2010年12月16日木曜日

イラン・イスラム国家の近代化過程と日本の国際戦略

三石博行

近代化政策の失敗が生み出す手痛い損害と新たな近代化過程の形成


欧米的な社会イラン1979年

今から30年以上前、1979年のイラン革命の最中に、イランを旅したことがあった。インドから陸路でパキスタンのクエッタを通り、パキスタンのイラン国境の町ミルジャワからイランの入り口であるザヘダンを経てバスでテヘランに向かった。

テヘランからカスピ海の町、チグリスユーフラテス川岸にありイラクと国境を接する石油の町、アーバーダーン等々、バスで一週間ぐらいだったか、イラン国内をまわった。

当時(1979年)のイランは、それまで続いたイラン帝国、パフラヴィー(パーレビ)王朝の近代化政策もあって、生活様式全体がパキスタンなどの周辺国に比べて比較にならないぐらい欧米的で近代的な雰囲気を持っていた。パキスタンのミルジャワからイランのザヘダンに入った瞬間に、道路、バス、建物も豊かな石油生産国イランとイラン国民の生活状態を一瞬の内に理解させる、垢抜けた立派なものであった。イランは豊かだという印象が、特にバングラディシュ、インドとパキスタンを旅行してきた私に鮮明に残った印象だった。

この豊かなイランを導いたパーレビ前政権が崩壊しなければならなかったのか。疑問を抱えたまま、バスの旅行は続く。テヘランは美しい街であった。山地の麓から豊かに湧き出す水をふんだんに使い、テヘランの街の中心街にある大きな並木道の両側の小さな水路に透き通った清水が流れる。交通は整理され、多量の車、殆どが外車(GM、フード、トヨタ、ホルクスワーゲン等の車)がスムースに道路を流れていた。


崩壊した伝統的農業

この旅の目的はイランの農業を観察するためであった。そのため事前にイラン式農業についての資料を読んでいた。資料によると、雨量の極度に少ない乾燥地帯であるイランでは、ペルシャ時代から続く伝統的なカナートとよばれる灌漑技術を使った農業があった。カナートとは、高地の豊かな雪解け水や雨水を地下水として貯め、それを山の斜面に地下の水路(トンネル)を造って流すという当時としては画期的な灌漑技法であった。紀元前800年ごろの古代イラン(ペルシャ)で発達したカナートの優秀な技術は、ペルシャを征服したギリシャ人によって、古代エジプトに持ち込まれるなど、アジア、中東やアフリカに広がったと言われている。

豊かなイランの農業を想像した私が観たものは、耕運機で稲作をしていたカスピ海沿岸の豊かな水田地帯を除いて、荒廃したテヘラン近郊の畑、大型トラクターを使った巨大な農地、泥水で機能していない灌漑用のダム等々であった。

豊かなイランの社会的インフラは、石油生産で得られた莫大な収入を使って整備されたものであった。また、当時の食料はイスラエルやアメリカから輸入されていた。石油輸出国イランが輸入国との貿易収支を調整するために行った政策、世界の石油生産国という国際分業の一翼を担い、その分、他の国から農業生産物を輸入する経済政策が取られていた。

海外からの安価な農業生産物や工業生産物の輸入によって、国内農業はことごとく淘汰荒廃して行った。これが、パフラヴィー(パーレビ)体制の進めたイラン近代化政策であった。


拮抗した国際分業と近代化政策

国際分業論に基づくイランの近代化とは、国内産業の育成ではなく、先進国からの製品を国内に満たすこと、それによって国民は先進国並みの生活環境を手に入れることが出来た。

例えばインドは当時、海外車の輸入を厳しく制限し、古い型のインド国産車が走っていた。しかし、イランでは、多量の立派な外国車が道路にひしめいていた。その風景は、殆ど日本と変わらなかった。違いは日本の車は国内で生産されたものであるが、イランの車は海外のものであるということだけである。イランで、ヒッチハイクをしながら旅をした時、偶然、イラン国産自動車を運転する人に乗せてもらったことがあった。彼は、イラン国産車である自分の車を褒め称えたが、私を乗せてすぐに彼の自慢のイラン国産車はエンストしてしまった。それが、当時のイラン国産車の状態で、殆どの人は、故障の多い国産車を買おうとはしなかったのだろう。

旅行者の私には、一見、豊かな社会に観えたイランは、その経済構造は先進国(特にアメリカ)の経済植民地に近い状態になっていた。豊かな王族、貴族、資産家や商人達とテヘランの下町に移住してきた失業者・貧民の群れ(と言ってもインドの貧しい人々に比べれば豊かすぎる人々であったが)に石油から得た富の分配を問題になっていた。

自国産業の育成を前提にした近代化過程が形成されないまま、海外からの豊かな工業生産物で社会は満たされていた。石油が生産でき、その莫大な収益がある以上、他の産業の育成の必要性は緊急な課題ではなかったのだろう。しかし、その政策のもっとも大きな犠牲者は伝統的ペルシャ農業を続けてきたイラン中部地帯の農民であったといえる。


挫折したイラン民主化運動とイラ国民運動としての近代化過程

再び、テヘランにかえて来た私を友人が「面白い場所に連れて行ってあげる」と言う事で、彼の通うテヘラン大学の正門の付近まで行った(そう記憶しているのだが)。学生達が自動小銃おをもって警戒していた建物があった。それが、当時、世界中を騒がせていた「イランアメリカ大使館の占拠」の現場であった。

一ヶ月以上も、インド国内の鉄道の旅をして、パキスタンとイランを回ってきた私は世界の情勢(出来事)について全く情報を持っていなかった。まさか、自分が立っている前の建物が世界を騒がせている現場であると思いもせずに、その入り口まで行った。

