大学大衆化による多様化する大学入学者・先進国型大学の高等教育制度改革課題(3)
三石博行
日本のリメディアル教育の特徴
リメディアル教育が必要とされている主な社会的背景は大学の大衆化による入学者の基礎学力の低下であった。(1) そしてさらに前節では、すでに戦後大学の大衆化を進めてきたアメリカでの高等教育改革の結果であると謂えるリメディアル機能を担うコミュニティ・カレッジについて語った。(2)
つまり、教育の敗者復活戦を可能にするアメリカのコミュニティ・カレッジが持つ社会的機能はリメディアル教育を通じて大きく社会全体の利益を保障している。この社会的立場に立ったリメディアル教育の視点がない限り益々進化発展する科学技術文明社会の将来に繋がる基礎学力養成制度を考えることは不可能であると思える。
しかし、日本のリメディアル教育はアメリカ型のリメディアル教育と異なる意味を持っている。べネッセ教育研究センターの山本以和子氏(以後 山本以和子と呼ぶ)は「米国の大学、特にコミュニティ・カレッジにおけるリメディアル教育を「Developmental Education」と称している。これは、大学レベルの教育を受ける準備が教育として必要であるコースをさす」(3)。そして、これは現在日本で使われている「リメディアル教育」の意味とアメリカのコミュニティ・カレッジでのリメディアル教育の意味が必ずしも同じではないことを意味している。
山本以和子によると、現在の日本の大学で実施しているリメディアル教育とは「まず、一つ目は高等学校までの教科教育を学習しているパターンである。これには、二通りの型があり、一つは高等学校で単位を取得していない教科、かつ大学でその教科の知識が必要となる場合に該当する未履修型と、高等学校で受講はしたが、大学教育レベルに達していない学力不足型である」(3)。
その一つのパターンは、大学に入学した学生が高校までに「未履修・学力不足と判断された高等学校教育課程での教科・科目について大学が補完授業を行っている」(3)もので、これを「高等学校までの教科教育復習型」(3)と山本以和子は呼んでいる。
さらにもう一つのパターンは「専門教育での活動に必要な手法を教授する」(3)教育内容で、専門教育の基礎的知識を教えられる「大学での学習活動の入門型」(3)と山本以和子は呼んでいる。
「二つ目は大学の専門教育、特に研究活動に必要な学習スキルを身に付けるための大学講義の導入パターンとして、大学での学習活動の入門型である」(3)。 つまり、現在殆どの大学が行っている「入学前教育」と呼ばれる教育プログラムで、「入学手続きをした合格者を対象に入学前に大学が実施する教育」(3)を意味する。その入学前教育がもたらすリメディアル教育の成果については殆ど検証されていないのが現実である。
さらに 「三つ目はこれら二つのパターンを利用して実施しているが、それが大学入学後ではなく、大学入学前に実施している大学入学前教育型、そして最後に通常の大学での講義の成績不良者に対して実施している大学講義の補習・復習型である」(3)。つまり、「大学の前期試験等の結果から、基準点不足の学生に対して行われる教育」(3)で、これを「大学での講義の補習・復習型」(3)と山本以和子は呼んでいる。
以上のべたように、日本のリメディアル教育は、アメリカの「Developmental Education」と称しているコミュニティ・カレッジでのリメディアル教育と異なる。つまり、一言で言えば、日本のリメディアル教育は、大学内での基礎学力再教育を意味している。その意味で、日本の大学でのリメディアル教育は「大学レベルの教育を受ける準備が教育として必要であるコースをさす」(3)。しかし、アメリカのコミュニティ・カレッジでのリメディアル教育では「主に読み書き・数学といった教科がこのコースで開講さ」(3)れており、大学基礎学力教育を課題にする日本のリメディアル教育よりも基礎的な学力を教える立場に立っているといえる。
厳しい競争社会で生まれる知識格差に対する社会政策・アメリカ型リメディアル教育機能
つまり、アメリカ型のリメディアル教育(コミュニティ・カレッジでの「Developmental Education」)は、当然、大学のリメディアル教育である高等教育に必要な基礎教育のみでなく、社会的活動の基礎となる学力を再教育するという課題を持っていると謂える。
このアメリカ型のリメディアル教育は、コミュニティ・カレッジの社会全体の知的生産能力を底上げする社会的役割によって生じている。言い換えると、科学技術文明社会では、どの職種でも知的生産力が必要となり、それを基にして新しい商品開発が可能になる。研究開発という労働が社会生産機能の大きな役割を占める事になる。この研究開発が産業化された企業形態を第四次産業と呼んでいる。(4)そして、現在の大学改革はこの第四次産業の形成と関係しながら進行しているといえる。大学の大衆化は社会全体の知的生産力を向上させることに貢献してきた。
日本や欧米諸国では、大学の大衆化によって第四次産業は発達してきた。そこで生じる課題は、他の第一次産業から第三次産業のすべてが研究開発事業と呼ばれる第四次産業との関係、つまり研究開発を抜きにして一次産業である農業、漁業などの原料生産の将来の産業形態は考えられない。
例えば、砂漠地帯での農業で、日本の企業が開発しているプランは、太陽電池、水栽培農法、発光ダイオードによる省エネルギー光合成、高度な蓄電池技術等々を一つにして売り出す商品開発である。この例のように、先端技術を導入した乾燥地帯での農業技術開発があり、今まで巨大な灌漑工事を前提にして考えられていた砂漠地帯に低コストの新しい農業技術・「コンテナ野菜工場」を提供しようとしている。(5)
先端技術を商品化するためには、それらの先端技術について理解する幅広い層の人々が必要である。技術専門家だけでなく、営業部門を始めありとあらゆる部門の人々が社会的ニーズに対して先端技術を応用して商品開発に参画できることが、現在の企業の力となる。それは第四次産業で発展してきた企業の研究開発力が他の部署と協同化し社会のニーズに合った商品開発力に展開されることよって新しい企業の競争力が生まれること意味する。
科学技術文明時代の企業にとっては、新しい研究開発力が必要であると同時に、新しい科学技術の知識を理解する大半の社員、もしくは企業文化が必要となる。急速に進歩する科学技術の教育をすべての社員に施す余裕は現在の企業にはない。情報処理技能を持たない古い世代は事務労働の足かせとなり、企業の生産効率を落とすことになる。それらの社員のリストラを行うか、再教育を行わない限り企業は競争力を得ることは出来ない。
すべての部門で企業は常に新しい知識を職員に身に付けることで、厳しい市場競争のための体力をつけ続けてきた。英語でコミュニケーションできない社員はグローバル企業では不要となる。彼らは二つのうち一つを選ばなければならない。つまり、英語力を身につけて企業の進化に付いて行くか、それともその企業を辞めるかである。こうした厳しい競争社会を生きて行くために企業では、日々、研修が行われ。学習意欲のない社員はふるい落とされる事になる。
こうして、生き残る社員とふるい落とされた社員(リストラされた社員)が発生する事になる。新しい貧困層がこの知識格差社会によって生じることになる。そこで社会は、新しい貧困層の増加を防ぐ手立てを考える事になる。これを教育社会政策と呼ぶ。例えば、情報処理技能を知らない人々に情報処理技能の教育を行う。日本でも、失業期間を活用して、雇用保険を貰いながら、多くの人々が学習活動に参加する。日本でも専門学校では再教育が行われる。アメリカではコミュニティ・カレッジがその機能を果たす事になる。
つまり、以上述べた視点が、日本の大学でのリメディアル教育とアメリカのコミュニティ・カレッジでの「Developmental Education」の違いを意味するのである。
先端開発研究重視大学と教養教育重視大学の機能分化・科学技術文明社会を推進する大学教育の方向
日本の大学改革の課題として、リメディアル教育を積極的に展開するのであれば、現在ある生涯教育との関係でリメディアル教育を企画することが可能となる。
大学教育と生涯教育の違いは、大学教育では受講した科目に対して評価がなされ、合格した受講者へ科目修得の単位が授与される。しかし、生涯教育では、受講科目の理解度を評価される試験はなく、また修得単位も与えられない。その意味で生涯教育は大学教育の本来の教育的目的を満たすために行われているのでなく、社会貢献(サービス)として行われている機能であると謂える。
もし、日本の大学が上記した社会人の再教育を行う機能を形成するためには、現在の教養教育で行っているリメディアル教育機能を強化し、社会人取り分け失業中の社会人の再教育が出来る制度にしなければならないだろう。
もしくは、アメリカのコミュニティ・カレッジのような教育機関を形成し、そこで専門教育を受けるための基礎学力のない学生や社会人のリメディアル教育を行う教育機能を作る必要があるだろう。そのために、現在の大衆化した大学が、日本の国際的な研究開発競争力を支える先端開発研究重視大学と日本社会の科学技術の大衆化教育を支える教養教育重視大学(6)とに分化することが提案されてきた。
この分化によって、多様化した入学者層の学習ニーズを吸収し、それぞれの要請に合った学習コースを設定することが可能となる。但し、この大学の機能分化が、学歴や知識の格差社会を生み出す原因になっては、その分化の理念と意味が失われるだろう。
そのためには、アメリカのコミュニティ・カレッジのような機能を教養教育重視大学が担い、教育敗者復活戦を社会的に順部する機能、リメディアル教育機能、社会人再教育機能を行い。そして、そこで修得した単位や研究開発型大学でも認められ、教養教育大学から研究開発大学への編入試験や大学院進学を可能しなければならない。
つまり、社会での科学の大衆化教育を支える教養大学において、より高度なリメディアル教育の方法と内容が検討されることによって、アメリカのコミュニティ・カレッジのDevelopmental Educationに相当する教育が可能になるだろう。
と同時に、その幅広い高度な知識を持つ人的資源社会が、研究開発型大学の質を支え、国家の知的生産力を支えるのである。つまり、教養教育型大学の充実はそのまま専門性の高い高度な研究開発型大学の大衆的基盤となるのである。それらは、科学技術文明社会を発展させるための高等教育機能の車の両輪である。
参考資料
(1)三石博行 「大学でのリメディアル教育の原因とその解決課題 -大学大衆化による多様化する入学者層・先進国型大学の高等教育制度改革の課題(1)‐」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_28.html
(2)三石博行 「リメディアル教育とAdvanced Placement(AP)アメリカの高等教育改革から何を学ぶか ‐大学大衆化による多様化する入学者層・先進国型大学の高等教育制度改革の課題(2)‐」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/advanced-placementap.html
(3)山本以和子 「日本の大学が捉えているリメディアル教育とは?」in 『Benesse教育研究センターホームページ』
http://benesse.jp/berd/center/open/report/kyoikukaikaku/2000/kaisetu/nihon_remedial.html
(4)三石博行 「科学技術史の視点で観る大学教育改革の課題 -第四次産業の形成・科学技術文明社会での大学の社会的機能の変化-」2007年12月21日
http://mitsuishi.blogspot.com/2007/12/blog-post_21.html
(5) 安藤達夫 「コンテナ野菜工場」 三菱化学株式会社
http://www.teikokushoin.co.jp/teacher/junior/bookmarker/pdf/201009/18_msssbl_2010_09_s02.pdf
(6)文部科学省 「新しい時代における教養教育の在り方について(答申)」(2002年2月21日)で、すでに教養教育重視大学が提案されている。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/020203.htm
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ブログ文書集 タイトル「大学教育改革への提案」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_6795.html
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訂正(誤字、文書変更) 2011年3月2日
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哲学に於いて生活とはそのすべての思索の根拠である。言い換えると哲学は、生きる行為、生活の場が前提になって成立する一つの思惟の形態であり、哲学は生きるための方法であり、道具であり、戦略であり、理念であると言える。また、哲学の入り口は生活点検作業である。何故なら、日常生活では無神経さや自己欺瞞は自然発生的に生まれるため、日常性と呼ばれる思惟の惰性形態に対して、反省と呼ばれる遡行作業を哲学は提供する。方法的懐疑や現象学的還元も、日常性へ埋没した惰性的自我を点検する方法である。生活の場から哲学を考え、哲学から生活の改善を求める運動を、ここでは生活運動と思想運動の相互関係と呼ぶ。そして、他者と共感しない哲学は意味を持たない。そこで、私の哲学を点検するためにこのブログを書くことにした。 2011年1月5日 三石博行 (MITSUISHI Hiroyuki)
2011年2月28日月曜日
リメディアル教育とAdvanced Placement(AP)アメリカの高等教育改革から何を学ぶか
大学大衆化による多様化する大学入学者・先進国型大学の高等教育制度改革課題(2)
三石博行
リメディアル教育・教育の敗者復活戦の意味、科学技術文明社会での大学が社会に提供する新しい教育
前節の大学リメディアル教育の社会的背景に「大学の大衆化」を挙げた。大学の大衆化は先進国の高等教育の傾向である以上、日本に限らず他の先進国でも大学入学者のリメディアル教育は必要となっていることが理解出来る。(1)
アメリカでの1910年代から1970年代まで盛んに行われた「First Year Seminar」での新入学生対象の教育がリメディアル教育の始といわれている。大学の大衆化をいち早く迎えたアメリカの高等教育では、入学時の学生に大学生活全般にわたるオリエンテーションを含む大学での学びの姿勢を獲得するための意識転換を図るための教育活動が行われた。その中で、大学での教育に必要な基礎学力の補習が取り組まれたのである。(2)
戦後アメリカで発達した公立の2年制大学であるコミュニティ・カレッジを現在のアメリカでのリメディアル教育の起源として述べる。アメリカのコミュニティ・カレッジは無試験入学を原則として高校卒業資格を持つ人々を広く受け入れている。 実学的な教育と一般教養(大学教養課程レベル)の内容が重視されている。(2)
アメリカの高校で落ちこぼれて大学入学資格を得られない学生、高等教育の機会を得たい移民が無試験でしかも安価に高等教育を受けられる制度としてコミュニティ・カレッジが存在している。言い換えるとアメリカ社会ではコミュニティ・カレッジ制度を置くことで高校までの教育制度で落ちこぼれた人々に「敗者復活戦」を準備しているのである。
社会に敗者復活戦を準備することは以下の理由から大切である。
1、 経済や社会機能で自由競争を促進させることで生じる格差を是正する機会をいつでもどこでも保障する社会機能の役割を果たし、結果的に安定した自由競争社会の維持に役立つ。
2、 国家としてすべての国民に再起の機会を与え、多くの、そして広い分野の人々から多様で豊富な人的資源の生産と再生産を可能にする。特に、移民からの人的資源の発掘に大きな力を発揮する。
3、 科学技術文明社会では、つねに新しい知識と技能を身につけ続けなければ労働市場の社会的ニーズに答えることは出来ない。例えば、情報化社会で必要とされる知識や技能を持たなければ事務職は出来ないし、中小企業でもインターネットでの発信力を持たなければ企業として成立しないし、その仕事を情報処理専門の企業に外注する時代は終わった。情報発信はどんな小さな会社でも必要とされる時代になっている。
このように、科学技術文明社会(情報化社会や国際化社会)では、常に企業は新しい科学技術を理解しそれを導入しなければ存続できない。その意味でこの社会はつねに「再教育機能」を持たなければならない。企業が個別にそれらの再教育機能を持つのでなく、再教育という企業(教育産業 高等教育機能・大学や専門学校)が形成され、それが社会人の再教育を担う事になる。
その意味で、アメリカのコミュニティ・カレッジのような大衆化した大学が必要となる。そこでの教育は、常に社会復帰型のメディアル教育(敗者復活戦のための教育)の教育内容と形態を取る。そのリメディアル教育機能によって社会では人的資源の再生産と発掘が行われる。そして個人的には、格差社会で生じている教育格差を乗り越えるための切符を獲ることができるのである。その切符を教育の敗者復活戦と呼ぶ。
リメデァル教育の必要性は、大学の大衆化を促した基本構造、科学技術文明社会での大衆教育によって生み出された二つの課題、一つは高校から入学者してきた学生のリメディアル教育課題、もう一つは再教育を必要としている社会人のリメディアル教育課題であることに気付くのである。
そして、前節で述べたように、リメディアル教育を大学が積極的に開発することによって、大学内の需要、つまり入学者のためだけでなく、失業中の社会人に対しても新しい知識を学ぶ機会を与え、社会復帰を行う教育機能を提供している。リメディアル教育を社会全体から捉え、社会のあらゆる人々に基礎学力を獲得し、また情報処理技能のスキルアップをサポートする機会を提供しているのである。
AP (Advanced Placement)とリメディアル教育・公立短期大学の必要性
また、アメリカの中等教育制度を理解するためには、リメディアル教育と高等学校で大学授業科目の単位修得資格を与えるAP(Advanced Placement)の制度を同時に理解しておく必要がある。
アメリカの高校生は、大学の授業科目を高校時代に受講し、大学の単位を修得することが出来る。中には、高等学校で大学理工系の数学の単位をすべて取得した学生も出てくる。優秀な高校生は大学の講義の単位を多く獲得し、入学して同時に二つの学部に登録するダブルメジャーに挑戦する学生も登場する。(3)
日本の共通一次試験に相当するSAT(Scholastic Assessment Test、もしくは Scholastic Aptitude Test大学進学適正試験)(4)やACT(The American College Testing Program)(5)の成績、APの評価と高校時代の科目評価がそのまま大学受験の評価となる。高校生はそれ以外に、スポーツやボランティア活動などの評価と高校の成績で大学入学条件を獲得する。有名大学に入学するためには、当然、それらのすべてに良い評価を得なければならない。
AP(Advanced Placement)の制度の下では、自分の好きな学業は好きなだけ進んでよい。そして進んだだけ評価するという中等教育の考え方がある。その考え方に支えられ、優秀な学生が大学に入学してくる。例えば、人文社会系の学業は普通でも数学は特別な能力と学習意欲を持つ高校生が出てくる。また、その逆に理数系は普通でも歴史学は特別な能力と学習意欲を持つ学生も出現するのである。
このAP(Advanced Placement)の制度をリメディアル教育と同時並行して発展させなければ、前記した現代の科学技術文明社会での高等教育の質を保障することは出来ない。つまり、リメディアル教育を大学が提供すると共に、同時にAP(Advanced Placement)教育を提供する必要がある。これは、現代の大衆化した大学教育が、一つは大学での授業の基礎学力に必要な教育を、もう一つは大学の講義を一つの科目に特別に興味を持つ高校生に対して受講させ、中等教育での生徒の得意分野開発に協力することである。
このことから、アメリカの大学教育のあり方を学ぶ必要がある。つまり、日本では短期大学を閉鎖してきた。しかし、アメリカでは短期大学を公立化し、そこのリメディアル教育を実現している。そしてさらにそのシステムを活用して、大学教育の中等教育へのオープン化を行っているのである。
日本での高等教育でのリメディアル教育は各大学に任されている。そのため、各大学は非常に大きな負担をしなければならない。そのリメディアル教育を共同化することで、企業、大学や高校の負担を減らすことが出来る。つまり、社会人、大学新入生や高校生(必要単位を取れなかった)のリメディアル教育の場として、アメリカように公立のコミュニティ・カレッジの形成が必要となるのではないだろうか。
大学リメディアル教育を支える中等教育改革
リメディアル教育をより大衆的に行うためには、国家は中等教育の最終学年に、つまり中学と高等学校でそれぞれ基礎学力テストを実施し、その成績を公開すべきである。この意見には多くの反対者が現れる。つまり、現在進行している中学の全国一斉の学力試験の学校別成績がランキングされ、それが原因で、全国一斉学力試験への対策が重視されることで、中学教育が侵害されるという意見である。
確かに、その批判は正しい側面を持っている。日本の場合、学力評価が常に、筆記試験重視に傾く傾向がある。アメリカのようにスポーツ、ボランティアや文化活動のすべてにおいて、中等教育を評価する視点を持たなければならないだろう。近年、教育課題として「人間力」という言葉が使われる。この人間力とは、大きく4つの課題がある。つまり
1、 コミュニケーション力 (自己表現力と他者への共感、感性)
2、 指導力と協調性
3、 体力と精神力
4、 問題解決力
を挙げることが出来る。
これらの人間力は授業を通じて養われるというより、むしろスポーツや文化に関するクラブ活動、興味ある課題の調査や研究などの課外活動、ボランティア等の社会参加、音楽や美術活動等々に参加して得られ養われるものである。この活動への評価も、全国一斉の学力試験評価の中に入れなければならない。つまり、全国一斉、学力人間力評価制度を考えるべきである。
以上のべたように、中等教育の改革が進むことで、高等教育ではその成果を受け取ることが可能になる。
そして、同時に、さらに大衆化していく大学では、殆ど全員の入学を許可していく傾向を持つことは避けられない。そして、大学入試では、高等学校での基礎学力テストの評価を受験資格の基準とする事になるだろう。それでも、大学外部教育を受ける基礎学力のない学生の入学が現実に生じることは避けられない。その場合、大学はこれらの学生を入学当時にスクリーニングしておかなければならないことになる。つまり、どの基礎知識が不足しているのかと言うことを入学時に検査しておく必要が生じるのである。
現在基礎学力テストに関する検討が始まっている。これをプレースメントテストと呼ぶ。(6)大学は入学者に対して、学部学科教育に必要な基礎学力テストを受けさせ、その成績によって、共通教育課程で取らなければならない基礎学力科目を指定する必要がある。
これまでのように、卒業要件に必要な教養教育科目という課題でなく、学部専門教育受講資格を設定し、その学力を持たない学生は専門教育を受けさせないぐらい厳しく基礎教育を徹底しなければならないだろう。こうした大学教養教育の姿勢が、そのまま、入学者への大学での勉学の課題となり、入学以前の学生の自覚を促す可能性もある。そしてその基礎学力を持たないで入学した学生は、長期休暇を活用し、基礎学力を修得する機会を与えることも出来る。
リメディアル教育を進める教育政策の提案
アメリカのコミュニティ・カレッジという制度で保障されているリメディアル教育と高等学校で取り入れられているAPの関係から、日本のリメディアル教育改革を考えるとき、大きな制度上の改革が必要となることが理解出来る。その改革は二つある。
一つは高等教育の改革である。それはアメリカのコミュニティ・カレッジの担っている機能、つまり高等基礎教育機能を担う組織を作ることである。それは、社会人のための専門的な再教育を中心として形成される短期大学であり、そこで、大学入学者のリメディアル教育や専門基礎学力教育が可能になるカリキュラムを作ることである。
もう一つは、中等教育改革である。中等教育では卒業時に生徒の基礎学力テストと人間力評価を義務付け、また全国の中学や高校の基礎学力試験と人間力評価を行う。そして、その評価を公表する。学校によっては基礎学力の筆記試験の評価を重んじる場合もあり、また別の学校では人間力教育に関する評価を重んじる場合も生じる。それらは、すべて学校の特徴を意味するものである。
こうした総合的な中等教育の評価制度の整備が、結果的に高等教育でのリメディアル教育をサポートすることは間違いないであろう。
参考資料
(1)三石博行 「大学でのリメディアル教育の原因とその解決課題 -大学大衆化による多様化する入学者層・先進国型大学の高等教育制度改革の課題(1)‐」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_28.html
(2)酒井志延(千葉商科大学)「初年次教育・リメディアル教育の現状と課題」第8回大学評価セミナー 講演資料
http://www.juaa.or.jp/images/member/pdf/8_1.pdf
(3)「アメリカの公立高校 AP」 ホームページ
http://www.tanigawa.com/corgi/education/highschool.htm
(4)「SAT (大学進学適性試験)」 Wikipedia
(5)ACT
http://www.act.org/
(6)欧文社のホームページの「プレースメントテスト」で、「プレースメントテスト」とは基礎学力(日本語、英語、数学)の意味として使われている。(欧文社ホームページ)
http://www.obunsha.co.jp/category/for_school/placement_test/index.html
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ブログ文書集 タイトル「大学教育改革への提案」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_6795.html
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修正(誤字) 2011年3月2日
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三石博行
リメディアル教育・教育の敗者復活戦の意味、科学技術文明社会での大学が社会に提供する新しい教育
前節の大学リメディアル教育の社会的背景に「大学の大衆化」を挙げた。大学の大衆化は先進国の高等教育の傾向である以上、日本に限らず他の先進国でも大学入学者のリメディアル教育は必要となっていることが理解出来る。(1)
アメリカでの1910年代から1970年代まで盛んに行われた「First Year Seminar」での新入学生対象の教育がリメディアル教育の始といわれている。大学の大衆化をいち早く迎えたアメリカの高等教育では、入学時の学生に大学生活全般にわたるオリエンテーションを含む大学での学びの姿勢を獲得するための意識転換を図るための教育活動が行われた。その中で、大学での教育に必要な基礎学力の補習が取り組まれたのである。(2)
戦後アメリカで発達した公立の2年制大学であるコミュニティ・カレッジを現在のアメリカでのリメディアル教育の起源として述べる。アメリカのコミュニティ・カレッジは無試験入学を原則として高校卒業資格を持つ人々を広く受け入れている。 実学的な教育と一般教養(大学教養課程レベル)の内容が重視されている。(2)
アメリカの高校で落ちこぼれて大学入学資格を得られない学生、高等教育の機会を得たい移民が無試験でしかも安価に高等教育を受けられる制度としてコミュニティ・カレッジが存在している。言い換えるとアメリカ社会ではコミュニティ・カレッジ制度を置くことで高校までの教育制度で落ちこぼれた人々に「敗者復活戦」を準備しているのである。
社会に敗者復活戦を準備することは以下の理由から大切である。
1、 経済や社会機能で自由競争を促進させることで生じる格差を是正する機会をいつでもどこでも保障する社会機能の役割を果たし、結果的に安定した自由競争社会の維持に役立つ。
2、 国家としてすべての国民に再起の機会を与え、多くの、そして広い分野の人々から多様で豊富な人的資源の生産と再生産を可能にする。特に、移民からの人的資源の発掘に大きな力を発揮する。
3、 科学技術文明社会では、つねに新しい知識と技能を身につけ続けなければ労働市場の社会的ニーズに答えることは出来ない。例えば、情報化社会で必要とされる知識や技能を持たなければ事務職は出来ないし、中小企業でもインターネットでの発信力を持たなければ企業として成立しないし、その仕事を情報処理専門の企業に外注する時代は終わった。情報発信はどんな小さな会社でも必要とされる時代になっている。
このように、科学技術文明社会(情報化社会や国際化社会)では、常に企業は新しい科学技術を理解しそれを導入しなければ存続できない。その意味でこの社会はつねに「再教育機能」を持たなければならない。企業が個別にそれらの再教育機能を持つのでなく、再教育という企業(教育産業 高等教育機能・大学や専門学校)が形成され、それが社会人の再教育を担う事になる。
その意味で、アメリカのコミュニティ・カレッジのような大衆化した大学が必要となる。そこでの教育は、常に社会復帰型のメディアル教育(敗者復活戦のための教育)の教育内容と形態を取る。そのリメディアル教育機能によって社会では人的資源の再生産と発掘が行われる。そして個人的には、格差社会で生じている教育格差を乗り越えるための切符を獲ることができるのである。その切符を教育の敗者復活戦と呼ぶ。
リメデァル教育の必要性は、大学の大衆化を促した基本構造、科学技術文明社会での大衆教育によって生み出された二つの課題、一つは高校から入学者してきた学生のリメディアル教育課題、もう一つは再教育を必要としている社会人のリメディアル教育課題であることに気付くのである。
そして、前節で述べたように、リメディアル教育を大学が積極的に開発することによって、大学内の需要、つまり入学者のためだけでなく、失業中の社会人に対しても新しい知識を学ぶ機会を与え、社会復帰を行う教育機能を提供している。リメディアル教育を社会全体から捉え、社会のあらゆる人々に基礎学力を獲得し、また情報処理技能のスキルアップをサポートする機会を提供しているのである。
AP (Advanced Placement)とリメディアル教育・公立短期大学の必要性
また、アメリカの中等教育制度を理解するためには、リメディアル教育と高等学校で大学授業科目の単位修得資格を与えるAP(Advanced Placement)の制度を同時に理解しておく必要がある。
アメリカの高校生は、大学の授業科目を高校時代に受講し、大学の単位を修得することが出来る。中には、高等学校で大学理工系の数学の単位をすべて取得した学生も出てくる。優秀な高校生は大学の講義の単位を多く獲得し、入学して同時に二つの学部に登録するダブルメジャーに挑戦する学生も登場する。(3)
日本の共通一次試験に相当するSAT(Scholastic Assessment Test、もしくは Scholastic Aptitude Test大学進学適正試験)(4)やACT(The American College Testing Program)(5)の成績、APの評価と高校時代の科目評価がそのまま大学受験の評価となる。高校生はそれ以外に、スポーツやボランティア活動などの評価と高校の成績で大学入学条件を獲得する。有名大学に入学するためには、当然、それらのすべてに良い評価を得なければならない。
AP(Advanced Placement)の制度の下では、自分の好きな学業は好きなだけ進んでよい。そして進んだだけ評価するという中等教育の考え方がある。その考え方に支えられ、優秀な学生が大学に入学してくる。例えば、人文社会系の学業は普通でも数学は特別な能力と学習意欲を持つ高校生が出てくる。また、その逆に理数系は普通でも歴史学は特別な能力と学習意欲を持つ学生も出現するのである。
このAP(Advanced Placement)の制度をリメディアル教育と同時並行して発展させなければ、前記した現代の科学技術文明社会での高等教育の質を保障することは出来ない。つまり、リメディアル教育を大学が提供すると共に、同時にAP(Advanced Placement)教育を提供する必要がある。これは、現代の大衆化した大学教育が、一つは大学での授業の基礎学力に必要な教育を、もう一つは大学の講義を一つの科目に特別に興味を持つ高校生に対して受講させ、中等教育での生徒の得意分野開発に協力することである。
このことから、アメリカの大学教育のあり方を学ぶ必要がある。つまり、日本では短期大学を閉鎖してきた。しかし、アメリカでは短期大学を公立化し、そこのリメディアル教育を実現している。そしてさらにそのシステムを活用して、大学教育の中等教育へのオープン化を行っているのである。
日本での高等教育でのリメディアル教育は各大学に任されている。そのため、各大学は非常に大きな負担をしなければならない。そのリメディアル教育を共同化することで、企業、大学や高校の負担を減らすことが出来る。つまり、社会人、大学新入生や高校生(必要単位を取れなかった)のリメディアル教育の場として、アメリカように公立のコミュニティ・カレッジの形成が必要となるのではないだろうか。
大学リメディアル教育を支える中等教育改革
リメディアル教育をより大衆的に行うためには、国家は中等教育の最終学年に、つまり中学と高等学校でそれぞれ基礎学力テストを実施し、その成績を公開すべきである。この意見には多くの反対者が現れる。つまり、現在進行している中学の全国一斉の学力試験の学校別成績がランキングされ、それが原因で、全国一斉学力試験への対策が重視されることで、中学教育が侵害されるという意見である。
確かに、その批判は正しい側面を持っている。日本の場合、学力評価が常に、筆記試験重視に傾く傾向がある。アメリカのようにスポーツ、ボランティアや文化活動のすべてにおいて、中等教育を評価する視点を持たなければならないだろう。近年、教育課題として「人間力」という言葉が使われる。この人間力とは、大きく4つの課題がある。つまり
1、 コミュニケーション力 (自己表現力と他者への共感、感性)
2、 指導力と協調性
3、 体力と精神力
4、 問題解決力
を挙げることが出来る。
これらの人間力は授業を通じて養われるというより、むしろスポーツや文化に関するクラブ活動、興味ある課題の調査や研究などの課外活動、ボランティア等の社会参加、音楽や美術活動等々に参加して得られ養われるものである。この活動への評価も、全国一斉の学力試験評価の中に入れなければならない。つまり、全国一斉、学力人間力評価制度を考えるべきである。
以上のべたように、中等教育の改革が進むことで、高等教育ではその成果を受け取ることが可能になる。
そして、同時に、さらに大衆化していく大学では、殆ど全員の入学を許可していく傾向を持つことは避けられない。そして、大学入試では、高等学校での基礎学力テストの評価を受験資格の基準とする事になるだろう。それでも、大学外部教育を受ける基礎学力のない学生の入学が現実に生じることは避けられない。その場合、大学はこれらの学生を入学当時にスクリーニングしておかなければならないことになる。つまり、どの基礎知識が不足しているのかと言うことを入学時に検査しておく必要が生じるのである。
現在基礎学力テストに関する検討が始まっている。これをプレースメントテストと呼ぶ。(6)大学は入学者に対して、学部学科教育に必要な基礎学力テストを受けさせ、その成績によって、共通教育課程で取らなければならない基礎学力科目を指定する必要がある。
これまでのように、卒業要件に必要な教養教育科目という課題でなく、学部専門教育受講資格を設定し、その学力を持たない学生は専門教育を受けさせないぐらい厳しく基礎教育を徹底しなければならないだろう。こうした大学教養教育の姿勢が、そのまま、入学者への大学での勉学の課題となり、入学以前の学生の自覚を促す可能性もある。そしてその基礎学力を持たないで入学した学生は、長期休暇を活用し、基礎学力を修得する機会を与えることも出来る。
リメディアル教育を進める教育政策の提案
アメリカのコミュニティ・カレッジという制度で保障されているリメディアル教育と高等学校で取り入れられているAPの関係から、日本のリメディアル教育改革を考えるとき、大きな制度上の改革が必要となることが理解出来る。その改革は二つある。
一つは高等教育の改革である。それはアメリカのコミュニティ・カレッジの担っている機能、つまり高等基礎教育機能を担う組織を作ることである。それは、社会人のための専門的な再教育を中心として形成される短期大学であり、そこで、大学入学者のリメディアル教育や専門基礎学力教育が可能になるカリキュラムを作ることである。
もう一つは、中等教育改革である。中等教育では卒業時に生徒の基礎学力テストと人間力評価を義務付け、また全国の中学や高校の基礎学力試験と人間力評価を行う。そして、その評価を公表する。学校によっては基礎学力の筆記試験の評価を重んじる場合もあり、また別の学校では人間力教育に関する評価を重んじる場合も生じる。それらは、すべて学校の特徴を意味するものである。
こうした総合的な中等教育の評価制度の整備が、結果的に高等教育でのリメディアル教育をサポートすることは間違いないであろう。
参考資料
(1)三石博行 「大学でのリメディアル教育の原因とその解決課題 -大学大衆化による多様化する入学者層・先進国型大学の高等教育制度改革の課題(1)‐」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_28.html
(2)酒井志延(千葉商科大学)「初年次教育・リメディアル教育の現状と課題」第8回大学評価セミナー 講演資料
http://www.juaa.or.jp/images/member/pdf/8_1.pdf
(3)「アメリカの公立高校 AP」 ホームページ
http://www.tanigawa.com/corgi/education/highschool.htm
(4)「SAT (大学進学適性試験)」 Wikipedia
(5)ACT
http://www.act.org/
(6)欧文社のホームページの「プレースメントテスト」で、「プレースメントテスト」とは基礎学力(日本語、英語、数学)の意味として使われている。(欧文社ホームページ)
http://www.obunsha.co.jp/category/for_school/placement_test/index.html
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ブログ文書集 タイトル「大学教育改革への提案」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_6795.html
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修正(誤字) 2011年3月2日
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大学でのリメディアル教育の原因とその課題
大学大衆化による多様化する大学入学者・先進国型大学の高等教育制度改革課題(1)
三石博行
大学の大衆化とリメディアル教育
大学の教養課程で、最近盛んに使われる用語「リメディアル教育」とは、高校までに学ぶべき知識を修得していない学生に対して、大学で再度教育を行うという意味である。
このリメディアルは、大学教育に取ってみれば実に厄介なものである。何故なら、学部学科での専門教育期間は4年間であり、その期間に「教養教育」と「専門教養教育」の修得が必要となる。それらの大学教育を受けるために必要とされる基礎的学力がない学生に、高等教育で義務付けられている科目以外に、高等学校や中学校レベルの知識を教えなければならないのであるから、その分、大学が抱えた教育負担の大きさは想像を超えるものとなる。
