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2021年6月11日金曜日

文学的記述行為とリアリティ

- 方法としての記述行為の可能性について -

三石博行


197年代の始め、学生運動に挫折し、また、自然科学研究を生涯の仕事とするかという迷いの中で、息を潜めながら生活していた時、当時、水俣病患者の支援運動をされていた日本基督教団京都西田町教会の小林正直牧師(1973年日本基督教団長崎銀屋町教会牧師に就任、1989年逝去)と知り合い、小林先生の書庫(と言っても教会の2階にあった先生個人の本棚)にずらりと並んでいたドストエフスキー全集や解説書を片っ端から読み漁っていた。朝から晩まで、読んでいたので、夢にまで作品の主人公が現れ、彼らと会話までしていた。異常な精神状態の日々であった。

ドストエフスキーの作品、例えば「罪と罰」で主人公・ラスコーリニコフが老婆アリョーナと義理の妹リザヴェータ・イワーノヴナを殺し、ソーニャに会い、そして自首するまでの時間は、多分、1年もない。数日ではないかと思われる。その短い時間の流れとは別に、作者がきめ細かく描写するペテルブルグの風景、人々の心象風景、広場や街並み、人びとの姿、まるで私はそれらが見える様だったことを記憶している。例えば、ラスコーリニコフが老婆から盗んだ金(札束)をセンナイ広場(?)の敷石の下に、隠す場面があった。広場の風景、敷石の大きさ、その一つを持ち上げて、その下に、包みに入れた札束を置き、そして敷石を元に戻した。小説の表現がそうだったかは記憶にないが、まるで、私はその風景を見たかのように記憶していた。それだけではなかった。彼が初囚人たちとシベリアに送られるとき、彼よりも凶悪な囚人たちですら、彼に「旦那衆が斧なんかふりまわすのか(?)」とラスコーリニコフを罵った。その風景も非常に印象的だった。囚人服を着た荒々しい男たち、その中に青白いラスコーリニコフが居た。彼ら囚人たちは囚人輸送用の馬車の中で、シベリアへ向かって行こうとしていた。それは小説で描かれていた描写を通じて、私の脳裏に移るフィクションの世界の心象に違いない。

作者の記述行為(小説を書く)によって形成された(書かれた)文章、ストーリ。それは小説である以上、現実にある世界ではない。作られた世界・フィクションの世界だ。しかし、それらのフィクションが、読者に対してリアリティを持って迫るのは何故なのかと思う。もちろん、ドストエフスキーの小説は、当時の私の小さな生活の全て独占し、私は、ひたすら読み続け、読書にすべての時間を奪われ、夢にまでその場面や人物が登場し、また主人公たちと会話までしていたのだ。だから、その小説の世界は私にとってはリアリティの一部であったと言えるのではないか。まるで、私は、ドストエフスキーの小説の世界を体験をしていたのだとも言える。何故、私がその小説の世界で体験できたのか。それは、今になって、大きな疑問となり、また、哲学的な課題となっている。

色々な評論家や知識人(文学者)によるドストエフスキー個人やその作品に関する解説書、評論書、ドストエフスキー論を読んだ。その中に、もう著書名や著者名は忘れていしまったが、「ドストエフスキーは書きながら、実験をしていたのだ」という一節があった。その記述は今でも覚えている。作家にとって書くとは「実験」なのか。その実験の目的は何か。書く行為(記述行為)によって描き出された小説というフィクションの世界にリアリティを存在させることが出来るとすれば、それらの記述表現の構成、展開、表現内容はどう構築されるべきなのか。そもそも小説(フィクション)にリアリティを求める試みが可能なのか。結局、私は実験としての記述行為に疑問を投げかけてみた。何故なら、記述主体(作家)は、記述行為(フィクションを書くこと)によって、その書かれたものを自分の外の世界の一部として見つめることになる。記述行為の対自化によって、小説は自分(通時的に存在している主観的世界)から文化的に存在している対象世界の一部となる。そして、もう一人の自分(作家)が「この記述世界(小説)は事実存在し得る世界(リアリティ)として了解されるか」と、その記述内容の真偽を確認し始める。真偽の確認は記述行為によって可能になる。従って、この過程をある種の実験と呼ぶことができるかもしれない。実験としての記述行為は小説家に限らず、物書きと称するすべての人々に共通する行為のように思える。事実、私も書くことを通して思考実験を行っている。

私の心にこのドストエフスキー論を書いた作家のことばが50年経た現在まで残存し続けたのは、決して、偶然ではなかった。この言葉、ドストエフスキーにとって小説を書くことは、「そこにあるリアリティの存在を確認のための実験」なのだというテーマは、私自身の方法としての記述行為に関する理解となり、また、記述行為という人文社会科学の手法の在り方に関する疑問となって、展開して行った。つまり、記述行為の課題とは「ことばにとってリアリティとは何か」という問題であり、記述行為を通じて暴露されることばの偽善性でもあった。記述行為によって、私の欺瞞は露呈し、私の虚偽の影は外界に透けて現れる。そうした記述行為が方法論的に可能なら、それは一つの実験ではなかい。そう思っていいのか。どうなのか。

書くという行為は思考実験であると、以前フェイスブックに書いたことがあった(「思考実験としての書く行為」2019年14日フェイスブック記載)。思考実験としての書く行為とは、考えている課題をスケッチし、文章化し、その文章化されたものを課題別に整理し、整理された課題を分析し、その課題の核心を理解すための作業である。しかし、殆どの場合、そう簡単に、書くことで課題の核心を理解できる訳ではない。多くの場合、書いてみると不十分な点が明らかになる。もしくはその課題の困難さが見えてくる。

逆に言えば、書くことで課題の難しさ(各主体の未熟さ)が露呈することが、書く行為の目的である。何故なら、思索は、そのすべてを外化し(書き表し)、その書かれた私の思索の外観を、私自身が、もう一度、観察する作業によって、一つひとつ課題を深めることができる。こうした作業を通じて自分の思想や考え方がより確実に理解される。この作業を通じて、説得力のない文章に関する点検、論理的展開の不備、表現上の問題、不十分な資料分析等を点検することが出来る。そのために書くのである。

言い換えると、書くことは他者への表見であると同時に自己への確認でもある。書かなければ何とも生きづらいと感じている人々(物書き)にとって、日記、ブログ、評論、エッセイ、小説、詩、論文等々は、それが何であれ、書くために書き続け、書かざる得ない結果に過ぎない。人は、外化された自分と出会うことで、自己認識をしている。その作業は、人によって異なる。ある人は、ものを作り、あるひとは人々に奉仕し、ある人はギャンブルにのめり込み等々、それが何であれ、自己表現を通じてしか自己認識できない人間というやっかいな生き物の姿の、一面として、書く行為があり、それをより積極的に受け止めるために、書く行為を実験として位置づけようとしている。

それ故に、私は記述行為にとってリアリティとは何かを探ろうとしていたのだと思う。つまり、記述行為を通じて世界や自己を課題にしている人文社会科学の科学性の成立条件を理解する鍵がこの言葉に隠されていたのだと思った。



2021年6月11日フェイスブックに記載
 
2021年6月15日 修正




2020年7月3日金曜日

デジタル日記を書くこと



6月から、デジタル日記を書くことにした。一日の予定やその進捗状況の点検、毎日が連続しているために、今日のテーマは昨日のテーマの延長線上にある。そして、昨日の結果から今日の作業が始まる。こうした連続した毎日毎日の作業の予定や点検は、デジタル化した日記で反復される文章が簡単に記述化される。これも一種の「知的生産の技術」ということになるだろう。

ふと湧き出る詩も、その日記の中に書いている。その意味で、これまでフェイスブックに書いていたものが、日記になった。その分、自分の中の自分と会話が出来る。

本来、人にみせることを前提にしてわたしごとを書くもの、例えばエッセイ、感想、評論等々の書きものは、かなり難しい。私の姿を本音で書くためにはかかなり勇気が必要だ。多分、偉い小説家はそれが出来るのだろうが、しかし私にはそれは出来ない。

その意味で、フェイスブックに日記を書くということが出来るのは、よほどの人だけだろう。私は余りにも未熟なので、と言うか、欺瞞的な人間なので、それは出来ない。しかし他方で、それが出来るようになりたいとも思う。

哲学の意味は、現実の自分と向き合う力や方法を得るための思索活動だと思う。もし、自分の在りのままを書ける力を得るなら、もう哲学は必要ないでろうと思う。

2020年6月29日フェイスブックに投稿

2015年1月17日土曜日

フェイスブックで書く作業について

『知的生産の技術 基礎編』 8章「議論や討論の仕方、纏め方や文書化」 8-3、フェイスブックで書く作業について


三石博行


この文章は、フェイスブックで槇和男氏と「書くという作業について」フェイスブック会話を行う中で書いた文章である。これまで、ブログ文書集「知的生産の技術 基礎編」でレポートの書き方、ブログの使い方、インターネット公開議論の使い方、等々の知的生産の技術に関して書いてきた。今回、フェイスブックを活用する知的生産の技術「フェイスブックで書く作業について」に関して書いてみた。

1、自己発見としての作業


書くと言う作業は、思ったことを書くという作業だけでなく、思いもよらなかったことを発見する作業でもあります。

多分、思想とは、意識化されているだけでなく、無意識、もしくは前意識的に、存在している「生き方のルールや様式、もしくはレシピ」なのかもしえません。ですから、書いてみて、初めて、そういう考え方を持っていた自分に気付くのだと思います。

書くことは、ある意味で、自己発見の作業だという事になります。人は、非常に「ナルシスト」的に自我を作られていますので、沢山、そして多様な自分を発見したいと思うのでしょう。そして、書く、書く、書けば書くほど、色々な自分、思いもしなかった考えや感性を持つ自分、もしくは、逆に、分かっていると自信を持っていた自分が何も分かっていなかったということにも気付く、作業だと思います。


2、フェイスブックで書くために・完全主義からの脱却


書く作業に取って、最も障害になるのは、完全主義です。何か、論理的に完結したい、何か、正確な文章表現にしたいと思うのは、人に見せる条件で書いている文章であればあるほど、当然なのですが、そうなると、なかなかスムースに書けないのです。

ですから、このフェイスブックは丁度手頃で、誤字、脱字、もしくは陳腐な表現があっても、観る人はそんなにいないし、また、後で、訂正も削除の可能だし、読んでくれる人は、友人と自分が限定した人しかいない。殆ど、誰も見もしない。これだから、書きやすいとも言える。

そんなわけで、独り言を言うようにかいてしまう。これがフェイスブックへの投稿と呼ばれる「自分のための記載作業」の現実なのです。


3、フェイスブック友へ書くことによって、可能になる共同作文作業


実際、フェイスブックに書くのは、多分、日記のように書いていると思いますが、殆どの文章が、即、このボックスの中で、書かれ、それは、また同時に、即友人たちの目に触れることになる。フェイスブックでは、自然に思うことを何となく書く行為が、そのまま友人に聞こえる独り言のようになってしまう。

すると、友人だから可能になるのだと思うが、結構、面白いコメントが飛んでくる。そしたら、また、こっちも、何か書きたくなる。そうして、いつの間にか、友人と自分の間で、文章が出来てしまっている。気付くと、それらの文章は、結構、様になっている場合が多い。それに驚く、つまり、このフェイスブックは共同で作文をすることを可能にしいるようだ。

それが、このフェイスブックで時間を過ごしてしまう原因に成ってしまう。フェイスブック依存症の始まりかもしれない。しかし、面白くって止められない時もあるから、困ったものである。


4、書きたい時に書けばいい・自分なりのフェイスブックスタイルの確立


書く内容を内緒の日記の中に閉まっておきたいなら、誰も、フェイスブックでは書かない。ここに書くのは、明らかに読まれることを前提にしているからだ。この前提条件の上で、フェイスブックで書くことの面白さとは何か考えたい。

現在、私はフェイスブックを、まるで、日記のように、また、メールのように、そして、原稿の下書きのようにして、活用している。気の向くまま、思ったことを書く。しかし、このフェイスブックで書けば、文章はそのまま公開される。それで、その緊張関係を逆に楽しむ。

つまり、その分、「スケッチノート」と称するメモ帳に、いつもよくやっているように、落書きのような書き方(クロッキー)は出来ない。フェイスブックでは、一応、スケッチ程度からが許される。つまし、走り書きではなく、何を書いたかが読まれる(観る)人にわかる程度、描写は、構造化されていることが要求されている。

そうした緊張が、益々、文章を書く訓練となる。だから、何となく書いた文章が、論文やエッセイの材料となる場合もある。また、非常に稀であるが、一挙に、まとまった文章になって場合もある。殆どの場合、なかなかそう綺麗にまとまらない。そして、まとまらない文章は、フェイスブックには記載しない。それを別の、「文書」ボックスに保存し、また、別の機会に、再度、挑戦してみる。

書けない場合もあれば、書ける場合もある。いずれにしても、それは、現在の私の思索の現状を物語るなにものでもない。そうして、自分の思索を続ける。その一つの道具が、このフェイスブックである。

何も、みんなが私の様にフェイスブックを使っている訳ではない。書く行為は人によってそれぞれだと思う。自分の生き方があるように、それぞれの人にそれぞれの書くスタイルがあり、それぞれの書き方がある。それでいいと思うし、それしかないと思う。


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ちなみに、この文章も、槇さんとのやり取りの文章を引用しながら、即席ラーメンではないが、フェイスブック丼(文書コーナー)に、私の手から打ち出される、即席メンに、熱いお湯をかけて、作ったものなのです。


フェイスブック記載 2015年1月11日





https://www.facebook.com/profile.php?id=100008840341406


https://www.facebook.com/hiro.mitsuishi




ブログ文書集「知的生産の技術 基礎編」 8章 「議論や討論の仕方、纏め方や文書化」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/03/blog-post_19.html

2013年11月25日月曜日

参画型社会文化の成長 グループデスカッション方式の会議方式


フェイスブックに記載した文章
 
三石博行
 
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参画型の研究会活動、グループデスカッション方式の研究会

 

 
 
先日、11月16日と17日に大阪府吹田市にある千里金蘭大学で「第四回政治社会学会」を行いました。この学会は現代科学技術文明社会での政策提案や実現を課題にした政治社会学を目指しています。創立以来、文理融合の学際的視点に立った人間社会学の再生やその視点からの社会デザイン提案(総合的国際、社会、経済、文化政策提案)を課題にしてきたのだと思います。
 

 今回の研究大会で、グループデイスカッション(GD)方式を導入しました。テーマを選び、そのテーマに即した3つの研究発表が行われ、会場には、約5名を単位にするグループ分けが行われ、研究大会参加者はその一つに入り、その中でくじ引きをしてグループリーダを選び(場合によっては大学院の学生がリーダーとなります)、約1時間ぐらい議論をし、各グループリーダがそれぞれのGD内容を簡潔に報告します。
 

 勿論、分科会のテーマに関する結論を求めて、GDを行っているのはなのです。GDはコミュニケーションを一つの問題解決の方法として導入し、その過程の中で、多様な意見の理解、それらの違いを前提にした問題分析、問題解決への糸口を模索するための、練習場のようなものなのです。
このGD方式を、すべての政策決定過程に導入することが、このGD方式を政策決定過程の技能としてスキルアップすることが、政治社会学会会員の課題であると理解するために行っているように思えます。
 

 多分、このGD方式は、教育にも、また町内会の話し合いにも、もしかすると教授会や意思決定を行うための会議にも、活用できるのではないかと思います。
 

問題解決を行う能力の一つとして、コミュニケーション能力があります。PBL(問題解決型学習法)では学習参加者がそれぞれグループメンバー間で調査研究分野の役割分担、作業分担、リーダー役を決めますが、その作業自体が『問題解決」の一つの重要な過程として理解されているのです。テーブルを囲む前に、発表の前に、調査の前に、チーム作りを行うこと、お互いの意思を尊重すること、責任と義務を分担し合うこと、等々が学習の課題となってPBL教育は可能になります。
市民参加の政策提案活動を考える場合に、このGD方式やPBL方式は、大切な問題を提案しているように思えます。
 

 



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2012年3月24日土曜日

知的生産の技術の基本課題 日常生活時間の管理と作業課題

生活管理システムノートの作成


三石博行


決意は解決の手段にならない

一日一日の生活を確りと過ごすこと。今日という時間を十分自分の納得行くように組織すること。こうした当たり前の作業が実は非常に難しのである。多くの場合、それは決意の問題になってしまう。そして、それが出来ないのは自分の意志が弱いからだと思ってしまう。

知的生産の技術の立場から考えると、この課題を決意主義で解決しようとする方法は、誤りである。何故なら、この課題は知的生産力を高めることを課題にしいる。そのための技術や方法、考え方を検討するのがこの課題の基本であるからだ。

もし、生活設計や目標達成に失敗し続けているなら、失敗を導く生活スタイルや生活設計の中身を検討しなければならない。いくら決意しても、現実にその目標は達成できない。その原因を意志の弱さにするなら、実現不可能な目標を立て、無理なライフスタイルを強いること、そのため常に目標を達成できず、いつも間にか目標と決めて生きるという生活様式を諦めているのだということを点検する機会を失うことになるだろう。


惰性態としての日常生活の危険性

惰性的に生活時間が経過する状態を日常生活と呼んでいる。この日常生活と異なる生活時間がある。それは例えば、旅とか災害や事故などのハプニングにあってこれまでの生活スタイルが持続不可能な状態になる時である。それぞれの場合、生活主体はそれらの生活環境の状況に適した行動を選ばなければならない。

非日常的な生活環境では、危険を避けるために行動は慎重になり、また大胆になり、状況に合わせて行為が選択される。状況を理解し自分を最も安全に守るために、そして危険要因を排除するために、正確な状況観察、状況打開のための適切な行動選択、生活者は日常的な惰性態から非日常的な加速態にライフスタイルを変えなければならない。その時、精神の集中が問われ、緊張が強いられる。

しかし、日常的な生活環境では、過去の生活環境で得てきた情報が現在の生活環境にそのまま活用されるため、状況認識に精神を過敏に集中する必要はない。その分、楽だと言える。しかし、この楽さこそが、困難を導く要因となる。一定速度で、直進車線を運転している人々が、曲がりくねった道を運転する人々よりも交通事故に出会う確率が高いのは、道路の環境によるものではなく、運転手をおそう運転行為に対する倦怠感の発生が原因となる。つまり危険は外的状況からのみ生じるのでなく、内的状況によっても導かれるというのが一般的な理解である。

言い換えると、惰性態としての日常生活の危険性は、生活者の意識において生じる。昨日と同じように今日があり、今日と同じように明日があるという生活こそ、目標を持って生きる人々にとって、最も困難な条件であると言える。何故なら、旅のように行かなければならない状況として目標は外に設定されることはない。行かなくても行ってもよい日常的な目標が常に設定されっぱなしになる。その目標を常に意識的に外に出し続け、具体化し続け、目標を持ち続ける行為を維持し続けなければならない。


日常生活の惰性態への対策

そこで、多くの人々は外に明確な目標を設定できない日常生活に強制的に目標を設定する。例えば、この仕事は何月何日までに終えるとか、論文の締め切りや学会発表日、講演会の日程、約束等々。一般に他者との契約上で成り立つ仕事はその契約に強制される。それを社会的な仕事と呼ぶ。自由にやれる仕事は他の誰からも期待されるものでも、また必要にされるものでもない場合がほとんどである。

その意味で、社会的な日常業務には社会的な制約が入り、その制約に規制されて行動が選択される。これを労働と呼んでいる。労働とは社会的需要に答えるために行う行為である。社会的需要がある以上、その要求に答えた場合には社会的評価を受ける。その社会的評価のことを労賃(賃金や供与)と呼んでいる。

しかし、ボランティア活動のように、社会的需要がある行為でも、その行為が賃金として評価されない場合もある。また、芸術家や小説家のように、作品が売れるという保障もなければ、誰かによって発注されて仕事を請け負ってやっていない場合もある。そこで、ここでは社会的労働に限定されない非常に一般的な日常生活の行為を対象とする。

外から目標を要請された行為(労働)の場合には日常生活の惰性態によって生じる行為者の目標喪失の危険性はないと考えて、ここでは問題にしない。ここで問題となるのは、日常生活のルーチン化した作業に組み込まれている課題である。それらの作業は毎日の日課作業である以上、その内容を一つひとつ検証の対象にすることはない。実は、このことが、日常生活の中で目標を設定し、コツコツとやりこなす場合の大きな支障となっているのである。

