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2012年11月15日木曜日

行政改革を可能にする政治指導の在り方

政治改革の課題(4)

三石博行


文部科学大臣には文部科学省の行政決定権はない

9月末に新しく内閣改造が行われた。文部科学大臣に田中真紀子氏が就任した。就任の挨拶に「役人と仲良く仕事をしますと田中氏は述べていた。しかし、その言葉とは裏腹に、文部科学大臣田中真紀子氏は、三つの大学の設置許可に関する大学審議会の審議結果に反して、大学設置許可を認定しないという発言した。そのため、文科省は混乱し、三つの大学法人から抗議が起り、又もや田中真紀子氏のとんでもない発言と、マスコミや野党から厳しい批判がなされ、その後、田中氏はそれら三つの大学の認可を認めることになった。

ここで明らかになった事実は、まず、法律上は文部科学大臣が文部行政の最高責任者であることであった。その最高責任者田中真紀子氏は文部行政の全ての意思決定に責任を持つことを示した。そこで、田中氏は、法律に即して、全ての文部科学省の行政上の決定を行った。法律上、行政機能の運営に関する全ての責任を大臣が持たなければならないのである。

何故なら、日本国憲法では、議会制民主主義議と議院内閣制度では政権与党によって内閣が構成され、すべての行政機関の長、つまり大臣が選ばれる。大臣は国民の意思を行政機能に反映させ、行政機能を運営しなければならない。これが国民主権による日本の国家の運営の姿なのである。

当然の権限を行使した田中真紀子氏は何故批判されたのか。つまり、文部行政の判断は文部科学大臣ではなく、官僚が行うことになっているのか。それを世論も認めていると言うことか。事実、官僚の判断に、これまでの殆どの大臣が異論を唱えることない。官僚が決めたことに反対すると官庁の機能がマヒするか、世論が大臣の横暴を批判するか、どちらかである。

今回の場合は、三つの大学法人はすでに大学審議会の審議結果を知り、まだ認可は出ていないものの、次の年度に向けて、大学説明会や入試を行っていた。そのため、認可されないとなると、入学を希望し入試を受けた生徒が被害を受けることになるという事態が生じていた。そのことが、世論が田中大臣の判断に対する批判となった。

考え方を変えると、審議会の結果は大臣が正式に認可する前に、官僚によって「認可されました」とすでに大学法人に連絡があり、大学側は、その報告を信頼し、大学説明会や入試を行っていた。こうしたことはこの三つの大学に限らず、殆ど、すべての大学の認可に共通する事例となっていた。その慣習が破られたということが田中大臣への批判となった。つまり、審議会に提出された大学認可の申請は殆ど自動的に通過する筈なのに、今回に限ってたまたま大臣が田中真紀子になったために、審議会の審査で許可が下りたのに、大臣が勝手に認可しないという暴挙に出たと言うことになった。



行政機能の基本構造、行政の惰性態と保守性

社会経済の安定と国民生活の保護を第一の課題にしている政府機能において最も大切な政策はすべての社会機能が安定して動くことである。言わば、政府機能とは政策の惰性態や保守性を基本として動いている。その機能が最も行政機能の重要な働きを占めている。

役所は融通が利かないとよく言われる。それは当然の事である。もし、役人が市民のためにと、規則を無視して、また法律を無視して、融通を利かせる行為をやり出したら、役所は混乱するだろう。役人の個人的感情や配慮で、行政的対応が異なることが当たり前になる。すると、ある人は、親切な役人に対応してもらって非常に得をしたが、その友人は、融通の利かない役人に対応されたので、何もして貰えなかったということが起る。それを防ぐために、強かな住民たちは、土産をもって役所に出向くようになる。そして、こんどは沢山土産を持ってくれば融通が利くということが常識化することにならないだろうか。

役所は平民を支配管理するために存在し、役人が人々の上に立っていた時代には、勇気ある役人が自分の首を掛けて、ある困った人を助けるという話もあるだろう。つまり、その規則違反をする役人は、その違反行為に対して自らの辞表を掛けての行為を勇断し、そして、困った人の命を救い、最後は、役所を去って行くことになるか、場合によっては、役所に反抗することにもなる。この役人の行為は美談として平民社会に伝え続けられるかも知れない。

しかし、それが許されることは殆どない。例えば、2010年9月7日の尖閣諸島近海での中国漁船衝突事件があったが、その時、中国漁船員の暴力的な挑発行為が巡視船の隊員によって撮影されていたのだが、公開されなかった。当時は、中国政府は、日本の海上保安庁が中国漁民を不当に逮捕したとして激しく国際世論に訴えて非難した。国会議員たちはこの映像を見ることができたが、国民は見ることはできなかった。そこで、ある海上保安庁の職員が辞表を覚悟で、その映像をインターネット上で公開した。勿論、政府からはその職員の処分を行うべきという意見がでた。職員は海上保安庁の命令(国家公務員法 第100条 第1項に定められている守秘義務)を破って、「機密情報」を公開したことになる。その違反行為を厳密に処分しないと、今後、また、こうした公務員の勝手な振る舞いが横行するという意見であった。しかし、世論はその職員の勇気を称え、政府民主党の弱腰外交を非難し、それに乗じて自民党は政府の中国外交を批判した。結果的には、機密漏洩を行った職員の処分(厳しくはなかったが)は行われ、その職員は辞職した。

つまり、行政機能を維持する役人は、その機能の持つ惰性態(日常的業務)を維持するために、良し悪しに関係なく公務員が自分の判断で制度上許されないこと、つまり勝手なことが出来ないようになっている。これが行政機能の基本的な構造である。日常的な業務を繰り返し行うように行政機能は作られている。これを行政の基本的な機能として「政策の惰性態」と呼んだ。(1)

言い方を変えると、行政改革を行政機能は出来ないように作られているのである。市民が、役所に行って、役所の制度を変えるように訴えても、役人にはその気持ちが解ったとしても、先頭を切って、役所の改革に取り掛かる権限は与えられていない。彼らに出来ることは、現行の制度内で、つまり行政上許された範囲内での対応を行うことのみである。良心的な役人たちは、こうして市民の要求に答え続けてきた。

しかし、制度自体を変え、市民の訴えに根本的に答えることは役人には基本的に出来ないようになっているのである。実際、その役人の出来る範囲内での対応の変化で、満足する市民は多いのであるが、それすら出来ないようになっているのである。つまり、日常的に繰り返されること以外に何かを特別にすることが大変なように習慣づけられているのが役所の仕事なのである。



行政機能の改革や改善作業、立法機関の課題と責任

では、官僚や役人は基本的に行政改革を行える立場にもないし、そうした権限を与えられていないとすれば、誰が、行政改革を行うのだろうか。つまり、役所の機能を社会の現実に合うように改革するのは誰だろうか。こんな疑問が発せられるのは、この国に定められている憲法をよく知らないからだろうと言われても仕方がない。

役所は決まりによって動く。その決まりを決めるのは議会である。つまり、議員達に役所の運営を変える権限と責任がある。もし、自治体の役所がうまく機能していないなら、その責任は基本的には首長にある。国なら内閣総理大臣にある。そして直接的には、自治体なら役所の責任者にあるし、国なら各庁の最高責任者・大臣にある。これが我が国日本の民主主義社会の行政機能の在り方、運営の仕方である。

自治体や国家の立法機関の機能とは、政策の惰性態(お役所や官庁の仕事)に関する点検や改善を行うことである。行政機能(お役所や官庁)は政策の惰性態を前提にして動く限り、その惰性態(日常的なルーチン業務)によって生じている行政の非効率や機能不全を自浄する機能を自ら備えていない。その行政機能の改善を行う機能として立法機能がある。何故なら、行政機能は法律によって動くように定められている。行政が効率よく動く法律を決めるのが立法である以上、行政改革とは立法上の改革から始まるのが民主主義国家での行政改革である。

つまり、役人を変えるのは、彼らの良心に訴えるのではなく、彼らが市民のために働けるように決まりを変え、制度を作る必要がある。それが出来るのは議員である。つまり、その改善を市民から選挙を通じて委託されている人々である。

立法機関は、政策の惰性態を見直し、その政策の機能を回復させるために、その政策の改善に必要な処置、つまり部分的変更、補足、もしくは全面的廃止と新たな政策提案を行うことである。行政機能は立法化された制度によって運営されている以上、行政機能のマヒの責任は立法機関にある。もし、行政機能が立法(法律)に反する行為を行った場合には、その責任は行政担当者に重く科せられている。それを公務員の国民に対する義務と呼んでいる。



行政改革を進める政治指導とは何か 田中真紀子大臣が起こした波紋とその課題

田中真紀子文部大臣は三つの大学認可に異議を唱えるに当たって「現在の日本の高等教育は、半数の大学が定員割れを起こし、大学教育の劣化、国際競争力の低下という重大な問題を起こしている」と指摘した。田中大臣は、その大きな原因として大学審議会がこれまで行ってきた認可行政を指摘した。

この田中氏の行為を最も評価する視点で語るなら、政治家である田中氏は、予め、三つの大学の許可に異議を挟むことで、文科省の官僚、世論、野党がどのように動くかを計算していたのかも知れないと言えそうだ。そして、事態は彼女の予測した通りに進み、世論が騒いでくれた。殆のマスコミが田中氏を批判した。しかし、その報道の1割ぐらいが、現在の大学教育の問題を取り上げた。その結果、大学改革を次の文部科学省の教育改革の課題に入れることに成功した。3ヵ月の大臣任期を前提にして、「こう(三大学設置認可拒否という常識では考えられない大臣の行動)でもしないと役所は動かない」と語る田中角栄の娘である真紀子氏が取った強かな政治であったとも解釈できる。

これが、田中真紀子大臣の行為を最大限に評価した解釈である。しかし、この解釈は多分、多くのマスコミでは、一笑に値すると言われるに違いない。そして彼女を「暴走オバサン」と呼び、日本の深刻な大学教育問題でなく、審議会の審査結果を無視し、三大学を困らせた非常識の大臣の問題として、今後は取り上げられるに違いない。

国会での問責決議と騒ぐ自民党は、まさに、日本の大学教育をここまでも荒廃させた責任を感じていないのだろうか。そして、これまで、民主党で文部科学大臣をやってきた政治家は、田中真紀子氏の行動をどう評価しているのだろうか。

田中真紀子大臣の行動に対して自民党幹事長の石破氏は「手続きを理解しない行動」であると批判した。この発言は田中氏の行動を批判する一つの理由となる。つまり、田中大臣は行政機関の最高責任者として、その行政機能の惰性態を理解し、そこで生じる問題を行政自体の問題として提起するのでなく、大学改革を行うための審議会や第三者委員会等々の制度・法律改革のための超党派での国会議員の活動、つまり立法機能がやるべき課題として提起すべきであったとも言える。

それは田中氏個人の問題でなく、民主党の教育行政に関する問題である。民主党は、政権当初から我が国の高等教育に対する方針を持っていなかった。そのため、極めて深刻な大学教育問題が放置され、半数近い大学が定員割れを起こし、中小大学の教育能力は劣化の一途を辿り、自民党政権の教育に自由競争を取り入れた政策上の問題が拡大しようとしているのである。(2) 勿論、大学教育機能に自由競争を取り入れることによって多くの高等教育の課題が前進したことは事実である。しかし、教育現場では、教育産業の熾烈な自由競争に打ち勝つために、企業化した大学間の厳しい経営戦争に生き残るための日常的な対応に追われているのである。今回の問題でも、三大学法人が慌てふためいた理由に、生き残りを掛けた大学法人の必死の大学改革の動きが背景にある。

大学教育の改革、21世紀社会に貢献する高等教育の在り方、国際競争力をもつ日本の大学等々の課題に、現在の大学法人が無関心である筈がない。こうした大きな教育改革への教育行政的課題は民主党や自民党の政治家よりも、文部科学省の役人や現場の大学教育者がひしひしと感じていることも事実である。大学改革を望んでいる教育現場や文部科学官僚の要請に応えられないのは立法機能の責任者達(政党や議員)であることは否定できないだろう。

この意味で、田中真紀子大臣の初めから解散を前提にして成立した新内閣の閣僚田中真紀子氏の思い切った「肉を切らせて骨を切る」勇気ある行動を称えたいと思う。しかし、同時に、行政改革のための地道な手続きを行う時間と手法の必要性も政治家として立法機能の不在を自己批判しながら、改革のための手続きを示す必要があったと痛感する。

しかし、現実の我が国の国会では、国の在り方を問うことが、具体的な政策を検討することでなく、政局を議論することになっているようだ。この政治環境では、永遠に行政改革を行うことは出来ないだろう。ましては、この政治家どもを正すための政治改革など夢のまた夢だろう。



高等教育改革を提案するための必要な手続きを仮定すると

今回、田中真紀子大臣に与えられた高等教育改革の政策提案と実現の時間は余りにも短いために、本来あるべき手続きを述べても、それは、寧ろ、田中大臣に「高等教育改革の提案は今回は無理」ということになる。そこで、田中大臣が、十分に時間を与えられているという仮定の上で、政治指導の路線で、高等教育改革を提案する場合を考えて、その手順と方法を検討してみよう。

1、 民主党のマニフェストの高等教育の改革提案が現実の問題に答えるものでない場合、田中真紀子議員は、それらのマニフェストを見直し分析し、問題点や不十分な箇所を修正変更し、自らの提案を加えて、民主党の教育政策委員会(存在すると仮定して)に提出する。

2、 文部大臣からの提案を受けて、民主党内では教育政策委員会のメンバーが検討会を開く。民主党教育政策委員会議員は、民主党の教育政策を具体的に検討し政策提案をサポートする専門家会議(存在すると仮定して)に、文部大臣からの提案の検討を依頼する。

3、 民主党教育政策委員会専門家会議はその提案を受け、専門的調査研究活動企画を委員会に提示し、専門家会議を行い、専門家会議としての答申を出す。

4、 教育政策委員会では、専門家会議の答申を受けて、専門家会議の委員若干名を入れて、委員会を開き、教育政策委員会としての「文部科学大臣からの政策課題提案に関する答申」を出す。

5、 文部大臣は民主党教育政策委員会からの答申を文部科学省内で検討するために、文部科学省内に「高等教育改革プロジェクト・会議」を組織し、この課題を検討するために必要な人材を集める。省内の専門家以外に、民主党教育政策委員会議員、他の省や民間団体、シンクタンク、教育機関から必要な人材を集めることが出来る。

6、 「高等教育改革プロジェクト・会議」は民主党教育政策会議から出された「文部科学大臣からの政策課題提案に関する答申」の具体的検討、分析、解釈を行い、その修正や補足をし、「文部科学大臣からの指示による高等教育改革案に関する答申」を作成する。

7、 それらの答申は、文部科学省の中にある各党の議員、官僚、専門家によって作られている「高等教育政策委員会」(在ると仮定して)に掛けられる。

8、 その「高等教育政策委員会」での議論を経て、「高等教育改革プロジェクト・会議」は具体的な法案作成を行う。

9、 「高等教育改革プロジェクト・会議」の具体的な法案や制度改革の提案を「高等教育政策委員会」が検討し、承認、訂正、補足を行い、「高等教育政策委員会」の最終的な提案を作る。

10、 文部科学大臣は「高等教育政策委員会」の最終的な提案を国会でさらに検討し、訂正、補足を行い、国の高等教育改革の政策として確立する。

以上である。



しかし、現実の政治家の関心は

しかし、この手続きを行うためには、政権は少なくとも4年は安定している必要があるし、大臣も最低4年間の任期が必要である。つまり、上記した手続きが出来る政治的環境にないことが、さらにこの国の政治を混乱させ、国を疲弊させつづけている。

そろそろ、国益のために、政局論争をやめて、政策論争と国家の在るべき姿を議論し、国民からの意見を聞くべきではないかと思う。しかし、今日も、「太陽の党」が発足し、原発事故、今後のエネルギー政策、東アジアンの平和的共存、赤字債権問題等々は、「大切な問題」かもしれないが、大同団結して自分たちの権力を取る課題に比べれば「些細な」ことであると言っているようである。

かっての若き憂国の士は「暴走老人」になったのか、それとも「ぼけて」しまったのか。



参考資料

1、三石博行 「体制の保守、改革と破棄と呼ばれる政策の三つの形態」2012年11月7日 http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_7.html

2、三石博行 ブログ文書集「大学教育改革論」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/04/blog-post_6795.html

3、三石博行 ブログ文書集「国民運動としての政治改革」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/06/blog-post_9428.html

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2012年8月13日月曜日

なぜ、いじめが放置されるのか、そこに日本社会の構造がある

『人権学とは何か』
5章 いじめの構造とその対応


三石博行


社会文化の構造としてのいじめ

いじめの実態を隠すことがいじめ対策であった

滋賀県大津市の中学校で起こったいじめ(生徒の集団暴行)による生徒の自殺問題は、その地域や中学校における特別な事例ではないだろう。つまり、この現実は、これまで長年問題にされてきた「いじめ」を日本の教育制度やそれに関係している人々の力ではいじめ問題は解決できていないという事実に他ならない。

青森の私立高等学校でのいじめ問題は、さらに日本社会に衝撃を与えた。何故なら、教育者達がいじめられた被害者を退学勧奨していたからである。教育者達にとって、いじめ問題で騒ぐことは学校の秩序を壊す行為でしかなかった。そのため、いじめの現実をいち早く隠ぺいすることが、彼らのいじめ対策となった。世の中は、この学校の取った対応に驚いた。

被害の実態を隠し続けてきた国

しかし、よく見ると、その学校の対応に、実は、この国がこれまで行ってきた被害者の人権に対する対応のすべての構造が隠されていることに気付くのである。

例えば、広島や長崎に原爆が落とされ被爆した市民の救済に際して、爆心から半径2kmの同心円内の地域にいた人のみを被爆対象者として国は被爆者認定を行ってきた。現実は、それ以外の地域におおくの被爆者が発生していた。近年、「黒い雨」から落ちてきた放射性物質に被曝した人々の被曝問題が取り上げられているが、これまで半世紀以上も、被爆者はその事実を訴えてきた。しかし、国は被曝による病気という現実よりも、爆心地かの距離による被爆者認定基準を重視し続けてきたのである。