大学も入学を許可した以上、卒業要件を満たす教養や専門分野の教育を行い、試験やその他の評価方法を導入して、高等教育終了(卒業資格)を与える条件として、卒業生の一般教養と専門教養の知識レベルを社会に保障しなければならい義務と責任がある。
特に、大衆化した大学の傾向の一つとして「専門職養成学部」が評価されることになると、国家試験の合格率を基にした大学の専門職養成学部の全国ランキング表が新聞に発表される。そして、その評価ランキングが即次の年度の受験者数(入学競争率)を決定する。入学競争率が落ちることは、優秀な学生の確保が困難と受験者数の減少に繋がる。
専門職養成学部で、4年間の国家試験や専門資格取得のための教育プログラムに即した教育を始めようとしても、専門教養教育を理解できない基礎学力の不足した学生は入り口で躓くことになる。
本来、入学者は大学教育を受ける知識的なレベルを持っていると評価された上で、入学を許可されたのである。入学を許可した大学は専門教養教育について行けない学生への教育責任がある。そのために大学はリメディアル教育を行うことになった。リメディアル教育は入学試験を変更し、入学の門戸を広く開いた大学、つまり大衆化した大学が当然行うべき課題なのである。
リメディアル教育の三つの理由
リメディアル教育の原因に関しては、教育産業のサイト(1)、例えば代々木ゼミナール教育総合研究所のホームページで日本の大学のリメディアル教育の原因に関する分析が述べられている(2)。リメディアル教育が必要とされている主な3つの原因を以下に述べる。
1、大学教育の大衆化に伴い、低い学力でも大学入学が可能になっている。特に、最近、少子化によって、入学定員数を大学が確保するため、入学資格のレベルを落とし、無試験で入学を許可する傾向が広がり、益々、高等学校での低学力者も簡単に大学に入学できるようになっているために、入学後の大学でのリメディアル教育の必要性が益々大きくなっている。
2、現在の大学受験制度によって生じている原因によって生じている。例えば、受験校では、受験科目以外の科目が十分に高等学校で生徒の勉強の対象にならない傾向が生じていること。また、高校評価に繋がる有名大学受験合格者数の確保のために、高校での受験対策型授業によって、受験科目以外の教育がおろそかにされる傾向を生んでいる。
3、1980年初頭から2010年まで実施された小中学校や高等学校の「ゆとり教育」の結果、18歳までの子供の基礎学力が非常に低下し、義務教育課程や準義務教育課程(高等学校)でも十分に基礎的学力を身につけないまま進級し続けてきた生徒を抱え、その生徒が結果的に大学入学してくることが原因となっている。
以上述べた三つは、日本の大学でリメディアル教育が必要となった社会的原因であると理解することが出来る。また、近年、リメディアル教育に関する専門的な研究活動も盛んになり「日本リメディアル教育学会」も2005年3月に結成され、現在まで活発な研究活動を続けている。(3)つまり、これらの教育業界での研究とリメディアル教育サポート(商品化)、さらに大学教育研究者の教育学研究は、リメディアル教育が日本の高等教育の重要な課題の一つになっていることを示している。
リメディアル教育形成のための4つの課題
現在、殆どすべての大学でリメディアル教育が実施されている。しかし、リメディアル教育のあり方が各大学の教養教育課程のカリキュラムに任されており、基本的な大学大衆化における高等教育の内容を検討し、その基本的課題を解決するためのリメディアル教育に関する議論は十分になされていない。(4)
この課題を今後検討するために以下4つの課題を述べる。
1、 他の先進国でのリメディアル教育の実態について調査研究する。
2、 大学学部教育を中等教育の流れから再度理解しリメディアル教育を高大連携の課題で解決する。
3、 リメディアル教育プログラムを研究している教育産業(教育研究機関)との連携を積極的に行い、教育研究シンクタンクを活用しながらリメディアル教育の方法や内容を大学が検討する必要がある。つまり、教育サービス機能としての専門性を大学教育の点検課題に取り入れながら、リメディアル教育を検討する。
4、 リメディアル教育学会へ大学教養教育センターが組織的に参加し、日本の高等教育学の課題としてリメディアル教育を検討する。
以上の課題を今後検討する必要がある。
参考資料
(1)Benesse 教育研究開発センターのホームページ 「リメディアル教育」の「Betweenバックナンバー 2007年夏号 特集 大学教育が生み出す「適応」へのプロセス」
http://benesse.jp/berd/center/open/dai/between/2007/07/index.html
(2) 代々木ゼミナール教育総合研究所のホームページ、「リメディアル教育」の中でリメディアル教育の原因について以下の5点を指摘している。
受験人口の減少 「1992年をピークに減少の一途をたどる受験人口。受験人口の減少による志願者数の減少・競争率の低下は、苦心の入試改革を物ともせず、入学難易度を下降させています。入学者のレベルダウンは、今後の大学教育への支障を懸念されています。」(代々木ゼミナール教育総合研究所ホームページ)
厳しい入学者確保 「5教科7科目化する国公立大学に対し、私立大学は最小限の入試科目を維持しています。その上入試の多様化による、さらなる入試科目削減は、結果として数学のわからない経済学部生、物理未履修の工学部生などを増加させ、その教育責任が求められています。」(代々木ゼミナール教育総合研究所ホームページ)
基礎学力の低下 「全国の高3生対象に実施された学力調査結果で、特に理数系科目の基礎学力低下が指摘されました。また従前より、それらの基礎ともいえる日本語力そのものに対しても、基礎学力・知識・常識などに危機感を持たれる先生方が少なくありません。」(代々木ゼミナール教育総合研究所ホームページ)
目的意識の低下 「大学入試の易化は受験対策のみならず、大学・学部研究も浅くなりがちです。目的意識が不明確なままの「とりあえず進学」は、大学教育レベル・内容との違和感、モチベーション低下を誘発し、早期退学・留年の大きな原因となっています。」(代々木ゼミナール教育総合研究所ホームページ)
社会環境の変化 「18才人口の約半数が大学へ進学する現在、社会の大学への要請は、本来の使命である研究と(大学)教育だけに留まりません。例えば高校や保護者は、大学教育の準備学習指導を入学前後に大学に求めるなど、以前とは別のイメージで大学を捉えています。」(代々木ゼミナール教育総合研究所ホームページ)
http://www.yozemi-eri.com/university/remedial/
(3)日本リメディアル教育学会
http://www.jade-web.org/
(4)酒井志延(千葉商科大学)「初年次教育・リメディアル教育の現状と課題」第8回大学評価セミナー 講演資料
http://www.juaa.or.jp/images/member/pdf/8_1.pdf
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三石博行
大学の大衆化とリメディアル教育
大学の教養課程で、最近盛んに使われる用語「リメディアル教育」とは、高校までに学ぶべき知識を修得していない学生に対して、大学で再度教育を行うという意味である。
このリメディアルは、大学教育に取ってみれば実に厄介なものである。何故なら、学部学科での専門教育期間は4年間であり、その期間に「教養教育」と「専門教養教育」の修得が必要となる。それらの大学教育を受けるために必要とされる基礎的学力がない学生に、高等教育で義務付けられている科目以外に、高等学校や中学校レベルの知識を教えなければならないのであるから、その分、大学が抱えた教育負担の大きさは想像を超えるものとなる。
大学も入学を許可した以上、卒業要件を満たす教養や専門分野の教育を行い、試験やその他の評価方法を導入して、高等教育終了(卒業資格)を与える条件として、卒業生の一般教養と専門教養の知識レベルを社会に保障しなければならい義務と責任がある。
特に、大衆化した大学の傾向の一つとして「専門職養成学部」が評価されることになると、国家試験の合格率を基にした大学の専門職養成学部の全国ランキング表が新聞に発表される。そして、その評価ランキングが即次の年度の受験者数(入学競争率)を決定する。入学競争率が落ちることは、優秀な学生の確保が困難と受験者数の減少に繋がる。
専門職養成学部で、4年間の国家試験や専門資格取得のための教育プログラムに即した教育を始めようとしても、専門教養教育を理解できない基礎学力の不足した学生は入り口で躓くことになる。
本来、入学者は大学教育を受ける知識的なレベルを持っていると評価された上で、入学を許可されたのである。入学を許可した大学は専門教養教育について行けない学生への教育責任がある。そのために大学はリメディアル教育を行うことになった。リメディアル教育は入学試験を変更し、入学の門戸を広く開いた大学、つまり大衆化した大学が当然行うべき課題なのである。
リメディアル教育の三つの理由
リメディアル教育の原因に関しては、教育産業のサイト(1)、例えば代々木ゼミナール教育総合研究所のホームページで日本の大学のリメディアル教育の原因に関する分析が述べられている(2)。リメディアル教育が必要とされている主な3つの原因を以下に述べる。
1、大学教育の大衆化に伴い、低い学力でも大学入学が可能になっている。特に、最近、少子化によって、入学定員数を大学が確保するため、入学資格のレベルを落とし、無試験で入学を許可する傾向が広がり、益々、高等学校での低学力者も簡単に大学に入学できるようになっているために、入学後の大学でのリメディアル教育の必要性が益々大きくなっている。
2、現在の大学受験制度によって生じている原因によって生じている。例えば、受験校では、受験科目以外の科目が十分に高等学校で生徒の勉強の対象にならない傾向が生じていること。また、高校評価に繋がる有名大学受験合格者数の確保のために、高校での受験対策型授業によって、受験科目以外の教育がおろそかにされる傾向を生んでいる。
3、1980年初頭から2010年まで実施された小中学校や高等学校の「ゆとり教育」の結果、18歳までの子供の基礎学力が非常に低下し、義務教育課程や準義務教育課程(高等学校)でも十分に基礎的学力を身につけないまま進級し続けてきた生徒を抱え、その生徒が結果的に大学入学してくることが原因となっている。
以上述べた三つは、日本の大学でリメディアル教育が必要となった社会的原因であると理解することが出来る。また、近年、リメディアル教育に関する専門的な研究活動も盛んになり「日本リメディアル教育学会」も2005年3月に結成され、現在まで活発な研究活動を続けている。(3)つまり、これらの教育業界での研究とリメディアル教育サポート(商品化)、さらに大学教育研究者の教育学研究は、リメディアル教育が日本の高等教育の重要な課題の一つになっていることを示している。
リメディアル教育形成のための4つの課題
現在、殆どすべての大学でリメディアル教育が実施されている。しかし、リメディアル教育のあり方が各大学の教養教育課程のカリキュラムに任されており、基本的な大学大衆化における高等教育の内容を検討し、その基本的課題を解決するためのリメディアル教育に関する議論は十分になされていない。(4)
この課題を今後検討するために以下4つの課題を述べる。
1、 他の先進国でのリメディアル教育の実態について調査研究する。
2、 大学学部教育を中等教育の流れから再度理解しリメディアル教育を高大連携の課題で解決する。
3、 リメディアル教育プログラムを研究している教育産業(教育研究機関)との連携を積極的に行い、教育研究シンクタンクを活用しながらリメディアル教育の方法や内容を大学が検討する必要がある。つまり、教育サービス機能としての専門性を大学教育の点検課題に取り入れながら、リメディアル教育を検討する。
4、 リメディアル教育学会へ大学教養教育センターが組織的に参加し、日本の高等教育学の課題としてリメディアル教育を検討する。
以上の課題を今後検討する必要がある。
参考資料
(1)Benesse 教育研究開発センターのホームページ 「リメディアル教育」の「Betweenバックナンバー 2007年夏号 特集 大学教育が生み出す「適応」へのプロセス」
http://benesse.jp/berd/center/open/dai/between/2007/07/index.html
(2) 代々木ゼミナール教育総合研究所のホームページ、「リメディアル教育」の中でリメディアル教育の原因について以下の5点を指摘している。
受験人口の減少 「1992年をピークに減少の一途をたどる受験人口。受験人口の減少による志願者数の減少・競争率の低下は、苦心の入試改革を物ともせず、入学難易度を下降させています。入学者のレベルダウンは、今後の大学教育への支障を懸念されています。」(代々木ゼミナール教育総合研究所ホームページ)
厳しい入学者確保 「5教科7科目化する国公立大学に対し、私立大学は最小限の入試科目を維持しています。その上入試の多様化による、さらなる入試科目削減は、結果として数学のわからない経済学部生、物理未履修の工学部生などを増加させ、その教育責任が求められています。」(代々木ゼミナール教育総合研究所ホームページ)
基礎学力の低下 「全国の高3生対象に実施された学力調査結果で、特に理数系科目の基礎学力低下が指摘されました。また従前より、それらの基礎ともいえる日本語力そのものに対しても、基礎学力・知識・常識などに危機感を持たれる先生方が少なくありません。」(代々木ゼミナール教育総合研究所ホームページ)
目的意識の低下 「大学入試の易化は受験対策のみならず、大学・学部研究も浅くなりがちです。目的意識が不明確なままの「とりあえず進学」は、大学教育レベル・内容との違和感、モチベーション低下を誘発し、早期退学・留年の大きな原因となっています。」(代々木ゼミナール教育総合研究所ホームページ)
社会環境の変化 「18才人口の約半数が大学へ進学する現在、社会の大学への要請は、本来の使命である研究と(大学)教育だけに留まりません。例えば高校や保護者は、大学教育の準備学習指導を入学前後に大学に求めるなど、以前とは別のイメージで大学を捉えています。」(代々木ゼミナール教育総合研究所ホームページ)
http://www.yozemi-eri.com/university/remedial/
(3)日本リメディアル教育学会
http://www.jade-web.org/
(4)酒井志延(千葉商科大学)「初年次教育・リメディアル教育の現状と課題」第8回大学評価セミナー 講演資料
http://www.juaa.or.jp/images/member/pdf/8_1.pdf
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ブログ文書集 タイトル「大学教育改革への提案」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_6795.html
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修正(誤字)2011年3月2日
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2011年2月24日木曜日
日本の大学教育の歴史的変遷と教養教育の改革
学ぶ姿勢を身につける教育を目指す・教養教育の課題
三石博行
社会変化によって求められる大学改革
戦後日本社会の発展を牽引した要素の一つが「大学教育の大衆化」であった。高等教育は科学技術の発展によって支えられている生産体制(高度な専門的職業種目の形成とそれに伴う分多様な分業体制の形成)を支えてきた。高等教育の大衆化によって高度な経済生産力を生み出してきた。つまり、資本主義経済の発展と科学技術の進歩は不可分の関係にある。
言い換えると、社会の生産力(生産体制の量的能力)や生産物の付加価値を高める生産能力の質向上を支えたのは、労働の質である。労働の質を保証するために社会は教育機能を所有し、資本主義社会では義務教育制度と高等教育制度が必然的に整備され続けるのである。教育は国家の計であるという考え方は、近代と現代国家の国力を支える労働力の質を形成する機能としての教育制度を語ったものである。
20世紀後半、欧米日本の先進国を中心にして、科学技術文明社会へと社会システムは変貌して行った。科学技術立国、情報化社会、国際化社会等々の国家的スローガンは、我々の社会が科学技術を土台にして発展することを自ら理解したことを物語るものであった。そして、戦後、70年代まで、日本社会では、大衆化した大学から生み出される高度な知識を持つ若者、その若者を採用し企業は発展してきた。
1980年代になり、高度経済成長を終えた日本社会では「科学技術立国」のスローガンの下に国家的な産業構造の改革が行われる。それまでの産業構造、つまり製鉄、造船や家電製品を中心とする製造業から自動車、情報機器や新素材産業の最先端科学技術を駆使した産業を中心とする社会経済構造への変革を行った。そして、これらの新しい社会的ニーズを支えるための大学の社会的機能、国際競争力を持つ研究開発型大学と科学技術文明社会を底から支える高等教養教育型大学が問われたのであった。
専門教育課程へ解体再編された教養教育課程・1980年代の大学改革の流れ
教養教育の改革は、1980年代から始まった。まず、教養課程の見直しと、教養部の廃止であった。その理由は、大学教育における教養教育と専門教育の関連性を求める課題から生じた。戦後日本の大学では2年間の教養課程が設定されていた。その理由の一つに、新制大学に移行する前に戦前から存在していた旧制高等学校の高等教育制度が、戦後、新制大学にそのまま移行され、旧制大学の教育を専門学部とし、旧制高等学校の教育を教養部に移行してきた歴史があった。
つまり、新制大学は教員の視点から観ても、旧制高等学校出身教員と旧制大学出身教員によって構成されることになる。当然、教員間の格差や教育の領分が明確に分離された状態で新制大学は始まる事になる。この流れには、教養教育と専門教育の分断が生じ、専門教育を行う側から教養教育のカリキュラムへの要請は殆ど不可能であった。
1970年代に入り、前節で述べたように、知識集約型の社会生産構造が形成され、高度な専門的知識が要求されるようになると、社会は高度な専門教育を大学に対して要求することになる。しかし、大学では2年間は共通教育科目の単位修得に学生は多くの時間を割かれているために、専門教育のカリキュラムを改革することは出来ない。
大学四年間の教育の質、専門教育の質を上げるために、教養教育課程(教養部)を廃止し、専門教育課程にこれまでの教養課程の教員を所属させることになった。そして、教養部の廃止を積極的に推進したのは、1992年の大学設置基準の改正であった。この改正によって国立大学では教養部が廃止された。勿論、京都大学などの大きな大学では教養課程を学部として独立させ、そこで新しい学際的教育研究部門を形成させ、横断的学問領域研究を専門的に行う研究者の養成と教育を行なった。つまり、大学によって教養教育課程の再編は大きく異なるのであるが、一般に日本の大学教育では、専門学科学部教育課程にこれまでの教養課程のカリキュラムを組み入れることになる。
専門職養成学部か一般職養成学部か・2000年代の新たな大学の姿
しかし、時代の流れは科学技術文明社会の形成をもっとラジカルにそして早いスピードで進めることになる。1990年代になると、大学四年間での専門教育のレベルを「専門教養教育」と位置付け、大学院修士課程(前期博士課程)の大学院研究科教育から「専門教育」と呼ぶようになった。高度な専門分野に分かれ社会生産機能を担う組織、企業、公共団体、NPOやNGOなどでは学部教育で身に着けた専門知識は、専門的業種の仕事から見れば、基礎的知識に過ぎないのである。
社会が大学の学部教育へ要請することは、専門基礎知識、専門分野の教養知識を身につけることになる。社会は大学の学部教育に対して、即戦力を発揮する人材や修得した知識を即活用する能力を期待しない。四年間の学部教育では、企業が必要とする知識はまったく期待できないのである。これが、現在の大学と社会の相互期待のずれを生み出す状況を作っている。
つまり、大学学部教育の中で大きく二つの傾向が生じる。一つは大学教育課程が即社会の中で専門職のための教育課程として評価認定されている学部、例えば医学部、歯学部、薬学部、獣医学部、看護学部や医療関係の専門教育学科、航空大学等が挙げられる。これらの学部では、国家試験によって専門職の資格取得が学部教育の課題となり、その資格取得率が入学競争率にそのまま反映されることになる。
その次に専門職を育成する教育を行う学部は工学部、理学部、農学部や情報関連学部などの理工系専門分野の学部である。
そして、一般的に人間社会学に関する学部、文学部、経済学部、経営学部、法学部などは、学部教育が卒業後の専門職へつながる率は極めて低くなるのである。つまり、学生の側からすると、それらの学部を卒業したとしても、その専門的知識を社会で活用する可能性は極めて低く、社会の側からすれと、人間社会科学系の学部とその卒業生に対して、大学教育に対する期待は少ないことになる。
そして、就職したいなら大学に行くより専門学校で資格をとる方がよいといわれる時代が2000年には登場したのであった。就職活動という視点から観るなら、現在の日本の大学には現在、二つの学部が存在する。一つは専門職養成学部であり、もう一つは一般職養成学部である。そして、就職難の時代に、専門職養成学部に学生が集まるのは当然の流れなのである。
専門職養成学部が必要とする教養教育
当然のことであるが、専門職養成学部と一般職養成学部とでは教養教育に関する捉え方が異なる。何故なら、専門職養成学部にはその学部教育を全国的に評価ランキングされる国家試験が待っている。このランキングで上位に上がらなければ入学者を得ることが出来ないという緊張が学部教育を支配する。しかし、この学部存続を掛けた緊張は一般職養成学部には正しく理解して貰えないのである。
専門職養成学部にとって教養課程は、専門教育のために役立つものであることが第一要件となる。そのために、学部によって教養教育への具体的な要請が少しずつ異なることになる。特に、専門職養成学部では、教養教育で重視したい科目として、リメディアル教育が挙げられる。何故なら、専門職養成学部では、理数系基礎知識がなければ学部学科教育に学生はついていけない。しかも、入試科目にない入学者は必要な理数系科目の知識が不足している場合が生じる。そのため、これまで多くの大学で高校の理数系教育を教養課程で行っている。
一般職養成学部でも読解力や表現力に関するリメディアル教育は大切である。一般に専門職養成学部と一般職養成学部の二つの学部で共通するリメディアル教育として、日本語力や外国語力の両方の語学がある。その点で、英語教育が重要視される。
学ぶ姿勢を身に着ける教育・教養教育の課題
大学教育で述べられる基礎学力の中に、学ぶ姿勢・学習への積極的態度が挙げられている。そして高校との違いを「自分で調べて自分で学ぶ」と入学式からオリエンテーションまで言われ、最初に受けた授業では、高校のように教師は板書しないし、パワーポイントで教材が見せられ、殆ど教師の話を聴く事になる。
授業のスタイルがまったく高校とは違うことは理解できるが、講義をノートに書き写し、それを整理する方法も見つからない。また教師は教えてくれない。そして突然、レポートの提出が言い渡される。インターネットで調べて書いたら、「プレジャリズム」であると批判され評価は不可になる。(1)
つまり、現在の日本の大学の学生は高校時代までの学習文化と大学入学後の学習文化のギャップに苦しんでいる。大学教育文化へのカルチャーショックを受けて、そのショックから立ち上がれない学生が無数発生しているのである。
その大きな原因はこれまでの大学教育のあり方にある。つまり、大学教授法を学ばなくても大学教員となれ他のである。初等教育や中等教育を担当する教員は教授法を厳しく学び、そして職場でも個々人の教授技能や知識を点検される。しかし、大学では「研究者」という肩書きを持つことによって、教授法を相互に点検する作業が徹底しない。こうした問題を解決するために日本でも2000年代になってFD(Faculty Development )が提案され精力的に大学教育改革・教授法の改革が行われている。(2)(3)
これまでのエリート教育としての大学教育から、大衆化した大学での大学教育のあり方が検討され、大学教育の三つの課題が取り上げられている。一つはこれまでの講義形式でも可能であった「知識の修得」であり、二つ目は情報処理技能や統計処理などの「技能のスキルアップ」であり、三つ目は「積極的に学ぶ姿勢を身に着ける」ことである(4)。
特に、三つ目の課題に関してはこれまで教授法が開発されていない。その一つの方法としてPBL(Problem Based Learning )による学習法が取り入れられている。有名なPBLはアメリカのハーバード方式やその改良型として最近評価されつつあるUCSF(カリフォルニア大学サンフランシスコ校)方式がある。特にUCSF方式に関しては、龍谷大学教育開発研究センターはUCSFでPBLを実践しているKevin教授を招待して講演会を二回開いている。(5)今後、PBLを導入した教育の開発が必要となる。そして現在、高等教育研究会としてアメリカのPBL教育を推進するUCSFとの共同研究プロジェクトが企画されようとしている。
参考資料
(1) ゴールドコースト通信
http://www.interq.or.jp/pacific/rikki/html/plagiarism.html
(2) 北海道大学FDマニュアル 「FDの目的と意義 -大学教員の職務について-」
http://socyo.high.hokudai.ac.jp/FD/fd.pdf
(3)法政大学 教育開発支援機構FD推進センター
http://www.hosei.ac.jp/kyoiku/fd/greeting/index.html
(4)三石博行 「現在の三つの大学教育の課題」
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_14.html
(5)龍谷大学教育開発研究センター主催 河村能夫教授の司会及びKevin教授との共同討論による「KEVIN .A. MACK 先生(カリフォルニア大学 サンフランシスコ校 教授)2007-第2回 「Leveraging Inquiry into Knowledge-Where's my syllabus? 」
http://www.ryukoku.ac.jp/faculty/fd/salon/sa_2007.html#02
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ブログ文書集 タイトル「大学教育改革への提案」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_6795.html
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三石博行
社会変化によって求められる大学改革
戦後日本社会の発展を牽引した要素の一つが「大学教育の大衆化」であった。高等教育は科学技術の発展によって支えられている生産体制(高度な専門的職業種目の形成とそれに伴う分多様な分業体制の形成)を支えてきた。高等教育の大衆化によって高度な経済生産力を生み出してきた。つまり、資本主義経済の発展と科学技術の進歩は不可分の関係にある。
言い換えると、社会の生産力(生産体制の量的能力)や生産物の付加価値を高める生産能力の質向上を支えたのは、労働の質である。労働の質を保証するために社会は教育機能を所有し、資本主義社会では義務教育制度と高等教育制度が必然的に整備され続けるのである。教育は国家の計であるという考え方は、近代と現代国家の国力を支える労働力の質を形成する機能としての教育制度を語ったものである。
20世紀後半、欧米日本の先進国を中心にして、科学技術文明社会へと社会システムは変貌して行った。科学技術立国、情報化社会、国際化社会等々の国家的スローガンは、我々の社会が科学技術を土台にして発展することを自ら理解したことを物語るものであった。そして、戦後、70年代まで、日本社会では、大衆化した大学から生み出される高度な知識を持つ若者、その若者を採用し企業は発展してきた。
1980年代になり、高度経済成長を終えた日本社会では「科学技術立国」のスローガンの下に国家的な産業構造の改革が行われる。それまでの産業構造、つまり製鉄、造船や家電製品を中心とする製造業から自動車、情報機器や新素材産業の最先端科学技術を駆使した産業を中心とする社会経済構造への変革を行った。そして、これらの新しい社会的ニーズを支えるための大学の社会的機能、国際競争力を持つ研究開発型大学と科学技術文明社会を底から支える高等教養教育型大学が問われたのであった。
専門教育課程へ解体再編された教養教育課程・1980年代の大学改革の流れ
教養教育の改革は、1980年代から始まった。まず、教養課程の見直しと、教養部の廃止であった。その理由は、大学教育における教養教育と専門教育の関連性を求める課題から生じた。戦後日本の大学では2年間の教養課程が設定されていた。その理由の一つに、新制大学に移行する前に戦前から存在していた旧制高等学校の高等教育制度が、戦後、新制大学にそのまま移行され、旧制大学の教育を専門学部とし、旧制高等学校の教育を教養部に移行してきた歴史があった。
つまり、新制大学は教員の視点から観ても、旧制高等学校出身教員と旧制大学出身教員によって構成されることになる。当然、教員間の格差や教育の領分が明確に分離された状態で新制大学は始まる事になる。この流れには、教養教育と専門教育の分断が生じ、専門教育を行う側から教養教育のカリキュラムへの要請は殆ど不可能であった。
1970年代に入り、前節で述べたように、知識集約型の社会生産構造が形成され、高度な専門的知識が要求されるようになると、社会は高度な専門教育を大学に対して要求することになる。しかし、大学では2年間は共通教育科目の単位修得に学生は多くの時間を割かれているために、専門教育のカリキュラムを改革することは出来ない。
大学四年間の教育の質、専門教育の質を上げるために、教養教育課程(教養部)を廃止し、専門教育課程にこれまでの教養課程の教員を所属させることになった。そして、教養部の廃止を積極的に推進したのは、1992年の大学設置基準の改正であった。この改正によって国立大学では教養部が廃止された。勿論、京都大学などの大きな大学では教養課程を学部として独立させ、そこで新しい学際的教育研究部門を形成させ、横断的学問領域研究を専門的に行う研究者の養成と教育を行なった。つまり、大学によって教養教育課程の再編は大きく異なるのであるが、一般に日本の大学教育では、専門学科学部教育課程にこれまでの教養課程のカリキュラムを組み入れることになる。
専門職養成学部か一般職養成学部か・2000年代の新たな大学の姿
しかし、時代の流れは科学技術文明社会の形成をもっとラジカルにそして早いスピードで進めることになる。1990年代になると、大学四年間での専門教育のレベルを「専門教養教育」と位置付け、大学院修士課程(前期博士課程)の大学院研究科教育から「専門教育」と呼ぶようになった。高度な専門分野に分かれ社会生産機能を担う組織、企業、公共団体、NPOやNGOなどでは学部教育で身に着けた専門知識は、専門的業種の仕事から見れば、基礎的知識に過ぎないのである。
社会が大学の学部教育へ要請することは、専門基礎知識、専門分野の教養知識を身につけることになる。社会は大学の学部教育に対して、即戦力を発揮する人材や修得した知識を即活用する能力を期待しない。四年間の学部教育では、企業が必要とする知識はまったく期待できないのである。これが、現在の大学と社会の相互期待のずれを生み出す状況を作っている。
つまり、大学学部教育の中で大きく二つの傾向が生じる。一つは大学教育課程が即社会の中で専門職のための教育課程として評価認定されている学部、例えば医学部、歯学部、薬学部、獣医学部、看護学部や医療関係の専門教育学科、航空大学等が挙げられる。これらの学部では、国家試験によって専門職の資格取得が学部教育の課題となり、その資格取得率が入学競争率にそのまま反映されることになる。
その次に専門職を育成する教育を行う学部は工学部、理学部、農学部や情報関連学部などの理工系専門分野の学部である。
そして、一般的に人間社会学に関する学部、文学部、経済学部、経営学部、法学部などは、学部教育が卒業後の専門職へつながる率は極めて低くなるのである。つまり、学生の側からすると、それらの学部を卒業したとしても、その専門的知識を社会で活用する可能性は極めて低く、社会の側からすれと、人間社会科学系の学部とその卒業生に対して、大学教育に対する期待は少ないことになる。
そして、就職したいなら大学に行くより専門学校で資格をとる方がよいといわれる時代が2000年には登場したのであった。就職活動という視点から観るなら、現在の日本の大学には現在、二つの学部が存在する。一つは専門職養成学部であり、もう一つは一般職養成学部である。そして、就職難の時代に、専門職養成学部に学生が集まるのは当然の流れなのである。
専門職養成学部が必要とする教養教育
当然のことであるが、専門職養成学部と一般職養成学部とでは教養教育に関する捉え方が異なる。何故なら、専門職養成学部にはその学部教育を全国的に評価ランキングされる国家試験が待っている。このランキングで上位に上がらなければ入学者を得ることが出来ないという緊張が学部教育を支配する。しかし、この学部存続を掛けた緊張は一般職養成学部には正しく理解して貰えないのである。
専門職養成学部にとって教養課程は、専門教育のために役立つものであることが第一要件となる。そのために、学部によって教養教育への具体的な要請が少しずつ異なることになる。特に、専門職養成学部では、教養教育で重視したい科目として、リメディアル教育が挙げられる。何故なら、専門職養成学部では、理数系基礎知識がなければ学部学科教育に学生はついていけない。しかも、入試科目にない入学者は必要な理数系科目の知識が不足している場合が生じる。そのため、これまで多くの大学で高校の理数系教育を教養課程で行っている。
一般職養成学部でも読解力や表現力に関するリメディアル教育は大切である。一般に専門職養成学部と一般職養成学部の二つの学部で共通するリメディアル教育として、日本語力や外国語力の両方の語学がある。その点で、英語教育が重要視される。
学ぶ姿勢を身に着ける教育・教養教育の課題
大学教育で述べられる基礎学力の中に、学ぶ姿勢・学習への積極的態度が挙げられている。そして高校との違いを「自分で調べて自分で学ぶ」と入学式からオリエンテーションまで言われ、最初に受けた授業では、高校のように教師は板書しないし、パワーポイントで教材が見せられ、殆ど教師の話を聴く事になる。
授業のスタイルがまったく高校とは違うことは理解できるが、講義をノートに書き写し、それを整理する方法も見つからない。また教師は教えてくれない。そして突然、レポートの提出が言い渡される。インターネットで調べて書いたら、「プレジャリズム」であると批判され評価は不可になる。(1)
つまり、現在の日本の大学の学生は高校時代までの学習文化と大学入学後の学習文化のギャップに苦しんでいる。大学教育文化へのカルチャーショックを受けて、そのショックから立ち上がれない学生が無数発生しているのである。
その大きな原因はこれまでの大学教育のあり方にある。つまり、大学教授法を学ばなくても大学教員となれ他のである。初等教育や中等教育を担当する教員は教授法を厳しく学び、そして職場でも個々人の教授技能や知識を点検される。しかし、大学では「研究者」という肩書きを持つことによって、教授法を相互に点検する作業が徹底しない。こうした問題を解決するために日本でも2000年代になってFD(Faculty Development )が提案され精力的に大学教育改革・教授法の改革が行われている。(2)(3)
これまでのエリート教育としての大学教育から、大衆化した大学での大学教育のあり方が検討され、大学教育の三つの課題が取り上げられている。一つはこれまでの講義形式でも可能であった「知識の修得」であり、二つ目は情報処理技能や統計処理などの「技能のスキルアップ」であり、三つ目は「積極的に学ぶ姿勢を身に着ける」ことである(4)。
特に、三つ目の課題に関してはこれまで教授法が開発されていない。その一つの方法としてPBL(Problem Based Learning )による学習法が取り入れられている。有名なPBLはアメリカのハーバード方式やその改良型として最近評価されつつあるUCSF(カリフォルニア大学サンフランシスコ校)方式がある。特にUCSF方式に関しては、龍谷大学教育開発研究センターはUCSFでPBLを実践しているKevin教授を招待して講演会を二回開いている。(5)今後、PBLを導入した教育の開発が必要となる。そして現在、高等教育研究会としてアメリカのPBL教育を推進するUCSFとの共同研究プロジェクトが企画されようとしている。
参考資料
(1) ゴールドコースト通信
http://www.interq.or.jp/pacific/rikki/html/plagiarism.html
(2) 北海道大学FDマニュアル 「FDの目的と意義 -大学教員の職務について-」
http://socyo.high.hokudai.ac.jp/FD/fd.pdf
(3)法政大学 教育開発支援機構FD推進センター
http://www.hosei.ac.jp/kyoiku/fd/greeting/index.html
(4)三石博行 「現在の三つの大学教育の課題」
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/07/blog-post_14.html
(5)龍谷大学教育開発研究センター主催 河村能夫教授の司会及びKevin教授との共同討論による「KEVIN .A. MACK 先生(カリフォルニア大学 サンフランシスコ校 教授)2007-第2回 「Leveraging Inquiry into Knowledge-Where's my syllabus? 」
http://www.ryukoku.ac.jp/faculty/fd/salon/sa_2007.html#02
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ブログ文書集 タイトル「大学教育改革への提案」の目次
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/04/blog-post_6795.html
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修正(誤字) 2011年3月1日
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2011年2月23日水曜日
中東、北アフリカでの市民抗議運動を欧米型民主主義運動と誤解してはならない
日本外交のすべき課題とは何か
三石博行
独裁政権下での人民主権国家の運命
北アフリカや中東での「民主化運動」について連日新聞やテレビから報道が流れてくる。特に、リビアの情勢はこれまでに無かった国家権力の強硬な姿勢・市民への武力弾圧に発展している。欧米にとって親米国家エジプトでの市民の抗議行動と警察の弾圧に対する対応と異なり、テロ支援国家とされジョージ・W.ブッシュ前アメリカ大統領に「悪の枢軸」(1)と呼ばれた社会主義人民リビア・アラブ国、現在はリビア(大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国)(2)の市民弾圧は厳しい批判の調子で報道され続けている。
現在のリビアはアラブ社会主義者、エジプトのナセルに共感したカダフィ大佐(カッザーフィー)を中心とする青年将校たちのクーデターによって1969年9月に成立した共和国国家である。リビアは人民主権に基づく直接民主主義を宣言し、成分憲法はなく、人民主義確立宣言が憲法の機能を果たしている。(2)
アラブ社会主義連合の一党独裁政治が1969年以来行われていたが、党の機能はそのまま国家機能になり、そのため政党は存在しない。しかし、民主主義政権を目指すリビア民主運動やリビア国民連合等の反政府勢力が存在している。これらの反政府勢力はイギリスのロンドンを拠点にして活動している。
