法、社会実態研究や社会政策に有効に活用されない以上、その意味を失うことになる。この考えを私に何遍となく説明したのは故吉田民人先生であった。彼の理論社会学(社会科学哲学)・プログラム科学論や自己組織性の設計科学の目的と、これらの理論研究の今後の在り方を言い残されたのだと理解している。
その意味で、私は吉田民人先生の理論社会学研究を継承したいと願った。その作業に一つに、生活資源論があった。阪神淡路大震災後の罹災者の生活復旧や復興活動として派生した「生活再建のその段階で必要とされた生活情報」の調査とその分析から導きだした生活情報の三つの構造、生活情報論を篭山京の「生活構造論」、青木らの「生活システム論」と吉田民人の「生活空間論」で再検討して導いたのが「生活資源論」であった。
この仮説を使って以前、「人権学試論」を展開してみた。社会運動主体の行動要因(動機)は人権を求める人間の行動要因と同じである。その意味で、人権学の基礎理論、生活資源論は社会運動論を説明するための有効な仮説となる考えた。これが、生活資源論で社会運動が説明できると直感的に感じた理由の一つである。そして、それが同時に、この労働運動に関する分析の中断(足踏み状態)の理由でもある。
文書の削除を突然します
4月16日にブログ発表した文書「政治運動化した日本の労働運動の歴史(戦前戦中から1960年代)社会運動としての労働運動 (1)」があまりにも未熟なので、今日、それを削除した。
もう一度、初めから書き直すことにする。もし、その文章を読んでいる最中の人が居たら、申し訳ないことをしている。
もう少し、お待ち下さい。納得いく文章を発表しますので。
2012年4月19日 誤字修正、文書修正
(120418c)
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三石博行
日記形式のブログとは
我々は、言いたいことがあるから文章を書くのだ。
もし、書くべき主張がなければ、あえて書くことはない。
自分のために書く作業を日記と呼ぶ。これは、他人には絶対に見せたくないものだ。
つまり、書くという行為に意味がある。書きながらこころをまとめ、整理し、癒しているのである。だから、これは見せるために書いてはいない。
ブログで日記を公開しているが、それは本当の意味で、日記ではない。
それは、見せたいものがあり、他人に伝えたいものがあるために、書かれている文章である。
多分、毎日、書き続けるので「日記」と呼ぶことにしているのだ。
その意味で、私のブログも日記である。
論文作成作業では表現できない直感中心の文書化作業
論文を書くように、資料を収集し、それを全て分析し、自分の仮説に従って、再度、資料分析を配列しなおし、また、それを分析する。論文を書くには、当たり前のことだが、大変な労力が必要である。
私は、そうした研究作業を続けながらも、ブログのように、すでに直感的にはっきりしている結論を、出来るだけ素早く書く方法が欲しかった。それが、このブログになっている。
だから、毎日、出来るだけ書くようにしている。
調査や実証なくして論説は出来ない
しかし、場合によっては、よく調べなければ書けない課題が生じる。「裏を取る」というジャーナリストがよく使うことばと同じように、文書を書くためには、裏を取らなければならない。実証できない仮説を言うことは、意味のないことを長々と話していることになるので、読む人に迷惑な話である。そんな話は、インターネットという公共資源を使わないで、自分勝手に、日記のように書けばよいのである。
もし、インターネットを使って書くなら、それは伝えたいことなのである。つまり、社会的に役に立つと主観的に思うから、ブログで公開しているのである。自分なりの主張を持っているから長々と書いているのである。
その意味で、今回は、社会運動の形態を生活資源論から説明する課題を選んでいる最中である。この仮説が正しいかを実証する必要がある。どこかで、生活資源論で社会運動の全ての運動や組織形態は構造的に説明できると直感的(楽観的に)に感じるのである。
しかし、つねにすべての予測に付きものではあるが、直観的に導かれる結論は必ずその楽観的な帰結による落とし穴を持っている。厳密な論証では、常に「そうは問屋が卸さない」のである。
つまり、直感的な結論に執着することは論証や実証を行うために書かれる論文形式の文書では危険なことになる。それで、今、労働運動に関する分析作業が足踏み状態になっている。しかし、同時に、スランプと呼ばれる、この神様の与えてくれた思索活動の貴重な休息日を十分に満喫してもいいのだと思う。
生活資源論は社会運動を説明する理論に成り得るか
そこで、生活資源論を使って、歴史的な民衆運動(社会運動)の発生とその形態を説明してみる。生活資源論(仮説)が正しいなら、民衆運動、社会運動、市民運動と歴史的も現代社会でも呼ばれる大衆運動のすべての形態がその仮説によって説明可能である。もし、説明不可能なら、その仮説は間違いっていることになる。
例えば、中世封建社会で頻繁に生じた百姓一揆であるが、その理由は明確である。そして、それらの運動の形態、暴力性や組織性、非政治化などの運動態の属性を仮説から説明できるだろうか。また、日本の近代国家形成初期に起る労働者の反乱、そしてその後に形成される労働運動の歴史。戦前の労働運動が政治化する現象と戦後初期の労働運動と政党政治との関係、さらに現代の非政治化する労働運動の発生等々、全く異なる運動や組織の在り方を、一つの理論・生活資源論から説明できるだろうかという課題である。
この仮説の検証作業を行うのは、今日の社会運動の方向を理解するためである。この仮説から、近未来と21世紀にわたる社会運動の果たすべき役割、つまり成熟した民主主義文化と社会システムの形成に果たす市民の活動や運動について理解したいのである。それが、この仮説検証の最終的な目的であり、目標でもある。
今現在の課題は、今日の労働運動を始めとして、多様化する市民活動、ボランティア運動の社会的機能(役割)を理解し、それらの運動や組織に対しる有効な社会政策を提案することである。市民活動が社会システムを形成するための社会資源となることを理解するためには、これらの運動組織や形態に引き継がれている反体制運動の遺伝子を解明し、その社会的意味付けを与えることである。これが生活資源論から説明しよとする試みの意図である。そして、それにはさらに私の主観的な希望が潜んでいる。つまり、それによって、市民運動の原動力である体制批判性は、未来社会のために活用される豊富な社会文化資源となると信じたいのである。その意味で、この仮説には私の主観(哲学)が潜んでいて、それを排除できない。
この主観的願望に近い理論的説明の有効性を問わなければならない。これが詩人と科学者の違いである。私が詩人であるなら、この主観的願望に満ちた仮説を極限まで表現し、直観的に示された言葉の力によって、説明作業を終了できるのである。しかし、科学者としては、詩人性を徹底的に排除し、詩的表現の一片をも許すことなく、冷たく分析的な表現によって、言葉の色彩や音色を取り除かねばならない。
そのために、科学者は詩的な言葉をすべて音や色のない言葉(専門用語)や数字にして考えることにした。それは人間科学者の気持ちに反する作業であったとしても、この作業を抜きにしては美しさに潜む欺瞞に目を奪われることの恐ろしさ(被害)を知り尽くしているからである。そこで、近代科学としての社会学研究は社会調査によって社会現象の実態を理解する作業を前提にしているのである。
それと同時に、近代科学の伝統を汲む社会科学には、現象するそれらの社会実態を構造的に説明する作業も求められる。その作業を理論と呼ぶ。理論は現実を理解するための道具である。理論社会学は社会調査法、社会実態研究や社会政策に有効に活用されない以上、その意味を失うことになる。この考えを私に何遍となく説明したのは故吉田民人先生であった。彼の理論社会学(社会科学哲学)・プログラム科学論や自己組織性の設計科学の目的と、これらの理論研究の今後の在り方を言い残されたのだと理解している。
その意味で、私は吉田民人先生の理論社会学研究を継承したいと願った。その作業に一つに、生活資源論があった。阪神淡路大震災後の罹災者の生活復旧や復興活動として派生した「生活再建のその段階で必要とされた生活情報」の調査とその分析から導きだした生活情報の三つの構造、生活情報論を篭山京の「生活構造論」、青木らの「生活システム論」と吉田民人の「生活空間論」で再検討して導いたのが「生活資源論」であった。
この仮説を使って以前、「人権学試論」を展開してみた。社会運動主体の行動要因(動機)は人権を求める人間の行動要因と同じである。その意味で、人権学の基礎理論、生活資源論は社会運動論を説明するための有効な仮説となる考えた。これが、生活資源論で社会運動が説明できると直感的に感じた理由の一つである。そして、それが同時に、この労働運動に関する分析の中断(足踏み状態)の理由でもある。
文書の削除を突然します
4月16日にブログ発表した文書「政治運動化した日本の労働運動の歴史(戦前戦中から1960年代)社会運動としての労働運動 (1)」があまりにも未熟なので、今日、それを削除した。
もう一度、初めから書き直すことにする。もし、その文章を読んでいる最中の人が居たら、申し訳ないことをしている。
もう少し、お待ち下さい。納得いく文章を発表しますので。
2012年4月19日 誤字修正、文書修正
(120418c)
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軍事的衝突か東アジア境界領域文化圏の形成か
東アジアの平和と繁栄は可能か(2)
三石博行
石原知事の発言で再燃化する尖閣諸島の領有権問題
今日の朝のNHKのニュースで、石原東京都知事が尖閣諸島の土地所有者から東京都が買い取る計画があることが報道された。この問題に関して、国内では色々な意見が出されている。勿論、石原東京都知事は、国内の意見よりも中国の出方によって生じる日中問題に密かに期待を掛けているのではないかというのが橋下徹大阪市長の解釈であった。
この石原氏の尖閣諸島の一部の島の土地を東京都が購入するという発言は、2010年10月24日に放送された『新報道2001』ですでに行なっていた。(Wikipedia) しかし、この発言は何故今、ここで大きくマスコミに報道されたのだろうか。その理由がもう一つつかめない。
この発言の背景を考える時、発言を起こした動機よりも、それが導く結果を確りと理解しておく方が、正しく問題を理解できそうだ。つまり、いずれにしても、中国はこの発言に対して、尖閣諸島の領有権を主張する動きを始めるだろう。これまで尖閣諸島を実行支配しつづけてきた日本の立場を一歩でも弱体化させるための中国の政治的動きが始まるだろう。と言うことは明らかである。
尖閣諸島の領有権問題、領土問題化させたい中国の狙い
尖閣諸島の領有権問題と浮き彫りにした事件が今から1年半前におきている。2010年9月7日の尖閣諸島中国漁船衝突事件(巡視船「みずき」が、中国籍漁船が違法操業し、巡視船「よなくに」と「みずき」に衝突、破損させた事件)で、海上保安庁は中国籍漁船の船長を公務執行妨害で逮捕し 、石垣島へ連行し、那覇地方検察庁石垣支部に送検された。中国政府は船長や船員の即時釈放を要求した。結果的に、国は中国政府の要請を受け入れ、船長らを釈放した。
この問題で、尖閣諸島を実行支配していた日本が、尖閣諸島問題を日中の領土問題として取り上げる政治的な立場に立たされることになった。中国漁船の挑発はそれを意図して行なわれたのではないかと思われるが、その挑発にまんまと引っかかった部分も否定できない。
この解決には外交的に優れた能力が必要である。しかし、尖閣諸島問題は、東シナ海ガス田・資源問題が背後にある限り、優れた外交能力を持つ人々の技量を超えた課題であると言える。
尖閣諸島中国漁船衝突事件から1年半の時間が経過し、尖閣諸島の領有権問題に関する双方の対立が表面化しなくなった時に、何故、あえて今回、石原発言(2010年10月の発言ん)がマスコミに大きく報道されたのだろうか。その報道によって再燃する日中間の領土問題によって誰が利益を得るのだろうか。この報道の背景を考える必要はないか。
日米同盟による解決の道はいつまで有効か
21世紀の国際紛争の原因になるのが資源問題である。特に石油や天然ガス資源の場合、これまでの産業構造を支えてきた代表的な資源である以上、国際紛争の大きな要因となることは避けられない。まさに、尖閣諸島の領有権問題は東シナ海ガス田開発と不可分の関係にあるため、これまでの外交的努力のレベルで解決をするという見通しは何もない。そして、この問題は両国の軍事的衝突の要因としてこれからも残ることになる。
軍事的衝突を防ぐ手段として、日本はこれまで以上に日米同盟を強化し、アメリカの軍事力に依存することになる。同時に、中国がベトナムやフィリピンと南沙諸島・スプラトリー諸島で領有権問題を起こしている以上、日本はこれらの国々も含めて中国と平和的な解決に向けた外交を展開していくだろう。
つまり、日本や東南アジア諸国は、中国との領有権問題が軍事的に発展していくことを回避するために、世界最強の軍力を持つ米国の力に依存することになる。米国の東南・東アジアでの軍事的影響力を使い、台頭する中国の覇権主義を抑えこむことが、現在、もっとも現実的な方法であると言える。現在、中国との軍事的衝突を回避するための最も現実的な方法、唯一の選択肢である。
しかし、アメリカの軍事力に依存する日本の外交はいつまで続くか。つまり、米国はいつまで東アジアの警察として働いてくれるだろうか。イラク戦争の失敗(さらにアフガニスタンでも失敗しようとしていること)によって、明らかに米国の軍事的影響力は落ちている。それを証明するように、イラン制裁も今までのように行かないことが明らかになりそうである。
そして、アメリカの覇権主義が終焉しようとしている。先進国で作るG8でなく、中国、ロシア、インド、ブラジル、南ア等の発展途上国を入れたG20が発言権をもちつつある。そして、上海協力機構(中国、ロシア、中央アジア、インド、パキスタン、アフガニスタン、イラン)の形成等々、世界は急速に欧米日の影響力から脱却しつつある。
こうした21世紀の国際政治の流れの中で、日本はいつまで対中国政策としてアメリカに依存できるのだろうか、考えておくべきだろう。
東アジア境界領域文化圏の形成
領土問題は世界の国々の国境地帯で数え切れないほど多く発生している。もともと、それらの地域を明確に区切り国境線が存在していなかった。民族国家と呼ばれる近代国家が成立する過程で、大きな力を持つ民族間で国境が引かれた。しかし、その国境地域には、二つの民族のどちらとも共存していた人々がいた。これらの人々は、どちらかの国家に属するようになった。それで、二つの大きな政治勢力の間に明確な国境線が引かれることになった。
この二つの国の間に存在した境界領域文化圏について、東京大学教授の村井章介氏は「境界人」という用語を用いて説明している。2009年に放映されたNHKのETV特集「日本と朝鮮半島」(6)「倭寇(わこう)の実像を探る。東シナ海の光と影」の中で、村井章介氏は、日本と朝鮮半島の二つの文化圏の間にある境界領域文化圏に住む対馬人や済州島人、また日本と中国の間にあった琉球人の中世社会までの役割について述べている。
つまり、村井章介氏が述べているように、現在の中国、日本、韓国が成立したのは近代以後である。長い、東アジア史を振り返るなら、これらの明確に分断された近代国家の間に存在していた境界領域文化圏を再度評価すべきではないだろうか。
つまり、対馬、済州島や沖縄は勿論、尖閣諸島、竹島、北方領土を境界文化領域として東アジア文化圏を形成する経済文化特区としてはどうだろうか。つまり、それらの地域が持つ所属国の国家的制限を取り除き、東アジアの経済文化の発展のために、活用する方法を考え出す。そのことによって、結果的には、現在の領有問題を先延ばしにしながら、それらの地域の共同利用によって得られる東アジア全体の利益を優先させることが出来る。百年先の国際地域社会文化圏のあり方を見据えながら、協会領域文化圏の形成を進めることは出来ないだろうか。
この百年先の国際地域社会文化圏のあり方を見据えた東アジア境界領域文化圏の形成は実現不可のな夢物語なのだろうか。それとも、20世紀の終わり1982年に起こったフォークランド紛争のように、尖閣諸島、竹島や南沙諸島・スプラトリー諸島の領有権をめぐって日韓間で、日中間で、中越間での軍事的衝突によってしかこの問題は解決で着ないだろうか。我々は、新しい21世紀型の領有権をめぐる国際紛争の解決手段を見つけることはできないだろうか。
引用、参考資料
村井章介著 『境界をまたぐ人びと(日本史リプレッと)』 (東京大学教授)
村井章介著 『琉球からみた世界史』
村井章介著 『アジアのなかの日本史 Ⅶ文化と技術』
NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」(6)「倭寇(わこう)の実像を探る。東シナ海の光と影」の映像 2009年に放映 (司会 三宅民夫 レポーター ユンソナ ゲスト 村井章介東京大学教授 キム・ムンギョン スンシル(宗実)大学名誉教授
三石博行 NHK 朝鮮半島と日本 「倭寇(わこう)の実像を探る 東シナ海の光と影」のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/07/blog-post_2310.html
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関連ブログ文書集
三石博行 ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」
012年4月19日 誤字修正
(120418b)
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三石博行
石原知事の発言で再燃化する尖閣諸島の領有権問題
今日の朝のNHKのニュースで、石原東京都知事が尖閣諸島の土地所有者から東京都が買い取る計画があることが報道された。この問題に関して、国内では色々な意見が出されている。勿論、石原東京都知事は、国内の意見よりも中国の出方によって生じる日中問題に密かに期待を掛けているのではないかというのが橋下徹大阪市長の解釈であった。
この石原氏の尖閣諸島の一部の島の土地を東京都が購入するという発言は、2010年10月24日に放送された『新報道2001』ですでに行なっていた。(Wikipedia) しかし、この発言は何故今、ここで大きくマスコミに報道されたのだろうか。その理由がもう一つつかめない。
この発言の背景を考える時、発言を起こした動機よりも、それが導く結果を確りと理解しておく方が、正しく問題を理解できそうだ。つまり、いずれにしても、中国はこの発言に対して、尖閣諸島の領有権を主張する動きを始めるだろう。これまで尖閣諸島を実行支配しつづけてきた日本の立場を一歩でも弱体化させるための中国の政治的動きが始まるだろう。と言うことは明らかである。
尖閣諸島の領有権問題、領土問題化させたい中国の狙い
尖閣諸島の領有権問題と浮き彫りにした事件が今から1年半前におきている。2010年9月7日の尖閣諸島中国漁船衝突事件(巡視船「みずき」が、中国籍漁船が違法操業し、巡視船「よなくに」と「みずき」に衝突、破損させた事件)で、海上保安庁は中国籍漁船の船長を公務執行妨害で逮捕し 、石垣島へ連行し、那覇地方検察庁石垣支部に送検された。中国政府は船長や船員の即時釈放を要求した。結果的に、国は中国政府の要請を受け入れ、船長らを釈放した。
この問題で、尖閣諸島を実行支配していた日本が、尖閣諸島問題を日中の領土問題として取り上げる政治的な立場に立たされることになった。中国漁船の挑発はそれを意図して行なわれたのではないかと思われるが、その挑発にまんまと引っかかった部分も否定できない。
この解決には外交的に優れた能力が必要である。しかし、尖閣諸島問題は、東シナ海ガス田・資源問題が背後にある限り、優れた外交能力を持つ人々の技量を超えた課題であると言える。
尖閣諸島中国漁船衝突事件から1年半の時間が経過し、尖閣諸島の領有権問題に関する双方の対立が表面化しなくなった時に、何故、あえて今回、石原発言(2010年10月の発言ん)がマスコミに大きく報道されたのだろうか。その報道によって再燃する日中間の領土問題によって誰が利益を得るのだろうか。この報道の背景を考える必要はないか。
日米同盟による解決の道はいつまで有効か
21世紀の国際紛争の原因になるのが資源問題である。特に石油や天然ガス資源の場合、これまでの産業構造を支えてきた代表的な資源である以上、国際紛争の大きな要因となることは避けられない。まさに、尖閣諸島の領有権問題は東シナ海ガス田開発と不可分の関係にあるため、これまでの外交的努力のレベルで解決をするという見通しは何もない。そして、この問題は両国の軍事的衝突の要因としてこれからも残ることになる。
軍事的衝突を防ぐ手段として、日本はこれまで以上に日米同盟を強化し、アメリカの軍事力に依存することになる。同時に、中国がベトナムやフィリピンと南沙諸島・スプラトリー諸島で領有権問題を起こしている以上、日本はこれらの国々も含めて中国と平和的な解決に向けた外交を展開していくだろう。
つまり、日本や東南アジア諸国は、中国との領有権問題が軍事的に発展していくことを回避するために、世界最強の軍力を持つ米国の力に依存することになる。米国の東南・東アジアでの軍事的影響力を使い、台頭する中国の覇権主義を抑えこむことが、現在、もっとも現実的な方法であると言える。現在、中国との軍事的衝突を回避するための最も現実的な方法、唯一の選択肢である。
しかし、アメリカの軍事力に依存する日本の外交はいつまで続くか。つまり、米国はいつまで東アジアの警察として働いてくれるだろうか。イラク戦争の失敗(さらにアフガニスタンでも失敗しようとしていること)によって、明らかに米国の軍事的影響力は落ちている。それを証明するように、イラン制裁も今までのように行かないことが明らかになりそうである。
そして、アメリカの覇権主義が終焉しようとしている。先進国で作るG8でなく、中国、ロシア、インド、ブラジル、南ア等の発展途上国を入れたG20が発言権をもちつつある。そして、上海協力機構(中国、ロシア、中央アジア、インド、パキスタン、アフガニスタン、イラン)の形成等々、世界は急速に欧米日の影響力から脱却しつつある。
こうした21世紀の国際政治の流れの中で、日本はいつまで対中国政策としてアメリカに依存できるのだろうか、考えておくべきだろう。
東アジア境界領域文化圏の形成
領土問題は世界の国々の国境地帯で数え切れないほど多く発生している。もともと、それらの地域を明確に区切り国境線が存在していなかった。民族国家と呼ばれる近代国家が成立する過程で、大きな力を持つ民族間で国境が引かれた。しかし、その国境地域には、二つの民族のどちらとも共存していた人々がいた。これらの人々は、どちらかの国家に属するようになった。それで、二つの大きな政治勢力の間に明確な国境線が引かれることになった。
この二つの国の間に存在した境界領域文化圏について、東京大学教授の村井章介氏は「境界人」という用語を用いて説明している。2009年に放映されたNHKのETV特集「日本と朝鮮半島」(6)「倭寇(わこう)の実像を探る。東シナ海の光と影」の中で、村井章介氏は、日本と朝鮮半島の二つの文化圏の間にある境界領域文化圏に住む対馬人や済州島人、また日本と中国の間にあった琉球人の中世社会までの役割について述べている。
つまり、村井章介氏が述べているように、現在の中国、日本、韓国が成立したのは近代以後である。長い、東アジア史を振り返るなら、これらの明確に分断された近代国家の間に存在していた境界領域文化圏を再度評価すべきではないだろうか。
つまり、対馬、済州島や沖縄は勿論、尖閣諸島、竹島、北方領土を境界文化領域として東アジア文化圏を形成する経済文化特区としてはどうだろうか。つまり、それらの地域が持つ所属国の国家的制限を取り除き、東アジアの経済文化の発展のために、活用する方法を考え出す。そのことによって、結果的には、現在の領有問題を先延ばしにしながら、それらの地域の共同利用によって得られる東アジア全体の利益を優先させることが出来る。百年先の国際地域社会文化圏のあり方を見据えながら、協会領域文化圏の形成を進めることは出来ないだろうか。
この百年先の国際地域社会文化圏のあり方を見据えた東アジア境界領域文化圏の形成は実現不可のな夢物語なのだろうか。それとも、20世紀の終わり1982年に起こったフォークランド紛争のように、尖閣諸島、竹島や南沙諸島・スプラトリー諸島の領有権をめぐって日韓間で、日中間で、中越間での軍事的衝突によってしかこの問題は解決で着ないだろうか。我々は、新しい21世紀型の領有権をめぐる国際紛争の解決手段を見つけることはできないだろうか。
引用、参考資料
村井章介著 『境界をまたぐ人びと(日本史リプレッと)』 (東京大学教授)
村井章介著 『琉球からみた世界史』
村井章介著 『アジアのなかの日本史 Ⅶ文化と技術』
NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」(6)「倭寇(わこう)の実像を探る。東シナ海の光と影」の映像 2009年に放映 (司会 三宅民夫 レポーター ユンソナ ゲスト 村井章介東京大学教授 キム・ムンギョン スンシル(宗実)大学名誉教授
三石博行 NHK 朝鮮半島と日本 「倭寇(わこう)の実像を探る 東シナ海の光と影」のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/07/blog-post_2310.html
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関連ブログ文書集
三石博行 ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」
012年4月19日 誤字修正
(120418b)
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「北朝鮮」という我々の呼び方に含まれているもの
東アジアの平和と繁栄は可能か(1)
三石博行
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)から流れてくる映像を観ながら、日本人のみなでなく殆どの先進国の人々は違和感を持つだろう。そして、「将軍サマ」の死を悲しむ映像を見ながら、これはヤラセだと思うだろう。実際、私もそう思った。そう思ったすぐ後に、敗戦を告げる昭和天皇の「玉音放送」を聴きながら泣き崩れる日本国民の映像が流れた。その映像を当時、アメリカの市民は、この映像を見ながらヤラセだと思ったかもしれない。
我々の国の全ての報道が、そして私も、朝鮮民主主義人民共和国という正式名称で「北朝鮮」を呼んだこともないし、また、括弧付きで「北朝鮮、つまり朝鮮民主主義人民共和国」と呼んでもいない。つまり、この一つの事象に象徴されているのは、北朝鮮への憎しみなのだ。日本国民を強制拉致した国家、そして、その拉致被害者を返そうともしない。この卑劣な国家を許す訳に行かない。これが正直、私を含めて殆どの日本国民の気持ちであり、その気持ちを代表する言葉として、正式国家名称を絶対に呼ばないで、単に北朝鮮という表現があると思う。
しかし、こんどは「拉致問題」を、違う立場、つまり朝鮮半島の人々の立場から、観ると、どういう言葉が返ってくるだろうか。何故なら、朝鮮半島の人々は過去の日本の植民地時代の記憶を忘れてはいない。そして、彼らは、日本人に対して、戦前戦中に日本が朝鮮半島から多くの韓国朝鮮の人々を連れてきたことを言うだろう。
すると、我々日本人は「あれって、自分達の意志で日本に来たのでしょう。何も強制連行したのではないでしょう。話が違うよ」と反論するかもしれない。しかし、もう一度、朝鮮半島の人々に本当に、そうだったかと聴いて見てはどうだろうか。本当に炭鉱で過酷な労働をするために来たのか。本当に慰安婦をするために来たのかと。中にはそうだと答える人もいるかもしれない。しかし、一回、朝鮮半島から来た人々を全員とは言わないが、調べてみてはどうだろう。
日本人が北朝鮮の拉致被害を語る。韓国でも拉致被害者がいる。この韓国の拉致被害者と日本の埒被害者が交流している話を聞いたことがある。きっと、この交流を通じて、歴史的に繰り返された朝鮮半島の人々の拉致問題、例えば、豊臣秀吉による朝鮮出兵(韓国では朝鮮侵略)によって多くの朝鮮の人々が日本に連れて来られた。そうした、お互いの悲しい歴史を相互に確認できるかもしれない。
北朝鮮に拉致された人々が一日も早く帰国して欲しい。そして、同時に、敵国北朝鮮でなく、共に同じ国際文化圏に分類される東アジアの国として、我々は何か共に話し合える外交は不可能なのだろうか。考えてみても、あんな貧しい国が、国民の犠牲の上で、人工衛星(大陸弾道ミサイル)を発射させたのだ。
巨額の資金を軍事に費やすこの国がそう長く続くとは思われない。それは、我々も65年前に、経験したではないか。その意味で、彼らの未来を共に考える力を、東アジアの大国としての日本の政治や外交姿勢を持つべきではないだろうか。
今、北朝鮮と仲良くしろと言えば、多分、この国では袋だたきに合うだろう。そして、あいつは北朝鮮のスパイだと、過去にチュチェ思想(主体思想、朝鮮労働党の公式政治思想) の持ち主だったと非難されるかもしれない。しかし、もっと未来のことを考えるなら、この東アジアの安定や繁栄のための外交を展開すべきだと思う。
大陸弾道弾の発射(失敗した)で高まりつつある軍事的緊張によって、またもや、台頭する軍事産業マフィア達の国際紛争画策に我が国と市民が翻弄されないことを願う。どれだけ多くのデマや政治的陰謀でイラク戦争が起され、そのために、多くのイラク国民はもとよりイラクに派遣されたアメリカ兵をはじめ多くの若者が犠牲になっているかを考えるべきだと思う。
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関連ブログ文書集
三石博行 ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」
2012年4月18日 誤字修正
(120418a)
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三石博行
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)から流れてくる映像を観ながら、日本人のみなでなく殆どの先進国の人々は違和感を持つだろう。そして、「将軍サマ」の死を悲しむ映像を見ながら、これはヤラセだと思うだろう。実際、私もそう思った。そう思ったすぐ後に、敗戦を告げる昭和天皇の「玉音放送」を聴きながら泣き崩れる日本国民の映像が流れた。その映像を当時、アメリカの市民は、この映像を見ながらヤラセだと思ったかもしれない。
我々の国の全ての報道が、そして私も、朝鮮民主主義人民共和国という正式名称で「北朝鮮」を呼んだこともないし、また、括弧付きで「北朝鮮、つまり朝鮮民主主義人民共和国」と呼んでもいない。つまり、この一つの事象に象徴されているのは、北朝鮮への憎しみなのだ。日本国民を強制拉致した国家、そして、その拉致被害者を返そうともしない。この卑劣な国家を許す訳に行かない。これが正直、私を含めて殆どの日本国民の気持ちであり、その気持ちを代表する言葉として、正式国家名称を絶対に呼ばないで、単に北朝鮮という表現があると思う。
