ラベル 科学技術論 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 科学技術論 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019年3月12日火曜日

人間社会科学の成立条件(3)


科学技術進歩主義と反進歩主義



20世紀に人類は科学技術によって豊かな世界と手に入れることが出来た。と同時に、その知識が人類を滅ぼすためにも利用されることも知った。また、科学技術文明社会の課題も見えてきた。機械化、高度な生産力、情報化社会、ロボット化、経済や文化のグローバル化等々、そして地球レヴェルの気象変動、環境汚染、大量殺人兵器、無人兵器、宇宙戦争、情報管理社会等々。20世紀は、私たちに科学技術の発展による正と負の側面に向き合わなければならない時代としての21世紀の課題を残した。

この課題に対して、色々な対応が提案されてきた。20世紀の中期までは、科学技術の進歩を信じる立場から、科学技術によって生じる課題は科学や技術が進歩することで解決すると考えられた。または、それらの問題は、科学技術の活用の仕方、モラル上の問題であり、人々が正しく科学技術を活用すれば解決されると考えた。これらの二つの考え方を支配していたものは科学技術の発展への楽観論であった。

しかし、高度科学技術文明社会が持ち込む課題は楽観論を許さない深刻なものであった。その課題に対して、社会進歩自体を疑問視し否定的する立場を取る考え方があった。この考え方は私たちの深層心理に潜む古い精神構造、取り分け非欧米文化圏の人々にある伝統文化に支えている精神文化の流れに根拠を持っている。古い伝統文化を駆逐してきた近代化に対する反発である。この反進歩思想や反近代化を代表的なものが「反科学思想」であった。

20世紀後半から21世紀への世界の流れは、社会進歩や発展に価値を置く立場、科学技術の進歩やそれと共になる経済社会政策を支持する方向が中心勢力となった。その進歩を疑い否定する多くの人々は世界の片隅で追いやられる宿命に立たされている。近代科学や現代科学技術に対しては、科学技術進歩主義か反進歩主義か、近代・現代科学技術への信奉か拒否かという、科学主義か反科学主義の二つの対立する考え方に分裂して行った。

科学技術の否定的側面を非難する反進歩主義者たちも、結局は科学技術文明社会の恩恵を受けながら生きている。科学への疑問も、科学技術の未来を信奉する進歩主義に絡めとられ、近年、特に先進国では、科学自体を否定する反科学的な思想は鳴りを潜めつつある。現実の生活基盤を科学技術進歩に支えられ、それがもたらす生活の便利さの中で生きている私たちは、他方でその進歩が引き起こす深刻な問題を知らされ、その未来を楽観することは出来ない。反科学技術進歩主義は科学技術の進歩と共に形成され続けてきた。


2015年4月14日火曜日

科学技術文明批判としての生活世界の科学の課題

現代科学技術文明社会の形成と生活(生態)環境の姿

三石博行(Mitsuishi Hiroyuki)


科学技術文明の成立を人類の歴史に刻みながら20世紀は既に終わった。しかし、他方で、科学技術文明の負の遺産、例えば地球レベルの環境破壊や科学技術の南北問題などを、未来の人類の課題に残した。21世紀のはじめから、これらの負の遺産を処理する思想や科学技術が問われることになる。この課題に知の総力を掛けて立ち向かわなければ、近い未来豊かな社会を持続することは明らかに不可能である

今、真剣に生活環境を改善するために有効な知のあり方が問われている。生活学は、生活者の生活環境を改善するための技術、方法に関する科学である。その意味で、知ることが生きることと直接に関係している科学である。よりよく生活する方法や生活環境を改善する技術として生活学は成立している。

貧困に苦しむ国々では、経済的に豊かな生活環境を得るための生活改善が生活学の課題になる。そして、先進国では、生活学の課題は、経済的生活の改善だけではなく、精神的な生活環境や生態環境のあり方が生活学の問題になる。