さらに、水俣病でも同じであった。やはりチッソ水俣工場からの距離が水俣病の認定基準となっていた。有明海の西側、天草の対岸は、水俣工場からの距離が遠いとして、水俣病を発病している被害者への認定を却下してきた。そして、認定申請は先月打ち切られた。

こうした現実、これは福島原発事故でも繰り返されることになるだろう国の対応、つまり、現実の被害者を救済することが、国民の権利を守ることが、国の役割ではなく、被害の現実にふたをし、その現実を国民全体に明らかにしない。被害は少なかったと言うことが、国民を安心させると考え、被害実態を隠ぺいし続けてきたのである。

学校は国のやり方に従っただけだった

こうした構造を思い起こせば、青森の私立高等学校で学校側がいじめにあった生徒に対して取った態度は、これまでの日本政府が戦争(原爆のみではないと思わる)や公害の被害者に取ってきた対応と同じであることに気付く。その意味で、学校側からすれば、何を世間や社会が騒ぐのだろうかと不思議な感じに襲われたかもしれない。

まったく、青森の高校だけでなく大津の中学でも、学校側が選んだ対応は、これまで国が選択した判断や行動の基準に即していただけに、彼らの方が、世の中の反応に驚いたに違いない。これが、日本の問題であると思える。学校は今まで国がやってきたやり方、被害の実態を隠す行為をしただけだった。それで、なぜ、いまさら自分たちが社会から騒がれるのか、多分、理解できない状態だろう。

実は、ここに、いじめが放置され、隠ぺいされ、対策をとれないまま、すでにこの問題が社会で取り上げられても、解決策を文科省も国も見つけられず、また、現場でも放置され続けてきた、基本的な構造が存在していると理解すべきである。

日本社会の在り方として受け止めない限り、いじめ問題の解決の道は見つけられない

いじめ問題を、いじめっ子といじめられっ子の問題にする評論家もいる。昔は、みんないじめられてきた。私も小学校のころいじめららて、強くなった。そして、こんどは私をいじめた連中をいじめ返した。そうして、弱いものをいじめることへ憤りも感じ、いじめるなと言っていじめた。

そうして昔の、良き時代のいじめ物語を、現在の子供たち、つまり、地域社会の共同体意識が崩壊し、核家族化した家族環境で成長してきた子供たちに説教することは、あまりにも、現在のいじめ問題の本質を理解していないと言えないだろうか。

真剣になって、自分の身になって、いじめをこども社会の問題でなく、日本社会全体の構造、つまり、これまで多くの被害者の人権を無視し続けてきた社会の一員として受け止めなければ、この問題を基本的に解決することはできない。

そして、いじめによって失われた命、また傷ついた人々の人生、さらには、いじめたことによって命を奪ってしまった自分を生涯抱えて生きる人々の、人間としての犠牲を無駄にしてはならない。

今後の課題

いじめの問題を「人権」に関する講義の中で取り上げながら、またソーシャルネットワーク(mixi)で、議論しながら、まとめた文章集「いじめの構造とその対応」がある。この文書を「人権学試論」の第五章にした。

その後、この課題から少し遠のいた研究活動を行ってきた。今一度、私自身、このいじめ問題に関しての議論を思い起こす必要がある。問題は何一つ解決されておらず、そればかりか、問題は深刻化しているのである。


引用、参考資料

ブログ文書集「人権学試論」目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/03/blog-post_22.html

1. 人権学とは何か
2. 暴力論
3. 人権擁護のための社会思想の課題
4. 現代社会の人権問題
5. いじめの構造とその対応
6. 人権問題としての「罪と罰」


5. いじめの構造とその対応
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/03/blog-post_22.html

5-1、いじめないこころを育てる教育(1) -暴力の理解-

5-2、いじめないこころを育てる教育は可能か(2)-人間教育教材としての「いじめ」-

5-3、こどものいじめと人権教育の課題

5-4、いじめを生み出す文化的構造

5-5、いじめるという行為 -「いじめない」ことの困難さ-

5-6、人権を守り維持する力・権力と文化


2012年8月15日 誤字修正
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2011年11月2日水曜日

PBL教育を日本の大学に普及させよう(「PBL教育フォーラム2011」に参加して2 )

参画型授業の開発(2)


三石博行



社会の教育力を活用して成立するPBL教育

同志社大学PBL推進支援センターが主催して2011年10月22日に同志社大学新町キャンパスで開かれた「PBL教育フォーラム2011」で配布されたフォーラムのプログラム(予定項目)の副題に「学生のヤル気を引き出すPBL ‐実践的な学習をサポートする支援としかけ‐」と記されているようにPBLの教育目的は学生の学習意欲を引き出すことである。

学習意欲とは学習課題への関心であり、その課題を探究したいという要求である。まず、この課題への関心は、無理に作ることは出来ない。学びを強制されて、また卒業要件を満たすための手段として受講している科目に対して、始めから積極的な学習意欲を感じる訳がないのは当然である。PBL教育は学生が企画し運営する授業である。そのため、学習意欲を持つことが、この教育の成立条件の必要十分条件となっている。

しかし、PBL教育の第一の難関は、まさにこの課題となる。積極的な学習姿勢を予め学生に要求することは困難である。その姿勢が無ければしかし、PBL教育は成立しない。PBL教育が成立しなければ「主体性をもって学ぶ」姿勢を教育することは出来ない。学ぶ姿勢はPBL教育の目標であり、その成立条件である。つまり、どのようにしてPBL教育を成立させるのかが、実は、多くの大学がPBL教育を導入するにあたって抱え込んでいる問題の一つであると言える。

今回の「PBL教育フォーラム2011」に参加した大半の大学のPBL教育に共通している点は企業活動、大学教育改善活動、国際支援活動を課題にし、そこで問題となっている課題の解決をプロジェクト科目のテーマにしていたことであった。学生は、直接、現実の問題を触れ、そこで問われている課題を受け止め、その解決を巡ってプロジェクト科目の授業が始まる。つまり、問題提起者としてこれらのPBL教育が活用したのは社会の教育力であった。社会には解決しなければならない問題は山のようにある。その現実を知らせる。そしてその現実を受け止めることからプロジェクト科目が始まるのである。

アメリカの医学教育に導入されているPBL教育でも、まず学生は大学付属病院の臨床の現場で患者さんの治療を考えることから始まる。そして日本では看護学部に導入されているPBL教育も看護現場の問題を受け取る形で学習プロジェクトが始まる。つまり、PBL教育で必要な問題提起者はつねに現実の社会であると言える。換言すると、社会の教育力を大学教育のシステムに導入することが出来ない限りPBL教育は困難であるとも言える。


悩みぬく力を身に付けた

「PBL教育フォーラム2011」の第2部「学生による取組発表」で、早稲田大学プロフェッショナル・ワークショップのグループは「2011年KUMON×早稲田プロフェッショナル・ワークショップ」のについて発表した。明治大学商学部特別テーマ実践授業のグループは「グッド・イノベーション講座 ~新聞のプロモーション~」の成果について報告した。広島経済大学興動館教育プログラムのグループは「インドネシア国際貢献プロジェクト ~インドネシアの復興を目指して~」について国際支援活動の経験を報告した。甲南大学 CUBEプロジェクト科目のグループは「‐MyKONAN改善プロジェクト 学生が欲しい学内ポータルサイトの企画」について発表した。そして最後に同志社大学プロジェクト科目のグループは「京都の織物文化活性化計画!~織物の伝統技術について考えよう~」を発表した。

そのすべてのPBL教育プログラムが企業、自治体、NGO、地域社会、大学で働く人々の参加によって運営され、それらの現場や職場の課題解決をテーマにしていた。学生は協力してくれた会社、学校法人やNGOに解決策を提案し、それらの提案が受け入れられ、実際に活用されているケースもあった。つまり、学生は学ぶ立場でなく、問題解決に参画する立場を自覚していた。そこで与えられた責任を全うするために努力していた。

第3部のパネルディスカッション「学生と共に考える学習環境」の中で、学生の発言したことは、多くの参加者にとって貴重な意見であり、そこから多くのことを学ぶことができたと思えた。PBL教育プログラム(プロジェクト科目)に協力した企業の人々から学んだことや実際の社会統計作業に必要な社会統計の学習を専門の教員から受講したこと等々の経験、成果や反省点を述べた。そのすべてをここで紹介することはできないがどの発言や提案も素晴らしいものであった。発言の中には、大学へのPBL教育のための体制や施設充実の要求、PBL教育を担う教員への要求、その一つひとつが教える側には身にしみる内容であった。真剣に学習に取り組できた学生の意見だけにそれらの発言には迫力があった。そして、何よりもそれれの提案には説得力があった。

ディスカッションの中で、パネラーの甲南大学マネジメント創造学部3年生の川井健太さんの「このPBLを通じて、悩みぬく力を身に付けることができた」という発言は、このPBL教育の成果の大きな一つであると感激した。学ぶ姿勢、いやもっと問題を解決するために、それと格闘し続けるために、問題を持続して受け止め続ける力、悩みぬく力が必要であと知った。そしてその力を付けることを課題にした。これがPBL教育の成果なのだ。これ以上の教育は日本の大学学部教育にはないだろうと思う。


問われた大学と教員(私)

このフォーラムに参加して、素晴らしい教育成果(学生)に出会い、そして、彼ら彼女らの姿勢や発言から真剣に問われていることは、学生の学ぶ姿勢を問いかけたPBL教育の成果として、教える側、大学、教育環境と教職員の教育力の質を問いかけており、現在の高等教育の在り方や教育者としての大学教員の問題の解決なくしてはPBL教育を普及することは出来ないことに気付かされるのである。

今後、同志社大学で開催された「PBL教育フォーラム2011」のように、PBL教育を参画した学生が主役となるフォーラムを続ける必要がある。各大学で、各大学コンソーシアムで、各地域、関西で、そして全国で、多くの大学にPBL教育を普及する活動を行い続けなければならないと思う。

PBL教育の普及によって、学ぶ姿勢を身に付けた学生から教員や大学に対して、真剣に、そして切実に大学教育改革の具体的な問題が提起され、我々(大学教職員)は、正に彼らと(学生たちとともに)その問題解決のための研究をしなければならいだろう。つまり、我々は学生と同じ立場でPBL教育に関わり、我々、大学の教職員がこのPBLの参加者となり、教える側でなく、共に学習する仲間の一人として、そのプロジェクト科目を参画する(PBL教育活動を行う)中で、我々(教職員)自体が成長する機会を得ることができると確信できた。その確信こそ、PBL教育を普及する力になるだろう。そのためにはまず、始めなければならない。そして、PBL教育を模索検討している仲間(学生、社会の協力者、大学教職員)と協働して、相互の経験を語り合わなければならない。


参考資料

1、2011年10月22日に同志社大学新町キャンパスで開かれた「PBL教育フォーラム2011」2009年度の文部科学省大学教育・学生支援推進事業「プロジェクト・リテラシーと新しい教養教育 -課題要求能力を育成するPBL教育の方法論的整備‐」の研究成果の発表の場として提供された。

2、三石博行 同志社大学「PBL教育フォーラム2011」参加して
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/11/pbl2011.html

同志社大学PBL推進支援センター 
http://www.doshisha.ac.jp/academics/institute/ppsc/suishin.php


三石博行 河村能夫
「最先端医学教育 UCSFのJMB(Joint Medical Program)・複数専門知識修得の意味 」 
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/ucsfjmbjoint-medical-program.html

A

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ブログ文書集

1、ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_3562.html

2、ブログ文書集「東日本大震災の復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html

3、ブログ文書集「日本の政治改革への提言」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_9428.html

4、ブログ文書集「21世紀日本社会のための大学教育改革の提案」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_6795.html


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2011年11月4日 誤字と文書表現の修正

同志社大学「PBL教育フォーラム2011」参加して

参画型授業の開発(1)


三石博行



PBL(Problem Based Learning )教育の必要性

2011年10月22日、同志社大学の新町キャンパスで同志社大学PBL推進支援センター(山田和人センター長)の主催、株式会社SIGELの共催で、「PBL教育フォーラム2011」が開催された。このフォーラムの参加定員は300名であった。私はこのフォーラムに関する情報を河村能夫龍谷大学経済学部教授や高等教育研究会事務局の佐々江さんから教えてもらって、開催日前の19日になって慌てて参加登録をお願いし、何とか参加することが出来た。

PBL教育に関しては、以前から非常に興味を持ち、河村能夫龍谷大学教授とUCSF(カルフォルニア大学サンフランシスコ校)のM.Kevin教授(不幸にして8月に交通事故で他界された)を龍谷大学の教育開発研究センターの協力を得て、2回龍谷大学に招待し講演会を開催したことがあった。

PBL教育は世界中の大学で課題となっている。何故なら、大学は高度に発達してゆく知識社会を担う人々を育てなければならない。自ら学ぶ力、つまり学ぶ姿勢を持つ人材教育が大学教育の重要な柱となっている。そして、参画型授業の一つとしてPBLが開発されてきた。しかし、PBL教育は日本の大学教育では十分に普及している訳ではない。

早稲田大学や同志社大学のようにいち早くPBL教育を大学教育制度改革に取り入れようとしている大学がある。そして、今回、同志社大学で開かれた「PBL教育フォーラム2011」はこれまでのPBL教育成果を報告した始めての試みであったと言える。


同志社大学PBL教育、社会連携型PBL教育方法によるプロジェクト科目

同志社大学ではPBL教育の土台となるプロジェクト科目を2006年に全学共通教養教育科目に設置した。このプロジェクト科目はPBL教育をベースにした学生主体の社会連携型のチームで行われた。このPBL教育方法でのプロジェクト科目は2006年度の現代GP(文部科学省による大学教育支援プログラムの一つで「現代的教育ニーズ取組支援プログラム」)にも採択され、2008度末までPBLをめぐるシンポジウムや報告書、調査訪問、PBL研究会の活動等を同志社大学は行ってきた。

2006年からのPBL教育方法でのプロジェクト科目の試みは、2009年度「プロジェクト・リテラシーと新しい教養教育~課題探求能力を育成するPBL教育の方法論的整備~」として展開され、その斬新的教育プログラムは評価されGPに採択されました。2006年度のGP採択は学生主体の社会連携型のチームを課題にしたプロジェクト科目による地域連携教育であったのに対して、2009年度GP採択は、教養教育PBL(プロジェクト科目)が目指すプロジェクト・リテラシーの育成が評価の対象となった。

こうした社会連携型、つまり社会の教育力を大学に取り入れるPBL教育でのプロジェクト科目や、全学部対象の教養教育PBL 推進を進める中で同志社大学では共通教育センターに所属したPBL推進支援センターが2008年11月に発足したのである。


同志社大学PBL教育推進支援センターの活動と教育思想

同志社大学のPBL教育推進支援センターが主催した2011年10月22日の「PBL教育フォーラム2011」で、同センター長の山田和人教授が挨拶を行った。山田教授は「PBL教育フォーラム2011」の主人公は学生であると述べた。この「PBL教育フォーラム2011」はPBL教育を実現した学生たちが中心となって、PBL教育をサポートした企業関係者、大学職員や教員と共に、その経験を交流する会であること、また、フォーラムでの発表を通じて、学生が自らの成果を確認し、さらには、他の大学でのPBL教育を実践した学生たちの発表を聴き、その成果や反省と自らのそれとを比較検討しながら、今後の学習に活かして欲しいと山田和人教授は話した。

そして「PBL教育フォーラム2011」で発表し討論する学生の姿(姿勢)を通じて、PBL教育の成果を理解することが出来ると、山田教授は参加者(企業関係者、大学職員、教員)に述べた。このPBL教育を実現するために、協力した企業の関係者、大学職員も今回のフォーラムに多数参加していた。このフォーラムがPBL教育プログラム(プロジェクト科目)に参画した学生たちが参加していることと同様に、PBL教育を支援した企業関係者や大学職員が多数参加している点も、これまでの大学でのフォーラムとは異なっていた。


山田和人教授の挨拶(YouTubeで公開)
http://youtu.be/8av13DzsUTA





PBL教育には、明らかにこれまでの教師の立場から観た教育スキル論である大学教授法と異なる視点や思想が求められていた。そのことを山田和人教授は「このフォーラムは学生さんが主役です」と述べた。つまり、学ぶ姿勢を身に付けるためには、学生が自ら、学ぶ場の主体となり(学生による授業企画や運営)、学生のための授業内容が検討され(学生が授業進行段階で授業評価を行う)、学生によってその成果が評価される(参画した学生の主観的な満足度や充実観が評価の大切な基準となる)。

つまり、PBL教育を推進するためには、大学が、教員や職員が自らを変えなければならないことが問われているようだ。


PBL教育の成果としての学生の姿

フォーラムは3つの課題(三部)に分けられて構成されていた。第一部では、アップル・ジャパン株式会社の益田玲子さんの「社会で求められている実力とは Why PBL?」と題する基調報告が行われた。 益田玲子さんはアップル社がその創設期から教育という課題を常に追求してきたことや、現在でも教育へ貢献する企業戦略を持ち続けていることを述べた。

第二部はPBL教育を経験した学生たちの発表で、早稲田大学、明治大学、甲南大学、広島経済大学と同志社大学のPBL教育を担当した教員とそれを企画した学生たちが発表した。殆どの大学の発表者は一回生から4回生までの学生たちで、学年を越え学部を越えてプロジェクト科目に参加しPBL授業を運営していた。それらのすべての発表はどれも素晴らしいものであった。ここまで、学生が成長するのだと、参加した我々は痛感したと思う。