そこで、まず、一日のうちどれだけの時間が日常的な生活時間として費やされているか書き出してみよう。例えば、朝起きる時間、その後、朝食や弁当を作り、食事をし、その片づけをし、仕事に行くための準備、歯磨き、着替え、仕事場に持っていく資料や書類等々の確認と出発するまでに多くのルーチンをこなしている。それらの日課化した仕事(家事)にどれだの時間を必要としているか。

さらに、家を出発して仕事場に着くまでの時間、通勤に必要な時間であるが、その時間中にやるべきテーマは決まっているか。そして、仕事場について、作業が始まるが、その作業もよくよく観察すると一般的実務作業と課題作業がある。例えばメールを確認し連絡を取る。必要な資料を集める。会議をする。打ち合わせをする等々。それらの毎日繰り返される実務作業を終えると、その日の課題作業に取り組むことが出来る。出来るだけ、実務作業時間を短くし、つまり集中して実務を終えて、課題作業時間を多く持つように努めなければならない。

しかし、いつまでも仕事は出来ない。疲れるしまた帰宅時間が来る。帰宅のために仕事を終える。仕事を終える場合に、必ず今日の進捗状況と明日の課題が明確になるだろう。そして、疲れた身体を労るようにして帰宅することになる。だから、帰宅時間中は何かを集中して行うことがきない場合もあるだろう。

帰宅して、食事、着替えやお風呂に入り、明日の仕事の準備をし、テレビを見たり、家族と話したり、家事をしたり、休養のための生活時間が必要である。当然、健康のために、スポーツやジョギングをする時間も必要となるだろう。

一般に月曜日から金曜日までルーチンワークを基本とする生活時間が設計されている。土曜日や日曜日は、家族と過ごす時間や庭いじりや家の掃除などに使われるだろう。こうして、一週間が過ぎる。この一週間の生活時間を繰り返し、一ヵ月や一年間という単位の生活時間の設計が生まれる。

この日常生活の中に、色々な事件、病気や事故が起り、日常生活のリズムを破壊する。また、仕事上の都合で、出張や転勤が起り、日常生活の環境は変更され、新しい生活環境に適した生活のリズムが形成される。こうした生活を繰り返しながら、いつの日か老いて、退職し、そして老後と呼ばれる生活環境に入る。そうこうしている内に人生は終わる。


生活管理ノートの作成

日常生活の記録を取るという作業、日常生活の現実を明記し、日常生活を維持するために必要な生活時間を把握しておくことが、その日常生活の中で人生の目標を実現する方法の第一歩、基本的な態度であると言える。

一日の目標を書く前に、一日のルーチンワークの時間を書いてみる。すると、一日の中で、それほど多くの時間が目標に向かって作業するために用意されていないことを見つけるのである。時間のやり繰りこそ、日常生活の中で見つけなければならい技術である。どのように生活環境を維持するために必要な生活行為の時間を集中短縮するか。そして、仕事に必要な実務作業時間を集中短縮する方法を考え、その技術を開発することが、知的生産の技術の基本となる。

もっともいい方法として、日常生活での作業を書き出し、チェックする方法を見つけること。さらに、一日の生活時間を現実的に理解し、配分できる訓練を毎日行うこと、そうした作業を可能にする生活管理ノートを作る必要がある。

そして、毎日、生活行為を自己評価する作業を入れることで、日常生活の惰性態への対策が可能にとなる。しかし、それだからと言って、問題が解決したのではない。こうした作業は問題を解決するための入り口、生活時間、作業条件を整えるためのものでしかない。つまり、100メートル走が始まる前の準備体操のようなものである。よく準備体操をしていないと走れないのである。また、昨日準備体操をしたから、今日は不要だと言うことは絶対にないように、毎日、スタートラインに立たされた我々は毎日その前に準備体操をしておく必要があるのだろう。


引用、参考資料

三石式 生活管理ノート
近日中に公開します。


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関連ブログ文書集

三石博行 「知的生産の技術 基礎編」


2012年3月26日 誤字修正

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2012年3月19日月曜日

ブログ文書集「知的生産の技術 基礎編」

「知的生産の技術 基礎編」の目次

三石博行


1. カード式ノートの作り方

1-1、大学でのノートの作り方(1)
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/11/1_24.html

1-2、大学でのノートの作り方(2)
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/11/2.html

1-3、ノートの作り方
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/tensou/note2.htm

1-4、ノートの作り方 技術
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/tensou/note1.files/frame.htm

1-5、カード式ノートの提供
Excel文書(近日公開)


2. レポートを書くためのステップ1

2-1、「レポート材料の作り方」について(1)
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/01/1.html

2-2、「レポート材料の作り方」について(2) 
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/01/2.html

2-3、「レポート材料の作り方」について(3)  
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/01/3.html


3. レポート材料の作り方 テキスト批評

3-1、「テキスト批評」書き方実例紹介
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/01/blog-post_13.html


4. 本や論文の読み方(テキスト批評の例)

4-1、姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』プロローグのテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/11/blog-post_29.html

4-2、畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』第一章「失敗学の基礎知識」のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/11/blog-post_6897.html

4-3、菊田幸一著『日本の刑務所』第一章「受刑者はどのような存在か」のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/11/blog-post_25.html


5. 映像や録音資料の分析(テキスト批評)

5-1、「クローズアップ現代『犯罪“加害者”家族たちの告白』放映記録のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/06/blog-post_22.html

5-2、NHK 朝鮮半島と日本 「倭寇(わこう)の実像を探る 東シナ海の光と影」のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/07/blog-post_2310.html

5-3、NHK EV特集 「元寇蒙古襲来 三別抄と鎌倉幕府」の映像資料のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/07/blog-post_6943.html

5-4、NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」 イムジンウェラン 文禄・慶長の役のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/07/blog-post_6656.html


6. レポート作成作業

6-1、レポートの書き方
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/tensou/report.files/frame.htm


7. 知的生産の道具としての日記・ブログ.etc

7-1、Blogger から投稿実験
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/09/blogger.html

7-2、ブログという知的生産の技術について
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/01/blog-post.html

7-3、日記的記述法(ブログ)から物語的記述法(ホームページ)へ
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/01/blog-post_919.html


8. 議論や討論の仕方、纏め方や文書化

8-1、インターネット公開議論の可能性(ソーシャルメディアの活用)
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/10/blog-post_30.html

8-2、仮面を被った討論参加者に囲まれて(Mixiとフェイスブック)
http://mitsuishi.blogspot.jp/2010/11/blog-post_4551.html

8-3、フェイスブックで書く作業について
http://mitsuishi.blogspot.jp/2015/01/blog-post_51.html




2012年4月4日、2015年1月19日変更
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ブログ文書集

ブログ文書集「21世紀日本社会のための大学教育改革の提案」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_6795.html

ブログ文書集「生活すること考えること」の目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/03/blog-post_424.html

ブログ文書集「プログラム科学論・自己組織性の設計科学」の目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/03/blog-post_3891.html

ブログ文書集「日本の政治改革への提言」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_9428.html

ブログ文書集「持続可能なエネルギー生産社会を目指すために」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/11/blog-post_2842.html

ブログ文書集「民主主義社会の発展のための報道機能のありかた」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/12/blog-post_03.html

ブログ文書集「東日本大震災からの復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html

ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_3562.html

ブログ文書集「福島原発事故から立ちあがる市民」の目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/03/blog-post_18.html

ブログ文書集「市民運動論」の目次
近日公開

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2012年1月19日木曜日

ブログという知的生産の技術について

生活行為や思索点検としての文章化作業 


三石博行



メモ帳を使った作業

殆どのアイデアは、メモ帳にまずスケッチされる。それを発想のスケッチと呼ぶ。メモ帳には、アイデアのみでなく、インターネット等々の情報も入力される。これらの材料が、ブログ文章を書くためにまず必要となる。

メモ帳を使って、まず、思ったままを書いてみる。書きながら考えがまとまる。勿論、まとまらない場合が殆どだろう。しかし、書くことで思索作業が進むことは確かだ。

メモ帳と使った作業で、公開して良いもの、つまり、他人が時間を費やして読む価値があると私が主観的に判断したものだけをブログで公開する。

このメモ帳を使った作業の目的は、ブログの文書や論文の準備ではない。あくまでも思うままのこと、ヒョイと浮かんだ考え、アイデアを書き写すためのものである。思うままに書くことに、このメモ帳に書く意味がある。


ブログを使った作業

日々考えることを書き綴る道具としてブログと呼ばれる日記風の文書化がある。ブログは公開される文章である。そのため、自分の思うままに書くことをそのまま公開することは出来ないだろう。それらの文章が意味不明、人々の気持ちを害する、まったく他者の興味のない、つまり公共性を持たない等々の可能性がある場合、文書の公開は百害あって一利なしと呼ばれる結果を生むだろう。それが明らかなら、あえて文書を公開する必要はない。公開という作業は、公開することの意味を前提にしていることで可能になっている。

もし、情報の公開という作業を自分だけの自己満足の作業にするなら、インターネットという社会的資源の無駄遣いをすることになるだろう。また、それによって、他者に不愉快な気持ちを与えたり、まったく世の中の理解を得られない情報、間違った情報を発信することはあまりよいことではないと思う(これは私個人の考え方であるので、他の人に強制しようとは思わない)。

社会に伝えたいことをスケッチし、それらが一定の形式や内容(中身)を得ることが出来た時、その文章をブログとして公開する(社会に伝える)。これが私流のブログ文章化作業である。そのため、私はブログ文書はテーマを絞り、できるだけ分かりやすく書くこと、そして短い文章にすることに努めようと思う。

ブログを書く作業で、例えばスケッチした文章をブログ日記に書きなおすことになる。その中で、ブログ上の文書編集を行う。それらの文章は一定のテーマを与えられ、何らかのキーワード(中心テーマ)が与えられる。それらのキーワードとは日常的に思い続けている課題とリンクしている。

私の場合、ブログで書く作業とは、日常生活の中で思索し続けてきた課題を纏めるということを意味する。つまり、ブログを書くことで、それらの課題を顕在化し、継続化し、分析、整理し、自己の中にある他の論理や指向性との整合性を求めることになる。一般に書くという作業が、こうした自己整合性の確認や点検の実験を意味する。そこで、私はこのブログのタイトルを「生活運動から思想運動へ」としたのだ。

もし、生活行為がある生き方に従うように企画されるなら、そこには大まかな生活行為の指向性が生じる。それらするいてみる。そして、それらの思索が方向性を持つ限り、それらの思索を綴った文章は、断片から文章集に変貌するだろう。そして、文書集への変貌は、断片的思索を一定の方向に導きまとまった主張に発展する。そのために、文書集の目次が書かれ、また、その中には予定された文章項目が入ることになる。説得力のある主張を行うことが、文章集を作る作業の目的である。

しかし、それらの文章が予定されたように完成される保障は何もない。それらの予定は常に頭の中で描かれたものでしかない。そのため、内容をの構想にすぎない。多分に、予測された文書集の目次とは別の展開が始まることになる。しかし、それらの全ての作業が、ブログを書くという思索の点検や再編集作業、思考実験であると言えるだろう。

文書の進化過程は、以下のようになる。
1、文書編集
2、文書集の編集
3、文書集としてまとめる。

ブログ文書の形式は、文章だとブログ形式で十分であるが、論文形式の場合、表や図面が入るとそれらをを張り付ける必要がある。そのための、技術的な問題を解決してきた。そして、それらの文章が最も簡単にPDFファイル形式で作成できるので、その文章をホームページに添付することになる。


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2011年11月2日水曜日

同志社大学「PBL教育フォーラム2011」参加して

参画型授業の開発(1)


三石博行



PBL(Problem Based Learning )教育の必要性

2011年10月22日、同志社大学の新町キャンパスで同志社大学PBL推進支援センター(山田和人センター長)の主催、株式会社SIGELの共催で、「PBL教育フォーラム2011」が開催された。このフォーラムの参加定員は300名であった。私はこのフォーラムに関する情報を河村能夫龍谷大学経済学部教授や高等教育研究会事務局の佐々江さんから教えてもらって、開催日前の19日になって慌てて参加登録をお願いし、何とか参加することが出来た。

PBL教育に関しては、以前から非常に興味を持ち、河村能夫龍谷大学教授とUCSF(カルフォルニア大学サンフランシスコ校)のM.Kevin教授(不幸にして8月に交通事故で他界された)を龍谷大学の教育開発研究センターの協力を得て、2回龍谷大学に招待し講演会を開催したことがあった。

PBL教育は世界中の大学で課題となっている。何故なら、大学は高度に発達してゆく知識社会を担う人々を育てなければならない。自ら学ぶ力、つまり学ぶ姿勢を持つ人材教育が大学教育の重要な柱となっている。そして、参画型授業の一つとしてPBLが開発されてきた。しかし、PBL教育は日本の大学教育では十分に普及している訳ではない。

早稲田大学や同志社大学のようにいち早くPBL教育を大学教育制度改革に取り入れようとしている大学がある。そして、今回、同志社大学で開かれた「PBL教育フォーラム2011」はこれまでのPBL教育成果を報告した始めての試みであったと言える。


同志社大学PBL教育、社会連携型PBL教育方法によるプロジェクト科目

同志社大学ではPBL教育の土台となるプロジェクト科目を2006年に全学共通教養教育科目に設置した。このプロジェクト科目はPBL教育をベースにした学生主体の社会連携型のチームで行われた。このPBL教育方法でのプロジェクト科目は2006年度の現代GP(文部科学省による大学教育支援プログラムの一つで「現代的教育ニーズ取組支援プログラム」)にも採択され、2008度末までPBLをめぐるシンポジウムや報告書、調査訪問、PBL研究会の活動等を同志社大学は行ってきた。

2006年からのPBL教育方法でのプロジェクト科目の試みは、2009年度「プロジェクト・リテラシーと新しい教養教育~課題探求能力を育成するPBL教育の方法論的整備~」として展開され、その斬新的教育プログラムは評価されGPに採択されました。2006年度のGP採択は学生主体の社会連携型のチームを課題にしたプロジェクト科目による地域連携教育であったのに対して、2009年度GP採択は、教養教育PBL(プロジェクト科目)が目指すプロジェクト・リテラシーの育成が評価の対象となった。

こうした社会連携型、つまり社会の教育力を大学に取り入れるPBL教育でのプロジェクト科目や、全学部対象の教養教育PBL 推進を進める中で同志社大学では共通教育センターに所属したPBL推進支援センターが2008年11月に発足したのである。


同志社大学PBL教育推進支援センターの活動と教育思想

同志社大学のPBL教育推進支援センターが主催した2011年10月22日の「PBL教育フォーラム2011」で、同センター長の山田和人教授が挨拶を行った。山田教授は「PBL教育フォーラム2011」の主人公は学生であると述べた。この「PBL教育フォーラム2011」はPBL教育を実現した学生たちが中心となって、PBL教育をサポートした企業関係者、大学職員や教員と共に、その経験を交流する会であること、また、フォーラムでの発表を通じて、学生が自らの成果を確認し、さらには、他の大学でのPBL教育を実践した学生たちの発表を聴き、その成果や反省と自らのそれとを比較検討しながら、今後の学習に活かして欲しいと山田和人教授は話した。

そして「PBL教育フォーラム2011」で発表し討論する学生の姿(姿勢)を通じて、PBL教育の成果を理解することが出来ると、山田教授は参加者(企業関係者、大学職員、教員)に述べた。このPBL教育を実現するために、協力した企業の関係者、大学職員も今回のフォーラムに多数参加していた。このフォーラムがPBL教育プログラム(プロジェクト科目)に参画した学生たちが参加していることと同様に、PBL教育を支援した企業関係者や大学職員が多数参加している点も、これまでの大学でのフォーラムとは異なっていた。


山田和人教授の挨拶(YouTubeで公開)
http://youtu.be/8av13DzsUTA





PBL教育には、明らかにこれまでの教師の立場から観た教育スキル論である大学教授法と異なる視点や思想が求められていた。そのことを山田和人教授は「このフォーラムは学生さんが主役です」と述べた。つまり、学ぶ姿勢を身に付けるためには、学生が自ら、学ぶ場の主体となり(学生による授業企画や運営)、学生のための授業内容が検討され(学生が授業進行段階で授業評価を行う)、学生によってその成果が評価される(参画した学生の主観的な満足度や充実観が評価の大切な基準となる)。

つまり、PBL教育を推進するためには、大学が、教員や職員が自らを変えなければならないことが問われているようだ。


PBL教育の成果としての学生の姿

フォーラムは3つの課題(三部)に分けられて構成されていた。第一部では、アップル・ジャパン株式会社の益田玲子さんの「社会で求められている実力とは Why PBL?」と題する基調報告が行われた。 益田玲子さんはアップル社がその創設期から教育という課題を常に追求してきたことや、現在でも教育へ貢献する企業戦略を持ち続けていることを述べた。

第二部はPBL教育を経験した学生たちの発表で、早稲田大学、明治大学、甲南大学、広島経済大学と同志社大学のPBL教育を担当した教員とそれを企画した学生たちが発表した。殆どの大学の発表者は一回生から4回生までの学生たちで、学年を越え学部を越えてプロジェクト科目に参加しPBL授業を運営していた。それらのすべての発表はどれも素晴らしいものであった。ここまで、学生が成長するのだと、参加した我々は痛感したと思う。

しかし、これらの学生の成長を痛感させてくれたのは第三部のパネルディスカッキョンの時だった。全く、予行練習もなく、発表した5つの大学から一人づつパネラーが壇上に上がり、ディスカッションの司会役の山田教授が「このパネルディスカッションは学生によって運営されるため、私(山田教授)は司会といっても、ディスカッションの中には入らない」と最初に述べた。一体、このパネルディスカッションのどうなるのだろうかと参加した多くの人々は思っただろう。しかし、パネラーの中から早稲田大学教育学部3回生の池ヶ谷英里さんが自然と司会者役を担い、他の4つの大学のパネラー達の発言を誘導し、ディスカションの進行を務めた。

この彼女のみごとな司会ぶり(みごとなパネルディスカッションのリード)に、参加した我々から一種の驚きや最高の評価としての「笑い」が生じた。そして、会場は活気づいていった。参加したパネラーは堂々と自分たちのグループで議題になったことや、自分の意見を述べた。

まさに、この学生たちこそがPBL教育の成果である(フォーラムの挨拶で山田和人教授が冒頭に述べとことば)のだと深く感じ入ったのであった。


参考資料

GP(大学教育の充実 –Good Practice)
文部科学省ホームページ(http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/kaikaku/gp.htm)
「文部科学省では、国公私立大学を通じて、教育の質向上に向けた大学教育改革の取組を選定し、財政的なサポートや幅広い情報提供を行い、各大学などでの教育改革の取組を促進するため、「特色ある大学教育支援プログラム(特色GP)」、「現代的教育ニーズ取組支援プログラム(現代GP)」及び「質の高い大学教育推進プログラム(教育GP)」を実施しています。
 平成21年度からは「大学教育・学生支援事業」のテーマA「大学教育推進プログラム」において大学教育改革の取組を推進しています。」

文部科学省大学教育・学生支援推進事業【テーマA】大学教育推進プログラムシンポジウム
2009年度「未来を切り拓くPBL-「教育」の壁を越えて-」
同志社大学PBL推進支援センターホームページ
http://www.doshisha.ac.jp/academics/activity/sympo100220.php

同志社大学PBL推進支援センター 
http://www.doshisha.ac.jp/academics/institute/ppsc/suishin.php


三石博行 河村能夫
「最先端医学教育 UCSFのJMB(Joint Medical Program)・複数専門知識修得の意味 」 
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/ucsfjmbjoint-medical-program.html


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ブログ文書集

1、ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_3562.html

2、ブログ文書集「東日本大震災の復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html

3、ブログ文書集「日本の政治改革への提言」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_9428.html

4、ブログ文書集「21世紀日本社会のための大学教育改革の提案」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_6795.html


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2011年11月4日 誤字修正

2011年1月13日木曜日

「テキスト批評」書き方実例紹介

三石博行

河野哲也著書『レポート・論文の書き方入門』を活用した「テキスト批評」書き方実例紹介


はじめに

河野哲也著 『レポート・論文の書き方入門』の「2章 テキスト評価という訓練法」 pp13-29を資料(資料1)にしながら、テキスト批評、つまりテキストの要約、批判的分析と課題をまとめる。

この作業は、選択した資料が課題に関する記述を行っている訳であるが、それに対して、大学の一般教育課程の科目で求められるレポート作成の材料としてのテキスト批評のあり方を示す。

つまり、この資料自体が、レポート作成の材料としてのテキスト批評の書き方を示したものである。特に、資料1ではこの教材の参考に活用した河野哲也著『レポート・論文の書き方入門』「2章 テキスト評価という訓練法」pp13-29の文書にこの教材の著者(三石博行)が、要点と思われる文書の箇所に線を入れ、またそれらの要点の文脈全体をテキストへの入線箇所に数字を入れることでまとめた。

