政治改革の課題(6)
三石博行
政策とは政治理念を具体化するプログラムである
政策案とは政党の存在理由を具体的に示したものである。政治理念を持たない政党はないし、それを具体的に実現する道筋を示さない政党は信頼されない。つまり、政策を持つとは政党の政治的方針を具体的に示すことであり、その政策が実現可能なものかは、政策の具体性と現実的方法が検討されることになる。政策とは政治理念を実現化するためのプログラムである。
民主主義国家である以上、政策選択における国民主権が政治機能の基本にある。政党は政治理念を国民に示し、その政策を実現する具体的政策案を作成し、それを公開説明し、選挙でその政策案に関する評価を国民から受ける。これが議会制民主主義での政党活動の基本的なスタイルである。政策案(プログラム)を持たない政党は存在しない。政党は政策プログラムを提案し実行する社会機能である。
政策案とは、ある課題の政治的解決を実現可能な手続き(法的、制度的手段で)で説明したものである。政策案を選挙時に公開したものが選挙公約であり、議会制民主主義では選挙公約を表明しなければ、選挙を行なう意味を持たない。何故なら、国民が政党から提示された選挙公約に対して同意するか反対するかを決める行為を選挙と呼ぶからである。選挙とは国民が政党から提示されたプログラムを選択するための社会機能である。
つまり、政策(プログラム)を示さない政党は、国民主権国家の基本的な理念や制度を無視していると言えるだろう。
政党維持のための政治活動、政治集団の自己保存のプログラム
前東京都知事石原慎太郎氏は、自民党でもない民主党でもない第三の政治勢力を結集するために「太陽の党」を結成した。石原氏の判断は、政局的視点から見ると間違いではない。国民の多くは現在の野党自民党にも与党民主党にも程々愛想を尽かしていることは確かである。その意味で、石原氏の政治的な狙いは正しい。
しかし、異なる政策を持つ集団が一つになり、数として力を持てば、政権与党に参画する機会があったとしても、その後に起こる政治的混乱は、今まで、経験し続けてきた。そこで、橋下氏も渡辺氏も政策一致を原則とする政治を主張し続けてきた。その主張が、今、政局課題から、二次的なものと理解されるかどうか、瀬戸際に立たされている。
つまり、二つの異なる政治機能を動かす基本プログラム(政策)を持つ場合、その機能はうまく動かないことは明らかである。すると、これらの異なるプログラムをもつ政治機能は、近々の政策課題として「反自民・公明と反民主勢力としての第三勢力を国民に訴える」ことが選挙活動の主要なテーマとなる。そして、今回の選挙は、国民が真剣に考え続けてきたこれからの日本の問題、「エネルギー政策」「原発問題」「消費税問題」「社会保険問題」「TPP問題」等々は小さな政策課題となり、選挙の争点から除外されることになる。
前節で、政策とは政治理念を具体化するプログラムであると述べた。では、石原氏の政権獲得の政策は、同じように政党の政策であり、その意味で政党理念を具体化するプログラムであると言えるだろう。言い換えると「太陽の党」は政治理念とは「政権を取る」ことである。「第三勢力の大同団結」がその具体的な政策となる。
「太陽の党」は「政権を取る」ことを党の政治理念とし、大同団結がその政策(プログラム)となる。政党も社会組織である以上、その組織の自己保存のプログラムを持つ。「選挙で当選議員を出す」ことがなければ政党としての存在条件が消えることになる。そのため「選挙に勝つ」という党の基本政策(プログラム)が常に作動し、政党を組織として維持している。これは、どの組織にもある「自己保存のためのプログラム」である。
要約すると、石原氏は今回の選挙で存続の危機にある政党集団の「自己保存」のプログラムを集め、一つの「第三勢力」という自己保存のプログラムに仕立て上げたのである。そのプログラムが、そこに集まる政治集団の最大の課題であることは明らかである。
マスコミや評論家達は政策の異なる野合集団に対して、「異なる政策を持った政治集団が一つになって、本当にいいのですか」と疑問を投げかけている。その疑問は、政党が自己保存のためのプログラムを政策の中心に置く事は、選挙を通じて確立される「国民主権」、議会制民主主義の政治のあり方と基本的に相容れないものであると表現しているのである。政治家集団の自己保存のプログラムを全面的に前に出すことによって、選挙は国民の政治参加の唯一の機会から、政治集団の政治家職業の継続や維持のための道具になるのである。このことを国民もそして政党も、もっと明確に自覚すべきではないだろうか。
政党の自己保存プログラムが先行する社会的状況、議会制民主主義の崩壊
