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2022年9月2日金曜日

事象としての私 (詩)

事象としての私 (詩) | 三石博行

三石博行




今、ここに、私の感覚として存在している事象
思索や思惟、意識という私
ことばの運動としての観念
それらがふと消え
意識化運動が止まるとき
今、ここにある事象としての私
それも消えてゆく

言語活動としての私
ただある世界、感覚化された事象
ただある私、言語化された意識
それは、今まで、感じてきた
現実という私の存在
それらがふと消え
感覚としての私が消滅するとき
今、ここにある世界
     それも消えてゆく

思索している私
知識や概念を理解しよとしている私
多くの情報を得ることを求められてきた私
知り、理解し、解釈し
その上で得られる私の確証
自分の居場所を保障されている私
私が信じた真実の共同幻想
私が確信した現実の集団表象
それらがふと消え
私の居場所が無くなるとき
今、ここにある共感
それも消えてゆく

人が死を前にしたとき
誰も、何も自分を語る暇などない
誰も、何も世界を説明する余裕もない
ただひたすらに、思うこと
それは、「私」が「今、ここに存在している」こと
それは、「私」が「今、ここに感じている」こと
それだけなのだ

そして、私の前で、雲は流れ
そして、私の中で、歌が聞こえる


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ふと私を襲った不思議な感覚、そこにあるもの、見えているもの、それだけであった。視覚的な世界と意味の世界がまるで分離しているような感覚。その時、私は死について考えた。人は、死ぬとき、死ぬ瞬間に、私が吸い込まれる世界をどのように感じるだろうか。それは、意味化される前の事象として私に現れ、私をその中に吸い込んでしまう。ただそれだけだろうか。

そうすると、今、生きている私、この一亥の中で確かに目的をもってそれを何とかしようとしている私、しかし、それらは、私の生ている現実から観れば、言語や表象の中で蠢いている観念、意識なのかもしれない。

どこかで流れている歌(「いつも何度でも 「千と千尋の神隠し」」の歌詞(覚和歌子作)の一節、「生きている不思議、死んでいく不思議、花も風も街も みんなおなじ・・・・」が脳裏をかすめた。

近江『詩人学校』 2022年7月号投稿 facebook 記載 2021年7月12日

三石博行詩集 『心象色彩の館』

詩作というあそびのなかで (詩)

三石博行


詩が生まれる世界
ことばが羽をもち
ことばが衣を脱ぎ捨て
ことばがジャングルジムを駆け巡り
詩作という遊びが始まる

詩が生まれる時
疑問符の論理はどこかに行き
探求の脅迫概念は眠りにつき
調査の責務は無色の空気に吸い込まれ
詩作という遊びがはじまる

詩が生まれる私
今日は、暖かい孤島の砂浜で
今日は、美しい大河の岸辺で
今日は、清々しい高原の丘で
詩作という遊びがはじまる

詩が生まれる日々
私は、仕事はしません
私は、楽しい空想にふけります
私は、ことばとじゃれ合っているのです
詩作という遊びがはじまる


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何故、私は詩を書くのか。それは、簡単で、ただ詩を書きたくなるから書くだけなのです。ことばは色々あり、社会的責任(社会性)、論理的整合性(科学的説明)、共同主観的合意性(常識)等々。しかし、詩を書くときは、ことばたちは、妄想や、ことば自身の遊びのなかを、勝手気ままに走り回っている。だから、その姿をそのままに、表現させてあげてもいいと思うのです。それは、ある意味で無責任なことばの遊びの世界かもしれない。それでいいではないか。ことばも遊びがいるのだと、思うのです。

facebook 記載(2021年7月16日)


三石博行詩集 『心象色彩の館』

2020年11月13日金曜日

詩、それは心象風景のスケッチ (詩)

三石博行

 

