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2022年11月18日金曜日

人を大切にする考え方が民主主主義の根底に流れている

日本での民主主義文化の構築に向けて




三石博行




1、アジア資本主義の歴史を踏まえ私たちの文化に根差した民主主義社会の形成



日本の民主主義は欧米に比べて未熟である。その理由の一つに、日本の近代化の歴史がある。欧米列強と不平等条約を提携し、日本の植民地化を防ぐために、国家指導の近代化政策が行われた。その結果、アジア型資本主義(国家資本主義)によって(と共に)形成されてきた日本の民主主義の歴史があるためだ。私たちは、現在の民主主義文化の遅れた日本社会を考える時、過去の日本の近代化(資本主義化・西洋化)の歴史を前提にしながら、理解する必要がある。

そして、この日本社会の民主主義文化を発展させるためには、欧米型の民主主義を移植することではない。もちろん、海外の素晴らしい制度を学び参考にすべきであるが、同時に、民主主義が文化であり人格であるとすれば、それは先人が日本型の近代化を行ったように、私たちは日本の風土の馴染んだ民主主義を創造する必要があるだろう。

日本型の民主主義文化の形成とは、日本の伝統や風土として存在している「人を大切にするこころ」を確りと再確認し、それを現在の社会制度の中に再構築することだと思う。しかし、そのための方法は見つかってはいない。そのため、ここでは民主主義の原則について述べる。この原則に従い、私たちの生活様式、コミュニケーションの方法、社会的コンセンサス形成の手段を点検しながら、他者との協働活動の実践を積み重ねるしかない。

民主主義とは、今、そこに生きる人々が、その生活空間に対して責任を持ち、それを構成する人々と共に、よりよくするための考え方である。つまり、私たちの社会を構成する多様な人々が、それぞれ多様な姿で生活することを認められ、それらの人々がそれら独自のやり方で自分たちの社会に責任をもって参加する市民参画型の社会文化である。その意味で、民主主義は、構成される市民の社会性、文化性、歴史性によって多様な姿をもつと言える。


人権思想の上に成立する自由と平等



人権、自由と平等は民主主義の三大要素である。しかし自由が絶対的に優先することはない。もし、人権を伴わない自由を認めるなら、人は何をやっても許されることになる。つまり、公共性を無視した個人の意のままの行動を自由と考える風潮が生まれる。

人権思想が未熟な状態での民主主義社会では、自由は公共性(他者の自由と衝突を避け、他者と共存できる自分の自由な行動の範囲を自覚する考え方)と対立することになる。個人が好き勝手に何でもできることを自由だと考え、自由を尊重するなら公共性(公共の利益)を無視してもよいと考えることになる。

また、民主主義の未熟な段階では平等も個々人の多様性を認めない平等主義となる。その結果、同調圧力に屈し他人に同じ意見や行動を強制することも、他人との違いを恐れ、自分らしさを表現しない悪平等主義が生まれることになる。

人権の中で最も平等を重視したのが「社会主義」である。中世的な君主制の下での不平等を正すためにすべての人々が社会的に平等であると考えた。しかし、自由という人権思想を伴わない平等主義は、経済的不平等が生まれる生産手段や土地の所有まで否定することになる。その極端な形態が、すべての人々を未熟な平等主義を強要する一党独裁政権の姿である。そして、自由という人権を無視した平等は多様な立場や考え方・信条をもつ国民を認めず、国家が唱える考え方を一方的に押し付けることになる。

こうした人権思想のない平等主義の社会を支えるのも、その社会を構成する人々である。彼らは個々人の多様性を認めない。みんなが同じでなければならない同調圧力で機能する社会をつくりだす。そして無言にうちに世間と同じ意見や行動を他人に強制する。また、社会的常識、多数者と違う少数者を排除する。もし人々が自分らしさを表現するなら、それを嫌い、すべて同じような考え、行動、服装をしなければいけないように強制する。

未熟な民主主義文化では自由と平等は対立概念になるだろう。何故なら、その二つの社会思想の土台に人権思想がないからなのだ。自由も平等も人権思想の上に成り立たない限り、それらは成立しない。


多様な民主主義文化の存在:その社会独自の市民参加型社会



民主主義は文化であり人格である。その意味で、伝統や歴史、その社会文化、政治経済的状況の異なるそれぞれの社会に多様な民主主義文化の形態が存在しているとも言える。言い換えるなら、民主主義文化は多様な在り方をしている。これが民主主義のもう一つの特徴でもある。

そのため、民主主義を考える時、自分たちの社会、国の歴史、伝統、文化を確りと見つめ、その上に矛盾なく成立している人権(自分や他人の命や生活を大切にする考え方)を見直し、点検し、最も自分たち独自の社会文化に適した制度が民主主義文化の基本になる。

それぞれの社会はその社会の歴史や文化を背景にしえ独自のスタイルで存在している。独自の社会文化をもつ集団(日本)を前提にするなら、この社会での民主主義文化の形成とは、まったく違い社会、例えば西洋社会の様式をそのまま取り込むことではない。このやり方が近代化と呼ばれていたが、民主主義社会は近代化ではないといえる。それはそれを目指し形成する人々(日本の社会の人々)の自覚的(主体的)な、それらの人々にとっての自由や平等の在り方を摸索する社会の構築である。

多様な人々(国民・市民)が多様な個人の自由と社会的平等を維持するための提携した社会契約の制度を模索しなければならない。民主主義の基本にある社会契約とは、その社会をよりよく維持するために構築するための考え方であり制度である。まず、この社会契約の考え方が国民に理解されていなければ民主主義は形成不可能である。

そのため、国や社会は「民主主義教育」を行う。人々は小中学校から民主主義について学び、異なる信条、思想や意見を持つ人々とのコミュニケーションの取り方、また共存の仕方を学ぶ必要がある。そのための制度や社会的機能が必要となる。

例えば、正しい情報の共有の仕方、間違った情報への対応の仕方も学ぶ。国を挙げて(社会全体で)、最も大切な教養(社会的常識)として、民主主義を教育する制度なしには、民主主義は醸成されない。しかも、その醸成は20年単位の時間が必要だと理解すべきである。その意味で、日本の民主主義教育の後れは、日本が民主主義後進国になっている原因の一つであると言えるだろう。

それ以外に多くの社会機能(民主主義を醸成するための道具)が必要だろう。それも、社会を構成する人々が議論し構築し、またそれを点検し、新たな制度を見つけ出すために脱構築していくのだろう。民主主義社会では、その過程がもっとも大切なのだから。


フェイスブック記載 2022年11月17日

日本型「反セクト法」・セクトから国民を守る制度の提案

セクトから国民を守る法律の必要性




三石博行




1、21世紀は宗教の時代、そこで起こるセクトへの対策の必要性



こらまで、オーム真理教をはじめセクトによって国民は大きな被害を受けてきた。今回、1970年代から続いてきた旧統一教会の反社会的宗教活動が問題になっている。霊感商法等による巨額の献金、信者家庭の財政的破壊、合同結婚式、子供への信仰の強制、政治家との癒着による組織防衛等々、旧統一教会が行ってきた宗教活動と自称する行為が日本社会を揺るがす社会スキャンダルとなっている。

旧統一教会は日本では宗教法人として認可されている。その意味で、宗教法人法に守られ、税金等の優遇措置を受けている。それに対して、今、国民の中から、この宗教法人の法人資格を認めるべきでないという声が沸き起こっている。また、一方では、宗教法人資格を剥奪するのは信仰の自由に反するという批判もある。

科学技術文明社会が発展し続ける21世紀は他方で「宗教の世紀」とも言われている。何故なら、人々は科学技術的合理性によってのみ生きることは出来ない。生るものにとって死は避けがたい現実であり、その死に対して科学技術の知識では答えることが出来ない。何らかの生と死の課題に納得するために人は宗教を求めるかも知れない。その意味で、多くの人々がより宗教的課題に接することになる。

そうであれば、21世紀の社会ではオーム真理教や旧統一教会と同じように新しいセクトが発生し続けることを理解しておく必要がある。そして、今回の旧統一教会への対応を契機にして、今後、セクトから国民を守るための対策を考える必要があるだろう。


2、信条ではなく、行為を規制する法律の制定



セクト(旧統一教会)から日本の国民を守るためには、フランスの反セクト法、正式には「人権及び基本的自由の侵害をもたらすセクト的運動の防止及び取締りを強化するための2001年6月12日法律2001-504号」の日本版を制定することだ。大切なことは、この法律は「信条」に関しての規制しているのではなく、「行為」に対する規制していることだ。つまり、個人は何を信じても自由というのが「信条」の自由である。極端な言い方をすれば、「正義のためなら人を殺してもいい」と考えるのは自由だが、本当に人を殺した場合には「殺人罪」として裁かれることになる。

反セクト法では、まず、セクトを識別するための10の基準を定めている。つまり、この10項目の行動が実際に行われた場合に、その団体を反セクト法の対象として国民の「人権及び基本的自由の侵害」したとしてそれらの団体を「セクト的運動」として認定し、その「防止及び取締り」を行うことが出来る。

フランスの反セクト法で定められている「人権及び基本的自由の侵害」行為とは以下の10項目である。
・精神的不安定化
・法外な金銭要求
・元の生活からの意図的な引き離し
・身体の完全性への加害
・児童の加入強要
・何らかの反社会的な言質
・公序への侵害
・多大な司法的闘争
・通常の経済流通経路からの逸脱
・公権力への浸透の企て


2、民主的手法や人道的立場に立った段階を踏まえた法的制度



では、どのようにしてこの反セクト法が適用されるのか。その適用も民主主義の原則を踏まえなければならない
まず、第一段階は
・警察及び監督行政機関は、ある団体が国民から反セクト法違反の告訴を受けた場合、当該団体が反セクト法に定める違反項目(10項目)の中のいずれの項目に該当すると判断された場合、すみやかに、当該団体を告訴しなければならない。
・告訴を受け、裁判所は当該団体が反セクト法に該当するかどうか、被告(当該団体)と原告(告発人)をよび、その事実を審議しなければならない。 ・裁判所によって、当該団体が、反セクト法に違反すると判断された場合、当該団体は、それらの違反事項の内容によって、その損害を補償し、また違反行為を起こさないための改善策を提出しなければならない。

第二段階
・以前、裁判所によって反セクト法に違反したと判断された団体が、裁判所に提出した違反行為防止のための改善策や被害者への保障を実施していないと告訴され、それが裁判によって認められた場合、当該団体に対して改善策や被害者への補償を実施することを強制する判決が裁判所から出される。

第三段階
・当該団体が、上記第二段階での裁判所の判決を違反し、さらに反セクト法に規定された違反行為を繰り返し行う場合、当該団体に与えられている公共的立場(例えば宗教法人、社団法人、企業法人等)の資格を剥奪することが出来る。
・当該団体が、上記第二段階での裁判所の判決を無視し、さらに反社会的行為(反セクト法に違反する)を継続し、かつ被害者を増やしていると判断された場合、当該団体を刑事告訴することが出来る。


3,最も大切なことはそれを決定する民主的手段(過程)があること



反セクト法の対象は宗教団体だけでなく政治団体等にも及ぶ可能性がある。その意味で、反セクト法の在り方は民主主義と人権思想を十分に配慮し、その原則からはみ出てはならない。国民をセクトから守るための規制の必要性と共にそれらの規制を悪用する権力から国民を守らなければならない。そのため、こうした法律に関しては、国会(立法機関)だけでの議論ではなく、第三者委員会(専門家や異なるステイクホルダーの参加による)を設け、また、それらの議論の内容を公開することによって、国民の関心と参加のもとに決定すべきだと思う。