教材著者(三石博行)と資料1の著者(河野哲也)とはテキスト評価の仕方が異なるのであるが、まずは、第一節で河野哲也氏のテキスト評価の方法を忠実に要約した。そして、第二節で、河野氏の提示した展開を批判的に展開活用しながら、この教材著者三石博行のテキスト評価の方法を述べた。

テキスト批評がグループ学習用の材料として活用することが河野氏の提案であった。学部学生の教養教育科目で、専門的なテキスト批評作業は不可能であるが、短いテキストを選びテキスト批評作業を簡素化することで可能になるかもしれない。その課題もここで検討したい。

この文章は長いですので、読むのは大変だと思いますが、河野氏が「第2章 テキスト評価という訓練法」を活用しながら、そのテキスト批評を行うという作業ですので、言わば、資料を読むことによって、テキスト批評の方法を学び、その資料を活用してテキスト批評をした教材(この文章)を読むことで、さらに、テキスト批評の仕方を復習するという作業になります。


第一節 資料説明と文献コード化の方法


1-a、テキスト批評用の出典を示す

1、著者名 河野哲也 現在 立教大学教育学科教授 ( Wikipedia )
http://ja.wikipedia.org/wiki/

2、著書名 『レポート・論文の書き方入門』 第3版の中の
「第2章 テキスト評価という訓練法」 pp.13-29(13頁から29頁まで)
 
3、出版社 慶應義塾大学出版会

4、出版年月日 1997年8月8日 初版発行

5、著書形態 A5形式 116p.(B5の大きさで、本文116頁数の本)

6、コメント 著者はベルギーのUniversité Catholique Louvain ルーヴァンカトリック大学の博士課程を修了、哲学博士号を取得、専門は哲学、倫理学と言語論や表現教育である。


1-b、出典表示の方法

三石式 文献資料のコード化

三石式 文献コード化では河野哲也 (Kouno Tetsuya) 著書『レポート・論文の書き方入門』 第3版 1997年初版は、(KOUNte 97A) となる。

著者名のコード化(KOUNte)であるが、河野は姓であるので 大文字で KOUN、一般にはじめの3文字から4文字を取り出す。そして、哲也は名であるので、小文字を使い te 一般にはじめの1文字から2文字を取り出す。その結果、著者名コードは(KOUNte)となる。

出版年度のコート化は、この著書の出版年月日は1997年7月であるので年度表示を97とし、年度のコード化は(97)する。

また、文献の種類の表示であるが、著書の場合と論文の場合を分けるために、著書の場合は大文字のABCを使い、一年間に三冊の出版がある場合には 例えば97A, 97B,97Cとなる。また、論文の場合は小文字abcを使い、一年間に5本の論文がある場合には、それぞれ、例えば 97a, 97b, 97c, 97d, 97eとなる。

年度の表現は 2000年からは 2000年が00、2001年は01となる。つまり、2010年は10となる。その年度表現と上記した同年度に出版された文献数とその種類別表示を一緒にして、例えば1997年に出版された第一冊目の本は(97A)と表現することになる。

上記の手順と決まりを前提にして、著者名、出版年度、論文形態と著書形態、同年度の出版の数が表記されたコード、(KOUNte 97A)が生まれる。

しかし、この文献コード表現では、1950年の論文は50となり、2050年の論文も50となるので、文献は100年間の期間が限度となる。



第二節 資料要約の方法とその具体例


2-a、要約の方法

1、 資料 『レポート・論文の書き方入門』の中の「2章 テキスト評価という訓練法」 pp13-29(13ページから29ページまで)の内容の要約をまとめる。上記の文献コード名で示すと、(KOUNte 97A pp.13-29)と表示される。

2、 活用資料は 分析資料の各節毎に行う。

3、 資料作成では 引用文章は「 」で囲み、必ずテキストの頁を最後に付ける。そして、引用資料のページ数の記入も行う。つまり、テキストの19から20頁の文を引用するなら、引用した文章の跡に、(KOUNte 97A pp.19-20)と記入する。


2-b、要約例(KOUNte 97A pp.14-29)


2-1、「テキスト批評とは何か?」(KOUNte 97A p.14)

著者は、テキスト分析、評価や解釈の方法を文学研究で行われてきた文献注釈の手法「テキスト批評」から説明している。

つまり「テキスト批評は、文学的著作の注釈として始まった」(KOUNte 97A p.14)もので、「文学書を読んで … 分析的に解説して、その著作の魅力や豊かさを最大限引き出そうとする努力」(同上 p.14)方法である。

この「テキスト批評は、テキストを批判的に検討する能力を養うと同時に、… レポートや論文を書くためのよい準備や訓練と」(同上 p.14)となる。

「現在では、著者の主張を批判的に検討する読解・解釈の仕方として、文学専攻にとどまらず、人文・社会科学のさまざまな分野で採用」(同上 p.14)されている。


2-2、「なぜ本(テキスト)を読むのか?」(KOUNte 97A pp.15-16)

「人文・社会科学系の分野では、過去の重要な著作をテキスト(教科書)として講読(こうどく)することが不可欠」(同上 p.15)である。何故なら「古典と呼ばれているものは、単に古き良き教養を身につけるために読むのでなく、そこに表れている著者の現実の捉え方、ものの見方を学ぶためにある」(同上 p.16)と著者は述べている。

その哲学的な意味に触れ、著者は「事実そのものは、知識や理論とは独立に存在」(同上 p.15)しておらず「事実(=情報)は、それを受けつけるための知識や理論(=プログラム)を前提にして」(同上 p.15)成立していると述べている。

例えば、自然科学の観測では、「観測装置や実験装置は、そうした知識や仮説に基づいて製作され」(同上 p.15)ており、「事実は、知識や理論が与えてくれる現実の捉え方やものの見方と相関して」(同上 p.15)いるのである。つまり、観測された世界とは認識プログラムによって解釈された世界を意味する。「事実を捉えるためのプログラムを自分に与える」(同上 p.16)ことによって、世界の見方は変化して行く。プログラムとは世界を解釈する理論であると著者は考えている。言い換えると、「理論と呼ばれるものは、この事実の捉え方を抽象化・体系化したもの」(同上 p.16)である。

つまり、テキスト(例えば古典)を読むことによって、テキストに書かれている知識を身につけることだけでなく、今や古典とよばれるテキストの展開、分析を助ける「現実の捉え方、ものの見方を学ぶ」(同上 p.16)ためである。テキストを読解する作業で、理論と呼ばれる「事実を捉えるためのプログラム」(理論、言い換えると現実を理解するための方法)(同上 p.16)を身につけることが大切な課題となる。

そして、理論(著者がテキストの中で示す世界の見方の方法)を使って、「本当にうまく事態が理解できるのか」(同上 p.16)、言い換えると「問題が解決できるのか」(同上 p.16)、テキストで示されなかった「別の問題」(同上 p.16)にも解決能力を発揮しているのか、その理論の汎用性を点検することが課題になる。

最終的に、著者が提示した理論や「主張をさまざまな問題や事例に適用しながら検討していく」(同上 p.16)作業(テキスト批評)によって「問題意識やテーマ設定能力を養う」(同上 p.16)ことが可能になるのである。これがテキスト批評を行う最終的な目的であると言える。
その意味で、「テキスト批評は、知識の習得と、自分独自のテーマ・問題の発見を橋渡しする訓練」(同上 p.16)である。


2-3、「テキスト批評の仕方」(KOUNte 97A pp.17-28)


2-3-1、テキストについて

テキスト批評をはじめて行う学生に以下の3点の具体的な著者提案を述べる。
1、数ページから多くても十ページまでのテキストを選ぶ。

2、ゼミで、数人のグループを作り共通するテキストを講読しゼミの議論に活用する。

3、その場合、一人が担当する課題は一節が適量となる。

4、議論を活発にするために、専門分野によって「定評あるオピニオン誌の論文」(同上 p.17)や政策論題や価値論題など明らかな主張を持つ新聞社説や主張の明らかなテキストを選ぶとよい。


2-3-2、(テキスト批評)全体の構成

上記した数ページのテキストの批評の場合には「A4のレポート用紙に2-3枚程度」(同上 p.17)、「十ページの場合には、4-6枚程度が目安」となる。

著者は、ゼミで議論を行うことを前提にした全体の構成を以下5つ部分に分けた。

1、目的を提示する。

2、要約を書く。

3、問題の提起を行う。

4、議論を行う

5、まとめを行う

以上示した1から5までの構成要素に関する具体的な説明を行う。
1で示したテキスト批評で書くべき文章である「目的の提示」は「5-10行ほど」が適当な分量である。その内容は、まず「どんなテーマのテキストについての批評(コメンタリー)なのか、当該部分で著者がどんな議論をしているかごく大まかに説明する」(同上pp.18-19)ことである。

2で示したテキストの要約は、「テキストの丸写し」でなく(同上p.20)、「著者の主張を自分なりに」(同上p.20)まとめながら、「テキストの順を追って、原著者の主張を把握し、理解することに努め」る。(同上p.20) テキストの「各文段(パラグラフ)を、こくみじかく、1-2行程度の一文に要約」する。(同上p.20) そして、「テキスト中の重要な用語、歴史的人物、事件などについては説明を与え、テキスト理解に役立つと思われる解説を入れる」(同上p.18)。さらに、テキスト「要約箇所がテキスト上のどの部分に該当するのか、」「出典を明示するため」に(同上 p.21)、テキスト批評文には忠実に引用テキスト名と「ページ数を丸カッコの中に入れて示しておくこと」である。(同上 p.21) 最後に、テキスト批評の要約は「全体の30-40%ほど」の分量で書くのが良い。

3で示したテキスト批評を構成する「問題の提起」であるが、これが「テキスト批評で一番重要」な部分であり、「批評全体の成否はここで決まって」しまう。テキスト批評での問題の提起とは「著者の主張のうち」「自分で関心を持った主張」や「中心的・重要と思われる点を1-2点ピック・アップ」(同上p.18)(同上p.22)し、その「理由や根拠を示」しながら「原著者の主張について、疑問、是認(ぜにん)、反論(ないし批判)を行」う。(同上pp.22-23)この問題提起は、テキスト批評文の「全体の10-20%ほど」の分量を占めるのがよいと著者は述べている。

4で示した議論とは、上記した3の問題の提起を行う作業を意味している。問題提起した課題に関して「自分の主張を論理的・実証的に裏づけ」(同上p.18)ながら「議論を展開する」(同上p.18)ことが求められる。この議論の進め方(書き方)は、議論の仕方を学ぶ方法としてディベートを行うが、必ずしも賛成と反論の立場を明確にして行うディベート方式でなく、「ディベート(討論)で用いられる質問・尋問(じんもん)や反論の方法」(同上p.23)をテキスト批評の議論に応用することが出来る。つまり、この議論に関する課題は、上記した「テキストについて」で示したが、ゼミ形式で共通するテキストを使い、数人のグループを作り講読しながらテキスト批評を行う作業(議論)について、理解しなければならない方法や作業内容が述べられている。

著者は議論を構成する四つの要素を述べている。一つは、ある前提、根拠や推論から成り立っている著者の主張である。二つ目は、その主張の展開を構成する問題提起である。三つ目が、その問題提起に対して否定的や肯定的な推論(結論)に対する反論を示すことである。そして四つ目は、それらの反論(反証)を通じながら著者の考えに対する自分の主張を述べることである。テキストで述べられている著者の主張に対して、自分の主張を述べることが議論の課題であり、その目的である。つまり、自分の主張が「議論」での結論となる。

このテキストでは結論を導くために、三つの論理的展開の方法を示している。一つ目は、「反論-否定的結論」型(同上p.26)と呼ばれるもので、「著者の主張を批判し…否定的な結論にまとめる」ものである。著者の考えに疑問を投掛け反論するやり方である。もう一つ目は、「反論-代案の提示」型(同上p.26)と呼ばれるもので、一つ目のように単に反論に終わらす、「自分の代案を提示」(同上p.26)するやり方である。三つ目は、反論というよりテキスト著者の主張を限定的に了解し、それを補足する代案を提案するやり方で、「著者の主張の限定-補足・代案の提示」(同上p.27)と呼ばれている。最後の四つ目は、テキスト著者の主張を肯定し、さらに「ありえる反論に対して再反論しながら肯定するために」(同上p.27)著者の論理や主張に補足を加える方法である。

以上、テキスト批評の最も大切な課題である議論に関する文書は、この批評「全体の30-40%ほど」(同上p.18)の分量を占めることがよいと著者は述べている。以上が議論に関する要約内容である。

最後に、5で示した「まとめ」について、このテキスト批評の「最後に、これまでの全内容を手短にまとめる」、「とくに、著者の主張のピック・アップからの」テキスト文脈の「流れを考慮しながら、自分のコメントを要約」することが述べられている。そして、まとめで「新たな議論を展開」するように注意している。(同上p.28)つまり、まとめとは「あくまで要約や整理に徹して」(同上p.28)書くことであると述べられている。そして、この「まとめ」に費やされる文書の分量は「全体の30-40%ほど」(同上p.18)が適量であると述べられている。


2-4 「テキスト批評の効果」

著者は、このテキスト批評の書き方の説明を「大学のゼミナールで行うことを想定して」行なった。「この批評を日常的に繰り返し行うことで、テキストを批判的に検討することや、卒業論文などのテーマ・問題を設定する際に役立つこと」(同上p.29)を述べた。

このテキスト批評は共通のテキストを用いて行われるグループ学習や議論のために具体的な方法が示されたのであるが、「卒業論文のテーマに関係する著作や論文について」も(同上p.29)、このテキスト批評のやり方で、分析、批判、評価や解釈を行うことが必要となる。それらのテキスト批評を参考にしながら、自分の課題を展開し、検証することが可能になる。

その意味で、このテキスト批評の延長線上に「レポートや論文」があることを理解しなければならない。



第三節 資料(テキスト)の批判評価・解釈と方法と具体例

3-a、テキスト批評の書き方 解釈の方法

今回のテキスト批評の方法を学ぶための材料に、河野哲也著 『レポート・論文の書き方入門』「2章 テキスト評価という訓練法」pp13-29を活用した。このテキストの要約を第二章にまとめた。要約は著者のテキストに忠実に行った。

つまり、河野哲也氏によるテキスト批評の方法は、第1の目的を提示する(目的提示)、第2の要約、第3の問題提起、第4の議論と最後のまとめから構成されていたテキストに即して要約を行った。

このテキスト批評の要約から著者河野哲也氏のテキスト批評の書き方に関する考えが明確に理解できる。前節の要約を基にしながら、テキスト批評者のテキストの分析、解釈、批判的評価を述べる。

この節、テキストの分析、批判的評価に関する展開は、前節のテキストの文脈に従う必要はなく、テキスト批評者(この資料では三石博行)が展開したい課題に即して、書くことが出来る。そうすることで、批評者の意見が明確に伝わるのである。


3-b、批評(批判的分析と解釈)の書き方の例

3-b-1、学部教養科目や教養専門科目のレポート作成材料としてテキスト批評の目的

テキスト批評の資料(河野哲也著『レポート・論文の書き方入門』「2章 テキスト評価という訓練法」 pp13-29)で、著者はこのテキスト批評の作業目的に関して以下のように述べている。
一つは、河野氏がテキスト批評で目指す課題は、テキストで書かれている知識を理解するだけでなく、理論を批判的に点検、理解することによってその理論が現実の問題を解決する能力を持っているかを検証できるのである。

つまり、テキストを通じて理論を学習することは「著者の現実の捉え方をいったん理解したうえで、そのやり方(プログラム)で、本当にうまく事態が理解できるか(情報を整理できるか)、問題が解決できるか(期待されるアウトプットができるか)、別の問題にはどのように対処するのか(汎用性があるか)、など著者の主張をさまざまな問題や事例に適用しながら検討していくことこそが、問題意識やテーマ設定能力を養う」(KOUNte 97A p.16)ことにある。

テキストの要約や解釈、問題提起を行うテキスト批評は、人文社会科学の研究で伝統的に行われていた文献注釈の作業が基本になっている( )。そのため文献注釈(訳注)の作業で厳密に行われる論文批評を基にして、テキスト批評の理論が河野氏によって述べられた。しかし、この専門性の高いテキスト批評の課題を、この教養科目のレポートで要求することは困難である。つまり、河野氏が述べる理論の点検や検証作業を教養教育科目のレポート作成作業の課題に含めることは難しい。

ここで課題にしているテキスト批評は、学術論文の注釈で行う人間社会学の諸理論の批評解釈を行うためのものではない。むしろ、学部の教養科目や専門教養科目でレポートを作成するために必要な材料となる文献や資料の批評を行うためのものである。したがって、このテキスト批評に用いる材料は、古典と呼ばれるテキストではない。むしろ、それぞれの教養科目に関連する本や資料である。


3-b-2、テキスト批評の三つの主要な構成要素と「参考資料」

河野氏がテキスト批評作業を提示したのは、卒業論文や研究論文を書くためである。また、ゼミなどで共通した教材を活用し、それを分析、解釈や批判をしながら、グループ(ゼミ)での討論に役立てるためであった。

そこで河野氏は、ゼミで議論することを前提にして、テキスト批評の5つ構成要素を述べた。つまり、第1のテキスト批評の目的提示、第2のテキスト要約、第3のテキスト批判、つまりテキスト要約を通じて提起される問題群、第4は第3の問題提起された課題に対する議論である。その議論もこれまでのディベートの方法を活用することが提案されている。最後はテキスト全体の要約を簡潔に「まとめる」ことである。

このテキスト批評の中で最も重要な課題とされる問題提起とその議論の箇所は、ゼミでのグループ学習で、異なる意見を取り出して討論するディベート方式の学習に活用される。そのために河野氏は、議論を進めるための三つの論理的展開方法が提示されていた。

つまり、その三つの論理的展開とは、「反論-否定的結論」型、「反論-代案の提示」型、「著者の主張の限定-補足・代案の提示」型と「ありえる反論に対して再反論しながらテキストの理論を肯定するために著者の論理や主張に補足を加える方法、「主張-肯定的補足・代案の提示」である。

この議論のための三つの論理に関する知識は、グループ学習やディベートを取り入れた学習では非常に役立つ。しかし、我々の学部の教養科目や教養専門科目でのテキスト批評の書き方に関しては、ディベート方式のグループ学習を行うスキルを求めることは現実的に困難である。簡単なテキスト批評を基にして行うグループ学習に関しては次節で述べることにする。

そこで、河野氏の議論の内容を簡略することで、主に三つの構成要素、出典紹介、テキスト要約と解釈・批評からなるテキスト批評の書き方を提案する。しかし、その三つの構成要素を簡単に補足するものとして「はじめに」と「まとめ」の二つの要素を加えることが出来る。その意味では、我々の提案するテキスト批評の書き方も河野氏の提案するそれと同じく、五つの要素からなると表現していいだろう。

まず、主な三つの構成要素を説明する。一つはテキストの出典を正確に示すこと、書き方はこの教材の第一節に具体的に示されている。二つ目はテキストの文書に忠実に要約すること、書き方はこの教材の第二節に具体的にテキストとして選んだ 河野哲也著『レポート・論文の書き方入門』の「2章 テキスト評価という訓練法」の文脈にそって、その文章を引用しながら要約を書いている。また引用された文のテキストの箇所を文献コードを使いながら示している。三つ目はその要約の内容を批判的に検討し、問題提起しながら自らの考えやアイデアを展開すること、書き方はこの教材の第三節の文章となる。

つまりテキスト批評の書き方で重要な要点は、テキストに関する情報を正確に示し、そのテキストの著者が述べている内容を正確に理解し、それに基づいて自分の視点から批判、解釈や自分の考えを展開することである。この三つの作業が最もテキスト批評の中で重要とされるものである。

さらに、第三節を書くために、もし参考にした資料があるならそれらの資料の出典を記名しておく必要がある。それが「参考資料」である。参考資料や文献の紹介はテキスト批評の最後に持ってくる。


3-b-3、「まとめ」や「はじめに」の書き方

テキスト批評を提出しなければならない場合、この批評を第三者に読んでもらわなくてならない。そのために、批評文の「まとめ」と批評文を書くにあったて述べなければならない「はじめに」を付け加える必要がある。

しかし、テキスト評価は提出する必要がなく、その目的が単にレポートや論文の作成作業の中で文献や資料に関する分析や批判的評価の記録であれば、主要なテキスト批評の構成要素のみが必要であり、「はじめ」や「まとめ」はあえて付け加える必要はない。