詩は癒しの森で生まれ

詩は救いの海辺で見つかった

ことばのスケッチ


書くことで救われた青春時代

書くことで癒された日々


詩は日記の中に

湧きだすことばの泉

溢れる感性の流れ


書くことで救われた私

書くことで癒された私


詩は

書く快感の森で生まれ

書く想像の海辺で見つけた

ことばのスケッチ


書くことで救われた世界

書くことで癒された世界


詩は書かれ

詩は忘れさられ

詩は書かざるゆえにただつづけられる


2020年11月13日

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ブログに書いてきた詩、詩は私にとって癒しであり、こころの休憩である。湧き上がることばを書き連ね、その文体が詩となる。詩を書く行為自体が意味があり、書かれた詩は私にとっては過去の心象スケッチにすぎない。

私の詩は他の人々に見せるために書かれた訳ではないが、友人へ読んでもらうためにブログに記載し、それがいつの間にか集まって「詩集」になった。また、画家の岩本拓郎氏、写真家の森一生氏や所幸則氏の作品、偶然、HOTOHITO 「日本の風景」で見つけた日青さん写真「幻想曲」に心を揺さぶられ飛び出してきたことばが詩になった。

しかし、私の詩は執拗に繰り返される課題から出ることなく、繰り返される呪縛の森を彷徨っているようだ。何故なら、私は仲間と共に詩を書いてきた経過がないからだろう。この課題を超えることは出来るか。そこで、インターネットで紹介されている詩人クラブを探してみた。関西詩人協会のサイトがあった。そこに連絡を取った。関西詩人協会の事務局長永井ますみ様から返事が来た。

この詩は、永井ますみさんへ自己紹介を書いたときに出て来たことばのスケッチである。


関西詩人協会 http://kpapoem.web.fc2.com/

2020年11月13日

詩集 『心象色彩の館』 目次

2020年11月11日水曜日

私という現実 (詩)

三石博行


もういいのです

私はそう言いながら、隠し立てしていら不都合な現実を眺めていた


もういいのです

私はそう呟きながら、見たくもない事実を冷たく見つめていた


もういいのです

私はそう嘆きながら、苦々しい過去を後悔していた


それらの不都合な事実は、内攻され、私の今という意識となる

それらの隠蔽された真相は、内向し、私の今し方という欺瞞に化ける


どうすべきか

どうしなければならないか


向き合う力は残っているか

受け止めるこころはあるのか


すでに二か月になる逃避の傷咎め

もう遅いのか

それともまだ間に合うか


私に残された時間がない


2020年11月11日

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詩「私という現実」について

脊髄異形成症候群と言われ、おまけに余命3年と言われ、その現実を受け止めながらも、それを公にすることを避けて来た。家族や親しい友人、仕事上迷惑を掛けられない人々にそのことを告げた。しかし、フェイズブックでそのことを書くことを避けた。物書きもどき(プロの物書きではない、趣味でものを書く人たちという意味、私もその一人だと思う)にとって、自分が最も深刻に受け止めている現実を語らないで、ものは書けないことを理解できた。では、どう表現すべきなのか。それをもう2か月間も悩んだ。

結論として、私の現実について別に宣言することも告白することも必要ない。しかし、もし、私のことばにそれが滲み出るなら、そのことを敢えて否定し隠蔽することはないと思った。今年(2020年)7月から今日(11月11日)まで、自分の現実を受け止めるために時間が必要だったようだ。それほど、私は弱い存在であると思う。

考えると過去にあった不都合な事実から逃げまとって来たように思う。その不都合な事実について赤裸々に書きあらし、自己弁護のないことばに私が包みこまれるなら、その時、私は自己の現実により近づくことが出来るのだと思う。しかし、この困難な作業、多分、多くのもの書きたちが苦闘しつづけた課題、その課題に向き合う最後の機会だと思う。そう思いながらも、そうならない自分があるようだ。

2020年11月11日


詩集 『心象色彩の館』 目次

問い掛けの中の私 (詩)