しかし、これらの学生の成長を痛感させてくれたのは第三部のパネルディスカッキョンの時だった。全く、予行練習もなく、発表した5つの大学から一人づつパネラーが壇上に上がり、ディスカッションの司会役の山田教授が「このパネルディスカッションは学生によって運営されるため、私(山田教授)は司会といっても、ディスカッションの中には入らない」と最初に述べた。一体、このパネルディスカッションのどうなるのだろうかと参加した多くの人々は思っただろう。しかし、パネラーの中から早稲田大学教育学部3回生の池ヶ谷英里さんが自然と司会者役を担い、他の4つの大学のパネラー達の発言を誘導し、ディスカションの進行を務めた。

この彼女のみごとな司会ぶり(みごとなパネルディスカッションのリード)に、参加した我々から一種の驚きや最高の評価としての「笑い」が生じた。そして、会場は活気づいていった。参加したパネラーは堂々と自分たちのグループで議題になったことや、自分の意見を述べた。

まさに、この学生たちこそがPBL教育の成果である(フォーラムの挨拶で山田和人教授が冒頭に述べとことば)のだと深く感じ入ったのであった。


参考資料

GP(大学教育の充実 –Good Practice)
文部科学省ホームページ(http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/kaikaku/gp.htm)
「文部科学省では、国公私立大学を通じて、教育の質向上に向けた大学教育改革の取組を選定し、財政的なサポートや幅広い情報提供を行い、各大学などでの教育改革の取組を促進するため、「特色ある大学教育支援プログラム(特色GP)」、「現代的教育ニーズ取組支援プログラム(現代GP)」及び「質の高い大学教育推進プログラム(教育GP)」を実施しています。
 平成21年度からは「大学教育・学生支援事業」のテーマA「大学教育推進プログラム」において大学教育改革の取組を推進しています。」

文部科学省大学教育・学生支援推進事業【テーマA】大学教育推進プログラムシンポジウム
2009年度「未来を切り拓くPBL-「教育」の壁を越えて-」
同志社大学PBL推進支援センターホームページ
http://www.doshisha.ac.jp/academics/activity/sympo100220.php

同志社大学PBL推進支援センター 
http://www.doshisha.ac.jp/academics/institute/ppsc/suishin.php


三石博行 河村能夫
「最先端医学教育 UCSFのJMB(Joint Medical Program)・複数専門知識修得の意味 」 
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/ucsfjmbjoint-medical-program.html


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ブログ文書集

1、ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_3562.html

2、ブログ文書集「東日本大震災の復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html

3、ブログ文書集「日本の政治改革への提言」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_9428.html

4、ブログ文書集「21世紀日本社会のための大学教育改革の提案」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_6795.html


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2011年11月4日 誤字修正

2011年11月1日火曜日

大学教育改革の課題としての「知識、スキルと学ぶ姿勢」の教育方法の開発

科学技術文明社会での大学改革の課題(5)


三石博行


スキル教育が重視される社会的背景

日本の大学教育で、15年程前から、「知識、スキルと学ぶ姿勢」という三つの教育課題が取り上げられるようになった。知識の向上は以前からある課題である。しかし、スキルの向上や学ぶ姿勢に関しては、新しい教育課題である。こうした大学教育に投げかけられた新しい教育課題は日本の社会や時代的背景から生じている。そのため、この三つの教育課題を展開するためには、大学内の教育改革のみでは不可能な問題を投げかれられている。スキルの向上と学ぶ姿勢を課題にするようになった日本の大学(世界の大学も)の時代や社会的背景を一通り理解して置く必要がある。

例えば、急速に進む情報化社会に対応するため、大学では情報処理教育(スキル教育)が1990年代から教養教育の中に取りいれられ、教育環境の情報化が進んだ。スキル教育の向上はこの時代的ニーズを背景としている。スキル教育は、現在、大学教育の社会貢献を問われる重要な要素となろうとしている。

つまり、伝統的に日本の企業は企業内教育制度が充実していた。学生は卒業後、就職して企業活動に必要なスキルを、企業内教育によって学んでいた。しかし、次第に日本の企業が終身雇用制度を廃止し、即戦力のある労働力を市場に求めるようになることで、実務作業の基礎的スキルを持つ人材を採用するようになってきた。

就職のために学生が実務作業の基礎的スキル資格を取るのは、企業がその資格を重視しているからであった。そのため大学では、スキル教育を重視しなければならなくなった。勿論、そればかりでなく、情報処理機能を活用する大学教育にとっても学生のスキル教育(情報処理能力の開発)は重要な課題であることは言うまでもないだろう。


学ぶ姿勢を教育するという課題の社会的背景

さらに、「学ぶ姿勢」については、大学教育の基本的な課題の変換がその背景にあることを理解しなければならない。少なくとも1960年代までの古い大学教育のイメージをもっている教員にとって、学ぶ姿勢を教えることは大学教育の課題ではないと思っているだろう。何故なら、大学とは学生が自分で学ぶことを前提にして教育が成り立っていると信じているからである。この考え方は、今や古い大学のイメージとなろうとしている。

急激なスピードで大衆化した大学・大学教育が「学ぶ姿勢」を教育課題にしなければならない背景にある。大学教育の大衆化の背景にはこれまた急激なスピードで進む科学技術文明社会(知識社会)が背景にある。1950年代や1960年代中期までは大学進学者の割合は10%台であった。その時代、大学生は知識人であり、大卒はエリートに属していた。

しかし、1970年代以後、大学進学率は増えはじめた。そして、1990年代になると同世代の半分以上の若者が高校卒業以後、大学、短大や専門学校に進学している。現在では、その殆どが何らかの高等教育を受けている。高度な科学技術の知識が生産現場で必要となり、それなしに機能しなくなった社会では、基礎教育の底上げが必須であり、そのため、大学教育が大衆化することになる。もはや、大学を卒業した人はエリートコースの入り口にいるのでなく、社会一般の仕事の基礎的知識を持つと判断された集団となっている。

大衆化した大学には、学力のみでなく、主体的に学習するという学び方を知らない若者も多くいることは避けられないのである。これらの若者を古い大学教育のように、試験で振い落し、留年させ、最後はそれの学生が中退していくことを学生の自己責任であると言うことが、社会から求められている大学の教育機能(高等教育の大衆化を行う役割)を満たしていないことになる。その意味で、古いエリート教育主義を貫くことで、大学の社会貢献度は低下することになる。

そして、大学で「学ぶ姿勢を教えること」が深刻な教育課題になるのである。だが、学ぶ姿勢を教えるということは殆どの大学教員にとって苦手な課題の一つである。何故なら、教員採用時に、研究成果に関する評価のみが重視されているため、教授法は教育学に関する知識はそれが専門でない限り、殆ど持ち合わせていないのが現実だろう。

もし、現在の大学教育で「知識、スキルと学ぶ姿勢」を真剣に課題にするなら、この問題を解決する方法を提案しなければならないだろう。そうでない限り、大学教育改革が進むことはない。


「学ぶ姿勢」の教育に必要なこと

伝統的に卒業研究は大学の学部教育の最も大切な教育であった。そのため、学部では1年次で、教養教育の殆どを終了し、2年次と2年次に掛けて専門基礎教育がなされた。4年次は殆ど授業はなく、学生は卒業研究に没頭することが出来た。

この時代では、大学教育が学ぶ姿勢を課題にする必要はなかった。何故なら、1年間掛けてその殆どの時間を研究室に所属し卒業研究を行うことで、学ぶ姿勢は自ずと身についていた。卒業研究を重視する理工系学部では学ぶ姿勢の教育は卒業研究時に十分可能であると言えるだろう。

しかし、多くの大学が教養教育を4年間の猶予をもって終えるようにしている。つまり、現在の学部教育は教養教育化しているのである。仮に専門科目を履修したとしても、専門基礎教育のレベルであると評価されている。そのため、卒業研究に一年間掛けて、しかも、他の科目の履修を殆ど行わない条件で卒業論文に時間を割くことは出来くなってきた。

そればかりではない、卒業研究を必修としていない学部もある。また、卒業研究までの学部教育の段階が必修科目として配置されていない場合もある。一年次の基礎ゼミ(前期と後期)、二年にゼミ1(前期)とゼミ2(後期)、そして2年次に専攻分野別に行うゼミ3(前期と後期)等々。卒業論文を書くための基礎的知識やスキルを習得する段階を十分配慮し配置していない場合には、卒業研究は不可能である。

つまり、学ぶ姿勢の教育は講義式の教育でなく、参画型教育でなければ不可能である。その意味で、卒業研究のレベルに目標を与え、それを学部で一貫して教育する制度、ゼミ教育を充実しなければならないだろう。

さらに、学ぶ姿勢はインターンシップなど社会での経験で大きく成長する。主体的にかかわる姿勢を育てることが学ぶ姿勢の基本である。企業での実習、ボランティアへの参加、さらにはクラブ活動なども学ぶ姿勢を育てる教育である。大学は教育環境の充実の一環として、インターンシップ、海外短期留学のサポートのみでなく、ボランティア活動やクラブ活動の部室や大学の支援体制を作る必要があるだろう。

その時、大学が社会の力を教育資源として活用することが出来れば、さらに豊かな「学ぶ姿勢を教える」大学教育が可能になると思われる。


参考資料

ブログ文書集「21世紀日本社会のための大学教育改革の提案」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_6795.html



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ブログ文書集

1、ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_3562.html

2、ブログ文書集「東日本大震災の復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html

3、ブログ文書集「日本の政治改革への提言」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_9428.html

4、ブログ文書集「21世紀日本社会のための大学教育改革の提案」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_6795.html


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2011年11月2日 誤字修正

2011年4月20日水曜日

ブログ文書集「大学教育改革論」の目次

目次

三石博行


1、21世紀日本社会のための大学教育改革

1-1、大学の大衆化と問われる大学の社会的機能
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_8052.html

1-2、現在の三つの大学教育課題
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_14.html

1-3、東アジアの高等教育拠点化は可能か
近日公開


2. 大学大衆化による多様化する入学者・先進国型大学の高等教育改革課題

2-1、大学でのリメディアル教育の原因とその課題
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_28.html

2-2、リメディアル教育とAdvanced Placement(AP)アメリカの高等教育改革から何を学ぶか
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/advanced-placementap.html

2-3、科学技術文明社会に必要な教養教育重視型大学の設置
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_1400.html


3. 教養教育重視型大学の課題

3-1、日本の大学教育の歴史的変遷と教養教育の改革
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_24.html

3-2、PBL(Problem Based Learning )法での教育・学ぶ姿勢の育成 
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post.html

3-3、専門教養教育に繋がる基礎学力教育  
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_01.html

3-4、教養教育課程を構成する三つの教育課題とその教育内容・科目群
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_3215.html


4. 科学技術文明社会での大学改革の課題

4-1、教養教育重視型大学の社会的機能と教育課題
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_03.html

4-2、知識の涵養を可能にする基礎的学力・「学ぶ姿勢」の修得
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_08.html

4-3、PBL 参画型教育法 UCSFのPBL・教育課題とJICAの地域開発プログラム
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/pbl-ucsfpbljaic.html

4-4、最先端医学教育 UCSFのJMB(Joint Medical Program)・複数専門知識修得の意味
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/ucsfjmbjoint-medical-program.html


5. 国際社会の中での大学改革の課題

5-1、大衆的な国際化社会のための大学教育の課題
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/08/1980-pblproblem-basic-learning.html

5-2、教養教育重視型大学の教育開発研究課題
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_04.html

5-3、地域社会大学コンソーシアムとしての大学間の国際交流の意味
近日公開

5-4、フランスの社会人教育(VAE)の改革
近日公開


6、危機の時代の大学経営問題

6-1、大学改革の新しい局面
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/08/jcast47.html

6-2、学校法人理事会の機能改革
近日公開

6-3、地域社会の教育機能としての運営
近日公開

6-4、地方分権と学校法人の統廃合課題
近日公開


7.科学技術社会と大学教育改革

7-1、科学技術史の視点で観る大学教育改革の課題
http://mitsuishi.blogspot.jp/2007/12/blog-post_21.html



8. フランスの大学教育改革

8-1、日本とフランスの大学教育改革の課題
http://mitsuishi.blogspot.jp/2007/12/blog-post_16.html



9. アメリカの大学居行く改革 PBL

9-1、アメリカの大学教授法を紹介したサンデル教授の「白熱教室」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/12/blog-post_08.html


むすび 21世紀社会の形成のために
近日公開


2012年4月11日 変更
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2011年3月9日水曜日

最先端医学教育 UCSFのJMB(Joint Medical Program)・複数専門知識修得の意味

科学技術文明社会での大学改革の課題(4)


河村能夫、三石博行


 前節で、CUSF(カルフォルニア大学サンフランシスコ校・医学大学院大学)では、入学者から13名ほどを選抜して、Problem Based Learning (PBL)とJoint Medical Program(JMP)を行っていることを述べた(1)。UCSFのJMPは、UC Berkeley(カルフォルニア大学バークレイ校)と共同で行う開発された教育プログラムで、UCSFのPBL受講クラスの学生は全員JMPも行うことになっている(2)。

UCSFのMJP形成の歴史

UCBのメディカルプログラムは1971年春に設立され、医療よりも幅広い健康科学と医学との共通教育プログラムとして作られた。社会と学生との両方のニーズに対応しうるように、しかも、その対応がニーズの変化に柔軟に対応できるように企画された。
最初のクラスは1972年の夏に開講されたが、このときは、UCB大学院に既に入学を許可された学生によって構成された。これらの学生は、まず2年間、UCBで前臨床的(preclinical)分野において幅広い教育を受け、その後、従来の医科大学院(Medical School)へ進学し、さらに2年間医学を学び、MD(医学博士)学位を取得することを目指すことになっていた。

しかし、当時、米国医学会の医学教育連絡委員会(LCME)と米国医科大学協会は、UCBでの前臨床的分野の2年間の単位を認めず、UCSF(Medical School)に同時に学籍登録するよう提案した。その結果、1973年にUCBとUCSFはLCMEの提案を受け入れ、同年秋にLCMEがこの共有プログラムを認証することになった。

1974年秋以降、この教育プログラム企画の為の資金が、医学教育におけるUCB-UCSF共同試験的プログラム(Joint Experimental Program)として州政府から割り当てられるようになり、それとともに、UCB-UCSFジョイントメディカルプログラムと名称が変更された。1978年春には、現在の5年間プログラムの最初の授業が実施された。つまり、学士号取得後の3年間をUCB、その後2年間をUCSFで臨床医学を学ぶという5年間プログラムとして確立されたのである。

この数年間、JMPの目的に大きな変化が見られる。第一線(primary care)の医師を育成することから、急速に変化している医療システムに対応して重要な役割を果たしうるリーダー的な医師を育成することへと変化してきている。それには、従来の狭い意味での医学教育から社会学・行動学・倫理学・医療等の分野での統合的な人間性重視の教育への転換を意味していた。

1993年には、JMPはUCSFとの合同事業として継続しながら、世間で高く評価されているUCBの公衆衛生大学院のカリキュラムの一部として認知されるまでになった。歴史的に見ても、公衆衛生大学院の履修コースは、医学生によって、医学と理学の修士レベルのカリキュラムとして活用されてきている。

しかも、このプログラムでは、公衆衛生に更に強い興味を持つ医学生に対して、健康・医科学(Health and Medical Science:HMS)分野でのMS(理学修士)に加えてMPH(公衆衛生学修士)取得の必要条件を完璧に満たすことができるように設計されている。この様にカリキュラム設計されていることは、変化しつつある医療を取り巻く環境のニーズに応えることのできる先端的医療教育を提供しようとする絶え間ない努力を反映するものである。
(河村能夫)


UCSFのUCBとのJMPの評価

MSプログラムの大きなメリットはUCBのacademic department のsenior faculty と身近に作業する機会を提供できることにある。学生は研究テーマを発展させ、推敲する際に論文アドバイザーと身近に作業し、セミナーやコースの適切なスケジュールを作成する。研究方法論についてのコースも必修となっている。

衛生・医科学分野でMSを取るための科目は、学生と学部教授陣の幅広い興味を反映し、問題解決をするために型にはまらない考え方のできる医師を育成するという目標を満たすように企画されている。学生は人間の健康や疾病の疫学的、倫理的、政策的、歴史的、人類学的そして芸術的側面を含む多様なレンズを通して疑問を探求する研究により、自分達の興味のある分野に学識を提供している。

一方的な講義を全て削除して以来、適度の改善がUSMLE(United State Medical Licensing Examination 医師免許(合衆国)国家資格試験) ぎりぎり(Board)の成績点に見られる。学生と教授陣は相互規定関係のあるカリキュラムの内容に極めて満足している。学生は、臨床経験においても非常に高い成績を維持している。JMPに関するカリキュラムの維持費は、最初の段階での開発が完了して以降は、従来の講義によるコース中心のカリキュラムにかかる費用と比較して、僅かに少ないと推定されている。

教育プログラムを構築する場合に、常に考慮するべきファクターが3つあるといわれている。第一は知識(knowledge)、第二は技術(skill)、第三は姿勢・態度(attitude)で、その頭文字を組み合わせて「KAS」という。日本の大学教育では、「K(知識)」と「S(技術)」が重視されてきた。「K(知識)」は理論、「S(技能)」は実験であったりコンピュータであったりの分析方法である。

日本の大学教育での「K(知識)」と「S(技能)」に関する教育の蓄積は多大なものがあるが、「A(姿勢)」に関してはほとんど無いといえる。JMPが教育プログラムとして注目に値するのは、教育の3要素(Knowledge, Attitude, Skills)の中でも態度(Attitude)を中軸に置いて知識(Knowledge)と技法(Skills)とを修得させる教育方法を取っていることである。JMPは、学生の主体的力量に基づいた内発的発展(endogenous development)の教育プログラムであるといえる。

