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2021年6月28日月曜日

労働価値説の点検課題1

-労働価値説への批判とは何-

三石博行


はじめに

マルクス経済学の再考・再構築の作業は何故大切なのか。その意味は、資本主義の限界を垣間見る21世紀の社会にあって、すでにマルクス経済学は終焉し、科学的有効性がないと烙印を押されているからである。もし、その有効性を語るなら、過去のマルクス経済学批判のすべてに答えなければならないだろう。それどころか新たに語るマルクス経済学で、現在の社会経済文化のすべての課題に答えを準備しなければならないだろう。この二つの課題に対して、果敢に挑戦する科学的精神を持つ「マルクス経済学」でなければ、その学問的意味はない。こうした厳しい条件があるからこそ、逆に、今、マルクス経済学を語る意味がある。


1、原田博夫氏の「労働価値説への批判」

6月26日にブログに記載した「労働価値説の基本的課題:行為としての経済」に対して、友人の原田博夫専修大学名誉教授(慶応大学経済学博士)から丁寧なコメントを頂いた。原田先生の指摘は、「労働価値説ではどうしても事柄の半分(供給サイド)しか見えてこない、と思います。市場(の成立および理解)には需要サイドが不可欠だ、と思います。その場合の市場は、もちろん新古典派の(理念型としての)完全競争市場ばかりでなく、より現実の寡占市場や国家独占市場であっても、需給両面の探り合いの場だと思」という事であった。

私自身、経済学を体系的に学んだことのない者にとって、経済学者からの有難いものです。一つは、素人の私の言い分にまじめに答えて下さったことです。何故なら、多分、多くの経済学者は経済学を知らない人・私が書いた未熟な文章は毛頭相手にしないし、その問題点を指摘することはないと思うからです。二つ目は、私がもし「労働価値説の基本的課題」なるものを書くのであれば、最低限、労働価値説批判の論点や指摘内容は踏まえる必要があるからです。

原田博夫氏の指摘を簡単にまとめると、「労働価値説ではどうしても事柄の半分(供給サイド)しか見えてこない」、そして経済現象を理解するためには「市場(の成立および理解)には需要サイドが不可欠」であると言うことである。つまり、労働価値説からは「需要サイド」が十分に見えないという指摘である。

この批判を行った原田博夫氏は、これまで人間社会の幸福の在り方を課題にする研究を展開してきた(1)。特に、その代表的な研究として「ソーシャル・ウェルビーイング(2)」があり、それらの研究は極めて実践的なテーマ展開を行ってきた。例えば、アジアの国々の研究者との共同研究活動を専修大学の「Center for Social Well-being Studies」(3)を創設し、指導されてきた。原田博夫氏の一貫した「人間主義」の経済思想がそれらの国際共同研究活動を推進する力になっていると言っても過言ではない。

その意味で、原田博夫氏の「労働価値説」に対する指摘に真摯に対応しなければならない。しかし、私は原田氏の指摘「労働価値説からは「需要サイド」が十分に見えない」という経済学的意味を理解するだけの知識が残念ながらない。


2、大西広氏の『マルクス経済学』の課題

大西広著『マルクス経済学第3版』(4)、第1章マルクスの人間論の説明によると、労働価値説は、経済学の基本に人間論を持ち込み、経済活動とは「人が食べるために行う行為(労働)」にその起源があると述べている。つまり、労働価値説とは人間の生きるための行為(衣食住を確保するための行為)の普遍的な価値概念を表現するために用いられた概念であると言える。労働価値説を基本にし、その人間論の上に成立させようとした経済学がマルクス経済学である。

では、その経済学はどのように成立可能なのか。大西広氏は長年の経済学研究の中で、マルクス経済学の経済学論理を徹底的に検証するために「数式化」を用いたのではないだろうか。つまり、「人間論」という一種のヒューマニズム経済論にマルクス経済学を貶めることを徹底的に拒否し、その理論の正しさを論理実験する作業として数式化を試みたように思えた。大西氏にとて問題は、マルクス経済学を擁護することではなく、その経済学理論として有効にして正しいかどうかを検証する作業のように見える。彼はその作業を私へのメールの中で「私の教科書はその「はしがき」にありますように何度も改訂を重ねていまして、今もありうる第四版のために「正誤表」を毎日書き直しています」と述べている。彼は終わりなき修正を加え続け、今もその実験の最中にいる。それが大西広氏のマルクス経済学研究の姿である。

彼にとってマルクス経済学とは、現実の問題、国際資本主義経済、中国等の発展途上国の経済、今後の21世紀社会の経済の在り方等々が課題となり、それらの課題に対してマルクス経済学の有効性を試すために理論実験を繰り返しているように私には見える。