生活を豊かにするという意味は、家政学や家庭経営学の枠を超え、生活経営学という概念で歴史的に展開されてきた。家を単位にした生活空間の合理的管理方法に関する調査や研究から、地域社会や生態環境系を含む生活経営、生活者の生活環境のあり方、合理的な運営方法を見つけ出す技術学としての生活学が課題になっていた。

生活環境の問題が取り出されたのは、生態系環境問題の発生からである。わが国では、1960年代、水俣病で知られた有機水銀中毒問題は、海の汚染、食物連鎖の頂点にある魚への有機水銀の蓄積、海を生活の場とし漁業で生計を立てている人々への被害から始まる。

当時、高度経済成長をスローガンとして経済大国を目指す日本では、生活の経済的な豊さの追求に埋没していた。その工業化社会の結果から生み出された副作用として、すでに忘れられているかも知れないが、三重県四日市での四日市喘息、兵庫県尼崎での国道43号線周辺の人々の気管支炎や呼吸器障害が語られていた。しかし、1970年代に入り、環境汚染の被害者の深刻な健康破壊を報道されることで、公害問題は人々の関心を引くことになる。工業化に伴う環境汚染による生活環境破壊が日本列島の至る所で問題にされ出した。瀬戸内海の汚染や琵琶湖の汚染と、次第に大切な生活資源である水や土が被害を受けている現実が明になった時代である。

大量工業生産体制による自然環境の破壊だけでなく、大量消費生活から出される生態環境の浄化能力をはるかに超える生活廃水や廃棄物によって環境汚染はさらに深刻になっていった。しかし、その意味で、環境汚染問題の解決は、技術的に可能であると言える。例えば、工業廃棄物や生活廃棄物を資源として活用するリサイクル技術の開発や、循環型社会の経済制度の整備などが取り上げられた 。経済活動によって作り出された廃棄物は、それが生態系システムの中で浄化される限り、再び生態資源になるのである。しかし、ハロゲン化炭化水素のようにもともと自然になかった化合物を合成することで、生態系の浄化力は著しく低下するのである。

先進国での環境問題は、廃棄物を処理する技術開発や、不当投棄を禁じたり、また部品のリサイクルを義務付けたりする法的制度の整備によって、ある程度の解決の方向を見ることが可能である。しかし、貧困から抜け出そうとしている経済発展を続ける国々では、かくて1960年代の日本と同じように、公害対策に投資している余裕は民間の企業にも社会にも余りない。何より優先している経済成長を成し遂げるために、廃棄物は未処理のまま生態系に放置される。必然的に、現在の先進国が今日の経済的豊かさを手に入れるために生態系を破壊したように、これからの発展途上国も、その過程を繰り替えることは間違いない。その結果、地球は今後さらに汚染されつづけるだろう。

経済的な豊かさを求める発展途上国の人々に、豊かな国の日本の環境主義者が、その国の近代化や工業化に反対することが出来るだろうか。現在の科学技術文明と資本主義社会制度は、今後も大量生産と大量消費の社会を拡大し、地球温暖化、環境ホルモンによる生態環境破壊、資源の枯渇化問題を深刻にさせるだろう。地球規模の環境問題は、一企業や一国の技術的解決策では、防ぎようもない重大で深刻な問題となるだろう。世界規模の環境汚染と豊かな生活環境の保全と真っ向から対立する時代が来ているのである

この不安の原因は工業社会と科学技術文明にあると考えた。しかもその不安が、神秘主義など反科学思想を呼び起こしてきた。この反動的な現代科学技術文明批判からは、現実的な解決の手段が見つからない。科学技術文明への不安や批判は、科学を点検するための活動、科学哲学や科学認識論の研究を呼び起こしてきた。現代科学技術文明批判を課題にした哲学や思想運動の中から、近代合理主義の形成期から18世紀の科学主義の形成、さらには現代科学技術の歴史が点検されてきた。