カッザーフィーの独裁政治は1969年以来40年間も続いている。そしてカッザーフィーの「次男のサイフ・ル・イスラームが「人民社会指導部総合調整官」に任命された。これをもって、カッザーフィーの後継者としての指名とみる意見がある。」(2)つまり、人民主権国家、大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国(リビア)は事実上、カッザーフィー王国と化したのである。
この歴史は、人民民主主義国家を標榜した北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と類似する。反日本帝国主義戦争を戦い1949年に建国を果たした金日成は、1994年の死去まで国家最高指導者を続け、その地位を息子金正日に与え(3)、金正日もその地位を息子に与えようとしている。独裁政権での人民主権国家は成立しえないことを、リビアと北朝鮮は歴史的に証明したといえる。
欧米型の民主主義要求運動ではないエジプト・リビアの市民抗議運動
北アフリカや中東の反体制運動は、もともと食料物価の高騰や失業問題、つまり貧困化や経済格差の増大によって生じたのである(4)。しかし、原油の確認埋蔵量が世界8位と評価され、そして中東・北アフリカで第二の石油産出国でもあるリビアでも、隣国、チュニジアやエジプトのように高い失業率や地域的な経済格差が生じているのだろうか。市民が行動を起こす以上、その行動は観念的な「民主主義国家体制を要求する」というスローガンではなく、殆どが「生活苦をなくせ」という要求によるものである。その意味で、豊かな石油資源を持ち、石油輸出によって富を得ているリビアで、国民が貧困に喘いでいるという事態は何を意味するのだろうか。
エジプトでは、市民の抗議行動によってムバラク政権が崩壊し、軍が混乱を収拾した。つまり、ムバラク体制が崩壊したとしても、ムバラク体制を維持していた権力機構は存続した。エジプト国民の抗議行動は、欧米や日本のメディアが語るように「デモクラシー・民主化を求める市民運動」ではないし、民主主義体制を確立するための階級闘争でもない。
それは腐敗堕落し私腹を肥やし続けてきた旧軍部政権・ムバラク政権に対する批判であり、ムバラクを追い出して、エジプト国民のために貢献する健全で強烈な軍部政権を望んでいるのである。勿論、すべての人々がそうであると言うのではない。中には、欧米日本のような民主主義社会を望む人々(若者や知識人を中心とした人々)がいる。しかし、それらの人々がエジプト社会では少数派であることは想像できる。そのことは、今から30年前の1979年のイラン革命を思い出すとよい。(5)
まったく同じことが、エジプト以外に、北アフリカや中東でも起こりつつある。そしてリビアも同じであると言っても間違いないだろう。欧米型の民主主義の要求運動であると、特に、欧米や日本の報道機関がこれらの市民の抗議運動を理解する時、その運動の後に来る問題を見逃してしまう危険性がある。つまり、それは民衆主導の政治運動はイスラム化し、軍主導の政治運動はこれまでと同じ政治的流れを維持するという傾向である。
エジプトが軍部指導で治まったことに最も安心したのは、欧米日本、つまりアメリカを中心とする先進国であった。軍部指導はエジプト国民も支持し、そしてイスラエルもアメリカも支持する以上、過激なイスラム原理主義が登場することを抑えることが出来る。その意味で、エジプトの政権交代は上手に終わったと言えるだろう。
しかし、リビアはどうだろうか。アラブ社会主義連合の政治思想を持つ軍部、人民主義政権を維持しようとする政治集団・軍部が指導権を持てば、現在のリビアの政治の流れは大きく変更することは無いだろう。しかし、イスラム主義を唱える人々が政権を取り、それに軍が同調するなら、これまでのカダフィ大佐の率いたリビアとは異なる政治的流れを北アフリカにもたらすだろう。
日本外交のすべき課題とは何か
いずれにしても、北アフリカや中東の政治的混乱は続き、その解決によって、大きく今後の中東・北アフリカの政治地図は変更するだろう。今後の状況の変化を正確に予測し、そして最も問題になることは、欧米日本が、その流れに対して、正しい(効率のよい)外交を展開することができるかどうかという問題である。
まず、提案したいことは
1、 日本が指導力を発揮して、食料価格の高騰を起こしている先進国の金融資本主義のあり方を抑制する
2、 JAICAなどの国際経済・技術支援を北アフリカや中東の市民事情に合わせて企画する。そのために、日本の持つ砂漠緑化技術、水資源開発技術、太陽光発電技術、農業技術等々を活用展開し、民間企業、自治体、大学など産学官共同体制、例えば、仮称 中東・北アフリカ経済・技術支援共同機構を立ち上げ、北アフリカや中東の民間企業、自治体、大学などの研究開発を支援する。
3、 日本の大学改革を行い、大学の国際大学化を進め、中東、北アフリカは勿論のこと、すべての発展途上国の学生を受け入れ、日本で教育を行う事業を推進する。そのためには、英語での講義科目を増やす大学教育の国際化が必要となる。政府は大学の国際化を進める教育政策を推進する。
4、 日本の先端医療技術の国際化、海外の患者を受け入れること、海外の学生を受け入れ医学や医療専門(看護教育)教育を可能にすること。
5、 その他、日本の特異とすることを徹底的に売り込む。例えば、日本人の平和主義や共存主義、コミュニケーション能力(親切さ)、サービス等々の精神風土も売り込みの商品となることを忘れないこと、
参考資料
参考資料
(1) Wikipedia 「テロ支援国家」、「悪の枢軸」
(2) Wikipedia 「リビア」
(3) Wikipedia 「朝鮮民主主義共和国」
(4) 三石博行 「中東・北アフリカの政治的安定に向けた我が国の外交路線」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_03.html
(5)三石博行 「イラン・イスラム国家の近代化過程と日本の国際戦略」
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_2293.html
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修正 表現 誤字 2011年3月16日
三石博行
独裁政権下での人民主権国家の運命
北アフリカや中東での「民主化運動」について連日新聞やテレビから報道が流れてくる。特に、リビアの情勢はこれまでに無かった国家権力の強硬な姿勢・市民への武力弾圧に発展している。欧米にとって親米国家エジプトでの市民の抗議行動と警察の弾圧に対する対応と異なり、テロ支援国家とされジョージ・W.ブッシュ前アメリカ大統領に「悪の枢軸」(1)と呼ばれた社会主義人民リビア・アラブ国、現在はリビア(大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国)(2)の市民弾圧は厳しい批判の調子で報道され続けている。
現在のリビアはアラブ社会主義者、エジプトのナセルに共感したカダフィ大佐(カッザーフィー)を中心とする青年将校たちのクーデターによって1969年9月に成立した共和国国家である。リビアは人民主権に基づく直接民主主義を宣言し、成分憲法はなく、人民主義確立宣言が憲法の機能を果たしている。(2)
アラブ社会主義連合の一党独裁政治が1969年以来行われていたが、党の機能はそのまま国家機能になり、そのため政党は存在しない。しかし、民主主義政権を目指すリビア民主運動やリビア国民連合等の反政府勢力が存在している。これらの反政府勢力はイギリスのロンドンを拠点にして活動している。
カッザーフィーの独裁政治は1969年以来40年間も続いている。そしてカッザーフィーの「次男のサイフ・ル・イスラームが「人民社会指導部総合調整官」に任命された。これをもって、カッザーフィーの後継者としての指名とみる意見がある。」(2)つまり、人民主権国家、大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国(リビア)は事実上、カッザーフィー王国と化したのである。
この歴史は、人民民主主義国家を標榜した北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と類似する。反日本帝国主義戦争を戦い1949年に建国を果たした金日成は、1994年の死去まで国家最高指導者を続け、その地位を息子金正日に与え(3)、金正日もその地位を息子に与えようとしている。独裁政権での人民主権国家は成立しえないことを、リビアと北朝鮮は歴史的に証明したといえる。
欧米型の民主主義要求運動ではないエジプト・リビアの市民抗議運動
北アフリカや中東の反体制運動は、もともと食料物価の高騰や失業問題、つまり貧困化や経済格差の増大によって生じたのである(4)。しかし、原油の確認埋蔵量が世界8位と評価され、そして中東・北アフリカで第二の石油産出国でもあるリビアでも、隣国、チュニジアやエジプトのように高い失業率や地域的な経済格差が生じているのだろうか。市民が行動を起こす以上、その行動は観念的な「民主主義国家体制を要求する」というスローガンではなく、殆どが「生活苦をなくせ」という要求によるものである。その意味で、豊かな石油資源を持ち、石油輸出によって富を得ているリビアで、国民が貧困に喘いでいるという事態は何を意味するのだろうか。
エジプトでは、市民の抗議行動によってムバラク政権が崩壊し、軍が混乱を収拾した。つまり、ムバラク体制が崩壊したとしても、ムバラク体制を維持していた権力機構は存続した。エジプト国民の抗議行動は、欧米や日本のメディアが語るように「デモクラシー・民主化を求める市民運動」ではないし、民主主義体制を確立するための階級闘争でもない。
それは腐敗堕落し私腹を肥やし続けてきた旧軍部政権・ムバラク政権に対する批判であり、ムバラクを追い出して、エジプト国民のために貢献する健全で強烈な軍部政権を望んでいるのである。勿論、すべての人々がそうであると言うのではない。中には、欧米日本のような民主主義社会を望む人々(若者や知識人を中心とした人々)がいる。しかし、それらの人々がエジプト社会では少数派であることは想像できる。そのことは、今から30年前の1979年のイラン革命を思い出すとよい。(5)
まったく同じことが、エジプト以外に、北アフリカや中東でも起こりつつある。そしてリビアも同じであると言っても間違いないだろう。欧米型の民主主義の要求運動であると、特に、欧米や日本の報道機関がこれらの市民の抗議運動を理解する時、その運動の後に来る問題を見逃してしまう危険性がある。つまり、それは民衆主導の政治運動はイスラム化し、軍主導の政治運動はこれまでと同じ政治的流れを維持するという傾向である。
エジプトが軍部指導で治まったことに最も安心したのは、欧米日本、つまりアメリカを中心とする先進国であった。軍部指導はエジプト国民も支持し、そしてイスラエルもアメリカも支持する以上、過激なイスラム原理主義が登場することを抑えることが出来る。その意味で、エジプトの政権交代は上手に終わったと言えるだろう。
しかし、リビアはどうだろうか。アラブ社会主義連合の政治思想を持つ軍部、人民主義政権を維持しようとする政治集団・軍部が指導権を持てば、現在のリビアの政治の流れは大きく変更することは無いだろう。しかし、イスラム主義を唱える人々が政権を取り、それに軍が同調するなら、これまでのカダフィ大佐の率いたリビアとは異なる政治的流れを北アフリカにもたらすだろう。
日本外交のすべき課題とは何か
いずれにしても、北アフリカや中東の政治的混乱は続き、その解決によって、大きく今後の中東・北アフリカの政治地図は変更するだろう。今後の状況の変化を正確に予測し、そして最も問題になることは、欧米日本が、その流れに対して、正しい(効率のよい)外交を展開することができるかどうかという問題である。
まず、提案したいことは
1、 日本が指導力を発揮して、食料価格の高騰を起こしている先進国の金融資本主義のあり方を抑制する
2、 JAICAなどの国際経済・技術支援を北アフリカや中東の市民事情に合わせて企画する。そのために、日本の持つ砂漠緑化技術、水資源開発技術、太陽光発電技術、農業技術等々を活用展開し、民間企業、自治体、大学など産学官共同体制、例えば、仮称 中東・北アフリカ経済・技術支援共同機構を立ち上げ、北アフリカや中東の民間企業、自治体、大学などの研究開発を支援する。
3、 日本の大学改革を行い、大学の国際大学化を進め、中東、北アフリカは勿論のこと、すべての発展途上国の学生を受け入れ、日本で教育を行う事業を推進する。そのためには、英語での講義科目を増やす大学教育の国際化が必要となる。政府は大学の国際化を進める教育政策を推進する。
4、 日本の先端医療技術の国際化、海外の患者を受け入れること、海外の学生を受け入れ医学や医療専門(看護教育)教育を可能にすること。
5、 その他、日本の特異とすることを徹底的に売り込む。例えば、日本人の平和主義や共存主義、コミュニケーション能力(親切さ)、サービス等々の精神風土も売り込みの商品となることを忘れないこと、
参考資料
参考資料
(1) Wikipedia 「テロ支援国家」、「悪の枢軸」
(2) Wikipedia 「リビア」
(3) Wikipedia 「朝鮮民主主義共和国」
(4) 三石博行 「中東・北アフリカの政治的安定に向けた我が国の外交路線」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_03.html
(5)三石博行 「イラン・イスラム国家の近代化過程と日本の国際戦略」
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_2293.html
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修正 表現 誤字 2011年3月16日
2011年2月22日火曜日
現代科学技術文明社会と現代生活設計科学の課題
高度知識社会での生活重視の思想と科学あり方
三石博行
現代科学技術文明社会の課題
20世紀は科学技術文明社会が確立し、私達は豊かな生活文化を獲得した。しかし、その反面、生態系に異変をもたらしている人工化学物質、地球規模で進む自然環境破壊、生命倫理を脅かす生命操作の技術の登場、極度に専門化しつつある知的分業体制、利益追求が目的化した資本主義・金融資本主義等々、この文明は負の側面を拡大させながら21世紀へと続いている。
21世紀の社会では、これまでの現代科学技術文明の進化の方向を人権や環境重視の視点から問いかけなければならない。この点検を進めるためのキーワードの一つが「生活」である。生活重視の社会を形成するために、科学技術文明社会では何が問われ、何を解決しなければならないのか。
その課題を考えるために、まず、現代の生活文化を理解しよう。現代人の生活文化を特徴付ける5つのキーワードがある。(1)
1、「生産し消費する人」
2、「環境に作られ、環境を作る人」
3、「情報を受け取り、情報を発する人」
4、「多文化共生の契約思想と伝統文化を維持する人」
5、「人権や福祉の生活思想を持つ人」
この5つのキーワードに即して、現代社会で問われている課題から、現代社会での人間社会科学のあり方が検討される。つまり、これらの五つの課題に取り組む生活設計科学が必要であり、それが現代生活学の研究課題を提起している。(2)
生産し消費する人
前世紀後半に、新しい市民社会の姿、つまり消費者が社会で大きな発言権を得る時代を予測し、現代の生活者を「生産し消費する人」と定義したのはアメリカの社会学者 A.トフラーであった。彼は1980年に出版した「第三の波」の中で、今日の生活者は生産者であると同時に消費者であると述べた。
市民の生活を重視する社会の第一の課題は、安全な食料等の商品、安心できる住宅等、豊かで高品質の生活資材を消費する社会を作ることである。生産者である市民とは賃金や利潤を得るために働く人々を意味する。しかし、同時に消費者である市民は豊かな生活・消費する生活を得ているのである。つまり、生産し消費する市民とは、豊かな生活条件を獲得した人々なのである。
豊かな消費生活を可能にした市民は、さらに豊かな生活の質を求める。豊かな生活とは、人々のライフスタイルに適した消費生活が可能な条件によって成立する。つまり、消費者社会では、市民生活が市民の消費ニーズにあわせて多様化し、それがさらに消費財を豊富にする。生活者は自分の価値や生活スタイルによって生活行動を選択する。
その多様な選択肢を支えるために、多様な製品(商品・消費財)が生まれる。この多様な消費財を創り出すのは、生産し消費する市民である。この個人的な欲望を満たそうとする消費社会とは、「生活を楽しむ」という生活思想の確立によって発展するのである。この消費文化が現在の高度に発達した資本主義社会の市民生活を形成しているのである。
豊かな消費社会・科学技術文明社会に潜む課題、自由や人権の課題を考える学問として現代生活学がある。そして、真の生活の豊かさを設計する科学として生活学が展開される。
環境に作られ環境を作る人
高度に発達した科学技術文明社会では便利な人工物が多量に生産される。これらの無数の人工物によって、生態系は大きな負荷を受けている。そして、人工物の氾濫は、ついには地球規模の環境問題を引き起こしている。その代表例が二酸化炭素による地球温暖化現象やフロンガス等によるオゾン層の破壊である。
原始時代から大気の成分も生物の活動の結果として作られたように、地球上の自然生態系も人間の活動によって変化する。人間は文化や社会を作りそれを環境とし生きてきた。人間の作る環境は、狩猟時代では生態系の規則内で食料となる植物を選択的に採用し、農耕時代には食料となる植物を改良し生態系を変え、工業時代には鉱物や化石燃料を使い人工物を作り生態系を人工化し続けてきた。これらの生態系の人工化を文明とよび、その道具を科学技術と呼んだ。
自然を支配することで人類はこの地球上で繁栄してきた。そして、現在の社会は巨大な資源活用の上に成立している。この社会が地球上のほとんどの資源を使い尽くすことは予測できる。そして、それによって、地球の生態系に大きな変化が生まれ、これまでの食料生産を支えてきた生態環境にも大きな影響を与えようとしている。つまり、人類は人類の持続可能な生活文化を支える生態環境自体を壊滅させようとしているのである。
この状況に来て、我々は未来に対する不安を感じ始めた。つまり、それは未来の人類のために、現在の生態資源の維持に対して私達は責任を持たなければならないということである。自然環境との契約思想をライフスタイルとする人間社会のあり方が問われ、そのことが人類の持続可能な社会文化として求められているのである。
生活文化が人間の作った生活環境系の代表である。そしてその環境に規定されて人間は生活する。つまり、我々は「環境に作られ環境を作る人」である。この人間と環境の相互関係を自覚し、自ら作った人工物・化学物質によって自らの生存環境(生態系)の破壊や汚染によって、自らの生命を危機に落とすこと、つまり人体への悪影響を避けなければならない。
現代の生活者は自らが「環境に作られ環境を作る人」であると自覚するための知識・学問として現代生活学を位置づけ、持続可能な生活環境、生態環境の設計科学として生活学を展開しなければならないだろう。
情報を受け取り情報を発する人
全世界の人々がインターネットによって通信できるようになった高度情報化社会では、生活者は世の中の色々な情報を簡単に入手し、そればかりでなく自分の情報を世の中に発信することが出来るのである。
情報の入手や発信は「いつでも、どこでも、何でも、誰でも」簡単に出来るようになった。 ユビキタス社会の到来をもたらしたのは情報機器の進化とネットワーク社会の構築である。コンパクト化するPC、通信の高速化とマルチメディア対応の携帯電話やモバイルが日常生活の道具になる。人々は携帯端末でどこからでも情報を取得し情報を発信できるのである。
先進国で普及したネットワーク社会が世界中の国々に広がり、発展途上国の人々がインターネットで観る先進国の豊かな生活風景、それに刺激されどの社会からも先端の情報社会へのアクセスが行われ、情報処理技術が大衆化してゆく。この情報化社会の世界化を止めることはできない。情報は世界中を駆け巡り、不特定多数の人々がその情報にアクセスし、砂漠の街でも、極東の村でも、人々は自由に情報を入手し、そして自由に情報を発信することが出来るのである。
しかし、その反面、過剰な情報、間違った情報やデマなどの悪意ある情報も簡単に素早く伝達される。その意味で、情報化社会では、コミュニケーションのための社会規範、モラル、生活思想が問題になり、豊かな自己表現ができるようになった私達は、同時に、その表現内容に責任を持たなければならない。
しかし、その反面、権力者達が隠していた情報も暴露され、世界中を駆け巡り、人々は自由にそれらを知ることが出来る。そして、自由にその権力者への反発を発信することも出来る。現在、北アフリカの市民が独裁政権に立ち向かう武器は、携帯端末である。この携帯端末で情報を交換し、権力者の不当な搾取が暴露され、集まりが呼びかけれ、抗議行動のデモが起こる。
情報化社会は民主主義の入り口を作る。何故なら、これまで国家や権力者の情報管理は、携帯端末によって簡単に破られるからである。権力者たちが隠していた情報が流れ、また、それらの情報を簡単に他の市民に発信する手段を得ることが出来るのである。
現在の中国政府のように、国家権力は都合の悪い情報を隠そうとする。しかし、その行為は、戦時中特高警察が都合の悪い文章を黒く塗りつぶしたように、ネット上で黒く塗り潰され、またぽっかりと空白になったサイトの画面が登場することになる。そのことは、「やぶ蛇」行為となる。国家権力が公に隠せば隠すほど、人民は知りたがる。この欲望の原理を知らない現在の中国政府は、中国人民の知りたい欲望を自分から刺激しているのである。
そして、情報を管理できると信じた国家は、都合の悪い情報を隠し、都合のいい情報を見せる。しかし、情報化社会というものはそう甘くない。その国家の情報隠しの情報が広がることになる。その流れは止めることはできないのである。それは商品経済を持ち込みながら、商品の売買を禁止することに近い行為である。一旦、資本主義経済が走り出したら、その資本主義経済で動く市場を破壊しない限り、資本主義は止められないように、社会の情報化を行い社会システムの効率を上げようとするなら、もはや、国家の都合で情報を制限することはできないのである。それが情報化社会の発展や進化の必然的な流れであると言える。
情報化社会とは情報を受け取る人と情報を発信する人が重なり合う社会、情報ユビキタス社会、生活空間の情報処理化と制御化が進化する社会である。その社会進化、情報化社会への進化過程において、情報処理能力の格差が生じている。その格差をなくするために、情報処理技能の大衆化、生活空間のユビキタス化へ貢献する生活設計科学が求められる。
高度情報社会の中で知る権利や発信する権利を獲得した人々の共存のあり方をめぐって、つまり、科学技術文明社会での人権思想について考える生活学が求められる。何故なら、それらの知識・情報はすべて生活向上のための道具である。しかし、それらの道具に支配され、それらの道具に翻弄されることを防ぐには生活重視の思想を原則とする生活設計科学の展開が必要とされるのである。
多文化社会で共生しながら自己の伝統文化の維持する人
豊かな消費社会と高度な情報化社会は国際化社会を推し進めてきた原動力であった。豊富な食料生産物がスーパーマーケットに揃い、高級な洋服が街のファッション専門店に並ぶ。海外の映像やニュースが毎日テレビに登場し、世界の出来事をすぐさま知ることが出来る。
海外へ旅することも、また街で海外から日本に旅行に来た人々に会うことも日常化し、数十万人の日本人が連休ともなれば海外に出かけ、また海外からも同じくらいの観光客がやって来る。高度に発達した航空技術によって人々の国際的な異動は非常に簡単にそして安価になった。
そればかりではない、多国籍企業による世界経済活動、同時に多くの人々が国外で働く。つまり、職場は多国籍化する。国際化する社会では、多文化共生の社会が進み、色々な民族が同じ地区で生活し、多様な生活様式が共存している。また、海外での出張生活も日常的になり、異なる文化圏で過ごす生活が一般化する。
異文化社会の中で生活するためには、異文化に自己を適応させながらも、自分を作っている文化的アイデンティティーを維持する必要がある。国際化する生活環境の中で「多文化社会で共生しながら自己の伝統文化を維持する人」のライフスタイルが模索されることになるのである。
多文化社会化する生活環境、結婚、家族、地域社会に大きな変化が生じる。多言語文化社会や多文化共同体が生まれる。そこが新しい人々の生活文化環境となる。国際化社会では、こうした新しい文化環境に人々が適応し共存するために多くの課題を解決しなければならない。
国際化社会での生活学は、国際結婚、多言語家族、多文化共同社会(学校や地域社会)に生じる生活文化の課題を解決しなければならないのである。
人権や福祉の生活思想を持つ人
私達は年齢を重ねることによって人生経験を多く積み重ね、豊かな人格と知識を身につける。しかし、同時に、身体は衰え、多くの障害を持つことになる。高齢化社会は豊かな人的資源に恵まれた障害者予備軍の社会である。この社会の生活者は「人権や福祉の生活思想を持つ人」であることが望まれる。
生活学の最終目的は、豊かな生活である。生活学の謂う豊かさとは人間としての豊かな生活権を持つという意味である。つまり、人権(命と生活)が守られること、人々が平和に生活をする(共存する)ことである。
つまり、生活設計科学の課題の一つが人権学である。その人権学は、平和学、基本的生活条件を形成するための社会福祉学、教育学、危機管理学、災害生活情報学等々によって構成されるのである。
豊かな科学技術文明社会に於ける社会の平和維持(共存のための生活設計科学)と人権擁護(生存のための生活設計科学)が生活政策学の最後の課題となる。
参考資料
(1)この5つのキーワードは旧金蘭短期大学(2003年に千里金蘭大学短期大学部改組され2007年に募集停止、2009年に廃止)の生活科学科生活経営専攻の教育方針として掲げられて物である。同短期大学の生活経営教育の課題とカリキュラムの基本に据えられていた。
(2)三石博行 「設計科学としての生活学の構築 –人工物プログラム科学論としての生活学の構図に向けて-」 金蘭短期大学 研究誌 第33号 2002.12 pp21-60 (A4)
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_02/cMITShir02d.pdf
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2011年2月23日 誤字修正
三石博行
現代科学技術文明社会の課題
20世紀は科学技術文明社会が確立し、私達は豊かな生活文化を獲得した。しかし、その反面、生態系に異変をもたらしている人工化学物質、地球規模で進む自然環境破壊、生命倫理を脅かす生命操作の技術の登場、極度に専門化しつつある知的分業体制、利益追求が目的化した資本主義・金融資本主義等々、この文明は負の側面を拡大させながら21世紀へと続いている。
21世紀の社会では、これまでの現代科学技術文明の進化の方向を人権や環境重視の視点から問いかけなければならない。この点検を進めるためのキーワードの一つが「生活」である。生活重視の社会を形成するために、科学技術文明社会では何が問われ、何を解決しなければならないのか。
その課題を考えるために、まず、現代の生活文化を理解しよう。現代人の生活文化を特徴付ける5つのキーワードがある。(1)
1、「生産し消費する人」
2、「環境に作られ、環境を作る人」
3、「情報を受け取り、情報を発する人」
4、「多文化共生の契約思想と伝統文化を維持する人」
5、「人権や福祉の生活思想を持つ人」
この5つのキーワードに即して、現代社会で問われている課題から、現代社会での人間社会科学のあり方が検討される。つまり、これらの五つの課題に取り組む生活設計科学が必要であり、それが現代生活学の研究課題を提起している。(2)
生産し消費する人
前世紀後半に、新しい市民社会の姿、つまり消費者が社会で大きな発言権を得る時代を予測し、現代の生活者を「生産し消費する人」と定義したのはアメリカの社会学者 A.トフラーであった。彼は1980年に出版した「第三の波」の中で、今日の生活者は生産者であると同時に消費者であると述べた。
市民の生活を重視する社会の第一の課題は、安全な食料等の商品、安心できる住宅等、豊かで高品質の生活資材を消費する社会を作ることである。生産者である市民とは賃金や利潤を得るために働く人々を意味する。しかし、同時に消費者である市民は豊かな生活・消費する生活を得ているのである。つまり、生産し消費する市民とは、豊かな生活条件を獲得した人々なのである。
豊かな消費生活を可能にした市民は、さらに豊かな生活の質を求める。豊かな生活とは、人々のライフスタイルに適した消費生活が可能な条件によって成立する。つまり、消費者社会では、市民生活が市民の消費ニーズにあわせて多様化し、それがさらに消費財を豊富にする。生活者は自分の価値や生活スタイルによって生活行動を選択する。
その多様な選択肢を支えるために、多様な製品(商品・消費財)が生まれる。この多様な消費財を創り出すのは、生産し消費する市民である。この個人的な欲望を満たそうとする消費社会とは、「生活を楽しむ」という生活思想の確立によって発展するのである。この消費文化が現在の高度に発達した資本主義社会の市民生活を形成しているのである。
豊かな消費社会・科学技術文明社会に潜む課題、自由や人権の課題を考える学問として現代生活学がある。そして、真の生活の豊かさを設計する科学として生活学が展開される。
環境に作られ環境を作る人
高度に発達した科学技術文明社会では便利な人工物が多量に生産される。これらの無数の人工物によって、生態系は大きな負荷を受けている。そして、人工物の氾濫は、ついには地球規模の環境問題を引き起こしている。その代表例が二酸化炭素による地球温暖化現象やフロンガス等によるオゾン層の破壊である。
原始時代から大気の成分も生物の活動の結果として作られたように、地球上の自然生態系も人間の活動によって変化する。人間は文化や社会を作りそれを環境とし生きてきた。人間の作る環境は、狩猟時代では生態系の規則内で食料となる植物を選択的に採用し、農耕時代には食料となる植物を改良し生態系を変え、工業時代には鉱物や化石燃料を使い人工物を作り生態系を人工化し続けてきた。これらの生態系の人工化を文明とよび、その道具を科学技術と呼んだ。
自然を支配することで人類はこの地球上で繁栄してきた。そして、現在の社会は巨大な資源活用の上に成立している。この社会が地球上のほとんどの資源を使い尽くすことは予測できる。そして、それによって、地球の生態系に大きな変化が生まれ、これまでの食料生産を支えてきた生態環境にも大きな影響を与えようとしている。つまり、人類は人類の持続可能な生活文化を支える生態環境自体を壊滅させようとしているのである。
この状況に来て、我々は未来に対する不安を感じ始めた。つまり、それは未来の人類のために、現在の生態資源の維持に対して私達は責任を持たなければならないということである。自然環境との契約思想をライフスタイルとする人間社会のあり方が問われ、そのことが人類の持続可能な社会文化として求められているのである。
生活文化が人間の作った生活環境系の代表である。そしてその環境に規定されて人間は生活する。つまり、我々は「環境に作られ環境を作る人」である。この人間と環境の相互関係を自覚し、自ら作った人工物・化学物質によって自らの生存環境(生態系)の破壊や汚染によって、自らの生命を危機に落とすこと、つまり人体への悪影響を避けなければならない。
現代の生活者は自らが「環境に作られ環境を作る人」であると自覚するための知識・学問として現代生活学を位置づけ、持続可能な生活環境、生態環境の設計科学として生活学を展開しなければならないだろう。
情報を受け取り情報を発する人
全世界の人々がインターネットによって通信できるようになった高度情報化社会では、生活者は世の中の色々な情報を簡単に入手し、そればかりでなく自分の情報を世の中に発信することが出来るのである。
情報の入手や発信は「いつでも、どこでも、何でも、誰でも」簡単に出来るようになった。 ユビキタス社会の到来をもたらしたのは情報機器の進化とネットワーク社会の構築である。コンパクト化するPC、通信の高速化とマルチメディア対応の携帯電話やモバイルが日常生活の道具になる。人々は携帯端末でどこからでも情報を取得し情報を発信できるのである。
先進国で普及したネットワーク社会が世界中の国々に広がり、発展途上国の人々がインターネットで観る先進国の豊かな生活風景、それに刺激されどの社会からも先端の情報社会へのアクセスが行われ、情報処理技術が大衆化してゆく。この情報化社会の世界化を止めることはできない。情報は世界中を駆け巡り、不特定多数の人々がその情報にアクセスし、砂漠の街でも、極東の村でも、人々は自由に情報を入手し、そして自由に情報を発信することが出来るのである。
しかし、その反面、過剰な情報、間違った情報やデマなどの悪意ある情報も簡単に素早く伝達される。その意味で、情報化社会では、コミュニケーションのための社会規範、モラル、生活思想が問題になり、豊かな自己表現ができるようになった私達は、同時に、その表現内容に責任を持たなければならない。
しかし、その反面、権力者達が隠していた情報も暴露され、世界中を駆け巡り、人々は自由にそれらを知ることが出来る。そして、自由にその権力者への反発を発信することも出来る。現在、北アフリカの市民が独裁政権に立ち向かう武器は、携帯端末である。この携帯端末で情報を交換し、権力者の不当な搾取が暴露され、集まりが呼びかけれ、抗議行動のデモが起こる。
情報化社会は民主主義の入り口を作る。何故なら、これまで国家や権力者の情報管理は、携帯端末によって簡単に破られるからである。権力者たちが隠していた情報が流れ、また、それらの情報を簡単に他の市民に発信する手段を得ることが出来るのである。
現在の中国政府のように、国家権力は都合の悪い情報を隠そうとする。しかし、その行為は、戦時中特高警察が都合の悪い文章を黒く塗りつぶしたように、ネット上で黒く塗り潰され、またぽっかりと空白になったサイトの画面が登場することになる。そのことは、「やぶ蛇」行為となる。国家権力が公に隠せば隠すほど、人民は知りたがる。この欲望の原理を知らない現在の中国政府は、中国人民の知りたい欲望を自分から刺激しているのである。
そして、情報を管理できると信じた国家は、都合の悪い情報を隠し、都合のいい情報を見せる。しかし、情報化社会というものはそう甘くない。その国家の情報隠しの情報が広がることになる。その流れは止めることはできないのである。それは商品経済を持ち込みながら、商品の売買を禁止することに近い行為である。一旦、資本主義経済が走り出したら、その資本主義経済で動く市場を破壊しない限り、資本主義は止められないように、社会の情報化を行い社会システムの効率を上げようとするなら、もはや、国家の都合で情報を制限することはできないのである。それが情報化社会の発展や進化の必然的な流れであると言える。
情報化社会とは情報を受け取る人と情報を発信する人が重なり合う社会、情報ユビキタス社会、生活空間の情報処理化と制御化が進化する社会である。その社会進化、情報化社会への進化過程において、情報処理能力の格差が生じている。その格差をなくするために、情報処理技能の大衆化、生活空間のユビキタス化へ貢献する生活設計科学が求められる。
高度情報社会の中で知る権利や発信する権利を獲得した人々の共存のあり方をめぐって、つまり、科学技術文明社会での人権思想について考える生活学が求められる。何故なら、それらの知識・情報はすべて生活向上のための道具である。しかし、それらの道具に支配され、それらの道具に翻弄されることを防ぐには生活重視の思想を原則とする生活設計科学の展開が必要とされるのである。
多文化社会で共生しながら自己の伝統文化の維持する人
豊かな消費社会と高度な情報化社会は国際化社会を推し進めてきた原動力であった。豊富な食料生産物がスーパーマーケットに揃い、高級な洋服が街のファッション専門店に並ぶ。海外の映像やニュースが毎日テレビに登場し、世界の出来事をすぐさま知ることが出来る。
海外へ旅することも、また街で海外から日本に旅行に来た人々に会うことも日常化し、数十万人の日本人が連休ともなれば海外に出かけ、また海外からも同じくらいの観光客がやって来る。高度に発達した航空技術によって人々の国際的な異動は非常に簡単にそして安価になった。
そればかりではない、多国籍企業による世界経済活動、同時に多くの人々が国外で働く。つまり、職場は多国籍化する。国際化する社会では、多文化共生の社会が進み、色々な民族が同じ地区で生活し、多様な生活様式が共存している。また、海外での出張生活も日常的になり、異なる文化圏で過ごす生活が一般化する。
異文化社会の中で生活するためには、異文化に自己を適応させながらも、自分を作っている文化的アイデンティティーを維持する必要がある。国際化する生活環境の中で「多文化社会で共生しながら自己の伝統文化を維持する人」のライフスタイルが模索されることになるのである。
多文化社会化する生活環境、結婚、家族、地域社会に大きな変化が生じる。多言語文化社会や多文化共同体が生まれる。そこが新しい人々の生活文化環境となる。国際化社会では、こうした新しい文化環境に人々が適応し共存するために多くの課題を解決しなければならない。
国際化社会での生活学は、国際結婚、多言語家族、多文化共同社会(学校や地域社会)に生じる生活文化の課題を解決しなければならないのである。
人権や福祉の生活思想を持つ人
私達は年齢を重ねることによって人生経験を多く積み重ね、豊かな人格と知識を身につける。しかし、同時に、身体は衰え、多くの障害を持つことになる。高齢化社会は豊かな人的資源に恵まれた障害者予備軍の社会である。この社会の生活者は「人権や福祉の生活思想を持つ人」であることが望まれる。
生活学の最終目的は、豊かな生活である。生活学の謂う豊かさとは人間としての豊かな生活権を持つという意味である。つまり、人権(命と生活)が守られること、人々が平和に生活をする(共存する)ことである。
つまり、生活設計科学の課題の一つが人権学である。その人権学は、平和学、基本的生活条件を形成するための社会福祉学、教育学、危機管理学、災害生活情報学等々によって構成されるのである。
豊かな科学技術文明社会に於ける社会の平和維持(共存のための生活設計科学)と人権擁護(生存のための生活設計科学)が生活政策学の最後の課題となる。
参考資料
(1)この5つのキーワードは旧金蘭短期大学(2003年に千里金蘭大学短期大学部改組され2007年に募集停止、2009年に廃止)の生活科学科生活経営専攻の教育方針として掲げられて物である。同短期大学の生活経営教育の課題とカリキュラムの基本に据えられていた。
(2)三石博行 「設計科学としての生活学の構築 –人工物プログラム科学論としての生活学の構図に向けて-」 金蘭短期大学 研究誌 第33号 2002.12 pp21-60 (A4)
http://hiroyukimitsuishi.web.fc2.com/pdf/kenkyu_02_02/cMITShir02d.pdf
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2011年2月23日 誤字修正
2011年2月21日月曜日
17回目の吹田市千一地区公民館での国際交流・餅つき大会
6カ国26名の参加者を囲んで国際交流の輪
三石博行
阪神大震災の年から始まって2月13日で17回目の交流会
1993年の12月に西川たけお氏(現在 吹田市会議員 吹田市議会議長)は地域での国際交流活動を企画し、1994年1月に吹田市藤が丘町の千一地区公民館で地域の人々と共に「餅つき大会」を開く企画を進めた。丁度その時、阪神淡路大震災が起こった。そして、その支援活動や地域での被災者救援のために、1月の予定していた「餅つき大会」は大幅に延期され2月になった。
始め、吹田市の国際交流センターで日本語を学ぶ外国の人々や大阪府茨木市のJAICA大阪 国際協力機構大阪国際センターに研修に来ていたアジアやアフリカの国々の人々を招待して、餅つき大会を行った。当時から、吹田市藤が丘町の人々は暖かく留学や研修で日本に来ている海外の人々を歓迎していた。
地域に根ざした国際交流活動
あれから17年が過ぎた、そして今回は17回目の餅つき大会であった。私は、1994年から4回ぐらい参加したがそれから参加せず、今回が12年ぶりの参加となった。そして、17年間も続いたこのイベントは藤が丘町の人々の年間行事になっていた。
日常生活化した国際交流
地域活動を続けることの意味をしみじみと感じさせられた。以前と違って、自然に、吹田市に住む外国人たちが餅つきイベントを楽しむために家族連れでやってきていた。