しかし、毎日、政局論争とマニフェスト違反を繰り返す政治にうんざりしている国民は、分かりやすい過激な政策、政治の停滞状況を打破するスローガンに関心を引かれる。そこで、政党集団や政治家の「自己保存」のプログラムに即して、国民感情を見事に捉えようとする政治集団や政治家が現れる。
国民は、行動力のある政治家の登場を待っている。その期待に応えた政治家として、東京都知事の石原慎太郎氏、自民党総裁の小泉純一郎氏、長野県知事の田中康夫氏、名古屋市長の河村たかし氏、大阪市長(前大阪府知事)の橋下徹氏、横浜市長の中田宏氏や宮崎県知事の東国原英夫氏 等々が今までに登場した。
それらの政治家は小泉純一郎元総理大臣を除いて、すべて地方自治体の首長として登場した。何故なら、首長は自治体行政の長であり、その管理と政策執行の権限を持っている。その意味で、立法機関に所属する議員とは立場が異なる。勿論、小泉純一郎氏は国家の行政府の長である総理大臣であった。その意味で、国の政策執行の権限を持っている最高の地位にある政治家である。
つまり、社会の流れを変える立場にある人々の政治スローガンなのか、それとも、その立場にない人たちのスローガンなのか。少なくとも、首長選挙では地方自治体の行政の在り方を変革する選挙スローガン(選挙公約)が出され、それが選挙の論点となっている。しかし、国会議員の選挙の場合、議員が当選し、その議員の所属する政党が政権与党になるという段階を経て、初めて、選挙スローガン(選挙公約)の実現可能性が生まれる。
今回の第三勢力の結集を呼びかけた勢力の政治スローガンは具体的に出されていない。出されているのは「自民・公明でも民主でもない政治勢力によって政治の流れを変える」という政治スローガンのみである。この政治公約(政治組織の自己保存プログラム)によって、政治に絶望した国民の票田をかき集めようとしている。これは政党間紛争課題に選挙が使われ始めたことを意味する。これは、丁度戦前、軍国主義を生み出した日本の政党政治の歴史の繰り返しではないだろうか。
この状況が意味するものとは議会制民主主義の危機なのである。国民主権の政治体制を構築していく流れに反し、政治は議員たちが行うもの、国民はそれらの政治の主役である議員を選べばいいという、民主主義社会文化の発展や進化と逆行する潮流であるというべきだろう。
しかし、現実の日本の議会制民主主義では、政策集団としての政党、政策案をもつ政党活動、政策案の国民的評価としての選挙、政策案への国民的評価結果としての選挙投票結果、政権政党の責任としての選挙公約の意味も理解されていない。政党の政策はスローガンになり、実現可能性の検証作業を無視し、その政策の選挙公約は選挙宣伝用に使われ、選挙に当選しても選挙公約は検証されることもない。これが現実の日本の議会制民主主義、政党政治、政権与党の姿である。
国民の生活から無縁の政局論争を繰り返す無責任な政治、東日本大震災で苦しむ人々の救済のための税金が官僚の匙加減(さじかげん)によって使われる官僚主導型政治、非現実的な政策を掲げた選挙運動や選挙公約した政策を検証しない政党の姿勢、最高(最低)40年以上の年月を費やす原発事故処理と失われた豊かな国土(汚染地帯)と原発棄民になろうとしている福島の人々の苦しみ等々が続く中で、国民の我慢は限界に達している。限界に達した国民の批判は過激な政治スローガンを掲げる政党に吸収される。そして、再び、日本が国際政治史に大きな禍根を残した過去の誤りを繰り返さないと誰が保障できるのだろうか。豊かな日本が貧しくなることで、日本の民主主義、議会制民主主義は根本から崩壊して行くのではないだろか。
私のように、政党の自己保存プログラムが先行する社会的状況は議会制民主主義の崩壊を導きかねないという危機感を持つのは、心配症の極みに過ぎないのだろうか?
議会制民主主義を守るために
1、 政党は選挙の時、選挙公約を明確にする。
2、 当選した議員は選挙時の選挙公約に対する履行義務を持つ。
3、 当選した議員は、毎年一回、選挙公約の実現を自己評価する義務がある。
4、 選挙公約を選挙民と被選挙民の社会契約として位置付ける選挙公約法を定め、選挙公約違反を行わない政治文化を作る必要がある。(1)
5、 国民は選挙公約違反行為を行う議員を摘発し警告するために、市民(国民)選挙公約監視運動を起こし、「選挙公約点検サイトと公約実現実績情報公開制度」と作る必要がある。(1)
参考資料
1、1、三石博行 「選挙公約法、選挙公約点検サイトと公約実現実績情報公開制度の必要性」
http://mitsuishi.blogspot.jp/2012/10/blog-post_25.html
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