この場合、プログラムを提供する側には、極めて注意深い準備と関わりが要求される。既述の通り、CICBC(Contextually Integrated Case-Based Curriculum)では、生物学的・社会学的・倫理学的な諸側面を相互に関連させながら人間の健康と疾病を総合的に理解できるように80症例が準備されている。其の症例の一つ一つに関して、学生達はチームで事例を解析しながら自ら引き出した疑問を集約し、それに基づいて調査研究し、その積重ねによって症例に関する研究報告を纏めていく。

この場合、教員の教育現場における役割にも変化が要求される。教員は学生の症例に関する研究過程で教授するのではなく、学生の研究過程を注意深くモニタリングしながら、学生の到達点を確認し、不足の部分がカバーできるような症例を次の症例研究として課する方法を取る。つまり、教員は教師(teacher)としての役割を果たすのではなく、促進者(facilitator)としての役割を果たすことになる。

このプログラムに携わった教員の一致した見解は、CIBBCによる教育効果は、通常の教育方法の場合よりも、はるかに学生の修得する知識分野も広く、その達成度も高く、現場で直面する課題に対する理解力、統合力、対応力などすべての面で優れているというものである。日本の高等教育のあり方のモデルとして考慮すべき事例である。
(河村能夫)


学際的知的生産力を支えるJMP式教育


UCSFでのJMP(Joint Medical Program)では多くの医学生は、前記した公衆衛生、人間工学、認知科学等々医学に関連する学問領域の修士課程を選択するケースが多い。しかし、原則としてJMPでの専攻分野の選択は自由であるため、中にはUC Berkeley(カルフォルニア大学バークレイ校)の文学部修士課程を選択する学生もいる。

すでに前節で述べたが、学部でのダブルメジャーによる複数専門教養教育の修得によって、「高度に分業化した社会で、専門分野の相互連携を作り出す専門家、学際的研究、横断型研究、融合型研究を専門とする人々の教育が可能になる」(3)。つまり、UCSFでのJMP教育の目的は、医学専門教育と他の分野の専門教育のダブルメジャーであるから、医学専門分野で医療や医学研究に携わる場合に、別の専門分野からの視点から医学や医療を観る力を養っている事になる。

学際的視点や、横断型知識から高度に分業化された医学専門領域をサポートすることは、当然、他分野の専門家が組織的に研究し、問題解決に当たることで可能になる。PBL式の学習方法でチームを作って問題解決に当たる学習方法を身につけることと、横断的に複数の専門分野視点から問題を理解することは、高度に進歩して行く科学技術文明社会での知的生産を担う人々が必要としている知性であると謂える。

他の専門分野との
共同研究を進めながら発展する現代の先端医学や医療分野では、医学に活用されている他の専門分野の知識が必要となる。取り分け、先端的な医学・医療研究を行うとなると、他の分野の専門教養知識のレベルでなくさらに専門的知識(修士課程レベル)が必要となることは理解出来る。その意味で、UCSFのJMPの先端医学・医療研究への貢献は期待できる。
このプログラムは将来、さらに医学領域では他の専門分野との共同研究が進み、先端医療が開発されることを前提に作られている。

また、医療は総合科学技術である。先端医療の開発は、総合的な知識、つまり理系の知識のみでなく、人間社会学的知識が必要とされる。医師として医療行政や医療政策を担当する専門家が必要となる。現在、日本では厚生労働省に勤務する医師が、こうした専門分野に携わり、医療に関する法律の作成や制度作成を担っている。医療の発展のためには、臨床医学だけでなく、公衆衛生や社会医学が進歩しなければならない。その意味で、JMPによって、社会科学系の専門分野を専攻する学生が生まれることは大切である。

科学技術文明社会は多様な専門分野が形成され、詳細に分業化された専門知識人とその人々の知的生産によって運営される。その社会を総合的に管理していく制度が行政である。医療行政を担う専門家を養成するためには、JMPによって訓練を受けた医師が必要となる。

また専門化した知的労働を社会のニーズに合わせて商品化するのが企業の役割である。その場合、生活、経営、社会文化等々の知識が必要とされるだろう。医療関係の商品開発に措いても同様である。同様に、医療、健康関連企業でも、JMPによって教育された医師が適切な指導を商品開発チームに与えることは間違いがないだろう。このように、JMP教育は将来の学際的知的生産を支えてゆくことになる。


(三石博行)




参考資料

(1)三石博行 「PBL 参画型教育法 UCSFのPBL・教育課題とJAICの地域開発プログラム ‐科学技術文明社会での大学改革の課題(3)‐」2011年3月9日
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/pbl-ucsfpbljaic.html

(2) UC Berkeley – UCSF Joint Medical Program in Wikipedia
http://en.wikipedia.org/wiki/UC_Berkeley_%E2%80%93_UCSF_Joint_Medical_Program

(3)三石博行 「知識の涵養を可能にする基礎的学力・「学ぶ姿勢」の修得 - 科学技術文明社会での大学改革の課題(2)-」2011年3月8日
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_08.html






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ブログ文書集 タイトル「大学教育改革への提案」の目次
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PBL 参画型教育法 UCSFのPBL・教育課題とJICAの地域開発プログラム

科学技術文明社会での大学改革の課題(3)


三石博行


大学・社会改革プログラムとしての参画型教育 

2008年4月と2009年4月の二回にわたり、龍谷大学高等教育開発センターは、UCSF(カルフォルニア大学サンフランシスコ校)とUCB(カルフォルニア大学バールレイ校)のマーク・ケビン教授を招待してFDサロン(講演会)を開催した(1)。


この講演会は、河村能夫教授(2)(当時、龍谷大学高等教育開発センター長)が組織したもので、司会と解説(英語)を河村能夫氏が行った。ケビン教授の2回に亘る講演と交流を通じて、アメリカの最先端の大学教育を知る機会を与得ると同時に、PBLによる参画型教育の方法は、大学教育だけでなく、社会開発の方法として有効な手段であることを理解した。

ケビン教授は、2008年4月の第一回の講演の後で、PBLはコスト安で大学医学教育を可能にするため、発展途上国でPBLを普及する予定を述べた。そして、実際、2009年からケビン教授はアフリカの大学医学部でPBL教育を指導する実践活動に入っている。

河村能夫氏も、参画型開発を地域社会開発論の実践的研究課題として、長年取り組んできた。インドネシアでのJICAプロジェクトで、1990年代後半から2000年にかけて、貧困対策を進める地域社会の取り組みを支援する参画型開発支援活動を実践し高い評価を得ている。(3)

Problem Based Learning(PBL)は学生の学ぶ姿勢を教える「参画型教育法」として注目をあびている。そして、問題解決に挑む姿勢(参画型の教育の目標)は、そのまま、先進国が進めてきた発展途上国経済支援活動の姿勢、方法や手段となっている。経済支援を通じて課題になっていたことは、発展途上国が独自に経済社会発展の道筋を作り出すために必要な支援活動の方法とその支援技術であった。つまり、参画型開発援助は、支援目的を支援される側が独自に持続可能な開発事業を展開する方法と姿勢を学ぶ機会として位置付けているのである。

この参画型支援の課題は長年検討され続けてきた。先進国の政府が行った1970年代の発展途上国の開発支援の効率の低さを批判的に検証し、1980年代に入るとヨーロッパの国々ではODA型の開発援助からNGO型の開発援助へと支援のあり方を変えた。そして、日本ではJICAのプロジェクトの中で、参画型開発支援方法が検討されてきた。この参画型の社会開発支援がすべての発展途上国の支援方法となっている訳ではないが、支援の経済的効率を高める目的を果たすために、参画型開発援助が提案され、実行されてきた。

河村能夫氏は、長年携わってきたJICAのプログラムから「学ぶ姿勢を教える」PBL方式の教育法を大学教育改革に取り入れてきた。片方、ケビン氏は医学教育改革の成果、UCSF方式PBL法を発展途上国の医学教育に取り入れようとしている。つまり、開発社会学の研究からたどり着いた参画型開発と医学教育改革が辿り着いたPBL方式、二つの異なるフィールドで展開した参画型行動のための知的生産の技術が共通した教育法・社会組織法に辿り着いたのである。非常に興味深いのは、二つの異なる課題から共通した方法が提案され、その二つの方向が融合したことである。

つまり、大学でのPBL方式授業の開発や参画型社会開発による先進国の経済社会援助に共通する課題は、知識を恒常的に学び続けなければならない社会に我々が存在することを意味するのである。現代の社会にとって最も大切な知的生産の技術とは「学び続ける姿勢」であることを物語っているのではないだろうか。

 
医学教育改革の背景にある先端医療の進歩

CUSF(カルフォルニア大学サンフランシスコ校・医学大学院大学)では、入学者から13名ほどを選抜して、Problem Based Learning (PBL)(4)とJoint Medical Program(JMP)(5)を行っている。このUCSFのProblem Based Learning(PBL)では学生がすべての授業を運営し、それを教員はサポートする。また、PBLを受ける学生は、必ずJMPも行う。このJMPとは、UC Berkeley(カルフォルニア大学バークレイ校)とUCSFが共同で行う教育プログラムで、UCSFの医学生がUCBの修士課程を修得するために作られたものである。


アメリカではPBLによる教育が一般化している。多くの大学がPBL方式の授業を行っている。ハーバード大学医学部が医学教育は有名である。UCSF は、さらにハーバード方式を改善し、医学生が他の専門教育分野での修学を可能にしたJoint Medical Program(JMP)、つまり修士課程のダブルメジャーを可能にする教育プログラムをPBLに組合させ高度な医学教育を行っている。

今日の医学教育では、先端科学技術を駆使した医療技術や新しい治療法の開発が過去に例を見ないスピードで進行している。先端医学研究を取り入れて進む医療現場では、基礎医学知識を理解した臨床医学研究が求められる。つまり、基礎医学知識が無ければ新しい臨床医学を取り入れることが不可能となっている。

こうした先端医学研究開発の流れに対して、大学での医学教育の改革が求められている。つまり、伝統的な医学教育では、基礎医学科目教育と臨床医学科目教育は相互に関連していなかった。その理由は、医学が医術という臨床医学の伝統的な流れと、基礎医学、特に生理学や医化学は寧ろ理学研究分野の流れが別々に存在し、臨床への活用を一次的課題としない基礎医学研究がされていた歴史がある。そのため、基礎医学研究に進む医者は臨床とは無縁となる。また、臨床医学を行う医者は基礎医学への興味は薄くなる傾向があった。

今日の医学教育では、基礎医学と臨床医学の一環教育が求められている。その条件として、基礎医学分野と臨床医学分野の教員研究者が先端医療開発に関して理解していることが前提となる。つまり、臨床医学の側では臨床開発に必要な医学基礎知識の修得と、基礎医学の側では先端医療開発のための医学基礎研究の視点の臨床と基礎の相互補完関係が必要となっている。即ち、アメリカの大学医学部での教育改革、ハーバードやCUSFのPBL方式での医学教育の導入は、基礎医学と臨床医学の共同研究体制を前提にしながら可能になった教育改革であると理解出来る。


問題解決のための方法、姿勢を身に付ける教育・PBL教育の目的

UCSFでのPBLは、専門教育過程の教育がPBL方式で行われている。基礎医学と臨床医学の全ての医学分野を80に分類し、その全ての課題をPBLで行っている。一つの課題授業に関して2週間の期間を設け、4年間の授業が行われる。


簡単にその授業のやり方を説明する。まず、患者と接する。その患者の治療を巡って授業課題が決定される。その授業課題の最初の授業で、PBL方式で学ぶ学生たちは大学付属病院で患者に接する。そして、治療を行うために必要な知識について話し合う。チームで必要な知識を探す。チームの一人ひとりが必要な知識の収集を担当する。

例えば、医学以外にも、必要があれば社会医学的、心理学的、社会学的課題に亘って知識を集める。チームでそれらの知識を持ち寄って学習会を繰り返す。それぞれの担当者は、患者の治療に必要な知識を他のメンバーが学習できるように教材を作成する。その教材はネットワーク上に作られているPBLチームの共同サイトに投稿し合い、他のメンバーに配布することが出来る。そして、これらの教材を活用しながら学習活動を進める。

PBL学習チームでは、最初の授業で示された患者の治療に必要な知識を収集し、まとめ、学習し合い、すべてのメンバーの持ち寄った知識を総合的に理解し、検討し、患者の治療を計画する。例えば、先端科学技術を使った臨床検査が必要なら、その機器に関する物理学的、工学的、情報科学的な知識についても調べなければならない。

また、遺伝子工学や分子免疫学に基づく治療が必要なら、分子生物学や免疫遺伝学の知識を学ばなければならない。さらに、ホームレスのHIV(エイズ)の治療が問題になれば、医学的知識だけでなく、患者の社会学的背景、心理的問題、倫理学的な諸側面も治療と関係することになる。

つまり、チームでは治療に必要となる知識について学ぶ。学ぶ作業を問題解決の方法として位置付け、問題解決のために学ぶためのプログラムを作る姿勢と能力を身に付ける。これがPBL方式の最終的な教育目的となる。

 
PBL式知的生産の技術

高度に進歩し続ける社会、先進国や発展途上国の社会経済の様相を急激に変貌させようとしている科学技術文明社会の中で、求められている生産者の能力や仕事への姿勢は、問題解決力のある知性であり、そのためにつねに学び続ける姿勢である。つまり、その姿勢を身につけることが、今の社会が最も力を注ぐべき教育課題となる。つまり、「学ぶ姿勢を身につける方法」が、現代社会の知的生産の技術の中で最も重要な課題の一つとなっている


学ぶ姿勢は自律的な学習姿勢であり、学びたいと思う内発的な学習要求によって形成される。この教育方法の開発は、受身の学習方法から能動的な学習スタイルを目指すものである。これまで、この学習方法を研究し、特に大学コンソーシアム京都では、長年PBL法による教育研究開発が取り組まれてきた。「フィールド調査や企画立案実習を通して京都地域に貢献する科目」としてPBL科目を提供している(6)。また、京都では山田和人教授を中心とした同志社大学のPBL推進支援センターの活動も報告されている(7)。

学ぶ姿勢を身につける教育は、教える側が教えられる側について理解することが前提となる。この教授法の開発は、教える技術だけではなく、学習過程の心理学や認知科学的な研究、さらには学ぶ意欲に関する研究も必要となる。そして何より、学生や社会人が潜在的に持っている「学びたい」という気持ちを引き出す教師の教育者のこころが問題になるだろう。

その意味で、PBL式知的生産の技術に関する教育研究開発課題は、これまでの教育学の伝統的な方法論や学問の変革を前提にして展開される可能性がある。そして、この教育法の開発が、教養教育重視型大学の教育開発研究所の重要な課題の一つになることは言うまでもないだろう。


参考資料

(1)龍谷大学教育開発研究センター主催 河村能夫教授の司会及びKevin教授との共同討論による「KEVIN .A. MACK 先生(カリフォルニア大学 サンフランシスコ校 教授)2007-第2回
「Leveraging Inquiry into Knowledge-Where's my syllabus? 」
http://www.ryukoku.ac.jp/faculty/fd/salon/sa_2007.html#02

(2)河村能夫 龍谷大学教授 アメリカ コーネル大学社会学博士(Ph.D.)
http://kawamuraoffice.web.fc2.com/profilejp.html
http://www.ryukoku.ac.jp/who/detail/691682/

(3)龍谷大学 JICA課題解決促進型集団研修コース
http://www.ryukoku.ac.jp/src/report/
http://www.ryukoku.ac.jp/about/pr/publications/68/09_hotangle02/index.htm

(4)UCSF helps Problem Based Learning (PBL) in Vietnam Medical Schools
http://vmgus.org/forum/index.php?topic=109.0

(5) UC Berkeley – UCSF Joint Medical Program in Wikipedia
http://en.wikipedia.org/wiki/UC_Berkeley_%E2%80%93_UCSF_Joint_Medical_Program

(6)2011年度 京(みやこ)カレッジ 京都力養成コース
http://www.consortium.or.jp/cmsfiles/contents/0000001/1704/youkou.pdf

(7)『未来を切り開くPBL 「教育」の壁を越えて シンポジューム・レポート 2010.2.20(土)』
http://www.doshisha.ac.jp/academics/institute/ppsc/pdf/ppsc_100220sympo.pdf




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ブログ文書集 タイトル「大学教育改革への提案」の目次
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修正 (誤字) 2011年3月9日






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2011年3月8日火曜日

知識の涵養を可能にする基礎的学力・「学ぶ姿勢」の修得

科学技術文明社会での大学改革の課題(2)


三石博行



大衆化する高等教育の課題

すでに前節で述べたように、科学技術文明社会では、第四次産業(研究開発産業)が社会経済生産機能を牽引し、高度に発達した知識社会によって発展し続ける。教育は、この社会では最も需要な社会的活動となり、教育機関はその機能を果たすことを要請される。この社会では、これまでと異なる高等教育の課題が発生することになる。つまり、その四つの課題を以下に示す。

1、 高度な専門的知識を理解し展開できる専門基礎学力が求められる。

2、 高度に分業化した知識社会の全体を理解する横断型(理系・社会系・文系の領域を超えた)幅広い知識が求められる。

3、 具体的な問題解決力を発揮する知性が求められる。

4、 先端科学技術の知識や高度な専門知識を生産する社会構造を幅広く支える国民の知的教養レベルが必要となる。

結論から述べると、この四つの課題を高等教育課程で実現するためには、長期的な学習期間が必要となる。つまり、これからの社会では学習期間が延びることになる。

現実に、現在では殆ど100%の中学生が高等学校に進学し、2010年度から公立高校授業料の無料化が実施されている。今後、教育準備期間はさらに延び。100%の高校卒業生が大学に進学する時代が2020年までには来るだろう。近い将来の大学全員入学時代では、今回の高校授業料無料化と同じように国立及び公立大学の授業料無料化が行われるだろう。