しかし、こんどは「拉致問題」を、違う立場、つまり朝鮮半島の人々の立場から、観ると、どういう言葉が返ってくるだろうか。何故なら、朝鮮半島の人々は過去の日本の植民地時代の記憶を忘れてはいない。そして、彼らは、日本人に対して、戦前戦中に日本が朝鮮半島から多くの韓国朝鮮の人々を連れてきたことを言うだろう。
すると、我々日本人は「あれって、自分達の意志で日本に来たのでしょう。何も強制連行したのではないでしょう。話が違うよ」と反論するかもしれない。しかし、もう一度、朝鮮半島の人々に本当に、そうだったかと聴いて見てはどうだろうか。本当に炭鉱で過酷な労働をするために来たのか。本当に慰安婦をするために来たのかと。中にはそうだと答える人もいるかもしれない。しかし、一回、朝鮮半島から来た人々を全員とは言わないが、調べてみてはどうだろう。
日本人が北朝鮮の拉致被害を語る。韓国でも拉致被害者がいる。この韓国の拉致被害者と日本の埒被害者が交流している話を聞いたことがある。きっと、この交流を通じて、歴史的に繰り返された朝鮮半島の人々の拉致問題、例えば、豊臣秀吉による朝鮮出兵(韓国では朝鮮侵略)によって多くの朝鮮の人々が日本に連れて来られた。そうした、お互いの悲しい歴史を相互に確認できるかもしれない。
北朝鮮に拉致された人々が一日も早く帰国して欲しい。そして、同時に、敵国北朝鮮でなく、共に同じ国際文化圏に分類される東アジアの国として、我々は何か共に話し合える外交は不可能なのだろうか。考えてみても、あんな貧しい国が、国民の犠牲の上で、人工衛星(大陸弾道ミサイル)を発射させたのだ。
巨額の資金を軍事に費やすこの国がそう長く続くとは思われない。それは、我々も65年前に、経験したではないか。その意味で、彼らの未来を共に考える力を、東アジアの大国としての日本の政治や外交姿勢を持つべきではないだろうか。
今、北朝鮮と仲良くしろと言えば、多分、この国では袋だたきに合うだろう。そして、あいつは北朝鮮のスパイだと、過去にチュチェ思想(主体思想、朝鮮労働党の公式政治思想) の持ち主だったと非難されるかもしれない。しかし、もっと未来のことを考えるなら、この東アジアの安定や繁栄のための外交を展開すべきだと思う。
大陸弾道弾の発射(失敗した)で高まりつつある軍事的緊張によって、またもや、台頭する軍事産業マフィア達の国際紛争画策に我が国と市民が翻弄されないことを願う。どれだけ多くのデマや政治的陰謀でイラク戦争が起され、そのために、多くのイラク国民はもとよりイラクに派遣されたアメリカ兵をはじめ多くの若者が犠牲になっているかを考えるべきだと思う。
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関連ブログ文書集
三石博行 ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」
2012年4月18日 誤字修正
(120418a)
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2012年4月17日火曜日
言(ことば)が肉となった
三石博行
イースター(復活際)
西方教会の復活際の日2012年4月8日、友人夫婦の誘いで同志社教会に行った。
教会に行ったのはフランスに住んでいた時以来もう20年前になる。
無神論者の私は、以前から教会の雰囲気は好きだった。
キリスト教は宗教の中で、教義をもっとも分かりやすく教えている。
そして常に人々に分かりやすい言葉で書いた聖書が配布される。
また、教会によって多少の違いはあるが、お祈りのことばは、常に、今の生活世界に関する話題に触れている。
私は信者ではないので、讃美歌を歌うことも儀式に参列することもしない。
しかし、自分なりのやり方で教会のお祈りに参加している。
こうした無神論者の訪問すら、この教会の礼拝では違和感なく認められている。
ヨハネによる福音書から
この日の教会でのお話は「ヨハネによる福音書」の一節であった。
聖書を広げて、ヨハネによる福音書を読む。
「言(ことば)が肉となった」新約聖書 日本聖書協会 p163
「初めに言(ことば)がある。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。
成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の肉に命があった。
命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。
暗闇は光を理解しない。」
NHK ETV特集「失われた言葉を探して」2012年4月15日
偶然だった。NHKのETV特集「失われた言葉を探して」を観てしまった。
津波で跡形もなく消え去った実家、壊れた母校の姿を前にしながら、失われた言葉を探そうと苦悩する小説家辺見庸。
彼がであった「命・肉の言(ことば)」は死刑囚が独房の中で書き綴った俳句であった。
短い句に凝縮された肉の叫び。
表現の虚無化を意味することばの大量生産
余りにも簡単に言葉が流れでる仕組みを創った情報文化
余りにも多くの新語を生産し続ける高度知識社会
余りにも商品化された言葉の洪水・豊かな経済発展
辺見氏の問い掛けは、
現代文化が生産した物化した言(ことば)への問い掛けのようであった。
それは同時に生が死と分離したバーチャルな世界
それは同時に生活者と経済人が分裂しいがみ合う世界
詩人河津聖恵氏のブログに
「なぜ辺見さんは大道寺氏に句を作れと言ったのか。句集を出せと言ったのか。
それは同氏が癌に侵されているからだというだけではありません。
どんな時でも人間を救うのは言葉だからです。」
と書いてあった。
お前は語ることをやめよ
肉の言(ことば)は十字架に架けられた者の叫びから生まれる。
一人の死刑囚が永遠に負わなければならない十字架
一人の死刑囚が実存を掛けても報いきれない罪(原罪)
この死刑囚のためにイエスが現れたのだろう。
そして、この死刑囚のために、ヨハネが福音書を残したのだろう。
言(ことば)は
生に必然的に与えられた死を受け止める力
死というすべての命に与えられた不可避的自然
そのことを解し、
そのことを受け止める
我々の在り方のために
用意された言(ことば)
宿命を受け止める言(ことば)
沈黙から絞りでる血肉の言(ことば)
そして、その暗闇こそ、言の意味を教えるのだ。
暗闇は光を永遠に理解しない。
お前がその光で暗闇を照らそうとしたいなら、
もうその口調で、勇ましく暗闇を照らそうと語ることをやめよ。
引用、参考資料
辺見庸
http://yo-hemmi.net/
NHKETV特集「失われた言葉を探して」2012年4月15日 辺見庸出演
http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2012/0415.html
大道寺将著 『棺一基 大道寺将司全句集』(太田出版)
http://mmall.jp/item/170872390?aff_id=src0101&l=true
河津聖恵氏のブログ
詩空間「2012年4月16日 (月) 4月15日放送ETV特集「失われた言葉を探して」(1)」
http://reliance.blog.eonet.jp/default/
「河津聖恵(かわづ・きよえ)1961年東京都に生まれる。京都大学文学部卒業。1985年第23回現代詩手帖賞受賞。詩集に『姉の筆端』、『クウカンクラーゲ』、『Iritis』、『夏の終わり』(第9回歴程新鋭賞)、『アリア、この夜の裸体のために』(第53回H氏賞)、『青の太陽』『神は外せないイヤホンを』『新鹿』『龍神』『現代詩文庫183・河津聖恵詩集』。詩論集に『ルリアンス――他者と共にある詩』。野樹かずみとの共著に『christmas mountain わたしたちの路地』『天秤 わたしたちの空』。『朝鮮学校除外反対アンソロジー』発行」(詩空間 津聖恵氏のブログから引用)
2012年4月18日 誤字修正
(120417a)
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イースター(復活際)
西方教会の復活際の日2012年4月8日、友人夫婦の誘いで同志社教会に行った。
教会に行ったのはフランスに住んでいた時以来もう20年前になる。
無神論者の私は、以前から教会の雰囲気は好きだった。
キリスト教は宗教の中で、教義をもっとも分かりやすく教えている。
そして常に人々に分かりやすい言葉で書いた聖書が配布される。
また、教会によって多少の違いはあるが、お祈りのことばは、常に、今の生活世界に関する話題に触れている。
私は信者ではないので、讃美歌を歌うことも儀式に参列することもしない。
しかし、自分なりのやり方で教会のお祈りに参加している。
こうした無神論者の訪問すら、この教会の礼拝では違和感なく認められている。
ヨハネによる福音書から
この日の教会でのお話は「ヨハネによる福音書」の一節であった。
聖書を広げて、ヨハネによる福音書を読む。
「言(ことば)が肉となった」新約聖書 日本聖書協会 p163
「初めに言(ことば)がある。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。
成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の肉に命があった。
命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。
暗闇は光を理解しない。」
NHK ETV特集「失われた言葉を探して」2012年4月15日
偶然だった。NHKのETV特集「失われた言葉を探して」を観てしまった。
津波で跡形もなく消え去った実家、壊れた母校の姿を前にしながら、失われた言葉を探そうと苦悩する小説家辺見庸。
彼がであった「命・肉の言(ことば)」は死刑囚が独房の中で書き綴った俳句であった。
短い句に凝縮された肉の叫び。
表現の虚無化を意味することばの大量生産
余りにも簡単に言葉が流れでる仕組みを創った情報文化
余りにも多くの新語を生産し続ける高度知識社会
余りにも商品化された言葉の洪水・豊かな経済発展
辺見氏の問い掛けは、
現代文化が生産した物化した言(ことば)への問い掛けのようであった。
それは同時に生が死と分離したバーチャルな世界
それは同時に生活者と経済人が分裂しいがみ合う世界
詩人河津聖恵氏のブログに
「なぜ辺見さんは大道寺氏に句を作れと言ったのか。句集を出せと言ったのか。
それは同氏が癌に侵されているからだというだけではありません。
どんな時でも人間を救うのは言葉だからです。」
と書いてあった。
お前は語ることをやめよ
肉の言(ことば)は十字架に架けられた者の叫びから生まれる。
一人の死刑囚が永遠に負わなければならない十字架
一人の死刑囚が実存を掛けても報いきれない罪(原罪)
この死刑囚のためにイエスが現れたのだろう。
そして、この死刑囚のために、ヨハネが福音書を残したのだろう。
言(ことば)は
生に必然的に与えられた死を受け止める力
死というすべての命に与えられた不可避的自然
そのことを解し、
そのことを受け止める
我々の在り方のために
用意された言(ことば)
宿命を受け止める言(ことば)
沈黙から絞りでる血肉の言(ことば)
そして、その暗闇こそ、言の意味を教えるのだ。
暗闇は光を永遠に理解しない。
お前がその光で暗闇を照らそうとしたいなら、
もうその口調で、勇ましく暗闇を照らそうと語ることをやめよ。
引用、参考資料
辺見庸
http://yo-hemmi.net/
NHKETV特集「失われた言葉を探して」2012年4月15日 辺見庸出演
http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2012/0415.html
大道寺将著 『棺一基 大道寺将司全句集』(太田出版)
http://mmall.jp/item/170872390?aff_id=src0101&l=true
河津聖恵氏のブログ
詩空間「2012年4月16日 (月) 4月15日放送ETV特集「失われた言葉を探して」(1)」
http://reliance.blog.eonet.jp/default/
「河津聖恵(かわづ・きよえ)1961年東京都に生まれる。京都大学文学部卒業。1985年第23回現代詩手帖賞受賞。詩集に『姉の筆端』、『クウカンクラーゲ』、『Iritis』、『夏の終わり』(第9回歴程新鋭賞)、『アリア、この夜の裸体のために』(第53回H氏賞)、『青の太陽』『神は外せないイヤホンを』『新鹿』『龍神』『現代詩文庫183・河津聖恵詩集』。詩論集に『ルリアンス――他者と共にある詩』。野樹かずみとの共著に『christmas mountain わたしたちの路地』『天秤 わたしたちの空』。『朝鮮学校除外反対アンソロジー』発行」(詩空間 津聖恵氏のブログから引用)
2012年4月18日 誤字修正
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2012年4月16日月曜日
団塊の世代の私と友へ
三石博行
今、市民運動や反原発運動に関心が高まる中で、我々が誤った70年代の新左翼運動を正当化するものは何一つないことを理解すべきである。
原発推進派の犯した誤りによって、1970年代に暴力革命や爆弾テロをこころのどこかで支持した新左翼運動が正当性される根拠は何一つない。
むしろ、命や生活の大切さを知らない思想という意味では、新左翼運動は原発推進派(原発ムラの人々)と同質であると理解すべきである。
そして、福島原発事故で被曝し故郷から追い出される人々と爆弾テロで家族を失い生活を破壊された人々が同じ政治の犠牲者として理解できるこころを持たなければならない。
過去に自分達が信じた思想は、今の原発ムラの人々の考えと同じであることを自覚しなければならない。
過去の新左翼運動への厳しい自己批判や反省を抜きして、現在の市民運動のこころを本当に理解できるのか。
しかも、よく口から出ることばを思い出すがよい。
「今の若い人々は闘わない」
その発言の根拠を正せ。そして、その発言に秘められた傲慢で自己批判なき己を恥じよ。
謙虚に時代に学び、謙虚に現在を見つめよ。
過去への厳しい自照(自省)の気持ちなしに、本当にお前は今の状況が正しく見えるのか。
問いかける力を持て。
受け止める力を持て。
こころから湧き出すものを確りと抱きしめよ。
時間がないのだ。
2012年4月16日誤字修正
(120416b)
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今、市民運動や反原発運動に関心が高まる中で、我々が誤った70年代の新左翼運動を正当化するものは何一つないことを理解すべきである。
原発推進派の犯した誤りによって、1970年代に暴力革命や爆弾テロをこころのどこかで支持した新左翼運動が正当性される根拠は何一つない。
むしろ、命や生活の大切さを知らない思想という意味では、新左翼運動は原発推進派(原発ムラの人々)と同質であると理解すべきである。
そして、福島原発事故で被曝し故郷から追い出される人々と爆弾テロで家族を失い生活を破壊された人々が同じ政治の犠牲者として理解できるこころを持たなければならない。
過去に自分達が信じた思想は、今の原発ムラの人々の考えと同じであることを自覚しなければならない。
過去の新左翼運動への厳しい自己批判や反省を抜きして、現在の市民運動のこころを本当に理解できるのか。
しかも、よく口から出ることばを思い出すがよい。
「今の若い人々は闘わない」
その発言の根拠を正せ。そして、その発言に秘められた傲慢で自己批判なき己を恥じよ。
謙虚に時代に学び、謙虚に現在を見つめよ。
過去への厳しい自照(自省)の気持ちなしに、本当にお前は今の状況が正しく見えるのか。
問いかける力を持て。
受け止める力を持て。
こころから湧き出すものを確りと抱きしめよ。
時間がないのだ。
2012年4月16日誤字修正
(120416b)
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ポスト311時代のメディアとしての市民メデァイの社会的機能
何故 報道機能の改革が必要なのか(2)
三石博行
「ポスト311時代のメディアとは~公共的なメディアを取り戻す作戦会議 」
OurPlanetから「ポスト311時代のメディアとは~公共的なメディアを取り戻す作戦会議 」が配信されてきた。
OurPlanet制作番組「ポスト311時代のメディアとは~公共的なメディアを取り戻す作戦会議 」
メディアの公共性を育てるために
この番組は東京でOurPlanet-TVの代表理事の白石草さんが2011年の放送ウーマン賞を受賞されたのを記念に東京で開催されたイベントである。OurPlanet-TVらしく白石さんの受賞を祝うイベントというものでなくゲストを呼んで、3.11以後問われたメディアの公共性を課題にして意見を述べ合うパネルトーク会議を行った。
この「会議」は野中ともよ氏の司会で、公共放送NHKやマスコミの福島原発事故報道に関する意見交換が行われた。参加した人は、白石草氏、NHKアナウンサーの堀潤氏、東京新聞特報部デスクの野呂法夫氏、アイリーン・スミス氏、朝日新聞社の元信一氏、鎌仲ひとみ氏、上野千鶴子氏である。
それぞれの参加者が、素晴らしい考え方とジャーナリズムに対する意見を持っていた。
そんなに簡単にNHKを辞めると言いなさんな、堀潤さん
HKアナウンサーの堀潤氏は2年前から公共放送のあり方を問いかける意見をTwitterで発信し続けてきた国民が公共放送の中で働いて欲しいと最も願う人物である。そんなに簡単に辞表を出したり、また、NHKが自分の意見を聴かなかったら辞めるなどと、青臭いことは言わないで欲しいし、この番組で宣言したことも取り消して欲しいと思った。
NHKはこうした堀氏のような人物を入社させてことを自慢すべきであるし、入社試験で堂々と戦中のNHK・公共放送のあり方を批判し、国民のための公共放送を訴えた堀氏を採用した当時の理事会を私は高く評価したい。その意味で、NHKに堀氏と同じような考え方を持つジャーナリストが多く居て欲しいと願う。
だから、そんなに簡単に辞めると言ってはいけないですよ。堀さん。
公正な報道を支える人々の群れ
東京新聞が今回の福島原発事故報道を続けた背景に、先日、他界した清水美和氏の影響を見ることができた(1)。彼は、学生時代から正義感の強い人だった。当時(1972年)、京都大学の医、薬、農、理、工系の研究室や実験教室からは重金属を含む溶液が下水にそのまま流されていた。それは京都大学だけでなく、全ての大学、高校、そして企業研究所からも流されていた。
水俣病やイタイイタイ病の公害が社会問題になっている最中に、学問の府である大学が公害物質を垂れ流ししていたのである。当時の学生は、こうした大学の社会的責任を問題にしていた。その先頭に立っていた一人が清水君だった。
彼は、きっと、最後まであのときの正義感を貫いて生きたのだと思った。それが東京新聞への評価の一部となって結晶したのだろう。こうした人物が一人、ジャーナリズムの世界から消えたことは残念だ。しかし、彼と共に働いてきた人々がまた、彼の意思(意志)を継ぐだろう。
成熟した社会になろうとする今だからこそ報道が問われる
今、報道が問われている。この問いかけを行っている人々、国民は今までのように受身ではない。OurPlanet-TVのように自分達で情報を発信する人々が生まれ、コミュニティメディアの文化が少しずつではあるが着実に日本社会に浸透しつつあるからだ。だから、マスコミやNHKは、今までのように国民の情報操作を続けることは不可能なのだ。
福島原発事故の問題で、原発に関する報道機関の関わり方、原発事故報道を抑制してきた歴史、福島原発事故報道が検証されようとしている。この検証作業も先日のNHKのように形式的なものになる可能性は大きい。しかし、それらの検証作業に対して、国民はさらに厳しい意見を述べるだろう。
この番組で、朝日新聞社の隈元信一氏は、報道の公共性を報道機関のみでなくジャーナリストも自己検証をすべきであると話していた。多くの場合、報道機関は他の報道機関(他社)の原発報道に関する取材を行い、原発報道のあり方を検証する作業を行う傾向にあるが、むしろ、自分達(自社)を取材してはどうかと隈元氏は述べていた。
しかし、果たして、自社を検証する力を今の報道機関が持ち合わせているだろうか。それは無理かもしれない。むしろ、OurPlanet-TVのような市民の運営する報道機関の報道を積極的に紹介する方が現実的だと思う。OurPlanet-TVが制作した「徹底検証!テレビは原発事故をどう伝えたか?(前半)」 とその後半の報道番組(YouTube)を積極的に報道する方がいいと思う。
公共放送料金の5%をコミュニティメディアの払うべき
この番組で、白石氏はドイツのパブリックアクセスについて説明を行った。1980年代に民間放送が開設され、それまで国営放送が使用していた公共の電波を民間放送(企業)が使うことになった。民間企業が公共物(電波)を使用するなら市民も使用する権利があるとして出来たのがパブリックアクセスという制度らしい。そして、公共放送のために支払っている受信料の一部、2-3パーセントを、このパブリックアクセスに使う制度ができた。つまり、コミュニティメディアの活動に公共放送料金の一部が使われているのである。
公共放送やマスコミが正しく国民のために情報を流す社会的機能を維持していくためには、コミュニティメディアの役割を理解しなければならない。つまり、公共放送は国策に左右される宿命にあり、また、マスコミは経営体としての報道機能から逃れることはできない。その意味で公共放送やマスコミに国民のための報道を期待することの限界を知るべきだと思う。
つまり、それらの限界を公共放送自体が自覚し、またマスコミも同じく自らの経営体として運営される報道機能を自覚する必要がある。言い換えると、マスコミは公共報道機関に宿命的に存在し続ける報道の制限を受けないコミュニティメディアの存在意義を他方で理解する必要がある。そして、それらの市民メディアと共存する手段を考えなければならない。
自らの限界を知ることによって、逆にその限界の外枠に存在する市民メディアの存在意義が理解できるのである。つまり、民主主義社会(資本主義社会と先進国指導社会)の限界を自覚的に補助する報道機能を、自らの限界の外枠に創ることの意味を理解するのである。
そのためには、社会を挙げて、コミュニティメディア文化を育てることである。そのために、公共放送の5%をコミュニティメディアの支払う法律を作りるべきではないだろうか。そして、企業の広告宣伝費で成立する民間放送局も同様に市民メディアを育てるための報道、つまり無料の市民メディアの宣伝を行うことを義務化する法律を作るべきではないだろうか。
引用、参考資料
(1) 三石博行 「友の死を悼む」2012年4月14日
httsuip://mitshi.blogspot.jp/2012/04/blog-post_4565.html
(2) 三石博行 「HKK・公共放送は誰のために「原発事故報道の検証」作業を行ったのか 」2012年4月13日
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/04/hkk.html
(3) OurPlanet-TV
(4) 伊藤 守著 『テレビは原発事故をどう伝えたのか』 (平凡社新書)2012.1
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関連ブログ文書集
三石博行 ブログ文書集「民主主義文化としての報道機能について」
三石博行 ブログ文書集「わが国の民主主義文化を発展させるための課題について」
三石博行 ブログ文書集「市民運動論」
三石博行 ブログ文書集「人権学試論」
2012年4月16日、一部文書訂正
(120416a)
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三石博行
「ポスト311時代のメディアとは~公共的なメディアを取り戻す作戦会議 」
OurPlanetから「ポスト311時代のメディアとは~公共的なメディアを取り戻す作戦会議 」が配信されてきた。
OurPlanet制作番組「ポスト311時代のメディアとは~公共的なメディアを取り戻す作戦会議 」
メディアの公共性を育てるために
この番組は東京でOurPlanet-TVの代表理事の白石草さんが2011年の放送ウーマン賞を受賞されたのを記念に東京で開催されたイベントである。OurPlanet-TVらしく白石さんの受賞を祝うイベントというものでなくゲストを呼んで、3.11以後問われたメディアの公共性を課題にして意見を述べ合うパネルトーク会議を行った。
この「会議」は野中ともよ氏の司会で、公共放送NHKやマスコミの福島原発事故報道に関する意見交換が行われた。参加した人は、白石草氏、NHKアナウンサーの堀潤氏、東京新聞特報部デスクの野呂法夫氏、アイリーン・スミス氏、朝日新聞社の元信一氏、鎌仲ひとみ氏、上野千鶴子氏である。
それぞれの参加者が、素晴らしい考え方とジャーナリズムに対する意見を持っていた。
そんなに簡単にNHKを辞めると言いなさんな、堀潤さん
HKアナウンサーの堀潤氏は2年前から公共放送のあり方を問いかける意見をTwitterで発信し続けてきた国民が公共放送の中で働いて欲しいと最も願う人物である。そんなに簡単に辞表を出したり、また、NHKが自分の意見を聴かなかったら辞めるなどと、青臭いことは言わないで欲しいし、この番組で宣言したことも取り消して欲しいと思った。
NHKはこうした堀氏のような人物を入社させてことを自慢すべきであるし、入社試験で堂々と戦中のNHK・公共放送のあり方を批判し、国民のための公共放送を訴えた堀氏を採用した当時の理事会を私は高く評価したい。その意味で、NHKに堀氏と同じような考え方を持つジャーナリストが多く居て欲しいと願う。
だから、そんなに簡単に辞めると言ってはいけないですよ。堀さん。
公正な報道を支える人々の群れ
東京新聞が今回の福島原発事故報道を続けた背景に、先日、他界した清水美和氏の影響を見ることができた(1)。彼は、学生時代から正義感の強い人だった。当時(1972年)、京都大学の医、薬、農、理、工系の研究室や実験教室からは重金属を含む溶液が下水にそのまま流されていた。それは京都大学だけでなく、全ての大学、高校、そして企業研究所からも流されていた。
水俣病やイタイイタイ病の公害が社会問題になっている最中に、学問の府である大学が公害物質を垂れ流ししていたのである。当時の学生は、こうした大学の社会的責任を問題にしていた。その先頭に立っていた一人が清水君だった。
彼は、きっと、最後まであのときの正義感を貫いて生きたのだと思った。それが東京新聞への評価の一部となって結晶したのだろう。こうした人物が一人、ジャーナリズムの世界から消えたことは残念だ。しかし、彼と共に働いてきた人々がまた、彼の意思(意志)を継ぐだろう。
成熟した社会になろうとする今だからこそ報道が問われる
今、報道が問われている。この問いかけを行っている人々、国民は今までのように受身ではない。OurPlanet-TVのように自分達で情報を発信する人々が生まれ、コミュニティメディアの文化が少しずつではあるが着実に日本社会に浸透しつつあるからだ。だから、マスコミやNHKは、今までのように国民の情報操作を続けることは不可能なのだ。
福島原発事故の問題で、原発に関する報道機関の関わり方、原発事故報道を抑制してきた歴史、福島原発事故報道が検証されようとしている。この検証作業も先日のNHKのように形式的なものになる可能性は大きい。しかし、それらの検証作業に対して、国民はさらに厳しい意見を述べるだろう。
この番組で、朝日新聞社の隈元信一氏は、報道の公共性を報道機関のみでなくジャーナリストも自己検証をすべきであると話していた。多くの場合、報道機関は他の報道機関(他社)の原発報道に関する取材を行い、原発報道のあり方を検証する作業を行う傾向にあるが、むしろ、自分達(自社)を取材してはどうかと隈元氏は述べていた。
しかし、果たして、自社を検証する力を今の報道機関が持ち合わせているだろうか。それは無理かもしれない。むしろ、OurPlanet-TVのような市民の運営する報道機関の報道を積極的に紹介する方が現実的だと思う。OurPlanet-TVが制作した「徹底検証!テレビは原発事故をどう伝えたか?(前半)」 とその後半の報道番組(YouTube)を積極的に報道する方がいいと思う。
公共放送料金の5%をコミュニティメディアの払うべき
この番組で、白石氏はドイツのパブリックアクセスについて説明を行った。1980年代に民間放送が開設され、それまで国営放送が使用していた公共の電波を民間放送(企業)が使うことになった。民間企業が公共物(電波)を使用するなら市民も使用する権利があるとして出来たのがパブリックアクセスという制度らしい。そして、公共放送のために支払っている受信料の一部、2-3パーセントを、このパブリックアクセスに使う制度ができた。つまり、コミュニティメディアの活動に公共放送料金の一部が使われているのである。
公共放送やマスコミが正しく国民のために情報を流す社会的機能を維持していくためには、コミュニティメディアの役割を理解しなければならない。つまり、公共放送は国策に左右される宿命にあり、また、マスコミは経営体としての報道機能から逃れることはできない。その意味で公共放送やマスコミに国民のための報道を期待することの限界を知るべきだと思う。
つまり、それらの限界を公共放送自体が自覚し、またマスコミも同じく自らの経営体として運営される報道機能を自覚する必要がある。言い換えると、マスコミは公共報道機関に宿命的に存在し続ける報道の制限を受けないコミュニティメディアの存在意義を他方で理解する必要がある。そして、それらの市民メディアと共存する手段を考えなければならない。
自らの限界を知ることによって、逆にその限界の外枠に存在する市民メディアの存在意義が理解できるのである。つまり、民主主義社会(資本主義社会と先進国指導社会)の限界を自覚的に補助する報道機能を、自らの限界の外枠に創ることの意味を理解するのである。
そのためには、社会を挙げて、コミュニティメディア文化を育てることである。そのために、公共放送の5%をコミュニティメディアの支払う法律を作りるべきではないだろうか。そして、企業の広告宣伝費で成立する民間放送局も同様に市民メディアを育てるための報道、つまり無料の市民メディアの宣伝を行うことを義務化する法律を作るべきではないだろうか。
引用、参考資料
(1) 三石博行 「友の死を悼む」2012年4月14日
httsuip://mitshi.blogspot.jp/2012/04/blog-post_4565.html
(2) 三石博行 「HKK・公共放送は誰のために「原発事故報道の検証」作業を行ったのか 」2012年4月13日
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/04/hkk.html
(3) OurPlanet-TV
(4) 伊藤 守著 『テレビは原発事故をどう伝えたのか』 (平凡社新書)2012.1
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関連ブログ文書集
三石博行 ブログ文書集「民主主義文化としての報道機能について」
三石博行 ブログ文書集「わが国の民主主義文化を発展させるための課題について」
三石博行 ブログ文書集「市民運動論」
三石博行 ブログ文書集「人権学試論」