三石博行


飽きることなく

問い掛けの波に洗われ


転がりながら

反復する蛇紋石


寄せて引く刹那の波

溶け込む湧きだす轟音のリズム

世界という意識


衝突行列に振動する砂浜

繰り返す泡と渦の消滅のクロッキー

私という意識


私は

寄せては引く波

刹那の振動


私は

微分定数

何れゼロになる


それでも私は

問い掛ける

反復という存在現象


9月8日作

9月25日修正


--------
詩「問い掛けの中の私」について

この詩は、繰り返し自分を課題にする自分とは何かということをテーマにして書いた詩である。と言うのも、私の詩の課題はつねに自分なのだ。殆どの私の詩はその課題から生まれ、この課題の中から出ることはない。

何故、それほど私は自分に執着し、その課題から解放されることなく、思索を続けているのだろうか。自己への執着、もしくは自己とは何かという解明不能な問い掛けと言う呪縛。しかし、それらの問いかけも、ある意味で「刹那の意識」であり、それを生み出す肉体やその肉体に刻まれた情報(記憶)である。

仮に、私の命が消えるなら、この問いかけや刹那の意識も存在しないだろう。残されて現実とはこの問いかけが消滅し、それが私の意識から観れば虚無であり冷たい死の世界である現実の世界となる。つまり、私は自分に執着するこの刹那の意識は、この世界のどこにも存在しないことになる。
この倒錯した結論をあざ笑うようにつぶやく「私の命が消えるなら」と言う現実に出会う。

しかし、こうした自己への問いかけや刹那の意識とは無縁の会話がある。

例えば、現実という状況の中で主観を無視した会話、つまり、科学者の会話、その会話では自分とは主観のない人間一般集合の中の一つにすがいない。その科学的会話から、現実の自分がより正確に理解できる。

また、未来という幻想(主観)を現実化という言及、つまり、社会運動家(宗教家)のことば、そのことばの中では、自分がより良く生きられるようにより良い世界を求めるという理想(幻想)が、現実の自分を超えて存在している。

更に、生活するという行為の中で選ばれる結論、つまり、日常の自分の姿、その現実の中で、私は生きている。その現実の私から出発することしかない。しかし、そうした当然の理解は日常という生活の雲の中でぼやけてしまう。

そして、日常生活の現実を理解し受け止めるためにこそ、自己存在を問い掛け(反復)を行うために哲学が必要とさる。しかし、その哲学は知る方向の逆ベクトル的な存在であることを求められているようだ。その逆ベクトル的とは何か。
 
9月25日作
11月11日修正


雲 (詩)

三石博行


雲は湧き、雲は流れ、雲は消えて行く

病室から静かに去る人


青い空は

いたずらな雲たちに落書きされ

病室で静かに消えていく命


雲は湧き、雲は流れ、雲は消えて行く


白い窓から

せっかちな雲たちが奏でる

光と影のリズム

病室の沈黙、消えていた命


雲は湧き、雲は流れ、雲は消えてゆく


灰色の病棟の壁

わた雲の会話が描かれたスクーリン

病室で私を待つ「現実」


雲は湧き、雲は流れ、雲は消えて行く


-------------------

この日、入院していたK病院の病棟で、前の病室に入院していた人がベッドに横たわり、顔を覆われ、多くの病院のスタッフや家族に付き添われ、病棟から去って行く光景を見てしまった。不治の病白血病で亡くる運命にある人々の集う病棟の風景である。その人の名前は知らない。その人に対する鎮魂歌はそのまま私への鎮魂歌(詩)でもあった。

2020年9月23日作

2020年11月11日修正


2020年7月3日金曜日

時間の中の私 (詩)

三石博行


私という存在、
それは現実のいう混沌の世界
問題と呼ばれる現象の中に、
問題発生の中、問題提起の中に、
ただ、
呼吸し、
脈打ち、
生きているのだ。


私という存在、
それは過去という微分された時間
記憶と呼ばれる評価の中に、
悔いや痛みの導火線として、
安らぎや拘りの深海の底で、
耳を傾け、
声を発し、
生きているのだ。