フェイスブック記載 2022年11月18日

2022年11月14日月曜日

脆弱な民主主義文化、危機の日本社会を救うための提案

危機的状態にある日本の民主主義を救う三つの提案




三石博行




1 、旧統一教会に操られる日本の政治家の本音



旧統一教会と政治家の関係があきらかにしたことは、日本の民主主義の脆弱さであった。国民が選ぶ政治家は、国民から多額の献金を集め家庭崩壊を行っている反日セクトと言われる団体に長年選挙協力してもらっていた。日本の保守系の政治家、伝統的家族倫理を重視し、日本民族の誇りを謳う政治家たちが、教祖の前に天皇をひざまずかせる儀式を行っていたセクトと政策協定まで結んでいた。

そうして事実が明るみに出るや、彼らは掌を返すように、旧統一教会との縁を切ったと宣言した。しかし、何故、このセクトと関係を持ったのかは明らかにしない。それは、彼らの政治家としての基本が問われるからだろう。つまり、彼らは、本音では、自分の利益や既得権を維持するためには、国民が犠牲になろうが、国家が侮辱されようが、どうでもよいと思っているのだ。それが、明らかになることは避けたいのだろう。

今、野党は旧統一教会と関係した閣僚(旧統一教会への対策を検討する立場にある政治家)の批判、また被害者の救済のための法制度の成立に向けて協議を重ねている。しかし、今年中に、被害者救済のための法律が成立するかは不明のままである。もともと、国民の犠牲を無視し続けて来た政治家にとって、被害者の救済は、さほど重大な課題ではない。彼らは、旧統一教会との関係を問いただされるこの国会を早めに閉会したいと思っているかも知れない。


2、「国民はいつか忘れますよ」と言われている私たち



と言うのも、この国会が終われば、そして来年になれば、旧統一教会と政策協定を結んでいたことも、イベントで講演したことも、教祖を賛美したことも全部「国民は忘れますよ」(故安倍氏)と、思っているからだろう。事実、森加計や桜を見る会の問題もいつの間にか「国民は忘れ」、報道も取り上げなくなり、もし誰かがそれを言うなら、「過ぎたことでしょう」「それよりも大切な予算、安全保障等の議論があるのでは」と言われることになる。

「国民はいつか忘れますよ」という日本社会の政治文化は、すべてに行きわたっているようだ。例えば、オリンピックでは予算を超える支出、多量の料理の廃棄(食べられない人々がいるのにかかわらず)、国民の血税がまるで湯水のように使われた。そして、それを運営する組織員会等のスキャンダルが暴かれようとしている。だが、政治家だけでなく、利権に群がる彼らも、「いつか国民は忘れますよ」と思っている。「いつか国民は忘れてくれる」から、何をやっても、そう問題にならない。もし、問題になったとしても、時間を稼げば、批判から逃れられる。それが日本流のやり方だと、彼らは信じて疑わないのである。

自分の利益や既得権を維持することが最も大切な「政治活動の課題」となっている政治家が国会にまた地方の議会におれるのは、政治家の不正を忘れてくれる国民と過去の不正を都合よく忘れる政治家の国だからなのか。こんな情けない国に日本はなっているのだ。これは亡国に一丁目と言わないで何というか。もし、三島由紀夫がいたら、彼は激を飛ばし、ひょうとすると、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地でなく、永田町で切腹しているかもしれない。

参考資料
松谷創一郎 「日本人の“忘却癖”を利用した安倍政権のイメージ戦略──安倍ポピュリズムの実態とは」


3、何かから始めるべきか



旧統一教会と政治家の癒着の問題が露呈したのは日本社会の民主主義文化の脆弱さであった。その脆弱さを生み出している社会文化的構造にメスをいれ、改革をしなければ、同じ問題が今後も起こるだろう。そして、また、問題をおこした人々は同じように「国民はいつか国民は忘れますよ」と言うだろう。

こうした状況を変えるために何をしなければならないのか。考えられることは沢山ある。ここで、私が考えている三つのテーマを列挙する。もちろん、これ以外に他にもあるだろう。こうした議論を起こすさなければならない。広く社会全体を巻き込む議論を起こし、人々がそれらの課題に関して意見を述べ合う文化、社会コミュニケーションを作ることだと思う。コミュニケーションの過程こそが、民主主義文化を醸成する。そして、そこで生まれた多様な社会活動によって、よりバランスの取れた課題解決(民主主義文化を醸成するための)が進むことを願っている。

以下、三つの課題、マニフェストを重視する選挙制度の変革、報道の自由とフェイクニュース対策と小中学校での民主主義教育の充実に関する情報を記載した。

3a、選挙制度の変革 (例えばマニフェスト選挙)



議会制民主主義で国民が唯一政治に参加できる機会は選挙である。その意味で、国民主権を謳う国家・日本ではより多くの国民が参加できる選挙制度を確立する努力、また、立候補者個人、または政党にはより民主的な選挙活動を義務づける必要がある。

参考資料
三石博行 「クトに利用されない日本の選挙制度のための変革案 」2022.11.12
rainy「マニフェストとは?意味や具体例、調べ方も解説」2021.10.28
senhime「マニフェストとは?各党の公約一覧をご紹介!」2021.11.14
早稲田大学マニフェスト研究所 「マニフェスト Q&A?」


3b、報道の自由とフェイクニュース対策



日本の報道の自由に関して「国境なき記者団」の評価がある。それによると日本は世界で71位となっている。ウクライナ侵攻を行ったロシア社会、それを許した国民は徹底した公共放送の政権プロパガンダ情報を信じ切っていた。日本の戦中を思い出すとよい。NHK(日本放送局)は、同じような失敗を行ていた。そして、国民を戦場に送り出す機関の一翼を担っていた。

日本の放送法を他の先進国のそれと比較する必要がある。ドイツの事例などが参考になる。公共放送が国家のプロパガンダとなる宿命は避けられない側面があるなら、積極的に市民メディアを育成し、国民は自由に報道活動を行う文化を形成すべきだろう。

一方、自由な情報発信は、インターネットでSNSを通じて行われている。その情報伝達機能を通じて、間違った情報、悪意に満ちたデマ等が流されている。報道の自由と反社会的で、悪意に満ちた情報(報道)の点検機能が社会的に必要となる。その機能を充実させない限り、報道(情報発信)の自由は守れない。

参考資料
Wikipedia 「世界報道自由度ランキング」
「報道の自由度ランキング」 (2021年7月6日)https://ecodb.net/ranking/pfi.html
「日本の報道の自由度はG7の中で最も評価が低い。この理由として、国境なき記者団は、「記者クラブの存在」や、「特定秘密保護法」等を問題点として挙げている。」, 2022年の報道の自由度ランキングで日本は71位。先進国とは思えない、報道の自由後進国として評価されている。
日本経済新聞 「報道自由度、日本は4つ下げ71位に 国境なき記者団」2022年5月3日
NHK「報道の自由度 日本 世界71位 “大企業の影響力 自己検閲促す” 」2022年5月4日

MEDIA KOKUSYO「フランスでフェイクニュースを取り締まるための法改正が成立、言論統制に悪用される可能性も」2018年07月05日 黒薮哲哉の「メディア黒書」

総務省 「インターネット上のフェイクニュースや偽情報への対策」


3c、小中学校での民主主義教育



民主主義は文化である。それは人の人格であり、家族文化や地域社会文化である。人権思想(人の命と生活を大切にする考え方)が無ければ民主主義文化は育たない。人が自分と同じ人間でありることを学ぶことで、民主主義の重要な要素「平等」に関する考え方が生まれる。また、人は人それぞれ個人として生き方、希望や欲望を持っている。従って、自分の生き方や欲望を理解してもらうためには、他人のそれを理解し、認めなければならない。自由とは相互にそれぞれの個人の多様な生き方を認め合うことで社会的に成立する。こうした考え方は家庭教育、幼児教育、小学校や中学校での教育を通じて育成される。それらの教育がなければ民主主義文化は形成されないだろう。

現在、少なくとも小中学校教育での民主主義教育の強化や導入が必要である。自由に自分の意見を言い、また他人の意見を聞くための訓練を小学校から行わなければならない。自分の意見を言えない、大勢の人々の意見に同調し、違い意見の人を排除する人にならないための訓練を行うことで、「いじめ」に対して、子供たちが自分たちの力で解決できるだろう。

さらに、学校の決まり、社会課題を考え、それらの問題を解決するための方法、コミュニケーションの仕方を実践的に学ぶことで、民主主義に関して実践的に理解するだろう。そして、そこで育てられた子供たちは未来の日本に大きく貢献するこだろう。

参考資料
KIDSNA編集部「【スウェーデンの教育】社会に問いを立てる民主主義教育」


フェイスブック記載 2022年11月13日

2022年11月12日土曜日

セクトに利用されない日本の選挙制度のための変革案

民主主義を醸成する選挙文化を構築するために




三石博行




どのように選挙制度を変革すれば、旧統一教会のようなセクトによって日本の政治家や政党が利用されないようになるだろうか。幾つか、今、私が思いつく点を書いてみた。もちろん、それだけでないと思う。今後、日本の民主主義を守る、もしくは醸成するために選挙制度の改革に関する議論と制度設計を行う必要がある。


1、小選挙区制と比例制のバランスを考える



現在、小選挙区制が課題になっている。確かに、この制度では多くの票が死票となる。そのため、小選挙区制を導入する場合、全国区で政党比例投票を行う必要がある。小選挙区で当選する議員数と比例で当選する議員数を同数にする。つまり、比例を半分にし、小選挙区の区割りを変えて当選者数を半分にすることで、小選挙区制での死票数を減らすことができる。

しかし、他方で問題も起こる。何故なら、人口減少の地方の区割りが今までのように県単位では出来ないかも知れない。とは言え、人口減少は日本全体の課題でもある。人口減少に合わせて衆議院は議員数を少なくしなければならない。今後、衆議院は人口の少ない地方では、二つ自治体に一人の小選挙区が出来ても不思議ではない。その上で、全国レベルの比例制を取り入れる。この比例制で政党政治が優位な立場を得ることになる。それは、マニフェストを選挙の基本におくことを推進するのなら、それなりの貢献をするだろう。

参議院は、各都道府県から一人の小選挙区制と全国レベルの比例制にするのはどうだろうか。参議院では人口減少した各自治体にもそれなりの発言権を持たすとよいのではないか。そうなると、一票の格差が問題になるかも知れない。それが日本国憲法に違反するとなれば、参議院でも上記した衆議院選挙の制度が良い。


2、立候補者の社会的身分保障



地方議会、知事選、衆参の国政選挙、全ての選挙で、立候補する場合、元の職場を辞めなくてもよく、また、落選した場合も、任期や自分から辞退した場合も、もとの職場に復帰できるように、議員の社会的身分を保障する制度が必要である。そうでないと、議員の世襲制が続くことになる。もしくは、確りした政党の立候補者のみが、落選のリスクを保障され、選挙に出馬できることになる。


3、マニフェスト、およびその点検に関する報告義務 



立候補者は選挙公約(マニフェスト)を必ず示さなければならない。なた、現職及び前職の立候補者は過去の選挙公約に対する自己点検及び第三者からの点検を示さなければならない。その点検で課題になったことを選挙活動中に報告、説明をしなければならない。それらの報告や説明を、口頭、文書、SNS等のあらゆる手段を使い出来る限り多くの選挙民に対して行う努力をしなければならない。


4 、立候補資格制度



地方議会、知事選、衆参の国政選挙の立候補者は、それぞれの選挙制度に付随する立候補資格を前提としなければならない。つまり、まったく一人で突然選挙に立候補することは出来ず、少なくともある人数、もしくはある政党や団体の推薦を前提に立候補しなければならない。

何故なら、選挙とはある政治公約や政治理念をもつ個人(立候補者)が、それに共感する市民から委託を受けるために行われる社会的行事である。それらの公約は、選挙以前に、すでに多くの市民と共に検討されていることが前提になる。選挙の時に、突然、ある個人が彼の政治理念や政策を訴える場ではない。多額の税金を使い行う社会的行事である以上、立候補者は立候補の条件を充たし、立候補すべきである。