この点検作業は、1960年代から1970年代に掛けて、科学技術を歴史、社会学、経済学などの視点から分析する科学技術論と呼ばれる学問に発展した。この新しい人間社会学は、さらに専門化し、科学技術史、科学技術社会学、科学技術文化人類学、科学認識論や科学・技術哲学となり、現代の人間社会学や哲学の主流になろうとしている。

しかし、主流になった科学技術論の分析方法や科学性は、科学主義の影を引く唯物史観、新実証主義などを活用して科学技術の分析を展開した( )。現代科学技術文明批判は、その思想的基盤に問題を返すことなく、科学技術の活用の課題に終わったし、また、不十分な段階の問題とてして総括された。科学技術文明批判を課題にする科学技術論は、客観的科学の哲学的課題を取り上げた現象学の問題提起を継承しなければならなかった。


科学主義批判と生活世界の科学


現代科学技術文明を哲学が課題にする時、まずフッサールが試みた「生活世界についての学」という新しい学問性の成立に関する哲学的問題提起を取り上げよう。フッサールによると、「生活世界の科学」は「客観的・論理的な課題」のみでなく、その生活世界の課題が設定されている全ての学として成立する条件を、全体的に取り上げなければならないと提唱している。「客観的科学」は「客観的・論理的な課題」の一つの視点から「自然世界」を取り上げることで十分であった。しかし、「生活世界の科学」は学以前の生活自体における単に主観的で相対的な経験を、科学として取り上げる「科学性」が問われていることになる。

フッサールは、「客観的諸科学」が根拠とする客観的判断、実証的推論や論理的思惟などの述定的理論自体も、言ってみればある生活世界の中に属し、その生活世界に根をおろしている、言わばその客観的判断、実証的推論や論理的思惟を共同主観とする人々の生活世界の直感やその環境に支えられたものであると考えた。したがって生活世界を、学以前のドクサとして考えることは、判断、推論や論理的な考えが、その基盤である生活世界の前提を抜きに生じているということで、言い換えると、客観的判断、実証的推論や論理的な思惟自体が独自に成立していると考えるということになると指摘した。

この顛倒こそ、つまり、思惟がその思惟する主体の文化や歴史的条件を超えて、あたかも独自に存在していると考える客観主義や科学主義と呼ばれる新たな形而上学や観念論であるといえる。思惟を生活世界の中で生きる主体の精神現象として理解するフッサールの視点は、「客観的諸科学」の根拠としている非生活世界的な思惟のあり方を批判的に問題提起していると考えられる。

生活世界を対象とする時、現在の科学の主流が依拠する思想、客観主義的な思惟などだけでは解決しない課題、主観や相対的世界を抱えることになる。花崎皋平の「生きる場の哲学」は「知ること」を「世界との関わり」として捉え、生活の場を破壊する現代科学技術の在り方を批判し生きている人々の姿が「哲学する」姿として提起されていた。哲学は、生活世界とのよりよい関わりを見つけだす知の在り方として理解されている。


批判学としての生活学


資本主義経済と工業化社会の発達によって破壊された生活世界の復権を巡って、ここ2世紀にわたって、問題が提起された。例えば、生活環境の貧困化について、19世紀のヨーロッパでは、工業生産システムによって必要となる多量の単純労働に消費される若年労働者達が被る低賃金や劣悪な労働条件によって引き起こされた生活破壊、労災や職業病などが蔓延していた。それらの貧困化した勤労者を救済するために社会政策学が展開する。労働者階級の搾取の上に成り立つ資本主義経済構造の基本的な改革を、その解決策として展開する試みがなされていた。社会主義思想、マルクス経済学がその理論的な土台となった。

工業化によって失われようとしていた19世紀アメリカ社会の伝統的生活を課題にして、リチャーズは生活学を提案した 。このアメリカ生活学の基調には科学技術文明の引き起こす生活病理の臨床の知としての使命と、現代科学技術文明批判がその根底に流れている。