私という存在、
それは未来という一次元方向への確信
それは希望という幻想
それは打ち続く脈拍
それは瞬間という現実

2020年6月12日 作成 
6月29日 フェイスブックに投稿

詩集 『心象色彩の館』

2019年3月22日金曜日

詩を書く私 (詩)

詩にとって真実とは何か


三石博行

書くことは書かざる得ない主体から
あふれた行為にすぎない
つまり、書く行為主体の私は
書かれた世界からどこかに消え
化石化した文字となる

だから、それのみが私の現実なのだ

詩に対象化された私
文字の化石になった私
言語化され非現実化した私
それらは生きた世界の微分面
それらは絵画化された行為主体
今や存在しない現実との接点なのだ

つまり、それのみが私の現実なのだ

今、ここに確かに生きる私には
詩は化石化した私ではないか
だから、通時的主体からみれば
詩は固定化し共時化した言語化した私ではないか

しかし、それのみが私の存在の現実なのだ

詩を書く私は
通時的存在の私を詩の中で確認し
共時化された私を詩の中で認知する
それらが私という世界となり
それらば私という現実となる
だから、詩を書く行為は私の存在の証なのだ

つまり、それのみが私の現実なのだ

詩を書く私は
現実とよばれる生きる瞬間の中にあり
主体とよばれる生命の中にあり
詩になった世界は
仮説化された実在と呼ばれる幻想であり
世界に生かされる私のちっぽけな解釈にすぎない

とはいえ、それのみが私の現実なのだ

詩を書く私は
書きようもない現実の微分形
書きたくない事実から逃げた単純な一次関数
書かねばならない主体は
泥にまみれ、善悪もなく、正や不正もなく
ただ心拍音が鳴り響く身体なのだ

それのみが私の現実なのだ

だから、雄弁に語る私は
感傷や、愛や、正義や、美という薄ぺらいもになり
書かれない私が化石化したことばを嫌悪し
欺瞞にみちたことばを破壊するのだ

君はドロドロとした血流の流れのように
君は憎しみを抱くテロリストのように
隠した欲動を書く力があるか
もし、その勇気がなければ詩を書くな
心地よいことばの羅列遊びをつづければよい

だから、詩人はうそつきなのだ
詩的カタルシスという詐欺師の巧みなことばに騙されるな

だから、書くべき詩は
詩にならない詩で終わるのだ


-------
私にとって詩とは何か。そんな疑問が常に湧いてくる。何故なら、私は別に詩を書きたいから書いているのではない。ただ、ことばがそうなってしまい。それらのことばは、論文でも、評論でも、エッセイでもなく、結果として「詩」にされてしまう。それで、詩にされたことばたちが、何を思っているか、考える。そうではなかったと言っているようにも思える。


2022年9月2日修正


三石博行 詩集 『心象色彩の館』

2019年3月14日木曜日

私という現象 (詩)

()

 

私という現象は、

止めどもなく沸き上がる疑問の風に吹かれ、

止むことなく続く疑問の森を彷徨う

 

明日という未来はどこに存在するのか

昨日という過去はどこに存在したのか

 

私は

刻々と進む時間の中を

ただ焦りながら思索の欠片を掴もうとする。

 


()


私という現象は

視覚としての光の風景

心象としての形の風景

 

時間と共に過ぎ風景の中で

私のいない世界へと流れ

無限に広がる

 

私は

広がる世界の中で

無限に微分され

限りなく微小化される

 

 

()

 

私とうい現象は

心象の亀裂から湧き上がる違和感

心象の流れの中の微細結晶

 

不快の中で湧き出す新たなことば

苦痛の中で鳴り響く心象交響曲

 

私は

沸き起こる記憶や言葉

新たに沸き起こる時間は欺瞞の感動を消し去り

飛び込む光の現実に私を戻す

 

 

()

 

私という現象は

遠のく感銘の記憶

近づく幻想のカタルシス

 

光は

冷たく青く

疑問の森を

進むしかない

 