参加者は、韓国のサムソンの大阪支店の人とその家族、ロシア人の家族、大阪大学で学ぶ台湾と中国留学生、タイの女性と日本の男性の夫婦、結婚した日本人等々。
吹田市国際交流センターの職員と地域の人々が日常的に作り上げている地域の日常的な国際交流の一こまという感じであった。
地域の人々、吹田市国際交流センターの職員の方々、国際ボランティアの人々、総勢100名弱の参加者が、2011年2月13日日曜日の昼2時から4時30分の約2時間半の楽しい時間をすごした。
参考資料
西川たけお市会議員 http://ameblo.jp/nishikawatakeo
三石博行
阪神大震災の年から始まって2月13日で17回目の交流会
1993年の12月に西川たけお氏(現在 吹田市会議員 吹田市議会議長)は地域での国際交流活動を企画し、1994年1月に吹田市藤が丘町の千一地区公民館で地域の人々と共に「餅つき大会」を開く企画を進めた。丁度その時、阪神淡路大震災が起こった。そして、その支援活動や地域での被災者救援のために、1月の予定していた「餅つき大会」は大幅に延期され2月になった。
始め、吹田市の国際交流センターで日本語を学ぶ外国の人々や大阪府茨木市のJAICA大阪 国際協力機構大阪国際センターに研修に来ていたアジアやアフリカの国々の人々を招待して、餅つき大会を行った。当時から、吹田市藤が丘町の人々は暖かく留学や研修で日本に来ている海外の人々を歓迎していた。
地域に根ざした国際交流活動
あれから17年が過ぎた、そして今回は17回目の餅つき大会であった。私は、1994年から4回ぐらい参加したがそれから参加せず、今回が12年ぶりの参加となった。そして、17年間も続いたこのイベントは藤が丘町の人々の年間行事になっていた。
日常生活化した国際交流
地域活動を続けることの意味をしみじみと感じさせられた。以前と違って、自然に、吹田市に住む外国人たちが餅つきイベントを楽しむために家族連れでやってきていた。
参加者は、韓国のサムソンの大阪支店の人とその家族、ロシア人の家族、大阪大学で学ぶ台湾と中国留学生、タイの女性と日本の男性の夫婦、結婚した日本人等々。
吹田市国際交流センターの職員と地域の人々が日常的に作り上げている地域の日常的な国際交流の一こまという感じであった。
地域の人々、吹田市国際交流センターの職員の方々、国際ボランティアの人々、総勢100名弱の参加者が、2011年2月13日日曜日の昼2時から4時30分の約2時間半の楽しい時間をすごした。
参考資料
西川たけお市会議員 http://ameblo.jp/nishikawatakeo
中国共産党による中国の民主化過程の可能性
大衆化する中国共産党・政治思想集団から社会エリート集団への変遷
三石博行
文革の教訓・政治改革先行の悲劇の歴史
北アフリカや中東での民主化運動が報道される中で、最も日本で関心を掻き立てる話題は中国での民主化運動である。その理由は、日本人の中には、日本と異なる政治体制、つまり中国共産党が一党支配する中国への根本的な不信感があるからだろう。つまり、一党独裁という用語が、スターリンの戦時共産主義やファシズムなどのイメージに重なり、それが経済大国を導いた現在の中国共産党への評価よりも、マイナスイメージを拡大させているように思える。
その背景には、二つの要因がある。一つは欧米、特にアメリカのある政治家たちの考え方からくる民主化過程に関する偏見をそのまま我々日本人、特に報道機関が鵜呑みにしていることである。つまり、欧米型民主主義を唯一のものとする考え方である。もう一つは、日本の近代化過程・民主主義社会化の過程に関する自覚的理解の不足からくるものである。(1)
こうした考え方から中国の民主化過程を考えると、中国も旧東ドイツや旧ソビエト連邦のように、共産党の一党独裁体制が崩壊し、欧米型資本主義化・民主化が起こると予測している。しかし、旧東ドイツや旧ソ連も、社会主義での経済発展が停滞し、国民の経済生活のレベルが低下したという状況が生じた。その意味では、北朝鮮は、現在の金世襲体制が崩壊しながら資本主義経済化が起こる可能性を持つと言えるだろう。しかし、経済発展する中国では、こうした事態は起こらないだろう。
仮に、民主化運動が起こっても、その運動が現在の経済発展している中国社会を混乱に落としてまでも進むとは考えられないのである。何故なら、すでに中国では文化大革命によって経済を混乱に落とし内戦状態寸前まで陥った社会改革と称する権力闘争の混乱を経験しているため、経済活動を犠牲にして観念的に民主化過程を遂行する危険を冒すことはない。現在の中国は、文化大革命によって受けた被害を理解し、現実的な社会変革を行うための歴史的経験を蓄積しているのである。
長期安定政権の意味・経済政策の道具
中国での民主化過程はどのように進行するだろうか。それを知るための大きなヒントは、実は戦後の日本社会の経済発展の歴史にある。戦後の日本の民主主義社会は国民主権、人権擁護と平和主義を謳った日本国憲法の施行によって実現した。その意味で、国家の基本理念は三権分立の権力分散を前提にして成立している日本国憲法の精神に基づくものであり、現在の共産党独裁による中国の政治体制とは基本的に異なる。
戦後、日本では約60年間近くも自由民主党(旧自由党や旧民主党を含む保守勢力)による政権運営が行われた。自由民主党の長期的政治運営によって、戦後の経済成長の歴史を形成してきた。そして、その自由民主党の長期的運営が行き詰まり2009年に民主党への政権交代が行われた。自由民主党への批判勢力としての民主党への政権交代は は戦後初めてであると言える。
戦後の日本社会の経済復興を行うためには、長期安定政権が必要であった。その意味で、今日の一年毎、首相が交代するのは、見方を変えれば、政治的不安定さに耐えられる社会的余裕を日本は持っているとも謂える。国が政治的、経済的に緊急事態に直面しているなら、イスラエルのように異なる政権の一方が選挙で多数を占めたとしても、挙国一致の国家運営が行われるだろう。日本は、戦後約60年間、経済的豊かさを手に入れるために、民主主義国家の中で、まれに見る長期間の一党支配政治が続いたのである。
この例を中国に当て嵌めることは出来ないのもの、中国の近代化過程の機関として中国共産党が存在していることについては以前に述べたが(2)、この考えの延長として、中国の民主化過程も中国共産党によって行われると想像することが出来る。
共産党の大衆化
2010年5月に中国を旅行した。上海万国博覧会の混乱を避けて、西安と北京へ行った。ガイドを勤めていたい青年は共産党員であった。共産党に入党する資格は、学業に優れていること、特に大学での成績が優秀であることらしい。政治的思想、つまり中国人民のために闘う共産主義思想が入党の条件になるのではなく、現代中国社会では優秀な頭脳が入党条件となる。
毛沢東の時代から改革開放、そして経済大国の時代へと中国社会は大きく変化した。そして、共産党への入党資格が大衆化し、強固な政治思想集団からエリート集団へと変貌して行った。この中国共産党の大衆化の過程が今後もさらに進むだろう。そして、この大衆化の過程こそが、中国社会の民主化過程を生み出す可能性がある。
共産党の社会的機能が、反帝国主義戦争、反日本帝国主義闘争の武器としての共産党の社会機能は、中華人民共和国が成立し、朝鮮戦争で朝鮮半島の半分に親中社会主義政府・北朝鮮を成立させた段階で、その役割の殆どを終えた。文化大革命で毛沢東率いる共産党は走資派(資本主義体制の復活を狙う人々)との国内闘争を行うために、国家の経済を荒廃させ、内戦状態になるまで階級闘争を行った。その莫大な経済的犠牲と国民的犠牲の上に、改革開放路線への修正が行われた。毛沢東の述べ続けてきた階級闘争と革命闘争は文化大革命による国家の荒廃という犠牲と中国文化の伝統・儒教思想を根底から破壊することで終わった。そして、その成果(犠牲)の上に、今日の中国が存在している。
階級闘争の武器としての中国共産党から社会経済の発展のための党への変革が、改革開放時の中国共産党の内部での変化であった。この流れによって二つの問題が生じる。一つは、社会的エリート集団化していく共産党である。すべての社会的利益や特権が共産党員によって独占される社会が登場することを意味する。もう一つは、能力があればそして努力をすれば、共産党の大衆化である。多くの人々が党員(社会的エリート)になれる。大衆化する共産党によって一番目の社会的利益を独占し特権階級化する共産党員の利益も大衆化する方向に拡散することになる。
中国型の民主化過程
予測できる今後の中国の民主化過程は、中国共産党の大衆化である。そして、人口13億人の3割の国民が党員となったとしても、その数は約4億人になる。アメリカの人口よりも多い人々が選挙権を持ち、日本の人口の約4倍の国民が共産党の運営に参加することになる。
共産党員の大衆化によって、中国の共産党の官僚化が食い止められ、また一部の共産党員による利権が大衆的に分配される方向に進むだろう。それがこれから進行する中国の民主化過程の方向である。中国の民主化過程は、これまで社会主義体制を崩壊させて資本主義経済や民主化過程を実現しようとした旧ソビエト連邦・ロシア共和国と異なる政治路線の選択のように思える。
そして、この中国の改革開放路線を取り入れて経済発展を促そうとしているベトナム社会主義共和国でも、中国の民主化過程がモデルとされるだろう。
参考資料
(1)三石博行 「民主化過程と暴力装置機能の変化 -社会文化機能としての暴力装置・構造的暴力(2)‐」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/2.html
(2)三石博行 「中国の近代化・民主化過程を理解しよう」
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_1850.html
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------
2、日中関係
2-1、「日中友好に未来あり」)
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post.html
2-2、中国の人権問題で思うこと
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_03.html
2-3、経済的発展か軍事的衝突か 問われる東アジアの政治的方向性
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_13.html
2-4、中国の近代化・民主化過程を理解しよう
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_1850.html
2-5、中国との経済的協力関係の展開と中国への軍事的脅威への対応の二重路線外交を進めよ
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post.html
2-6、米中関係の進展は東アジアの平和に役立つ
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_5428.html
2-7、中国共産党による中国の民主化過程の可能性
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_3865.html
ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」から
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三石博行
文革の教訓・政治改革先行の悲劇の歴史
北アフリカや中東での民主化運動が報道される中で、最も日本で関心を掻き立てる話題は中国での民主化運動である。その理由は、日本人の中には、日本と異なる政治体制、つまり中国共産党が一党支配する中国への根本的な不信感があるからだろう。つまり、一党独裁という用語が、スターリンの戦時共産主義やファシズムなどのイメージに重なり、それが経済大国を導いた現在の中国共産党への評価よりも、マイナスイメージを拡大させているように思える。
その背景には、二つの要因がある。一つは欧米、特にアメリカのある政治家たちの考え方からくる民主化過程に関する偏見をそのまま我々日本人、特に報道機関が鵜呑みにしていることである。つまり、欧米型民主主義を唯一のものとする考え方である。もう一つは、日本の近代化過程・民主主義社会化の過程に関する自覚的理解の不足からくるものである。(1)
こうした考え方から中国の民主化過程を考えると、中国も旧東ドイツや旧ソビエト連邦のように、共産党の一党独裁体制が崩壊し、欧米型資本主義化・民主化が起こると予測している。しかし、旧東ドイツや旧ソ連も、社会主義での経済発展が停滞し、国民の経済生活のレベルが低下したという状況が生じた。その意味では、北朝鮮は、現在の金世襲体制が崩壊しながら資本主義経済化が起こる可能性を持つと言えるだろう。しかし、経済発展する中国では、こうした事態は起こらないだろう。
仮に、民主化運動が起こっても、その運動が現在の経済発展している中国社会を混乱に落としてまでも進むとは考えられないのである。何故なら、すでに中国では文化大革命によって経済を混乱に落とし内戦状態寸前まで陥った社会改革と称する権力闘争の混乱を経験しているため、経済活動を犠牲にして観念的に民主化過程を遂行する危険を冒すことはない。現在の中国は、文化大革命によって受けた被害を理解し、現実的な社会変革を行うための歴史的経験を蓄積しているのである。
長期安定政権の意味・経済政策の道具
中国での民主化過程はどのように進行するだろうか。それを知るための大きなヒントは、実は戦後の日本社会の経済発展の歴史にある。戦後の日本の民主主義社会は国民主権、人権擁護と平和主義を謳った日本国憲法の施行によって実現した。その意味で、国家の基本理念は三権分立の権力分散を前提にして成立している日本国憲法の精神に基づくものであり、現在の共産党独裁による中国の政治体制とは基本的に異なる。
戦後、日本では約60年間近くも自由民主党(旧自由党や旧民主党を含む保守勢力)による政権運営が行われた。自由民主党の長期的政治運営によって、戦後の経済成長の歴史を形成してきた。そして、その自由民主党の長期的運営が行き詰まり2009年に民主党への政権交代が行われた。自由民主党への批判勢力としての民主党への政権交代は は戦後初めてであると言える。
戦後の日本社会の経済復興を行うためには、長期安定政権が必要であった。その意味で、今日の一年毎、首相が交代するのは、見方を変えれば、政治的不安定さに耐えられる社会的余裕を日本は持っているとも謂える。国が政治的、経済的に緊急事態に直面しているなら、イスラエルのように異なる政権の一方が選挙で多数を占めたとしても、挙国一致の国家運営が行われるだろう。日本は、戦後約60年間、経済的豊かさを手に入れるために、民主主義国家の中で、まれに見る長期間の一党支配政治が続いたのである。
この例を中国に当て嵌めることは出来ないのもの、中国の近代化過程の機関として中国共産党が存在していることについては以前に述べたが(2)、この考えの延長として、中国の民主化過程も中国共産党によって行われると想像することが出来る。
共産党の大衆化
2010年5月に中国を旅行した。上海万国博覧会の混乱を避けて、西安と北京へ行った。ガイドを勤めていたい青年は共産党員であった。共産党に入党する資格は、学業に優れていること、特に大学での成績が優秀であることらしい。政治的思想、つまり中国人民のために闘う共産主義思想が入党の条件になるのではなく、現代中国社会では優秀な頭脳が入党条件となる。
毛沢東の時代から改革開放、そして経済大国の時代へと中国社会は大きく変化した。そして、共産党への入党資格が大衆化し、強固な政治思想集団からエリート集団へと変貌して行った。この中国共産党の大衆化の過程が今後もさらに進むだろう。そして、この大衆化の過程こそが、中国社会の民主化過程を生み出す可能性がある。
共産党の社会的機能が、反帝国主義戦争、反日本帝国主義闘争の武器としての共産党の社会機能は、中華人民共和国が成立し、朝鮮戦争で朝鮮半島の半分に親中社会主義政府・北朝鮮を成立させた段階で、その役割の殆どを終えた。文化大革命で毛沢東率いる共産党は走資派(資本主義体制の復活を狙う人々)との国内闘争を行うために、国家の経済を荒廃させ、内戦状態になるまで階級闘争を行った。その莫大な経済的犠牲と国民的犠牲の上に、改革開放路線への修正が行われた。毛沢東の述べ続けてきた階級闘争と革命闘争は文化大革命による国家の荒廃という犠牲と中国文化の伝統・儒教思想を根底から破壊することで終わった。そして、その成果(犠牲)の上に、今日の中国が存在している。
階級闘争の武器としての中国共産党から社会経済の発展のための党への変革が、改革開放時の中国共産党の内部での変化であった。この流れによって二つの問題が生じる。一つは、社会的エリート集団化していく共産党である。すべての社会的利益や特権が共産党員によって独占される社会が登場することを意味する。もう一つは、能力があればそして努力をすれば、共産党の大衆化である。多くの人々が党員(社会的エリート)になれる。大衆化する共産党によって一番目の社会的利益を独占し特権階級化する共産党員の利益も大衆化する方向に拡散することになる。
中国型の民主化過程
予測できる今後の中国の民主化過程は、中国共産党の大衆化である。そして、人口13億人の3割の国民が党員となったとしても、その数は約4億人になる。アメリカの人口よりも多い人々が選挙権を持ち、日本の人口の約4倍の国民が共産党の運営に参加することになる。
共産党員の大衆化によって、中国の共産党の官僚化が食い止められ、また一部の共産党員による利権が大衆的に分配される方向に進むだろう。それがこれから進行する中国の民主化過程の方向である。中国の民主化過程は、これまで社会主義体制を崩壊させて資本主義経済や民主化過程を実現しようとした旧ソビエト連邦・ロシア共和国と異なる政治路線の選択のように思える。
そして、この中国の改革開放路線を取り入れて経済発展を促そうとしているベトナム社会主義共和国でも、中国の民主化過程がモデルとされるだろう。
参考資料
(1)三石博行 「民主化過程と暴力装置機能の変化 -社会文化機能としての暴力装置・構造的暴力(2)‐」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/2.html
(2)三石博行 「中国の近代化・民主化過程を理解しよう」
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_1850.html
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2、日中関係
2-1、「日中友好に未来あり」)
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post.html
2-2、中国の人権問題で思うこと
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/11/blog-post_03.html
2-3、経済的発展か軍事的衝突か 問われる東アジアの政治的方向性
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_13.html
2-4、中国の近代化・民主化過程を理解しよう
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_1850.html
2-5、中国との経済的協力関係の展開と中国への軍事的脅威への対応の二重路線外交を進めよ
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post.html
2-6、米中関係の進展は東アジアの平和に役立つ
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/01/blog-post_5428.html
2-7、中国共産党による中国の民主化過程の可能性
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_3865.html
ブログ文書集「国際社会の中の日本 -国際化する日本の社会文化-」から
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精神構造的暴力と社会構造的暴力の相互補完関係
人間論から解釈される暴力の概念(4)
三石博行
社会構造的暴力の内化としての精神構造的暴力
本能の壊れている動物・人間が生きていくために人類が見つけ出した装置がタブー、伝統、習慣、社会規範や法律、規則であった。総じて、それらの社会文化的規範を自己化することを、現実則に即して動く自我と呼んだ。人類が考えた精神エネルギーを現実の生活や生命の維持のために活用する社会文化的規則に即して、自我が機能することで、自我は現実的に生存可能な行動や思考を行うことが出来るようになった。
つまり、社会文化規則(社会構造的暴力)がなければ、現実則(精神構造的暴力)を形成することは出来ない。換言すると、精神構造的暴力は社会構造的暴力が無ければ形成されない。社会構造的暴力がなければ、本能が機能しない人類は他者との共存も不可能になり、その結果、自らの生存条件を獲得することも出来ないことになる。自らの生命を維持するために、自我は現実則で機能することになる。
社会構造的暴力に類似した精神構造的暴力を自我に形成することで、生態系との調和や種の保存を生命活動の第一次的目的に出来ない人間的行動が修正され、無条件に自己をリビドー(人間的性欲)の対象とする自我の原初的な形態が抑制される。社会の規則に即して欲望を満たすこと、社会的価値の具現的対象としてある他者を自己の理想とする機能が生まれ、そのイメージが自己化され、自己の理想とする価値観やモラルが形成される。
社会構造的暴力は本能の壊れた動物・人間を存続させるために創り出された(発明された)機能なのである。つまり、本能が壊れている人間の生物的生存可能性を保障するための文化的装置としての社会構造的暴力であり、その内化によって作り出されたものが精神構造的暴力である。
意識・社会構造的暴力の土台に類似して機能する精神構造的暴力の産物
人間(乳児)が言語を話すようになって、自我(自己意識)が形成された。自己とは自ら発した言語によって再確認された存在を意味する。もし、言語が無ければ自己意識はない。声帯運動によって作り出されている音を同時に聴覚器官によって知覚し、その聴覚刺激が脳で意味となると同時に、運動野で生み出されている声帯運動の指示と同時化することによって生じたものが自己意識である。
聴覚野の音声パターンが視覚野の表象パターンへ変換し、その表象パターンが運動野の声帯運動パターンへ変換し、その声帯運動パターの声帯運動を生み出す(1)。それによって、自己の外に飛び出した音(音声)が、同時に、また再び、聴覚を刺激し、聴覚神経の刺激パターンが聴覚野へ伝達を繰り返すのである。この内的身体機能運動によって生産された外的世界の産物によって、再び内的身体機能が刺激され、外的世界の産物を通じて(声を聴くことを通じて)内的身体機能の所在を理解するのである。これが、所謂自己意識なのだ。
自己とは自己の生み出す身体運動の彼方に存在するものである。自己とは、その身体運動を認識する法則(言語的法則・文法や意味)を前提にして、理解された他者(外化された自己・自我活動によって外に生み出された自己の影)なのである。つまり、自我が言語化されていない限り、自己意識は存在しえない。何故なら自己意識とは言語活動を自我する自我がその生産物(言語活動・音声)を認知することによって生じた意識であるからだ。
更に述べると、精神構造的暴力の土台が社会構造的暴力の土台を真似て作られなければ、自己意識や意識は生み出せない。言語によって構造化されて自我の結果として、自己意識や対象意識(意識)が存在しているのである。つまり、意識とは、言語と呼ばれる社会文化的産物、社会構造的暴力の土台に類似して機能する言語活動と呼ばれる精神構造的暴力の産物によって生み出される。
内的世界の外化、外的世界の内化
そこで、意識は基本的には社会構造的暴力の土台に規定されている。それらは社会文化規範、つまり言語、価値、習慣、規範と呼ばれる社会や文化の構造に規定されている。しかし、その社会文化は人間活動の生産物である。人間活動がなければ、社会文化的構造は生産されない。その生産物として社会文化の構造、つまり社会構造的暴力を生み出すシステムが存在している。
同時に、社会構造は社会を構成する人々の意識によって機能する。例えば、もし、職業や社会的所属に対する意識(責任感)、社会的役割という個人の社会帰属意識が無ければ、社会は機能しないだろう。社会制度があるから社会が機能するのでなく、その制度を担う人々、言い換えればそれらの人々の自分の社会的役割と呼ばれる社会帰属意識が無ければ、社会は機能しないのである。(2)
社会構造的暴力の効力は、精神構造的暴力が社会を構成する人々に共通して機能していることが前提条件となる。これを、共同主観と呼ぶことも出来る。つまり、社会構成員がその社会的役割を自己意識として確立していなければ、社会は機能しないし、社会構造的暴力は生み出されないのである。社会機能の有効性は個人的意識において有効性を持つことで発揮されている。しかも、その個人とは社会的な個人である。つまり、ある集団であり、その集団を構成する大半の個人が共通に持っている価値観、モラル、社会文化規範、常識とよばれる意識である。
その意味で、社会構造的暴力やその土台は、精神構造的暴力やその土台と相互に補完し合う関係にある。つまり、生産活動において内的構造(精神構造)は外化(社会構造化)される。その外化作用の蓄積によって社会構造の土台が形成され、その社会構造の土台はそれを生産した人々の意識によって運営される。その運営形態を社会構造的暴力と呼ぶ。社会構造的暴力によって、社会構造(過去の人間的生産物の蓄積とその構造)は、あたかもそれ自体(生産物自体)が生きているかのように機能するのである。それを動かすのは、その社会の構成する人々、そしてその人々が持つ社会的役割意識とよばれる精神構造なのである。
しかし、同時にそれらの人々の持つ社会的役割意識は、以前に作られた生産物の蓄積、つまり社会構造によって根拠づけられるのである。その物的根拠なくして、社会的機能に関する個人の役割意識もそして精神構造的暴力も生産されないのである。
つまり、社会構造的暴力によって精神構造的暴力は形成され、精神構造的暴力によって社会構造的暴力は機能する。その社会構造的暴力の機能によって、精神構造的暴力は規定され、その規定された環境からさらに社会構造的暴力が再生産されるのでる。
生存するための闘い・暴力の起源
社会構造的暴力と精神構造的暴力の限りない相互補填運動によって、社会構造的暴力は維持され、その限りにおいて精神構造的暴力も維持されつづけるなら、つまり、この二つの相互補完関係が限りなく続くなら、自我の破綻や社会の破綻の根拠、そして新しい自我や社会変革が生まれる過程を説明できないだろう。
社会構造を維持するための力、つまり社会的価値観や規範の強制力である。その意味で、この力を社会構造的暴力と呼んだ。社会はその社会を構成する人々に、社会を維持させるために力(強制力)をもって登場する。その強制力は、しかし、精神構造化されることで有効に発揮される。個人の価値観、道徳心、モラルが形成される。それを精神構造的暴力と呼んだ。社会構造的暴力によって生み出された精神構造的暴力を持つことで、人々は(そのモラルに基づき)社会的役割を自覚し、生活、社会行動、生産活動を行うことが可能になった。
精神構造的暴力が有効に働かない場合にその精神構造的暴力装置(自我)の機能を解体し、新しい自我の機能に変えなければならない。精神分析が語る「転移」がそこで生じる。つまり、理想の自我の変換が起こる。そのためには、古い理想を捨てなければならない。この理想の自我、自我の理想の廃棄のためには、新しいリビドーの対象が選ばれることになる。古い自我を捨てるために、新しい理想の対象が登場し(新しい精神エネルギーの投資対象が登場し)の自我の変革作業が進行するのである。新しい自我によって、精神の安定を獲得し、より有効に精神エネルギーを投資し、現実の生活を運営するために、自我の変換が行われるのである。
また、社会構造的暴力が有効に働かない場合には、古い社会的習慣や規則は破棄される。その破壊の主体は新しい社会的価値観をもった人々(若者)たちである。彼らは、これまでの社会構造的暴力の正当性を否定する。その根拠は、その社会構造的暴力では社会構造が安定しえないからである。例えば、現在北アフリカで進む民主化運動は、民衆化という理念的課題を追求するために生じている運動ではない。食料や生活の貧困が生み出す社会的危機に対して、その解決として現在の制度を否定しているのである。人民が満足しているなら、革命は生じない。しかし、社会が人々の生存を保障しないから、人々はその社会制度や秩序を否定し、新たな秩序や制度を確立するために動く。目的は、あくまでも、飢餓や貧困から人民を救済するために有効な制度を持つ社会の確立である。40年前、カダフィーがやった様に、若い人々が独裁者カダフィーに対してリビア人民の貧困か社会を救済するために血を流すのである。
古い精神構造や社会構造を破壊するために、新たな理想、価値観が登場し、自我や社会は変革されて行く。例えば、新しい世界観、西洋科学技術観、民主主義や資本主義思想によって影響を受けた人々によって、幕末や明治の日本の近代化(社会変革)が行われたよう、欧米近代思想やその社会的価値観が日本の近代社会への変革の力となった。欧米列強による植民地化を防ぐために、明治維新、近代化政策や富国強兵政策を推し進めたのである。
また、戦後民主主義は敗戦の責任として古い日本への批判と同時に戦勝国の新しい社会的価値観が導入され、国民主権、人権擁護と平和主義を謳う日本国憲法が公布され施行さることで、戦後民主主義社会思想に基づく自由主義と平等主義を原則とする自我が形成される。つまりそれまでの封建的自我は破棄され新しい自我に変革されるのである。そして、自由主義経済を興し、平和な経済国家を目指し、戦後の経済復興に取り組んできたのである。
精神構造的病理と社会構造的病理への対策として・構造的暴力の意味
ある時代の精神構造的暴力とは、その時代の人々の自我を維持するための間接的暴力であり、それによって個人(社会的個人・社会的役割を担う個人)の精神構造のシステムが維持されるのである。その力を持つことによって、社会構造的な直接的暴力を最小限に防ごうとするのである。それが、社会病理に対する対応策なのである。
また、ある時代の社会構造的暴力とは、その時代の社会を維持するための間接的暴力であり、それによって社会文化の構造やシステム維持されるのである。その力を持つことによって、個人的な直接的暴力を最小限に防ごうとするのである。つまり、それが精神病理に対する対策となる。
参考資料
(1)吉田民人先生(以後、吉田民人と呼ぶ)はある記号から別の記号への変換、つまり「記号が記号を意味する作用を『内包する』と呼んだ。 吉田民人『自己組織性の情報科学』、新曜社、1990、pp47-49
(2)ピーター・バーガー トーマス・ルックマン 山口節郎訳 『現実の社会的構成 知識社会学論考 』 新曜社、新版2003.2、pp111-140
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三石博行
社会構造的暴力の内化としての精神構造的暴力
本能の壊れている動物・人間が生きていくために人類が見つけ出した装置がタブー、伝統、習慣、社会規範や法律、規則であった。総じて、それらの社会文化的規範を自己化することを、現実則に即して動く自我と呼んだ。人類が考えた精神エネルギーを現実の生活や生命の維持のために活用する社会文化的規則に即して、自我が機能することで、自我は現実的に生存可能な行動や思考を行うことが出来るようになった。
つまり、社会文化規則(社会構造的暴力)がなければ、現実則(精神構造的暴力)を形成することは出来ない。換言すると、精神構造的暴力は社会構造的暴力が無ければ形成されない。社会構造的暴力がなければ、本能が機能しない人類は他者との共存も不可能になり、その結果、自らの生存条件を獲得することも出来ないことになる。自らの生命を維持するために、自我は現実則で機能することになる。
社会構造的暴力に類似した精神構造的暴力を自我に形成することで、生態系との調和や種の保存を生命活動の第一次的目的に出来ない人間的行動が修正され、無条件に自己をリビドー(人間的性欲)の対象とする自我の原初的な形態が抑制される。社会の規則に即して欲望を満たすこと、社会的価値の具現的対象としてある他者を自己の理想とする機能が生まれ、そのイメージが自己化され、自己の理想とする価値観やモラルが形成される。
社会構造的暴力は本能の壊れた動物・人間を存続させるために創り出された(発明された)機能なのである。つまり、本能が壊れている人間の生物的生存可能性を保障するための文化的装置としての社会構造的暴力であり、その内化によって作り出されたものが精神構造的暴力である。
意識・社会構造的暴力の土台に類似して機能する精神構造的暴力の産物
人間(乳児)が言語を話すようになって、自我(自己意識)が形成された。自己とは自ら発した言語によって再確認された存在を意味する。もし、言語が無ければ自己意識はない。声帯運動によって作り出されている音を同時に聴覚器官によって知覚し、その聴覚刺激が脳で意味となると同時に、運動野で生み出されている声帯運動の指示と同時化することによって生じたものが自己意識である。
聴覚野の音声パターンが視覚野の表象パターンへ変換し、その表象パターンが運動野の声帯運動パターンへ変換し、その声帯運動パターの声帯運動を生み出す(1)。それによって、自己の外に飛び出した音(音声)が、同時に、また再び、聴覚を刺激し、聴覚神経の刺激パターンが聴覚野へ伝達を繰り返すのである。この内的身体機能運動によって生産された外的世界の産物によって、再び内的身体機能が刺激され、外的世界の産物を通じて(声を聴くことを通じて)内的身体機能の所在を理解するのである。これが、所謂自己意識なのだ。
自己とは自己の生み出す身体運動の彼方に存在するものである。自己とは、その身体運動を認識する法則(言語的法則・文法や意味)を前提にして、理解された他者(外化された自己・自我活動によって外に生み出された自己の影)なのである。つまり、自我が言語化されていない限り、自己意識は存在しえない。何故なら自己意識とは言語活動を自我する自我がその生産物(言語活動・音声)を認知することによって生じた意識であるからだ。
更に述べると、精神構造的暴力の土台が社会構造的暴力の土台を真似て作られなければ、自己意識や意識は生み出せない。言語によって構造化されて自我の結果として、自己意識や対象意識(意識)が存在しているのである。つまり、意識とは、言語と呼ばれる社会文化的産物、社会構造的暴力の土台に類似して機能する言語活動と呼ばれる精神構造的暴力の産物によって生み出される。
内的世界の外化、外的世界の内化
そこで、意識は基本的には社会構造的暴力の土台に規定されている。それらは社会文化規範、つまり言語、価値、習慣、規範と呼ばれる社会や文化の構造に規定されている。しかし、その社会文化は人間活動の生産物である。人間活動がなければ、社会文化的構造は生産されない。その生産物として社会文化の構造、つまり社会構造的暴力を生み出すシステムが存在している。
同時に、社会構造は社会を構成する人々の意識によって機能する。例えば、もし、職業や社会的所属に対する意識(責任感)、社会的役割という個人の社会帰属意識が無ければ、社会は機能しないだろう。社会制度があるから社会が機能するのでなく、その制度を担う人々、言い換えればそれらの人々の自分の社会的役割と呼ばれる社会帰属意識が無ければ、社会は機能しないのである。(2)
社会構造的暴力の効力は、精神構造的暴力が社会を構成する人々に共通して機能していることが前提条件となる。これを、共同主観と呼ぶことも出来る。つまり、社会構成員がその社会的役割を自己意識として確立していなければ、社会は機能しないし、社会構造的暴力は生み出されないのである。社会機能の有効性は個人的意識において有効性を持つことで発揮されている。しかも、その個人とは社会的な個人である。つまり、ある集団であり、その集団を構成する大半の個人が共通に持っている価値観、モラル、社会文化規範、常識とよばれる意識である。
その意味で、社会構造的暴力やその土台は、精神構造的暴力やその土台と相互に補完し合う関係にある。つまり、生産活動において内的構造(精神構造)は外化(社会構造化)される。その外化作用の蓄積によって社会構造の土台が形成され、その社会構造の土台はそれを生産した人々の意識によって運営される。その運営形態を社会構造的暴力と呼ぶ。社会構造的暴力によって、社会構造(過去の人間的生産物の蓄積とその構造)は、あたかもそれ自体(生産物自体)が生きているかのように機能するのである。それを動かすのは、その社会の構成する人々、そしてその人々が持つ社会的役割意識とよばれる精神構造なのである。
しかし、同時にそれらの人々の持つ社会的役割意識は、以前に作られた生産物の蓄積、つまり社会構造によって根拠づけられるのである。その物的根拠なくして、社会的機能に関する個人の役割意識もそして精神構造的暴力も生産されないのである。
つまり、社会構造的暴力によって精神構造的暴力は形成され、精神構造的暴力によって社会構造的暴力は機能する。その社会構造的暴力の機能によって、精神構造的暴力は規定され、その規定された環境からさらに社会構造的暴力が再生産されるのでる。
生存するための闘い・暴力の起源
社会構造的暴力と精神構造的暴力の限りない相互補填運動によって、社会構造的暴力は維持され、その限りにおいて精神構造的暴力も維持されつづけるなら、つまり、この二つの相互補完関係が限りなく続くなら、自我の破綻や社会の破綻の根拠、そして新しい自我や社会変革が生まれる過程を説明できないだろう。
社会構造を維持するための力、つまり社会的価値観や規範の強制力である。その意味で、この力を社会構造的暴力と呼んだ。社会はその社会を構成する人々に、社会を維持させるために力(強制力)をもって登場する。その強制力は、しかし、精神構造化されることで有効に発揮される。個人の価値観、道徳心、モラルが形成される。それを精神構造的暴力と呼んだ。社会構造的暴力によって生み出された精神構造的暴力を持つことで、人々は(そのモラルに基づき)社会的役割を自覚し、生活、社会行動、生産活動を行うことが可能になった。
精神構造的暴力が有効に働かない場合にその精神構造的暴力装置(自我)の機能を解体し、新しい自我の機能に変えなければならない。精神分析が語る「転移」がそこで生じる。つまり、理想の自我の変換が起こる。そのためには、古い理想を捨てなければならない。この理想の自我、自我の理想の廃棄のためには、新しいリビドーの対象が選ばれることになる。古い自我を捨てるために、新しい理想の対象が登場し(新しい精神エネルギーの投資対象が登場し)の自我の変革作業が進行するのである。新しい自我によって、精神の安定を獲得し、より有効に精神エネルギーを投資し、現実の生活を運営するために、自我の変換が行われるのである。
また、社会構造的暴力が有効に働かない場合には、古い社会的習慣や規則は破棄される。その破壊の主体は新しい社会的価値観をもった人々(若者)たちである。彼らは、これまでの社会構造的暴力の正当性を否定する。その根拠は、その社会構造的暴力では社会構造が安定しえないからである。例えば、現在北アフリカで進む民主化運動は、民衆化という理念的課題を追求するために生じている運動ではない。食料や生活の貧困が生み出す社会的危機に対して、その解決として現在の制度を否定しているのである。人民が満足しているなら、革命は生じない。しかし、社会が人々の生存を保障しないから、人々はその社会制度や秩序を否定し、新たな秩序や制度を確立するために動く。目的は、あくまでも、飢餓や貧困から人民を救済するために有効な制度を持つ社会の確立である。40年前、カダフィーがやった様に、若い人々が独裁者カダフィーに対してリビア人民の貧困か社会を救済するために血を流すのである。
古い精神構造や社会構造を破壊するために、新たな理想、価値観が登場し、自我や社会は変革されて行く。例えば、新しい世界観、西洋科学技術観、民主主義や資本主義思想によって影響を受けた人々によって、幕末や明治の日本の近代化(社会変革)が行われたよう、欧米近代思想やその社会的価値観が日本の近代社会への変革の力となった。欧米列強による植民地化を防ぐために、明治維新、近代化政策や富国強兵政策を推し進めたのである。