5、選挙結果に対する全立候補者の報告義務



選挙は、多くの立候補者の中から、わずかの票数の違いも含めて、当選か落選かの二者択一の結果をもたらす。その意味で、ある立候補者にとっては不本意な結果と言えるし、またある立候補者にとっては当然の結果と思うだろう。いずれにしても、当選者や落選者のすべての立候補者が、その結果に関して、選挙が終わってから1週間以内に義務として選挙結果にたいする意見を述べることを義務化しなければならない。

何故なら、選挙は巨額の税金を使って行われる行事であり、その結果は当選であろうと落選であろうと、共にその経費に対する義務を持つ。その社会的義務を果たさない立候補者が次回、立候補することは出来ない。


皆さんはどう思いますか。また、皆さんとともに、「旧統一教会のようなセクトに利用されない日本の選挙制度」を構築するための議論や提案を行なえることを希望します。



フェイスブック記載 2022年11月12日

2022年11月9日水曜日

旧統一教会の戦略にはまる日本の選挙文化の構造的課題

- 国民との選挙公約 (マニフェスト)を基本とする選挙制度の構築 – 




三石博行




1、旧統一教会の選挙支援を受ける背景



なぜ旧統一教会が政党(特に自民党)に影響を与えられたのか。旧統一教会のエバの国日本はアダムの国韓国に無条件に貢ぎ続けなければならないとい教義は、駄々でさえ戦前の朝鮮半島の植民地政策を反省することのない国家主義を信奉する多くの自民党議員には到底受け入れられるものではないと思われる。だが、その統一教会と政策協定まで結ぶのだから、どうなっているのか不思議な話だ。

もし、国粋主義に命をかけた三島由紀夫がこのことを知ったら、統一教会に選挙協力を得ている自民党の議員たちを「似非民族主義者」として激しく糾弾してるただろう。だから、政策協定を結んだ自民党議員や旧統一教会やその関連団体で挨拶をしたり、教祖と記念写真を撮ったりした議員たちは、きっと三島が生きてなくてホットしているかもしれない。しかし、それでも日本会議の幹部は居るのだから、国粋主義の幹部からクレームをつけられたり、場合によっては、脅迫されたりはしないだろうか。それもないなら、この国の右翼も国粋主義もとどのつまり、極めて実利的プラグマティストだと言われるかもしれない。

しかし、自民党議員(自民党議員でなくても)が何故旧統一教会に政策協定書まで書かされたのか、その本当の理由を明らかにしなければならない。思うに、大半の理由は、候補者が「選挙に勝ちたい」からだと言えるだろう。それも人情としては理解できる話である。真面目に、彼らといえども、「エバの国日本とアダムの国韓国」の関係を信じてはないだろうし、また、「政策協定」も半分が真面目に読みもしないで、結んだものだろう。確かに、その中の多くが、自民党の政策と同じである以上、例えば「日韓トンネルの成功」などという馬鹿げた構想があったとしても、それは無視したのかもしれない。ただ、選挙に負けると議員という食い口を失うことになる。それは、誰でも理解できる「失業」という恐ろしい生活が待っているのだ。


2、問われる日本の選挙文化



この現実から、言えることは、むしろ、旧統一教会は日本の選挙文化の現実をよく理解していて、その上で、候補者の要求にそった選挙協力をしたのではないかと言える。つまり、候補者の弱みを理解し、どの政党の候補者がその弱みに耐えられないか、また、選挙協力した後に、一番利用できる候補者であるかを、この団体は極めて冷酷に理解していたと思う。その上で、長期的視点に立って、選挙協力をしてきたのだろう。

それでも、ほとんどの国民は怒りもしないし、マスコミも「なんて国民をバカにしたうるさいウグイスの鳴き声なのか」と批判さえしない。むしろ、選挙では候補者が金を持ってきてお願いに来るものだと信じて疑わない人々もいる。真昼堂々と、お金がばら撒かれることが起こる。これはいつの時代の選挙なのかと疑う現実が、つい数年前にあったし、それへの点検も然りとなされていない。これが現実の日本の選挙文化・民主主義文化の程度でなのだろう。

つまり、選挙では何をしても「当選すれば」いいのであって、負ければ、何の意味もないのである。当然は話であって、そのことを疑う人はいない。問題は、何をしても当選すればいいのかという疑問符が、世論に付いていないことではないだろうか。選挙とは、立候補者が、これまでどんな政策活動をしたか、どのような政治的意見や考え方を持っているか、と言うことを国民が評価し、そして、自分の代表として選ぶ制度である。選ぶ行為の中身こそが、選挙活動や選挙行為の内容を決定している。もし、そうしたことが全く課題に挙がらす、「よろしくお願いします」と、自分への投票を呼びかけるなら、そうした選挙活動が常識化しているのであるなら、候補者は、当然のように、どんな手段を使っても選挙に勝てばいいと考え、勝つためには何でもすることになるだろう。こうした選挙文化こそが、旧統一教会にとって、非常に簡単に政治家や政党との関係を作る機会を得られることになるだろう。


3、選挙公約(マニフェスト)に対する点検としての選挙文化の構築



つまり、旧統一教会が巧みに政党や政治家と関係を作り上げた背景を分析し、理解しない限り、旧統一教会との関係を断ったとしても、同じような過ちを、今後も、繰り返すことになるだろう。政治家たちは旧統一教会を利用しなくなっても、また新しい団体を見つけ出し、それを利用して、「勝つためには何をしてもいい」選挙運動を続けるだろう。従って、もう一度、選挙を政党や政治家のマニフェストとその点検活動を前提とした国民・市民の政治参加活動にしない限り、この問題は基本的に解決することはないだろう。

言い換えると、この問題で問われているのは、旧統一教会やそれを使った政治家や政党だけはない。政党が約束した政策の点検活動として選挙を行なえない私たち日本の国民・市民の民主主義文化のレベルの問題だとも思える。

しかし、今までマニフェストを基本にした選挙活動が課題になった歴史がある。2005年9月11日に行われた衆議院議員の総選挙では、各政党がマニフェストを公表し、それをもとに選挙戦が戦われました。しかし、 もっとも真剣にマニフェスト選挙を訴えた旧民主党が、そのマニフェスト選挙を破壊した歴史もあった。2012年、野田政権は選挙公約したはずの消費税の公約を破棄した。何故なら、当時、社会保険に関する財政基盤が深刻な課題となっていたため、その課題を解決すべく、消費税増額を決めた。確かに、確かな財政基盤を作り上げることもなく、政策を提案するのは間違いである。その意味で、野田政権の言うことも理解できる。しかし、問題は、選挙公約を破棄してまで、消費税を上げるということが、議会制民主主義の中で、問題にならないかという疑問である。野田政権は、まるで、自分だけが日本を救うために、どんな反対があっても「消費税を上げる」と言い出した。そして、自民党と共に消費税を上げた。そのことによって、マニフェスト選挙は消滅した。

民主主義とは、意思決定の過程を重視する制度や文化によって成立している。政党がマニフェストで国民と政策を約束し、国民から委託(1票を投票された)のであれば、その約束(マニフェスト)は、次の選挙まで守らなければならない。それが議会制民主主義の原則である。選挙によって選ばれた経過を無視し、まったくマニフェストに反することをするのであれば、それは、議会制民主主義を無視した行為であると言える。この国は「国民主権」の国であって、「議員主権」の国ではない。だから、選挙を通じて選ばれてた政治家は、日本憲法に謳われている民主主義の基本「国民主権」を簡単に反故にすることは出来ない。それは、約束違反、言い換えると詐欺行為である。

もう一度、マニフェスト選挙の文化、その制度を充実させる色々な仕組み作りを真剣に取り組まなければならない。そうでない限り、政治家はいつまでたっても選挙が来たら、票田の稲穂をどれだけ集めるかということだけに心を奪われ、選挙はでは選挙に勝ことが唯一の目的となり、これまで取り組んできた政策の報告、また、新しい政策への提案を訴える場としての選挙文化は育つことはないだろう。それは、取りも直さず民主主義文化を醸成する制度を失った社会・日本に対して、何もしないことを意味する。今、旧統一教会と政党の関係を問いかける時、単に、関係をもった議員たちを糾弾するだけでなく、それを生んだ構造を問題にし、それを基本的に改革するための努力をしなければ、これからの日本社会の未来はないと思う。


フェイスブック記載 2022年11月2日

2022年8月8日月曜日

安倍襲撃事件と民主主義の危機

テロを生み出した政治




三石博行




テロ、重大な民主主義への挑戦



今年7月の参議院選挙の最中に安倍晋三元総理が選挙演説中に山上徹也に暗殺された。この選挙活動を抹殺する行為は民主主義への重大な挑戦であると報道された。

また、一方で、山上徹也(以後、山上と呼ぶ)は安倍晋三元総理の政治理念等に関して反対するためにテロを行ったのではない。山上は、一方的に安倍氏が世界平和統一家庭連合(元統一教会)(以後、統一教会と呼ぶ)に深くかかわっていると信じていた。彼は、統一教会の信者となった母親が多額の寄付を教会にしたことで自分の家族が破産したことを怨み、安倍氏の殺害を決意したこと等が報道された。

しかし、どのような理由があったとしても選挙活動をしている政治家を暗殺するというテロ行為は許されることはない。その意味で、このテロは重大な民主主義への挑戦であると言える。 テロによる安倍氏の死は国内外に大きなショックを与えた。そして、世界中の国々のリーダーから襲撃を非難する声明や哀悼のメッセージが送られて来た。多くの人々がテロの現場や安倍氏の自宅へ弔問に訪れ、長蛇の列を作った。改めて、海外や国内社会での安倍氏の政治的影響力の大きさを私たちは垣間見た。岸田内閣は、7月22日に安倍氏の国葬を9月27日に行うことを閣議決定した。


テロによって明らかになった現実、統一教会と保守系政治団体・政治家の関係



他方で、奈良県警で殺人の意図を語った山上の発言内容が問題となった。彼が言った統一教会の反社会的行為に対して、多くの被害者が存在していることの事実が明るみになった。統一教会被害者家族の会の活動などが報道された。統一教会による被害を調査して来た専門家、弁護士がニュースや報道番組に登場し、被害の現実を述べた。

この報道の中で日本の政党、政治家に深く食い込んできた統一教会の歴史や関連団体の活動が紹介された。統一教会は1954年、韓国で「世界基督教統一神霊協会」として設立し、1958年に日本で活動を始めている。笹川良一氏らと共に反共活動を行い、1960年代には日本の大学に「原理研究会」を組織し、1963年に「世界基督教統一神霊協会有志財団」として文部省文化観光部宗教課に登録されている。1964年に宗教法人(初代会長久保木修己氏)が認められた。1968年に自民党 の元首相岸信介、笹川良一、児玉誉士夫らが発起人となり、国際勝共連合が結成された。国際勝共連合の初代会長は久保木修己統一教会会長になり、名誉会長に笹川良一氏が就任した。統一教会は戦後の冷戦時代に反共をスローガンにして世界や日本の政治勢力と深い関係を築き上げて来た。その意味で、今日、保守系政党(自民党等)の政治家が世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と深い関係をもった背景が理解できる。

統一教会の母体は日本の植民地時代の朝鮮で起こった宗教であり、反日思想を持っている団体である。経典には、日本は「サタン(悪魔)の国」であるとの反日教義が書かれ、教祖の文鮮明は日本民族や天皇への侮辱的・差別的な発言をしている。例えば、文鮮明ははイエス・キリストの「再臨論」も説き、韓国はイエスが再臨する『東の国』であり、その「韓国のキリスト教を過酷に迫害した」「天照大神を崇拝してきた全体主義国家」と日本を批判している。また、「日本支部会長扮する天皇陛下が文教祖一家にひざまずく儀式を行っている」という日本の右翼としては絶対に許されない演出をしている。