形は

明るく白く

遠のく記憶の中に

微小化した私を

探すしかない

 

 

もう春は終わったのだ

 


2019年3月14日作

2019321日修正
2020年11月27日再修正

-----------------

淡路島で研究会が行われるので、車に乗って、名神高速道路の豊中を過ぎたくらい、宝塚の山が春の日差しを受けて見えた時、ふと沸いたことば。運転中なので、書きとどめることは出来なかった。しかし、それらのことばたちは強烈に私を占拠し続けた。私は、目的地に着き、車を止めて、それの言い分をスケッチした。

 

青春時代の苦悩の後に沸き起こる解放感、一種のカタルシスだろうか。こうしたカタルシスの瞬間に、私は永遠がそこにあるという幻想を快感を味っていた。それは、ある意味で、迷路の中で、厳しい現実の壁を直視することから救ってくれた自我を保存するための精神作用なのかもしれないと思うこともあった。

 

この麻薬のような作用を私はどこかで恐れている。それは本来の世界から私をカタルシスの花壇の中にいると錯覚させてにすぎないと、思うからだった。答えのない思索にはこうした錯覚が時として訪れる。それは、考えることを中断させるための精神作業のようだ。つまり、カタルシスは逃避行為なのかもしれない。その意味で、哲学にとっては毒にすぎない。勿論、宗教的な世界では、それは神の声と解釈されるかもしれない。

 

ともあれ、この詩をスケッチし、その後の詩を読みなおすと、私の詩の課題は、全く同じだと気づく。春の光に照らされて活き活きと若葉をもやす生命たちの放すことばをスケッチすることもなく、それほど自分に拘るのは何故なのだろうか。

 

2020年1127



2019321日修正

2018年7月14日土曜日

終焉のとき 

三石博行


限られた命の時間
もう、寄り道する時間もない
もう、人々の評価を気に掛ける時間もない
もう、余計な自己弁護の時間もない

傲慢なことばの中を
もう、潜り抜ける気配りの時間もない

邪悪な視線の中で
もう、傷つく自尊の壁を造る時間もない

南天の太陽は大きく西に傾き
眩い光はしだいに薄れ
碧い光は柔らかなオレンジ色に変色し
もう、光輝く時代は終わった。
もう、自信に満ちた白い雲はない
もう、碧く波立つ山々は去った

限られし命の時間
すべての人に音連れる終焉のとき

すべての無駄な表現を削ぎ落し
ただ、大切な一言を見つけよ

すべての余計なことばを削除し
ただ、大切な一言を探せ

限られた命の砂が
静かに、落ちる。

ただ、私は急がなければならないのだ
ただ、私はこの不完全燃焼の世界を終えなければならないのだ

ただ、問われているのはだれのためでもない
ただ、問われているのは消滅しつつある私という情念に過ぎない


詩集『心象色彩の館』 目次

2018年1月26日金曜日

なにが一番大切なことか、冷静に考えてみてください


戦争でまず犠牲となるのは子供、女性、そして老人、若者たちである。戦禍の中に取り残された人々だけでなく、戦争に送られた兵士も戦争の犠牲者である。従軍慰安婦の問題を考えるとき、慰安婦にさせられた女性たちと同じく戦争に送られた男たちにも、目を向けける必要がある。戦場で残酷な行為をした兵士たちにも同じく戦争被害者の一人として理解しなければならない。戦争そのものが、最も大切な命と生活を奪う行為であり、最大の人権侵害行為であることを自覚しなければならない。その意味で、最も優先する政治的課題は、戦争をしないことである。

 詩 「今、なにが一番たいせつなのですか」

最も大切なこと、それは戦争をしないこと
最も大切なこと、それは人々が戦禍の犠牲にならないこと
最も大切なこと、それは人々が平和な生活を送れること
それ以外に、政治の課題があるというのだろうか。

核を持つ国が、核抑止力で作る平和とは何か。
核をもつ国が、核を持とうとする国を攻撃することが許されるのか。
核をもつ国が、核を持たない国を核の力で威嚇することが正しいのか。
世界がそして日本が正しいと主張する政治姿勢で国際平和が築けるのだろうか。