まず、「まとめ」の書き方から説明する。「まとめ」は第三節の後に書く。書く内容は、このテキスト批評の第二節の要約と第三節の問題提起を通じてテキスト全体の主な内容を簡単にまとめる。そして同時に、このテキスト批評を通じて課題になったこと、それは第三節では具体的に展開しえなかった課題で、問題点の指摘に終わるが、しかし次のテキスト評価を行うための参考となるような内容があれば書くとよい。

「はじめ」は第一節の前、つまり文章の最初にくる。もちろん目次をつける必要があれば、目次のあとになる。はじめの文章はこのテキスト批評を読む人に批評の全体構成を大まかに紹介し何を課題にしながら読むのかを伝え、また読みたい興味を誘うように書く必要がある。はじめは丁度、お菓子箱の包装紙のようなものである。美味しくて美しい京菓子が美しい箱の中に詰めてあっても、その包装紙にセンスがなければ、台無しだと思う。京菓子にふさわしい美しくてセンスある包装紙を選ぶように、「はじめ」にはテキスト批評の内容を引き立て、興味を誘うものでなければならない。

書く順番は、第一節の出典紹介、第二節の要約、第三節の批評と問題提起、そして参考資料、それから「まとめ」を書いて、最後に包装紙で作品を包むように「はじめに」を書くと良い。しかし、これらの順番が少し入れ替わったとしても問題はない。


3-b-4、テキスト批評を活用するグループ学習

河野氏が提案するテキスト批評の書き方は、グループ学習(ゼミ)の講読の方法の一つとして提案されている。そこで学部共通教育科目の中でもテキスト批評を活用するグループ学習のやり方はないか考えてみる。

テキスト批評を行う時間であるが、一般にこの作業は講義中には不可能である。なぜなら、資料をじっくり読み、その要点をつかみ、そしてまとめ、さらにそれに関して批判的に評価しなければならない。1時間30分の講義の時間を最大限活用しても、上記したテキスト評価を授業中に行うことは出来だろう。

しかし、新聞記事のような短い文章を活用するなら、可能になる。精々(せいぜい)長くてA4用紙1枚程度の社説や解説なら、要点をまとめる時間は2-30分あれば可能かもしれない。そして、その批評に関しては一つだけ選んで書くなら15分程度の時間があれば可能になる。要約と批評で長くて45分の時間が必要となれば、残りの3-40分をグループ学習に使えるかもしれない。

また、少し長い論文や著書の一節でも、テキスト評価の主な要素、要約と批評を宿題にして、それらを持ち込んで次の授業でグループ学習を可能にすることが出来る。

いずれにしても、テキスト批評の書き方はレポートや論文の作成するためには習得しておかなければならない。テキスト批評を書く機会を出来るだけ多く作りたいと思う。しかし、それらのテキスト批評を使ってレポートや論文を書くだけでなく、グループ学習の材料にすることも出来るなら、グループ内でお互いにテキスト評価の書き方をグループ学習を通じて学ぶことができるだろう。


まとめ

レポートや論文作成用の材料としての「テキスト批評」の書き方について検討してきた。テキスト批評の具体的を示すために河野哲也氏の著書『レポート・論文の書き方入門』の「2章 テキスト評価という訓練法」をテキストとして選び、そのテキスト批評を河野氏の提案に基づき行った。

テキスト批評の要約に関しては、資料1に示すように、文脈の流れから要点毎にナンバーを振り、その文章で大切な箇所に下線を入れて、要約用の資料を作る。その資料に基づきながら要約を行った。要約は正確に著者の考えをまとめる作業である。その作業が終了してから、問題提起や批判的評価(批評)を行う。これで、大枠のテキスト批評が完成する。
河野氏の提案を批判的に検討しながら、今回の課題、学部学生の共通教育科目でのテキスト批評の方法について提案を行った。

その中で、短い文書を活用しながら講義中にテキスト批評の作業を行うことが必要であることに気づいた。なぜなら、日本の学生は高校生までに、レポートを書いた経験もなければ、グループ学習でお互いの意見を戦わせた経験もない。学生がレポートの書き方を知らないのは、入学時に、大学でのノートのとり方や講義の受け方、情報の集め方、図書館の使い方、そしてレポートの書き方の基本的な大学での知的生産活動の方法を大学教育として教えていないからである。その意味で、この資料は、教科科目に直接関係はないにしても、教科科目で要請されるレポートの作成のために役立つと期待したい。

今後、所属大学の学生の現状に合わせて、学生が今後レポートや卒業論文を書くために役に立つテキスト批評の書き方を検討したい。そのためには、この資料を学生に配布し、共に活用しながら、この配布資料の問題点を点検し研究してゆきたいと考えている。



参考資料


レポートの書き方のための基礎

1、「大学でのノートの作り方」(1)
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/1_24.html

2、「大学でのノートの作り方」(2)
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/2.html

3、「レポート材料の作り方」について(1)
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/1.html

4、「レポート材料の作り方」について(2)
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/2.html

5、「レポート材料の作り方」について(3)
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/3.html


文献を活用したテキスト批評例

6、畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』第一章「失敗学の基礎知識」のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_6897.html

7、姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』プロローグのテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_29.html

8、菊田幸一著『日本の刑務所』第一章「受刑者はどのような存在か」のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_25.html


映像資料を活用したテキスト批評例

9、NHK EV特集 「元寇蒙古襲来 三別抄と鎌倉幕府」の映像資料のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6943.html

10、NHK 朝鮮半島と日本 「倭寇(わこう)の実像を探る  東シナ海の光と影」のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_2310.html

11、NHK「クローズアップ現代『犯罪“加害者”家族たちの告白』放映記録のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/06/blog-post_22.html

12、ブログ文書集「知的生産の技術 基礎編」 8章 「議論や討論の仕方、纏め方や文書化」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/03/blog-post_19.html








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2011年1月11日火曜日

「レポート材料の作り方」について(3)

三石博行

資料の整理分類と分析作業


資料の優先順位を決める

レポート作成に必要な資料を集める場合に、主なキーワードや課題名が事前に選択されて資料は集められる。それらの事前に選択されたキーワードや課題別に、資料をリストして行く。例えば、レポートの書き方の課題では、「図書館を活用した資料収集の仕方」に関する資料がリストされてくる。「図書館の活用」というキーワードで資料が採取される。「図書館の活用」に関する情報を持つ資料、著書、論文や報告書がリストされる。

資料目録を作りながら、レポート作成に必要な資料分析(精読必要)の優先順位を作る。つまり、速読しながらそれぞれの資料にA(非常に大切)、B(大切)、C(時間があれば読むに値する)、D(あまり重要でない)、E(まったく関係ない資料) の5段階評価を行う。



優先順位の高い資料の収集と保管

集められた資料の中で、まず、Aにマークされた資料を集める。それらの資料は、次に述べる資料分析作業の中ですぐに活用されるものである。そのため、資料の収集作業を行っておく。資料収集は、大学付属図書館を活用する。仮に付属図書館に収集したい資料がなくても、付属図書館のサービス機能を活用すれば必要な論文や著書を他の図書館から取り寄せることができるので、資料の収集は効率よく行うことができる。

次に、収集された資料(アナログ及びデジタルデータ)を保管する。保管作業は資料の整理や分類する作業を伴う作業である。上記した形態の異なる資料、アナログデータとデジタルデータの資料の整理と分類も、情報形態が異なり、その保存方法、つまりPC上のメモリーに保管するかもしくはファイルボックスに保管するかの違いはあるものの、資料整理の基準は基本的には同じである。この資料整理、分類の方法に関しては、別途、章を設けて詳しく述べる。


資料の読み方 精読と速読

一般によいレポートを書くためには、出来るだけ多くの資料を調べ、その中で色々な角度から書かれている資料を出来るだけ多く読解しなければならない。しかし時間の制限やレポートページ数の制限もある。そこで、レポート作成のために集めた多くの資料に重要度のリストを作り、まず大切な資料から読む必要がある。

一般に、レポート作成を進める中で、上記に示した資料リストの重要順位A,B,Cのものは、読まなければならない資料である。その読み方は優先順位によって異なる。

優先順位Aの非常に大切と評価された資料や、大切と評価されたBの資料の読み方は読みながら徹底的に文章を分析する作業つまり精読(しっかり読む)が必要となる。

また優先順位C つまり時間があれば読むに値する資料には一応目を通しおく必要がある。また、出来ればDのあまり重要でない資料にも、何が書いてあるかという情報を得るために簡単に目を通しておくのもよい。資料に目を通すというのは、資料をじっくり読むのでなく、ざっくり読む、つまり、その資料の中で重要な点を取り出しながら読む作業を意味する。

多くの資料に目を通すためには、一般に言われる速読の技術が必要とされる。速読とは資料の情報の概略をつかむ作業である。さらに、速読によって、資料の再評価を行い、また資料の部分的に存在している大切な情報をつかむ作業を行う。



資料分析ノート、「テキスト評価」の材料作成

優先順位AとBの資料は精読するのであるが、ただじっと本を読めばよいと言うわけではない。レポート作成のために精読するのである。そのため、精読された資料はその後レポートを各材料になっていなければならない。

レポート作成は、丁度、料理と似ている。まず、どんな料理を作るかを決める。例えば、餃子を作る(具体的なテーマ)と決める。餃子に必要な食材(情報)を集める。家にあるもの、無いもの。無いものは、どこに行けば手にはいるか。その価格は高いか。高いならそれに代わる安い食材はないかを検討する。そして、すべて必要な食材を集めて、それから食材を料理用に加工する。すべて必要な食材の加工が終了してから、料理に必要な調理器機(道具)を揃える。そしてすべての加工された食材、調理道具が揃った段階で、料理を始める。出来た料理を盛り付けるお皿やお野菜等々も忘れずに準備しておく。

つまり、レポート作成に活用する材料(料理用の材料と同じ)を用意しておくのであるが、レポートを書くためにすぐに役に立つように準備されていなければならない。

その準備の仕方の一つが精読であった。これは料理で云えば包丁の使い方のようなものである。包丁の使い方が分かったからといって料理用の食材の準備が完了した訳ではない。

レポート作成用の資料分析ノートは、資料(テキスト)の解釈や評価の作業によって作られる。その方法は大きく分けて、四つの要点によって構成されている。

一つは、その資料の説明(資料作成者、資料名、資料のあった論文集や著書名、資料を出版した組織や出版社名、資料の発行年度月日、資料ページ数)である。

二つ目は、資料に記載されている内容の紹介である。資料の文書を使いながら、出来るだけ資料に忠実に記載する必要がある。

三つ目は、資料の内容への評価である。評価とは、資料が示すテーマ(課題)に関して資料は十分に展開しているかという点に関する分析である。つまり、資料の内容で評価できる点や不十分な点を具体的に指摘する。

四つ目は解釈である。解釈とは、上記の評価を前提にして、こんどは自分の視点から、つまり自分のレポートの課題の視点から資料に関する感想(主観的であってもいい)を述べることであうる。

レポート資料分析ノート、もしくはテキスト評価解釈ノートは、上記した四つの課題を明確に示しながら書くことになる。つまり、テキスト分析ノートの構成は、はじめにで資料を選択した意味や課題を書く、第一節は資料の説明、第二節は資料内容の要約、第三節は資料評価と資料解釈(感想)となる。 出来れば、最後にまとめで資料分析作業に関する問題点を書く。


参考資料

1、「大学でのノートの作り方」(1)
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/1_24.html

2、「大学でのノートの作り方」(2)
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/2.html

3、「レポート材料の作り方」について(1)
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/1.html

4、「レポート材料の作り方」について(2)
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/2.html






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「レポート材料の作り方」について(2)

三石博行


資料情報を収集と資料リスト作り


資料の多様な情報形態

レポートのテーマが決定したら、そのテーマに関する資料を集める。レポート作成にとって資料収集は大切な作業であり、レポート作成作業の第一歩である。

ここで述べている資料は、筆記資料、音声資料、画像資料、統計資料等がある。それらの異なる資料にはそれぞれの収集(採集)作業の仕方がある。例えば、紙面に表記されている資料、つまりアナログ資料(データ)はノート、フォルダー、ファイル、バインダイー、ファイルボックス等に収集される。また、デジタルデータは、PC及びその周辺機器や記憶媒体によって収集される。

アナログ資料とは主に印刷されたもの、例えば図書館で調べた本、文献、インターネットを通じて調べた情報の印刷資料、チラシや配布資料や報告書等々である。また会議、研究会、講演会や取材活動で自ら筆記したノートや描写したスッケッチ等の資料も含まれる。 
取材など現場に行ってインタービューを行う作業では、筆記やスケッチした資料以外にも、録音した音声データ、デジタルカメラや写真機で取った静止画像データやビデオで撮った動画画像データもある。

特に、会議、研究会、講演会や取材での筆記資料の作り方に関しては、講義中のノートのとり方が基本となる。大学でのノートのとり方は、レポート作成資料のもっとも基本的な作業である。大学では、講義を通じて、口頭情報(声の情報)を筆記する技術、つまりノートのとり方を教える。その技術がそのまま取材ノートの作り方に活用できるのである。大学でのノートの作り方、特に口頭情報のスケッチ方法については、別途用意された教材( )に記述したので、それを参考にするとよい。

音声資料は取材で録音した音声資料、ラジオの番組や研究会や講演会等の口頭発表を録音したものなどがある。最近では、テープレコーダでなくIPレコーダーが使われ、そのデータの管理もPC上で保存できる。また、それらのデジタル音声データを掘り起こし、音声データを文書データと変換して、筆記資料として管理することもできる。同様に、取材やテレビ番組で録画した画像や映像資料もデジタル化してPC上で管理することができる。

アンケートや街頭(街角で行う)調査で得られた資料は統計的に処理され統計資料となる。また、白書やインターネット上で公開されている政府や専門調査機関が作成した統計資料もレポート作成用の大切な資料である。それらの統計資料は論文や報告書の紙面に記載されたアナログデータかデジタルデータとしてExcel やPDFファイル形式になっている。


大学付属図書館での資料調査

まず、大学付属図書館の資料を調べる。付属図書館の資料検索はインターネット上で可能で、学内のパソコンから付属図書館のサイトを開くことができる。

付属図書館のサイトには必ず「資料検索」ができるようになっているので、その検索エンジンを活用する。例えば、「本学の資料」をクリックして、「所蔵検索OPAC」をクリックすると、検索用語入力によって図書館の資料(本、論文等)を調べることができる。例えば「レポートの書き方」と「検索語1」に入力し、「検索開始」をクリックすると、付属図書館にある「レポートの書き方」に関する蔵書12件が検索される。

絞込み検索は、検索語1「レポートの書き方」と入力した後で、「AND」で検索語2に「心理学」と入力すると、心理学系のレポートの書き方の資料が検索される。


論文や雑誌記事検索

論文を調べる場合には、「資料検索」の中の「データベース」をクリックする。「雑誌紀要等の論文・記事情報を調べる」の中の国立情報研究所の「CiNii 論文情報ナビゲータ」のサイトを呼び出し、同様にして調査した用語(キーワード)を入力して論文資料を検索することができる。

1. 論文情報ナビゲータで検索した資料を収集するには、図書館の窓口で相談するとよい。論文が学内にある場合は、すぐに資料を入手することができる。学外にある場合は、付属図書館から学外の図書館に資料の複写を依頼することができる。

2. さらに、図書館には日経新聞などの新聞記事のデータベースのCDもあり、キーワード入力で記事の検索ができる。レポートの材料として、日経新聞などに記載された記事を活用することもできる。記事検索を行う場合、そのやり方に関しては付属図書館の窓口に相談するとよい。


資料目録(リスト)の作成

レポート作成の課題を決め、それに関する著書、論文、報告書やインターネット上での資料を調べ、必要と思われる資料のリストを作る。

リストに記載されたものはあくまでも、レポート作成に必要と思われるものである。レポート作成に必要な資料を集める場合に、主なキーワードや課題名が事前に選択されて資料は集められる。それらの事前に選択されたキーワードや課題別に、資料をリストして行く。例えば、レポートの書き方の課題では、「図書館を活用した資料収集の仕方」に関する資料がリストされてくる。「図書館の活用」というキーワードで資料が採取される。「図書館の活用」に関する情報を持つ資料、著書、論文や報告書がリストされる。

課題別に資料リストに基づき、資料を集める。例えば「図書館の活用」という情報を持つ著書「山田太郎著、図書館学入門」、論文「佐藤和男著、図書館を活用した知的生産の技術」等数件の資料が付属図書館の中から見つかる。それらの資料名と作者名を記載しリスト化する。
それらの付属図書館が所有する著書や論文を閲覧しながら、それらの資料の大まかな情報を記載する。

課題別の資料リストの作成は、調べる資料を精読するのでなく、速読しながら、作成する。まず、著者名、著書名、出版社名、出版年月日、ページ数を記録し、レポート作成に必要と思われる章や節を拾い出す。それらの章や節のタイトルを記入する。簡単なコメントを書く。

上記した作業を繰り返しながら、一応必要と思われる資料には簡単に目を通す。簡単に、速読しながら、レポート作成に必要な資料分析(精読必要)の優先順位を作る。つまり、速読しながらそれぞれの資料にA(非常に大切)、B(大切)、C(時間があれば読むに値する)、D(あまり重要でない)、E(まったく関係ない資料) の5段階評価を行う。

資料リストは、レート課題の中の部分課題名、資料の重要度(AからEまで)、著者、資料タイトル、出版社名、発行年月日、ページ数、それらの大まかで簡単な情報、概略を記入する。これでリスト作成は終了する。


参考資料

1、「レポート材料の作り方」について(1)
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/1.html







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「レポート材料の作り方」について(1)

三石博行

レポートを書くための準備作業


レポートの材料作り・テキスト批評

高等教育では、自主的な研究の技法や姿勢を学ぶことが課題になっている。大学での知識の習得の中で重視される課題は、知識の習得姿勢を学ぶことである。

つまり、科学技術文明社会では知識は日々生産され、そして消費され、再生産され続ける。この社会が必要とする知識人とは、知識を所有する人だけでなく、知識を再生産する人である。つまり、つねに社会が要請しつづける新しい知識を学び、また研究し続ける人々がこの社会のリーダーとなる。

その意味で、現代社会は大学に対して、知識の再生産能力をもつ人々の育成を期待している。専門基礎教育を担う大学学部教育では、専門基礎科目と共に、知識の再生産の技法を教えることになる。

その課題を実現するために、「学部基礎教育における知的生産の技術」に関する課題、知的生産の技術としての講義ノートのとり方、レポートの書き方の学習を企画した。

学部でのすべての講義を通じ、講義情報をスケッチ、記述、収集、整理する技術と、資料を分析する技術、さらには課題にそって資料を調査し整理分類する技術について学ぶ。

ここでは、受講ノート作成、レポート提出など、演習ゼミや講義を通じて学部教育で日常的に行われている作業の中で、自主的な研究活動に必要な技術、知的生産の技術の基礎を身に着けることを課題にする。

このレポート材料の作り方を具体的に習得するため、河野哲也氏の著書 『レポート・論文の書き方入門』の「2章 テキスト評価という訓練法」pp13-29 のテキスト分析、評価と解釈の資料を作成してみた。資料の作り方は人それぞれであるが、資料作成の参考となる。



レポート課題を決める

まずレポートの課題を決めなければならないのであるが、決定したテーマが、必ずしも、書くために適正であるとは限らない場合も生じる。

例えば、テーマが大きすぎると、レポートとして纏められない。レポートのテーマに「人間とは何か」という課題を選んだとする、このテーマはあまりにも一般的で、漠然としている。そのため、人間の何について書いたらいいかとテーマを決めた後で課題が生まれる。人間とは何かという課題について考え、例えば「生物的な人間」のについて書いてみようかとか、また「社会文化的人間」な人間の側面について書いてみようかと、さらに課題が生まれる。このように大きなテーマを選ぶと、そのテーマからさらに新しいテーマがうまれるのである。

レポートのテーマが大きいのは、レポートに書く課題が具体的になっていない現状を物語っている。つまり課題が決まらないときには、必ず大きなテーマが浮かぶ。その大きなテーマをさらに検討することで、具体的なテーマに絞られてゆく。大きなテーマしか浮かばない場合は、テーマが決まっていないと思えばいいのである。その大きなテーマを具体的に考えることで、レポートのテーマは絞られる。

レポートのテーマを決める場合に、一般的な課題からテーマをイメージするのでなく、学習や生活の中で常日頃感じている疑問や問題意識から、具体的な課題を選択することが大切である。何故なら、レポート作成は研究調査活動の一つであり、自主的な学習態度を持たなければ出来ない作業である。その意味でも、知りたいと感じている課題を選ぶことによって、自主的な学習活動は自然と進んでいくものである。 疑問や問題意識がなければレポートを作成することは難しいといえるだろう。