長期化し続ける学習期間は、逆に、社会生産能率を下げることになる。そのため、長期化する学習期間を出来るだけ抑える教育制度や教育方法(技術)の開発は必要となる。

その課題を解決するためには、中等教育で生じる学力の個人差を是正する制度が必要となる。落ちこぼれる生徒達をいつでもどこでも救済しつづける教育制度(高校基礎学力リメデァアル制度)が無ければ、大衆化する大学教育を支えることはできない。


大衆化する大学教育を支える高大連携でのリメディアル教育とAP

大学教育の大衆化によって、人々の教育準備期間が延びる。社会生産の効率を上げるためには、教育期間を短縮し、濃厚な学習を可能にする効率の高い学習方法を開発しなければならない。そこで、専門基礎学力を早く育成するために必要な二つの課題を挙げる。

1、 専門基礎学力を身につけるための基礎学力のリメディアル教育

2、 専門基礎学力を身につける機会を与えるAP(Advanced Placement)の導入

この二つの異なる課題は捉え方と進め方によって一つの課題に纏まる。

まず、大学教育に必要な基礎学力教育である。例えば、アメリカでは大学で必要な一部の基礎学力リメディアル教育はコミュニティ・カレッジで実施されている。しかし、日本では1990年以降の大学改革で、公立短期大学は殆ど四年制大学になったため、高等教育に必要な基礎学力のリメディアル教育のために短期大学を活用できないし、また新しくアメリカのコミュニティ・カレッジに類似した公立短期大学を再び創ることも出来ない。

そこで、現在の公立高等学校にリメディアル教育を行うクラスを創り、高等学校までのリメディアル教育(高校基礎学力リメディアル教育機関・高校基礎学力補習クラス)を行うことを考えなければならない。言い換えると、基礎学力教育を支える中等教育改革が進まない限り、その上に成立している高等教育改革は進まないのである。高校で中等教育卒業までに必要な基礎学力のリメディアル教育が行われることで、大学全員入学時代の高等教育の基盤が確立する。

また、アメリカでは公立高校では移民労働者や外国人のために英語教室が夜間開かれている。日本でも、これから公立高校で外国人のための基礎日本語教育を行う必要もあるだろう。リメディアル教育のために公立高校の機能をより発展させることが必要となる。つまり、中学校レベルの基礎入門学力の補講も、高等学校のリメデァル教育機関で担うことが可能になるだろう。そのことによって、日本に移民してきた多くの外国人の日本社会への帰化を促進することが出来る。

他方、大学でも、入学した学生のリメディアル教育を行う。その方法は大学の学部教育に必要なリメディアル教育となる。それらの特徴は高校での基礎学力補講に比べてすこし専門的な基礎知識を教える教育となる。また、同時に正規の専門教養科目へのリメディアル教育を行う必要がある。

大学が準備した専門教養課目の補講(リメディアル教育)を地域の公立高校に提供することで、高校生のAPの受講が可能となる。つまり、地域の公立高校と大学が連携しながら基礎学力補講と専門基礎学力補講・AP(高校生の大学授業科目の単位取得制度)の科目提供を同時に進めることが出来る。

高校にAP制度を導入する意味についてはすでに述べたが、ある特殊な科目に興味を持つ生徒の能力を十分に発揮させることを教育制度としてサポートすることである。専門化の進む社会では、ある能力に長けた人間が必要である。その意味で、ある一つの分野であっても、その分野に興味を持ち、学習したいと思う生徒に対して好きなだけその学問的興味を満たす制度が必要である。それがAPである。

大学は専門教養力を十分に教育するための専門教養リメディアル教育を学部教育と平行して、例えば教育開発研究所(教養教育機構)が行うことも可能である。その教育は学部学生の授業終了後、つまり夕方に行うことで、高校生も参加し、APを取得することが出来るのである。

基礎学力のリメデァル教育を地域の公立高校と連携して行い、同時に大学での専門教養学力のリメディアル教育を教養教育研究機関が学部と連携し、それを地域の高校に提供することでAPと学部教養専門教育のリメディアル教育も可能になるのである。


高度な専門教育と複数専門教養教育の早期修得

アメリカのように、高校でAPの制度を使い大学授業科目単位取得を多く持っている生徒は、当然、大学受験でそれを評価されることになる。このことによって、以下に述べる高等教育の課題が可能になる。

1、 学部(専門教養教育課程)卒業を3年に短縮できる。

2、 同時に二つ以上の学部を卒業出来る。

つまり、上記した問題の中で長期化する高等教育を短期化することが可能になる。そして、このことによって、さらに二つの課題の解決が可能になる。

1、 一つ目は、学部卒業を一年早くすることで、大学院に早期入学し、高度な専門的知識の修得期間を短縮することが出来る。そのことで、高度に分化した専門分野の知的生産に参加する年齢を早めることが出来、その意味での社会的貢献を果たすことが出来る

2、 もう一つは、ダブルメジャーによって、大学四年間で二つの専門教養教育を終了することが可能になる。二つ以上の学問的知識を身に付けることによって、発展し続ける学際的研究領域の仕事を理解し展開するための基礎的知識が得られる。このことによって、高度に分業化した知識を横断的に理解する力を身に付けることが出来き、そして社会が必要とする問題解決型の学際的研究に貢献する人材育成が可能になる。

科学技術文明社会では高度に分業化した専門知識を必要としている。上記した専門教養科目のリメディアル教育制度を活用した高校生のAP制度による大学の科目単位修得によって専門教育課程を早く終了する学生が出てくる。それらの学生は、大学院での専門教育を早く受講できる。

また、他の専門教養課程の科目を受講しその専門教養課程を修得することも可能となる。二つの異なる専門教養教育を終了することによって、高度に分業化した社会で、専門分野の相互連携を作り出す専門家、学際的研究、横断型研究、融合型研究を専門とする人々の教育が可能になる。


新しい知識の涵養・内発的教育

科学技術文明社会では、先端的な研究がなされ、常に新しい知識が開発され続けられる。大学は大衆化し、殆どの人が大学を卒業し、しかも、生涯学習し続けなれれば社会進歩について行けないことになる。例えば、最近20年間の目まぐるしく進歩してきた情報処理や通信技術によって、情報化社会が形成された。世代毎の情報処理能力の格差が生まれている。

例えば、高齢者になるに従って、パソコンを操作できない、インターネットを活用できない、マルチメディア情報処理ができない、携帯電話でインターネット機能を使えない、ホームページを作れない、ブログを書けない人々が増加する。そして、これらの新しい技術に馴染めない人々は情報化社会から取り残されることになる。

新聞の紙面も、新しい科学技術用語が日常的に使われる。例えば、情報関連の用語、そして新素材関連の用語、ナノチューブ、光電効果、発光ダイオード、再生医療、es細胞、ips細胞、レアーメタル(希少金属)、レアーアース(希土類元素)等々、それらの科学技術用語と先端科学技術の理解を前提に日常的な社会生活が営まれる。それらの知識を吸収しなければならない。しかし、物理学、化学や生物学(特に分子生物学や遺伝子学)の基礎知識がない場合、理解は困難である。

科学技術の知識を持つことが、理科系の技術者ばかりでなく、営業や経営に携わる人々にも必要とされる。人間社会科学系の専門教養教育課程を卒業した人々も企業で働く以上、科学技術の知識を学ばなければならない。

例えば、先端的な分子免疫療法を行うクリニックでは、患者から電話相談を受けた受付の事務員は少なくとも、患者にクリニックを紹介するために、クリニックが行っている免疫細胞の培養技術、免疫学、医学の簡単な知識を持っていなければ仕事にならないだろう。つまり、学生時代に医学や免疫学を勉強したことが無かったとしても、その職場で働くためには免疫学の基礎的な知識とそのクリニックが行っている先端医療技術に関する知識を理解しなければ、仕事は出来ないのである。

同じように、会社で広報を担う場合、インターネットの知識、ホームページ作成の知識が必要となる。それらの新しい知識を仕事を通じて学び、そしてより専門的な情報ネットワークの知識を身につけることで、広報の仕事の質を上げることが出来るのである。そのためにはインターネットに関する基礎的な知識が必要となる。

このように知識社会では、大学での教育の基本理念は、高度な知識や技能を教えることだけでは不十分である。何故なら、それらの知識も技能も、10年も経たない内に、古くなるからだ。大学で教えた新しい知識の半減期は、益々短くなりつつある。これが科学技術文明社会の姿であり、その社会の中での大学の姿でもある。では、この社会の中で、高等教育は何を課題にすべきなのだろうか。そのことが現在の大学教育の課題である。

大学教育の三つの課題の中に、学ぶ姿勢を教える課題があった。そして、現在の大学教育では、「学ぶ姿勢を教える」教育が非常に重要になっている。何故なら、科学技術文明社会では、生涯学び続ける行為、知識を涵養するライフスタイル、つまり「学ぶ姿勢」「学ぶ方法や技能」を身につけるための訓練、教育が必要とされているのである。これを「内発的教育」「自律的教育」と呼んでいる。この内発的教育を行うために活用されている方法としてPBLがある。




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ブログ文書集 タイトル「大学教育改革への提案」の目次
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修正 (誤字) 2011年3月9日





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2011年3月4日金曜日

教養教育課程を構成する三つの教育課題とその教育内容・科目群

教養教育重視型大学の課題(3)

三石博行



「教養教育重視型大学の課題」の構成・目次

「教養教育重視型大学の課題」は以下三つのテーマで構成されている。

1、PBL(Problem Based Learning )法での教育・学ぶ姿勢の育成(2011年3月1日)(1)
2、専門教養教育に繋がる基礎学力教育(2011年3月1日)(2)
3、教養教育課程を構成する三つの教育課題とその教育内容・科目群 (今回)

前節(1)で、大学教育が掲げる三つの課題として「知識の修得」、「技能のスキルアップ」と「学ぶ姿勢」を述べた。そして、前節で、基礎ゼミから卒業研究までのPBL法に基づく学習法を導入して、「積極的に学ぶ姿勢を身につける」学習課題に取り組む教育プログラムを考えた。

さらに、基礎学力教育の二つの課題について述べた。一つは、学ぶ姿勢を身に付けるための教育としてPBL法に基づく基礎ゼミの課題を検討した。つまり、その場合、基礎ゼミから卒業研究まで「学ぶ姿勢を身に付ける」一貫した教育課題が維持されていることが望まれた。

もう一つの課題は、リメディアル教育に関するものであった。この課題は、前回の「大学大衆化による多様化する大学入学者・先進国型大学の高等教育制度改革課題」に関する三つの文書で、現代社会での大学のリメディアル教育の意味を述べた。(3)(4)(5) 特に、アメリカのリメディアル教育を支えるコミュニティ・カレッジの役割についても触れた(4)。日本の場合、リメディアル教育は大学の教養教育の課題に限定されているのであるが、その教育が秘める今後の社会的役割を理解する必要がある。

今回は、日本の現在の大学で行われている教養教育課程の具体的な教育課題や科目群について触れながら、教養教育の在り方を検討する。


三つの教養科目群

大学の教養教育では、大きく三つの課題がある。一つは、教育基礎知識の修得で、基礎学力教育やリメディアル教育はその中に分類される。もう一つは、教育教養知識の修得で、これまで大学で伝統的に行われてきた教養教育科目である。最後の一つは、語学教育である。


1、 一つ目の課題である教育基礎知識は、大きく分けて三つの課題に関する科目群からなる。一つの科目群は高校までの理科、数学等の基礎学力を修得するための科目、二つ目は日本語の読解力や表現力を身に付けるための科目群と三つ目は基礎英語力を身に付ける科目群である。これらの三つの課題に関連する科目群を構成する科目課題を以下に示す。

 基礎学力(リメディアル教育)理系(数学、物理、化学と生物学)

 読解力と表現力(日本語能力)

 基礎英語 

理系の基礎学力で重要視されている科目は数学である。理系学部では数学Ⅲまでの数学は必要とされる。その補講内容は高等学校の教科書を活用しながら十分可能になる。

理科科目に関して言えば、学部専門教養教育によって重視している分野の課題が異なる。そこで、高等学校の教科書を活用した補講を行うよりも、学部教育で必要としている知識に重点を置いて教育する場合もある。

例えば、工学部鉱物工学(資源工学)科と生活科学部食物栄養学科で化学の補講を行う場合、高校の教科書をそのまま用いるよりも学科独自の教材を作る方が専門教育を行うために役立つ。資源工学科では物理化学と無機化学に力を入れて教え、食物栄養化学科では有機化学と生物化学の知識を十分に補講することも出来る。

文系理科系を問わず英語や日本語能力は重要である。高校卒業レベルの英語能力、専門教養教育に関するテキストを読むための読解力やレポート作成を行うために必要な文書表現力を身につけなければならない。これらの基礎学力は短期間に身につけることはできない。そこで、教養教育知識の修得過程全体を通じて教育しなければならない。

2、 二つの課題、教育教養知識の修得は、現代社会文化を理解し生活していくための知識に関する科目群である。これらの科目群は、伝統的に大学が教養課程として開講してきた科目内容である。以下、社会理解、人間理解、文化理解、科学技術理解、生態環境理解、国際理解に関して考えられる科目群を以下に示す。

 現代社会理解 経済学、政治学、法学、社会学 人権

 人間理解   心理学、倫理学、哲学 

 日本文化理解 歴史学 民俗文化学 文化人類学 日本伝統文化 書道その他 東アジアの中の日本の歴史や社会文化

 科学技術理解 科学技術史、先端科学技術と産業(科学技術社会学・文化人類学)、科学技術倫理学

 環境問題理解 生態学(地球と地域)、環境技術と産業、都市生活環境

 国際理解 国際経済学、国際関係、東アジア 平和学 

教養教育として取り上げられる基礎科目は、専門科目の入門という面もある。過去の教養教育科目は、専門科目の入門書レベルであると言われてきた。どの学問分野でも共通して言えるのではないかと思われるが、専門科目の入門を教えることができる教員は、その専門科目の真髄を理解している専門家である。

例えば、哲学入門を教えるとなると、哲学を長年研究した、それこそ定年前もしくは定年後のベテラン教員が最適であると言える。それは社会学、経済学、政治学、心理学等々、人間社会科学の分野に於いても、言える一般的な見解である。

つまり、教養教育はそれぐらいレベルの高い知識をもった教員が、その専門的知識を分かりやすく、また面白く語ることによって可能になるとも言える。その意味で、教養教育を担う教員は、出来るだけ長年専門分野で研究を重ねた老練した学者が最適であるとも言えるだろう。

しかし、殆どの大学での教養教育科目は、そうした名物教授が行っていないのが現実である。例えば、一科目ぐらい有名で影響力を持つ名物先生に学生全員が受講できる講義を開講する教育プログラムを企画できないだろうか。いい講義は生涯、記憶に残る。学生にとってそれは貴重な経験となる。

私は、1970年の初めに、文学部で開催された森有正先生の「デカルトとパスカルについて」という連続講座を聴いたことがあった。そして、その講座に大きな影響を受けた。当時、私は理学部で研究をしていた。好きだった哲学の講義を受ける機会は余りなかった。丁度その頃、パリ第四大学から来られた森有正先生の講義があった。大学は大々的にその特別講義を宣伝した。私は文学部哲学科の友人と一緒に、単位に関係ないその講義を潜りで受講した。この講義は京都新聞にも記載されていた。

昨年、ハーバード大学のサンデル教授が東京大学でハーバード大学と同じ講義を見せてくれ、NHKではその講義を放送した。私を含めて全国の人々がサンデル教授の見事な講義を受けることが出来た。

このように、教養教育科目の名物講義を大学が企画し、大学全体でまた公開講座として、多くの学生や市民に受講の機会を与えることが出来る。これも、教養教育科目の一つのプログラムとして可能である。

教養教育プログラムは、多くの可能性を秘めている。それは分野を超えた深い知識とまた知的刺激を与える。その意味で、素晴らしい教養教育科目を提供することは大学教育全体への利益に繋がるのである。そして、その講義を公開することで、大学の広報としても活用できることを忘れてはならない。

以上述べたことは、その多くの可能性の一つに過ぎない。

3、三番目の教養教育の課題は語学教育である。語学教育の方法は、随分進歩し、実際の外国語でのコミュニケーションスキルを上げることを前提にして授業が行われている。

 英語、英会話

 その他外国語 フランス語、ハングル、中国語


三つの分野の技能スキルとその教育プログラム実現の課題

大学教育が掲げる三つの課題の中の一つである「技能のスキルアップ」に関する教育課題は、大きく分けて三つの分野がある。一つは情報処理能力である。もう一つは社会調査法やそのデータ分析能力である。そして三番目は、ゼミや組織を運営するコミュニケーション能力である。

1、 情報処理技能

情報処理技能は情報処理演習科目によって、基礎的な情報処理能力から、ホームページ作成などの情報通信能力、マルチメディア表現力、情報コミュニケーション能力や情報倫理などの科目群が考えられる。

2、 統計データ処理技能

社会調査や統計データ処理技能は、学部によっては専門教育課程で教育科目として提供される。特に、フィールドワーク、インターンシップなどを教育課題として提供する場合、上記した情報処理スキルを前提にした調査方法スキルや統計処理スキルを学ぶ科目群が必要となる。

3、 コミュニケーションスキル

コミュニケーションスキルとは講義形式では教えることが出来ない。この教育課題を展開するためには、前記したPBL法によるゼミでの学習訓練が必要となる。

また、その教育プログラムを実現するためには、実際に社会でコミュニケーション能力を発揮し活躍している専門家、例えば、企業の経営や営業、企画等を担当する専門家を講師として招いて経験に基づく講義を開講する必要がある。

そして、学生がゼミや部活の経験をしながら、組織運営能力、部活やゼミ運営能力、会議運営スキル、議事進行や司会能力を磨き上げる活動もこのコミュニケーションスキルの教育プログラムに組み入れるとよい。