3、限界効用理論からの労働価値説批判の課題

労働価値説では「需要サイド」が十分に見えない」という原田氏の指摘を理解するために、労働価値説批判に関する論文や情報を調べてみた。

注目した批判として「限界効用理論から指摘される労働価値説に対する一般的批判」(5)に関する情報があった。限界効用理論とは「さまざまな財を消費ないし保有することから得られる効用」に関する理論である。例えば「ある財をもう1単位だけよけいに消費ないし保有することにより可能になる効用の増加を〈限界効用marginal utility〉と呼ぶ。」(6) つまり「一定の所得をさまざまな財の購入にどのように支出すればよいかを考えよう。たとえば,米への支出をもう1000円だけ増やした場合の効用の増加がコーヒーへの支出を1000円だけ減少させたときの効用の減少より大きければ,コーヒーへの支出を減らして米への支出を増加すべきである」(6)と判断する需要の側の論理を意味する。

この「限界効用理論の出現」によって、「労働価値説と需給の論理の関係はどう考えても釈然としない」と解釈された。しかしながら、「労働価値説」は生産過程から生じた理論であり、他方の「限界効用理論」は交換重視の理論である。限界効用理論」から価値(本当は価格)、「ここでは価値という言葉を使わず効用」は、生産量が増えるに従い綿布の効用は減少し」することになる。そして生産量が無限に増えるなら、「やがて効用の増加が零まで下がる。誰も買わなくなる。この時点で生産者は生産を止める。この時点、すなわち効用の増加が零に近似するぎりぎりの時点での効用を限界効用と言う。」(5)、つまり、商品交換では「相互の限界効用の差が零に近似する時点がが交換の停止点」となる。しかし、このような現実に対して、「労働価値説では労働さえ加えれば無限に価値は増えると言う結論になる。」(5)

しかし、この指摘は正しいだろうか。マルクスの言う価値(交換価値)とは、労働価値説から展開すれば「生きるために必要とされている生産物の価値」である。例えば、人口100人の社会で100台の自動車は必要とされる。その意味で価値(使用価値)がある。もし、50台の自動車なら使用価値だけでなく交換価値もある。しかし、101台になると1台の車はこの社会から必要とされない。100人の人が自分の車で満足しているなら、この1台の車の使用価値も交換価値もなくなるだろう。これが「相互の限界効用の差が零に近似する時点がが交換の停止点」と呼ばれる商品交換が無くなる瞬間である。しかし、同時に余分な車の使用価値も消えていると言えないか。確かに、車として使える以上、使用可能である。しかし、使用可能な状態であることが「使用価値」と同義語なのか。使用価値とはあくまでも経済学的価値を意味する。

「労働価値説では労働さえ加えれば無限に価値は増えると言う結論になる」と言う限界効用理論による労働価値説への批判は、使用価値に関する正しい理解が為されていないために生じる批判ではなかったか。そもそも、労働価値説から展開れる使用価値とは「生きるために必要とされている生産物の価値」である以上、生きるために必要とされない生産を行うことはないだろう。それは経済活動の外になる行為として理解されることになるだろう。その意味で、「効用や選択または価値でなく価格分析が重視される」(7)「限界効用理論」の登場が「労働価値説」への批判の論拠となることはない。労働価値説は「人間の有する労働の生産的・創造的働きを重視し、そこに有意義性と尊さを据えて、いわば価値を見て、経済を分析的に把握していく見解」(7)として理解すべきである。


4、その他の批判に対して

その他、多くの「労働価値説への批判」が存在する。ここではそれらの全てを紹介し、そしてそれらに対して、一つひとつ点検する時間も能力もない。しかし、マルクス経済学を語るなら、その作業が前提となるだろう。つまり、マルクス経済学の再考・再構築とは、その経済学とそれに基づく歴史的実験(ソビエト連邦での社会主義経済の破綻と中国での国家資本主義経済による社会主義国家建設の実験)に関して、明確な回答を準備しない限り、不可能である。過去のマルクス経済学をそのままオウムのように繰り返し言い立てることではない。その意味で、「マルクス経済学の再考・再構築」は経済学の中で最もチャレンジな課題でると言えるだろう。何故なら、その課題は過去のマルクス経済学批判のすべてに答えなければならない。また、それどころか現在の社会経済文化のすべての課題に答えを準備しなければならない。この二つの課題に対して、果敢に挑戦する科学的精神を持つことなく「マルクス経済学」を語ることは、学問的にも、経済学説論的にも、経済政策史的にも許されない。だからからこそ、マルクス経済学を今語る意味があると逆説的に主張できないだろうか。