一般に、専門的な論文やレポート(報告書)になるに従って、テーマは具体的で詳細になる傾向がある。すでに色々な知識があり、またそれに伴う具体的な問題意識を持つために、レポートのテーマもより具体的になる。すでにある課題に関して詳しく知っていることが具体的なテーマを選ぶ条件になる。つまり、具体的なテーマとは、より明確な課題にテーマが絞り込まれたことを意味している。

例えば「レポートの書き方」という課題から「レポート作成のための資料の収集の仕方」とすると、より具体的になる。さらに、「図書館を活用した資料収集の仕方」とするともっと具体的なレポート課題になる。

しかし、逆に余りにもテーマが詳細すぎると、レポートの体裁を作らない場合が生じる。例えば「大学付属図書館の「資料検索」サイトによる文献調査の方法」となると、レポートの形式を取って説明する必要もなく、資料検索マのニュアルとしてまとめることで十分となる。
レポートを書きなれていない学生にとって、レポートの課題を決めることすこし困難に思える。しかし、レポートを書く訓練を続けることで、その要領を理解できるようになる。大切なことは、日ごろ関心を持っている具体的な課題をレポートの課題として選ぶことである。

例えば「人間と倫理」の講義に関して「自由課題」のレポートの提出を求められた時、日ごろ自分が関心をもっている「人間と倫理」の課題、例えば「友情を大切にするこころ」とか「家族を大切にするこころ」などをテーマにすることでレポート課題が決まるだろう。

自分の関心のある課題を書き、それらの課題に関するして「何故、それに関心を持っているか」、「その課題を考えることの意味は何か」という疑問を投げ掛けてみて、それについて具体的に書くことができるなら、それらの課題はレポートの材料となることを意味する。


参考資料

1、「大学でのノートの作り方」(1)
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/1_24.html

2、「大学でのノートの作り方」(2)
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/2.html







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2010年11月29日月曜日

畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』第一章「失敗学の基礎知識」のテキスト批評

三石博行


第1章 テキストの出典

畑村洋太郎著『決定版 失敗学の法則』文藝春秋、文春文庫、2005年6月10日第1刷、258p、第一章「失敗学の基礎知識」pp17-63 

テキストの文献記号は、(HATAyo05A )とする。

著者畑村洋太郎は1941年生まれ、東京出身、東京大学名誉教授、工学博士、創造的設計論、知能化加工学、ナノ・マイクロ加工学を研究。最近では、工学分野に留まらず、経営分野における失敗学などの研究を行っている。

畑村氏は、失敗学に関して、「失敗学のすすめ」「回復力 失敗からの復活」、「危険不可視社会」、「失敗学(図解雑学)」、「危機の経営」、「だから失敗が起こる」、「失敗を生かす仕事術」、「失敗学実践講義 だから失敗は繰り返される」等々、多くの著書を出版している。



第2章「失敗学の基礎知識」pp17-63の要約


2-0、「失敗学」における失敗の定義

著者は失敗学における失敗の定義を「人間が関わったひとつの行為の結果が、望ましくない、あるいは期待しないものとなる」(HATAyo05A p14)と述べている。つまり、失敗とは、ある行為の結果がその目標であった状態に対して望ましくない結果や期待はずれの状態も含むことを意味している。


2-1、「逆演算」で失敗の《からくり》がわかる

著者は、「初めて失敗学に触れる人たちのことを考え、第一章では、失敗学の基本的な考え方を」述べる。


「逆演算」で失敗の《からくり》がわかる

著者は「失敗を生かすための第一段階は」、失敗のからくりを理解することであると述べている。つまり、「どんな原因がどんな結果(失敗)をもたらしたか」を正しく理解することである。

失敗が起きたときに目に見えるものは、失敗したと評価されている「結果」の部分である。問題は、何故失敗したか、その原因は何かということであるが、「原因」は目に見えない。その目に見えない失敗の原因を辿っていくことを「失敗学では「逆演算」と呼」ぶ。(p19)「HATAta05Aを省略してページ数のみを表示する」

「失敗学では失敗の構造をより正確に把握するために、「原因」を《要因》と《からくり》の二つに分けて」(p19)考える。「つまり、失敗の構造を《要因》《からくり》《結果》の三要素から構成されていると考える」(p19)。そして、失敗学では、見える結果から見えない失敗の要因やからくりに逆に辿っていく手法が取られる。この手法(方法)を「失敗学における逆演算」と呼ぶ。つまり失敗の《結果》(目に見える状態)から「《要因》と《からくり》という見えない二つのものを逆に辿(たど)って探していく」(p20)のである。


雪印食品での失敗例

雪印食品の牛肉偽装・詐欺事件(2002年1月)は、単純に原因は「狂牛病問題のせい」で、結果は「詐欺事件が起きた」ことになる。つまり、雪印食品は狂牛病問題で困っていて、その結果、牛肉偽装の詐欺事件を起こしたという説明が成立する。

「しかし、狂牛病問題のせいで困っていた会社は雪印食品以外にもあり、それらの会社がすべて牛肉偽装・詐欺を働いたわけでは」(p20)ない。つまり、上記した原因(狂牛病問題)があっても、必ずしも結果(牛肉偽装)という結びつきは起こらない。

そこで、この雪印食品の失敗《結果》を《要因》と《からくり》に分けて分析する。すると《からくり》にはいんちきをしてでも、儲けたいという「雪印の企業体質」が挙げられる。つまり《狂牛病=要因》を、《雪印食品の企業体質=からくり》の中に入力したからこそ、《牛肉偽装・詐欺事件=結果》が出力されたのである。(p20)

この雪印食品の例から分かるように、《からくり》の正体を明らかにすることで、「本当の失敗の原因を究明できる」(p20)のである。

この例から、失敗を引き起こす《要因》は、社会問題や過去の事件(企業経営に関する)、個人の場合には失敗行動を起こす「動機」であったりする。また、失敗を引き起こす《からくり》は組織や個人の「特性」、つまり企業体質や理念、個人の考え方、行動規範や性質などが考えられる。(p21)


売れる営業マンと売れない営業マンの例

私たちが実際に失敗に遭遇した場合に、逆演算の方法を使って具体的に問題を解決していく例として、自動車販売会社の二人の社員、売れない営業マンAさんと売れる営業マンBさんの例をとって、逆演算のやり方の説明を行う。


第一段階 失敗の原因を知るために《要因》《からくり》を知る必要性がある。

売れない営業マンAさんから見えてくる現状は「自動車が売れない」という結果である。その結果からAさんは「不景気だから」とかAさんがたまたま運悪く、財布のひもの固い人々の多い車の売れない地域の担当になったからだと考える。(p21)

しかし、同僚のBさんは同じ条件下でも売り上げを伸ばしている。売れる営業マンBさんがいる以上、Aさんの考えた売れない原因は正しくないことになる。(p22)

そこで、Aさんは、失敗学の逆演算の方法を使って、売れないという《結果》に至る《要因》と《からくり》の二つの要素を探る必要が生じた。失敗の《結果》からその《要因》と《からくり》を探る必要性を感じるというのが失敗の原因を知るための第一段階である。


第二段階 《からくり》の正体を探す

第二段階は、失敗の《結果》を導く《からくり》の正体を探すことである。

そこでAさんは、同僚のBさんのセールスの方法と自分のそれとの違いを検討することになる。つまり、車が売れない《からくり》はセールスの方法の違いであると仮設(仮説)した。その仮説から車が売れないという《結果》を逆算した。(p22)

Aさんの車が売れないという《結果》に共通する部分は「Aさんが価格を安くしてセールスをしている」(p22)ことで、この共通部分に失敗の《からくり》の基本構造が隠されている。言い換えるとAさんは車を売るセールス方法は「安く売るやり方」だと考えていたことが理解できた。安ければ顧客は車を買うという考えがAさんのセールスを決めていたことになる。


第三段階《からくり》に架空の《要因》を入れてみる

第二段階で《からくり》の正体が明らかになったら、つぎにさまざまな《要因》を想定して、《からくり》の中に入れてみる。そして、それから導かれる架空の《結果》を推測する。

一つの架空の結果の推測として、例えば、お金があるので「乗り心地がよくて飽きのこない車がほしい」という架空の《要因》を入れて、Aさんのセールス方法の《からくり》である「価格が安ければ売れるだろう」から、「高くてもいいから、性能、デザインともに、もっと質の高い車がほしいから買わない」という《結果》が出てくる。

もう一つの架空の結果の推測として、例えば、「自動車にかけられる予算があまりないので、できるだけ長持ちする車がほしい」(p24)という《要因》にAさんの《からくり》を入れれば、安いが、すぐ故障する車は買わないという《結果》が導ける。(p24)

このように、可能な限り色々な《要因》を仮設して、見つけ出した失敗の《からくり》に入れてみる。そこから導かれる色々な《結果》を取り出す(計算する)。


第四段階 《要因》《からくり》《結果》の関係を一般化し、予測・類推につなげる

第三段階で思考実験した《要因》群と《結果》群から、《要因》《からくり》《結果》の関係が浮かび上がってくる。(p25)Aさんの場合、もし「値段以外のことを重視する客(要因)が来」たら、Aさんの安ければ売れるという方法(からくり)では、この客には車を売れないという《結果》が生じる。(p25)

つまり、Aさんのセールスの方法《からくり》が一つしかない場合、色々な顧客の要求(要因)に対応して車を売ることができないという《結果》が生まれる。そこで、Aさんは、セールスの方法(からくり)を見直し、顧客のニーズにあったセールス方法を見つけ出す必要が生じていることに気付く。

Aさんの車が売れない《からくり》を見つけ出し、その《からくり》を変更しない限り、つまり顧客のニーズに合わせてセールスの方法を変える《からくり》にしない限り、いつまでも車が売れない《結果》になることが予測できるのである。


うまいラーメン屋の逆演算とは

失敗の本当の原因を理解することは、失敗を克服するためである。そこで、失敗を克服する方法について考える。それは状況に合わせて対策を講じるというやり方である。そこで人気のある東京のあるラーメン屋の例を取って説明を行う。

ラーメン屋の主人は開業以来、百回を超える味変えをしている。なぜなら、人は最初はおいしいと思った味もじきに飽きるとこの店の主人は考え、「味をよくする努力を怠ってはいけない」し、また一年に一回から二回の割りであらゆる角度から味を見直す、よい味にする試作を重ねる。そして客の反応を見ながら、客がどんな味を欲しいのかを観察し続けている。(p26-28)

これは、よくはやっているラーメン屋という《結果》である。この結果を導く《要因》や《からくり》を理解するために、失敗学の逆演算を活用してみる。

すると、繁盛しているラーメン屋《結果》は、ただ味がうまいからではなく、…お客が求めているものを提供するという営業理念《からくり》がある。(p28)繁盛するラーメン屋になるためには、色々な《要因》を《からくり》入れて、その《結果》を演算するとよい。そして、最も大切なことは自分でうまいラーメン屋の主人となるための《からくり》を見つけ出すことである。(p28-29)


  
2-2、「失敗の脈絡」分析で失敗を予測せよ


異なる《要因》でも、同じ《からくり》から同じような失敗《結果》が予測される

「逆演算によって一般化した失敗の《要因》《からくり》《結果》の関係のことを、失敗学では「失敗の脈絡」と呼」ぶ。(p30)この失敗の脈絡を使った、失敗の《要因》と《からくり》を類推すれば、…どんな失敗がどういう経緯で起こるかを、予測できる」(p30)のである。

狂牛病騒動が日本で起こる三ヶ月前に新聞にEUが「狂牛病の拡大を防ぐために、EUの欧州委員会はもちろん、それ以外の国についても危険度の調査を行い警告を発してきた。日本について…感染リスクが高い国と評価される可能性があったのに、日本は調査を中止するように申し入れた」(p30-31)経過があった。

日本で起きた狂牛病騒動・農水省の失敗《結果》に関連する《要因》と《からくり》の関連、つまり失敗の脈絡は、まったく薬剤エイズ事件・厚生省(現在の厚生労働省)失敗の脈絡と同じである。(p31)

「厚生省はアメリカから非加熱製剤は危険だという情報を得ながら無視」したことが《要因》となり、官僚、お役所体質である事なかれ主義や特定の人物や業者との癒着しやすい体質《からくり》によって、薬剤エイズ事件の失敗《結果》が起こる。(p31)

つまり、狂牛病の場合にも、農水省は欧州委員会の調査で狂牛病の危険を知りながらも無視した事実が《要因》となり、お役所の事なかれ主義体質が《からくり》として働き、その《結果》が、狂牛病の感染が日本で見つかるということになった。(p31)

二つの失敗は、同じ《からくり》つまりお役所の事なかれ主義の体質によって引き起こされていることが理解できる。(p31)つまり、すでに、一つの失敗の脈絡を理解すれば、同じ《からくり》を見出すことで、別の失敗を予測することができるのである。


安全宣言は危険宣言 

農水省は狂牛病の発見から「感染牛は一頭だけなので、牛肉を食べても安全」と早々と安全宣言を行った。しかし、著者(畑村洋太郎氏)は、その安全宣言を疑った。何故なら、それ以前に同じようなことがJR西日本山陽新幹線のトンネル内コンクリート剥落事故でもあったからだ。つまり、JR西日本は事故後詳しい調査もしないで応急処置をしただけで安全宣言を出した。その後二ヶ月でまた同じようなトンネル内のコンクリート剥落事故が発生した。

JR西日本のコンクリート剥落事故後の安全宣言と農水省の狂牛病発見後の安全宣言は、まったく別の分野の事故への対応(安全宣言)であるが、失敗の脈絡からみると、同じ《からくり》つまり原因究明の前に安全宣言を出すという企業・組織の体質を持っている以上、同じ結果が生じる。その意味で、JR西日本の事故への対応の失敗が、農水省の事故への対応に対する結果の予測が可能となるのである。(p32)


他の失敗から学ぶ、失敗の脈絡を理解する力 

「失敗の脈絡」を理解するなら、「ある分野の「失敗の脈絡」を、別の分野に当てはめて失敗の各要素を類推すれば、失敗はかなり的確に予測すること」(p33)が可能になるし、「失敗を未然に防ぐことができる」。(p33) つまり、他の分野で起きた他人の「失敗の脈絡」を、自分、自分の所属する組織に当てはめて、失敗の各要素を類推し、結果を予測し、失敗につながらないような対策を講じることができる。(p33)

失敗学では、つねに身の回りで起こるさまざまな事象(失敗につながるような)に対して、その要因とからくりを考える習慣を身につける心がけを大切にしている。(p33)


 
2-3、失敗は確率現象である


ハインリッヒの法則と大失敗を防ぐ対処法 

労働災害の発生確率に関する法則に1941年にアメリカのH.W.ハインリッヒが事故や災害の調査結果から導き出した結論、つまり1件の重大災害の裏には29件の軽微な災害があり、さらにその後ろにはヒヤリ、ハッとする事例が300件潜んでいるという「ハインリッヒの法則」がある。(p34)

そこで、少しでもヒヤリ、ハッとした経験をした場合には、その背景になる職場環境の要因が重大事故につながるという認識を持ち、十分な対策を行えば、重大災害を未然に防ぐことができる。(p34)

失敗ついて、ハインリッヒの法則が当てはまる。新聞沙汰になる大きな失敗があるなら、その背後に必ず顧客からのクレームなどの軽度の失敗が29件ほどある。そしてその背後に失敗とはいわないが、何らかのヒヤリ、ハッとする経験が300件ぐらいある。(p34)致命的な大失敗が起こる確率は300分の1(厳密には330分の1)である。

つまり、大きな失敗(重大災害)は常に300分の1で起こる確率として存在しているといえる。(p35)言い換えると失敗とは確率現象だといえる。(p36)「どんな小さなことでも「ヒヤリ」としたら失敗の予兆だと受け止めて、それを構成している要因をきちんとつきとめて、それがどういう危険性を持っているかを考え、適切な対処をすれば致命的な大失敗は必ず防げる」(p36)のである。


雪印乳業は三百倍以上のツケを払った 

重大事故の前には何らかの予兆が必ずある。それに気づいたときに適切な対応をしていれば、事故は防げるのである。(p37)

2000年3月に発生した営団地下鉄日比谷線の脱線事故も、同様な事故が1992年12月にも起きていた。また、2000年6月に発生した雪印乳業の集団中毒事件も、同じ事故(集団中毒事件)が30年前にも同じ工場で起きていた。重大な失敗が起こる前兆は以前からあったが、それを見逃し、きちんと対処しなかったために、致命的な失敗を引き起こすことになった。(p37)

日頃起きている些細な事故や失敗を無視せず、それらの一つひとつの問題を日常的に解決していく真摯な姿勢が致命的な失敗を防ぐのである。(p37)

もし、そうした姿勢を失い重大事故や失敗を起こしてしまえば、その損害は甚大なものになり、一般にその被害は「三百倍のツケを払わなければならない」と言われている。(p39)


 
2-4、失敗は拡大再生産される


失敗の拡大再生産とは 動燃のビデオ隠しの例 

失敗の《要因》と《からくり》を解明し、その失敗につながる《要因》《からくり》を変える対策を打たなければ、同じ《要因》が同じ《からくり》を通して、同じ失敗の《結果》が起こる。つまり、同じ「失敗の脈絡」で失敗が繰り返されることになる。そんを「失敗の拡大再生産」と呼ぶ。(p40)

この「失敗の拡大再生産」の典型的な例として、1995年5月10日に起きた高速増殖炉「もんじゅ」の事故での動燃(動力炉・核燃料開発事業団)の「ビデオ隠し事件」がある。事故翌日に事故現場のビデオを報道陣に公開した。その時、動燃は「撮影はカメラ1台で行い、これ以外の映像はない」と説明した。ところが、その後すぐに(2日後)県と市の原子力安全対策課が現場調査したところ、公開されたビデオにはない事故の悲惨さを目の当たりにした。それで、動燃の意図的なビデオ編集(事故を小さく見せようとした)が発覚した。動燃自身の調査によってビデオの意図的編集(「もんじゅ」の幹部が「刺激が強すぎるのでカットしたほうがよい」と指示したこと)が発覚した。(p40-41)

動燃は、一回目の報告を訂正して、ビデオ撮影は事故直後、二台のカメラで行ったと二回目の報告を行う。しかし、科学技術庁(現在の文部科学省)の調査で、この訂正報告にもウソがあったことがさらに発覚した。つまり、訂正した時間よりも早く、別のビデオを撮影していたことが判明した。このビデオでは、現場に白煙が立ち込め、配管から漏洩した多量のナトリウム化合物が下に堆積していた。(p41)

この情報隠しに関する調査は、社会調査を担当していた総務部次長の投身自殺で幕を閉じた。しかし、多くの国民はこの事件以来、動燃を信頼できないと感じている。


動燃の失敗の拡大再生産の《からくり》と失敗を防ぐ対策

動燃がビデオ隠しを繰り返し行った、つまり失敗の拡大再生産の《からくり》が動燃の「世の中には原子力に対する強い不信感がある。少しでもネガティブな印象を持たれたら『もんじゅ』は終わりだ」(p42)という強迫観念である。この思い《からくり》が3回のビデオ隠し(失敗の拡大再生産)を生み出したことになる。(p42)

この強迫観念《からくり》をぬぐい去って《からくり》を変えれば、同じ手口のごまかしという失敗の拡大再生産を途中でストップすることが可能だったかもしれない。(p42)

動燃の取るべき対応は「事故を起こした時点で、危険度はどれくらいなのか、今後、同様の事故が起こる可能性はあるのか否かなど事故の情報を正確に伝えること」(p43)であった。事故を起こした失敗を厳しく責められても、ウソ(情報を隠して)をついて「国民の信頼を決定的に失う」(p43)というもっと重大な失敗をすることは避けられた筈である。

「失敗から目を背け、隠そうと」(p43)することで同じ失敗を繰り返すか、また別の新しい失敗を生んでしまう。冷静に失敗の結果から失敗の要因とからくりを逆演算しながら見つけ出し、失敗の脈絡をつかむことが同じ失敗を繰り返さない対策となる。(p43)



2-5、千三つの法則


未知の分野への挑戦には失敗はつきもの

未知な分野に挑戦すると「99.7%は失敗」すると著者は述べている。(p45)つまり、新しいことをする場合に物事がうまくいく確率は「0.3%」である。そして、「日本では昔から“千三つ”(せんみつ・本来、千に三つしか真実はない常習的な嘘つきの意味)とうい言葉があって、現在では「何か賭けをしたとき、うまくいくのは千に三つぐらいしかない」という意味で使われている。新しい挑戦で成功する確率も、この“千三つ”(せんみつ)であると言える。(p45)