友人から説明を受けてびっくりした。大使館の前でマシンガンをもっている学生と話しを始めた。どうしても聞きたいことが一つあった。何故なら、彼はマシンガンを片手に、コカコーラを飲んでいた。

「君は、右手にアメリカ帝国主義に闘うためのマシンガンを持って、左手でアメリカのコカコーラを飲んでいるのだが、どうなんだい。なぜアメリカが嫌いなのかね? 」と尋ねた。その学生は、真剣なまなざしになった。そして、議論が始まった。
「イランには伝統的な乳製品ののみのもがあるじゃない? なんで、その飲み物でなく、コカコーラなんだい? 君はアメリカ文化が本当は好きなのだろう?」と際どい質問に対して、彼は考え込んでしまった。その真剣な眼差しを今でも思い出す。

あれから、イランイラク戦争が起こった。私を歓迎した多くのイランの若者たち、私がただ日本人であるという理由で、家に招待し、ご馳走し、泊めてくれた若者達、彼らが今生きているのだろうか。彼らは、戦争に駆り出され死んだのではないだろうか。もしそうなら、本当にイランの将来のためには、残念なことだったと思える。

右手に自動小銃を持ちながらも、左手でアメリカのコカコーラを飲んでいの若者達こそが、イラン国民のためのイラン国民によるイラン国民の近代化を成功させる道筋を提起できたのではないだろうか。


近代化政策の失敗によるイスラム回帰化 

その後のイランの社会的変貌を、先進国の政治勢力の誰が予測できただろうか。

フランスの亡命していたイスラムシーア派の指導者ルーホッラー・ホメイニーが英雄的に帰国し、パフラヴィー(パーレビ)皇帝は国外に亡命した。イラン帝国は壊滅し、イラン・イスラム共和国が建国した。国家の構造の変化を簡単に述べると、王国からイスラム共和国にイランの政治体制が変化したといえる。

パフラヴィー(パーレビ)王朝の王族や貴族を中心とする絶対君主制が解体し、イスラムシーア派の国民を中心とした宗教国家が形成された。つまり、宗教指導者の権力の下に、国民は選挙で共和国を運営することになる。その限りにおいて、王朝時代よりも、イラン国民の政治参加の自由度は増えたと解釈できる。

しかし、パーレビ帝国の時代にアメリカ文化や思想に非常に大きな影響を受けたことで、多くの若者が欧米式の考え方やライフスタイルを経験理解することになるが、その全てを、イスラム主義は排除する方向で政治体制を構築することになる。

パーレビ王朝の近代化によって生まれた欧米民主主義文化を吸収した若者、そして彼らはその民主主義の思想において王政主義を批判しイランに民主社会を実現しようとした。また、他方、パーレビ王朝の近代化政策の犠牲によって生み出された膨大な数の失業者(イスラム教徒)、彼らは近代化によって破壊されたイスラム伝統文化と社会制度を復活しようとした。

つまり、イラン革命は二つの異なる集団の共闘によって展開し、結果的には、多数を占めたイスラム教徒、イラン民衆の勝利で終わるのである。そして、どの社会の革命に共通するように、少数派である知識階層の人々の革命理念は挫折、多数派のイスラム主義者・イスラム原理主義によって駆逐排除されるのである。

イランのイスラム革命の主流派の形成は、明らかにパーレビ帝国時代の近代化政策の失敗によるものであった。イランの近代化政策の失敗によってイスラム原理主義への回帰運動が起こったと理解できるのである。


イスラム回帰化から生じる新たなイランの近代化政策 

イラン・イスラム共和国がイスラム主義と呼ばれる宗教イデオロギーによって運営されようと、政治指導部は、国の産業化政策や富国強兵政策を推し進めなければならない。そのためには、好むと好まざるに関わらす、欧米先進国を中止のとする科学技術を取り入れなければならない。もし、国が近代化政策に失敗し、豊かな経済や強固な軍事力を形成することが出来なければ、国民経済は困窮し、海外からの侵略におびえることになる。

当然、欧米の科学合理主義の思想や資本主義・民主主義の制度を拒否したとしても、明治時代に日本が経験したように、部分的に、欧米民主主義、資本主義、西洋の科学技術文化、科学主義を取り入れざるを得ないのである。

考え方を変えて観れば、近代化過程に失敗したイランが、イスラム共和国という道具を使って、イラン式の、イラン的な近代化過程を模索、構築しようとしていると理解できないだろうか。


日本の近代化過程の分析研究の成果を発展途上国の近代化政策に役立てよう

問われている問題は、発展途上国称される国々、しかし古代ペルシャ文明からの古い伝統文化とそれに対する誇りを持つ民族・イラン国民による、イラン国民のための近代化過程を我々が正しく理解するために課題を考えなければならない。

何故なら、以前、米国を代表する欧米列強(帝国主義)が行った周辺国家への自国流の民主主義と近代化過程の押し売りという失敗を繰り返さないためである。そのために、我々は、イスラム共和国という過程を通じて展開しつつある近代化過程に関して理解を深めなければならないだろう。

これからの世界経済の担い手、国際政治の表舞台で活躍する人々、それは、現在近代化過程に格闘している発展途上国と呼ばれる国々である。その大先輩が我が国日本である。大先輩としての日本の政治、外交、産業、教育研究活動等々すべての我が国の歴史的社会的資産を展開し、これらの国々に発展に貢献することが、日本が、国際社会で大きな影響を持つ国として展開する将来の課題となる。





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