2012年4月16日、一部文書訂正
(120416a)
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2012年4月14日土曜日
日常性という根拠なき世界の中で
孤独な闘いは限りなく続くと思う。
ただ、黙々と進む以外に、もう私には為すべき方法が見つからないのだ。
そして、時折、敢えて自問する。
「いったい、この作業に何の意味があるのだろうか」と
この問いに私は答えを見つけられないのだ。
そして、この問いに対して
「そう信じる以上、やるしかないのだ」と言う。
説明することの出来ない情念の世界。
その意味を説明できない根拠なき世界。
その虚無の真っただ中で、私は今日も黙々と歩く。
黙々と歩くことに意味を感じながら。
そう信じている私に力を与えよ。
そうしか生きられない私に勇気を与えよ。
ただ、ひたすらにこの根拠なき希望の世界を進むのみなのだ。
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ただ、黙々と進む以外に、もう私には為すべき方法が見つからないのだ。
そして、時折、敢えて自問する。
「いったい、この作業に何の意味があるのだろうか」と
この問いに私は答えを見つけられないのだ。
そして、この問いに対して
「そう信じる以上、やるしかないのだ」と言う。
説明することの出来ない情念の世界。
その意味を説明できない根拠なき世界。
その虚無の真っただ中で、私は今日も黙々と歩く。
黙々と歩くことに意味を感じながら。
そう信じている私に力を与えよ。
そうしか生きられない私に勇気を与えよ。
ただ、ひたすらにこの根拠なき希望の世界を進むのみなのだ。
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友の死を悼む
最近、多くの友人達の逝去の知らせが入ってくる。そううい歳になったのだと自覚する。
中学時代の友人の木下重治君、、京大で毒物垂れ流し糾弾闘争をしていた清水美和君、そして伊方原発反対闘争をしていた重松君(おそ松君の愛称で呼ばれていた。彼は今から3年前にすでに他界していた)や尾崎氏の奥さん。
それらの人々の顔が想い出される。いつも間にかこの世から消えていく。これは避けがた命の在り方なのだろう。
思い出すと、今から30年近い前に京大安全センターを共に創った長瀬君が亡くなった知らせをフランスで知った時、あの懐かし声や表情を思い出し、涙がこぼれた。残念でたまらなかった。傍にいてやれなかった自分を詫びた。彼は優秀だった。そして何よりも心の優しい人だった。家族をおいて他界へ行った彼。どうしてなのか。そのわけを会って聞いてみたいと思った。彼が書いた手紙を今でも持っている。それが彼が私に残してくれたただ一つの送りものになってしまった。
こうして、多くの友人達が去っていくのだ。そして、いつか自分も、最愛の人も、去ることになるのは確かだ。
何のために生きたのか。それを問い掛けるのは、生きている現在があるからだろう。
もし、死んでしまった後に、誰が、この問い掛けをするだろうか。
何に向かって生きようとしているのか。そんな問い掛けが生まれるのは、今が十分でないからだろう。
いつまでたっても、今が十分だと思えたことのない自分に、いつか、この問い掛けが消える日があるだろうか。
その時は、今の私が消える時なのかもしれない。
多くの大切な人々が去ってゆく。榊の伯父さん、両親も、大切なことを教えてくれた父、好きだった母、尊敬していた母。そして岩松先生。世話になった義父や義母や角田の義伯父さん、もう会えない大切な人が増えてゆく。
多くの尊敬していた人が去って行った。上田等氏、黒川幸夫先生、岸田綱太郎先生、梅棹忠男先生、吉田民人先生。
これからも、多くの親しい友人達が私より先に、旅立つに違いない。
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中学時代の友人の木下重治君、、京大で毒物垂れ流し糾弾闘争をしていた清水美和君、そして伊方原発反対闘争をしていた重松君(おそ松君の愛称で呼ばれていた。彼は今から3年前にすでに他界していた)や尾崎氏の奥さん。
それらの人々の顔が想い出される。いつも間にかこの世から消えていく。これは避けがた命の在り方なのだろう。
思い出すと、今から30年近い前に京大安全センターを共に創った長瀬君が亡くなった知らせをフランスで知った時、あの懐かし声や表情を思い出し、涙がこぼれた。残念でたまらなかった。傍にいてやれなかった自分を詫びた。彼は優秀だった。そして何よりも心の優しい人だった。家族をおいて他界へ行った彼。どうしてなのか。そのわけを会って聞いてみたいと思った。彼が書いた手紙を今でも持っている。それが彼が私に残してくれたただ一つの送りものになってしまった。
こうして、多くの友人達が去っていくのだ。そして、いつか自分も、最愛の人も、去ることになるのは確かだ。
何のために生きたのか。それを問い掛けるのは、生きている現在があるからだろう。
もし、死んでしまった後に、誰が、この問い掛けをするだろうか。
何に向かって生きようとしているのか。そんな問い掛けが生まれるのは、今が十分でないからだろう。
いつまでたっても、今が十分だと思えたことのない自分に、いつか、この問い掛けが消える日があるだろうか。
その時は、今の私が消える時なのかもしれない。
多くの大切な人々が去ってゆく。榊の伯父さん、両親も、大切なことを教えてくれた父、好きだった母、尊敬していた母。そして岩松先生。世話になった義父や義母や角田の義伯父さん、もう会えない大切な人が増えてゆく。
多くの尊敬していた人が去って行った。上田等氏、黒川幸夫先生、岸田綱太郎先生、梅棹忠男先生、吉田民人先生。
これからも、多くの親しい友人達が私より先に、旅立つに違いない。
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何故、今、市民運動論が問われるのだろうか
成熟した民主主義社会文化の日本を建設するために
三石博行
経済中心主義戦後民主主義の終焉、2009年8月30日
何故、今、市民運動論について論じるのか。それは、現在の日本社会の中で、民主主義社会を成熟させるための課題が問われているからである。言換えると、この課題は21世紀の日本社会の在り方を問い掛けている。
この課題が国民的に問われたのは、2007年7月の参議院選挙を経て2009年8月30日の第45回衆議院総選挙によって政権交代が行われた時からではないだろうか。この二つの選挙で国民は戦後の殆どの期間を政権与党として国政を担ってき自民党から民主党へ政権交代を命じた。
政治主導の敗北の意味
自民党政権への国民的批判があると言うのがこの政権交代の背景を語る極めて表層的な説明である。しかし、この政権交代は自民党によって社会改革はできないという国民の判断があった。自民党を打っ潰すと言って自民党政権を強固なものにした小泉政権の成立、それを引き次いだ安部政権、しかし、この自民党ですら変革できない強烈な国家体制が存在している。国民はその強烈な利権集団が何者かを知っている。
それに立ち向かえる力を持つものと期待されて生まれた民主党政権であった。政治主導を掲げて民主党政権は、明治維新以来、近代日本の繁栄を指導し、また敗戦国家日本を経済大国に導くために貢献した国家的専門家集団・官僚組織をまともに敵に回そうとしていた。官僚の力は強大であり、彼らの持つ専門的能力を凌ぐ議員集団が形成されない限り、政治主導は掛け声に終わることは明らかである。そのことを民主党は痛いほど経験した訳だ。そして、民主党は官僚体制に立ち向かう気力や官僚主導型国家から脱却する具体的政策を持ち合わせているだろうか心配である。
野党は勿論、世論にも政治主導主義が引き起こす国政の混乱が指摘され、民主党の中にも軌道修正を求める声が起る中で、唯一、政治主導を言い続けた小沢氏は司法権力(司法官僚組織)によって政治生命に大きな打撃を受け、また市民派を称する管直人氏も原発事故対策では四面楚歌を味わうのである。
つまり、民主党が無能であったということよりも、民主党の政治主導型が完全に失敗したために、野田政権では極めて現実的な対応を取っているのである。それが野田首相が行うエネルギー政策であり原発政策であるように思われる。
ねじれ国家という国民不在の立法機能現象
しかも、2010年の参議院選挙に敗北した民主党政権は困難な国会運営を行うことになる。自民党は政局論争を先行させ、国会は空転し続けている。
このねじれ国家と呼ばれる国民不在の立法機能不全現象が深刻な問題として国民に理解されたのは、2011年3月11日の東日本大震災と東電福島第一原子力発電所事故以後であった。2007年参議院選挙以後2009年までの自民党政権時代もねじれ国家の状態であったが、この時には、ねじれ国家が引き起こす立法機能不全に関して国民は深刻な事柄として理解していなかった。
ねじれ国会が引き起こしている立法機能不全を国民が骨身に沁みて理解したのは、2011年3月11日の東日本大震災と東電福島第一原子力発電所事故以後であった。ねじれ国会によって、敏速に行わなければならない国家の意志決定、当然、議会制民主主義による法治国家・民主主義国家である以上、法的根拠がなければ国家は動かないし、行政は機能しない。その最初、危機に対応するために必要な政策決定を決める土台、立法機能がマヒしているのである。
国家では、国家の危機、被害に苦しむ国民のために政治は運営されず、政治家の失策や失言を巡る国会質問が優先され、その収束点に内閣不信任決議や国会解散が議論し続けられた。つまり、震災に苦しむ国民の救済ではなく、政局論争が国会の討議で優先され続けてきた。この異常な事態に対して、国民の絶望や怒りは、次第に嘲笑に変わり、国会には何も望めないのかという絶望感すら生まれているのである。
代理人不信から自らこの社会を変える主体になれるのか
この国家的危機を救うのは誰か。それは国民が政治を委託した代理人(議員)ではなく、国民自身であることを国民は次第に自覚し始めているのではないだろうか。そして、これまでの全ての民主主義の歴史に新しく成熟した民主主義の歴史を書き加えるなら、国民自身が自ら政治に参画することを要求するだろう。
しかし、この要求は、即座に現在のわが国の民主主義制度、間接民主主義を変革する方向で展開するとは思えないし、国民には、代理人としての政治参加の経験(選挙で投票すると言うこと)しかないのである。この貧弱な民主主義制度への参加体験を基本的に補い、豊かな社会参加を実現する手段が市民運動なのである。
だが、こうした結論が国民的な意見となっている訳ではない。それを示す社会現象として橋下徹氏への国民的評価である。多くの国民は、素晴らしい代理人の登場を待ち望んでいる。代理人が変われば、何とか自分達が望む社会になってくれると期待しているのである。
この最後の国民の期待が裏切られることを望む訳ではないが、これまでの小泉自民党政権に期待し、そして民主党に期待した我々が、また橋下徹氏の大阪維新の会に期待している構造は全く類似しているように思える。その類似性が正しいなら、きっといつか、同じ失敗を我々は味わうことになるのではないだろうか。
しかし、だからと言って、改革を進めようとする人々に期待を掛けない人々がいるだろうか。期待するのは当然の社会現象ではないか。しかし、それと同時にそれにいつか失望するのも、また、当然の社会現象だとも言えるだろう。それが民主主義の運営を代理人に委託している我々の宿命ではないか。そして、同時に、未来の社会から、我々は、「代理人不信を掲げるなら、自らこの社会を変える主体になれるのか」と問われているのではないだろうか。
社会運営に参画する運動かそれとも反体制運動か、問われた市民運動論
しかし、これまでの市民運動や社会運動は、イデオロギー運動としてレッテルを張られ続けた。その代表例が反原発運動であり、現在でも、反原発運動をイデオロギー的な運動、つまり、一部左翼過激派の運動であると評論する人々や世論に出会うのである。
この事態を打破し、市民運動や社会運動が一部政治思想団体のイデオロギー運動でなく、日本社会の民主主義文化の成熟に欠かせない国民運動であることを説明しなければならないと思った。しかし、この私の思いが、これまた主観的な思い込みや希望的なスローガンであってはならないのである。
そのために、社会運動や市民運動の起源を分析し、政治化した過去の社会運動、特に戦前戦中、さらに55年体制時代の労働の時代・社会的背景と非政治化する現代社会運動や市民運動を一つの社会学的理論によって一貫して説明できなければならないのではないかと考えた。
そこで、この市民運動論を書く作業を始めた。この作業事態が一つの思考的な実験である。その基本理論に吉田民人先生に影響され展開した「生活資源論」を置いた(1)。この理論から、社会運動論が展開できるか、それもまた、私の理論を検証するための思考実験である。
引用、参考資料
(1)三石博行 「設計科学としての生活学の構築 -人工物プログラム科学としての生活学の構図に向けて」 金蘭短期大学 研究誌33号 2002年12月 pp21-60
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_02/cMITShir02d.pdf
(2) 三石博行 「生活資源論」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_02.html
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関連ブログ文書集
三石博行 ブログ文書集「市民運動論」
三石博行 ブログ文書集「人権学試論」
三石博行 ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」
三石博行 ブログ文書集「日本の政治改革への提言」
三石博行 ブログ文書集「持続可能なエネルギー生産社会を目指すために」
三石博行 ブログ文書集「民主主義文化としての報道機能について」
三石博行 ブログ文書集「東日本大震災からの復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」
三石博行 ブログ文書集「わが国の民主主義文化を発展させるための課題について」
2012年4月16日 誤字修正
(120414a)
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三石博行
経済中心主義戦後民主主義の終焉、2009年8月30日
何故、今、市民運動論について論じるのか。それは、現在の日本社会の中で、民主主義社会を成熟させるための課題が問われているからである。言換えると、この課題は21世紀の日本社会の在り方を問い掛けている。
この課題が国民的に問われたのは、2007年7月の参議院選挙を経て2009年8月30日の第45回衆議院総選挙によって政権交代が行われた時からではないだろうか。この二つの選挙で国民は戦後の殆どの期間を政権与党として国政を担ってき自民党から民主党へ政権交代を命じた。
政治主導の敗北の意味
自民党政権への国民的批判があると言うのがこの政権交代の背景を語る極めて表層的な説明である。しかし、この政権交代は自民党によって社会改革はできないという国民の判断があった。自民党を打っ潰すと言って自民党政権を強固なものにした小泉政権の成立、それを引き次いだ安部政権、しかし、この自民党ですら変革できない強烈な国家体制が存在している。国民はその強烈な利権集団が何者かを知っている。
それに立ち向かえる力を持つものと期待されて生まれた民主党政権であった。政治主導を掲げて民主党政権は、明治維新以来、近代日本の繁栄を指導し、また敗戦国家日本を経済大国に導くために貢献した国家的専門家集団・官僚組織をまともに敵に回そうとしていた。官僚の力は強大であり、彼らの持つ専門的能力を凌ぐ議員集団が形成されない限り、政治主導は掛け声に終わることは明らかである。そのことを民主党は痛いほど経験した訳だ。そして、民主党は官僚体制に立ち向かう気力や官僚主導型国家から脱却する具体的政策を持ち合わせているだろうか心配である。
野党は勿論、世論にも政治主導主義が引き起こす国政の混乱が指摘され、民主党の中にも軌道修正を求める声が起る中で、唯一、政治主導を言い続けた小沢氏は司法権力(司法官僚組織)によって政治生命に大きな打撃を受け、また市民派を称する管直人氏も原発事故対策では四面楚歌を味わうのである。
つまり、民主党が無能であったということよりも、民主党の政治主導型が完全に失敗したために、野田政権では極めて現実的な対応を取っているのである。それが野田首相が行うエネルギー政策であり原発政策であるように思われる。
ねじれ国家という国民不在の立法機能現象
しかも、2010年の参議院選挙に敗北した民主党政権は困難な国会運営を行うことになる。自民党は政局論争を先行させ、国会は空転し続けている。
このねじれ国家と呼ばれる国民不在の立法機能不全現象が深刻な問題として国民に理解されたのは、2011年3月11日の東日本大震災と東電福島第一原子力発電所事故以後であった。2007年参議院選挙以後2009年までの自民党政権時代もねじれ国家の状態であったが、この時には、ねじれ国家が引き起こす立法機能不全に関して国民は深刻な事柄として理解していなかった。
ねじれ国会が引き起こしている立法機能不全を国民が骨身に沁みて理解したのは、2011年3月11日の東日本大震災と東電福島第一原子力発電所事故以後であった。ねじれ国会によって、敏速に行わなければならない国家の意志決定、当然、議会制民主主義による法治国家・民主主義国家である以上、法的根拠がなければ国家は動かないし、行政は機能しない。その最初、危機に対応するために必要な政策決定を決める土台、立法機能がマヒしているのである。
国家では、国家の危機、被害に苦しむ国民のために政治は運営されず、政治家の失策や失言を巡る国会質問が優先され、その収束点に内閣不信任決議や国会解散が議論し続けられた。つまり、震災に苦しむ国民の救済ではなく、政局論争が国会の討議で優先され続けてきた。この異常な事態に対して、国民の絶望や怒りは、次第に嘲笑に変わり、国会には何も望めないのかという絶望感すら生まれているのである。
代理人不信から自らこの社会を変える主体になれるのか
この国家的危機を救うのは誰か。それは国民が政治を委託した代理人(議員)ではなく、国民自身であることを国民は次第に自覚し始めているのではないだろうか。そして、これまでの全ての民主主義の歴史に新しく成熟した民主主義の歴史を書き加えるなら、国民自身が自ら政治に参画することを要求するだろう。
しかし、この要求は、即座に現在のわが国の民主主義制度、間接民主主義を変革する方向で展開するとは思えないし、国民には、代理人としての政治参加の経験(選挙で投票すると言うこと)しかないのである。この貧弱な民主主義制度への参加体験を基本的に補い、豊かな社会参加を実現する手段が市民運動なのである。
だが、こうした結論が国民的な意見となっている訳ではない。それを示す社会現象として橋下徹氏への国民的評価である。多くの国民は、素晴らしい代理人の登場を待ち望んでいる。代理人が変われば、何とか自分達が望む社会になってくれると期待しているのである。
この最後の国民の期待が裏切られることを望む訳ではないが、これまでの小泉自民党政権に期待し、そして民主党に期待した我々が、また橋下徹氏の大阪維新の会に期待している構造は全く類似しているように思える。その類似性が正しいなら、きっといつか、同じ失敗を我々は味わうことになるのではないだろうか。
しかし、だからと言って、改革を進めようとする人々に期待を掛けない人々がいるだろうか。期待するのは当然の社会現象ではないか。しかし、それと同時にそれにいつか失望するのも、また、当然の社会現象だとも言えるだろう。それが民主主義の運営を代理人に委託している我々の宿命ではないか。そして、同時に、未来の社会から、我々は、「代理人不信を掲げるなら、自らこの社会を変える主体になれるのか」と問われているのではないだろうか。
社会運営に参画する運動かそれとも反体制運動か、問われた市民運動論
しかし、これまでの市民運動や社会運動は、イデオロギー運動としてレッテルを張られ続けた。その代表例が反原発運動であり、現在でも、反原発運動をイデオロギー的な運動、つまり、一部左翼過激派の運動であると評論する人々や世論に出会うのである。
この事態を打破し、市民運動や社会運動が一部政治思想団体のイデオロギー運動でなく、日本社会の民主主義文化の成熟に欠かせない国民運動であることを説明しなければならないと思った。しかし、この私の思いが、これまた主観的な思い込みや希望的なスローガンであってはならないのである。
そのために、社会運動や市民運動の起源を分析し、政治化した過去の社会運動、特に戦前戦中、さらに55年体制時代の労働の時代・社会的背景と非政治化する現代社会運動や市民運動を一つの社会学的理論によって一貫して説明できなければならないのではないかと考えた。
そこで、この市民運動論を書く作業を始めた。この作業事態が一つの思考的な実験である。その基本理論に吉田民人先生に影響され展開した「生活資源論」を置いた(1)。この理論から、社会運動論が展開できるか、それもまた、私の理論を検証するための思考実験である。
引用、参考資料
(1)三石博行 「設計科学としての生活学の構築 -人工物プログラム科学としての生活学の構図に向けて」 金蘭短期大学 研究誌33号 2002年12月 pp21-60
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_02/cMITShir02d.pdf
(2) 三石博行 「生活資源論」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_02.html
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関連ブログ文書集
三石博行 ブログ文書集「市民運動論」
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三石博行 ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」
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2012年4月16日 誤字修正
(120414a)
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2012年4月13日金曜日
HKK・公共放送は誰のために「原発事故報道の検証」作業を行ったのか
国民のための国民の公共放送が民主主義の成熟に繋がる
三石博行
民主主義の成熟を担う公共放送の社会的機能のために
国民主権、民主主義社会日本でのNHK・公共放送の社会的機能は大きい。正しく国民のための報道を行い。そして国民に支援され、国民が参画する運営を行うことで、公共放送は国民主権国家の大切な情報報道機能となると信じている。その意味で、小泉政権時代に行政改革の課題で取り上げられた公共放送の廃止・民営化の提案に反対だ。
しかし、今回のNHKの原発事故の初期の報道には大きな疑問を感じた。そして、インターネットにNHKの報道に関する多くの批判が流れた。このことをNHKの運営委員会(執行部)や報道編集責任者は重く受け止めたと思う。その後、NHKは原発事故に関して素晴らしい報道を続けた。その報道の内容は世界的にも評価されるものであるし、今後もその報道番組が世界中の原発問題で引用されることになると思う。
しかし、今回、NHKが作成した、NHKの原発事故報道に関する検証に関する番組を見た時、原発事故直後に報道した番組から受けた不信感を思い出させた。この不信感は長年、国民がNHKの官僚的な体質や政府批判を恐れ国民に正しくない報道をしてきたのではないかという感情に根ざすように思われた。
そこで、民主主義社会の大切な機能としての公共放送の在り方を考えなければならないと思った。つまり、国民主権国家では国民のための国民による国民の報道機能・公共放送が絶対に必要である。その機能を担うのがNHKである。公共放送を廃止することは、民主主義の成熟を妨害する政策である。その意味で、NHKは、今回の原発事故に関する検証の在り方を、再度、根本的に見直し、点検しなければならないと思う。
間違いだらけの原発事故報道とお粗末な原発事故報道の検証番組
先日、NHKの原発事故報道の検証作業を行った番組(NHK)を見た。3月11日、東日本大震災の直後、大津波に飲み込まれる東北の町の悲惨な映像に完全に滅入っていた時、東京電力福島第一原子力発電所で冷却装置の電源喪失が伝えられた。始め、電源の一部が喪失しているという情報であったが、次第に、全電源喪失の事態であると伝えら始めた。
3月11日(金曜日)の夕刻から3月13日まで、テレビ画面から離れられない状態で、地震や津波被害に関する情報と原発事故の情報を追いかけていた。NHKが原発事故の解説に起用したのが東大教授の関村直人氏であった。彼は、一貫して原発事故の重大性を否定し続けた。そして水素爆発が生じる筈がないと断言したその二、三時間後に一号機が爆発した。しかし、彼は爆発で飛び散る建屋、灰色の煙を画面で見ながら「安全のために放射性物質を放出している」爆発的開弁作業の光景であると説明した。しかも、格納容器が壊れていないために、多量の放射性物質が放出されることはないとまで言った。
こうしたテレビ場面を見ながら激しい怒りがこみ上げ、ブログに書いた。国民の命を守ろうとしないNHKの報道姿勢と大学教員(専門家)の態度。この映像が残る限り、NHKは当時の原発報道への責任を永久に(歴史的に)逃れることはできないのである。
それが、今回のNHKの原発事故報道の検証番組では、何一つとして語られなかった。それどころか、NHKの原発事故報道が評価されていた。一体、NHKの誰がこの検証番組をつくったのか、これこそ、NHKが今後、またその公共放送の責任を歴史的に問われる材料となるだろう。そして、高度な情報化社会では、NHKの流した番組を歴史的に葬ることはできない。この番組はNHKの汚点となるだろう。
報道の検証作業を報道機関に任せてはならない
こうした中で、唯一、原発事故の報道への公正な検証作業が進んでいる。それを行っているのは、民放ではない。市民の手によって市民の報道機能を構築しようとしているNPOである。OurPlanet-TV(代表理事白石草氏)が行った「徹底検証!テレビは原発事故をどう伝えたか?」(前半)(後半)を是非とも見てほしい。
報道が事実を伝えなければ民主主義社会は形成されない。特に公共放送はその社会的責任をもっている。NHKは、国民の税金(強制的に徴収する受信料)によって運営され、国民の選んだ国会に於いて経営委員が選出承認されている公共報道機関である。その意味においても、今回の原発報道で誤った情報を流し、またそのために多くの人々が被曝したこと、一体、公共放送は何を守ろうとしたのか、そう問われた。その答えは明らかである。
つまり、あの時点で(今は違うが)NHKが守ろうとしたのは国民ではなく、東電や原子力ムラではなかったか。そう極論されても仕方がない。その証拠が、今回の検証番組であった。NHKは当時の原発報道の事実を隠そうとした。NHKの作成したこの番組は原発事故報道をした3.11の時点にNHKの評価を落としてしまったようだ。こんなみっともないことをしていたら、世界の報道機関に、そして未来の人々に笑われるだろう。
NHkへの受信料不払い運動が起っても当然だろう。NHKは、今、国民のための報道機関として姿勢を厳しく問われている。そして、その検証作業を彼らに任せてはならないことが、今回の番組、NHKの原発事故報道の自己点検(検証)作業で明らかになった。
原発事故報道を徹底的に検証しよう
OurPlanet-TV(代表理事白石草氏)が作成した「徹底検証!テレビは原発事故をどう伝えたか?」(前半)(後半)を紹介します。この番組から、私達は災害報道の在り方や報道機関の取るべき態度について考える機会を得ることが出来ると思う。
OurPlanet-TV制作「徹底検証!テレビは原発事故をどう伝えたか?(前半)」
OurPlanet-TV制作「徹底検証!テレビは原発事故をどう伝えたか?(後半)」
参考資料
OurPlanet-TV
伊藤 守著 『テレビは原発事故をどう伝えたのか』 (平凡社新書)2012.1
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関連ブログ文書集
三石博行 ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」
三石博行 ブログ文書集「民主主義文化としての報道機能について」
三石博行 ブログ文書集「市民運動論」
2012年4月14日、文書加筆
2012年4月16日、誤字修正
(120413a)
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三石博行
民主主義の成熟を担う公共放送の社会的機能のために
国民主権、民主主義社会日本でのNHK・公共放送の社会的機能は大きい。正しく国民のための報道を行い。そして国民に支援され、国民が参画する運営を行うことで、公共放送は国民主権国家の大切な情報報道機能となると信じている。その意味で、小泉政権時代に行政改革の課題で取り上げられた公共放送の廃止・民営化の提案に反対だ。
しかし、今回のNHKの原発事故の初期の報道には大きな疑問を感じた。そして、インターネットにNHKの報道に関する多くの批判が流れた。このことをNHKの運営委員会(執行部)や報道編集責任者は重く受け止めたと思う。その後、NHKは原発事故に関して素晴らしい報道を続けた。その報道の内容は世界的にも評価されるものであるし、今後もその報道番組が世界中の原発問題で引用されることになると思う。
しかし、今回、NHKが作成した、NHKの原発事故報道に関する検証に関する番組を見た時、原発事故直後に報道した番組から受けた不信感を思い出させた。この不信感は長年、国民がNHKの官僚的な体質や政府批判を恐れ国民に正しくない報道をしてきたのではないかという感情に根ざすように思われた。
そこで、民主主義社会の大切な機能としての公共放送の在り方を考えなければならないと思った。つまり、国民主権国家では国民のための国民による国民の報道機能・公共放送が絶対に必要である。その機能を担うのがNHKである。公共放送を廃止することは、民主主義の成熟を妨害する政策である。その意味で、NHKは、今回の原発事故に関する検証の在り方を、再度、根本的に見直し、点検しなければならないと思う。
間違いだらけの原発事故報道とお粗末な原発事故報道の検証番組
先日、NHKの原発事故報道の検証作業を行った番組(NHK)を見た。3月11日、東日本大震災の直後、大津波に飲み込まれる東北の町の悲惨な映像に完全に滅入っていた時、東京電力福島第一原子力発電所で冷却装置の電源喪失が伝えられた。始め、電源の一部が喪失しているという情報であったが、次第に、全電源喪失の事態であると伝えら始めた。
3月11日(金曜日)の夕刻から3月13日まで、テレビ画面から離れられない状態で、地震や津波被害に関する情報と原発事故の情報を追いかけていた。NHKが原発事故の解説に起用したのが東大教授の関村直人氏であった。彼は、一貫して原発事故の重大性を否定し続けた。そして水素爆発が生じる筈がないと断言したその二、三時間後に一号機が爆発した。しかし、彼は爆発で飛び散る建屋、灰色の煙を画面で見ながら「安全のために放射性物質を放出している」爆発的開弁作業の光景であると説明した。しかも、格納容器が壊れていないために、多量の放射性物質が放出されることはないとまで言った。