また、戦後民主主義は敗戦の責任として古い日本への批判と同時に戦勝国の新しい社会的価値観が導入され、国民主権、人権擁護と平和主義を謳う日本国憲法が公布され施行さることで、戦後民主主義社会思想に基づく自由主義と平等主義を原則とする自我が形成される。つまりそれまでの封建的自我は破棄され新しい自我に変革されるのである。そして、自由主義経済を興し、平和な経済国家を目指し、戦後の経済復興に取り組んできたのである。
精神構造的病理と社会構造的病理への対策として・構造的暴力の意味
ある時代の精神構造的暴力とは、その時代の人々の自我を維持するための間接的暴力であり、それによって個人(社会的個人・社会的役割を担う個人)の精神構造のシステムが維持されるのである。その力を持つことによって、社会構造的な直接的暴力を最小限に防ごうとするのである。それが、社会病理に対する対応策なのである。
また、ある時代の社会構造的暴力とは、その時代の社会を維持するための間接的暴力であり、それによって社会文化の構造やシステム維持されるのである。その力を持つことによって、個人的な直接的暴力を最小限に防ごうとするのである。つまり、それが精神病理に対する対策となる。
参考資料
(1)吉田民人先生(以後、吉田民人と呼ぶ)はある記号から別の記号への変換、つまり「記号が記号を意味する作用を『内包する』と呼んだ。 吉田民人『自己組織性の情報科学』、新曜社、1990、pp47-49
(2)ピーター・バーガー トーマス・ルックマン 山口節郎訳 『現実の社会的構成 知識社会学論考 』 新曜社、新版2003.2、pp111-140
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2011年2月18日金曜日
精神構造的暴力と社会構造的暴力の相反構造
人間論から解釈される暴力の概念(3)
三石博行
精神構造的暴力の最小作用の法則・現実則
社会的秩序を守ることで自我は欲望を抑制することができる。この抑制機能を現実則と呼んだ。つまり、現実則は現実の自我を守るために自我の過剰な精神エネルギーの投資活動を抑制する機能である。そして、現実則によって自我は幻想でしかない欲望の対象に精神エネルギーを費やすことを極力抑えることが可能になるのである。
言い換えると、現実則とは精神構造のシステム内のエネルギーを少なくする機能を持っている。精神構造を維持しているリピドーが精神構造的暴力の起源であったので、現実則は過剰な精神構造的暴力は抑える精神経済的メカニズムであり、物理的用語を使うなら、丁度、精神構造的暴力の最小作用の法則であるとも言える。
例えば、精神構造的暴力が抑制されている人を、理性的で、社会的で、協調性のある、モラルを持った人だと我々は呼んでいる。殆どの堅実で保守的な人々は、この部類に所属している。それらの人々は、決して欲望に身を任すことはなく、感情を抑え、論理的飛躍を嫌い、社会規則を守り、他人への迷惑行為を慎み、皆と協力し合い、身持ちよく、きちんとした生活を送る。これが、精神構造的暴力をその機能を維持するための最小限の状態に抑えることに成功している人の思考や行動パターンである。そして、精神構造的暴力を必要最小限に抑制できている人々は社会で高く評価されている。
精神構造的暴力の抑制による社会構造的暴力の強化
社会はその社会秩序を守る人々によって安全に運営されている。社会的役割に対する個人的責任を全うする人々によって社会は機能している。つまり、現実則に従って動く人が社会機能を維持していると言える。そして、社会構造は、社会秩序を守り、自己の社会的役割分担に責任を持つ人々が多くいることで安定する。当然の事であるが、保守的で体制維持派の人々が多いほど社会は平穏に運営されるのである。
社会秩序を守る人は、前記したように、現実則によって自己の欲望を抑制している、つまり精神構造的暴力を抑制している人である。そして、精神構造的暴力を抑制している人々の価値観が社会全体に押し広げられた場合、社会は保守的になる。
社会は、個人に対してその社会の価値観を強要する。また、社会は個人の行動をその社会的規則によって厳しく制限することになる。その典型が中世、封建時代の社会である。身分制度や宗教的価値観で個人の行動は厳しく規制されていた。社会的役割は生まれながらにして決定され、農民は生涯農民として、女性は出産と育児が社会的義務とされていた。自由な社会経済活動は一切許されなかった。
言い換えると、精神構造的暴力を極度に抑制し、その抑制を社会全体で奨励もしくは強制することによって、こんどは逆に、社会構造的暴力が強化されるのである。
近代化(精神構造的暴力の拡大化)から生まれた現代資本主義社会
人類の歴史を振り返ると、社会経済の進歩は社会構造的暴力を抑え、精神構造的暴力を寛容してきた。近代社会を生み出す自由思想は、身分制度や宗教的世界観等の封建主義社会秩序を崩壊させた。職業選択の自由、表現の自由、経済活動の自由、学問の自由、信条や信仰の自由等々によって、人々は自分の行動や思想を自分で選択する権利を得た。
つまり、精神構造的暴力を認め、リピドーを自己に投資し、自己の理想や夢に向かって生きる。封建社会で創られた自我、つまり自らの人生はすでに定められ、それに従って生きることを美徳とするのでなく、自らの人生は自らの力で切り開くこと、希望に向かって生きることが人生の美徳となる。近代的自我が形成され、自由を縛りつけてきた社会的制約を払いのけ、人生を冒険すること、自分の意思で自分の生き方を選ぶことが新たな自我のスタイルとなる。社会的にも、自由に生き、そして社会的に成功することが高く評価される。
近代化とは、個人的自由を束縛した社会構造的暴力(封建制度の価値観や世界観)を取り除き、人間が自由な存在であることを自覚したことから始まる。中世的世界観の抑制から解放されるために、その世界観を支配していた哲理、観念、法則をことごとく否定し、新しい合理性を打ち立てた。その合理性は、実際に新たな産業を興す力となるのである。
資本主義経済は精神構造的暴力をできる限り認め、自由と呼ばれる価値観によって、営まれる経済競争による紛争、市場獲得や独占、新たな経済格差の承認を認めてきた。それは自由経済や資本主義社会と呼ばれる社会構造暴力のシステムを構築し続けてきた。
つまり、人間の自由がすべての権利の中で最高を占め、生命や生活の保護よりも、人間の自由が重要視されることになる。食糧が先物取引や投資の材料となり、食料価格が上がることで投資家が利益を得る。その利益の犠牲者として発展途上国では貧困にあえぐ人々が食糧まで奪われることになる。エジプトの庶民が一日、200円の生活で主食の材料する買えない生活の中で、先進国の富裕層は数千億の財を築くのである。
精神構造的暴力を最大限に発揮させ、突き進んできた近代化、民主化、資本主義経済化、自由主義の嵐は、これから先、どのようになるのだろうか。現在の先端資本主義経済・金融資本主義は、寧ろ、資本主義経済の限界を示す状態に辿り着いたと言えないだろうか。
そして、これまでの自由主義を改めさせる新しい社会思想によって、肥大化した精神構造的暴力を抑制するために、新たな社会構造的暴力が準備されようとしていないだろうか。つまり、新しいファシズムやナチズムが、台頭しないと誰が保障するのだろうか。
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三石博行
精神構造的暴力の最小作用の法則・現実則
社会的秩序を守ることで自我は欲望を抑制することができる。この抑制機能を現実則と呼んだ。つまり、現実則は現実の自我を守るために自我の過剰な精神エネルギーの投資活動を抑制する機能である。そして、現実則によって自我は幻想でしかない欲望の対象に精神エネルギーを費やすことを極力抑えることが可能になるのである。
言い換えると、現実則とは精神構造のシステム内のエネルギーを少なくする機能を持っている。精神構造を維持しているリピドーが精神構造的暴力の起源であったので、現実則は過剰な精神構造的暴力は抑える精神経済的メカニズムであり、物理的用語を使うなら、丁度、精神構造的暴力の最小作用の法則であるとも言える。
例えば、精神構造的暴力が抑制されている人を、理性的で、社会的で、協調性のある、モラルを持った人だと我々は呼んでいる。殆どの堅実で保守的な人々は、この部類に所属している。それらの人々は、決して欲望に身を任すことはなく、感情を抑え、論理的飛躍を嫌い、社会規則を守り、他人への迷惑行為を慎み、皆と協力し合い、身持ちよく、きちんとした生活を送る。これが、精神構造的暴力をその機能を維持するための最小限の状態に抑えることに成功している人の思考や行動パターンである。そして、精神構造的暴力を必要最小限に抑制できている人々は社会で高く評価されている。
精神構造的暴力の抑制による社会構造的暴力の強化
社会はその社会秩序を守る人々によって安全に運営されている。社会的役割に対する個人的責任を全うする人々によって社会は機能している。つまり、現実則に従って動く人が社会機能を維持していると言える。そして、社会構造は、社会秩序を守り、自己の社会的役割分担に責任を持つ人々が多くいることで安定する。当然の事であるが、保守的で体制維持派の人々が多いほど社会は平穏に運営されるのである。
社会秩序を守る人は、前記したように、現実則によって自己の欲望を抑制している、つまり精神構造的暴力を抑制している人である。そして、精神構造的暴力を抑制している人々の価値観が社会全体に押し広げられた場合、社会は保守的になる。
社会は、個人に対してその社会の価値観を強要する。また、社会は個人の行動をその社会的規則によって厳しく制限することになる。その典型が中世、封建時代の社会である。身分制度や宗教的価値観で個人の行動は厳しく規制されていた。社会的役割は生まれながらにして決定され、農民は生涯農民として、女性は出産と育児が社会的義務とされていた。自由な社会経済活動は一切許されなかった。
言い換えると、精神構造的暴力を極度に抑制し、その抑制を社会全体で奨励もしくは強制することによって、こんどは逆に、社会構造的暴力が強化されるのである。
近代化(精神構造的暴力の拡大化)から生まれた現代資本主義社会
人類の歴史を振り返ると、社会経済の進歩は社会構造的暴力を抑え、精神構造的暴力を寛容してきた。近代社会を生み出す自由思想は、身分制度や宗教的世界観等の封建主義社会秩序を崩壊させた。職業選択の自由、表現の自由、経済活動の自由、学問の自由、信条や信仰の自由等々によって、人々は自分の行動や思想を自分で選択する権利を得た。
つまり、精神構造的暴力を認め、リピドーを自己に投資し、自己の理想や夢に向かって生きる。封建社会で創られた自我、つまり自らの人生はすでに定められ、それに従って生きることを美徳とするのでなく、自らの人生は自らの力で切り開くこと、希望に向かって生きることが人生の美徳となる。近代的自我が形成され、自由を縛りつけてきた社会的制約を払いのけ、人生を冒険すること、自分の意思で自分の生き方を選ぶことが新たな自我のスタイルとなる。社会的にも、自由に生き、そして社会的に成功することが高く評価される。
近代化とは、個人的自由を束縛した社会構造的暴力(封建制度の価値観や世界観)を取り除き、人間が自由な存在であることを自覚したことから始まる。中世的世界観の抑制から解放されるために、その世界観を支配していた哲理、観念、法則をことごとく否定し、新しい合理性を打ち立てた。その合理性は、実際に新たな産業を興す力となるのである。
資本主義経済は精神構造的暴力をできる限り認め、自由と呼ばれる価値観によって、営まれる経済競争による紛争、市場獲得や独占、新たな経済格差の承認を認めてきた。それは自由経済や資本主義社会と呼ばれる社会構造暴力のシステムを構築し続けてきた。
つまり、人間の自由がすべての権利の中で最高を占め、生命や生活の保護よりも、人間の自由が重要視されることになる。食糧が先物取引や投資の材料となり、食料価格が上がることで投資家が利益を得る。その利益の犠牲者として発展途上国では貧困にあえぐ人々が食糧まで奪われることになる。エジプトの庶民が一日、200円の生活で主食の材料する買えない生活の中で、先進国の富裕層は数千億の財を築くのである。
精神構造的暴力を最大限に発揮させ、突き進んできた近代化、民主化、資本主義経済化、自由主義の嵐は、これから先、どのようになるのだろうか。現在の先端資本主義経済・金融資本主義は、寧ろ、資本主義経済の限界を示す状態に辿り着いたと言えないだろうか。
そして、これまでの自由主義を改めさせる新しい社会思想によって、肥大化した精神構造的暴力を抑制するために、新たな社会構造的暴力が準備されようとしていないだろうか。つまり、新しいファシズムやナチズムが、台頭しないと誰が保障するのだろうか。
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2011年2月17日木曜日
精神構造的暴力・自我を維持するための力
人間論から解釈される暴力の概念(2)
三石博行
前節で、人間的暴力の起源として今村仁司氏(以後、今村と呼ぶ)が述べた「根源分割」に言及しながら、生命力(エロス)とナルシシズムを具体的な暴力の起源として語った。つまり、リビドー(人間的な性的欲望、欲動)を、人間論的な視点から、暴力性を生み出す力と考えた。
生命力の起源としてのリビドー(人間的性欲)・暴力性
もし、エロスがなければ、人は人として生きることは出来ない。また、もしナルシシズムがなければ、人は自分の理想を持ち、その理想に向かって生きることは出来ない。つまり、人間として生きている条件に十分なリビドー(プラスの精神エネルギー)があり、その精神エネルギーを自己に投資することで自我の基本的構造である「自我の理想(ideal de moi )」(欲望の対象)を形成している。自我の理想とは現実の自己ではない。それは尊敬する人である。
「現実の自我」はこの「自我の理想」(尊敬する人)を目標にしながら努力し続けることが出来る。「現実の自我」(尊敬する人)は「現実の自我」ではないが、その自我の精神エネルギーを投資している対象(欲望の対象)である。その対象に自己を同化させ、その対象のまねをする。
つまり、「自我の理想」に向けられた精神エネルギーとは、現実の自己がその欲望の対象である「自我の理想」へ同化しようとする作用であると言える。勿論、現実の自我は、「自我の理想」ではない。リビドーの対象(理想の人)へ現実の自我を同化しようとするのである。この同化作用とは、観方を変えれば現実の自我を理想化された幻想の自我の姿として解釈する作用であるとも言える。自我の理想に同化しようとして形成された幻想の自我を「理想の自我( moi ideal )」と呼んでいる。
自我は自我の理想を持ち(希望を持ち)、その自我の理想(尊敬する人)に現実の自分を近づくために努力する。しかし、その理想には到底達し得ない。それが現実の姿である。だが、どうしてもこの現実の惨めな自分を勇気付け、そして一歩でも尊敬する人のようになりたいと思う。昨日の失敗を反省し、今日も努力する。そして、昨日よりも今日はよく出来た。その自分を励ましながら生きている。自分は出来る。必ず出来ると思いながら生きている。その力は、自分が尊敬する人に少しずつ近づいているという確信から生み出される。つまり、その確信とは確かに幻想かもしれないが、努力し、尊敬する人のようになりたいという自分にとっては希望の星なのだ。
以上の議論から、エロスやナルシズムの力(人間的暴力の起源)を取り除くことは、人間にとっては不可能なことであることが理解できるのである。
精神構造的暴力と社会構造的暴力
自我を維持するために、絶対的に必要な力、つまりエスからのプラスの精神エネルギー(リビドー・欲望)、そのエネルギーによって生み出されたエロスやナスシシズム、しかし、それは同時に、人間的暴力性の起源となる。
この暴力性は精神構造を維持するために必要なエネルギーであり、精神構造はその暴力性によって安定していると言える。この精神構造のシステムを維持するために、つまり、自我が、リピドーの具体的な投資対象(理想の自我)を持つことで、自我は安定しているのである。
この精神構造のシステム(自我)を維持する力を「精神構造的暴力」と呼ぶことにする。この名称は、以前、社会文化構造のシステムを維持する力として構造的暴力を定義したが、それと同様に、精神構造を維持する力を精神構造的暴力と呼ぶことにする。また、混乱を避けるために、社会文化の構造的暴力を「社会構造的暴力」と言いかえ、自我のシステムを維持する力を「精神構造的暴力」と命名することにした。
また、この二つの構造的暴力は、自我にしろ、社会文化にしろ、システムを維持するための暴力(エネルギー)であるので、間接的暴力として現れる。つまり、精神構造的暴力は誰かを具体的に直接的に攻撃しているのではなく、むしろ、間接的に攻撃しているスタイルを取る。例えば、ナスシシストの態度は「鼻につく」という不愉快感を人に与えるのだが、ナルシシストが誰かに悪意を持って自分の顔の美しさを鏡で見ていることはない。ただ、彼は(彼女は)自分の美しさに惚れ惚れし、もっと美しくありたいと願っているのである。しかし、その行為が、誰かにとっては「たまらない」ものに感じるのである。構造的暴力の一般的定義から、この暴力は常に間接的暴力の形態を取るのである。
過剰な精神構造的暴力を抑える現実則の働き
精神構造的暴力を抑制するために、つまりナルシシストにならないための精神機能が現実則とよばれる精神経済機能である。過剰の精神エネルギー(リビドー)の自己投資によって、つまり理想の自我を追い求めようとすることによって、自我は不安定になる。例えば、高い理想、実現不可能な理想を持てば、だれでも挫折するだろう。そこで、そんな高い理想でなく、「自分の背丈にあった目標を持つべきだ」と現実の自我が呼びかける。そうすることで、不可能な目標を立てて苦しむ自我を救うのである。これが「現実則」と呼ばれる精神機能の働きである。
また、他人や社会の迷惑を考えずに、自分の欲望を直接満たそうとする気持ちを抑え、社会的規則を守り欲望を満たすための方法を見つけ出すこころの働きを生み出す作用が、この現実則である。現実則によって、人々は、他の人々と共存できる。また現実則によって、社会的規則に従って考え行動する自我が生まれる。エス(無意識の自我)から直接湧き上がるリビドーを調整し、社会的に認められた方法で欲望を満たす行動をさせるために現実則は機能する。
現実則によって精神構造的暴力は最小限自我の維持のために使われることになる。現実則によって過剰な精神エネルギーの投資を抑えられる。つまり、現実的でない高い目標を追いかける無駄な行動を起こさない。そして、出来ることをコツコツとこなす日常生活を大切にする。そのことで、こころは安定する。
自我の内部に過剰なエネルギーを持ち続けることは、つまり、何かの情熱に浮かれた状態を想像すれば理解できる。例えば、現実生活を無視しても、その理想や不可能な恋の対象を追い掛け回す毎日が続くなら、必ず現実の生活は破綻を来たすのである。そこで、自我の内部の過剰なエネルギーを抑制するために、自我が持つ機能として超自我がある。この超自我は無条件に自我のエネルギーに急ブレーキを掛ける。急ブレーキでなく、納得積みのブレーキ、つまり自らが理解して自我の過剰なエネルギーを抑えるのが現実則である。
この現実則の働きは「社会的規則に従う」という大儀名分が用いられる。また、「そうでないと人が迷惑する」というモラルが用いられ、そして「そうすることでお互いが助かる」という理念に支えられるのである。つまり、精神構造的暴力を抑える力として現実則が存在し、その力を我々は理性、社会性、協調性やモラルと呼んでいる。
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修正 誤字 2011年6月28日
三石博行
前節で、人間的暴力の起源として今村仁司氏(以後、今村と呼ぶ)が述べた「根源分割」に言及しながら、生命力(エロス)とナルシシズムを具体的な暴力の起源として語った。つまり、リビドー(人間的な性的欲望、欲動)を、人間論的な視点から、暴力性を生み出す力と考えた。
生命力の起源としてのリビドー(人間的性欲)・暴力性
もし、エロスがなければ、人は人として生きることは出来ない。また、もしナルシシズムがなければ、人は自分の理想を持ち、その理想に向かって生きることは出来ない。つまり、人間として生きている条件に十分なリビドー(プラスの精神エネルギー)があり、その精神エネルギーを自己に投資することで自我の基本的構造である「自我の理想(ideal de moi )」(欲望の対象)を形成している。自我の理想とは現実の自己ではない。それは尊敬する人である。
「現実の自我」はこの「自我の理想」(尊敬する人)を目標にしながら努力し続けることが出来る。「現実の自我」(尊敬する人)は「現実の自我」ではないが、その自我の精神エネルギーを投資している対象(欲望の対象)である。その対象に自己を同化させ、その対象のまねをする。
つまり、「自我の理想」に向けられた精神エネルギーとは、現実の自己がその欲望の対象である「自我の理想」へ同化しようとする作用であると言える。勿論、現実の自我は、「自我の理想」ではない。リビドーの対象(理想の人)へ現実の自我を同化しようとするのである。この同化作用とは、観方を変えれば現実の自我を理想化された幻想の自我の姿として解釈する作用であるとも言える。自我の理想に同化しようとして形成された幻想の自我を「理想の自我( moi ideal )」と呼んでいる。
自我は自我の理想を持ち(希望を持ち)、その自我の理想(尊敬する人)に現実の自分を近づくために努力する。しかし、その理想には到底達し得ない。それが現実の姿である。だが、どうしてもこの現実の惨めな自分を勇気付け、そして一歩でも尊敬する人のようになりたいと思う。昨日の失敗を反省し、今日も努力する。そして、昨日よりも今日はよく出来た。その自分を励ましながら生きている。自分は出来る。必ず出来ると思いながら生きている。その力は、自分が尊敬する人に少しずつ近づいているという確信から生み出される。つまり、その確信とは確かに幻想かもしれないが、努力し、尊敬する人のようになりたいという自分にとっては希望の星なのだ。
以上の議論から、エロスやナルシズムの力(人間的暴力の起源)を取り除くことは、人間にとっては不可能なことであることが理解できるのである。
精神構造的暴力と社会構造的暴力
自我を維持するために、絶対的に必要な力、つまりエスからのプラスの精神エネルギー(リビドー・欲望)、そのエネルギーによって生み出されたエロスやナスシシズム、しかし、それは同時に、人間的暴力性の起源となる。
この暴力性は精神構造を維持するために必要なエネルギーであり、精神構造はその暴力性によって安定していると言える。この精神構造のシステムを維持するために、つまり、自我が、リピドーの具体的な投資対象(理想の自我)を持つことで、自我は安定しているのである。
この精神構造のシステム(自我)を維持する力を「精神構造的暴力」と呼ぶことにする。この名称は、以前、社会文化構造のシステムを維持する力として構造的暴力を定義したが、それと同様に、精神構造を維持する力を精神構造的暴力と呼ぶことにする。また、混乱を避けるために、社会文化の構造的暴力を「社会構造的暴力」と言いかえ、自我のシステムを維持する力を「精神構造的暴力」と命名することにした。
また、この二つの構造的暴力は、自我にしろ、社会文化にしろ、システムを維持するための暴力(エネルギー)であるので、間接的暴力として現れる。つまり、精神構造的暴力は誰かを具体的に直接的に攻撃しているのではなく、むしろ、間接的に攻撃しているスタイルを取る。例えば、ナスシシストの態度は「鼻につく」という不愉快感を人に与えるのだが、ナルシシストが誰かに悪意を持って自分の顔の美しさを鏡で見ていることはない。ただ、彼は(彼女は)自分の美しさに惚れ惚れし、もっと美しくありたいと願っているのである。しかし、その行為が、誰かにとっては「たまらない」ものに感じるのである。構造的暴力の一般的定義から、この暴力は常に間接的暴力の形態を取るのである。
過剰な精神構造的暴力を抑える現実則の働き
精神構造的暴力を抑制するために、つまりナルシシストにならないための精神機能が現実則とよばれる精神経済機能である。過剰の精神エネルギー(リビドー)の自己投資によって、つまり理想の自我を追い求めようとすることによって、自我は不安定になる。例えば、高い理想、実現不可能な理想を持てば、だれでも挫折するだろう。そこで、そんな高い理想でなく、「自分の背丈にあった目標を持つべきだ」と現実の自我が呼びかける。そうすることで、不可能な目標を立てて苦しむ自我を救うのである。これが「現実則」と呼ばれる精神機能の働きである。
また、他人や社会の迷惑を考えずに、自分の欲望を直接満たそうとする気持ちを抑え、社会的規則を守り欲望を満たすための方法を見つけ出すこころの働きを生み出す作用が、この現実則である。現実則によって、人々は、他の人々と共存できる。また現実則によって、社会的規則に従って考え行動する自我が生まれる。エス(無意識の自我)から直接湧き上がるリビドーを調整し、社会的に認められた方法で欲望を満たす行動をさせるために現実則は機能する。
現実則によって精神構造的暴力は最小限自我の維持のために使われることになる。現実則によって過剰な精神エネルギーの投資を抑えられる。つまり、現実的でない高い目標を追いかける無駄な行動を起こさない。そして、出来ることをコツコツとこなす日常生活を大切にする。そのことで、こころは安定する。
自我の内部に過剰なエネルギーを持ち続けることは、つまり、何かの情熱に浮かれた状態を想像すれば理解できる。例えば、現実生活を無視しても、その理想や不可能な恋の対象を追い掛け回す毎日が続くなら、必ず現実の生活は破綻を来たすのである。そこで、自我の内部の過剰なエネルギーを抑制するために、自我が持つ機能として超自我がある。この超自我は無条件に自我のエネルギーに急ブレーキを掛ける。急ブレーキでなく、納得積みのブレーキ、つまり自らが理解して自我の過剰なエネルギーを抑えるのが現実則である。
この現実則の働きは「社会的規則に従う」という大儀名分が用いられる。また、「そうでないと人が迷惑する」というモラルが用いられ、そして「そうすることでお互いが助かる」という理念に支えられるのである。つまり、精神構造的暴力を抑える力として現実則が存在し、その力を我々は理性、社会性、協調性やモラルと呼んでいる。
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修正 誤字 2011年6月28日
2011年2月11日金曜日
根源分割、生命力(エロス)、ナルシシズムと呼ばれる暴力性
人間論から解釈される暴力の概念(1)
三石博行
根源分割の痕跡・欲望の対象、記号、主体(自我)
前節で、人間論的視点から暴力の起源に関して、これまで今村仁司氏(以後、今村と呼ぶ)のJ.ソレル(Sorel)の解釈やデリダの解釈を基にしながら議論してきた。取り分け、今井の暴力の起源としての根源分割の意味について再度検討する。
今村は「根源分割」を暴力の起源においた(1)。認識論的視点から解釈すると今村の「根源分割」とは自己の世界の登場を意味する。つまり、この本源分割、対象が認識の風景に登場する過程(対象と非対象の間に線を引く過程)であり、その分割の結果の痕跡として表象が生じる。つまり根源分割は表象形成過程・対象認識過程と解釈することが出来る。
また、今井の「根源分割」は、精神分析の視点から解釈すると主体の形成過程を意味する。まず、自己と非自己の間に亀裂(線が引かれ)が生じ、主体に対する対象世界が生まれる。それらの対象世界は主体の精神活動の結果であるとも言える。(2)
さらに、この「根源分割」は、言語学的視点から観れば、対象世界の命名であり、その対象世界との能動的関係性(文法化)である。言語的規則性(構造化)によって主体は動く、つまり文化的秩序によって自我の精神運動が形成される。社会文化的存在者としての人間が生まれるのである。その出発は、根源分割機能を持ってしか作れない言語的記号によって可能となるとも言える。
つまり、人間学的な暴力の起源としての今井の「根源分割」は、欲望の対象とその記号、欲望の主体(自我)の三つの概念が生み出される過程を意味し、その痕跡として対象、記号や主体が存在すると解釈できる。
暴力としての生命力
前節での解釈、つまり本源分割を起源として、人間的暴力の要素として「欲望の対象とその記号、欲望する主体(自我)の三つの概念」に関して述べる。これらの三つの概念の形成過程と暴力性との関係について考える。
前節で述べた今村のソレルの6つ暴力の概念の分類は(3)、暴力とは生命力を意味するものであり、その生命力によって生み出される意志、観念、創造力、モラル、労働や徳が自我の姿であると解釈されている。
生の躍動とは、苦難に立ち向かい、降りかかる困難と闘い「人生を激しく充実して生きようとする意志」(3)であり、生命力である。その意味で、激しい命の闘いを「暴力性」に含めることが出来る。この場合、「暴力」とは他者を傷つけ破壊する行為というネガティブなイメージに「生命力」というポジチィブなイメージが馴染まないという批判が生まれる。
しかし、ある生命体は他の生命体を食し、侵略し、破壊する力である。個体を維持する強烈な生命力とは他の生命体を食べつくす力である。その二つの側面、個体を維持することと他を破壊することは生命力、つまり「生きようとする力」に関する同義語となる。
その生命力を前提にしなければ、無から有が生み出された歴史を説明することが出来ない。つまり、社会や国家の原型の形成史を物語る時、破壊と創造の物語の基盤に、原初的な荒ぶる力、生命力を置かなければならないのである。
また、社会が発展していく力、創造力、自己犠牲力、指導力、変革力、持続力の人間の生命力によって社会機能の成立しているのである。
そしてまた、暴力と生命力を同義的に置くことで、革命という秩序転換のメカニズムで生じる既成概念の崩壊と新しい秩序形成の過程が、社会的悪から社会的善への価値観の変換過程が、理解でいるのである。今村は、この法的秩序の崩壊や社会規範の変動は、暴力によって生じるある神話の崩壊と再生のドラマであると述べている。(1)
暴力としてのナルシシズム
以上述べた暴力概念は、人間の生物的生命力、精神的生命力、社会的生命力を意味する。それを生の哲学が「生の躍動」と語り、またフロイトはその生命力をエロスと呼び、その精神エネルギーをリビドーと呼んだ。
フロイトのリビドー(人間的な性欲)とは、人間は種の保存のエネルギー(動物的性欲)を個体保存のために使うと人間独自の性欲の在り方を意味している。種の保存のために個体は存在する。これが動物界の厳しい掟である。その掟に従って生きることを本能と呼んでいる。つまり、人間はその掟に従わず、性欲を自分のために使う。鏡を見てニッコリする猫も猿もいないのだが、人間だけは毎日鏡を見たい。川面に映った自分の姿に恋するナルシスとは、本能の狂った動物・人間の典型的な行為であると言える。
自分への性欲エネルギーの投資(自分の理想・幻想に向かって努力すること)によって、人は人間界で評価・「目標をもって生きる」人間であると尊敬される。理想を持つこと、目標に向かって生きること、そのすべてが性欲を自分のために使う本能が狂った行為、人間的行為によって生み出されている。
理想のために生きなくても、人は自分の飾り立て、綺麗な服装とお化粧をし、立派な時計を腕にまき、高級車に乗り、贅沢な生活に憧れる。そして、どれほどみすぼらしい生活をしていても、その質素な生活に人知れず誇りを持ち、それを自慢する。人から、プライドや自慢を取り除くことは、人間稼業を辞めよと言うのと等しい。それくらい、人は自分を褒めたい衝動と要求を常にもっているのである。これが、人間的な姿である。そして、その極端に、その自分の理想、夢、幻想ために自分の命さえ失うことを惜しまないという人にもなれるのである。
人間的行為の典型であるナルシシズムは、他者への無関心や排除を生み出す(4)。つまりナルシシズムとは人間的暴力性を秘めた生命力である。そこで、本来ナルシストである人間は、自然に自分と異なる他者を受け入れない。例えば、日本人であることへの誇りやプライドはそのまま在日外国人への排除心の基盤となる。
しかし、日本人としてのアイデンティティーを持たないで生きている日本人は居ないように、何かの国家、民族、社会や集団に所属する人間、これを社会的文化的存在と呼んでいる。民族としての自己のアイデンティティーを持たない人間はいない。
つまり、ナルシシズムやアイデンティティーは、精神活動の構造的暴力と理解できる。それらのエネルギー(暴力)が存在することで、精神構造は安定している。しかし、そのエネルギーは同時に、他者の排除を行う気持ちや感情のエネルギーとなっている。我々はナルシズムによって自分を未来に向けて努力させ向上さすことができる。そして、同時にそのナルシシズムによって他者を排除する暴力と破局にも自分を導くこともできるのである。
参考資料
(1)今村仁司 「暴力以前の力 暴力の根源」 立命館大学人文科学研究所暴力論研究会 第6回講演、 2004年12月24日、 6p.
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/bouryoku/index.html
(2)三石博行 「暴力の起源と原初的生存活動・一次ナルシシズム的形態 -今村仁司氏の講演「暴力以前の力 暴力の起源」のテキスト批評-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post.html
(3)塚原史 「暴力論の系譜 –今村仁司とジュルジュ・ソレル-」 東京経大学会誌 経済学 (259), 83-94, 2008年3月、pp.83-94
http://www.tku.ac.jp/kiyou/contents/economics/259/083_tukahara.pdf
(4)三石博行「いじめるという行為 -「いじめない」ことの困難さ-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2008/01/blog-post_9938.html
2011年2月14日 誤字修正
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三石博行
根源分割の痕跡・欲望の対象、記号、主体(自我)
前節で、人間論的視点から暴力の起源に関して、これまで今村仁司氏(以後、今村と呼ぶ)のJ.ソレル(Sorel)の解釈やデリダの解釈を基にしながら議論してきた。取り分け、今井の暴力の起源としての根源分割の意味について再度検討する。
今村は「根源分割」を暴力の起源においた(1)。認識論的視点から解釈すると今村の「根源分割」とは自己の世界の登場を意味する。つまり、この本源分割、対象が認識の風景に登場する過程(対象と非対象の間に線を引く過程)であり、その分割の結果の痕跡として表象が生じる。つまり根源分割は表象形成過程・対象認識過程と解釈することが出来る。
また、今井の「根源分割」は、精神分析の視点から解釈すると主体の形成過程を意味する。まず、自己と非自己の間に亀裂(線が引かれ)が生じ、主体に対する対象世界が生まれる。それらの対象世界は主体の精神活動の結果であるとも言える。(2)
さらに、この「根源分割」は、言語学的視点から観れば、対象世界の命名であり、その対象世界との能動的関係性(文法化)である。言語的規則性(構造化)によって主体は動く、つまり文化的秩序によって自我の精神運動が形成される。社会文化的存在者としての人間が生まれるのである。その出発は、根源分割機能を持ってしか作れない言語的記号によって可能となるとも言える。
つまり、人間学的な暴力の起源としての今井の「根源分割」は、欲望の対象とその記号、欲望の主体(自我)の三つの概念が生み出される過程を意味し、その痕跡として対象、記号や主体が存在すると解釈できる。
暴力としての生命力
前節での解釈、つまり本源分割を起源として、人間的暴力の要素として「欲望の対象とその記号、欲望する主体(自我)の三つの概念」に関して述べる。これらの三つの概念の形成過程と暴力性との関係について考える。
前節で述べた今村のソレルの6つ暴力の概念の分類は(3)、暴力とは生命力を意味するものであり、その生命力によって生み出される意志、観念、創造力、モラル、労働や徳が自我の姿であると解釈されている。
生の躍動とは、苦難に立ち向かい、降りかかる困難と闘い「人生を激しく充実して生きようとする意志」(3)であり、生命力である。その意味で、激しい命の闘いを「暴力性」に含めることが出来る。この場合、「暴力」とは他者を傷つけ破壊する行為というネガティブなイメージに「生命力」というポジチィブなイメージが馴染まないという批判が生まれる。
しかし、ある生命体は他の生命体を食し、侵略し、破壊する力である。個体を維持する強烈な生命力とは他の生命体を食べつくす力である。その二つの側面、個体を維持することと他を破壊することは生命力、つまり「生きようとする力」に関する同義語となる。
その生命力を前提にしなければ、無から有が生み出された歴史を説明することが出来ない。つまり、社会や国家の原型の形成史を物語る時、破壊と創造の物語の基盤に、原初的な荒ぶる力、生命力を置かなければならないのである。
また、社会が発展していく力、創造力、自己犠牲力、指導力、変革力、持続力の人間の生命力によって社会機能の成立しているのである。
そしてまた、暴力と生命力を同義的に置くことで、革命という秩序転換のメカニズムで生じる既成概念の崩壊と新しい秩序形成の過程が、社会的悪から社会的善への価値観の変換過程が、理解でいるのである。今村は、この法的秩序の崩壊や社会規範の変動は、暴力によって生じるある神話の崩壊と再生のドラマであると述べている。(1)
暴力としてのナルシシズム
以上述べた暴力概念は、人間の生物的生命力、精神的生命力、社会的生命力を意味する。それを生の哲学が「生の躍動」と語り、またフロイトはその生命力をエロスと呼び、その精神エネルギーをリビドーと呼んだ。
フロイトのリビドー(人間的な性欲)とは、人間は種の保存のエネルギー(動物的性欲)を個体保存のために使うと人間独自の性欲の在り方を意味している。種の保存のために個体は存在する。これが動物界の厳しい掟である。その掟に従って生きることを本能と呼んでいる。つまり、人間はその掟に従わず、性欲を自分のために使う。鏡を見てニッコリする猫も猿もいないのだが、人間だけは毎日鏡を見たい。川面に映った自分の姿に恋するナルシスとは、本能の狂った動物・人間の典型的な行為であると言える。
自分への性欲エネルギーの投資(自分の理想・幻想に向かって努力すること)によって、人は人間界で評価・「目標をもって生きる」人間であると尊敬される。理想を持つこと、目標に向かって生きること、そのすべてが性欲を自分のために使う本能が狂った行為、人間的行為によって生み出されている。
理想のために生きなくても、人は自分の飾り立て、綺麗な服装とお化粧をし、立派な時計を腕にまき、高級車に乗り、贅沢な生活に憧れる。そして、どれほどみすぼらしい生活をしていても、その質素な生活に人知れず誇りを持ち、それを自慢する。人から、プライドや自慢を取り除くことは、人間稼業を辞めよと言うのと等しい。それくらい、人は自分を褒めたい衝動と要求を常にもっているのである。これが、人間的な姿である。そして、その極端に、その自分の理想、夢、幻想ために自分の命さえ失うことを惜しまないという人にもなれるのである。
人間的行為の典型であるナルシシズムは、他者への無関心や排除を生み出す(4)。つまりナルシシズムとは人間的暴力性を秘めた生命力である。そこで、本来ナルシストである人間は、自然に自分と異なる他者を受け入れない。例えば、日本人であることへの誇りやプライドはそのまま在日外国人への排除心の基盤となる。
しかし、日本人としてのアイデンティティーを持たないで生きている日本人は居ないように、何かの国家、民族、社会や集団に所属する人間、これを社会的文化的存在と呼んでいる。民族としての自己のアイデンティティーを持たない人間はいない。
つまり、ナルシシズムやアイデンティティーは、精神活動の構造的暴力と理解できる。それらのエネルギー(暴力)が存在することで、精神構造は安定している。しかし、そのエネルギーは同時に、他者の排除を行う気持ちや感情のエネルギーとなっている。我々はナルシズムによって自分を未来に向けて努力させ向上さすことができる。そして、同時にそのナルシシズムによって他者を排除する暴力と破局にも自分を導くこともできるのである。
参考資料
(1)今村仁司 「暴力以前の力 暴力の根源」 立命館大学人文科学研究所暴力論研究会 第6回講演、 2004年12月24日、 6p.