さらに、この教育プログラムの中には、表現スキル、例えば文書表現能力や口頭発表能力についての実践的な学習プログラを入れ、多様な科目群を企画する必要がある。コミュニケーションスキル修得のための科目群は、実に、大学の教養教育の特徴を示し、魅力ある教養教育を提供できる可能性に満ちていると言える。

4、技能スキルの教育プログラム実現の課題・地域社会の知的資源の活用

以上、大まかではあるが、知的生産力の技能スキルを上げるために必要と思われる科目群を列挙した。同時に、これらの科目群を提供できる講師陣、つまり実践的に知的生産を担っている専門家を企業や自治体、シンクタンク等から招待し、授業を企画する必要があることも理解できたと思う。

さらに、企業と連携して、この知的生産の技術スキルの教育課題をインターンシップや冠講座と組んで設定することも教養教育プログラムを充実させるために必要であることも納得してもらえると思う。

豊かで深い教養教育プログラムの提供に力を入れる大学、教養教育重視型大学がもつ社会的に重要な意味は、大学内教育の充実のみでなく、地域社会と大学との連携共同による地域社会の市民の受講と教授(教育参画)への可能性を持つことである。(6)

何故なら、教養教育を充実させるためには、知的生産の技術力を持つ、企業や自治体の専門家の協力は必要であり、同時に社会で必要とする知識(実学)の基礎学力となる教養教育が必要である。

その二つの課題、社会人の教育への参画と社会人の再教育を大学の教養教育の課題にすることで、教養教育の意味が広がるのである。すでにアメリカのコミュニティ・カレッジがその一面を実現していると謂える。しかし、教養教育重視型大学の形成と発展のためには、さらにもう一つの面を補充しなければならないのである。


学ぶ姿勢を身に付ける・自主的な学習活動に対する大学の取組

すでに、PBL法を導入して基礎ゼミから卒業研究まで一貫した教育プログラムによって「学ぶ姿勢の学習」を提供する必要があることは前節までに詳しく既に述べてきた。(1)(2)そこで、ここでは、特に、大学の授業以外の課題について述べる。

大学教育の一環として、学生の部活を奨励し、また地域ボランティアへの参加を促す教育プログラムが必要である。この場合、学生が自主的に活動できる学生会館が必要である。また、部活室を与え、学生の課外活動の場を保障しなければならない。そしてそれらの場所の運営を学生の自主的な活動に委ねる。その全ての責任を学生に求めることで、学生の自主的な活動による学びの場が生まれる。

また、図書館などに学生が自主的にゼミを開催できるゼミ室を作り、学生の自主的なゼミを支援することも必要である。

そして、ボランティアでのTA(teacher assistant)制度を作り、初年度学生のリメディアル教育の支援を呼び掛ける。また、上級生がTeacher Assistantとなって、前記した図書館での自主ゼミを行い学生に大学での知的生産の基本的な技術指導を行うことを推奨する等々、TA活動による上級生の下級生指導が大学の教育環境文化となるように、大学がそれらを可能にする施設や環境を提供する必要がある。


教養教育重視型大学の形成・発展のための課題

この後の、教養教育重視型大学の課題として検討して行かなければならない課題の幾つかを以下に述べる。

1、 教育開発研究所(センター)の必要性。高等教育の質を高めるための専門的研究活動やFD活動を推進するための研究等々。

2、 教養教育に関する社会人再教育のための制度研究を行う。

3、 地域社会の知的資源を活用し大学教育を充実する。(6)つまり、地域の知識人、企業、自治体の専門家に学生教育に参加してもらうための地域・大学共同教育支援機構(仮称)を形成する。



参考資料

(1)三石博行 「PBL(Problem Based Learning )法での教育・学ぶ姿勢の育成 ‐教養教育重視型大学の課題(1)‐」 2011年3月1日
 http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post.html

(2)三石博行 「専門教養教育に繋がる基礎学力教育 ‐教養教育重視型大学の課題(2)‐」 2011年3月1日 
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_01.html


(3)三石博行 「大学でのリメディアル教育の原因とその解決課題 -大学大衆化による多様化する大学入学者・先進国型大学の高等教育制度改革課題(1)‐」 2011年2月28日
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_28.html

(4)三石博行 「リメディアル教育とAdvanced Placement(AP)アメリカの高等教育改革から何を学ぶか ‐大学大衆化による多様化する大学入学者・先進国型大学の教育制度改革課題(2)‐」2011年2月28日
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/advanced-placementap.html

(5)三石博行  「科学技術文明社会に必要な教養教育型大学の設置 ‐大学大衆化による多様化する大学入学者・先進国型大学の教育制度改革課題(3)‐」 2011年2月28日
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_1400.html

(6)三石博行 「地域社会に貢献する文化機能としての大学」『大学創造』No12、高等教育研究会 2002.11 pp54-73
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_03_01/cMITShir02c.pdf




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ブログ文書集 タイトル「大学教育改革への提案」の目次
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修正 (誤字) 2011年3月6日






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教養教育重視型大学の教育開発研究課題

発展するアジアの中での日本の大学改革の課題(1)

三石博行


終身雇用制と企業教育制度の崩壊

終身雇用制のあった日本社会では、どんな小さな会社でも、社員を教育する考え方と制度を持っていた。しかし、その制度が崩壊し、安価な労働力を得るために、派遣会社から期間限定の社員を使うようになって、余程大きな会社以外は別であるが、殆どの会社では人を育てるという考え方は消えた。

そして、働いている職員に「勉強しろよ」と言う上司もそして雇い主も居なくなった。本来、人は楽をしたい方向で行動するものである。楽をしたいので勉強をする。楽をしたいので合理的で無駄のない行動パターンを考える。楽をしたいという欲望を取り除くことはできない。そこで勉強しろという言葉も、楽をするために勉強をしなければならないことが、言われている若い人々に理解されなければ、説得力をもたないのである。

何故なら、苦しい生活を経験したことのない、そして世の中の大変さを知らない学生にとって、精々勉強の目的は、受験や資格試験策に合格する為にあるということぐらいまでが理解の範囲であるのは仕方のないことである。豊かな国になった日本の青年少年たちが、苦しい生活から抜け出すために勉強した戦前までの日本や発展途上国の若者たちの気持ちを理解するのは難しいことである。逆に言うと、豊かな国では、豊かな生活を得るために勉強が必要であると理解できないのが自然であり、当然であると言える。


発展する経済圏・アジアの中での日本の学生の未来の可能性

2000年以降は、少し事情が変化してきた。一番の原因は高度経済成長するアジアの国々の企業に日本の企業が市場を奪われ、日本の経済成長が低迷し始めたことである。会社でのリストラ、派遣社員の採用、失業、新規採用中止、そして就職できない学生が多数発生する事態にまで、その深刻さは広がり深まりつつある。

言い換えれば、豊かな国 日本は2010年で完全に終わった。そして、これからは、アジアの国々と共に経済発展を模索する国 日本に変貌することを要請されている。このことは、国民生活の視点で解釈すると、これからの日本人の所得と高所得時代の終焉と発展しつつあるアジアの国々の国民の所得格差が縮小することを意味している。つまり、20世紀後半までのように先進国の特権として日本の国民は他のアジアの国民より豊かな生活を独占することは不可能となったのである。

1950年代の日本人の所得と当時の欧米、特にアメリカとの格差が1980年代を境目にして大きく変化した歴史的な事実からも、アジアの国々と日本の国民経済の格差の縮小は予測可能であると言えるだろう。すでに、中国は日本の国内総生産(GDP)を抜いた。中国の人口は日本より約10倍であるから、現在、一人当たりの国内総生産は日本の十分の一であるが、日本人の平均収入よりも高い収入を得る人口ははるかに中国の方が多くなることは避けられない。近い将来、豊かな中国人と貧しい日本人が増えることも間違いない。

アジアの中での日本の国民経済の格差縮小と平等化の現象は、シンガポール、韓国、台湾、中国、タイ、ベトナムと次から次に起るだろう。21世紀の半ばには日本の国民経済のレベルは、周辺のアジアの国々のそれと、殆ど同じレベルになるだろう。

この意味を前向きに捉えれば、他のアジアの国々の企業の就職する可能性が広がったこと、他のアジアの国々も将来の生活圏になる可能性が出てきたことを意味している。つまり、日本の大学では、日本企業への就職斡旋や就職説明会だけでなく、アジアの優秀な企業に積極的に学生を紹介する機会が生まれ、もしくは学生支援センターの機能を発展させる要請が生じているとも謂えるのである。


発展するアジア経済の中での教養教育重視型大学の役割 

そして、今まで勉強しろよと言っても理解しなった学生や若者も、アジアという発展する国際社会の中で、自分たちの将来を考えることで、その意味を理解することが可能になるだろう。

日本の会社が、派遣で若者を使い捨てする時代を終わらせなければならない。それも、その会社が発展するアジア社会で生き残るために日本の人材を教育する必要に迫られた時、そして、アジアの有能な人々を雇用する必要に迫られたときに理解されるのだろう。

高等教育の機関である大学では、これからの社会での人材教育と理念や制度開発を、社会の人材開発会社と協力しながら研究を進めなければならない。この課題が、旧教育学部(仮称 人材開発学部)や教育開発研究センターの課題ではないだろうか。

そして、発展するアジアの優秀な企業へ学生を紹介し、またそれらの企業が必要とする人材や能力を学生に伝える役割を日本の大学は持たなければならない。その国際的なニーズにそった学生サービス機能がこれからの教養教育重視型大学の果たす役割の一つになることは言うまでもない。



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2011年3月3日木曜日

教養教育重視型大学の社会的機能と教育課題

科学技術文明社会での大学改革の課題(1)

三石博行


科学技術文明社会での高等教育改革課題

21世紀の欧米日本等の先進国の社会は科学技術文明社会の入り口に到達している。ここで述べている科学技術文明社会の特徴とは、第四次産業(研究開発産業)が社会経済の中心となり、他の産業構造と関係し、20世紀後半まで続いた工業生産中心の経済構造を大きく変換して行く社会の姿である。この社会は高度な知識をもった国民によって運営され形成される。(1)

現在、21世紀初頭の世界では、科学技術文明社会の到来とその文明に乗り遅れないために、各国は初等教育から高等教育の変革を行う必要に立たされている。これが、現在の日本ばかりでなく世界中の大学教育改革の主な路線を決定する要素となる。

そして、高度知識社会では、必然的に教育期間が延長し、小学から高校までの教育は義務教育になる。つまり、殆どすべての子供が高校を卒業し、その上、大学や専門学校へ進学する割合は年々増加する傾向にある。高度な知識を必要としている社会はより専門的な教育を受けた若者を採用する。その傾向は、年々大きくなり、さらに21世紀の前半までには、殆どの若者が22歳までの高等教育機関(大学や専門学校)を卒業する事になるだろう。

つまり、現在は18歳までの教育(高等教育)までが義務教育化使用しようとしているのだが、2050年までには22歳まのでの教育(大学教育)を殆ど全ての若者が受ける事になるだろう。この高学歴社会の傾向を止めることはできない。何故なら、科学技術文明社会の発達は高度な専門知識によって保障され、より専門的知識を持つ労働力によって企業や社会は生産力を強化することが可能になるからである。

そこには、二つの大学改革の課題が生じている。一つは、先端科学技術、社会経済政策や人間科学知識の開発研究を牽引する大学の機能で、研究開発型の大学院大学である。もう一つは、科学技術の知識が社会常識化される中で科学の大衆化を促進し国民的な高等教育を担う教養教育重視型の大学(仮称教養教育重点大学)である。(2)

高度に発展し続ける科学技術文明社会のニーズに合った国民教育を行うための大学教育の変革プログラムを前提にしなければ、日本の大学は国内の競争ばかりでなく、国外の大学との競争にも敗北すると謂えるのである。これが、現在、我々が直面し変革を進めようとしている二つの異なる社会機能を持つ大学、先端研究開発重視型大学と教養教育重視型大学への高等教育の機能分化を進める改革なのである。


文部省が2002年に提案した新しい時代の教養教育

2000年に独立行政法人の大学評価・学位授与機構では、国立大学での教養教育に関する調査を行い、2001年に「国立大学における教養教育の取組の現状-実状調査報告書」を出した(3)。そして、2002年2月に文部科学省は、「新しい時代における教養教育の在り方について(答申)」(4)を発表し、国際化、情報化、科学技術社会、地球レベルで深刻化する環境問題等々の新しい時代での教養教育のあり方に関する見解をまとめた。

新しい時代での教養を以下に述べる5点を挙げた。

1、 社会とのかかわりの中で自己を位置づけ律して行く力

2、 異文化理解力と外国語でのコミュニケーション力

3、 科学技術への教養と倫理的課題や環境問題など総合的な理解と批判力

4、 国語力(読解力)と論理的思考力や表現力

5、 礼儀、作法などの修養的教養の修得

そのための教養教育の以下に延べる3つの課題を示した。

1、 主体的に学ぶ力やより良く生きる態度を磨き上げる力(主体的に学ぶ姿勢を見につける)

2、 知識社会を生きる技能(情報処理)(問題解決型の技能のスキルアップ)

3、 教養の涵養(かんよう)(恒常的に学び続けるライフスタイルを身につけること)

取り分け、国際化や科学技術の進展等の社会変化に対応し得る統合された知の基盤を作ること、つまり専門教養教育とそれらの横断型領域への広がりを可能にする思考法や知的技法の獲得、恒常的な学習活動による新しい知識の吸収(涵養)を可能にするライフスタイルの獲得を、大学における教養教育の課題に掲げた。

また、部活動やボランティア、インターンシップ、海外留学によっても教養教育が培われることを述べ。大学は学生の自主的課外活動を支援し、その環境を提供する必要があることにも触れている。

そして、教養教育の改善に積極的に取り組むことが提案されている。その二つの課題を以下に示す。

1、 大学全体での取り組みの必要性、つまり、教養教育を専門教養教育と分離せず、専門教養教育の基礎学力として位置づける。その上で、専門教養教育(学部教育)の一環として教養教育を理解する。

2、 大学全体での組織的な取組、例えば教養教育センター(教養教育の提供とその教授法等の研究を担う専門研究機関)、教育開発研究センター(FD活動を専門的に担う専門研究機関)の設定を提案している。


教養教育重視型大学の社会的機能

2011年現在、2002年に文部省が提案した大学の教養教育のスタイルは一般化し、さらに急速な社会変革の流れを前提にした教養教育重視型大学(教養教育重点大学)のあり方を考えなければならない時代に突入しようとしている。

教養教育重視型大学を考える上で、将来の高等教育の姿として、以下に述べる二つの前提を考えなければならない。

1、 大学教育の大衆化(四年制大学全員入学時代・大学進学率100%時代の到来)

2、 高等教養教育の社会的ニーズの拡大(国民的な教養教育や職業教育機関としての教養教育重視型大学の必要性)

現在の学部教育を担う大学は教養教育重視型大学へと移行するだろう。これらの大学での学部教育では、現代の技術文明社会に対応できる幅広い教養と専門教養知識の教育が行われることになる。しかし、この教養教育重視型大学は学部での専門教養教育と一般教養教育の二つの課題を持った大学であるということが語られているだけであり、その大学での教養教育重視型と呼ばれる具体的な教育の内容に関しては殆ど検討されていない。

現在の学部教育と同じように、中等教育を終えた学生が先ず教育訓練を受ける教育課程を教養教育重視型大学は担うことになる。つまり、高校からこの大学に入学し、幅広い教養教育と専門教養教育を4年間で学ぶことになる。これが、今ここで示される教養教育重視型大学学部の教育内容である。

また、先端的な科学技術や政策研究を重視した先端研究開発型大学(大学院大学)に関しては、多く議論がなされ、その目的も社会的に明らかである。つまり、その目的はわが国の科学技術の研究開発力に関して世界的な競争力を維持するために先端研究開発型大学の社会的機能はある。そして、この大学は現実的に大学院大学として機能しようとしている。

この先端的科学技術や政策研究を支えるためにも高度な教養教育が必要である。その教育機能を教養教育重視型大学が担わなければならない。つまり、先端研究開発型大学と教養教育重視型大学は相互に関連した教育や研究プログラムをもたなければならない。

つまり、教養教育重視型大学と先端研究開発型大学は科学技術文明社会の高等教育機能を担う車の両輪である。しかし、これも二つの関係を抽象的に説明したに過ぎない。

ここでは、教養教育重視型大学の社会的機能について、以下の課題があることを述べておく。

1、 専門教養教育を行う

2、 社会人の再教育を行う

3、 先端研究開発型大学で学ぶ人材の基礎教育を担う

4、 教育開発研究(現在の教育学部の機能)を担う

5、 地域社会での公共教育機能の活性化を担う

この大学の機能に関する議論は、今後の教養教育重視型大学の具体的な教育プログラムの形成と実践とその検証(FD活動)を行いながら、検討されることになるだろう。

教養教育重視型大学の教育課題

教養教育重視型大学での教育の最も重要な課題は、日進月歩する高度知識社会で生きる知識と技術の修得である。具体的に述べると、知的生産の技術の基礎的なスキル習得や恒常的に発生する問題解決のために必要な職業的・専門的知識へのアクセ方法や技能スキルの向上を身につけ、主体的に学ぶ力、新しい知識や教養の涵養を可能するライフスタイルと情報処理や知的生産のスキルの修得が必要となる。

その内容は、前節で述べた2002年の「新しい時代における教養教育の在り方について」の文部省の答申で述べられていた教養教育の3つの課題に纏められる。つまり、

1、 主体的に学ぶ姿勢を見につけること。

2、 問題解決技能のスキルアップ

3、 恒常的に学び続けるライフスタイルを身につけること

そして、その教養修得の姿勢、つまり教養の涵養を維持するために、「新しい時代における教養教育の在り方について」の文部省の答申で述べられていた5つの教養教育のあり方に関する課題を挙げることができる。その内容を以下に述べる。