こうしたテレビ場面を見ながら激しい怒りがこみ上げ、ブログに書いた。国民の命を守ろうとしないNHKの報道姿勢と大学教員(専門家)の態度。この映像が残る限り、NHKは当時の原発報道への責任を永久に(歴史的に)逃れることはできないのである。
それが、今回のNHKの原発事故報道の検証番組では、何一つとして語られなかった。それどころか、NHKの原発事故報道が評価されていた。一体、NHKの誰がこの検証番組をつくったのか、これこそ、NHKが今後、またその公共放送の責任を歴史的に問われる材料となるだろう。そして、高度な情報化社会では、NHKの流した番組を歴史的に葬ることはできない。この番組はNHKの汚点となるだろう。
報道の検証作業を報道機関に任せてはならない
こうした中で、唯一、原発事故の報道への公正な検証作業が進んでいる。それを行っているのは、民放ではない。市民の手によって市民の報道機能を構築しようとしているNPOである。OurPlanet-TV(代表理事白石草氏)が行った「徹底検証!テレビは原発事故をどう伝えたか?」(前半)(後半)を是非とも見てほしい。
報道が事実を伝えなければ民主主義社会は形成されない。特に公共放送はその社会的責任をもっている。NHKは、国民の税金(強制的に徴収する受信料)によって運営され、国民の選んだ国会に於いて経営委員が選出承認されている公共報道機関である。その意味においても、今回の原発報道で誤った情報を流し、またそのために多くの人々が被曝したこと、一体、公共放送は何を守ろうとしたのか、そう問われた。その答えは明らかである。
つまり、あの時点で(今は違うが)NHKが守ろうとしたのは国民ではなく、東電や原子力ムラではなかったか。そう極論されても仕方がない。その証拠が、今回の検証番組であった。NHKは当時の原発報道の事実を隠そうとした。NHKの作成したこの番組は原発事故報道をした3.11の時点にNHKの評価を落としてしまったようだ。こんなみっともないことをしていたら、世界の報道機関に、そして未来の人々に笑われるだろう。
NHkへの受信料不払い運動が起っても当然だろう。NHKは、今、国民のための報道機関として姿勢を厳しく問われている。そして、その検証作業を彼らに任せてはならないことが、今回の番組、NHKの原発事故報道の自己点検(検証)作業で明らかになった。
原発事故報道を徹底的に検証しよう
OurPlanet-TV(代表理事白石草氏)が作成した「徹底検証!テレビは原発事故をどう伝えたか?」(前半)(後半)を紹介します。この番組から、私達は災害報道の在り方や報道機関の取るべき態度について考える機会を得ることが出来ると思う。
OurPlanet-TV制作「徹底検証!テレビは原発事故をどう伝えたか?(前半)」
OurPlanet-TV制作「徹底検証!テレビは原発事故をどう伝えたか?(後半)」
参考資料
OurPlanet-TV
伊藤 守著 『テレビは原発事故をどう伝えたのか』 (平凡社新書)2012.1
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関連ブログ文書集
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2012年4月14日、文書加筆
2012年4月16日、誤字修正
(120413a)
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2012年4月12日木曜日
二次生活資源欠乏に対する解決行為の三つのパターンとその時代的社会的要因
生活資源の欠乏問題の解決行動としての社会運動(3)
三石博行
市民の社会経済制度の参画度合いによって生じる異なる問題解決のパターン化
豊かさを失いつつある社会での生活者(庶民や市民)がその状況を解決するために取る行動は、それらの生活者の社会的立場によって異なると言える。つまり、生活者の問題解決行為が社会システムの中でどのように位置するかということによって、行動パターンは大きく変化する。ここでは典型的な三つの例を挙げる。
一つ目は個人的行動によって、貧困状態にある生活環境の解決を模索する場合である。二つ目は、集団的行動によって問題解決を模索する行動様式である。そして、最後の三つ目は、市民が経済運営や立法・行政制度に積極的に参加することで、社会経済機能の刷新行う方法である。
この三つの社会経済の貧困状態、生活資源の欠乏問題を解決する方法の違いを決定づけている要素は、国民の社会経済意志決定機能への参画度である。つまり、市民の参加の形態によって歴史的にまた社会的に異なる生活貧困問題の解決パターンが生まれてきたと言えるのではないだろうか。
社会的そして反社会的な個人的防衛行動
一つ目の個人的行動によって解決を見出そうとする場合であるが、このケースに当てはまる人々は、多くの場合、社会的にこの状況を解決する手段を持たない。これらの人々は、個人的に問題を解決しなければならない。まず、生活貧困の犠牲にならないように個人的な努力をする。つまり、今まで以上に働く。残業をし、副業をするだろう。そして一円でも多く収入を得ようとするだろう。この行動は、社会的了解を前提にして成立している個人的防衛行為であると謂える。
しかし、働いて生活の糧を得る機会すら持たない場合は、労働以外の手段によって生き延びるしかない。つまり、周囲の豊かな人々や豊かな生活必需品の置かれている場所から無断で奪い取るだろう。つまり、万引きや盗みを働くことになる。こうした反社会的行動を行っても、豊かな生活を求めるだろう。
終戦直後の闇市に買い出しに出て行った大半の日本人達は、少しでも栄養のある食糧をわが子に食べさせかったのである。反社会的行動をしても、わが子を飢餓や栄養失調から守ることを選んだのである。こうした人々の個人的行動選択が二次生活資源の欠乏に対して選択される直接的行動である。この行動は、社会的了解を前提にしない個人的防衛行為、つまり法律に違反しているが生活を防衛するために取った行為であると謂える。
個人的行動によってとられる生活の貧困に対する解決行為は、社会的規範やモラルを尊守する行動とそれを無視する行動とに分類された。しかし、その二つの行動の原因は共に個人的に生活の貧困から自分や家族を守ろうとする行為であると言える。
一次生活資源欠乏要因となる二次生活資源欠乏が引き起こす暴力的集団的防衛行動
しかし、個人的行動によって社会的要因によって生じている生活貧困化を解決することには限界がある。生活貧困状態を前にして、全ての人々は個人的努力による解決の困難さを経験している。そして、集団によって問題解決することがより有効な方法であることを知っている。何故なら、それが人の社会的存在の姿の自然な在り方であるからだ。つまり、人間が家族や血縁関係によって成立した共同体を形成した太古の時代から形成された社会的存在としての人間性の在り方に、その行動も規定されているのである。
共同体(社会)ではコミュニケーションが成立している。家族、共同体では生産活動、防災、防衛、防犯、育児、教育、等々の全ての生活活動が共同体全体の協力によって行われている。貧困問題を個人や一家族の問題として解決するようなことは基本的に起らない。例えば、不況、飢饉、災害等の原因で生じる生活貧困問題に対して、集落では力を合わせて、そこで生じる問題の解決にあたるのである。
例えば、重い年貢に苦しむ封建社会の農民達は、まず農業生産性を高めるために現共同体の機能によった可能な全ての努力を行うだろう。その解決に体制の側の協力がある程度は得られるだろう。
しかし、こうした生産活動の改善によっても重たい年貢の取り立てに苦しむ農民達は年貢の取り立てを延期や免除を領主に懇願しなければならないだろう。そうした懇願のための手続きが存在する場合にはその方法を用いて懇願行為は行われることになる。例えば庄屋との話合い、庄屋に代弁して取り立ての延期を打診してもらうだろう。また、年貢取り立てを行う人々に農業生産の状態を理解してもらうための活動もなされるだろう。ありとあらゆる方法によって、村落共同体の人々が飢餓に苦しまないように努力するだろう。
しかし、こうした努力が全て水の泡となり、年貢を強制的に取り立てられ、そのことによって村人の生活が崩壊する危機に立つ時、農民達は生死を掛けて決起することになる。この一揆を代表する中世の農民達の集団的暴力行為の起源に関しては、一次生活資源の欠乏状態の解決行動の中で説明した。
言換えると一揆は、庶民が生活資源の欠乏状態を自らの力で解決する機能が社会システムに無いために生じると考えられる。二次生活資源の貧困状態を防ぐための社会運営に参画できない人々が、不条理な年貢取り立てによって、生活資源の欠乏によって生じる社会問題の責任の全てを取らされる状態に対して、その制度自体に異議申し立てを行う行動が謂わば一揆である。
二次生活資源の欠乏状況に対する制度化された異議申し立てによる解決を得られない時に、その制度化された異議申し立ての制度を越えた異議申し立てが試みられる。それが一揆である。一揆とは、制度的に解決を見ない飢餓対策に対して、農民達が社会秩序や制度の外にはみ出して、生き残るための行動を起こすことを意味する。
特に、二次生活資源の欠乏によって直接的に一次生活資源の欠乏状況が生じる中世社会、農業生産によって成立する社会の場合には、生活者の異議申し立て行動が前記した一次生活資源の欠乏に対して自然発生的に生じる暴力的な行動となる可能性は大きいのである。
社会政策の形成と合法的集団の体制的抗議行動
それに対して、資本主義経済や民主主義政治制度で運営される近代国家では、国民主権が憲法によって認められる。市民革命やその後の社会運動の中で獲得した生活者の社会システムの執行機能への参画権によって、前記した暴力的な異議申し立て行為は行われなくなる。
例えば、労働者の生活権が組合法によって守られることによって、利害関係の対立する雇用主に対して、社会制度化された異議申し立て行動を行うことになる。社会は暴力的な労働争議によって社会秩序の崩壊や混乱が生じるよりも、労使の利害関係を前提にして、労働者側の異議申し立て行動を社会制度化し、その制度の中で、問題を解決することがより合理的(経済的)だと理解するのである。
何故なら、労働者のいう労働力の供給部隊を一方的に疲弊させることが結果的に社会全体の生産力評価から考えて不利であることを知っているからである。この考え方によって成立している制度を社会政策と呼んできた。
つまり、社会政策の形成や発展によって、個別労使間の利害対決を社会全体で調整し、紛争の暴力化、つまり非社会化を防ごうとする。異議申し立て行動を反体制的活動に流さないように、それらの活動を資本主義の制度内で調整できる活動にするために、組合法を作り労働運動を資本主義社会の合法的運動とし、組合をその社会の合法的集団とした。そのことによって労働者の抗議行動を体制化することが出来たのである。
市民参加型の社会的制度改革による生活環境の貧困化対策
生産する人と消費する人が分離していた時代から、生産する人が消費する人であると定義され直された時代では、資本家に支配され続ける労働者のイメージが大きく変化したのは、有能な社員が企業運営する企業文化が生み出される20世紀後半の時代からである。特に先進国では、雇用形態は大きく変化し続けてきた。
有能な人々が新しい事業を起業する時代になって、固定的な労使関係図式が完全に破棄されようとしている。誰でも社長になれ、誰でも経営者になれる時代が到来している。社会機能における支配と被支配の関係は社会的に固定された関係でなく、社会機能的に選択された役割関係であると言われようとしている。
例えば、現在の日本社会では、労働者の意見や提案を積極的に取り入れて職場環境の改善のみならず、生産性の向上を行う職場が生まれている。また,労使協議会によって労働条件の改善を行う職場が増えている。このことは、前記した社会政策としての労働運動の体制化という社会戦略より積極的に労働運動体を社会システムに組み込もうとする姿勢が見える。
つまり、知的資源に恵まれ高度に発達した社会、科学技術文明社会では、労使関係の境界線を「専門的知識を持つ人々」と「単純労働を行う人々」に区切ることは不可能に近い。豊富な人的資源が労働市場に溢れた社会では、それらの高度な労働力を集め、その良質な労働を組織し、生産力の向上に活用する能力を持つ人々こそ、経営者としての役割を果たすのである。そのことを端的に証明した人の一人としてスティブ・ジョブズを挙げることができよう。
つまり、二次生活資源の欠乏状態が発生している場合、労働者が生産管理システムに、また市民が社会システムの執行機能に参画することが出来ているなら、参加した労働者も市民も、生産や社会システムの改革活動に積極的に取り組むだろう。この社会システムへの市民参画型の関係構図は、初期の共同体で存在していた共同体構成の参加によって共同体運営が行われている状態に極めて類似していると言えるだろう。
成熟した民主主義社会では、市民は社会システムを運営する代表者、議員を選び、彼らに全ての社会運営権を委託することはない。つまり、市民の積極的な政治参加を制度化しようとしている。そのために、情報公開や事業仕分け、オンブスマンの市民活動が活発に行われている。言い換えると、間接民主主義制度の基本構造として議員(市民の代理人)になれる能力のある人と、議員に政治を代理してもらう一般市民という差別化の制度化を打破しようとしているようだ。間接民主主義では、必然的に政治活動を職業(家業)とした政治家達によって国会が運営される。議員職の世襲化は選挙民の意思決定が政策上の判断でなく、古いコネ社会にある利権主義の残存によって生じている。
民主主義の発達は、市民の社会経済制度運営への参加意欲と責任感を育てる。そして市民は単に選挙によって自分の代理人を選ぶだけでなく、積極的に社会参加する活動を始めるだろう。もし、こうした市民参加の可能な社会で生活環境の貧困化が問題となるなら、市民は積極的にその原因を調べ、それを解決するための政治、経済、技術、文化的対策を検討し、それらの対策を実現するための規則や法規の制定や行政機能の設定や改革等が試みられるのではないだろうか。
そして、市民達が積極的に社会制度の改革刷新に関係することで、社会はより現実的で、柔軟な対応を素早く可能にするのではないだろうか。つまり、民主主義を維持するには経済コストが掛かるという考え方は、現在の意思決定の遅い国会運営において指摘されるだろう。震災対策や原発事故対策の遅れがこの国の経済に大きな悪影響を与えていることを考えると、日本社会で今求められているのは、市民参加型の民主主義制度の確立であると言えるだろう。
引用、参考資料
(1)三石博行 「設計科学としての生活学の構築 -人工物プログラム科学としての生活学の構図に向けて」 金蘭短期大学 研究誌33号 2002年12月 pp21-60
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_02/cMITShir02d.pdf
(2) 三石博行 「生活資源論」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_02.html
(3) 三石博行 「人権学 -三つの人権概念の定義-」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/11/blog-post_2567.html
(4)三石博行 「共同体秩序の脱構築・構築集団行動としての社会運動」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/04/blog-post_05.html
(5)三石博行 「共同体秩序形成と破壊的暴力的行動の要因としての一次生活資源の欠乏状態」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/04/blog-post_10.html
(6)三石博行 「生産様式の発展と二次生活資源の欠乏状態」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/04/blog-post_12.htm
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三石博行
市民の社会経済制度の参画度合いによって生じる異なる問題解決のパターン化
豊かさを失いつつある社会での生活者(庶民や市民)がその状況を解決するために取る行動は、それらの生活者の社会的立場によって異なると言える。つまり、生活者の問題解決行為が社会システムの中でどのように位置するかということによって、行動パターンは大きく変化する。ここでは典型的な三つの例を挙げる。
一つ目は個人的行動によって、貧困状態にある生活環境の解決を模索する場合である。二つ目は、集団的行動によって問題解決を模索する行動様式である。そして、最後の三つ目は、市民が経済運営や立法・行政制度に積極的に参加することで、社会経済機能の刷新行う方法である。
この三つの社会経済の貧困状態、生活資源の欠乏問題を解決する方法の違いを決定づけている要素は、国民の社会経済意志決定機能への参画度である。つまり、市民の参加の形態によって歴史的にまた社会的に異なる生活貧困問題の解決パターンが生まれてきたと言えるのではないだろうか。
社会的そして反社会的な個人的防衛行動
一つ目の個人的行動によって解決を見出そうとする場合であるが、このケースに当てはまる人々は、多くの場合、社会的にこの状況を解決する手段を持たない。これらの人々は、個人的に問題を解決しなければならない。まず、生活貧困の犠牲にならないように個人的な努力をする。つまり、今まで以上に働く。残業をし、副業をするだろう。そして一円でも多く収入を得ようとするだろう。この行動は、社会的了解を前提にして成立している個人的防衛行為であると謂える。
しかし、働いて生活の糧を得る機会すら持たない場合は、労働以外の手段によって生き延びるしかない。つまり、周囲の豊かな人々や豊かな生活必需品の置かれている場所から無断で奪い取るだろう。つまり、万引きや盗みを働くことになる。こうした反社会的行動を行っても、豊かな生活を求めるだろう。
終戦直後の闇市に買い出しに出て行った大半の日本人達は、少しでも栄養のある食糧をわが子に食べさせかったのである。反社会的行動をしても、わが子を飢餓や栄養失調から守ることを選んだのである。こうした人々の個人的行動選択が二次生活資源の欠乏に対して選択される直接的行動である。この行動は、社会的了解を前提にしない個人的防衛行為、つまり法律に違反しているが生活を防衛するために取った行為であると謂える。
個人的行動によってとられる生活の貧困に対する解決行為は、社会的規範やモラルを尊守する行動とそれを無視する行動とに分類された。しかし、その二つの行動の原因は共に個人的に生活の貧困から自分や家族を守ろうとする行為であると言える。
一次生活資源欠乏要因となる二次生活資源欠乏が引き起こす暴力的集団的防衛行動
しかし、個人的行動によって社会的要因によって生じている生活貧困化を解決することには限界がある。生活貧困状態を前にして、全ての人々は個人的努力による解決の困難さを経験している。そして、集団によって問題解決することがより有効な方法であることを知っている。何故なら、それが人の社会的存在の姿の自然な在り方であるからだ。つまり、人間が家族や血縁関係によって成立した共同体を形成した太古の時代から形成された社会的存在としての人間性の在り方に、その行動も規定されているのである。
共同体(社会)ではコミュニケーションが成立している。家族、共同体では生産活動、防災、防衛、防犯、育児、教育、等々の全ての生活活動が共同体全体の協力によって行われている。貧困問題を個人や一家族の問題として解決するようなことは基本的に起らない。例えば、不況、飢饉、災害等の原因で生じる生活貧困問題に対して、集落では力を合わせて、そこで生じる問題の解決にあたるのである。
例えば、重い年貢に苦しむ封建社会の農民達は、まず農業生産性を高めるために現共同体の機能によった可能な全ての努力を行うだろう。その解決に体制の側の協力がある程度は得られるだろう。
しかし、こうした生産活動の改善によっても重たい年貢の取り立てに苦しむ農民達は年貢の取り立てを延期や免除を領主に懇願しなければならないだろう。そうした懇願のための手続きが存在する場合にはその方法を用いて懇願行為は行われることになる。例えば庄屋との話合い、庄屋に代弁して取り立ての延期を打診してもらうだろう。また、年貢取り立てを行う人々に農業生産の状態を理解してもらうための活動もなされるだろう。ありとあらゆる方法によって、村落共同体の人々が飢餓に苦しまないように努力するだろう。
しかし、こうした努力が全て水の泡となり、年貢を強制的に取り立てられ、そのことによって村人の生活が崩壊する危機に立つ時、農民達は生死を掛けて決起することになる。この一揆を代表する中世の農民達の集団的暴力行為の起源に関しては、一次生活資源の欠乏状態の解決行動の中で説明した。
言換えると一揆は、庶民が生活資源の欠乏状態を自らの力で解決する機能が社会システムに無いために生じると考えられる。二次生活資源の貧困状態を防ぐための社会運営に参画できない人々が、不条理な年貢取り立てによって、生活資源の欠乏によって生じる社会問題の責任の全てを取らされる状態に対して、その制度自体に異議申し立てを行う行動が謂わば一揆である。
二次生活資源の欠乏状況に対する制度化された異議申し立てによる解決を得られない時に、その制度化された異議申し立ての制度を越えた異議申し立てが試みられる。それが一揆である。一揆とは、制度的に解決を見ない飢餓対策に対して、農民達が社会秩序や制度の外にはみ出して、生き残るための行動を起こすことを意味する。
特に、二次生活資源の欠乏によって直接的に一次生活資源の欠乏状況が生じる中世社会、農業生産によって成立する社会の場合には、生活者の異議申し立て行動が前記した一次生活資源の欠乏に対して自然発生的に生じる暴力的な行動となる可能性は大きいのである。
社会政策の形成と合法的集団の体制的抗議行動
それに対して、資本主義経済や民主主義政治制度で運営される近代国家では、国民主権が憲法によって認められる。市民革命やその後の社会運動の中で獲得した生活者の社会システムの執行機能への参画権によって、前記した暴力的な異議申し立て行為は行われなくなる。
例えば、労働者の生活権が組合法によって守られることによって、利害関係の対立する雇用主に対して、社会制度化された異議申し立て行動を行うことになる。社会は暴力的な労働争議によって社会秩序の崩壊や混乱が生じるよりも、労使の利害関係を前提にして、労働者側の異議申し立て行動を社会制度化し、その制度の中で、問題を解決することがより合理的(経済的)だと理解するのである。
何故なら、労働者のいう労働力の供給部隊を一方的に疲弊させることが結果的に社会全体の生産力評価から考えて不利であることを知っているからである。この考え方によって成立している制度を社会政策と呼んできた。
つまり、社会政策の形成や発展によって、個別労使間の利害対決を社会全体で調整し、紛争の暴力化、つまり非社会化を防ごうとする。異議申し立て行動を反体制的活動に流さないように、それらの活動を資本主義の制度内で調整できる活動にするために、組合法を作り労働運動を資本主義社会の合法的運動とし、組合をその社会の合法的集団とした。そのことによって労働者の抗議行動を体制化することが出来たのである。
市民参加型の社会的制度改革による生活環境の貧困化対策
生産する人と消費する人が分離していた時代から、生産する人が消費する人であると定義され直された時代では、資本家に支配され続ける労働者のイメージが大きく変化したのは、有能な社員が企業運営する企業文化が生み出される20世紀後半の時代からである。特に先進国では、雇用形態は大きく変化し続けてきた。
有能な人々が新しい事業を起業する時代になって、固定的な労使関係図式が完全に破棄されようとしている。誰でも社長になれ、誰でも経営者になれる時代が到来している。社会機能における支配と被支配の関係は社会的に固定された関係でなく、社会機能的に選択された役割関係であると言われようとしている。
例えば、現在の日本社会では、労働者の意見や提案を積極的に取り入れて職場環境の改善のみならず、生産性の向上を行う職場が生まれている。また,労使協議会によって労働条件の改善を行う職場が増えている。このことは、前記した社会政策としての労働運動の体制化という社会戦略より積極的に労働運動体を社会システムに組み込もうとする姿勢が見える。
つまり、知的資源に恵まれ高度に発達した社会、科学技術文明社会では、労使関係の境界線を「専門的知識を持つ人々」と「単純労働を行う人々」に区切ることは不可能に近い。豊富な人的資源が労働市場に溢れた社会では、それらの高度な労働力を集め、その良質な労働を組織し、生産力の向上に活用する能力を持つ人々こそ、経営者としての役割を果たすのである。そのことを端的に証明した人の一人としてスティブ・ジョブズを挙げることができよう。
つまり、二次生活資源の欠乏状態が発生している場合、労働者が生産管理システムに、また市民が社会システムの執行機能に参画することが出来ているなら、参加した労働者も市民も、生産や社会システムの改革活動に積極的に取り組むだろう。この社会システムへの市民参画型の関係構図は、初期の共同体で存在していた共同体構成の参加によって共同体運営が行われている状態に極めて類似していると言えるだろう。
成熟した民主主義社会では、市民は社会システムを運営する代表者、議員を選び、彼らに全ての社会運営権を委託することはない。つまり、市民の積極的な政治参加を制度化しようとしている。そのために、情報公開や事業仕分け、オンブスマンの市民活動が活発に行われている。言い換えると、間接民主主義制度の基本構造として議員(市民の代理人)になれる能力のある人と、議員に政治を代理してもらう一般市民という差別化の制度化を打破しようとしているようだ。間接民主主義では、必然的に政治活動を職業(家業)とした政治家達によって国会が運営される。議員職の世襲化は選挙民の意思決定が政策上の判断でなく、古いコネ社会にある利権主義の残存によって生じている。
民主主義の発達は、市民の社会経済制度運営への参加意欲と責任感を育てる。そして市民は単に選挙によって自分の代理人を選ぶだけでなく、積極的に社会参加する活動を始めるだろう。もし、こうした市民参加の可能な社会で生活環境の貧困化が問題となるなら、市民は積極的にその原因を調べ、それを解決するための政治、経済、技術、文化的対策を検討し、それらの対策を実現するための規則や法規の制定や行政機能の設定や改革等が試みられるのではないだろうか。
そして、市民達が積極的に社会制度の改革刷新に関係することで、社会はより現実的で、柔軟な対応を素早く可能にするのではないだろうか。つまり、民主主義を維持するには経済コストが掛かるという考え方は、現在の意思決定の遅い国会運営において指摘されるだろう。震災対策や原発事故対策の遅れがこの国の経済に大きな悪影響を与えていることを考えると、日本社会で今求められているのは、市民参加型の民主主義制度の確立であると言えるだろう。
引用、参考資料
(1)三石博行 「設計科学としての生活学の構築 -人工物プログラム科学としての生活学の構図に向けて」 金蘭短期大学 研究誌33号 2002年12月 pp21-60
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_02/cMITShir02d.pdf
(2) 三石博行 「生活資源論」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_02.html
(3) 三石博行 「人権学 -三つの人権概念の定義-」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/11/blog-post_2567.html
(4)三石博行 「共同体秩序の脱構築・構築集団行動としての社会運動」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/04/blog-post_05.html
(5)三石博行 「共同体秩序形成と破壊的暴力的行動の要因としての一次生活資源の欠乏状態」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/04/blog-post_10.html
(6)三石博行 「生産様式の発展と二次生活資源の欠乏状態」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/04/blog-post_12.htm
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2012年4月16日 誤字修正
(120412b)
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生産様式の発展と二次生活資源の欠乏状態
生活資源の欠乏問題の解決行動としての社会運動(2)
三石博行
資本の本源的蓄積過程と二次生活資源の形成
生活資源論の中で、二次生活資源を「豊かな生活や社会環境を作り、個人や集団の生活の質(QOL)を高めるために必要な生活素材や生活様式」と定義した(1)。例えば、社会インフラ、職場環境、福祉、教育、医療環境、消費生活環境、労働環境、生活文化環境等々、一般的に豊かな生活環境の構築要素となるものがこの二次生活資源と呼んだ(1)。
食糧生産に必要な全ての社会インフラ(二次生活資源)、具体的には農地、農道、治水、用水設備、生産物加工や流通、労働力供給制度、農業生産を支える社会的分業や農業技術の改革が進むことによって食料生産量は向上する。豊かな農業生産によって、一人当たりの農民が生産する食料生産量が増える。社会全体の食料を供給するために必要な農業人口の割合が減少する。農業社会で潜在的に過剰になった人口(相対的過剰人口)が他の職種に移動する。そのことによって、さらに他の産業が発展し、高度な社会的分業化が進む。社会的分業の進化によって、社会全体の生産力は向上する。
つまり、二次生活資源が豊富になることによって社会的分業や商品経済が発達し、人々の生活はより豊かになる。商品経済の発達によって土地に縛られた生産者を中心とする社会(封建社会)から商品生産を担う人々(市民社会)が生まれ、資本主義経済が確立してゆく。二次生活資源の社会的蓄積は資本制社会が成立する過程に行われる資本の本源的蓄積過程と同じ意味をもっている。つまり、二次生活資源の形成によって資本の本源的蓄積が生み出されるのである。(2)
より豊かな生活を求めて社会(共同体)は生活改善や生産活動に必要なものをより多く生産しようとする。生産活動の効率向上のために優れた生産方法や生産様式の開発がなされる。生活改善に必要な道具や技術も生産活動を支える。労働力の再生産を支える社会(共同体)や家族環境の改善や整備が必要である。生活環境の改善は総じて社会インフラの整備によって可能になる。社会インフラは生産現場の生産システム(資本)の効率のみでなく良質の労働力の供給をサポートしているのである。
良質の家事労働によって生産現場での労働力の質が保障される。全ての社会生産、家事から職場での労働の質を上げることによって、豊かな社会の形成が可能になる。つまり、二次生活資源とはそうした社会生産の質と量の向上に必要な資源であると言える。