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/bouryoku/index.html
(2)三石博行 「暴力の起源と原初的生存活動・一次ナルシシズム的形態 -今村仁司氏の講演「暴力以前の力 暴力の起源」のテキスト批評-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post.html
(3)塚原史 「暴力論の系譜 –今村仁司とジュルジュ・ソレル-」 東京経大学会誌 経済学 (259), 83-94, 2008年3月、pp.83-94
http://www.tku.ac.jp/kiyou/contents/economics/259/083_tukahara.pdf
(4)三石博行「いじめるという行為 -「いじめない」ことの困難さ-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2008/01/blog-post_9938.html
2011年2月14日 誤字修正
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2011年2月9日水曜日
人権主義政策 構造的暴力の抑制機能
社会制度としての人権擁護機能形成とその政治思想
三石博行
格差や貧困の世代連鎖を生み出す構造的暴力
仲野誠氏(以後、仲野と呼ぶ)のヨハン・ガルトゥングの「構造的暴力」の説明を援用し、再度、ヨハン・ガルトゥングの「構造的暴力」の概念を説明する。つまり構造的暴力とは、平和学者ガルトゥングが「平和」の概念を「暴力のない状態」と定義することによって形成されたと説明されている。(1)
つまり、平和・暴力のない状態には二つの形態がある。一つは、殺人や傷害などの個人的(直接的)と呼び、その暴力のない状態・「消極的平和」ともう一つは、ある特定の個人によって行われる暴力でなく国家、社会や集団の規則やその機能によって生じる言論統制、価値観の強制、経済や社会的な格差や差別の強要、社会的権利の剥奪等々、社会的差別の強要を、つまり間接的な暴力を「構造的暴力」と呼び、その暴力のない状態を「積極的平和」と呼んだ。(1)
また仲野は、「構造的暴力」の概念を「可能性と現実との間の、つまり実現可能であったものと現実に生じた結果との間のギャップを生じさせた原因」(2)であり「潜在的可能性と現実との間の隔たりを増大させるものであり、この隔たりの減少に対する阻害要因」(2)というガルトゥングの有名な定義を使って、「つまりそれは個々人の生の可能性を狭めている/妨げているさまざまな社会構造であるといえる。」(1)とのべた。
我々は(主体)具体的な他の誰か(対象者)の「個人的暴力」によって具体的に加害を加えられる。この暴力が引き起こした結末、例えば殺人による死亡、傷害による後遺症や放火による財産消滅などは具体的に理解できる。そして、それらの暴力の結果に対して、刑事的、民事的、人道的な問題を起こした人物や団体に対して求めることが出来る。
しかし、ガルトゥングの定義する「構造的暴力」とは、具体的な対象が引き起こす目に見える暴力行為ではない、それは法律、規則、制度、習慣、風習という社会機能が潜在的に持つ、政治的抑圧、経済的搾取、社会文化的疎外であると池田光穂氏は述べている。(3)つまり、その疎外の結果、個人の持つ「潜在的可能性」は奪われる。
例えば、教育環境に恵まれないアメリカ社会の黒人や移民の子供たち、貧困生活を送る家族の子供たちは、勉学をする家庭環境は勿論、進学の機会すらない。これらの子供たちが、能力がなかったからでなく、その能力を伸ばせる機会を持たなかったために、彼らのこれからの人生は、貧困や差別を受ける社会環境から抜け出すことは出来ない。
つまり、貧困の連鎖が世代を超えて続くのである。この貧困の連鎖を起こしている社会構造、個人の潜在的可能性を奪う社会構造を「構造的暴力」と考えたのである。
民主化過程、国家の直接的暴力減少過程
構造的暴力が国家、社会や集団の規則やその機能によって生じる以上、「構造的暴力は社会制度の基本であり、その構造的暴力をもって社会は維持されていると考えられる。」(4)つまり「社会が存在するかぎり、そこに何らかの抑圧、搾取や疎外の形態が生じる。それらの形態を皆無にすることは、社会そのものをなくすること」(4)は出来ない。つまり、構造的暴力が消滅することは「国家という機能をなくすることを意味する」(4)のである。
前節(4)で、構造的暴力は社会システムを維持するための機能として理解された。つまり、構造的暴力を社会から取り除くことは不可能である。構造的暴力は社会自体の存続に付随する姿であり社会システムの在り方を意味することを述べた。(4)
さらに、直接的暴力の概念を使いながら、民主化過程に関して述べた。(4)つまり、民主主義と独裁政権の国家を比較しながら、歴史的に、民主化の遅れた国家では、直接的暴力が国家の体制維持のために使われて来た。そして、民主主義が確立し国民主権の政治が行われることで、直接的暴力を国家が使い国民の自由な発言を封じ込める暴挙(スキャンダル)はなくなることについて述べた。
つまり、国民主権の国家は、主権者国民に対して直接的暴力を振ることで、その国家の理念を失う。また、国民主権国家が民主主義によって運営される以上、国家への批判を国民は選挙によって表明する。選挙の結果を受けて(国民の意思に従い)、政権交代が行われ、一つの政党が国民の意思に反して政治を執行し続けることは不可能である。また、国民によって選ばれた政府が、国民を警察や軍隊によって弾圧することはあり得ない。これが民主主義国家の姿である。その意味で、民主主義国家では国家による直接的暴力が国民に向けられることは無くなるのである。
しかし、独裁政権の国家では政権を非難する国民は直接的暴力によって弾圧される。そして、独裁政権から民主主義政権への変換が世界の社会政治史の流れであるなら、その過程、つまり民主化過程では、国家は人民に対して直接的暴力を振るう機会が少なくなる。換言すると、国家の引き起こす直接的暴力の執行の機会を失う段階が民主化過程と類似することが言える。
このことから、国民が起こす政権への批判にたいして国家の直接的暴力執行の度合いは、国や社会の民主化過程のバロメータ(基準評価)として理解できた。以上の展開は、著者がヨハン・ガルトゥングの直接的暴力概念を民主化過程に応用した前節の例であった。(4)
議会制民主主義国家での構造的暴力・多数派による少数派の権利剥奪・無視
また、構造的暴力は、独裁政権国家でも民主主義国家でも存在する。そして、民主主義国家が独裁政権国家よりも構造的暴力が少なくなったということではない。何故なら、構造的暴力とは、国家を維持するための国家のイデオロギー的機能であり、独裁政権国家も民衆主義国家もその機能を持っているからである。
構造的暴力が、国民主権国家と独裁政権国家において基本的に異なることはないという結論から、ここでは、特に、民主主義国家での構造的暴力の姿について議論する。平和学者ガルトゥングが構造的暴力(間接的暴力)を「構造的暴力」と呼び、その暴力のない状態を「積極的平和」と呼んだ意味を正確に理解するたには、国民主権を理念とする民主主義国家の秘めている暴力性を理解しなければならないからである。
民主主義、国民主権国家であったとしても、すべての国民の主義や権利を保障している訳ではない。つまり、議会制民主主義国家である以上、最大多数の勢力が国会での議決権を得る。そして少数派は、多数派に従わなければならない。これが、議会制民主主義の国家運営の決まりである。
議会制民主主義では、少数派の人々は常に権利を奪われ続けるのは仕方がないことであり、少数派は多数派に従うのが民主主義の決まりであると言えるのだろうかという疑問が生じる。つまり、この考え方では、最大多数の最大幸福、国家は多数者たちが最も国家から利益を受ける権利を持つ、ある意味で「国家の多数者の国家の多数者による国家の多数者のための政治」を議会制民主主義と呼ぶ。
つまり、民主主義は国家の多数者独裁主義と同義語であると言うのがこの考え方の基本である。しかも、事実、自称民主主義国家と呼ばれる国々(経済先進国も含む、例えば日本)で、社会は議会制民主主義を最大多数による国家運営として理解している。
この考え方から、民主主義国家でも、国家が持つ構造的暴力に関する自覚的理解は存在しないことになる。つまり、多数派の人々が議会制民主主義の制度の上で、少数派の人々の権利を奪うことも当然の多数派の権利として理解される。多数決の原理で横行する少数派の権利剥奪(典型的な構造的暴力の例)が無批判に社会で横行することになる。
つまり、国民主権(すべての国民の権利によって国家が運営される政治)は、多数決議会制民主主義だけでは不十分であると考える。つまり、国家の基理念に人権擁護や国際平和主義がなければならないのである。
つまり、国民の多数者による少数者への人権侵害を許すなら、過去、関東大震災時に自警団が在日外国人の虐殺、ナチスがユダヤ人虐殺、現在横行する民族浄化を肯定することになる。国民主権・民主主義とは逆に人権を守る手段であり、独裁者によって過去繰り返された人権弾圧に対する反省の上に成立した政治制度であると理解しなければならない。
人権擁護や平和維持が民主主義の目指す課題であると言える。そのためには、民主主義社会の構造的暴力について理解する必要がある。つまり、議会制民主主義国家で、もし無神経に多数派による少数派の権利剥奪・無視が行われるなら、この国家の民主主義とは「多数者によう独裁」を意味することになる。つまり、民主主義国家の構造的暴力を自覚的に理解する機能を持たない限り、民主主義と呼ばれる国家権力による暴力が生み出されるだろう。
近年、イラク戦争で明らかになったように、我々先進民主主義国家では「独裁政権下で苦しむ国民を解放すると民主主義政治イデオロギーによる戦争や侵略」が当然のように語られる。そして、民主国家の独裁政権国家への軍事的な介入は正義の戦いであると賞賛される。その結果、どれだけ多くの国民が戦禍を受け、命や生活を奪われるかという問題は別の問題とされるのである。これが最も民主主義の進んだアメリカで、そして民主主義(国民主権主義)政治として、その国民に圧倒的に支持されて登場した歴史的事実をどう理解したらいいのか、これが現在の政治思想(哲学)の重要な問題の一つでないのは実に不思議なことである。
民主主義国家での構造的暴力の自覚的点検機能・積極的平和
民主主義社会の最後の戦い、それはその民主主義国家の理念である民主主義とよばれる制度に潜む間接的な暴力「構造的暴力」をその民主主義制度の中で抑止していく社会政治的機能を創ることではないだろうか。この構造的暴力を自覚的に抑制する政治過程をガルトゥングが「積極的平和」と呼んだのではないだろうか。
岡本三夫氏(以後、岡本と呼ぶ)は、ガルトゥングの言う「積極的平和概念の内実は、経済的・政治的安定、基本的人権の尊重、公正な法の執行、政治的自由と政治プロセスへの参加、快適で安全な環境、社会的な調和と秩序、民主的な人間関係、福祉の充実、生き甲斐などであるが、このような平和指標は弾力的である。消極的平和はもっとも狭義に定義された固定的・静的平和概念であり、積極的平和は広義に定義された発展的・動的平和概念だということもできる」(5)と述べている。(6)
国家や社会がそのシステムを維持するために必然的に設定している「構造的暴力」はもっとも強固なものであり、もっとも排除しにくいものである。その暴力装置が引き起こす「人権侵害」の要素を出来るだけ取り除くことが、国際化し多様な民族が共存する現代の民主主義社会の課題となる。
しかし、国家の基本的な機能である「構造的暴力」をその機能から完全に取り除くことは出来ない。では、積極的平和を生み出すためには、社会はその構造的暴力装置に対してその装置が自動的に機能しないよういする対策が必要なのではないだろうか。つまり、社会身体の無意識な暴力的行為を、自覚的(反省的)に理解する社会的機能が必要となる。
民主主義社会では三権分立によって、行政(官僚機構)、立法(国会機能)と司法(裁判機能)の三つの権力を分離し、相互に監視する制度を導入してきた。従って、構造的暴力を抑制するための社会機能を考える際に、これまで民主主義社会の制度の基本であった三権分立制度の在り方、その機能の不十分点や問題点に関する議論が求められる。
つまり、この三権分立制度で、民主主義社会の構造的暴力を抑制するにはどの部分に修正が必要か、さらに、三権分立以外に民主主義社会制度を維持しながらも構造的暴力の横暴を阻止する制度があるのか。現在の民主主義制度の基本構造、三権分立機能のあり方を再点検する作業が求められている。しかし、ここで、この壮大な課題に関する議論展開は出来ない。それは、今後の課題に残すことにしたい。
この節で、述べる課題は、現状の三権分立の民主主義制度の中で可能な構造的暴力装置の自覚的制御機能の課題について述べる。
1、 行政機能、立法機能や司法機能の情報公開 オンブスマン制度支援
2、 市民による国家や行政の事業仕分け参加制度
3、 司法制度の民主化 裁判員制度や検察審議会制度の充実と点検
4、 国民生活センターの充実化、消費者運動支援
5、 国や地方自治体の政策審議過程の情報公開と国民・市民参加制度
6、 国家の外交政策の情報公開(許される範囲での)、市民参加(国際平和活動への)
7、 社会的少数派の政治参加を積極的に進める。例えば、在日外国人の帰化をすすめるために、長期滞在者の地方政治への選挙権・被選挙権(参政権)を与えたる。
8、 社会的弱者の社会活動を積極的に支援する。例えば、障害者、高齢者の社会参加を支援する。女性の出産や産育児支援活動、敗者復活戦を教育機能や就職支援機能に積極的に取り入れる。
9、 経済的弱者の生活活動を積極的に支援する。例えば、失業者の就職支援活動、派遣労働者の雇用条件向上政策、林業、農業や漁業従事者(後継者)の事業支援政策等々
等々
以上、ここに記載したのは数限りない具体的な課題の一部である。そして、社会文化や時代によって、多様で具体的な構造的暴力装置の自覚的制御機能に関する提案がなされるだろう。
社会政策から人権主義政策へ
民主主義社会での「構造的暴力」を抑制する機能を獲得するための政治思想(哲学)について議論する。この議論を行う前に、構造的暴力装置の自覚的制御機能の概念について考える。
現代社会の民主主義社会を推進・展開してきたのは資本主義経済制度であり、その経済制度を支えた社会思想、つまり個人主義と自由思想である。資本主義経済は経済活動の自由、つまり市場経済活動が保障されて成立することは今更述べる必要もない。
資本主義経済を基本とする国家は、資本主義経済によって生じた社会的矛盾、例えば労働者階級と資本家階級の形成、企業の利益追求、勤労者の長時間労働や劣悪な労働条件による労働者階級の貧困化問題等々、機械制大工業が発展した19世紀のヨーロッパ社会では、若年労働者、労働災害や職業病が蔓延した。この労働者の搾取によって企業は莫大な利益をあげ、そして大きく成長し、国家はその企業の経済活動を支援し、他国での市場を開発するための植民地政策を繰り広げ、帝国主義とよばれる侵略型の資本主義経済を形成した。
この時代、長時間、劣悪労働条件によって生じた労働者階級の救済を国家が取り組んだ。その理由は、企業のよる労働者収奪によって労働者の生活や健康が破壊されることは、国家として損失となるからである。つまり、軍隊には健康な男子が必要で、人口を増やすためにも健康な女子が必要であった。(7)そのため、国家は工場法(ビスマルク)や社会保障制度、失業保険や年金制度を作ったのである。
資本主義経済の横暴、つまり資本家階級の利益追求から生じる社会的矛盾を緩和する政策が社会政策であった。社会政策は民主主義社会が成熟していない、初期の資本主義社会で生まれた「構造的暴力」に対する抑制機能である。この機能は資本主義国家の維持のために必要とされた勤労者階級の健康維持であり生活条件の維持であった。
ここで議論しようとしている成熟期の民主主義社会での構造的暴力の自覚的制御機能とは、政策論的には上記した社会政策の延長線上にありながらも、質の異なる課題を提供している。つまり、前者は発展期の資本主義社会での国家の富国強兵の目的で必要とされた健康な男女・国民(国家の資源)の確保を国家中心的な社会政策の課題にしていのであったのが、後者は成熟した資本主義社会での、国民生活の質的向上、人権主義を基本とする社会政策(人権主義政策)が課題となる。
人権主義政策で取られる国内政策は、社会保障制度、弱者救済政策、福祉政策や社会的格差是正政策である。また国外政策は、平和外交、人道支援、環境対策や技術援助等である。
民主主義国家での構造的暴力の自覚的点検抑制する機能は、当然、岡本が述べたように、国家が国外での直接的暴力、つまり軍隊による海外での活動や戦争行為を極力抑制することが前提条件となる。何故なら、直接的暴力を施行する自国民(兵士)の暴力への鈍感な感性によって、国内の直接的暴力の広がりへ連動するからである。その連動によって、アメリカ社会で見られるように、帰国した兵隊による銃乱射事件、社会精神的病理現象を防ぐことは出来ない。その上で、人権主義に基づく国内政策が可能となる。
人権主義政策の政治思想
国家がある以上、構造的暴力は消滅しない。その意味で自由な経済活動を前提としている資本主義、個人主義と民主主義社会では、勤労者の雇用問題、労働条件問題、経済格差問題、消費者問題、家族問題、等々の社会問題は当然生じる。その問題自体が、構造的暴力の一面であり、それによって引き起こされる問題であるとも言える。
例えば、格差問題を考えるとき、格差を是正するために平等主義を持ち込む。しかし、自由を社会の理念にする限り、平等主義と自由主義は必ずしも民主主義の社会では両立しない。自由を制限することで、社会的平等を維持しようとする。すると、その社会は競争力を失うことになる。
保護貿易主義を取れた経済社会では、平等主義を使って国民の経済格差を是正することが出来た。日本の義務教育では徹底した平等主義がある。ヨーロッパの小中学校のように学力の差によって学年編成をしない。年齢によって学年が自動的に決まる。そのため学年教科内容を理解していなくても進級するし、また早くそれを終えても飛び級することはない。そのため、特殊な能力のある子供を育てることは出来ない。
また、これまでの日本社会では賃金格差は殆どなく、社長が社員の賃金の100倍以上の報酬を得ることはなかった。何故なら、高額所得者への税負担は非情に大きかった。それによって、高い給与を得るための努力をしなくなる。
格差社会は、社会に競争力を付けることが出来る。能力に応じて賃金の格差が生じないなら、能力を磨き上げようとする努力は生まれない。資本主義を活性化させるためには、終身雇用制度を廃止し労働市場に自由な競争を取り入れる必要がある。
21世紀の世界の資本主義経済の流れの本流は、市場主義と自由主義である。それによって世界経済は活発化している。この流れを止めることは出来ない。つまり、この流れの中では、現代の民主主義社会での構造的暴力を抑制する機能は十分に働かないだろう。そして人権主義政策も十分評価され、発展するとは思われない。
つまり、ここで課題になる資本主義社会の構造的暴力を抑制する社会機能は、例えば格差を社会的に認め競争力を付けながらも、その格差によって生じる社会矛盾を解決する別の社会的機能を装置する必要がある。賃金格差をなくするのでなく、賃金格差によって生じた社会矛盾にたいして解決する機能、例えば社会福祉制度の充実を作り出す。
また、学力格差によって生じる矛盾に対する解決機能、例えば、アメリカのコミュニティーカレッジのように落第生の社会的な敗者復活戦を準備し、フランスのVAE(社会での経験を学位単位として認める制度)を創り、社会に出てから、仕事しながら、生涯を通じて学ぶことを評価する制度を作る必要がある。
資本主義社会の自然発生的現象、つまり能力による格差の増大は防ぐことが出来ない。それなら、その格差によって生じた矛盾を若干解消する政策、または挑戦し格差是正を自助努力で克服することを奨励する制度を至る所に設定する必要がある。それ以外に、資本主義社会の中で、その社会が根本的に生み出す構造的暴力を解決する手段は見つからないのである。
参考資料
(1)仲野誠 「構造的暴力と平和」 2005年4月18日 鳥取大学 地域学部 地域政策科
http://www.geocities.jp/peace_atsushi/kouzoutekibouryokutoheiwa.htm
岡本三夫「構造的暴力」
平和学のリーダである岡本三夫氏は構造的暴力の概念を「現実における身体的・精神的(自己)実現が、その潜在的実現以下であるような影響を受けているならば、そこには暴力が存在する」と述べている。
http://www.okamotomitsuo.com/jpeacestudies/essays/022meiji2.html
(2)J.ガルトゥング『構造的暴力と平和』高柳先男、塩屋保、酒井由美子訳 中央大学出版部、1991年
(3)池田光穂 「構造的暴力」
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/09violencia_estructura.html
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/100228violencia.html
(4)三石博行「民主化過程と暴力装置機能の変化 社会文化機能としての暴力装置・構造的暴力(2)」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/2.html
(5)岡村三夫 「積極的平和」
http://www.okamotomitsuo.com/jpeacestudies/essays/021meiji1.html
岡本三夫 『平和学その軌跡と展望』、法律文化社、1999年12月
(6)平和学を研究する岡本三夫氏によると、ガルトゥングの言う「積極的平和」概念は「消極的平和」概念を前提に成立しているとも解釈できる。つまり、積極的平和も消極的平和として語られる直接的暴力が起こらない状態、典型的な例として戦争であるが、積極的平和は、戦争がない(消極的平和)を前提にし、それなくしては積極的平和自体の実現が不可能である。つまり、戦争のない状態自体が平和にとって基本的で「積極的な価値」である。暴力を考える上で、最も基本となる課題は平和であり、「戦争の廃絶は依然として人類社会の理想であり続ける」(5)ことは疑いないのである。
(7)風早八十二 『日本社会政策史』 日本評論社、1937年
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三石博行
格差や貧困の世代連鎖を生み出す構造的暴力
仲野誠氏(以後、仲野と呼ぶ)のヨハン・ガルトゥングの「構造的暴力」の説明を援用し、再度、ヨハン・ガルトゥングの「構造的暴力」の概念を説明する。つまり構造的暴力とは、平和学者ガルトゥングが「平和」の概念を「暴力のない状態」と定義することによって形成されたと説明されている。(1)
つまり、平和・暴力のない状態には二つの形態がある。一つは、殺人や傷害などの個人的(直接的)と呼び、その暴力のない状態・「消極的平和」ともう一つは、ある特定の個人によって行われる暴力でなく国家、社会や集団の規則やその機能によって生じる言論統制、価値観の強制、経済や社会的な格差や差別の強要、社会的権利の剥奪等々、社会的差別の強要を、つまり間接的な暴力を「構造的暴力」と呼び、その暴力のない状態を「積極的平和」と呼んだ。(1)
また仲野は、「構造的暴力」の概念を「可能性と現実との間の、つまり実現可能であったものと現実に生じた結果との間のギャップを生じさせた原因」(2)であり「潜在的可能性と現実との間の隔たりを増大させるものであり、この隔たりの減少に対する阻害要因」(2)というガルトゥングの有名な定義を使って、「つまりそれは個々人の生の可能性を狭めている/妨げているさまざまな社会構造であるといえる。」(1)とのべた。
我々は(主体)具体的な他の誰か(対象者)の「個人的暴力」によって具体的に加害を加えられる。この暴力が引き起こした結末、例えば殺人による死亡、傷害による後遺症や放火による財産消滅などは具体的に理解できる。そして、それらの暴力の結果に対して、刑事的、民事的、人道的な問題を起こした人物や団体に対して求めることが出来る。
しかし、ガルトゥングの定義する「構造的暴力」とは、具体的な対象が引き起こす目に見える暴力行為ではない、それは法律、規則、制度、習慣、風習という社会機能が潜在的に持つ、政治的抑圧、経済的搾取、社会文化的疎外であると池田光穂氏は述べている。(3)つまり、その疎外の結果、個人の持つ「潜在的可能性」は奪われる。
例えば、教育環境に恵まれないアメリカ社会の黒人や移民の子供たち、貧困生活を送る家族の子供たちは、勉学をする家庭環境は勿論、進学の機会すらない。これらの子供たちが、能力がなかったからでなく、その能力を伸ばせる機会を持たなかったために、彼らのこれからの人生は、貧困や差別を受ける社会環境から抜け出すことは出来ない。
つまり、貧困の連鎖が世代を超えて続くのである。この貧困の連鎖を起こしている社会構造、個人の潜在的可能性を奪う社会構造を「構造的暴力」と考えたのである。
民主化過程、国家の直接的暴力減少過程
構造的暴力が国家、社会や集団の規則やその機能によって生じる以上、「構造的暴力は社会制度の基本であり、その構造的暴力をもって社会は維持されていると考えられる。」(4)つまり「社会が存在するかぎり、そこに何らかの抑圧、搾取や疎外の形態が生じる。それらの形態を皆無にすることは、社会そのものをなくすること」(4)は出来ない。つまり、構造的暴力が消滅することは「国家という機能をなくすることを意味する」(4)のである。
前節(4)で、構造的暴力は社会システムを維持するための機能として理解された。つまり、構造的暴力を社会から取り除くことは不可能である。構造的暴力は社会自体の存続に付随する姿であり社会システムの在り方を意味することを述べた。(4)
さらに、直接的暴力の概念を使いながら、民主化過程に関して述べた。(4)つまり、民主主義と独裁政権の国家を比較しながら、歴史的に、民主化の遅れた国家では、直接的暴力が国家の体制維持のために使われて来た。そして、民主主義が確立し国民主権の政治が行われることで、直接的暴力を国家が使い国民の自由な発言を封じ込める暴挙(スキャンダル)はなくなることについて述べた。
つまり、国民主権の国家は、主権者国民に対して直接的暴力を振ることで、その国家の理念を失う。また、国民主権国家が民主主義によって運営される以上、国家への批判を国民は選挙によって表明する。選挙の結果を受けて(国民の意思に従い)、政権交代が行われ、一つの政党が国民の意思に反して政治を執行し続けることは不可能である。また、国民によって選ばれた政府が、国民を警察や軍隊によって弾圧することはあり得ない。これが民主主義国家の姿である。その意味で、民主主義国家では国家による直接的暴力が国民に向けられることは無くなるのである。
しかし、独裁政権の国家では政権を非難する国民は直接的暴力によって弾圧される。そして、独裁政権から民主主義政権への変換が世界の社会政治史の流れであるなら、その過程、つまり民主化過程では、国家は人民に対して直接的暴力を振るう機会が少なくなる。換言すると、国家の引き起こす直接的暴力の執行の機会を失う段階が民主化過程と類似することが言える。
このことから、国民が起こす政権への批判にたいして国家の直接的暴力執行の度合いは、国や社会の民主化過程のバロメータ(基準評価)として理解できた。以上の展開は、著者がヨハン・ガルトゥングの直接的暴力概念を民主化過程に応用した前節の例であった。(4)
議会制民主主義国家での構造的暴力・多数派による少数派の権利剥奪・無視
また、構造的暴力は、独裁政権国家でも民主主義国家でも存在する。そして、民主主義国家が独裁政権国家よりも構造的暴力が少なくなったということではない。何故なら、構造的暴力とは、国家を維持するための国家のイデオロギー的機能であり、独裁政権国家も民衆主義国家もその機能を持っているからである。
構造的暴力が、国民主権国家と独裁政権国家において基本的に異なることはないという結論から、ここでは、特に、民主主義国家での構造的暴力の姿について議論する。平和学者ガルトゥングが構造的暴力(間接的暴力)を「構造的暴力」と呼び、その暴力のない状態を「積極的平和」と呼んだ意味を正確に理解するたには、国民主権を理念とする民主主義国家の秘めている暴力性を理解しなければならないからである。
民主主義、国民主権国家であったとしても、すべての国民の主義や権利を保障している訳ではない。つまり、議会制民主主義国家である以上、最大多数の勢力が国会での議決権を得る。そして少数派は、多数派に従わなければならない。これが、議会制民主主義の国家運営の決まりである。
議会制民主主義では、少数派の人々は常に権利を奪われ続けるのは仕方がないことであり、少数派は多数派に従うのが民主主義の決まりであると言えるのだろうかという疑問が生じる。つまり、この考え方では、最大多数の最大幸福、国家は多数者たちが最も国家から利益を受ける権利を持つ、ある意味で「国家の多数者の国家の多数者による国家の多数者のための政治」を議会制民主主義と呼ぶ。
つまり、民主主義は国家の多数者独裁主義と同義語であると言うのがこの考え方の基本である。しかも、事実、自称民主主義国家と呼ばれる国々(経済先進国も含む、例えば日本)で、社会は議会制民主主義を最大多数による国家運営として理解している。
この考え方から、民主主義国家でも、国家が持つ構造的暴力に関する自覚的理解は存在しないことになる。つまり、多数派の人々が議会制民主主義の制度の上で、少数派の人々の権利を奪うことも当然の多数派の権利として理解される。多数決の原理で横行する少数派の権利剥奪(典型的な構造的暴力の例)が無批判に社会で横行することになる。
つまり、国民主権(すべての国民の権利によって国家が運営される政治)は、多数決議会制民主主義だけでは不十分であると考える。つまり、国家の基理念に人権擁護や国際平和主義がなければならないのである。
つまり、国民の多数者による少数者への人権侵害を許すなら、過去、関東大震災時に自警団が在日外国人の虐殺、ナチスがユダヤ人虐殺、現在横行する民族浄化を肯定することになる。国民主権・民主主義とは逆に人権を守る手段であり、独裁者によって過去繰り返された人権弾圧に対する反省の上に成立した政治制度であると理解しなければならない。
人権擁護や平和維持が民主主義の目指す課題であると言える。そのためには、民主主義社会の構造的暴力について理解する必要がある。つまり、議会制民主主義国家で、もし無神経に多数派による少数派の権利剥奪・無視が行われるなら、この国家の民主主義とは「多数者によう独裁」を意味することになる。つまり、民主主義国家の構造的暴力を自覚的に理解する機能を持たない限り、民主主義と呼ばれる国家権力による暴力が生み出されるだろう。
近年、イラク戦争で明らかになったように、我々先進民主主義国家では「独裁政権下で苦しむ国民を解放すると民主主義政治イデオロギーによる戦争や侵略」が当然のように語られる。そして、民主国家の独裁政権国家への軍事的な介入は正義の戦いであると賞賛される。その結果、どれだけ多くの国民が戦禍を受け、命や生活を奪われるかという問題は別の問題とされるのである。これが最も民主主義の進んだアメリカで、そして民主主義(国民主権主義)政治として、その国民に圧倒的に支持されて登場した歴史的事実をどう理解したらいいのか、これが現在の政治思想(哲学)の重要な問題の一つでないのは実に不思議なことである。
民主主義国家での構造的暴力の自覚的点検機能・積極的平和
民主主義社会の最後の戦い、それはその民主主義国家の理念である民主主義とよばれる制度に潜む間接的な暴力「構造的暴力」をその民主主義制度の中で抑止していく社会政治的機能を創ることではないだろうか。この構造的暴力を自覚的に抑制する政治過程をガルトゥングが「積極的平和」と呼んだのではないだろうか。
岡本三夫氏(以後、岡本と呼ぶ)は、ガルトゥングの言う「積極的平和概念の内実は、経済的・政治的安定、基本的人権の尊重、公正な法の執行、政治的自由と政治プロセスへの参加、快適で安全な環境、社会的な調和と秩序、民主的な人間関係、福祉の充実、生き甲斐などであるが、このような平和指標は弾力的である。消極的平和はもっとも狭義に定義された固定的・静的平和概念であり、積極的平和は広義に定義された発展的・動的平和概念だということもできる」(5)と述べている。(6)
国家や社会がそのシステムを維持するために必然的に設定している「構造的暴力」はもっとも強固なものであり、もっとも排除しにくいものである。その暴力装置が引き起こす「人権侵害」の要素を出来るだけ取り除くことが、国際化し多様な民族が共存する現代の民主主義社会の課題となる。
しかし、国家の基本的な機能である「構造的暴力」をその機能から完全に取り除くことは出来ない。では、積極的平和を生み出すためには、社会はその構造的暴力装置に対してその装置が自動的に機能しないよういする対策が必要なのではないだろうか。つまり、社会身体の無意識な暴力的行為を、自覚的(反省的)に理解する社会的機能が必要となる。
民主主義社会では三権分立によって、行政(官僚機構)、立法(国会機能)と司法(裁判機能)の三つの権力を分離し、相互に監視する制度を導入してきた。従って、構造的暴力を抑制するための社会機能を考える際に、これまで民主主義社会の制度の基本であった三権分立制度の在り方、その機能の不十分点や問題点に関する議論が求められる。
つまり、この三権分立制度で、民主主義社会の構造的暴力を抑制するにはどの部分に修正が必要か、さらに、三権分立以外に民主主義社会制度を維持しながらも構造的暴力の横暴を阻止する制度があるのか。現在の民主主義制度の基本構造、三権分立機能のあり方を再点検する作業が求められている。しかし、ここで、この壮大な課題に関する議論展開は出来ない。それは、今後の課題に残すことにしたい。
この節で、述べる課題は、現状の三権分立の民主主義制度の中で可能な構造的暴力装置の自覚的制御機能の課題について述べる。
1、 行政機能、立法機能や司法機能の情報公開 オンブスマン制度支援
2、 市民による国家や行政の事業仕分け参加制度
3、 司法制度の民主化 裁判員制度や検察審議会制度の充実と点検
4、 国民生活センターの充実化、消費者運動支援
5、 国や地方自治体の政策審議過程の情報公開と国民・市民参加制度
6、 国家の外交政策の情報公開(許される範囲での)、市民参加(国際平和活動への)
7、 社会的少数派の政治参加を積極的に進める。例えば、在日外国人の帰化をすすめるために、長期滞在者の地方政治への選挙権・被選挙権(参政権)を与えたる。
8、 社会的弱者の社会活動を積極的に支援する。例えば、障害者、高齢者の社会参加を支援する。女性の出産や産育児支援活動、敗者復活戦を教育機能や就職支援機能に積極的に取り入れる。
9、 経済的弱者の生活活動を積極的に支援する。例えば、失業者の就職支援活動、派遣労働者の雇用条件向上政策、林業、農業や漁業従事者(後継者)の事業支援政策等々
等々
以上、ここに記載したのは数限りない具体的な課題の一部である。そして、社会文化や時代によって、多様で具体的な構造的暴力装置の自覚的制御機能に関する提案がなされるだろう。
社会政策から人権主義政策へ
民主主義社会での「構造的暴力」を抑制する機能を獲得するための政治思想(哲学)について議論する。この議論を行う前に、構造的暴力装置の自覚的制御機能の概念について考える。
現代社会の民主主義社会を推進・展開してきたのは資本主義経済制度であり、その経済制度を支えた社会思想、つまり個人主義と自由思想である。資本主義経済は経済活動の自由、つまり市場経済活動が保障されて成立することは今更述べる必要もない。
資本主義経済を基本とする国家は、資本主義経済によって生じた社会的矛盾、例えば労働者階級と資本家階級の形成、企業の利益追求、勤労者の長時間労働や劣悪な労働条件による労働者階級の貧困化問題等々、機械制大工業が発展した19世紀のヨーロッパ社会では、若年労働者、労働災害や職業病が蔓延した。この労働者の搾取によって企業は莫大な利益をあげ、そして大きく成長し、国家はその企業の経済活動を支援し、他国での市場を開発するための植民地政策を繰り広げ、帝国主義とよばれる侵略型の資本主義経済を形成した。
この時代、長時間、劣悪労働条件によって生じた労働者階級の救済を国家が取り組んだ。その理由は、企業のよる労働者収奪によって労働者の生活や健康が破壊されることは、国家として損失となるからである。つまり、軍隊には健康な男子が必要で、人口を増やすためにも健康な女子が必要であった。(7)そのため、国家は工場法(ビスマルク)や社会保障制度、失業保険や年金制度を作ったのである。
資本主義経済の横暴、つまり資本家階級の利益追求から生じる社会的矛盾を緩和する政策が社会政策であった。社会政策は民主主義社会が成熟していない、初期の資本主義社会で生まれた「構造的暴力」に対する抑制機能である。この機能は資本主義国家の維持のために必要とされた勤労者階級の健康維持であり生活条件の維持であった。
ここで議論しようとしている成熟期の民主主義社会での構造的暴力の自覚的制御機能とは、政策論的には上記した社会政策の延長線上にありながらも、質の異なる課題を提供している。つまり、前者は発展期の資本主義社会での国家の富国強兵の目的で必要とされた健康な男女・国民(国家の資源)の確保を国家中心的な社会政策の課題にしていのであったのが、後者は成熟した資本主義社会での、国民生活の質的向上、人権主義を基本とする社会政策(人権主義政策)が課題となる。
人権主義政策で取られる国内政策は、社会保障制度、弱者救済政策、福祉政策や社会的格差是正政策である。また国外政策は、平和外交、人道支援、環境対策や技術援助等である。
民主主義国家での構造的暴力の自覚的点検抑制する機能は、当然、岡本が述べたように、国家が国外での直接的暴力、つまり軍隊による海外での活動や戦争行為を極力抑制することが前提条件となる。何故なら、直接的暴力を施行する自国民(兵士)の暴力への鈍感な感性によって、国内の直接的暴力の広がりへ連動するからである。その連動によって、アメリカ社会で見られるように、帰国した兵隊による銃乱射事件、社会精神的病理現象を防ぐことは出来ない。その上で、人権主義に基づく国内政策が可能となる。
人権主義政策の政治思想
国家がある以上、構造的暴力は消滅しない。その意味で自由な経済活動を前提としている資本主義、個人主義と民主主義社会では、勤労者の雇用問題、労働条件問題、経済格差問題、消費者問題、家族問題、等々の社会問題は当然生じる。その問題自体が、構造的暴力の一面であり、それによって引き起こされる問題であるとも言える。
例えば、格差問題を考えるとき、格差を是正するために平等主義を持ち込む。しかし、自由を社会の理念にする限り、平等主義と自由主義は必ずしも民主主義の社会では両立しない。自由を制限することで、社会的平等を維持しようとする。すると、その社会は競争力を失うことになる。
保護貿易主義を取れた経済社会では、平等主義を使って国民の経済格差を是正することが出来た。日本の義務教育では徹底した平等主義がある。ヨーロッパの小中学校のように学力の差によって学年編成をしない。年齢によって学年が自動的に決まる。そのため学年教科内容を理解していなくても進級するし、また早くそれを終えても飛び級することはない。そのため、特殊な能力のある子供を育てることは出来ない。
また、これまでの日本社会では賃金格差は殆どなく、社長が社員の賃金の100倍以上の報酬を得ることはなかった。何故なら、高額所得者への税負担は非情に大きかった。それによって、高い給与を得るための努力をしなくなる。
格差社会は、社会に競争力を付けることが出来る。能力に応じて賃金の格差が生じないなら、能力を磨き上げようとする努力は生まれない。資本主義を活性化させるためには、終身雇用制度を廃止し労働市場に自由な競争を取り入れる必要がある。
21世紀の世界の資本主義経済の流れの本流は、市場主義と自由主義である。それによって世界経済は活発化している。この流れを止めることは出来ない。つまり、この流れの中では、現代の民主主義社会での構造的暴力を抑制する機能は十分に働かないだろう。そして人権主義政策も十分評価され、発展するとは思われない。
つまり、ここで課題になる資本主義社会の構造的暴力を抑制する社会機能は、例えば格差を社会的に認め競争力を付けながらも、その格差によって生じる社会矛盾を解決する別の社会的機能を装置する必要がある。賃金格差をなくするのでなく、賃金格差によって生じた社会矛盾にたいして解決する機能、例えば社会福祉制度の充実を作り出す。
また、学力格差によって生じる矛盾に対する解決機能、例えば、アメリカのコミュニティーカレッジのように落第生の社会的な敗者復活戦を準備し、フランスのVAE(社会での経験を学位単位として認める制度)を創り、社会に出てから、仕事しながら、生涯を通じて学ぶことを評価する制度を作る必要がある。
資本主義社会の自然発生的現象、つまり能力による格差の増大は防ぐことが出来ない。それなら、その格差によって生じた矛盾を若干解消する政策、または挑戦し格差是正を自助努力で克服することを奨励する制度を至る所に設定する必要がある。それ以外に、資本主義社会の中で、その社会が根本的に生み出す構造的暴力を解決する手段は見つからないのである。
参考資料
(1)仲野誠 「構造的暴力と平和」 2005年4月18日 鳥取大学 地域学部 地域政策科
http://www.geocities.jp/peace_atsushi/kouzoutekibouryokutoheiwa.htm
岡本三夫「構造的暴力」
平和学のリーダである岡本三夫氏は構造的暴力の概念を「現実における身体的・精神的(自己)実現が、その潜在的実現以下であるような影響を受けているならば、そこには暴力が存在する」と述べている。
http://www.okamotomitsuo.com/jpeacestudies/essays/022meiji2.html
(2)J.ガルトゥング『構造的暴力と平和』高柳先男、塩屋保、酒井由美子訳 中央大学出版部、1991年
(3)池田光穂 「構造的暴力」
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/09violencia_estructura.html
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/100228violencia.html
(4)三石博行「民主化過程と暴力装置機能の変化 社会文化機能としての暴力装置・構造的暴力(2)」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/2.html
(5)岡村三夫 「積極的平和」
http://www.okamotomitsuo.com/jpeacestudies/essays/021meiji1.html
岡本三夫 『平和学その軌跡と展望』、法律文化社、1999年12月
(6)平和学を研究する岡本三夫氏によると、ガルトゥングの言う「積極的平和」概念は「消極的平和」概念を前提に成立しているとも解釈できる。つまり、積極的平和も消極的平和として語られる直接的暴力が起こらない状態、典型的な例として戦争であるが、積極的平和は、戦争がない(消極的平和)を前提にし、それなくしては積極的平和自体の実現が不可能である。つまり、戦争のない状態自体が平和にとって基本的で「積極的な価値」である。暴力を考える上で、最も基本となる課題は平和であり、「戦争の廃絶は依然として人類社会の理想であり続ける」(5)ことは疑いないのである。
(7)風早八十二 『日本社会政策史』 日本評論社、1937年
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2011年2月8日火曜日
拡大するネット交流の彼方 個人情報交換方法の革命的変化の到来
淘汰が始まる二つの機能 仮面の討論mixiと素顔の討論FaceBook
三石博行
謝肉祭の社会的意味
ヨーロッパでは中世からキリスト教の春先に行われるお祭りで、カーナバル・謝肉祭(1)がある。カーニバルでは人々は仮装し街をパレードする行事が行われる。
キリスト教の厳密な教義に従って運営されている中世社会で、年に一回、すべてが許されるお祭りがこの謝肉祭であった。人々は仮面や衣装で仮装しているために、その素性を隠し、日常性から断絶したお祭り(狂気の世界)で自分の欲望を満たすことが出来た。祭りが日常性から隔絶した空間を作る俗と聖が交わる世界を作ると言う意味では、謝肉祭ほどお祭りの意味を我々に教える行事はないだろう。
つまり、抑圧された狂気(生命力)が爆発し、その生命力の爆発によって、それまで長い冬の空を覆っていた秩序を破壊し、春の世界への、つまり新しい世界への再出発を祝うのである。
欲望を日々満たすことのできる現代の自称民主主義社会では、カーニバルは必要ない。何故なら、人々は日常的に狂気を爆発発散させる機会を持っているからである。現代社会で中世から続く祭りはその存在意味を変えない限り存続しえないだろう。つまり、現在のヨーロッパでの謝肉祭は、宗教的意味を失い商業的意味を持つことで、存続していると言える。
現代社会での出会い系サイトの必要性
ネット社会では、出会い系サイトなどで、連日、謝肉祭が営まれている。参加者は、偽名という仮面を被り、名前、住所、職業、性別、年齢まで仮装されている。ただ、その仮面の口から出てくる言葉(文章)のみで、参加者同士のコミュニケーションは成立している。
参加者は殆ど、自分の話している相手が何者か知らない。つまり、何者であってもいいのである。つまり、この会話は自分のためになされている会話であり、相手がその手段に過ぎないといってもおかしくないだろう。
一般にこの出会い系サイト風の、仮面交流会が成立している人々の心情とは
1、 自分の欲望を満たしたいが、満たしたいと思う自分を知られたくない。
2、 殆どが、現実の人間関係よりも、サイト上の仮面交流会の方が人とコミュニケーションしやすい。