また、アダムの国、韓国に対してエバ(イブ)の日本は奉仕しなければならないとして日本の信者が多額の献金をすることを説いた。1980年代には、朝鮮人参茶、高麗大理石壺等を韓国から輸入販売し、また先祖の罪を償なわなければ地獄に行くという霊感商法を行い、日本の信者から巨額の出費をさせ家庭崩壊等の社会問題をおこした。「1987年に全国霊感商法対策弁護士連絡会が結成され、これまで商品の返還交渉や損害賠償請求の提訴が行われてきた。同会の調査によれば、全国の消費者センターや弁護士会に寄せられた2007年までの累積被害総額は1024億4720万425円に達する」と言われている。

冷戦が終わると、文鮮明は北朝鮮に行き金日成と会い、多額の献金をし兄弟の契りを結び、朝鮮統一の夢を分かち合ったと言われている。つまり、彼にとって反共も反日もそして朝鮮統一もすべて統一教会の財源や勢力拡大の道具ではなかったのか。

むしろ問題なのは、こうした歴史的事実がありながら、日本の多くの保守党議員たちが統一教会との関係を続け、詐欺まがいの霊感商法の被害にあった国民を前にして、統一教会への便宜をはかり、また、選挙協力を受けいれ、彼らが主催するイベントや集会に祝電を送り、また会場に行って彼らを祝福し、講演し、集会の実行委員長にまでなる癒着を続けて来たいことである。

現在も、世界平和統一家庭連合(元統一教会)の被害、半強制的な合同結婚式、詐欺まがいの献金等々の被害に苦しむ人々をサポートする活動がなされている。また、社会的批判を隠蔽するかのように、2015年、下村博文氏が大臣時代に長年破棄してきた統一教会の団体名変更を受理した。統一教会は、新しい名前。世界平和統一家庭連合となり、現在でも同じような活動を続け、日本国民への被害を与えている。

残念なことに、この現実は、山上の安倍元総理の襲撃によって明るみに出た。それまで、マスコミも世界平和統一家庭連合が同じように起こしている国民への被害を報道することはなかった。言い換えると、このテロがなければ、日本の保守系政党・政治家と統一教会の関係も、また統一教会の反日的な宗教思想も、そして現在まで続いている詐欺まがいの行為も明るみに出ることはなかったと言る。


テロを評価する考えが芽生える危険



危険なことは、反日的宗教思想でこれまで多くの日本人から巨額の財産を奪ったと思う人々が持つ統一教会へ反発が、山上のテロを肯定するのではないかと言うことである。そうなる時、日本は深刻な民主主義の危機を迎えることになる。

また、同じように危険なことは、現在の政権が山上を精神異常者にし、彼が被害妄想を起こし、安倍襲撃を行ったとして、カルトと政党の癒着の現実に蓋をし、ひたすら保守政権の護身のために事実を覆い隠すことだ。

日本を軍国主義に導いた5.15事件や2.26事件の歴史が思い浮かばれれる。不況、貧困に苦しむ国民、それとは無関心の腐敗した政党政治、正義感に燃えた青年将校、そして日本を維新するために決起(軍事クーデター)とテロ(政府要人の殺害)、それらのテロ行為が国民の支持を得ていた時代的状況、マスコミの役割、等々。あの時代に近づく多くの共通点を見出すとき、この安倍襲撃事件は、日本の民主主義を破壊する大きな流れにならないかと私は心配している。

それだからこそ、安倍襲撃事件の背景、保守党政党、政治家と統一教会の癒着を徹底的に明らかにしなければならないだろう。しかし、森友・加計問題、そしてサクラをみる会等々、多くの不正を正すことのできなかった日本社会、日本国民が、果たしてこの課題を正しく解決することが出来るだろうかと悲観的な気持ちになっている。


民主主義の危機を救えるか



まず、安倍襲撃のようなテロによってしか社会的問題を告白する手段だと思う人々が生まれないように、テロの起こる社会構造を理解しなければならない。

そのために、日本の社会が安倍襲撃事件の背景、それをつくってきた歴史について確りと報道し、議論し、確認し合うこと(反対でも賛成でもその意見を出し合って何が問題かを理解し合うこと)を行はない限り、日本社会は、テロが最も有効な問題の解決手段と理解してしまうだろう。この状況を生み出すのは、日本国民が格差や貧困に苦しみ、それを解決できない政治・政治家を日常的に見続け、絶望し、最後は、政治不信と政治への怒りとなる段階になった時だと思う。

その時、人びとはテロに走るだろう。テロが有効な手段だと山上が教えたと歴史は言うだろう。そして、日本は深刻な民主主義の危機に瀕するだろう。今、それを避けるために、テロが起こる社会状況に関する分析や議論が必要である。その具体的な一つが、今問題になっている保守系政党、政治家と統一教会の癒着の構造を明らかにすべきである。

第二、第三の山上をうみださないために、今、真剣に、統一教会と政治家との癒着の歴史、宗教(カルト)が政治に介入する構造の理解、それを阻止する制度や法整備を行わなければならない。

もし、今まで自民党が森加計、桜をみる会の政治スキャンダル隠しように、統一教会との癒着問題を隠蔽し続けるなら、統一教会と政党や政治家の関係を明らかにし、それを根本から正そうとしないなら、必ず重大な民主主義の危機を生み出すことになるだろう。いつか、絶望した若者たちが5.15事件や2.26事件と同じようなテロを起こし、それを弾圧する強大な国家権力を頼りにすることで、日本を全体主義国家に引きずり落としていくだろう。私たちは自国の歴史にその誤りを刻んできたのではなかったか。も一度、現実を見る力を持つべきだと思う。

参考資料


Wikipedia
世界基督教統一神霊協会の年表
統一教会関連の企業と団体
世界平和統一家庭連合

【基礎から分かる】統一教会はどのように生まれ、何を教えているのか 安倍元総理暗殺事件で注目

《内部文書入手》 「統一教会」関連団体幹部が名称変更当時の下村博文文科相に陳情、パーティ券購入

全国統一教会(協会)被害者家族の会


facebook 記載 2022年7月31日

2021年6月18日金曜日

多様な人権思想と民主主義

- 人格としての人権思想、文化としての民主主義 -

三石博行


世界には多様な人権思想と民主主義がある。 

米国が中国に人権問題を語る。中国も米国に人権問題を語る。双方の人権に関する理念はそれぞれ正しいように思う。

まず、中国の考える人権は「餓死しないこと。家に住めること。生活が出来ること。」である。実際、中国共産党は日本帝国主義の侵略と闘い、列強の植民地になっていた中国と中国人民を解放し、貧困をなくし、経済を豊かにしてきた。それによってどれほど多くの人々が救われたか。そう彼らが主張するのは当然である。つまり、中国が言いたい人権とは「生きる権利」のことである。だから、今、彼らは農村地帯から貧困をなくすための政策を展開している。

COVID-19の感染源であったにしろ、また、初期段階でその対応が悪かったにしろ、中国政府は強烈な感染症対策で、感染を食い止め、犠牲者数も非常に少なく抑えた。そのやり方が強権的だと批判する人々もいる。しかし、自由と人権の国米国では60万人の犠牲者が発生し、日本でも1万5千人弱の犠牲者が発生している。犠牲者が少ない中国を日本も米国も批判する権利などない。

では、アメリカの言う人権とは「自由に生きること」である。人は自らの信念に基づいて生きることが出来、何人にも強制されない自由がある。この自由を保障されない社会は人権を無視した社会だと考えている。殆どの先進国において、アメリカの言う人権は当たり前の概念である。だから、アメリカは中国が香港の人々の要求を弾圧することは人権侵害だと考えている。

トランプ政権でのCOVID-19対策は失敗であった。そのため多くの犠牲者が出た。しかし、その政権を選挙で変え、バイデン政権になると猛スピードでワクチン接種を行い、感染拡大を食い止め、正常に近い経済活動が戻ってきた。民主主義とは国民主権が成立し、国民に選ばれた代理人(政治家)が国政を担う。もし、それらの代理人が十分に国民のために働いていなければ、選挙を通じて、辞めさせることが出来る。その点、中国の共産党による一党独裁は、余程、共産党指導部のモラルや理念が確りしていない限り、非常に危うい体制であると言えるだろう。

しかし、民主主義は一つではない。百の国があれば百の民主主義のスタイルがある。それは、その国や社会の文化であり、人々(国民)の歴史である。どれだけ民主主義的な法律があっても(ないよりましだが)、それを自覚的に運用する国民がいなければそれらの法律に謳われている民主主義や人権は実現しない。人権思想や民主主義は人の人格や社会文化である。人々の生活様式、行動様式、人に対する豊かな感性や想像力、それらがない所に民主主義は形成されないし、人権思想は育たない。貧しい人々への共感、社会的・経済的格差への問題意識、それらがない限り人権思想や民主主義は形成されないだろう。しかし、それは簡単なことではない。我々は元々、自己中心的で、他人に対して無関心な存在である。そうした私たち人間の自然の姿を反省的にとらえる力(モラル)がなければ、民主主義も人権思想も育たないだろう。

こんな大変で難しい文化を創ろうとしているのだから、それぞれの段階の民主主義や人権思想を理解し合う方がいいと思う。

だからと言って、中国共産党政権は行う香港の人々への弾圧は許されない。また、米国の人種差別や経済格差社会も非難されるべきだろう。そうした批判を行う我々日本人は弾圧を受けている香港人でも米国の黒人でもない。それ故に、弾圧をしている中国共産党政権、また人種差別をしている米国社会を批判的に観ながらも、他方において、それぞれの民主主義や人権思想の違い、歴史的背景を理解する余力があるのだと思う。

そして、最も大切なことは、民主主義や人権を求める香港や米国の人々の勇気ある行動を、自分たちの立場、自分たちの関わりを点検する問題提起にすべきではないだろうか。もう一度、わが国日本の人権思想と民主主義のレベルを問いかけるべきだろう。


ブログ文書集

三石博行 ブログ文書集「市民運動論」

三石博行 ブログ文書集「人権学試論」

三石博行 ブログ文書集「わが国の民主主義文化を発展させるための課題について」


2021年6月18日 ファイスブック記載



2019年9月14日土曜日

関係としての祈り

-日韓関係を改善するために問われる課題―

三石博行


平和主義や人権主義を基調にしながら日韓交流を行い続ける人々の祈り 


韓国でも日本でも、反日や嫌韓を扇動する排他的民族主義者や報道機関、そして政治家たちは、これからも大声で日韓関係の破壊を叫び続け、両国の市民の友好活動を攻撃し排除し続けるだろう。

しかし、その中でも、過去の苦い戦争や侵略の歴史を繰り返してはならないという人々は必ずいる。それらの人々こそが、私たちの希望である。何故なら、それらの人々が、諦めず、自分のできる範囲で、平和と人権を守るための、生活と未来を守るための活動をし続けるだろうと信じることが出来るからだ。

平和や人権を守りたいという願いは祈りに近い、それは現実の大きな世界の流れの中で、何もできない弱い自分であることを知りながらも、しかし、それでも、その願いを一歩を前にすすめるための、勇気をもって生きようとするからだ。

光州市で市民が9月から11月まで、市民自由大学を開催しているらしい。日韓の専門家を呼んで、「ノウジャパン」、「No JapanでなくKnow Japanらしい」を開催することになっている。素晴らしい企画だと思う。


フェイスブック 2019年9月14日記載

「光州市の市民自由大学」 https://blog.goo.ne.jp/micchan_oohashi/e/f76fee7a1966010e7954fd31e4f5b686?fbclid=IwAR1Jz76XNx2pP4EJRoSdl2RqYmyENZwc7U4UHm7bPdPZil2UMDWJwwdNDHY


