三石博行
経済共同体を維持するための行為・義理買の消滅
我が国日本で、人々が、品物が安いという理由だけで買うことを決めるようになったのはそう昔のことではない。田舎では、つい最近まで、付き合いとしてお互いに品物を買いあっていた。共同社会が存続する場合、そこで暮らす人々は、買う行為を通じて、その社会の経済共同体を作っていた。
しかし、資本主義経済システムの成熟、生活世界の市場経済化によって、村落共同体が崩壊していくことになる。田舎にも大型店舗が進出し、町の商店街が消滅して行くことになる。自家用車所有率が上がり、地方の少子高齢化が進むことで、公共交通機関、取り分け公共バスが廃止され、田舎生活の移動は、もっぱら自家用車になる。型店舗にとっては、自動車で移動する現代の地域社会は、好都合であり立地条件がよい。大型店舗が土地の安価な条件を巧みに活用して、進出して行く。これが2000年代の日本の田園風景を変えたといえるだろう。
つまり、地域社会では急速に伝統的な経済共同体が崩壊し、商店街は消えて行った。その傾向は、都市近郊の町にも現れている。1980年代から地域社会(地方)で起こった少子高齢化、人口減少、地域産業の衰退等々が、今や都市近郊でも起こり、日本全体の社会問題になろうとしている。そして、日本の田舎では地域社会が消滅しつつある。
この地域社会の消滅は、共同社会が存続のために買うという行為(文化)の消滅を意味している。そして、買う基準は、すべて市場経済の決まりによって決定されていることになる。
品物が安いということが売れるという条件を導く唯一の基準となる。生産者側は、いかに安く供給するかが最も重要な課題となる。安売りの競争が、競合する大型店舗間で起こり、それらの競争は日常化し、客は少しでも安い品ものを提供してくれる店舗めがけて日々に移動する。
市場経済化の流れを止めることはできない。また、それ以前の村落共同体の経済機構を支えていた伝統的な行動、「義理で買う」行為を呼び戻すことも不可能である。義理買い(ぎりがい)は村落共同体が存続していた時の人々の買う行為を決定していた要素であった。伝統的な共同社会の消滅によって、その義理買いも消滅し、それに換わって、市場原理に基づく購買行為が登場した。
この購買行為の変化は、日本社会経済の歴史から見れば当然の結果である。つまり、資本主義経済化が全国津々浦々まで行き渡り、古い社会経済制度や風習を完全に駆逐しからである。
多様な商品の購買条件の選択枝と市場原理
市場経済で動く購買要素の「安価」が問われることになったのは、2008年の中国餃子事件であった。それ以前から中国国内では食の安全性が問題になる事件が多発していた。例えば、2003年には中国産ウナギ加工人品から合成抗菌剤が検出、2004年4月には偽造ミルク事件では多数の幼児の死亡事故発生、2005年には以前使用禁止となっていた発ガン性物質のスーダンレッドを使用した食品の発見、2007年には病死した豚肉を使った肉まんの売買、等々。(Wikipedia)こうした事件を切掛けにして、日本の消費者は、これまで多量に日本に輸入されていたすべての中国製食品の安全性まで疑うことになる。急激に安価を売り物にした中国製食品は人気を落として行った。
換言すると、市場原理は働くために、食の安全性を欠いた食品は市場から駆逐される。安けりゃ買うという消費者に食の安全性を無視しても安ければ買うだろうと帰結した企業、例えば牛肉偽装事件を起こした雪印食品などは悉く(ことごとく)経営に失敗した。
最近では、地球温暖化防止への協力、障害者への支援、緑化運動、飢餓対策、スポーツ支援等々、社会貢献を謳い文句にした商品(少し割り高だが)を消費者が買う。逆に、その謳い文句があると消費者が書くことを見越して、企業は社会貢献度の商標マージにした商品を販売する。
これまでのファッション性、便宜性や環境主義だけでなく、人道主義、平和主義までもが商品の付加価値として評価される時代を向かえている。つまり、多様な商品へニーズの意味するものは、多様な市民の生活スタイル(個性を尊重する社会生活様式)の出現を意味するのである。
高度情報化社会での購買方法、電子マネー化を進める経済文化の課題