未知の分野に挑戦して成功する確率が千に三つぐらい低い状態、成功率の低さを考えて、新しいことに挑戦することをやめるなら、失敗学は始まらない。失敗学は失敗しないで安全で安らかな生活を求めるためにあるのではなく、成功確率の低さを十分に認識し、失敗に真正面から取り組む覚悟を持つこと、つまり失敗の多い未知な分野に挑戦し、そこで経験する失敗を生かすためにある。(p45)

新しい事業をゼロから起こす場合、その事業を立ち上げて運営展開するために少なくとも十個ぐらいの要素が必要である。例えば、「企画内容、技術、事業を興す本人の資質、設備、場所、人材、流行、社会の経済状況、人脈」(p45)である。これらの10の要因の一つひとつに関して「うまくいくか否か」の二分の一の成功確率を単純に掛け合わせていくと、1020分の1の確率で事業が成功するということが示される。これが客観的に示されるベンチャー企業等の新しい試みを行う事業の成功確率である。(p45-46)

つまり、新たな事業を興して成功する確率は、約千に一つである。そして、千三つ(せんみつ)の法則よりも厳しいといえる。(p46)


新しい事業に成功する確率を上げる方法・他者の失敗に学ぶ 

どんな事業でも生き方でも新しいことに挑戦しなければならない。その場合の成功率は千分の一である。つまり、ほとんどの試みが失敗する可能性が大きい。それで、成功の確率を高める努力や知識が必要となる。(pp46-47)

著者は、「他の誰かがその分野で成功しているかもしれない。いや、失敗をしているかもしれない」と考え、そのことを調査し知ることは「もうけもの」であると提案している。今までの他人の失敗を手本とした「逆演算」と「類推」をすることで、失敗の道筋を学ぶことができる。(p47)



2-6、「課題設定」がすべての始まり

課題設定の習慣が失敗に直面したときの判断力を鍛える 

「無駄な失敗を防ぎ、新しい創造の種を生み出すために」は「自分自身の中に課題(問題意識)を持つこと」である。「自分がいま何をすべきか」という行動を起す時の「課題設定」が、失敗に直面したときの判断力や新しいチャレンジへの企画力を鍛える。(p48)

それらの判断力と企画力を鍛えるには、まず、課題設定をして、それの解決方法や手段の提案力を鍛えること(pp48-49)


課題設定の訓練  

自動車事故の例から、課題設定をする。例えば自動車が塀にぶつかって、前方がぐちゃぐちゃに潰れたという交通事故を仮定する。そして、この事故を防ぐためにはどのようにすればいいかという問題を立てる。(p48)

この問題提起、つまり問題に関する課題設定に対して、二つの回答が考えられる。つまり、一つは、「塀にぶつかっても人的被害が少ないようにする」と言うもの、事故は避けられないので、その事故が起こった後、人的被害をなるべく少なくするという考え方である。もう一つは、「自動車を塀にぶつからないようにする」と言うもので、衝突事故自体を起こさせないようにするという考え方である。(pp48-49)

前者の課題設定から、例えば「ぶつかった際に飛び出すエアバックなどの安全装置を自動車に取り付ける」(p49)という問題解決案が出され、さらにエアバックの出るタイミングや膨らみ方、さらにはエアバックの欠点やその改良案等々、前者の課題設定を展開する解決案が出される。

後者の問題設定から、例えば「塀にぶつかりそうになったら自動的に警告音が鳴るようなシステムを作る」(p49)とか「運転手の覚醒を促す音楽や匂いを流す…」(p49)という問題解決案が出され、同様に事故自体を起こさないための上記の提案を具体化するための案が検討され続けることになる。


共通の課題を持つ人を観察する 

課題設定をする訓練によって、同じ課題を持つ他のケースの観察によって、他者の経験に学ぶことが可能になる。つまり、同じ課題を持つ人が、その課題を解決するために経験したこと、それが失敗であれ成功であれ、その試みに学ぶことが出来る。例えば、失敗ならその対処法や予防策を考えることができる。成功ならその道筋を学ぶことができる。

例えば、設計ミスから生じた事故が多発している自動車会社(三菱自動車のような)のリコール隠しを例に取り、設計部のAさんとBさんの対応例の違いを示す。

Aさんは会社のリコールを見過ごすように指示している上司や会社の不正を告発する。そのことによって、Aさんは社内で居場所を失い、退職した。

BさんはAさんの行動の結果、つまり正義感によって会社の不正を告発したが会社を辞めなければならなくなった結果(失敗)を観察し、その失敗に学ぶことで、「この会社は見込みがないから、希望退職を募集して、割増金をもらって辞める道を選択した。(pp50-51)

会社(三菱自動車)は、その後のリコール隠しの不正が社会に暴露され、関係者が逮捕され、マスコミや消費者から厳しい批判に遭い、結局、経営が危機的状況となり、外資系の自動車会社に売却された。



2-7、「仮想演習」がすべてを決める


共通の課題を持つ人を観察する

課題設定が済めば、その後に必要なものは「仮想演習」である。課題設定をいかに解決すればいいかを思考実験することを仮想演習と呼ぶ。この仮想演習・頭の中で失敗の状況を予測し、それに対する対策を検討する作業は失敗学においてはかなり重要な意味を持っている。(p52)

仮想演習は、起こりうる失敗を予想し、その対策を検討するばかりでなく、こうした状況の中で(自分の)上司は何をすべきかを想像する演習にも活用できる。つまり、ある失敗が起こった場合、自分のすぐ上の上司の行動を観察し、「もし自分が彼(上司)ならどう判断し、どう行動するか」を考える作業になる。(pp52-53)

この仮想演習によって自分の実際の経験の範囲を超えて(仮想状態ではあるが)経験できる範囲を広げることが可能になる。現実に自分が所属している部署以外に、他の部署にもこの仮想演習を適用することによって、自分の関心の守備範囲を広げることが出来るだろう。(p53)


仮想演習をしたベンチャー起業家の例と新しく起業するための条件 
 
「仮想演習は人を五倍に成長させる」という考えの説明。(pp54-56)

しかし、人は歳を取るたびに能力が衰える。つまり、新しいことを吸収する力は5年ごとに半減する。すると、仮想演習をして人の5倍成長する能力をもっていても、その能力が5年ごとに半減するなら、その二つの関係から、新たに転職してベンチャーを起業する場合の年齢制限が予測できるだろうと著者は述べている。(pp56-57)



第3章「失敗学の基礎知識」に関する批評(批判的評価)


3-1、失敗は確率的に存在するという意味の理解


失敗とは期待値(目標)に達しないズレの値 

著者は失敗学における失敗の定義を、「ある行為の結果がその目標であった状態に対して望ましくない結果や期待はずれの状態も含むことを意味している」と述べた。著者は、失敗という概念を希望していた結果に達しない割合が大きいか小さいかの量的判断を伴って表現したことになる。

言い換えると、畑村洋太郎氏の定義した失敗は期待値に達しないズレを意味する。そして失敗は、ただ単に失敗しなかったと失敗したという二つに区分された一方の概念でなく、目標への到達率が何%なのかという表現として語られる。つまり、目標をすべて達成した100%の成功率(0パーセントの失敗率)と目標をまったく達成できなかった0%の成功率(100%の失敗率)の間に、現実の失敗とよばれる結果は存在していることになる。

失敗を量的に判断(測定)することの意味

著者の失敗の概念を用いると、失敗(行為の結果)を反省するということは、結果がよかったかとか間違っていたかという点検をするのでなく、行為を起こすときに目標とした課題に、行為の結果がどれくらい達成したかを点検することになる。つまり、失敗学では、行為の結果の良し悪しの評価を問題にしているのではなく、また、完全に目標を達成できたかできないかでなく、行為の結果によって達成された課題を定量的に評価することになる。

そのことによって、あらゆる行為が、ある程度目標に近づくことを可能にしているので、その程度、つまりよく目標に近づくことが出来たか、あまり目標に近づけなかったか、とい評価の程度を示す基準(量的判断基準の一つ)を設けて、行為の結果を検証することになる。

失敗学であるので、あまり目標を達成することが出来なかったとまったく目標を達成できなかったという行為の結果に関しての分析が始まることになる。


失敗の評価基準は個人的(主観的)な判断によって決まる 

もし、失敗を「ある行為の結果がその目標であった状態に対して望ましくない結果や期待はずれの状態も含むことを意味している」と定義づけた場合、「望ましくない結果や期待」とは個人的な(もしくはある集団での)判断基準を基にして、評価されたものであると解釈できる。

つまり、著者畑村氏の失敗の定義は、主観的(共同主観的)な評価基準を前提にして成立している概念であると言えるだろう。そのため、失敗の程度を定量的に測定することも、一般的な基準を設定して可能になる訳ではなく、個人的な評価基準によって(もしくはある集団の評価基準によって)行われるということを意味する。

日常的に行為を点検する場合、その行為の評価が個人によってかなり異なる場合が生じても不思議ではない。例えば、目標を高く持つ人は、一般的に言って、その高い目標に達することができない場合が多く生じる。その人(目標の高い人)は、失敗の確率が上がることになる。しかし、目標を小さく抑えれば、同じ行為の結果も失敗の確率が低くなる。

目標値(期待値)への達成度(達成確率)を、失敗として考える場合、失敗を少なくするためには、目標値を下げるという行為が働くことになる。

すると、誰も、失敗を恐れない、目標値の高い行動を計画することはないだろう。つまり、失敗確率を低く抑えるために、予め(あらかじめ)、難しい企画や行動目標を立てないということにならないだろうか。

著者は以上の疑問に答えるために、「失敗が確率現象である」という節を設けた。これに関しては、後で批評する。



3-2、失敗の構造、「結果」「要因」「からくり」と失敗の脈絡(三つの要素の構造的関係)


失敗の様式的原因要素(からくり)と環境的原因要素(要因)

著者は、「失敗(結果)は原因(失敗の)を持っている」という一般的な表現を、「失敗(結果)はその失敗を起こす要因とからくりからなる」と表現し直した。つまり、失敗の原因という表現は、失敗を分析する上であまり役に立たない表現であることを指摘し、失敗の原因という意味を「失敗を生み出す要因とからくり」という二つの分析可能で観察可能な概念に変換したのである。

著者の定義する「失敗のからくり」とは、失敗行為を行ってしまった人や組織(集団)の失敗行為を生み出す原因を意味する。つまり、それらの人々(個人)の考え方、技能、態度や、組織(集団、会社、社会や国家)の規則(決まり)、制度、習慣(文化)等々である。著者は失敗の「からくり」という表現を用いて、失敗行為主体の内的な原因を表現した。

また、著者が定義する「失敗の要因」とは、失敗(結果)を引き起こす外的な環境や条件として位置づけている。例えば、雪印食品が引き起こした牛肉偽造(失敗の結果)は、狂牛病(要因)や経営的な危機(要因)が会社の体質(からくり)に入力されて生じた現象であると考えた。食品会社を襲った狂牛病と会社が当時経営的不振になっていた二つの条件が、会社の消費者をごまかし儲け主義に走る体質(経営陣の考え方)に入力されて、食品偽装(詐欺)という結果が生まれたと、著者は説明した。言い換えると、著者が定義した失敗の要因とは、会社(個人)を取り巻く外的な環境や条件を意味している。

つまり、原因は、「からくり」と呼ばれる失敗を引き起こす様式的原因要素と、「要因」と呼ばれる環境的原因要素に分類される。


「逆演算」で失敗のからくり(行為決定の様式要素)を見つけるために問われる問題

失敗とはある行為の具体的な結果(目標であった状態に対して望ましくない結果)である。その期待はずれの結果が現れることで、失敗したことを理解するのである。その行為の結果や期待はずれの状態から、失敗の原因、ここではからくりと要因を見つけ出す作業が始まる。

つまり、失敗学はつねに失敗という明らかな結果を分析し、その原因である失敗の要因と失敗を引き起こしたからくりは目に見えない状態にある。その目に見えない失敗の原因(要因とからくり)を辿っていくことを失敗学では「逆演算」と呼のである。失敗の二つの原因である内的な要因(からくり)と外的な要因(条件や環境)を探り当てる逆演算の作業を通じてしか、失敗の原因究明は出来ないのである。

「逆演算」という方法を用いて、失敗の要因とからくりを発見(推定し、その推定を検証確認)する方法を著者は四つの段階を設定して述べる。まず、第一段階では、失敗の原因《要因》《からくり》を知る作業、その次の第二段階では、《からくり》の正体を探す作業、三つめの段階では探し当てた《からくり》に架空の《要因》を入れて、どのような結果が推定されるか仮想実験をしながら結果を導き出す。そして、最後の段階では、《要因》《からくり》《結果》の関係を一般化し、これららの失敗(結果)の予測や類推に活用する。つまり、からくりが正しく設定されると、色々な要因をそこに入れることで、現実の失敗結果はもちろんのことこれから起こる失敗も推測できる。

この逆演算は失敗学にとって大切な方法論である。失敗学が成立するためには、この逆演算が失敗事例に対して実際に行えるようにしなければならないだろう。その場合、要因を探り当てることはさほど困難ではない。つまり、個人や組織の失敗の条件となる生活や社会環境や状況が要因として仮定される。

しかし、失敗の「からくり」を見つけ出すことは失敗の要因(原因)追求の中で最も困難な作業であると言える。何故なら、失敗を引き起こす企業の体質や個人の性格、考え方や技能内容などは、失敗をしている当人や組織の姿である以上、その人々や組織が自分の欠点を自分で見つけ出す作業の困難さが付きまとう。言わば、自分では自分の姿が見えないという困難な立場に立っての作業を必要とされていることを意味する。

つまり、失敗の要因である「からくり」は、個人、集団や組織など行為主体がもつその行為決定に関連する要素である。つまり、からくりは行為を決める基準であり、行為決定に関係するなんらかの決まりであると言える。

そのために、著者の失敗のからくりを見つけるための「逆演算」は、単なる失敗発見の方法というよりも、つまり失敗経験を点検するための技術的な理解と共に、自らの方法や考え方を点検する方法が求められているのである。


失敗の脈略を活用した失敗の予測実験

失敗(結果)には、必ず、要因つまり外的な失敗の原因要素とからくりつまり内的な失敗の原因要素がある。これを失敗の脈絡と呼んだ。著者は結果から要因とからくりを逆演算して見つけ出し、その相互関連、失敗の脈略を見つけ出す。これが失敗学の失敗原因の探求の過程である。

それから、失敗学は、見つけ出したからくりに、仮定できる色々な要因を入力し、その結果生じる状況(失敗の)を思考実験する。つまり、まず、仮定した「からくり」が正しいかを検証し、その「からくり」が正しいなら、次に、色々な予測できる「要因」を「からくり」に入力することで、これから予測できる結果(失敗の)を示して行く。

これが、将来起こる失敗の予測となる。失敗学の目的は、将来の失敗を予測し、失敗の確率を出来るだけ小さく押さえることに結びつくのである。



3-3、失敗学は失敗の確率を下げるための技術論である


ハインリッヒの法則から、失敗を防ぐ方法としての職場の取り組みとは

労働災害の発生確率を調査研究から割り出したハインリッヒの法則は、そのまま失敗学でも活用できる。つまり、1件の重大事故には29件の軽微の事故が潜み、300のヒヤリとする出来事が潜んでいる。逆に辿れば、1件のヒヤリとする出来事の約30分の1の割合で軽微の事故が潜み、また300分の1の割合で重大事故が潜んでいる。さらに1件の軽微の事故には、30分の1の重大事故が潜んでいるということになる。

重大事故を防ぐには、ヒヤリとした出来事を日々に点検する「ヒヤリハット」の手法が取り入れられている。特に生命に直接関わる職場、医療や食品関係の職場では、ヒヤリハットは日々の作業の中で行われている。

この考え方は、失敗は人間の行為に付随した必然的な現象であり、ある確率で生じる現象であるという考え方にたっている。つまり、決意やがんばりでは失敗を避けることが出来ないため、失敗を避けるための技術が必要となる。それが失敗学であり、ヒヤリハットである。

問題は、職場で失敗を防ぐために、どのような教育や訓練がなされ、また日常的に業務の中で失敗を防ぐ手段や方法が検討されているかが最も大きな課題となる。


失敗学が教える失敗を恐れない仕事の仕方、失敗は成功の母

ハインリッヒの法則は、失敗は確率現象であると説明している。つまり、どのような行為にも失敗は生じる。そして人が何かをすることと失敗は不可分の関係にある。つまり、失敗を避けては何事も出来ないことを意味する。

失敗を恐れ、失敗しないように慎重に物事を行うことは必要であるが、失敗を恐れ、新しいことに挑戦することを止めてしまえば、新しい事業も発見も生まれないだろう。

失敗学は失敗を避けるためにある学問ではあるが、失敗を避けるために、新しい挑戦まで控えることを勧める理論ではない。むしろ逆で、失敗が多く発生するベンチャー起業で、出来るだけ成功率をあげるための技術を研究し教えるのが失敗学の課題である。

失敗の確率を下げるための努力、まず失敗をしたら、その経験を活かし、失敗の要因とからくりを見つける。そして、見つけ出したからくりが正しいかどうか、仮定できる要因をからくに入れて結果を導く、思考実験を繰り返す。


失敗学・他人の失敗に学ぶ技術

さらに、他人の失敗の例を研究し、同じように、それらの失敗事例から、その失敗のからくりを予測し、仮定できる限り多くの要因をそのからくりに入力して、結果を計算する。もし、その計算で、予測した要因から生じた失敗事例が出力できるなら、そのからくりは正しい、言い換えるとからくりの仮説は有効であると判断できる。

こうして、考えられる限りの色々な要因をからくりに入力し、何回となく計算結果を取り出し、特に今後の予測可能な結果を推察する。つまり、失敗学は、将来起こるだろう失敗の可能性を少なくするための方法となる。



3-4、失敗学を学ぶことの意味

人生という失敗だらけの航海のために

生きている以上、つねに新しいことに出会う。そして新しきことに挑戦しなければならない。大学を卒業し、社会に出る。就職して仕事をする。結婚して、家庭を持つ。子供を育てる。自治会など地域社会の活動に参加する。インターネット等で新しい友達を作る。起業する。海外に出張する。放送大学に登録して新しい分野の勉強に挑戦する等々。人生とは、限りなく新しい生き方の局面を乗り越える航海のようなものである。今までの経験しなかった局面を乗り越えて生きていかなければならない。

その中で、新しいことを始める時、また新しい局面で生きていく場合、失敗学は役に立つ知識とこころを教えるだろう。

つまり、失敗学が教える人生という失敗だらけの航海に必要な考え方「強く生きるからくり」を見つけ出すことである。これが、失敗学が提起する「失敗を恐れない」、「失敗に学ぶ」、そして「他人の失敗にも学ぶ」たくましい生き方の方法・倫理ではないだろうか。


参考

三石博行 「東電原発事故 国は徹底した情報開示と対策を取るべきである ‐畑村洋太郎 失敗学の基礎知識に学ぶ-」 
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_16.html







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姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』プロローグのテキスト批評

三石博行


A テキスト批評の書き方


第1章は、テキスト批評に使う資料の出典を書くこと

つまり、テキスト批評するのはどの本の、またどの資料のどの部分に関するものかを書く。

出典に関する情報を明確に示すことが大切で、何に関して解釈、批評や分析をしているかが不明瞭であれば、文献や資料分析の記録資料として意味をなさないからである。

例えば、今回のテキスト批評で活用している資料、つまり、姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』、集英社文庫、2008年1月、254p、「プロローグ」pp11-21を第1章に書く。


第2章は、テキストの文章を使いながら、テキストの要点をまとめる

資料、つまり姜尚中著『在日』の「プロローグ」を読みながら、自分が大切なところと思った箇所に鉛筆で線を入れる。入れた順番に番号を書く。これで、テキスト批評の第2章を書くための材料が完成する。