1、 高度な知識社会では職業の専門化が進化していく。その中で、自分の専門分野を社会全体の中で位置づけ、その社会との関係で自らの職業や仕事の役割と責任を理解することが必要である。つまり、自らが担う社会的役割と責任を了解することで、高度な分業社会の中で自分の仕事の社会的位置づけを行い、その中で自分を律して行く力を身につけることが必要となる。そのための教養力、社会の機能や歴史に関する幅広い知識、先端科学技術に関する知識や異分野の人々とのコミュニケーション力を身につけなければならない。

2、 科学技術文明社会では高度に発達した交通運搬技術、情報通信技術、語学翻訳技術、観光企業スキル、文化コミュニケーションスキル、マスメディア力(放送技術と情報産業の国際化)等々によって、産業や生活文化のグローバリゼーションは進む。国際化する生活環境に必要な教養が求められる。最も大切な教養は異文化理解力である。そしてその力を支える外国語でのコミュニケーション能力が必要となる。

3、 科学技術文明とは巨大な人工物環境の形成を意味する。人類のこれまでの地球の歴史にない巨大な人工的な環境を地球レベルで創ることになる。それを科学技術の進歩と呼んでいる。つまり、益々巨大化する科学技術の理解に欠かせないのは、その科学技術が人々の生活や社会の発展、平和や人々の共存のために役立っているかを理解し、また批判的に点検する力(教養)である。科学技術の応用に関する倫理的課題や環境問題への影響など、総合的に科学技術のあり方や進歩の方向について考え、そのために活動する批判的で建設的な知性が求められる。

4、 以上の科学技術文明社会で求められる知性・教養の基礎は情報を収集し整理し、分析し解釈し、そして発信する力である。その能力を支える基礎が国語力である。そして論理的思考や表現力が必要となる。このように科学技術文明社会では確りとした基礎的学力を持つ国民大衆の厚い層によって支えられているのである。

5、 科学技術文明の進歩は資本主義経済、つまり自由主義経済と不可分の関係にある。我々の社会は、人々の欲望や自由意志によって活動力を得ている。自由主義や個人主義が社会の基本思想となる。そのことによって、伝統的な共同体を重視する考え方が失われ、家族の形態も変化する。現在、極端な自由主義や個人主義によって、逆に社会生産の効率が落ちるという課題に直面することになる。そのため、これまで伝統や社会的モラルとして引き継がれていた礼儀や作法など修養的教養を身につける必要がある。


教養教育重視型大学、今後の課題

独立行政法人の大学評価・学位授与機構が2001年にまとめた「国立大学における教養教育の取組の現状-実状調査報告書」の中で、約9割(89.5%)の国立大学が教養教育と専門教育の関係について、二つの教育課程の区別はしながらも相互の有機的関係を図る(46.3%)、もしくは両者を併せ持つ教育を実施(43.2%)していた。

つまり、すでに1992年からの教養教育改革の結果として、殆どの国立大学では、教養教育を学部教育の中で位置づけていた。そして、この改革を踏まえて、文部科学省が2002年に「新しい時代における教養教育の在り方について(答申)」を出した。

その中で、教養教育重視型大学の構想が「教養教育重要大学(仮称)の支援」として少し述べられている。現在、この「教養教育重要大学(仮称)」構想はどのように展開発展しているのだろうか。そして、今後、この構想を展開するための具体的な教育内容を検討する必要がある。


参考資料

(1)三石博行 「科学技術史の視点で観る大学教育改革の課題 -第四次産業の形成・科学技術文明社会での大学の社会的機能の変化-」2007年12月21日
http://mitsuishi.blogspot.com/2007/12/blog-post_21.html

(2)三石博行 「科学技術文明社会に必要な教養教育型大学の設置 ‐大学大衆化による多様化する大学入学者・先進国型大学の教育制度改革課題(3)‐」 2011年2月28日
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_1400.html

(3) 文部科学省 「新しい時代における教養教育の在り方について(答申)」(2002年2月21日)
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/020203.htm

(4)独立行政法人 大学評価・学位授与機構 「国立大学における教養教育の取組の現状-実状調査報告書」(2001年) 
http://www.niad.ac.jp/n_shuppan/kokuritsu/index.html




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ブログ文書集 タイトル「大学教育改革への提案」の目次
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修正(誤字、文書表現) 2011年3月3日






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2011年3月1日火曜日

専門教養教育に繋がる基礎学力教育

教養教育重視型大学の課題(2)

三石博行


日本の大学でのリメディアル教育課題

前節で、大学でのリメディアル教育の課題について述べた。まず、リメディアル教育は大学の大衆化によって生じている現象であり(1)、大学の大衆化をすでに経験したアメリカのリメディアル教育を担うコミュニティ・カレッジのDevelopmental Educationと日本のリメディアル教育を比較しながら(2)、リメディアル教育のもつ社会的機能を積極的に形成する大学教育のあり方について述べた(3)。

日本の大学でのリメディアル教育を、山本以和子氏(以後 山本以和子と呼ぶ)は「高校までの教科復習型のリメディアル教育」と呼んでいる(4)そして、日本型リメディアル教育を以下4つの形態に分類した。

「(1)高等学校までの教科教育復習型 未履修、または学力不足と判断された高等学校教育課程の教科・科目について大学で行う補完授業

(2)大学での学習活動の入門型 専門教育(ゼミナール・研究室等)の活動に必要な学習スキルを教授するもの。たとえば文章表現、議論の進め方、報告・プレゼンテーションの方法、文献・資料の探し方、パソコン・ネットワーク操作など

(3)大学専門課程受講前の専門知識の導入型 「高等学校までの教科教育復習型」と異なり、高等学校の指導要領外でかつ大学の専門教育に必要な学力や知識を講義するもの。いわゆる従来の一般教養ではなく、近年学生の学力低下に伴って設置された教育課程を指す

(4)入学前教育 入学手続きをした合格者を対象にレポート提出や集中講義など入学前に実施する教育を指す」(5)

この日本のリメディアル教育の傾向から考えて、日本の各大学でのリメディアル科目は、それぞれの大学の事情に適応して選択されている。大きな傾向は、日本もアメリカと同じように理工系では数学や理科の補習が行われる傾向がある。

そして、リメディアル教育に力を入れるのは、理科系(理工系、医学、歯学、獣医学、薬学、医療系、農学、水産学、生活科学系、情報学系)の学部である。そのために、これらの学部では入学時に、一人ひとりの入学生の基礎学力試験(プレースメントテスト)が実施され、その成績でリメディアル教育が提案される。

学生の不足している学力を補習しない限り、学部学科の専門教育は不可能であるため、学力不足の学生への指導の方法が非常に大切な教育課題となる(2)


PBLを課題にした教育プログラムへの入り口・基礎ゼミ1

すでに、前節で述べたが、学ぶ姿勢の育成には入学初年度の基礎ゼミから最終学年の卒業研究まで一貫したPBL教育方針を貫き、学生をゼミの中で教育する必要がある。(6)

基礎ゼミから、学部教育と教養教育は一貫した教育方針を確認し、学部教育に役立つ教養教育を行う必要がある。これらのゼミは学ぶ姿勢の育成であり、しかも、それはPBL法を導入し、基礎ゼミから卒論までの一貫した教育課程を前提にして、学生教育を行う。

以下、1年次の基礎ゼミから最終学年の卒業研究までのゼミの流れと課題を提案する。

入学初年度のゼミ(基礎ゼミ)の課題は大学での勉強の仕方、つまり自分から学ぶ姿勢を身につける考え方と方法を教える(7)。これらの学習課題を、基礎ゼミ1(1年前期)で行う。基礎ゼミ1での教育課題は以下に示す。
 大学教育の意味、(大学の社会的機能や大学の大衆化の意味などを話す。)

 ノートの作り方、(レポート作成に便利なノート作成技術、例えば、取材用ノート、カード式ノートなど情報収集に便利なノートの作り方を教える。(7)

 レポート材料の作り方、(特にテキスト批評の書き方を教える。資料を読み、その資料に基づいてテキスト批評と呼ばれるテキストの分析、解釈や批判的展開の書き方の技法を教える。特に、参考としたり引用したりしたテキスト批評を書くために活用した資料(出典資料)のテキスト内での引用の仕方、そして紹介の仕方を厳密に教える。何故なら、現在の学生はインターネットの文章のコピーを簡単に行い、レポートを作成する習慣をつけている。この「盗作・プレジャリズム」を厳しく禁止する教育をしなければ、大変なことになる。こうしたレポート作成の原則をしっかりと教える。それがテキスト批評の書き方の課題となる。(8)

 レポートの書き方(以上、取材ノートでのレポート材料の集め方、テキスト批評での文献資料に基づくレポート材料の書き方を学んだ後に、レポートの書き方を教える)(9)

入学年度の教育に関する問題は、この基礎ゼミをPBL方式で学生がすぐに運営することが困難であることだ。つまり、PBL方式でゼミを運営するという困難な課題を入学直後に与えても、知識や経験がないため、教育的には逆効果になる可能性がある。つまり、学生がゼミを運営しながら、教員は、それを補佐する役目に回ることが出来るまでの教育課程を作る必要がある。

入学直後、つまり始めの基礎ゼミでは、突然PBLでゼミを行うと宣言されても、学生が戸惑うだろう。そこで、前期の半分は、先ほどの教材、ノートの作り方やレポート材料の作り方の訓練を、ゼミ形式で、つまり、最大10人までの単位のグループを作り、学生が多い場合には一クラスに二つのグループを作り、ゼミを運営させる。

また、リメディアル教育が大学全体の課題であり、情報処理センターや図書館などリメディアル教育に参加する方向にある。(10)

PBL法の基礎学習、基礎ゼミ2

後期の基礎ゼミ2(1年後期)では、一応、レポート材料の作り方やレポート作成の基本を理解したうえで運営される。

学科教育に関係する教養基礎課題を選択する。例えば看護学部であると、例えば「失敗学」を選び、看護現場で行われる「ヒヤリハット」の課題の基礎的な学習を行う。(11)

基礎ゼミ2の最初の課題は以下のようになる。

 例えば、「失敗学」(畑村洋太郎)の教材を選ぶ。

 ゼミの学習計画を立てる。

 ゼミの運営方法を決める。

 ゼミを運営する。司会者の役割、発表者の発表の仕方、まとめの作り方を検討しながら共同学習を過程をグループで形成して行く。

 ゼミを運営しながら発生する課題を学生達が共に解決していく過程が、ゼミを行う教育上大切な意味の一つである。問題が発生した場合、その問題を常に解決する話し合いを持ち、仮にゼミが計画的に進まなくても、そのゼミ運営の過程を大切にする。

 最後の発表会のための準備、失敗学に関する共同レポートと発表資料を作成し、発表を行う。

この基礎ゼミ2では、多くの場合、学生がゼミの終わりに到達したかった目標値に達しない場合が起こる。しかし、それに対して、教員は細かいコメントはしない。その課題を専門基礎ゼミ1へ引き継いで行く問題意識の形成が出来ているかどうかをチェックする。


専門基礎ゼミと専門専攻ゼミの教育プログラム

2回生から、専門基礎ゼミ1(2年前期)、専門基礎ゼミ2(2年後期)で、専門教養科目に関連する課題を選び、PBL方式でゼミを行う。

理科系の専門基礎ゼミの場合、一般にすべての学生が知らなければならない共通課題について選択する。例えば、食物栄養学科、児童学科や看護学部では統計学演習などを挙げることが出来る。児童学科では社会統計、食物栄養学科では統計学一般、看護学科の場合には医療統計などがその課題になる。

統計学演習に必要な教材を選び、グループで学習し、さらにコンピュータを活用した情報処理を行う。情報処理はエクセルで十分であるから、エクセル関数を使った情報処理を演習すると良い。

その場合、それぞれのグループで統計処理作業を行う資料を準備しなければならない。すでに基礎ゼミ2でゼミ運営を経験したので、その経験を前提にしながら、専門基礎ゼミ1と専門基礎ゼミ2を行う。

そして、2回生の専門基礎ゼミの経験の上に、3回生からの専門専攻ゼミ1(3年前期)と専門専攻ゼミ2(3年後期)が行われる。このゼミは専門教養教育(学部教育)の中で、学生が興味を持った分野でゼミを行うことが出来る。そのゼミの指導は専門分野の教員となり、そこでの学習活動が、卒業研究に繋がる事になる。


専門教養教育の中の教養基礎科目

以上、教養教育課程の立場からPBL法の基づくゼミ、つまり、基礎ゼミから卒業研究までの一貫教育を提案した。これらの専門教養教育(学部教育)に関して、教養課程の教員と専門分野の教員が学生の指導に関して、一貫した方針と方法を選ばなければ、学部教育は成り立たないのである。

その意味で、大衆化した大学での教育は、以下の二つの課題について検討が積み重ねられる。

1、 専門教育から要請される基礎学力教育を担う教養課程

2、 教養課程から引き継がれる「自ら学ぶ姿勢を育てる」教育プログラムを展開する専門教育過程
この二つの課題と立場の協同作業が大切になる。

そのためには、教養課程を1992年以前のように、専門教養教育と分離し独立に運営させてはならない。専門教養教育(学部教育)の一貫として教養課程を考える意味を大学や学部は理解しなければならない。



参考資料

(1)三石博行 「大学でのリメディアル教育の原因とその解決課題 -大学大衆化による多様化する入学者層・先進国型大学の高等教育制度改革の課題(1)‐」 2011年2月28日
   http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_28.html

(2)三石博行 「リメディアル教育とAdvanced Placement(AP)アメリカの高等教育改革から何を学ぶか ‐大学大衆化による多様化する入学者層・先進国型大学の高等教育制度改革の課題(2)‐」 2011年2月28日
   http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/advanced-placementap.html

(3)三石博行 「科学技術文明社会に必要な教養教育大学の設置 ‐大学大衆化による多様化する入学者層・先進国型大学の高等教育制度改革の課題(3)‐」 2011年2月28日
   http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_1400.html

(4)山本以和子 「高等学校までの教科復習型のリメディアル教育」べネッセ教育総研(01/03) 
http://benesse.jp/berd/center/open/report/kyoikukaikaku/2000/kaisetu/fukusyuugata.html

(5) 山本以和子 「リメディアル教育の現状 -大学アンケートから-」 Between 2001.7.8 特集 FDの再構築 
この論文の中で、すこし古いデータになるが、山本以和子氏(以後 山本以和子と呼ぶ)はアメリカの大学でのリメディアル教育について、2001年当時、「1999年度~2001年度文部省学術研究の研究代表者・小野博教授が行った「米国の大学入学後の教育選抜システムに関する研究―大学の進級選抜、進級配置、転入学システムの実践的研究」(回答数は国立大学89大学、公立大学41大学、私立大学337大学)の調査を基にして纏めたレポートを基にして分析を行っている。
当時のアメリカでのリメディアル教育の内容が詳しく分析されており、大学でのリメディアル教育を考える上で参考になる。
特に、理工系の場合と人文社会系の場合の違いが述べられており、理工系の場合には、教養教育課程に数学や理科などの教育科目を取り入れ、一学期(セメスター)を使った教育が必要となる。
しかし、人文社会系学部での入学前教育において、読書感想文や作文を要求し、読解力や表現力を鍛える訓練を科す傾向があることなどが報告されている。
    http://benesse.jp/berd/center/open/dai/between/2001/0708/bet17618.html

(6)三石博行 「現在必要な教養教育課題・学ぶ姿勢の育成 ‐大衆化した大学での教養教育改革の課題(1)‐」2011年3月1日 
   http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post.html

(7)三石博行 「大学でのノートの作り方(1)」
   http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/1_24.html
三石博行 「大学でのノートの作り方(2)」
   http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/2.html

(8)三石博行 「テキスト批評の書き方実例紹介」
   http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_13.html

(9)三石博行 「レポー材料の作り方について(1)」
   http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/1.html
三石博行 「レポート材料の作り方について(2)」
   http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/2.html
三石博行 「レポート材料の作り方について(3)」
   http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/3.html
三石博行のホームページ 「教育・講義」の「知的生産の技術」の「学習の基礎」
   http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/kyoiku_03_01.html

(10)山本順一「桃山学院大学のリメディアル教育を含む教育サービスの拡充に資する図書館情報教育のあり方について考える」 桃山学院大学総合研究所紀要 第36巻第1号 pp.165-177
http://www.andrew.ac.jp/soken/hyoshi1-7.pdf

(11)三石博行「畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』第一章「失敗学の基礎知識」のテキスト批評」2010年11月29日
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_6897.html




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PBL(Problem Based Learning )法での教育・学ぶ姿勢の育成

教養教育重視型大学の課題(1)

三石博行


PBLの目的・学ぶ姿勢を身につける

大学教育が掲げる三つの課題がある。一つはこれまでの講義形式でも可能であった「知識の修得」であり、二つ目は情報処理技能や統計処理などの「技能のスキルアップ」であり、三つ目は「積極的に学ぶ姿勢を身につける」ことである(1)。

三番目の課題、つまり「積極的に学ぶ姿勢を身につける」教育はこれまで大学教育では経験したことのないテーマである。従って、この課題については教育学的な視点から検討が必要とされている。(2)そして、現在までに、積極的に学ぶ姿勢を育成する有効な教育方法も報告されている。

特に、注目したい教育方法はPBL(Problem Based Learning )である。しかし、このPBLと呼ばれる学習方法にも色々な形式や方法があり、それらの異なるPBLに関する比較検討も必要となっている。


PBLの伝統的方法・卒業研究の再評価

最も、古典的な学ぶ姿勢を育成する教育は「卒業研究」や「ゼミ」であった。PBLでの学習形態も基本的にはゼミ形式を取ることが多い。その意味でPBLをゼミの特殊形態の一つとして考えることも出来る。ここで述べる古典的ゼミとは、学生が中心となって、ある資料(本や論文)を回読したり解説したりする学習活動が定番のスタイルであった。