これまで、多くの人々が出会い系サイトを活用し、多くの人々が現実の人間関係を結ぶまでサイト上で交流し、またそのサイトによって詐欺に合い、事件に巻き込まれ、最悪のケースとしては財産を奪われ、命を落とす事件に巻き込まれたこともあった。
出会い系サイトで知り合った男に殺されたニュースがテレビで流されてから数年が経過したが、しかし、出会い系サイトに参加する人々が減少した報告はない。つまり、事件への危険性を孕みながらも、そのサイトで欲望を満たされることを望む人々が多くいる。それは否定的な側面でなく、人々が出会いを望み、現実の職場や地域社会では、望む出会いを達成できないが故に出会い系サイトに集まるのである。
民主主義が進み個々人が自分の個性を持ち、自分なりの生き方や自由な生活を送ることが当然と言われる社会で、それを相互に認め合う人々を見つける確率は少なくなるだろう。つまり、多様な個性の数だけ、気に入る出会い可能性は低くなる。当然の現象である。
この民主主義社会、自由が生き方の基本となった社会で、人間達が求める自分に合ったコミュニケーションの場や相手は、もはやネットなしには見つけることは出来ないのかもしれない。
仮面を被ったまじめな議論会 Mixi
2004年2月から始まったmixi は「日本では最も早い時期からサービスを展開しているSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の1つである。」(Wikipedia) 最も日本で普及しているコミュニケーションサイトである。言い方を変えれば、まじめな出会い系サイトを提供している。
Wikipediaによると、mixiの「ユーザー数は2009年9月30日現在、約1,792万人。月間ページビュー(PV)はPC版約45.2億PV、モバイル版約114.4億PV、合計159.6億PVである。また、2006年時点での平均利用時間は3時間29分で日本ドメインでは2位となっている。また、ミクシィの調査によると、男女比率は男性が52.2%、女性が47.8%。年齢層で最も多いのは20~24歳の33.8%、次いで25~29歳が28.4%、30~34歳が17.6%。最終ログインが3日以内のアクティブユーザーの割合は、かつては全ユーザー数の70%を占めていたが、アクティブユーザー率は少しずつ下がり、2007年5月現在は64%である」と言われている。
そして、2010年4月14日現在で2000万人の有効ID数に達している。ネット上で同じテーマを持つ人と出会う場コミュニティの数は、2009年11月29日現在で360万を超えており、「その中で最も多いメンバーを抱えているコミュニティのメンバー数は約45万人である」(Wikipedia)と言われている。
つまり、日本の若者の多くが、mixiで「マイミック」と呼ばれる気に入った相手とのおしゃべりや「コミュニティ」と呼ばれる課題別のグループで、参加者が自由に立ち上げる課題「スレッド」のテーマに自由に参加して議論をすることが出来る。そして、人々は自分の関心ある課題を、一人で自分の家で机に向かいながら、不特定多数の人々と意見交換できる。
mixiの特徴は、参加者が実名を名乗らない、これまでの出会い系サイトの文化、つまり仮面討論会を継承する。そのことによって生じるプラスとマイナスがある。
マイナス面は
1、 実名でないために、相手を個人的に攻撃したり、中傷したりすることが出来る。
2、 コミュニティのスレッドでの議論で、実名でないために、無責任な発言や根拠のない虚偽の発言が簡単に可能になる。
プラス面は
1、 話しをしているのが誰であるかが問題でなく、話された内容のもが、スレッド上で課題となるため、相手の肩書きや年齢に関係なく、スレッドで議論でき、例えば、大学学生が大学教員と対等に話しを進めることが出来る。
2、 つまり、若い人々に思い切った発言を可能にする。
以上、プラスとマイナスの両面から、参加者は議論ではニックネームを使いながらも、プロフィールに自分の実名を記載する人々も多くいる。しかし、実名を記載することは、mixiでは義務ではない。
素顔での出会いと討論の場 FaceBook
FaceBookも2004年にアメリカで、学生向けのサービスを目的にしてハーバード大学で出来たSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)である。「2006年9月26日以降は一般にも開放された。日本語版は2008年に公開。13歳以上であれば無料で参加できる」(Wikipedia)ようになった。「公開後、急速にユーザー数を増やし、2010年にサイトのアクセス数がgoogleを抜いたとして話題になった。2011年現在、世界中に5億人を超えるユーザーを持つ世界最大のSNSになった。そのうち日本国内のユーザー数は約180万人」(Wikipedia)と言われている。
FaceBookでは、実名と写真が公開され、友人の友人がオープンに友人間で紹介され、紹介を受け友人同士がコミュニケーションを行う。また、議題を提案し、議論する場もある。その点ではmixiのサービスの殆どをFaceBookもユーザーに提供している。
FaceBookでは、実名が使われている。そして写真も提供されている。つまり、利用者は素顔で登場する。その点が、mixiと異なる。その違いは、恥ずかしがりやの日本で生まれたか、それとも自分の意見を述べることも、恋人を公募することも別に恥ずかしいとも思わないアメリカで生まれたかの違いなのだろうか。
ネット上での意見交換の時代
mixiやFaceBookの爆発的広がりが意味することは、次の時代のコミュニケーション文化の姿である。つまり、情報化社会が成熟していく21世紀では、多くの人々が、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を活用して、益々日常的に、そして大衆的に同じ興味を持つ人々との出会いや議論した課題でのオープンは意見交換を可能にする。この流れを阻止することは出来ない。
この情報化社会の大衆文化が作り出す社会文化的様相を予測するなら、以下のことが言えるだろう。
1、 選挙は政治的課題について、大衆的な意見交換が可能になる。例えば、今回の北アフリカのチュニジアやエジプトでのデモの呼びかけのような政治的不満に対する大衆的行動が生まれる。
2、 昨年の「ウィキリークス」が行たように、政府の秘密情報が大衆的に暴露され、また日本政府が非公開にした尖閣諸島での中国漁船の衝突事故の映像が放映されるなど、政府は機密情報の隠蔽が技術的に不可能な状態になる。
3、 大学教育の教材がネットで公開されることにより、高等教育情報が大衆的に広がり、多くの人々が知的情報を無料で簡単に入手できる社会が到来する。
4、 学会や専門機関が専門的な学術研究情報をサイト上で公開することで、専門分野に関心を持つ多くの素人が豊富な専門的知識を得る機会が生まれ、科学の大衆化が益々広がる。その結果、専門的分野の研究討論サイトが生まれ、逆に専門家たちがそれに参加してゆく傾向が生じる。そして、学術研究の専門性の壁が次第に取り除かれ、他の分野の専門的な研究情報を簡単に入手できるようになる。
以上、高度情報化社会の大衆化による現象の一部であるが、今後、このような情報文化の形成が急速に進むだろうと思われる。
そして、これらの近未来の具体的な課題に対して、仮面を被った参加者によって進むコミュニケーションと討論の場Mixiと、素顔でそれに挑むFaceBookの二つの異なる文化のどちらが最も適しているか、二つの異なる文化を持つSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の淘汰を掛けた激戦、サービスと社会的機能の進化が生じるだろう。
そのとき、中世の謝肉祭が現代に引き継がれた社会的ニーズに関する要因分析は役に立たないだろうか。
参考資料
(1)謝肉祭 Wikipedia
「カーニバルの語源は、一つにラテン語のカルネ・ウァレ(carne vale、肉よ、さらば)に由来するといわれる。ファストナハトなどは「断食の前夜」の意で、四旬節の断食(大斎)の前に行われる祭りであることを意味する。」 Wikipedia
「謝肉祭は古いゲルマン人の春の到来を喜ぶ祭りに由来し、キリスト教の中に入って、一週間教会の内外で羽目を外した祝祭を繰り返し、その最後に自分たちの狼藉ぶりの責任を大きな藁人形に転嫁して、それを火あぶりにして祭りは閉幕するというのがその原初的なかたちであったという[要出典]。カーニバルの語源は、この農耕祭で船を仮装した山車carrus navalis(車・船の意)を由来とする説もある。」 Wikipedia
しかし「現在はその起源である宗教的な姿を留めず単なる年中行事や観光行事になっている地域も多い。」 Wikipedia
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三石博行
謝肉祭の社会的意味
ヨーロッパでは中世からキリスト教の春先に行われるお祭りで、カーナバル・謝肉祭(1)がある。カーニバルでは人々は仮装し街をパレードする行事が行われる。
キリスト教の厳密な教義に従って運営されている中世社会で、年に一回、すべてが許されるお祭りがこの謝肉祭であった。人々は仮面や衣装で仮装しているために、その素性を隠し、日常性から断絶したお祭り(狂気の世界)で自分の欲望を満たすことが出来た。祭りが日常性から隔絶した空間を作る俗と聖が交わる世界を作ると言う意味では、謝肉祭ほどお祭りの意味を我々に教える行事はないだろう。
つまり、抑圧された狂気(生命力)が爆発し、その生命力の爆発によって、それまで長い冬の空を覆っていた秩序を破壊し、春の世界への、つまり新しい世界への再出発を祝うのである。
欲望を日々満たすことのできる現代の自称民主主義社会では、カーニバルは必要ない。何故なら、人々は日常的に狂気を爆発発散させる機会を持っているからである。現代社会で中世から続く祭りはその存在意味を変えない限り存続しえないだろう。つまり、現在のヨーロッパでの謝肉祭は、宗教的意味を失い商業的意味を持つことで、存続していると言える。
現代社会での出会い系サイトの必要性
ネット社会では、出会い系サイトなどで、連日、謝肉祭が営まれている。参加者は、偽名という仮面を被り、名前、住所、職業、性別、年齢まで仮装されている。ただ、その仮面の口から出てくる言葉(文章)のみで、参加者同士のコミュニケーションは成立している。
参加者は殆ど、自分の話している相手が何者か知らない。つまり、何者であってもいいのである。つまり、この会話は自分のためになされている会話であり、相手がその手段に過ぎないといってもおかしくないだろう。
一般にこの出会い系サイト風の、仮面交流会が成立している人々の心情とは
1、 自分の欲望を満たしたいが、満たしたいと思う自分を知られたくない。
2、 殆どが、現実の人間関係よりも、サイト上の仮面交流会の方が人とコミュニケーションしやすい。
これまで、多くの人々が出会い系サイトを活用し、多くの人々が現実の人間関係を結ぶまでサイト上で交流し、またそのサイトによって詐欺に合い、事件に巻き込まれ、最悪のケースとしては財産を奪われ、命を落とす事件に巻き込まれたこともあった。
出会い系サイトで知り合った男に殺されたニュースがテレビで流されてから数年が経過したが、しかし、出会い系サイトに参加する人々が減少した報告はない。つまり、事件への危険性を孕みながらも、そのサイトで欲望を満たされることを望む人々が多くいる。それは否定的な側面でなく、人々が出会いを望み、現実の職場や地域社会では、望む出会いを達成できないが故に出会い系サイトに集まるのである。
民主主義が進み個々人が自分の個性を持ち、自分なりの生き方や自由な生活を送ることが当然と言われる社会で、それを相互に認め合う人々を見つける確率は少なくなるだろう。つまり、多様な個性の数だけ、気に入る出会い可能性は低くなる。当然の現象である。
この民主主義社会、自由が生き方の基本となった社会で、人間達が求める自分に合ったコミュニケーションの場や相手は、もはやネットなしには見つけることは出来ないのかもしれない。
仮面を被ったまじめな議論会 Mixi
2004年2月から始まったmixi は「日本では最も早い時期からサービスを展開しているSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の1つである。」(Wikipedia) 最も日本で普及しているコミュニケーションサイトである。言い方を変えれば、まじめな出会い系サイトを提供している。
Wikipediaによると、mixiの「ユーザー数は2009年9月30日現在、約1,792万人。月間ページビュー(PV)はPC版約45.2億PV、モバイル版約114.4億PV、合計159.6億PVである。また、2006年時点での平均利用時間は3時間29分で日本ドメインでは2位となっている。また、ミクシィの調査によると、男女比率は男性が52.2%、女性が47.8%。年齢層で最も多いのは20~24歳の33.8%、次いで25~29歳が28.4%、30~34歳が17.6%。最終ログインが3日以内のアクティブユーザーの割合は、かつては全ユーザー数の70%を占めていたが、アクティブユーザー率は少しずつ下がり、2007年5月現在は64%である」と言われている。
そして、2010年4月14日現在で2000万人の有効ID数に達している。ネット上で同じテーマを持つ人と出会う場コミュニティの数は、2009年11月29日現在で360万を超えており、「その中で最も多いメンバーを抱えているコミュニティのメンバー数は約45万人である」(Wikipedia)と言われている。
つまり、日本の若者の多くが、mixiで「マイミック」と呼ばれる気に入った相手とのおしゃべりや「コミュニティ」と呼ばれる課題別のグループで、参加者が自由に立ち上げる課題「スレッド」のテーマに自由に参加して議論をすることが出来る。そして、人々は自分の関心ある課題を、一人で自分の家で机に向かいながら、不特定多数の人々と意見交換できる。
mixiの特徴は、参加者が実名を名乗らない、これまでの出会い系サイトの文化、つまり仮面討論会を継承する。そのことによって生じるプラスとマイナスがある。
マイナス面は
1、 実名でないために、相手を個人的に攻撃したり、中傷したりすることが出来る。
2、 コミュニティのスレッドでの議論で、実名でないために、無責任な発言や根拠のない虚偽の発言が簡単に可能になる。
プラス面は
1、 話しをしているのが誰であるかが問題でなく、話された内容のもが、スレッド上で課題となるため、相手の肩書きや年齢に関係なく、スレッドで議論でき、例えば、大学学生が大学教員と対等に話しを進めることが出来る。
2、 つまり、若い人々に思い切った発言を可能にする。
以上、プラスとマイナスの両面から、参加者は議論ではニックネームを使いながらも、プロフィールに自分の実名を記載する人々も多くいる。しかし、実名を記載することは、mixiでは義務ではない。
素顔での出会いと討論の場 FaceBook
FaceBookも2004年にアメリカで、学生向けのサービスを目的にしてハーバード大学で出来たSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)である。「2006年9月26日以降は一般にも開放された。日本語版は2008年に公開。13歳以上であれば無料で参加できる」(Wikipedia)ようになった。「公開後、急速にユーザー数を増やし、2010年にサイトのアクセス数がgoogleを抜いたとして話題になった。2011年現在、世界中に5億人を超えるユーザーを持つ世界最大のSNSになった。そのうち日本国内のユーザー数は約180万人」(Wikipedia)と言われている。
FaceBookでは、実名と写真が公開され、友人の友人がオープンに友人間で紹介され、紹介を受け友人同士がコミュニケーションを行う。また、議題を提案し、議論する場もある。その点ではmixiのサービスの殆どをFaceBookもユーザーに提供している。
FaceBookでは、実名が使われている。そして写真も提供されている。つまり、利用者は素顔で登場する。その点が、mixiと異なる。その違いは、恥ずかしがりやの日本で生まれたか、それとも自分の意見を述べることも、恋人を公募することも別に恥ずかしいとも思わないアメリカで生まれたかの違いなのだろうか。
ネット上での意見交換の時代
mixiやFaceBookの爆発的広がりが意味することは、次の時代のコミュニケーション文化の姿である。つまり、情報化社会が成熟していく21世紀では、多くの人々が、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を活用して、益々日常的に、そして大衆的に同じ興味を持つ人々との出会いや議論した課題でのオープンは意見交換を可能にする。この流れを阻止することは出来ない。
この情報化社会の大衆文化が作り出す社会文化的様相を予測するなら、以下のことが言えるだろう。
1、 選挙は政治的課題について、大衆的な意見交換が可能になる。例えば、今回の北アフリカのチュニジアやエジプトでのデモの呼びかけのような政治的不満に対する大衆的行動が生まれる。
2、 昨年の「ウィキリークス」が行たように、政府の秘密情報が大衆的に暴露され、また日本政府が非公開にした尖閣諸島での中国漁船の衝突事故の映像が放映されるなど、政府は機密情報の隠蔽が技術的に不可能な状態になる。
3、 大学教育の教材がネットで公開されることにより、高等教育情報が大衆的に広がり、多くの人々が知的情報を無料で簡単に入手できる社会が到来する。
4、 学会や専門機関が専門的な学術研究情報をサイト上で公開することで、専門分野に関心を持つ多くの素人が豊富な専門的知識を得る機会が生まれ、科学の大衆化が益々広がる。その結果、専門的分野の研究討論サイトが生まれ、逆に専門家たちがそれに参加してゆく傾向が生じる。そして、学術研究の専門性の壁が次第に取り除かれ、他の分野の専門的な研究情報を簡単に入手できるようになる。
以上、高度情報化社会の大衆化による現象の一部であるが、今後、このような情報文化の形成が急速に進むだろうと思われる。
そして、これらの近未来の具体的な課題に対して、仮面を被った参加者によって進むコミュニケーションと討論の場Mixiと、素顔でそれに挑むFaceBookの二つの異なる文化のどちらが最も適しているか、二つの異なる文化を持つSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の淘汰を掛けた激戦、サービスと社会的機能の進化が生じるだろう。
そのとき、中世の謝肉祭が現代に引き継がれた社会的ニーズに関する要因分析は役に立たないだろうか。
参考資料
(1)謝肉祭 Wikipedia
「カーニバルの語源は、一つにラテン語のカルネ・ウァレ(carne vale、肉よ、さらば)に由来するといわれる。ファストナハトなどは「断食の前夜」の意で、四旬節の断食(大斎)の前に行われる祭りであることを意味する。」 Wikipedia
「謝肉祭は古いゲルマン人の春の到来を喜ぶ祭りに由来し、キリスト教の中に入って、一週間教会の内外で羽目を外した祝祭を繰り返し、その最後に自分たちの狼藉ぶりの責任を大きな藁人形に転嫁して、それを火あぶりにして祭りは閉幕するというのがその原初的なかたちであったという[要出典]。カーニバルの語源は、この農耕祭で船を仮装した山車carrus navalis(車・船の意)を由来とする説もある。」 Wikipedia
しかし「現在はその起源である宗教的な姿を留めず単なる年中行事や観光行事になっている地域も多い。」 Wikipedia
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今村仁司のソレル暴力論の解釈
塚原史論文「今村仁司の暴力論の系譜」のテキスト批評
三石博行
塚原史氏の「暴力論の系譜」
デリダや今村仁司氏(以後、今村と書く)の暴力論の背景に、ジョージ・ソレル(George Sorel)(1)がいる。そこで、今回は塚原史氏(以後、塚原と書く)が書いた「暴力論の系譜 –今村仁司とジュルジュ・ソレル-」(TSUKfu 08a)(2)を参考にしながら、今村のG.ソレルの暴力論の解釈や暴力概念について述べる。
塚原は今村と共に、2007年にG.ソレルの『暴力論』(上・下)の新訳版を岩波書店から出版した(3)。塚原は今村とソレルの『暴力論』を翻訳したという研究活動の背景がある。その意味で、今村とソレルに関する塚原の批評は信頼できると言える。
ソレルの暴力概念・革命の仕掛・神話に糧を与えるもの
塚原は、暴力概念の展開でソレルは「暴力という社会現象を理性的に解明しようということから始まって」 (TSUKfu 08a p87)、さらに,その暴力の解明が「神話(mythe)」という発想にたどり着くことになる。しかし、「ここで(ソレルの言う),神話とは,通常の意味合いとは異なり「現実に働きかける手段」(同上)であり「現代社会に対して社会主義が仕掛ける戦争」(同上)つまり(ソレルの言う)「ゼネスト」のイメージの「組織化」である。」(同上)
言い換えると、「この意味での神話は「預言」ではないのであり,それが実現するかどうかは偶然ではなく,労働者ひとりひとりのモラルの問題であり,社会を新しい段階へ導くための思想装置としての神話の役割を,ソレルは強調している」(同上)と塚原は述べている。
そして「その神話に糧を与えるものがviolence なのだから」,このソレルの暴力という社会現象(神話)は「物質的な力であると同時に,精神的な力でもあるということになる。」(同上)つまり「この(ソレルの暴力概念の)発想には,ベルクソンの「生の躍動élan vital」の影響を見出すこともできるだろう」(同上)と塚原は述べている
ソレルの「force」 と「violence」から
また、今村が著書『暴力のオントロギー』(4)で取り上げられている暴力は,「社会形成に内在する暴力(荒ぶる力)」( IMAMhi 82A p151)であり、「支配者の物理的暴力に通じる点では,むしろソレルの言うforce 」(TSUKfu 08a p88)つまり、権力に近い概念であると言える。
つまり、「この時期の今村の「暴力論」は,ソレルがviolence の概念に託した意志やモラルとはかけ離れた,まさに「荒ぶる力」を土台に構想されていたと考えられる。」(同上)そして、今村が「この「荒ぶる力」としての暴力と社会の関係をさらに詳細に論じたのが『排除の構造』(5)であると塚原は述べている。(TSUKfu 08a p88)
そして、塚原によると今村の「ソレルにおけるゼネストの「暴力」は理念としてはviolence だが,経験的にはforce(権力の強制力)に通じるものになってしまうと読むことができる。」
そこで塚原は今村の「暴力概念とソレルのviolence 概念との本質的な差異に気づかされることになった」(TSUKfu 08a p89)。つまり、今村にとって,「暴力とはとりわけ破壊と殺戮の力」である。(TSUKfu 08a p89)今村は、暴力に関する我々の理解は「精神と身体を,自然よりも病気よりも,迅速に効率よく殺すことができるという経験的事実のみ」(6)から来ると述べている。つまり、暴力とは神話的存在である。そして、我々は現実の社会や歴史で繰り返される破壊と殺戮、そして絶対的無の現実・死、生からするとイメージの世界、その生と死の世界を繋ぐ物語、暴力はその物語に欠かせない存在なのである。絶対的無の現実を語る物語つまり神話が暴力の意味付けを行うのである。
現代社会の暴力、例えば革命は、既成のすべての秩序を破壊し新たな秩序を構築する巨大な力である。その意味で、「まさに暴力(violence)から,社会主義は高度の道徳的諸価値を引き出さなくてはならない。この道徳的価値によって,社会主義は現代世界に救済をもたらすのである」(TSUKfu 08a p90)という神話の上にその革命の暴力は肯定され崇拝される。
「その(革命・暴力の)助けなしにはけっして道徳が存在しえない熱狂を今日生み出す力(force)はひとつしかない。それはゼネストのためのプロパガンダから生じる力(force)である」(ここでforce とは,もちろんブルジョワジーの強制力の意ではなくて,プロレタリアートのエネルギーの表出としての「力」の意で用いられている)。つまり,ゼネストの熱狂がもたらす崇高感こそが現代的な道徳の源泉であり,ゼネストをつうじた真の社会主義の実現の過程で,高度な道徳的価値が生まれると,ソレルは予見し,期待していたのだった。」(TSUKfu 08a p90)
誕生と死、破壊と創造、侵略と増殖、構築と脱構築、この二つの世界の連鎖は生命力によって生み出される。生命力とは破壊力と構築力、つまりその生命運動を生み出すものとしてソレルの暴力の概念ある。暴力(violence)とは生命活動によって生み出されたものであると言える。その社会や文化的現象を力(force)として我々は理解する。つまり、生命体のエネルギーのように下から湧き上がるものが暴力である。その逆に力は生命体に上から浴びせられる圧力である。我々の世界は、「下からのviolence(暴力)」と「上からのforce(強制力)」によって構築され運動している。
言い換えると、権力・force(力) は生命運動violence(暴力)の物象化現象であると言える。暴力の世界によって生命活動があり、その活動によって生産された社会や文化が生命活動を抑制し強制する。つまり、生命活動(暴力)は社会的抑制(力)によって規定される。その規定条件を破壊するとき、生命活動(暴力)その本性をあらわにし、新しい規則性(力)を構築するのである。
今村のソレル解釈
そのソレルの暴力概念を今村は6つに分類している。(TSUKfu 08a p90)
「(1)意志としてのviolence(生の飛躍,激しく充実して生きようとする意志)
(2)行動のなかでのみ生きる観念としてのviolence(「神話」,ホメロス的叙事詩)
(3)創造する力としてのviolence(「自由な人間」を創造する力,努力)
(4)モラルとしてのviolence(自己犠牲,献身,ヒロイズム)
(5)労働あるいは生産としてのviolence(生命の飛躍の先鋭的表現としての労働)
(6)徳(vertu)としてのviolence(革命的ゼネストで発揮される人間的徳=勇気)」
(同上)
この今村の6つの分類に関して塚原は「(今村が行ったソレルの暴力概念に関する)以上の(6つの)分類は,必ずしもソレル原文どおりではない」と言っている。しかし、その今村の解釈は「物理的力や権力の強制力(force)とは次元の異なる概念として(ソレルの)violence を再評価しようという試みとして,意味深いものである(この分類は岩波文庫版『暴力論』新訳下巻「解説」中でも,ほぼそのまま繰り返されている)」(同上)と塚原は評価している。つまり、今村のソレルの6つの暴力概念の分類は今村自身のソレル解釈から来た暴力論の展開であると塚原は解釈した。
その今村のソレルの暴力論の解釈の経過は今村自身の暴力論研究の系譜に負うものであると塚原は述べている。つまり、今村のソレル解釈過程で、今村はそれまでの研究から帰結してきた暴力概念をさらに展開した。
例えば、ソレルの暴力と力の次元と異なる概念を前提にしてさらに今村の暴力論を解説してゆく。つまり、今村の言う「ゼネストのviolence が権力のforce に変化することの危険性を指摘していたが,このベンヤミン論中でも」今村は「violence は,物理的強制力という意味での暴力すなわちforce を解体する力なのである。まさにこの論点が,すでに自己の歴史哲学の構想を確立していたベンヤミンと共鳴しあう。」(TSUKfu 08a p90)
つまり、今村は『排除の構造』(7)で,「ゼネストのviolence が権力のforce に変化することの危険性を指摘していたが,このベンヤミン論中でも」(TSUKfu 08a p90)、今村の文章では「violence は,物理的強制力という意味での暴力すなわちforce を解体する力なのである。まさにこの論点が,すでに自己の歴史哲学の構想を確立していたベンヤミンと共鳴しあう」(7)と述べたと塚原は指摘し、今村の暴力論の背景を解説している。
今村の「ソレルの暴力概念を精神的な領域に属するものとしてとらえようとするこの見解は,死後出版となった『社会性の哲学』でも繰り返されており」(TSUKfu 08a p90)、そこでは今村は「ソレルの暴力は,ベルグソンのエラン・ヴィタル,ニーチェの《力への意志》に近い一種の精神的・モラル的力であった」(8)と述べている。(TSUKfu 08a pp90-91)
つまり、塚原は今村が「1980 年代までの「破壊と殺戮の力」としての「暴力」概念を問いなおす過程で,ベンヤミンをつうじてソレル『暴力論』に再接近し,そこに「残忍な強制力」としてのブルジョワジーの力の行使force をプロレタリアのゼネストの暴力violence,つまり戦闘の力で解体するという意味での「非暴力」の思想を見出したのではなかっただろうか」と考えた。(TSUKfu 08a p92)
何故なら、今村は「ベンヤミンのソレルの読み方のみが正しい」(TSUKfu 08a p92)と考え、ソレルのviolence を「意志やモラルや神話といった思想や感性として解釈」(同上)することで、「いわば「実力行使」としてのゼネスト理解から遠ざかってしまった。」(同上)塚原の今村のソレル暴力論の解釈は今村が影響されベンヤミンのソレル解釈を前提とすることになったと述べている。
問われる現代社会・増幅する抑圧と縮小する生命力
現代社会で、再び暴力の概念が問われている。何故なら、高度に進歩してゆく科学技術文明社会、高度な専門的知識を土台に成立する生産活動、情報化社会によって成立する経済流通、コミュニケーション、外交、情報伝達、益々進みつつある国際化、力のある様式や思想によって排除される多くの弱小少数派、世界の均一化、未来への流れ、それを支え推進する巨大な強制力(force)、つまり、科学技術社会、情報化社会、国際化社会のすべての未来社会は、この強制力を必要とし、その力で湧き上がる反対勢力(イスラム原理主義やオーム真理教など)を監視し抑圧し続ける。そして、過剰に進む管理社会の展開、目に見えない強制力を張り巡らし、人々を監視する社会によって、人々は自由さを喪失してゆく。
つまり、そのことと塚原は現代社会の現実として訴えている。
つまり、「ソレルの用語を使えば上からのforce(強制力)と下からのviolence(暴力)の関係が,とりわけ9 ・11 以後大きく変化して,一方では管理社会・監視社会の過剰な展開によってforce が体制維持のための強大な抑止力として機能し,とりわけ私たちの国では,労働現場や街頭や大学のキャンパスから意思表示の行動としてのviolence が姿を消しつつある一方で,force の行使が多元化,多様化して,たとえば最近の身近な例で言えば,相撲部屋での新人力士への死にいたる暴力や,ミャンマーで日本人ジャーナリスト(東経大卒業生,長井健司氏)を射殺した暴力,あるいは無抵抗な子どもを刺し殺す暴力など,強者からの残忍な暴力が弱者へと向かっていく傾向があると思われる。ソレル的プロレタリア暴力の消滅あるいは希少化と,モラルなき粗暴な「暴力」の過剰が,同時に進行しているわけである。」(TSUKfu 08a p92-93)
以上、塚原の今村のソレルの暴力論の解釈を述べ、さらにその解釈にたって生じる現代社会での暴力の課題に触れた。
今村ソレル暴力論の今後の展開課題
今村のソレル解釈にそって、暴力を生命力とし、社会機能の根源的エネルギーとすることで、暴力論に二つの方向が見えてくる。
1、 ソレルの暴力論は、社会構造-機能の動態運動の基本に暴力概念を置くことによって、生命力モデルを導入した社会学理論、つまり生の哲学に基づく社会学理論が展開する可能性を持った。
2、 ヨハン・ガルトゥングの構造的暴力の基盤にソレルの暴力、つまり社会の基盤構造の下から湧き上がるviolence(暴力)を解釈する可能性が生まれる。(9)
3、 今村がデリダの暴力論の解釈から導く人間存在の世界了解作業の基本にある「根源分割」とソレルの暴力の6つの概念、中でも「意志としてのviolence」としての暴力の概念との関係が問われる。(10)
参考資料
(1)「ジョルジュ・ソレル」Wikipedia
ソレルは19世紀後半から20世紀初頭に掛けて活躍したフランス人哲学者・社会理論家であると紹介されている。彼は、当時のマルクス主義に修正を加え、革命的労働運動の理論化として有名である
(2)塚原史 「暴力論の系譜 –今村仁司とジュルジュ・ソレル-」 東京経大学会誌 経済学 (259), 83-94, 2008年3月、pp.83-94 文献コート番号(TSUKfu 08a)
http://www.tku.ac.jp/kiyou/contents/economics/259/083_tukahara.pdf
(3)『暴力論(上・下)』今村仁司、塚原史訳、岩波文庫、新訳版2007年
(4)今村仁司 『暴力のオントロギー』勁草書房,1982 年,212p. 文献コート番号( IMAMhi 82A)
(5)今村仁司 『ベンヤミンの〈問い〉』講談社,1995 年,270p. 文献コート番号( IMAMhi 95A)
(6) 今村仁司 『理性と権力』、勁草書房,1990 年
(7)今村仁司『排除の構造 : 力の一般経済序説 』 青土社、 1985 文献コート番号( IMAMhi 85A)
(8)今村仁司『社会性の哲学』 岩波書店、2007 年、286p
(9)「非暴力主義かそれとも暴力による暴力抑止主義か -社会文化機能としての暴力装置・構造的暴力 (1)-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_20.html
「民主化過程と暴力装置機能の変化 -社会文化機能としての暴力装置・構造的暴力(2)-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/2.html
(10)「暴力の起源と原初的生存活動・一次ナルシズム的形態 今村仁司氏の講演「暴力以前の力 暴力の起源」のテキスト批評-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post.html
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三石博行
塚原史氏の「暴力論の系譜」
デリダや今村仁司氏(以後、今村と書く)の暴力論の背景に、ジョージ・ソレル(George Sorel)(1)がいる。そこで、今回は塚原史氏(以後、塚原と書く)が書いた「暴力論の系譜 –今村仁司とジュルジュ・ソレル-」(TSUKfu 08a)(2)を参考にしながら、今村のG.ソレルの暴力論の解釈や暴力概念について述べる。
塚原は今村と共に、2007年にG.ソレルの『暴力論』(上・下)の新訳版を岩波書店から出版した(3)。塚原は今村とソレルの『暴力論』を翻訳したという研究活動の背景がある。その意味で、今村とソレルに関する塚原の批評は信頼できると言える。
ソレルの暴力概念・革命の仕掛・神話に糧を与えるもの
塚原は、暴力概念の展開でソレルは「暴力という社会現象を理性的に解明しようということから始まって」 (TSUKfu 08a p87)、さらに,その暴力の解明が「神話(mythe)」という発想にたどり着くことになる。しかし、「ここで(ソレルの言う),神話とは,通常の意味合いとは異なり「現実に働きかける手段」(同上)であり「現代社会に対して社会主義が仕掛ける戦争」(同上)つまり(ソレルの言う)「ゼネスト」のイメージの「組織化」である。」(同上)
言い換えると、「この意味での神話は「預言」ではないのであり,それが実現するかどうかは偶然ではなく,労働者ひとりひとりのモラルの問題であり,社会を新しい段階へ導くための思想装置としての神話の役割を,ソレルは強調している」(同上)と塚原は述べている。
そして「その神話に糧を与えるものがviolence なのだから」,このソレルの暴力という社会現象(神話)は「物質的な力であると同時に,精神的な力でもあるということになる。」(同上)つまり「この(ソレルの暴力概念の)発想には,ベルクソンの「生の躍動élan vital」の影響を見出すこともできるだろう」(同上)と塚原は述べている
ソレルの「force」 と「violence」から
また、今村が著書『暴力のオントロギー』(4)で取り上げられている暴力は,「社会形成に内在する暴力(荒ぶる力)」( IMAMhi 82A p151)であり、「支配者の物理的暴力に通じる点では,むしろソレルの言うforce 」(TSUKfu 08a p88)つまり、権力に近い概念であると言える。
つまり、「この時期の今村の「暴力論」は,ソレルがviolence の概念に託した意志やモラルとはかけ離れた,まさに「荒ぶる力」を土台に構想されていたと考えられる。」(同上)そして、今村が「この「荒ぶる力」としての暴力と社会の関係をさらに詳細に論じたのが『排除の構造』(5)であると塚原は述べている。(TSUKfu 08a p88)
そして、塚原によると今村の「ソレルにおけるゼネストの「暴力」は理念としてはviolence だが,経験的にはforce(権力の強制力)に通じるものになってしまうと読むことができる。」
そこで塚原は今村の「暴力概念とソレルのviolence 概念との本質的な差異に気づかされることになった」(TSUKfu 08a p89)。つまり、今村にとって,「暴力とはとりわけ破壊と殺戮の力」である。(TSUKfu 08a p89)今村は、暴力に関する我々の理解は「精神と身体を,自然よりも病気よりも,迅速に効率よく殺すことができるという経験的事実のみ」(6)から来ると述べている。つまり、暴力とは神話的存在である。そして、我々は現実の社会や歴史で繰り返される破壊と殺戮、そして絶対的無の現実・死、生からするとイメージの世界、その生と死の世界を繋ぐ物語、暴力はその物語に欠かせない存在なのである。絶対的無の現実を語る物語つまり神話が暴力の意味付けを行うのである。
現代社会の暴力、例えば革命は、既成のすべての秩序を破壊し新たな秩序を構築する巨大な力である。その意味で、「まさに暴力(violence)から,社会主義は高度の道徳的諸価値を引き出さなくてはならない。この道徳的価値によって,社会主義は現代世界に救済をもたらすのである」(TSUKfu 08a p90)という神話の上にその革命の暴力は肯定され崇拝される。
「その(革命・暴力の)助けなしにはけっして道徳が存在しえない熱狂を今日生み出す力(force)はひとつしかない。それはゼネストのためのプロパガンダから生じる力(force)である」(ここでforce とは,もちろんブルジョワジーの強制力の意ではなくて,プロレタリアートのエネルギーの表出としての「力」の意で用いられている)。つまり,ゼネストの熱狂がもたらす崇高感こそが現代的な道徳の源泉であり,ゼネストをつうじた真の社会主義の実現の過程で,高度な道徳的価値が生まれると,ソレルは予見し,期待していたのだった。」(TSUKfu 08a p90)
誕生と死、破壊と創造、侵略と増殖、構築と脱構築、この二つの世界の連鎖は生命力によって生み出される。生命力とは破壊力と構築力、つまりその生命運動を生み出すものとしてソレルの暴力の概念ある。暴力(violence)とは生命活動によって生み出されたものであると言える。その社会や文化的現象を力(force)として我々は理解する。つまり、生命体のエネルギーのように下から湧き上がるものが暴力である。その逆に力は生命体に上から浴びせられる圧力である。我々の世界は、「下からのviolence(暴力)」と「上からのforce(強制力)」によって構築され運動している。
言い換えると、権力・force(力) は生命運動violence(暴力)の物象化現象であると言える。暴力の世界によって生命活動があり、その活動によって生産された社会や文化が生命活動を抑制し強制する。つまり、生命活動(暴力)は社会的抑制(力)によって規定される。その規定条件を破壊するとき、生命活動(暴力)その本性をあらわにし、新しい規則性(力)を構築するのである。
今村のソレル解釈
そのソレルの暴力概念を今村は6つに分類している。(TSUKfu 08a p90)
「(1)意志としてのviolence(生の飛躍,激しく充実して生きようとする意志)
(2)行動のなかでのみ生きる観念としてのviolence(「神話」,ホメロス的叙事詩)
(3)創造する力としてのviolence(「自由な人間」を創造する力,努力)
(4)モラルとしてのviolence(自己犠牲,献身,ヒロイズム)
(5)労働あるいは生産としてのviolence(生命の飛躍の先鋭的表現としての労働)
(6)徳(vertu)としてのviolence(革命的ゼネストで発揮される人間的徳=勇気)」
(同上)
この今村の6つの分類に関して塚原は「(今村が行ったソレルの暴力概念に関する)以上の(6つの)分類は,必ずしもソレル原文どおりではない」と言っている。しかし、その今村の解釈は「物理的力や権力の強制力(force)とは次元の異なる概念として(ソレルの)violence を再評価しようという試みとして,意味深いものである(この分類は岩波文庫版『暴力論』新訳下巻「解説」中でも,ほぼそのまま繰り返されている)」(同上)と塚原は評価している。つまり、今村のソレルの6つの暴力概念の分類は今村自身のソレル解釈から来た暴力論の展開であると塚原は解釈した。
その今村のソレルの暴力論の解釈の経過は今村自身の暴力論研究の系譜に負うものであると塚原は述べている。つまり、今村のソレル解釈過程で、今村はそれまでの研究から帰結してきた暴力概念をさらに展開した。
例えば、ソレルの暴力と力の次元と異なる概念を前提にしてさらに今村の暴力論を解説してゆく。つまり、今村の言う「ゼネストのviolence が権力のforce に変化することの危険性を指摘していたが,このベンヤミン論中でも」今村は「violence は,物理的強制力という意味での暴力すなわちforce を解体する力なのである。まさにこの論点が,すでに自己の歴史哲学の構想を確立していたベンヤミンと共鳴しあう。」(TSUKfu 08a p90)
つまり、今村は『排除の構造』(7)で,「ゼネストのviolence が権力のforce に変化することの危険性を指摘していたが,このベンヤミン論中でも」(TSUKfu 08a p90)、今村の文章では「violence は,物理的強制力という意味での暴力すなわちforce を解体する力なのである。まさにこの論点が,すでに自己の歴史哲学の構想を確立していたベンヤミンと共鳴しあう」(7)と述べたと塚原は指摘し、今村の暴力論の背景を解説している。
今村の「ソレルの暴力概念を精神的な領域に属するものとしてとらえようとするこの見解は,死後出版となった『社会性の哲学』でも繰り返されており」(TSUKfu 08a p90)、そこでは今村は「ソレルの暴力は,ベルグソンのエラン・ヴィタル,ニーチェの《力への意志》に近い一種の精神的・モラル的力であった」(8)と述べている。(TSUKfu 08a pp90-91)
つまり、塚原は今村が「1980 年代までの「破壊と殺戮の力」としての「暴力」概念を問いなおす過程で,ベンヤミンをつうじてソレル『暴力論』に再接近し,そこに「残忍な強制力」としてのブルジョワジーの力の行使force をプロレタリアのゼネストの暴力violence,つまり戦闘の力で解体するという意味での「非暴力」の思想を見出したのではなかっただろうか」と考えた。(TSUKfu 08a p92)
何故なら、今村は「ベンヤミンのソレルの読み方のみが正しい」(TSUKfu 08a p92)と考え、ソレルのviolence を「意志やモラルや神話といった思想や感性として解釈」(同上)することで、「いわば「実力行使」としてのゼネスト理解から遠ざかってしまった。」(同上)塚原の今村のソレル暴力論の解釈は今村が影響されベンヤミンのソレル解釈を前提とすることになったと述べている。
問われる現代社会・増幅する抑圧と縮小する生命力
現代社会で、再び暴力の概念が問われている。何故なら、高度に進歩してゆく科学技術文明社会、高度な専門的知識を土台に成立する生産活動、情報化社会によって成立する経済流通、コミュニケーション、外交、情報伝達、益々進みつつある国際化、力のある様式や思想によって排除される多くの弱小少数派、世界の均一化、未来への流れ、それを支え推進する巨大な強制力(force)、つまり、科学技術社会、情報化社会、国際化社会のすべての未来社会は、この強制力を必要とし、その力で湧き上がる反対勢力(イスラム原理主義やオーム真理教など)を監視し抑圧し続ける。そして、過剰に進む管理社会の展開、目に見えない強制力を張り巡らし、人々を監視する社会によって、人々は自由さを喪失してゆく。
つまり、そのことと塚原は現代社会の現実として訴えている。
つまり、「ソレルの用語を使えば上からのforce(強制力)と下からのviolence(暴力)の関係が,とりわけ9 ・11 以後大きく変化して,一方では管理社会・監視社会の過剰な展開によってforce が体制維持のための強大な抑止力として機能し,とりわけ私たちの国では,労働現場や街頭や大学のキャンパスから意思表示の行動としてのviolence が姿を消しつつある一方で,force の行使が多元化,多様化して,たとえば最近の身近な例で言えば,相撲部屋での新人力士への死にいたる暴力や,ミャンマーで日本人ジャーナリスト(東経大卒業生,長井健司氏)を射殺した暴力,あるいは無抵抗な子どもを刺し殺す暴力など,強者からの残忍な暴力が弱者へと向かっていく傾向があると思われる。ソレル的プロレタリア暴力の消滅あるいは希少化と,モラルなき粗暴な「暴力」の過剰が,同時に進行しているわけである。」(TSUKfu 08a p92-93)
以上、塚原の今村のソレルの暴力論の解釈を述べ、さらにその解釈にたって生じる現代社会での暴力の課題に触れた。
今村ソレル暴力論の今後の展開課題
今村のソレル解釈にそって、暴力を生命力とし、社会機能の根源的エネルギーとすることで、暴力論に二つの方向が見えてくる。