その材料を使いながら、テキストの番号のついた線の文章を簡単に要約する。その場合、本文(線の入った箇所の文章)を活用しながら箇条書きに要点を書く。

これらの箇条書きの要約文章をつなぎながら、「プロローグ」pp11-21に関するテキスト要約をまとめる。テキスト要約がテキスト批評の第2章を構成することになる。

テキスト批評の第2章はテキストには「何が書かれてあったか」という内容になる。


第3章は、第2章のテキスト要約文に関する自分の意見を書くこと

テキスト批評のために必要な資料(要点が箇条書きにした文書)を基にしながら、その内容を批評する。つまり、自分の批判や評価を書く。

テキスト批評の第2章「この文章の要約」に即して、自分の解釈、評価や批判等を書く。それがテキスト批評の第3章となる。


参考資料を書くこと

姜尚中著『在日』、「プロローグ」のテキスト批評を行う際に、インターネットや図書館で調べた論文、資料や本などを書いておく。



B、テキスト批評の例 姜尚中著『在日』「プロローグ」


第1章 テキストの出典

姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』、集英社文庫、2008年1月、254p 「プロローグ」pp11-21


第2章 「プロローグ」pp11-21の要約

在日コンプレックスとしての「精神的な脆弱さと不逞の精神の分裂質的性格」

姜尚中氏(著者)は「自分の写真をみるのがきらい」(p11)であった。そのため、彼は「高校生のとき、…一度も写真を撮ってもらった記憶」(p12)はない。その理由について「自分が、「在日」であり、いかにも「在日韓国・朝鮮系」をしていると思い込み、」…「自分の顔を避けたい気持ちにつながり、いつしか(自分の顔が)写真に撮られることを忌み嫌うようになった」(p12)と彼は述べている。

彼(姜尚中さん)の在日コンプレックスは、他者(日本人)の眼差しを避ける気持ち、在日であることを隠すことによって、それはますます、増幅される。そして、彼の「精神的な脆弱さの原因となっていた」(p12)。しかし、「内にこもるナイーブな性格とは裏腹に…どこか大胆で、ふてぶてしいような図太さ…物事の仔細にこだわらない鈍感…不逞の精神」が二重に存在している」(p13)ことを彼は感じていた。 

その二つの性格の「どちらが本当の姿なのか、(彼自身)にもよくわからなかった」。「このような分裂質的な…性格が、父母と(彼)を取り巻く「在日」の環境から何らかの影響を受けていると」(p13)考えた。

また、自分の原点にあった母(オムニ)にも、「あふれるような母性愛と繊細さ」(p13)、そして突然爆発する癇癪(かんしゃく)の、自分と同じような分裂質的な性格があった。母がそうなったのは、先天的な要因というよりも、やはり「在日」という境遇の影響が大きい」(p13)と彼は考えた。

母に性格に具現化した在日の厳しい境遇の歴史

母の生涯、祖母に大事に育てられた時代、「幼いころの母は…疑うことを知らない無垢な少女」であった。「住み慣れた故郷から海を越えて日本に渡り、そこで想像を絶するような艱難辛苦(かんなんしんく)の日々を(父とともに)生き抜いていかざるをえなかった」。(p14)過酷で悪意に満ちた日本社会での在日の置かれた生活環境の中で、母が朝鮮民族の誇りや伝統文化や精神など内に秘めた自分の世界を守り続けるために、激しい'性格の人へと脱皮してきた。
しかも、母は「在日」であると同時に文盲(もんもう)(日本語が読めなかったのではないか)でもあった。

著者の母はかたくなに旧暦(韓国の伝統の暦)に拘(こだわ)り続けていた。彼女を支配していた身体的な時間は、土俗的(韓国の)習俗(しゅうぞく)の循環によって維持されていたと姜尚中氏は顧(かえり)みる。どんなときでも、すべての先祖崇拝や土俗的な祭儀(さいぎ)や法事(ほうじ)をやってのけた。彼女は日本の常識からすれば迷信のような儀式や習俗を守り続けた。

彼は、「母の神経症的といもいえる故郷の風俗や祭儀(さいぎ)への執着が…あまりにも不合理に思えて仕方がなかった。」(p15)「先祖崇拝と土俗的なシャーマニズムの世界は、…迷信以外のなにものでもなかった」し、「その世界が「在日」であることの不名誉のしるしのように思えてならなかった。」(p14)

しかし彼は、その彼の考えの浅さに気づくことになる。母は幼くして亡くなった長男「晴男」の法事を数十年も続け、そのとき準備した赤ん坊の下着を焼きながら、その死児の歳をずっと数えながら生きていた。そのあふれるような母性愛こそ「母が必死に守り続けてきた世界」であった。

「戦争の時代、そして戦後の時代、そのすざましい変化にもかかわらず、母は、異国の地で根こそぎもぎとられた記憶に生命を吹き込むことで、かろうじて自分がだれであるかを確かめながら生きていたのである。」つまり「近代とでも呼びたくなるような時間…の習俗を守り続けることで、母は無意識のうちに日本の中にどっぷりとつかることのない異質な時間を見つけ出していた」のである。(p16)

日本と朝鮮半島の歴史、その歴史に翻弄(ほんろう)されてきた在日の人生。日本によってもたらされた朝鮮半島への強引な近代化、その近代化へのささやかの抵抗としての、旧暦への拘(こだわ)りが彼女の生活時間の習慣を作っていた。

文盲であった母にとっては、日本社会での「言語という回路が途絶(とぜつ)していたのである」。しかし、その閉塞感や孤立感はどれほど想像を超えたものであろうと、生きるために零細な家業の担い手として、その孤独な世界に閉じこもっていることなどが許されなかった。「文盲のハンディで何度も騙(だま)されたり、見下げられたりし」母のプライドはずたずたにされていたが、生活のために絶えず外の世界と交渉をもたなければならなかった。その差し迫った強制のはざまで、「母はいつしか神経症的な性格を形作っていったのではないか」(p18)と著者は述べている。

そんな「母もまた、メランコリーの中に打ち沈んでいるときが多かった。」そして「ため息のように漏れる母の涙声の歌は、…心悲しい哀愁に満ちていた。」(p18)しかし、その静かな時にも、「しばしば激しい「動」の時間とコントラストをなしえいた」し、癇癪(かんしゃく)が爆発したときはだれも手がつけられなかった。

「名前すら書けないわが身の無知を、母はどんなに恨んだことだろうか。文字を知らない不幸をこぼす母の口調にはくやしさとやるせなさの感情がにじんでいた。」(p18)


私はその(在日たちの生きた世界の)記憶をとどめていきたい

その母も喜寿(きじゅ)を過ぎ、激しい「動・癇癪の爆発」の時間とメランコリーの中に打ち沈んだ時間のコントラストも亡くなり、往時(おうじ 過ぎ去った昔)を懐かしむようになった。恩讐(おんしゅう)を忘れ、自分だけの世界にまどろんでいるように見えた。

著者が還暦(60歳)を迎えたとき、母はこの世を去った。それは、在日1世の殆どがこの日本社会から逝く時代、つまり在日にとって戦後という時代が終わりを意味することでもあった。その時代の終わりに、これからの新しい時代に、在日1世たちの生きていた歴史的事実を残さなければならないと思った。それは「文盲」であった母から文字を知っている彼(姜尚中さん)へ課せられた儀式のようにも思えた。

姜尚中氏は、彼が若い時代に、「悲壮な決意で「永野鉄男」から「姜尚中」に変わった頃のことが遠いむかしのように」なつかしく思えた。そして、彼は在日の遠い記憶を呼び寄せ、それを現代日本の社会の記憶に留めようとしたい気持ちになった。それは、単なる懐旧(かいきゅう)でなく、戦中・戦後を生きた在日の人々の記憶を残すための在日二世である自分たちに課せられた大切な儀式のように思えるし、文字を知らない世界で生きていた在日一世たちから文字(日本語)を知っている在日二世に託された遺言のように思えた。

遠い記憶を呼び寄せ、その記憶の中に書き込んでおけば、いつかみんなでその記憶を分かちあえる時がくるに違いないと著者は書いている。そして、過去に向かって前進すれば、きっと文字をしらなかった在日一世の人々に会えるのだからと著者は述べている。


第3章 「プロローグ」に関する批評

プロローグの文章を私は大きく三つに分けたが、姜尚中(著者)のテーマは一つであった。

つまり、このプロローグは姜尚中(著者)がこの本『在日』を書かなければならなかった彼のこれまでの「在日韓国人」としての生い立ち、その生い立ちに深く関係した人々、特に著者の母の姿を通して、1910年8月から1945年8月(終戦)まで続く朝鮮合併(日韓合併)、つまり大日本帝国が大韓帝国を合併するという朝鮮植民地の時代から戦後、現代まで続く在日韓国人の歴史の中に存在した現実、それらの人々の生きていた姿を記録することであった。

例えば政治的事件に関する資料、経済的動向の資料等々、歴史的事実と呼ばれる社会経済の動向から、その当時の時代や社会のマクロな姿は理解できるだろう。しかし、歴史を学ぶことは、その社会に生きていた人々の姿を、生活を理解し、彼らの行動を彼らのもつ精神構造やそれを作り出している彼らの時代や社会文化環境を理解することからはじめなければならない。
姜尚中(著者)は、マックスウエーバーの社会学を学んできた研究者であるために、個人の心象や行動に発現する精神現象、つまり社会文化の現象を、在日の個人史的な記述から堀探ろうとしているように思える。

プロローグは、その彼の社会学的方法論を叙述的に記載したかのようである。

確かに、単純に日本人であった私にとって、姜尚中氏の突きつけた課題は重い。何故なら、同じ現代の日本という時代と社会に姜尚中(著者)と共に生きていた私は、在日の何ものも理解しえる土台も知識も気持ちもなかったのである。

在日朝鮮人や中国人と我々の国、日本と隣接した韓国朝鮮の歴史を教科書で、また書物で呼んだとしても、彼の個人史からにじみ出た在日の姿のように、ありありと彼らのコンプレックスや悲惨で悲哀に満ちた生活、楽観的でお人よしの生活、臆病で強かな(したたかな)生き方を読み取ることは出来なかっただろう。

このプロローグは、日本社会で日本人になりすましていた永野鉄男が本当の自分、つまり在日韓国人としての姜尚中になる闘いの記録の序文であり、また同時に、姜尚中として在日としての自分を強調しながら自らの存在認識を成し遂げた彼方から、自己確信の認識(自信をもって生きている自分への認識)を終えた姜尚中が、やはりその姜尚中の一部であった永野鉄男を懐かしく思うという課題に展開していくことを、長く異国の地日本で生活をし、そしてそこで生涯を終えようとする母の最後の姿に重ねながら予告しているように思えた。

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ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」

5. 日韓関係

5-1、NHK ETV特集「日本と朝鮮半島」 イムジンウェラン 文禄・慶長の役のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6656.html

5-2、NHK 朝鮮半島と日本 「倭寇(わこう)の実像を探る  東シナ海の光と影」のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_2310.html

5-3、NHK EV特集 「元寇蒙古襲来 三別抄と鎌倉幕府」の映像資料のテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_6943.html

5-4、姜尚中(カン・サンジュン)著『在日』プロローグのテキスト批評
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_29.html

5-5、東アジア共同体構想の展開を進める日韓関係の強化
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_12.html







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2010年11月25日木曜日

菊田幸一著『日本の刑務所』第一章「受刑者はどのような存在か」のテキスト批評

三石博行


テキストの出典

菊田幸一著『日本の刑務所』岩波新書794、205p、2002.7、「はじめに」、第一章「受刑者はどのような存在か」pp1‐46、

テキストの文献記号は、(KIKUKo02A )とする。

菊田幸一氏は、1934年12月生まれ、出身は滋賀県長浜市、弁護士、中央大学法学部卒、明治大学法学部大学院博士課程卒、明治大学名誉教授、法学博士(明治大学)、死刑廃止論者、被疑者及び囚人の法的権利を重視する学説を唱える。終身刑の導入を主張、犯罪被害者の救済と加害者の和解を推進している。(Wikipedia)



第一章「はじめに」、第一章「受刑者はどのような存在か」pp1‐46、の要約

現在の日本の刑務所の問題点とは何か


日本の刑務所収容者の三つの特色

日本の刑務所収容者の特色は以下の三つである。

一つ目は、累犯者(るいはんしゃ)が多いことである。頻回入所歴(ひんかいにゅうしょれき)を有する者は、男子の全収容者のうち52.5%(2000年の統計)である。中でも5度以上の入所歴を有する者は、頻回収容者の三割を占める。(pⅰ)

二つ目は、受刑者の高齢化である。六十歳以上の高齢受刑者は1984年に2%、1989年に4.3%であったが、2000年末では9.3%でと、10年近くで倍増している。

三つ目は、受刑者の全体の四分の一が覚せい剤事犯、さらに全体の四分の一が暴力団関係者で、矯正効果を期待するのが難しいケースが多い。

こうした受刑者は、仮に更生意欲を持って刑務所を出ても出所後の経済的不安、健康、前科、住居等のあらゆる生きるすべについての障害によって、半分以上が再び刑務所に戻ってくる。

受刑者の社会復帰のための行刑の課題

受刑者は自らの犯した犯罪(反社会的行為)に対する当然の結果として、受刑者の自由を拘束すること(自由刑)は当然である。その刑は基本的に受刑者の社会復帰を目指した矯正教育の場として刑務所は位置づけられているが、現実は、そうなっていない。

そして、受刑者の社会復帰を支援することが、結果的に社会の利益に繋がるという考え方が、刑罰思想の課題となっている。

矯正教育の旗印のもとに、実施されている諸施策(しょしさく)も、現実的には自由刑の目的を越えて非人道的な扱いを正当化する傾向がある。積極行刑(きょうけい)である再教育が必ずしも受刑者の社会復帰にとって効果的でないことが、主にアメリカにおいて反省されている。国際的にも、積極行刑が見直され自由刑に限定した行刑(刑の執行)である消極行刑が評価され、それに移行している。(pⅲ-ⅳ)


累犯者・刑務所への、頻回収容者を減少するための課題

なぜ刑罰を受けても犯罪を繰り返すのかという疑問が提起される。そこで、頻回収容者は「人間は自由の拘束が耐え難いが故に犯罪を留まるということに疑問が投げかれられている。つまり、自由刑では累犯・頻回入所を防ぐことが出来ないのではないかという指摘もある。(pⅳ)

著者はその指摘に対して、「刑務所生活に(受刑者が)慣らされなければ(受刑者たちは)受刑生活に耐えることが出来ない」現実の刑務所のあり方を問題にしている。つまり、刑務所生活に慣らされ、逆に一般社会に出ることに不安を抱く人間(受刑者)を育てているのが、現在の日本の刑務所の実態ではないかと指摘している。(pⅳ)

本書では、ワイマール憲法(1919年制定)に沿って、受刑者といえども「人たるに値する存在:であるという観点から、アメリカの刑務所での受刑者の人権擁護の状況を例に取りながら、日本のそれを分析しる。アメリカの刑務所がはるかに日本の刑務所よりも受刑者の人権は守られている。

しかし、アメリカは日本の数倍の犯罪が発生している。例えば、1998年の統計からも、日本では10万人あたり1.0人の殺人が起こっているのに比較して、アメリカでは6.3人である。つまり、日本は世界的にも犯罪の極めて少ない国であるが、その日本でも近年、受刑者数は増加の傾向にある。そして、刑務所では過剰拘禁(こうきん)の状態であると報道されている。
日本の刑務所での過剰拘禁状態の原因は、犯罪の増加のみでなく、重刑罰傾向と仮釈放率の低下もその原因である。

著者は、日本での累犯者・頻回入所者を減少されるために、以下の三つの提案を行った。
つまり、第一点目は、受刑者の生活環境の改善(食事、作業等々)について考えること、第二点目は他律的で受動的な生活スタイルの改善、つまり自己責任を常に意識し主体性を育てる受刑生活スタイルを考えること、第三点目は刑務所を外部との隔離社会でなく、外部と交流のある場にしながら、受刑者の社会復帰の心を育てることである。

著者のこの提案の基本には、社会から犯罪を少なくするための目的がある。その目的を実現するために、著者は、受刑者を人として扱うこと、つまり、受刑者の人権を考える日本社会の人権文化、その結果として刑務所が受刑者の人間復活と社会復帰を可能にする施設になることが述べられている。


受刑者の扱い


日本の刑務所と受刑者の現状

2001年には、日本には59の刑務所、8の少年刑務所と7の拘置所があり、一日平均40,768人の裁判が確定し懲役(ちょうえき)、禁錮(きんこ)及び拘留(こうりゅう)をされた既決囚(きけつしゅう)が収容されていた。また、一万人の未決囚(みけつしゅう)が拘置所にいる。既決囚の収容定員は48,393人であることを考えれば、ほぼ定員いっぱいの状態であると言える。

新受刑者は、刑の重さ、犯罪傾向の進行、性別、刑名、障害によって収容分類級が付けられる。また、処遇分類級に区分され、それらの級別に応じた刑務所に送られる。
新受刑者の約12%が凶悪犯罪者(殺人罪、強盗罪や傷害罪)で、窃盗、覚せい剤犯、詐欺、道路交通法違反が男子新受刑者の約53パーセントである。また、女子受刑者は、近年漸増(ぜんぞう)傾向にある。

刑務所ごとに受刑環境は異なる。例えば、北海道の東北地方より北の北海道以外には暖房はない。食事の質にも施設によって大差がある。


受刑者の人権について、入所時の検査、制限された人権、人間の尊厳とは何か

刑務所への押送(おうそう)は、護送車で行われるが、遠方の場合、刑務官が付き添って、手錠を掛けられ、二人以上の場合は体を数珠状(じゅずじょう)に繋(つな)がれて列車で運ばれる。一人がトイレで用を足すときは、他のものは繋がれたままホームで待たされる。手錠を見られないように一般の乗客に隠されているものの、その不自然な姿に屈辱(くつじょく)を味わう。

刑務所に着くと、新人調質(しんじんちょうしつ)に入れられ、本人確認がなされる。そして、入所時の身体検査が行われる。その時から、人権を無視された軍隊式の扱いが始まる。

刑務所は受刑者の自由を拘束するためにある。しかし、世界人権宣言や日本国憲法に謳われているように、受刑者といえども人間である以上、彼らに拷問や屈辱的で非人道的な取り扱いをしてはならない。また、生命の尊厳を考えるなら死刑は廃止すべきであると著者は述べている。

また、受刑者の人権の扱われ方が、「その国における人権感覚の国民一般のレベルを計るバロメータでもある」と著者は述べている。そして、日本の刑務所での受刑者の扱いが紹介されている。


日本型行刑

日本の刑務所での受刑者と刑務官の関係は刑務官がおやじ(父親)であり受刑者は息子の関係が成立し行刑(ぎょうけい)がなされている。刑務所では受刑者は刑務官を「おやじさん」と呼んでいる。この日本型行刑(受刑者は刑務官に絶対的に服従する関係)によって、日本では刑務所で暴動が起こることはない。

しかし、受刑者が何らかの理由で懲罰審査会にかけられた場合など、行政裁判の証人として親である刑務官が子である受刑者の味方になってくれることはなく、結局は、受刑者は刑務官への不信感を持つことになる。刑務官への敬愛は憎悪の念となって残ることになる。


監獄法の変遷

現行の監獄法は、大日本帝国憲法下で制定されたもの、つまり100年前のものである。言い換えると、監獄法は、基本的人権尊重を謳う日本国憲法の法の精神に基づき制定されたものではない。ここに現行監獄法の基本的問題がある。

日本で最初の監獄法令は、1872年(明治5年)から1873年までの「監獄則並図式」(かんごくそくならびずしき)である。1880年(明治13年)に旧刑法、1881年に第一次監獄則(フランス・ベルギーの行刑制度に習った)、1889年に第二次監獄則(ドイツ方式)、1908年現行監獄法が制定される。(p17)

小河滋次郎(おがわしげじろう)が現行監獄法を起草した。現行監獄法の特徴は、懲罰の法律化、処遇の個別化、独居拘禁制(どっきょこうきんせい)の採用で、当時としては監獄法の国際基準から優れたものであった。今日、この法律が存続しているのは、それなりに監獄法の国際基準を満たしていたからである。(p17)

しかし、小河が起草した当時の理念が空洞化している。例えば、同法第15条にある独居拘禁制は受刑者の人権を守るという趣旨でなく、むしろ、その逆に昼夜にわたる厳正独居(げんせいどっきょ)という懲罰の手段として使われている。(p18)


成績評価と累進処遇

1932年に施行された「行刑累進処遇令」(ぎょうけいるいしんしょうぐうれい)は、監獄法に基づかない単なる命令であるが、この命令が実際の受刑生活のすみずみにまで及び、事実上、刑務官の一方的な査定に受刑者の処遇が任されている。 

行刑累進処遇令によって受刑者の成績(受刑生活態度への評価成績)の向上に応じ、第1級から第4級までに区分された階級段階を順次昇進させる。上級になるにつれて漸進的(ぜんしんてき)に拘束条件を緩和する措置が取られる。この判断の全てが刑務官に任されている。