例えば同じ研究室の学生が中心となって行う卒業研究ゼミでは、共通した学習課題が選ばれ、その課題に関する資料を使って勉強会を行う。例えば、物理化学研究室であれば、量子化学や統計熱力学の教科書、経済学であれば社会統計学の教科書を活用して、卒業研究に共通して必要な専門基礎力を養う学習活動が行われる。

卒業研究やゼミ形式の学習方法がある。以下それらの学習方法の典型を示す。

1、 自分の研究課題を決め、それについて十分な時間を割きながら調査、分析を重ね、その結果を纏め、文章化し、また報告発表する。卒業研究はPBLの典型である。

2、 共同でPBLを行う学習法としてゼミがある。ゼミでは共同の課題で資料を選び、それを活用し学習活動を行う。つまり、ゼミの司会者、発表者、発表形式や討論形式、それらの作業へのゼミの時間配分等々。ゼミを通じて専門基礎学力を養うと同時にゼミを運営する能力(コミュニケーション、協調性、指導力)を養う。


卒業ゼミへの系統的学習プログラム

つまり、これまで日本の大学で伝統的に取り組まれてきたPBL教育方法・卒業研究を伝統的な教育課題であった「研究活動をする」から「学ぶ姿勢を身につける」という現在的な教育課題へ変換することが必要となっている。

その上で、この伝統的な卒業研究やゼミ形式では不十分な点は何か。そして、それを解決するための考え方や方法は何かについて考える必要がある。以下、その課題について現在指摘できる課題を述べてみる。

1、 実際は、学生は独自にゼミ運営ができる状態にない。それを解決するための教育プログラムを見つけ出すために、以下に述べる課題を検討する。

 主な理由は、学生が自主的にゼミを運営する方法を知らないことである。つまり、ゼミ活動に最低限必要な学習の技術、ノートの取り方、コミュニケーションの仕方、発表の仕方、ゼミ運営の仕方(司会者、発表者)、討論の仕方などを知らない。

 しかし、知らないことは当然であり、まったくゼミ運営を知らない学生たちを、自主的にゼミ運営を行えるように訓練するプログラムを作ることが必要となる。

 つまり、大学では大学での基礎的な学習方法を教える基礎ゼミ、学生が中心となってある教材を使って共同学習するゼミ、共同で調査課題を持ち、調査項目に関する担当者を決めて調査し、それを発表しながら調査報告書を書くゼミなどの色々な形式のゼミを通じて、自主的に学習する姿勢やスキルを身につけることが出来る。

2、 特に人文社会系学部では、卒業研究は必修化されていない。その理由は何か。それを解決するための教育プログラムを見つけ出すために、以下に述べる課題を検討する。

 理工系の場合は研究室に所属し卒業研究を行うことが学部の伝統であり、卒業研究が選択科目になることは殆どない。しかし、学生数の多い人文社会系学部の場合、卒業研究が選択科目となる傾向がある。

 卒業研究を必修としない背景は、例えば一学年500名近い学部学生数を抱えた巨大学部では、教員は少なくとも20名ぐらいの卒業生の指導をしなければならない。この状態では、十分に一人ひとりの学生を指導することは殆ど不可能である。

 卒業研究を必修とするためには、マスプロ教育を学部が止めなければならない。それは私立大学の場合、即大学経営問題になる。つまり、多くの学生を入学させ、学費を取り、劣悪な教育環境を提供している。これでは、主体的に学習する教育を教えることは出来ないだろう。

 日本の大学では、少子化が進行し、年々入学者人口は減っている。今まで、マスプロ教育で大学経営を行ってきた私立大学では、学生数を獲得するための手段が講じられる。しかし、同時に、その少子化を使って、質の高い教育を行う環境作りに活用すべきである。その方法が、入学時から卒業研究ゼミへの学生の「学ぶ姿勢を教える」教育プログラムである。

 つまり、卒業研究を必修化し、その教育目的を明確にし、それを学生に伝え、入学当初から、卒業研究のために必要な学習姿勢や学習方法を、色々な形式のゼミを使いながら、教える教育プログラムを持つことが必要である。

 そして、その教育プログラムこそ大学が社会に対してその大学の教育の特徴や質の高さを宣伝する材料となる。ホームページやブログを活用して、日々の学生のゼミ活動、卒業研究活動を公開することは単に大学の広報活動になるばかりでなく、その方法や姿勢を学ぶ他の学生、他の大学への刺激となるだろう。それは、大きな意味で、日本の高等教育への貢献となる。


3、 基礎ゼミ、ゼミ、卒業研究と一貫したPBL形式の学習方法が系統的にカリキュラム上企画されていない。その問題を解決するための教育プログラムを見つけ出すために、以下に述べる課題を検討する。

 すでに上記した卒業研究の必修化の課題で述べたのだが、卒業時までの学生教育の目標を大学が設定し、そのための教育プログラムを作り、それを実行しながら、その成果を検証し(FD活動)、改良を加え続ける必要がある。

 つまり、「学ぶ姿勢を教える」教育プログラムとそれに基づくゼミや卒業研究に対するFD活動を行い、その教育成果を分析評価し、その改良を検討してゆく。このFD活動を公開し、他の学部学科、もしくは他の大学との交流を行う。


基礎能力「学ぶ姿勢」の教育プログラム化の意味

つまり、「学ぶ姿勢を身につける」教育に関して、現在の日本の大学で必要とされているのは、入学時のリメディアル教育や基礎ゼミ教育の段階から、その展開や学習目標が「卒業研究」にあることを明確に示すことである。

そして、その学習目的として、科学技術文明社会での知識人として生きる姿勢を大学時代に身につける必要があることを学生たちに、明確に言い切らなければならない。つまり、これからの時代では、常に学び、新しい部門へ挑戦する学習姿勢が必要であり、その姿勢なしには社会貢献できないこと、社会のリーダーになりえないことを教育すべきである。

しかも、それらのメッセージは、抽象的な言葉や文字でなく、日常的で具体的なゼミ活動を通じて、最終的には卒業研究を通じて、学生に考えさせ、自ら行動する姿勢を身につける大学全体の教育プログラムとして位置付けるべきだろう。

そして、その一つの部門である教養教育課程においても、この自ら学ぶ姿勢を身につける学習姿勢を育てる科目運営を教員は担う事になる。それが教養教育の変革の一つの課題であることは言うまでもない。


参考資料

(1)三石博行 「現在の三つの大学教育の課題」 2010年7月14日
   http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_14.html

(2)三石博行 「日本の大学教育の歴史的変遷と教養教育の改革 -学ぶ姿勢を身につける教育を目指す・教養教育の現在の課題-」 2011年2月24日
   http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_24.html




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修正(誤字) 2011年3月2日






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2011年2月28日月曜日

科学技術文明社会に必要な教養教育重視型大学の設置

大学大衆化による多様化する大学入学者・先進国型大学の高等教育制度改革課題(3)

三石博行


日本のリメディアル教育の特徴

リメディアル教育が必要とされている主な社会的背景は大学の大衆化による入学者の基礎学力の低下であった。(1) そしてさらに前節では、すでに戦後大学の大衆化を進めてきたアメリカでの高等教育改革の結果であると謂えるリメディアル機能を担うコミュニティ・カレッジについて語った。(2) 

つまり、教育の敗者復活戦を可能にするアメリカのコミュニティ・カレッジが持つ社会的機能はリメディアル教育を通じて大きく社会全体の利益を保障している。この社会的立場に立ったリメディアル教育の視点がない限り益々進化発展する科学技術文明社会の将来に繋がる基礎学力養成制度を考えることは不可能であると思える。

しかし、日本のリメディアル教育はアメリカ型のリメディアル教育と異なる意味を持っている。べネッセ教育研究センターの山本以和子氏(以後 山本以和子と呼ぶ)は「米国の大学、特にコミュニティ・カレッジにおけるリメディアル教育を「Developmental Education」と称している。これは、大学レベルの教育を受ける準備が教育として必要であるコースをさす」(3)。そして、これは現在日本で使われている「リメディアル教育」の意味とアメリカのコミュニティ・カレッジでのリメディアル教育の意味が必ずしも同じではないことを意味している。

山本以和子によると、現在の日本の大学で実施しているリメディアル教育とは「まず、一つ目は高等学校までの教科教育を学習しているパターンである。これには、二通りの型があり、一つは高等学校で単位を取得していない教科、かつ大学でその教科の知識が必要となる場合に該当する未履修型と、高等学校で受講はしたが、大学教育レベルに達していない学力不足型である」(3)。

その一つのパターンは、大学に入学した学生が高校までに「未履修・学力不足と判断された高等学校教育課程での教科・科目について大学が補完授業を行っている」(3)もので、これを「高等学校までの教科教育復習型」(3)と山本以和子は呼んでいる。

さらにもう一つのパターンは「専門教育での活動に必要な手法を教授する」(3)教育内容で、専門教育の基礎的知識を教えられる「大学での学習活動の入門型」(3)と山本以和子は呼んでいる。

「二つ目は大学の専門教育、特に研究活動に必要な学習スキルを身に付けるための大学講義の導入パターンとして、大学での学習活動の入門型である」(3)。 つまり、現在殆どの大学が行っている「入学前教育」と呼ばれる教育プログラムで、「入学手続きをした合格者を対象に入学前に大学が実施する教育」(3)を意味する。その入学前教育がもたらすリメディアル教育の成果については殆ど検証されていないのが現実である。

さらに 「三つ目はこれら二つのパターンを利用して実施しているが、それが大学入学後ではなく、大学入学前に実施している大学入学前教育型、そして最後に通常の大学での講義の成績不良者に対して実施している大学講義の補習・復習型である」(3)。つまり、「大学の前期試験等の結果から、基準点不足の学生に対して行われる教育」(3)で、これを「大学での講義の補習・復習型」(3)と山本以和子は呼んでいる。

以上のべたように、日本のリメディアル教育は、アメリカの「Developmental Education」と称しているコミュニティ・カレッジでのリメディアル教育と異なる。つまり、一言で言えば、日本のリメディアル教育は、大学内での基礎学力再教育を意味している。その意味で、日本の大学でのリメディアル教育は「大学レベルの教育を受ける準備が教育として必要であるコースをさす」(3)。しかし、アメリカのコミュニティ・カレッジでのリメディアル教育では「主に読み書き・数学といった教科がこのコースで開講さ」(3)れており、大学基礎学力教育を課題にする日本のリメディアル教育よりも基礎的な学力を教える立場に立っているといえる。


厳しい競争社会で生まれる知識格差に対する社会政策・アメリカ型リメディアル教育機能

つまり、アメリカ型のリメディアル教育(コミュニティ・カレッジでの「Developmental Education」)は、当然、大学のリメディアル教育である高等教育に必要な基礎教育のみでなく、社会的活動の基礎となる学力を再教育するという課題を持っていると謂える。

このアメリカ型のリメディアル教育は、コミュニティ・カレッジの社会全体の知的生産能力を底上げする社会的役割によって生じている。言い換えると、科学技術文明社会では、どの職種でも知的生産力が必要となり、それを基にして新しい商品開発が可能になる。研究開発という労働が社会生産機能の大きな役割を占める事になる。この研究開発が産業化された企業形態を第四次産業と呼んでいる。(4)そして、現在の大学改革はこの第四次産業の形成と関係しながら進行しているといえる。大学の大衆化は社会全体の知的生産力を向上させることに貢献してきた。

日本や欧米諸国では、大学の大衆化によって第四次産業は発達してきた。そこで生じる課題は、他の第一次産業から第三次産業のすべてが研究開発事業と呼ばれる第四次産業との関係、つまり研究開発を抜きにして一次産業である農業、漁業などの原料生産の将来の産業形態は考えられない。

例えば、砂漠地帯での農業で、日本の企業が開発しているプランは、太陽電池、水栽培農法、発光ダイオードによる省エネルギー光合成、高度な蓄電池技術等々を一つにして売り出す商品開発である。この例のように、先端技術を導入した乾燥地帯での農業技術開発があり、今まで巨大な灌漑工事を前提にして考えられていた砂漠地帯に低コストの新しい農業技術・「コンテナ野菜工場」を提供しようとしている。(5)

先端技術を商品化するためには、それらの先端技術について理解する幅広い層の人々が必要である。技術専門家だけでなく、営業部門を始めありとあらゆる部門の人々が社会的ニーズに対して先端技術を応用して商品開発に参画できることが、現在の企業の力となる。それは第四次産業で発展してきた企業の研究開発力が他の部署と協同化し社会のニーズに合った商品開発力に展開されることよって新しい企業の競争力が生まれること意味する。

科学技術文明時代の企業にとっては、新しい研究開発力が必要であると同時に、新しい科学技術の知識を理解する大半の社員、もしくは企業文化が必要となる。急速に進歩する科学技術の教育をすべての社員に施す余裕は現在の企業にはない。情報処理技能を持たない古い世代は事務労働の足かせとなり、企業の生産効率を落とすことになる。それらの社員のリストラを行うか、再教育を行わない限り企業は競争力を得ることは出来ない。

すべての部門で企業は常に新しい知識を職員に身に付けることで、厳しい市場競争のための体力をつけ続けてきた。英語でコミュニケーションできない社員はグローバル企業では不要となる。彼らは二つのうち一つを選ばなければならない。つまり、英語力を身につけて企業の進化に付いて行くか、それともその企業を辞めるかである。こうした厳しい競争社会を生きて行くために企業では、日々、研修が行われ。学習意欲のない社員はふるい落とされる事になる。

こうして、生き残る社員とふるい落とされた社員(リストラされた社員)が発生する事になる。新しい貧困層がこの知識格差社会によって生じることになる。そこで社会は、新しい貧困層の増加を防ぐ手立てを考える事になる。これを教育社会政策と呼ぶ。例えば、情報処理技能を知らない人々に情報処理技能の教育を行う。日本でも、失業期間を活用して、雇用保険を貰いながら、多くの人々が学習活動に参加する。日本でも専門学校では再教育が行われる。アメリカではコミュニティ・カレッジがその機能を果たす事になる。

つまり、以上述べた視点が、日本の大学でのリメディアル教育とアメリカのコミュニティ・カレッジでの「Developmental Education」の違いを意味するのである。



先端開発研究重視大学と教養教育重視大学の機能分化・科学技術文明社会を推進する大学教育の方向

日本の大学改革の課題として、リメディアル教育を積極的に展開するのであれば、現在ある生涯教育との関係でリメディアル教育を企画することが可能となる。

大学教育と生涯教育の違いは、大学教育では受講した科目に対して評価がなされ、合格した受講者へ科目修得の単位が授与される。しかし、生涯教育では、受講科目の理解度を評価される試験はなく、また修得単位も与えられない。その意味で生涯教育は大学教育の本来の教育的目的を満たすために行われているのでなく、社会貢献(サービス)として行われている機能であると謂える。

もし、日本の大学が上記した社会人の再教育を行う機能を形成するためには、現在の教養教育で行っているリメディアル教育機能を強化し、社会人取り分け失業中の社会人の再教育が出来る制度にしなければならないだろう。

もしくは、アメリカのコミュニティ・カレッジのような教育機関を形成し、そこで専門教育を受けるための基礎学力のない学生や社会人のリメディアル教育を行う教育機能を作る必要があるだろう。そのために、現在の大衆化した大学が、日本の国際的な研究開発競争力を支える先端開発研究重視大学と日本社会の科学技術の大衆化教育を支える教養教育重視大学(6)とに分化することが提案されてきた。

この分化によって、多様化した入学者層の学習ニーズを吸収し、それぞれの要請に合った学習コースを設定することが可能となる。但し、この大学の機能分化が、学歴や知識の格差社会を生み出す原因になっては、その分化の理念と意味が失われるだろう。

そのためには、アメリカのコミュニティ・カレッジのような機能を教養教育重視大学が担い、教育敗者復活戦を社会的に順部する機能、リメディアル教育機能、社会人再教育機能を行い。そして、そこで修得した単位や研究開発型大学でも認められ、教養教育大学から研究開発大学への編入試験や大学院進学を可能しなければならない。

つまり、社会での科学の大衆化教育を支える教養大学において、より高度なリメディアル教育の方法と内容が検討されることによって、アメリカのコミュニティ・カレッジのDevelopmental Educationに相当する教育が可能になるだろう。

と同時に、その幅広い高度な知識を持つ人的資源社会が、研究開発型大学の質を支え、国家の知的生産力を支えるのである。つまり、教養教育型大学の充実はそのまま専門性の高い高度な研究開発型大学の大衆的基盤となるのである。それらは、科学技術文明社会を発展させるための高等教育機能の車の両輪である。


参考資料

(1)三石博行 「大学でのリメディアル教育の原因とその解決課題 -大学大衆化による多様化する入学者層・先進国型大学の高等教育制度改革の課題(1)‐」 
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_28.html

(2)三石博行 「リメディアル教育とAdvanced Placement(AP)アメリカの高等教育改革から何を学ぶか ‐大学大衆化による多様化する入学者層・先進国型大学の高等教育制度改革の課題(2)‐」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/advanced-placementap.html 

(3)山本以和子 「日本の大学が捉えているリメディアル教育とは?」in 『Benesse教育研究センターホームページ』
http://benesse.jp/berd/center/open/report/kyoikukaikaku/2000/kaisetu/nihon_remedial.html

(4)三石博行 「科学技術史の視点で観る大学教育改革の課題 -第四次産業の形成・科学技術文明社会での大学の社会的機能の変化-」2007年12月21日
http://mitsuishi.blogspot.com/2007/12/blog-post_21.html

(5) 安藤達夫 「コンテナ野菜工場」 三菱化学株式会社
http://www.teikokushoin.co.jp/teacher/junior/bookmarker/pdf/201009/18_msssbl_2010_09_s02.pdf

(6)文部科学省 「新しい時代における教養教育の在り方について(答申)」(2002年2月21日)で、すでに教養教育重視大学が提案されている。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/020203.htm




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訂正(誤字、文書変更) 2011年3月2日





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