時代や社会によって異なる二次生活資源の欠乏への評価
すべての人間社会の持って生まれた特性として、社会を豊かにしようとする作用が機能している。何故なら、それは次世代に命を繋ぎ子孫により豊かな生活環境を残すという人間の社会的行為、労働の本質を意味するからである。こうした人間的行為の基本的な特性から、生活環境の維持は生活環境評価の基底に横たわる。生活環境が劣化しないことは評価の最低ラインとなり、生活環境が劣化することは在ってはならない最悪の状態を意味する。
つまり、社会全体の二次生活資源量が変化しない状態を社会・生活環境の質的停滞状態であるとすれば、この停滞状態は現代社会のように常に社会が豊かになりつづけた過去の時代を経験している社会では、極めて低い評価を受けることになる。勿論、中世社会のように生活環境の改善が非常に緩やかに進んだ社会でも、社会生産量の停滞状態をプラス評価することはないだろう。
言換えると、社会の二次生活資源の総量が減少するということは、社会にとって危機を意味すると言える。その社会や生活環境が現在よりも劣化していくのであるから、今の社会で言えば、今まで可能になっていた子育て、教育、医療、福祉サービス等々が出来なくなることを意味する。中世社会でも同様に赤子の間引きや娘の売買に直接関係する生活苦を意味するだろう。
二次生活資源の社会的総量によって決定される社会生活環境の質は時代によって異なる生活環境を具体的に創りだしてきた。そのため、二次生活資源の増減に対する社会的評価は時代によって相対的に表現される。その増減への絶対的評価は存在しない。豊かな社会ほど、その環境の劣化を危惧するし、豊かでない社会では、その環境の劣化は前者に比べて共同主観的に小さくなる。それが、この二次生活資源の増減にたいする社会評価の姿を生み出しているのである。
二次生活資源の欠乏状況によって生じる社会的差別としての人権問題
時代や社会によって異なる二次生活資源の欠乏に関する評価から、時代や社会によってそれぞれの共同体の中で豊かな生活環境への評価が変化していることが理解できる。例えば、ブータンの人々の幸福度が日本人のそれよりも高いと言われるように、経済的に豊かな社会で生活する人々の幸福度が、経済的に貧しい国の人々のそれに比べて必ずしも高いとは言えない。
このことは、経済的に豊かな人々がそうでない人々よりもより満足した生活を送っているということに繋がらないことを意味する。例えば豊かなアメリカ社会で裕福な家庭の子供に多いドラッグの使用者、このことは現在の日本人にも当てはまる現実である。経済的に裕福な人々がより幸福な生活を送っていると言えないことは、上記したように、二次生活資源の欠乏に関する評価は絶対値で表現されることはなく、その時代や社会によって相対的に生じるものであると言える。
豊かな社会であればより豊かになることが当然であり、もし少しでも貧しくなるなら、二次生活資源の欠乏感は大きいのである。そして、同じ社会でも、豊かさの個人差が生み出す格差感も、時代性や社会性の与える相対的な二次生活資源の欠乏感に相対的に影響されていると言えるだろう。
より豊かな社会で生じている就労、学歴、障害、出身地、人種、宗教や民族等々への差別問題を、非常に貧しい社会の現実に当てはめれば、全く問題にされないそれらの国々が抱えている現在の社会問題に比べて重大でない課題であると評価解釈されるかもしれない。また現代の日本や米国での女性が受ける性的ハラスメントや子供が学校で受けるいじめの問題を宗教の戒律の厳しい社会の女性の社会的地位に比較し、また飢餓に苦しむ国の子供の置かれている生活環境に比較するなら、まったく取るに足らない問題として受け止められるかもしれない。
しかし、それらの人権問題を、生活資源の貧困によって生じると理解するなら、その評価が、前記したように社会や時代によって相対的に決定されていることに気付くだろう。つまり、人権問題において相対的な評価の当てはまる領域は二次生活資源の欠乏に関する評価感覚のみであると言える。
言い換えると、命に関わる一次生活資源の欠乏によって生じている人権問題、例えば、戦争、災害、犯罪、飢餓や疫病の流行等などから発生している人権問題に関しては、二次生活資源の欠乏状態によって生じる社会的差別を代表とする人権問題に対して、相対的な評価よりも、人類全体に時代や社会を越えた生存権に関係する絶対的評価が存在している。その意味で、一次生活資源の欠乏によって生じる問題は時代や社会を越えて深刻に受け止められるのである。
生命を維持するために必要な衣食住環境や育児や健康を守るための生活環境・家族関係、生存を支える生産活動や外敵から身を守る防衛活動を保障するために共同体形成の起源があると考えるなら、豊かな生活環境を形成するための活動は、その共同体の発展に関係する課題であると評価されるからである。それらの発展のための活動は時代や個々の共同体の状況によって異なる。
つまり二次生活資源の欠乏感や満足感はそれらの社会生活環境に決定された共同主観に決定づけられたものとして表現されるのである。それが二次生活資源環境への個々人の持つ意識の差異を生み出し、差別感や不平等感の起源となるのである。
引用、参考資料
(1)三石博行 「設計科学としての生活学の構築 -人工物プログラム科学としての生活学の構図に向けて」 金蘭短期大学 研究誌33号 2002年12月 pp21-60
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_02/cMITShir02d.pdf
(2) 三石博行 「生活資源論」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_02.html
(3) 三石博行 「人権学 -三つの人権概念の定義-」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/11/blog-post_2567.html
(4) 三石博行 「共同体秩序の脱構築・構築集団行動としての社会運動」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/04/blog-post_05.html
(5) 三石博行 「共同体秩序形成と破壊的暴力的行動の要因としての一次生活資源の欠乏状態」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/04/blog-post_10.html
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関連ブログ文書集
三石博行 ブログ文書集「市民運動論」
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三石博行 ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」
三石博行 ブログ文書集「日本の政治改革への提言」
三石博行 ブログ文書集「持続可能なエネルギー生産社会を目指すために」
三石博行 ブログ文書集「民主主義文化としての報道機能について」
三石博行 ブログ文書集「東日本大震災からの復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」
三石博行 ブログ文書集「わが国の民主主義文化を発展させるための課題について」
2012年4月14日 文書加筆、誤字修正
(120412a)
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三石博行
資本の本源的蓄積過程と二次生活資源の形成
生活資源論の中で、二次生活資源を「豊かな生活や社会環境を作り、個人や集団の生活の質(QOL)を高めるために必要な生活素材や生活様式」と定義した(1)。例えば、社会インフラ、職場環境、福祉、教育、医療環境、消費生活環境、労働環境、生活文化環境等々、一般的に豊かな生活環境の構築要素となるものがこの二次生活資源と呼んだ(1)。
食糧生産に必要な全ての社会インフラ(二次生活資源)、具体的には農地、農道、治水、用水設備、生産物加工や流通、労働力供給制度、農業生産を支える社会的分業や農業技術の改革が進むことによって食料生産量は向上する。豊かな農業生産によって、一人当たりの農民が生産する食料生産量が増える。社会全体の食料を供給するために必要な農業人口の割合が減少する。農業社会で潜在的に過剰になった人口(相対的過剰人口)が他の職種に移動する。そのことによって、さらに他の産業が発展し、高度な社会的分業化が進む。社会的分業の進化によって、社会全体の生産力は向上する。
つまり、二次生活資源が豊富になることによって社会的分業や商品経済が発達し、人々の生活はより豊かになる。商品経済の発達によって土地に縛られた生産者を中心とする社会(封建社会)から商品生産を担う人々(市民社会)が生まれ、資本主義経済が確立してゆく。二次生活資源の社会的蓄積は資本制社会が成立する過程に行われる資本の本源的蓄積過程と同じ意味をもっている。つまり、二次生活資源の形成によって資本の本源的蓄積が生み出されるのである。(2)
より豊かな生活を求めて社会(共同体)は生活改善や生産活動に必要なものをより多く生産しようとする。生産活動の効率向上のために優れた生産方法や生産様式の開発がなされる。生活改善に必要な道具や技術も生産活動を支える。労働力の再生産を支える社会(共同体)や家族環境の改善や整備が必要である。生活環境の改善は総じて社会インフラの整備によって可能になる。社会インフラは生産現場の生産システム(資本)の効率のみでなく良質の労働力の供給をサポートしているのである。
良質の家事労働によって生産現場での労働力の質が保障される。全ての社会生産、家事から職場での労働の質を上げることによって、豊かな社会の形成が可能になる。つまり、二次生活資源とはそうした社会生産の質と量の向上に必要な資源であると言える。
時代や社会によって異なる二次生活資源の欠乏への評価
すべての人間社会の持って生まれた特性として、社会を豊かにしようとする作用が機能している。何故なら、それは次世代に命を繋ぎ子孫により豊かな生活環境を残すという人間の社会的行為、労働の本質を意味するからである。こうした人間的行為の基本的な特性から、生活環境の維持は生活環境評価の基底に横たわる。生活環境が劣化しないことは評価の最低ラインとなり、生活環境が劣化することは在ってはならない最悪の状態を意味する。
つまり、社会全体の二次生活資源量が変化しない状態を社会・生活環境の質的停滞状態であるとすれば、この停滞状態は現代社会のように常に社会が豊かになりつづけた過去の時代を経験している社会では、極めて低い評価を受けることになる。勿論、中世社会のように生活環境の改善が非常に緩やかに進んだ社会でも、社会生産量の停滞状態をプラス評価することはないだろう。
言換えると、社会の二次生活資源の総量が減少するということは、社会にとって危機を意味すると言える。その社会や生活環境が現在よりも劣化していくのであるから、今の社会で言えば、今まで可能になっていた子育て、教育、医療、福祉サービス等々が出来なくなることを意味する。中世社会でも同様に赤子の間引きや娘の売買に直接関係する生活苦を意味するだろう。
二次生活資源の社会的総量によって決定される社会生活環境の質は時代によって異なる生活環境を具体的に創りだしてきた。そのため、二次生活資源の増減に対する社会的評価は時代によって相対的に表現される。その増減への絶対的評価は存在しない。豊かな社会ほど、その環境の劣化を危惧するし、豊かでない社会では、その環境の劣化は前者に比べて共同主観的に小さくなる。それが、この二次生活資源の増減にたいする社会評価の姿を生み出しているのである。
二次生活資源の欠乏状況によって生じる社会的差別としての人権問題
時代や社会によって異なる二次生活資源の欠乏に関する評価から、時代や社会によってそれぞれの共同体の中で豊かな生活環境への評価が変化していることが理解できる。例えば、ブータンの人々の幸福度が日本人のそれよりも高いと言われるように、経済的に豊かな社会で生活する人々の幸福度が、経済的に貧しい国の人々のそれに比べて必ずしも高いとは言えない。
このことは、経済的に豊かな人々がそうでない人々よりもより満足した生活を送っているということに繋がらないことを意味する。例えば豊かなアメリカ社会で裕福な家庭の子供に多いドラッグの使用者、このことは現在の日本人にも当てはまる現実である。経済的に裕福な人々がより幸福な生活を送っていると言えないことは、上記したように、二次生活資源の欠乏に関する評価は絶対値で表現されることはなく、その時代や社会によって相対的に生じるものであると言える。
豊かな社会であればより豊かになることが当然であり、もし少しでも貧しくなるなら、二次生活資源の欠乏感は大きいのである。そして、同じ社会でも、豊かさの個人差が生み出す格差感も、時代性や社会性の与える相対的な二次生活資源の欠乏感に相対的に影響されていると言えるだろう。
より豊かな社会で生じている就労、学歴、障害、出身地、人種、宗教や民族等々への差別問題を、非常に貧しい社会の現実に当てはめれば、全く問題にされないそれらの国々が抱えている現在の社会問題に比べて重大でない課題であると評価解釈されるかもしれない。また現代の日本や米国での女性が受ける性的ハラスメントや子供が学校で受けるいじめの問題を宗教の戒律の厳しい社会の女性の社会的地位に比較し、また飢餓に苦しむ国の子供の置かれている生活環境に比較するなら、まったく取るに足らない問題として受け止められるかもしれない。
しかし、それらの人権問題を、生活資源の貧困によって生じると理解するなら、その評価が、前記したように社会や時代によって相対的に決定されていることに気付くだろう。つまり、人権問題において相対的な評価の当てはまる領域は二次生活資源の欠乏に関する評価感覚のみであると言える。
言い換えると、命に関わる一次生活資源の欠乏によって生じている人権問題、例えば、戦争、災害、犯罪、飢餓や疫病の流行等などから発生している人権問題に関しては、二次生活資源の欠乏状態によって生じる社会的差別を代表とする人権問題に対して、相対的な評価よりも、人類全体に時代や社会を越えた生存権に関係する絶対的評価が存在している。その意味で、一次生活資源の欠乏によって生じる問題は時代や社会を越えて深刻に受け止められるのである。
生命を維持するために必要な衣食住環境や育児や健康を守るための生活環境・家族関係、生存を支える生産活動や外敵から身を守る防衛活動を保障するために共同体形成の起源があると考えるなら、豊かな生活環境を形成するための活動は、その共同体の発展に関係する課題であると評価されるからである。それらの発展のための活動は時代や個々の共同体の状況によって異なる。
つまり二次生活資源の欠乏感や満足感はそれらの社会生活環境に決定された共同主観に決定づけられたものとして表現されるのである。それが二次生活資源環境への個々人の持つ意識の差異を生み出し、差別感や不平等感の起源となるのである。
引用、参考資料
(1)三石博行 「設計科学としての生活学の構築 -人工物プログラム科学としての生活学の構図に向けて」 金蘭短期大学 研究誌33号 2002年12月 pp21-60
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_02/cMITShir02d.pdf
(2) 三石博行 「生活資源論」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_02.html
(3) 三石博行 「人権学 -三つの人権概念の定義-」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/11/blog-post_2567.html
(4) 三石博行 「共同体秩序の脱構築・構築集団行動としての社会運動」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/04/blog-post_05.html
(5) 三石博行 「共同体秩序形成と破壊的暴力的行動の要因としての一次生活資源の欠乏状態」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/04/blog-post_10.html
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関連ブログ文書集
三石博行 ブログ文書集「市民運動論」
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三石博行 ブログ文書集「持続可能なエネルギー生産社会を目指すために」
三石博行 ブログ文書集「民主主義文化としての報道機能について」
三石博行 ブログ文書集「東日本大震災からの復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」
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2012年4月14日 文書加筆、誤字修正
(120412a)
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2012年4月10日火曜日
共同体秩序形成と破壊的暴力的行動の要因としての一次生活資源の欠乏状態
生活資源の欠乏の解決行動としての社会運動(1)
三石博行
生活資源の構造とその欠乏状況の解決行動
生活資源の欠乏要因の解決行為として集団で行う生活防衛行為であると定義すると、生活資源の概念(1)からその欠乏状態について述べなければならない。ここで、生活資源論から、生活資源を一次生活資源、二次生活資源と三次生活資源に分類し、それらの生活資源の特徴からその欠乏状況が意味する課題を考え、その解決を巡って人とその集団、共同体がどのように行動するかを考えてみる。
一次生活資源の欠乏状態を防ぐ手段としての共同体
生活資源論の中で、一次生活資源を「生命や生存するために必要な最低限の生活条件や生活環境を構成する生活素材や生活様式」と定義した。(2)一次生活資源に分類されるものは、生命を維持するために必要な衣食住環境や育児や健康を守るための生活環境・家族関係、生存を支える生産活動や外的から身を守るための防衛活動を保障する共同体等である。
この一次生活資源の欠乏によって、人々は直接的に生命を脅かされることになる。例えば、戦争、災害、犯罪、飢餓や疫病の流行等などは一次生活資源の欠乏状態を作り出し、こうした自然や社会的災害によって人々の生活は根本から破壊される。
突然の自然災害や外敵の攻撃によって共同体は危機を迎える場合が生じる。その時、共同体は解体し、共同体を構成していた人々は命を奪われるのである。つまり、共同体の安全対策が襲ってきた自然災害に対しても外敵に対しても有効でない場合には、共同体は存続の危機に襲われることになる。破壊された生産機能、防衛機能、社会制度、家族、言い換えると一次生活資源の欠乏とは文字通りそれに依拠した人々の死を意味する。
そのため、人類は長年、一次生活資源の自然的状態で発生する欠乏を防ぐための努力を積み重ねてきた。その対策として、家族、共同体や社会の秩序や制度が形成された。共同体の秩序や制度の目指した課題は、人類が存続可能な条件を獲得し続けることであった。つまり、一次生活資源の欠乏を防ぐことが共同体の形成の起源であるとも言えるだろう。
人類は、生き延びるために食糧の確保、その技術確保や改良を行い、共同体や社会の食料生産量の維持、増加、食料備蓄の技術改良に努めてきた。さらに自然災害への防災対策、外敵からの防衛、共同体内での秩序維持、防犯、公衆衛生等の対策を開発維持し続けてきた。その意味で、共同体の秩序は個人を徹底的に支配する存在理由を持っていた。人々は共同体の秩序や制度を維持することによって命を維持できたのである。
共同体の秩序が絶対的に個人を支配するのは、その共同体の秩序形成の存在理由によるものであり、言い方を変えるなら、それなしに個人は生き延びることの出来なかった非常に長い人類の歴史、有史以前の歴史の中で形成された人類の行動様式や社会様式を決定する在り方であるとも言える。つまり、社会的存在としての人間の在り方と呼ばれる人間性の土台に分厚く蓄積され、確りと刻み込まれた文化人類学的情報であると言えるだろう。
一次生活資源の確保を行うための長年の人類の努力こそが、人間の在り方を決める基本的要素を構築しているのである。この行動を今日の社会で言う「安全」の原型であると考えることも出来るだろう。
共同体を失った場合の一次生活資源欠乏状態の解決方法としての暴力
一次生活資源の欠乏状態が個人にとって直接死を意味するなら、人々はこの欠乏状態に対してどのような行動を取ることになるだろうか。
突然一次資源の欠乏した状況で人間が引き起こす行動とは命を守るために行う行動であると想像することができる。自分と家族の命を守るために行う行動、つまりそれらの行動はそれまで一次生活資源(生命を維持するために必要な生活資源)を確保するために共同体の秩序の中で、つまり日常的生活として行動していたものではなく、直接に個人や集団が命を守ろうとする行動である。共同体によって保障された一次生活資源確保の条件を奪われた人々には、もはや共同体の秩序を守る理由はない。直接に命を守らなければ命が奪われることになる。こうした状況で個人や集団は自分たちの命を守るために行動を選択するだろう。つまり、その行動基準は共同体の秩序維持のために取られるのでなく、個人や集団の延命のために選択決定されるのである。
つまり、個人や集団の延命のために選択する極限の行為とは、個人および集団が外敵から身を守るために外敵を殺害する行為、外敵から逃げる行為、食料を得るために他の競争相手を殺害する行為、他者の食糧を略奪する行為、等々である。いずれにしても暴力を伴う行為が自然発生的に生じることは避けられない。
戦争や飢餓が引き起こす異常な人間の行動も、個人の生命を守るために機能している共同体の制度や秩序の存在を無条件に前提にしている日常的生活環境から観た場合の異常さであって、その状況の中ではもっとも人間的な行為だとも言えるだろう。だからと言って暴力や殺戮を認めるわけではないが、共同体を失った個人や集団が自力でそれらの命を守ろうとする場合には、共同体の秩序的な視点から逸脱した行動が生まれることが生じると言える。
つまり、この暴力は共同体を失った状態の、社会的存在として生きてきた人間の条件を失った状態、最も悲惨な人間の姿であると言えるのである。この状態は人が個人としてその命を守るために他の人に対して闘争状態となっている世界を意味する。この状態の中で、人や集団が生きることはそれ以外の他者や集団との闘争関係に於いて成立していると言える。
秩序の脱構築過程、一次生活資源の欠乏要因の解決方法としての暴力的行動
個人や集団の破壊や暴力行動がそれらの人々の延命行為であるなら、この延命行為は共同体の秩序に依存しない状態で繰り広げられることになる。つまり、この行動は共同体の秩序に対する破壊を前提にして成立し、共同体の秩序でなく、個人的な行動によって、ここでは暴力的な行動によって生き延びようとしている。ここで選択された行為はある個人や集団のみが生きることを目的にしているものである。それ以外の人々や集団は別の集団の延命行為によって殺されることになる。つまり、この行為の行きつく地点では、生き延びるために戦い勝った人や集団以外はすべて駆逐され、滅びることになる。
しかし、この行為によって、生き延びた個人や集団も、生き延びた同族同士の血縁関係によってしか子孫を残せないなら、結果的に近い将来、生物的に滅びさることになる。この極論は、一次生活資源の欠乏が生み出す暴力的行為によっては個人としての延命は可能になるが、人としての延命は不可能になるという結論である。一次資源を得るために競争相手となる他者を抹殺することは短期的には成功しても長期的には失敗になる非現実的な行動であると想像できるのである。
では、一次生活資源の欠乏によって生じる暴力的行為の意味は何か。言換えると、この非常時の人間の暴力的行動は何を目的にして生じているのかを考えてみよう。何故なら、命に関わる一次生活資源の欠乏に対する暴力的な行動の勃発は歴史の中に革命、一揆や暴動として現れてきた。それらの暴力行為がまったくその存在理由を持たないということはあり得ない。この秩序や制度にとって「危機」の行動様式の意味を検討しなければならない。
つまり、安全の考え方の基礎となる共同体秩序の構築強化は、その社会秩序によって他者との共存が可能になるからであり、その受入れによってしか人類が存続できないからであった。現在の人類は、発生以来、精神構造上も理性とよばれる社会秩序の規則性を受け入れたこころ(現実則)を作りだし、共存することによって生き延びようとすることを人間性の基本情報としてきたのである。人は生き延びるために、個人の生命を支配し強制する力を共同体に与え、個人の欲望の充足行為よりも社会共同体の維持とその秩序を優先することを受け入れたのであった。
一次生活資源の欠乏の原因は共同体の生活環境を破壊する自然災害や外敵の攻撃だけではない。つまり、共同体の秩序や日常生活の慣習を通じて出来あがった災害防止措置や防衛上の問題によって共同体構成員の生命が脅かされるとは限らない。場合によっては共同体の構造によって、防衛や防災対応に不備が生じる場合もある。共同体の意思決定機能のマヒ、無能な幹部による対策の不備や想定外と判断される災害予測、つまり不十分な安全対策よって生じる被害拡大、これらは自然災害や外敵の攻撃と異なり、共同体の内部で生じる共同体の危機的要因である。そして結果的に可能な災害予防措置の欠如によって一次生活資源の欠乏が起ることになる。これを社会的要因によって生じる一次生活資源の欠乏問題として不可避的な自然災害によって生じる一次生活資源の欠乏状態と区別することにする。
例えば、この状態の典型として今回の東日本大震災の津波被害と原発事故被害の二つを挙げることが出来るだろう。
二つの場合に対する人々の対応は異なる。一つは、自然災害等の不可避的災害に対して、人々は共同体の再建として動き出す。しかし、社会構造的要因によって生じた災害に対して、人々は、その原因となる社会構造の変革に挑戦する。そのために、強固に存続を希望し続ける災害の要因となった社会秩序や体制に対して厳しくその秩序を壊す行動が生まれる。革命はその代表的な事例である。革命によって庶民は古い体制秩序を崩壊させ、新しい社会秩序を構築しようとする。その目的は、共同体で生活する人々の持続可能な生活様式を獲得するためである。
つまり、大衆や民衆の暴力的な行動とは、機能不全となった社会秩序の急激な変更を求める行為、生命維持に直結した一次生活資源の安定的供給を可能にする制度を構築するために、古い制度を脱構築する行為であると理解できるのである。
一次生活資源の欠乏要因の解決方法の三つの形態
生命維持に直結した生活資源、一次生活資源の欠乏問題を解決する手段として、以下に列挙した三つの行動パターンが生じる。
1、共同体の構築(生産活動への参加)
2、暴力行為による個人的延命行為(生産活動からの遊離)
3、暴力行為による共同体秩序の解体(生産活動様式や秩序の破壊と再建)
この三つの行動パターンは一見して異なるように見えるのだが、
西城戸誠氏が多様な社会運動を分類するために援用した社会運動の分類に関する理論(Kreiesi)(3)に示されていた「運動主体の参画度合い」と「運動成果の組織還元度合い」の二つの要素によって分析できる。「ボランティアから反戦デモまで社会運動の目標と組織形態(西城戸誠)」(OOHhi 04A pp77-93)
生産活動への参加を通じての共同体の構築とは、共同体構成員が共同体の制度に参加し、生産活動、防衛や防災活動から行事に至るすべての活動を担っている。その意味で、「運動主体の参画度合い」は非常に高い。そして共同体の利益のために共同体構成員は活動しているので、「運動成果の組織還元度合い」は活動を担う集団でなく共同体全体、つまり社会全体であると理解できる。
それに対して、暴力行為による個人的延命行為は共同体の生産活動様式や秩序の破壊と再建行為として解釈された。つまり、「運動主体の参画度合い」と「運動成果の組織還元度合い」の二つの要素に関して言うなら、個人として行動するこの行為では「運動主体の参画度合い」は殆どないと解釈できる。さらに、この個人の行動は個人の利益のみを考えて行われているために、「運動成果の組織還元度合い」も殆どないと解釈できる。
さらに、生産活動様式や秩序の破壊と再建を目的にした共同体の個人や集団の暴力行為による共同体秩序の解体行為であるが、共同体構成員は古い秩序を解体するために個人的抗議行動より集団的行動を組織する。その方が目的を達成できるからである。つまり、この抗議行動では「運動主体の参画度合い」が上記した二つ場合の中間に位置することになる。日常生活に属する生産活動のように共同体全員の参加とまでは行かないが、しかし、暴力行為による個人的延命行為のようにまったく個人的行動ではない。より多くの人々の参加を得ようとする活動が企画される。そして、この活動は運動に参加した人々の意識によって、「運動成果の組織還元度合い」が変化する。つまり、行動を担う人々に利益を還元する形態から共同体全体に利益を還元しようとする形態までが生まれる。その意味で、上記した二つの場合の中間に属すると言える。
このように、一次生活資源論の欠乏問題解決という切り口から社会運動の起源を考え、その中で生じる共同体構成員の三つの異なる行動様式を、社会運動の分類方法で用いられるKreiesiの理論の二つの要素分析を用いて説明することが出来た。
一次生活資源の欠乏問題を解決する行動として社会運動の原始的形態が形成され、その基本構造として共同体の構築や秩序形成があることが理解できた。さらに、革命や暴動、一揆などの暴力的な社会運動の起源も一次生活資源の視点から解釈できることも理解できた。それらのまったく異なる民衆行動、つまり暴力性(改革性)と共同体秩序維持(保守性)は、共に同じ共同体維持によって個体保存を行う社会的存在である人間性、つまり社会行動要素から生じていることも理解できたのである。
そして、この一次生活資源の欠乏状態を人間の生存権の侵害として理解することで、広義の人権概念を提案したのである。(4)
引用、参考資料
(1)三石博行 「設計科学としての生活学の構築 -人工物プログラム科学としての生活学の構図に向けて」 金蘭短期大学 研究誌33号 2002年12月 pp21-60
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_02/cMITShir02d.pdf
(2) 三石博行 「生活資源論」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_02.html
(3) Kriesi,H. 1996 “The Organizational Struture of New Social Movements in a Political Context” D.McCarthy and M.N.Zald eds. Comparative Pespectives on Social Movements : Political Opportunities , Mobilizing Strucures, and Cultural Framings, Cambridge : Cambridge University Press.