人々の人権を守るために生きてきた人々への祈り


日本が朝鮮半島を植民地支配していた時代に韓国の人々に寄り添って生きた日本人はいた。その数は少なかったにしろ、そしてその行為は日々の細やかなものであったにしろ、また社会的な事業であったにしろ、それらの人々の記憶を忘れたくはない。何故なら、それらの人々の存在こそ、今、私たちに希望を与えてくれるからである。

ブログ「ほこぽこ日和」で紹介されていた「全羅南道(チョルラナムド)木浦(モッポ)市にある「木浦共生園」への旅の記録を読んだ。この施設は1928年に、尹致浩(윤치호:ユン・チホ、1909-1951)、および妻・高知県出身の田内千鶴子(たうち ちづこ)、結婚後 尹鶴子(윤학차:ユン・ハクチャ、1912-1968)の二人が身寄りのない子どもたちを家に連れてきて共同生活を始める活動から生まれた。1945年の日本の敗戦(日本植民地からの解放)や朝鮮戦争の激動の中、尹致浩・尹鶴子夫婦が、地域の人々の援助によって「木浦共生園」を守り続けた記録が書かれてあった。

過去にも、そして今でも、些細ながらも、自分のできる範囲ではあるが誠意をこめて、海外で生きている日本人がいたししいる。これらの人々の名前はない。しかし、これらの人々に触れた人々の記憶が残る。それは空気のようにいつの間にか歴史のどこかに流れ去っていくだろう。それは空気のようにあることが当然のように透明な存在であるだろう。しかし、この存在こそが、友情や共感の文化の源であり、そこに異なる文化の人々の和が形成されると信じる。

彼らはその信念や願いが困難な時代や社会の壁に閉ざされようとした時、また、無知ゆえに邪悪な人々の妨害に会った時、祈ったであろう。必ず、その願いが通じることを祈ったに違いない。


フェイスブック 2019年9月14日記載

「木浦の旅[201902_01] - 孤児のために生涯を捧げた韓日夫婦を称え記憶継承する「木浦共生園 尹致浩尹鶴子記念館」」
http://gashin-shoutan.hatenablog.com/


自由と民主主義を守るために犠牲になった人々への祈り


2016年2月に光州に行った。1993年の光州事件(5.18民主化運動)は私の記憶にはっきりと残っていた。一回は光州に行きたいと思っていた。光州の大学に勤務する友人の車に乗せてもらい、光州事件が起こった公園広場、銃撃戦の舞台となった旧市役所(今は記念会館になっている)、犠牲者を祭る墓地や記念碑を巡った。しかし、残念ながら、光州蜂起の切掛けとなった学生運動の根拠地・全南大学校には訪問できなかった。

現在の韓国の市民や若者にとって光州事件は現在の韓国の民主主義社会の原点の一つになっているだろう。何故なら、自らの血をもって軍事政権の圧政に立ち向かった市民の歴史がそこにあるからだ。現在も続くろうそく運動の原点も、これらの民主化運動にある。その意味でこれらの運動が現在の韓国市民社会のアイデンティティを形成していると言っても過言ではない。

日本でも幕末の社会を変革した人々がいた。それらの人々の志や犠牲が明治維新や日本の近代化の原動力となった。しかし、その流れは日本の軍国主義に飲み込まれ、彼らは日本民族主義者として神格化され利用された。その延長線上に敗戦があった。軍国主義と闘った人々がいた。共産党から自由民主主義者まで非国民として投獄された。その中に獄中で非業の死を遂げた三木清もいた。日本が世界に誇る哲学者を日本軍国主義は虐殺した。

日本の戦後民主主義の形成史は、当然、韓国とは違う。だから、日本には光州事件のような名誉ある民主主義運動のモニュメントはない。しかし、私の記憶には60年安保闘争、65年日韓条約反対運動、67年ベトナム反戦運動と70年安保闘争、そして水俣をはじめ全国の反公害運動、安全食品を求めた消費者運動、使い捨てを考えたリサイクル運動、命と健康、雇用や生活を守るための労働運動、数々の市民の闘いが記憶にある。それらは現在の日本の民主主義文化の土となり、そこに私たちの今の市民社会の樹が成長し続けている。しかし、こうした無名の活動家のモニュメントはない。そのことを歴史に刻み、今いる若い人々、後世の人々に伝えるための公共の施設・社会装置を持っていない。しかし、それらの人々の記憶は書籍となり、残されている。もし、いつか人々がそれを掘り起こしたくなったとき、それはきっと大樹の根として地表に現れるだろうと、願うしかない。

民主主義とは文化である。人という社会を生きる人々の人格でありその生活スタイルや生活文化である。もちろん、それを守るための政治社会制度や法律や司法制度がなければならないし、それを支える政策、国や自治体の行政機能、企業や民間の運営機能がなければならない。それらの全てを支え維持するものが人であり、その人の人権や平和への考えや願いである。それらの考え方や願いを醸成するために、私たちは教育の在り方や地域社会での文化活動や色々なモニュメント、記念館等々の社会文化装置を形成し用意している。

すべての現在の文化はそれを育できた伝統文化や歴史の上に成立している。栄光や失敗の過去の歴史を引き継ぐことによって、未来は準備される。今現在の実利的な社会機能にのみ人々の関心が向かい世界は危険である。何故なら、それは過去の人々、未来のために生きた人々の祈りを忘れているからだ。そして、もっとも自覚しなければならないことは、その忘却は、今ある私たちが未来への祈りを忘れたときから始まるのだという現実である。


フェイスブック 2019年9月14日記載

「光州の旅[201705_08] - 5.18民主化運動の出発点「全南大学校」、そして全史跡踏破へ」 http://gashin-shoutan.hatenablog.com/entry/2017/09/30/230000


一人の勇気ある青年・桑原功一さんの行為


日韓関係の情報を検索しているとき、国際情報誌「ハフィントンポスト」に記載されていた 「韓国の反日本政府デモで、フリーハグを求めた日本人に反響「彼らは日本人を嫌いなわけじゃない」の記事を読んだ。「韓国・光化門広場で8月24日に開かれた安倍政権への抗議を示すデモ集会で、日韓関係改善を求めてフリーハグをした桑原功一さん」のことが書いてあった。そしてその動画も記載されていたのでそれも観た。

私はこの勇気ある青年・桑原功一さんに拍手を送りたい。桑原さんが言うように、日韓関係の改善は私たち市民が責任を持って努力し積み上げていくしかない。まさに、彼はそれを実践した。彼は、政府や行政が企画するイベントに日韓関係の改善を期待するのでなく、ソウル市内の光化門広場で行われていた市民の集会に出かけ、デモに参加している人が日本人を嫌いで集まっているのでないと韓国の市民に呼びかけ、それを示すために集まった人々にフリーハグを求めたのである。

記載された動画では、多くの市民が彼にフリーハグをしていた。勿論、全員ではないが、反日を掲げた集会の横で、あえて日韓関係改善を求めてフリーハグを求める桑原功一さんに答えるのは難しいだろう。何故なら、彼に賛同していたとしてもフリーハグという習慣が韓国の市民には馴染めないだろう。同じことが日本でも言えると思う。韓国の青年が韓国政府を批判する日本の市民の集まりの横で「あなた方は韓国政府を批判しているのであって、韓国人が嫌いだとは言いってないのです。それを示すために、私にフリーハグをして下さいと言ったとすると、果たして何人の市民がこたえられるだろうか。

動画では多くの老若男女や子供連れの母親まで子供と一緒にハグをしていた。こうした光景を観るとき、何よりも私たちは韓国の市民が決して日本の報道が一方的に扇動しているように日本人全体を嫌う反日運動をしているのではないと理解できるだろう。その意味で桑原功一さんの行動は称賛に値する。そして、彼は私たちに、良好な日韓関係の構築とは市民が市民の生活の場から、市民のやり方で、自由に日常的に、小さくてもいいから行い続けることの大切さを示したと思う。

私は彼に多くのことを学んだ。彼の行動はある種の祈りに近い。その祈りとは、一人ひとりが日韓関係を構築する主体であることへの願いであり、また、何年かかっても続けなければあらない課題であることの自覚でもあるように思えた。また、その祈りは、多くの人々に、ただ自分のできることを自分のやり方でやることで、日韓両市民の友情が育っていくという未来を信じるものの思いに聴こえた。

フェイスブック 2019年9月13日記載


国際情報誌「ハフィントンポスト」 https://www.huffingtonpost.jp/news/ 


「韓国の反日本政府デモで、フリーハグを求めた日本人に反響「彼らは日本人を嫌いなわけじゃない」  https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5d64e284e4b008b1fd204d6b?ncid=other_facebook_eucluwzme5k&utm_campaign=share_facebook&fbclid=IwAR0D2DwQhD6JzHuS9TKX8DfGKjPqCtvAcfex8Ll49ZqjxPaf9uiZtQxF4ug


2019年9月13日金曜日

市民の日韓交流のために「NGO日韓問題解決機構

市民による市民のための国際交流活動が問われている


三石博行


日韓関係を政府に任せていいのだろうか

2019年9月12日の毎日新聞に「政治が止めよ、日韓対立 大きな合意で出口模索を=アジア調査会会長・五百旗頭真」の記事があった。確かに、政治の責任として、日韓関係の悪化を食い止めるべきだろう。しかし、この日韓関係が最悪の状況になったのは、まさに、現在の日韓両国の政府によるものである。

強制徴用工も問題の解決でも、被害者の民事的な請求権がある以上、そして1960年の日韓基本条約がある以上、その二つの条件を満たす方法があったし、ある。それでも双方、歩み寄ることなく、また話し合いをすることもなく、まるでこういう最悪の日韓関係を期待したように、子供じみた頑なな姿勢を変えなかった。

そして、日本から韓国の基幹産業に必要な素材への輸入制限を宣言し、経済戦争に持ち込んだ。韓国はこの経済制裁を日韓の安全保障問題に展開した。韓国では地方自治体が先頭を切って不買運動を起こし、日本への観光旅行をキャンセルするためのキャンペーン、青少年のスポーツ文化交流の中止等々、日本では展示会の中止、排他的民族主義や反韓嫌韓を扇動するスピーチや文章等々、両国の国民も冷静な感情を失いつつある。

これこそ、両国の現権力が期待したことである。韓国の政権は人気を上げるために反日活動を行う。日本の政権も、韓国の反日反応を利用し、反韓や排他的民族主義を扇動し、人気を取る。こんな負のスパイラル状態を作ったのは、取りも直さず、日韓両国の現政権である。その現政権に「政治が止めよ、日韓対立 大きな合意で出口模索を」と呼びかけることは出来るのだが、残念ながら無意味な呼びかけにならないだろうか。私は「市民が止めよ、日韓対立」と主張したい。もはや、政治に日韓関係の改善を任せてはならないと思う。


反日や嫌韓感情を持つ人々日韓関係を市民を説得し続ける力を磨く

私は「反日運動や日本批判をする韓国の市民」を排除し批判しようとは思わない。何故なら、韓国の人々の心に刻み込まれた日本の植民地時代の歴史があるからだ。しかし、同時に、私は彼らにその歴史を超えるのは、未来に一歩進むことだと言うだろう。その未来を作るのはあなた方だし、あなた方の子供や孫だと言うだろう。

私は「嫌韓や韓国批判をする日本の市民」を排除し批判しようとは思わない。何故なら、日本の多くの人々の心に留め置対きたいものとして「素晴らしき日本民族の誇り」があるだろう。第二世界大戦で味わった敗戦の現実を直視することを避けたいという気持ちがあるだろう。また、「欧米列強の植民地支配にあったアジアの解放や大東亜共栄国の建設」の理念は正しかったと考える戦前戦中の侵略戦争と多くの近隣国家の人々の犠牲の歴史的事実を拒否する感情があるだろう。しかし、私は私を含む日本人に対して、もっと強くなって欲しいと言うだろう。不都合な事実を受け止め、加害者であった自分たちを自覚し、そして潔く堂々と、批判する人々に真摯に向き合い、心から謝罪し、共に未来に向かうために手をつなぐ勇気を持ってほしいと言うだろう。