今、自国が核戦争の危機にあるのにも拘らす
この国の政治家は北の核問題を核戦争の危機を犯してまでも
解決しようとする。

今、この社会が核戦争によって大きな被害を受けるかもしれないのに
この国の報道機関は北の核威嚇を単純な抑止力論を主張している
核戦争を起してまでも北の脅威を排除すべきと主張している

明治の昔「君死にたもうことなかれ」とうたった歌人の声がきこえないか。
そのこえを踏みにじり私達はどこに向かい、何を行い、
そしてどれだけの犠牲を払ったか
もう、再び、それを繰り返してはならない。

もし、この国に良心をもつ人々がいるなら、
今、韓国政府が行っている平和的解決の解決への努力を
「無駄なこと」と一言で評価することはしないだろう。

自国も核戦争の危機の中にありながら、
まるで、どこかの国の話のように、
一見、客観的で恐ろしい論評や意見に充ちている国、日本。

こんな国のこんな状況の中に、
私も、抑止力のみを叫ぶ評論家、ジャーナリスト、知識人や政治家も、
一緒に住んでいる。
そして、一緒の運命に立たされている。
それが現実なのだ。

2018年1月11日木曜日

眠れぬ夜

眠れぬ夜、思索の森を、
きっとあなたも、
彷徨い歩いているのか。

眠れぬ夜、沈黙の海を、
きっとあなたも、
漂い流れているのか。

人は皆、不安の未来に、
覆われ
生きているのだ。

人は皆、闇夜の今を、
黙して、
生きているのだ。

ただ、満月の夜の
遠い海鳴りの歌が聴こえ

宵空の中の流れる雲に 
ソナタ色の光を青く注ぐ。



https://photohito.com/japaneselandscape/

http://photohito.com/photo/orgshow/2782675/
https://photohito.com/user/52170/


詩集『心象色彩の館』 目次

2017年1月6日金曜日

いじめを受けて自殺する子どもたちに (詩)

(一)

いじめを受けて自殺する子どもたちに

今日もニュースでいじめを受けて自殺する子こどたちの話が
報道されている。
いじめを受けて死を選ぶ子どもたちに対して、
私たちは、それを食い止めさせる言葉をもたな。

ただ、いじめた側の子どもたちを罰することがで、
死んでいった子どもへの償いが可能だと
思ってはいない。

弱い人をいじめる。
そんな恥ずかしいことが横行する。
それが、今の日本の文化なのか
それが、私たちの社会の姿なのか
それに対して、誰も何も言わない

いじめる子どもに、
いじめられる子どもに
優しく、生きるための力を諭すことばを失った
それが、今の私たちの生き方なのか。

いじめる子どもに
いじめないことの勇気を
いじめないことの優しさを
語る姿を失った
それが、今の社会の姿なのか

人が生まれ、言葉を話すまで
人が生まれ、歩き出すまで
どれだけ人は、多くの愛情によって支えられたか。
そのことを知ることで、
命の重さを知ることが出来ると
伝えることは出来たはずなのだ。

私もあなたも、
そしてすべての人々も

(二)

いじめを受けて自殺する子どもたちに

いじめを認めることは出来ないが、いじめはどこでもある。
いじめというのは自分の世界がすべての世界だと思う心から生まれた暴力だ。
だから、いじめは自然に生まれるのだ。

考えてみてほしい
どんなことばも、他者への優しさを持つまでに、時間を費やしたか。
どれだけの時間をかけて、他者への共感や優しさを身につけたか。

思い出してほしい
自分を認めてもらいたいと叫んでいた自分が、どうのように他者を理解できるようになったか。
自分中心の世界に、どうのようにして他者が現れたのか。

だから、
いじめられなければいじめられる苦しみは分からない。
いじめられたことは、優しさとは何かをしる試練なのだ。

だから、
君は死んではならないのだ。
君は生きなければならないのだ。

(三)