参考資料

(1)原田博夫教授 履歴・業績 https://www.bing.com/search?q=原田博夫

「ソーシャル・ウェルビーイング研究の意義-GDP指標へのチャレンジ-」『ソーシャル・ウェルビーイング研究論集』専修大学社会知性開発研究センター/ソーシャル・ウェルビーイング研究センター、第5号、2019年3月、pp.89-109. http://doi.org/10.34360/00008126

(2) ソーシャル・ウェルビーイングとは「現代的ソーシャルサービスの達成目標として、個人の権利や自己実現が保障され、身体的、精神的、社会的に良好な状態にあることを意味する概念。1946年の世界保健機関(WHO)憲章草案において、「健康」を定義する記述の中で「良好な状態(well‐being)」として用いられた。最低限度の生活保障のサービスだけでなく、人間的に豊かな生活の実現を支援し、人権を保障するための多様なソーシャルサービスで達成される。一部の社会的弱者のみを対象とした救貧的で慈恵的な従来の福祉観に基づいた援助を超え、予防・促進・啓発といった、問題の発生や深刻化を防ぐソーシャルサービス構築に向けての転換が背景にある。」と「ウェルビーイング」の意味の中で説明されている。

(3) Center for Social Well-being Studies Senshu University: https://www.senshu-u.ac.jp/swb/

(4) 大西広著『マルクス経済学第3版』慶応義塾大学出版会、355p、2020.04.30

(5) 「労働価値論vs限界効用理論(1)」 https://blog.goo.ne.jp/keiojiro/e/a29ef583e0c04143ad25b71b63604835

(6)「限界効用理論」https://kotobank.jp/word/限界効用理論

(7)深澤竜人「限界効用価値説の展開と労働価値説との対比― マルクス経済学と「限界革命」Ⅳ 」『現代ビジネス研究』第 11 号(2018 年 2 月刊行)抜刷


2021年6月28日、フェイスブック記載




2021年6月26日土曜日

労働価値説の基本的課題:行為としての経済

- 生活資源の経済学の成立条件とは -

三石博行


1,狭義の労働(賃労働)と広義の労働(生活行為)

今日(6月8日)は水口保氏との「定例編集会議」。今日の課題の一つは、経済活動を行う行為を「労働」と定義し、その労働によって経済的価値が生まれると考えた古典派経済学(アダムスミスからリガード、そしてマルクスに至る)の基本概念である「労働価値説」に関する評価と批判的展開についての意見交換だった。基本的に労働価値説は正しい。人の労働によって、つまり経済活動を通じて、商品(価値を持つ生産物)が生み出される。

しかし、ボランティア、人への愛情、趣味、娯楽等々、人々が何らかの社会的活動(行為)を通じて、生み出すもの(物質的、非物質的な)は、商品としての市場で交換される(価格が付けられ売りに出される)訳ではない。勿論、ボランティアで提供されているサービスも商品化され、「愛情」行為も商品化され、「娯楽」もお金を払って行っている。その意味で、人の行為(サービス労働)は商品である。その場合、行為ではなく労働となる。商品化されない行為、つまりこの行為はそれによって対価を得ることを目的としていない。その意味でこの行為は市場経済の視点から言う労働ではない。

つまり、人々の日常生活では、すべての行為が賃労働化されている訳ではない。むしろ、賃労働化されている行為(労働)は、生活行為の中の一部である。経済的要素として労働(賃労働)が経済学の中で課題となる。その反面、賃労働化されていない労働(生活行為)はその対象とはならない。もちろん、それらの生活行為(家事、育児、介護等々)がサービス商品化されることで経済的要素・商品となり、経済学の対象となる。そうでない限り、同じ生活行為は、それが商品とその交換を課題とする経済学の対象外に置かれる限り、経済学の対象の外に置かれる。

勿論、マルクスは家事や育児を労働として位置づけていた。その流れを受けた生活構造論や生活システム論でも、家事労働は将来の労働力を形成するための労働として位置づけられていた。では、何故、経済学から生活行為(賃労働化されていない家事)が、経済活動の対象外に置かれることなったのだろうか。市場経済を経済学の研究対象とする経済学の考え方はどこから生まれたのか。経済とは人の生活であり、人々の社会的営みではなかったか。労働価値説の基本的な課題を問うことによって、市場経済中心主義の経済思想の在り方が問われ、生活中心主義に経済学を立て直す必要が問われている。


2、労働と生活行為

生活の中で行われる行為は、家事や育児のように労働としてすでに成立してある行為も含めて労賃を支払わない(支払えない)生活行為が多くを占めている。生活経済を考える時、商品化された労働力を経済的要素として考える場合、家事や育児等の生活活動の基本を構成するものが無償労働として位置づけられている。その解決は、それらの家事等に価格を付け、家事を担った妻(夫)に対して、家事サービスを受けた夫(妻)が、その対価を支払う制度を家庭内の規則として導入することである。しかし、現実に、家事、育児や介護を担う妻(夫)が、外で働く夫(妻)に、家事労働の対価を要求し、またそれに関する契約書を作る家族はない。