さらに日本でも、1937年の東北大冷害を契機に農村の生活改善運動に取りかかった今和次郎によって生活構造論や生活病理学が提案された。生活構造論は、戦中、富国強兵政策を目指す国家の利益を守ることを目的にして、篭山京によって研究された理論であった。しかし、その科学の志向性や精神は、戦前の社会政策論の流れを汲んで、貧困生活から勤労者を救済する目的をもっていたと言える。戦後になって、生活構造論は、貧困に苦しむ勤労者の生活改善の必要性を科学的に論証するために展開された。生活構造論は、日本独自の社会学的研究分野として発展したと、渡部益男や三浦典子らの生活構造論学説研究の中で、評価されている。その学説も形成期に於いても、社会学、経済学、医学、文化人類学等の幾つかの科学的視点を持って学際的研究として展開した。

その代表的なものを四つに大きく分類することができる。一つ目は森本厚吉らの生活向上を課題にした「生活文化論」は社会学的立場がある。二つ目は、労働者階級の生活防衛を課題にした風早八十二の社会政策論や大河内一男の国民生活研究は経済学的立場である。三つ目は、篭山京の「労働力の生理学的修復過程」の研究は労働科学的立場を挙げる。四つ目は、今和次郎の「生活様式論」や「生活病理」は文化人類学や民俗学的立場、つまり考現学的立場に立って研究された生活構造論である。

戦後になって、パーソンズの社会システム論の影響を受けた松原治郎や青井和夫が生活構造論を展開する。しかし、1965年代後半の高度経済成長期に入って、貧困生活が解決する中で、勤労者救済の目的を喪失し、学問としての指向性が失われたのか、1970年代に入ると、次第に研究への関心が失われていった。

1970年代に入って、生活構造論の伝統を受け継ぐ流れが生活学の中であった。今井光映は、家政学・生活学の発展が、生活科学として実証科学にそって展開した過程を批判的に分析している。全体的な生活を分析的に捉える方法では、生活学の精神である生活の改善を課題にすることが出来ないと今井は考えた。生活学は、没価値的な実証科学ではなく、全体論的に「生活を癒すこと」を課題にする理解科学である必要性を今井は述べている。

生活を課題にした科学、つまり生活世界の科学は、現代科学技術文明の問題を避けては通れないのである。この新しい科学が成立するためには、近代科学の伝統である科学方法論の検討が必要となった。


参考資料


青井和夫、松原治郎、副田義也編『生活構造の理論』有斐閣双書、東京、1971.11324p

今井光映編著『改革・改名への道 アメリカ家政学現代史(1人間生態学〜家族・消費者科学』光生館、1995.4275p

今井光映、山口久子編 『生活学としての家政学』、有斐閣、東京、1991.9

F. エンゲルス 『イギリスにおける労働者階級の状態』大内兵衛、向坂逸郎 監修、マルクス、エンゲルス選集2、新潮社版、1955

今和次郎  『考現学 今和次郎集第一巻』東京、ドメス出版、1971.

今和次郎 『生活学 今和次郎集第五巻』東京、ドメス出版、1971

今和次郎 『家政論 今和次郎集第六巻』東京、ドメス出版、1971

篭山京 『国民生活の構造』1943 松原治郎編著 『現代のエスプリ第五十二号現代人の生活構造』 第9巻第52号 至文堂、東京、1971.9pp125-137

篭山京 「生活構造の基本状態」in『国民生活の構造』長門屋書房、1943

風早八十二『日本社会政策史』青木文庫、1951

佐藤進 『現代科学と人間人類は生き残れるか』三一書房、1987.1244p

長嶋俊介『生活と環境の人間学生活・環境知を考える』昭和堂、2000.11271p

E フッサール 細谷恒夫、木田元訳『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』、中央公論社、東京、1967.4

花崎皋平『生きる場の哲学共感からの出発』岩波新書 黄板 1471981180p

C.L.ハント/ 小木紀之,宮原佑弘/監訳『家政学の母エレン・H.リチャ-ズの生涯』家政教育社、1980.12358p

吉村哲彦『「生活大国」へのリサイクル』中央法規出版、1992.11245p

渡部益男 「生活構造」概念の動態化と生活の構造的把握の理論(1) in 『東京学芸大学紀要 3部門』31pp63-751980

渡部益男 「経済学的生活構造論に関する考察 -「生活構造」概念の動態化と生活の構造的把握の理論(4) in 『東京学芸大学紀要 3部門』45pp165-2191994

