三石博行
あれから一年が経っていた
昨年、5月の連休は、居ても立ってもおれなくて、雨靴、軍手、作業着を持って二人で東北に向かった。大阪空港から山形空港に飛行機は降りた。仙台空港は無理だった。レンタカーを借りて、被災地に行こうとしたが高速道路はデコボコだった。
もちろんホテルなどなかった。それで、北上川の盆地地帯にある観光地のホテルを探した。花巻まで行った。ホテルには自衛隊、警察、消防、復旧作業に従事する人々とボランティアの人が殺到していた。何とか、泊めてもらえた。ホテルは信じがたい安さで支援に来た人々を泊めていた。
私達は、そこから被災地を訪問した。しかし、余りにも津波の爪痕、被害の大きさに今日まで、その日のことが書けなかった。
ただ、今から考えても行って見てきて良かったと言える。何故なら、その災害の悲惨さはテレビの映像にも出てくるだろうが、しかし、現実のその姿を見て、そこに居た人々の姿を見ることによって、私の心の奥に確りと刻み込まれた。それはことばを越えたメッセージだった。
これから、そのメッセージに言葉を見つけてやらなければならないと思っている。どんなことばがその凄い世界を語ることが出来るのか。
まだ片付かないガレキ
東北に到着して二日目、2011年4月30日だったと思う。気仙沼に着いた。花巻から自衛隊の車両が行きかう中を狭い谷間を抜けて海に出ようとしたその時、そこはガレキの山だった。すべての家は倒壊し、大型船が陸に持ちあげられ、岸壁は壊され、水没し、一面に冷凍庫の魚が山積みに置かれ腐敗し、強烈な臭いを放っていた。それにカモメが群がり、その近くで人々がその腐敗した魚を海に捨てていた。
今回、再び5月の連休に東北に行った。前のような悲壮な気持ちはなかった。また以前のようにレンタカーを借りて今回は北から南へと回った。そして、2012年5月6日に気仙沼に行った。漁港中心のガレキは撤去されていた。そして水没した漁港の水揚げ場が50センチぐらい土台を高くして復旧していた。そこでは船から水揚げされた冷凍サンマを仕分けする作業やマグロを捌く(さばく)作業が行われていた。
水揚げ場から少し離れた所に以前、燃料タンクが横たわっていた地帯は、ガレキはきれいに撤去され、しかも、木材、金属、自動車、泥と分類されていた。気仙沼はガレキ処理が進んだことで、これから町の本格的な復興作業が始まるのだと思った。
気仙沼や陸前高田のような大きな町のガレキは意外と片付いていた。しかし、それ以外の小さな町のガレキは殆どと言っていいほど片付いていなかった。ガレキは資源だ。この資源を敢えて大阪まで運ぶ必要があるのか。ここでこの町の産業としてガレキ処理はできないのか。色々と素人的な考えが浮かんだ。
今、このガレキを巡って受入を要請された全国の自治体の市民が不安を持っている。しかし、被災地に来ると、このガレキ処理が復興のキーポイントになっていることを痛感するのである。金属類の再利用、可燃性のごみや木片類を燃料とした発電装置の可能性、広範な水没地帯の埋め立て、取り組むべき課題はガレキを撤去した場所からさらに湧きあがっているようだ。
気仙沼の桜
昨年、気仙沼のガレキの中で咲いていた桜があった。多分、そこは港にあった公園の一角か桜並木の後だったのだろう。ガレキに埋もれ、ガレキを被り、桜は4月の最後の日の花を咲かせていた。
2011年4月30日の桜
今回、どうしてもその桜に会いたかった。生きていてほしいと思った。探してみた。ガレキは殆どと言っていいほど片付いていた。しかし、桜は死んでいた。周りの桜が美しい花を咲かせているその日に、黒いつぼみを固く閉ざして立っていた。その周りには、以前よりは少なくなったもののまだ大量のガレキが散在していた。
2012年5月6日の桜
さぞかし残念な思いでこの世を去ったであろう桜。そして、その無念さを語るように、枝の先には固いつぼみのような膨らみがあった。
2012年5月6日の桜の枝
2012年5月17日 誤字修正
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