市場原理が働き、商品に関する情報やその評価情報がインターネットで公開なされている今日の社会では、消費者の購買選択が市場を決定する。具体的例としてテレビによる通信販売がある。また番組が取り上げたグルメ食品の爆発的な購買やレストランへのお客の殺到例のその一つである。つまり、インターネット時代の消費者の購買動向は情報によって大きく左右されるのである。
資本主義経済の成熟によって、商品情報伝達と市場原理が購買者の行動を規定することになる。言い換えると、伝統的な共同体での義理買いの習慣に換る新しい購買文化が生まれた。その当たらし新しい共同体とはインターネット社会でつながった共同体であり、そこで新しい購買文化が形成されようとしている。
さらに、情報化社会の落とし子、電子マネーの出現によって、商品交換過程に大きな変化が生じていることに注意しなければならない。歴史的に商品の交換過程を支えている貨幣は、まず金本位制時代の貨幣(硬貨)、そして信用経済で成立する貨幣(紙幣)から、今回、情報社会で生まれた電子マネーと変化して来た。この電子マネーが、情報化社会によって生み出されたものであり、それがこれから更に新しい経済文化を生み出すことは言うまでもない。
買うという行為は生活行為の中で「交換する」行為の代表者であり、社会システムの運営に多きい位置を占めている。人々は買うという行為を通じて、社会参加しているのである。したがって、買うという行為の変化の意味するものは、社会文化の基本的構造、観念形態(イデオロギー)が変化していることを意味することになる。
交換価値の保証、貨幣素材の価値から国家の財政活動への共同主観的信用性へ
つまり、貨幣は消費財のような生活世界で消費されるための使用条件を持たないものである。マルクスはそのことを「使用価値を持たない特殊な商品」として貨幣の商品としての特殊性を位置づけた。
金本位制の貨幣は、それでも金という素材の価値を前提にした交換価値を貨幣に与えていた。
しかし、紙幣になると、それが金と交換できるという条件を与えることで、紙幣への金本位制での信用を維持していた。保障を紙幣が無くした場合に、貨幣の価値はそれを活用している国の経済状況に応じて変動することになる。例えば、その国の物価指数が上がることによって、その国の紙幣の価値は相対的に低く評価される。
紙幣は貨幣の素材に含まれる交換価値を喪失させ、その代用として「信用」という貨幣への信頼を意味する共同主観性を前提に成立している貨幣である。つまり、その共同主観性が崩壊することによって、紙幣はただの紙切れに変貌するのである。
例えば、デノミネーションはその一例である。貨幣価値が暴落することで、これまでの貨幣の交換価値を切り下げる。例えば戦前の日本では円の下に銭という貨幣単位があった。100銭を1円として換算していたが、銭を廃止することで、1銭の貨幣価値を1円に繰り上げる。つまり、1円の貨幣を1銭の貨幣価値に下げる行為をデノミネーション(デノミ)と呼んでいる。
このデノミを起こして国の財政を立てなおすことが出来るのは、金本位制度を廃止し、貨幣を紙幣に変え、信用が貨幣の交換価値の前提になっているからである。紙幣の信用を奪うことで、紙幣の価値はどうでも変化させることが出来る。これが貨幣経済のマジックの結果であり、国が巨額の負債を抱えた場合にその最終的解決手段として取る手でもある。
電子マネーは、実物紙幣の信用上に成立している新たな形態の貨幣である。勿論、すでに銀行で支払いを済まさなければ電子マネーが購入できないのである限り、電子マネーは貨幣価値の情報のみで成立している。したがって、その情報を失うことで、電子マネーの貨幣価値は簡単に消滅する。つまり、電子マネーはデノミのような大掛かりな貨幣信頼喪失の演出は必要なく、日常的に貨幣の価値を失う一人芝による茶番劇が起こるだろう。
貨幣の形態の変化こそ、買うという行為を中心とした経済活動のあり方の変遷を意味する。そして、電子マネーという新しい怪物の正体がまだ明確にされていない事に大きな不安を隠せない。しかし、この新しい怪物は、ますます大きく成長しようとしている。
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