三浦典子 「生活構造概念の展開と収斂」 in 『現代社会学18vol.10No.1pp5-27、東京、アカデミア出版会、1984

三石博行 「生活構造論から考察される生活情報構造と生活情報史観の概念について」 in 『情報文化学会誌』、東京、第61号 pp. 57-63


三石博行「マルクス経済学批判と科学技術論」  in 『龍谷大学経済学論集』 341号、京都、1994.6pp45-63


2015年1月22日木曜日

「成長経済主義を越えて成熟循環型経済社会への転回のために」

 目次

三石博行



はじめに 「成長経済主義を越えて成熟循環型経済社会への転回」は可能か
http://mitsuishi.blogspot.jp/2015/01/blog-post_68.html


1章 成長経済主義を超える社会経済思想の形成にために(仮称)

1-1、新自由主義経済思想批判と生活経済主義の成立に向けて(仮称)

「成長経済の終焉はどのように可能か 」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/08/blog-post.html

「金融資本主義、新自由主義的経済から脱却できる経済システムは可能か、脱資本主義社会経済システムは実現可能か 」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/08/blog-post_20.html

「経済活動の自由と公共性の両立を目指すために」(仮称)

「資本主義経済思想の何が問題なのか」(仮称)


1-2、生活資源論から解釈される成熟循環型経済社会論

「生態・社会資源の限界と国家の形態」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/11/blog-post_5.html

「生活資源論から解釈される成長経済主義の限界」(仮称)

「生活資源論から解釈される循環型経済の合理性」(仮称)


1-3、巨大科学技術文明批判と市民参加型科学技術文明の創出に向けて(仮称)

「巨大科学技術文明社会のアンチテーゼから社会改革の理論と政策提案へ」 
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/08/blog-post_16.html

「成熟循環型経済社会の形成に向けて近代科学技術思想の何が課題なのか」(仮称)

「成熟循環型経済社会に向けて近代社会経済思想の何が問題か」(仮称)

「近代社会経済思想の課題の一例 (死体とうんこ)
http://mitsuishi.blogspot.jp/2013/06/blog-post_10.html



2章 成長経済主義を超える社会経済運動の形成にために(仮称)

2-1、社会参画型市民活動と生活運動・生活思想の形成(仮称)

「市民民主主義社会発展のための政策研究集団としての縮小社会研究会活動」 
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/08/blog-post_3059.html

「槌田氏の使い捨てを考える会の活動について思うこと」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2013/06/blog-post_15.html

「エネルギー資源、食糧の地産地消運動を支える社会活動」(仮称)

「社会・政治参画型生活運動の形成と民主主義文化の原則」(仮称)

「新しい経済社会活動形態・プロシュマー(生産し消費する市民)とは」(仮称)

「資源・エネルギーの地消地産活動を目指す生活経済活動とは何か」(仮称)


2-2、再生可能エネルギー社会の形成に向けて(仮称)

2-2a 太陽エネルギー利用の課題

「太陽光発電システムは未来社会のエネルギー生産を担えるか」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/10/blog-post.html

「未来社会からみた太陽光発電システムの課題」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/10/4-1-20-gepgdpgnp-gdpgep.html

「太陽熱エネルギー利用の課題」(仮称)


2-2b 風力エネルギー利用の課題(仮称)


2-2c 地熱エネルギー利用の課題(仮称)


2-2d 海洋エネルギー利用の課題(仮称)


2-2e バイオマスエネルギー利用の課題(仮称)


2-2f 省エネルギー技術開発とその課題(仮称)


2-2g 再利用可能エネルギー技術開発とその課題(仮称)



2-3、成熟循環型経済社会を実現するための社会文化設計について(仮称)