(4) 三石博行 「人権学 -三つの人権概念の定義-」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/11/blog-post_2567.html
(OOHhi 04A) 大畑裕嗣(おおはたひろし)、成元哲(そんうおんちょる)、道場親信(みちばちかのぶ)、樋口直人編 『社会運動の社会学』有斐閣選書 2004年4月30日、311p
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2012年4月11日、12日 誤字修正
(B120410b)
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三石博行
生活資源の構造とその欠乏状況の解決行動
生活資源の欠乏要因の解決行為として集団で行う生活防衛行為であると定義すると、生活資源の概念(1)からその欠乏状態について述べなければならない。ここで、生活資源論から、生活資源を一次生活資源、二次生活資源と三次生活資源に分類し、それらの生活資源の特徴からその欠乏状況が意味する課題を考え、その解決を巡って人とその集団、共同体がどのように行動するかを考えてみる。
一次生活資源の欠乏状態を防ぐ手段としての共同体
生活資源論の中で、一次生活資源を「生命や生存するために必要な最低限の生活条件や生活環境を構成する生活素材や生活様式」と定義した。(2)一次生活資源に分類されるものは、生命を維持するために必要な衣食住環境や育児や健康を守るための生活環境・家族関係、生存を支える生産活動や外的から身を守るための防衛活動を保障する共同体等である。
この一次生活資源の欠乏によって、人々は直接的に生命を脅かされることになる。例えば、戦争、災害、犯罪、飢餓や疫病の流行等などは一次生活資源の欠乏状態を作り出し、こうした自然や社会的災害によって人々の生活は根本から破壊される。
突然の自然災害や外敵の攻撃によって共同体は危機を迎える場合が生じる。その時、共同体は解体し、共同体を構成していた人々は命を奪われるのである。つまり、共同体の安全対策が襲ってきた自然災害に対しても外敵に対しても有効でない場合には、共同体は存続の危機に襲われることになる。破壊された生産機能、防衛機能、社会制度、家族、言い換えると一次生活資源の欠乏とは文字通りそれに依拠した人々の死を意味する。
そのため、人類は長年、一次生活資源の自然的状態で発生する欠乏を防ぐための努力を積み重ねてきた。その対策として、家族、共同体や社会の秩序や制度が形成された。共同体の秩序や制度の目指した課題は、人類が存続可能な条件を獲得し続けることであった。つまり、一次生活資源の欠乏を防ぐことが共同体の形成の起源であるとも言えるだろう。
人類は、生き延びるために食糧の確保、その技術確保や改良を行い、共同体や社会の食料生産量の維持、増加、食料備蓄の技術改良に努めてきた。さらに自然災害への防災対策、外敵からの防衛、共同体内での秩序維持、防犯、公衆衛生等の対策を開発維持し続けてきた。その意味で、共同体の秩序は個人を徹底的に支配する存在理由を持っていた。人々は共同体の秩序や制度を維持することによって命を維持できたのである。
共同体の秩序が絶対的に個人を支配するのは、その共同体の秩序形成の存在理由によるものであり、言い方を変えるなら、それなしに個人は生き延びることの出来なかった非常に長い人類の歴史、有史以前の歴史の中で形成された人類の行動様式や社会様式を決定する在り方であるとも言える。つまり、社会的存在としての人間の在り方と呼ばれる人間性の土台に分厚く蓄積され、確りと刻み込まれた文化人類学的情報であると言えるだろう。
一次生活資源の確保を行うための長年の人類の努力こそが、人間の在り方を決める基本的要素を構築しているのである。この行動を今日の社会で言う「安全」の原型であると考えることも出来るだろう。
共同体を失った場合の一次生活資源欠乏状態の解決方法としての暴力
一次生活資源の欠乏状態が個人にとって直接死を意味するなら、人々はこの欠乏状態に対してどのような行動を取ることになるだろうか。
突然一次資源の欠乏した状況で人間が引き起こす行動とは命を守るために行う行動であると想像することができる。自分と家族の命を守るために行う行動、つまりそれらの行動はそれまで一次生活資源(生命を維持するために必要な生活資源)を確保するために共同体の秩序の中で、つまり日常的生活として行動していたものではなく、直接に個人や集団が命を守ろうとする行動である。共同体によって保障された一次生活資源確保の条件を奪われた人々には、もはや共同体の秩序を守る理由はない。直接に命を守らなければ命が奪われることになる。こうした状況で個人や集団は自分たちの命を守るために行動を選択するだろう。つまり、その行動基準は共同体の秩序維持のために取られるのでなく、個人や集団の延命のために選択決定されるのである。
つまり、個人や集団の延命のために選択する極限の行為とは、個人および集団が外敵から身を守るために外敵を殺害する行為、外敵から逃げる行為、食料を得るために他の競争相手を殺害する行為、他者の食糧を略奪する行為、等々である。いずれにしても暴力を伴う行為が自然発生的に生じることは避けられない。
戦争や飢餓が引き起こす異常な人間の行動も、個人の生命を守るために機能している共同体の制度や秩序の存在を無条件に前提にしている日常的生活環境から観た場合の異常さであって、その状況の中ではもっとも人間的な行為だとも言えるだろう。だからと言って暴力や殺戮を認めるわけではないが、共同体を失った個人や集団が自力でそれらの命を守ろうとする場合には、共同体の秩序的な視点から逸脱した行動が生まれることが生じると言える。
つまり、この暴力は共同体を失った状態の、社会的存在として生きてきた人間の条件を失った状態、最も悲惨な人間の姿であると言えるのである。この状態は人が個人としてその命を守るために他の人に対して闘争状態となっている世界を意味する。この状態の中で、人や集団が生きることはそれ以外の他者や集団との闘争関係に於いて成立していると言える。
秩序の脱構築過程、一次生活資源の欠乏要因の解決方法としての暴力的行動
個人や集団の破壊や暴力行動がそれらの人々の延命行為であるなら、この延命行為は共同体の秩序に依存しない状態で繰り広げられることになる。つまり、この行動は共同体の秩序に対する破壊を前提にして成立し、共同体の秩序でなく、個人的な行動によって、ここでは暴力的な行動によって生き延びようとしている。ここで選択された行為はある個人や集団のみが生きることを目的にしているものである。それ以外の人々や集団は別の集団の延命行為によって殺されることになる。つまり、この行為の行きつく地点では、生き延びるために戦い勝った人や集団以外はすべて駆逐され、滅びることになる。
しかし、この行為によって、生き延びた個人や集団も、生き延びた同族同士の血縁関係によってしか子孫を残せないなら、結果的に近い将来、生物的に滅びさることになる。この極論は、一次生活資源の欠乏が生み出す暴力的行為によっては個人としての延命は可能になるが、人としての延命は不可能になるという結論である。一次資源を得るために競争相手となる他者を抹殺することは短期的には成功しても長期的には失敗になる非現実的な行動であると想像できるのである。
では、一次生活資源の欠乏によって生じる暴力的行為の意味は何か。言換えると、この非常時の人間の暴力的行動は何を目的にして生じているのかを考えてみよう。何故なら、命に関わる一次生活資源の欠乏に対する暴力的な行動の勃発は歴史の中に革命、一揆や暴動として現れてきた。それらの暴力行為がまったくその存在理由を持たないということはあり得ない。この秩序や制度にとって「危機」の行動様式の意味を検討しなければならない。
つまり、安全の考え方の基礎となる共同体秩序の構築強化は、その社会秩序によって他者との共存が可能になるからであり、その受入れによってしか人類が存続できないからであった。現在の人類は、発生以来、精神構造上も理性とよばれる社会秩序の規則性を受け入れたこころ(現実則)を作りだし、共存することによって生き延びようとすることを人間性の基本情報としてきたのである。人は生き延びるために、個人の生命を支配し強制する力を共同体に与え、個人の欲望の充足行為よりも社会共同体の維持とその秩序を優先することを受け入れたのであった。
一次生活資源の欠乏の原因は共同体の生活環境を破壊する自然災害や外敵の攻撃だけではない。つまり、共同体の秩序や日常生活の慣習を通じて出来あがった災害防止措置や防衛上の問題によって共同体構成員の生命が脅かされるとは限らない。場合によっては共同体の構造によって、防衛や防災対応に不備が生じる場合もある。共同体の意思決定機能のマヒ、無能な幹部による対策の不備や想定外と判断される災害予測、つまり不十分な安全対策よって生じる被害拡大、これらは自然災害や外敵の攻撃と異なり、共同体の内部で生じる共同体の危機的要因である。そして結果的に可能な災害予防措置の欠如によって一次生活資源の欠乏が起ることになる。これを社会的要因によって生じる一次生活資源の欠乏問題として不可避的な自然災害によって生じる一次生活資源の欠乏状態と区別することにする。
例えば、この状態の典型として今回の東日本大震災の津波被害と原発事故被害の二つを挙げることが出来るだろう。
二つの場合に対する人々の対応は異なる。一つは、自然災害等の不可避的災害に対して、人々は共同体の再建として動き出す。しかし、社会構造的要因によって生じた災害に対して、人々は、その原因となる社会構造の変革に挑戦する。そのために、強固に存続を希望し続ける災害の要因となった社会秩序や体制に対して厳しくその秩序を壊す行動が生まれる。革命はその代表的な事例である。革命によって庶民は古い体制秩序を崩壊させ、新しい社会秩序を構築しようとする。その目的は、共同体で生活する人々の持続可能な生活様式を獲得するためである。
つまり、大衆や民衆の暴力的な行動とは、機能不全となった社会秩序の急激な変更を求める行為、生命維持に直結した一次生活資源の安定的供給を可能にする制度を構築するために、古い制度を脱構築する行為であると理解できるのである。
一次生活資源の欠乏要因の解決方法の三つの形態
生命維持に直結した生活資源、一次生活資源の欠乏問題を解決する手段として、以下に列挙した三つの行動パターンが生じる。
1、共同体の構築(生産活動への参加)
2、暴力行為による個人的延命行為(生産活動からの遊離)
3、暴力行為による共同体秩序の解体(生産活動様式や秩序の破壊と再建)
この三つの行動パターンは一見して異なるように見えるのだが、
西城戸誠氏が多様な社会運動を分類するために援用した社会運動の分類に関する理論(Kreiesi)(3)に示されていた「運動主体の参画度合い」と「運動成果の組織還元度合い」の二つの要素によって分析できる。「ボランティアから反戦デモまで社会運動の目標と組織形態(西城戸誠)」(OOHhi 04A pp77-93)
生産活動への参加を通じての共同体の構築とは、共同体構成員が共同体の制度に参加し、生産活動、防衛や防災活動から行事に至るすべての活動を担っている。その意味で、「運動主体の参画度合い」は非常に高い。そして共同体の利益のために共同体構成員は活動しているので、「運動成果の組織還元度合い」は活動を担う集団でなく共同体全体、つまり社会全体であると理解できる。
それに対して、暴力行為による個人的延命行為は共同体の生産活動様式や秩序の破壊と再建行為として解釈された。つまり、「運動主体の参画度合い」と「運動成果の組織還元度合い」の二つの要素に関して言うなら、個人として行動するこの行為では「運動主体の参画度合い」は殆どないと解釈できる。さらに、この個人の行動は個人の利益のみを考えて行われているために、「運動成果の組織還元度合い」も殆どないと解釈できる。
さらに、生産活動様式や秩序の破壊と再建を目的にした共同体の個人や集団の暴力行為による共同体秩序の解体行為であるが、共同体構成員は古い秩序を解体するために個人的抗議行動より集団的行動を組織する。その方が目的を達成できるからである。つまり、この抗議行動では「運動主体の参画度合い」が上記した二つ場合の中間に位置することになる。日常生活に属する生産活動のように共同体全員の参加とまでは行かないが、しかし、暴力行為による個人的延命行為のようにまったく個人的行動ではない。より多くの人々の参加を得ようとする活動が企画される。そして、この活動は運動に参加した人々の意識によって、「運動成果の組織還元度合い」が変化する。つまり、行動を担う人々に利益を還元する形態から共同体全体に利益を還元しようとする形態までが生まれる。その意味で、上記した二つの場合の中間に属すると言える。
このように、一次生活資源論の欠乏問題解決という切り口から社会運動の起源を考え、その中で生じる共同体構成員の三つの異なる行動様式を、社会運動の分類方法で用いられるKreiesiの理論の二つの要素分析を用いて説明することが出来た。
一次生活資源の欠乏問題を解決する行動として社会運動の原始的形態が形成され、その基本構造として共同体の構築や秩序形成があることが理解できた。さらに、革命や暴動、一揆などの暴力的な社会運動の起源も一次生活資源の視点から解釈できることも理解できた。それらのまったく異なる民衆行動、つまり暴力性(改革性)と共同体秩序維持(保守性)は、共に同じ共同体維持によって個体保存を行う社会的存在である人間性、つまり社会行動要素から生じていることも理解できたのである。
そして、この一次生活資源の欠乏状態を人間の生存権の侵害として理解することで、広義の人権概念を提案したのである。(4)
引用、参考資料
(1)三石博行 「設計科学としての生活学の構築 -人工物プログラム科学としての生活学の構図に向けて」 金蘭短期大学 研究誌33号 2002年12月 pp21-60
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_02/cMITShir02d.pdf
(2) 三石博行 「生活資源論」
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kenkyu_02_02.html
(3) Kriesi,H. 1996 “The Organizational Struture of New Social Movements in a Political Context” D.McCarthy and M.N.Zald eds. Comparative Pespectives on Social Movements : Political Opportunities , Mobilizing Strucures, and Cultural Framings, Cambridge : Cambridge University Press.
(4) 三石博行 「人権学 -三つの人権概念の定義-」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/11/blog-post_2567.html
(OOHhi 04A) 大畑裕嗣(おおはたひろし)、成元哲(そんうおんちょる)、道場親信(みちばちかのぶ)、樋口直人編 『社会運動の社会学』有斐閣選書 2004年4月30日、311p
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2012年4月11日、12日 誤字修正
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Les recherches panoramiques: objet et méthode ; Du point de vue de la ≪ Deuxième Révolution Scientifique ≫
La traduction d’un article ecrit par le professeur Tamito YOSHIDA
Hiroyuki MITSUISHI et Eddy VAN DROM
Pour le développement des rechereches sur le plogrammogie crée par T.YOSHIDA
Nous nous appelons Hiroyuki MITSUISHI et Eddy VAN DROM, des universités de Kinran-Senri et Kansai, respectivement, au Japon. Nous venons de publier la traduction d’un article de feu le professeur Tamito YOSHIDA, qui a développé un nouveau type de philosophie des sciences, à savoir la Programmologie.
Titre : Les recherches panoramiques: objet et méthode ; Du point de vue de la ≪ Deuxième Révolution Scientifique ≫
Vous pouvez télécharger le fichier complet à l’adresse suivante:
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_05_02/cMITShir11a.pdf
Cet article aborde la question du développement des sciences socio-humaines du XXIe siècle, c’est-à-dire des méthodes scientifiques de résolution des problèmes relatifs à la société, à l’économie, à la culture et à l’humain, engendrés par la civilisation techno-scientifique. Ces moyens pour les recherches panoramiques sont la programmologie et la désignologie de type auto-organisationnelle.
C’est afin de partager cette pensée avec le plus grand nombre possible de personnes que nous avons décidé de traduire cet article du japonais en français. Nous espérons que la lecture vous intéressera.
English article for Systems Sciences by T.YOSHIDA
PS : Un autre de ses articles en langue européenne (anglais) est :
Tamito YOSHIDA (2005): The Second Scientific Revolution in Capital Letters -Informatic Turn- in IFSR2005 « The New Roles of Systems Sciences for a Knowledge-based Society », The First World Congress of the International Federation for Systems Research, pp1-38.
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関連文書集課題
ブログ文書集「プログラム科学論・自己組織性の設計科学」
Articles de Blog « Plogramologie comme la science désigniologique»
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/03/blog-post_3891.html
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Hiroyuki MITSUISHI et Eddy VAN DROM
Pour le développement des rechereches sur le plogrammogie crée par T.YOSHIDA
Nous nous appelons Hiroyuki MITSUISHI et Eddy VAN DROM, des universités de Kinran-Senri et Kansai, respectivement, au Japon. Nous venons de publier la traduction d’un article de feu le professeur Tamito YOSHIDA, qui a développé un nouveau type de philosophie des sciences, à savoir la Programmologie.
Titre : Les recherches panoramiques: objet et méthode ; Du point de vue de la ≪ Deuxième Révolution Scientifique ≫
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http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_05_02/cMITShir11a.pdf
Cet article aborde la question du développement des sciences socio-humaines du XXIe siècle, c’est-à-dire des méthodes scientifiques de résolution des problèmes relatifs à la société, à l’économie, à la culture et à l’humain, engendrés par la civilisation techno-scientifique. Ces moyens pour les recherches panoramiques sont la programmologie et la désignologie de type auto-organisationnelle.
C’est afin de partager cette pensée avec le plus grand nombre possible de personnes que nous avons décidé de traduire cet article du japonais en français. Nous espérons que la lecture vous intéressera.
English article for Systems Sciences by T.YOSHIDA
PS : Un autre de ses articles en langue européenne (anglais) est :
Tamito YOSHIDA (2005): The Second Scientific Revolution in Capital Letters -Informatic Turn- in IFSR2005 « The New Roles of Systems Sciences for a Knowledge-based Society », The First World Congress of the International Federation for Systems Research, pp1-38.
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2012年4月5日木曜日
共同体秩序の脱構築・構築集団行動としての社会運動
共同体維持機能を担う社会運動の側面
三石博行
生活資源の社会的欠乏要因の解決行為
社会運動とは市民(庶民)の社会的行為である。その行為はアメリカの社会学者スメルサーの述べる社会的構造ストレーン・社会構造の時代的(政治経済的)な諸要素間に生じているひずみに対する生活防衛的な解決行動であると中澤秀雄氏と樋口直人氏は説明した。(OOHhi 04A pp139-153)「社会運動と政治 ‐社会的機会構造と住民運動- (中澤秀雄、樋口直人)」
時代や社会を超えて人々が生活防衛ために起こす全ての行為によって社会運動が生まれる。しかし、日常的に生活防衛のための行為はつねに個人や家族的範囲の中で行われている。それらの個人や家族的な行為で生活防衛が不可能になるとき集団的な行為に発展する。その段階で生活防衛行為は個人的な行為から集団的な行動へと変わる。生活防衛を目的にした集団的な行動を社会運動の起源と考えることができる。
生活防衛行為とは生活資源の欠乏を防ぐための行為である。一般に生活資源の欠乏を防ぐということは生産行為を意味するが、この場合、生活資源の欠乏の原因となる社会的要因(原因)を取り除く行為、生活資源の社会的欠乏要因の解決行為である。
例えば、飢饉に襲われながらも重い年貢に苦しむ農民達は、飢饉の原因となる気象変動や災害を解決することは出来ないが、年貢を取り立てる地主や領主に対して異議を申し立て、年貢の支払いを免除してもらうか、延期してもらう要求を出すことは可能である。生き延びるために、最低限の生活物質(食料)を確保する生活防衛行為が集団で行われる。
社会的存在・人の宿命としての社会運動
生活資源の欠乏の社会的要因を集団的行動によって解決しようとすることが社会運動の起源となる。その意味で社会運動とは人類の形成とともにある人間の基本的な行動様式であるとも言える。つまり、人を社会的存在であると言うなら、その社会的存在形態に付随する行動の一つとして社会運動的行動が生まれる。人々は社会共同体を形成することで生活し生存できたのである。
しかし、同時にその共同体の在り方(社会と呼ばれる人工物システム)がすべての状況に対応できるとは限らない。新しい状況、例えば大災害、大飢饉、外敵の侵入、共同体内部の権力闘争、人口増加等々に共同体が即座に対応し問題を解決できなくなる場合が生じる。共同体自体の中で状況に対応できなくなった共同体執行部(権力の中心)を変革する機能が必ずしもスムースに働くとは限らない。
そうした事態が生じた場合、共同体の中で、ある集団がその共同体の在り方(意思決定を行う執行機関の構成や問題解決の方法、規範、規則を決めそれに反する人々に懲罰を与える権力構造等々)を問題にする。この自分たち(集団)が所属する共同体の問題を指摘しそれを解決しようとする行動が、共同体を作る社会的存在としての人間の属性の一つであると言えるのである。
言い換えると、社会運動とは人間が社会的存在であることの宿命として存在し、この集団的な行動は共同体を運営する行動の一つであり、規範や習慣によって営まれる日常生活的な行動様式、つまり共同体維持という惰性的行動様式に対して、その惰性態を脱構築し新しい生活様式を協同体に取り入れようとする集団的行動である。
その意味で、社会運動の起源となる集団的異議申し立て行動は、社会的存在としての人間が生まれたその時から存在したと考えるべきだろう。共同体の維持行為を惰性的共同体維持活動と言うなら、その惰性態を脱構築し新たな秩序を構築するための行為(社会運動)も、基本的には同じ人間性、社会的存在としての人間の在り方に由来するものである。それらの二つの行動様式はともに共同体の個別体の保存と系統種の保存にとって必要なものであると理解できるだろう。
共同体内での共同体秩序の脱構築・構築集団行動
社会運動を人間の社会的存在のあり方に起源をもつ人間的行動様式の一つと考えることによって社会運動を社会行為の基本に取り入れることができる。しかし、同時に、共同体を維持するために惰性的に(習慣や風習によって)営まれる日常生活行為とその日常性を脱構築しようとする社会運動の違いについて述べる必要がある。
上記の集団的異議申し立て行動は所属共同体秩序(機能)や共同体組織に対する批判運動であると理解される。その視点から考えると、集団的異議申し立て運動が、古代社会以来、反秩序、反権力、反体制運動として機能していたことが理解できる。中世社会の農民一揆はその典型である。
村落集団の中にもその集団の古い秩序を変革する活動がある。その担い手は主に青年達である。そこで村落では村落の行事を担う長老を中心とした執行機能に対して、村落の活性化を担う青年団が組織されている。青年団も村落の行事を担う。しかし、青年団として別に組織されたのは、村落が彼らの斬新な発想、企画や行動力を評価し、その力を村落全体のものに役立てようとしているからである。若い人々が少しは羽目を外せる場、独自に活動する場として青年団を与え、その力を結果的に、村落全体のものにしようとする組織戦略が込められている。
村落の秩序内部で営まれる青年団の運動は、社会運動ではないと言うなら、社会運動の概念を「反体制的運動」に限定してしまうことになる。社会運動の起源を共同体の秩序の脱構築と構築を行う社会機能であると解釈する概念が満たされなくなる。社会運動を反体制運動のみに狭く解釈してしまうと、多様な市民運動、NPO化し商業化する消費者運動も社会運動の枠に当てはまらない可能性が生まれる。
社会運動を反体制運動に限定する考え方は、資本主義経済や近代国家形成以後に生じたのではないだろうか。社会運動が市民革命や社会主義運動に大きく影響された結果、反体制的要素が必要十分条件化したのではないだろうか。この近代社会以来の社会運動形態からは、それまでの古代や中世の村落共同体や、また長い伝統を受け継ぐ地域社会での青年団等の活動を社会運動の一つの形態として理解することは出来ない。
社会運動の反体制的要素をその必要十分条件とすることによって、長老への穏健な異議申し立て機能としての青年団の役割も、資本主義経済の土台を支える商品社会を支える消費者運動も体制の秩序維持機能としてしか理解されないだろう。それらの運動、集団のもつ異議申して行動は社会運動の埒外に位置されるだろう。
現代の多様な市民運動の形態、また人類の歴史、社会を作ってきた民衆の多種多様な生活運動、社会変革を目的にした民衆文化や民衆活動、つまり社会運動の起源として理解するために、共同体内での共同体秩序の脱構築・構築集団行動を社会運動の概念として拡張解釈したい。
社会運動の特徴は「共同体の内部から生じる共同体構成員による共同体変革のための活動であること」である。この文言は、市民運動を「市民による(主体)市民のための(目的)市民の運動(方法)」と呼ぶことに共通する。言い換えると、社会運動の主体と目的、そして方法に関する意味や考え方から民主主義という概念の基本が形成されている事に気づくのである。
参考、引用文献
三石博行 「多様化する現代社会の市民運動を構成する要因とは何か」
三石博行 「市民運動の変遷を生み出す二つの社会的要因について」
三石博行 「人権学 -三つの人権概念の定義-」
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三石博行
生活資源の社会的欠乏要因の解決行為
社会運動とは市民(庶民)の社会的行為である。その行為はアメリカの社会学者スメルサーの述べる社会的構造ストレーン・社会構造の時代的(政治経済的)な諸要素間に生じているひずみに対する生活防衛的な解決行動であると中澤秀雄氏と樋口直人氏は説明した。(OOHhi 04A pp139-153)「社会運動と政治 ‐社会的機会構造と住民運動- (中澤秀雄、樋口直人)」
時代や社会を超えて人々が生活防衛ために起こす全ての行為によって社会運動が生まれる。しかし、日常的に生活防衛のための行為はつねに個人や家族的範囲の中で行われている。それらの個人や家族的な行為で生活防衛が不可能になるとき集団的な行為に発展する。その段階で生活防衛行為は個人的な行為から集団的な行動へと変わる。生活防衛を目的にした集団的な行動を社会運動の起源と考えることができる。
生活防衛行為とは生活資源の欠乏を防ぐための行為である。一般に生活資源の欠乏を防ぐということは生産行為を意味するが、この場合、生活資源の欠乏の原因となる社会的要因(原因)を取り除く行為、生活資源の社会的欠乏要因の解決行為である。
例えば、飢饉に襲われながらも重い年貢に苦しむ農民達は、飢饉の原因となる気象変動や災害を解決することは出来ないが、年貢を取り立てる地主や領主に対して異議を申し立て、年貢の支払いを免除してもらうか、延期してもらう要求を出すことは可能である。生き延びるために、最低限の生活物質(食料)を確保する生活防衛行為が集団で行われる。
社会的存在・人の宿命としての社会運動
生活資源の欠乏の社会的要因を集団的行動によって解決しようとすることが社会運動の起源となる。その意味で社会運動とは人類の形成とともにある人間の基本的な行動様式であるとも言える。つまり、人を社会的存在であると言うなら、その社会的存在形態に付随する行動の一つとして社会運動的行動が生まれる。人々は社会共同体を形成することで生活し生存できたのである。
しかし、同時にその共同体の在り方(社会と呼ばれる人工物システム)がすべての状況に対応できるとは限らない。新しい状況、例えば大災害、大飢饉、外敵の侵入、共同体内部の権力闘争、人口増加等々に共同体が即座に対応し問題を解決できなくなる場合が生じる。共同体自体の中で状況に対応できなくなった共同体執行部(権力の中心)を変革する機能が必ずしもスムースに働くとは限らない。
そうした事態が生じた場合、共同体の中で、ある集団がその共同体の在り方(意思決定を行う執行機関の構成や問題解決の方法、規範、規則を決めそれに反する人々に懲罰を与える権力構造等々)を問題にする。この自分たち(集団)が所属する共同体の問題を指摘しそれを解決しようとする行動が、共同体を作る社会的存在としての人間の属性の一つであると言えるのである。