私の考える日韓友好の市民主体の活動は、特別なものではない。日常的な交流であり、個人個人の友情関係であり、趣味を通じ、経済活動を通じ、スポーツを通じ、研究活動を通じ、家族や友達と一緒の観光も兼ねた旅行を通じ、映画鑑賞や音楽イベントを通じ、日常的に行われている生活の中で、そこに韓国の友人がいるという風景なのだ。

私の目指す日韓友好の活動とは、反日の韓国市民や嫌韓感情を抱く日本市民にもその発言の場を与え、本音を語りながら、未来がどうあるべきかを考えるための機会を与えるものでありたい。


政治家の日韓関係を任せない市民による活動機関、 NGO日韓問題解決機構の必要性

私が最も警戒することは、反日や嫌韓を報道企業や政治団体の利益に使う人々である。直前の利益に未来の大きな利益を燃やす人々であり、嫌悪や反感を煽り若者たちの将来の可能性を潰す人々である。そうした人々に対して、私は立ち向かい、批判をするだろう。しかし、それは政治的批判でなく、人道的な批判であり、それらの人々が変わることを願っての批判である。

だから、この活動は、非暴力であり、自由であり、民が主体である。それを担う民・市民によって企画運営され、そのために必要な資金集めや情報伝達の手段が検討され、市民活動で得た経験がそのまま力となるだろう。

だから、この活動は、国際友好というより、自分たちの市民生活をより豊かにする活動である。日韓友好とは自分の家族、街、地域を豊かにする活動である。

そうした草の根の市民の努力の輪を広げるために、市民による日韓友好に関するイベントや交流活動に関する情報交換、資金活動や組織運営のサポートを推進するための「NGO日韓問題解決機構」の創設が必要とだと思う。



修正 2019年9月14日

2019年3月12日火曜日

人間社会科学の成立条件(2)


サンダース現象とは何か 


- その状況合理性の理解と解釈 



極端な経済自由主義(新自由主義経済)、国際金融資本主義は近代人権思想の「人間の社会的平等」思想を侵害するために、「社会主義」の思想を呼び起こす。何故なら、人間の社会的平等は政治の近代化過程、民主主義社会の重要な要素であるからだ。社会的不平等が定着し、人々が自由な競争の機会を失う時、あらためて社会主義政策の名前のもとで、政治の近代化過程(民主主義社会化)が再構築されるだろう。


つまり、アメリカの若者に支持されているサンダース現象、社会主義イデオロギーとは、かくてフランス革命やロシア革命で人々が「パンを求めて起こした運動」と同じスローガンを掲げ、アメリカの現在、そしてその社会文化独自の民主主義運動の形態を取ることになる。それが、アメリカ民主主義社会の発展の新たな一ページをめくることになるだろう。

しかし、サンダースやアメリカの若者が言う「社会主義」は、1917年のロシア革命で謂われた社会主義とは全く異なるもんである。彼らは社会主義革命や一党独裁政権を目指してはいない。彼らが言う社会主義とは「国民の社会的平等の実現」であり、アメリカ民主主義の伝統に根差した自由主義とすべての市民にアメリカンドリームに挑戦できる機会を平等に与える社会の実現、つまり自由民主、社会平等主義の社会形成である。

これまで政治学で定義された「社会主義」の概念を前提にし、サンダースやアメリカの若者たちがいう「社会主義」を解釈するなら、アメリカの現在の民主主義運動を正しく理解できないだろう。サンダースが使う社会主義、そして自らを社会主義者という用語で表現しているアメリカ民主主義運動の状況を、表現された用語に付随する過去の概念で観ることは、現在のアメリカ民主主義運動の状況を正しく理解できないばかりか、社会主義という用語に潜む歴史的偏見を持ち込むことになるだろう。


前記した人間社会科学の科学性としての「状況合理性」を前提にしながら、世界の市民の運動、アメリカ、サンダースやグローバル経済を批判する若者たちの運動を考えてみた。


2019年3月3日日曜日

多様な資本主義・近代国家の様相とその構造を理解するために

三石博行

- 多様な近代化過程の理解 -


1、21世紀の多様な国家形態を理解するための視点


資本主義の多様な形態に関する研究は、わが国では進化経済学学会を中心にして「比較資本主義研究」のテーマの下に研究が山田鋭夫、宇仁弘幸、玉野和志、安孫子誠男等の研究者を中心にして精力的に進められてきた。この研究を先駆けたのは、2001年に発表されたP.HallD.Soskiceの論文「資本主義の多様性」や2003年に発表されたB.Amable の論文「資本主義の多様なモデル」で分析された多様な形態を持つ世界の資本主義経済体制の分析やその分類であった。

昨年、20181218日に東京、専修大学で政治社会学会(関東政治社会学会)と公益資本主義研究会は国際シンポジューム「アジア資本主義と公益資本主義」を開催した。このシンポジュームに参加したHyunChin Limソウル国立大学名誉教授は「多様な資本主義、アジア資本主義」に関する研究では韓国を代表する学者である。また、原丈人氏によって提案された公益資本主義の概念や理念に基づき一般社団法人公益資本主義推進協議会が設立され、多くの学者、企業家、官僚が参加し、持続可能な資本主義経済の在り方をめぐって研究や討論を行っている。

21世紀の世界はどうなるのか、20世紀は多くの実験がなされた。社会的平等を原則として経済制度の確立を試みた社会主義経済は破たんした。また市場を海外の植民地に求め軍事的に拡大して行った資本主義(帝国主義)も二回の世界戦争を引き起こし多くの犠牲者を生み出し、そして破綻した。国際分業論を前提にしながら発展してきたアメリカ型資本主義(経済グローバリゼーションによって発展している国際経済主義)も、今、そのアメリカが「アメリカ第一主義・国際主義の否定」を言い出し、試練に立たされている。

とは言え、経済のグローバル化を抑制することは不可のである。人々の意見、評価、要求は日常的にそして地域や国家を超えて流通している。一つの地方や村で起こる出来事もインターネットを通じて世界に流れ、また一人の名もない市民の意見が世界の人々に伝えられる。あらゆる情報が社会化、経済化される。そして、それらの情報が商品化され、そのニーズに合わせてビジネスが生まれる。これが高度情報化社会によって生じている新しい文化、社会、経済活動である。21世紀は経済、文化、政治活動の国際化が急激に進行する。

多くのアジア、アフリカ、ラテンアメリカの国々の人々、豊かな経済文化を知らなかった人々が、インターネットを通じて、先進国の豊かな社会を日常的に見ることができる。そして、それらの経済後進国で経済発展に向けた巨大なエネルギーが沸き起こる。帝国主義の時代に国家や民族を守るためにその国のエリートが選んだ国家指導型資本主義は、21世紀になって、そのひな形中国人民民主主義共和国の奇跡的な経済発展のモデルを、それぞれの国家の実情、地政的環境、歴史文化的環境に合わせ変化させ、多様な形態に発展するだろう。

21世紀の国際社会を特徴付ける「多様な資本主義国家の形成」に関する理解を進めるために、また、それは「多様な民主主義国家の形態」の理解に繋がる課題を含むため、そして「人権」が「先進国が発展途上国の政治指導者の攻撃の材料となり、「人権擁護」を謳いながら繰り広げられる「侵略戦争」の仕掛けを事前に見抜くために、多様な資本主義経済や多様な民主主義社会形態の基本的課題を「多様な近代化過程」の課題として、理解しようと思った。



2、三つの工業社会化過程からの分類


今、多くの国家が存在している。それぞれの国家を社会主義経済圏と資本主義経済圏とに二分していた冷戦当時の理解は今日通用しない。それらの分類を、北朝鮮や国王支配のサウジアラビア王国やイランのような宗教国家もあるために、多様な資本主義論で纏め上げるのにも少し困難を感じる場合があることは避けられない。

多様な国家形態を分類する切り口として、資本主義経済論(自由市場経済、私的生産手段の所有権、経営的利益追求権)の視点から分析するのではなく、その資本主義経済を構成する三大要素に関しても、それらの程度差が多様に存在することを前提にし、資本主義経済過程の程度を多様な国家の分類の物差しから外し、寧ろその一部として。

最も基本となる評価の基準を「近代化過程」つまり「近代化の第一段階過程」として一次産業から二次産業への産業構造の変化、工業生産力の程度に置いた。イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギーや米国等、欧米列強であれば、産業革命から重工業生産体制が発達しった19世紀、それより遅れて近代化を進めた日本、ロシアであれば19世紀末から20世紀初頭、20世紀中期まで列強の植民地となっていた国々、韓国、中国、インド等であれば、20世紀後半を重工業産業の発展期、つまり近代化の第一段階の事例として示すことができる。

ポスト工業社会は20世紀後半のアメリカを中心とする欧米日本で起こる。これを近代化過程の第二段階、もしくはポスト工業社会と呼ぶことができるだろう。この時代を迎え、国際資本主義経済体制が生まれ形成されてきた。資本主義経済の進行状況を基準にして世界の国々を評価分類しるなら、アフリカやアジアの発展途上国を代表とする前工業経済過程の国家群、タイやブラジル、ポーランド、ロシアなどの経済振興国を代表とする工業経済過程の国家群と、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、日本、韓国、ポスト工業経済過程(情報産業、知識産業、ロボット、AI等の産業形成)の国家群に分けることが出来るだろう。中国は、工業経済過程の国家群からポスト工業経済過程の国家群へと移行していると考えられる。

経済の近代化過程とは、第二次産業である工業生産の進化過程である。つまり工業生産が、手工業生産、機械製工業生産、重化学工業生産と進化する過程を意味する。経済のポスト近代化過程とは、所謂、第三次産業が生産の中核になる時代を意味する。このポスト近代化過程では、まず第三次産業、サービス生産の進化過程が生まれる。流通サービス生産、事務サービス生産、観光サービス産業が発展し、それら生産様式が進化する。その進化を支えたのが情報工学を代表とする先端技術である。情報技術を進歩によってロボット等の情報工学産業、遺伝子技術産業、インターネットを活用した高度情報交換サービス産業、AIを活用した新しい情報処理や知的作業処理産業が形成発展している。これらのポスト工業化・先端技術産業は新しい経済システム、グローバリズムと知識を資源とする第四次産業が生産の中核になる社会を構築しようとしている。
A、前近代化過程 農業、林業、漁業等の一次産業中心、手工業社会
B、近代化過程 重化学工業社会化
C、ポスト近代化過程 情報化社会、


3、多様な経済制度の近代化過程の分類


資本主義経済


多様な国家の形態を資本主義経済の発展の度合い(レベル)で評価、分類するために、まず、資本主義経済を以下の概念で定義する。
1、一つは自由な経済活動、つまり流通の自由や労働や商品市場での自由な交換活動、
2、不動産、動産、及び知的な私的生産手段の所有権、
3、企業活動におる自由な経営的利益追求権
簡単に以上三つの経済行為を原則として資本主義経済活動は成立している。

これらの三つの経済行為がすべて満足されているかどうか、それらの行為の充足状況を基準にすることで多様な資本主義国家の形態を分類することができる。すでに、B.Amable の「資本主義の多様なモデル」で分析・分類された資本主義経済の多様な形態を参考にしながら、以下のように、分類を試みた

A、君主制国家指導型資本主義経済 戦前の日本、サウジアラビア王国、
B、社会主義政党・国家指導型資本主義経済、中国、ベトナム、キューバ
C、軍事政権指導型資本主義経済、エジプト、イラク、
D、国家指導型自由主義経済 軍事政権下の韓国、戦後から高度成長期までの日本 
E,自由主義経済 欧米諸国
F,社会民主主義政権指導型資本主義経済、北欧