「成熟循環型経済社会を可能にする生活スタイルの設計」(仮称)

「成熟循環型経済社会を可能にする都市計画の設計」(仮称)

「成熟循環型経済社会を可能にする地方社会の設計」(仮称)

「成熟循環型経済社会を可能にする地域社会文化の設計」(仮称)

「成熟循環型経済社会を可能にする教育文化の設計」(仮称)


2-4、成熟循環型経済社会を可能にする国際政治の課題(仮称)

「地域国際共同体(東アジア共同体)の形成と国防政策の経済的意味」(仮称)

「成熟循環型経済社会を目指す地域国際共同体・政治体制の形成の意味」(仮称)

「成熟循環型経済社会を目指す教育コンソーシアム形成の意味」(仮称)

「成熟循環型経済社会を目指す市民活動の交流形成の意味」(仮称)



3章 成長経済主義を超える思想運動の形成にために(仮称)


これは、私の取り組まなければならない主な課題であるが、常に、哲学や思想がすべての社会活動や生活運動の前に来て、議論される傾向を否定し、敢えて、それらの思想的言及を、最後の章にした。何故なら、思想とは、実際の社会経験や生活経験を経ながら検証され、確立するものであると思うからだ。

2013年11月25日月曜日

市民参画型の社会インフラとしての第四次産業の発展

フェイスブックに記載した文章
 
三石博行

------------------------------------------------------------------------------------

知的産業(第四次産業)の発展と市民社会での高度な専門集団の形成

 
現代社会の特徴の一つとして第四次産業の発展を挙げることができます。第四次産業とは、研究開発を前提にして成立している産業です。これらの産業はこれまでの一次、二次と三次産業と別にあるのでなく、それらの三つの産業とリンクし、それらの産業の在り方を変える、つまり研究開発部門を抜くにして存続できない産業構造にしている。つまり、第四次産業の形成とは、科学技術文明社会の形成を意味します。
 

この社会(科学技術文明社会)の特徴の一つに細分化した(分業化した)専門家(専門的知識や技能を持つ市民)が豊かに形成していくことです。また、現代の科学技術という意味は、決して自然科学中心でなく、すべての分野、人間社会科学を含みます。ですから、法学、社会学、経営学、経済学、文化人類学、心理学、教育学、生活学、美学、情報文化、国際文化、等々、その領域はこれまでの学問分野の分類範囲をはるかに超え、学際化し、また融合化し、さまざまな新分野を提案し、巷に、多様な専門家が生まれ、成熟した知識社会を形成して行きます。
 

この社会(成熟した知識社会)を支える資源、それは高度な教育を受けた、また受け続けることのできる人的資源です。その資源を生みだす豊かな教育産業(制度)、文化産業、公共社会資源(社会公共施設、図書館やミュージアム等)、家族環境(家族資源)、地域社会資源(地域社会の文化施設や町内会施設)等々です。
 

 成熟した資本主義社会(先進国)では、この成熟した知識社会が形成されています。これを別の見方で、成熟した民主主義社会と呼ぶこともできます。この成熟した民主主義社会でこそ、市民は政策提案を行う社会環境を持つことが可能なのです。
 

つまり、その可能性は、インターネット、図書館、寄り合い場という物理的環境のみでなく、議論のルール、他の専門性への理解、強大な専門的知識と技術によって営まれている社会への俯瞰的な了解等々の社会認識を成熟した民主主義社会の市民は持つからだと思います。その意味で、この「市民参加の政策提案活動」を考え、イメージしたいと思います。

 



--------------------------------------------------------------------------------

2012年8月16日木曜日

巨大科学技術文明社会のアンチテーゼから社会改革の理論と政策提案へ

縮小社会研究会の課題(2)