言い換えると、社会運動とは人間が社会的存在であることの宿命として存在し、この集団的な行動は共同体を運営する行動の一つであり、規範や習慣によって営まれる日常生活的な行動様式、つまり共同体維持という惰性的行動様式に対して、その惰性態を脱構築し新しい生活様式を協同体に取り入れようとする集団的行動である。
その意味で、社会運動の起源となる集団的異議申し立て行動は、社会的存在としての人間が生まれたその時から存在したと考えるべきだろう。共同体の維持行為を惰性的共同体維持活動と言うなら、その惰性態を脱構築し新たな秩序を構築するための行為(社会運動)も、基本的には同じ人間性、社会的存在としての人間の在り方に由来するものである。それらの二つの行動様式はともに共同体の個別体の保存と系統種の保存にとって必要なものであると理解できるだろう。
共同体内での共同体秩序の脱構築・構築集団行動
社会運動を人間の社会的存在のあり方に起源をもつ人間的行動様式の一つと考えることによって社会運動を社会行為の基本に取り入れることができる。しかし、同時に、共同体を維持するために惰性的に(習慣や風習によって)営まれる日常生活行為とその日常性を脱構築しようとする社会運動の違いについて述べる必要がある。
上記の集団的異議申し立て行動は所属共同体秩序(機能)や共同体組織に対する批判運動であると理解される。その視点から考えると、集団的異議申し立て運動が、古代社会以来、反秩序、反権力、反体制運動として機能していたことが理解できる。中世社会の農民一揆はその典型である。
村落集団の中にもその集団の古い秩序を変革する活動がある。その担い手は主に青年達である。そこで村落では村落の行事を担う長老を中心とした執行機能に対して、村落の活性化を担う青年団が組織されている。青年団も村落の行事を担う。しかし、青年団として別に組織されたのは、村落が彼らの斬新な発想、企画や行動力を評価し、その力を村落全体のものに役立てようとしているからである。若い人々が少しは羽目を外せる場、独自に活動する場として青年団を与え、その力を結果的に、村落全体のものにしようとする組織戦略が込められている。
村落の秩序内部で営まれる青年団の運動は、社会運動ではないと言うなら、社会運動の概念を「反体制的運動」に限定してしまうことになる。社会運動の起源を共同体の秩序の脱構築と構築を行う社会機能であると解釈する概念が満たされなくなる。社会運動を反体制運動のみに狭く解釈してしまうと、多様な市民運動、NPO化し商業化する消費者運動も社会運動の枠に当てはまらない可能性が生まれる。
社会運動を反体制運動に限定する考え方は、資本主義経済や近代国家形成以後に生じたのではないだろうか。社会運動が市民革命や社会主義運動に大きく影響された結果、反体制的要素が必要十分条件化したのではないだろうか。この近代社会以来の社会運動形態からは、それまでの古代や中世の村落共同体や、また長い伝統を受け継ぐ地域社会での青年団等の活動を社会運動の一つの形態として理解することは出来ない。
社会運動の反体制的要素をその必要十分条件とすることによって、長老への穏健な異議申し立て機能としての青年団の役割も、資本主義経済の土台を支える商品社会を支える消費者運動も体制の秩序維持機能としてしか理解されないだろう。それらの運動、集団のもつ異議申して行動は社会運動の埒外に位置されるだろう。
現代の多様な市民運動の形態、また人類の歴史、社会を作ってきた民衆の多種多様な生活運動、社会変革を目的にした民衆文化や民衆活動、つまり社会運動の起源として理解するために、共同体内での共同体秩序の脱構築・構築集団行動を社会運動の概念として拡張解釈したい。
社会運動の特徴は「共同体の内部から生じる共同体構成員による共同体変革のための活動であること」である。この文言は、市民運動を「市民による(主体)市民のための(目的)市民の運動(方法)」と呼ぶことに共通する。言い換えると、社会運動の主体と目的、そして方法に関する意味や考え方から民主主義という概念の基本が形成されている事に気づくのである。
参考、引用文献
三石博行 「多様化する現代社会の市民運動を構成する要因とは何か」
三石博行 「市民運動の変遷を生み出す二つの社会的要因について」
三石博行 「人権学 -三つの人権概念の定義-」
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関連ブログ文書集
三石博行 ブログ文書集「市民運動論」
三石博行 ブログ文書集「人権学試論」
三石博行 ブログ文書集「民主主義文化としての報道機能について」
三石博行 ブログ文書集「わが国の民主主義文化を発展させるための課題について」
2012年4月11日 誤字修正
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2012年4月4日水曜日
吉田民人著「俯瞰型研究の対象と方法 大文字の第二科学革命の立場から」仏訳を発表
人工物プログラム科学論・設計科学の科学的方法論
三石博行, Eddy VAN DROM
吉田民人が試みた新しい科学哲学・プログラム科学論
吉田民人先生が2000年12月に『学術の動向』に記載した論文「俯瞰型研究の対象と方法:「大文字の第二次科学革命」の立場から」のフランス語翻訳をEddy Van Dromさんと行いました。
Hiroyuki MITSUISHI Eddy VAN DROM (共訳)“Les recherches panoramiques: objet et methode Du point de vue de la ≪ Deuxieme Revolution Scientifique ≫ de Tamito YOSHIDA”
邦訳 三石博行 ファンドロム・エディ訳 吉田民人著「俯瞰型研究の対象と方法 大文字の第二科学革命の立場から」 千里金蘭大学紀要No8(通巻42号)2011.12 pp213-227
ダウンロード(クリックしてください)
“Les recherches panoramiques: objet et methode Du point de vue de la ≪ Deuxieme Revolution Scientifique ≫ de Tamito YOSHIDA”
吉田民人先生の1950年代から2009年までの研究活動の中で、この論文の意味や位置付けに関して、以前、「吉田民人論文『俯瞰型研究の対象と方法:「大文字の第二次科学革命」の立場か』に関する評価」とうい文章をブログに記載しました。この文章をこの論文翻訳に活用し、この論文を紹介しました。
国際的評価を受けている吉田民人の研究
この論文で、吉田先生は、21世紀の人間社会科学の方向、つまり、科学技術文明社会で生じる社会、経済、文化、人間に関する問題解決学(政策学)としての役割とその科学的方法論を述べました。この吉田科学哲学を出来るだけ多くの人々に理解してもらおうと、英訳でなく仏訳をしました。
吉田民人先生の「自己組織性の情報科学」やその後のプログラム科学論、自己組織性の設計科学の理論は世界的に評価できるものだと思います。それらの理論は日本の社会科学の水準を示すのだと思います。2005年11月15日に神戸国際会議場で開催された『国際システム研究学会連合会』IFSR2005 第1回世界大会では基調報告をされました。この基調報告は参加した世界の研究者の非常に大きな関心を集めました。吉田民人先生の理論は国際的評価を受けていると思います。
参考、引用文献
1、吉田民人 「俯瞰型研究の対象と方法:「大文字の第二次科学革命」の立場から」特集 俯瞰型研究プロジェクト(2000年10月号)を受けて 『学術の動向』5(11) 2000年11月 pp36-45
2、三石博行 「吉田民人論文『俯瞰型研究の対象と方法:「大文字の第二次科学革命」の立場か』に関する評価」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/09/blog-post.html
3、Tamito Yoshida “The Second Scientific Revolution in Capital Letters –Informatic Turn-“
IFSR2005『The New Roles of Systems Sciences for a Knowledge-based Society』The First World Congress of the International Federation for Systems Research pp1-38
邦訳 『国際システム研究学会連合会』IFSR2005第1回世界大会基調報告 2005年11月15日 神戸国際会議場
関連ブログ文書集
三石博行 ブログ文書集「プログラム科学論・自己組織性の設計科学」
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三石博行, Eddy VAN DROM
吉田民人が試みた新しい科学哲学・プログラム科学論
吉田民人先生が2000年12月に『学術の動向』に記載した論文「俯瞰型研究の対象と方法:「大文字の第二次科学革命」の立場から」のフランス語翻訳をEddy Van Dromさんと行いました。
Hiroyuki MITSUISHI Eddy VAN DROM (共訳)“Les recherches panoramiques: objet et methode Du point de vue de la ≪ Deuxieme Revolution Scientifique ≫ de Tamito YOSHIDA”
邦訳 三石博行 ファンドロム・エディ訳 吉田民人著「俯瞰型研究の対象と方法 大文字の第二科学革命の立場から」 千里金蘭大学紀要No8(通巻42号)2011.12 pp213-227
ダウンロード(クリックしてください)
“Les recherches panoramiques: objet et methode Du point de vue de la ≪ Deuxieme Revolution Scientifique ≫ de Tamito YOSHIDA”
吉田民人先生の1950年代から2009年までの研究活動の中で、この論文の意味や位置付けに関して、以前、「吉田民人論文『俯瞰型研究の対象と方法:「大文字の第二次科学革命」の立場か』に関する評価」とうい文章をブログに記載しました。この文章をこの論文翻訳に活用し、この論文を紹介しました。
国際的評価を受けている吉田民人の研究
この論文で、吉田先生は、21世紀の人間社会科学の方向、つまり、科学技術文明社会で生じる社会、経済、文化、人間に関する問題解決学(政策学)としての役割とその科学的方法論を述べました。この吉田科学哲学を出来るだけ多くの人々に理解してもらおうと、英訳でなく仏訳をしました。
吉田民人先生の「自己組織性の情報科学」やその後のプログラム科学論、自己組織性の設計科学の理論は世界的に評価できるものだと思います。それらの理論は日本の社会科学の水準を示すのだと思います。2005年11月15日に神戸国際会議場で開催された『国際システム研究学会連合会』IFSR2005 第1回世界大会では基調報告をされました。この基調報告は参加した世界の研究者の非常に大きな関心を集めました。吉田民人先生の理論は国際的評価を受けていると思います。
参考、引用文献
1、吉田民人 「俯瞰型研究の対象と方法:「大文字の第二次科学革命」の立場から」特集 俯瞰型研究プロジェクト(2000年10月号)を受けて 『学術の動向』5(11) 2000年11月 pp36-45
2、三石博行 「吉田民人論文『俯瞰型研究の対象と方法:「大文字の第二次科学革命」の立場か』に関する評価」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/09/blog-post.html
3、Tamito Yoshida “The Second Scientific Revolution in Capital Letters –Informatic Turn-“
IFSR2005『The New Roles of Systems Sciences for a Knowledge-based Society』The First World Congress of the International Federation for Systems Research pp1-38
邦訳 『国際システム研究学会連合会』IFSR2005第1回世界大会基調報告 2005年11月15日 神戸国際会議場
関連ブログ文書集
三石博行 ブログ文書集「プログラム科学論・自己組織性の設計科学」
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ブログ文書集「わが国の民主主義文化を発展させるための課題について」
目次
三石博行
0、はじめに(改革の主体としての国民)
1、今、問われている課題とは
1-1、新しい社会政策の模索の時代、問われている21世紀社会の姿と理念
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/12/21.html
1-2、国民の社会改革への参画こそ民主主義文化展開の唯一の方法である
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/12/blog-post.html
1-3、現在問われている社会改革の課題
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/12/blog-post_01.html
1-4、東日本大震災が問いかけるわが国の民主主義文化の質
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/04/blog-post_03.html
2、立法機能・政治改革の課題
2-1、選挙制度改革
2-3、議員の義務と評価制度
2-3、敏速な立法機能と二院代表制、首相任命制度の検討
3、司法機能・裁判制度改革の課題
3-1、裁判員制度の発展的改革
3-2、検察審査会の発展的改革
3-3、司法や検察の国民的点検機能
4、行政改革の課題
4-1、地方分権制度の導入
4-2、公務員採用の課題
4-3、行政の国民的点検機能
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関連文書集
三石博行 ブログ文書集「市民運動論」
三石博行 ブログ文書集「人権学試論」
三石博行 ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」
三石博行 ブログ文書集「日本の政治改革への提言」
三石博行 ブログ文書集「持続可能なエネルギー生産社会を目指すために」
三石博行 ブログ文書集「民主主義文化としての報道機能について」
三石博行 ブログ文書集「東日本大震災からの復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」
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三石博行
0、はじめに(改革の主体としての国民)
1、今、問われている課題とは
1-1、新しい社会政策の模索の時代、問われている21世紀社会の姿と理念
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/12/21.html
1-2、国民の社会改革への参画こそ民主主義文化展開の唯一の方法である
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/12/blog-post.html
1-3、現在問われている社会改革の課題
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/12/blog-post_01.html
1-4、東日本大震災が問いかけるわが国の民主主義文化の質
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/04/blog-post_03.html
2、立法機能・政治改革の課題
2-1、選挙制度改革
2-3、議員の義務と評価制度
2-3、敏速な立法機能と二院代表制、首相任命制度の検討
3、司法機能・裁判制度改革の課題
3-1、裁判員制度の発展的改革
3-2、検察審査会の発展的改革
3-3、司法や検察の国民的点検機能
4、行政改革の課題
4-1、地方分権制度の導入
4-2、公務員採用の課題
4-3、行政の国民的点検機能
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関連文書集
三石博行 ブログ文書集「市民運動論」
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三石博行 ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」
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三石博行 ブログ文書集「東日本大震災からの復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」
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2012年4月3日火曜日
東日本大震災が問いかけるわが国の民主主義文化の質
成熟した社会・民主主義社会を発展させるために(4)
三石博行
今、我々国民一人ひとりに民主主義文化が問われている
現代の日本社会では民主主義の在り方が問われている。それは民主主義を冒涜する権力に対する批判と言うよりも、寧ろ、敗戦、新憲法制定、戦後民主主義体制の歴史の中で、蓄積し続けた現代日本文化の成果として民主主義が問われているように思う。
従って、この問いかけは民主主義を担う国民、市民が自らの生活スタイルやこれからの日本社会の在り方に対する考え方を問い掛けるという内容になる。民主主義を問い掛けているのは豊かで、自由に生きることを知っている我々であり、その我々が民主主義文化をさらに分厚く豊かに育てるために、自問しているのである。
この問い掛けをさらに加速したのが、昨年3月11日に発生した東日本大震災と福島東電原発事故であった。社会の非常事態に対して、豊かな日本社会のもう一つの側面、つまり危機管理や緊急時に対する社会機能が問われた。この問い掛けは二つの課題をさらに投げかけた。つまり危機管理を行うために社会統制システムを導入するか、それとも国民の自主的な活動によって危機管理を作りだすかである。
>国民主権のための武力装置・自衛隊の承認とボランティア国民運動の形成
自衛隊や保安、警察・消防隊の組織的動員力による防災救援体制の構築と強化が一つ目の解答であった。2011年3月11日に発生した東日本大震災への政府の対応は、勿論完璧なものではなかったものの、1995年1月17日の阪神・淡路大震災へのそれに比べて大きく前進した。そして、二つ目の課題に対して言うなら、今回の震災に対して国民は自主的なボランティア救援活動、インターネットやFMラジオを活用した震災情報伝達、多様な救援国民運動を自主的に展開した。
国家の危機的状況を乗り越えることは、日本国民全体の課題である。軍隊や警察等の国家権力機能と国民の自主的活動の民主主義機能を持つ民主主義・資本主義国家の二つの側面が相矛盾することが無いのは、国民主権によって国家権力が運営されているという国民全体のコンセンサスが成立しているからである。自衛隊や警察は国民の命と生活を守る機能である。それらの強力な機動力によって、災害救援部隊が構成され、最も危険で困難な現場に迅速に派遣され、機敏に国民の救済活動に取り組む。この国民のために存在する国家権力への信頼こそ、民主主義国家の屋台骨を支えているのである。
今回の震災救援活動で自衛隊は大きな役割を果たした。それは国民の命を守ることが国民主権国家の自衛隊の役割であることを救援活動を通じて明らかに国民に伝えたことである。そのことによって、国民の中には自衛隊に対する理解が生まれた。国家権力は国家という機能にとって不可欠の機能である。その機能を国民主権のための自衛隊(武力装置)として民主主義文化は問い掛けるのである。
国民主権の国家運営の責任を国民が自覚するなら、その国家権力の主人公として国民は責任ある態度を取るだろう。そして自分たちの自衛隊や警察の在り方を考えるだろう。勿論、自分たちも自主的に災害時の救援機動部隊を作る力を持つだろう。情報や流通を自主的に確保し、国家や地方自治体の制度として配備されている機動部隊、つまり自衛隊、警察、海上保安部隊、消防隊と連携する力を持つだろう。
暴露された立法機関・国会の機能不全状態
国会議員という無能の集団が3.11によって暴露された。約2万人弱の死者や行方不明者、そして数十万人の避難所生活者がいる中で、国会では政局論争に明け暮れていた。国民の多くは、その姿に絶望し、始めは怒りをもって与野党の国会議員達を批判した。しかし、次第に、嘲笑と化して行った。つまり、国民はこれで政局論争を繰り返した与野党の国会議員達から、彼らに頼らないことを学んだのである。
その気持ちの現れが財政危機にあった大阪府(市)を再建するために奮闘する大阪維新会・橋下徹氏への共感であった。選挙公約(マニュフェスト)に掲げた行政や政治改革を実行する橋下氏への支持は大阪府民のみでなく国民全体から支持されている。被災した国民を置き去りにして政局論争を繰り返し続けた与野党国会議員。橋下氏の国民的評価を生み出す背景に国会で党利党略を優先して進められる与野党への不信や怒りがあることは否定できない。
自民党執行部は民主党政権を解散に追い込めば、自分たちが自動的に政権を取れると予測しているのだろうか。また、被災地復興対策や原発事故処理の検証作業等々の遅れ、マニフェスト不履行等々、民主党現執行部は先の参議院選挙で受けた国民からの評価を真摯に受け止める作業をしているのだろうか。極論を許すなら、現在の政党政治の姿は、国民は単なる政局ゲームの駒にすぎないと思っているとしか言えないのである。しかし、日本国民はそうした極論された政党の思惑を理解しないほど遇民の集まりではない。
戦前の政党政治と同じように政局中心主義によって次第に台頭した軍国主義(素早い意思決定機能)のような危険な政治構造は戦後から現在の豊かな民主主義文化を育てた日本では繰り返し起ることがないとは思うが、国民はこの国を滅ぼそうとしている形骸化した官僚主義と政党利権主義に対して、もっとも現実的な答えを用意し始めるに違いない。
選挙という国民の政治的意思決定を最大限尊重しない限り間接民主主義制度は成立しない
2010年の参議院選挙で民主党は大敗した。その時、彼らは政権を自民党に渡すべきであった。衆議院での多数政党である民主党が最終的に立法権を持つ政党である。そのことと先の参議院選挙で国民から受けた審判とは別なのである。ねじれ国会の経験は日本の戦後政治史の中ではそう多くないために、2008年の民主党が参議院の多数を占めて出来たねじれ国会と2011年の自民党が多数を占めたそれとの経験を踏まえて、衆参二院制によって生じる立法機能のマヒ状態を回避するための選挙後の政党間の取り決めが作られる必要があるだろう。
自民党も民主党もこのねじれ国会が引き起こす立法機能のマヒを国民の責任にしていないだろうか。現在の民主党(2008年の自民党)も参議院選挙を通じて受けた国民からの批判に鈍感なのではないだろうか。最終立法権をもつ衆議院で多数であろうと、そうでない参議院の選挙で敗北したことは、それ自体重大な意味がある。何故なら、国民の政治参加が選挙という手段でしか行われない間接民主主義の社会では、参議院選挙も衆議院選挙も同じ国民の意思を表現する手段なのである。
これまでの自民党と同じように、2011年の参議院選挙での国民からの批判を真摯に受け止める力が民主党にはなかった。政治的駆け引きによって技術的に野党の理解を求め、最終的には衆議院で法案を決定する権限を振りかざしながら、社交的姿勢として話し合いによってねじれた国会を乗り越えられると信じているのである。それは、民主党が政権を取る前に、当時の自民党政権も行った判断であった。そうなると、ねじれ国会が生じた場合の対応を真面目に考えるべきではないか。何故なら、国会は国民の利益を最大限守るために存在している立法機能をマヒさせてはならないのである。そのことをもっと真剣に、与野党は話し合い、決まりを作るべきである。
もし、ねじれ国会が引き起こす国民への不利益を真摯に受け止め、それを党利党略や有利な政局ゲームを行うためでなく、国民の利益を最優先にして未来の社会のために、言い換えれば間接民主主義社会の日本の国のかたちを持続可能な状態にするために、与野党の壁を越えて、考えなければならないのである。与党と最大野党が、現在の政治の混乱の原因の一つの解決への努力を払わないなら、現在の議会制度自体が国民に批判される危険があることを国会議員は全員、想像しなければならないだろう。
首相公選制度は実現可能か、何が立法機能麻痺の解決策なのか
現在の立法機能のマヒを生み出す政党政治、国会議員達に絶望した国民はこれから何をすべきなのだろうか。この答えを出したのは橋下氏であった。彼は「国民による首相公選制度」を提案した。しかし、この提案は憲法の改正を前提にしなければならない。そのため、この案はそう簡単に実現できない。この提案に対して与野党含めて殆どの国会議員達は非現実的な対案と皮肉な一言を述べ、そして橋下氏は国政のシステムを知らないと言わんばかりであった。だからと言って、彼らがねじれ国会で生じる立法機能のマヒ状態を解決するための解決案を出した訳ではない。
そして、ある少数の評論家や報道のこうした利権集団化した国会議員達への批判が生まれる。つまり、現在の与野党国会議員に立法機能の改革を求めることは不可能であるという極論が姿を現すのである。その理由は、世襲化した国会議員職、生まれ持って与えられた職業として国会議員職があるなら、彼らは自ら自分の職業的利益を損なう国会議員改革案などとう自殺的な提案する筈がないという極論である。
この極論が意外に説得力を持つのは、現在の国会で立法機能の改革が野党時代にマニフェストに書かれていても一たび政権与党になるとまったく取り上げられないという現実を国民が味わってきたからである。例えば、行政改革による無駄遣いの削減や議員定数削減問題を先送りにして、消費税を上げるだろう。確かに赤字国債を出し続ける現在の財政構造は危険すぎる。その解決のため消費税を上げることが不可欠である。しかし、そうであったとしても、議員達は国民に負担に対して自らの襟を正すパフォーマンス、例えば自分の給与を下げるとか定数を削減するとか等々を演じてもいいだろうと思うのだが。
しかし、パフォーマンスさえも演じることが出来ないほど議員達はプライドを失っているのだろうか。政治は自分の生活のためになり、自分の生活を守るために選挙で国民から票を貰う。国民は票田に植えた稲のようなものだと今でも固く信じているのだろうか。そうした議員の姿、被災した国民よりも、自分のことが大切な人々、それでいて選挙になると「宜しくお願いします」と連発する議員達の姿をこの国の人々はどう見ているのだろうか。被災し今でも生活できない人々はいつまで寛大な気持ちで議員達のお願いを聞いてくれるだろうか。それが次回の選挙で議員達が密かに不安に思う問題ではないだろうか。
国会議員の心無さや無能さを批判しようが、国会の機能不全を嘆こうが、ともかく、被災地では明日生きるために、経営難の企業を救うために、職を見つけるために、子供を育てるために、老いた両親の世話をするために、あらゆる手段を講じて、対応しなければならないのである。だから、実際は、大半の国民は、国会の批判をする時間もないのである。それが現実の国民の姿であり、国の状態である。
引用、参考資料
成熟した社会・民主主義社会を発展させるたに
1、新しい社会政策の模索の時代、問われている21世紀社会の姿と理念
2、国民の社会改革への参画こそ民主主義文化展開の唯一の方法である
3、現在問われている社会改革の課題
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関連ブログ文書集
三石博行 ブログ文書集「市民運動論」
三石博行 ブログ文書集「人権学試論」
三石博行 ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」
三石博行 ブログ文書集「日本の政治改革への提言」
三石博行 ブログ文書集「持続可能なエネルギー生産社会を目指すために」
三石博行 ブログ文書集「民主主義文化としての報道機能について」
三石博行 ブログ文書集「東日本大震災からの復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」
三石博行 ブログ文書集「わが国の民主主義文化を発展させるための課題について」
2012年4月10日 文書及び誤字修正、
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三石博行
今、我々国民一人ひとりに民主主義文化が問われている
現代の日本社会では民主主義の在り方が問われている。それは民主主義を冒涜する権力に対する批判と言うよりも、寧ろ、敗戦、新憲法制定、戦後民主主義体制の歴史の中で、蓄積し続けた現代日本文化の成果として民主主義が問われているように思う。
従って、この問いかけは民主主義を担う国民、市民が自らの生活スタイルやこれからの日本社会の在り方に対する考え方を問い掛けるという内容になる。民主主義を問い掛けているのは豊かで、自由に生きることを知っている我々であり、その我々が民主主義文化をさらに分厚く豊かに育てるために、自問しているのである。
この問い掛けをさらに加速したのが、昨年3月11日に発生した東日本大震災と福島東電原発事故であった。社会の非常事態に対して、豊かな日本社会のもう一つの側面、つまり危機管理や緊急時に対する社会機能が問われた。この問い掛けは二つの課題をさらに投げかけた。つまり危機管理を行うために社会統制システムを導入するか、それとも国民の自主的な活動によって危機管理を作りだすかである。
>国民主権のための武力装置・自衛隊の承認とボランティア国民運動の形成
自衛隊や保安、警察・消防隊の組織的動員力による防災救援体制の構築と強化が一つ目の解答であった。2011年3月11日に発生した東日本大震災への政府の対応は、勿論完璧なものではなかったものの、1995年1月17日の阪神・淡路大震災へのそれに比べて大きく前進した。そして、二つ目の課題に対して言うなら、今回の震災に対して国民は自主的なボランティア救援活動、インターネットやFMラジオを活用した震災情報伝達、多様な救援国民運動を自主的に展開した。
国家の危機的状況を乗り越えることは、日本国民全体の課題である。軍隊や警察等の国家権力機能と国民の自主的活動の民主主義機能を持つ民主主義・資本主義国家の二つの側面が相矛盾することが無いのは、国民主権によって国家権力が運営されているという国民全体のコンセンサスが成立しているからである。自衛隊や警察は国民の命と生活を守る機能である。それらの強力な機動力によって、災害救援部隊が構成され、最も危険で困難な現場に迅速に派遣され、機敏に国民の救済活動に取り組む。この国民のために存在する国家権力への信頼こそ、民主主義国家の屋台骨を支えているのである。
今回の震災救援活動で自衛隊は大きな役割を果たした。それは国民の命を守ることが国民主権国家の自衛隊の役割であることを救援活動を通じて明らかに国民に伝えたことである。そのことによって、国民の中には自衛隊に対する理解が生まれた。国家権力は国家という機能にとって不可欠の機能である。その機能を国民主権のための自衛隊(武力装置)として民主主義文化は問い掛けるのである。
国民主権の国家運営の責任を国民が自覚するなら、その国家権力の主人公として国民は責任ある態度を取るだろう。そして自分たちの自衛隊や警察の在り方を考えるだろう。勿論、自分たちも自主的に災害時の救援機動部隊を作る力を持つだろう。情報や流通を自主的に確保し、国家や地方自治体の制度として配備されている機動部隊、つまり自衛隊、警察、海上保安部隊、消防隊と連携する力を持つだろう。
暴露された立法機関・国会の機能不全状態
国会議員という無能の集団が3.11によって暴露された。約2万人弱の死者や行方不明者、そして数十万人の避難所生活者がいる中で、国会では政局論争に明け暮れていた。国民の多くは、その姿に絶望し、始めは怒りをもって与野党の国会議員達を批判した。しかし、次第に、嘲笑と化して行った。つまり、国民はこれで政局論争を繰り返した与野党の国会議員達から、彼らに頼らないことを学んだのである。
その気持ちの現れが財政危機にあった大阪府(市)を再建するために奮闘する大阪維新会・橋下徹氏への共感であった。選挙公約(マニュフェスト)に掲げた行政や政治改革を実行する橋下氏への支持は大阪府民のみでなく国民全体から支持されている。被災した国民を置き去りにして政局論争を繰り返し続けた与野党国会議員。橋下氏の国民的評価を生み出す背景に国会で党利党略を優先して進められる与野党への不信や怒りがあることは否定できない。
自民党執行部は民主党政権を解散に追い込めば、自分たちが自動的に政権を取れると予測しているのだろうか。また、被災地復興対策や原発事故処理の検証作業等々の遅れ、マニフェスト不履行等々、民主党現執行部は先の参議院選挙で受けた国民からの評価を真摯に受け止める作業をしているのだろうか。極論を許すなら、現在の政党政治の姿は、国民は単なる政局ゲームの駒にすぎないと思っているとしか言えないのである。しかし、日本国民はそうした極論された政党の思惑を理解しないほど遇民の集まりではない。