いじめを受けて自殺する子どもたちに

きみの後に、どれだけ多くの子どもたちがいじめられるか、
君は、知っているだろう。

だから、
生きて、いじめてはいけないと言う人にならなければならない。

君をいじめたあの子も、また、どこかで、いじめられる。
その時、君はその子を助けることができる。
その子といじめてはいけない人と人の在り方を語ることができるのだ。
だから、死んではだめだ。
もっと強く生きなければならない。

強くなければ、
優しく人々を包むことは出来る。

あの傍観していた友達も、
本当は、君を助けたかった。
しかし、彼らは、強くなかった。
いじめるのを止めろと言えなかった。

彼らは、いじめは悪いと知っていた。
しかし、それを行動に移す勇気がなかったのだ。

だから、君は、死んではいけない。
もっと強く生きなければならない。

そして、いじめる友達を見たら、
それは悪いことだという勇気を持った強い子になって欲しい。
すると、今まで、きみへのいじめを傍観していた友達が、
きっと、一緒に、いじめを止める友達になってくれるだろう。

踏まれることはいいことだ。それは人を強くする。
叩かれることはいいことだ、それは人を強くする。

踏まれても、伸びる。
倒れても、立ち上がる。
道端の名もなき草のように生きる。
ただ、前をみて生きる。

そうだ。
きっと君には素晴らし未来がある。



フェイスブック記載 201612月6日 


詩集『心象色彩の館』 目次


やっぱり生きていることは素晴らしい (詩)

考えるまでもなく、人は自分の人生と対峙しながら生きている。

例え、どんなに幸福な家に生まれようと、
また、素晴らしい才能に恵まれようと、
生きている限り、
決して、良いことばかりではない。
苦しいことや、悲しいことが起こる。

それが生きるということだ。

ましては、恵めれない生活環境や社会に生まれ、
その中で生きるなら、
人は、もっと強くならなければならない。

自らの人生を受け止め、その現実を噛みしめ、
それを肥やしにしながら、
生きていくしかない。

それがいつか、その人を鍛え、
強く、豊かで優しい心を育て上げる。

それが生きるということだ。

どんな人も、どんな生き方も、
必ず、試練の嵐に叩かれ、
またうららな春の日差しに抱かれる。

それらが、
どんな人も、
どんな生き方にも、
強く、豊かで優しい心を贈るだろう。

それが、生きるということだ。

生きることを見つめることで、
人は、他者を想うことを知る。

生きることにこだわることで、
人は、命の重たさを知る。

詩集『心象色彩の館』 目次

2016年8月23日火曜日

向き合うことについて

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向き合うこと


私は私に真剣に向き合ったことがあったか。
私は君に真剣に向き合ったことがあったか。
私は社会に真剣に向き合ったことがあったか。

向き合うということは、受け止めることだ。
向き合うということは、理解しようとすることだ。
向き合うということは、共に生きようと努めることだ。

どんなに苦しくとも、受け止めなければならない現実がある。
どんなに嫌でも、聴いてやらねばならない意見がある。
どんなに苦手でも、共に生きなければならない人々がいる。

向き合うことを勇気と呼ぶ。
向き合うことを愛情と言う。
向き合うことを優しさと理解する。

どんな時でも向き合う姿があれば、いつか、分かり合える。
どんな時でも向き合う姿があれば、いつか、乗り越えられる。
どんな時でも向き合う姿があれば、いつか、喜びがやってくる。

しかし、向き合うことは、
簡単なことが、出来ないのだ。
単純なことが、難しいのだ。
基本的なことが、理解されないのだ。


詩集『心象色彩の館』 目次


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向き合うこととは何か



当たり前のことだが、誰でも、不都合なことを避けたいと思う。それは、自分に不利になるし、厄介なことに巻き込まれるし、ややこしい後始末が待っているし、ともかく、自分に不都合に近づかないのが賢明な人々の生き方なのだ。子供の頃から、不都合なことを避けるようにと教えられ、不都合なことを敢えて頭を突っ込むのは「バカ、キチガイ、ヘンジン」と言われた。賢い人とは、自分に不都合なことから上手に逃げる技を持ち、自分の身を守る人だと教えられた。 だから、不都合な現実から人は、自然に逃げるように出来ているのだ。