三石博行


縮小社会のイメージからモデルへ 

現在の巨大科学技術文明社会、世界資本主義社会の危機を分析し、それを解決するために、色々な提案(実現不可能なものを含めて)がなされている。

その主なイメージを列挙すると、脱高度情報化社会、脱巨大科学技術、脱工業社会化社会(農工社会)、脱自由貿易主義(地産地消主義)、脱大量生産主義(オーダーメイド型生産)、脱経済指標(生活の質評価方式)、脱原発(分散型エネルギー生産)、脱化石燃料エネルギー生産(再生自然エネルギー生産)、脱中央集権社会(地方分権化)、市民民主主義社会、省エネルギー社会制度や生活様式、脱学歴中心主義(実力主義)、脱官僚主義(市民参画型社会)等々。

縮小社会とは、上記した現代社会、巨大科学技術文明や世界資本主義へのアンチテーゼとして提案されている社会モデルである。そのモデルは資本主義社会が形成される以前の社会にあった社会経済文化的要素を歴史の地層から採掘し、未来社会の要素として採用しようという試みでもある。しかし、これらの試みは、資本主義社会が生み出した利便性や人間主義の要素の維持が条件付けられている。

縮小社会研究会の調査研究活動の第一歩は、縮小社会の概念と対立項にある概念、巨大な社会経済システムや巨大科学技術社会文明の病理構造を明らかにするための研究調査活動、それらの問題解決に役立つ理論や政策提案等々である。

現代社会の病理性や危機へのアンチテーゼとして提案されてきた縮小社会の研究は現代社会批判や問題提起の段階から、具体的な社会、経済、文化、技術や生活様式の提案を行わなければならない時代に来ている。



「成長経済主義を越えて成熟循環型経済社会への転回のために」 目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2015/01/blog-post_72.html



引用、参考資料

三石博行 ブログ文書集「科学技術と現代社会
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/03/blog-post_21.html

4章  21世紀社会の科学技術者運動

4-1、「市民民主主義社会発展のための政策研究集団としての縮小社会研究会活動」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/08/blog-post_3059.html


2012年8月21日 誤字修正
--------------------------------------------------------------------------------

2012年3月21日水曜日

ブログ文書集「科学技術と現代社会」

「科学技術と現代社会」の目次

三石博行


1. 科学の大衆化

1-1、2008年1月15日 日本の近代化と科学の大衆化
http://mitsuishi.blogspot.jp/2008/01/blog-post_15.html

1-2、新たな世界観形成と科学の大衆化
http://mitsuishi.blogspot.jp/2008/01/blog-post.html


2. 高度情報化社会

2-1、拡大するネット交流の彼方 個人情報交換方法の革命的変化の到来
http://mitsuishi.blogspot.jp/2011/02/blog-post_434.html


3. 科学技術文明社会と生活学

3-1、科学技術文明社会での生活学の課題
http://mitsuishi.blogspot.jp/2008/01/blog-post_2278.html


4. 21世紀社会の科学技術者運動

4-1「市民民主主義社会発展のための政策研究集団としての縮小社会研究会活動」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/08/blog-post_3059.html

--------------------------------------------------------------------------------
ブログ文書集

ブログ文書集「生活すること考えること」の目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/03/blog-post_424.html

ブログ文書集「プログラム科学論・自己組織性の設計科学」の目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/03/blog-post_3891.html

ブログ文書集「21世紀日本社会のための大学教育改革の提案」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_6795.html

ブログ文書集「日本の政治改革への提言」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_9428.html

ブログ文書集「持続可能なエネルギー生産社会を目指すために」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/11/blog-post_2842.html

ブログ文書集「民主主義社会の発展のための報道機能のありかた」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/12/blog-post_03.html

ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本社会文化-」の目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/03/blog-post.html

ブログ文書集「東日本大震災からの復旧・復興のために 震災に強い社会建設を目指して」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/03/blog-post_23.html

ブログ文書集「原発事故が日本社会に問いかけている課題」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/06/blog-post_3562.html

ブログ文書集「福島原発事故から立ちあがる市民」の目次
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/03/blog-post_18.html

ブログ文書集「市民運動論」の目次
近日公開

--------------------------------------------------------------------------------