戦前の政党政治と同じように政局中心主義によって次第に台頭した軍国主義(素早い意思決定機能)のような危険な政治構造は戦後から現在の豊かな民主主義文化を育てた日本では繰り返し起ることがないとは思うが、国民はこの国を滅ぼそうとしている形骸化した官僚主義と政党利権主義に対して、もっとも現実的な答えを用意し始めるに違いない。
選挙という国民の政治的意思決定を最大限尊重しない限り間接民主主義制度は成立しない
2010年の参議院選挙で民主党は大敗した。その時、彼らは政権を自民党に渡すべきであった。衆議院での多数政党である民主党が最終的に立法権を持つ政党である。そのことと先の参議院選挙で国民から受けた審判とは別なのである。ねじれ国会の経験は日本の戦後政治史の中ではそう多くないために、2008年の民主党が参議院の多数を占めて出来たねじれ国会と2011年の自民党が多数を占めたそれとの経験を踏まえて、衆参二院制によって生じる立法機能のマヒ状態を回避するための選挙後の政党間の取り決めが作られる必要があるだろう。
自民党も民主党もこのねじれ国会が引き起こす立法機能のマヒを国民の責任にしていないだろうか。現在の民主党(2008年の自民党)も参議院選挙を通じて受けた国民からの批判に鈍感なのではないだろうか。最終立法権をもつ衆議院で多数であろうと、そうでない参議院の選挙で敗北したことは、それ自体重大な意味がある。何故なら、国民の政治参加が選挙という手段でしか行われない間接民主主義の社会では、参議院選挙も衆議院選挙も同じ国民の意思を表現する手段なのである。
これまでの自民党と同じように、2011年の参議院選挙での国民からの批判を真摯に受け止める力が民主党にはなかった。政治的駆け引きによって技術的に野党の理解を求め、最終的には衆議院で法案を決定する権限を振りかざしながら、社交的姿勢として話し合いによってねじれた国会を乗り越えられると信じているのである。それは、民主党が政権を取る前に、当時の自民党政権も行った判断であった。そうなると、ねじれ国会が生じた場合の対応を真面目に考えるべきではないか。何故なら、国会は国民の利益を最大限守るために存在している立法機能をマヒさせてはならないのである。そのことをもっと真剣に、与野党は話し合い、決まりを作るべきである。
もし、ねじれ国会が引き起こす国民への不利益を真摯に受け止め、それを党利党略や有利な政局ゲームを行うためでなく、国民の利益を最優先にして未来の社会のために、言い換えれば間接民主主義社会の日本の国のかたちを持続可能な状態にするために、与野党の壁を越えて、考えなければならないのである。与党と最大野党が、現在の政治の混乱の原因の一つの解決への努力を払わないなら、現在の議会制度自体が国民に批判される危険があることを国会議員は全員、想像しなければならないだろう。
首相公選制度は実現可能か、何が立法機能麻痺の解決策なのか
現在の立法機能のマヒを生み出す政党政治、国会議員達に絶望した国民はこれから何をすべきなのだろうか。この答えを出したのは橋下氏であった。彼は「国民による首相公選制度」を提案した。しかし、この提案は憲法の改正を前提にしなければならない。そのため、この案はそう簡単に実現できない。この提案に対して与野党含めて殆どの国会議員達は非現実的な対案と皮肉な一言を述べ、そして橋下氏は国政のシステムを知らないと言わんばかりであった。だからと言って、彼らがねじれ国会で生じる立法機能のマヒ状態を解決するための解決案を出した訳ではない。
そして、ある少数の評論家や報道のこうした利権集団化した国会議員達への批判が生まれる。つまり、現在の与野党国会議員に立法機能の改革を求めることは不可能であるという極論が姿を現すのである。その理由は、世襲化した国会議員職、生まれ持って与えられた職業として国会議員職があるなら、彼らは自ら自分の職業的利益を損なう国会議員改革案などとう自殺的な提案する筈がないという極論である。
この極論が意外に説得力を持つのは、現在の国会で立法機能の改革が野党時代にマニフェストに書かれていても一たび政権与党になるとまったく取り上げられないという現実を国民が味わってきたからである。例えば、行政改革による無駄遣いの削減や議員定数削減問題を先送りにして、消費税を上げるだろう。確かに赤字国債を出し続ける現在の財政構造は危険すぎる。その解決のため消費税を上げることが不可欠である。しかし、そうであったとしても、議員達は国民に負担に対して自らの襟を正すパフォーマンス、例えば自分の給与を下げるとか定数を削減するとか等々を演じてもいいだろうと思うのだが。
しかし、パフォーマンスさえも演じることが出来ないほど議員達はプライドを失っているのだろうか。政治は自分の生活のためになり、自分の生活を守るために選挙で国民から票を貰う。国民は票田に植えた稲のようなものだと今でも固く信じているのだろうか。そうした議員の姿、被災した国民よりも、自分のことが大切な人々、それでいて選挙になると「宜しくお願いします」と連発する議員達の姿をこの国の人々はどう見ているのだろうか。被災し今でも生活できない人々はいつまで寛大な気持ちで議員達のお願いを聞いてくれるだろうか。それが次回の選挙で議員達が密かに不安に思う問題ではないだろうか。
国会議員の心無さや無能さを批判しようが、国会の機能不全を嘆こうが、ともかく、被災地では明日生きるために、経営難の企業を救うために、職を見つけるために、子供を育てるために、老いた両親の世話をするために、あらゆる手段を講じて、対応しなければならないのである。だから、実際は、大半の国民は、国会の批判をする時間もないのである。それが現実の国民の姿であり、国の状態である。
引用、参考資料
成熟した社会・民主主義社会を発展させるたに
1、新しい社会政策の模索の時代、問われている21世紀社会の姿と理念
2、国民の社会改革への参画こそ民主主義文化展開の唯一の方法である
3、現在問われている社会改革の課題
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関連ブログ文書集
三石博行 ブログ文書集「市民運動論」
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三石博行 ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」
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三石博行 ブログ文書集「持続可能なエネルギー生産社会を目指すために」
三石博行 ブログ文書集「民主主義文化としての報道機能について」
三石博行 ブログ文書集「東日本大震災からの復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」
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2012年4月10日 文書及び誤字修正、
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2012年4月2日月曜日
市民運動の変遷を生み出す二つの社会的要因について
安い商品から安全な商品購入へ消費者運動の背景
三石博行
社会構造的ストレーンへの抗議活動としての社会運動
社会運動の盛衰を決める要因とはなにかという課題に関して、中澤秀雄氏と樋口直人氏はアメリカの社会学者スメルサーの構造的ストレーンの概念(1)を援用して、社会運動の役割が社会構造の時代的(政治経済的)な諸要素間に生じているひずみに対する生活防衛的な解決行動である以上、その形成もそしてその終息も、社会的構造ストレーンの状況に依拠すると述べている。(OOHhi 04A pp139-153 )「社会運動と政治 ‐社会的機会構造と住民運動- (中澤秀雄、樋口直人)」
構造的ストレーンとはアメリカの社会学者スメルサーの著書『集合行動の論理』(1963)で述べた「行為の諸要素間の矛盾によって生じる構造的緊張」という概念であると言われている。(OOHhi 04A p143) 例えば、1960年代から高度経済成長によって生じた地域社会での公害問題に代表される社会の矛盾(環境破壊や健康障害)によって社会が構造的に緊張を強いられる状態を構造的ストレーンと呼ぶことができる。(2)
中澤秀雄氏と樋口直人氏は、「社会運動と政治 ‐社会的機会構造と住民運動-」の中で、1960年代の高度経済成長期を経て起る社会問題を統計的な分析(重回帰分析)法によって分析し、その要因として都市化率、工業成長率、開発計画の三つのストレーンの変数を導き、それらの相関性の強さを示した。計量的方法によって定性的概念であった急速な都市化による都市の過密と地方の過疎地域での開発によってもたらされた環境問題が構造的ストレーンを引き起こしていたことを社会学的に解明した。つまり、この都市化と過疎地での開発が日本の高度成長期の社会運動の主な原因となっていた。
この高度経済成長期の社会矛盾に対する抗議行動も、高度経済成長が終わり、国家が社会政策として環境問題に取り組むことで次第に下火となり、いつの間にか、公害反対運動で街頭デモし、住民が集会を開く光景は無くなっていった。市民や住民の抗議行動がその社会や生活環境で生じている問題の解決のための行為である限り、その社会的問題(構造的ストレーン)が小さくなり、ついには消滅することによって社会運動の必要性も同時に消滅するのである。
「安い牛乳の共同購入」から「考える消費者」へ 生活クラブの運動の経過に含まれた課題
角一典氏は戦後日本の社会運動、特に消費者運動に焦点を絞り社会運動やその組織が変遷していく背景・社会的要因に関する分析を行った。この分析に用いられた理論は、前記した、Kreiesiの社会運動に関する分類方法で、前記した西城戸誠氏による社会運動の分類方法で用いられた理論・モデルである。「ボランティアから反戦デモまで社会運動の目標と組織形態(西城戸誠)」(OOHhi 04A)
角一典氏は1965年に「市場よりも安い牛乳」のための共同購入運動に取り組んだ岩根邦雄氏らの生活クラブの活動を紹介している。1965年の生活クラブの例のように、当時の地域社会運動の形成は他のお店よりより安く牛乳を手に入れる目的で始まった。その運動の組織は共同購入活動から商品供給の経営体制が検討された。社会運動体の商業化を目指す岩根氏らの活動は、この社会運動を担う運動員の確保とその運動資金の獲得の二つの基本的な課題を持っていたと角一典氏は述べている。その二つの要因を獲得するために生活クラブの活動がその後生活協同組合として発展することになる。(OOHhi 04A)「非日常と日常のはざまで ‐社会運動組織の変化‐(角 一典)」(pp175-190)
同時に、商業化に伴う社会運動の問題を経験することになる。つまり、生活クラブは牛乳販売店との「安い牛乳」の販売競争を行う。安いものを市民は求めているという発想は、低価格化が目的化され牛乳の質(安全性や栄養性)を無視する商業主義に陥る危険性を孕んでいた。生活クラブの活動は商業化に流れる活動を点検し、安いだけでなく質のたしかなよい商品を手に入れることが課題となった。(OOHhi 04A p180)
質の高い安い商品を届けるという課題には、生活クラブで働く人々の賃金を抑えなければならない。つまり、消費者運動のニーズを満たすために低賃金、重労働と劣悪職場環境を生活クラブの職員に強制することになる。そのため、生活クラブは消費者のニーズを満たしながら、同時に職員の快適な労働環境を作るために組織の在り方を検討しなければならなかった。(OOHhi 04A p180)
生活クラブの抜本的な合理化(商業化)と組合員による配送業務の分担(共同購入・消費者運動への組合員の参画)を取り入れた。こうして生活クラブは生活協同組合になった。組合員自身の消費者運動への協働(運動目的の自覚と組織維持のための団結)によって組合員自身が自分たちの利益を分かち合う自立的組織になろうとした。(OOHhi 04A pp180-181)
つまり、生活クラブの活動が社会運動組織であるという視点を堅持したことによって、消費者が自分たちの社会的要求を自分たち自身の活動参加、個別家庭への配送から班単位に区分された組合員のグループへの配送による職員の負担軽減と組合員が配達活動への参加によって、共同購入制度を維持した。そのことによって組合員同士の結びつきが強化され、組合員主体の運動体となった。しかし、同時に、そのことは組合員の負担が増えることを意味した。そのことによって組合員数が減少したと角一典氏は述べている。(OOHhi 04A p181-182)
当然、脱会する組合員の現実を受け止めるのは、主体的に参加し、毎日班ごとの配達を担っている組合員自身である。何故、脱会するのか。その理由を議論する中で、組合自身が自覚しなければならいない課題、つまりこの生活クラブの活動の目的が問われるのである。組織の豊富な資金獲得には商業化の方向は必要である。しかし、商業化によって失われるものがある。それは職員の犠牲に胡坐をかき安く質の良い商品を買い漁る組合員の姿であった。その姿を自己否定し、社会運動として生活クラブにするために組合員の参加による班単位の配達体制が作られる。そして、その負担に耐えられない組合員が脱会する。その脱会を巡り組合員の話合いがなされる。
その中で、自分たちは商品を求めているのでなく、安全な食料を生産する人々から届けられた消費材を受け取っているのだという発想、また、消費材の意味に関する理解、そして「豚一頭買い」を行う産地直送運動の形成、さらには、自らが流通の一端を担う「考える消費者」という考え方、消費者運動を生活運動の一端として位置付けた「生き方を変える」という議論が生まれ、さらにはワーカーズ・コレクティブという働く人々が経営する生活クラブの経営スタイルが実験されている。これらのすべての経過こそ生活クラブがもつ運営体としての消費者活動が生み出す宿命であると言えないだろうか。 (OOHhi 04A p183-184)
つまり、構成員と資金の獲得を課題にし、商業化と社会運動化を同時に両立させようとする生活クラブの活動は、消費社会や市場原理を否定した運動でなく、その中で豊かな消費者文化を形成しようとした社会運動であろうとする限り、その二つの要素から必然的に生じる難問に晒されることになる。それがこの運動の宿命であるともいえる。しかし、その中で、つまり、単純な政治的スローガンでなく、具体的な生活運動の課題であるために、その難問から新しい社会の根幹をイメージできる解答の提案が試されるのである。つまり、この生活クラブの現在は、まだ終了しない参画型の消費者運動の実験過程であるとも謂える。
「運動主体の参画度合い」と「運動成果の組織還元度合い」の二要因からなる社会運動変遷過程
西城戸誠氏や角一典氏の援用した社会運動の分類に関する理論(Kreiesi)によって、多様な社会運動が「運動主体の参画度合い」と「運動成果の組織還元度合い」の二つの要素によって分類されることが理解できる。
すでに前節で述べたように、行動主体(生活者)が社会的問題解決のために直接に行為に参加する度合いを、ここでは「運動主体の参画度合い」と呼ぶことにした。そして、「運動成果の組織還元度合い」とは、運動の目的やそれによって生まれる利益(成果)を運動組織の構成員に還元するかそれともその利益は全ての人々が共有できるように社会システム全体(行政などの組織)に還元するのかという二つの極を作り、その運動成果の組織還元度合いを定量的に評価することを意味している。
この分類方法によって、同じ組織形態の社会運動、「生活クラブ」を例に取りながら、その運動の時代的な変遷過程を角一典氏は説明した。生活クラブが運動目的である「安い牛乳」の販売を可能にするために採った「組織の経営合理化によって可能にする」という運動方針は市民運動の組織をより経営能力のある組織に改革することになる。角一典氏の呼ぶ「商業化」によって生活クラブは強大な生活協同組合として成長することになる。その商業化の方向では、経営の意思決定を迅速にするために、生活クラブの会員による経営参加から生活共同組合の執行部による経営が行われるようになる。その意味で、商業化とは生活クラブの脱市民運動化を進めることになる。
商業化の方向によってそれに付随する脱市民運動化を防ぐために、生活クラブは消費財の配達の班制度を導入し、組合会員が配達業務の一部を担う活動を始める。つまり、生活クラブは経営合理化や商業化によって生じる安くて安全な牛乳を受け取る会員とその会員を低賃金労働によって支える企業体生活クラブ職員の形成を防ごうとしたのである。そうでないなら、ある組織の市民の権利を守るために他の市民を犠牲にすることになるからである。
しかし、他方、生活クラブが巨大な販売企業・生活協同組合に変身し、安くてよい商品を売る「商業化」によってより多くの市民が利益を受けることになる。つまり、会員参加の運動による消費財の配達の班制度は会員以外の人々は、この生活クラブの運動から得られた成果を受けることは不可能である。それに対して、脱市民運動化と商業化によって作られた生協スーパーではすべての市民が良い商品を安く購入することが出来るのである。
時代は「消費財の配達の班制度による消費者運動の維持」と商業化・脱市民運動化による巨大生協スーパーの方向に進化した消費者運動・生活クラブに対して、それぞれに運動組織問題や経営問題という難問を突きつけながら、この後の消費者運動のあり方を問いかけ続けるのである。
ここで問題にしたいのは、「社会運動の分類に関する理論(Kreiesi)」が角一典氏の課題、「非日常と日常のはざまで‐社会運動組織の変化‐」の分析に有効であるということであった。つまり、社会運動組織は時代と共に変遷し続けてきた。それらの運動の組織の姿の変化が何によって生じたのか。また、組織や運動が共通する要素、言い換えると社会要因を理解する社会理論は何かという問題であった。確かに、Kreiesi氏の理論(3)は多様な社会運動を二つの要素によって捉え、解釈した点では評価できた。しかし、その理論で十分なのかという問題がこの議論の中で明らかになったのではないだろうか。
引用、参考資料
(KITAta 10A) 北川隆吉 浅見和彦 栗原哲也 『社会運動・組織・思想 21世紀への挑戦6』 日本評論社 2010年9月17日 314p
(TAITos 4A) 帯刀治 北川隆吉 編著『社会運動研究入門 社会運動研究の理論と技法 社会学研究シリーズ 理論と技法 13』 文化書房博文社 2004年12月10日 297p
(OOHhi 04A) 大畑裕嗣(おおはたひろし)、成元哲(そんうおんちょる)、道場親信(みちばちかのぶ)、樋口直人編 『社会運動の社会学』有斐閣選書 2004年4月30日、311p
(TSUBmi 11A) 坪郷実 中村圭介 『新しい公共と市民活動・労働運動 講座現代の社会政策5』 明石書店 2011年9月20日、233p
(YAGIma 01A) 矢島正見編著『新版 生活問題の社会学』 学文社 2001年4月10日 227p
(MATSma 93A) 松岡昌則 他著 『現代日本の生活問題』 中央法規出版株式会社 1993年4月10日、 220p
(1) スメルサー、N, 会田彰 木原孝訳『集合行動の論理』誠信書房 1973
(2) 成元哲 中澤秀雄 樋口直人 角一典 水澤弘光「環境運動における抗議サイクル形成の論理 : 構造的ストレーンと政治的機会構造の比較分析(1968-82年) 環境社会学研究4 1998
(3) Kriesi,H. 1996 “The Organizational Struture of New Social Movements in a Political Context” D.McCarthy and M.N.Zald eds. Comparative Pespectives on Social Movements : Political Opportunities , Mobilizing Strucures, and Cultural Framings, Cambridge : Cambridge University Press.
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関連ブログ文書集
三石博行 ブログ文書集「福島原発事故から立ちあがる市民」
三石博行 ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」
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ブログ文書集「市民運動論」
この文章はブログ文書集「市民運動論」序文として書かれたものである。
三石博行 ブログ文書集「市民運動論」
2012年4月10日 誤字修正
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三石博行
社会構造的ストレーンへの抗議活動としての社会運動
社会運動の盛衰を決める要因とはなにかという課題に関して、中澤秀雄氏と樋口直人氏はアメリカの社会学者スメルサーの構造的ストレーンの概念(1)を援用して、社会運動の役割が社会構造の時代的(政治経済的)な諸要素間に生じているひずみに対する生活防衛的な解決行動である以上、その形成もそしてその終息も、社会的構造ストレーンの状況に依拠すると述べている。(OOHhi 04A pp139-153 )「社会運動と政治 ‐社会的機会構造と住民運動- (中澤秀雄、樋口直人)」
構造的ストレーンとはアメリカの社会学者スメルサーの著書『集合行動の論理』(1963)で述べた「行為の諸要素間の矛盾によって生じる構造的緊張」という概念であると言われている。(OOHhi 04A p143) 例えば、1960年代から高度経済成長によって生じた地域社会での公害問題に代表される社会の矛盾(環境破壊や健康障害)によって社会が構造的に緊張を強いられる状態を構造的ストレーンと呼ぶことができる。(2)
中澤秀雄氏と樋口直人氏は、「社会運動と政治 ‐社会的機会構造と住民運動-」の中で、1960年代の高度経済成長期を経て起る社会問題を統計的な分析(重回帰分析)法によって分析し、その要因として都市化率、工業成長率、開発計画の三つのストレーンの変数を導き、それらの相関性の強さを示した。計量的方法によって定性的概念であった急速な都市化による都市の過密と地方の過疎地域での開発によってもたらされた環境問題が構造的ストレーンを引き起こしていたことを社会学的に解明した。つまり、この都市化と過疎地での開発が日本の高度成長期の社会運動の主な原因となっていた。
この高度経済成長期の社会矛盾に対する抗議行動も、高度経済成長が終わり、国家が社会政策として環境問題に取り組むことで次第に下火となり、いつの間にか、公害反対運動で街頭デモし、住民が集会を開く光景は無くなっていった。市民や住民の抗議行動がその社会や生活環境で生じている問題の解決のための行為である限り、その社会的問題(構造的ストレーン)が小さくなり、ついには消滅することによって社会運動の必要性も同時に消滅するのである。
「安い牛乳の共同購入」から「考える消費者」へ 生活クラブの運動の経過に含まれた課題
角一典氏は戦後日本の社会運動、特に消費者運動に焦点を絞り社会運動やその組織が変遷していく背景・社会的要因に関する分析を行った。この分析に用いられた理論は、前記した、Kreiesiの社会運動に関する分類方法で、前記した西城戸誠氏による社会運動の分類方法で用いられた理論・モデルである。「ボランティアから反戦デモまで社会運動の目標と組織形態(西城戸誠)」(OOHhi 04A)
角一典氏は1965年に「市場よりも安い牛乳」のための共同購入運動に取り組んだ岩根邦雄氏らの生活クラブの活動を紹介している。1965年の生活クラブの例のように、当時の地域社会運動の形成は他のお店よりより安く牛乳を手に入れる目的で始まった。その運動の組織は共同購入活動から商品供給の経営体制が検討された。社会運動体の商業化を目指す岩根氏らの活動は、この社会運動を担う運動員の確保とその運動資金の獲得の二つの基本的な課題を持っていたと角一典氏は述べている。その二つの要因を獲得するために生活クラブの活動がその後生活協同組合として発展することになる。(OOHhi 04A)「非日常と日常のはざまで ‐社会運動組織の変化‐(角 一典)」(pp175-190)
同時に、商業化に伴う社会運動の問題を経験することになる。つまり、生活クラブは牛乳販売店との「安い牛乳」の販売競争を行う。安いものを市民は求めているという発想は、低価格化が目的化され牛乳の質(安全性や栄養性)を無視する商業主義に陥る危険性を孕んでいた。生活クラブの活動は商業化に流れる活動を点検し、安いだけでなく質のたしかなよい商品を手に入れることが課題となった。(OOHhi 04A p180)
質の高い安い商品を届けるという課題には、生活クラブで働く人々の賃金を抑えなければならない。つまり、消費者運動のニーズを満たすために低賃金、重労働と劣悪職場環境を生活クラブの職員に強制することになる。そのため、生活クラブは消費者のニーズを満たしながら、同時に職員の快適な労働環境を作るために組織の在り方を検討しなければならなかった。(OOHhi 04A p180)
生活クラブの抜本的な合理化(商業化)と組合員による配送業務の分担(共同購入・消費者運動への組合員の参画)を取り入れた。こうして生活クラブは生活協同組合になった。組合員自身の消費者運動への協働(運動目的の自覚と組織維持のための団結)によって組合員自身が自分たちの利益を分かち合う自立的組織になろうとした。(OOHhi 04A pp180-181)
つまり、生活クラブの活動が社会運動組織であるという視点を堅持したことによって、消費者が自分たちの社会的要求を自分たち自身の活動参加、個別家庭への配送から班単位に区分された組合員のグループへの配送による職員の負担軽減と組合員が配達活動への参加によって、共同購入制度を維持した。そのことによって組合員同士の結びつきが強化され、組合員主体の運動体となった。しかし、同時に、そのことは組合員の負担が増えることを意味した。そのことによって組合員数が減少したと角一典氏は述べている。(OOHhi 04A p181-182)
当然、脱会する組合員の現実を受け止めるのは、主体的に参加し、毎日班ごとの配達を担っている組合員自身である。何故、脱会するのか。その理由を議論する中で、組合自身が自覚しなければならいない課題、つまりこの生活クラブの活動の目的が問われるのである。組織の豊富な資金獲得には商業化の方向は必要である。しかし、商業化によって失われるものがある。それは職員の犠牲に胡坐をかき安く質の良い商品を買い漁る組合員の姿であった。その姿を自己否定し、社会運動として生活クラブにするために組合員の参加による班単位の配達体制が作られる。そして、その負担に耐えられない組合員が脱会する。その脱会を巡り組合員の話合いがなされる。
その中で、自分たちは商品を求めているのでなく、安全な食料を生産する人々から届けられた消費材を受け取っているのだという発想、また、消費材の意味に関する理解、そして「豚一頭買い」を行う産地直送運動の形成、さらには、自らが流通の一端を担う「考える消費者」という考え方、消費者運動を生活運動の一端として位置付けた「生き方を変える」という議論が生まれ、さらにはワーカーズ・コレクティブという働く人々が経営する生活クラブの経営スタイルが実験されている。これらのすべての経過こそ生活クラブがもつ運営体としての消費者活動が生み出す宿命であると言えないだろうか。 (OOHhi 04A p183-184)
つまり、構成員と資金の獲得を課題にし、商業化と社会運動化を同時に両立させようとする生活クラブの活動は、消費社会や市場原理を否定した運動でなく、その中で豊かな消費者文化を形成しようとした社会運動であろうとする限り、その二つの要素から必然的に生じる難問に晒されることになる。それがこの運動の宿命であるともいえる。しかし、その中で、つまり、単純な政治的スローガンでなく、具体的な生活運動の課題であるために、その難問から新しい社会の根幹をイメージできる解答の提案が試されるのである。つまり、この生活クラブの現在は、まだ終了しない参画型の消費者運動の実験過程であるとも謂える。
「運動主体の参画度合い」と「運動成果の組織還元度合い」の二要因からなる社会運動変遷過程
西城戸誠氏や角一典氏の援用した社会運動の分類に関する理論(Kreiesi)によって、多様な社会運動が「運動主体の参画度合い」と「運動成果の組織還元度合い」の二つの要素によって分類されることが理解できる。
すでに前節で述べたように、行動主体(生活者)が社会的問題解決のために直接に行為に参加する度合いを、ここでは「運動主体の参画度合い」と呼ぶことにした。そして、「運動成果の組織還元度合い」とは、運動の目的やそれによって生まれる利益(成果)を運動組織の構成員に還元するかそれともその利益は全ての人々が共有できるように社会システム全体(行政などの組織)に還元するのかという二つの極を作り、その運動成果の組織還元度合いを定量的に評価することを意味している。
この分類方法によって、同じ組織形態の社会運動、「生活クラブ」を例に取りながら、その運動の時代的な変遷過程を角一典氏は説明した。生活クラブが運動目的である「安い牛乳」の販売を可能にするために採った「組織の経営合理化によって可能にする」という運動方針は市民運動の組織をより経営能力のある組織に改革することになる。角一典氏の呼ぶ「商業化」によって生活クラブは強大な生活協同組合として成長することになる。その商業化の方向では、経営の意思決定を迅速にするために、生活クラブの会員による経営参加から生活共同組合の執行部による経営が行われるようになる。その意味で、商業化とは生活クラブの脱市民運動化を進めることになる。
商業化の方向によってそれに付随する脱市民運動化を防ぐために、生活クラブは消費財の配達の班制度を導入し、組合会員が配達業務の一部を担う活動を始める。つまり、生活クラブは経営合理化や商業化によって生じる安くて安全な牛乳を受け取る会員とその会員を低賃金労働によって支える企業体生活クラブ職員の形成を防ごうとしたのである。そうでないなら、ある組織の市民の権利を守るために他の市民を犠牲にすることになるからである。
しかし、他方、生活クラブが巨大な販売企業・生活協同組合に変身し、安くてよい商品を売る「商業化」によってより多くの市民が利益を受けることになる。つまり、会員参加の運動による消費財の配達の班制度は会員以外の人々は、この生活クラブの運動から得られた成果を受けることは不可能である。それに対して、脱市民運動化と商業化によって作られた生協スーパーではすべての市民が良い商品を安く購入することが出来るのである。
時代は「消費財の配達の班制度による消費者運動の維持」と商業化・脱市民運動化による巨大生協スーパーの方向に進化した消費者運動・生活クラブに対して、それぞれに運動組織問題や経営問題という難問を突きつけながら、この後の消費者運動のあり方を問いかけ続けるのである。
ここで問題にしたいのは、「社会運動の分類に関する理論(Kreiesi)」が角一典氏の課題、「非日常と日常のはざまで‐社会運動組織の変化‐」の分析に有効であるということであった。つまり、社会運動組織は時代と共に変遷し続けてきた。それらの運動の組織の姿の変化が何によって生じたのか。また、組織や運動が共通する要素、言い換えると社会要因を理解する社会理論は何かという問題であった。確かに、Kreiesi氏の理論(3)は多様な社会運動を二つの要素によって捉え、解釈した点では評価できた。しかし、その理論で十分なのかという問題がこの議論の中で明らかになったのではないだろうか。
引用、参考資料
(KITAta 10A) 北川隆吉 浅見和彦 栗原哲也 『社会運動・組織・思想 21世紀への挑戦6』 日本評論社 2010年9月17日 314p
(TAITos 4A) 帯刀治 北川隆吉 編著『社会運動研究入門 社会運動研究の理論と技法 社会学研究シリーズ 理論と技法 13』 文化書房博文社 2004年12月10日 297p
(OOHhi 04A) 大畑裕嗣(おおはたひろし)、成元哲(そんうおんちょる)、道場親信(みちばちかのぶ)、樋口直人編 『社会運動の社会学』有斐閣選書 2004年4月30日、311p
(TSUBmi 11A) 坪郷実 中村圭介 『新しい公共と市民活動・労働運動 講座現代の社会政策5』 明石書店 2011年9月20日、233p
(YAGIma 01A) 矢島正見編著『新版 生活問題の社会学』 学文社 2001年4月10日 227p
(MATSma 93A) 松岡昌則 他著 『現代日本の生活問題』 中央法規出版株式会社 1993年4月10日、 220p
(1) スメルサー、N, 会田彰 木原孝訳『集合行動の論理』誠信書房 1973
(2) 成元哲 中澤秀雄 樋口直人 角一典 水澤弘光「環境運動における抗議サイクル形成の論理 : 構造的ストレーンと政治的機会構造の比較分析(1968-82年) 環境社会学研究4 1998
(3) Kriesi,H. 1996 “The Organizational Struture of New Social Movements in a Political Context” D.McCarthy and M.N.Zald eds. Comparative Pespectives on Social Movements : Political Opportunities , Mobilizing Strucures, and Cultural Framings, Cambridge : Cambridge University Press.
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関連ブログ文書集
三石博行 ブログ文書集「福島原発事故から立ちあがる市民」
三石博行 ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」
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ブログ文書集「市民運動論」
この文章はブログ文書集「市民運動論」序文として書かれたものである。
三石博行 ブログ文書集「市民運動論」
2012年4月10日 誤字修正
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