市場経済学的な調査、研究からは生活世界の人間・社会・経済現象は理解できない。そこで、生活を消費行動として経済学的に分析する。そのため、生活経済の中で生産される「未来の労働力・人間形成」は課題に挙がらない。また、生活経済は家計のやり繰りのための知識として理解されている。そのため、生活経済は社会全体の経済学の中の家庭経営に関する課題に限定されてしまう。人間の基本的な条件が成立している生活活動が経済学の基本的な課題となり得ず、社会経済活動の端に置かれ、人間の活動の基本である生活環境(基本的には衣食住環境)、出産、育児、家庭環境、介護、人間関係、愛情等々、人が育つ基本的な行為、生活行為が経済学の課題から抜け落ちている。

Economyの語源は「家計管理・節約」を意味するギリシャ語のoeconomia (オイコノミア)であり、家計、家庭経営を意味している。日本に西洋の経済学が紹介された時代(19世紀後半)、『英和対訳袖珍辞書』(堀達之助)では「economy」を「家事する、倹約する」と訳し、「家政」の意味と解された。また、「political economy」は「国家の活計」と訳され、「制産学」つまり「経済学」(古典派経済学)を意味した。「経済」という新語は、中国の古典に登場する用語「経世済民」「経国済民」(世・国を経め、民を済う)の略語「経済」として形成された。経済とはその語源に於いても生活経営であり、その学問としての経済学も「家政」の学であった。しかし、明治初期の大学等の高等教育で行われた国家レベルの「political economy・財理学」が個人や企業レベルの「財理学」として展開し、それを包括して「economy・経済」という用法になったと言われている。近代化を急ぐ日本では、経済学は国家の財理運営(世・国を経める)の学問として国家が推進し、教育研究の課題として展開された。その意味で、経済の目的を語る(民を済う)という意味は希薄になって行った。

経済学の目的が国家や企業の富の形成を課題にする時、生活者は勤勉な労働力を提供する人々(労働者)となり、またその家族は将来の健康な労働力の補給の場となる。世・国を経めるための財理運営学(経済学)の中では産業活動によって生産された商品の消費行為が経済的意味を持つ。その他の生活行為は経済的意味の外に置かれる。そして、経済学の本来の目的(世・国を経め、民を済う)は完全に消滅することになる。しかし、マルクスの労働価値説によって、もう一度、民を済う経済学の復権が試みられることになる。では、どのようにしてその復権は可能になるのか。『生活世界の再生産』(高橋正立)が試みた課題「行為としての経済」に関する研究を掘り起こし、そして再展開する必要を感じる。


3、生活経済学としての生活資源論

人間の行為を経済学の基本とするなら、人々は生きるために活動し、豊かになるために働き、そして個人的な欲望や欲求を満たすために動く。これが経済活動の基本である。つまり生活世界で繰り広げられているすべての行為が経済学の対象となる。これらの人間行為が社会性を持たなければ、つまり個人的行為が他者に対して交換可能でなければ経済活動は形成されない。人の単なる行為の集合が経済活動を自然発生的に生み出すのではなく、人が社会的存在化したときに、その社会性こそが経済構造の基本となる。

つまり、人の行為によって社会性が生産され、その社会性が他者(人)の行為を助け、そしてその人が、その社会性を再生産することが出来る。生産活動とは生命や生活維持のために執り行われ、その行為を前提にして社会が形成、維持される。これらの社会形成は社会的規則によって運営される。生活行為で生産される生活資源の評価、分配の基準が経験的に決定され、変更され、維持される。生活資源の生産、交換に関する決りが経済秩序の土台となる。

ある目的に向かい生活行為(労働)が蓄積され、その蓄積(生活資源)によって作り出された環境を社会文化と呼んでいる。人々は社会文化環境を構築・脱構築・再構築しながら個体と種を維持し続けて来た。つまり、経済とは生活資源の再生産循環のメカニズムである。そのメカニズムの仕組みを語るのが生活世界の経済学である。高橋正立の厳密な経済学的点検に関してはここでは述べない。しかし、労働価値説の普遍的解釈を通じて、彼が人間の行為・生活行為の経済を展開しよとしたことを再度、見直す必要がある。


参考資料

高橋正立著 『生活世界の再生産 経済本質論序説』1988年12月、391p ミネルバ書房


2021年6月26日 フェイスブック記載

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