社会主義経済


社会主義経済も経済の近代化過程で歴史に登場した経済システムである。社会主義経済は、資本主義経済が原則としている自由な経済活動によって生じる社会矛盾に対する経済的制度的な問題解決方法を提案しながら登場した。つまり、社会主義経済の定義を述べるなら、経済活動の自由よりも経済活動の社会的平等を重視し、その社会平等を原則にした経済制度を構築した。

以下、簡単に社会主義経済の定義を行う
1、生産関係の平等の原則、賃労働関係の否定
2、生産手段等の私的所有権を認めない
3、企業活動は社会全体の利益を求めて行われる
簡単に以上三つの経済行為を原則として資本主義経済活動は成立している。

すでに、旧ソビエト連邦の崩壊によって、社会主義経済の有効性は否定され、また、中国を始め政治的には社会主義国家を名乗る国々も、資本主義を導入し、社会主義経済を修正している。

. 社会主義経済 (国営企業中心)旧ソビエト連邦、北朝鮮
B、修正社会主義経済 資本主義化 中国、ベトナム、キューバ

以上、経済の近代化過程として資本主義経済と社会主義経済について述べた。この分類によって、北朝鮮を現代社会の多様な国家群の一つとして分類し、また、中国を代表する、一党独裁の社会主義資本主義政権化で推し進めている国家、国有企業と民間企業が共存しながら国家指導型で資本主義経済化を進めている社会主義経済国家に関しても分類が出来る。

4、多様な政治体制の近代化過程 民主主義政治


政治の近代化はフランス革命の三つ理念である自由、平等、人権(博愛)の確立と形成発展によって成立する。自由の概念は、個人の思想信条を重んじる自由主義として理解される。また平等の概念は、社会的平等を重んじる民主主義として理解される。さらに博愛は、人の生存権や人権を重視する人権思想として解釈される。

政治の近代化とは、国民主権を目指す過程を意味する。つまり、封建社会では政治権力は生まれながらにして与えられた権力者によって独占されている。政治の近代化とは政治権力がある特定の家族によって独裁継承されることのない体制を意味する。その体制では国王、皇帝、君主が個人的に権力を持つ。権力と個人が不分離な状態にある。つまり、そのためには、政治権力を持つ機能、その運営が国民によって点検され、選択されることが前提となる。選挙制度を持たない社会は、政治の近代化が行われていないと言える。

サウジアラビア王国を代表とする王族独裁国家は近代国家ではない。しかし、国王を国家元首としている国家、また戦前の日本のように天皇が国家元首であった国家も封建国家と違い、憲法がある。国王も天皇も憲法の規定によってその権力を与えられている。その意味で、封建時代の君主や国王とは異なると言える。法の支配によって国王が権力を与えられている国家は封建国家ではないが、しかしこれらの立憲王政や立憲君主制の国は、前近代的な国家であると言える。

また、中国のように共産党独裁の国家は、政治指導者は王族の家系継承者ではないが、国民全体で政治指導者を選ぶ選挙制度はない。つまり、ある特定の思想信条を前提にして選ばれた人々・共産党員の中で政治指導部が選ばれる。その意味で、前近代国家であると言える。

また、国家の理念を謳う憲法では国民によって政府は選ばれるとされながらも軍事クーデターなどで軍部が事実上独裁を続けている国がある。例えばエジプト、タイ、アフリカの軍事独裁政権等々。それらの国も、制度的には近代国家であるが現実的にはは上記した共産党独裁国家と同じように前近代国家と分類できるだろう。

政治の近代化が進んだ国家、欧米先進国を、私たちは一般に民主主義国家と呼んでいる。これらの国家を条件づけるものは、国民主権を謳う法による支配、国民による選ばれた代理人による立法活動、その立法に即して国家の機能を維持運営する行政機能、法の支配を維持するための司法機能、さらに国民主権の法の支配の下で機能する軍隊、警察機能がある。

最近、イギリスのEU離脱を巡る国民投票で国民主権・民主主義に基づくイギリスの政治を観ることができた。EU離脱交渉を進めている保守党のメイ首相は2016623日の国民投票の時点ではEU離脱派ではなかった。EU離脱を決定した国民に政治的判断に即して今日まで粘り強くEUやイギリス議会でEU離脱の条件に関して話し合いを進めている。メイ首相自身の政治的意見ではなく、国民が選んだ選択を最後の最後まで尊重し、それが仮に合理的な判断でないと首相自身が理解していたとしても、彼女の政治行動はあくまでも国民投票の結果に対して誠実な姿勢を取っている。保守党の党首メイ氏のこのぶれない一貫した姿勢にイギリスの民主主義政治文化の奥深さを感じる。

その点で謂えば、224日に行われた辺野古米軍基地の埋め立て賛否を問う沖縄県民投票の結果に対して、安倍政権が取った姿勢はイギリスの保守政党のそれとはまったく正反対であった。国民主権国家であるなら、選挙結果が法的な強制権を持たないとしても、その結果は沖縄県民(日本国民)の意見である。その結果を無視することは、沖縄県民の願いを無視することと言うだけでなく、国民主権国家の理念を無視する、重大な憲法違反の行為であることは言うまでもないだろう。少なくとも、政府は辺野古米軍基地建設を中止し、その意思を米国に伝え、米国との交渉を行うこと、もしくは、他の解決策を摸索する誠意を示すことが必要であろう。その意味で、日本は政治的な近代化、民主主義の形成に関しては欧米先進国に比べ非常に遅れている国であると言える。

A、前近代的政治体制 立憲王政 サウジアラビア王国
B、前近代的政治体制 一党独裁体制、中国、キューバ、ベトナム、
C,前近代的政治体制 軍事独裁体制 エジプト、アフリカの諸国、タイ
D,近代的政治体制 国民主権 一党長期政権体制 日本、ロシア
E,近代的政治体制 国民主権 政権交代政治体制 欧米、オーストラリア、ニュージーランド、韓国


5、多様な文化の近代化過程 人権主義文化


人権主義を最も侵害する行為は暴力である。最も巨大な暴力とは戦争である。戦争は無条件に人命、生活環境、財産を奪う。平和時に殺人や強盗は刑罰の対象となるが、戦争では敵を殺し敵の社会を破壊すことが当然にように行われ、その殺人や破壊は名誉な行為として評価される。人権を語る時、その国家が行う殺戮や破壊行為に対して批判が起こることは当然のことでる。

戦争、民族浄化(ジェノサイド)、テロ、殺人、暴力、差別、ハラスメント等々、命を奪い、財産を破壊し、身体を傷つけ、社会的立場を奪い、生活環境を破壊し、生活の糧を奪い、働く場を取り上げ、人間としての誇りを傷つけ、ことばによる暴力、偏見や差別等々、それらのすべてが人権を守る行為に反するものである。戦争からいじめやハラスメントまで、人々は非常時や日常時に常に人権を脅かす出来事に出会いながら生きている。

民主主義文化の究極の課題は人権主義文化の構築である。その意味で、軍事力によって国際的な紛争の解決を行うことが現実の紛争解決の最も一般的な政治手段となっているこれまでの歴史や現在の世界では人権主義とは絵に描いた餅のように言われるだろう。最も現実的な紛争を解決する政治的手段として軍事力の保持が言われ、そのために、より強い軍隊、より進んだ軍備が求められる。

現実の政治の現場では、理想的な平和主義は、実際の問題解決力を持たない考え方であると一言にして否定される。確かに、現在、日本が最も安価にしかも有効な防衛力を持つという課題を解決するとすれば、「ミサイルと核装備」が最も安上がりで有効な方法であることは言うまでもない。そしえt、その論理はすべての国にそのまま応用される。すべての国が、強大な核兵器の破壊力を防衛のための手段とするなら、簡単に核兵器が使われることになるだろう。

文化の近代化として人権文化は、その進化は、すでに上記した経済制度の近代化過程や政治体制の近代化過程に付随して、進化している考えられる。経済的豊かさいこそが、人権文化を醸成する土壌となり、また、政治制度の近代化が進まない限り、人権文化は現実の社会に根を下ろすことはない。その意味で、経済や政治の近代化過程の分類をそのまま、人権文化の進化、つまり文化の近代化過程に援用することが出来る。

A、前近代的人権主義文化 立憲王政 サウジアラビア王国 
B、前近代的人権主義文化 一党独裁体制、中国、キューバ、ベトナム、
C、前近代的人権主義文化 軍事独裁体制 エジプト、アフリカの諸国、タイ
D、近代的人権主義文化 国民主権 一党長期政権体制 日本、ロシア
E,近代的人権主義文化 国民主権 政権交代政治体制


参考
公益資本主義  https://ja.wikipedia.org/wiki/公益資本主義



2019年3月2日土曜日

日本学のすすめ(2)  

三石博行

市民参画型民主主義社会形成のために―


2、ホスト国家指導型政治体制を目指す課題・わが国の課題


2-1. 終焉する官僚指導型国家・現代日本の政治現象


1980年代に入り、日本の高度経済成長は終わった。そしてその後失われた20年と謂われる右肩上がりの経済成長のない、平成時代から始まる。この時代になって、これまで日本経済を牽引してきた国家指導型経済政策(官僚指導型経済政策)が有効な力を発揮できなくなるのである。しかし、この時代的な変化への対応が遅れた。何故なら、これまでの経済政策の基本的構造が破綻したことを、その牽引役を果たした官僚たちが認めることは困難であった。しかも、経済活動の主体が民間企業に移りゆく時代であったのだが、そのために国家が行わなければならない変革は、官僚指導型制度・経済規制制度の見直しや、その制度見直しの主体の変更が求められていのである。かくて、明治維新を成功させたように、革命の主体であった武士たちがその利権や経済的存立基盤を自ら放棄し、国家の発展のために犠牲になるという奇跡は霞が関では起こらなかった。

すでに、自由主義経済文化の発達した欧米、取り分け、英国やアメリカでは、巨大な民間企業が資本主義経済の推進主体となり、世界経済を席巻する力を持っている。日本の企業がその国際競争力を問われ、その力を自ら開発、形成、展開しなければならない時代に入った。現在の日本の資本主義経済を担っている企業は、海外市場でも活躍をしている国際競争力を持った企業である。

この時代の経済政策の指導者は官僚ではなく、民間企業やシンクタンク、またNOPの人々になって行く。勿論、官僚のサポートが全く必要ないと言うのではなく、これまでの果たしてきた官僚の役割が変化する理解すべきである。官僚指導型の終焉は、適格な経済政策への関与の欠落のみでなく、それらの制度や人材の劣化によっても生じている。例えば、年金問題での不祥事、森友、加計学園問題で明るみになった公文書の偽造は国民全体の利益を無視した「政権への忖度」、そして現在進行中の労働統計の不祥事問題、これらの現象は官僚指導型社会の終焉を意味する。

2-2. ホスト官僚指導型政策決定国家を目指す課題


最も急がなければならない課題は、この不祥事の追求に明け暮れるだけではなく、新たな時代、つまりホスト国家指導型資本主義経済体制のための制度設計の構築である。例えば、日本の企業がより強力なグローバル企業へと発展するための制度設計、先端技術制度を導入した社会インフラの構築に必要なすばやい科学技術・産業政策、さらには人口減少の進む社会での人的資源の有効活用、市民参画型社会構築、相互扶助型社会、女性の社会経済活動への参加推進政策、海外からの優秀な人材受け入れ制度、労働力資源の再教育・再活用強化、格差社会の是正、再生可能エネルギー資源社会の形成と発展、地方分権による日本国全体の経済活性化、等々が挙げられう。

現在の日本経済政策を考える時、アベノミクスに代表される「成長型経済政策」を再度点検しなければならない。何故なら、右肩上がりの高度成長経済現象は後発型資本主義社会の経済現象に見られる経済現象である。すでに高度経済成長が終わり、成熟型経済状態にある日本の経済戦略を考える必要がある。まず、それまでの高度経済成長を促した経済構造から、新たな産業構造に変革に何が必要であるかを考えなければならない。