しかし、その不都合なことが、自分の現実であり、または、家族や親しい友人たち、自分の所蔵する会社、町は社会、そして国の現実であったら、それからも逃げることが「賢い生き方」だと言えるだろうか。と言うのも、これらの不都合な現実は、結局、自分を含む社会、集団、家族の不利益を導くことになる。それらの不都合な現実に向き合わないことによって、いつか、自分は不利益、被害を受けることになるだろうと察するも出来る。


だから、多分、人は、それらの将来予測される災難にあわないために、今ある不都合な現実を受け止め、それを解決しようとする。言い換えると、私たちが不都合な現実に向き合うのは、何も、その不都合な現実に向き合いたいから、向き合っているのではない。これからのより良い生活や生き方のために、その不都合さに向き合わなければならないからこそ、向き合っているに過ぎない。言い換えると、不都合な現実に向き合う必要がなければ、誰も、嫌で苦しい思いをしてまでも、不都合な現実に向き合うことはないのだ。


不都合な現実と呼ばれる多くの課題、例えば、自分の、家族の、こどもの、社会の問題、それらの問題は、殆どの場合、即座に答えが用意されてもいない。それらの不都合な現実の課題には、一つの回答も、唯一の解決策も、永遠に有効な答えもない。

殆どの場合、不都合な現実と呼ばれる多くの課題の答えとは、答える過程にしか用意していないし、答える過程を通じて無限に用意されている。つまり、それは、生きていいる私たちが、つねに不都合さを生み続ける現実と呼ばれる未知の世界を歩き続けているからこそ、新たに生み出され続ける不都合な現実という課題に過ぎない。だから、答えは、そこに在って、そしてそこにたどり着くことで、またそこから消えていく。やっとたどり着いた答えの中から、新たな不都合が見つかる。生きていいる現実は、限りない疑問の中に、生きている私を留め続ける。それが不都合な現実の正体なのだ。

だから、得られた答えに、求めるものは、得られた意味よりも、得ようとしたこころしかない。
だから、得ようとした人に、求められるものは、その人の横にいた得ようとした人でしかない。
それが、不都合な世界のなかで、向き合うということの、意味になり、
それが、不都合な世界のなかで、向き合うことから得られた、答えになる。

向き合うことは、異なる文化の人々、立場の違い、意見の相違と呼ばれる、不都合な現実の在り方に対して、共存の可能性を照らす、唯一つの手段なのだ。だからと言って、答えが見つかった訳ではないが、不都合な現実が引きここしている問題の半分が、すでに解決されている。



2016年8月22日月曜日

やっぱり生きていることは素晴らしい

考えるまでもなく、人は自分の人生と対峙しながら生きている。
例え、どんなに幸福な家に生まれようと、
また、素晴らしい才能に恵まれようと、
生きている限り、決して、良いことばかりではない。
苦しいことや、悲しいことが起こる。それが生きるということだ。

ましては、恵めれない生活環境や社会に生まれ、その中で生きるなら、
人は、もっと強くならなければならない。
自らの人生を受け止め、その現実を噛みしめ、
それを肥やしにしながら、生きていくしかない。
それがいつか、その人を鍛え、強く、豊かで優しい心を育て上げる。
それが生きるということだ。

どんな人も、どんな生き方も、
必ず、試練の嵐に叩かれ、またうららな春の日差しに抱かれる。
それらが、どんな人も、どんな生き方にも、強く、豊かで優しい心を贈るだろう。
それが生きるということだ。

生きることを見つめることで、人は、他者を想うことを知る。
生きることにこだわることで、人は、命の重たさを知る。

若者よ。