つまり、近代法の精神である、実質的な権利と義務の関係の法的規制ではなく、刑務所の刑務官の判断で受刑者の扱いを決定することが出来るようになっている。


日本の行刑の100年

小川太郎は日本の行刑の歴史を五段階に区分した。まず、最初の段階が日本の行刑は明治新政府の設立から10年間で監獄制度が目まぐるしく変化した混乱の時代である。すぐ後、次の第二段階で、ドイツ方式を取り入れた厳格な刑罰の時代・懲戒主義時代が来る。

そのあと監獄法が制定までを管理主義時代と呼ばれる第三段階が訪れ、その次の第四段階は、戦時中に受刑者を勤労奉仕に参加させた人道的処遇時代(本当に人道主義があったのではなく、戦中の人手不足の解消のために受刑者を使用した)である。

最後の第五段階は戦後から現在までの期間で、科学的処遇時代である。

受刑者の権利保障に関わるものは、法律以下の政令、省令、通達と呼ばれるもの、刑務所長の達示(たっし)であり、刑務官の現場での指示である。現場に最も近い刑務官の指示が受刑者の人権に直接かかわる日常生活に規制を加えるものになっているのが日本の行刑の現状である。

行刑の密行主義

日本の行刑の基本原則の一つに「行刑密行主義(ぎょうけいみっこうしゅぎ)」がある。

もともと、この密行主義の原則は「国民の健全な良心を傷つけない」ことが目的であった。刑務所の実態をひろく社会に知らせることが、受刑者の「良心を傷つける」ことになるなら、まさに「臭いものに蓋(ふた)をする」類(たぐい)のものである。

近代行刑においては、受刑者の再教育と改善を行刑目的とし、秩序維持を図りつつも、開放施設や受刑者の社会復帰を促進する実務工夫が求められている。

刑務所は一般社会に可能な限り密着する必要があり、施設の運営の許す限り一般に公開される必要がある。行刑密行主義優先の時代は終わった。刑務所の情報公開と受刑者とその家族の結びつき、地域社会との連携のもとに刑務所を社会化するための工夫が必要である。

開かれた刑務所を目指しつつ行刑の専門化が追求されなければならない。(p21)


受刑者処遇の責任者

刑務所や少年院等を管轄する法務省矯正局の最高責任者は形式的には法務大臣であり、行政的には矯正局長である。しかし、現実は矯正実務の経験のない検察官の専権(せんけん)ポストとなっている。矯正局の総務課長などの重要職も、ほとんどすべて検察官で占められている。

出世したほんの僅かな定年間近(ていねんまじか)矯正実務畑出身者が、矯正管区の管区長になる。その管区内の各刑務所の所長がいる。この刑務所長が事実上の実務責任者となる。しかし、彼らも2、3年で転勤する。

従って、受刑者と現実に接触しているのは、転勤のほとんどない長年看守として勤め上げた現場の人たちである。彼らも刑務作業の成績を上げなければならない。刑務所の規律と秩序優先の管理をしなければ自らの保身は出来ない。

つまり、刑政は極めて官僚的に執り行われている。これまで、矯正界(刑務行政)の改革を呼びかけた人々もいたが、現実は、省令や通達にいたる法令すら外部に公開することを禁じるよう状態である。


規律中心主義はなぜ続くか

日本の刑務所は、悪い意味での密行主義に年々傾いている。その批判すら許されない。そのため受刑者処遇は規律による管理主義が優先されている。何故なら、刑務所内での刑務官の管理し易い方向で、刑務所の行刑実務が行われているためである。

孫斗八(そん・とうはち)死刑囚がはじめて刑務所を提訴した。このはじめての1958年の大阪地裁での行政裁判で孫氏は部分的に勝訴したが、全体としては敗訴した。その後も多くの訴訟が受刑者によって提起されている。そのほとんどは負けている。何故なら、受刑者にとって国を相手の裁判提起にかかわる条件が、不利であるからだ。

刑務所の管理者は受刑者の告訴に備えて万事怠りない対策を準備し、その後、受刑者への締め付けが強化され、受刑者の人権意識への自覚に逆行して、行刑実務者の人権意識は薄くなっている。


市民としての権利の制限

選挙権および被選挙権

公職選挙法によって受刑者(禁固刑以上の刑に処されている者)は選挙権および被選挙権を持てない。仮釈放後も刑の執行期間が終了するまでは上記と同じ条件となる。(p27)

また、同法によって未決勾留中(みけつこうりゅうちゅう)の被告人、勾留執行中、婦人補導院収容中の者、つまり自由刑でも、三十日未満の勾留刑の者は不在者投票を認めているが、禁錮以上の受刑者には(被)選挙権はない。(p28)

選挙権の剥奪によって、刑の執行状況等が市町村役場に通知され、戸籍を所管する市町村での犯罪人名簿への登録が行われ、選挙人名簿の調整によって選挙権の喪失が確認される。つまり、基本権の一つである選挙権が刑務所収容によって自動的に剥奪されることになる。その剥奪は、自由の拘束(自由刑)に加えて付加刑(ふかけい)として受刑者への社会制裁を認めることを意味しないかと著者は述べている。(p28)

ヨーロッパやアメリカでは、基本的に受刑者の選挙権を認めている。刑務所内での不在者投票が行われている。選挙にかかわる罪を犯した受刑者に選挙権や被選挙権を停止することは理解できるが、一般受刑者にその権利を奪うかについての明白な根拠が見出せない。(p28-29)

選挙権は憲法上の基本権である。またすべての市民が選挙権や被選挙権をもつとする自由人権規約第25条にも違反する。自由刑(身体の自由を奪う刑)として刑務所に収容された以上、住居制限を受けることは避けられないが、しかし選挙権(被選挙権)の停止は自由刑の目的を超えた思想や良心への侵害であるという認識も問われるべきであると著者は述べている。(p29)


住民票

受刑によって刑務所への住居移転は生じるが、刑務所は法的に住居ではないため、住居移転手続きは成立しない。しかし、受刑者の場合、長期不在が明らかになれば、住民基本台帳第3条により、住民票から抹消されることになる。取り分け、受刑者の場合、家族のない者、刑務所入所後に離婚した者が少なくないため、市町村からの公的通知書が宛先不在となり返却されるために、不在の確認がなされれば、住民票を市町村は抹消せざるを得ない。だが、長期不在者が必ずしも住民票から自動的に抹消されている訳ではない、例えば長期海外生活や入院する者は、生活の根拠があるために、自動的に住民票を抹消されない。(p29-30)

日本社会では住民票が無い場合、多くの不利益や基本権を失う。例えば、健康保険の資格の放棄、ただし日雇労働者は日雇労働保険手帳がある。これがあれば国民健康保険に以前は加入できたが、最近では住民票がなければ加入できなくなっている。(p30)

住民票をなくした受刑者は、出所後、改めて住民票を取得しなければならない。出所後、多くのものが家族と無縁になっている場合、ホームレスになっていく。出所後、身元引受人のもとに帰住(きじゅう)するか、厚生保護施設での宿泊措置を受けることで、一時的に住所を確保し、住民票を取ることは可能である。それをあえてしない「自助の精神」の欠けた者は自ら社会福祉を受ける権利を放棄した者と看做す(みなす)ことも出来るだろうが、長期の刑務所収容の結果として住民票を失うこと自体が、自由刑の目的をはるかに越えた、受刑者の社会復帰を阻害している現実を理解すべきである。(p31)

海外、例えばアメリカでは、日本のような住民票や国民健康保険制度がないために、少なくとも住民票を失うことによる障害は生じないため、住民票を失うことによって生じる社会復帰の障害も同時に生じない。(p32)


医療保険 健康保険法の問題点

法的には刑務所に入所したからと言って社会保険、国民健康保険の資格を失うわけでないが、実際的には、それらの資格を失う。社会保険は逮捕や有罪判決の出た時点で解雇されるのが普通なので、そこで事実上資格を失う。国民健康保険も収監(しゅうかん)されてから保険料の納付が事実上不可能になるので、資格を喪失する。(p32)

刑務所での医療給付は健康保険法第62条によって適用されていない。同様に国民健康保険法第59条と船員保険法第53条でも受刑者へは支払いされない。老人保健法でも同様である。受刑者は、これまで支払ってきた医療保険に関する一切の医療補助の権利を失い、医療費適用されていないことになる。(pp32-33)

受刑者の健康管理は国と行刑実務機関(矯正行政・刑務所)が行うことになる。刑務所には医療体制がある。しかし、それは極めて粗末なもので、これまでの医療と同じ質のものを受けたい場合には、自費治療となる。金のないものは、例えば入れ歯の治療(前歯ではほぼ20万円)すら受けられないことになる。人工透析、糖尿病治療なでの治療が出来る刑務所は限られている。(p33)

1996年に未決拘禁者(みけつこうきんしゃ)が国民健康保険法第59条(刑務所に入所した場合、保険適用者から削除される)は憲法違反であると山口県弁護士会人権擁護委員会に訴えた。同委員会は「59条は合理性に疑いがある」と判断した。その結果、歯科治療が受けられた。一般に、半年以上の未決拘禁者には通常、この59条が適用され、自費医療が原則化しているのが現実である。(pp33-34)

犯罪者は健康保険により治療する身分でないという考え方が支配している。この考え方は戦前の救護法にある。戦後、生活保護法も同じ考え方を持っていたが、1950年に改正され「素行不良な者」でも平等に適用されるようになった。(p34)

国際規約である自由人権規約第10条では「刑行の制度は、非拘禁者の矯正及び社会復帰を基本的目的とする処遇を含む」ことを保障している。この規約を批准したわが国の刑務所の医療のあり方は国際準則からみても問題があると言える。(pp34-35)


労災保険

監獄内の刑務作業中の災害には労働者災害補償保険法の適用はない。受刑者の災害補償は1985年に出された「死傷病手当金給与規定の運用について」(依命通達)の規定がある。手当金の基準は労働基準法や労働者災害補償保険法を参酌(さんしゃく、参考)して積算(せきさん)されていると言われているが、2000年度の積算額をみると、一般労働者の補償額の四分の一となっている。(pp35-36)

刑務所作業は労働ではなく刑行(強制的な労働)でるということが、一般労働者の補償額の四分の一に受刑者への支払金額がなる根拠とされている。しかし、受刑者の強制労働中の災害に対して、「死傷病手当金給与規定の運用について」の規定をもうけ労働基準法や労働者災害補償保険法を参酌(さんしゃく、参考)した基準を定めたという以上、この依命通達でも、刑務所での強制労働を労働として認めたことを意味しないだろうかと著者は述べている。(pp36-37)


年金保険

国民年金法の障害基礎年金は拘禁されたときはその支給を停止することになっている。停止であるから、在監中(ざいかんちょう)は、保険料の納付免除を申請し、出所後に免除期間の保険料を払うことは可能である。(p37)

その他の厚生年金保険法で定められている年金の支給停止はない。しかし、本人が申請しなければならないため、在監中、家族や施設の協力が必要である。(p37)

問題は、年金を支払うためには、住民票の存在が前提であるため、刑務所収容に伴い受刑者は住民票を消除されるので、実際は年金受給資格を持つ者も、年金の支払いを受けられない場合が多く発生する。受刑者には形式的には年金受給の権利を与え、事実上は不支給や失格にしている。(pp37-38)

ヨーロッパ評議会の理事会が1981年に採択した「被拘束者の社会的身分に関する勧告914号」では、社会保障資格は受刑者の社会復帰にとって基本的な要素の一つであるため、その権利を市民と平等な状態に近づけるべきであると勧告している。(p38)


雇用保険

雇用保険法で定める失業の定義が受刑者には適用されないため、失業保険の適用は監獄収容者には適用されない。

失業保険の給付期間は一年であるから、多くの場合、逮捕や刑務所収容と同時に解雇となる場合が多いため、この要件を満たすは困難であり、受刑者が失業保険を受給することはできない。もし、刑務所作業を労働として認めれば、雇用保険の継続は可能であるが、懲役は労働として認められていないために、失業保険の適用はないし、また、労働者の理由で辞める場合には、失業保険の受給資格を得られないため、受刑者はその点でも受給の可能性を失う。(pp38-39)

しかし、ヨーロッパでは、原因がどうであれ受刑者も失業したのであるから、受給資格を持つと考えれば、失業保険の対象としている。(p39)

 
国際的視野から見る


刑務所収容と「法の支配」

行刑に関する国際準則は、条約、採択、決議の段階がある。条約を批准(ひじゅん)しているかどうか。法的拘束力の有無、解釈の相違がある。日本人・日本としての条件が付いている場合もある。(p39)

著者は、人権は普遍的なものであるから、国や社会、地域性によって人権感覚が捉えられてはならないし、国は国際基準を無視してはならいと述べている。(pp39-40)

この国際準則の批准に関して留意すべき第一点目は、まず法律によって規定された関係として刑務所収容に関する国家と受刑者の関係を位置づけていることである。つまり、国家と受刑者の権利義務関係に法的規制を与えることを意味する。これは法治国家の基本理念に基づき行刑が行われることを意味する。つまり、自由人権規約を批准した国は、この規約において認められた権利実現するために必要な立法措置を取ることを約束したことになる。(p40)

第二点目は、法の支配は有効でなくてはならないことである。例えば、受刑者の不服申立制度があったとしても、受刑者が不服を正当に申し立てることが出来なければ、受刑者の人権は尊守されていないことになる。その場合、受刑者は国際機関(国際人権裁判所等)に不服申立てが可能であることが実質的な課題となる。(pp40-41)


国際条約と日本

行刑に関する不服申立制度について日本は制度として存在している。しかし、その制度は実質機能していない。さらに国際機関への不服申立てはきわめて困難である。つまり、日本は自由人権規約を批准しながら、その内容を果たしていないことになる。(p42)

国際条約を形式的に批准しながら、実質的に批准を回避していることで、国際社会から「人権において日本は発展途上国である」と言われている。国際機関への不服申立に関する国際基準を満たす制度を日本が拒否している限り、日本の受刑者の人権が国際基準から見ても容認されるレベルにないと評価される。(p43)


最低基準規定と自由人権規約の現状 

1995年の犯罪予防及び犯罪者処遇に関する第九回国連会議で「非拘禁者処遇最低基準規則の実践履行に関する決議」が採択された。この決議の主な5点に関する決議内容の実施を加盟国に要請した。

この1995年の決議は、1955年に決議された非拘禁者処遇の最低基準規則の実践履行に関する決議であった。しかし、日本政府は、報告書で「各国制度の特殊性に対する十分な配慮を欠いているがために活用されないままになっている基準・規則については、これを多くの国で実施しやすいように修正することが検討されるべきである」と述べた。つまり、1955年の最低基準を引き下げることを提示したのである。これが日本政府のもつ国際的人権感覚ではないかと著者は述べている。

日本の裁判所(司法でも)自由人権規約の最適基準に適合するように国内法の整備をする必要があるために、例えば、受刑者の接見交通権に関して、国際条約を優先する判決が1999年高松地裁で出たが、2000年、高等裁判所はこの高松判決を破棄した。

1998年10月に開かれた第四回規約人権委員会では、日本の刑務所の処遇問題に関してつぎの6点を指摘した。(p45)

一点目は、受刑者の自由な親交の権利とプライバシーの権利等を含む基本的な権利を制限する苛酷な所内規定がある。

二点目は、厳正独居頻繁な使用を含む苛酷な懲罰手段

三点目は、公正な規則違反者への懲罰決定の手続きの欠如

四点目は、刑務官の報復行為に対して、受刑者の不服申立ての不十分な保護

五点目は、信頼できる受刑者の不服申立て調査システムの欠如

六点目は、残虐非人道的取り扱いとなる皮手錠のような保護手段の多用

日本弁護士連合会(日弁連)は1999年2月に、「国際人権(自由権)規約委員会の勧告を実施する応急措置法案要綱」を発表し、第四回規約人権委員会の日本の刑務所の処遇問題点の改善、受刑者の処遇改善を提示している。(pp45-46)


第一章「受刑者はどのような存在か」に関する批評

 
累犯者が非常に多い日本社会

インターネットの検索エンジンで「犯罪加害者」と「人権」の二つのキーワードを入力すると、ほとんどのサイトで「犯罪加害者には人権はない」という内容の文章に出会う。もし、彼らに人権がないなら彼らは日本国民ではないと言っていることになる。何故なら、わが国の憲法によってすべての国民が基本的人権を擁護されているからである。

犯罪被害者が犯罪加害者に対する憎しみや怒りの感情は理解できる。しかも、第三者がその犯罪被害者の気持ちを痛感し、また自分が犯罪被害者になることへの恐怖から、犯罪加害者への批判や憎しみの感情があるのは理解できるし、そうした社会的反応が起ることも不思議ではない。

犯罪学の専門家として有名な菊田幸一氏の著書によると、累犯者(るいはんしゃ 繰り返し犯罪を犯す人々)は、男子の場合2000年の統計では刑務所の全収容者の52.5%に及んでいる。つまり、刑務所の「初入者より再入者が多い」ことになっている。(KIKUko02A p.i )


刑務所の社会的機能 受刑者の社会復帰

この事実から、二つの仮説が立てられる。一つは、最犯罪率が高いのは日本の犯罪者の特徴ではなく、犯罪者とはつねに犯罪を再び繰り返す傾向にあると言える。この仮説は世界の犯罪者の再犯率を調べることで検証できる。二つ目の仮説は、本来刑務所は受刑者の犯罪行為を反省させ、再び罪を犯さないように教育矯正する社会的機能を担っているが、日本の刑務所はその社会的役割を十分発揮していないというものである。この事も、前記した仮説と同様に世界の先進国の再犯罪率の統計を見ることで検証可能である。

犯罪加害者という名称を与えることで犯罪者が生涯償えない加害者としての履歴を背負うことになる。彼らが刑務所で刑の執行を受けたとしても、元犯罪者という呼び方は彼らに生涯、刑務所での刑罰に服し、被拘束生活と刑務作業を続けたとしても、一旦、罪を犯したものは再び社会が許すことはないという烙印(らくいん)を意味する。

この烙印は、江戸時代、窃盗などの犯罪者に入れ墨を入れ、三回入れ墨が入る死罪となる制度と似ている。中世社会までは、犯罪者が生れないようにするのでなく、犯罪者を社会から排除することが社会の犯罪対策として取られていた方法であった。しかし、現代の人権擁護を基本する憲法を持つ社会で、罪を犯した者を社会から徹底的に排除することは、人権問題となると言える。

人権の守られている社会とは、人々の生命と生活を守ることが出来る社会を維持するために、犯罪が発生しないように機能している社会である。そのために、犯罪者を逮捕し、裁判にかけ、刑務所に入れ、再び犯罪を繰り返さないよう矯正教育を行い、そして彼らの社会復帰を助けることが社会の大切な治安機能の一つである。防犯とは犯罪を未然に防ぐことであると同時に、犯罪者を出さないような社会を作ることを意味する。


市民の人権擁護・防犯と受刑者の人権擁護・社会復帰

また人権問題を考える以上、刑に服している人々を「犯罪者」と呼ぶのでなく「受刑者」と呼ぶことにする。受刑者が再び罪を犯し、累犯者となることを防ぐにはどうすべきか、それが、この社会の安全対策につながる。人権擁護と防犯は矛盾するとは思われない。もし矛盾するなら私たちの社会は人権擁護の思想を破棄し、江戸時代のように、罪を犯した人々を徹底的に社会から排除し、また死罪にして、抹殺し続けなければならない。

現代社会でも中国のように、麻薬を持っていたという理由で死刑になる国もある。その国では年間数千名の人々が死刑になっていると謂(い)われている。刑罰を強化しながら中国政府は国の治安を維持している。インターネットでも中国で行われていた公開の銃殺刑の写真が出回り、人権感覚のない国として悪評を買っている。

人権擁護を掲げる先進国では、受刑者の人権を考える法律や社会制度が存在している。つまり人権を守る社会では、極刑をもって犯罪者を抹殺するのでなく、犯罪者を出さない、累犯者にさせない社会のあり方を市民が積極的に考えなければならない。そのきっかけを裁判員制度は与えるだろう。市民生活の安全を守るために犯罪を防ぎ、犯罪者の社会復帰を助け、累犯者を出さない社会を構築していくために、もう一度、受刑者の人権問題を考えてみよう。



参考資料

江戸時代の刑罰 http://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/zidai/keibatu.htm
刑罰の一覧 Wikipedea http://ja.wikipedia.org/wiki/
三石博行 教材「レポート材料の作り方について」 A4、8p
三石博行 教材「河野哲也著書を活用したテキスト批評の書き方実例紹介」A4、10p






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