1、 ソレルの暴力論は、社会構造-機能の動態運動の基本に暴力概念を置くことによって、生命力モデルを導入した社会学理論、つまり生の哲学に基づく社会学理論が展開する可能性を持った。
2、 ヨハン・ガルトゥングの構造的暴力の基盤にソレルの暴力、つまり社会の基盤構造の下から湧き上がるviolence(暴力)を解釈する可能性が生まれる。(9)
3、 今村がデリダの暴力論の解釈から導く人間存在の世界了解作業の基本にある「根源分割」とソレルの暴力の6つの概念、中でも「意志としてのviolence」としての暴力の概念との関係が問われる。(10)
参考資料
(1)「ジョルジュ・ソレル」Wikipedia
ソレルは19世紀後半から20世紀初頭に掛けて活躍したフランス人哲学者・社会理論家であると紹介されている。彼は、当時のマルクス主義に修正を加え、革命的労働運動の理論化として有名である
(2)塚原史 「暴力論の系譜 –今村仁司とジュルジュ・ソレル-」 東京経大学会誌 経済学 (259), 83-94, 2008年3月、pp.83-94 文献コート番号(TSUKfu 08a)
http://www.tku.ac.jp/kiyou/contents/economics/259/083_tukahara.pdf
(3)『暴力論(上・下)』今村仁司、塚原史訳、岩波文庫、新訳版2007年
(4)今村仁司 『暴力のオントロギー』勁草書房,1982 年,212p. 文献コート番号( IMAMhi 82A)
(5)今村仁司 『ベンヤミンの〈問い〉』講談社,1995 年,270p. 文献コート番号( IMAMhi 95A)
(6) 今村仁司 『理性と権力』、勁草書房,1990 年
(7)今村仁司『排除の構造 : 力の一般経済序説 』 青土社、 1985 文献コート番号( IMAMhi 85A)
(8)今村仁司『社会性の哲学』 岩波書店、2007 年、286p
(9)「非暴力主義かそれとも暴力による暴力抑止主義か -社会文化機能としての暴力装置・構造的暴力 (1)-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_20.html
「民主化過程と暴力装置機能の変化 -社会文化機能としての暴力装置・構造的暴力(2)-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/2.html
(10)「暴力の起源と原初的生存活動・一次ナルシズム的形態 今村仁司氏の講演「暴力以前の力 暴力の起源」のテキスト批評-」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post.html
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2011年2月7日月曜日
河村氏当選の意味 地方から生まれる民主主義政治の潮流
ネット上での国民的な政策議論と地方政治変革の議論形成を
三石博行
世襲化した議会制民主主義国家日本への批判
2011年2月6日、名古屋市長選挙、愛知県知事選挙、市議会補欠選挙が行われ、河村たけし率いる陣営が大勝した。(1)
河村たけし名古屋市長は、地方から民主主義社会を構築すると呼びかけてきた。彼は、市民税の減税をスローガンに掲げ、議会のあり方を暴露した。日本の議会制民主主義制度に群がる世襲議員たちの最大の関心は、自らの議員職の保持であり、保身である。毛頭、市民のために働く気持ちのない人々であると河村市長は、世襲制議員たちを批判した。
その形骸化した議会運営と利権主義を打破するために、河村市長が取り組んだ意最初の課題は、自ら市長としての報酬を三分の一800万円に下げ、そして議員の報酬額を大幅に下げる提案であった。彼は、議員活動は本来ボランティア的活動であるべきと考え、その制度を作るために、市民の地域社会での活動を基盤とした地方議会のあり方を提案した。
勿論、このような提案に対して、自民党や公明党などの保守派政党の議員は勿論のこと、民主党の議員まで反対した。反対議員たちの本音は、議員報酬の大幅な削減である。つまり、不況の中で生活の苦しくなった市民たち集めている税金、その税金の一部である彼らの議員報酬が減少することが、その反対理由であることを否定する積もりも無いのである。
河村たけし氏が圧倒的に市民の支援を得るのは、誰が市民のために政治を行っているかという現実から来ていると謂える。その意味で、今回の選挙は、明らかに議会への不満を意味するものである。
地方から日本の民主化運動を起こす
名古屋市での、地方から巻き起こった議会・行政改革の運動に対して、大きな関心が集まった。そして、その河村氏の活動に対して、多くの意見が出された。
中でもこれまで知識人から出た河村氏への批判に私は耳を疑った。つまり、彼らの批判は、「本来地方議会では、市長が政策提案を行い、議員達はその提案に対するチェック機能であり、河村氏が提案するように、議員が市の政策や条例提案をすべきではない」という考えや、「河村氏が自分の意見に賛成する議員を擁立すれば、上記したように市長と議員の役割分担を決めている地方の民主主義制度が揺らぐことになる。つまり、市長が提案する制度や法令に対して、議会はそれを批判的に検討する機能を失う」という内容のものであった。
この批判をはじめて述べたのは、2010年の夏、NHKのニュースに登場した地方自治や政策にかんする専門家(某大学教授)であった。彼のあまりにも、現実の課題を直視しない形式的な批判に対して私は唖然とした。そして、この発言は、その後大きな影響力を持ち、河村氏への批判の材料として活用され、報道機関もそれと類似したことを述べてきた。この批判の生じる背景に鹿児島県阿久根市の竹原前市長の言動への批判が背後にあることは疑えない。しかし、竹原前阿久根市長の言動と河村たけし名古屋市長のそれとを混同することは、河村氏の発言や行動の内容、つまり、市民運動として市政改革を取り組んできた経過と内容を理解していなかったと言うべきではないだろうか。
2011年2月7日の朝のTBSテレビの「みのもんたの朝ズバ!」でもある評論家が同じ質問をしていた。勿論、その質問に河村氏は明確に答えた。質問した評論家もその的外れの質問に少し恥じていたようにも見えた。しかし、このTBSテレビ番組は、NHKと違い、河村氏への評論家の批判に対して河村氏が直接反論の機会を得ていることであった。つまり、民主主義社会である限り、表現の自由は保障される。河村氏への批判はあって然るべきだし、それが報道されることも当然である。TBSテレビはその場合、河村氏に反論の機会を与えた。
既成政党に頼れない・政治改革の主体は我々である
地方の活性化、地方分権制度を確立しなければ、現在の日本の活性化は望めない。この考えは以前、民主党は政権を取る前に述べたことであり、多くの支持者を得た。しかし、その後、民主党では、名古屋や愛知県の民主党の地方組織と対立した河村氏の対する支援は無かった。
つまり、民主党はこの時選んだのは、地方分権化や地方から政治を変えるという政策政治でなく、地方の民主党市会議員の利権を守る人脈政治であった。この民主党の選択は、この政党が政治思想を持たない政党党であることを明らかにしたようだ。
低迷する国政、それは正しく、政治思想を欠いた現在の民主党政権に対する批判である。国民は多分、民主党への絶望感で自民党支持に変更することはないだろう。何故なら、現在の日本の低迷を作った張本人は自民党政権であったことを忘れる訳がない。しかし、民主党への期待はずれも大きき。
政党の代理人政治の姿勢を我々国民が変えない限り、常に、我々は政治に裏切られ続け、この国を衰退の一路に導くだろう。その責任を自民党にも民主党にも求めることは間違いだろう。つまり、我々国民が政策理念を語り、具体的政策を提案し、議論する場を作る必要がある。
インターネットを武器にしよう
その手段を我々はすでに手に入れている。それはインターネットである。すでに、インタネット上で、政策を提案する「政策空間」や「構想日本」のサイトがあり、各部門の政策専門家たちが全国からの寄せられる政策提案を検討選択して記載している。こうしたサイトが多く登場し、多くの政策への意見が述べられることによって、国民的な政策議論が起こるのではないだろうか。そして、この大衆的な政策提案の市民運動を起こすことが出来ないだろうか。
そしてmixiやFacebookのような意見交換サイトである。そして、その手段が有効に働いた実例も知っている。つまり、現在、北アフリカで進行している民主化運動に意見交換サイトの果たした役割は非常に大きい。この意見サイトで地方活性化の議論を起こすことも出来る。
すでにmixiに「河村たけし軍団」なるグループがあるようだ。それがどんなグループであれ、市民がそれぞれの地域でその地方課題を考え、そしてその地域の地方政治改革を積極的に行うための意見交換グループを立ち上げる必要がある。そして、その場は、自然発生的に生まれるだろうと思われる。
参考資料
(1) 中日新聞 2011年2月7日朝刊
「愛知県知事選、名古屋市長選、市議会解散の是非を問う住民投票の「トリプル投票」から一夜明けた7日午前、知事選で初当選した元自民党衆院議員大村秀章氏(50)と、市長への再選を圧勝で決めた前市長河村たかし氏(62)がそれぞれ始動した。河村氏は当選証書を受け取り、そのまま執務をスタートさせた。」
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/vsshigikai/list/201102/CK2011020702000188.html
(2)政策空間
http://www.policyspace.com/about.php
(3)構想日本
http://www.kosonippon.org/
三石博行
世襲化した議会制民主主義国家日本への批判
2011年2月6日、名古屋市長選挙、愛知県知事選挙、市議会補欠選挙が行われ、河村たけし率いる陣営が大勝した。(1)
河村たけし名古屋市長は、地方から民主主義社会を構築すると呼びかけてきた。彼は、市民税の減税をスローガンに掲げ、議会のあり方を暴露した。日本の議会制民主主義制度に群がる世襲議員たちの最大の関心は、自らの議員職の保持であり、保身である。毛頭、市民のために働く気持ちのない人々であると河村市長は、世襲制議員たちを批判した。
その形骸化した議会運営と利権主義を打破するために、河村市長が取り組んだ意最初の課題は、自ら市長としての報酬を三分の一800万円に下げ、そして議員の報酬額を大幅に下げる提案であった。彼は、議員活動は本来ボランティア的活動であるべきと考え、その制度を作るために、市民の地域社会での活動を基盤とした地方議会のあり方を提案した。
勿論、このような提案に対して、自民党や公明党などの保守派政党の議員は勿論のこと、民主党の議員まで反対した。反対議員たちの本音は、議員報酬の大幅な削減である。つまり、不況の中で生活の苦しくなった市民たち集めている税金、その税金の一部である彼らの議員報酬が減少することが、その反対理由であることを否定する積もりも無いのである。
河村たけし氏が圧倒的に市民の支援を得るのは、誰が市民のために政治を行っているかという現実から来ていると謂える。その意味で、今回の選挙は、明らかに議会への不満を意味するものである。
地方から日本の民主化運動を起こす
名古屋市での、地方から巻き起こった議会・行政改革の運動に対して、大きな関心が集まった。そして、その河村氏の活動に対して、多くの意見が出された。
中でもこれまで知識人から出た河村氏への批判に私は耳を疑った。つまり、彼らの批判は、「本来地方議会では、市長が政策提案を行い、議員達はその提案に対するチェック機能であり、河村氏が提案するように、議員が市の政策や条例提案をすべきではない」という考えや、「河村氏が自分の意見に賛成する議員を擁立すれば、上記したように市長と議員の役割分担を決めている地方の民主主義制度が揺らぐことになる。つまり、市長が提案する制度や法令に対して、議会はそれを批判的に検討する機能を失う」という内容のものであった。
この批判をはじめて述べたのは、2010年の夏、NHKのニュースに登場した地方自治や政策にかんする専門家(某大学教授)であった。彼のあまりにも、現実の課題を直視しない形式的な批判に対して私は唖然とした。そして、この発言は、その後大きな影響力を持ち、河村氏への批判の材料として活用され、報道機関もそれと類似したことを述べてきた。この批判の生じる背景に鹿児島県阿久根市の竹原前市長の言動への批判が背後にあることは疑えない。しかし、竹原前阿久根市長の言動と河村たけし名古屋市長のそれとを混同することは、河村氏の発言や行動の内容、つまり、市民運動として市政改革を取り組んできた経過と内容を理解していなかったと言うべきではないだろうか。
2011年2月7日の朝のTBSテレビの「みのもんたの朝ズバ!」でもある評論家が同じ質問をしていた。勿論、その質問に河村氏は明確に答えた。質問した評論家もその的外れの質問に少し恥じていたようにも見えた。しかし、このTBSテレビ番組は、NHKと違い、河村氏への評論家の批判に対して河村氏が直接反論の機会を得ていることであった。つまり、民主主義社会である限り、表現の自由は保障される。河村氏への批判はあって然るべきだし、それが報道されることも当然である。TBSテレビはその場合、河村氏に反論の機会を与えた。
既成政党に頼れない・政治改革の主体は我々である
地方の活性化、地方分権制度を確立しなければ、現在の日本の活性化は望めない。この考えは以前、民主党は政権を取る前に述べたことであり、多くの支持者を得た。しかし、その後、民主党では、名古屋や愛知県の民主党の地方組織と対立した河村氏の対する支援は無かった。
つまり、民主党はこの時選んだのは、地方分権化や地方から政治を変えるという政策政治でなく、地方の民主党市会議員の利権を守る人脈政治であった。この民主党の選択は、この政党が政治思想を持たない政党党であることを明らかにしたようだ。
低迷する国政、それは正しく、政治思想を欠いた現在の民主党政権に対する批判である。国民は多分、民主党への絶望感で自民党支持に変更することはないだろう。何故なら、現在の日本の低迷を作った張本人は自民党政権であったことを忘れる訳がない。しかし、民主党への期待はずれも大きき。
政党の代理人政治の姿勢を我々国民が変えない限り、常に、我々は政治に裏切られ続け、この国を衰退の一路に導くだろう。その責任を自民党にも民主党にも求めることは間違いだろう。つまり、我々国民が政策理念を語り、具体的政策を提案し、議論する場を作る必要がある。
インターネットを武器にしよう
その手段を我々はすでに手に入れている。それはインターネットである。すでに、インタネット上で、政策を提案する「政策空間」や「構想日本」のサイトがあり、各部門の政策専門家たちが全国からの寄せられる政策提案を検討選択して記載している。こうしたサイトが多く登場し、多くの政策への意見が述べられることによって、国民的な政策議論が起こるのではないだろうか。そして、この大衆的な政策提案の市民運動を起こすことが出来ないだろうか。
そしてmixiやFacebookのような意見交換サイトである。そして、その手段が有効に働いた実例も知っている。つまり、現在、北アフリカで進行している民主化運動に意見交換サイトの果たした役割は非常に大きい。この意見サイトで地方活性化の議論を起こすことも出来る。
すでにmixiに「河村たけし軍団」なるグループがあるようだ。それがどんなグループであれ、市民がそれぞれの地域でその地方課題を考え、そしてその地域の地方政治改革を積極的に行うための意見交換グループを立ち上げる必要がある。そして、その場は、自然発生的に生まれるだろうと思われる。
参考資料
(1) 中日新聞 2011年2月7日朝刊
「愛知県知事選、名古屋市長選、市議会解散の是非を問う住民投票の「トリプル投票」から一夜明けた7日午前、知事選で初当選した元自民党衆院議員大村秀章氏(50)と、市長への再選を圧勝で決めた前市長河村たかし氏(62)がそれぞれ始動した。河村氏は当選証書を受け取り、そのまま執務をスタートさせた。」
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/vsshigikai/list/201102/CK2011020702000188.html
(2)政策空間
http://www.policyspace.com/about.php
(3)構想日本
http://www.kosonippon.org/
民主化過程と暴力装置機能の変化
社会文化機能としての暴力装置・構造的暴力(2)
三石博行
独裁政権国家での政治的暴力と直接的暴力の社会的依存度
前節において、池田光穂氏のヨハン・ガルトゥングの構造的暴力の解釈から、暴力は社会文化構造の機能から必然的に生じるという帰結した。(1)つまり、国家や社会の維持機能として構造的暴力は存在することになる。(2)
例えば、人権尊重や国民主権を国家の理念としない国家では、国家は国民が求める自由に対して軍隊や警察を使って直接的に弾圧する。現在、中東や北アフリカの国々で繰り広げられている民主化運動への国家権力の弾圧の例に取るまでもなく、国民主権を国家の理念としない国々、権力者集団の独裁的な政治が行われる国々(現時点・21世紀初頭 世界の大半の発展途上国)では、その政治体制を批判する報道や表現は弾圧される。この政治的な構造を前提にしながら非民主主義国家での政治的暴力の課題を考える。
構造的暴力(間接的暴力)の概念を導くために前提となった直接的暴力の概念、例えば傷害行為のようなある具体的な人称(人、集団、社会)が個人に直接的に加える暴力について述べた。国民主権のない国家では、この直接的暴力が国家によって、非常に簡単に行われる傾向にある。これらの国家は国民の民主的な選挙によって選ばれていないために、その体制を維持するために国民からの反発を気にすることなく政治を行うことが出来る。つまり、国家の政策に反対する人々の声を弾圧することが出来る。その場合、直接的に国家は警察を使って反対している個人をめがけて攻撃してくる。それらの反対する人々(個人)に肉体的、精神的、社会的にダメージを与え、反対する行為を中止させるのである。
このようなケース(独裁政権の国家)では、国家が所有している暴力装置の姿は、棍棒を振るう警察官として視覚的にイメージできるために、理解しやすいのである。言い換えると、民主化の遅れた社会とは国家や社会が個人にたいして直接的暴力を安易に振るう社会、もしくは集団の中で直接的暴力が横行することを社会が取り締まらない社会文化の状況であると解釈できる。そして同時に、民主化過程とは、個人に直接的暴力を振るってきた国家がその直接的暴力を極力振るわないようになる過程、また同様に集団や個人が別の個人に対して直接的暴力を振るうことを厳しい批判し取り締まる社会文化を持つことを意味する。
具体的には、1960年代の公民権運動に対する弾圧を行っていたアメリカ社会が半世紀後の2010年には黒人大統領が生まれ、多くの有能な有色人種のアメリカ市民がアメリカの社会的リーダとして働けるようになった。また、家庭内暴力、性的虐待、高齢者虐待、児童虐待、パワーハラスメントと人権感覚のない社会で無視されてきた行為を直接的暴力として解釈し批判する社会世論が生まれる。と同時にある集団による行政(主に自治体)への脅しも直接的暴力の使用として批判的に解釈されてきた。暴力団に屈しない歓楽街等のお店経営者や店主が登場し、現在の相撲協会への批判の始まりでもあった暴力団の活動資金となる賭博行為が世論の中で厳しく批判されることになる。
直接的暴力行為を国家が国民を弾圧する手段として認めないこと、それが国民主権で運営されている国家の基本であり、またそれが民主主義社会を運営する人々の人間関係や社会関係の約束の原則となる。直接的暴力への批判とその抑制機能が国家、社会や集団で作動しているかと言うことが民主主義社会化の過程をもっとも理解できる社会現象のバロメータである。そして、人間関係において、直接的暴力による支配関係を悪とする倫理観念が成立しているかが民主主義文化のバロメータであると言える。
非民主主義国家という社会では、政治的手段として直接的暴力が使われ、社会が直接的暴力に対して鈍感な文化をもち、つまり直接的暴力行為が習慣化し、その加害者への寛容さ、被害者への蔑視(弱いから苛められる)という社会文化が成立している。逆に、民主主義化する社会とは、政治的手段として直接的暴力を振るうことを違法とし、また直接的暴力を認める社会習慣(例えば体罰やスパルタ教育)を批判し、相手に理解を求めるコミュニケーションによって、社会的秩序を維持しようとする社会文化が成立してゆく過程を言う。
民主主義国家での構造的暴力機構
民主主義国家において国家の暴力機能自体が無くなったのではない。民主主義社会とは国家が直接的暴力を国民の支配する道具としない社会を意味する。そして、国家の経済が豊かになり国家が時間を掛けて国家の意思決定を出来る体制(民主主義)を可能にしていく過程(民主化過程)が生まれる。
例えば、フランスのような人権尊重を国家の理念とする民主主義国家であれば、その民主主義制度を維持するために構造的暴力が機能することになる。
例えば、あるオカルト宗教団体や極左・極右政治集団が国家権力に致命的打撃を与えるために仕組む毒ガステロや武装蜂起のための武器収集を行うことに対して、国家は「破防法」を適用し、その集団の活動を監視する。
特に、殺人、傷害行為、強盗、詐欺、窃盗等々の人権を侵害する直接的暴力(人為的暴力)が発生しないように、市民の命と生活を守るために国家は法律、司法制度だけでなく、それらの反社会的人権侵害行為を防ぎ、それを踏みにじる人々への懲罰の必要性、人権を守る社会倫理的義務を国民に強制的に了解させる。
そして、人権侵害・社会的不安要素への火種を防ぐためにあらゆる文化的イベント、テレビ報道、情報活動を行う。言い換えると、人権尊重という国家理念、社会イデオロギーを維持するための機能・構造的暴力装置が設置されるのである。
人権擁護を国家の理念とする社会では、人権侵害を防ぐために、例えばレイプ犯行が起らないように、また麻薬売買が横暴しないように、警察官が街を巡回し、仮に犯罪と見なされるものがあれば、彼らは実力でそれを防ぐだろう。
我々の街の立派な警察官の働き(直接的暴力装置)を維持するために、市民は犯罪防止のための協力、例えば自治体での犯罪防止のための回覧板、警察への協力、人権委員会の設定を行う。これらの市民達の活動、その社会的機能を構造的暴力装置と呼ぶことができる。
つまり、構造的暴力が一般的に政治体制の維持に必要な機能であるという考え方から、構造的暴力は権力機能と同義語になる。
構造的暴力機構への自覚
つまり、民主国家では、国家は直接的暴力から間接的暴力機能を使い、国家体制の維持を行う。つまり、国家の体制維持に必要な力を暴力装置と呼ぶ。具体的には警察や軍隊である。その警察や軍隊は直接的暴力を背景にして、国民に国家権力の揺ぎ無い体制を示す。しかし、民主主義過程では、警察や軍隊が国民に対して直接的暴力を振るうことは無くなる。何故なら国民が運営する国家で、その国家を維持する機能である警察や軍隊が国民を弾圧することは、警察や軍隊機能の自己矛盾を意味する。そして、国民を弾圧した場合には、警察や軍隊が国家の理念に反した行為を行ったと見做されるからである。
当然、国家である以上、民主主義国家も警察や軍隊を持っている。それらの力は、国民主権を脅かす勢力、つまり民主主義社会に反対する政治集団やその社会を暴力で破壊する集団に対して機能する。国家の理念に暴力的に反対し、その利益を破壊する集団に対して、国家は直接的暴力装置を施行するのである。
また、国家制度の維持のために、法律、司法制度、教育、文化制度を設けて、国家の理念を再生産し、社会常識化し、習慣化し、個人的行動規範化し、倫理・道徳化していく。この社会観念形態の形成、つまりイデオロギー化を進める構造によって、それに反する集団や個人を抑制する社会文化的機能を構造的暴力(間接的暴力)と考えた。
国民主権によって成立している民主主義社会の構造的暴力について語るのは、その国家が理念とする民主主義を絶対化しないことが民主主義の究極の課題であるからだ。つまり、人権擁護を国家の理念とする国家は、自らの所有する暴力装置について自ら自覚的に理解することを、民主主義国家の政治文化としなければならないからである。そうでない限り、民主主義絶対主義とよばれる社会思想に基づく、他の社会へのそしてその国民への非人道的、人権侵害行為を民主主義の名の下に、人権擁護の大儀名分で、繰り広げられる殺戮を聖戦として賛美してしまう結果になるかである。
多様な民主化過程の理解とその支援
すべての国家の形態には、その存在理由が必ずある。つまり、如何なる国家であれ、それが存在している経済的背景が存在している。簡単に言うと、中世の王国や近代の絶対君主制国家、帝国主義国家にしろ、それらの国家がどのような非人道的行いや人民の犠牲を生み出したとしても、それらの国家が歴史的に存在しなければならなかった歴史的、社会的な理由がある。その理由の大きな要素として国民経済力が挙げられる。しかし、この理由に関して、ここでの課題に議論を集中させたいという理由から、ここでその理由について詳しく述べること避けた。そして、今後の文章でこのことは述べたい。
結論から述べると、国民経済の豊かさと民主化過程は同時に進行する。そして、政治的意思決定の速度から考えても、国民による議員選挙や議員による議会制度を取る民主主義はもっとも効率の悪い政治体制である。政治的意思決定をすばやくするためのもっとも進化した形態が、独裁政治体制である。君主制や一党独裁政治は、すばやく政策を決定実行する。素早く経済的力を得たいなら、明治維新以後 日本が取った天皇制による近代化、また中国やベトナムが行っている一党独裁による近代化が最も経済効率のいい政治路線である。そして、社会主義中国(ベトナム)での近代化・民主化過程については、前に述べた。(3)
イスラム共和国と呼ばれる社会も、多様な近代化過程の一つと言う角度から見ると、理解できる側面が多くある。現代のイスラム国家は資本主義経済や西洋近代科学技術の導入を否定している訳でない、その意味で、中世のイスラム国家(サラセン)と異なる。つまり、この二つの国家のイスラム教と国家機能との関係は基本的に異なる。中世のイスラム教国家では、イスラム教によって国家が形成された。つまり国家とはイスラム教化した領域を意味した。しかし、現代のイスラム教国家は、民族国家の理念にイスラム教を据えた。民族国家の建設や運営にイスラム教が活用されている。西洋民主主義の唱える博愛、平等や自由と類似の社会概念をイスラムの教義に従って、まったく異なる方法で実現しようとしている。
その意味で、この21世紀初頭の世界に色々な近代化過程を試みる国家がある限り、色々な民主化過程が存在していると謂える。そして、それぞれの民主化過程で許容される国民の自由、平等の条件が存在している。すべての国がアメリカやヨーロッパと同じような自由や平等を国民に与えることは出来ない。そして、現実的には、先進国から観ると、人権侵害と判断される政治が行われることになる。その人権侵害の内容は、ある時はクルド人の大量虐殺であり、チベット人の宗教の自由への侵害であり、反対勢力の政治団体や市民団体への弾圧である。
当然、先進国では、こうした人権侵害を許す訳には行かない。しかし、同時に、それらの国々の民主化過程を理解しなければならない。そして、人権侵害を起こさないために、出来ること、つまり、すでに先進国が行ってきたのだが、ノーベル賞を与えるとか、亡命を認めるとか、その政治活動の自由を認めるなどの対応をしながら、長期的に民主化過程をサポートすべきだろう。その意味で、ヨーロッパやアメリカはこれまで、多くの業績を残し、世界の民主化運動を支えてきた実績を持っている。
今、我々の取り組むべき課題
世界平和は人類の夢である。しかし、国家が存在し、その国家間の対立が続く以上、戦争は無くならない。その意味で、世界平和は不可能に近い目標である。現実に多様な民族、言語、国民国家が存在している以上、世界から戦争を絶滅することは出来ない。
しかし、民主主義、つまり国民主権の国家体制を作る方向で、世界の歴史が18世紀以来300年以上の時代の流れを作って来た。この流れは、人々の人間としての尊厳を求めた歴史であり、人々の自由の獲得への闘いの歴史でもあった。この流れの中に、明らかに人権擁護を国家の基本とする社会が形成されよとしていることは事実である。
そして、理解しなければならないのは、現実的な変革への過程である。つまり、国は、その制度を維持するために機能している。所謂、国という制度の個体保存の運動である。国家の制度の維持とは、その国家の理念の維持であり、国家のあり方の維持である。国家が伝統的にこれまで維持してきた機能を、維持しようとする。そこにこの維持機能のもつ、個体保存的なメカニズムの姿がある。しかし、もし、その機能によって国家が存続できない場合には、国家はその理念を捨て去り、麻痺する国家機能を刷新することになる。これを革命や維新と呼ぶ。
国家を維持する機能として暴力装置が存在している。当然、国家の古い制度から新しい制度への変遷に置いても、それらの暴力装置、つまり直接的暴力装置、例えば警察や軍隊のあり方も変化するし、間接的暴力装置も同時に変化する。しかし、暴力装置自体は国家がある限り存在する。国家が存在する以上、国家の機能としての暴力装置を解体することも、そして無視することも不可能である。
問題は、多様な民主化過程の国家の存在を認めるということが、多様な暴力装置のあり方を理解することに繋がることである。つまり、好むと好まざるに関わらす、その暴力装置の存在を否定できないのである。そして、問題は最も分かりやすい独裁政権国家の暴力装置、つまり、直接的暴力を国家支配の道具として活用している国家の暴力装置の姿でなく、民主国家に存在している暴力装置、国外には強力な軍隊・直接的暴力装置を使い、国内には資本主義・西洋民主主義至上主義を維持するための報道、教育、文化施設の機能、つまり間接的暴力装置の姿を自覚的に理解する機能が求められている。
自国の暴力装置の理解を行うとは何を意味するのだろうか。それは、一般的な表現でなく、我々であれば、日本の場合を具体的に示さなければならない。
1、 日本の民主主義文化をさらに進めること
2、 国際的視点に立って考える文化を育てること
3、 人権教育を学校教育で十分行うこと
4、 国際・国内人権擁護運動を社会が支援すること
以上の課題に取り組まなければならないだろう。
参考資料
(1)池田光穂 「構造的暴力」
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/09violencia_estructura.html
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/100228violencia.html
(2)「社会文化機能としての暴力装置・構造的暴力
非暴力主義かそれとも暴力による暴力抑止主義か」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_20.html
(3)「中国の近代化・民主化過程を理解しよう」
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_1850.html
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三石博行
独裁政権国家での政治的暴力と直接的暴力の社会的依存度
前節において、池田光穂氏のヨハン・ガルトゥングの構造的暴力の解釈から、暴力は社会文化構造の機能から必然的に生じるという帰結した。(1)つまり、国家や社会の維持機能として構造的暴力は存在することになる。(2)
例えば、人権尊重や国民主権を国家の理念としない国家では、国家は国民が求める自由に対して軍隊や警察を使って直接的に弾圧する。現在、中東や北アフリカの国々で繰り広げられている民主化運動への国家権力の弾圧の例に取るまでもなく、国民主権を国家の理念としない国々、権力者集団の独裁的な政治が行われる国々(現時点・21世紀初頭 世界の大半の発展途上国)では、その政治体制を批判する報道や表現は弾圧される。この政治的な構造を前提にしながら非民主主義国家での政治的暴力の課題を考える。
構造的暴力(間接的暴力)の概念を導くために前提となった直接的暴力の概念、例えば傷害行為のようなある具体的な人称(人、集団、社会)が個人に直接的に加える暴力について述べた。国民主権のない国家では、この直接的暴力が国家によって、非常に簡単に行われる傾向にある。これらの国家は国民の民主的な選挙によって選ばれていないために、その体制を維持するために国民からの反発を気にすることなく政治を行うことが出来る。つまり、国家の政策に反対する人々の声を弾圧することが出来る。その場合、直接的に国家は警察を使って反対している個人をめがけて攻撃してくる。それらの反対する人々(個人)に肉体的、精神的、社会的にダメージを与え、反対する行為を中止させるのである。
このようなケース(独裁政権の国家)では、国家が所有している暴力装置の姿は、棍棒を振るう警察官として視覚的にイメージできるために、理解しやすいのである。言い換えると、民主化の遅れた社会とは国家や社会が個人にたいして直接的暴力を安易に振るう社会、もしくは集団の中で直接的暴力が横行することを社会が取り締まらない社会文化の状況であると解釈できる。そして同時に、民主化過程とは、個人に直接的暴力を振るってきた国家がその直接的暴力を極力振るわないようになる過程、また同様に集団や個人が別の個人に対して直接的暴力を振るうことを厳しい批判し取り締まる社会文化を持つことを意味する。
具体的には、1960年代の公民権運動に対する弾圧を行っていたアメリカ社会が半世紀後の2010年には黒人大統領が生まれ、多くの有能な有色人種のアメリカ市民がアメリカの社会的リーダとして働けるようになった。また、家庭内暴力、性的虐待、高齢者虐待、児童虐待、パワーハラスメントと人権感覚のない社会で無視されてきた行為を直接的暴力として解釈し批判する社会世論が生まれる。と同時にある集団による行政(主に自治体)への脅しも直接的暴力の使用として批判的に解釈されてきた。暴力団に屈しない歓楽街等のお店経営者や店主が登場し、現在の相撲協会への批判の始まりでもあった暴力団の活動資金となる賭博行為が世論の中で厳しく批判されることになる。
直接的暴力行為を国家が国民を弾圧する手段として認めないこと、それが国民主権で運営されている国家の基本であり、またそれが民主主義社会を運営する人々の人間関係や社会関係の約束の原則となる。直接的暴力への批判とその抑制機能が国家、社会や集団で作動しているかと言うことが民主主義社会化の過程をもっとも理解できる社会現象のバロメータである。そして、人間関係において、直接的暴力による支配関係を悪とする倫理観念が成立しているかが民主主義文化のバロメータであると言える。
非民主主義国家という社会では、政治的手段として直接的暴力が使われ、社会が直接的暴力に対して鈍感な文化をもち、つまり直接的暴力行為が習慣化し、その加害者への寛容さ、被害者への蔑視(弱いから苛められる)という社会文化が成立している。逆に、民主主義化する社会とは、政治的手段として直接的暴力を振るうことを違法とし、また直接的暴力を認める社会習慣(例えば体罰やスパルタ教育)を批判し、相手に理解を求めるコミュニケーションによって、社会的秩序を維持しようとする社会文化が成立してゆく過程を言う。
民主主義国家での構造的暴力機構
民主主義国家において国家の暴力機能自体が無くなったのではない。民主主義社会とは国家が直接的暴力を国民の支配する道具としない社会を意味する。そして、国家の経済が豊かになり国家が時間を掛けて国家の意思決定を出来る体制(民主主義)を可能にしていく過程(民主化過程)が生まれる。
例えば、フランスのような人権尊重を国家の理念とする民主主義国家であれば、その民主主義制度を維持するために構造的暴力が機能することになる。
例えば、あるオカルト宗教団体や極左・極右政治集団が国家権力に致命的打撃を与えるために仕組む毒ガステロや武装蜂起のための武器収集を行うことに対して、国家は「破防法」を適用し、その集団の活動を監視する。
特に、殺人、傷害行為、強盗、詐欺、窃盗等々の人権を侵害する直接的暴力(人為的暴力)が発生しないように、市民の命と生活を守るために国家は法律、司法制度だけでなく、それらの反社会的人権侵害行為を防ぎ、それを踏みにじる人々への懲罰の必要性、人権を守る社会倫理的義務を国民に強制的に了解させる。
そして、人権侵害・社会的不安要素への火種を防ぐためにあらゆる文化的イベント、テレビ報道、情報活動を行う。言い換えると、人権尊重という国家理念、社会イデオロギーを維持するための機能・構造的暴力装置が設置されるのである。
人権擁護を国家の理念とする社会では、人権侵害を防ぐために、例えばレイプ犯行が起らないように、また麻薬売買が横暴しないように、警察官が街を巡回し、仮に犯罪と見なされるものがあれば、彼らは実力でそれを防ぐだろう。
我々の街の立派な警察官の働き(直接的暴力装置)を維持するために、市民は犯罪防止のための協力、例えば自治体での犯罪防止のための回覧板、警察への協力、人権委員会の設定を行う。これらの市民達の活動、その社会的機能を構造的暴力装置と呼ぶことができる。
つまり、構造的暴力が一般的に政治体制の維持に必要な機能であるという考え方から、構造的暴力は権力機能と同義語になる。
構造的暴力機構への自覚
つまり、民主国家では、国家は直接的暴力から間接的暴力機能を使い、国家体制の維持を行う。つまり、国家の体制維持に必要な力を暴力装置と呼ぶ。具体的には警察や軍隊である。その警察や軍隊は直接的暴力を背景にして、国民に国家権力の揺ぎ無い体制を示す。しかし、民主主義過程では、警察や軍隊が国民に対して直接的暴力を振るうことは無くなる。何故なら国民が運営する国家で、その国家を維持する機能である警察や軍隊が国民を弾圧することは、警察や軍隊機能の自己矛盾を意味する。そして、国民を弾圧した場合には、警察や軍隊が国家の理念に反した行為を行ったと見做されるからである。
当然、国家である以上、民主主義国家も警察や軍隊を持っている。それらの力は、国民主権を脅かす勢力、つまり民主主義社会に反対する政治集団やその社会を暴力で破壊する集団に対して機能する。国家の理念に暴力的に反対し、その利益を破壊する集団に対して、国家は直接的暴力装置を施行するのである。
また、国家制度の維持のために、法律、司法制度、教育、文化制度を設けて、国家の理念を再生産し、社会常識化し、習慣化し、個人的行動規範化し、倫理・道徳化していく。この社会観念形態の形成、つまりイデオロギー化を進める構造によって、それに反する集団や個人を抑制する社会文化的機能を構造的暴力(間接的暴力)と考えた。
国民主権によって成立している民主主義社会の構造的暴力について語るのは、その国家が理念とする民主主義を絶対化しないことが民主主義の究極の課題であるからだ。つまり、人権擁護を国家の理念とする国家は、自らの所有する暴力装置について自ら自覚的に理解することを、民主主義国家の政治文化としなければならないからである。そうでない限り、民主主義絶対主義とよばれる社会思想に基づく、他の社会へのそしてその国民への非人道的、人権侵害行為を民主主義の名の下に、人権擁護の大儀名分で、繰り広げられる殺戮を聖戦として賛美してしまう結果になるかである。
多様な民主化過程の理解とその支援
すべての国家の形態には、その存在理由が必ずある。つまり、如何なる国家であれ、それが存在している経済的背景が存在している。簡単に言うと、中世の王国や近代の絶対君主制国家、帝国主義国家にしろ、それらの国家がどのような非人道的行いや人民の犠牲を生み出したとしても、それらの国家が歴史的に存在しなければならなかった歴史的、社会的な理由がある。その理由の大きな要素として国民経済力が挙げられる。しかし、この理由に関して、ここでの課題に議論を集中させたいという理由から、ここでその理由について詳しく述べること避けた。そして、今後の文章でこのことは述べたい。
結論から述べると、国民経済の豊かさと民主化過程は同時に進行する。そして、政治的意思決定の速度から考えても、国民による議員選挙や議員による議会制度を取る民主主義はもっとも効率の悪い政治体制である。政治的意思決定をすばやくするためのもっとも進化した形態が、独裁政治体制である。君主制や一党独裁政治は、すばやく政策を決定実行する。素早く経済的力を得たいなら、明治維新以後 日本が取った天皇制による近代化、また中国やベトナムが行っている一党独裁による近代化が最も経済効率のいい政治路線である。そして、社会主義中国(ベトナム)での近代化・民主化過程については、前に述べた。(3)
イスラム共和国と呼ばれる社会も、多様な近代化過程の一つと言う角度から見ると、理解できる側面が多くある。現代のイスラム国家は資本主義経済や西洋近代科学技術の導入を否定している訳でない、その意味で、中世のイスラム国家(サラセン)と異なる。つまり、この二つの国家のイスラム教と国家機能との関係は基本的に異なる。中世のイスラム教国家では、イスラム教によって国家が形成された。つまり国家とはイスラム教化した領域を意味した。しかし、現代のイスラム教国家は、民族国家の理念にイスラム教を据えた。民族国家の建設や運営にイスラム教が活用されている。西洋民主主義の唱える博愛、平等や自由と類似の社会概念をイスラムの教義に従って、まったく異なる方法で実現しようとしている。
その意味で、この21世紀初頭の世界に色々な近代化過程を試みる国家がある限り、色々な民主化過程が存在していると謂える。そして、それぞれの民主化過程で許容される国民の自由、平等の条件が存在している。すべての国がアメリカやヨーロッパと同じような自由や平等を国民に与えることは出来ない。そして、現実的には、先進国から観ると、人権侵害と判断される政治が行われることになる。その人権侵害の内容は、ある時はクルド人の大量虐殺であり、チベット人の宗教の自由への侵害であり、反対勢力の政治団体や市民団体への弾圧である。
当然、先進国では、こうした人権侵害を許す訳には行かない。しかし、同時に、それらの国々の民主化過程を理解しなければならない。そして、人権侵害を起こさないために、出来ること、つまり、すでに先進国が行ってきたのだが、ノーベル賞を与えるとか、亡命を認めるとか、その政治活動の自由を認めるなどの対応をしながら、長期的に民主化過程をサポートすべきだろう。その意味で、ヨーロッパやアメリカはこれまで、多くの業績を残し、世界の民主化運動を支えてきた実績を持っている。
今、我々の取り組むべき課題
世界平和は人類の夢である。しかし、国家が存在し、その国家間の対立が続く以上、戦争は無くならない。その意味で、世界平和は不可能に近い目標である。現実に多様な民族、言語、国民国家が存在している以上、世界から戦争を絶滅することは出来ない。
しかし、民主主義、つまり国民主権の国家体制を作る方向で、世界の歴史が18世紀以来300年以上の時代の流れを作って来た。この流れは、人々の人間としての尊厳を求めた歴史であり、人々の自由の獲得への闘いの歴史でもあった。この流れの中に、明らかに人権擁護を国家の基本とする社会が形成されよとしていることは事実である。
そして、理解しなければならないのは、現実的な変革への過程である。つまり、国は、その制度を維持するために機能している。所謂、国という制度の個体保存の運動である。国家の制度の維持とは、その国家の理念の維持であり、国家のあり方の維持である。国家が伝統的にこれまで維持してきた機能を、維持しようとする。そこにこの維持機能のもつ、個体保存的なメカニズムの姿がある。しかし、もし、その機能によって国家が存続できない場合には、国家はその理念を捨て去り、麻痺する国家機能を刷新することになる。これを革命や維新と呼ぶ。
国家を維持する機能として暴力装置が存在している。当然、国家の古い制度から新しい制度への変遷に置いても、それらの暴力装置、つまり直接的暴力装置、例えば警察や軍隊のあり方も変化するし、間接的暴力装置も同時に変化する。しかし、暴力装置自体は国家がある限り存在する。国家が存在する以上、国家の機能としての暴力装置を解体することも、そして無視することも不可能である。
問題は、多様な民主化過程の国家の存在を認めるということが、多様な暴力装置のあり方を理解することに繋がることである。つまり、好むと好まざるに関わらす、その暴力装置の存在を否定できないのである。そして、問題は最も分かりやすい独裁政権国家の暴力装置、つまり、直接的暴力を国家支配の道具として活用している国家の暴力装置の姿でなく、民主国家に存在している暴力装置、国外には強力な軍隊・直接的暴力装置を使い、国内には資本主義・西洋民主主義至上主義を維持するための報道、教育、文化施設の機能、つまり間接的暴力装置の姿を自覚的に理解する機能が求められている。
自国の暴力装置の理解を行うとは何を意味するのだろうか。それは、一般的な表現でなく、我々であれば、日本の場合を具体的に示さなければならない。
1、 日本の民主主義文化をさらに進めること
2、 国際的視点に立って考える文化を育てること
3、 人権教育を学校教育で十分行うこと
4、 国際・国内人権擁護運動を社会が支援すること
以上の課題に取り組まなければならないだろう。
参考資料
(1)池田光穂 「構造的暴力」
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/09violencia_estructura.html
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/100228violencia.html
(2)「社会文化機能としての暴力装置・構造的暴力
非暴力主義かそれとも暴力による暴力抑止主義か」
http://mitsuishi.blogspot.com/2011/02/blog-post_20.html
(3)「中国の近代化・民主化過程を理解しよう」
http://mitsuishi.blogspot.com/2010/12/blog-post_1850.html
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