その点で、2000年代に日本の経済政策は適格ではなかったと言える。大きな躓きは、2011年の原発事故のあとで民主党政権がエネルギー政策の変換を行おうとしたが、その後、自民党政権になれ、原発中心のエネルギー政策が復活し将来のエネルギー政策を大きく変更し、後退してしまったことである。また、高度情報化社会に向けて、インフラ整備を民間に任せておいたことによって、近隣国、韓国に比べて情報産業の育成が非常に遅れた。新たな産業を育成さるためには、国家が新産振興政策として指導する必要がある。また、新自由主義経済政策を取り入れ、過度の民営化政策が高等教育や人材派遣等、人的資源の育成と管理の事業に取り入れられ、大学教育への予算削減や派遣労働による若年労働者の質の低下を招いた。その他等々、成長型経済を前提にして続けられている多くの経済政策を点検する必要がある。

昨年以来、国会では政府自民党・安倍政権に対する批判が続いている。それらの批判の根本的問題は、現実の日本社会の問題解決力を持たない官僚指導型の政策決定機構にある。その解決は、大臣の首を切るだけでは済まないし、公文書を公然と破棄、もしくは改竄する官僚に重い刑罰を与えるための法改正だけでも基本的な問題解決策にはならない。勿論、やらないよりやった方が良いのであるが、しかし、先ず、これらの構造的問題は何かを考える必要がある。

2-3. 問われる行政・立法機能の改革と無力な利益集団・政党と官僚


日本社会の政治変革の構造的な問題は、すでに前節で述べたように、日本経済は高度成長期を終え、成熟型経済状態にあるということを理解すること、そして、その問題解決のための中長期の経済戦略を立てること、勿論、国民生活の細かいサポートを行うために目の前の現実的な経済政策を執り行っていくこと、である。問題はそれらの政策実現のために、官僚が中心になるやり方ではなく、より多くの民間の力を活用し、寧ろ民間が中心となりより多様な問題解決力を磨き上げていく体制作りを行うことである。そのために、官僚機構は、コージェネレーション機能として自らを改革し、問題解決のために、国全体の力、経済界、学術界、市民層、地方自治体等々の力を集めためのスキルを高め、システムを構築することである。

勿論、官僚機構の改革だけでなく、政治機構の改革も必要となる。政策提案や政策討議をしない国家とは、国民に対して無責任な集団であると言っても過言でない。つまり、議員は、自ら政策提案を出来る能力を持たなければならない。そのために、それぞれの政党は、その政党の政策理念を明確に国民に示す義務がある。そして、その理念に対して、すべての政治政策を提案しなければならない。ましては政府から提案提出される政策に対して、対案を出す義務がある。単に反対と批判を述べるだけでは政党として無責任であると言わざるを得ない。

しかし、現在の政党や政治家に政策提言を要求することは不可能かもしれない。何故なら、政権与党は各省庁に所属する専門家(官僚・役人)に政策提案や法律条文を書いて貰うことが出来た。また、野党は官僚の協力を全く得ることが出来ないために、自分たちの力で政策提言、それに必要な法律、条文や制度設計案を提案することが出来ない。そのため、野党は与党の提案に反対するか賛同するかの選択を迫られることになっている。これではホスト国家指導型政治体制を目指すことは出来ない。現在日本の深刻なす課題、官僚指導型国家を脱却するためには、野党が十分に政策提言を行える政治環境を整えるべきである。

勿論、与党も官僚達も、この考えには賛成することはないだろう。何故なら、野党は、反対ばかりして政策を出せない無能な集団であると国民に理解させた方が、与党にとって有利となるからである。また、官僚にしても、政策を決定する権利をわざわざ他の集団に明け渡すことで自分たちの利権を失いたくもないからである。この国や国民のことを優先して問題解決を行う姿勢の欠如、つまり、所属集団の利益を最優先し、現状に適用しない国家指導型政治体制を放置し、変革しないことである。国滅びて官僚あり、国民貧困化し政党あり、この国はもう一度、大変革を起こさなければならないのだろうか。

つづき


2018年1月11日木曜日

平岡諦著、『憲法改正:自民党への三つの質問・三つの提案』の紹介

2011年東日本大震災・福島の東電原発事故のすぐ後、私はその後に起こる被曝問題を課題にして、5名の専門家に講演を依頼し、京都で行った。その一人平岡諦先生が、昨年、著作『憲法改正:自民党への三つの質問・三つの提案』を出版された。この本は、自民党が提案した憲法改正案を分析・解釈したものである。平岡先生が医療ガバナンス学会の学会誌に投稿しました文章をそのまま載せます。


以下、MRIC Vol.005  医療ガバナンス学会 http://medg.jp のメール情報誌MRIC 2018年1月10日 発行に記載された文章です。

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2018年1月10日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp
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拙著、『憲法改正:自民党への三つの質問・三つの提案』の宣伝を
健保連 大阪中央病院平岡 諦
2018年1月10日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp---------------------------------------------------------------------「最近、テロ対策、国際的緊張状態などを視野に入れてでしょうか、法のあり方が議論されています。その中に私たちの*身近なところに国の視線を感じずにはいられない部分*があり、違和感を感じてきました。もしかしていつの間にか、知らないところでいろんなルールが作られていて、気がついたら、小説にあるような*管理社会*になっているのかもしれない。そんな不安を、多くの方も持っているのではないでしょうか。」

これは、最近のMRIC Vol.252「医療基本法:健康イコール善という価値観」(山本百合子氏)の中の文章です(*は平岡)。わたしも強く不安を感じる一人です。この不安の由来を明らかにしたのが上記、拙著です。

「国の視線を感じずにはいられない部分がある」とは、すなわち「国(政府・自民党)の価値観の押し付け」が法律に反映されているということでしょう。国民一人一人の価値観の実現を最大限に調整するのが、民主国家の役目のはずです。政府・自民党がリードする現在の日本が、民主国家でなくなりつつあることを意味します。

国民一人一人の価値観の実現を国が最大限に調整する、これが「基本的人権の尊重」ということばの意味です。このことばの元は、日本が受諾したポツダム宣言にある「respect for the fundamental human rights」の、当時の外務省役人の翻訳です。言い換えると、「根源的な(人間の尊厳を守るための)人権に対する敬意」ということになります。Rightsが複数になっているのは、人間の尊厳を守るためには多くの人権が必要だからです。

政府・自民党の考え方をもっとも端的に表しているのが、自民党の憲法改正草案です。そこに示されているのは、「基本的人権の尊重」ということばの「勝手な解釈」です。その解釈では次のようになります。

国(政府・自民党)は、まず人権を分割できると考え、そして国は「(国民の)人権の基本的部分(だけ)は尊重」するという解釈です。政府・自民党は「基本的人権の尊重」をこのように「勝手な解釈」をしています。裏返すと、「人権の基本的でない部分には、国の価値観を押し付ける(国の意向を優先する)」ということになります。

前著では、「患者の人権を尊重する」が、時には「第三者の意向を優先する」という日本医師会の医療倫理が、日本の医療界の根本的な問題点であることを指摘してきました。現在の日本社会(それをリードしている政府・自民党)の根本的な問題点が「基本的人権の尊重」の「勝手な解釈」、「人権の基本的でない部分には国の意向を優先する」ことにあることを拙著で明らかにしました。日本の医療界も、現在の日本社会も、その根本的な問題点は同じ構造です。「人権」や「人間の尊厳」のとらえ方の問題です。

政府・自民党は、これまでにも法律に「国の価値観=国の視線」を入れてきました。「国の意向を優先」させてきました。これは現行憲法(民主憲法)の軽視、無視に当たります。そこで最後の仕上げとして、政府・自民党は憲法改正(政府・自民党にとっての改正、国民にとっては改悪)をしようとしているのです。自民党の改正案が成立すると日本は民主国家でなくなります。「管理社会」になるでしょう。ヒットラーのような独裁国家にならないまでも、政府・自民党に都合の良い強権国家にはなるでしょう。

以上が拙著の人権に関する主要な論点です。ここでは書いていませんが、人間の尊厳に深くかかわる戦争(安全保障)に関しても、もちろん論じています。まさにまさに、有難いことですが、過分な書評を頂いています。これら一つ一つがわたしの宝です。お礼を申し上げるとともに、ここに紹介させて頂きます。拙著の「宣伝」でもあります。

書評(1):(フランスで哲学博士を取得し、日常活動と思想活動の統一を図ろうとする市民運動家でもある大学教授より):
まだ、完読していませんが、以下に示しました特徴があることに気付きました。
1:非常に分かり安く解説されている。
2:問題の所在が何か、極めて明確に指摘されている。
3:著者の分析や解釈の方法論の前提が明示されている。
4:歴史的視点で日本国憲法の構造が書かれている。
5:自民党案の問題点が上記視点から相対的に比較分析されている。

書評(2):(国際法、軍縮法の専門家より):
本が届いて最初はびっくりしましたが、出版の意図や目的を読ませていただき、また序章と終章を読ませていただき、平岡さんの言いたいことが良く理解できましたし、このような著述の理論的枠組みや過去の文献の分析などもよく理解できました。
全体的には、出版の意図は極めて明確であり、その理由付けというか、論理的分析も、多くの一次資料および関連学者などの論考を引用しながら、きわめて説得力ある形で提示されていると考えます。

書評(3):(MRICでもお馴染みの、血液病理学者の難波紘二先生より):
平岡先生は、奥付の略歴を見ると「昭和20(1945)2月、大阪生まれ」とあり、1969(昭和44)年に阪大医学部を卒業されている。私は1941/6の生まれだから、ともに昭和憲法下に育った世代だ。戦後日本が一度も戦争をせず、ひとりの戦死者も出さなかったことを誇りに思っている。この本のよい点は詳細な参考書目録と事項・人名索引がついていることだ。
いま読んでいるヴァイツゼッカー『言葉の力:ヴァイツゼッカー演説集』(岩波現代文庫)に「荒れ野の四十年」という名スピーチがあり、ナチスの犯罪について「民族全体に罪がある、もしくは無実である、といようなことはない。罪といい無実といい、集団的なものではなく、個人に責任がある」という一節があった。
リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーは旧西ドイツ最後の大統領であり、統一ドイツ(現在のドイツ)初代の大統領でもある。
平岡先生の本の「人名索引」を見ると、「ヴァイツゼッカー」がちゃんと載っており、『言葉の力:ヴァイツゼッカー演説集』が参考資料に載っている。この本を書くのに、ずいぶん勉強されたことがわかった。
私がまだ在職中のこと、広島大学が開学五十周年だったか、「統合移転完了記念」だったかの祝賀行事に、旧ソ連のゴルバチョフ元大統領を呼ぶという計画案が出たが、講演料が高すぎて実現せず、旧西ドイツのヘルムート・シュミット元首相を呼んだことがあった。
講演は英語だったが無線イアホーンを使った同時通訳(広島大の教官)が付き、約400人の聴衆(教職員・学生・一般市民)が集まった。私は英語を直接聞いたが、シュミットさんがヴァイツゼッカーの「荒れ野の40年」演説から、上記のくだりを引用して話したのが印象的だった。何語で話しても、名言は名言だ。
「ワイマール憲法」というもっとも民主的な憲法下で「ヒトラー独裁」という最も非人間的な体制が生まれたというのは、歴史の大いなる皮肉だが、人類は過去3000年の間に同じ過ちを何度も繰り返している。
自民党と「読売」の「憲法改正試案」も読んでだが、私は憲法前文にある、
「日本国民は、恒久的の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと務めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。」
ここが憲法問題の核心だと思う。
<平和を愛する諸国民の公正と信義>が信頼できなくなったら、<われらの安全と生存を保持>することもできなくなる。
平岡先生の著書は重要な一石を投じた本だと思った。

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